リベラリズムと「リベラル」はべつもの、古典的リベラルと現代的リベラルと「ふわっとリベラル」の奇妙な関係
昔は訳の分からないものを「神学者の論争」といいました。
冷戦終結前にとあるエッセイストが「岩波語」という言葉を作りました。
冷戦終結で資本論を含めた左翼関係の本が神田やそれ以外の古本屋で山積みになっていた時期がありました。
広い意味の社会主義は現役で我々が常に考えすぎなければいけない政治的に緊張感のあるテーマです。
社会主義の一派であるマルクス主義や共産主義は一次は大流行して社会主義の代表どころかマルクス主義こそ社会主義みたいな倒錯したマウントをとってましたが今はすたれました。
ファッションやブームだったわけです。
流行ったものは意外と歴史に残りません。
残らないので実証主義的な後世の歴史家が過小評価してしまうか見落としてしまうものさえあります。
流行りでなくても社会を実効支配というか支えているのは地道で泥臭くて単調な実務作業です。
そういう書類だのデータなどは処分や消去されてしまいます。
むしろマイナーだったり希少だったりするものが残ったりします。
すると残ったマイナーなものや希少なものが後世には目立ってそれを前面に歴史を構築しがちになります。
それではあかんということでアナール派や常民の歴史や網野善彦のような人がふすまの裏張りで使われて残されていた古い文献を発掘して当時の実際の下部構造の再現、分析を試みたわけです。
するとでるわでるわ、歴史学の誤りが大量に出てきて歴史学にショックを与えます。
「網野善彦ルネサンス」などと持ち上げられて一般でも流行りました。
氏の『日本の歴史を読みなおす』だか『続・日本の歴史を読みなおす』のどちらかが一般向きに分かりやすく書かれてめちゃいい本なのでおすすめです。
まあ氏に対する批判も年月が過ぎれば多くなってきましたが、現代歴史学のちゃんとした人たちは実証主義のバランスを取ってきちんと学問、研究をしている人もいます。
しかし社会のどこの領域もそうですがまだ前時代の左翼やマルクス主義の影響は強くて
未だに加入戦術実行中です。
それはどこの世界でも例外ではなく歴史学の世界でも今でも唯物史観を浸透させようとする人がいると思われますので注意が必要です。
意外と身近に浸透しているので例えば前の選挙では革マル系労組から出馬の立憲民主党議員10名弱は全員当選しているようです。
網野善彦も50年代山村工作を指揮した若手のトップかナンバー2です。
網野善彦の親戚の中沢何某も左的なことを熱く語る傾向があるので感情的に主義が根を張っているのでしょう。
・論理的、数学的な目で人文科学や社会科学を分類する。
何というか人文とか社会科学系の人というと文系の人になりますが熱くなりやすい人が多いです。
冷静にしゃべっているように見えても迸らないけどうちに秘めた情念が垣間見えたりします。
岩波語の書籍は30年くらい前まではあふれてました。
今でも古い岩波文庫を読めば触れることができると思います。
そういう意味では岩波文庫はタイムカプセルですので大切にしましょう。
岩波語の特徴は難解なこと、結論がマルクス主義が正しいと決まっていることにあります。
マルクス主義が難解だから文章が難解になるとも言えますし、マルクス主義を正しいと結論付けないといけないから文章が難解になるという持ちつ持たれつの関係です。
現在はマルクス主義が正しいという結論を出さなくてもよくなったので岩波がどうなっているか知りませんが文章が分かりやすくなりました。
厨二病っぽいというか左翼小児病っぽい文章も減りました。
ただ何となく捨てられないプライドがあるのか分かりやすくしたらリベラルっぽくなりました。
本来社会主義の本流たるマルクス主義は暴力革命で資本主義から共産主義に社会を前進、解放させるための理論が必要です。
「暴力革命」が昔は戦中派も多かったし戦争から近い、あるいは冷戦中も世界中で代理戦争が行われていましたから暴力自体がそれほど違和感がなく子供向けのアニメでも暴力いっぱいでした。
最近はアニメはいいですが実際の社会で暴力を肯定すると問答無用でバッシングされるようになってしまいました。
アメリカは冷戦後でも各国で戦争を繰り返しましたが、「テロは絶対ダメ」みたいないい暴力と悪い暴力は違う論を展開しています。
まあ当然でいい暴力と悪い暴力は分けないといけません。
AIが賢いわけでもないですが(衆知の確率分布だから)やはりいい暴力悪い暴力論で突っ込んだ質問をするとGeminiは賢いのでいいですがチャッピーは論旨無茶苦茶で反論、説得してこようとします。
というわけで自由と自由主義を分かりやすくまとめます。
・政治色のない純粋な自由主義
これは古典的なリベラリズムと言ってもいいかもしれません。
リベラルという言葉はリベラリズムと違う言葉と区別します。
「リベラル」は現代的なリベラリズムの一形態とも言えますが経済の新自由主義などは古典的リベラリズムの仲間ですのでいわゆる「リベラル」と呼び捨てられるものとは反対の考え方になります。
社会科学的に説明すると政治やら利害関係やらCOIやら色というか不純物が混じりますので論理学的、哲学的に説明していきます。
古典的リベラリズム=個人主義、主体の絶対的自由
現代的リベラリズム=集団主義的、誰かの自由を守るために誰かの自由を規制する
という対比になります。
両社は前者は万人の自由の絶対的肯定、後者は一部のものの自由を確保するためにそれ以外の自由は規制するという感じで違う思想です。
両社とも自由を使って定義しているところが共通点でしょうか。
「自由」という言葉の定義は深く考えるとややこしくなる種類のものなのでここでは置いておきます。
両者とも誰かの自由を尊重しようという意味での共通点があります。
ただその誰かが違います。
自由の程度も違います。
後者は「マイナスの自由」すなわち誰かの不自由を肯定します。
その面だけ見ると「これは自由主義ではないのではないか」という風にも考える人もいるでしょうから混乱します。
混乱している人が多いので今の世界も混乱しています。
混乱の中心は「リベラル」にあります。
後者には自由の分配とも言っていいような経済学的ともいえるべき観点が入っているのかもしれません。
ただこの「分配」というのは争いの元です。
世界中の政治を見ればわかると思います。
一国の政治も国際政治も分配の問題です。
以下に多くの分け前を得るのかが政治のテーマと言って過言ではありません。
古典的なリベラリズムやいっそのこと左翼権威主義というか社会主義の程度を強めればこの問題は薄くなります。
そうするといろいろ実務的な泥臭い調整をするのをやめたり、辞めざるを得なくなったり、めんどくさくなったりすればこのどちらかに全振りすればいいです。
古典的リベラリズムは「結果を受け入れよ」で終わります。
左翼社会主義というか権威主義の場合は「支配階級が配分するのを受け入れる」みたいな形になります。
誰かにやってもらうという発想です。
・古典的リベラリズムを深掘りすると
純粋な古典的リベラリズムは、と言っても人の世の現実的なレベルの話で形而上学的というか観念的な自由主義は無理ですから実際の社会制約の可能な範囲で話します。
極論いうと古典的リベラリズムは、
「自分のしたいことを達成するために人を殺してでも頑張る」
みたいになります。
必然的に個人主義的になります。
分配と調整を考慮に入れる現代的リベラリズムというか「リベラル」はどちらかというとというか明白に集団主義的になります。
集団主義とは社会思想でいえばその要素を含まないものの方が少ないかもしれません。
「完全な個人主義と個人的自由を理念とする」というのはもしかしたらわりかし新しい思想潮流かもしれません。
無人島に漂着したロビンソンクルーソーは古典的リベラリストです。
というかそれにしかなれません。
他人がいないからです。
他人がいて交流を始めるとどうしても思うようにならないことも出てきます。
社会的「不自由」の発生です。
もちろんロビンソンクルーソーもめちゃ不自由です。
文明から離れて人もいない無人島で一人でサバイバルしないといけません。
ただ「社会的」不自由はないです。
何をするのも自由です。
社会や他人へ配慮する必要がありません。
古典的リベラリズムは社会の中でも他人がいる中でも「ロビンソンクルーソーの様であれ」と言っているようなものです。
「他人や社会に迷惑をかけたらどうするんだ」「それじゃあ社会が成り立たないじゃないか」という声が聞こえてきそうです。
別に社会に迷惑をかけようが他人に迷惑をかけようが社会が成り立たなかろうがそれは関係ありません。
別問題です。
古典的自由主義は別に結果を考えませんし、考えなくてもいいです。
結果など考えたら理論の純粋性、論理性、抽象性、全部なくなります。
社会と折り合いをつけるのは次の段階での話です。
そういうのは古典的リベラリズムとは独立事象です。
ここを明確に区別しないと整合的、客観的、冷静な思考や推論やら議論はできません。
頭の中で区別できずこんがらがって感情的になったりヒステリックになっているのが多いのが悪く言えば問題、よく言えば人間らしくていいのでしょう。
・そもそも個人的な自由を追求すると何があかんのか
「個人的なリベラリズムは社会の秩序と安定の敵」と短絡的に考える人が世の中多くいます。
あまり他人も世の中も信じていないというか性悪せずが骨の髄までしみ込んでいるというか信用なり社会関係資本的な発想がみじんもない感じの人にありがちです。
「みじんもなくもないけど現実的、経験的にはあり得ない」というより知性が高い考え方をする人もいます。
社会や他人や自分や自由意志について悲観的な思考を持っているのかもしれません。
そもそもこれは人類思想史における大テーマです。
短絡的な悲観論はちょっと高校社会の思想倫理でも履修するのがお勧めです。
そもそも個人的な自由を追求すると世の中よくなるという思想があります。
あるだけではなく大昔から人類文明のトップランナーであり続けた中国ではそっちの方が勝ちました。
「儒家対法家の戦い」です。
法家は性悪説で儒教は性善説です。
中国最初の統一王朝の秦は法家思想で国家設計をしましたがあっという間につぶれてしまいました。
秦がつぶれたせいかどうかは分かりませんが次の漢王朝は儒教を国家の統治思想とします。
あまり言い切ったり断言したらあかんという人もいますが文章を読みやすく分かりやすくするためにはある程度の言い切りや断言はしないと書く方も読む方もやっていられませんのでそこらへんは空気を読んでいただけると幸いです。
儒教は性善説です。
別に法律や制度で締め付けなくても古代には理想的な国があってそれを真似すればよいという考え方です。
また性善説です。
人間は孟子の惻隠の情とかいろいろいい資質があってほっておいても勝手にいいことをしてしまうという考え方です。
現代的な言葉で言えば信用やら社会関係資本を重視するという考え方でしょうか。
もしそうなら人間がほったらかしで全員を自由にさせた方がいい社会になると言えるかもしれません。
そういう視点から見たら「古典的リベラリズムでは社会は悲惨なことになる」という考え方は性悪論の人で易しくない社会で生まれ育って優しい社会があることを信じられない人なのかもしれません。
それはそれでかわいそうなのかもしれません。
同じ社会でもこういうのはまだらです。
お釈迦様やら儒家やらは王族だったり王族と面会ができる立場の上層階級ですから上層階級の社会というのは社会関係資本が分厚いです。
性善説とは言わないまでもかりに完全な個人的な自由主義でふるまってもそれが上層の社交界で評判を落とすなら得はしないでしょう。
持たざる者はその日暮らしというか今を生き延びるのに必死ですから犯罪親和性が高くなります。
前者は楽観主義、性善説になりがちで後者は悲観主義、性悪説になりがちという面もあるかもしれません。
金持ち喧嘩せずと言いますし、心理学でもマズロー理論みたいなものもあります。
仏教も教えの中心とは関係ありませんが性善説的な方向に進化していきます。
仏性みたいなものが人間の心にはあって誰でも解脱できるという考え方です。
でも悪いことたら餓鬼道だの阿修羅界だの畜生界だの地獄界を巡らないかんという考え方で(六道輪廻は仏教ではなくバラモン教のものだと思いますが)なんとなく人間を肯定的に見ています。
仏教国は世界で少ないですが内的秩序がある国が多そうです。
日本、ブータン、チベット、タイ、ミャンマー、モンゴルなどが挙げられます。
実証研究は難しい面があるかもしれませんがその場合は経験や症例というのが大切で経験といえばイギリス経験論のジョンロックがいます。
ジョンロックといえば自然権ですが、これは権利というより人間には常識とか習慣とか伝統とか言うものがあってほっておけばそういうのに従って逸脱しない、みたいな現実的で大人っぽい見方です。
思想界の余裕派とも言えるかもしれません。
近代経済学にはアダムスミスの「神の見えざる手」というものがあります。
これは古典主義経済学の源流で今の資本主義も新自由主義もグローバリズムもマルクス主義も基本はアダムスミスをベースとしています。
いわゆる共産国とか社会主義国とかいうものがいつでもあまりにも経済が停滞しすぎるため誤解されやすいのですがマルクス主義は究極の進歩主義です。
各セクトの機関誌の名前もその他も「前進」とか「進歩」とかそういうのが旗印です。
彼らは共産主義社会が生産性を向上させイノベーションを加速させると信じていました。
彼らの考え方はこうです。
「人間は数寄にやらせると欲があるから非効率的なことをしてしまい本当に効率的なことをしない傾向がある。だから生産手段の共有化や階級をなくすことでそういう欲に基づいた非効率とイノベーションの阻害要因をなくせる」
というものです。
ハイエクはどんなに人類が進歩して頭がよくなってもそういうことはないという立場でそれはAIやらスパコンやら量子コンピュータが発展しても変わらない構造的な問題という見方をしていますが、実際にはテクノロジーがハイエクの壁を破ってそういう社会を実現するかもしれません。
ただしそういう社会は欧米系のSFではユートピアかディストピアとえがかれることが多いですがコジェーブなどの思想家や日本系の星新一などに代表されるSFとか未来予想では退屈な未来という風に書かれることが多くて西洋と東洋では見方が違うのかもしれません。
アダムスミスは経済の方面では市場主義でやればよい、各人が個人的リベラリズムで勝手気ままにやれば神の見えざる手が勝手に調和をもたらしてくれる、的な楽観論です。
キリスト教系というか聖書系啓典宗教も楽観論的な感じがします。
神様が「よきにはからってくれるだろう」みたいな匂いがします。
ドストエフスキーの小説読んでいても結局逸脱しても神が補正をかけてハッピーエンドでない場合もありますが調和や秩序は取り戻される感じになっています。
まあドストエフスキーは生涯帝政ロシアに見張られていたので変なことは書けなかったのかもしれませんが。
・極論は現実には使えないので折衷や修正が必要
古典的リベラリズムにせよ現代的リベラリズムにせよそれだけでは使えませんし、現実やら社会やらにあわした改良やら超性やらメンテナンスが必要になります。
その際に最初の段階での区別がきちんとついていないと最初からぐだぐだになります。
現代社会がよい例です。
変な話左翼や新左翼が左派の中でも支配的な時代の方がまだ秩序というか見通しというか思考がすっきりしていた面があります。
マルキシストは革命を目指していればいいしその段階では暴力も合理的に使われます。
ちなみに日本共産党の公然の暴力が1955年で終わっているので60年安保だとか70年安保は肩透かしでしたが学園紛争やら労働争議とか三里塚闘争などには共産党はかかわっていません。
というか共産党は皮肉なことに非公然的な暴力を使いましたが学園紛争などはむしろ止める側でした。
ここには左翼も新左翼も「暴力の美学」というか暴力の理由みたいなものが理論的に在りそれに基づいて行動していたので賛否はあれ応援者にも反対者にも分かりやすかったですし、暴力の理由を社会全体で(形式的には)共有していました。
日本共産党にせよ新左翼にせよ現在生き残っているものはリベラルっぽい主張をしていても現代的リベラルリズムとかリベラルの人たちと同じ理由ではありません。
ただし最近は人気取りのためか構成員の世代交代のためか日共も本当にリベラルっぽくなってきた節があります。
立憲民主党と共産党の協力は共産党側からの立憲民主党に対する加入戦術だと思いますが木乃伊取りが木乃伊になってリベラルに染まってしまったのかもしれません。
立憲民主党というのは社会党の直接の後継者でしょうけども、社会党の昔から各勢力の加入戦術や工作員やらスパイの草刈り場のようなところがあります。
また途中から自民党から後任を得られなかったので仕方がないから民主党というのが選挙制度が変わって大量に生じました。
「批判や反対ばかりして対案を言わない」というのはネット時代のせいか流石に時代遅れになってきました。
国民民主党が躍進しているのもそのためでしょう。
・流石に古典的リベラリズム一本でいくのは無理だった
古典的リベラリズムは貴族社会とか成金とか投資家などの上流階級には相性がいいです。
ただ相性がよかろうがよくなかろうがそれ一本でいくのはシステム工学的に問題があります。
やはり外形的な方とか制度とか規制とかの強制力を設置しておく必要はあるでしょう。
そういうのが発動されないままうまくいってくれればラッキーですがリスクは積んでおかないといけません。
他方で現代的リベラリズムとかリベラルはまさに最適値問題というかゲーム理論的な分配の最適化を自然に任せるのではなく人為的に行うという意味で集団主義的ですし権威主義的ですし社会主義的ですし統制的です。
アメリカの若者で社会主義を支持する人が冷えているみたいですし、トリクルダウンが幻想と分かった時点で新自由主義とグローバリズムは崩壊し反新自由主義、反グローバリズムの世界の再編成が起こっています。
社会主義はマルクス主義や共産主義でみそがついてしまいましたが別に悪い思想ではありませんし使うべきところでうまく使うべき思想です。
電子演算テクノロジーというかICTやらAIやらスパコンやら量子コンピュータやらその他のコンピューティングの技術や産業がハードレベルでもソフトレベルでももっと発展すればテクノソーシャリズムともいうべき新しいものが生まれるかもしれません。
現代的なリベラリズムとそのグダグダであるリベラルの短所はまあなんというかやっぱりグダグダなところです。
数年前にはBLMとかSDGSとかDEIとかポリコレとかいろいろ盛んになる以上に社会に騒擾を起こしましたが昔の左翼みたいにもう一つ理論がしっかりしていないというか参加者たちがしっかり思想を理解しているのかあいまいです。
まあ全共闘とかああいうのも若者が単に若さのエネルギーを発散したいとかいうので参加した人が実は多かったのですが。
新自由主義やらグローバリズムの焼き畑農業でもう不可逆になってしまった国も多いかとは思いますが、ジャパンは30年間経済的資本や人的資本にはポートフォリオ振りませんでしたが、伝統守るとか、清潔守るとか、ソフトウェアパワーを育てるとか、一部の製造業を変態的、ガラパゴス的に磨き上げてオンリーワン企業を作ったり、海外投資で運用で稼ぐ国になったりと増えたり喪失を防げたポートフォリオの資本勘定も多いわけですから将来は分かりませんが現代は失敗しつつある国家群の背中を見て反面教師にしていけたらいいかもしれません。
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