2026年1月3日土曜日

かんたんな日本語と英語(西洋語)との違い

かんたんな日本語と英語(西洋語)との違い ・日本語話者と西洋語話者の違い(マルチリンガルを除く)  日本語と英語をはじめとする西洋語(インドヨーロッパ語族とする)は違うます。  違いにもレベルがあります。  結構深いレベルで違います。  「言葉とは何か」というレベルで違います。  更にもっと深いレベルで違います。  言葉を使う前提として脳や精神が必要ならば脳や精神の使い方が違います。  もうちょっと浅い層でいえば物事や世界の見方、考え方が違います。  多分そういうのを知っておくとなんかの役に立つかもしれません。  べたに外国語学習に役に立つかもしれませんし哲学、文化人類学、比較文化論、脳や精神の研究レベルで役に立つかもしれません。 ・言葉以外にも日本人と西洋人は深いレベルで違う  日本人と西洋人は言語の違いだけではなくて違う面でもかなり深いレベルで違います。  例を挙げます。  日本人は生物、非生物、空間、時間、その他を問わずあらゆる対象に心を感じる文化ですし、心を籠める文化です。  結果として日本と日本には心があふれることになります。  心という表現でよくなければ神を感じるでもいいですし仏性を持つと信じるでもいいですし感情を持つでもいいですし感性を大切にするでもいいです。  西洋人にもそういうところがないわけではありません。  しかし心を感じる、心を籠めるのを禁じる意識か無意識かその両方が働く場合があります。  例えば聖書を使う宗教であれば神に神を感じるのはOKです。  しかし想像した被造物、ということは神以外の全てに対して神を感じるのを禁止されています。  これは聖書により決まっています。  もしかしたらこれにギリシア哲学も加わるかもしれません。  それに日本人のような純粋な農民文化を長らく続けて哺乳類などの動物を禁じてきた文化と牧畜や遊牧で哺乳類の家畜を食べたり使ってきたりした文化が関係するのかもしれません。  家畜に感情移入してしまうといろいろ困ることになります。  日本でもペットに対して去勢がかわいそうとかペットロスが生じますがそういうのが起こると家畜を扱う文化圏では厄介だということでしょう。  あるいは昔の日本ではやったように気候の違いの問題かもしれません。  神ではなくて仏性はどうかというと多分西洋人には仏性という考え方自体ないでしょう。  感情移入や感じを実在的に捉えたり、あらゆる対象に心を感じる以上に心を感じたりすることを肯定的で積極的な日本人に対して、西洋文化ではあらゆる対象への過度な感情や感覚を持つことを忌避する部分があります。  結果として日本と日本人は心だか神だか仏性だか感情だか感覚が満ち満ちることになります。  他方西洋や西洋人では日本と日本人は心だか神だか仏性だか感情だか感覚を忌避したり欠落したり薄まる領域が生じます。  ヨーロッパのキリスト教徒にせよイスラム教徒にせよキリスト教化やイスラム教化はたかだか千年余りで2000年は立っておらず、イスラムはともかくキリスト教は猛烈な勢いと速さで脱宗教家が進んでいる場合もあります。  それでも1000年以上インプットし続けたものが簡単に消えるわけではないのかもしれませんが日本人と西洋人の距離は日本が鎖国を止めた150年くらい前と比べても全然神性の違いが減って同感、共感、同情性(シンパシー)が高まっていると思われます。 ・西洋の言語と日本の言語の違い  まず言葉というものに対する考え方や態度や姿勢が異なります。  西洋文化圏では言葉が意味を正確に一対一対応で現しうると考えます。  そういうと言いすぎであれば言葉と意味を可能な限り近づけようとします。  解析学の言葉でいえば収束させようとしる傾向があります。   聖書なんかは前者の例です。  言葉が絶対の世界で言葉が神なので聖書の一言一句が性格に神の何かを正確に表しています。  逆に言葉は何かを正確に表しえるという根拠になります。  「言葉は神である」のギリシア語訳の言葉はロゴスという言葉の日本語訳です。  この思想自体がヘレニズム、すなわちギリシア文化の影響を受けています。  また聖書は宗派によりますが現在でいえば一冊の本というよりたくさんの本が集まった全集です。  明治維新後聖書のことを「聖書全集」と言っていた人もいたようです。  それが聖書を一冊の本と思っているベターな考え方だと思います。  前週にどの本を加えるかは宗教や宗派によって違います。  例えばユダヤ人の聖書はキリスト教徒の聖書とは違いますしカソリックやプロテスタントでも聖書は違います。  プロテスタントも分派が多いので分派によっても違うかもしれません。  日本語訳聖書は比較的最近再翻訳されたと思いますが、例えばその際にマカバイ記などの今まで乗っていなかった書を加える場合もあります。  聖書全集の各書というか本は書かれている言語が一通りではなかったりします。  例えばユダヤ教の聖書はユダヤ人がディアスポラはしていたものの非常に国粋主義的になった時期に編纂されたのでヘブライ語の本しか入っていなかったと思います。  他にもアラム語で書かれたりギリシア語で書かれたりした本はあるのでそういうのはユダヤ教の聖書には載っていないと思います。  ただアラム語で書かれた本にもギリシア語で書かれた本にもいい本があります。  例えばバビロン捕囚後にユダヤ人が一次的に主権を回復した時期のことをギリシア語で書いたマカビー(マカバイ)記というのがありますがそれがないとバビロン捕囚からローマに支配されるまでの時期のユダヤの歴史が分からなくなります。  聖書の歴史ではその後にキリスト教徒が聖書をギリシア語訳したりラテン語訳したのが大切です。  その際には当然語訳もあります。  聖書を日本語訳した際にも語訳はありました。  これからも見つかるかもしれません。  聖書の文献学的研究は20世紀入ってからで日本や中国の古典研究よりは遅いです。  しかし文献学も含めて聖書やキリスト教の科学的研究は進んでいるのでそういうのが人々に影響を与えていくでしょう。 ・言葉と意味を一致させようとする態度  日本語でも言葉と意味を一致させようとするときはあります。  公文書や法的文書や契約書、学術論文や誤解やトラブルを避けようとする際には特にそういう意識が強くなるでしょう。  ただ日本語はそうでない場合があります。  西洋語でもそうでない場合はあると思いますが日本語ではそうでない場合の方が言語観の本質をなします。 ・不立文字  禅の言葉に不立文字(ふりゅうもんじ)というもものがあります。  言葉と意味が完全に一致することがないという考え方でもありますし、言葉では表せないものがあるという風に使われる場合もあります。  これは日本と日本人の言語観の主流だと思います。  他方で西洋人で聖書系宗教で信心深い人にはこの考え方は都合が悪いです。  聖書は一言一句神の言葉です。  聖書は絶対で神の言葉を表しているので意味と言葉が違うという考え方はある種の熱心な信者に喧嘩を売っているような感じになりかねません。  不立文字的なことを言い始めたのは西洋の言語学ではソシュールが最初の頃の人だと思います。  彼の提示した構造主義的な方法論よりかは「言葉と意味の関係は一定、絶対ではなく変わっていく」という結論の方が最初はインパクトが大きかったのではないでしょうか。  中世神学や近代初期にも類する考え方はあったかもしれませんが信仰が堅固な宗教色のの強い地域でそういうことを言い歩いていたら大変な目に遭っていたのではないでしょうか。  西洋の言語観に不立文字的なものがないと言わけではありません。  また日本語が言葉がその表す対象、ソシュール的に言えばサイン(sign、記号)のシニフィアン(signifing)とシニフィエ(signified)が一致する正確、一対一で厳密、必要十分に対応するという考え方がないわけでもないかもしれません。  ただ傾向として西洋語と西洋人と西洋文明はシニフィアンとシニフィエは一致する、あるいは一致させようとする極寄り、他方で日本と日本語と日本語はシニフィアンとシニフィエは一致しないというもう一方の極寄りです。  これはどちらがいいとか悪いとかということではありません。  どっちにもいい面も悪い面もあるでしょう。  ただ日本文化系ではシニフィアンとシニフィエの不一致は西洋から見れば面白い方向に発展し、面白い使われ方をしていると見えるかもしれません。  例えば仏教の禅の不立文字であれば一言でいえば西洋哲学でいう実在論を否定したければ否定するための考え方として使えます。  これをゲシュタルト心理学でいうと西洋文明は言葉が図、言葉以外が地とすると西洋的には図しか洗わせられず、図で現せるもの、すなわち言葉で表せるもの以外は後景になり意識されなくなる場合があります。  それに対して日本文化では図だけではなく地を言葉を使って表すことができます。  そして言葉、言語、記号では表せないものを表現するために使うことができます。  よく空気とか間とか余白とか不完全さとかわびさびとか幽玄とか日本文化論  うまいこと整備すれば構造主義やポスト構造主義を西洋文化より簡単に組み込むことが可能です。  実際組み込まれていて「空」「中道」「縁起」「中観」「中」などの言葉で表現されるものがそれです。  またはシニフィアンとシニフィエの距離をどんどん開けていく、収束ではなく発散させるように使うこともできます。  コンテクスト依存性を進めることで独特の文字の使用法が可能になります。  一言でいうと「テクストもまたコンテクスト」みたいに考えることができるしそのような使い方を日本語は行ってきた歴史があります。  世界でも事物でも対象でもいいですがそれを表現する方法はいろいろあります。  絵でもいいし立体造形でもいいし動画でもいいし音楽などの芸術でもいいでしょう。  言葉は世界を表現するための一つの道具ですがこの道具単体では世界を表現できない場合には言葉以外のものも合わせて使う必要があります。  言葉をテクスト、言葉以外をコンテクストとして大まかに2つに分けてみましょう。  コンテクストはテクストを使って表現できる場合もあれば、文化的な常識や通念として以心伝心で伝わるものもあれば先ほど例示したように絵でもいいし立体造形でもいいし動画でもいいし音楽などの芸術などその他さまざまなものがあります。  このテクストとコンテクストを合わせて世界を表現するとします。  例えば映画をセリフや動画や音楽で出来ているとしましょう。  この場合はセリフが言葉でありテクストで動画や音楽はコンテクストと言えるかもしれません。  では映画にとってセリフは動画や音楽に比べて特別化というと特別な場合もあるかもしれませんが特別でない場合もあるでしょう。  このように見ると言葉というのは表現するための様々な方法、道具があるなかでの他の方法や道具に比べて特別ではない一つの道具にすぎません。  表現の中で言葉を特別だと見る見方をテクスト中心主義というのであれば言葉を特別なものと見ない非テクスト中心主義とも呼べるような考え方もあります。  日本文化では言葉を後者の見方でも見たり使ったりすることがあります。  それに対して西洋文明では「言葉(ロゴス)は神である」です。  これはユダヤ教とギリシア思想の合成です。  結果として西洋文明はロゴス中心主義的でテキスト中心主義的でした。  だからソシュールにみんなびっくりしたのかもしれません。  その結果として面白いことが起こります。  日本では「言葉は不完全でいい」「言葉は不完全なものだ」「文も不完全でいい」「文は不完全な文もある」という結論になり実際に古くから日本人と日本語の付き合い方はそんなものでした。 ・西洋にある文法は体系づけられるという考え方  自然言語というのは論理学や数学やプログラミングのコードと違うのできれいで完璧に体系づけることはできません。  でも西洋文明はもともと多分いろいろな理由で体系化への意志が強い言語です。  これは一つの仮説ですが西洋の精神文化と西洋の言語の変化は両者の相互作用で形成されてきた側面があるのかもしれません。  英語の文法書などを読むと体系化へのあくなき執念がみられます。  もちろんそうでない部分も多いでしょう。  ただこれは我々日本人にも関係します。  日本では義務教育で英語を学びますし文法を学びます。  義務教育以外でも英語や文法を学ばないといけない機会が多いでしょう。  ですから英語的言語観とか英語的文法観を私たちは多かれ少なかれ身に着けるでしょう。  そういう関わり方ともう一つ言語学者などの言語関係のアカデミックな領域での学者や研究者や教育者が西洋語の文法観の影響を受けている場合があります。  日本語学者、国語学者が西洋言語の例えば英語文法的な考え方が日本語の文法の考え方に強い影響を与えている場合があります。  日本語の文法を英語の文法に当てはめて解釈するという形をとる人がいてそういう人の国語文法書で我々が日本語を勉強するといろいろ齟齬や誤解が出る場合があります。  例で考えてみましょう。  英語の 「He runs fast.」 を考えてみましょう。  これを日本語に訳すと、 「彼は速く走る」 「彼は走るのが早い」 「走るのが早いのだ、彼は」 「速く走るんだ、彼は」 「走るのが彼は速い」 「速い、彼は走るのが」 みたいな感じにできます。  別にどれも間違えてはいないでしょう。  英文法では(私は長らく英文法の勉強をしていませんが昔は英文法マニアでした)少なくとも昔は文型みたいなのから英文法の本は始まる傾向がありました。  例えばSVとかSVCとかSVOとかSVOCとかSVOOとか今は知りませんが昔の初等的な文法書は5文型から始まる傾向がありました。 Sは主語、Vは動詞、Cは補語、Oは目的語といった感じになります。  それで言えばこの分はSV(M)の形になります(Sは主語、Vは動詞、Mは修飾語(この場合は副詞))とします。  英語のSVMのS、V、Mの語順が比較的自由に変えられるのは日本語の面白い所かもしれません。  またこの場合英語で副詞として使われているfastが日本語では訳し方によって副詞になったり形容詞になったりしています。  Fastは英語で形容詞としても副詞としても使われますがそう考えずに「形容詞の副詞用法」だとかなんだかいろいろな考え方があります。  また日本語は体言止めにしても平叙文として成り立っています。  ここで平叙文とは論理学と整合性をつけて真、偽を決定できる文ということにしておきましょう。  6通りの翻訳の中で何となく英語の初級者の翻訳は「彼は速く走る」だと思います。  これは多分文法で英語と日本語の語順は違って英語でSVMと書くものは日本語でSVMと訳すみたいな教育か学習を忠実に守るからでしょう。  この場合主観的に言わせてもらうと日本語の訳は日本語でもSVM型の「彼は走るのが速い」が一番自然な日本語かもしれません。  ただこの「主観的」とか「自然な日本語」とか「自然な翻訳」とかバリバリの理数系的思考というか原理主義的思考をする人にとっては胡散臭いことこの上ないです。  ですから日本人のノーベル物理学賞受賞者で英語が苦手過ぎる人とか自閉スペクトラム症のアスペルガーっぽい人が学習で躓きやすいことがあると思われます。  英語はSVO型の言語で日本語はSOV型の言語だという話もよく聞きます。  世界の言語が何種類あるかしりませんがSOV文型の方が世界では昔から多いです。  昔からというのは世界の少数言語の少数(話者)言語はどんどん消滅しているからです。  話者人口はSVOかもしれませんが。 例えば 「she likes cats.」 で考えてみましょう。  さっきのやり方に合わせて日本語翻訳してみましょう。 「彼女は猫が好き」 「彼女が好きなのは猫」 「猫を彼女は好き」 「猫が好きだ、彼女は」 「好きなんだ、彼女は猫が」 「好きなの、猫を彼女は」 英語文法に忠実ならlikeは好きという形容動詞よりは好むという動詞にした方がいいのではという突っ込みが入るかもしれません。  そもそも英文語に述語とか述部という概念があるのか知りませんが国文法には述語とか述部という言葉があって英語の動詞に当たるVは日本語で述語として訳す場合は動詞でも形容詞でも形容動詞でもよかったりします。  であれば日本語を無理に英語の文法や文型に充て跳ねる必要はないのではないか?という疑問が湧いた方がいるかもしれません。  その疑問は全くその通りで日本語の文法を英語に合わせて作る必要はありません。  「彼女は猫が好き」は有名な「象は鼻が長い」に似ていますね。  「は」と「が」で主語が2つあるのか?とかどっちが主語なのか?とか「は」とは何かとか「が」とは何かという風に英語の文法を日本語に当てはめるといろいろな疑問が湧いてくる方もいるでしょう。  私が大学の日本語の授業で留学生相手に授業のアシスタントをしていた頃には日本語の先生が「は」はテーマ助詞と言われて主語ではない、みたいなことを教わった記憶があります。  テーマ助詞とは文全体の主題を表すことを示す助詞ということです。  ただそういう見方もあるかもしれませんが別の見方をすることもできます。  本当にいろいろな見方ができますがそもそも日本語の文には主語が必要がないという考え方があります。  「は」も「が」もある場合には主格を表す助詞として使われるがそうでない場合もある、というものです。 「私は人間です」 この場合は「私は」は主語と考えてもいいでしょう。  でも「象は鼻が長い」の場合には「象は」は主語ではなく文全体のテーマを提示するための接辞としての助詞と見なすことができます。  「が」が必ず主語を表すかというと総とも限りません。  「彼女は猫が好き」の「猫が」は英文法的には目的語でしょう。  そうすると英文法に当てはめると「が」は主語も目的語も作りうる助詞、ということになります。  ざっくり言ってしまうとそもそも「が」は新しいことを示す、文章や会話内に登場させるときに使う助詞です。  別に結果としてそれが主語になろうが目的語になろうが日本語にとってはどっちでも構いません。  そもそも日本語の文は主語も目的語も必要ない場合がたくさんあります。  しかし英文法を日本語に当てはめて英文法で日本語から解釈する人にしてみれば特殊なことになるでしょう。  でもそうでない人にとっては別に特殊なことではないかもしれません。  英語や英文法しか知らない、あるいはあえて英語や英文法を日本語に当てはめて考えようとする場合にはいろいろ面白いことも多いですが学習効率の悪化を招いたりいろいろ齟齬や誤解を生じたりする場合も多いと思います。  ですから別の考え方を知っておいた方がいいかもしれません。  それは日本語独自で西洋語の影響を受けていない国語文法だったりします。 あるいはいろいろな言語やその文法を知っている人なら日本語に限らず何か新しい言葉を学ぼうとしたりその言葉の文法を学ぼうとする場合には、その学びたい言語の分布だけでなく、自分の知っているほかの言語やその文法を総動員して学ぶといろいろいいことがあるかもしれません。 新しい言葉の文法を学ぶと個人的な経験と見解ですがその言葉の読解力が飛躍的に高まります。 ただ読むのにはめちゃめちゃ役に立ちますが、書く、聞く、話す場面での威力は読む場合には及ばないような気がします。 ・ざっと現代日本語の歴史  日本語も変遷があります。  明治維新で変遷があり江戸期の教育をしっかり受けている層は漢文脈もピンインや平仄まで習っていると思われるので冠詞が書けたりします。  明治期の教育をしっかり受けた人は候文を習っていると思います。  大正末では候文は習っていなかったようです。  戦後1970年頃の日本語教育では国語教育ではどこの文成分がどこの文成分にかかるという係り受け教育を徹底的にする傾向にあり大正時代にはそういう国語教育はなくもっと国語教育がいい加減で気楽だったという当時の人の感想が残っています。  戦前は口語と文語の一致運動も大切です。  ラジオ放送の始まったの戦後のテレビの普及の2つが現在の標準日本語の成立にかなり影響を与えているようです。  大正12年生まれの司馬遼太郎によると1890年から1900年くらいまでに生まれた世代はそれ以後には失われたようなしっかりとした東京も含めた各地の方言、地域の口語が残っていると観察しています。  これ以降の世代ではそれ以前の世代と方言の仕様について不連続性があるとするとそれは一部ラジオ、最も大きな影響はテレビの普及の影響ではないかと考察しています。  万葉仮名は無理ですが万葉仮名でも現在の仮名に直してもらったり漢文でも返り点など入れて書き下し文にしたりフリガナを振るなどの補助があれば現代日本人は過去の日本語の現在残されている文献については雰囲気くらいは分かると思われます。  日本語の歴史は口語であれ文章語であれ中国語(漢文)や梵語(サンスクリット語、インド語)、西洋語(明治以降)の影響を受けておりますが、他方で平安の宮廷文学の女流文学者たちのように漢文の影響の比較的少ない日本語も同時に残されています。 ・日本語の言語学的一般的な特徴  まあ何であれ日本語は言語類型的には膠着語というものに属して助詞や助動詞の付着や用言の活用などで意味が決まる言葉です。  他方で西洋語は英語などは分析語や孤立語と呼ばれる言語類型に属して、古典ラテン語や古典ギリシア語などは屈折語と呼ばれる名詞や連体修飾ができる品詞の格変化や動詞などの活用の変化が特徴的です。  西ヨーロッパの言語ではフランス、スペイン、イタリアなどのラテン語系と英語、ドイツ語などのゲルマン語系がありますがここもグラデーション的な感じがあってフランス語などはスペイン語やイタリア語に近い所もあれば英語に近い、というか英語がフランス語に近い所があります。  ラテン語起源の言語は屈折語から孤立語、分析語的な方向に変化していっているように見えます。  ゲルマン系言語は古いゲルマン語を勉強したことがないので分かりませんが、ドイツ語と英語を比較するとドイツ語は屈折語と孤立語、分析語の両方の要素を残し、英語はどんどん屈折語の要素を失う方向に変化していっているように見えます。  多分現代日本語に影響を与えている西洋語は主に英語、ドイツ語、フランス語だと思われます。  西洋語は論理学や修辞学や文法(学?)の影響を強く受けてきた、あるいは西洋語は論理学や修辞学や文法を発達させた言語です。  現代日本語の国語教育では西洋のそういった影響を受けたためかそうでないためか分かりませんが文法などを重視する傾向があるようです。  多分小中学くらいの国語教育では係り受け、どこの文成分がどこにかかるみたいなのが強いと思われます。  中学か航行か分かりませんがそれなりに古典文法や漢文法を勉強するようです。  日本語には文法がなく後付けで文法らしきものを作った、という見解もありますが日本語独自のあまり英文法などの影響を受けていない国文法ということでは係り受けや、修飾、被修飾関係や動詞、形容詞、形容動詞、助動詞などの用言部分に関する活用変化がメインになると思われます。  他方で現在は分かりませんが過去には日本語文法を英文法になぞらえて説明する教師たちも多かったです。  どちらの立場でも日本語には法則がありその法則が文法ですから日本語には法則があるという観点に立っていたと思います。 文の分析の際には文成分は必ず何か他の文成分にかかるかかかられるかという観点、文成分の関係性に一致と呼応が必ずあり、対応を間違えると正しくない文とされるもの、あるいはどの文成分も必ず何か他の文成分を修飾するか修飾されているかがある、という観点で日本語を考えています。 そもそももっと本質的に言葉というものを考えると日本語でも映画でも文法が存在するかどうかという本質的な問題とともにさらに深掘りした本質として文というものが存在するのか、言葉(文章)は成文としての文に必ずきれいに分けられるのか、文というきれいな単位が存在するのか?という問いを立てられる可能性があります。 古文献には句読点やらコンマやピリオドやないどころかスペースや改行がない文献書籍も大量にあります。 学問的にはそういったよく分からない言葉のカオスと思われるものの中に文やら文法というものを見出していったのが言葉の歴史かもしれません。 文や文法がまず存在してその結果として言葉が生まれていったのか、言葉というものはもともとカオスであったが人間がそれを秩序付けたものが文や文法である、という見方もできて、もし後者なのであれば、そして前者であってもある一つの言語に対する文法というものは異なる複数のものが存在する必要があります。  受験英文法では強迫的に英文をある英文法に当てはめる傾向が強い教え方がある一方で、ある文法だけでは解釈しきれない文や文成分というものもたくさんあって融通利かせて柔軟に解釈すべきである、という考え方とかいろんな教師がいるものと思われます。 ・ざっとまとめる:英語の場合  筆が滑って長くなってしまいました。  ざっと結論をまとめてみて最後の少し補う形にします。  英語のエートスというか英語の基底をなし英語を貫く、あるいは英語が志向する精神性みたいなものをまとめてみます。 ① 英語はシニフィアンとシニフィエを一致させようとします。 ② そしてシニフィアンは固定的です。 ③ 更にはシニフィエも固定的です。 ④ 英語はロゴス中心的で、文中心的で、文法中心的です。    上記のようなことがあるので英語の文法書はまずは文のプロトタイプみたいな直説法で三人称で(一人称の場合もあるかも)、単数で、時制は現在形で、単純相(完了相や進行相ではない)で、能動態で、極性が肯定(否定ではない)など文法的カテゴリー(その他まだある、例えば性など)と呼ばれるものの中から一番代表的で標準的なものと思われそうなものををまず示してその後、それらの各カテゴリーにはどんなものがありカテゴリー内で変化をつけることでどのように文が変わるか(例えば直説法でなく命令法にする、肯定文ではなく否定文にするなど)を勉強していく体裁を取ります。  平叙文中心主義、とでも言ってもいいかもしれません。  また言葉は研究や学習のためのものでなく現実に使用するものです。  そういう実使用論的、実際に言葉を使う場では時間をかけて考えてから発するのでは会話などがぎくしゃくしてしまうので反射的に判断・決断・実行するスポーツのようなものです。  そういう実施陽的な世界では英語も文法書通りにはいかず破格的なイレギュラーさや文法に照らすと間違っているバグみたいなものが自然に成立する日本語みたいな面も当然あります。 ・ざっとまとめる:日本語の場合  英語と対置させる形で日本語を示してみましょう。  日本語は、 ① シニフィアンとシニフィエが一致していなくても全然良い ② 固定したシニフィアンなどない ③ 固定したシニフィエもない ④ ロゴスがなくてもよい というないない尽くしになります。  例えば、 「いたっ」 これも日本語の文です(言語には必ず文が存在するという立場からすれば)。 「あかんわ」 「シーン」 「…」 「まさか!」 「そんな!」 「ん?」 「ね!」 「ね?」 「かあ」 「ですね」 「うん(null or ! or ?) 「う~ん…」 「(主語は不確定でいい)降ってきた(ね)」 こんなんも文ですし、何にもかからない、文にも文成分にもかからない文成分があってもいいです。  文が存在するという立場からすればこういうものは文の何かの要素が省略されたものと見てもいいかもしれません。  ただ文があるという立場であっても「草生える」「w」これ自体が文という考え方もあります。  「きれいですね」 という発言に 「何が?」 と返したら野暮過ぎて物を知らない者として共同体から排除や村八分にあってしまうかもしれません(  また文というのは文章の最小の構成要素ではなく、最大の構成要素でもなく、その間の何かなのかもしれません。  あるいは繰り返しますが言葉に「文」という正規、正則な標準化された単位が必要だ、という考え方がもしかしたら西洋中心主義な視点に過ぎないのかもしれません。  言葉の定義にもよりますが最近のAIなどの進化により最近は動物も言葉をしゃべることが分かっています。  もしかしたら泣き方やその組み合わせによって何かを伝えているだけかもしれません。  でもそれなら中国語や漢字、漢文だってそうかもしれません。  それは文ではないとか不完全な文だというのは文中心主義的な考え方です。  もっと言うと言葉中心、ロゴス中心主義で何にでも真偽があるとか正しいものと正しくないものがあるとか、正義と悪があるみたいな考え方でそこから零れ落ちるものには目を向けない、あるいは目に入らない、あるいは黙殺する、ないことにする考え方です。  終助詞、感嘆詞、間投詞、感動詞、陳述や呼応の副詞、副助詞、接続助詞、擬態語、擬音語、または敬意や丁寧表現のような英語にはないカテゴリーもたくさんありますし、語、詞、辞もたくさんあるでしょう。 ・英語の主語中心主義と日本語の述語中心主義  抽象度を高めて考えれば言葉と言うものは文を持つ必要はないかもしれません。  ただ英語は文法中心主義で平叙文中心主義です。 中心主義という言葉を使いすぎかもしれませんが。 その英語的平叙文の考え方でいうと「日本語は主語がない場合がある!?」みたいな感じになります。 変わりに英文法の言葉というより国文法の言葉で言えば述部が重視されるように見えます。 述部は動詞、形容詞、形容動詞からなりそれぞれ活用し助動詞が膠着します。 孤立語や分析語のように助動詞は語ではなく接辞、接尾語です。 他の文成分、体言や主部や修飾語、修飾部はいらないという意味では述部中心主義と言えるかもしれません。 他方で英語の平叙文は主語が最も重要で次が動詞、そのあとが自動詞や他動詞など決める補語や目的語、そしてそれ以外の就職成分の形で重要なように見えます。 主語と動詞のどちらが重要かは分かりにくい所ですが英語が過去ドイツ語やラテン語のように屈折語の要素が強かったのに歴史とともにそれを失い三単現で動詞の語尾変化を残すのみとなりその代わりラテン語などのように主語が必要ない平叙文というのはなくなり主語が必ず必要になり主語や主部となる名詞や体言の可算性や数、人称による動詞の変化がなくなる方向に進化したことから主語が動詞を決める言語と考えた方が考えやすいのではないでしょうか。 とすると英語の主語中心主義に対して日本語の述部中心主義というのが対称をなすと考えるとわかりやすくなります。 ただあくまで言葉というものは文あるいは平叙文というものがあり文法というものもあるという前提に立つとそう見えるだけです。 もっと抽象化すると日本語は文も平叙文も文法も必要な意図も考えられます。 「ね。」 「そうでしょ?」  「きれいな月…」  全部日本語ではそれ単体で言葉となります。  日本文化と日本人にとっての言葉というものは言葉単体で意味を成すものではなく言葉を含めたその他のいろいろなものを総動員して意味を表現するための一要素にすぎません。  もっといえば意味すら必要ありません。  というのが言いすぎなら意味の確定は必要ありません。  多義的でもいいし無限の意味の可の姓を持つ、あるいは曖昧な意味であることが本質的であってもよいのです。  英語のように主語という定点は必要ないし確定した意味すら必要ないということになります。 「英語は「文の中に世界を畳む」言語で、日本語は「世界の中に文を置く」言語だ」ということができるかもしれません。   ・日本語は言外を表すことを志向する  次のように考えてみましょう。 西洋語は言葉が意味を確定させる方向性、日本語は言葉が意味を確定できないことを強調するエートスかパトスか持っている感じです。 パトスも持っているなら西洋語の言語進歩の方向性は人々が言葉をより意味を確定させるように進歩し、日本語は言葉が意味を確定させない方向に努力する、は強すぎな言い方かもしれませんが言葉が意味を確定するということは内的な意識を失わないようにしつつ、それに基づく西洋とは違う言葉の使い方を発達、深化させた可能性があります。 例えばシニフィアンとシニフィエの一致、収束を西洋語は目指し、日本語は目指さないどころかシニフィエ以外のものをシニフィアンが表す能力を持つ。ゲシュタルトの図と地ならば西洋語は図だけを表すが日本語は図も表すのを志す。言外とでもいうべきものでしす。 量子場理論でいえば西洋語は素粒子のみを表し日本語は素粒子でない場も表すことができるというアナロジーが成り立ちます。 この3つのアナロジー(記号論、ゲシュタルト、量子場理論)は、日本語と西洋語の本質的な違いを説明するモデルになります。 それぞれの視点から、その「日本語が目指した深化の方向性」を掘り下げてみます。 1. 記号論的視点:シニフィアン(言葉)とシニフィエ(意味) 西洋語がシニフィアンとシニフィエの「完全な一致・収束($1=1$)」を目指すというのは、まさにその通りです。言葉は「定義」であり、対象を他のものから区別するラベルです。 一方で、日本語のシニフィアンは、対象そのもの(シニフィエ)を指し示すだけでなく、**「その周辺に漂う何か(余剰)」**を含んで機能します。 • 西洋語(指差す言語): 「これは『悲しみ』である」。言葉が意味をピン留めし、固定します。 • 日本語(喚起する言語): 言葉はあくまで「呼び水」です。「もののあわれ」や「切なさ」といった言葉は、辞書的な意味(シニフィエ)以上に、その場の空気、話者の身体感覚、季節の移ろいといった**「名付け得ないもの」を、受け手の心の中に再現させるためのトリガー**として機能します。 つまり、日本語は意味を確定させないことで、「言葉にする前の生々しい意識(クオリア)」を殺さずに伝達しようとする高度な技術を発達させたと言えます。 2. ゲシュタルト的視点:図(Figure)と地(Ground) この比喩も極めて鋭いです。 • 西洋語(図の言語): ルビンの壺で言えば、西洋語は「壺」か「顔」か、どちらか一方を「図」として明確に認識し、記述します。「地(背景)」はノイズとして切り捨てられます。文法的に主語(図)を立てないと文が成立しないのが良い例です。 • 日本語(地の言語): 日本語は、あえて「図」を明確にせず、「地(背景・文脈・空気)」そのものを記述しようとします。「雨が降っている」ではなく「雨だ」と言ったり、主語を省略したりするのは、「私」や「雨」という個別の「図」よりも、「雨が降っているという状況全体(場)」を表現したいためです。 これは「意味を確定させない」のではなく、**「全体性(全体の関係性)を崩さないために、あえて部分を確定しない」**という戦略です。 3. 量子論的視点:粒子と場 これが最も現代的で、かつ核心を突いたモデルかもしれません。 • 西洋語(古典物理・粒子): 観測(言語化)した瞬間に、波動関数が収縮し、意味が一点に確定します。「AはBである(A is B)」と断定することは、確率的な揺らぎを排除することです。 • 日本語(量子場・波動): 日本語の文は、文末まで行かないと肯定か否定か、推量か断定かが分かりません。これは**「重ね合わせの状態」**を維持していると言えます。 Getty Images お客様がおっしゃるように、日本語は「素粒子(個別の単語)」だけでなく、それが生成消滅する**「真空の場(ポテンシャル)」そのものを扱おうとしている**可能性があります。言外の匂わせ、敬語による距離感の調整などは、「場」の調整機能そのものです。 結論:日本語は「意識の連続性」を守る言語 西洋語が、世界をデジタル(離散的)に切断することで「科学的客観性」や「論理」を発達させたとしたら、日本語は世界をアナログ(連続的)なまま捉え、「内的な意識の流れ」や「他者との共鳴」を損なわないように深化させてきたと言えます。 「意味を確定させない努力」とは、言い換えれば**「生きている現実(パトス)を、死んだ概念(ロゴス)の標本にしないための努力」**だったのではないでしょうか。 ・Addendum / Supplement(補遺、補注、付録)その1 西洋語(特に印欧語族)の文法カテゴリーを「片っ端から」リストアップします。 これらを見ると、「西洋語は意味を強制的に確定させる」という性質が、いかに文法の深層レベルで組み込まれているかがよく分かります。彼らは息をするように、常にこれらの選択を迫られているわけです。 動詞にまつわるもの、名詞にまつわるもの、その他に分けて整理します。 ________________________________________ 1. 動詞の形を変えるもの(述語の確定) 西洋語の動詞は、以下の要素をすべて決定しないと、一言も発することができません。 • 時制(Tense) o 現在、過去、未来:時間がいつか。 o ※日本語は「非過去(現在・未来)」と「過去」の対立が主ですが、フランス語やイタリア語には「半過去」「大過去」「先立未来」など、時間の前後関係をパズルのように確定させる時制が存在します。 • 相(Aspect / アスペクト) o 動作が「どういう状態か」の区別。 o 完了相: 動作が終わっている(have done)。 o 進行相: 動作が続いている(be doing)。 o 開始相・反復相・習慣相などもあります。 • 法(Mood / ムード) o 話し手の「現実に対する態度」。西洋文法の真骨頂です。 o 直説法: 事実として述べる(彼は来る)。 o 接続法(仮定法): 心の中の想念、疑い、願望として述べる(彼が来ればいいのに、彼が来るなどとは信じない)。※ロマンス語系ではここが非常に厳密です。 o 命令法: 命令する。 o 条件法: 条件付きで述べる(もし〜なら…だろう)。 o 希求法: 強い願望(ギリシャ語など)。 • 態(Voice / ヴォイス) o 誰がアクションの主か。 o 能動態: する(Active)。 o 受動態: される(Passive)。 o 中動態: 「する」と「される」の中間(Middle)。※古代ギリシャ語やサンスクリット語にあり、近年哲学(國分功一郎氏など)で注目されています。「自発的に〜の状態になる」感じ。 o 使役態: させる(Causative)。 • 極性(Polarity) o 肯定 / 否定。※言語によっては二重否定が肯定にならず強調になる場合も。 • 人称・数の一致(Agreement) o 主語が「私」か「君」か「彼」か、また「単数」か「複数」かによって、動詞の語尾が強制的に変わります。これにより、主語を省略しても誰のことか確定できます。 ________________________________________ 2. 名詞・形容詞の形を変えるもの(対象の確定) 日本語では「りんご」と言えば済みますが、西洋語では以下のタグ付けをしないと「りんご」という概念を使えません。 • 数(Number) o 単数 / 複数。 o 双数(Dual): 「2つのもの」専用の形(古代ギリシャ語、アラビア語など)。 • 性(Gender) o すべての名詞が性別を持ちます。 o 男性 / 女性 / 中性。 o ※フランス語などは男性・女性の2つ。ドイツ語やロシア語は3つ。形容詞もこれに合わせて変化します。 • 格(Case) o 文の中で「どういう役割か」を示すタグ。ドイツ語、ロシア語、ラテン語などで強烈です。 o 主格: 〜が。 o 属格(生格): 〜の。 o 与格: 〜に。 o 対格: 〜を。 o 奪格: 〜から。 o 呼格: おーい、〜よ! o 具格: 〜を使って。 o 処格(地格): 〜において。 o ※フィンランド語などは15種類くらいの格があり、場所の移動などをすべて格変化で表します。 • 定性(Definiteness) o 冠詞(a/the)の区別。 o 定: その場にいる全員が「あれのことだ」と特定できている(The)。 o 不定: 特定できていない、任意のひとつ(A)。 o ※「りんごが好き」と言う時、"I like apples"(総称)なのか "I like the apple"(特定のそのリンゴ)なのか、日本語のようにぼかすことが許されません。 • 有生性(Animacy) o 生きているか、無生物か。 o ※英語の he/she と it の区別もこれに近いですが、アルゴンキン語族などでは文法全体を支配します。 ________________________________________ 3. その他・特殊なカテゴリー 西洋語に限らず、世界の言語に見られる興味深いカテゴリーです。 • 証拠性(Evidentiality / エヴィデンシャリティ) o 「どうやってその情報を得たか」を文法で明示する義務。 o 直接見たのか、人から聞いたのか、推測したのか。 o ※日本語の「〜らしい」「〜ようだ」に近いですが、チベット語や南米の言語では、これを間違えると文法ミスになります。 • 敬語・丁寧さ(Politeness) o 日本語の得意分野ですが、フランス語(TuとVous)やドイツ語(DuとSie)にも「親称・敬称」の区別があります。 • 可算性(Countability) o 数えられる名詞(可算)か、数えられない物質名詞(不可算)か。英語では水(Water)は数えられませんが、家具(Furniture)も数えられない集合名詞扱いです。 ________________________________________ まとめ:西洋語の「強迫神経症」的な確定 こうして見ると、西洋語を話すということは、一文を作るたびに: 1. いつの話か?(時制) 2. 終わっているか続いているか?(相) 3. それは事実か願望か?(法) 4. 単数か複数か?(数) 5. 特定できるものか?(定性) 6. 男か女か?(性) これら全てに「YES/NO」の決断を下し、タグ付けし続ける作業だと言えます。 先生がおっしゃる通り、これは**「意味を確定させ、世界を切り分ける」**ための強力な訓練装置(エートス)として機能してきたのでしょう。 対して日本語は、これらを「文脈(場)」に預けて、あえて決定しない(未然形など)自由を残しているわけです。 ・Addendum / Supplement(補遺、補注、付録)その2 文法で「法・態・相・時制」みたいに“文の骨格に関わるスイッチ類”を、できるだけ網羅的に並べるとこんな感じです(西洋語に限らず、言語類型論でよく使う見取り図として)📚 1) 動詞まわり(TAM + その近縁) • 時制 Tense(過去・現在・未来、遠過去など) • 相 Aspect(完了/未完了、進行、結果、習慣、反復、経験 など) • 動作様態 Aktionsart / Lexical aspect(瞬間動詞/継続動詞、到達/非到達、反復性 など) • 法 Mood(直説法・接続法・命令法・仮定法・願望法 など) • モダリティ Modality(義務・許可・能力・意志・推量・可能性/必然性 など) • エビデンシャル Evidentiality(伝聞・推論・目撃・確証 など) • ミラティビティ Mirativity(意外性「えっそうなの」系のマーク) • 極性 Polarity(肯定/否定) • 否定の種類(二重否定、部分否定、否定一致 など) • テンス/相/法の複合 TAM(未来完了、過去推量、義務進行…みたいな合成) 2) 態・項構造(誰が何をどうするかの組み替え) • 態 Voice(能動・受動・中動、再帰、相互、使役、使役受動 など) • ヴァレンシー Valency(自他交替、項の増減) • 適用 Applicative(「〜に/〜のために」を目的語化する等) • 与格交替 Dative alternation(英語のgive系みたいな) • 所有上げ/身体部位構文(「手を洗う」系の所有絡み) • 一致/項の格付けに関わる操作(目的語標識、差次的目的語標識DOM など) 3) 名詞句まわり(名詞の“タグ”) • 格 Case(主格・対格・与格・属格・具格・処格…) • 数 Number(単数・複数・双数・少数・集合 など) • 性 Gender / 名詞クラス Noun class(男性/女性/中性、バントゥー諸語のクラス等) • 人称 Person(1/2/3人称) • 包括/除外 Clusivity(weの「あなた含む/含まない」) • 敬語・待遇 Honorifics / Politeness(尊敬・謙譲・丁寧、聞き手待遇) • 定性 Definiteness(定・不定、指示性) • 指示 Deixis(近称/中称/遠称、可視/不可視など) • 指示詞体系(this/that、こそあど等の体系) • 所有 Possession(譲渡可能/不可、所有一致、所属名詞など) • 数量詞・類別詞 Classifiers(個・本・枚、量の単位、名詞分類) • 比較・程度 Comparison / Degree(比較級・最上級、程度副詞化) 4) 一致(agreement)と照応 • 一致 Agreement(主語一致、目的語一致、性・数一致、クラス一致) • 代名詞体系(格、敬語、人称、指示) • 照応 Anaphora(再帰代名詞、相互、束縛) • ログフォリック Logophoricity(「〜と言った彼」内の“視点の彼”専用代名詞) • オブヴィエーション Obviation(3人称が複数いるときの優先順位) 5) 文・節レベル(文タイプ、情報の扱い) • 文タイプ Clause type(平叙・疑問・命令・感嘆) • 疑問の種類(Yes/No疑問、wh疑問、疑問粒子、疑問語移動) • 焦点 Focus(フォーカスマーカー、対比焦点、情報焦点) • 話題 Topic(トピックマーカー、主題化) • 情報構造 Information structure(既知/新情報、強調、取り立て) • テンス一致 Sequence of tense(時制の一致) • 時制/法の一致(従属節での制約) • 補文標識 Complementizers(that節、to不定詞的なもの、引用標識) • 関係節 Relativization(関係代名詞、連体修飾、ギャップ/代名詞保持) • スイッチ・リファレンス Switch-reference(従属節で主語同一/非同一を表示) • 従属/等位 Subordination/Coordination(従属接続、並列、連動構文) • 引用・伝達 Evidential/quotative(「〜って」「〜そうだ」系) 6) 語順・配置(統語の“レイアウト”) • 基本語順(SVO/SOV/VSO など) • 語順の自由度(語順固定/比較的自由) • 前置詞/後置詞(Adposition の位置) • 一致や格で語順がどれだけ支えられるか • 主語省略 Pro-drop(ゼロ代名詞) • トピック優勢/主語優勢(topic-prominent vs subject-prominent) 7) 類型論でよく出る“大枠” • 格配列 Alignment(主格対格・能格絶対・分裂 など) • 他動性 Transitivity(二項/三項、他動性の段階) • ヘッド方向性 Head-directionality(主要部先行/後行) • 形態タイプ(孤立語/膠着語/屈折語/抱合語 など) • 複雑語形成(複合、抱合 incorporation)

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