2020年10月19日月曜日

「現代哲学」を書き始めました。「はじめに」を書きました。今後は以前の本の第1篇帰納篇と第2篇演繹篇をひっくり返して書きます。すなわち全体を演繹的に原理からどの様に哲学・思想全体が構築されていくか書いていきます。そもそも教科書とはその科学分野、学問領域がどの様に形成されていったのかは必ずしも書く必要はない気がしたためです。

「現代哲学」を書き始めました。「はじめに」を書きました。今後は以前の本の第1篇帰納篇と第2篇演繹篇をひっくり返して書きます。すなわち全体を演繹的に原理からどの様に哲学・思想全体が構築されていくか書いていきます。そもそも教科書とはその科学分野、学問領域がどの様に形成されていったのかは必ずしも書く必要はない気がしたためです。 現代哲学 はじめに 現代哲学とは何でしょう? 哲学史で有名な哲学者の名前を挙げてみましょう。 ソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、スピノザ、カント、ヘーゲル、ニーチェ、サルトルなどはご存じですか? おそらく最後のサルトルあたりが名前を聞いたことがない方がいらっしゃるかもしれません。 若い人には聞き覚えがない名前かもしれませんが、ある程度年配の方には聞き覚えのある名前の哲学者です。 若い人には馴染みがないという事はけして若い人に不名誉な事ではありません。 むしろ哲学にとっては名誉なことかもしれません。 哲学と言う学問は真理を追究したいという情熱と才能に溢れた人たちが群がり集まる学問でした。 それもあってか“哲学”という言葉には今でも高尚で深遠な響きがあるようです。 天才たちが集まり心理を追求した結果、哲学は現在では完成した学問となりました。 哲学の追求する問題に答えが出たわけです。 この完成した哲学を“現代哲学”と言います。 “現代哲学”というと現在進行して研究されている哲学の最前線と思われるかもしれません。確かに最前線なのですがそれより先のない本当の最前線まで到達してしまったので研究の必要がありません(現在哲学分野で何かを研究するのであれば過去の哲学を研究する哲学史か現実にどのように現代哲学を応用するかくらいで専門性が高い分野ですから専門の研究者たちに任せればいいでしょう)。現代哲学は全ての学問の基礎です。ですが基礎がなくても学習・研究できるのは往々にして体験するところです。むしろ意識せず空気や水の様な存在になることに基礎科学の偉大さがあるのかもしれません。その点については同じように全ての科学の基礎である数学と同じようなものです。ついでに言うと現代哲学の理解は現代数学の理解に役に立ちます。そもそも現代哲学は現代数学の真似をしたと言ってもいいくらい現代数学から影響を受けています。 偉大な先哲たちのお陰で「巨人の肩に立って見る」ことが出来るおかげで我々は古い哲学や哲学者を知る必要がありません。 冒頭に返ると若い人たちが過去の哲学者やその哲学を知らなくなってきたのは過去の偉大な当時の人類の至宝と言うべき頭脳を持った先哲たちの名誉であり、若い人の恩恵でもあります。 19世紀までは近代哲学が輝いた時代でした。20世紀には近代哲学から現代哲学の過渡期となり個々の哲学者やその哲学の内容は重要ではなくなってきました。 ニーチェくらいは知っていてもサルトルあたりの知名度が落ちてきているのはそのためです。現代哲学ではだれが現代哲学の大成者かという事は問題にしません。現代哲学(contemporary philosophyと書いて日本では現代思想と訳された)の盛り上がりの中で登場する一連の思想家たちがいるだけです。その潮流をポストモダンと言い日本ではニューアカデミズムと言って流行しました。 現代哲学は現代のリベラルアーツであって知の技法です。学ぶことで人徳を高める様な日本語の教養とは根本的に異なります。このアーツ(技術)は学問を深めるのに必須ですし学問を広めるのに有用です。何の学問にせよ問いを重ねていくと必ず哲学な問題に行き当たる瞬間があるからです。現代哲学を予め学んでおけば哲学的問題に頭脳を割かれることがありません。既に答えが与えられているからです。 我々は現代哲学の楽園に住んでいます。未だ人類が到達したことがない、疑問の答えを学ぶことが出来るのです。それは仏教でいえば「色即是空 空即是色(現象は実体とも差延ともいえる)」「諸行無常 諸法無我(全ての関係性は変わらないことはない、全て存在は主体ではない」であり悟りの境地です。大乗仏教は現代数学と並び現代哲学と同じ考え方をします。 知と思考の極点を目指しましょう。 目次 第1章 現代哲学の3つの原理