リアリズムの三角関係、あるいは「神」という名の金平糖
——現実と実在とイデオロギーの奇妙な情事——
序:分裂する「リアル」
リアリズム。 この言葉は、日本という言語空間において、奇妙な多重人格を患っている。
我々が普段、居酒屋や映画館で口にする「リアルだ」「リアリティがある」という時のリアリズム。これは**「現実味」だ。手触りがあり、匂いがあり、そこに確かな質量を感じること。 しかし、哲学の講義室で使われる「リアリズム(実在論)」は、これとは真逆の顔をしている。 それは、目にも見えず、手でも触れられず、あるかどうかも定かではない「普遍」や「神」や「正義」**といった概念が、そこらの石っころよりも確実に「在る」と言い張る態度だ。
片や「現実(Reality)」の手触りを求め、片や「実在(Reality)」の観念を信じる。 同じ「リアル」という音を持ちながら、一方は泥臭い地上の現実を指し、もう一方は天空の彼方のイデアを指す。 この捩れ。この分裂。 まるで、本妻と愛人の両方に「ハニー」と呼びかけるような危うさが、この言葉にはある。
一、神という名の「無いものを有るとする」作法
そもそも、西洋思想という巨大な伽藍は、「無いものを有るとする」、あるいは「有るか無いか分からぬものを、絶対に有ると信じ込む」という、一種の知的アクロバットの上に建っている。
最たるものが「神」だ。 日本人の感覚で言えば、神などというのは「鰯の頭」であって、信じたければ信じればいいし、どうでもよければどうでもいい。日常会話で神の実在を大真面目に論じる奴がいれば、厨二病をこじらせたか、よほど切羽詰まって壺でも買いそうな手合いだと心配されるのがオチだ。 しかし西洋ではそうはいかない。 彼らにとって、見えない神は、見えるリンゴよりも「リアル(実在)」でなければならなかった。
これが中世の**「実在論(Realism)」**だ。 個々のリンゴ(唯名)などは仮の姿に過ぎず、「リンゴという普遍概念(実在)」こそが真実だと言い張る。 なんとも持って回った、胃にもたれる理屈ではないか。オッカムがカミソリで切り捨てたくなるのも無理はない。
聖書を開いてみればいい。 神を見た、会った、触ったという話は、数えるほどしかない。モーセやヤコブといった伝説級の猛者はともかく、時代が下れば下るほど、神は姿を消し、せいぜい「声が聞こえた(気がする)」程度の、曖昧模糊とした存在になっていく。 まさに**「神のインフレ」**だ。 姿が見えなくなればなるほど、その権威と超越性はバブルのように膨れ上がり、「見えないからこそ実在する」という、ねじれ切った論理が完成する。
二、イデオロギーという名の「金平糖」
さて、ここに「イデオロギー」という厄介な友人が割り込んでくる。 イデオロギーとは、言ってみれば**「世俗化された実在論」**だ。
神の代わりに「歴史の必然」だの「民族の正義」だの「市場の原理」だのを中心に据え、それこそが唯一絶対の「リアル(実在)」だと主張する。 彼らは言う。「現実は間違っている。我々の理論(イデオロギー)こそが正しいリアルなのだ」と。 現実(Actual)を否定するために、実在(Real)を持ち出す。 この倒錯した情熱こそが、イデオロギーのエンジンだ。
司馬遼太郎はかつて、これを**「金平糖」**に例えた。 金平糖の核には、ケシ粒のような芯があるが、時にはそれが空洞になっていることもある。 イデオロギーも同じだ。 その中心には「神」や「正義」といった、甘美だが実体のない空洞(スペース)がぽっかりと口を開けている。 その空洞を「有る」と言い張る熱量だけで、彼らは革命を起こし、断頭台を築き、世界をひっくり返そうとする。 空洞の中身を見ようとして砕いてみれば、そこには何もない。だから彼らは怒る。「見るな、信じろ」と。
三、リアリズムの三角関係
ここで、役者は出揃った。
現実主義(リアリズム): 目の前の利害、力関係、物理法則に従う、冷徹な処世術。政治や商売の現場で幅を利かせる「大人の態度」。
実在論(リアリズム): 見えない普遍、価値、神こそが真実だと信じる、哲学と神学の「純愛」。
イデオロギー: 実在論を燃料にして、現実主義を殴り倒そうとする「革命家」。
この三者は、じゃんけんのように三すくみ、いや、もっとドロドロとした奇妙な三角関係にある。
イデオロギーは「実在論」を愛しているが、「現実主義」には手酷く裏切られる。 「計画経済は完璧だ(実在論)」と叫んでも、「市場は動かない(現実主義)」という冷たい事実にビンタされる。 逆に、現実主義者は「実在論」を嘲笑うが、時にはイデオロギーの熱狂を利用して金儲けを企む。
日本人は、このややこしい「Realism」という単語を、あえて「現実」と「実在」に切り分けた。 これは翻訳の妙技であり、ある種の文化的防衛本能だったのかもしれない。 「リアル(現実)」は大事だが、「リアル(実在)」に深入りすると火傷をする。 見えないものを「有る」と言い張る連中とは、適度な距離を保ちつつ、目の前のサンマでも焼いて食うのが一番だ、と。
結:踊る阿呆に見る阿呆
結局のところ、リアリズムが分かれば哲学が分かるというのは、この**「言葉の詐術」**に気づくことに他ならない。
西洋哲学の歴史とは、「無いものを有ると言いたい」実在論と、「有るものしか無いと言いたい」唯名論(後の経験論や実証主義)との、果てしなき夫婦喧嘩の記録だ。 そして現代、構造主義やポストモダンといった新しい踊り子たちが現れ、「そもそも『有る』って言ってるお前の言葉自体が虚構じゃん?」と茶々を入れるに至って、この喧嘩はますます混沌(カオス)の度合いを深めている。
我々日本人は、この喧嘩を遠巻きに眺めながら、時折「リアルだねぇ」と呟いて、金平糖をつまむくらいが丁度いいのかもしれない。 中身が空洞であろうとなかろうと、甘ければそれでいいじゃないか、と嘯きながら。
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