リベラリズムと「リベラル」は別種の生き物である
——古典的自由、現代的介入、そして日本というガラパゴスの奇妙な関係——
一、かつて「岩波語」という方言があった
昔、訳の分からない文章をありがたがる奇妙な時代があった。 「岩波語」である。 難解であればあるほど高尚で、結論がマルクス主義に接続されていれば「良識」とされた時代。神田の古本屋に山積みされた『資本論』の死屍累々は、かつてそこにあった熱病の跡地だ。
マルクス主義という名のファッションは廃れた。 流行り廃りというのは残酷なもので、実証主義的な歴史家は「ブーム」を軽視しがちだが、どっこい、流行が去っても「根っこ」は残る。 網野善彦を見よ。彼は山村工作隊の闘士だった過去を持ちながら、ふすまの下張りから出てくるような泥臭い古文書を読み解き、「常民の歴史」を再発掘した。 イデオロギーの眼鏡を外して「下部構造(生活の実態)」を見たら、歴史の教科書が嘘だらけだったと気づいたわけだ。 しかし、油断はならない。歴史学だろうが立憲民主党だろうが、かつての「加入戦術」の末裔たちは、今もリベラルという新しい皮を被って、組織の奥深くで息をしている。
二、ロビンソン・クルーソーの孤独な自由
さて、本題の「自由」だ。 ここを整理しないと、現代社会のグダグダは理解できない。 まず、**「古典的リベラリズム」と「現代的リベラル」**は、名前が似ているだけの赤の他人、いや、むしろ敵同士に近い。
古典的リベラリズムとは何か。 一言で言えば、「ロビンソン・クルーソー」である。 無人島で一人、誰にも気兼ねせず、自分の食い扶持を自分で稼ぎ、邪魔する奴がいればマスケット銃で撃ち払う。これが原点だ。 「個人の絶対的自由」。 社会がどうなろうが、隣人が飢えようが知ったことではない。自分のしたことの結果は自分で引き受ける(自己責任)。 これはある種、究極の「性善説」あるいは「楽観論」に基づいている。 アダム・スミスが言った「神の見えざる手」だ。 「みんなが好き勝手に金儲けすれば、神様が上手いこと調整してくれて、結果的に社会は豊かになるだろう」 ……なんとも能天気で、しかし強靭な思想ではないか。
三、お節介な「リベラル」の登場
これに対し、現代の**「リベラル」**はどうか。 彼らはロビンソン・クルーソーを許さない。 「お前が一人で自由にやることで、傷つく人がいる」「格差が生まれる」「環境に悪い」と言って、島に管理事務所を作りたがる。
**現代的リベラリズム=「修正主義」である。 彼らは「神の見えざる手」など信じていない。放っておけば強者が弱者を食い物にする「性悪説」が前提だ。 だから、「誰かの自由を守るために、お前の自由を規制する」**という論理になる。 これはもう自由主義ではない。「分配」という名の社会主義的介入だ。 ここに経済学的な「ゲーム理論」や「最適化」の発想が混じるからややこしい。 「万人の自由」ではなく、「全体の幸福量を最大化するための自由の配給制」。 それが現代のリベラルの正体だ。
だから話が噛み合わない。 古典派は「俺の邪魔をするな」と言い、現代派は「お前の為にしてやってるんだ」と言う。 この同床異夢が、世界中で起きている「分断」の正体だ。
四、思想なき「グダグダ」の時代
かつての新左翼には、まだ「暴力の美学」があった。 革命のためなら交番も襲うという、狂ってはいるが筋の通った論理があった。 しかし今の「リベラル」には、それがない。 BLMだのSDGsだのポリコレだの、スローガンは威勢がいいが、その中身は「なんとなく良いこと」のパッチワークだ。 理論的骨格のない正義は、ただの感情的なヒステリーになり下がる。
新自由主義(これは古典的リベラリズムの鬼っ子だ)が世界を焼き畑にした後で、対抗馬のリベラルもまた、理論なき感情論で社会を混乱させている。 アメリカの若者が社会主義に憧れるのも無理はない。彼らは「自由」に疲れ、「公正な分配」という名の新しい権威を求めているのだから。
五、日本という「ガラパゴス」の勝算
そこで、我らが日本である。 「失われた30年」と人は言う。 確かに、新自由主義の波に乗り切れず、金融資本(カネ)も人的資本(若者)も増やせなかった。経済的には「負け組」に見える。
だが、**「資本のポートフォリオ(資産の組み合わせ)」という視点で見たらどうだ? 欧米が「経済成長」という麻薬のために、「社会の治安」や「共同体の信頼」という大事な資本を切り売りしてしまった横で、日本は何をしていたか。 我々は、経済成長を犠牲にして、「社会関係資本(治安・信頼)」と「文化資本(アニメ・食・清潔)」**を、ガラパゴスの殻の中でじっくりと醸成していたのではないか。
これはいわば、30年かけた巨大な「仕込み(インキュベーション)」だ。 世界中が分断と暴力に怯える今、日本に残された「夜道を一人で歩ける自由」や「財布が戻ってくる社会」、そして「変態的に磨き上げられたオタク文化」は、金では買えない希少な資産(キャピタル)として輝き始めている。
古典的リベラリズムの「野蛮な活力」も、現代的リベラルの「管理された平等」も、どちらも行き詰まった。 その先にあるのは、もしかしたら、日本が意図せず守り抜いた**「古くて新しい資本主義」**——信頼と文化をベースにした、泥臭くも温かいポートフォリオなのかもしれない。
群盲、象を撫でる。 目が見えるようになった時、そこに立っていたのは「衰退した日本」ではなく、「次の時代のOSを準備し終えた日本」だった——そんな皮肉な結末も、あながち夢物語ではないだろう。
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