リアリズムが分かれば哲学が分かる、リアリズムとイデオロギーと実在論の三角関係
リアリズムというと日本では2つの意味を持ちます。
そして意味ごとに言葉が違います。
一つは普通のリアリズム。
「リアリティーがある」「リアルだ」みたいなのはこのリアリズムです。
もう一つは実在論です。
中世神学の普遍論争の唯名論に対するもう一方の立場です。
そのせいか実在論は哲学の分野で使われます。
というか哲学の分野でしか使われません。
・実在論は非リアリズムと親和性があった?
実在論は事物が実在するという考え方です。
別に普通の生活をしている分にはこれが普通の考え方です。
実在論と唯名論の論争みたいな持って回った問題は生じません。
すくなくとも日本では。
論争自体をなぜするのかなぜそれが大きな問題になるかは分かりにくいです。
唯名論は唯名論で言われてみれば「そういう考え方もあるんだな」とそれなりに理解できます。
ただどちらかというと唯名論の方が持って回った考え方のように見えます。
わざわざ持って回った考え方を持ち出して持って回った論争をする意味が分からないのが普通の日本人ではないでしょうか。
これは西洋思想やキリスト教があるかどうかわからないもの、あるかどうかを実証も立証もできないものを「ある」「実在する」「実在するかもしれない」と細かく考えなければいけなかったことに起因します。
例えば「神」の存在です。
これは日本では、少なくとも非キリスト教などでは相当にどうでもいい問題です。
普通の日本人の普段の日常で「神の実在」の議論をするのは非日常的ですし、する場合は知的なゲーム、哲学的な問題を考える特別な時(学校の社会科の授業など)か何かてんぱっているときで、誰かが神は実在するか、とか言い出したらやばいのではとか厨二病でも発症したかとか何か困っていることがあっててんぱっているのではと心配されるような感じになります。
問題は問題としなければ問題にならないものですし、ふつう日本ではそういうことを問題にしませんし、問題にする意味とか必要性がないというか、不必要でした。
他方で西洋では存在するか分からないもの、日本人にとってはどっちでも好きにしてくれよと言ってリソースを割かれない、「なぜそんなにどうでもいい、あるいは考えても仕方がないことを考えんとあかんのだ」と日本人に思われそうなことを問題にする必要がありました。
キリスト教でもギリシア思想でもあるかどうかわからないもの、あってもなくてもどっちでもいいものを問題にしなければならないような仕組みになっています。
この「あるかないか」より「歩かないかを問題にしないといけない仕組み」の方を研究しだしたのがどちらかというと唯名論でその子孫のイギリス経験論で後年のニーチェの哲学だったり構造主義だったりと西洋思想史の一つの流れを作ります。
・聖書と神が強かった
聖書やキリスト教は誤解を恐れず分かりやすく言うとないものをあると主張する考え方です。
もっと冗長だけど厳密に言えば「あるかどうかわからない」ものを「ある」と主張し続けないといけない構造を持っています。
一番分かりやすいのはやはり神様で神様がほんとに存在するかどうかは分かりません。
それが簡単に分かって神様にいつでも会ったり話したりできるような存在であればそれもそれで「そんなものは神様ではない」と何を言っても突っ込まれるという機嫌の悪い時やさかった時の猫みたいなことになります。
全方向地雷みたいな感じです。
「イエスは神ではなく人間だ」みたいな隠れアリウス派だったニュートンみたいに言ってしまえば簡単です。
余計なことを考えないという点でまさにオッカムのカミソリです。
でも「イエスはただの人間ではなく、かといって神そのものではない」みたいなのが正統になったので三位一体説がでてきて、普通の日本人にはただでさえ不自然でどうでもよく感じられることにさらに訳の分からない理屈を畳みかけられるので、分からない×(+でもいい)分からない、でもはやついていけなくなります。
理解するにはそれこそオッカムのカミソリで切り捨ててしま隊ようなややこしい理屈をわかる必要があり分かったところで納得もできず「なんでこんなことしてるんやろ、時間の無駄ではないか」とむなしくなります。
この「神がいる」と言い張る主張を実在論(リアリズム)と言います。
これは我々現代日本人が「リアリズム」というものと全く真逆です。
我々はないもの、あるいはあるかどうかわからないもの、そしてそれがあるという感覚的手がかりすらないものをあると主張することをリアリズムと呼びません。
むしろそういうスタンスは非リアリズム的と考えたり感じたりします。
リアリズムという言葉を全く反対の意味で使うという状態になります。
そこで日本ではリアリズムという言葉を2つで分けて名前も変えて使っています。
一つは我々が常日頃使う実在論です。
「リアルだ」「リアリティのある映画」「ヴァーチャルリアリティ」という言葉はこちらの意味で使われます。
本当のことであったり本当っぽさみたいな感じだったりを表します。
・一方でもう一つのリアリズム(実在論)の方は…
そもそも聖書を読めばわかると思いますが神の存在など一切感じられず他の宗教を信仰する一般民衆とそれをなんとか今でいうユダヤ教を進行させようとするエリートの中でも特に一部のエリートの歴史と言えます。
そのエリートでさえ神のことを感じたような人はほぼいない感じです。
エリート層というか上層階級ならユダヤ教重視ということは全然なく王様がユダヤ教を離れてユダヤ教派のエリートがその王を糾弾するということの繰り返しです。
そういうユダヤ教のエリートの系譜の人々の文書を後世のユダヤ教の立場の人が編纂したり新たに作って付け加えたのが現在の聖書ですので神やらユダヤ教を信じなかったり他の宗教を信じる民にたいする糾弾書のような趣になります。
聖書を読むと神の存在を本当に感じたことがある人は数えるほどしかいません。
モーゼみたいに神と直接契約を結べる人もいますしヤコブのように神と取っ組み合いをする人もいますがそういうのはどちらかというと聖書の中でも伝説級に古い層になります。
時代が下ると神の声を預かる人の時代になり、予言者といわれて言い神の言葉を聞いたと主張しますがそれもすんなり世の中に通るわけではありません。
普通に考えて「自分は神の声を聴いて神の言葉を預かった」とでも言おうものなら「ほんまかいな」となるはずです。
エリヤもエレミヤも予言者ですが結構ひどい目に合っています。
申命典改革でしっかりした聖書が編纂されて、バビロン捕囚後エズラとネヘミヤの改革で民衆が聖書を大切にするラビユダヤ教徒いうのが成立すると庶民は信心深くなりますが代わりに予言者が出てこない時代になります。
そういう時代にガリラヤのような過激派が跋扈する辺境から我こそが正しいみたいな感じでイエスが現れラビユダヤ教を糾弾するのでラビユダヤ教の主流のファリサイ派を攻撃し始めたわけですからそれは騒ぎにもなろうともいうというものです。
しかもイエス自信が行ったかどうか分かりませんが「イエスは預言者としてふるまっているのではないか」という疑いを抱かせますし、イエスに感化された人々はイエスを予言者と見なした人も多かったです。
ただ予言者たちの時代ですら「自分は神の声を聴いた」といっても相手にされずに場合によってはひどい目にあっていたのに、予言者が全く現れなくなって数百年もしてから「自分は預言者だ」と言っているように見える人が現れたら「はぁ?」となる人も多かったと思われます。
文字通り「イエス、神だぜ」までつけぬけてしまった人もイエス存命中は知りませんが後世には現れ多数派になり最後はローマ皇帝だか教会や恐慌にも認められ「イエスは神」ということになります。
念のためはっきり書いておくと私はイエスが神ではないとは言っていませんのであしからず。
こういったことは現在ではナラティブといったりイデオロギーという文脈で読み解かれることが多いです。
近代の実証主義的世界観とやや対立する面があります。
実証主義的な科学や近代主義もリアルを追求します。
他方で協会の聖職者たちも神こそがリアリズムと主張します。
リアルやリアリズムがある程度分裂してしまうのは仕方がなかったのかもしれません。
日本ではそういった中で西洋文化を取り入れました。
リアリズムを2つの言葉と概念に分けてしまうのはある程度自然であり、結構ナイスなやり方だったかもしれません。
・キリスト教だけでなく他のことも実在論を前提としている
リアルは言い換えれば現実で、現実というものがいろいろあるとしても仮に外部環境を現実というのなら、人は現実なしに生きることはないでしょう。
人間はいつでも外部環境と相互交流しています。
仮に外部がなかったらと考えるのは思考実験としてはあり得ますが現実にはあり得ません。
現実感というのは人間の心理発達の子供時代には成立してくるものというのが発達心理学の見方です。
自然に身に着けてしまうので人間は自然に現実主義的な面が何らかの形であります。
現実主義的、言い換えれば実在論的です。
リアリズム的とかリアリストとか言ってもいいのかもしれませんが話を整理するために実在論的としておきましょう。
我々の普通の感覚でリアリズム的とかリアリストとか言うと生き方やその場の処世におけるスタンスやスタイルの話になってしまいます。
実在論は神学や哲学の言葉ですからより論理的、ロジカルというよりはよりロゴスティックでイデアティック、イデア的、ロゴス的、哲学的、理論的な言葉です。
イデアとはアイデアの意味でもありますし、観念的とか理想主義的とかそういう意味を持ちます。
イデオロギーとイデアのロゴスで思想、宗教、理論何でもいいですがそういうものを観念的にとらえなおしたものです。
イデオロギーは知らない間に実在論が紛れ込んでいることが多いです。
我々は自然に、だからこと無意識的に外部環境、外界の影響を受け外界の存在を信じてしまっていて外界と交流しているので我々の精神の作られ方に実在論的な要素があるのはまあ当たり前といえば当たり前です。
それはそれでいいのですが問題は無自覚さにあります。
あまりに自然、当然、当たり前、常識、通念的といったものはメタ認知的に自覚することが困難な場合があります。
我々が数や母国語を自然に使って自覚がないのと一緒です。
逆に英語の学習に苦労すれば自覚やメタ認知を得る機会となりえます。
・イデオロギーは現実離れすることがある、しかも現実離れすることが多い
普通のイデオロギーには実在論が知らないうちに含まれています。
近代以前の全てのイデオロギーの土台が実在論と言ってもいいかもしれません。
イデオロギーに実在論が含まれるのはイデオロギーの必要条件みたいなものです。
ただし現代、ぽすと近代のじだいになるとポストモダンとか構造主義とかポスト構造主義がそのことに気付いて批判し始めます。
まあ学問の場とか教会の中でとかそういう世の中から離れたところでそういう議論をしているのは世間に大きな歪みを生みません。
ただイデオロギーが源氏巣社会というか世間の中に進出してきた影響を与えようとすると大きな歪みをもたらすことがあります。
イデオロギーは世俗や俗世、現実や社会の中で正義や真理や真実を主張する傾向があります。
そのイデオロギーこそが実在だという感じです。
言い換えるとそのイデオロギーこそがリアリズムだという感じになります。
他方でイデオロギーというのは現実離れしたところがあります。
現実離れということはリアリティーがない、リアルでない、リアリズムでないということです。
他方でイデオロギーの基礎は実在論です。
何かが確実である、何か確実なものがあるというのがイデオロギーの基礎です。
しかしその何かの実在性や確実性が誰にも感覚では感じられないし実証も立証も困難です。
これを司馬遼太郎という作家が「金平糖」といいました。
金平糖は仲が空で空洞でスペースがあります。
熱心なクリスチャンがこれを聞けば「金平糖はおまえらやないか」と日本人の非クリスチャンの司馬遼太郎に怒ったり叱ったりすることがあるかもしれません。
ただ普通の日本人にはこの金平糖の空っぽな部分に神が実在するという主張がよく分かりません。
実際に神がいればそれはそうだなということになりそうです。
ただ逆に金平糖を砕いて中から神様が出てきたらそれはそれで熱心なクリスチャンも起こるかもしれません。
なんか怒ってばかりな人ということになりますが、神とはあったり見たりできるような存在ではありません。
「見たら死ぬ」とも言われます。
聖書の中でも声くらいは聴いても神を見たりあったりした例はこれは片手で数えられる程度です。
それも厳密な意味でというか、ヨブ記のようなお話も混じっていますし、詳細に検証すると会ったとか見たとか言えるか曖昧なことが殆どです。
簡単に合えたり見えたりする物質的で現実的で世俗的なものは神ではないと主張するかもしれません。
神とはもっと超越的なものということになっています。
昔からそうではなかったと思います。
神話や伝説の時代はもっと簡単に在ったり感じたりできたかもしれません。
ただ聖書学の研究によると聖書の神概念というのは週刊少年漫画のバトルものみたいな感じにインフレの歴史とも言えます。
どんどん超越さ、偉大さがインフレしていく感じです。
だから新しい時代にイエスみたいなのが出てくると怒るわけです。
予言者も神もそんなに簡単に表れるものではない、といった感じです。
そもそも現れたら神ではないかもしれません。
現れないから神みたいなところがあります。
臨在感というか存在を感じさせることはあるかもしれませんが感じると言っても視角で見たり触ったりするのは難しいイメージです。
せいぜい静かなる過疎聞こえが聞こえるか自然現象で天変地異を起こす形で存在をにおわす感じです。
真打は簡単には御開帳しません。
日本の古寺の秘仏と同じです。
三種の神器を天皇陛下すら見たことがないのとも似ているかもしれません。
でもリアリティでありリアリズム、というよりは実在して実在論です。
ここでそういう感じられず目で見えず触れずなものにリアリティとかリアルとかリアリズムという言葉を与えるのはなんかちょっと違う感じです。
というわけでヨーロッパでは1つの言葉が日本では実在論とリアリズムという2つの言葉に分かれたのかもしれません。
しかも意味が反対です。
リアリズムやリアリティというとイデオロギーの天敵みたいなところがあります。
イデオロギーの弱点は数学でいう反例です。
反証やそのイデオロギーに合わない事実や現実に極端に弱い所があります。
でもイデオロギーの中核、OS、むしろ物理層ともいえるハードウェアは実在論で出来ています。
そして実在論とリアリズムは反対の意味の言葉ですが西洋語に訳すとどっちも同じ言葉、ということになります。
三すくみやじゃんけん程すっきりした構図ではありませんが不思議な三角関係をなしています。
非対称的な三角形ということで男女の三角関係の比喩があうかもしれません。
・・・不謹慎でしたか。
すみません・・・。
しかし構造的にはそういうことになります。
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