2026年1月16日金曜日

中道とは「真ん中」ではない 中道は妥協ではなく設計である 二項対立をほどく技法としての中道

 

中道とは「真ん中」ではない 中道は妥協ではなく設計である 二項対立をほどく技法としての中道

 

「中道改革連合」だの「高市政権」だの「参政党の位置」だの、政局の看板が一斉に立ち上がると、世の中は左右の物差しを握り直します。右か左か、与党か野党か、改革か守旧か。けれど、その握り直しこそが、いちばん中道から遠い。仏教の中道は「右と左の真ん中に立つ」話ではなく、右と左を作ってしまう思考の癖をほどく作法だからだ。

政治の「中道」は、現実的には妥協の技術である。連立を組み、政策の角を丸め、支持層の違いを調整する。公明が得意としてきたのは、その意味での中道だろう。一方で「改革」は、制度の配管を引き直す言葉だ。立憲がそこを掲げるなら、名前としては「中道+改革」は一応の整合を持つ。だが、ここで注意したい。政治用語としての中道は、しばしば「当たり障りのない場所」に退避する口実にもなる。争点を避け、責任を薄め、どちらにも顔を立てる。その真ん中は、実は中道ではなく、単なる中間色にすぎない。

仏教の中道は違う。二項対立に乗らないことは、逃げではなく、認識の精度を上げることだ。天台の三諦論(空・仮・中)で言えば、空は「固定した実体などない」と見る視点、仮は「とはいえ現象は因縁により確かに立ち上がっている」と見る視点、中は「空と仮を同時に成立させて扱う」視点である。中は真ん中ではなく、両方を同時に引き受ける高度な構えだ。現代哲学の言葉で言い換えるなら、単純な二値論理をいったん止めて、枠組みそのものを点検するメタレベルの思考に近い。対立する言説を「どちらが正しいか」で殴り合う前に、「その正しさは何を前提にしているか」を問う。中道は、世界観のOS更新である。

この観点から眺めると、高市政権が「現実主義」や「安全保障」や「国家のかたち」を強く打ち出すほど、対抗側もまた「立憲」「福祉」「権利」を強調して二項対立が強化される。参政党の伸長が「既存の枠」そのものへの反発として現れるほど、言葉はさらに極端に振れる。ここで必要なのは、ど真ん中に立ってニコニコすることではない。むしろ、争点をとして相対化し、として具体に落とし直し、その両方を抱えたままとして設計することだ。例えば「生活が苦しい」という仮を、税制・賃金・社会保障・地域経済という配管図にまで落として議論できるか。同時に「国家が危うい」という仮を、抑止・外交・産業・人口という時間軸の設計にまで落として語れるか。どちらか一方を正義として神格化した瞬間、政治は宗教化し、宗教は政治化し、言葉は刃物になる。

だからこそ、いま「中道」という看板が掲げられたこと自体は悪くない。看板は入口で、本体はこれから問われる。中道が「事なかれ」の免罪符になるのか、それとも「二項対立を超えて設計する力」になるのか。仏教の中道が教えるのは、真ん中に逃げるのではなく、両極の現実を同時に引き受けて、現実を組み直すという覚悟だ。政治の季節が荒れるほど、中道は温度ではなく技法として必要になる。今こそ、言葉の中道を、思考の中道に変えるときである。

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