レヴィナスと大谷翔平 ――「アテネの理性」と「エルサレムの身体」
はじめに:なぜ大谷翔平は「刺さる」のか
大谷翔平選手がアメリカで引き起こしている熱狂は、単に「野球が上手い」という次元を超えているように見えます。 もちろん、彼のパフォーマンスは野球史上最高です。しかし、それは必要条件であっても十分条件ではありません。彼がアメリカ人の、いや世界中の人々の魂の深い部分に触れているのは、その**「在り方(存在の仕方)」**にあるのではないでしょうか。
この現象を読み解くために、少し意外な補助線を引いてみたいと思います。エマニュエル・レヴィナス。リトアニア出身のユダヤ系フランス哲学者です。 彼の哲学、特に「アテネ(西洋的理性)」と「エルサレム(ヘブライ的伝統)」の対比という視点を借りると、大谷翔平という存在がなぜこれほどまでに現代人の心を揺さぶるのか、その正体が見えてきます。
レヴィナスの視点:アテネの「知」とエルサレムの「行」
レヴィナスは、現象学の系譜にありながら、師であるハイデガーの「存在論」を批判的に乗り越えようとした哲学者です。ハイデガーが「存在とは何か」を問うたのに対し、レヴィナスは「他者への責任」こそが第一であると説きました(第一哲学としての倫理)。
ここで重要なのが、彼が用いる**「アテネ」と「エルサレム」**という二つの思考様式の対比です。
アテネ(西洋的理性): 「なぜ?」と問い、世界を理解し、把握しようとする姿勢です。ここでは「自由」や「主体性」が重視されます。納得してから行動する、理屈が通ってから動く。これが近代以降の私たちの「当たり前」です。
エルサレム(ヘブライ的伝統): こちらは「問い」よりも先に「応答」があります。ユダヤ教には「ナアセ・ベニシュマ(我々は為す、そして聞く)」という言葉があります。理屈で納得する前に、まず戒律(律法)を実践する。そこに「なぜ?」という問いを挟む前に、絶対的な命令や他者からの呼びかけに応答する姿勢です。
現代社会、特に西洋的な価値観では、「アテネ」的な生き方――自分で考え、自分で決め、納得して行動すること――が善とされています。しかし、レヴィナスはあえて「エルサレム」的な在り方、つまり主体的であることよりも、何かに受動的に「捕らえられている」ことの尊さを示唆しました。
「律法」としての野球
ここで大谷選手に話を戻しましょう。 彼を見ていると、現代人が失いつつある「エルサレム」的な身体性を強く感じます。
彼にとっての野球は、単なるスポーツや職業ではありません。それはレヴィナスの文脈における**「律法」**そのものに見えます。 「なぜ野球をやるのか?」「自分にとって野球とは何か?」といった「アテネ」的な問いを挟む隙間がないほど、彼は野球という「律法」に全存在を浸しています。食事も、睡眠も、トレーニングも、すべてがその「律法」を遵守するために捧げられています。
西洋的(アテネ的)な視点で見れば、それは「ストイックすぎる」「禁欲的だ」と映るかもしれません。しかし、エルサレム的な視点で見れば、それは苦行ではなく、**「召命(ベルーフ)」**に応答し続けている姿なのです。そこに「なぜ」という迷いはなく、ただ「山があるから登る」登山家のように、あるいは「そこに律法があるから守る」敬虔なユダヤ人のように、彼はただ「為して」います。
アメリカの「空洞」を埋める聖人性
この大谷選手の姿が、なぜキリスト教国であるアメリカでこれほど強烈に「刺さる」のでしょうか。
アメリカは建前上、政教分離の世俗国家ですが、その精神的土壌には深くキリスト教(特にプロテスタント)の倫理が根付いています。勤勉、節制、神への献身。これらはかつてアメリカ人が理想とした美徳でした。 しかし現代社会は複雑化し、信仰と生活の間には大きなグレーゾーンが広がっています。「敬虔でありたい」と願いつつも、世俗の欲や資本主義の論理に流されてしまう。そんな葛藤を抱える人々も多いでしょう。
そこに現れたのが、大谷翔平です。 彼はキリスト教徒ではありません。しかし、彼の野球に対する姿勢は、アメリカ人が心の奥底で理想とする**「聖人(セイント)」や「求道者」**のアーキタイプ(原型)と完全に重なったのです。
「野球」という神に対して、一切の不純物なく、24時間365日を捧げる姿。グレーゾーンもブラックゾーンもない、純度100%の献身。 それは、かつての修道士や聖職者たちが目指した境地を、野球という世俗のフィールドで体現してしまっているように見えます。観客たちは、彼のプレーだけでなく、その**「生活そのものの美しさ」**に、宗教的な畏敬の念(Awe)を抱いているのです。
結論:「自由」に疲れた現代人への救い
レヴィナスの哲学が示唆するように、人間にとって「自由」や「主体性」だけが全てではありません。 現代人は「自由に生きろ」「自分で考えろ」という圧力に、実は少し疲れているのかもしれません。「なぜ?」と問い続けることは、時に生を重くし、足を止めさせます。
大谷選手の姿は、私たちに別の可能性を提示しています。 それは、理屈や理由付け(アテネ)を超えて、自分に与えられた使命や役割(エルサレム)にただひたすらに没頭することの美しさと強さです。
「思考停止」ではありません。思考よりも先に、身体が、魂が、何かに応答している状態。 私たちもまた、日々の仕事や子育て、生活の中で、知らず知らずのうちに何かの「律法」を守り、誰かのために「為して」います。それにいちいち「なぜ?」と理由をつけなくていい。ただ道があるから進む。 大谷翔平という稀有な存在を通じて、私たちはそんな「アテネの理性」から解き放たれた、シンプルで力強い「エルサレムの身体」の輝きを再発見しているのかもしれません。
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