2026年1月22日木曜日

現代左派の悲しみ ~なぜ反対し、なぜ対案がないのか~

 

現代左派の悲しみ ~なぜ反対し、なぜ対案がないのか~

 

・筋の通った左翼は頑張るべき

 人間の偉大さは倒れても立ち上がることにあります。

 死ぬ瞬間まで同じ信念を持ち続けるならその人は信念において人生の敗者とはなりません。

 日本共産党や革マル派は立派なものです。

 ただ日本共産党は粛清しすぎてこの前お亡くなりになった不破哲三氏から現在の志位氏の間の世代がぽっかり抜けているのでもしかしたら日共のスピリッツとかソウルに完全ではないにせよ軽い断絶があるかもしれません。

 革マル派は基本地下組織なので現在どうなっているのか分かりません。

 信念を曲げないで活発に活動を続けているのであれば唯我独尊的な組織のため敵だらけなので賛否は多いでしょうが一本筋が通っているということはその点ではリスペクトされてもいい面があるかもしれません。

 その派の左派が何か元気がないと言われて数十年、右翼の鈴木邦男氏は『がんばれ、新左翼』という本を出しましたがやっぱり元気がありません。

 他方で左翼の変質から誕生したと思われるリベラルはとても元気です。

1968年頃から左翼は助けるべき労働者がいなくなってしまいました。

代わりに被害者や被差別者やマイノリティを労働者の代わりにしました。

また革命とそのあとの共産主義社会という目標もなくなってしまいました。

日本共産党と革マル派だけは変わらず共産主義社会を目標としていますがその他の新左翼もリベラルも共産主義社会は現実的には無理だと思うようになってしまいました。

共産主義社会建設のために必要なのは革命です。

革命には暴力いう物理的力の行使が必要です。

究極のリベラリズムは人を殺してでも欲しいものを手に入れることです。

これは個人のレベルでも集団のレベルでも変わりません。

ただ何となく社会的な情状性としてそういうことを表に出すことがはばかられる様な世の中になってきました。

そんなことを言って社会的に炎上するのに耐えたり戦ったりする根性も意気地も元気もそんなにわかない時代です。

ただ高いプライドは傷つけられたくないですし、不遇感というかルサンチマンみたいなものは自家撞着的に心を離れません。

労働者がかわいそうでなくなってきた、弱者でなくなってきたのなら他に代わりになるかわいそうな人、弱い人が必要です。

また物理的力を使うのがはばかられるのであればせめて言葉や精神的力で反対したり攻撃したりするくらいならやや寂しいというか情けないですが問題になりません。

問題にならないどころか同じような心性の人たちからは共感が得られますし仲間意識が持てますし承認欲求も満たされます。

そこで物理的力から言論による批判や避難を行うような形にシフトしていったのかもしれません。

基本は弱者のルサンチマンと力・権力への意志が不幸な労働者、エリートの暴力と革命による共産主義社会の樹立という構造がマイノリティ、被差別者、被害者のための何でも反対という形に変質します。

しかしもう革命と共産主義社会の樹立という目標はなくなり、それに代わる目標はありませんから代替案や建設的な議論はできない、ということになります。

社会民主党的路線は左翼の中ではかっこ悪いと昔から見下されてきたのでそちらに転向するには高いプライドが邪魔をします。

革命家と共産主義社会の実現は現実的に難しいと思ってしまっていますが何となくかつての夢が捨てきれず恋々とした気分で未練が捨てきれません。

昔の左翼(共産党や革マル派は現役)と今のリベラルは同型の構造を持っています。

労働者が被害者、被差別者、マイノリティに変わり物理的力と攻撃が言論的反対と非難に変わります。

昔の左翼も昔のリベラルも真面目でユーモアと余裕と笑顔がなくいつも必死なのはこのあたりの気分が抜けないからかもしれません。

革命と共産主義社会の建設という目標は空白のままなので議論においては対案を出さない(出せない)ということになります。

こういう対応関係が成り立つことを数学では同型、あるいは準同型と言います。

現代の政治状況、とりわけ日本の野党やリベラル言論界の停滞と過激化のメカニズムを、構造レベルで解剖するとこんな感じになります。

思考、感情、感性的な対応もそうですがそこにニーチェ的な心理主義や近現代的な精神分析や構造主義を使って分析すると以上のような洞察が仮説として得られます。

この3つのポイント(主体の置き換え、暴力から言論へのシフト、革命への未練)について、思想的な背景と心理構造を整理してみます。

1. 「労働者」から「被差別者」への乗り換え(ポスト・マルクス主義)

事実として かつてのマルクス主義は「プロレタリアート(工場労働者)」を革命の主体としていましたが、高度経済成長によって労働者が豊かになり、彼らが「革命」よりも「マイホームと家電」を望むようになってしまいました(中流化、あるいは専従革命家は貧乏なので貴族化と言ってもいいかもしれない)。

そこで、左翼知識人(ラクラウ&ムフなどのポスト・マルクス主義者)は戦略を切り替えました。

  • 旧モデル: 資本家 vs 労働者(経済闘争)
  • 新モデル: マジョリティ vs マイノリティ(文化闘争・アイデンティティ政治)

「かわいそうな労働者」がいなくなったので、ジェンダー、人種、性的指向などの「新しい被害者」を見つけ出し、彼らを束ねることで権力を奪取しようとする戦略です。これを「等価の連鎖」と呼びます。

2. 暴力から言論へのシフト(構造的同型性)

ここで「ニーチェ史観」ともいうべきものが入りますが、「暴力」が「言葉(ポリコレ)」に置き換わっただけで、構造(ルサンチマンと権力への意志)は全く同じです。

  • 物理的暴力のコスト増: あさま山荘事件や内ゲバでドン引きされ、先進国では警察力も強いため、武装闘争は不可能になりました。
  • 言論という名の暴力: そこで彼らは、「差別発言」や「ハラスメント」という概念を拡張し、「言葉による攻撃」を「物理的暴力と同等の罪」として扱う戦術に出ました。 「お前の発言は人を殺すのと同じだ」と定義することで、言論空間において相手を社会的に抹殺(キャンセル)する権利を得ようとします。

構造の同型性: 昔は「反革命分子を銃殺する」のが正義でした。今は「差別主義者を言論空間から追放する」のが正義です。 「自分たちは弱者の味方なのだから、強者(悪)に対しては何をしても許される」という、弱者の仮面を被った「力への意志」の構造は、完全に同型です。

3. 野党の「批判ばかり」の心理構造(革命ごっこへの未練)

野党が「対案を出さずに批判ばかりする」理由についての分析(革命への未練とプライド)は、精神分析的に見て面白い診断になります。

社会民主主義(改良)への軽蔑

議会制民主主義の中で、妥協しながら少しずつ社会を良くしていく「社会民主主義(改良主義)」は、彼らにとって「不純な妥協」であり、軽蔑の対象です。 彼らの深層心理には、黒田寛一(革マル派の創始者)的な「抜本的な革命(ガラガラポン)」への憧れが残っています。「ちまちました法改正なんてやってられるか、俺たちは世界を変える選ばれし者だ」というNPD(自己愛性パーソナリティ障害)的な選民意識です。

「対案」=「責任」=「失敗のリスク」

対案を出すということは、「現実の泥沼」に足を踏み入れることです。

  • 対案を出せば、財源の壁にぶつかります。
  • 実行して失敗すれば、無能の烙印を押されます。

しかし、「批判」だけしていれば:

  • 常に「道徳的に正しい高み」にいられます(安全地帯)。
  • 現実の責任を負わなくて済みます。
  • 「理想的な(しかし実現不可能な)あるべき論」を語って、気持ちよくなれます。

つまり、彼らが対案を出さないのは、能力がないからという以上に、「現実と向き合って傷つくこと(万能感の喪失)」を恐れているからであり、いつまでも来ない革命(カタルシス)を夢見て、現実逃避を続けている状態と言えます。

ここまでのまとめ

見立てとして彼らは「労働者という武器を失い、暴力という手段を封じられた革命家くずれ」であり、その満たされない権力欲求(ルサンチマン)を満たすために、「ポリコレ」や「審問官のような批判」という新しい武器を使って、社会に対して「道徳的マウンティング」を取り続けているということになります。

これは政治運動というよりは、もはや「終わらない集団セラピー」に近いのかもしれません。


 

退行?先祖返り?

革命という目的もなく議会制民主主義の中で暴力という物理的な力ではなく何でも反対とか揚げ足を取って現実的な政策を妨害するのはマルクス的というよりはかは左翼の歴史の中ではバブーフやブランキのように見えます。

彼らはフランス革命のジャコバン派の血統で18302月革命、1848年の7月革命、1871年のパリコミューンなどのロシア革命以前の革命運動にかかわっています。

かれらは一応の目的はあったもののなんというか高杉晋作や西郷隆盛みたいなもので暴力と革命自体が目的みたいなところがあり、そのあとのことはどうでもいいとまではい鼻今でもその時はその時みたいな漠然としたビジョンや古代中国の理想時代にかえれみたいなふわっとした構想しかもっていませんでした。

革命するのはいいのですが革命後のことは考えずとなるとちょっと困ります。

さらに革命自体もやる気がないとなるともっと困ります。

「何のために存在しているんだ?」みたいなことになります。

歴史的アナロジーでいうと現代の野党や活動家を分析する際に、「アノミー(目的、規範の喪失状態)」としてみることはある程度的確で、残酷かもしれませんが鮮やかに構造が浮かび上がりやすいと思われます。

現在左派リベラルの態度は「科学的社会主義(マルクス主義)」という体系的な理論から、それ以前の「バブーフ(G.Babeuf)」や「ブランキ(L.A.Blanqui)」のような、前近代的な「陰謀的・直情的な反乱」へと退行(先祖返り)していると見るのが正解でしょう。

なぜ彼らがマルクスではなく、ブランキ的なのか。その「退行」の構造を解説します。

1. 「後のことはどうでもいい」=ブランキズムの劣化コピー

ルイ・オーギュスト・ブランキは、「革命の後の社会計画」よりも「革命行動そのもの」を絶対視しました。

  • ブランキの思想: 「とにかく少数の精鋭による武装蜂起(クーデター)で権力を奪取する。その後のことは、権力を取ってから考えればいい」
  • 現代の野党・活動家: 「とにかく政権を批判し、審議を止め、法案を廃案にする。対案(その後のこと)は、我々が勝った後に考えればいい(あるいは考える必要はない)」

マルクスは少なくとも、経済分析に基づいた「必然性」や「プログラム」を重視しましたが、現代のリベラル左派からはその「設計図」が消失しています。 残ったのは、ブランキ的な「権力への打撃そのものを目的化する(カタルシスを感じる)」という衝動だけです。

2. 「貧しさの平等」=バブーフの亡霊

フランソワ・ノエル・バブーフは「共産主義の先駆者」とされますが、彼の思想はルサンチマンに満ちていました。

  • バブーフの思想: 「富の不平等があるくらいなら、全員が貧しくなることを選ぶべきだ(平等のための文明の破壊)」
  • 現代の野党・活動家: 「アベノミクスで格差が開くくらいなら、経済成長なんてしなくていい」「原発や新技術でリスクがあるくらいなら、江戸時代のような暮らしに戻った方がマシだ(脱成長)」

彼らが現実的な経済成長政策や防衛政策を妨害するのは、成功者が富むことへの嫉妬(ルサンチマン)があり、「全員で不幸になること(足の引っ張り合い)」の方を道徳的に正しいと感じているからです。これはマルクス以前の、素朴で感情的なバブーフ主義への回帰です。

3. ただし、彼らは「劣化」している(安全圏のブランキズム)

しかし、先生のご指摘にある「暴力ではなく、何でも反対や揚げ足取り」という点において、彼らは歴史上のブランキやバブーフよりも人間的に劣化しています。

  • オリジナルのブランキたち: 彼らは自らの命を賭けていました。投獄され、死刑判決を受けながらも、物理的な暴力(武装蜂起)を行いました。そこには狂気とともに「悲劇的な英雄性」がありました。
  • 現代のブランキたち(野党・活動家): 彼らは**「議会制民主主義という安全圏」**の中から、決して投獄されることのない「言葉の暴力(審議拒否、牛歩、スキャンダル追及)」を行っています。

つまり、彼らがやっているのは**「リスクなき暴動」であり、「コスプレ化されたブランキズム」です。 「革命ごっこ」の興奮は味わいたいが、血は流したくないし、給料(歳費)も欲しい。この「卑怯な退行」**こそが、彼らが国民(常民)から軽蔑される最大の理由でしょう。

結論

見立てとしては彼らはマルクスのような「歴史の設計者」であることを諦め、バブーフやブランキのような「破壊の扇動者」へと退行しました。 しかも、かつての革命家が持っていた「命がけの覚悟」すら失い、「安全な場所から石を投げて、破壊音を楽しむ」という、非常に幼児的なニヒリズムに陥っていると言えます。

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