構造主義による仏教の構造化:仏教3.0/neo-buddhism/現代仏教
・仏教の教義と仏教教団と各宗派の歴史が作った構造
仏教全体を構造化してイメージで表すと中心から枝が分岐し広がっていく構造になります。
自然界でのリヒテンベルグ現象(図形)、放射虫、回転草などのイメージとなります。
・(ラジアル・)アーボレッセンス(樹状、樹枝状)・ストラクチャー
・デンドリティック(樹状、樹枝状)・スフィラル・ストラクチャー
・リヒテンベルグ(放電)・ストラクチャー
・タンブルウィード(回転草)・ストラクチャー
・ラジオラリアン(放射虫)・ストラクチャー
・ロマネスコ(カリフラワーの仲間)・ストラクチャー
・バルモニック/ニューマティック(肺)・ストラクチャー
などです。
日本語では、
放射状樹状(樹枝状)構造、リヒテンベルグ構造(放射状放電構造)、回転草構造、放射虫構造、カリフラワー構造、肺(胞)構造などと呼べばいいかもしれません。
仏教と同型の構造を持つ現代哲学に縁の深いドゥルーズがアーボレッセンスという言葉を使い生物学でも使われます。
また肺はプネウマで「空気」「気」「息」「精神」「霊」「霊魂」などの意味を持ちます。
ここでは何となく先人たちに敬意を表してアーボレッセンス構造かニューマティック構造とでも呼んでおきます。
リヒテンベルグ(放電)構造もなかなか捨て難いし、タンブルウィードや放射虫もかっこいいですが。
放線菌構造というのもいいかもしれません。
糸状菌が触手を伸ばしていくさまが何となくイメージにはまりますし生物学的です。
宇宙像を表すコズミック・ウェブ構造や星雲(ギャラクシー)構造もいいかもしれませんが樹状構造というかディレクトリ構造が分かりにくいのでここでは却下します。
・中心から抹消へ
仏教の目的は苦しみをどうにかすることですから中心は苦しみからの脱却とでもしておきましょう。
そのために必要なのは三諦論、あるいは三諦円融となります。
三諦論というのは大まかに言えば「縁起」と「中道」と「普通の人の普通の考え方に潜んでいる西洋哲学でいうところの素朴実在論」の3つです。
3つ目はわざわざお釈迦様は強調してないとみてよいと思われますのでお釈迦様の教えの中心は「縁起(十二因縁生起)」と「中道」です。
それを後に大乗仏教の開祖ナーガールジュナ(龍樹)が空論と中観論としてまとめ、さらに天台宗の中興の祖智顗がその2つに3つめの「普通の人の普通の考え方に潜んでいる西洋哲学でいうところの素朴実在論」を足して「三諦論」として仏教の中核概念としてまとめました。
これさえ知っていれば悟りなので三諦論の理解、納得は仏教の悟り/解脱の必要十分条件です。
またこの三つを十分に使いこなせることを三諦円融といいます。
三諦論の理解と三諦円融に至るために個人は様々な修行をすると思いますがどの修業が一番いいかは分からないし別にどれかが一番いいということもないかもしれません。
いろいろな修行方法があるので三諦論、あるいは三諦円融から修行方法の違いごとに様々な枝が出ていくイメージになります。
お釈迦様は対機説法、または方便というその時その場所その人の応じた言葉によりその人を悟りに導こうとします。
それらは全然違うものに見えますが全ての目的は三諦を理解するためのものであり、三諦の理解によりお釈迦さまにとっての苦しみを滅ぼすことができます。
三諦の「諦」という感じはなかなか迫力のある感じです。
「言」というごんべんに「帝」というつくり。
「言葉」の「皇帝」みたいな感じですごい意味を秘めてそうですが果たしてその通りで「真理」という意味です。
真理と言って言い過ぎなら大切なこと、程度でもいいでしょう。
中学高校の社会科の倫理でお釈迦様の思想を説明するとき「三諦」という言葉は見たことがないかもしれません。
「四諦説法」という言葉は見たことがあるでしょう。
これは苦諦、集諦、滅諦、道諦で仏教の基本構造を表しています。
仏教の目的はあくまで苦からの脱却です。
小生はよく三諦論は哲学の存在論と実在論の集大成ということを言及してきましたが別に仏教の目的は哲学ではありません。
お釈迦様が苦しみをどうにかするためにいろいろ工夫していたら結果として哲学の構造論や実在論を説明してしまっただけです。
集諦とは苦るしみには原因があるということを言っています。
滅諦とは苦しみは滅ぼせるし苦しみの原因も滅ぼせるということを言っています。
道諦は苦しみとその原因を滅ぼす方法を知っているということを言っています。
これは結構大胆なことを言っています。
キリスト教徒でいえば「私は神の作った世界の仕組みを知っている」くらい大胆不敵なことを言っている感じです。
それをさらっというのがお釈迦様です。
・お釈迦様の作った二重構造、保険とバックアップ
お釈迦様の教えを知りたければお釈迦様に教えてもらえばいいのですがお釈迦様が家庭教師のように一対一で教えるだけではお釈迦様が生き延びて世の中に教えを広めるという趣旨には効率が悪いのでお釈迦様は解脱/悟りに達するためのシステムを構築することにします。
まあお釈迦様としては自分が死んだらそのあとはなるようになって良かったのかもしれませんがこのシステムづくりのお陰で仏教はお釈迦様の死後も存続しましたし世界中の広い地域に広がります。
どんな形であれ仏教が存続するということを大切に思う人はいつの時代にもいます。
そもそもお釈迦様自体が自分が死んだときには自分の教えは正しい形で残らないだろうと悲観的なことを言っています。
自分の後継者にと考えていた優秀な弟子のサーリプッタはお釈迦様より先に死んでしまいお釈迦様は嘆き悲しんでいます。
このサーリプッタは般若心経で出てくる「舎利子」です。
この舎利子は別名感じで「鶖鷺」といいます。
ちなみに手前味噌な余談で恐縮ですが私は子供が生まれたとき他の子どもたちの名前に仏教の由来を含ませておいたので新しくできた子に「鶖」の字をつけようとしたのですがこれは名前に仕えない感じで諦めました。
教えを広めるシステムとしてお釈迦様は組織である教団や組織のルールを作ります。
正しい教えが伝わらなくても仏教を残すということは結果として現在に仏教を残すことにつながりました。
まあ世の中に仏教はなくてもいいかもしれませんし、なかった方が世の中のためになるかもしれない可能性もその世界戦もあるのかもしれませんが結果として残りました。
仏教の三諦論や三諦円融は西洋思想における現代思想の構造主義やポスト構造主義、ポストモダニズムと共通している部分がありその部分こそ現代哲学の核心でもあります。
ということは西洋ではお釈迦様の悟った内容の様な思想はなくても20世紀まで普通に社会は続いていたわけで別に仏教なしでも世の中成り立つと言えます。
東洋思想においても仏教の内容が失われた時代や仏教を正しく理解していた人がいても世の中の圧倒的大部分は仏教の教えを正しく理解しないまま生きていましたしそれはいまでもそうで、それでも別に世の中回っていますので仏教や現代哲学はもしかしたら世の中にはいらないものなのかもしれません。
聖書文化圏で仏教を誤解して理解すると聖書に反する教えと解釈されるので迫害されます。
また啓典宗教の信徒が仏教を正しく理解してしまうとこれもまた信心を弱まらても不思議ではない、というか弱まらせてしまう傾向があり啓典宗教のエスタブリッシュメントには仏教は正しく広まっても誤解されて広まっても広まること自体が都合が悪い面があります。
仏教を正しく理解した上でその宗教の信徒であり続ける人は筋金入りのその宗教の信者と言えるでしょう。
これは絶対的自由を主張するサルトルが自由意志の決断として共産主義を選んだのと一緒です。
サルトルは筋金入りの共産主義者と言っていいでしょう。
それと仏教を理解することとユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信じ続けることを併存させることの関係は似ているというか同じ図式です。
別に両者は両立できますがなんというか仏教を正しく理解してしまうと啓典宗教に対してなんというかしらけてしまうというか冷めた目で見られるようになってしまうというか客観的で冷静な目で見れるようになってしまうのは確かです。
そういうスタンスになることはある意味普通の我々が思い描いているような宗教にとっては多くの場合都合が悪いことになる傾向があるように思います。
・仏教を理解しないで仏教を存続させることにも意味も価値もありうる
仏教の核心、三諦論、三諦円融は難しいと言っていいと思います。
ですから理解できない人はたくさんいます。
仮に全員理解していなくても仏教を存続させることに価値があるかは分かりませんが意味はあります。
仏教を存続させることでいつかの将来、未来に誰かが悟ってくれるかもしれません。
浄土宗、浄土真宗は大衆が仏教を理解できないことに全振りしています。
吹っ切れて気持ちいいくらいです。
日蓮宗も浄土真宗ほどは吹っ切れていませんが大多数の信徒が悟らないことを前提として設計されています。
浄土真宗ほど吹っ切れてないのは浄土真宗は他力本願というか宗派の指導者が仏教の本質を理解していなくてもいいように設計されています。
かつてイギリスかアメリカにあったペンギンブックスという蔵書だったか辞典だったかに浄土宗についての総括として「これは仏教と言えるのか?」という一文で締めくくられていたそうです。
日蓮宗は「教団の上層部くらいは流石に三諦論を理解しているやろ」という何となくな雰囲気があります(厳密な設計に基づいてのものかもしれませんが)。
そういう意味では門徒ほどはすがすがしく吹っ切っていませんが吹っ切ればいいというものでもないも知れず大勢は悟れなくても教団の上層部は悟っているという形をとっている点で仏教の範疇に十分に入りうると言えるかもしれません。
ただ悟るのを無理だと諦められてしまった多くの人々はどちらにしてもややかわいそうです。
ただ悟らない、仏教の教えを知らない人からなるものであるにせよ、仏教自体を存続させるということには繰り返しますが意味がありました。
そして浄土系宗派や日蓮宗のえらい方々はそれを狙っていたのかもしれません。
実際お釈迦様の死後には根本分裂、枝葉分裂があってそのあとの部派仏教の時代はお釈迦様の教えがナーガールジュナの登場までは理解していた人が殆どいなかったか極端に少なかった時代と思われます。
現実的に0と見なしてもよいような時代だったと思われます。
また根本分裂時に分派した南伝仏教系の上座部仏教/小乗仏教も大乗仏教のナーガールジュナ的な視点で見れば仏教を理解していないのではという風に見えます。
こういうことがあるので宗教というのは内部でもめやすいのかもしれません。
むしろ仏教は宗教の中では内部対立が少ないと思われます。
お釈迦様の上品なDNAの影響かもしれません。
・ブリコーラージュと収斂進化
仏教は2600年の歴史のある宗教です。
ですからその間にはいろいろなことがありました。
いろいろな問題に直面していろいろな創意工夫や解決策が図られます。
結果として2600年の洗練があります。
同じ内容の現代哲学はたかだか100年くらいですのでどんなに時代の進歩が加速度的、指数関数的と言っても、若いからこそ仏教より優れている面もあるかもしれませんが、若すぎて仏教に及ばない面もあるかもしれません。
また仏教は何度も社会に実装されてきました。
現代社会の現代哲学も隠れたところで社会に実装されています。
現代数学、情報通信科学、技術、産業、民生品、軍事に至るまで新しいイノベーションは主に計算機科学から現代数学と現代数学を基礎としている科学、技術の派生品です。
これはハードのレベルでもICT、AIのレベルでもそうです。
また表の世界のSNSなどのソーシャルメディアも現代哲学、現代思想と恐ろしく相性がいいです。
現代哲学の解説なんで行わなくてもYouTubeやSNSやゲームをしていれば現代哲学が肌間隔で分かりやすくなると思います。
これは仏教伝来時に日本人が魅了されたのは多分教えの内容より仏像とか伽藍とか芸術品やら美術品とも呼べるアイテムの部分が実は大きかったのではないかと推測されるのと似ています。
仏教国は(衰退傾向なので歴史国の傾向あり)知らない間に仏教が社会にも身近にも浸透しています。
情報産業の進撃も絶好調です。
でもやはり基礎は自覚的に意識してメタ認知を持っておいた方がいいでしょう。
そしてそれをやはり自覚的、意識的、主体的、自主的、能動的に活用、運用できたらなおベターです。
なおかつ仏教/現代哲学が社会や国どころか世界中の制度的、社会的、文化的な一つのプラットフォーム、OSになればなおベターです。
この「一つの」の部分が大切です。
モノOSやモノプラットフォームより仏教/現代哲学が及ばない領域があった方が多様性(近々の排他的イデオロギーとなっている情緒的リベラルやポリコレとは一線、距離を取ったうえで)の面でいいと思います。
共存できる、これは仏教の強みです。
宗教とも左翼とも右翼とも資本主義とも社会主義とも共存可能です。
というかそれらと接続するインターフェースを持たせているのが中道足る仏教の本質ですし取り込むことも取り込ませることもできます。
そもそも仏教の中核思想の三諦円融はサルトルの自由の考え方や現代哲学の結論と一緒で世俗のいろいろなものには一切関係がありません。
我々がどう生きるかとか社会をどう設計していくとかの指針は仏教から得ることはできません。
単に抽象度が高いとかいう問題ではなくて構造的に関係がないのが仏教の本質です。
ただしです。
お釈迦様の偉大さの二段階目、社会的に仏教を組み込むための仏教団という組織と制度のオーガナイザーとマネージャーとして恐ろしく優秀です。
現代的な目から見ると天才的と言ってもいいかもしれませんし、教団の初期設計思想の産物、原始仏教団は現代に適応しえるという面において恐ろしく普遍的で先見の明を持っていたと言えるかもしれません。
原始部教団事態にせよその後のいろいろな宗派にせよどんどん変容していきますがやはり最初が肝心というか最初の設計や仕様や要件がその後に影響を与える、という以上に拘束するところがあります。
こういうのはどうしてもコンピュータの歴史と重ね合わせたり比較したりしてみたくなってしまうのですが人間の認知科学的な性質が関係するにせよ、コンピュータの歴史とそっくりです。
ただ仏教の幸福さは最初の教団づくりが結果的にせよよかったこと、2600年の洗練というか実装、運用の歴史と信用があることでしょう。
安全第一設計というか歴史的にそんなに現代から見て非難されたり忌み嫌われるようなことをやらかしていません。
どちらかというとやるがわよりはやられる側で加害者よりは被害者でした(一向一揆とかいろいろ例外はありますが)。
というわけで(どんなわけか分かりませんが)西洋思想も東洋思想も現代哲学と仏教という形で同じ形で収斂しているわけです。
・仏教の二段構え
仏教は悟るための仕組みですがお釈迦様自身もそのあとにつづく人たちも悟りに至るためのいろんなインターフェースづくりにいそしんでいます。
「苦るしみからの脱却」と「三諦論」というカーネルは変わりません。
このカーネルをさらに細分化すると「苦から逃れる」がカーネルで「三諦論」や「三諦円融」がシェルかもしれません。
個人的にバラバラに修行して自分が悟るだけのものとしても仏教は十分機能します。
しかしお釈迦様の第二の目的は「仏教を世の中に広めてみんなに悟ってもらう」です。
ここはお釈迦様を考えるうえでも仏教自体を考えるうえでも別のレイヤーになります。
35歳で悟ったお者様の第二の人生、セカンドライフはこちらの目的に全振りしています。
ただ「中道」についてはお釈迦様が悟った時には気づいておらず後から気づいて付け加えた形跡があります。
お釈迦様が悟りの場面はいろいろな経典などに残っていますがこの内容は「十二因縁生起」でこの時「中道」も悟ったと描写されている経典は多分ないのではないでしょうか。
そういう意味ではお釈迦様は悟った時に死ぬのをやめて生き残って本当に良かったと思いますし、仏教の根本教義時代ものちに人に教えることで「中道」を加えることができたのでお釈迦様にとってもよかったのではないでしょうか。
やはり学習はインプットだけではなくてアウトプットが大切です。
自分で理解するだけではなく人に教えてみるといろいろな気付きが生じることは我々も常々実感することではないでしょうか。
・教団づくりの妙
仏教の教団づくりはお釈迦様だけの力ではありません。
仏教団内部の人々も外部の人々も協力してくれましたしみんなで作った手作りの教団です。
運にも助けられました。
お釈迦様の人生の第二の目的「仏教を世の中何広める」は一人でどうこうなるものではありません。
社会と現実との関係性がかかわってきます。
それに教えのためのシステムや組織やルールはイデオロギー的である必要がありません。
むしろというか反対に現実的で実利的・功利的(プラグマティズム)である方がよいです。
極論、誰かが悟ってくれればそのための方法は何でもありです。
しかもそのための方法の決定打がありません。
「これをやれば悟れる」みたいなものはあるのかもしれませんが多分まだ見つかっていません。
だからお釈迦様はいろいろな教え方、説明の仕方をしました。
これらは教相判釈、教判論として後に研究されていて仏教教学の大切な部分ですしその解釈によりいろんな仏教宗派ができていきます。
ある種の宗教においては分派は異端として内部抗争、場合によっては内ゲバや宗教戦争の原因になります。
他方仏教派というと最初の設計思想が違います。
お釈迦様も仏教団も「最高、最適な悟りに至る方法」というのが分かりません。
また分かっていたとしてもいろいろな方法が必要なことを理解していますし前提としています。
ですので仏教のシステムや組織は「方法を増やすこと」で「宗派を増やすこと」で悟りに至るための人々が仏教に触れられて、悟るための実践、修行を始めるための入り口と通路、入り口とインターフェースと方法をどんどん増やす仕組みになっています。
仏教全体で見ると仏教をシステム化し、組織化し、社会に溶け込ませ、受け入れさせ、いろんな人が悟りに至れるようにするためのシステム工学と組織後続に基づいた仏教普及と修業とそれを時代が変わろうとお釈迦様が死のうと持続させるための仕組み作りが仏教の外部構造になります。
・社会的インターフェースとしての宗派
仏教の宗派はたくさんあります。
しかしそれらは全部悟るため、三諦論を理解して苦しみから逃れるためのインターフェースでありシェルとかアプリケーションと言えます。
カーネルも味方によっては階層構造をしていて「苦しみをなくす、三諦論、三諦円融を理解する」というカーネルがより中核的なカーネルだとすれば、それを包む第二のカーネルは「仏教を世の中に広めて、悟るという共通の目的に進む、あるいはそれを尊重する人をふやして、それを歴史的に持続させていく」というものになります。
第一のカーネルから見ればこれはシェルと言えるかもしれませんしそもそもツールやアプリケーションレベルのものと位置付けていいのかもしれません。
第一のカーネルは個人を解脱させるためのもので、第二のカーネルは個人だけでなく人間集団の多く、できれば全体を解脱させるためのものになります。
原始仏教はお釈迦様の死後、根本分裂で上座部仏教(小乗仏教)に分かれ枝葉分裂で宗教というよりは無数の学派というか哲学集団にわかれてどんどん分裂していって割ることのように見えるかもしれませんがむしろ第一に仏教を増殖させ世の中に広めるのにいいことですし第二にいろいろなインターフェースが増えていくということでそもそもの目的に適ったものであるかもしれませんしいいこととして評価した方がいいかもしれません。
仏教は世界中に広がっていきいろいろな宗派が生まれますがこれは増殖し浸透し社会も仏教化し人々が教えに至るインターフェースが増えるということで所期の目的がどんな構想だったかしりませんがそれを意図していたとすれば素晴らしいことといえるかもしれません。
もともとインドとか東洋の土地柄、あるいはインドアーリア系の階級意識みたいなのもも含めて自然にそうなっていったのかもしれず時代や社会を大きく考えれば現在から見ると画期的なことでも当時の人々から見ると当たり前のことをしていただけかもしれません。
仏教は新しい部派ができたから元々の部派と対立するというのではなく法統、法脈を大切にします。
むしろ元いた宗派から分かれた元居た宗派を立てますし、目上に尊重し続けます。
日本仏教は八宗とか言いますが(奈良仏教やら信仰仏教を数えればもっと膨大にあります)各宗派が集まった時は序列というものがあります。
一番は天台宗、二番は真言宗、三番はどこどこという風に席次が違います。
また各宗派でも法脈を大切にします。
仏教である以上は必ずお釈迦様はたてますし、大乗仏教なら第一祖は「仏教ではない」と非仏教徒の研究者から疑義を挙げられる真言宗でさえ第一祖は龍樹菩薩、第二祖は世親菩薩みたいな感じで法灯を大切にします。
仏教全体が時空を超えてつながっています。
声過ぎてお釈迦様以前にも仏陀がいたとかお釈迦様の次にはどんな仏陀が現れるとか話が膨らみすぎてややこしくなることもありますが膨らむのも複雑になることもいいこととといえばいいことと言えます。
・仏教はあらゆるイレオロギーと相性がいい
仏教はあらゆるイデオロギーと共存できます。
それは仏教がイデオロギーではなくイデオロギー使いだからだということがあります。
また仏教自体はイデオロギーではなくイデオロギーを整理したり活用するためのシステムに過ぎない、あるいはメタイデオロギーであるからと言ってもいいかもしれません。
コンピュータや情報、通信科学に階層構造があるように仏教にも階層構造があります。
一番の中核は「苦を逃れる」という極めて卑俗で動物的な情動かもしれませんがこのレベルで仏教と対立するような教えはあまり多くはないのではないでしょうか。
第二層は三諦論、第三層は三諦円融とすると第二層は世俗と全く関係しません。むしろファイルシステムというかイデオロギーを扱うための作法や仕様のためのルールであってそれ自体には世俗的な意味での中身がありません。
第三層三諦円融も最低論をうまく使いこなすということだけですから世俗の要素はありません。
ここら辺の部分は我々がコンピュータを使い際のゲームとかアプリとかワープロとかそういうものから遠く離れた物理層/ハード、BiOS、OSといったレベルに相当します。
単純化するとそこからそのカーネルのさらにド真ん中に至るための道と入り口が用意されて行きます。
これが一つではないのでかーねるからいろんな方向にいろんな枝を伸ばすように仏教は広がっていきます。
このような枝を伸ばすための土台としてお釈迦様が整備したのが原始仏教教団と言えるでしょう。
お釈迦様やら周囲の人やら当時の社会が意図したものか自然にそうなったのか偶然そうなったのかは知りませんが、コンピュータの世界でのオープンソースの思想やらLinuxやらUnixから端を発するいろいろな流れと重ねるとやや似たイメージがあって理解しやすいかもしれません。
お釈迦様の用意したこのセカンドライフの実務的、実際的で縁の下の力持ちというか泥臭い現場作業から作られた土台と基板こそ仏教が反映する土壌を作った作業かもしれません。
この第4層の研究は仏教の個人的な解脱という中核部分と並ぶ、あるいはそれ以上の価値を現代社会にもたらすかもしれない宝の宝庫みたいなところです。
この土壌から仏教がいろいろな方向に幹を伸ばし枝を分けて反映していきます。
そういう意味では中心から多様な方向に発展し分岐していくモデルはやはり地球の土壌の上で樹木などの植物やそれだけでなくいろいろな生物や生態をはぐくんでいく地球/アース/ガイア・モデル/構造と言ってもいいかもしれません。
・お釈迦様の原始仏教団、仏教の第四層の画期的さ
思想というものはそれ自体がエコシステムで既存の環境や外部環境と相互作用して全体の中の大きな生態系の中での小さな生態系をなします。
お釈迦様の作った仏教団という生態系は現代社会と相性がいいです。
試行錯誤のブリコーラージュ的なものだったのかもしれませんしいろんな運にも恵まら他と思いますが仏教自体が持つちょっと異次元な抽象性とそれによる世俗から断絶されていることによる設計の自由度の高さが関係しているでしょう。
原始仏教団はそれ自体が普遍主義的です。
現代のいろいろな文化的、政治的、宗教的、経済的、社会的といったいろんな分野でのイデオロギーとけんかをしません。
現代喧嘩をしないだけでなくお釈迦様の時代も喧嘩をしなかったですしその後の歴史を通しても喧嘩をしなかったと言えます。
思想の力が圧倒的に強かったのでしょう。
政治的、経済的、軍事的な力で仏教を広める必要はなかったし、敵対勢力にとっては政治的、経済的、軍事的全ての力を使って攻撃するべき対象になりました。
歴史的に加害者になっていなかったおかげで仏教を悪く言う人は今も昔もあまりいません。
こういう部分も現代の我々が高評価したくなる点でもあります。
また現代の思想や社会の現実的な状況にも合っている、最適解とは言わないまでも極めて汎用性の高い組織、あるいは高すぎて空気のようになってしまうところでもあります。
仏教を意識しなくても現代社会は極めて仏教的になっています。
ネットのお陰だとか現代思想の影響とかいろいろあるかもしれませんがそういったものは同時に仏教的でもあります。
仏教の汎用性が高さは現代のいろいろな物事に合わせられるからです。
例えば教団の意思決定は合議制で民主主義的です。
教団内部は平等主義でそれを教団外にもアピールしています。
若干男女の差をつけているようですがこれは単に当時の現実と合わせただけでお釈迦様自身は女性が悟れないとは言っておらず悟りに関しては男女平等です(ただしお釈迦様意外や後世ではいろいろな考え方が出てきます。女性は悟れないとか、逆に人間じゃなくてもいずれ悟れる可能性があるとか様々なものがでてきます)。
教団に所属する、僧という修行者にならなくても在家信者でいるのも自由です。
環境に配慮し殺生を好みません。
かといって菜食主義やヴィーガン絶対主義というわけでもありません。
信者は托鉢で食べ物を教団外の人々に恵んでもらいます。
それを残さずありがたく頂きます。
頂ける食べ物は植物性のものもあれば動物性のものもあったでしょう。
富裕な人々にとっては残り物、残飯を捨てずに恵んでいるだけかもしれませんし、その残飯には動物の死体由来の食材も植物由来の食材も含まれます。
ジャイナ教徒ならそういったものは動物性の食材は口にしないかもしれませんが仏教ではそれらを食べることは禁止されていません。
ある種のリサイクル、循環社会を作っています。
社会の中に溶け込むためには生態学的な無理はしないのが仏教の柔軟さです。
手段の部分で仏教はイデオロギー的である必要がありません。
教義の中心の縁起や中道はイデオロギー的かもしれませんがこれまた現代の目で見るとイデオロギー批判的、イデオロギー解体的、イデオロギー相対主義的なのが中核思想という面白い構造をしています。
かと言ってイデオロギーを否定するわけでもありません。
悟りに至るためにはいろいろな思想にふれたり、時にわき道にそれたり、思想をブラッシュアップしていったりと人の進む道、僧侶の修業する方法はさまざまであってもよく特定の思想やイデオロギーも最終的な仏教の教義の核心に至るためには役に立つというよりむしろ修行には必要とさえ言ってもいいかもしれません。
お釈迦様自身も悟りに至るまでに何人かの師匠についていろいろな考え方、言い換えれば思想やイデオロギーを学んでいます。
だからお釈迦様は革新的、進歩主義的だったかといえばそうでもありません。
むしろ既存の秩序を最大限に尊重します。
世俗の権力や他の思想集団や教団とは争うのを好みません。
むしろ仲良くしようとしています。
信者が取られたとか跡取りが入信してしまったとか現代の新興宗教や既存宗教の不況でもありがちな問題は当時もあったようですがなるべく、というか必ず事を荒立てないようにしています。
むしろ争わない、反論したり議論したりしないこと自体を教団のルールとしています。
お釈迦様存命中に誹謗中傷や批判や非難、反対や拒絶を受けたこともあるようですが何というか平和主義です。
「黙っておれば悪い噂や評判はそのうち鎮火する」という煽り耐性の高い、炎上にうろたえない態度を一貫して取っているように見えます。
ソーシャルメディアに対する考え方がしっかりしていると言えます。
ソーシャルネットワークも大切にしているため多くの王族、貴族や大商人などをパトロンや信者としています。
清貧的な生活を好みますがお布施や托鉢は教団経済というか教団維持には必要なので社会の生態系の中にきちんと居場所や役割を得るように気を配っているように見えます。
ここら辺の政治力は腐っても(世俗的に腐ることは仏教では特に悪いことではない)さすがに王族というか王位継承権1位の王子出身といったところでしょうか。
金銭や富といったものよりは社会関係資本や未来や将来にわたる、お釈迦差もの死後にも続く継続性を大切にしていました(これは後継者が死んだり教えの内容が何回すぎたりでうまくいかなかったかもしれませんが一応世界三大宗教と言われるまでには成長しました)。
別に仏教は社会関係資本さえしっかりしていれば他はいりません。
お金が欲しければ大商人が寄進してくれればいいし、権力が必要な場合には王様に守ってもらえばいいです。
軍事力は仏教には特に必要ありません。
日本の中世では僧兵とか一向宗の武装化とかありましたが基本的には仏教は焼かれたり滅ぼされたりする方で加害者になる必要性がありません。
むしろそんな乱暴なことをすると社会関係資本、信用を既存します。
信長みたいなのがキレたら焼き討ちされてしまいます。
被害者は実は強いです。
与えるものも強いです。
贈与は心理的、文化人類学的に言えば脅迫の一種とも言えます。
ただもらったり借りたりするのも実は大きな力になります。
貧乏人や小金持ちの世界ではしみったれた小金のやり取りでトラブルが起こりがちですが数兆、数十兆、数百兆の単位で(通貨の単位によりますが)賃貸や授与が行われると借りたりもらったりした方が不利という単純な関係は成り立ちません。
繰り返しますが「生態系」というのは変化しますが極相や安定状態では何かが失われると全体が大きく変わるのがシステム工学の考え方です。
教えのないようは既存のエスタブリッシュメントや民衆が支えるヴェーダ哲学にとって都合が悪い内容があったかもしれませんが(例えば輪廻転生を特に肯定していない。否定もしていないが)、特に大きな摩擦や軋轢を起こしていません。
既存宗派や他宗派の気に障るようなことをわざわざ主張したりしないスタンスです。
ポジションを世俗から離れるところに置いたのは評価が分かれるところではあります。
そのせいでインドでは仏教はとだえてしまいました。
ただしそのおかげでジャイナ教のようなインドのローカル宗教にとどまらずにアジア中に拡散し広まっています。
ヘレニズムのギリシア人にも影響を与えてガンダーラの仏像などを生んだのはよく知られていることです。
近代の加入戦術とは違うかもしれませんがバラモン教/ヒンドゥー教の中でもお釈迦様は一応聖者というか神様としての地位を獲得しています。
まあ木乃伊取りが木乃伊になるというか取り込まれてしまったとも言えますが。
まあお釈迦様としては自分が神様になることは自分の教えのスタンスからするとちょっと変なので草葉の陰で複雑な顔をしているのかもしれませんが。
それでも権力とも仲良くやりましたし反対勢力ともいさかいを起こさなかったおかげで仏教の細胞は世の中に拡散していきます。
まあ最後はインドの既存宗教に押しつぶされるような形で競争に負けていき最後は仏教を異様に敵視したイスラム教徒に生誕地のインドでは壊滅させられてしまいました。
イスラム教は今でもヒンドゥー教ともめていますが弱小勢力で社会的影響力も小さかった宗教をなぜ壊滅させたかは意図があるとすれば興味深いことではあります。
単に弱小だったから潰しやすかったとかであれば分かりやすいですが、仏教側の事故に対する過大評価かもしれませんが仏教は本質的な教義を理解すると先ほどの聖書系の宗教とも共存できると書いたのと矛盾しますが仏教を危険思想と判断する人がいても不思議ではないような解釈ができる思想です。
中途半端な理解度では「神はいない」とも解釈われてしまう場合もありますし(そうならないために「中道」の考え方があるのですが)、「神がいてもいなくても特に関係ない」というスタンスが鼻についたり気に障ったりしたのかもしれません。
また孤高に見える姿勢が当時のインドの他の勢力からも嫌われていてそれに乗ったイスラム勢力が仏教をスケープゴートというか見せしめ・いけにえにしたのかもしれません。
別にお釈迦様だけの功績ではないと思いますが王族出身の継承権第一位の王子様で苦行が世俗的な苦労と同じか分かりませんがそれなりに苦労もして育ちの良さから品も人脈も教育も信用もあり、かつ頭がよかったです。
仏教団がこのような現代社会のシステム開発のオープンで衆知的なエコシステムを作り上げられたのはやはりお釈迦様の頭の良さは大きいでしょう。
大谷翔平みたいに「天才的」、あるいは天才を越えたものとしてどの時代にも評価され続けたのはやはりすごいことです。
基本的にお釈迦様を悪く言う人はいなくて悪い所無視されるくらいまでで住んでいます。
お釈迦様を評価するなら三諦論を見出したことの他に仏教というものを教団、ルール、システム、社会関係、全部の面から支え方針を与えた部分ですし、現在の評価よりも将来の評価がさらに高くなる可能性があります。
まあ評価が下がったり忘れられたり衰退する可能性も高いですがお釈迦様の思想は「普遍的」なので仏教が滅んでもお釈迦様も忘れられてもお釈迦差も教えは無意識ではあっても人類から消えることはないでしょう。
・大切なのは以下に三諦を学ぶかと使うか
結局大切なのは以下に中核の三諦論を学ぶかです。
その次は三諦を使うかですがそれはここでは触れません。
学ぶために仏教が用意しているのは各宗派というインターフェースです。
そこを入り口に仏教とアクセスしてその宗派のやり方で学んでいけばいいです。
ただしあまり仏教を後世に伝えることに特化しているのか信者に三諦論を理解させる仕組みになっていない宗派もあるので注意が必要です。
既存の宗派を学ぶのは仏教の用意したやり方ですし、今は宗派を経由せず仏教の知識はあふれかえっているので自分で自学、独学、自習するのもいいでしょう。
その他に現代的な仏教の学び方があります。
仏教と同型の思想を学べば写像というか転換してしまえば仏教を学んだのと一緒になります。
例えば現代哲学を勉強すれば構造主義やらポスト構造主義やらを学ぶことで仏教自体のインターフェースを利用しなくても仏教の中核を理解することができます。
現代数学を勉強してもいいと思います。
三諦論というと難しく感じますが三諦をなす空、戯(仮、実、名色)、中のうち理解が難しいのは空だけで他はそんなに難しくないと思います。
空と中はある種の絶対的なイデオロギーを奉じている人には難しいというより理解に抵抗する神性が働くかもしれません。
聖書系の啓典宗教やマルクス主義・社会主義などです。
前者は信じているものが揺らいでしまうかもしれないので抵抗します。
後者もその面があるかもしれませんがそもそも現代思想が近代までの思想を批判、分析、検討、解体、拡張、再構成するために作られたようなところがあります。
他の近代思想にそこまで拘りがある人はそんなにいないと思いますが(たとえばニーチェしか認めない、デカルトしか認めない、デカルトしか認めないという人はいないと思われる)社会主義やリベラルは政治思想ですからいろいろ俗な利害関係が出ていますし若い時から奉じてた思想をつまらないもののように扱われるのは感情的になる人もいるかもしれません。
社会主義やリベラルは現役の思想なのでそれで立場を得ている人もいるし、それで食べている人もいるし、その所属組織が弱ると困るという人も多いでしょう。
それはそれとして計算機科学や情報科学というかICTやAIなどの専門家は仏教も現代思想も現代数学も勉強しやすいと思われます。
厳密性を追求する学問や産業や職業についている人はベースに数学をやっている人が多いと思われるので数学→現代数学→仏教みたいな感じで学習変換するといいと思います。
計算機科学や情報科学はそもそも現代数学から発症していますので深掘りすればよいのでよいインターフェースとカーネルに至る道になると思います。
その他いろいろ学び方があると思いますが目下開発中なものと発表積みなものがありますのでこれからもインターフェースというか宗派というか学び方の入り口をシェルとすれば三諦論とか苦諦、集諦、滅諦がカーネルで道諦がAPI(application programing interface)というかシステムコーリングみたいなものです。
要するに中核に至る入り口と道があればよくそれはいろんなものがありえます。
この全体の構造をフランス語や生物学風やドゥルーズ風にアーボレッセンス構造とでも呼んでおきましょう。
別に仏教宗派とか現代数学とか現代哲学を学ぶという「勉強すべし」的なお堅い方法でなくても現代社会自体が現代哲学的というか仏教的ですからほんのちょっとしたきっかけで悟れるインターフェースや方法も人によってはあるでしょう。
禅では漸悟と頓悟という言葉がありますがなんかよく分からないけど悟ってしまうことも多いと思います。
日本の禅宗は南禅宗系統なので(南禅寺というお寺もある)頓悟がメインです。
ですから臨済宗の禅問答や曹洞宗のエピソードなどでは訳の分からない禅問答的なかけないで豁然大悟するとか座禅していたら豁然大悟とかそういうエピソードは結構あるのではないでしょうか。
別に学問とか教団に入るとかお堅い方法でなくても世俗的な方法でも十分悟れるのではないでしょうか。
例えばエログロナンセンスの方法でも悟れるかもしれません。
チベット仏教などの公器密教や日本の真言宗立川流は仏教を「禁欲的なもの」としか見られない人にとっては異様に見えるかもしれませんがすごく仏教やそれ以外の集積や実績のある悟りの体系です。
芸術家肌の人には華厳宗や大谷曼荼羅宜しく曼荼羅や仏像などが芸術品、美術品が豊富な前期から中期初期の日本密教の真言宗とかそこから派生した真如苑でもいいかもしれませんし、善も日本文化や芸術や道と親和性が高いのでそっちからのエントリーでもいいかもしれません。
日本は何でも道にしますが華道でも茶道でも剣道でも香道でも柔道でも武道でも何でもいいのでそういうのを極めるというか深めることでも悟りに近づけるのではないでしょうか。
結局物事を深く考えると人間頭を使いますし哲学的になります。
西洋哲学の到達点が現代哲学てそれが仏教のカーネルの三諦論と同じものですから人は何か一芸を追求すれば相当悟りに近い所に行けるのではないでしょうか。
何にせよ何かで仏教に縁ができればそこが仏教の核心に至るきっかけになるのではないで加と思います。
悟れば現代社会では三諦論というか同型やら準同型と思われる現代哲学とか現代数学も理解できますし結構いろんなところで使いまわせますし現実にも適用できますし使い出があります。
お金を稼ぐのにも生活をするのにも知っておいて損はないし、得する可能性の方が高いと思います。
・ただし・・・、最後に
一応注意点ですが仏教は苦しみから脱却する思想ですが悟ったからと言って苦しみがなくなったり痛みがなくなったり悩みがなくなったりすることはありません。
「お前、言っていることが違うじゃないか」と思われるかもしれませんがお釈迦様の「苦からの脱却」というのは普通我々が思う意味での苦からの脱却とは違うものです。
「騙された」と思うかもしれませんが我々がふつう思う意味ではない苦しみからは脱却することができます。
お釈迦様の場合は長年抱えていた実存的問題を解決することでお釈迦様の苦しみはなくなりました。
お釈迦様のように仏教でいう「苦」というのはどっちかというと哲学的なものです。
哲学的な問題や実存的な問題を解決すれば例えば思春期にありがちな問題や実存的な問題や自己同一性に関する問題や自分探しの問題などは解決することができます。
ただおなかが痛いのを直すとかおなかがすくとか転んで痛いとか女の子に振られたとかそういう問題は解決しません。
そういうのを解決したければ医者になったりお金を稼ぐためにいい仕事についたり、お金をためて運用したり別の実用的な方法で問題解決すべきです。
そういう実学的、実践的、俗世の赤にまみれた生活的も別に仏教徒は矛盾しません。
お釈迦様としては人々の仏教の教えを広めたいというのは人々が苦しまないようにしたいということが入っていますから人々の老病死の苦しみも直接解決して挙げれればよかったとお釈迦様自身も思っているかもしれませんが流石にお釈迦様でも無理でしたし、未だに解決しない問題で苦しむ人はたくさんいます。
そういう人々、あるいは自分の問題を解決したければ医学の研究したり金稼ぎに励んだり老化防止のための努力をするのがいいでしょう。
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