「正常なセックス」など存在しない
——エロゲ・稚児・ボノボから解き明かす、学習された性癖(フェティシズム/パラフィリア)としての愛——
はじめに:きれいな「L・G・B・T」には収まらない、人間の「業」
最近のジェンダー論は、どうも行儀が良すぎる。 「多様性を認めよう」と言いながら、結局は「L」「G」「B」「T」という新しいラベル(カテゴリー)の中に人間を押し込め、制度の中に回収しようとしているだけに見える。
しかし、人間の「性」や「欲望」とは、そんなアルファベット数文字で分類できるほど単純なものだろうか? インターネットの深淵を覗いてみてほしい。そこには、あらゆる対象(二次元、無機物、空想生物、シチュエーション)に向けられた、無限の性癖(フェティシズム)が渦巻いている。 きれいごとで語られる「愛」の裏側には、常に混沌とした「業(カルマ)」としての欲望がある。
今回は、エロゲが生んだテクノロジー、かつての日本の稚児文化、そして霊長類学の視点から、**「性とは本能ではなく、学習されたフェティシズムである」**というラディカルな真実を提示したい。
1. テクノロジーを進化させたのは「エロ」である
「エロを見るためにインターネットを始めた」。 この動機を恥じる必要はない。なぜなら、IT技術の進化は、常に「エロ」という欲望のエンジンによって駆動されてきたからだ。
かつてのプログラマーやハッカーたちは、エロゲの動かない絵を動かし、プロテクトを突破し、低速回線で少しでも早く画像を表示させるために、死に物狂いで技術を磨いた。動画圧縮、VR、オンライン決済。これらはすべて、人間の「見たい、触れたい」という執念が生み出した副産物だ。 Winnyの開発者、金子勇氏のような天才も、アングラな熱気の中から生まれた。 「欲望(エス)」こそが、文明を進化させる最強のドライバーなのである。
2. 日本の性文化:ジェンダーは流動する
明治以降、西洋的な「性道徳」が輸入されるまで、日本の性はもっと自由(カオス)だった。
寺院や武家社会における**「稚児・衆道」は、単なる性欲処理ではなく、教育システムや主従の絆として機能していた。 また、「男の娘(女装少年)」**の系譜は、若衆歌舞伎から現代の「バ美肉」まで脈々と続いている。 日本人は伝統的に、肉体の性別よりも「演じられる性(魂の性)」に萌えるという、高度なジェンダー・パフォーマンスの文化を持っている。
年齢に関してもそうだ。かつては初潮を迎えれば大人と見なされ、10代半ばでの結婚・出産は当たり前だった。 現代の「18歳未満は子供」という線引きは、あくまで近代社会が要請した「人工的な壁」であり、生物学的な絶対基準ではない。
3. 「セックス」は本能か、学習か?
ここで一つの根源的な問いを投げかけたい。 「人間は、隔離して育てられても、本能だけでセックスできるのか?」
霊長類学の研究(ハーロウのアカゲザル実験など)が示す答えは、限りなく**「NO」**だ。 母親や仲間から隔離されて育ったサルは、性成熟しても、適切な性行動が取れなかった。マウントの仕方も、受け入れ方も分からないのだ。
つまり、性器を結合させて射精に至るプロセスは、呼吸や心拍のような自動的な本能ではない。 それは、他者の模倣や社会的な経験によって獲得される**「高度な学習行動(スキル)」**なのだ。
4. すべての愛は「フェティシズム」である
セックスが学習の結果であるなら、「異性愛が正常で、同性愛が異常(バグ)」という前提も崩れ去る。
ボノボなどの類人猿を見れば、性行動は生殖のためだけでなく、挨拶や仲直り、ストレス解消のツールとして、オス同士・メス同士で頻繁に行われている。 ネイチャー等の論文でも示唆されるように、**「無差別な性行動(パン・セクシャル)」こそが生物の祖先形質(デフォルト)**であり、異性愛はそこから生殖効率のために特化した一つの形態に過ぎないのかもしれない。
そう考えれば、異性愛も、同性愛も、二次元への愛も、すべては後天的に刷り込まれた**「フェティシズム(偏愛)」**という同じ鍋の中にある具材だ。 誰が誰を(何を)愛しても、それはその人の脳が学習した「性癖」であり、そこに優劣も正常異常もない。
結論:制度という「檻」を疑え
現在、同性婚や夫婦別姓の議論が盛んだが、それらは結局「既存の結婚制度」という檻の中に、どうやってマイノリティを入れるかという話に終始している。
しかし、本当に必要なのは、その檻自体を疑うことではないか。 「結婚」も「名前(家)」も「正常な性」も、すべては社会を管理するために後付けされた「フィクション(制度)」に過ぎない。
人間の欲望(エス)は、もっとドロドロとしていて、滑稽で、力強いものだ。 きれいな言葉で漂白された「LGBT」論に違和感を覚えるなら、一度そのラベルを剥がし、自分の内なる「業」を見つめ直してみてほしい。 そこにあるのは、制度には収まりきらない、野生のエネルギーとしての「生」そのものかもしれない。
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