2009年11月23日月曜日

パラノイドの問題点

現代思想的に導入されるようになった視点、視座、視軸はいろいろあります。
物事を動きと静止で見る軸やパラノイドとシゾイドで見る軸があります。

パラノイドとシゾイドで分ける軸はいろいろなところで用いられます。
人間の人格傾向を言ったり精神医学での診断で使われたりします。
加えて大変大切な見方というのは大まかに思想のパラノイド性やシゾイド性をみて思想自体の質を評価する見方です。
この見方で言うと近代主義はパラノイド的、現代主義はシゾイド的です。
現代主義は近代主義に批判的です。
批判点を一言で集約すると近代主義のパラノイド性ということになります。

現代思想の根本的な考え方の一つに物事や対象といったものはどんな考え方でもできるというものがあります。
対象に独立性を持っている複数の考え方を適用して、それぞれで結論を出し、それらがたとえ有限のまとまった知識に集約しにくいとしても安易に統合したり何かを無視したりしないというスタンスは現代主義的といえます。
清濁併せ呑むということであり、次元の違うパラメータを安易に加減してはいけないということでもあり、無意識の欲動やルサンチマンに無自覚に支配されてしまわないということでもあります。
何かの観点から相矛盾した結論や都合の悪い結果が出たとしても無自覚なバイアスにより流された思考や判断をしないということでもあります。

いわゆるパラノイドの問題点というのはこれとは対極でたった一つの見方だけしてそれに固着してさらにその自覚も謙虚さもないという状態です。
パラノイドの人は分かった気になったり、自分が知らない可能性を想像することが困難であったり、自分の知っている図式の中だけで全てを解釈しようとする傾向が生じます。
また独立性という概念をもって物事を考えることが困難である場合があり、論理的に独立な事象をあたかもそれが当たり前のようにくっつけてしまいます。
それを批判されると、空気とか常識とか当たり前とか普通とかいう言葉を使って自分のによく理解できない、あるいは理解したくない他者を排除しようとしたりしますがそれについての自覚がないことも多くあります。

このような性向は誰にでもありえますし生じえます。
現代思想は古い形の仏教とある面では同質の思想なのでこのようなパラノイド的な状態を衆生、迷妄、無明、迷い、などと表現し、一方でその構造を理解しそこから自覚的に抜け出せている状態を仏陀、覚醒、悟り、解脱、エンライトメント、正覚などと表現します。

概して人間がパラノイド性から離れて自由になるためには、教養、自覚、謙虚さ、自分の知らないことを知っていること、修行、知性、強さ、エネルギー、訓練、現代思想や原始仏教の理解などが求められます。

人間の個体発生的にか、系統発生的にもかはよく分かりませんが、人間は発達していく過程でパラノイド性を育みそこを通り抜けるのが、正常(何を指しているのかは分かりませんが)に発達していく上で必須だと思われます。
普通の人間は(普通というのが何を指しているのかは明らかではありませんが)必ずどのような形にせよ発達の過程でパラノイド的な認知形成を経験すると思われます。
これが発達の過程で欠失や不足するとおそらく精神医学で発達障害と言われる状態の一部を形成する可能性があります。
また後天的にこれが失われると統合失調症という状態を発症する可能性もあると考えられます。
ただしある種の統合失調症や発達障害の人が発する基礎哲学の極限に通じるような疑問、はパラノイド性を離れているためにむしろ現代思想では正当なものと見なされ得ます。

現代思想はシゾイド性の獲得によりパラノイド性を管理する思想です。
その意味でシゾイド性はパラノイド性の発展、拡張形式です。
これは現代思想自体が近代思想の発展、拡張形式であることと軌を一にします。
シゾイドはパラノイド形成できないという意味ではなく、パラノイド構造に対してメタな立場を持ちその構造を知り必要に応じてパラノイド構造を解体したり生成できるベクトルです。
パラノイド形成がそもそも形成できない状態をシゾフレニーといってこれはシゾイドとはやや異なる概念です。
現代思想、特にドゥルーズ=ガタリなどはシゾイド的であることを称揚する面があります。
これはパラノイド的なものが全く一貫性や自覚を持たないまま多くの人を不幸にし得るししてきたと考えた近代思想への苦い反省であり現代思想のもつ近代思想へのアンチテーゼ性、さらにはシンテーゼ性です。

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