2009年11月16日月曜日

シゾイドとパラノイド

人間が何かを分かると言うこと、これは人間の認知・認識機構が働いた結果です。
知るということ、分かるということは現前です。
現前するのは現代思想では、対象に実体があるからではなく、現前を生じさせるようなメカニズムが働いているからです。
そのメカニズムは構造的に規定されます。
簡単にいうと何かと何かを関係付けること、くっつけることで人間は現前を生じ、何かを知ったり分かったりする感覚を得ます。
いったん現前が行われさらにそれに対して記号化が行われると、記号は記号界で働く新たな機能を獲得します。
記号はエクリチュール、テクストなどと呼ばれる世界の中で顕示的に様々な姿で現れたり、働いたり、変化したりしますが、一方でその背後には顕在化されないマトリックス構造もあり、これらが複雑な働きや変化をします。
このような知る分かるということについての現代思想的な見方の下では対象は固定的な実体性、本質性、たった一つの正しい意味のようなものは持ちません。
対象は見方によって考え方によって多重の意味を持ちしかもそれぞれの見方が矛盾することもあります。
対象をいくつものフレームワークを用いて見る見方を、複眼的、あるいは複対立的対象把握といいます。
複眼の数が多ければ多いほど、対象を分析するための(解体するための)ツールとしての独立した理論や考え方が多いということですが、それは高い次元で対象を見れるということです。

知る、分かるというのはそれに何か実体性、真理性、本質性を感じやすい出来事ですが、そういうものは現代思想ではないと考えます。
しかしある対象に対するある見方に固着しそれから離れられなくなってしまう状態をパラノイド的といいます。
何かと何かをくっつけてそれを話しにくくなります。
二次的にそれが正しいと思い込んだり謙虚になれなくなったり自分の知らないことを知れなくなったり対象に支配されてしまったりします。
知ったつもりになったり、分かったつもりになったりして、自分が知らないかもしれないという考えを忘れてしまいがちになるか、そう考えられてもそれに対する執着や拘りから離れられなくなります。
一方これとは違う方向性、現前が生じて知ったり分かったつもりになったあとでも、その対象をいろいろな考え方や角度から見て、その多義性を知ったり、自分の分かったつもりの構造を理解したり、それが変化しうることを知ったり、対象の単義性を解体したり、時に最初の分かったという感じの内容を解体してしまったり、そういうことができないまでも謙虚になれたり、自分が実はよく分かってない可能性を自覚できたりして、自分の分かったの構造をメタのレベルで相対化したり冷静客観的に見たり、現前した内容を操作や改造や作り直しできる傾向をシゾイド的といいます。

全体としてシゾイド的とパラノイド的は対義語的に用います。
人間が知ったり分かったりするのは健全な仕組みですが、その後知ったり分かったりした対象との関係が両者では変わります。

そもそも器質的に何かの現前、認識ができなかったり遅くなっていたり低下している場合にはこれはシゾフレニックといって内因性にこれが起こった場合、臨床の精神医学ではこれを統合失調症と診断します。
これもシゾイドと言えると思いますがこれは病気で、医療が必要とされる状態です。
スキゾ、パラノなどといって人間の思考傾向をこの軸で理解する見方はおそらく日本では80年代のニューアカデミズムの時代には各方面で広く行われていたようです。

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