2009年11月23日月曜日

流転の哲学

思想というものを静止と流転の相から眺めることでcontemporarityをより深く理解することができるようになります。
細かい議論を差し置いて言うと現代思想は近代思想と比較して動き、変化、流転という考え方と近縁性が強いです。
近代思想では静止し、固定した根源というものが出発点になりますが、現代思想で現前/言葉というものが出発点になりますが、これらについてはスタティスティックな解析だけではなくそのダイナミシティ(とダイバーシティも)を考えることが本質的になります。
スナップショットで切り取って共時的に考える視点もある場合には役に立ちますが、何かの都合上そのような見方をするときもあるというだけの話で、それだけでしかなくダイナミシティを考えなくなってしまうのは間違いに等しいといえます。

これは現前や言葉というものがどのように生成しているのかという現代思想の本質的な考え方と関係します。
現代思想では現前/言葉が生じた場合、その背後に根源があるとは考えません。
その背後に広い意味での構造、関係性、マトリックスがあると考えます。
マトリックスはダイバーシティとダイナミシティを持つと考えるのがより汎用性がある見方になります。
もちろんダイナミシティの共時型としてスタティスティシティを利用することはしばしばありますがこれは別の話です。
これに対して近代性は現前/言葉に対して単純に根源をおきます。

近代思想では氷山の一角を見て氷山の本体があるのだと考えますが、現代思想はそのような見方をしません。
現代思想では氷山の一角の海水の下にあるのは広い意味での構造で、この構造は事実上掌握しきれない数や複雑さをもっていたり(ダイバーシティ)、変転したりする(ダイバーシティ)と考えた方が一般性を持つ対象です。
氷山の一角は静止して固定しているようにしばしば見えますが、そう見えるのもその時の構造の何らかの働きの所以ですが、一方でたとえ氷山の一角がスタティスティックに見えても構造は流転している場合もありますし、また氷山の一角のスタティスティシティが構造の何らかの働きの故に、我々の意識の上でついには崩壊してしまうこともあると考えます。


少し別の点からこの問題を考えて見ます。
まず、現代思想では物事に対する見方というのはいくらでもありうるという考え方をします。
どんな物事でも数限りない多様な見方、考え方が可能であるというのは現代思想におけるもっとも重要で実用的な考え方の一つです。
定理や法則のようなものかもしれません。
見方のポイントや考え方のフレームによっていろいろな結論が導き出されますが、基本的にはそれぞれの結論は独立に扱うべきものです。
結果として多様な情報が導き出されます。
例えばある目的にそれらの情報を用いる場合、いわゆる意思決定学的に情報を用いる場合、雑多で時に合い矛盾した情報を処理し意志決定を導きます。

ここで問題なのは人間のメモリーには限界があるということです。
複数並列処理もある程度は可能かもしれませんが限界はあるでしょうし、タイムシェアリングもある程度可能かもしれませんが、オペレーティングの能力にもやはり限界があると考えられます。
大まかに言って人間は言葉と同じ線状性の思考の世界に生きており、しかも物事/対象にたいする考え方というのは、数え切れずあるので直列に次々の考えていかなければいけません。
しかも前の思考により全体の構造に変化が生じるので、考えているうちにいろいろな周辺の状況に変化が生じ思考に影響を与えます。
思考と思考対象は本質的に干渉しあいます。
多様なフレームワークによる複対立的対象把握、というのは現代主義のスタンスですが、そのような姿勢で日々精神活動を行う際には以上の様な、動き、流転、変化をもったダイナミックな営みになります。

大まかに言って、歴史上の思想を眺めていると、静止と流転の問題はいろんなところで現れているようにも見えますが、現代思想においてもっともはっきり問題の焦点が炙り出されているようでもあります。

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