2025年11月13日木曜日

多様な価値があった昔、価値論、GDP批判、時間とともに価値が増進する財とサービスもある

多様な価値があった昔、価値論、GDP批判、時間とともに価値が増進する財とサービスもある GDPはフローの大づかみだ。 しかし私たちの幸福は、時間とともに価値が増進・維持・減衰するストック(耐久財・インフラ・文化財)や、価格表に出にくい関係資本(信頼・制度・伝統)に強く依存する。 価格は“いまの取引の合意”にすぎない。 買ってすぐ消える満足もあれば、使うほど愛着やネットワーク価値が積み上がる満足もある。 本稿は①価格と価値のズレ、②財/サービスの時間プロファイル、③政策・会計上の示唆(“長寿命資産と関係資本への投資”)を整理し、同じGDPでも中身次第で幸福は大きく異なることを示す。 会計はこの差を減価償却(耐用年数・メンテ費)で粗く扱うが、幸福の側からは効用の時間分布として見るべきだ。 だから指標は、フロー(GDP)+ストック(実物・無形)+関係資本の三面を持たねばならない。 ・幸福論か価値論か  人間は幸福なのがいいでしょう。  幸福を測る指標は伝統的にGDP(もっと昔はGNP,最近はGNIとか)など経済学的指標が使われます。  これは社会学の中で経済学が一番数理化が進んでいたからかもしれません。  「経済的に幸福を図る=貨幣価値、財、サービスの価値で測る」は分かりやすいです。  というか経済学の教科書でも何で幸福や福利厚生を図るのかは一通り議論されてチャーチルの「最悪だがこれしかないのだ」みたいな感じでGDPを目安にしています。  最近の経済学の教科書は知りませんが。  本文では簡単に幸福論と価値論、GDP論とその批判と再構築を行います。 ・GDPの弱点  GDPはその時の経済、雇用、失業率やら物価やら消費やら賃金やらを考えるのにはいい指標です。  その時と言ってもリアルタイムの一点ではなくある程度の期間や発表のずれはありますが。  GDPを価値や幸福の指標とする際の問題を2つの観点から見ていきます。 ・値段と人間の主観的、客観的な価値は違う  財やサービスを得る際には貨幣経済、至上主義交換経済、自由経済ではお金で財やサービスを購入する方法を取ることが多いと思います。  ですから価格と値段というものがあるのですが、「割に合わない」「値段以上のいい買い物をした」「コスパやコストベネフィットが良い」現象が生じる場合があります。  お金で財やサービスを変えてそれで幸福になる、幸福が増えるとするといろいろずれた感じが生じることがあります。  例えばお金で財やサービスを買ってもすぐ消費してすぐに幸福感が消えてしまう場合があります。  逆に買った財やサービスによる幸福感が消えない、続く、むしろ幸福感が増進する場合があります。  これは個人的に購入した財やサービスに愛着が高まったりして幸福度が上がる個人的な体験の場合もありますし、客観的というか社会的にも購入した財やサービスの時価が上がっていって持っているだけでも価格という形で財やサービスの価値が上がっていく場合もあります。  こういったことはGDPでは含まれない、表せない場合があります。  また買った瞬間からいい買い物をしたと思う場合もあります。  他方で買ってしまった財やサービスに対して失敗したと思ったり後悔の念が生じたり仕方がなく買わざるを得なかったような「いい買い物」をしていない場合があります。  こういうのは買った方も売った方も世の中もうれしくないかもしれません。  まさに近江商人の三方良しの逆で大岡越前の三方一両損みたいな感じかもしれません(三方一両はちょっと使い方の意味が違うかもしれませんが)。  こういうのもGDPでは測れません。  買い物や値段や価格と、幸福の増進とのGDP側からの問題点になります。 ・価値とは何か  ちょっと時代が変わってざっくり戦前戦後の日本を見てみましょう。  戦前の日本は非常に価値の多様性が豊かだった社会であったという大正世代の意見があります。  これは会田雄二という「アーロン収容所」という著作で有名な大正一桁生まれの評論家の話です。  あえて現代哲学に絡めれば差異の多様性でしょうか。  貧乏だったり収入や資産が少なくても古くからその土地に住んでいたり町内会の会長だったりすることがあります。  また芸事で達者な分野があって格闘技の師範をしていたり詩歌や俳句などで名前が通っていたり場合もあります。  他人はともかく家族親族子供たちには尊敬されている場合もあります。  単にそろばん・暗算が得意とか得意分野がある場合も人がすごいと尊敬してくれたり認めてくれる場合もあるでしょう。  その土地に古くから住んでいたとか血筋が良いとか立派な先祖を持っていたというのも誇れることでしょう。  飲む打つ買うでどうしようもないと思われていてもしゃべりが上手で人を笑わせ上手だったり陽気で明るい人柄を好かれたりムードメイカーとして評価されていたりするかもしれません。  低収入の仕事でも伝統があるとか歴史があるとか家業でファミリービジネスとかその他の理由で誇りをもって働いている場合もあるでしょう。  何かの物づくりが自分のミッションだとかいう職人魂や、この研究や学問や美術、音楽、芸術に人生をささげるとか最初から金銭的成功を捨てて行動する人もいるでしょう。  資産があってもそもそも売れない人、売らない人もいます。  美術品や工芸品の形で加法として持っていたり、先祖代々の伝端であったり、山林地主で山林の維持を先祖代々行ってきていてそもそも売るつもりもなければそれをやめたり転職する気もないという人もいるでしょう。  例は上げたらきりがありません。  いざ上げたらきりがないですし、昔を知っている人ならそういうのを覚えている人もいる顔知れないのですが戦後は価値観が単純というか単調になりました。  極端な場合はお金だけだったりします。  もうちょっと広げて金、地位、名誉、評判だけが大切だったりする人もいます。 精神科では色、金、名誉みたいな生活臨床の言葉があったと記憶しますがそういう価値観だけしか持ち合わせてないし別の価値観がそもそもピンと来なかったり想像できなかったりする人もいるかもしれません。 ある意味戦後は日本のいいところを全部お金に換金していったように見える部分もあります。 昔は日本は自然が豊かだと言われたり自然が美しいと言われたりしましたが1990年ごろには言われなくなりました。 今は改善基調かもしれません。  また昔は日本人は礼儀が正しいとか言われましたがバブル崩壊前後くらいからそういう評判が弱まりこれまた現在は回復基調かもしれません。  昭和とともに結構一斉に戦前派というは昔をよく知っている古き日本人が他界しています。  昭和天皇、手塚治虫、司馬遼太郎、その他各界の代表的というか象徴的人物が相次いで他界しています。  冷戦も崩壊して自民党も与党から滑り落ちたりバブル崩壊とか時代の変わり目だったのでしょうか。  なにかシンクロニティか因果のよく分からない同期が起こったのかもしれません。  ともかく昭和時代は自然破壊がすごかったです。  日本だけではなくて世界中もです。  貧困から抜け出すため仕方なかったとかを超えてリゾート新法みたいなのを作って日本の自然をぼろぼろにしましたし現在のソーラーパネル問題を思い出します。  アマゾンなど森林伐採もすごくて最近ニュースで聞かないのはもう必要な分の森林破壊は終わってしまったからなのでしょう。  当時も地球レベルの環境破壊による将来の影響は叫ばれましたが現在はそれが現実化している感じでしょうか。  という事は数年や10年20年で何とかなる問題ではないと思いますが、環境急進勢力が急進的にいろいろ進めたので社会と環境に混乱が生じてマイナスも多かったですが、社会啓発にはよかったかもしれません。 ・生産物のその後で長期と全体の幸福や社会の在り方が変わる  司馬遼太郎しが生前パリかどこかを見晴らして「この町は全部減価償却が住んでいるんですね」みたいなコメントをしていたと思います。  先ほどのルネサンス史家の会田氏もイギリスについて「斜陽と言われても繁栄期に気づいた膨大なインフラがあるので日本も高度経済成長やバブルはあっても豊かさが違う」みたいなコメントを対談で残しています。  単純にGDPだけ見ましょう。  生産したものが売れれば付加価値というか価値が想像されます。  価値の生産が多ければ多いほど豊かです。  豊かさは幸せとは違うかもしれませんが幸せと関係が深いものです。  いろいろな財やサービスを生産したとしてそれらのその後が大切です。  GDPだけでは財務諸表的なフローしか分かりません。  生産物の財やサービスのその後を追ってみましょう。  消費して消滅してしまう場合があります。  一回限りでなくなってしまうものだとその場その時限りです。  もしかしたらいい思い出が長く残るかもしれませんが消費の再現性はありません。  消費しても1階で消滅してしまわず複数回使える物であればもしかしたら消費した際の良い気分が繰り返し味わえるかもしれないので同じような値段で同じような物なら1回限りのディスポーザルな使い捨てではなく(ディスポーザルにもいい面はありますが)何回も使える物の方がより世の中の価値や幸福を高めるかもしれません。  多少値段が長くても耐用年数が高く修理や補修をすれば長く使えるものがあります。  家とか車とかブランド製品とかがいい例です。  ブランド製品などはお金持ちは高いけどいいものを買ってメンテナンスをしっかりして長く使うという説があります。  安物買いの銭失いという言葉もあります。  そもそもブランドや歴史や伝統やのれんを大切にするのはいいものを提供して値段以上?の価値を提供できるという付加価値性の高さをうたうためでもあります。  逆が懸念されるケースで歴史も実績も品質も使用期間も保証されていないものを購入して使用する場合です。  逆説的ですが最近の「環境に言いいろいろな物」が今後どうなるか、最終的に何をもたらすかは後世の人にとっては社会実験の結果としてよいデータやサンプルになるかもしれません。  結果として環境にもよく社会のもよかったのか、実は環境に悪かったり社会の方に悪い影響を与えたりしただけだったのかは後々分かることですし現在でもスーパーコンピュータや発展しつつある量子コンピュータなどで近々計算できるかもしれません。  今のビックデータサイエンスの延長のような汎用生成AIでは平均や最頻値的な意見に偏るのであまり参考にならないでしょう。  常識的にはあまり急進的に進めるのではなくじっくり腰を据えてまず現実的な省エネから勧めるのが穏健でトラブルのないやり方だったかもしれません。  経済や会計では時間がたつと消えてしまう試算を減価償却資産と言い有形固定資産と無形固定資産に分けます。前者は物、後者は商標権などを考えるといいでしょう。  時間がたってもなくならない資産は非減価償却資産と呼ばれて例えば土地です。 ・究極のケース、ある種の財やサービスが時間とともに価値が増大するケース  CPIはコアCPIとコアコアCPIに分ける場合があります。  CPIは物価の指標です。  CPIから食料品やエネルギーなどを除いたものだけで考える場合があり毎月のCPIの発表時にはCPIと食料品やエネルギーを除いたコアCPIは同時に発表されます。  食料品やエネルギーは1回消費すると1回でなくなってしまうものの代表例でもあり、生活必需品でもあり、ものなら管理費というかメンテナンス費用に当たるようなものかもしれません。  経済はフローとストックで見ることになっており会計や財務諸表は両者を診れるようにできています。  経済主体を財務諸表で読み取れるようになると世の中に対してある種の構造主義的な見方ができるようになります。  財やサービスを購入するとき一番うれしいのは時間とともに勝ったものの価値が上がっていく、増えていく場合でしょう。  投資やら金融商品やら美術品やら重要文化財ではこういうことが生じます。  経済的な話でなく別の物で言うなら歴史や伝統や友情や人間関係や信頼関係は時間とともに減少や消滅してしまうこともあれば増加したり拡大していったりする場合もあります。  同じ事物でも経済的な価値だけでなく人間的や社会的な主観的価値や客観的価値が増えていけばそれは幸福の増進と考えることができます。  またもともと時間とともに価値が増進していくものもあります。  王朝の歴史は長ければ長いほど価値が上がっていきます。  自然や文化財も時間がたてばたつほど価値が上がっていく場合があります。  みんな王様になれるわけでもないですし天才芸術家になれるわけでもないですし投資商品を購入して成功するわけではありません。  ですから信頼とか人間関係とかインフラとかそういう一般的な物をしっかり整備しつ維持、強化、改善していくのが社会全体の価値や幸福を高めていくことになりやすいでしょう。  インフラは劣化するかもしれませんが減価償却が終わると維持や改修費はかかるかもしれませんがそういうのはいったん置いとくと冒頭の司馬遼太郎の「この街(パリ)は減価償却が住んでいるんですね」という事になりますし会田雄二の「イギリスは斜陽しているとは言っても植民地時代のインフラが残っているので生活が豊か」という事になります。  ちなみに会田雄二は京都生まれの京都育ちなので空襲でインフラが破壊された東京と比べて東京は成熟がなく済みにくい、みたいなことも書いています。  GDPは食料品みたいにぱっと消費してしまうものも必要なのですが生産される財やサービスによっては持続的に価値が発揮されて幸福度を維持するものもあれば価値が増進して幸福度も増進するような財とサービスの生産の仕方や組み合わせが同じGDP額でもありうるという事でしょう。 ・価値の多源性、そして幸福の多源性、お金や経済以外の価値と幸福  日本は昔は貧乏でした。  人々の収入も資産も少なかったかもしれませんが、貧乏でもプライドや自分の価値を表現できてそれが評価されるところがたくさんありました。  経済的な貧乏は幸福度を下げる顔知れませんが、何かでプライドを持てたり他人や社会に評価されることで承認欲求や自己肯定感を上げられるところが多元的にあるという事は非常に幸福なことです。  人間集団の中では人間何かで生き甲斐がなくてはやっていけません。  自分だけで楽しむ域外でもいいですが役割同一性というか人間社会の中で他人から何らかの面で価値を認められ褒められた方がうれしいに決まっています。  お金がなくても貧乏でもそういうものがあるのである種の生きやすさや生きる場所、居場所があったのが昔の日本社会でした。 ・時間は大切、福利でも単利でも  価値観というものの増加はお金に例えていれば単利的である場合もあれば複利的である場合もあり逓減的である場合もあれば逓増的である場合もあるでしょう。  例えばエチオピアの王室がイタリアの侵略でなくなったので日本の皇室は世界最古となりましたが神話が正しければ神武天皇は2600年前の人でお釈迦様と同じ世代の人です。  こういう王室はそれ自体が価値なのでお金や華美な飾りはいりません。  老舗でも100年の歴史よりは300年、500年の歴史があった方がいいので日本のふっがー家のような住友の歴史の長さは特筆に値しますし三井も長いし海外にも歴史の長い企業や富豪がいてもはや社会機能の一部でありそれ自体公的器で公人です。  価値は人間の主観なので信頼だったり尊敬だったり驚嘆だったり感銘・感動だったり権威だったりします。  時間以外にもいろいろな重みづけができると思いますがその多様性がここでの眼目でお金や経済以外の価値観が多ければ多いほどいろんな人がいろんな価値を持てるチャンスがあるでしょう。 ・おわりに:幸福論  一応お金のアナロジーで価値と幸福を結び付けて多様な価値と幸福な形をれいじしてみました。  一時お金が価値と幸福とほぼ同一視されるような時代が強まっていたので最近は人類の反省期かもしれません。  反省といっても悪いことをしたということではなくよかったことも悪かったこともいろいろ振り返って現在、未来に向かってフィードバックしていくとベターでしょう。  変な話いろんな意味で最近までイデオロギー色が強く新自由主義もグローバリズムもSDGsもDEIもLGBTなんちゃらかんちゃら(一部パラフィリアなどを含む誤解を含む論説を最近見た)も全部イデオロギーでした。  まあMAGAも中共も右派・保守派も左派リベラルもみんなイデオロギー色はあるのですが現実主義と実証主義、ファクトとファクトチェックと現実的な思考と行動はいつでも忘れないようにしないとイデオロギーは正義であってもドストエフスキーの小説のように一種の悪霊と化して人間にとりつくので現代哲学や中道(一般的な意味でも仏教的な意味でも)の精神をもって相対化していくのが大切でしょう。  価値も幸福も主客を含む人間の精神の問題を含むなら精神の豊かさや多様性を担保した方がいいからです。 論考「多様な価値があった昔、価値論、GDP批判」へのフィードバック 経済成長という単一の尺度では測れない「豊かさ」や「幸福」についてがあります。 1. 論の射程:「幸福論か価値論か」という根本的な問いから始まり、GDPという経済指標の限界、会田雄二氏の言う「戦前の価値の多様性」、司馬遼太郎氏の「減価償却が住んでいる」というパリ評、そして「時間と共に価値が増進する財(歴史、信頼、インフラ)」へと至る議論のスケールに感銘を受けました。 2. 「価値の多源性」という視点: 「貧乏でもプライドや自分の価値を表現できてそれが評価されるところがたくさんありました」というご指摘は、現代社会が抱える問題(過度な承認欲求や生きづらさ)の核心にも触れるものだと感じます。「お金」以外の多様な物差し(例:地域社会での役割、芸事、家柄、人柄)が存在していた社会のあり方は、現代の私たちが「幸福」を再考する上で重要なヒントとなります。 3. 「時間と共に増す価値」: 会計上の「減価償却」とは逆に、時間経過が価値を高めるもの(歴史、伝統、インフラ、信頼関係)に着目された点は非常にユニークで的確です。これは、GDPのような「フロー(その時々の生産量)」の指標では捉えきれない、「ストック(蓄積された資産)」としての社会資本の重要性を示唆しています。 4. 具体例: 近江商人の「三方良し」と「三方一両損」の対比、ブランド品と「安物買いの銭失い」、あるいは会田氏や司馬氏の具体的な引用は、論旨を分かりやすく補強するのに役立っています。 構成案の代替案: 1. 序論:GDPでは測れない「幸福」 o 現状の問い(幸福論か価値論か、GDPを指標とすることへの疑問)を提示します。 o 本稿の目的(GDPのような経済的尺度以外の「価値」のあり方、特に「価値の多源性」と「時間的価値」について考察すること)を明確にします。 2. 第1章:GDPの限界 o 「値段と人間の主観的、客観的な価値は違う」で論じられた内容(コスパ、愛着、後悔など)を整理し、GDPが「幸福度」の指標として不十分である理由を明確にします。 3. 第2章:失われた「価値の多源性」 o 「価値とは何か」のセクションで展開された、会田雄二氏の例を中心とする「戦前の豊かな価値観」について論じます。 o 「飲む打つ買う」でも愛される人柄、「家業」への誇りなど、経済以外の評価軸が機能していた社会の姿を描写します。 o 対比として、戦後の価値観の単調化(金、地位、名誉)や、それに伴う環境破壊などの問題に触れます。 4. 第3章:時間と共に増進する価値 o 「生産物のその後」と「究極のケース」のセクションを統合します。 o 「減価償却」の概念をフックに、司馬遼太郎氏のパリ評(インフラ=ストック)や会田氏のイギリス評を紹介します。 o 消費されて終わるもの(フロー)と、持続・増進するもの(ストック:インフラ、伝統、歴史、信頼)を対比させ、後者の重要性を強調します。 5. 結論:多源的な価値観と幸福の再構築 o 「価値の多源性」と「時間と共に増す価値」の二つの視点を統合します。 o 経済的な尺度だけでなく、多様な物差しを持ち、長期的なストックを育むことが、社会全体の「幸福」につながるのではないか、という提言で締めくくります。 o (「おわりに」で触れられたイデオロギーの話は、論点を絞るために、ここでは一度外すか、あるいは「単一のイデオロギーも価値の単調化の一形態である」といった形で簡潔に触れる程度にするのが良いかもしれません。) 更なる発展のため(内容面) • 現代への接続: 「戦前は良かった」という懐古に留まらず、「では、現代社会において、私たちはどのようにして『価値の多源性』を取り戻せるか?」という未来志向の提言を加えると、論考がさらに力強くなります。(例:地域コミュニティ、趣味のサークル、オンラインでの活動、NPO/ボランティアなど、経済以外の活動の中に見出せる価値) • 「幸福」との結びつきの強化: 序論で「幸福論」を掲げているため、結論で「なぜ価値が多様であると(あるいは時間と共に増す価値を大切にすると)人は幸福なのか?」という問いに改めて答えると、論全体のまとまりが良くなります。(例:承認欲求が満たされる、自己肯定感が高まる、将来への安心感が得られる、など)

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