2025年11月24日月曜日
「真理でないもの」の研究
― 真偽を扱う論理学を「定点」として、それ以外の広大な暗黒大陸を眺める ―
1. 非論理的な人間の側面の研究
人間や社会は、合理性や論理や理系的なものだけでは、なかなか分析しきれません。
脳科学や人文科学が難しいのは、まさにその点にあります。しかし、難しいからといって手を引いてしまうには惜しすぎる領域でもあります。
「非論理的な人間の側面」と一口に言っても、そこには良い意味も悪い意味も、評価不能なぐちゃぐちゃのものも、すべて含まれます。
笑い、幸福感、感銘や感動
芸術、美術、音楽、文学のようなハイカルチャー
漫画、ゲーム、アニメなどのサブカルチャーにふれたときの体験
こうしたものは、いまだ決定版と言えるような体系化は難しいままです。
一方で、人間の悪意やイデオロギーに染まったプロパガンダ、政治的スローガンなどで用いられるレトリックもまた、「よい/悪い」はひとまず括弧に入れれば、人間の重要な側面です。これらは、詐欺、扇動、空気の醸成といった「実践」を通じて、社会を確実に動かしてきました。それならば、これらを正面から研究してみる価値もあるはずです。
さらに、そうしたまとまりからもはみ出した領域――
意識や意欲、感情などの障害
思考の連合弛緩、支離滅裂、言葉のサラダのような解体症状
といったものは、精神病理学において正常/異常を扱う文脈で研究されてきました。
本稿では、そうした医学的な議論とは少し距離を置き、
古代ギリシアでロゴス的ではないとされたレートリケー(レトリック)的・詭弁的・ソフィスト的なもの、
そして近現代哲学でも「非理性的な領域」として扱われてきたもの
を、やや脈絡が飛ぶのを承知の上で、列挙・分類・分析してみようと思います。
2. 一つの軸としての「真理」と、その外側
「真理」という言葉があります。
神、究極法則、悟り、解脱……。神学や科学や哲学の探求は、多くの場合「真理」を志向してきました。その意味での真理は、ときに神秘主義やオカルティズムと紙一重にも見えます。西洋近代の精神は、そうした「真理への欲望」と深く絡んでいます。
ここでは、真理をもう少し狭い意味――真偽を扱う論理学の観点から捉え直します。
論理学は、「真なる前提から真なる結論を導く」推論の形式を扱います。
数学や自然科学の基礎には、基本的にこのロゴス(論理)の枠組みが貫かれています。
この視点から見ると、
真理 = 論理的に扱えるもの
それ以外 = 非論理的なもの・真偽で評価しにくいもの
というざっくりした区別を引くことができます。
人間性全体を研究するという観点に立てば、真理も論理も、人間のごく一側面に過ぎません。しかし、カオスな対象を眺めるときには「定点」があった方が見やすくなります。
定点は、できるだけ明確に定義できるものがよい
余計なものを含まない、すっきりした概念の方が望ましい
そう考えると、「論理的に扱える真偽」を一つの定点とし、その外側に広がる「真理でないもの」「真偽で評価しにくいもの」を見渡してみる、という態度が取れます。
その過程で、かえって真理や論理そのものを相対化することもできるかもしれません。現代思想のいくつかの流れは、まさにそうした方向を歩んできた歴史でもあります。
対象がよく分からないとき、
収集・分類・分析のためには、視座をいくつも持っておくことが役に立ちます。
複対立的な対象把握――多様な視点・側面・観点・角度から対象を眺めることは、構築にも脱構築にも有効です。
3. まず、現在の社会状況から
人間には、
イデオロギー
ナラティブ(物語)
思想や信仰
論理や理性
強さへの欲望や、何かにすがりたい気持ち
といったものが、TPOに応じてさまざまな形で現れます。
世界も内面も、広大と言えば広大ですが、狭いと言えばあまりに狭い、という両面を持っています。
仏教の空論や現代哲学の構造主義的な発想に従えば、自性というものはなく、あらゆるものは多数の外部との縁や関係やネットワークによって成り立っています。人間のイデオロギーも例外ではありません。
20世紀のかなり長いあいだ、イデオロギーの世界は、ある意味で「強大な少数者」が支配していました。
マルクス主義や共産主義は、その代表的なものです。現在の日本の「リベラル」は、その直接の子孫というより、啓蒙思想やフランス革命を遠い祖先に持ちつつ、20世紀の新左翼を経て、
SDGs
差別
人権
環境主義
DEI
LGBTQ+
といったトピックとして現れている側面があります。昭和の時代に比べれば、ずいぶん弱く、日和見的で、一過性のムーブメントのようにも見えますが、それでも20世紀の強力なイデオロギー・ナラティブの継承者だけあって、ときにエピデミック/パンデミックのような激しい流行を示します。
しかし、こうしたものの対抗勢力とされる、
民主制
法治主義
新自由主義
グローバリズム
なども、冷静に見れば一種のイデオロギーです。
ごく大ざっぱに言えば、人間は社会的な場面においても、個人の内面においても、何らかのイデオロギーに常に「もたれかかり」ながら生きていると言えるでしょう。
そして、どれか一つのイデオロギーを絶対化し、強固な信条にしてしまうとき――
そこに矛盾や現実との齟齬が生じたときに、興味深い現象が現れます。
非論理的な主張
非現実的・反ファクトな言説
詭弁的・ファシスト的な振る舞い
といったものが、むしろ増殖していくのです。
これは「いけないことだからなくしてしまおう」という規範論とは別に、人間と社会の仕組みとして観察しておく価値があります。
いかに多様な視点から、アポロン的ではなくディオニュソス的なもの、
権威や秩序ではなくカーニバル的なもの、
人間の善性だけでなく邪悪さ・狡さ・自己正当化をも含むもの
を列挙・分類・分析できるか。
それが本稿の試みです。非理性的な人間や社会の要素は膨大で、きれいにまとめることは到底できません。そこで、あえてごちゃごちゃしたまま提示しながら、「マップ(地図)」らしきものを描いてみます。
4. 非ロゴス的・ソフィスト的言説の分類
――「暗黒大陸」の地図(表層編)
ここでは、とくに「言葉の使われ方」に焦点を当てます。
これらの言説は「真理の探求」というより、
場(空気)の支配
相手の無力化
自己正当化
を主な機能として持ちます。
4-1. 意味の空転・トートロジー型
定義:中身はないのに、何か深いことを言っているように見える形式。
進次郎構文的レトリック
「AはAである」という情報を、あたかも因果関係があるかのように語る。
例:「今のままではいけないと思います。だからこそ、日本は今のままではいけないと思っているのです。」
論理的価値はほぼゼロだが、情緒的な「決意」だけが伝わり、反論しづらい。
深淵なるナンセンス(Bullshit)
ハリー・フランクファートのいう「嘘」ではなく「でたらめ」。
真か偽かに関心がなく、その場を切り抜けるためだけに発される言葉。
4-2. 論点撹乱・すり替え型(エリスティック)
定義:「真理を探る対話」を、「勝敗」や「時間稼ぎ」にすり替える技術。
ご飯論法
Whataboutism(お前だって主義)
ゴールポストの移動
などはすでに広く知られているので、ここでは詳細は省略する。
4-3. 妄想的・自己閉鎖的ロジック
定義:外部との整合性を欠いた「閉じた論理体系」。
確証バイアスの要塞化
造語症的再定義(言葉のハイジャック)
連合弛緩的レトリック(政治的ワードサラダ)
など、内部の一貫性はあるが、外部からの検証や修正を受け付けない。
4-4. 感情・空気醸成型(パトス/アトモスフィア)
定義:論理ではなく、集団の情動や同調圧力に直接働きかけるもの。
道徳的優位のマウンティング(virtue signaling)
「空気」を根拠にした沈黙の強制
被害者性の権力化
などがここに入る。
4-5. ポスト真実型のソフィスト
定義:事実よりも物語(ナラティブ)を優先させる確信犯的手法。
オルタナティブ・ファクト
陰謀論的ナラティブ
複雑な現実を「悪の組織のせい」という単純な物語に還元し、理解力に乏しい層を動員する。
5. 拡張編:非ロゴスの「発生源」に注目する
ここまでは、主に言語表現の表層に注目した分類でした。
しかし、それだけでは「なぜ人はそこまでしてロゴスを捨てるのか」「なぜ誤謬が支持されるのか」が見えてきません。
そこで、精神分析・ニーチェ・バフチン・精神病理学などの視点を取り込み、
非ロゴスの「発生源」と「構造」
に注目した分類を試みます。
5-1. ディオニソス的・祝祭的噴出型(「熱」の非ロゴス)
論理の欠如というより、論理そのものを吹き飛ばすエネルギーの暴発。
バフチン的カーニバル:上下関係・真理・常識を一時的に転倒する祝祭。
ネットの「祭り」「炎上」はその現代版で、「カオスによる解放感」を目的とする。
躁的防衛と万能感:
根拠のない高揚感、多弁、多動、観念奔逸。
社会的には「改革者」や「カリスマ」として現れ、熱狂を生むが、着地点(ロゴス)がないため破綻しやすい。
衝動の言語化:
文脈抜きの「快・不快」「怒り」「欲望」の叩きつけ。
論理の積み重ねではなく「点」の連打としての発言。
5-2. パラノイア的・過剰意味づけ型(「硬」の非ロゴス)
統合失調症の妄想や陰謀論に近い領域。
ロゴスが欠如しているのではなく、
誤った前提に基づいた「過剰に厳密なロゴス」
が暴走している状態。
パラノイア的完結性:内部的には完璧に整合的だが、外部の事実修正を一切受け付けない。
ダニング=クルーガー効果の要塞化:
「知らないからこそ自信満々」が、パラノイア的自己正当化で強化される。
ルサンチマン的復讐ロジック:
力の敗北を「道徳的優位」の物語にすり替えて、相手を精神的に支配しようとする。
5-3. ヒステリー・乖離的・すり替え型(「逃」の非ロゴス)
直面したくない現実(本音・欲望)を、別の「きれいな言葉」や身体症状に変換する。
ヒステリー的転換:
認めたくない欲望や不満が、「被害感情」「体調不良」として現れる。
政治的には、「論理的反論」ではなく「お気持ち」の訴えによって議論を停止させる力として働く。
洒落・滑稽化によるずらし:
深刻な批判を冗談にすり替えて無効化する。
真面目に向き合うことからの逃走。
構造主義的「建前」の要塞:
本音(欲望・利権・差別心)を、「正義・公平・多様性」といった記号でラッピングする。
無意識レベルの自己正当化であるため、本人には「嘘」の自覚がない。
5-4. スキゾ的・記号遊戯型(「流」の非ロゴス)
意味を定着させず、記号だけが上滑りしていく領域。ポストモダン的状況の成れの果て。
新次郎構文:シニフィエに到達せず、シニフィアンのみが循環する。
言葉のサラダ的答弁:文法は保たれているが、意味の連結が断裂している。
スローガン連鎖による空虚な連帯:「絆」「希望」「前進」といった「大きな言葉」だけを繋げて、思考停止のまま仲間意識を確認する儀式。
6. 三階建てモデル:内面・対人・文化
ここまでの議論を、もう一度整理すると、「非ロゴス」は三つの階層に分けて考えられます。
心の内側の非ロゴス
欲望・衝動・感情・躁うつ・自己正当化・ダニング=クルーガー
パラノイドな世界解釈、妄想的世界観
対人レベルの非ロゴス(レトリック/ソフィスト技法)
ご飯論法、ストローマン、新次郎構文、ポリコレ応酬
洒落的ずらし、ガスライティング、道徳的マウンティング
集団・文化レベルの非ロゴス
バフチンのカーニバル、ニーチェのディオニュソス
ルサンチマン、思想支配、プロパガンダ、ポスト真実
ネットの祭り・炎上・ミーム文化
さらに、「病理的 vs 神経症的・感情的 vs 意図的・詐術的」が、段差ではなくグラデーションとして連続していると考えると、精神医学・心理学・レトリック論・政治思想が一つの座標系に乗ります。
7. 研究プログラムとしてのヒント
もしこれを本格的な研究領域として育てるなら、おおまかに次の三段階が考えられます。
形式のレベル
ここまで挙げたようなパターンを「類型表」として整備する。
非ロゴス構文リスト・詭弁カタログのようなもの。
機能のレベル
各パターンがどのような心理・社会機能を持つかを整理する。
責任回避
グループ結束
不安軽減
支配維持
自己正当化 など。
病理との比較のレベル
妄想・連合弛緩・言語新作などと、政治言説・プロパガンダの飛躍パターンを比較する。
「どこまでが文化的に許容される非ロゴスか」「どこから病理とみなすべきか」といった境界を考える。
実社会に応用するなら、
診察室でよく見る「非ロゴス的返答パターン」
国会・外交・テレビ討論・SNSでの典型例
を症例のように収集し、このマップ上にプロットしていくことで、理論と実践が結びついていくでしょう。
8. まとめとおわりに
ここまで見てきたように、「非ロゴスの暗黒大陸マップ」を描こうとすると、どうしても偏りや抜けは避けられません。それでもなお、ある程度の輪郭は見えてきます。
これらの要素を用いて何かを分析することもできる
逆に、これらを意識的に構成して「実戦投入」することもできてしまう
という、二面性があります。
詐欺やプロパガンダに使うこともできますし、弱者の声を可視化する手段として使うこともできます。
どれも、厳密な意味での「真理」でも「論理」でもないように見えます。
しかし、こうした雑多なものがこれだけ挙げられるという事実そのものが、
人間や社会は、真理や論理だけでは到底説明も構成もできない
ということを逆説的に示しているのかもしれません。
むしろ、
真理や論理は、人間と社会の中の「小さな一部」にすぎない
という気づきを与えてくれます。
今日の世界は、冷戦期のようなイデオロギー絶対主義の全盛からは距離を置きつつも、「ミニ冷戦」のような緊張状態を各所に抱えています。イデオロギーに強く従属した集団を見ていると、往々にして「真面目で、笑いがない」ことに気づきます。「検討」や「持ち帰って協議する」のは大好きですが、そこにディオニュソス的な明るさや祝祭性は見られません。
一方で、
新自由主義やグローバリズムは、明るさや笑顔をまとって登場しましたが、
激しい競争や格差・貧困も生みました。
目に見える笑顔の裏に、目に見えない涙があったことも確かでしょう。
こうした雑多で非ロゴスなものをまとめるための方法も、徐々に発達しつつあります。
思想的には、現代哲学や大乗仏教(空・中観・三諦)は、
こうしたカオスを整理する枠組みを提供しうるかもしれません。
実用的には、SNS や AI、やがてはスパコンや量子コンピュータが、
この「暗黒大陸」のデータを扱い始めるでしょう。
数学は、その両者――抽象的な構造と、技術的な応用――をつなぐ橋になるはずです。
手前味噌ではありますが、もし多くの人が、
現代哲学・大乗仏教・現代数学
のどれか一つでも、あるいはその組み合わせでも、少しずつ好きになってくれれば、それがすぐに「よりよい世界」をもたらす保証はありません。それでも、より多様な人々が、共通の土台で話すための知的リテラシーにはなりうるのではないでしょうか。
そしてそのとき、
ロゴス(真理/論理)と、その外側に広がる非ロゴスの暗黒大陸を、少しだけフラットに、少しだけユーモラスに、眺め直すことができるかもしれません。
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