2025年11月16日日曜日

現代哲学は一旦おいといて学問の見取り図、数学、論理、関係、自然言語や人文的なものその他の関係

現代哲学は一旦おいといて学問の見取り図、数学、論理、関係、自然言語や人文的なものその他の関係 本稿の目的は、人文科学を含めた学問全体に数学をもっと取り入れることで学問にもっと活気を吹き込めるのではないかという提案です。 またもっと集合論・圏論・型理論などの数学基礎論から「数学とは何か/学問とは何か/現代の教養とは何か」をざっくり見取り図として提示し、それを現代哲学や大乗仏教の考え方と接続してみることです。 ・数学は構造主義のいい説明材料だが・・・  構造主義は実在論(素朴実在論)に比べて難しいです。  現代数学は構造主義を説明するのに非常によい例になりますのでよく構造主義を説明するのに使います。  数学、構造、関係には関係があります(変な言い方で今最近はやりの新次郎構文みたいな表現ですが)。  数学は構造を説明する学問みたいな見方ができますが数学とは何か、構造とは何かと考える場合に「関係」という考え方が必要になります。  これはまさに相依性みたいな関係になっています。  例えば数学や構造を作ったり定義したりするのに関係という概念を使うことができます。  他方で関係を説明したり定義したりするのに数学や構造を使うこともまたできます。  論理学といわなくとも集合論を勉強すれば教科書の最初の方で関係の定義と論理学の初歩は書いてくれていることが多いですが関係の定義の仕方は数学基礎論の観点から数学をどういう切り口から定義というか表現するかによって変わります。 ・数学基礎論からの数学とは何か?そして学問とは何か?  ふわっとした表現では数学とは構造を研究する学問と言えるかもしれません。  それに構造主義という言葉を使う場合も「構造」という言葉をふわっと使ってきました。  こういうのはふわっとさせたままで数学、ひいては人文科学を含んだが学問全体の見取り図を提示します。  見取り図なので細かい説明は行わないことにします。  集合論と圏論くらいはどこかで説明しているような記憶もあるのでもしあれでしたら小生の拙文を読んでもらうかAIに聞いてもらうかググってもらえばいいかもしれません。 ・数学に対する切り口と数学を形成するパーツ  あらゆるものはいろんな切り口、観点から見たり語ったり考えたりすることができます。  これを進めるとポスト構造主義な手法にもなります。  こういう見方を名称を考えた山本七平氏をトリビューして複対立対象把握ということがありますがこれを使うと例えば現代哲学のデリダの脱構築を実践することができます。  いかに数学基礎論からの数学の部品や数学の切り口を列挙します。 ① 集合論 ② 論理学 ③ 圏論 ④ 型理論 ⑤ 証明論 ⑥ モデル理論 ⑦ 計算可能性理論(=計算機科学?) ⑧ 逆数学  上記は数学のパーツだったり数学とは何かを説明する、あるいは数学自体を構成する道具になります。  例えば古典的な数学分野なら集合論+論理学で記述されることが多いです。  圏論もそれ自体はパーツなようなもので数学を作ったり数学を説明する際には素朴な圏論だけではかけているので圏論+論理学、あるいは圏論に論理学を内在させてしまうような圏をつくる(例えばトポス)ということを行えば圏論自体の中に論理学を入れ込めますし何なら圏論で集合論を作ることも可能です。  ただし集合論の公理はZFC公理系というものですがトポスというか圏論で作る集合論、論理学は直感主義論理学というものになるのでやや集合論を基盤とした数学とはずれるものになります。  ただこういう細かい点(細かくないと反論されるかもしれませんが)はここでは置いておきます  直感主義論理学はブラウワー、型理論はバートランド・ラッセル、証明論はヒルベルトプログラムを想起させるので大雑把な数学史を知っているとなかなか面白いものでしょう。  ついでに集合論はカントール、構造主義や圏論はブルバキやグロダンディーク(や米田)を思い出させるので数学基礎論だけでなく数学史的にも楽しい分野かもしれません。  こういうのは数学好きだけでなく情報科学というかIT産業で実務的仕事をしているプログラマーはSEさん、PMさんにもお馴染みかもしれません。 ・数学は矛盾をも学問化する  人文科学は、矛盾だらけの人間や社会を「生素材」としてよく描いてきましたが、その矛盾を形式的にどう扱うかという点では、むしろ数理論理の方が先に行っています。  ここら辺は人文科学はちょっと怠慢なのではないかと皮肉りたくなるところですが上記の数学基礎論の諸項目は矛盾のない構造みたいなものを扱うものです。  ただ学問と言うもの、人間の知的好奇心を探求するのであれば矛盾のあるものも扱わなければいけません。  人文科学でそういうのを研究すればいいと思うのですが研究されてないようです。  逆に、というか数学の方がそういうものを研究しています。  たとえば、 ⑨ パラコンシステント論理(矛盾許容論理, paraconsistent logic) ⑩ ダイアレティシズム(矛盾真理論, dialetheism)  こういうものは矛盾があっても破綻しないシステムの研究をしています。  システムの安定性というのは大切です。  人間は矛盾だらけですし社会も矛盾だらけですがそれなりにまとまって成立してます(している場合もあります。 あ⑨パラコンテシステント論理学は矛盾がある、すなわちPかつnotPの場合でも破綻しないシステム研究です。 あ⑩ダイアレティシズムは正と反、というかあることに対する反対がある場合でも破綻しないシステムを研究しています。 ・ロゴスとパトスとミュトス、哲学者(ロゴス)とソフィスト(レトリック)、アポロンとデュオニソス(バッカス)、秩序(モノフォニーとシンフォニー)とカーニバル(ポリフォニー)  数学は無矛盾なものの体系化に成功しているうえ無矛盾なものまで体系化する研究をしています。  最近は社会科学も経済学や社会学の一部のようなものは数学化というか理系化してきています  ただ数学するにも数学や論理記号だけでは何か足りないし数学だけでは世界の全分野を全ての観点から研究する、ということには現在はなりません。  数学でうまく語れないことがあります。  大きく言えば非数学的なものがあります。  自然言語的なものであったり、人文的なものであったり、意味的なものであったり、価値的なものであったり、感情的なものであったり、意欲的なものであったり、感覚的なものであったりいろいろあります。  あえて表現すると数学がロゴス的、かなり古典的な哲学的、アポロン的、秩序(モノフォニーとシンフォニー)的とすればそうでないものはパトス(英語でパッション語源)、ミュトス(物語)、ソフィスト、レトリック、デュオニソス(バッカス)、カーニバル(ポリフォニー)的なものとしましょう。  本当は数学がそうであるように人文科学も矛盾も無矛盾も扱うべきなのですがややシニカルな言い方をすれば人文科学はさぼり過ぎというか無矛盾なものに対する体系的な研究はしていないように見えます。  ただ人文科学というか文系を下げたり推さなかったりというわけではなくここでは人文科学はめちゃめちゃ大切という観点から離します。 ・そもそも総合的な学問を行うためには  数学的なものだけではだめです。  世の中は数学的なものだけではできていませんし数学的な切り口だけでは全てを語りつくせるものではありません。  ですので非数学的なものの研究も必要だし、数学をその一部として含むもっと大きな視野での研究が必要です。  幸いにも数学はバリバリ研究されています。  論理学も数学者によって洗練させられていて数学の一分野となっています。  関係論も数学では曖昧なふわっとしたものではなく定義からして厳密に行えます。  かつ関係という概念もそれを使って数学や構造、論理学を作ることもできれば逆に数学や構造や論理学を使って関係を導き出すこともできます。  数学や理数系、数理系、理系、論理学も含めてこちらはバリバリ進んでおりかつ体系化しておりかつ基礎の深掘りも行われて明確な実体のある道具であり表現方法です。  せっかくこういういいものがあるのですからこれを使いつつ、これを内包するような感じで人文科学というか学問全体をブラッシュアップするべきです。  すなわち経済学とかそういう昔は文系といわれていた分野も今は理系とみられているように、文系といわれる分野も数学を取り込むべきです。  言い方を変えれば文系でも数学を勉強して、あるいはさせて万人が使える知の道具にするのがいいと思います。  私は現代哲学を広める活動をしていますが数学が難しそうで勉強しにくい、勉強を始めるハードルが高い、勉強を続ける抵抗が強いのであれば事前の方法としては現代哲学(構造主義やポスト構造主義)を勉強するのもいいでしょう。  それも無理なら大乗仏教を勉強する手もあります。  大乗仏教の空論と中観論を勉強すればだいたい現代哲学的考え方だったり現代数学的な考え方を習得することができます。  現代哲学とか大乗仏教の三諦論(空論や中観論をまとめたもの)を勉強すればそれ自体が構造主義的な見方ですし、しかも矛盾がないものだけではなく矛盾があるものも区別なく最初から対象にしています。 おわりに  現代哲学は終わった学問です。  ここで“終わった”と言うのは「完成した」という意味です  他方で現代数学の基礎論もある意味では完成した学問です。  終わったとまで言えないのはまだまだ数学のいろんな部品や切り口を生産する力があるし実際生産しているし、足りないところがあると思えば、例えば矛盾のあるシステムの研究が必要だなと語りないなと思えばそういうものを研究するバイタリティーがあるからです。  大乗仏教は最初から終わっています。  できた瞬間に完成している、というかお釈迦様が悟って布教している中でやや粗野かもしれませんが中核が完成しています。  のちにナーガールジュナ(龍樹)や天台智顗などより洗練した形にまとめましたがまとめただけでお釈迦様のそもそもの最初から中核ができていたという意味ではできたとたんに完成している学問です(ちなみに仏教は宗教ではなく哲学であるという考え方は強い。まあ仏教にもいろんな多様性があるので広くとれば単純化できないが)。  まあ何にせよ世の中には、特に社会には基本的な、みんなが共有するリテラシーが必要です。  それは言語もそうですし読み書きそろばんでもいいでしょう。  江戸時代の寺小屋で勉強していたように最低限の倫理道徳も必要かもしれません。  お金のリテラシーがないと社会生活できません。  最近はコンピュータや通信というかインターネットやらICTのリテラシーも必要でしょう。  世界の共通語としての英語のリテラシーもあった方がいいかもしれません。  それに出来たら現代哲学のリテラシー、これは現代数学基礎論のリテラシーでもいいですし、仏教(大乗仏教)的なリテラシーでも基本的に同じものなので代用できます。  現代哲学のリテラシーとは構造主義のリテラシーとポスト構造主義のリテラシーで後者は簡単です。  構造主義はややとっつきにくいですが(素朴)実在論だけではいろいろ弊害があるので寺小屋でも義務教育でも喉頭鏡菊機関である大学の教養課程でもいいですからできれば必修化して触れる機会を増やすのがよりよいだと思います。

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