2025年11月20日木曜日
「笑い」の研究──祭りとカーニバル、哲学との接点 現代哲学と脱構築の視点から
「笑い」の研究──祭りとカーニバル、哲学との接点
現代哲学と脱構築の視点から
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1. 笑いと笑みは違う
手前味噌な話で恐縮だが、「笑いとは何か」を考えるのは、長年のライフワークのひとつだった。きっかけははっきり思い出せないが、今でも覚えているのは、「笑い」と「微笑」「笑顔」は同じ「笑」という漢字を使っていても別のものを指しているのではないか、と気づいたことである。
「ほほ笑み」や「笑顔」は、たいてい楽さ・幸福感・リラックスといった状態を表している。これに対し、「笑い」はしばしば**突発的な「発作」**のように起こる。感情であると同時に、笑う前後で心の状態を切り替えてしまうような、スイッチの役割を果たす。
しかも笑いは、多くの場合「おかしい」「変だ」という感覚──何らかの差異がある場面で生じる。そこには、
• ある種の正統・常識・オーソリティ
• そこからずれたもの・外れたもの
という対比があるように思われる。
こう考えてくると、「笑い」とは単なる感情ではなく、かなり知的に分析できる対象ではないか、という予感が生まれてくる。感情一般はブラックボックスのままにされがちだが、笑いは知/感情の橋渡しになるのではないか。そう直感して以来、考えが少しずつ蓄積してきたので、ここで一度文章化してみたい。
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2. 感情は哲学で扱いにくいが、「笑い」は例外かもしれない
哲学、特に近現代哲学の中核は、言うまでもなく認識論と存在論である。カントの三批判書で言えば、
• 『純粋理性批判』:認識論と存在論=「知」を徹底的に扱う
• 『実践理性批判』:倫理・道徳=「意」の領域
• 『判断力批判』:美や崇高、趣味判断など、「情」と「知」のあいだ
という構成になっている。
『純粋理性批判』は、今読んでも「読めば読むほど返ってくる」書物であり、哲学史全体の流れから見てもある種の必然的な到達点として位置づけられている。一方で、『実践理性批判』『判断力批判』は、現代の多元的・非西洋中心的な視点から眺めると、
ある歴史的・文化的状況で提示された価値体系としては理解できるが、そのまま普遍的な規範として受け取るのは難しい
という印象になりやすい。
つまり、**知(認識)**に比べて、**情・意(感情・欲望・意志)**は、そもそも哲学的な形式化・理論化が難しい領域だということでもある。
その中で、「感情の一部としての笑い」だけは、比較的哲学が扱いやすい例外的な感情に見える。ここが本稿のひとつの出発点である。
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3. 哲学者たちは昔から「笑い」を気にしてきた
実際、「笑い」については古典的な哲学者も少なくない関心を払っている。
• カントやショーペンハウアーは、短いながらも笑いに関する考察を残した。
• ベルクソンは、まさに**『笑い』**という書物の中で、「人間社会における笑いのメカニズム」をかなり本格的に分析した(日本語訳も複数ある)。
• ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』では、修道院で起きた一連の事件が、アリストテレス『詩学』の「笑い」に関する部分を封印するためだった、という設定が物語の中核になっている。
ここでは「笑い」は、禁じられた知、権威にとって危険なものとして扱われている。このモチーフ自体、笑いが単なる「感情」ではなく、知性・権力・信仰の交点に位置する現象だということを示唆している。
さらに、笑いの中には明らかに**「知性がないと笑えない笑い」**がある。
• 赤ちゃんがくすぐられて笑う、生理的な笑い
• 動物にも見られる「笑いに近い反応」
といったものとは別に、
• 会話の文脈
• 複数のコード
• 多重の意味
などを同時に把握しないと成立しない笑いがある。思考や対話から笑いが「生まれる」というより、むしろ思考や対話が笑いへと変換される瞬間がある。
この「変換」の部分にこそ、
• 構造主義・ポスト構造主義
• 大乗仏教(特に中観・空)
• 構造を扱う現代数学(とりわけ圏論)
といった理論がアクセスできる入口があるように見える。逆に言えば、こうした理論は感情一般を扱う道具立てはあまり持っていなかったが、**知性に媒介された「知的な笑い」**だけは、理論に乗せられる感情だった──という仮説が立てられる。
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4. 知的な笑いの基本構図:「正しさ」からのズレ
知的な笑いについては、哲学や心理学・社会学の側からさまざまな議論があるが、大雑把に眺めると、だいたい同じ方向の結論に収束しているように見える。
小生も長らく笑いを「思索テーマ」のひとつとして考えてきたが、素朴にまとめると、
「おかしい」「変だ」という感覚が生じたときに、知的な笑いが生じる
と言える。ただし、ここでの「おかしい」「変」は単なる好みの問題ではない。
• 何か「正しい」「普通」「当たり前」とされている基準があり、
• そこからの「ズレ」「外れ」が知覚されたとき、
• そのズレが笑いとして立ち上がる。
より構造的に言えば、
• 暗黙の規則・期待・コード
• そこからの逸脱・反転・過剰・不足
という二つの組み合わせが、「知的な笑い」の最低限の条件になる。
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5. 従来の「笑いの三大理論」と知的な笑い
5-1. 「何がおかしいのか?」三つの代表的理論
哲学・心理学の世界では、「何が面白さを生むのか?」に関して、よく知られた笑いの三大理論がある。
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(1) 優越(優越感)理論(superiority theory)
• プラトンやホッブズ以来の古典的な見方。
• 他者の欠点・失敗・滑稽さを見て、そこに自分の優位性を感じたときに笑いが生じると説明する。
• ベルクソンの「機械的なものが生命的なものに貼りつく」という分析も、この系統に近い。
例として、漫画『北斗の拳』で雲のジュウザが宿敵ラオウと戦い、敗れながらも最後に笑いながら死んでいく場面を挙げられるかもしれない。あの笑いには、
• 自分の敗北を呑み込みつつ、それを超えた「優越」の感覚
• ラオウの「絶対的な真剣さ」に対する、別次元からの笑い
といった要素が混ざっているように見える。
日常的には、
• スリップして転ぶ人
• コントのドジ
• 漫才のボケ
など、他者の「すべり」を眺める笑いが典型例になる。
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(2) 不一致(不調和・インコンギュイティ)理論(incongruity theory)
• カントは笑いを「期待された緊張の急激な解消」として説明した。
• ショーペンハウアーは、概念と直観の不一致、つまり頭の中での理解と目の前の現実のズレから笑いが生じると述べる。
• 現代の「インコンギュイティ理論」の多くは、この流れを引き継いでいる。
関西のお笑いで有名になった漫才のボケとツッコミは、まさにこの理論の教科書的な例だ。
• 予想していた展開と、実際の展開がずれる
• ただし、そのズレが理解できる範囲で起こる
ときに、知的な笑いが立ち上がる。
例:
• 真面目な顔で、とんでもないことを言う
• 日常語と専門用語をわざと取り違える
• 形式だけ「真面目な会見」なのに、中身は完全にネタ など
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(3) 解放(緊張解放)理論(relief theory)
• フロイトが代表的。
• 心理的に抑圧されていた欲望や不安が、「冗談」や「機知(ウィット)」を介して解放されるときに笑いが起こる、と説明する。
• 社会的タブーをギャグにするブラックジョークなどが典型である。
落語家の桂枝雀は、大学などで笑いの研究を行ったが、彼の理論の中核にはこの「解放理論」があったと言われる。
• 禁欲・緊張・抑圧していた感情が緩む瞬間の笑い
• ブラックジョーク、下ネタ、戦争・災害時の自虐的ユーモア など
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5-2. 三理論を統合する「無害な違反」理論
近年よく引用されるのが、これらを統合したような
Benign Violation Theory(無害な違反理論)
である。要約すると、人は
1. 何らかのタブーやルール違反があり(violation)
2. しかしそれが、本当に傷つけるほどではない/遊びとして許容できると感じられるとき(benign)
3. その二つが同時に成立したときに笑う傾向がある
という考え方だ。
構造主義的に言い換えれば、
• 社会規範や意味構造の「ズレ」や「境界侵犯」が、
• 完全な破壊ではなく、「遊び」の範囲で扱われるとき、
• そのズレを受け止めるための形式として笑いが立ち上がる、
と言える。
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5-3. 知的な笑いは三理論の「重なり合う部分」にある
この三つの理論は、互いに排他的というより、同じ現象の異なる側面を強調していると見る方が分かりやすい。
「知的な笑い」という観点から見ると、
• 不一致理論:ほぼ必須条件
• 優越感理論:状況や制度に対するメタ的な優位としてしばしば混ざる
• 解放理論:社会的・心理的な抑圧からの解放の契機を含むことが多い
という形で、三つの理論が重なり合う領域として理解できる。
たとえば、ネット上の「祭り」や大喜利的な笑いを考えてみよう。
ある国の外交官の発言や、軍事組織の公式サイトが、一瞬で「大喜利のお題」と化す状況には、
• 公式の言説=「真剣さ」「威厳」というコード
• それを茶化し、別の読み替えで上書きする二次創作=逸脱
• 見ている側が感じる「そんな読み替えありか」という不一致の快感
• 同時に、権威への(ささやかな)優越感と、抑圧からの解放感
がひとまとめになっている。「知的な笑い」が大量生産されている場面と言ってよいだろう。
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6. 笑いの必要条件と、そこから先に必要なもの
6-1. 「タケシの名探偵」と幻のネタ本
昔、ファミコンに**『タケシの挑戦状』**とは別に、『タケシの名探偵』というゲームがあった。ビートたけしが制作に関わり、たけし自身が探偵役になって殺人事件の謎を解くという内容だ。その中に「幻のネタ本」というアイテムが登場する。お笑い芸人なら誰もが喉から手が出るほど欲しがりそうな、必ず人を笑わせる滑らないネタ集である。
もちろん、現実にはそんなものは存在しない。笑いの十分条件というものは、おそらく厳密な意味では存在しないのだろう。
一方で、上に述べたような理論が示す「正規からの偏倚=ズレ」は、笑いの必要条件としては機能するが、それだけではまだ足りない。ここに、いくつか追加の条件を考える必要がある。
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6-2. 条件① 安全性(Benign であること)
先ほど触れた Benign Violation Theory でも強調されるが、安全性は重要である。どれほど優れたジョークであっても、それが本当に命や生活を脅かすレベルの危険につながると感じられれば、人は笑うどころではなくなる。
• 「変」「おかしい」があっても
• それが「安心・安全・リラックスできる」範囲であること
──これが笑いの大前提である。
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6-3. 条件② 認知能力(分かること/難しすぎないこと)
どれほど秀逸なジョークでも、聞き手にとって難しすぎればジョークとして認知されない。逆に、あまりに幼稚すぎても刺さらない。
• 「うんこ」と言うだけで笑ってくれるのは、小学校低学年くらいまでである。
• 大人はそれがジョークであることは理解しても、それだけでは笑わない。
• ダジャレも、単なる同音異義語の置き換えだけでは不十分で、「意味の二重化」や「文脈のズレ」が伴って初めて笑いになる。
つまり、笑いには適切な知的難易度が必要であり、「分かるけど、ちょっと意外」というバランスが大切だと考えられる。
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6-4. 条件③ 場・状況・時間(TPOとメタ認知)
さらに、場と状況と時をわきまえるメタ認知能力も不可欠である。
• 不適切な場面で不適切なジョークを言えば、場が凍る。
• 天皇陛下への謁見の場面で、いきなり下世話なギャグを飛ばす人はほとんどいないだろう。
• つまり、TPOを理解する能力が必要になる。
また、権威主義的な国家や冷戦期の東側諸国など、公式空間そのものが笑いに馴染まない社会では、ジョークやアネクドートは地下に潜り、その代わりに非常に洗練されたブラックジョークが生まれたりする。
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7. ちょっと圏論的に:感情を「対象」、笑いを「射」として考える
笑いを、単に感情としてではなく「ある状態を別の状態に変換する操作」として捉えると、数学の圏論的なイメージが浮かんでくる。
• 感情の種類をそれぞれ「対象」と見なす
• ある感情状態から別の感情状態への変化を「射」と見なす
とすると、「緊張」という対象から「リラックス」という対象への射として、「笑い」が働く、と考えられるかもしれない。
感情全体を体系的・システマティックにとらえるのは容易ではないが、もしこうした圏論的モデルを作ることができれば、感情論をもう一段抽象的に整理することができるかもしれない。
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8. ポジティブな感情を俯瞰する:笑い以外の「陽性の情動」
「笑い」が知的処理を要する特殊な感情だとすれば、**ポジティブな感情(陽性感情)**全体を見渡すことで、笑いの位置もはっきりしてくる。
心理学や哲学(たとえばスピノザの情動分類)を手がかりに、ポジティブな感情を**「エネルギーの高さ」と「持続性」**で分類すると、次のような全体像が見えてくる。
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8-1. 活力的・高揚的なもの(高エネルギー・短期)
• 歓喜(Joy / Ecstasy):全身が震えるような強い喜び。
• 興奮(Excitement):これから起こることへの期待で心拍数が上がる状態。
• 熱狂(Enthusiasm):何かに没頭し、エネルギーが溢れ出る状態。
• 爽快感(Exhilaration):スポーツの後や難問が解けた時の「スカッ」とした感覚。
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8-2. 静謐・安定的・緩和的なもの(低エネルギー・長期)
• 安らぎ(Serenity):脅威がなく、守られている感覚。
• 充足感(Contentment):これで十分だと感じる満ち足りた気持ち。いわゆる「足るを知る」感覚。
• 緩和(Relief):緊張や苦痛から解放された時のホッとする感覚。
• 平穏(Peace / Calmness):心が波立っていない、凪いだ状態。
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8-3. 知的・超越的なもの
• 好奇心(Curiosity):未知のものに惹かれ、知りたいと思う知的欲求。
• 驚異・畏敬(Awe / Wonder):圧倒的な自然や深い真理に触れた時の、自分が小さく感じられるような感動。
• フロー(Flow):没入状態。自我を忘れ、活動と一体化している至福の状態。
• 霊感(Inspiration):ひらめきや、何かに打たれたような高揚。
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8-4. 社会的・関係的なもの
• 愛着(Affection):対象を大切に思い、そばにいたい感覚。
• 感謝(Gratitude):他者からの恩恵を自覚し、「ありがたい」と思う気持ち。
• 敬意(Respect):他者の価値や能力を認め、尊ぶ気持ち。
• 信頼(Trust):相手に委ねても大丈夫だという安心感。
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9. ネガティブな感情を俯瞰する:怒り・不安・悲しみ・自己意識
逆に、ネガティブな感情をいくつかのカテゴリーにまとめると、おおよそ次のようになる。
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9-1. 怒り・敵意系(外向きのエネルギー)
• 激怒(Rage):爆発的で制御困難な怒り。
• 憤り(Resentment):不当な扱いに対する持続的な怒り。
• 軽蔑(Contempt):対象を自分より劣っているとみなす冷たい感情。
• 嫌悪(Disgust):不快な対象を拒絶したいという強い反応。
• 嫉妬(Jealousy / Envy):他者への羨望、あるいは自分のものを奪われる恐れ。
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9-2. 恐怖・不安系(回避・警戒のエネルギー)
• 恐怖(Fear / Terror):目前の明確な危険に対する反応。
• 不安(Anxiety):対象が曖昧で、将来への漠然とした懸念。
• 懸念(Apprehension):何か悪いことが起きそうな予感。
• パニック(Panic):圧倒的な恐怖による混乱状態。
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9-3. 悲しみ・抑うつ系(エネルギーの低下・喪失)
• 悲嘆(Grief):大切なものを失った時の深い悲しみ。
• 憂鬱(Melancholy):重苦しく、晴れない気分。
• 絶望(Despair):希望が完全に断たれたと感じる状態。
• 無気力(Lethargy / Apathy):感情すら湧かない、エネルギーが枯渇した状態。
• 虚無感(Emptiness):意味や価値が感じられない空虚さ。
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9-4. 自己意識系(内向きのエネルギー)
• 羞恥(Shame):自分自身全体がダメだと感じる、他者の視線を意識した苦痛。
• 罪悪感(Guilt):自分の「行為」が誤っていたと感じる良心の痛み。
• 当惑(Embarrassment):社会的ルールから外れた際の気まずさ。
• 屈辱(Humiliation):他者によって尊厳を傷つけられた感覚。
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9-5. 強度と持続性のマトリクス
これらを**「強度(Y軸)」と「持続性(X軸)」**でプロットすると、より整理しやすい。
• 高強度・短持続:激怒(Rage)、パニック、不意の驚愕、号泣 など
• 低強度・長持続:敵意(Hostility)、持続する不安、慢性的な倦怠、憂鬱 など
こう並べてみると、ポジティブ・ネガティブを合わせても、これらを圏論的に完全にシステム化するのは容易ではないことが分かる。笑いのように「ある状態から別の状態へと変換する射」として見える部分もあれば、そう見えない部分も多い。
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10. 構造主義的に見た「おかしさ」と「ずれ」
ここから話を構造主義・ポスト構造主義へと接続できる。
構造主義をざっくりと定義すれば、
目に見える現象の背後には、目に見えない構造=関係の網がある
と考える立場である。笑いの場面に当てはめると、
• ある社会には、暗黙のコード(言語・礼儀・制度・常識)があり
• 人々は普段、それを「当たり前の世界」として生きている
• 笑いは、そのコードをわずかにずらしたり、別のコードを交差させたりするときに生じる
と整理できる。
同じ発言でも、「まじめな場」と「くだけた場」ではまったく違うニュアンスを持つ。構造主義的に言えば、笑いは一つの対象が複数の構造の上にまたがってしまう瞬間に発生する。
• コードAの上では「まじめ」
• コードBの上では「滑稽」
その二つを同時に意識したとき、「知的な笑い」が生まれる。笑いとは、コード間の差異が可視化される瞬間であり、レヴィ=ストロース的に言えば、構造そのものの恣意性・相対性がチラ見えする瞬間でもある。
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11. ポスト構造主義/脱構築としての笑い
ポスト構造主義、とりわけデリダの「脱構築」は、ある意味で笑いの高度な理論的版として読むこともできるかもしれない。差異、差延、戯れという言葉がキーワードになる。
脱構築は、単に「壊す」ことではなく、
• 男/女
• 理性/感情
• 西洋/非西洋
• 中心/周縁
• 正気/狂気
などの二項対立を、
• ひっくり返し
• ずらし
• 交差させる
ことで、その対立がいかに恣意的なものだったかを露わにする作業である。
この作業がうまくいったとき、私たちはしばしば**「思わず笑ってしまう」**。真面目な哲学書であっても、
「あ、そこをずらすのか」
という驚きとともに、知的な笑いがこみ上げてくる箇所がある。
ここでの笑いは、他者を馬鹿にするだけの優越感ではなく、
• いままで絶対だと思っていた構造が
• ほんの少しの言い換え・引用・皮肉・パロディで崩れてしまう
• その**「崩れやすさ」自体がおかしい**
という種類の笑いである。言い換えれば、**脱構築的な読解は、テキストに対する高度に知的な「ツッコミ」**だとも言える。
大乗仏教、とくに中観・空の思想における「自性の否定」も、ある意味ではあらゆる概念・実体に対する徹底した脱構築である。
すべては縁起的であり、独立した実体(自性)ではない
という見方に立てば、どんな堅苦しい概念や制度も、ある種の**「冗談」として見えてくる瞬間がある。そこには、悟りに近い「ほほえみ」ではない笑い**の可能性すら感じられる。
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12. 山本七平の「複対立的対象把握」と知的な笑い
ここで、日本的思考をめぐる山本七平の**「複対立的対象把握」**を持ち込むことができる。
複対立的対象把握とは、ごく大雑把に言えば、
対象を多次元的・多軸的に見る
ということである。どんな切り口・側面・角度を増やせるか、という発想は、心理学で言えば多因子解析に近い。
例として、性格分析の一つであるエゴグラムを見てみよう(ここでは簡略化して紹介する)。
• Nurturing Parent(NP):世話を焼き、面倒を見ようとする「養育的な親」
• Critical Parent(CP):規範やルールを重視する「批判的な親」
• Adult(A):合理的・論理的に物事を判断する「大人」
• Adapted Child(AC):周囲に合わせ、甘えや依存も含む「適応した子ども」
• Free Child(FC):自由で奔放な「自由な子ども」
これらの軸は、あえて「良い/悪い」という言葉を使うなら、どの軸も高くても低くても良い面・悪い面がある。
さらに、「良い」や「悪い」という言葉自体が極めてあいまいで多義的であることも重要だ。「良い」を英語に訳そうとしても、
• good
• right
• just
• beautiful
• skillful
など、いくらでも訳語がある。「倫理的に正しい」のが良いのか、「法的に正しい」のが良いのか、「論理的に正しい」のが良いのか、「美しい・感動的」であることが良いのか──定義をしない限り、議論は空転する。
かつて流行した、
「いじめには、いじめられる側にも悪いところがある」
といった言説は、その典型である。「悪い」をどう定義するのかを明確にしないまま用いるかぎり、これは空理空論に近い。
この「空理空論」という言葉自体、「空」「理」「論」という東洋思想・西洋思想双方で重要な語を含んでいる点で含蓄が深いが、それはさておき、「いい/悪い」自体が脱構築可能な概念になってしまう。
西洋近代的思考は、しばしば単一の対立軸で世界を整理しようとする。
• 善/悪
• 真/偽
• 主体/客体
• 科学/非科学
などである。
これに対して、山本七平の読みでは、日本文化(あるいは日本人の思考様式)は、同じ対象を複数の対立軸にまたがって把握する傾向がある。
• 法と「空気」
• 建前と本音
• 公と私
• 神話的世界観と現実的打算
といった対立が同時に走っており、その都度「どの軸を前面に出すか」を切り替えながら生きている、というイメージである。
ここに「知的な笑い」を重ねると、両者の相性は非常に良い。
1. 単一の対立軸で見れば、ある行動は「まじめ」「正しい」。
2. しかし別の軸で見ると、その行動は「滑稽」「自己矛盾」「空気に従っているだけ」に見える。
3. さらに別の軸からは、「いかにも日本的」「いかにも近代的」「いかにも宗教的」など、また別の意味を帯びる。
このとき対象は、単なる情報ではなく、複対立的な意味の束として現れる。その過剰な多義性と矛盾を、一瞬で「分かってしまう」ときに起こるのが、山本七平的な「複対立的把握」と、ポスト構造主義的「脱構築」とをつなぐ知的な笑いだと考えられる。
ネット上の「祭り」は、この複対立的把握の実験場でもある。
• 国際政治や戦争報道という「シリアスな軸」
• それをネタにして大喜利をする「お笑い・エンタメの軸」
• その大喜利自体を道徳的に批判する「倫理の軸」
• それらをさらにメディア論として俯瞰する「メタな軸」
複数の軸が同時に立ち上がるとき、対象は爆発的に脱構築される。ここに山本七平の複対立と、デリダ的脱構築、そして知的な笑いが交差する。
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13. インターネットとSNS時代の笑いと脱構築
フェスティバル/カーニバルとしての「祭り」
現代思想(狭くは現代哲学)が社会的に実装された典型例が、インターネットとSNSだと言っても大げさではない。
日本で言えば、2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)のような掲示板文化は、世界的にもかなり早い時期からネット上の匿名カーニバル空間を作り出していた可能性がある。
「個性がない」「均質的」「同調的」「顔が見えない」「独創性がない」と長らく言われてきた日本人が、実は世界でも屈指の“濃い”個性とセンスを持つ集団として認識されるようになった背景には、こうしたネット文化の覗き見効果があるのかもしれない。現在の「日本ブーム」の一部も、ここに根を持つ可能性がある。ある意味、ひろゆき氏はその象徴的な存在だと言える。
SNSでは、
• 祭り
• コラ
• ミーム
• 炎上
• バズり
といった現象が繰り返し起こる。このうち、祭り・コラ・ミームは、対象を笑いに変換するために、多数の人々が共通の対象に向かってパトスを集中させる集団キャンペーンのようなものだ。
一人の頭の中で対象を脱構築するのではなく、多人数が次々と投稿し、大量の見方・考え方を提示することで、対象は徹底的に相対化され、脱構築されていく。多様な個性を持つ集団が熱狂的にそれを行うので、その脱構築の規模は半端ではない。
バフチンがラブレーやドストエフスキーを論じたときに使った概念──
• ポリフォニー(多声性)
• カーニバル(祭り)
は、ネット空間との相性が抜群に良い。違うのはスケールである。今や世界中の誰もがネットにアクセスし、投稿に参加できる。さらにAIが翻訳してくれるので、意味不明な翻訳も含めて、ネットは言語や文化の意味生成の巨大な場になっている。
ソシュールやレヴィ=ストロースがこの状況を見たら、さぞかし喜び、「これこそ構造主義の実験場だ」と興奮したに違いない。
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14. 祭り・炎上・言説の変容──笑いは何を変えるのか
インターネットやSNSがない時代にも、もちろん論争による脱構築は行われてきた。日本の論壇で言えば、たとえば山本七平と本多勝一の論争は、山本の『私の中の日本軍』『「空気」の研究』『日本教について』などに詳しい。この論争は、その後の日中関係や日本人の歴史観に、少なからぬ影響を与えたと考えられる。
一対一の論争ですら世界観を変えるのだから、世界中の数億・数十億人が参加しうるインターネットとSNSの時代に、ひとたび祭りや炎上が起これば、その影響は計り知れない。
とくに興味深いのは、笑いが中心になる「祭り」の側だ。
• ISISのコラ画像
• フジテレビをめぐる騒動
• C国外務省や軍部の中二病的なX発表をネタにした大喜利 など
こうした対象は、「祭り」の中でとことん笑い飛ばされる。その結果として、
• それ以前とは「運気」や「流れ」が明らかに変わる
• 麻雀で言えば、牌の流れが変わったような感覚に近い
と言ってもよいかもしれない。
資本主義や近代化が、伝統や文化を解体・変容させるプロセスには、ふつう数年・数十年という時間がかかる。だが、バフチン的メタカーニバルとギガ・ポリフォニーとしてのネット祭りは、それを数日・数週間でやってしまう。
行政用語では「啓蒙」は「啓発」という言い換えになったが、ネット祭りがもたらすのは、そのレベルを遥かに超えた速度と規模の言説・意識・意味の変容である。
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15. おわりに──笑う者は強者か?感情論への帰還
ここまでをまとめると、
• 感情一般は哲学で扱いにくい
• しかし、知性を媒介とした「知的な笑い」は、
o 従来の笑いの理論(優越/不一致/解放)
o 構造主義の「コードと差異」
o ポスト構造主義の「脱構築」
o 山本七平の「複対立的対象把握」
を接続する、非常に都合の良い**「実験場」**になる
という図式が見えてくる。
特にインターネットとSNSの時代、2ch 以来の日本的「祭り」文化は、対象を笑いとポリフォニーで脱構築する巨大装置として機能している。一人の頭では到底不可能なスケールで、
• 対象は恐ろしく相対化され
• 空(くう)的な構造が露わになり
• それまでの何かから別の何かへと変換される
その結果、対象が新たな形で発展する場合もあれば、急速に衰退していく場合もある。ただ、一つ言えそうなのは、「笑い」はしばしば大きな変化のトリガーになる、ということだ。
冷戦期のソ連や東欧の共産・社会主義国、あるいはユダヤ人社会で生まれたジョークやアネクドートは、国内外・民族内外を問わず語り継がれ、自由主義陣営ではジョーク集として出版されてきた。そして最終的には、自由主義陣営が冷戦に勝利した。
最後に勝ったものが笑うのか。
それとも、最後まで笑っていられるものが勝者なのか。
どちらが正しいかはともかく、人間は「負けた」と思ったときに負ける。何度敗北しても「まだ終わっていない」と笑い飛ばし、挑戦し続ける者は、少なくとも精神的な意味で敗北を引き受けない。
そういう明るく陽気な知性と感情を人間にもたらしているのが、「笑い」という不思議な感情だと言えるだろう。
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