2025年11月5日水曜日

心の定義、イデオロギー的ではないシステム論、信頼を超えるもの、ついでに日本文化論

心の定義、イデオロギー的ではないシステム論、信頼を超えるもの、ついでに日本文化論 抄録:心の定義、システム論としての信頼、そして“信頼を超えるもの” 私たちの社会は信頼で動く。しかし、その多くは相手の裏切りを前提に設計された保険的な信頼だ。経済も制度も、基本は「最悪を見積もり、被害を抑える」。ゼロ和ではミニマックス、一般和ではナッシュ均衡がそれを表す。 けれども、もう一段上の層がある。相手が裏切らないだけでなく、自分の利益を超えて善を選ぶと確信できる関係があるとき、私たちはリスク最小化から価値最大化へ舵を切れる。ここで効いてくるのが、儒の忠恕(尽くす真心と、己をもって人を量る知)、仏教の四無量心(慈・悲・喜・捨)、キリスト教のアガペーだ。共通する核は惜しみなさである。 これをシステム論で言い直す。 ①徳(心):他者を自分事にする態度。 ②行為:与える/随喜する/執着を捨てる。 ③制度:透明性・一貫性・責任性で、徳の効果を増幅し保険化する。 信頼は③だけでは立たない。①が先行指標となり、②が日々の運用となり、③が外部ショックに備える。 経済の現場にも実例がある。近江商人の三方よし(売り手・買い手・世間)は、心ある信頼が取引コストを下げ、外部性を正にする典型だ。共同体の成熟が進むと、ごく一部では**「二方よし」(相手と世間)が暗黙に作動する。ここでは「自分によし」を明示せずとも、贈与がめぐり、欠乏への恐れが薄まる。この段階では、信頼は意識される対象ではなく飽和する環境**になる。制度コストは軽くなり、創造に回せる資源が増える。 では心とは何か。文字は心臓の象形に由来し、多くの徳目が「忄」を冠する。日本思想では、古代の清明心、中世の正直、近世の誠へと受け継がれた。「心」とは、恐れを減衰させ、贈与を駆動する内的エンジンのことだ、と私は定義したい。 結論。信頼は監視の代替ではない。贈与を増幅する装置だ。 恐れに最適化された設計から、惜しみなさを前提とする設計へ。心(徳)→行為→制度の順で組み直すとき、私たちは「リスク最小化の世界」から「価値最大化の世界」へ移行できる。 ・信頼が社会を支えている、だがぎりぎりな場合が多い  経済学など勉強してみると信頼、あるいは信用が実は経済学の陰の主役であることがあります。  別に経済だけじゃなくても、あるいは人間が要素として関与しないいろいろなシステムでも信頼の定義によってはシステムの核心に据えることができるでしょう。  そうした一般化はおいてちょっと別の観点から信頼について考えつつ現代の経済学よりより生産的なシステムを考えてみます。 ・信頼の対は?  信頼の対は裏切りという風に考えてみましょう。  この対比はゲーム理論などでよく見かけます。  「囚人のジレンマ」とか「しっぺ返し戦略」とか「ミニマックス戦略」とか「ナッシュの均衡」などで「ミニマックス」はゼロ和での原理、囚人のジレンマ等の一般和ゲームは「ナッシュ均衡」です。  ゲーム理論では最終的な最適値は利益の最大化ではなくリスクの最小化になる場合が多いです。  フォン・ノイマンとジョン・ナッシュの逸話はある程度有名かもしれません。  ジョン・ナッシュは映画のビューティフル・マインドの主人公で統合失調発症後ノーベル賞を取ったことで有名です。  ナッシュは数学者ですがゲーム理論を経済学に用いて最適値問題を証明しましたがフォン・ナッシュが「ナッシュの均衡」の評価をノイマンに求めたときノイマンはそれを「君の話はただの不動点定理の応用にすぎない」と返してナッシュの気分を害したという逸話があります。 ・信頼にも程度がある  信頼をするとき信頼をする側の心情にはピンからキリまであります。  ピンは「こいつは裏切るかもしれない」で「キリはこいつは裏切らないしたとえ自分の身を削ってもこちらの信頼以上の仕事をしようと心血を注いでくれるだろう」みたいな感情です。  多分後者のような心情のことを儒教では「忠恕」といい仏教では「慈悲喜捨」といいキリスト教では「愛(アガペー)」といいます。 そして日本では「心」といいます。 ・利益の最大化は?  リスクの最小化は「ミニマックス戦略」でいいでしょう。  相手が裏切ることを前提としてその後の行動を考えます。  でも相手が本当に上質の信用を持つ相手で会ったら損失の最小化ではなく利益の最大化ができる場合があります。  またもし損失を被っても嫌な気分を最小化できます。  上質の信用とは「相手が裏切らないでかつ自己犠牲や自分の骨身を削ってでもこちらのことや全体のことを考えて一番いいように頑張ってくれる」と相手を信じられ、かつ信用を供与された相手も信用を供与した相手やあるいはその相手を越えたもっと大きな何かをよくするためにたとえ自分が損をしても傷ついても精一杯努力してくれる」という場合です。 ・経済の例  経済とか経営とか金融とかお金回りのことでは相手の最悪の信用状態を想定して商売をしないとなかなかやっていけないもの、とされています。  ただし特殊な状態では最悪の信用状態を想定しなくてもやっていける場合があります。  それは「良質の信用、信頼を両者がともに持っているとき」です。  この場合は双方の労力やエネルギーを損を最小化することではなく利益を最大化とまではいかなくても増やす方向に費やすことができます。  逆に損失を減らすことに費やしていたロスや非効率を少なくするか一番いい場合にはなくすことができます。 ・心が大切か?  儒学の「忠恕」、仏教の四無量心といわれる「慈悲喜捨」、キリスト教の「愛(アガペー)」、日本の「心」すべてに共通に含まれている文字があります。  「心」です。  「忠」は真心と思いやりです。  字を見ると心の中と書いて自分の心の中心を指します。  「恕」は心の如くと書きます。  文字からすれば相手の「心の如く」で相手の気持ちになるという意味です。  「恕」は一般には「思いやり」や「許すこと」と解されます。  「慈」は慈しむことです。  「悲」は「相手の何かを悲しむこと」や「相手とともに一緒に悲しんであげること」みたいな意味です。  「喜」は「相手のいいことを喜んであげること」だったり「相手とともに喜んであげること」です。  捨は「相手のために自分をすてること」あるいは「相手のために自分の何かを捨てること」みたいに解することができます。  「愛(アガペー)」はキリスト教の場合は自己犠牲を含む他者への限りない愛情です。  問題は日本の「心」です。  そもそも語源というか字の形は心臓の象形文字だそうです。  「心とは何か?」これは日本思想史の最大のテーマではないかと私は思います。  以下は私見です。 ・心の学問  江戸時代には町人が学問をする同時代の世界と比較しても非常に精神的に豊かな時代を形成していました。  在野の一般庶民が学問をするのです。  そうした学問の中に「心学」というものがあります。  石門心学が有名です。  これは江戸初期くらいの京都の石田梅岩が作った学問です。  江戸時代はいろいろな学問をいろいろな人々が勉強しました。  対象は非常に幅広いのですが儒学の研究が本格化したのが多分このころで多分考証学とかの分野では本場の中国を先取りしたり上回っていたりしたと思います。  江戸末期の中医学文献の考証学でも日本がやはり中国を上回り世界トップです。  神学は総額の中の朱子学ではなくより陽明学の影響を受けていたと思います。  陽明学は幕末の志士の異常な行動原理を支えた思想です。  志士ではなくても大塩平八郎の乱の大塩平八郎がやはり苦しむ人々のために自己犠牲を行っています。  2025年10月現在日本維新の会の議員たちが自己犠牲的に日本のために働いているように見えます。  ただしあれは少なくとも維新の一部の人は議員なんかやっているよりほかの仕事をやっていた方が全然儲かるような人たちが結構いるのではないでしょうか?  いざとなったらテレビのコメンテーターしたりユーチューバーをしたりしてもいいわけですし、もともと弁護士だったり会社経営者だったりと議員じゃない方が儲かるような人たちがボランティア的に日本のために奉仕や献身で政治家になって政治をしてくれているように見えます。  維新の志士の一部もそうだったでしょう。  一万円札のお札の渋沢栄一は実家は豪農(農家というより総合財閥)で超お金持ちでしたが一時志士を志しています。 ・心学、陽明学という学問の特殊性  多分心学に影響を与えた陽明学というのはかなり特殊な学問です。  西洋哲学的に言えば観念論です。  ドイツ観念論を客観的観念論というのであれば、陽明学は主観的観念論といわれると何かで見た記憶があります。  陽明学の対抗馬は朱子学です。  これは理気二元論です。  理という世の中の法則が気という世の中の物質を動かします。  気というと空気やオーラみたいな気体みたいなものを想像するかもしれませんが期待に限らず物質的なものすべてと思って下さい。  非常に西洋近代科学的とも同じようだともいえる考え方で日本の近代化の一つの基礎とも考えられます。  どっちかというと宋学の理知的な方向は天地や自然と人間や社会とを分離したりと理知的な方向に向かい日本の近代化の一つの基底となっているかもしれません。  陽明学はそれに比べて何というかすごい思想です。  自分の中の観念と自分を区別しません。  世界はすなわち自分であり、自分はすなわち世界です。  観念に現れる森羅万象はすなわち自分の一部であり、自分は自分の観念の中の一要素にすぎません。  自分を世界を一体化します。  結果として自分が全行を成せば世界はよくなり自分もよくなります。  自分が悪行を成せば世界は悪くなり自分も悪くなります。  知行合一、知良知などといいます。  世界がよくなれば自分もよくなるのだから自分の命などは些細なことです。  また自分がよくなれば世界もまたよくなります。  これが幕末の志士たちが狂信的とでもいうべき行動力を発揮し滅私奉公した理由です。  私は公であり、公は私で両者は同じものです。  単に武士道があれば幕末の志士のように命を文字通りなげうって義のため国のために尽くすという行動ができたわけではありません。  幕臣は侍ですが目も当てられない倫理というか武士道状態で徳川吉宗にも勝海舟にも見限られています。  「くるいたまへ」これは吉田松陰が松下村塾の塾生の若者たちに言った言葉です。  松蔭自体でも知的に損得で考えれば損にしかならない行動ばかりしています。  黒船に乗り込んでペリーにアメリカの渡航を頼んだり、幕府につかまった後門番や受刑者たちに日本のあるべき道を説いています。  その中には法に触れることもあったので門番たちは気がくるっていると思ったでしょう。  その親せきで同じ師匠の弟弟子が乃木希典です。  この2人はスパルタ教育を受けています。  貧しいので支障が畑を耕し畔端で書を音読します。  畑ですから小虫や蚊などがいて痒いので肌を掻くと師匠は死ぬほど殴り続けます。  書を読む勉強は公にするものであり、痒いので掻くという行為は私事のためにしているのであり私のために公をおろそかにする行為だという理由です。  乃木希典は日露戦争の英雄ですが明治天皇がご崩御なさった際に夫婦で殉死しています。  これは当時の人々、特に江戸時代の教育を受けて人格形成を行った世代には大きな影響を与えました。  この事件をきっかけに夏目漱石が書いた本が「こころ」です。 ・心の意味  多分心の意味としてきちんと定義されているものはないと思います。  日本の倫理思想史では古代の清明心、これは後ろ暗くない汚れていない心を指します。  またケチも嫌います。  中世は正直(せいちょく)の倫理です。  日本昔話では「昔々あるところに正直者のおじいさんとおばあさんが・・・」ではじまるあの正直です。  幕末になると「誠」や「誠実」の哲学になります。  これは新選組の旗でも有名です。  陽明学は幕末には志士だけではなく幕府からは異端視されましたが士と名乗る者たちに受け入れられた哲学でした。  西郷隆盛が尊敬し座右の銘とした言志四録を書いた陽朱陰王といわれた佐藤一斉は有名です。  「少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り、壮にして学べば、則ち老いて衰えず、老いて学べば、則ち死して朽ちず」という言葉は佐藤一斉の言葉です。  確か小泉進次郎の父親の小泉純一郎が何か引用していたような気がしますが何かは忘れました。 ・信頼に心がある場合  さて最初のシステム論に戻りますが、ちょっと時間がないので経済の例えだけ挙げさせて頂きます。  信用、信頼は経済には大切ですが初等の経済学の教科書に書いてあるようなケースでは質の悪い信用や信頼をベースに書かれているものが多いです。  つまりリスクの最小化をはかる経済学です。  しかし貸し借りや売買、交換の相手通しが質の良い心のある信頼で結ばれていた場合にはまた別のものを目指すことができます。  幕末から明治期に至る日本の経済を席巻した近江商人は「三方よし」という考え方を広げました。  「自分によし、相手によし、世の中によし」という考え方で商売を行いました。  これは大変質の良い信頼に支えられた経済思想です。  さらに利他性と自己犠牲が極限まで上がった集団ではさらに高度な考え方が成立する可能性があります。  また一部にそういう例は現実にもみられます。  それは「二方よし」です。  「相手によし、世の中によし」だけでいいのです。  「自分によし」を考えなくても誰かが、あるいは世の中が自分にとって良いもの、良いことをしてくれます。  このレベルでは信頼という暗黙に裏切りを意識した概念が必要なくなります。  信頼も裏切りもない心だけが空気のように存在する世界です。  ここに至ると経済はリスクの最小化ではなく利得の最大化を集団全体で目指すことができます。 ・おわりに  信頼のある所に裏切りがあり、裏切りのある所に信頼があります。  この両者は基本的な経済学では外部環境というか前提です。  空気や水のようなものです。  しかし利他と自己犠牲、滅私奉公みたいな考えがいきわたるところでは信頼と裏切りは対消滅します。  信頼は空気と水のようなものになり意識する必要がなくなります。  質の良い信頼、それは心の域に昇華します。  そういった状態が成立する場所では経済法則自体が変化します。  リスクを恐れるのではなくみんなが他人のため全体のため世の中のために自分のことは忘れて、自分のことは顧みず社会全体や時には地球全体、環境全体によいことを達成するために邁進して行動できるようになります。  ある種の成熟社会や歴史のある上層社会では一部こういうことが成立している場合があります。  心理学のマズロー理論では一応一通りの欲求が充足されると人間は利他的なことの価値を重視しそれにリソースを割くというものがあります。  これは一部改良を加えれば人間じゃないもの、欲望がないもの、物質や具体的な構造、抽象的なシステムなどいろいろな対象に対して適用できるように理論化できると思われますのでいずれ時間があるときにそれを記事にしてみたいと思います。

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