2025年11月9日日曜日
数学=神との距離感を調整する装置、神との距離感と文系と理系、古代ギリシア、中世キリスト教、数学、近代科学、日本文化などとの関係
数学=神との距離感を調整する装置、神との距離感と文系と理系、古代ギリシア、中世キリスト教、数学、近代科学、日本文化などとの関係
抄録
本稿の主張は単純だ。数学は、人間と神・宗教と科学の「距離」を調整してきた装置である。古代・中世には、算術・幾何・音楽・天文が神学の教養(クアドリウィウム)として秩序と調和を媒介し、近代には実証と数理が宗教から自立した。日本では江戸の文献学と明治の制度が、この距離の取り方を独自に組み替えた。
要旨
数学は宗教と知の距離を調節する装置だった。中世は神学の教養、近代は実証と数理の自立。日本は江戸の文献学と明治の制度導入で独自の距離感を形成し、現代はAI時代の横断教養として論理・数理の再配置が課題となる。
・神との距離感を介在する数学
数学は古代、中世、近代の宗教史、科学史を見ると神に対するアプローチとか距離感を調整する一つの道具でした。
古代ギリシアでプラトンが彼の私塾のアカデメイアの入り口に「幾何学を学ばざる者この門を入るべからず」と書いていました。
また中世の大学は基本はキリスト教を学ぶためにあるところですが、専門に進む前の自由7科のうち幾何学、算術、天文学、音楽の4教科は数学とみなされており、四科として特別視されています。
他の3科は多分ラテン語(ギリシア語学習もあったかもしれない)と論理学、修辞学です。
この中で論理学は現在では数学に入れてもいいかもしれませんが一応文理共通科目としておきましょう。
ただし現在の文系の教育では現代論理学、例えば記号論理学などはきちんと勉強していないと思われます。
旧帝大など大きな大学では教養で論理学がありますがこれは文理ともに選択であるケースの方が多いかもしれません。
そういう意味では現代の大学も論理学を必修にした方がいいかもしれません。
世の中なんちゃって論理学というか論理学ぶりな言説が多すぎて世の中を混乱させているように見えるからです。
まあある程度混乱した方が世の中は刺激があって面白いのかもしれませんが。
これは学問もそうですが聖書を学ぶための言語として必修化し学問の共通語とされたもので現在で言うと英語と同じような道具的なものでしょう。
聖書を原書で学びたいならギリシア語もそうですがヘブライ語やアラム語の勉強も必要です。
必修共通教科としてそこまで求めなかったのはラテン語訳の聖書が読めたらそれでいいからで大学の研究機関ではなく教育機関としての聖職者養成学校としての側面が多かったからでしょう。
・ではなぜ専門科目に入る前に数学を必修としたのか?
現在はちょっと状況が変わってきましたが長らく日本では文系と理系を分ける風習がありました。
これは程度の差はあれ近代西洋の学問もそういう傾向があったかもしれません。
現在は経済学というかお金のリテラシーが広く広まって成熟してきたのもありますし、情報科学、技術、産業が人や社会を変える産業革命の真っただ中なので理系や数学が重視される世の中になっているようです。
人間は歴史観が短いというか基本的な認知特性としてある種の錯覚を持つ場合があります。
「今までそうだったことは昔からそうだった」
みたいな認知的な思い込みが生じる場合があります。
中世の神学というと現代人の目からみるとド文系で理数系や数学とは全く関係ないと思いがちかもしれません。
実際は全く逆でした。
理由の1つ目は数学的世界は神の理想的な世界を体現する純粋な観念としてプラトンのイデア論的な感じで神を求めるなら神に近づくための良い方法とみなされていました。
理由の2つ目は神が作った世界は調和と秩序が保たれているに違いない、という考え方です。
調和と秩序のある世界、ことわりと法則性のある世界を追求する方法として数学は実質的に神学的に必要な教養と考えられたのです。
そのため大学に入ると専門で神学ではなく医学を目指そうと方角を目指そうと教養の初等の7科目には4教科数学が含まれました。
幾何学は量の数学、算術は数の数学、音楽は時間の数学、天文学は時空間の数学です。
・数学という言葉の意味
数学の翻訳前の言葉は英語ではmathematicsです。
これはギリシア語の翻訳です。
ギリシア語ではこれは「学ぶべきもの」というような意味を持っていました。
「学ぶべきもの」がなぜ「数学」と翻訳されたのかはいろいろ意見がありますが見方によってはこれは誤訳とも言えます。
なぜ中世の大学の日本語で数学と言われる4科が「学ぶべきもの」とされたかというとそれは上に描いた理由があります。
他にもあるかもしれませんが大きく2つ、1つ目は数学の世界は神の作った世界をもっとも純粋に体現しており神に近づくための方法になること、2つ目は神が作った世界が無秩序で適当なわけはないので神の作った世界の秩序と調和、法則と理を理解し研究するためには数学を学び研究することが必要であると考えられたからです。
・近代の大変動、「論理学が必修ではなくなってしまった!」
中世というと暗黒時代で無知蒙昧迷信の時代でどうしようもない、しょうもない時代と思われるかもしれません。
しかし中世の大学行くようなインテリは文理問わず(中世とかヨーロッパに文系とか理系とか言う区別があるのか知りませんが)全員が数学(+論理学)を学ぶのが必修でした。
中世の前のギリシア時代はどうだったかというと実情はよく分かりません。
ただプラトンのアカデメイアの逸話は有名ですが現代でも『数学を作った人々』という著作で有名な20世紀初頭のアメリカの数学会の会長のベルがプラトンが幾何学を理解していたかはあやしいような胸を皮肉で書いています。
まあプラトンが幾何学を分かっていたかどうかはともかく古代ギリシアには数理学的な科学や技術、機械、記号論的な論理学を重視する考え方がある程度あったと思われます。
天文学の精巧な計測機械が残されていますし、中世から近代を通じて現在のコンピュータにつながる考え方やパスカルのように実際に計算機を作った人もいるし、しかも一人ならずいるからです。
・近代西洋科学・技術はまず理数系から発展(哲学もかもしれないが)
中世の大学の高等課程の専門4科は心学、法学、医学、哲学です。
ただし哲学は専門ではなく教養の方アーツの方と見る見方もあります。
このなかで哲学は「その他」みたいな感じ雑多な学問ような感じです。
その哲学が近現代になると原罪使われているような意味になっていきます。
そしてなんといっても数学関係の発展が素晴らしかったと思います。
中世4科の幾何学、算術、音楽、天文学の全てが飛躍的に発展しました。
これは中世の学問の学習システムの貢献は大きいでしょう。
近代になって華やかに開いたのは哲学、新教徒のクラッシック音楽、ルネサンス期のアラビア輸入の代数学を合わせたデカルトの代数幾何学、ガリレオやコペルニクスの天文学という風に中世の教養自由7科のうちの数学系の4科が見事に花開いています。
ついでに専門4科の方も神学のハシタメだった哲学が見事に主人公に躍り出ます。
逆にラテン語みたいな古典語が没落していきます。
特にフランスみたいなナショナリズムの勃興があったりするとその傾向が顕著で古典語ではなく自国語でいろいろなことが書かれるようになっていきます。
また中世の専門科目も近代には自然科学や数学の躍進に比べるとやや振るわないように見えます。
神学、法学、医学ですが法学は地味な学問ですが、医学は他の自然科学とともにしり上がりによくなっていく感じです。
数学、天文学、物理学、哲学みたいなのが最初にスタートダッシュしてその他の自然科学や応用化学も目に見える躍進が見えてきて、社会科学はちょっと遅い感じではないでしょうか。
人文科学は知りません。
まあ異論はあるとは思いますが近代のスタートダッシュは数学(天文学、代数幾何学、音楽)と哲学で切られた感じのイメージはそうずれてはいないかなと思います。
・中世数学は神学の精神修養の方法でもあった
もうちょっとズームインして中世の数学を見てみるとこれはある種の精神修養の方法でした。
イデア界を内観することが神の作った完璧な世界を創造することにつながり神に近づけるように気分になれたのかもしれません。
同時に神の作った世界の秩序や安定を感じ、被造物としての世界の仕組みや法則、理を理解することは宗教的にも大切な事だったのかもしれません。
・中世の大学は理系重視?
そんな事情があるためかどうかわかりませんが中世の大学に行くようなインテリの世界では非常に数学重視です。
神やキリスト教を理解するためには数学は語源通り「学ぶべきもの」です。
・ルネサンスと新プラトン主義
中世末期と近代初期をつなぐルネサンス期には新プラトン主義が流行します。
これも見ようによっては精神修養というか精神主義です。
例えばメディチ家はプラトン学院というのを作りそこで教養を積んだのがミケランジェロです。
ミケランジェロのバチカンのピエタ像やシスティーナ礼拝堂の天井画を見ると深い精神性が感じられると思います。
精神的な没入の中で少しは神に近づく、あるいは少しでも神に近づこうとする感覚があったのかもしれません。
カトリックというのは聖書系の宗教の中では偶像崇拝禁止みたいなのが弱いですし、ルネサンス自体が古代の人文復興の考え方でユダヤ教的聖書観や神概念からやや離れて被造物に神を感じるのを許す風潮が強いでミケランジェロのような人類の作った最高峰みたいな芸術作品を作る余地があったのかもしれません。
新教徒が聖像を破壊した一方クラッシック音楽を発展させたのとは興味深い対比になります。
・数学の自立は神と宗教からの乖離?
日本では長らく理系離れが懸念され、理系に行く人の数を増やしたり政府が理系的な物を後押ししたりしないといけないみたいな議論が長年あったようですが、世界でも今は理系人材重視が加速している感じではないでしょうか。
人文系の一部は知りませんが社会科学でもなんでも科学分野では理数系の知識が必要になっている時代ではないでしょうか。
中世的万能人というのはどの分野にも精通して文理両刀使いみたいなところがあったイメージがあり、そういう理想像は近代初期にもあったのではないでしょうか。
理数系と哲学の両刀遣いやその他の分野でも広く活躍した人が近代初期には目立って見られます。
ただ近代でも時代が下るとそういう人は減っていきます。
学問が発展すると専門分化がおこるのでしょうか。
近代を見ると数学が全てのインテリというか学者が勉強するという感じではなくなっていく方向に進んでいくようです。
結果として文理の文化が起こっているのではないでしょうか。
パスカルもデカルトもライプニッツも哲学者兼数学者みたいなところがありますがカントやフィヒテやシェリングやヘーゲルはあまり数学とか物理では有名ではないようです。
同じく理数系の分野でもニュートンはともかくラプラスとかラグランジュとかガウスとか特に哲学の分野で有名な仕事をしたとかいう感じもしません。
ヨーロッパの歴史のある中世からの大学は保守的でしょうから教養の自由7科や数学4科は教えていたのかもしれませんが特に数学の4科は中世と同じ内容を教えるわけにはいかないでしょう。
幾何学はいいとしても算術は進んだ代数学など導入しないとだめかもしれませんし天文学はニュートン力学から勉強しないといけないかもしれませんし、音楽も楽典の内容や楽器の進化もあり中世のままの教育では時代錯誤過ぎます。
かといってバリバリの当時の数学や物理学や音楽を教えるとこれもまた微妙なところがあるでしょう。
・二元論、唯物的な理数系、実証と理論
昔のようになんとなく地動説とかユークリッド幾何学とかゴシック音楽とか単純な算数とかならもやもやっとした感じで何となく神学というかイデア論的な感じで宗教とも相性を合わせられるし神の作った完全な世界を止観する道具としてちょうどよかったのかもしれません。
ただガリレオやコペルニクスはともかくニュートンの古典力学とか『自然哲学の数学的原理』みたいな本が聖書やユークリッドの原論に次ぐようなベストセラーみたいなものになってくるとだいぶ話が違ってきます。
何というか古典力学的に天文学の問題を解くのは即物的でもあり作業ゲ―みたいなところがあります。
それを作ったのが神であるとすれば別に宗教や神学と矛盾はしないのかもしれませんが神や宗教への関心が相対的に薄れる、というかひどい場合には神や宗教の有無がどうでもよくなります。
無神論というより無関心神論というか無視神論みたいな方向になる可能性があります。
神や宗教の存在に心を置く時間が少なくなり数学や物理や実験に力を注げばいいのです。
それはそれで神の作った世界の法則を研究しているのだから宗教に経験であるという建前も立ちます。
ただちょっと近代的な科学者や数学者は宗教や教会を胡散臭い目で見るところがあったかもしれません。
中世は暗黒と言われたり宗教改革が起こったりするだけあって傲慢や搾取が酷かったですからその反動が来るのが郁子なるかなという感じです。
ニュートンは表立っては出しませんでしたが宗教的にはアリウス派(イエスを人間とみる立場)の信仰を持っていた人であり新教でも旧教でも異端な考え方の持ち主でした。
でもキリスト教徒以外―ユダヤ教徒やイスラム教徒も含めて―以外には至極まっとうな見方です。
大きな目で見れば三位一体とか色々な理屈をこねようと一人の人間を唯一神と同意移しするのはかなり特殊な思想です(別にキリスト教批判ではありませんしキリスト教は大好きですのであしからず)。
あと近代科学の方法論が中世のふんわりとした理数系的な物とは全然違います。
近代科学は実証と理論化をガシガシ進める非常に実務的で勤労的な過程です。
数学は理論化だけですがそれでも解析力学などがしがし進めます。
がしがし進めるのはいいのですがこの実務への集中は神や宗教の事を考える時間を短縮させます。
それに別に実務作業に神や宗教の話を絡ませる必要もないので神や宗教は科学や数学―理論化や実証作業―から浮いていくというか距離が離れていきます。
実務作業自体が即物的というか唯物的な面があります。
神や宗教は実務的にはあってもいいがなくてもいい、どっちでもいいものになります。
神と理数系や中世的数学との分離です。
神学者や聖職者の方も神に近づくために解析力学を勉強するとか、解析学を勉強するとかそういう理屈はピンとこないというか全然同意できないかもしれません。
・古代、中世は数学、理数系が神と人をつないでいた
変な話ですが古代、中世は当時の水準の数学や自然科学が神と人、宗教と人をつないでいた、近づけていたとみることができるかもしれません。
そのための大学の必修教科という装置もありました。
それを学べば宇宙論から世界の説明体系やらいろいろな宗教、神学的知識を得られることと同義であった幸せな時代でしたし、それを支える社会的態度も制度やシステムもありました。
しかし古代や中世の理系、数学や自然科学は現代の我々から見ればふわっとしたものでした。
・近代から現代における理数系(理系)の宗教と人文系(文系)の分離
近代になっても歴史のある名門大学の最初の方の学年で中世自由7学の形のまま教養学部で教えられていたかもしれません。
ただだんだん現在の大学で見られるような形に変化していったのではないでしょうか?
現在の日本の大学の教養学部では理系では微分積分学や線形代数学くらいは必修ではないでしょうか?
他はどの理数系の学科によるかと思われます。
教養廃止や短縮で最初から専門教育をばしばしやり、そのカリキュラムの中に必修として微分積分学や線形代数学他の初等的な数学が含まれている場合もあるかもしれません。
他方で文系の学科はというとさすがに経済学はある程度の初等数学は必須科目に含まれている時代なのではないでしょうか?
他方で人文科学や社会科学でも法学とか政治学とかはもしかすると大学によっては数理系を完全にとらなくていいところもあるかもしれません。
現在は知りませんが20世紀末くらいにはそういう大学はたくさんあったと思います。
これは見事に大学における理系と文系の分離です。
中世の大学と違って現代の大学では「文系」と呼ばれる学問領域では数学も自然科学も勉強する必要がないのです。
あるいは勉強する必要がなかった時期があるのです。
これは中世から近代の間のどこかで急激に変わったというより徐々にそういう風に変わっていったのではないでしょうか。
・学問の専門化、一方で神と宗教の問題
上記、中世で全員が学ぶべきものであった数学(理数系や中世的で宗教的、神学的な自然科学)は徐々に学ぶ学部、学科と学ばない学部、学科という形で近代を通して分離していったと考えられます。
これはある視点から考えると学問の専門分化という観点から考えることができます。
もしかしたら必修で勉強していたらこちらの間違いという事で申し訳ないですが、文学部の仏文や哲学科(分析哲学を除いたような)、法学部などでは数学は学部時代を通して履修する仕組みになっていない場合も多いのではないでしょうか。
中世で必修であった数学、あるいは理数系が近代、現代の大学では必修で亡くなったのは必要がないからでしょう。
ただ必要性や専門性という観点から見るのは一つのフィルターというかレイヤーになるかもしれませんが宗教や神学的観点から見るのも必要です。
ヨーロッパの大学はそうでないところもあるかもしれませんが基本神学校の高等版です。
神学教育が中心ですし、聖職者を育てるのが根底にあって作られたものが多いと考えられます。
その時代には初等必修教育である7日のうち数学4科は神学や宗教にとって必須と考えられていたのです。
それが近現代の大学では数学や広く理数系、自然科学などの全学生に対する基礎としての必要条件としての学習が義務付けられなくなっています。
これは専門分野の文化という問題だけでなく、神学的、宗教的な広い意味でのパラダイムシフトが急進的だったか全身的であったかはともかくあったという事になります。
・数学(数理系、自然科学)が神に近づく道具ではなく神から離れる道具になってしまった
決定的な変化は中世では数学(幾何学、算数、天文学、音楽)が神に近づく道具だったのに近現代ではこれが逆転(倒錯?)して数学が神から離れる道具になってしまったという事です。
「近現代的な自然科学や宇宙論を学ぶことは神の作った世界を知ることになるので信仰として敬虔なことだ」みたいな主張をする人もいるでしょう。
それはそれで一理あります。
しかし逆に「近代的な自然科学や宇宙論は、神学や宗教とは独立なもので別問題なので切り離して考えるべきものだ」みたいな主張の方が独立性を考慮しているという意味で論理的ですし、自然な考え方ではあります。
まあ自然と考えるのは非聖書文化圏だからそう見えるのかもしれませんが。
ただ時代が下って中世から近代になるとそういう考え方もおそらくだんだん強く、あるいは増えていったのでしょう。
「数学を学べば学ぶほど神に近づく」が「数学を学べば学ぶほど神から遠ざかる」という逆転現象が起きます。
これは近代において西洋世界における宗教と科学の対立みたいな構図になる場合おあります。
お互い別々の物として共存していくという立場もあり、むしろ仲良く相互補完するという考え方もありますが、やはり対立的に見てしまう人や勢力も一定数いてそれが目立ちやすい面があります。
対立ならまだいいかもしれず本当に怖いのは無関心かもしれません。
中世の枠組みでは世界の法則を知ることは神に近づくことに直結していましたがそういう感覚が途切れたり完全に切れてしまったりする場合もあって日本の西洋文明の輸入みたいなのは完全に切れた形での輸入がメインです。
・イデア的な世界観も近代は退潮に
中世の大学で数学が必修だったのは前述のようにもう一つ理由がありました。
数学(理系、自然哲学)を学ぶという事は現実という不完全な世界より神が作ったより完全な世界を観念することで神に近づくみたいな感覚があったようです。
イデア界は「完全」「調和」「秩序」みたいな感じが強いですからプラトニズムとキリスト教は集合しやすかったのかもしれません。
ただ理想主義者は実務家には弱い場合があります。
理想主義者が力をもってイデオロギーを絶対化し実務主義者のリアリストに行けずする場合もありますが、実務家が現実を理想主義者に提示することで理想主義者の空気を抜いてしまう場合もあります。
近代の自然科学は泥臭い実証のための実験、観測、測定の工夫や繰り返しや理論化を汗をかいて頑張る泥臭い作業です。
近代の数学もそうで過去の数学や自然科学の現象を抽象化していくわけですが完成品はイデア界的に美しいですがそこに至るまではいかに継続して執着して格闘してひらめきやインスピレーションを得るかという現実的で地道な思考と時間の膨大な消費です。
キリスト教にせよユダヤ教にせよイスラム教にせよ日課のように決まった時間、決まったタイミングで神様にお祈りする時間はあるかもしれません。
もしかしたら中世ではそういう時には数学というか自然やイデア界の事を考えていたのかもしれませんが、近現代では数学や自然科学の事を考えながらお祈りしていたら神様にお祈りしてないと感じてしてしまったり指摘されてしまったりしかねないのかもしれません。
このように着々と宗教や神と数学や理数系、自然科学などの距離は開いていきます。
ユダヤ教徒の優秀な研究者や南部バプティストみたいな原理主義的なキリスト教徒の科学者や研究者はたくさんいますが多分お祈りの時に専攻分野のことは考えていないと思われます。
・大まかにいうと理系も文系も神もみんな分かれてしまった
日本ではそもそも西洋文明移入時に神と科学が結びついていませんでしたし東大が文理で分かれて久しいように文系理系が多分最初のころから分かれていたのではないでしょうか。
ヨーロッパでは中世から世の中も大学も宗教と神様が中心で大学は神学校が発展したようなものでしょう。
そこでは文理の別とか関係なく神学というか神とか宗教に必要なものとして共通語としてのラテン語や修辞学や論理学とともに数学をまず大学内での共通科目の初等教育として学習しそれから神学、それに奉仕するというかそもそも聖書文化圏では神権政治というか世俗も宗教も含めて協会やキリスト教が(ユダヤ教やイスラム教でもいいが)が宗教も政治も一体になって行う体制が理想であるため法学や医学や雑学としての哲学などを専門教科として勉強する学校を作った、と見ることができます。
典型的な例はイスラム教は分かりやすくてシーア派のイランがそうですしサウジアラビアも何派かしりませんが似たような部分があるかもしれません。
ユダヤ教では古代ユダヤの王国時代の一部の時期は宗教と世俗統治が一体化しているという感じで予言者時代の聖書は王さまがいかに宗教的であったかの品評会というかそれだけで王様の評価がつけられているようなところがあります。
例えばダビデ王のある時期とかバビロン捕囚後は預言者が現れない時代になってしまいますがマカバイ朝とかはユダヤ教の的神権政治でしょう。
キリスト教は世界は東西に分かれ宗教は教皇、東は皇帝教皇兼務だが滅んでしまい西は世俗は皇帝と両者で権力争いがヨーロッパ中世史です。
イギリスは王さまが国教会のトップと国政のトップを兼務していましたがイギリスらしく現実的で緩い仕組み(それでも現代から見ると当時の実情は厳しい)体制です。
まあ大学によっていろんな思惑が絡まってできており大学ごとに歴史が違いますが例えばドイツの名門大学は正式名称は神聖ローマ帝国の皇帝の名前が入っていたりします。
まあ歴史的にはいろいろありましたが結局現在は先進国は大きな傾向ではバラバラに神(宗教)も文系も理系もバラバラ傾向です。
ばらばらといってもお互い対立しているというわけではなくお互い別物という冷めた関係でしょう。
・日本と聖書文化圏の世界
聖書文化圏のキリスト教は文理神がバラバラ(バイブルベルトとかバチカンはやや別として)でイスラム教はまだまだ何とも言えずむしろ宗教というか宗教勢力として発展途上中に見えます。
ユダヤ教徒は中世や近現代はその両者の世界で共生してきた感じでジプシーのように長らく国は持ちませんでした。
その他の大きな勢力はあるとするとヒンドゥー教と仏教県とその他の原始宗教系の世界三大宗教から完全に独立したものが未開地域に残っているかいないかくらいの感じでしょう。そういう世界三大宗教と別の流れもアフリカとかアマゾンとかアメリカとかのネイティブにはまだあるかもしれませんがだいぶキリスト教なりイスラム教なりの影響を受けてしまっているのが多いのではないでしょうか。
主にバラモン教由来のヒンドゥー教と仏教が非聖書宗教の代表かもしれず、全体の状況は分かりませんが日本も仏教国の一つです。
ただし仏教国といっても、あるいはヨーロッパのキリスト教といってもそれ以前に存在した別の宗教と宗教混交現象を起こして現在に至るので仏教国日本なりヨーロッパのキリスト教なりといってもかなり違いと多様性を内包しています。
・日本の特徴、心を込めるかどうか
非聖書系というと対比するとすればヒンドゥー教と仏教の起源のバラモン系の宗教といえるのかもしれませんが、その中で日本は多分制度や教育をちょっと変えたくらいでは聖書文化圏化しないようなところがあります。
聖書圏宗教の中でも偶像崇拝OKになったカソリックなどとはやや親和性が高く偶像膵敗を聖書のまんま実行しているようなイスラム原理主義とかユダヤ教の超保守派だか超正統派だかとは相いれないところがあります。
そもそも対立するとかそういうことではなくて精神の根本的なところが全く違います。
人間はみんな一緒というのはあるレベルでは正しいかもしれませんが別のレベルでは全く正しくありません。
そもそも相いれようとも思っていない場合もあります。
ユダヤ教徒なら選民思想やらユダヤ教への改宗のハードルが高いのでキリスト用のような布教的な考え方がないに等しくむしろ排他的とさえいえ(悪い意味ではない)キリスト教などは世界中の人間をキリスト教化するのを目指した時期もありましたが最近は緩まってきている感じでしょう。
日本人も日本人で日本人をほめるYouTubeなどは流行っていますが非日本人が日本人に同化するならともかく同化する気がなければ日本人になってほしくないみたいなところはあるでしょう。
ちょっと冗長になったので要点を書くと日本人は神性を感じた事物に対して心を籠めようとするし神性を感じないものに対しても心を見出そうとする、とする特徴があるということです。
日本人においては事物に神性や心を感じることを肯定しますしむしろ積極的に神聖や心を見出そうとします。
これは民族のOSというかDNAというかアイデンティティーとさえ言えます。
別に先祖代々日本人で日本人の血筋を持つとか日本国籍を持つとか日本語をしゃべれるとかそういうレベルの話ではありません。
多分日本人であるとは日本文化が身についてるみたいなことになりますが日本文化を身に着けるということもピンからキリからあると思いますが最も基層にある日本人であるための必要条件みたいなものが「物に心や神を感じるし物に神や心を感じようとする」と考えることができますしそれはかなり蓋然性を持つと思います。
・聖書の核心
日本人の必要条件が「物に心や神を感じるし物に神や心を感じようとする」だとすると聖書文化圏のより聖書原理主義的な考え方はこの逆になります。
すなわち「物に心や神を感じないし物に神や心を感じないようにする」が聖書文化の核心になります。
これを人間の知情意、人間の感性や感情や意欲や思考として考えると両文化圏、あるいは日本文化を宗教のようなものと見なして日本教と考えるとすると聖書系宗教と日本教ではかなり根源的な教義の部分で相反する、ということになります。
これは二律背反で対立的でお互いこのことをはっきり自覚すれば宗教対立が起こってもおかしくないくらい重要で根本的に近い問題ですが誰もあまりはっきり理解していない、あるいはぼんやりしか理解していないということと、聖書文化圏にとってみれば日本は特に自虐の意味でもなく至極冷静客観的にいってちっぽけで脇役でどうでもいい存在でモブで雑魚なので深く理解しようとしてきた人も少なかったのかもしれません。
・日本では何もかもバラバラだが心は籠める
日本では明治の文明開化の啓蒙主義などでの西洋文明移入により西洋の文物を大量に輸入しましたがその際に西洋人の精神性を輸入したり精神性を理解しようと努力した面もあるかもしれませんがそれとともに全く理解していなかった、あるいは気付かなかった、あるいは理解していたのに輸入しようとしたり取り入れようとしたりしなかった部分があります。
その最大のものの一つが「物に心や神を感じないし物に神や心を感じないようにする」かもしれません。
もちろん商人とか金貸しとかビジネスとか政治とか国益考えたりとかその他いろいろな場合に「物に心や神を感じないし物に神や心を感じないようにする」というのが必要になる場合がありますし、それは明治維新の啓蒙主義以前の江戸時代にも戦国時代にもそれ以前にも普通にそういう考え方はありました。
むしろそういう考え方が全くない文化とか文化圏というものはないでしょう。
むしろ日本は西洋に先駆けていろんなものを切り分けるのは世界一早かったりしました。
平清盛や織田信長は中世的宗教と世俗的政治を切り離そうとしましたし、貨幣経済や経済的自由主義交換経済を積極的に取り入れました。
これには世俗と宗教権力の分離が必要です(分離だけでなく利用も必要という複雑な関係がありますが)。
江戸時代の荻生徂徠は天、すなわち自然や頂上的世界と人間と社会を完全に切り離しました。
古学、古義学、古文字学などのいわゆる儒教的公衆主義をはじめ国学、懐徳堂、蘭学、医史学や本草学、水戸学に至るまであらゆるものが実証主義的文献学です。
中国の考証学より早いですし、欧米の聖書学に至っては実証主義的文献学が始まったのは20世紀に入ってからです。
そういう意味では日本はあらゆるものをバラバラにしますし独立事象を峻別する傾向が強い民族のように見えます。
ただそのベースには万物に心や神性を感じるという万物とのつながり感があります。
他方で西洋文化も時代が下るにつれて神も文系も理系も全部分ける方向に進んでいきます。
他方で割り切って切り分けきれずにいまだにごちゃごちゃと議論したり対立したりしている側面があったりその反動か倒錯か分かりませんが過度にDEIとか言って多様性やら平等性やらインクルージョンとか強調してみたりSDGsとかESGとか過剰にイデオロギーがほとばしるようにあふれ出て左派急進派的に目的とは逆に破壊的に作用したりします。
問題にしなければ問題にならないし何かを強調するのは強調しなければならない理由がある場合が多いです。
いわゆる二項対立というもので例えば天皇のような権威がもともとあるものは権威を強調する必要がありませんし華美さで飾り立てて権威を強調する必要がありませんが、歴史が浅い権威は力の誇示やアピールが激しくなります。
日本においては安全と水と空気はただでしたが、安全と水と空気がタダでない国や地域では安全と水と空気の大切さを意識せざるを得ません。
神や心もそうで遍く偏在すれば石ころと同じで意識する必要もありません。
ドラえもんの道具でいえば石ころ帽子です。
逆に神の存在や臨在感を感じることについてナーバスにならざるを得ない文化圏においては常に物に神性を感じてはいけないとか偶像を作ってはいけないとか他に神を認めてはいけないとか常に意識していないといけません。
・おわりに:文系と理系、数学と理数系(数理系)と自然科学(サイエンス=知識)の変遷
結局話が広がりましたが一言でいえば古代、中世、近代、現代と数学(理数系や自然科学的なものを含む)の扱いは変転してきました。
数学の扱いが変転するというよりは数学を媒介にして社会が変転しました。
古代、中世では神と宗教と社会の基盤でエリート、できれば庶民もかもしれませんが最低限上層階級は全員学ぶもの、近代、現代にはただの専門分野になって四則演算くらいは初等教育でみんなが習ってもいいかもしれないが高等教育は高等科学では選考によっては学ぶ必要のあるもので専門に関係なければ学ぶ必要がないものです。
未来、将来はコンピュータやロボティクスを先端科学、技術、産業のすそ野がどんどん拡大するので必修化するか、あるいは逆にAIみたいなものが発達しすぎて人間は数学というか理系の勉強をする必要がない時代が十数年か数十年後には来るかもしれません。
しかし時代が変わっても日本人の「物に心や神を感じるし物に神や心を感じようとする」と聖書文化圏の「物に心や神を感じないし物に神や心を感じないようにする」は意外と根強く長らく残るのではないでしょうか、というのが結論になります。
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