2025年11月12日水曜日

自由の定義、構造主義と実在論とイデオロギーとの関係

自由の定義、構造主義と実在論とイデオロギーとの関係 自由の定義——二元論を相対化し、制約下の選好として再定義する 私たちはしばしば、形而上の「完全自由」の像を形而下の現実へ輸入してしまう。これが自由論の混乱の主因である。作業的定義として、ここでは自由を「制約下で、費用を伴いつつ選好を実現できる度合い」と置く。 1. なぜ“完全自由”は錯誤か 形而上の自由は理想像としては有効だが、形而下には物理法則や制度、希少性がある。熱力学(一定条件下で自由エネルギーは減少方向)、注意資源の有限性、機会費用とトレードオフ——これらが自由の“天井”を規定する。 2. 自由=選択ではない(選択はコストをもつ) 選択肢が増えるほど良い、は半分正しい。実際には認知コストが増え、同時に他の選択肢を捨てる機会費用が膨らむ。ゆえに自由は量より実効性(制約下でどれだけ目的適合な選好を実現できるか)で測るべきだ。 3. 平等の整理 「規範的平等」(法的・道徳的扱いの同等)と、「記述的差異」(事実としての違い)、「不当な差別」(差異に基づく不利益の付与)を分けると、自由と平等の緊張関係は可視化される。自由の拡大はしばしば差異を露呈させるが、同時に不当な差別を抑制する制度設計を要請する。 4. 自由主義と保守の接点 (i)自由が広がると信頼や関係性が資本として可視化・深化しやすい。 (ii)選択の場では、実績ある秩序や慣行はリスク最小化の観点から合理的選好になりやすい。 この二点で、自由主義は保守としばしば協調的である。 結論 形而上の理想は灯台として残しつつ、形而下では「制約下の選好実現」「コスト内生化」「制度による差別抑制」で自由を設計する。そうすると、自由は無秩序の対義語ではなく、信頼と秩序を自生させる条件として再解釈できる。 ・世界を2つに分けているので混乱が生じる  西洋思想の主流派は世界を2つに分けます。  大雑把に言うと神の世界とかイデア界みたいなのが1つ。  もう一つは現実のリアルワールド。  宗教と世俗(俗世)と言ってもいいし形而上と形而下と言ってもいいかもしれません。  同じものが両方で生じていると考えることからいろいろ喜悲交々(忌避交々)というかいいこともあれば問題も生じます。  いい面もあれば悪い面もあるとかそういう大人の意見も確かにあってごもっともなのですがそもそも混乱が生じます。  今回は「自由」について思想の面から眺めてみます。 ・哲学と宗教の大雑把な見取り図  哲学は西洋近代哲学なのですが実は仏教の核心部分も哲学です。  これの核心は存在論と認識論で、哲学的に見れば構造主義と実在論がいかに分化していくかで整理できます。  仏教の方はそもそも最初から構造主義と実在論です。  お釈迦様の縁起、ナーガールジュナの空と中観、天台智顗の三諦論が構造主義とポスト構造主義、つまり現代哲学と同じものです。  西洋の伝統思想史ではプラトン系の古代ギリシア末期からの流れと中世ヨーロッパの神学が典型的な宗教と世俗(俗世)と言ってもいいし形而上と形而下を分ける考え方です。  プラトンの考え方はイデア論ですが直訳するとイデオロギーになります。  現実とイデア界に世界を2分する考え方です。  キリスト教思想も世界を2つに分けます。  1つは現実で俗世。  もう一つは神様がいるようなところで天国のような雲の上のような現実と違う場所にあるような何となくふわふわした世界のイメージです(そういうイメージでない人はすみません)。  仮にプラトンのイデア界や神様のいる天国みたいなところを形而上、我々が現実に生活している世界や社会や世俗の世界を仮に形而下とここでは呼びましょう。 ・一応現代哲学の世界では形而上と形而下の2元論は廃止されている  一応西洋近代哲学の最先端であり終着点でもある現代哲学では宗教やプラトンのように世界を2つに分ける見方をしません。  というかするのはありですが、「そういう見方もありだね」と相対化してしまいます。  そういう見方をしない奈良市内でいられるようにポスト構造主義や構造主義、実在論の整理を付けてあります。 ・現実社会の伝統は根深い  現代哲学や仏教の悟りの内容がどんなに二元論的な物ではないとしても二元論的な物は世の中では意識、無意識的に我々を支配してしまいがちです。  そもそも現代哲学も仏教もエリート集が強すぎて一般庶民には距離があります。  まあそれは仏教も古代から中世の哲学も一緒ではありますし、世の中は哲学とか宗教に関係なく現実にはエリートと非エリートに多かれ少なかれ分かれていたり階層的、階級的な物であったりではありますが。  原始共産制ではそうではないようですがそれがあったのかは過去の事なので分かりませんし生物学や人類学、歴史学をみればそういうものは多分なかったでしょう。  ただ面白いのは原始共産制はまさに形而上に属しています。 ・我々は形而上と形而下の影響下に行きながら両者をごちゃごちゃにして分離できてない  普通に生活していると多分文化とか民族とか関係なく二元論的な発想をもち形而上と形而下の両方の思考を無意識に併用しています。  併用すると言ってもきちんと分けて使っているわけではなくそれぞれ違うものとして分けて考えずに混ぜて使っている場合が多いと思います。  これはできない場合とできるけどわざとやってない場合のどちらもあるでしょう。  できるけどわざとやらない場合はそんなこと普段の日常生活にせよ社会生活にせよ手間が増えるだけでめんどうくさいし混ぜて使う方が便利だし分けるのはむしろデメリットになるからといった感じかもしれません。 ・しかし二元論は混乱の元になる  別に二元論だけが混乱の元になるのではなく一元論も多元論もそれぞれ混乱の元になって問題を起こすことがあるのかもしれませんが二元論でよくめだつ問題について「自由」を例に文章化してみます。 ・二元論ではある種の対象がどっちの世界にも存在すると考える  全てとは言いませんが二元論は形而上界にも形而下界にも同じものが存在すると考えます。  形而上と形而下では全然違う場所?なのでそれぞれに存在するものは別々の物であってもいいのですし、それぞれの世界が完全に断絶して没交流状態でもいいのかもしれませんがそういう風に考えない、或いは考えきれない、あるいはそういう発想がない傾向があります。  まあ完全に切り離してしまうとオッカムのカミソリのようなもので形而上界が切り捨てられてしまうのかもしれませんが。  問題は問題とすれば問題だが問題としなければ問題ではないのと一緒です。  例えば神様や天使や悪魔は天国とか地獄とかだけにいて現実と関係ない存在として扱えばそれはそれですっきりするのですが西洋の神様は天国だけではなく俗世間にも影響を及ぼします。  近代では理神論という考え方もあって神様は世界のシステムだけを作ってあとは俗世間に関係なくシステムに任せているという考え方もありました。  現代は聖書系宗教の人であってもこういう考え方をしている人が多いのではないでしょうか。  これは昔システムを作ってそのシステムの下でシステムの法則に従っているという点で神様にはつながっているのですが、神様がどっかに遊びに行っていたり留守にしていなくても現実世界はシステムが勝手に世界を運用してくれるという点では人と神とが遠くなる考え方です。  ともなくここで混乱を生むのは両方の世界に存在するものをどう考えるかになります。   ・例えば自由と平等(裏返しの差別)みたいなもの  例えば自由というものの扱いが難しいのがこの二元論が一つの理由です。  「完全な自由」とは何でしょうか。  人が神様になれれば完全な自由と言えるのかもしれません。  あるいは人が天国に召されれば完全な自由というものを享受できるのかもしれません。  天国というのは形而上的世界ですので完全な自由というのがあるのかもしれないし、あるとしてもよいのでしょうし、完全な自由があるからこそ形而上と言えるともいえるのかもしれません。  ただ形而下にこの自由のイメージを持ち込まれるとちょっと困ったことになります。  我々の普通の生活では形而上学的な事由に当たるような完全な自由というものはありません。  形而上学では自由は定義できるのかもしれませんが(例えば神だけは自由とか)それでもパラドックスが生じたり厄介な問題が出てきたりする可能性があります。  形而上に自由があるように形而下にも自由があってそれが同じものと考えるといろいろおかしなことが出る可能性があります。  そもそも形而下の自由とは何でしょう。  「究極な自由」というものは形而下にはあり得ません。  我々は日常生活では何らかの制限を感じたり、制限が存在すると感じたり、その制限は構造的に除去不可能と感じることはしばしばあります。  ドイツ観念論のフィヒテはそういうものを「障害」とか読んだと記憶しています。  究極の自由というものは理想や理念であって目標であって数学の極限みたいなものである、くらいの認識で自由度のスペクトラムみたいな感じで見た方がいいのかもしれません。  「自由」という絶対的概念があるのではなく「自由度」という尺で測る感じのイメージです。  そもそも天国なら空を飛ぼうと思えば飛べてしまうのかもしれませんが現実世界では空を飛ぼうと思っても超能力者だったり、飛行機に乗ったり、グライダーしたりと勝手気ままに空を飛ぶことはできません。 ・神様の作ったシステムには制限がある  神様がいらっしゃる天国には制限はないのかもしれません。  制限がないのが自由と定義するのならそれは自由です。  一方現実世界には制限があります。  システムもあります。  物理法則などその一つでしょう。  そしてシステムと制限は相互依存関係です。  システムがあるから制限があるし、制限があるからシステムがあります。  両方ないのが天国とか形而上とか人間の頭の中かもしれませんが人間の思考が自由でないのは科学的にも思想的にも今は常識です。 ・現実世界の制限の例、科学法則  自由を定義しようといろいろ頑張っている人もいるかもしれません。  頑張らなくても自由について何にも考えたことがない人はいないのではないでしょうか?  自由の定義として「選択」や「選択肢」で自由を定義する考え方があります。  「選択ができることが自由」「選択肢が多いのが自由」みたいな考え方です。  いうまでもなく選択や選択肢には限りがあります。  そもそも選択や選択肢に恵まれていても逆に我々の頭が追い付きません。  無限の選択肢があって無限に選択できても我々がそれを完全に使いこなすことはできません。  そういう意味では我々の頭というか脳みそというか思考力が自由を奪っていると言えるでしょう。  そして現実世界には自由を脅かすいろいろな科学法則があります。  例えば物理学で自由エネルギーという概念があります。  簡単に言えば自由になる、自由に使えるエネルギーです。  しかし自由エネルギーがある以上、「不自由エネルギー」もあるのでしょう。  エネルギーがあっても自由にならない、使えないエネルギーがあるという事です。  エネルギー保存則というのは有名です。  ただしエネルギー保存則を満たしさえすればどんなことも起こせるわけではありません。  エネルギー保存則を満たす範囲内で自然界の変化の仕方には制限があります。  エネルギーの変化や変換は法則や制限に従っています。  物理学ではそれをエントロピーとか最小作用の原理とか言います。  自然界の変化の方向は自由エネルギーが減る方向しかなく自由エネルギーが増える方向には進まないのでしょう。  しかしエネルギー保存則がありますから「不自由エネルギー」は自由エネルギーが減った分増えていくわけです。 ・現実世界の制限の例、選択とトレードオフ、機会費用  自然科学だけではなくて社会科学にも自由に敵対する勢力があります。  例えば経済学のトレードオフと機会費用の考え方です。  これも形而上学的な自由に喧嘩を売るような考え方です。  自由なら欲しいものは何でも手に入ってしかるべきでしょう。  形而上学的な自由はそれでオーケーでしょう。  ところが経済学には恐ろしい法則があります。  法則というより原理(法則より原理の方が偉いのかどうかは知りませんが)と書いている教科書があります。  この法則は「何かを得れば何かを失う」というものです。  経済学にはもう一つ希少性という考え方があります。  経済学で主役のように扱われる対象はだいたい希少性があるものです。  希少性がないものはいくらでもあるものです。  「日本人は安全と水はタダと持っている」という有名な言説が昔はありました。  今でも一部のひとはそう思っているようで国際的な水資源問題や水源問題や安保問題や防衛問題などで安全と水はただを前提とした議論が見受けられます。  希少性が低い、大量、あるいは無限にある者はただみたいに経済学ではなって議論のわき役というか外部条件、前提条件として扱われてしまうようなところがあります。  ただ我々はいろいろな希少性に制限されているので例えば何かをやっている時には別の事はできません。  時間は有限で希少性がありますし、体は一つしかないですし、そもそも人間のマルチタスク能力にも限界があります。  ざっくり簡略がして言えば何かをやっている時には他の何かをやっていないのです。  どっちもやりたいことであっても同時にはできません。  時間は有限なのと時間は複線で並列には流れておらず、我々の心も体も複数ではないからです。  何かを買う場合もそうです。  お金が無限にあれば違うかもしれませんが有限だと何かを買うと他の物を買うお金が無くなってかえなくなる場合があります。  それがどんなに欲しいものであってもです。  形而上学の世界では同時に複数のやりたいことができるのかもしれませんし、やりたいことも無限にわかせられるのかもしれませんし、欲しいものも同時にいくらでも手に入るのかもしれません。  それは形而上学的な自由です。  しかし形而下学的な自由ではそうはいきません。  では形而下学的な自由とは何でしょう? ・形而下学的な自由  「形而下学的な自由」というものは実は定義で基底なのではないかと思います。  状況や条件によってケースバイケースで定義づけすることはあるのかもしれませんが、社会の大対数の人が常識や通念として合意が得られているような自由の定義はないのではないでしょうか?  そして多くの人は何となくふわふわと形而上学的な自由の感覚を形而下に適用して自由自由と言っているだけではないでしょうか。  「選択こそ自由」とかいう定義と重ね合わせると機会費用やトレードオフは何とも皮肉な側面があります。  何個かの選択肢の中で好きなのを選べるのは自由なのかもしれませんがそれとともに大量の自由を失っていることになるからです。  一種のパラドックスと言えるでしょう。 ・ついでに平等(裏返して差別)も  「自由、平等、博愛」とかフランス革命で入っていたようです。  博愛はよく分かりませんが自由とともに平等も自由と似たあいまいさがあるようです。  平等は形而上的にも定義が難しいような気がします。  単に天国に神様がいるからという事ではありません。  神様とその他は平等ではないでしょう。  平等ではないのが必ずしも差別とは言えないでしょうが絡められることが多いのでここでも触れておきましょう。  神様に比べれば我々被造物はみな賤民というか土くれから作られたものなので差別的と言えば差別的なのかもしれませんが差別の方がややこしいかもしれません。  そもそも天国なら神様の不在時にはあらゆるものが平等な状態を達成できるかもしれません。  差別は平等とは裏返しではありませんが神様はその他の物や人とは創造主と被造物の関係ですから差別も区別もされます。  これはいい差別と言ってもいいかもしれません。  何かを上げる差別で何かを下げる差別は悪い差別と言えるかもしれません。  ただ平等は上げ下げをしない、するなという考え方のような気もします。  まあ平等を広くとって上に上げるのならよい不平等、よい差別と言ってもいいかもしれません。  そもそも差別は区別と関係があって区別は差異と関係があります。  もしかしたら必要条件かもしれません。  しかし区別や差異がない世界とは何でしょう?  間違いなく平等ですがどんなものだか想像もつきません。  かりに神様が天国を不在にしていたとして天国が区別も際もない世界だったらそこはどんな世界?というと訳が分からなくなります。  形而上の世界では平等や差別は扱いにくいかもしれません。  形而下に目を向けると平等や差別の他に多様性やヘイトというものが発生してきました。  差別やヘイトに関しては差異や区別はいいけどそれにネガティブ感情を伴うのがいけない、という事かもしれません。  逆にポジティブ感情ならいいのかもしれません。  ネットやSNSしているとライク(いいね)やヘイト?の指矢印をつけられるようになっています。  親指を下に向けるのは一般社会ではかなりやってはいけない行動みたいに思われているのではと少なくとも日本では思われますがネットの世界や日本以外の世界では許されることなのでしょう。  形而下の平等や差別はやはり形而下の自由と同じく定義しにくいものです。  そもそも平等や差別は形而上でも定義しにくいものです。   ・自由=リベラル?    政治や社会や経済ではリベラルという言葉がもはや意味不明な感じになっています。  先ほど書いたように自由には必ず不自由が伴います。  何かの、誰かの自由は、他の何か、誰かの不自由です。  みんな自分のいいところにだけスポットライトを当てて自由を名乗ります。  自由はまだいいですが翻訳語でもあるリベラルの方はもはや言葉だけでは内容が理解できない感じです。  私事でなんですが自分はめちゃめちゃ自由主義者であった時期があります。  政府はいらないとか税金は必要悪だとか自由主義経済を勧めよとか考えていた時期があります。  超自由主義的で何でも思想や思考に関しては徹底するタイプなので今でも中途半端なリベラル見ると疑問を呈することがあります。  例えば夫婦別姓です。  私から見ると「なぜ名前自体をなくしたり性も名も何でも自由につけられるようにするような主張をしないのか?」という生ぬるい目で見てしまいます。  昔元号問題があって元号をなくせという勢力がいました。  これを評論家の山本七平氏は「枝葉末節の戦い」という文章を書いています。  多分そういう主張をしていたのは天皇制廃止論者だったと思われますが、山本七平氏は元号をなくせというのは枝葉でもっと根本にある「天皇制をなくせ」というのをなぜしないのか?という評論を行っています。  私個人は経済的自由主義については進め過ぎると自分と家族と子供と親族と自分の周辺の人たちが全部経済的下層階級に落ちる、という点から保身のために極端な経済自由主義からは距離を取るようになりました。  利己的ですがお許しください。  本当に何もかも自由になると多分経済に限らず上層に残れるのはごくわずかであとは底辺に沈むと思います。  ちょっとくらいの小金持ちで成長性がそんなに期待できない人は変に大幅な経済的自由主義を勧めると上層階級ではなくまず底辺層の方になると考えておいた方がいいと思っています。  すごい貧乏でガードマンとかやっていた時に超自由主義者だったのは思想や哲学オタクだったからかもしれません。  ところで自由を追求しまくるとまさにサルトルの言う「自由の刑に処せられる」ような状況になります。  また古代中国では法家と儒家の対立があったのですが法家の否定は儒家的な内面的な得とか性善説とか人間とか社会への信頼とか周礼への回帰とか伝統を大切にする保守主義になる場合があります。  人間をどう見るかがその後の人間への思想、社会思想への分かれ道になります。  性悪説なら外延的に規制を敷いてそれに賞罰で従わせる形になります。  他方で性善説なら外的な規制がなくても内包的な内発的に人間を信じればよい社会を自己生成するようなビジョンを持つことができます。  よその文化圏は知りませんが中国を中心とする東洋文化圏では性善説が勝ったので法家的な物ではなく孔孟の性善説的な儒教体制が国家の基本になります。  これは人間はほっておいても人間は自前で秩序や安定した社会を作れる、自治ができるみたいな考え方につながります。  ホッブスのリバイアサンみたいなのとは真逆な発想です。  リスクとか危険とか性悪説の前提に立つのであればゲーム理論的なリスク最小化戦略がいいですし、人間を信じて内発的な秩序が自前で自分たちで作れてそれで平和な桃源郷みたいなのが作れると考えるのであれば利益最大化戦略がいいので近江商人の三方良しみたいなのがいいでしょう。  日本で言えば縄文時代はそんな時代だったのかもしれません。  別に欧米人は性悪説の自治ができないという事もなく第二次世界大戦のイギリス人の捕虜などは収容施設で見事な自治を行っていました。  逆に日本人の終戦後の南方の収容所に入った日本軍人たちは独特な組織形態を時期によってなしていきました。  こういうのは旧日本兵の収容所体験を見ると面白いです。 逆にアメリカの刑務所内の映画やドラマなどもあれもあれで秩序と言えば秩序で日本の座敷牢に似た感じでしょうか? ・自由は治安や秩序が乱れるとは限らない  変な話ですが自由にすると治安や秩序が乱れるという考え方や過去の現象もありますが、自由にしたらむしろ自己生成というか自律的に自治を形成して秩序と安定が立ち上がる場合もあります。  また自由になった場合にどうするか?という哲学のテーマがあります。  ニーチェやサルトルが有名でしょう。  ああいう立派な人たちは主体性や自主性や自覚を持った人間が自分で考えて判断して選択して行動して結果を引き受けるような立派な人間モデルを作りがちです。  そもそも西洋のフランス革命や啓蒙思想の「人権」の「人」はそういう人を念頭に置いてつくられています。  そういう人はある種の貴族的精神を持ち性善説的な面を持ちます。  ただそんなに立派でなくても普通の庶民レベルでも自治的な社会を作る例もあります。  江戸時代の天領の特に大阪とか中世の自由都市などはそういったところがあるかもしれません。  外形的な法治で補いつつ人間関係や信頼が組織の中核をなす。  また保守思想というものが自由においては特別な意味を持ちます。  理想的ないまだ人類が達成したことがない革新的な組織や国を作るのも自由主義ではありですが、他方で自由であるからこそ現在ある伝統的な物、既成事実として存在しているものですでに秩序や安定がある程度保証されているものは非常に貴重になります。  イギリスや日本は革命や王政復古みたいなものはあったかもしれませんが、基本的には保守的、回帰的な革命を行い現在に至る感じです。  フランスは人類が到達したことのないような新しい形の国を追求する方向に邁進しました。  どちらかというと革命みたいなものは過去にあった体制への回帰的な物の方が新しい未知でまだ実現したことのない新しい何かをなすよりも成功する傾向があります。 ・つまり2つの点で自由主義は保守主義と相性が良い  自由主義というと何となく革新主義と相性がいいように思われがちですが、別の点からみると保守主義と相性がいい面があります。  先ほどの話をまとめると ① 人間の善性や信頼や関係性が自由により表面化されたり深津化されたりする場合がある。 ② 自由だからこそ何かを選ぶ際にはすでにあるもの、伝統的な物や保守主義は自由に選択できる状況の中では過去に例のない理念的、理想主義的な物よりも特別な意味を持つ。    この2つの見方が自由や自由主義を考える際の大きなポイントになります。  保守主義や伝統主義を採用する立場もあればそれらを攻撃し別の何かと置き換える考え方もあるでしょう。  どんな考え方もありますが伝統やすでにあるもの、あったもの、保守というのは自由の中では特別というか特殊というか特徴的に扱う対象になります。 ・まとめ  自由というとホッブスのリバイアサンみたいな北斗の拳やマッドマックスみたいな世界が浮かびやすいかもしれません。  西洋思想史や啓蒙主義、ある種の地域のある種の歴史の文脈ではそれもあり得ます。  組織が大きくなったり、近隣や外部や他社との摩擦や軋轢、緊張や戦いがあったりする状況では外形的な法治化というは規制主義はより重要になるでしょう。  軍隊の軍紀や軍法裁判のようなものです。  他方で自由な状況では他者や外部を敵ではなく味方と考えて信頼や関係を強めたり利他的な行動を重ねたりした方が有利な場合があります。  陰徳、というか人にしてあげたことはまわりまわって自分に帰ってくる、逆に悪いことをすると巡り巡ってやはり自分に帰ってくる的な因果応報みたいな考え方です。  内包的というか内発的倫理や道徳ともいえるかもしれません。  利益の最大化にはこっちの方が有利で信用創造というか複利的な幸福や福利厚生、技術の進歩や成長を平和な環境の中で生みやすい面があります。  また大きな破壊による社会や人口への欠損も起こりにくかったりします。  まあ「万人による万人に対する闘争」や性悪説をベースにして法治主義的リスク最小化モデルもそれはそれで独自の秩序を生んだりイノベーションを起こしたりするのでそれはそれで興味深い思考対象ではあります。  ただ昔みたいな武器も貧弱な破壊や損失の少ない戦争ならまだいいのかもしれませんが現在は兵器の質もバリバリですしその気になれば人類や世界を滅ぼせてしまうような核兵器のようなものもあります。  「和を以て貴しとなす」は聖徳太子の言葉ですが昔よりも人類も文明も進歩していますし医大ではあるけれども悲惨な20世紀を乗り越えることに成功しましたのでこれからは人間同士が信じあえるような、心を通い合させられるような(心は滅私奉公というか自分を時には犠牲にして他者や外部をよくするという考え方)で社会設計をしていけるといいのかもしれません。  幸いにもITやAIや量子コンピュータなど人間の頭脳を上回るような新しい技術も出てきているのですから。

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