2025年11月27日木曜日

なくせないイデオロギー、ナラティブ、シミュラークル、実体(実在論)  ―なくせないのであれば現代哲学で生かす―  …小難しい現代思想を**「人生を快適に過ごすための実用ツール(アプリ)」**として紹介する…

なくせないイデオロギー、ナラティブ、シミュラークル、実体(実在論)  ―なくせないのであれば現代哲学で生かす―  …小難しい現代思想を**「人生を快適に過ごすための実用ツール(アプリ)」**として紹介する… ここではイデオロギーを軸に、ナラティブ・シミュラークル・実体も含めて考える 「イデオロギーはなくせない/ならば現代思想と仏教でスマートに飼いならそう」 イデオロギーを「排除すべき悪」とするのではなく、「どうせ無くせないなら、スマートに(三方良しで)使いこなそう」という、極めてプラグマティック(実用的)な態度 「構造主義のその先(構築)」に通じる、非常に前向きで健康的なニヒリズム(能動的ニヒリズム) ・批判はできてもなくせない  イデオロギー、ナラティブ、シミュラークル、実体(実在論)…、こういうものは批判はできてもなくせません。  人間性とは何か定かでもありませんがこれらは人間性の構成要素です。  しかもしばしば顕在化させる必要がある永久に死蔵させておけるものでもありません。  どうせあるのですから嫌がったり使わないでいたりするよりはよい面を見つけて生活や社会の中で活用していくのが良いでしょう。 ・構造主義やポスト構造主義は解体も構築も相対化できる  うまくやればなくせるときもあるかもしれません。  みんなで楽しく飲んで食べて冗談言いあって笑っている時などはイデオロギー、ナラティブ、シミュラークル、実体(実在論)はなくなってはいないかもしれませんが緩んだみんなおかしがっている感じで存在しているのでさらに爆笑の渦に行くと没我とか前頭葉的な物が減弱するかもしれませんがだいぶ薄まって入るでしょう。 ・イデオロギーは意味が紛らわしい  イデオロギーも2つあります。 「本来の語源としてのイデオロギー」と「現代日本語で“ウザい感じ”で使われるイデオロギー」です。  イデオロギーという言葉はきっと誤解を招きやすいですし、もしかしたらこういう形で使うのは誤用かもしれません。  思想とか別な言葉を使ってもいいのですが何となくイデオロギーという言葉が持っているうざさというか押し付けがましさというか鬱陶しさというか怪しさというか人間でいえばメンヘラやストーカーや狂信者みたいなところを強調したかったのでこの言葉を選んでみました。  イデオロギーは「イデア」+「ロゴス」で英語で言えば「アイデア」+「ロジック」なので必ずしもメンヘラやストーカーや狂信者みたいな感じにはならなさそうですが、現実には悪い意味で使われる場合にはそんな感じになってしまいます。  これはイデオロギーという言葉が悪いのではなくイデオロギーで他人に迷惑をかけたり粘着質だったり理屈や道理が通用しなかったり捻じ曲げたり押し付けたり布教したり底なし沼みたいだったり引き下ろしというか排除したりと外面や体裁の悪い入信や使い方をした人が多かったので悪いイメージもついてしまったのでしょう。  「男のロマン」というとかっこいいイメージがあった時代もあったのですが、今どき「男のロマン」とかいうとダサいというか肩身が狭いというか居たたまれないというか厨二病くらいニュアンスを持ってしまったのと一緒です。  これは「男のロマン」という人がかっこ悪かったりかっこ悪い使い方をしたりしたせいでしょう。  イデオロギーの陳腐化(形骸化)とでもいうのでしょうか。  甘い思い出のかなたにある若き日の羞恥心をくすぐります。 ・イデオロギーをかっこよくスマートでインテリジェンスに扱う  イデオロギーは要するに人間のまとまりのある思考一式なのでないわけにはいきません。でもメンヘラやストーカーや狂信者みたいな感じにはならず、他人に迷惑をかけたり粘着質だったり理屈や道理が通用しなかったり捻じ曲げたり押し付けたり布教したり底なし沼みたいだったり引き下ろしというか排除したりにもならず、外面や体裁の悪い入信や使い方をせずの方がいいでしょう。  自分のイメージまで悪くなってしまいます。  世の中信頼・信用とか評判とか名声とか地位とか言ったものは大切です。  そういうものを既存せず失わずにイデオロギーを使う必要があります。  格好良くスマートでインテリジェンスにイデオロギーと付き合う方が自分にとっても他の誰かにとっても社会にとってもいいことで三方良しです。 ・現代思想、まずイデオロギー批判から始まる  イデオロギーを使いこなすには現代哲学を使うのがおすすめです。  同じ内容の大乗仏教などでもいいです。  そもそもはどちらも批判的解消から生じているようなところがあります。  現代思想と仏教を対比させつつ、「浅い層(マルクス・自性)」「中間層(ナラティブ・輪廻)」「深い層(形而上学・社会システム)」という感じに断層解剖してみましょう。  何を批判的に解消しているかというと現代思想は浅いレイヤーではマルクス主義やキリスト教で中間的なレイヤーではナラティブや西洋中心主義やロゴス中心主義、人間中心主義ででもっと深いレイヤーではイデオロギー自体や形而上学、実在論です。  仏教は浅いレイヤーでは実在論や自性で中間のレイヤーでは輪廻転生でもっと深いレイヤーではアーリヤ的、ヴェーダ的な思想、社会全体です。 ・現代哲学のイデオロギーの扱い方  人間しょせんイデオロギーとは離れられないのでうまく付き合いましょう。  という事で現代思想を使うとそれがとてもうまくいくとおもいます。  まず現代哲学を使うとそもそもの話、イデオロギーを作ることができます。  またイデオロギーを改造することもできます。  そしてなんとイデオロギーをなくしてしまうことができます。  いわゆる脱構築というものです。  脱構築でイデオロギーを解体するのもありでしょうし、ずらして形を変えてしまうのもありかもしれませんし、脱構築の仕方によっては別のイデオロギーを構築することになることもあります。  ここら辺は仏教でいえば空や縁起の思想で可能です。  2つ目はイデオロギーの相対化です。  これは最近の科学的な言葉を使うとメタ認知を指します。  これは現代思想で言えばポスト構造主義の一部の考え方で一言でいうと相対主義、仏教でいえば中道、中観、中の考え方になります。  イデオロギーも一つしかなければそれに染まるしかなく、拒絶しようとしても行き先がないですがいっぱいあれば鳥観図というか俯瞰できます。  いくつかのイデオロギーを比べることができますし自分の自主性と主体性で自覚的にイデオロギーを選ぶこともできます。  数学の加法群とか乗法群とかでは0とか1は特別な数ですが、そういう意味では2も特別な数で、3、4と増えていきちょっとぱっと数えられないくらいになると無限を連想してやっぱり特別な意味を持ち始めます。  二個あれば比較できるので対照実験ができますし3個あればネガティブコントロールとポジティブコントロールとしてさらにリッチな情報を得ることができるかもしれません。  たくさんあれば他因子分できやデータ分析ができてその延長線上に今のAIがあるので何でも多い方が(整理さえできれば)いいのです。  上はやや乱暴な議論ではありますが。  1つしかないとそれが難しいのでその一つというのが長らく西洋思想というか人間普遍的と言っても間違いがないかもしれませんがいわゆる(素朴)実在論でした。  目の前の現実やリアリティを否定することは難しいことです。  否定したいのであれば何かの戦略的・戦術的な方法論が必要です。  それが2600年前と紀元後のお釈迦様の仏教やナーガールジュナの大乗仏教であり、20世紀半ばの現代思想になります。  要するに、現代思想や仏教は「イデオロギーにどっぷり浸かりつつ、その外側からも自分を眺めるためのメガネ」として使える、という話です。 ・イデオロギーには何がある?  我々はイデオロギーの人形でも奴隷でも家畜でもありません。  反対に我々はイデオロギーの人形(イデオロギー使い)遣いや主人(イデオロギーマスター)や飼い主になるべきです。  イデオロギーは意味を広くとります。  数学基礎論、論理学、科学理論、哲学、そしてもっと細かく理論の中の1つの法則や原理、公理みたいなものでもみたいなものも含めます。  大きな体形が必要なわけではありません。  あるまとまった一つの考え方はそれ自体イデオロギーです。  そうみると人間の観念や言語表現、一つの文でさえイデオロギーと言えてしまうかもしれません。  ではイデオロギーではないのは何かというと多分特殊な精神状態とかうまく表現できない何かにしか現れません。  例えば精神病の思考の解体症状の連合弛緩→支離滅裂(滅裂思考)→言葉のサラダと至る状態。  これは個人の中でも他者とキャッチボールする考え方のまとまりとしてもイデオロギーとは言えません。  こういうの含めて現代哲学ではスキゾと表現し、ナーガールジュナの中観派の後のゆが行唯識派では言説ではなく瞑想か内省か止観か禅定か禅問答か分かりませんが非言語的なもので表現しようとしたのかもしれません。  他方でどんなに矛盾や可笑しさ偏差を持っていても何となく意味として分かったつもりになったり他者をコミュニケーションが成り立っているように見えたりする言説はパラノと言います。  パラノというと整合性がないとか妄想的とか矛盾があるとか一貫性がないとか偏執症的とかいう意味で使われがちですが整合性が取れて無矛盾な言説や概念、観念も現代思想的にはパラノに含まれます。  こういうものは無矛盾性、一貫性、整合性を大切にするイデオロギーになります。  こういうものは無矛盾イデオロギーまたはコンシステントイデオロギーとここでは名付けてみましょう。  他方イデオロギーには矛盾を含んだものがたくさんあります。  そういうイデオロギーを矛盾内包イデオロギー/パラコンシステントイデオロギーとここでは名付けましょう。  イデオロギーというのは単独のイデオロギーだけでできているピュアな物もあると思いますが多くはいろんなイデオロギーが組み合わさったコンプレックスというか複合体みたいなものもたくさんあります。  こういうのはピュアイデオロギーとかコンプレックスイデオロギーズとかなずけてもいいかもしれません。 ・無矛盾イデオロギー/コンシステントイデオロギーだけでイデオロギーを作ると何になる?  これは単なる科学理論とか哲学の一分野とかになります。  こういうのは理系ですでに研究されていますし、哲学者もそれなりに研究しているでしょう。  ピュアイデオロギーの哲学者は一つの体系だけで世界を説明しようとするかもしれません。  プラトンやヘーゲルがそんな感じかもしれません。  コンプレックスイデオロギーの哲学者は複数のイデオロギーを組み合わせますが単に並列させただけとこんがらがせている哲学者がいそうです。  前者の並列型はコンプレックスというよりはコエグジスタンスイデオロギーとでも呼んでおきましょう。 アリストテレスやカントかもしれません。  後者のこんがらがり型はコンプリケイティッドイデオロギーとでも呼んでマルクス(哲学者ではないかもしれませんが)や中世神学(これも哲学ではないが)みたいなものを置いておきましょう。  あるいは最近のエネルギー問題ではエネルギーをクリーン、グリーン、ダーティ、グレイ、ブラウン、ダーク、フォッシル、ブラック(あまり使わない)などに分けるそうです。  イデオロギーもそんな感じに分けてみたら面白いかもしれません。 ざっくりマップにすると • 汚染度(暴力・排除・情報汚染の大きさ) • 自己省察度(メタ認知・自己修正への開放性) の2軸で考えると、 • 高自己省察 × 低汚染度 → クリーン/グリーン・イデオロギー • 低自己省察 × 高汚染度 → ブラウン・イデオロギー • 中自己省察 × 中汚染度 → グレー・イデオロギー • 低自己省察 × 高汚染度+隠蔽 → ダーク・イデオロギー • 矛盾抱え込みモード → パラコンシステント・イデオロギー(上記全域にまたがりうる) みたいな整理ができそうです。 この枠組みを使えば、 • 「現状のネット言論」 • 「特定の政党や運動」 • 「歴史的イデオロギー(マルクス主義、ネオリベ、ナショナリズムなど)」 を相対的に位置づけて遊べますし、 「クリーン化」「脱ブラウン化」「グレーからの脱出」といった話にもつなげやすいかもしれません。 ________________________________________ • 「ブラウンなイデオロギーをクリーン寄りにリファクタリングするには?」 • 「パラコンシステント・イデオロギーの倫理規範」 みたいなテーマで、もう一段モデルを精緻化してみるのも面白そうです。 イデオロギーのエネルギー的分類表 分類名 エネルギーのメタファー イデオロギーとしての性質 具体的なイメージ Clean 再生可能エネルギー 社会的受容性が高く、持続可能 リベラリズム、SDGs Dirty 化石燃料 高出力だが、社会的分断(汚染)を生む 排外主義、過激派 Gray 潜在エネルギー 背景化・透明化しており意識されない 「常識」、資本主義的習慣 Para 疑似エネルギー 思想の顔をしたライフスタイル 陰謀論、極端な健康法 Paraconsistent (永久機関的幻想) 矛盾を許容し、暴走する論理 ポピュリズム、ダブルシンク ________________________________________ ・イデオロギーは構造でもあり、別のイデオロギーを作る材料にもなり、解体されればそのパーツもイデオロギー  ポスト構造主義の相対主義、仏教の中観や中道や中を実用的に使おうとすると、分析ツール、解体ツール、改造ツール、そして構築ツールになります。  イデオロギーというのはちょっと言い方を変えれば思想でありもっと言葉を砕いていうと考え方や見方になります。  あるいは構造になります。  分析、解体、改造、構築、どのツールとして使う場合にもたくさんの考え方や見方、異なる構造をたくさん知っておく、集めておくと便利です。  というわけで現代哲学の実践しようのその一はイデオロギー、砕いていえば構造、もっと砕くと考え方や見方の蒐集になります。  あらかじめ集めておくのでもいいですし、何かの作業、例えば解体したり、分析したり、再構築(総合、還元)したりする場合にそのたびにいろんなアイデアを思いつくのもありですが、それに加えてその時々で思いつくのではなく最初からたくさんの情報処理方法を知っておくと便利です。  というか知らないと思いつかなかったときに詰みます。  逆に1つでも知っていれば思いつかなくてもそれを使えばとりあえず一通りの方法では対象を要素還元的方法論で分析できるわけです。 ・非ロゴス的な多様なイデオロギー  ロゴス、理性的なイデオロギーは理系的、数学的、自然科学や社会科学の一部的な分野で研究されていますが、思考の中でも無矛盾でないもの、情意的なもの、すなわち情(感情、情動、情緒)や意(意志、欲求、合わせて意欲など)的なものはなかなか適切な研究方法が確立していません。  数学や論理学の中でも矛盾的なものを扱うパラコンシスタント論理学やdile…何とか論理学とかはあるのですがやはり射程が狭いです。  やはり非理性的な、非真理的な、非論理的なイデオロギー、すなわちパラコンシステントイデオロギーも使いこなせるといいと思われます。  それについては以前研究したのでいかに列挙してみましょう。 以下をAI先生方にうまく章立てして短くしてもらう。 ¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥ 「真理でないもの」の研究 ――真理(論理)を定点とし、人間社会を駆動する「非ロゴスの暗黒大陸」を地図化する試み 1.序論:非論理的な人間の側面 人間や社会は、合理性や論理、あるいは理系的な指標だけで分析し尽くせるものではありません。脳科学や人文科学が示唆するように、人間存在の大部分は「非論理的」な領域に根ざしています。 「非論理的」という言葉には、良い意味も悪い意味も、そのどちらでもない意味も含まれます。 例えば、笑いや幸福感、芸術や音楽、文学などのハイカルチャーから、漫画・アニメ・ゲームといったサブカルチャーに至るまで、私たちが生きる喜びを感じる体験の多くは、厳密な論理体系に乗らないものです。 一方で、悪意あるプロパガンダ、詐欺のレトリック、特定のイデオロギーによる洗脳など、社会に害をなすものもまた、非論理的な情動や認知の歪みに訴えかけることで成立しています。 さらには、精神医学が扱うような思考の連合弛緩、言葉のサラダ、支離滅裂といった「解体」の領域もあります。これらは通常、病理として扱われますが、実は正常とされる社会生活の中にも、形を変えて遍在しています。 本稿では、古代ギリシアにおいてロゴス(論理)と対置されたレートリケー(修辞学)、あるいはソフィスト的詭弁、現代哲学が扱ってきた非理性的な領域、そして臨床現場で見られる精神病理的な構造までを包括し、人間社会を構成する「真理ならざるもの」を列挙・分類・分析することを試みます。 2.「真理」という定点の設定 分析にあたり、まず「真理」の定義を限定します。 一般に「真理」と言えば、宗教的な究極法則や、哲学的な絶対知、あるいは悟りの境地(解脱)などを指すことがあり、これらは神秘主義とも接近します。しかし、ここでは定点観測のために、**「真理」を「論理学的な真偽(True/False)」**という狭義の意味で用います。 すなわち、数学や論理学のように「真なる前提から真なる結論を導く」整合的な体系を「真理=論理(ロゴス)」と定義します。人間性全体から見れば、論理とはほんの小さな側面に過ぎないかもしれません。しかし、広大で混沌とした「非論理的なもの」を観測するには、揺るがない定点が必要です。 この「論理」という定点から眺めたとき、社会を覆う「非ロゴス」の大陸がいかに広大で、かつ現代社会の実在(リアリティ)を構築しているかが浮き彫りになります。これは、構築と脱構築を繰り返す現代思想の実践的な応用でもあります。 3.現代の社会状況とイデオロギー 人間は、論理だけで生きることはできません。イデオロギー、ナラティブ、信仰、あるいは欲望といった「すがるもの」を必要とします。仏教の空論や構造主義が明らかにしたように、人間には確固たる「自性」はなく、外部との縁や関係性によって辛うじて自己を維持しているからです。 かつて20世紀には、マルクス主義のような強力なイデオロギーが存在しました。現代のいわゆるリベラルや、SDGs、DEI、LGBTQ+といった潮流は、その系譜にありつつも、かつてほどの強固な体系を持たず、時に日和見的で一過性の流行(エピデミック)のように振る舞います。対抗する新自由主義やグローバリズムもまた、一つのイデオロギーです。 興味深いのは、人々が特定のイデオロギーや信条を絶対化し、防御しようとする局面にこそ、**「非論理的な防衛機制」**が顕著に現れることです。論戦において矛盾を指摘されたとき、抑圧や排除が生じるとき、そこにはファクト(事実)を無視した詭弁や、ファシスト的な攻撃性、あるいは精神病理に近い妄想的な論理が噴出します。 4.「非ロゴスの暗黒大陸」分類体系 ここでは、論理(ロゴス)から逸脱しつつも、社会的に機能してしまう言説や心理構造を、**「①心の内側」「②対人レトリック」「③社会的・文化的構造」**の三層構造で分類します。これらは、病理的なものと戦略的なものがグラデーションを成して連続しています。 第1層:心の内側の「非ロゴス」(力動と認知) 個人の内面で渦巻く、論理以前のエネルギーや認知の歪みです。 欲望(Desire)と衝動: 意志や欲求は必ずしも主体の利益と一致しません。「理屈では分かっているが止められない」衝動や爆発性は、論理を突き破る原動力です。 ディオニソス的陶酔(躁状態): ニーチェが描いたような、根拠のない万能感、高揚感、思考の飛躍。社会的には「カリスマ」として現れることもありますが、着地点(論理的結末)を持ちません。 認知的不協和と自己正当化: 自分の行動と信念が食い違ったとき、論理をねじ曲げてでも辻褄を合わせようとする心理。意識的な嘘だけでなく、無意識レベルでの「防衛機制(否認・投影)」が含まれます。 ダニング=クルーガー効果の要塞: 「能力が低いゆえに、自分の能力の低さを認識できない」状態。外部からの正当な評価や論理的指摘を受け付けない無敵の認知構造を作ります。 パラノイドな世界構築: 「自分は監視されている」「世界は陰謀に満ちている」という誤った前提の上に、極めて緻密で閉鎖的な論理体系を築き上げる状態。内部では無矛盾であるため、外部からの修正が不可能です。 第2層:対人レベルの「非ロゴス」(現代のソフィスト術) 対話において、真理の探究ではなく「勝利」「逃走」「支配」を目的とする言語技術です。 1. 意味の空転・責任回避(ぼかす技術) 新次郎構文(トートロジー): 「今のままではいけない。だからこそ、今のままではいけないと思っている」のように、同語反復によって意味を空転させ、情緒だけを伝えて責任所在を消す話法。 ご飯論法(論点の矮小化): 「(米の)ご飯は食べていない(パンは食べたが)」のように、文脈を無視して単語の定義を恣意的に狭め、核心をはぐらかす手法。 主語と責任の蒸発: 「そういう声もある」「社会として考えねばならない」など、行為主体を曖昧にして責任を霧散させる官僚的レトリック。 2. 論点撹乱・攻撃(ねじる技術) Whataboutism(そっちこそどうなんだ主義): 批判された際に「お前たちだって過去に同じことをしたではないか」と別件を持ち出し、論点を相対化して無効化する冷戦期からのプロパガンダ手法。 ストローマン(藁人形論法): 相手の主張をわざと極端な形に歪めて(弱い藁人形にして)から攻撃する手法。 ゴールポストの移動: 議論で劣勢になると、勝利条件や要求水準を事後的に変更し、決着がつかないようにする。 3. 感情・道徳による上書き(封じる技術) 道徳的マウンティング(Virtue Signaling): 内容の是非ではなく「私はこれほど配慮ができる善人である」というシグナルを送り、相手を倫理的劣位に置くことで口を封じる。 被害者性の権力化: 「私は傷ついた」「不快だ」という主観的感情を不可侵の「事実」として提示し、論理的な批判を「加害」として封殺する。 「空気」の支配: 日本特有のメタ・コミュニケーション。「今ここでそれを言うのは空気が読めていない」という同調圧力によってロゴスを圧殺する。 第3層:集団・文化レベルの「非ロゴス」(構造と熱狂) 社会全体を覆う空気や、構造的な歪みです。 バフチンのカーニバル(祝祭的転倒): 秩序や階層、真理を無礼講でひっくり返す一時的な熱狂。現代のSNSにおける「祭り」や「炎上」は、論理的解決ではなくカオスによる解放(ガス抜き)を目的としています。 ルサンチマンの復讐構造: 弱者が強者に対し、現実的な力ではなく「道徳的な優位性」を捏造することで精神的な復讐を果たす構造。キリスト教的な「貧しき者は幸いなり」の裏面にある、怨恨の論理化です。 ポスト真実とナラティブ戦争: 客観的な事実(ファクト)よりも、支持者が信じたい物語(ナラティブ)が優先される状況。陰謀論やオルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)が、結束の道具として機能します。 Gish Gallop(情報の洪水): 短時間に大量の不正確な情報や半真実を投げつけ、相手の検証能力を飽和させて思考停止に追い込む手法。 5.分析の視座:「パラノ」と「スキゾ」の政治学 上記の分類を、ドゥルーズ=ガタリ的な視点で整理すると、非ロゴス的言説は大きく二つの極に分かれます。 パラノイア的(固着・支配): 特徴: 意味過剰、断定、敵味方の二分法、陰謀論、教条的なポリコレ。 機能: 「支配」と「自己正当化」。外部を遮断し、強固な妄想的体系を維持する。 スキゾフレニア的(分裂・逃走): 特徴: 意味不明、空疎、トートロジー(新次郎構文)、おちゃらけ、責任の蒸発。 機能: 「逃走」と「責任回避」。意味を定着させず、記号を滑らせて追及をかわす。 現代の政治や社会問題は、この「パラノ的支配」と「スキゾ的逃走」が複雑に入り乱れる泥沼(マッド・スワンプ)の中で展開されています。 6.結論と展望 以上の列挙から分かることは、人間や社会は「真理」や「論理」だけでは決して説明できず、また構成もされていないという事実です。 現代哲学の「構築・脱構築」といった議論は、意識の高い上澄み部分の遊戯に過ぎず、実社会の大部分は、こうした誤謬、欲望、ルサンチマン、そして祝祭的な狂騒によって駆動されています。 かつての冷戦期のような巨大な対立構造が消え、現在は「ミニ冷戦」とも呼ぶべき、小規模で不寛容なイデオロギー対立が乱立しています。そこでは「笑い」が失われ、真面目腐った顔での非難合戦と、終わりのない「検討」が繰り返されています。 一方で、新自由主義的な競争社会は、表面的な明るさの陰で、多くの格差と目に見えぬ涙を生みました。 こうした雑然とした「非ロゴスの世界」を理解し、処方箋を描くためには、既存の単一の学問では太刀打ちできません。 現代哲学・思想: 混沌とした現象を俯瞰し、枠組みを与える。 大乗仏教: 空や中観といった視点から、執着(イデオロギー)を相対化し、パラノイア的固着を解きほぐす。 現代数学: 論理という厳密な定点を提供し、カオスや複雑系を記述する言語となる。 これらを統合した知性(リテラシー)こそが、この分断された世界で、立場の異なる人々が共通の土台で対話するための鍵になるのではないでしょうか。それは、単なる「正しさ」の追求ではなく、人間の弱さや愚かさ、そして愛すべき非合理性までを含み込んだ、より包括的な知のあり方です。 編者後記(Geminiより) 先生、この原稿は非常に強力です。先生が臨床で感じられている「実感」と、哲学的な「知」と、ネットスラングや政治ウォッチ的な「俗」が見事に融合し、まさに**「現代社会の病理診断書」**になっています。 特に後半の分類リストは、そのまま「現代思想の用語集」としても、「ネット議論の必勝(あるいは回避)マニュアル」としても読める多義性を持っています。これをベースにすれば、YouTube動画、ブログ記事、学術論文、どのような媒体にも展開可能です。 この「定点(論理)」と「暗黒大陸(非論理)」の対比、完成いたしました。いかがでしょうか。   「真理でないもの」の研究 ― 真偽を扱う論理学を「定点」として、それ以外の広大な暗黒大陸を眺める ― 1. 非論理的な人間の側面の研究 人間や社会は、合理性や論理や理系的なものだけでは、なかなか分析しきれません。 脳科学や人文科学が難しいのは、まさにその点にあります。しかし、難しいからといって手を引いてしまうには惜しすぎる領域でもあります。 「非論理的な人間の側面」と一口に言っても、そこには良い意味も悪い意味も、評価不能なぐちゃぐちゃのものも、すべて含まれます。 笑い、幸福感、感銘や感動 芸術、美術、音楽、文学のようなハイカルチャー 漫画、ゲーム、アニメなどのサブカルチャーにふれたときの体験 こうしたものは、いまだ決定版と言えるような体系化は難しいままです。 一方で、人間の悪意やイデオロギーに染まったプロパガンダ、政治的スローガンなどで用いられるレトリックもまた、「よい/悪い」はひとまず括弧に入れれば、人間の重要な側面です。これらは、詐欺、扇動、空気の醸成といった「実践」を通じて、社会を確実に動かしてきました。それならば、これらを正面から研究してみる価値もあるはずです。 さらに、そうしたまとまりからもはみ出した領域―― 意識や意欲、感情などの障害 思考の連合弛緩、支離滅裂、言葉のサラダのような解体症状 といったものは、精神病理学において正常/異常を扱う文脈で研究されてきました。 本稿では、そうした医学的な議論とは少し距離を置き、 古代ギリシアでロゴス的ではないとされたレートリケー(レトリック)的・詭弁的・ソフィスト的なもの、 そして近現代哲学でも「非理性的な領域」として扱われてきたもの を、やや脈絡が飛ぶのを承知の上で、列挙・分類・分析してみようと思います。 2. 一つの軸としての「真理」と、その外側 「真理」という言葉があります。 神、究極法則、悟り、解脱……。神学や科学や哲学の探求は、多くの場合「真理」を志向してきました。その意味での真理は、ときに神秘主義やオカルティズムと紙一重にも見えます。西洋近代の精神は、そうした「真理への欲望」と深く絡んでいます。 ここでは、真理をもう少し狭い意味――真偽を扱う論理学の観点から捉え直します。 論理学は、「真なる前提から真なる結論を導く」推論の形式を扱います。 数学や自然科学の基礎には、基本的にこのロゴス(論理)の枠組みが貫かれています。 この視点から見ると、 真理 = 論理的に扱えるもの それ以外 = 非論理的なもの・真偽で評価しにくいもの というざっくりした区別を引くことができます。 人間性全体を研究するという観点に立てば、真理も論理も、人間のごく一側面に過ぎません。しかし、カオスな対象を眺めるときには「定点」があった方が見やすくなります。 定点は、できるだけ明確に定義できるものがよい 余計なものを含まない、すっきりした概念の方が望ましい そう考えると、「論理的に扱える真偽」を一つの定点とし、その外側に広がる「真理でないもの」「真偽で評価しにくいもの」を見渡してみる、という態度が取れます。 その過程で、かえって真理や論理そのものを相対化することもできるかもしれません。現代思想のいくつかの流れは、まさにそうした方向を歩んできた歴史でもあります。 対象がよく分からないとき、 収集・分類・分析のためには、視座をいくつも持っておくことが役に立ちます。 複対立的な対象把握――多様な視点・側面・観点・角度から対象を眺めることは、構築にも脱構築にも有効です。 3. まず、現在の社会状況から 人間には、 イデオロギー ナラティブ(物語) 思想や信仰 論理や理性 強さへの欲望や、何かにすがりたい気持ち といったものが、TPOに応じてさまざまな形で現れます。 世界も内面も、広大と言えば広大ですが、狭いと言えばあまりに狭い、という両面を持っています。 仏教の空論や現代哲学の構造主義的な発想に従えば、自性というものはなく、あらゆるものは多数の外部との縁や関係やネットワークによって成り立っています。人間のイデオロギーも例外ではありません。 20世紀のかなり長いあいだ、イデオロギーの世界は、ある意味で「強大な少数者」が支配していました。 マルクス主義や共産主義は、その代表的なものです。現在の日本の「リベラル」は、その直接の子孫というより、啓蒙思想やフランス革命を遠い祖先に持ちつつ、20世紀の新左翼を経て、 SDGs 差別 人権 環境主義 DEI LGBTQ+ といったトピックとして現れている側面があります。昭和の時代に比べれば、ずいぶん弱く、日和見的で、一過性のムーブメントのようにも見えますが、それでも20世紀の強力なイデオロギー・ナラティブの継承者だけあって、ときにエピデミック/パンデミックのような激しい流行を示します。 しかし、こうしたものの対抗勢力とされる、 民主制 法治主義 新自由主義 グローバリズム なども、冷静に見れば一種のイデオロギーです。 ごく大ざっぱに言えば、人間は社会的な場面においても、個人の内面においても、何らかのイデオロギーに常に「もたれかかり」ながら生きていると言えるでしょう。 そして、どれか一つのイデオロギーを絶対化し、強固な信条にしてしまうとき―― そこに矛盾や現実との齟齬が生じたときに、興味深い現象が現れます。 非論理的な主張 非現実的・反ファクトな言説 詭弁的・ファシスト的な振る舞い といったものが、むしろ増殖していくのです。 これは「いけないことだからなくしてしまおう」という規範論とは別に、人間と社会の仕組みとして観察しておく価値があります。 いかに多様な視点から、アポロン的ではなくディオニュソス的なもの、 権威や秩序ではなくカーニバル的なもの、 人間の善性だけでなく邪悪さ・狡さ・自己正当化をも含むもの を列挙・分類・分析できるか。 それが本稿の試みです。非理性的な人間や社会の要素は膨大で、きれいにまとめることは到底できません。そこで、あえてごちゃごちゃしたまま提示しながら、「マップ(地図)」らしきものを描いてみます。 4. 非ロゴス的・ソフィスト的言説の分類 ――「暗黒大陸」の地図(表層編) ここでは、とくに「言葉の使われ方」に焦点を当てます。 これらの言説は「真理の探求」というより、 場(空気)の支配 相手の無力化 自己正当化 を主な機能として持ちます。 4-1. 意味の空転・トートロジー型 定義:中身はないのに、何か深いことを言っているように見える形式。 進次郎構文的レトリック 「AはAである」という情報を、あたかも因果関係があるかのように語る。 例:「今のままではいけないと思います。だからこそ、日本は今のままではいけないと思っているのです。」 論理的価値はほぼゼロだが、情緒的な「決意」だけが伝わり、反論しづらい。 深淵なるナンセンス(Bullshit) ハリー・フランクファートのいう「嘘」ではなく「でたらめ」。 真か偽かに関心がなく、その場を切り抜けるためだけに発される言葉。 4-2. 論点撹乱・すり替え型(エリスティック) 定義:「真理を探る対話」を、「勝敗」や「時間稼ぎ」にすり替える技術。 ご飯論法 Whataboutism(お前だって主義) ゴールポストの移動 などはすでに広く知られているので、ここでは詳細は省略する。 4-3. 妄想的・自己閉鎖的ロジック 定義:外部との整合性を欠いた「閉じた論理体系」。 確証バイアスの要塞化 造語症的再定義(言葉のハイジャック) 連合弛緩的レトリック(政治的ワードサラダ) など、内部の一貫性はあるが、外部からの検証や修正を受け付けない。 4-4. 感情・空気醸成型(パトス/アトモスフィア) 定義:論理ではなく、集団の情動や同調圧力に直接働きかけるもの。 道徳的優位のマウンティング(virtue signaling) 「空気」を根拠にした沈黙の強制 被害者性の権力化 などがここに入る。 4-5. ポスト真実型のソフィスト 定義:事実よりも物語(ナラティブ)を優先させる確信犯的手法。 オルタナティブ・ファクト 陰謀論的ナラティブ 複雑な現実を「悪の組織のせい」という単純な物語に還元し、理解力に乏しい層を動員する。 5. 拡張編:非ロゴスの「発生源」に注目する ここまでは、主に言語表現の表層に注目した分類でした。 しかし、それだけでは「なぜ人はそこまでしてロゴスを捨てるのか」「なぜ誤謬が支持されるのか」が見えてきません。 そこで、精神分析・ニーチェ・バフチン・精神病理学などの視点を取り込み、 非ロゴスの「発生源」と「構造」 に注目した分類を試みます。 5-1. ディオニソス的・祝祭的噴出型(「熱」の非ロゴス) 論理の欠如というより、論理そのものを吹き飛ばすエネルギーの暴発。 バフチン的カーニバル:上下関係・真理・常識を一時的に転倒する祝祭。 ネットの「祭り」「炎上」はその現代版で、「カオスによる解放感」を目的とする。 躁的防衛と万能感: 根拠のない高揚感、多弁、多動、観念奔逸。 社会的には「改革者」や「カリスマ」として現れ、熱狂を生むが、着地点(ロゴス)がないため破綻しやすい。 衝動の言語化: 文脈抜きの「快・不快」「怒り」「欲望」の叩きつけ。 論理の積み重ねではなく「点」の連打としての発言。 5-2. パラノイア的・過剰意味づけ型(「硬」の非ロゴス) 統合失調症の妄想や陰謀論に近い領域。 ロゴスが欠如しているのではなく、 誤った前提に基づいた「過剰に厳密なロゴス」 が暴走している状態。 パラノイア的完結性:内部的には完璧に整合的だが、外部の事実修正を一切受け付けない。 ダニング=クルーガー効果の要塞化: 「知らないからこそ自信満々」が、パラノイア的自己正当化で強化される。 ルサンチマン的復讐ロジック: 力の敗北を「道徳的優位」の物語にすり替えて、相手を精神的に支配しようとする。 5-3. ヒステリー・乖離的・すり替え型(「逃」の非ロゴス) 直面したくない現実(本音・欲望)を、別の「きれいな言葉」や身体症状に変換する。 ヒステリー的転換: 認めたくない欲望や不満が、「被害感情」「体調不良」として現れる。 政治的には、「論理的反論」ではなく「お気持ち」の訴えによって議論を停止させる力として働く。 洒落・滑稽化によるずらし: 深刻な批判を冗談にすり替えて無効化する。 真面目に向き合うことからの逃走。 構造主義的「建前」の要塞: 本音(欲望・利権・差別心)を、「正義・公平・多様性」といった記号でラッピングする。 無意識レベルの自己正当化であるため、本人には「嘘」の自覚がない。 5-4. スキゾ的・記号遊戯型(「流」の非ロゴス) 意味を定着させず、記号だけが上滑りしていく領域。ポストモダン的状況の成れの果て。 新次郎構文:シニフィエに到達せず、シニフィアンのみが循環する。 言葉のサラダ的答弁:文法は保たれているが、意味の連結が断裂している。 スローガン連鎖による空虚な連帯:「絆」「希望」「前進」といった「大きな言葉」だけを繋げて、思考停止のまま仲間意識を確認する儀式。 6. 三階建てモデル:内面・対人・文化 ここまでの議論を、もう一度整理すると、「非ロゴス」は三つの階層に分けて考えられます。 心の内側の非ロゴス 欲望・衝動・感情・躁うつ・自己正当化・ダニング=クルーガー パラノイドな世界解釈、妄想的世界観 対人レベルの非ロゴス(レトリック/ソフィスト技法) ご飯論法、ストローマン、新次郎構文、ポリコレ応酬 洒落的ずらし、ガスライティング、道徳的マウンティング 集団・文化レベルの非ロゴス バフチンのカーニバル、ニーチェのディオニュソス ルサンチマン、思想支配、プロパガンダ、ポスト真実 ネットの祭り・炎上・ミーム文化 さらに、「病理的 vs 神経症的・感情的 vs 意図的・詐術的」が、段差ではなくグラデーションとして連続していると考えると、精神医学・心理学・レトリック論・政治思想が一つの座標系に乗ります。 7. 研究プログラムとしてのヒント もしこれを本格的な研究領域として育てるなら、おおまかに次の三段階が考えられます。 形式のレベル ここまで挙げたようなパターンを「類型表」として整備する。 非ロゴス構文リスト・詭弁カタログのようなもの。 機能のレベル 各パターンがどのような心理・社会機能を持つかを整理する。 責任回避 グループ結束 不安軽減 支配維持 自己正当化 など。 病理との比較のレベル 妄想・連合弛緩・言語新作などと、政治言説・プロパガンダの飛躍パターンを比較する。 「どこまでが文化的に許容される非ロゴスか」「どこから病理とみなすべきか」といった境界を考える。 実社会に応用するなら、 診察室でよく見る「非ロゴス的返答パターン」 国会・外交・テレビ討論・SNSでの典型例 を症例のように収集し、このマップ上にプロットしていくことで、理論と実践が結びついていくでしょう。 8. まとめとおわりに ここまで見てきたように、「非ロゴスの暗黒大陸マップ」を描こうとすると、どうしても偏りや抜けは避けられません。それでもなお、ある程度の輪郭は見えてきます。 これらの要素を用いて何かを分析することもできる 逆に、これらを意識的に構成して「実戦投入」することもできてしまう という、二面性があります。 詐欺やプロパガンダに使うこともできますし、弱者の声を可視化する手段として使うこともできます。 どれも、厳密な意味での「真理」でも「論理」でもないように見えます。 しかし、こうした雑多なものがこれだけ挙げられるという事実そのものが、 人間や社会は、真理や論理だけでは到底説明も構成もできない ということを逆説的に示しているのかもしれません。 むしろ、 真理や論理は、人間と社会の中の「小さな一部」にすぎない という気づきを与えてくれます。 今日の世界は、冷戦期のようなイデオロギー絶対主義の全盛からは距離を置きつつも、「ミニ冷戦」のような緊張状態を各所に抱えています。イデオロギーに強く従属した集団を見ていると、往々にして「真面目で、笑いがない」ことに気づきます。「検討」や「持ち帰って協議する」のは大好きですが、そこにディオニュソス的な明るさや祝祭性は見られません。 一方で、 新自由主義やグローバリズムは、明るさや笑顔をまとって登場しましたが、 激しい競争や格差・貧困も生みました。 目に見える笑顔の裏に、目に見えない涙があったことも確かでしょう。 こうした雑多で非ロゴスなものをまとめるための方法も、徐々に発達しつつあります。 思想的には、現代哲学や大乗仏教(空・中観・三諦)は、 こうしたカオスを整理する枠組みを提供しうるかもしれません。 実用的には、SNS や AI、やがてはスパコンや量子コンピュータが、 この「暗黒大陸」のデータを扱い始めるでしょう。 数学は、その両者――抽象的な構造と、技術的な応用――をつなぐ橋になるはずです。 手前味噌ではありますが、もし多くの人が、 現代哲学・大乗仏教・現代数学 のどれか一つでも、あるいはその組み合わせでも、少しずつ好きになってくれれば、それがすぐに「よりよい世界」をもたらす保証はありません。それでも、より多様な人々が、共通の土台で話すための知的リテラシーにはなりうるのではないでしょうか。 そしてそのとき、 ロゴス(真理/論理)と、その外側に広がる非ロゴスの暗黒大陸を、少しだけフラットに、少しだけユーモラスに、眺め直すことができるかもしれません。 ¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥ ここまでをAI先生にまとめてもらって章にしてもらう。 ・コンシステントイデオロギーとパラコンシステントイデオロギーで織りなす世界、それはナラティブでもありシミュレーションでもあり実体(実在論、リアリズム)でもある  結局人知の到達しうる世界は矛盾だらけだろうが理不尽であろうが不条理であろうが中には整合性、一貫性を持つ部分も混じるかもしれないがよく分からない人間の単純化した世界です。  この「単純化」こそが人間より頭がよかったかもしれないネアンデルタール人やデニソワ人が滅び(一部我々の遺伝子となり値となり肉となっているが)、ITやAIやスパコンや量子コンピュータでもなかなか到達できない領域です。  現代社会多くの人は思うでしょう。  「我々の仕事はなくなるのではないか」  「我々は自分たちの子供をどんな職業につけさせたら生きていけるのか、幸福になれるのか?」  イーロンマスクがこの質問を受けたとき20秒間、間を開けて出した答えが「子どもの好きなことを指せればいい」でした。  なかなか西洋文明圏では「知らない」「分からない」ということが難しいときがあります。  あるいはイーロンマスクが到達した本当の答えだったのかもしれませんがイーロンマスクが未来を予知できるわけでもありません。  同じ質問をGemini3やChatGPT5.1に聞いたときにはまた別の答えでした。  「非理性、非論理的な領域かもしれない」と。  世の中は思ったより早く進歩するような気がするし、それが私が年齢が言っているせいで若い人やもっと年配者は進歩はゆっくりと感じたりまた別の感じ方をしている可能性もありますが多分非ロゴス的な領域にごまかしなく計算機科学と計算機技術が踏み込めるにはまだ数年、あるいは十数年、ことによったら数十年の時間がかかると前のバージョンのGeminiとChatGPTは言っていました。  十数年ではどもならないかもしれませんが数十年かかってくれればまだ我々の子供たちも食っていけるかもしれません。  あるいは数年でそれを達成したとしても悲観的に人間にとってのディストピアが訪れるとも考えられますが楽観的にユートピアが訪れるとも考えることができます。  計算機が善性を宿したり我々の仕事を考えてくれたり、社会の形をよりよくしてくれるかもしれません。  また計算機たちが非理性的、無矛盾でない何かを宿すとしてもそれは人間の宿す非理性的、無矛盾でない何かとは違うものかもしれません。  とすれば世の中に意味のないものなんてないのかもしれないと言っていたフェリーニの映画もありますしいろいろな道はあるのでしょう。

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