2025年11月27日木曜日
なくせないイデオロギー、ナラティブ、シミュラークル、実体(実在論)―なくせないのであれば現代哲学で生かす―
なくせないイデオロギー、ナラティブ、シミュラークル、実体(実在論)―なくせないのであれば現代哲学で生かす―序:批判はできてもなくせないイデオロギー、ナラティブ、シミュラークル、実体(実在論)……。こうした概念は、現代思想において散々批判されてきましたが、結局のところなくすことはできません。人間性とは何か定かではありませんが、これらは人間性の構成要素そのものだからです。しかもしばしば顕在化させる必要があり、永久に死蔵させておけるものでもありません。どうせあるのですから、嫌がったり使わないでいたりするよりは、よい面を見つけて生活や社会の中で活用していくのが良いでしょう。それは、小難しい現代思想を**「人生を快適に過ごすための実用ツール(アプリ)」**として紹介する試みでもあります。イデオロギーを「排除すべき悪」とするのではなく、「どうせ無くせないなら、スマートに(三方良しで)使いこなそう」という、極めてプラグマティック(実用的)な態度。これは構造主義のその先にある「構築」に通じる、非常に前向きで健康的なニヒリズム(能動的ニヒリズム)と言えるでしょう。第1章:イデオロギーの「うざさ」と「再定義」1. 意味が紛らわしい言葉「イデオロギー」という言葉は誤解を招きやすいものです。本来は「イデア(アイデア)」+「ロゴス(ロジック)」なので、知的な体系を指すはずですが、現代日本語では「うざい感じ」で使われます。押し付けがましさ、鬱陶しさ、怪しさ。人間で言えばメンヘラやストーカーや狂信者みたいな粘着質。これは言葉自体が悪いのではなく、イデオロギーを使って他人に迷惑をかけたり、理屈を捻じ曲げたり、底なし沼のように布教したりと、外面や体裁の悪い使い方をした人が多かったせいで、悪いイメージがついてしまったのでしょう。かつてかっこよかった「男のロマン」が、今ではダサい、厨二病的なニュアンスを帯びてしまい、口にするのが少し恥ずかしいのと似ています。この「イデオロギーの陳腐化(形骸化)」は、甘い思い出のかなたにある若き日の羞恥心をくすぐるものです。2. スマートでインテリジェンスな扱い方しかし、イデオロギーは要するに「人間のまとまりのある思考一式」なので、ないわけにはいきません。ならば、格好良く、スマートで、インテリジェンスに扱うべきです。自分のイメージや社会的信用を損なわず、自分にとっても、他者にとっても、社会にとっても良い「三方良し」の使い方を目指す。それが現代の大人の作法です。第2章:現代哲学と仏教による「改造・解体・構築」イデオロギーを使いこなすには、現代哲学や大乗仏教が最高のツールになります。どちらも「批判的解消」から生まれているからです。浅い層: マルクス主義や自性(実体)の批判中間層: ナラティブ、西洋中心主義、輪廻転生の相対化深い層: 形而上学、実在論、社会システムそのものの解体1. ツールとしての現代思想現代哲学を使えば、イデオロギーを「作る」ことも、「改造する」ことも、そして「なくしてしまう(脱構築)」ことも可能です。脱構築で解体するのもあり、ずらして形を変えるのもあり、別のイデオロギーを再構築するのもあり。これは仏教で言えば「空」や「縁起」の思想の実践です。2. イデオロギーの相対化(メタ認知)ポスト構造主義の相対主義や、仏教の中観(中道)を使えば、イデオロギーを相対化できます。一つしかなければそれに染まるしかありませんが、いくつもあれば「鳥観図」のように俯瞰できます。数学で言えば、0と1だけでなく、2、3と増えていけば比較や対照実験が可能になり、たくさんあれば多因子分析ができるのと同じです。現代思想や仏教は、「イデオロギーにどっぷり浸かりつつ、その外側からも自分を眺めるためのメガネ」として使えるのです。第3章:イデオロギーのエネルギー分類イデオロギーには「無矛盾・整合的(コンシステント)」なものだけでなく、矛盾を含んだものも多くあります。これらをエネルギー資源のメタファーで分類してみると、その性質がよく分かります。分類名エネルギーのメタファー性質と具体例Clean再生可能エネルギー社会的受容性が高く持続可能。例:リベラリズム、SDGsDirty化石燃料高出力だが汚染(分断)を生む。例:排外主義、過激派Gray潜在エネルギー背景化しており意識されない。例:「常識」、資本主義的習慣Para疑似エネルギー思想の顔をしたライフスタイル。例:陰謀論、極端な健康法Paraconsistent(永久機関的幻想)矛盾を許容し暴走する論理。例:ポピュリズム、ダブルシンクこの「パラコンシステント(矛盾許容型)」なイデオロギーこそが、人間の情動や非合理性を扱う上で最も厄介で、かつ重要な領域です。第4章:「真理でないもの」の研究――パラコンシステント・イデオロギーのカタログロゴス(論理・理性)に基づいたイデオロギーは科学や数学で扱えますが、情意(感情・意志)に基づく「非ロゴス的」なものは研究が不足しています。しかし、人間社会を駆動しているのは、真理(論理的整合性)ではなく、この広大な「非ロゴスの暗黒大陸」です。ここでは、その多様な形態を列挙・分類してみます。1. 心の内側の「非ロゴス」(力動と認知)個人の内面で渦巻く、論理以前のエネルギーや認知の歪みです。欲望(Desire)と衝動: 意志や欲求は必ずしも主体の利益と一致しません。「理屈では分かっているが止められない」衝動や爆発性は、論理を突き破る原動力です。ディオニソス的陶酔(躁状態): ニーチェが描いたような、根拠のない万能感、高揚感、思考の飛躍。社会的には「カリスマ」として現れることもありますが、着地点(論理的結末)を持ちません。認知的不協和と自己正当化: 自分の行動と信念が食い違ったとき、論理をねじ曲げてでも辻褄を合わせようとする心理。意識的な嘘だけでなく、無意識レベルでの「防衛機制(否認・投影)」が含まれます。ダニング=クルーガー効果の要塞: 「能力が低いゆえに、自分の能力の低さを認識できない」状態。外部からの正当な評価や論理的指摘を受け付けない無敵の認知構造を作ります。パラノイドな世界構築: 「自分は監視されている」「世界は陰謀に満ちている」という誤った前提の上に、極めて緻密で閉鎖的な論理体系を築き上げる状態。内部では無矛盾であるため、外部からの修正が不可能です。2. 対人レベルの「非ロゴス」(現代のソフィスト術)対話において、真理の探究ではなく「勝利」「逃走」「支配」を目的とする言語技術です。① 意味の空転・責任回避(ぼかす技術)新次郎構文(トートロジー): 「今のままではいけない。だからこそ、今のままではいけないと思っている」のように、同語反復によって意味を空転させ、情緒だけを伝えて責任所在を消す話法。ご飯論法(論点の矮小化): 「(米の)ご飯は食べていない(パンは食べたが)」のように、文脈を無視して単語の定義を恣意的に狭め、核心をはぐらかす手法。主語と責任の蒸発: 「そういう声もある」「社会として考えねばならない」など、行為主体を曖昧にして責任を霧散させる官僚的レトリック。② 論点撹乱・攻撃(ねじる技術)Whataboutism(そっちこそどうなんだ主義): 批判された際に「お前たちだって過去に同じことをしたではないか」と別件を持ち出し、論点を相対化して無効化する冷戦期からのプロパガンダ手法。ストローマン(藁人形論法): 相手の主張をわざと極端な形に歪めて(弱い藁人形にして)から攻撃する手法。ゴールポストの移動: 議論で劣勢になると、勝利条件や要求水準を事後的に変更し、決着がつかないようにする。③ 感情・道徳による上書き(封じる技術)道徳的マウンティング(Virtue Signaling): 内容の是非ではなく「私はこれほど配慮ができる善人である」というシグナルを送り、相手を倫理的劣位に置くことで口を封じる。被害者性の権力化: 「私は傷ついた」「不快だ」という主観的感情を不可侵の「事実」として提示し、論理的な批判を「加害」として封殺する。「空気」の支配: 日本特有のメタ・コミュニケーション。「今ここでそれを言うのは空気が読めていない」という同調圧力によってロゴスを圧殺する。3. 集団・文化レベルの「非ロゴス」(構造と熱狂)社会全体を覆う空気や、構造的な歪みです。バフチンのカーニバル(祝祭的転倒): 秩序や階層、真理を無礼講でひっくり返す一時的な熱狂。現代のSNSにおける「祭り」や「炎上」は、論理的解決ではなくカオスによる解放(ガス抜き)を目的としています。ルサンチマンの復讐構造: 弱者が強者に対し、現実的な力ではなく「道徳的な優位性」を捏造することで精神的な復讐を果たす構造。キリスト教的な「貧しき者は幸いなり」の裏面にある、怨恨の論理化です。ポスト真実とナラティブ戦争: 客観的な事実(ファクト)よりも、支持者が信じたい物語(ナラティブ)が優先される状況。陰謀論やオルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)が、結束の道具として機能します。Gish Gallop(情報の洪水): 短時間に大量の不正確な情報や半真実を投げつけ、相手の検証能力を飽和させて思考停止に追い込む手法。4. 分析の視座:「パラノ」と「スキゾ」の政治学これらの非ロゴス的言説を、ドゥルーズ=ガタリ的な視点で整理すると、二つの極が見えてきます。パラノイア的(固着・支配): 意味過剰、断定、敵味方の二分法。「支配」と「自己正当化」を目的とし、外部を遮断する。スキゾフレニア的(分裂・逃走): 意味不明、新次郎構文、おちゃらけ。「逃走」と「責任回避」を目的とし、記号を滑らせて追及をかわす。現代の政治や社会問題は、この「パラノ的支配」と「スキゾ的逃走」が複雑に入り乱れる泥沼(マッド・スワンプ)の中で展開されているのです。結語:計算機と人間、あるいは不条理な希望コンシステント(整合的)なイデオロギーと、パラコンシステント(矛盾許容的)なイデオロギーが織りなす世界。それはナラティブでもあり、シミュレーションでもあり、実体(リアリズム)でもあります。結局、人知の到達しうる世界は、矛盾だらけで理不尽で不条理でありつつも、整合性を持つ部分も混じり合った「単純化された世界」です。しかしこの「単純化」こそが、かつて人間より賢かったかもしれないネアンデルタール人やデニソワ人が持たず、人間だけが持ち得た生存戦略なのかもしれません。現代社会において、多くの人が「我々の仕事はなくなるのではないか」「子供たちをどんな職業につければ幸福になれるのか」と不安を抱いています。イーロン・マスクがこの質問を受けたとき、20秒間の沈黙の末に出した答えは「子どもの好きなことをさせればいい」でした。西洋文明圏の人間にとって「分からない」と言うことの難しさ、あるいはそれが彼なりの到達点だったのかもしれません。一方、AI(GeminiやChatGPT)に同じ質問を投げかけたとき、彼らは「非理性、非論理的な領域こそが残るかもしれない」と答えました。世の中の進歩は速いようでいて、実はこの「非ロゴス的な領域(ごまかしのないパラコンシステントな世界)」に計算機技術が踏み込むには、まだ数年、あるいは数十年の時間がかかるでしょう。その数十年の猶予があれば、我々の子供たちもなんとか食っていけるかもしれません。あるいは、計算機がその領域を達成したとき、悲観的なディストピアではなく、計算機が善性を宿したり、社会の形をよりよくしてくれるユートピアが訪れるとも考えられます。計算機たちが宿す「非理性」は、人間の宿すそれとはまた違う、新しい何かかもしれないからです。フェリーニの映画にあるように、「世の中に意味のないものなんてないのかもしれない」とすれば、イデオロギーも、非論理的な情動も、AIも、色々な道へと続いているのでしょう。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿