2025年9月24日水曜日

現代哲学の弱点? ポスト構造主義や中道はとってつけたものか?

現代哲学の弱点? ポスト構造主義や中道はとってつけたものか? ・現代哲学はやや人為的なところがある  現代哲学はやや人為的というか人工的なところがあります。  それはどこの部分かというと現代哲学ではポスト構造主義とよばれる部分です。  ポスト構造主義というのは「実在論も構造主義もそもそも違う考え方で独立な考え方だから共存できるし仲良くやっていこうぜ」みたいな考え方です。  それ自体が第三者的というか他人事です。  哲学の歴史は実在論を批判するために構造主義が導入された、という歴史です。  そうすると構造主義は実在論を批判するための非実在論として導入されました。  「近代への批判」とか「ポストモダン」とか呼ばれる思想史の出来事です。  ただ両者は独立の考え方で別にお互い自分が絶対に正しくて相手は絶対に間違っていると主張する必要はありません。  まさに今はやりのDEIで多様性、公平性、包容性の観点から両者両立でいいですし、両者をハイブリッドさせても全くノープロブレムです。  逆に構造主義一本、実在論一本でいくのも構いません。  実際には学問や机上の思考はともかく実生活ではどこかで補完的に他方が混じってしまいやすいですが。  哲学の理論、原則のところは存在論と認識論でできていてこれらは実在論や構造主義だけあればいいという見方もできます。  ただし両者をブレンドしたり倫理・道徳や判断力という形で実践したり、世の中の全ての思想・哲学・イデオロギーなどの見取り図を作るにはポスト構造主義というものを作る必要があります。  ポスト構造主義自体は実在論からの延長線上で作ることができますし、構造主義の延長線上で作ることもできますし、両者からつくることも、或いは両者とは別の原則として導入することも可能です。   ・ポスト構造主義はとってつけた感じだが一番大切  実在論と構造主義で十分なように見えてもポスト構造主義を付け加えることでメリットが発生しますし、欠点の保管にもなります。 ① 実在論と構造主義を両立できる。背反なものとしてではなく独立なものとして見ることができる。 ② ポスト構造主義は実用的。実在論と構造主義は哲学を哲学として研究室で学問するのにはいいかもしれないが個人でも集団でも実践にはポンコツでポスト構造主義を導入すると一気に実用的になる。 ③ 実在論や構造主義で突っ走ると矛盾やパラドックスが生じる時がある。それを解消できる。 などがあります。 ①はそもそも構造主義が流行してポスト構造主義がなかった場合には構造主義で突っ走った時代がありました。  実在論を否定して構造主義で一元化するような動きが盛んでした。  例えば近代批判、ロゴス中心主義批判、理性中心主義批判と言われて実在論を排除して近代の否定、ポストモダンなどという運動が盛り上がった時期もありました。  ただ構造主義は別に実在論の否定ではないので両者は並び立てますし混ぜることも、使い分けることもできます。  この過剰な実在論批判からの反省という面からポスト構造主義が生まれたという側面があります。  ②はそもそも哲学というのは英語でいうとphilosophyというように日本語の哲学よりは本当はもっと広い意味を持っています。  歴史的にも制度的にも実際的にも学問や学究全体をphilosophyと言います。  哲学の分類はカントの分け方が実用的でカントの3大著作は純粋理性批判で存在論と認識論を扱い、実践理性批判で道徳と狭い意味の倫理を扱い、判断力批判で真善美などの価値判断能力を扱っています。  そういうのをひっくるめて今は哲学と言わず倫理学という事が増えてきました。  存在論と認識論は基礎研究のようなもので科学ですが、実際の世の中で生かそうとすると工学や技術の範疇になります。  人間学者のように大学の研究室にこもって生きていければいいのですが生きていくうえでの問題、実存的な問題にぶち当たってそこから存在論や認識論のレベルまで掘り下げたお釈迦さまやニーチェのような哲学者もおりともに思想史の金字塔ともなっています。  生きることと哲学することはかかわりがあるのかもしれません。 ③は例えば構造主義も実在論も哲学の枠に収まらず広く活用できますが、数学基礎論や論理学のような分野では完全で無矛盾な構造主義を徹底するとパラドックスが生じる場合があります。 事実上の限りがないもの、無限、無限集合、無限の操作を許すとおかしなことが生じる可能性が原理的に出てくる可能性があるので慎重を期すなら使えないかもしれないという事です。  これを避けるためにラッセルという数学者兼論理学者兼歴史学者兼文学者兼評論家のような大学者がタイプ理論というのを提案しました。 ・2つでなく3つ目の原則を加える  実在論と構造主義は対等ですがポスト構造主義はオペレーションのために必要な原理です。  ラッセルとタイプ理論と似て実在論と構造主義に対して外部性があります。  実在論と構造主義をオペレーションするために加えた原理なので両者に対してメタ認知的ですし操作的です。  外部性がないと実在論なら実在論の一本道で周囲が見えずに他の道、選択肢(構造主義)があるのが分からないか知っていても排他的になる、逆もまたしかりで構造主義一本だと実在論に批判的になりやすいです。  そういうのを調整、仲裁、周旋する立場の原理が必要でそれがポスト構造主義になります。  二次元に動くしかない芋虫から成虫の蝶になって3次元的に両者を見下ろせる立場になるイメージでしょうか。  昔はそれを相対化と言いました。  実在論も構造主義もその両者を合成したものも細かく分類していけばいろんな思想に分かれます。  それらの思想をオペレートするプロジェクトマネージャーのようになるのが哲学の到達点でした。 ・構造主義の優位性  実在論と構造主義はどっちが優位というわけではありませんが、構造主義の方がちょっと優位と見られる考え方が可能です。  実在論はまず要素を認めてその間の関係性を考えます。  構造主義は関係性を全て与えれば要素は勝手に析出してくるので要素があろうがなかろうがどっちでもいいと考えます。  つまり実在論の方がワンステップやることが多いのです。  最初のアクションで要素を設定して2番目のアクションで関係性を与えます。  構造主義は関係性を最初に与えれば要素は勝手に定まるので要素が実際にあろうがなかろうがどっちでもいい省略できるステップに過ぎなくなります。  そういう点で数学では集合論より圏論が数学の基礎として優位になってきている感じですし、現代社会も表層に現れる(ように見える)実在の背後にある膨大な関係性というネットワークに注目する時代にシフトしています。 ・時代の変わり目  西洋思想という文脈でみると現代哲学は最後の哲学ですが東洋哲学という観点から見ると構造主義もポスト構造主義も2600年前の仏教が作られた時代からある思想でしかも大国のインドや中国だけでなく中央アジアから東の北東アジア、東アジア、東南アジアを一時は制覇した思想です。  今は大乗仏教国と日本とブータンとチベットとモンゴルしかありませんがそれでも日本が独自の文明として認められているのは中国が捨てて朝鮮半島も捨てつつある大乗仏教の影響が大きいです。  日本に古い思想が滅びず集積している理由の一つは大乗仏教があったからです。  縄文文明もアニミズムも神道も道教も儒教もキリスト教も日本ではみんな共存、強制しています。  面白いことに現代思想家はコジェーブもレヴィ=ストロースも日本に人類の未来を見ています。  曰く「世界は日本化するか滅びるか」です。  これは日本が特別なのではなく日本の大乗仏教が特別なので、大乗仏教の空と中道の考え方は現代哲学の構造主義とポスト構造主義と全く一緒です。  時代はSDGsでDEIでSEGの時代ですので現代哲学も仏教もそういうのにとても向いています。  せっかくの人類の英知の究極系なのでうまく利用していきましょう。

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