2025年9月18日木曜日
「日本の『財政破綻』って何ですか?」 ―思考停止を抜け出す、やさしい経済の話―
「日本の『財政破綻』って何ですか?」
―思考停止を抜け出す、やさしい経済の話―
「日本の借金は1200兆円を超え、国民一人当たり1000万円。この国はもう破綻するしかない…」
あなたも一度は、こんな言葉を耳にしたことがあるのではないでしょうか。テレビや新聞、インターネットで繰り返されるこの言葉は、私たちの未来に漠然とした不安を投げかけます。
しかし、少し立ち止まって考えてみませんか。その「破綻」とは、一体何なのでしょうか?
この記事では、「財政破綻」という曖昧な言葉の呪縛から抜け出し、日本の経済を冷静に見つめ直すための「思考の地図」を、一緒に広げていきたいと思います。
1. なぜ「破綻」の議論はいつも噛み合わないのか?
日本では30年以上、財政をめぐって二つの主張が対立してきました。
A説:「このまま国債を刷り続ければ、借金が返せなくなり『財政破綻』する!」
B説:「日本の国債は円建てで、国内で消化されているから『財政破綻』はしない!」
そしてB説に対しては、しばしば「いや、国債を刷りすぎれば、円の価値が暴落する『ハイパーインフレ』で破綻するんだ!」という反論がなされます。
まるで、どの道を選んでも「破綻」という崖が待っているかのようです。しかし、この議論が不毛なのは、A説の「破綻」とB説が恐れる「破綻」が、全くの別物だからです。
多くの人は「どちらにせよ経済が大混乱するなら同じこと」と考え、思考を停止してしまいがちです。しかし、病気の原因を取り違えれば適切な治療ができないのと同じで、この二つを混同すると、国家として取るべき経済政策を完全に見誤ってしまうのです。
2. 「破綻」の正体:2つの全く違うシナリオ
日本の文脈で語られる「破綻」は、主に以下の二つのシナリオに分けられます。言葉を仕分けるだけで、視界は一気にクリアになります。
シナリオ①:債務不履行(デフォルト)
意味:国が国債の利払いや元本の返済を、約束通りに行えなくなること。
イメージ:会社や個人の「倒産」「自己破産」に近いです。「借金が返せない」という分かりやすさから、多くの人がこちらを想像します。
日本の可能性:限りなく低いと言えます。なぜなら、日本政府は返済に必要な「円」を、日本銀行を通じて自ら発行できるからです。ドルなど外貨建ての借金に苦しむ国とは、根本的に事情が異なります。
シナリオ②:ハイパーインフレーション
意味:通貨の価値が急激に暴落し、極端な物価上昇が制御不能になること。
イメージ:戦後のドイツや近年のジンバブエのように、お金が紙くず同然になる状態です。
日本の可能性:これは理論上のリスクとして存在します。国の生産能力(モノやサービスを供給する力)をはるかに超えてお金を発行し続ければ、円の信認が失われ、激しいインフレが起こる可能性はゼロではありません。
つまり、日本のリスクは「お金が返せなくなる」デフォルトではなく、「お金の価値がなくなりすぎる」インフレにあるのです。
3. 原因が違えば、処方箋も違う
この区別は、なぜそれほど重要なのでしょうか。それは、恐れるべき「病気」が違えば、「処方箋」も全く異なるからです。
デフォルトを恐れる場合
処方箋:「歳出削減」「増税」といった緊縮財政。「とにかく借金を減らせ!」という一点に集中します。
インフレを恐れる場合
処方箋:「国の供給能力の向上」「金利の調整」など、多角的で繊細な経済運営。問題は「借金の額」ではなく、「お金の量と供給能力のバランス」になります。
過去30年間の日本は、デフレという「低体温症」に苦しんでいるにもかかわらず、「デフォルトが怖いから」という理由で緊縮財政という「解熱剤」を使い続けてきた、と見ることもできます。これでは経済が活力を失うのも当然かもしれません。
4. 視点を変えよう:家計簿から「会社の決算書」へ
「国の借金」という言葉を聞くと、私たちはつい自分の家の家計簿を思い浮かべてしまいます。しかし、国家の財政は、資産と負債を両方見る「会社の決算書(バランスシート)」に近いものです。
経済評論家の高橋洋一氏が指摘するように、政府と日本銀行を一体(連結決算)で見ると、景色は一変します。
日銀が持つ国債:日銀が保有する大量の国債は、政府にとっては「負債」ですが、連結してみればグループ内の貸し借りのようなもので、事実上相殺されます。
政府の巨大な資産:日本政府は、多額の対外純資産(海外に持つ資産)をはじめ、世界有数の資産を持っています。
借金だけを見て「破綻だ」と騒ぐのは、巨大な資産を持つ会社の負債だけを見て「あの会社は危ない」と言っているようなものなのです。この視点で見れば、日本の財政は先進国の中でもむしろ健全な部類に入ります。
5. 結論:「思考停止」をやめ、バランスを取り戻すために
「杞憂(きゆう)」という言葉があります。天が落ちてこないかと無意味な心配をすることです。また、「株を守りて兎を待つ」という故事は、一度の偶然の成功に固執し、変化に対応しない愚かさを戒めます。
日本の「財政破綻」論は、この二つに陥ってはいないでしょうか。
「起こり得ないデフォルト」を過剰に心配し(杞憂)、かつて機能したかもしれない「緊縮財政」という古いやり方に固執する(守株待兎)。その結果が、「失われた30年」と呼ばれる長期停滞なのではないでしょうか。
どちらの「破綻」も、今すぐ大災害のように訪れるわけではありません。大切なのはバランスです。30年以上も緊縮を続けてきたのですから、今度は経済を成長させるための財政・金融緩和に舵を切る。そうした柔軟な政策転換を議論すべき時です。
そもそも、古代の聖典が利子を制限し、共同体の弱者を守ろうとしたのは、無制限な金融活動が格差と分断を生み、社会を破壊することを知っていたからです。現代の日本も、広がる格差や貧困という問題に直面しています。
「破綻」という思考停止ワードに惑わされるのをやめ、私たちが本当に目指すべき社会の姿について、冷静に、そして建設的に議論を始めるべき時期に来ているのではないでしょうか。
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