戦争が終わる四年前から、戦後は始まっていた。
一 グロデク
一九一四年秋――ゲオルク・トラークル
夕暮れに、秋の森が鳴っている。
砲声だった。
しかし、砲声という言葉では足りなかった。音は空気を震わせるだけではなく、森を内側から割っていた。木々の幹を伝わり、根を通り、地中に眠る古い骨まで届いていた。
森が撃っている。
大地が自分自身を撃っている。
そう考えると、少しだけ理解できる気がした。
人間が人間を殺しているとは、もう考えられなかった。
納屋には九十人ほどの負傷兵が横たわっていた。
正確な人数を数える者はいなかった。
生きている者と、すでに死んでいる者と、そのどちらであるか分からない者が、藁の上で重なっていた。包帯は足りなかった。水も、モルヒネも、医師も足りなかった。
トラークルは薬剤師だった。
薬を扱う者の前に、薬のない人間が並んでいた。
冗談のようだった。
誰も笑わなかった。
肺を撃たれた兵士が、息をするたびに赤い泡を吐いた。
青い、とトラークルは思った。
泡は赤い。
だが、青かった。
納屋の屋根に穴があいており、そこから秋の空が細く見えた。その青が、兵士の口からあふれているように見えた。
空を吸い込もうとしている。
吸い込むたびに、血を吐いている。
男は母親を呼んだ。
次には水を求めた。
その次には、意味をなさない音を発した。
やがて口だけが動き、声は出なくなった。
トラークルは水筒を傾けた。
空だった。
空の水筒を男の唇に当てた。
男は水を飲むように喉を動かした。
その動きを見ながら、トラークルは、自分が嘘をついていると思った。
水はない。
だが、水があるふりをした。
男も、飲んでいるふりをした。
二人は最後の瞬間まで、小さな嘘を守った。
乾いた銃声がした。
納屋の隅で、一人の兵士が自分の側頭部を撃った。
誰かが叫んだ。
トラークルは男を止めようとしていたはずだった。
だが、そのとき自分がどこにいたのか、あとになっても思い出せなかった。男から数歩離れた場所に立っていたのか。それとも納屋の外にいたのか。
記憶の中では、彼はいつまでも銃口と額の間に立っていた。
弾丸が彼の身体を通り抜け、その向こうの男を殺した。
実際には、そうではなかった。
実際という言葉は、もはや意味を失っていた。
外へ出た。
木があった。
木に、人間が生っていた。
果実のように、何人もの身体が吊られていた。村人なのか、逃亡兵なのか分からなかった。風が吹くたびに身体はゆっくり回り、沈む太陽を見せ、次には背を向けた。
顔。
後頭部。
顔。
後頭部。
彼らは交互に、生者の世界と死者の世界を見ていた。
トラークルは拳銃を抜いた。
自分の額に当てた。
金属が冷たかった。
その冷たさだけは、明晰だった。
引き金に指をかけたとき、誰かが腕をつかんだ。
拳銃が地面に落ちた。
彼は抵抗しなかった。
助けられたとも思わなかった。
ただ、死ぬという動作を中断された。
それだけだった。
夜になると、森から死者が歩いてきた。
もちろん実際には、誰も歩いてこなかった。
だがトラークルには、はっきり見えた。
青白い額。
泥に濡れた髪。
胸を開かれた兵士。
腕のない兵士。
腹から腸を垂らした兵士。
彼らは列を作らず、号令にも従わず、静かに森を抜けてきた。
死者だけが、軍隊をやめていた。
その先頭に妹のグレーテがいた。
彼女は死んではいなかった。
少なくとも、そのときは。
白い服を着て、月の光の中に立っていた。兄を迎えに来たのか、死者を迎えに来たのか分からなかった。
妹は何も言わなかった。
言葉を持っているのは、生者だけだった。
死者は像になり、色になり、音になった。
言葉になる一歩手前で、こちらを見ていた。
――ここで言葉が切れる。
クラクフの軍病院。
白い壁。
白い寝台。
白衣を着た医師。
書類の上では、彼は観察される患者になった。
医師は質問した。
眠れますか。
声が聞こえますか。
死にたいと思いますか。
トラークルは答えた。
答えながら、質問と答えの間には、グロデクの森がまるごと横たわっていると思った。
医師には見えない。
書類にも入らない。
診断名の欄には短い語が書かれた。
そこには、見すぎた者、とは書かれなかった。
そのような病名はなかった。
夜、彼は机の上で白い粉を量った。
薬剤師の手は正確だった。
手だけが、まだ以前の世界に属していた。
秤の皿が傾く。
少し戻す。
また量る。
何のための量なのか、彼自身にも分からなかった。
眠るためか。
苦痛を遠ざけるためか。
あるいは戻れない場所へ行くためか。
未来の医師たちは、それを事故と呼ぶかもしれない。
自死と呼ぶかもしれない。
薬物への依存と呼ぶかもしれない。
だがその夜、彼の中には、そのような区別はなかった。
ある量を超えれば、眠りは死になる。
その境界は細く、暗かった。
彼は窓を見た。
夜明け前の空に、欠けた月が残っていた。
月は白くはなかった。
グロデクの空と同じ、青だった。
納屋の屋根から落ちてきた青。
兵士の口からあふれた青。
生まれるはずだった子供たちの眼に、宿るはずだった青。
誰かがそれを掬わなければならない。
だが、器がなかった。
トラークルは白い粉を口へ運んだ。
翌朝になっても、月はしばらく空に残った。
彼はもう、それを見なかった。
二 パーゼヴァルク
一九一八年十一月――伍長
伍長は、目が見えなかった。
イーペルの南で、夜の中を黄色い煙が流れてきた。
誰かがガスだと叫んだ。
防毒面をつけた。
遅かったのかもしれない。
面がずれていたのかもしれない。
眼が焼け、涙が止まらなくなった。喉が腫れ、息をするたびに胸の内側が擦れた。
翌朝には、世界が消えていた。
パーゼヴァルクの病院で、医師は瞼を開き、光を当てた。
「炎症は治まっている」
医師は言った。
「時間が必要だ」
どれほどの時間か。
医師は答えなかった。
眼が傷ついているから見えないのか。
見えないから、眼が傷ついているように感じるのか。
肉体と精神のどちらが先に暗くなったのか。
誰にも分からなかった。
本人にも分からなかった。
ただ、暗闇だけが確かだった。
暗闇には距離がなかった。
顔の前も、百メートル先も、祖国も、過去も、同じ黒さだった。
十一月。
廊下を走る足音がした。
何人もの患者が声を上げた。
泣いている者がいた。
笑っている者もいた。
老いた牧師が病室へ入ってきた。
休戦が成立した、と牧師は告げた。
皇帝は退位した。
ベルリンでは革命が起きた。
戦争は終わった。
牧師の声は震えていた。
誰かが神に感謝した。
誰かが祖国を呪った。
伍長は、寝台の中で動かなかった。
戦争が終わった。
その言葉は、彼の知っているどの出来事にも似ていなかった。
戦友が撃たれれば、戦友は死ぬ。
陣地が奪われれば、後退する。
命令が来れば、走る。
出来事には次の行動があった。
だが戦争が終わったあと、何をすればよいのか。
誰も命令しなかった。
「われわれは負けたのですか」
伍長は訊いた。
牧師は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
胸の中で、何かが崩れた。
悲しみではなかった。
怒りでもなかった。
それらに分かれる以前の、名のない熱だった。
四年分の砲声。
泥。
濡れた靴下。
腐った馬。
戦友の頭蓋。
走りつづけた夜。
命令を届けたときの安堵。
自分が必要とされた、わずかな記憶。
それらが一度にほどけ、意味を失った。
無意味だったのか。
仲間の死も。
自分の負傷も。
耐えた年月も。
祖国も。
もし無意味だったなら、自分は何のために生き残ったのか。
彼は枕に顔を埋めた。
涙が出た。
眼の炎症による涙だったのかもしれない。
敗北の涙だったのかもしれない。
後年、彼はその夜を一つの物語として書くだろう。
だがこのとき、物語はまだなかった。
原因もなかった。
敵もいなかった。
あるのは、身体に収まらないほど膨張した苦痛だけだった。
苦痛は言葉を求めていた。
しかし、言葉はまだ来なかった。
病院の庭には月が出ていた。
看護婦が窓を閉めるとき、それを見た。
「月がきれいです」
彼女は、誰にともなく言った。
伍長には見えなかった。
「どのような月です」
看護婦は振り返った。
「細い月です。夜が明けても、まだ残っています」
「それは、何を照らしているのです」
看護婦は答えられなかった。
月は何かを照らすためにあるのではない。
だが、そのような答えを、彼は求めていなかった。
彼は意味を求めていた。
月にも。
戦争にも。
自分が生き残ったことにも。
意味がなければならなかった。
意味がないという状態に、いつまでも耐えることはできなかった。
だが、この夜の彼は、まだ誰をも名指していなかった。
暗闇の中にあるのは、敵の顔ではない。
顔を持たない穴だった。
その穴へ、何が流れ込むかは、まだ決まっていなかった。
傷は方向を持っていなかった。
傷は命令ではなかった。
どこへ進むかを、傷そのものが決めることはなかった。
翌年、ミュンヘン。
軍服を脱ぐ機会を、伍長は逃しつづけた。
軍は寝床を与えた。
食事を与えた。
命令を与えた。
戦争の後にも、彼を必要とするふりをした。
街には言葉があふれていた。
革命。
裏切り。
国際主義。
資本家。
ボリシェヴィキ。
民族。
祖国。
新聞も、壁のビラも、酒場の演説も、敗北の理由を知っていた。
理由は一つではなかった。
だが人々は、一つであることを望んだ。
複数の原因は、苦痛を軽くしない。
一つの敵だけが、苦痛を怒りへ変える。
軍の講習で、講師たちは政治について語った。
伍長は聞いた。
次には質問した。
その次には、自分が話した。
話している間だけ、身体の中の熱が一方向へ流れた。
言葉は鎮痛薬に似ていた。
正しくなくても、効くことがあった。
上官から、一通の返答を書くよう命じられた。
ある集団について、軍の考えを説明せよ。
机に紙が置かれた。
伍長はペンを持った。
感情による敵意であってはならない、と書いた。
事実に基づいた認識でなければならない、と書いた。
感情ではないと書くことで、感情は制服を着た。
憎しみではないと書くことで、憎しみは政策の文法を得た。
「私」という語は、ほとんど必要なかった。
代わりに「われわれ」があった。
そして「彼ら」があった。
一つだった世界が、二つの代名詞に分かれた。
われわれ。
彼ら。
パーゼヴァルクの暗闇と、この紙の間には、一本の直線などなかった。
病院の寝台だけが、この文章を書かせたのではない。
敗戦だけでもない。
軍があった。
講師がいた。
街の混乱があった。
すでに長い歴史を持つ偏見があった。
そして、その言葉を受け取り、選び、書いた本人がいた。
損傷は説明の一部にはなり得る。
免責にはならない。
紙の上で、顔のなかった穴に、初めて顔が与えられた。
伍長は少しだけ楽になった。
それが、最初の危険だった。
三 カッシーノ
一九一九年――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
1
世界は、起きていることの総体である。
捕虜収容所も、世界の中にある。
鉄条網も。
泥も。
パンの切れ端をめぐる争いも。
夜、隣の寝台で泣く男も。
世界の外にはない。
1・1
だが、なぜそれが苦しいのかは、出来事ではない。
男が泣く。
これは事実である。
男の息子が死んだ。
これも事実である。
その死によって世界のすべてが失われた。
これは、どこにあるのか。
1・2
悲しみの大きさは、測定できない。
測定できないものが存在しないわけではない。
最も重要なものは、尺度の外にある。
2
彼は前線から一冊の原稿を持ち帰った。
正確には、持ち帰る途中だった。
原稿は鞄の中にあり、彼自身は鉄条網の内側にいた。
戦争中、彼は砲撃観測所に立った。
敵から見える場所だった。
死を恐れなかったのではない。
恐怖が、死よりも近くにありすぎた。
恐怖と自分を分ける距離がなくなったとき、人はかえって静かになることがある。
砲弾が落ちる。
土が上がる。
人が倒れる。
世界に新しい事実が加わる。
一人の人間が存在しなくなる。
だが、世界から一つの物体が減ったのではない。
その人間にとっての世界が、すべて消えた。
2・1
死は人生の出来事ではない。
人は自分の死を経験しない。
だが、人は他者の死を経験する。
他者の死は、世界の中にある穴である。
穴は物ではない。
それでも、人はそこへ落ちる。
3
収容所の男が訊いた。
「何を書いている」
「論理について」
男は笑った。
「こんなところでか」
ウィトゲンシュタインは答えなかった。
ここでなければ書けない、とも思った。
世界の構造について語るなら、世界が壊れる場所で語らなければならない。
だが、壊れた世界を論理が救うことはない。
論理は救済ではない。
論理は、言えることと言えないことの境界線を引く。
境界線の向こう側に、最も大切なものを残したまま。
3・1
言えないものについて沈黙するとは、それを軽蔑することではない。
反対である。
粗雑な言葉で覆わないことである。
分かったふりをしないことである。
答えのない苦痛に、安価な答えを与えないことである。
4
帰還後、彼は財産を手放した。
兄弟姉妹に分けた。
人々は奇行だと思った。
贖罪と呼ぶ者もいた。
精神の不調と呼ぶ者もいた。
彼自身は説明しなかった。
説明すれば、それが一つの理由になってしまう。
理由は、行為を小さくする。
4・1
彼は教師になった。
山村で子供に算数を教えた。
一足す一は二。
これは明晰だった。
「家」という言葉を教えた。
子供が訊いた。
「家とは、帰るところですか」
彼は答えようとして、黙った。
兵士たちは帰還したと言われた。
だが、帰ったのは誰か。
戦争前の人間か。
戦争後の人間か。
出発した者と戻った者が同一であることを、誰が証明するのか。
4・2
「先生」
子供が訊いた。
「家が焼けたら、家という言葉も焼けますか」
彼は黒板を見た。
白いチョークで書かれた、家という語。
語は残る。
家は焼ける。
残った語が、失われたものの墓になる。
5
夜、彼は窓辺に立った。
月が残っていた。
事実として、月があった。
月は岩石の天体である。
光は太陽から来る。
説明できる。
計算できる。
だが、それを見てなぜ人間の胸が痛むのかは、計算の中にない。
彼は何も書かなかった。
月は語らなかった。
月はただ、示していた。
彼は灯を消した。
7
沈黙。
四 パリ
一九一九年――ポール・ヴァレリー
ヴァレリーは血を流さなかった。
それが彼の傷だった。
前線の泥は、靴につかなかった。
ガスは肺に入らなかった。
砲弾は頭上を越えなかった。
彼の身体には、戦争の痕跡が一つもなかった。
だからこそ、彼はどこまで苦しんでも、苦しむ資格がないように感じた。
パリの書斎には、報せだけが届いた。
何万人が死んだ。
都市が焼けた。
帝国が倒れた。
船が沈んだ。
一つの会戦に、古代の戦争全体より多くの砲弾が使われた。
報せはすべて言葉でできていた。
彼は言葉によってしか戦争に触れられなかった。
そして言葉とは、触れると同時に距離を作るものだった。
死者一万人。
この五文字は、一万人の死者より軽い。
紙の上では、場所をほとんど取らない。
一万人分の恐怖も、肉体も、母親も、食べ残した朝食も、書きかけの手紙も、短い一行に圧縮される。
書くことは、つねに残酷だった。
だが、書かないこともまた残酷だった。
彼は机に向かった。
文明について書こうとした。
ヨーロッパについて。
精神について。
それらの語は大きすぎた。
大きな語を使えば、一人ひとりの死者が見えなくなる。
しかし一人の死者だけを書けば、何が死者を生み出したのかが見えなくなる。
精神は細部と全体の間を往復した。
どちらへ行っても、何かを失った。
われわれの文明もまた、死ぬことができる。
その一文を書いた。
冷たい一文だった。
均整が取れていた。
修辞に過不足がなかった。
彼は、それを読んで恥じた。
このような破局を、これほど美しく整えてよいのか。
文章が成功するほど、戦争から遠ざかる気がした。
だが、叫び声を書けばよいのではなかった。
叫びは、叫ぶ者の肺の大きさしか持たない。
戦争は一つの肺より大きかった。
錯乱した文を書けば、錯乱の形しか伝わらない。
必要なのは、錯乱しないまま、錯乱そのものを見つめる文章だった。
精神が焼ける温度に近づきながら、文の形を崩さないこと。
それが可能なのか。
彼には分からなかった。
それでも書くしかなかった。
正確さは冷淡さではない。
複雑なものを、早すぎる理解から守るための節度だった。
簡単な答えを与えないための抵抗だった。
文明は進歩していると、人々は信じていた。
科学は迷信を追放する。
教育は野蛮をなくす。
商業は国家を結びつける。
鉄道は人間を近づける。
化学は生活を豊かにする。
統計は国家を合理的にする。
すべて正しかった。
そして、すべてが戦争に用いられた。
鉄道は兵士を屠殺場へ送りつづけた。
化学は空気を毒にした。
統計は死者を数えた。
教育された人間が、教育された方法で、教育された隣人を殺した。
野蛮は文明の反対側にあるのではなかった。
文明の内部に、文明と同じ精密さをもって存在していた。
ヨーロッパが死んだのではない。
ヨーロッパが、自分の内側に死を生産する機械を完成させたのだった。
ヴァレリーはペンを止めた。
その考えは、あまりにも明瞭だった。
明瞭な絶望ほど危険なものはない。
それは、次の絶望を説明する体系になり得る。
破局のすべてを説明する者は、やがて破局を利用する。
広場では、人々が答えを求めていた。
誰が悪い。
誰が裏切った。
誰を追い出せばよい。
何を破壊すれば、以前の世界へ戻れる。
複雑な苦痛は、簡単な原因を欲しがる。
簡単な原因は、たいてい一つの顔を欲しがる。
顔が与えられれば、群衆は石を投げることができる。
彼は、語ることと騙ることの近さを考えた。
音は似ている。
だが、正反対の行為だった。
語ることは、対象が自分の言葉より大きいと認めることである。
騙ることは、自分の言葉の中へ対象を閉じ込めたふりをすることである。
語る者は、言葉の不足を知っている。
騙る者は、不足そのものを隠す。
騙りは、よく効く。
正確な文章より速く広がる。
不確かさを取り除く。
苦痛に原因を与える。
群衆に敵を与える。
その意味で、騙りは一種の治療だった。
病気そのものを、ほかの人間へ移す治療。
傷口を閉じる代わりに、別の身体を切り開く治療。
ヴァレリーには、それに対抗する力がなかった。
複雑さを複雑なまま書いた文章は、演説ほど人を動かさない。
精密さは、熱狂に負ける。
疑問文は、命令文に負ける。
それでも、彼は書いた。
届くからではない。
勝てるからでもない。
語ることと騙ることを、同じものにしないために。
夜明けが近づいていた。
窓を開けた。
白み始めた空に、月が残っていた。
有明の月。
夜を救うほど明るくはない。
朝を始める力もない。
ただ、夜が存在したことを、朝の中へ残している。
ヴァレリーは月を見た。
精神も、あのようなものかもしれないと思った。
闇を消すことはできない。
太陽になることもできない。
ただ、闇をなかったことにせず、光が来たあとまで見つづける。
焼かれなかった者には、それしかできない。
彼は机に戻った。
文章を一語削った。
次に、一つの句読点を移した。
外では朝が始まっていた。
五 クロイツリンゲン
一九二三年四月――アビ・ヴァールブルク
壁には画像が並んでいた。
踊る人間。
生きた蛇。
稲妻を表す折れ曲がった線。
仮面。
羽根飾り。
砂漠。
遠い山。
ヴァールブルクは一枚ずつ、順序を確かめた。
画像の間隔を少し広げた。
近すぎてはならない。
近すぎれば、一つの画像が次の画像を呑み込む。
遠すぎてもならない。
遠すぎれば、関係が失われる。
意味は画像そのものにあるのではない。
画像と画像の間にある。
彼は長いあいだ、その間隔を失っていた。
戦争が始まると、新聞を集めた。
将軍。
皇帝。
砲台。
軍艦。
燃える都市。
敵国を獣として描いた風刺画。
翼を持つ勝利の女神。
子供を守る母国。
龍に槍を突き立てる英雄。
近代の新聞の中で、古代の身振りが復活していた。
人間は電信を発明した。
写真を発明した。
輪転機を発明した。
その結果、原始的な恐怖を一日に百万部ずつ複製できるようになった。
敵は人間ではない。
蛇。
鼠。
病原菌。
悪魔。
画像は一瞬で距離を消した。
見た者を、考えるより先に動かした。
ヴァールブルクは新聞を切り抜きつづけた。
世界中の戦争を一つの部屋へ集めた。
画像のすべてを見渡せば、狂気を理解できると思った。
だが、彼の頭の中で画像は互いに結びつき、増殖し、境界を失った。
皇帝の顔に古代の暴君が重なった。
電話線は蛇になった。
雷は砲撃になった。
食卓の上の肉は人間の肉になった。
妻の差し出す薬には毒が入っていた。
医師は敵だった。
世界は意味で満ちすぎた。
何も偶然ではなくなった。
すべてが彼だけに向けられた徴になった。
それは知性の勝利ではなかった。
知性が距離を失った状態だった。
クロイツリンゲンの療養所で、年月が過ぎた。
あるとき彼は、若い頃の旅を思い出した。
アメリカ南西部。
乾いた大地。
プエブロの人々。
蛇の儀礼。
人間はなぜ、最も恐ろしいものを手に取るのか。
なぜ蛇と踊るのか。
蛇は地を這う稲妻だった。
稲妻は空を走る蛇だった。
人間は自然の力を支配できない。
雨を命令できない。
雷を止められない。
だから像を作る。
儀礼を作る。
恐怖を消すのではない。
恐怖との間に、呼吸できるだけの距離を作る。
ヴァールブルクはそれを、思考の余地と考えた。
恐怖と人間の間に置かれる、小さな空間。
その空間がなければ、人間は恐怖そのものになる。
あるいは、恐怖を誰かに投げつける。
象徴は嘘ではない。
蛇が実際に稲妻であると信じ込むことではない。
蛇と稲妻を重ねながら、同一ではないと知ること。
似ているものの間に、なお差異を残すこと。
それが距離だった。
講演をしてみてはどうか、と医師は言った。
一つの主題について、筋道立てて最後まで話す。
それができれば、回復の徴になるかもしれない。
ヴァールブルクは承知した。
正気を証明するための講演。
だが正気とは何か。
皆が信じる像を信じることか。
国家のために死ぬことを正常と呼び、食事に毒が入っていると思うことだけを病気と呼ぶのか。
数百万人が同じ妄想を共有すれば、それは政治になる。
一人だけが抱けば、病名になる。
それでも彼は話すことにした。
壇上に立った。
手が震えた。
一枚目の画像を示した。
砂漠について語った。
雷について。
蛇について。
人間が恐怖との間に距離を作ってきた歴史について。
聴衆は静かに聞いていた。
話しながら、彼は気づいた。
この講演そのものが儀礼なのだ。
自分を焼いたものを、言葉によって手に取っている。
文明の崩壊。
画像の氾濫。
理性の敗北。
発狂。
それらを消さず、否定せず、しかし自分と同一にもせず、机の上へ並べている。
距離を作る。
一枚と次の一枚の間に。
恐怖と自分の間に。
過去と現在の間に。
講演は最後まで続いた。
話が終わると、拍手が起きた。
医師たちは安堵した。
ヴァールブルクも椅子に座った。
正気を証明できたとは思わなかった。
ただ、言葉が最後まで彼を運んだ。
それで十分だった。
同じ年の秋、ミュンヘン。
かつて暗闇の病院にいた伍長が、酒場の演壇に立っていた。
彼の声は、もはや震えていなかった。
言葉と言葉の間に、聴衆が考える時間を置かなかった。
敗北には原因がある。
原因には顔がある。
顔には名がある。
名を追放すれば、祖国は回復する。
苦痛は一つの線で結ばれた。
複雑さは消えた。
不確実さは消えた。
代わりに敵が現れた。
「われわれ」と言うたびに、群衆は一つの身体になった。
「彼ら」と言うたびに、その身体の外へ、人間が追い出された。
パーゼヴァルクで彼の中に開いていた穴は、言葉で塞がれていた。
だが、穴は消えていなかった。
外側へ移されただけだった。
傷口は、他者の身体に作り直された。
彼は群衆に、偽りの距離を与えた。
苦痛を見つめるための距離ではない。
苦痛から逃れ、別の人間へ投げつけるための距離だった。
酒場に銃声が響いた。
人々が走った。
倒れた。
彼も路上へ身を伏せた。
一瞬、病院の暗闇が戻った。
黄色い煙。
包帯。
牧師の声。
夜明けの月。
彼は月を見なかった。
見えなかったのではない。
もう必要としなかった。
月より強い光を、自分が群衆に与えられると思っていた。
偽りの太陽。
人間の顔を焼く太陽。
六 有明
五人は、互いに会わなかった。
トラークルとウィトゲンシュタインの間には、一本の細い糸があった。
ウィトゲンシュタインが匿名で与えた金。
トラークルが会いたいと願った支援者。
ウィトゲンシュタインが病院へ着いたとき、詩人はすでに死んでいた。
会うはずだった二人は、会わなかった。
その不在だけが残った。
ヴァレリーは、ほかの四人を知らなかった。
少なくとも、彼らの内部で何が起きていたかを知らなかった。
ヴァールブルクは、自分が蛇の画像を並べていた年、南の酒場で何が始まりつつあるかを知らなかった。
伍長は、パリの書斎で一人の詩人が文明について書いていることも、療養所で一人のユダヤ人学者が恐怖との距離を取り戻そうとしていることも知らなかった。
彼らは、同じ戦争を経験したのではない。
同じ月を見たのでもない。
トラークルの月は青かった。
死者の色だった。
伍長の月は見えなかった。
意味を与えない光だった。
ウィトゲンシュタインの月は、語ることのできる事実であり、語ることのできない意味だった。
ヴァレリーの月は、夜を朝へ伝える証人だった。
ヴァールブルクの月は、闇と光との間に残された思考の距離だった。
それらを一つの月と呼ぶのは、後世の者だけである。
後世の者は、出来事を並べたがる。
一つの原因から、一つの結果が生まれたように語りたがる。
戦争が男を壊した。
男が憎悪を選んだ。
憎悪が次の戦争を生んだ。
文章にすれば、歴史は滑らかになる。
だが、その滑らかさは真実ではない。
一九一四年の納屋と、一九一八年の病室と、一九一九年の書斎と、一九二三年の講堂は、一本の線では結べない。
そこには空白がある。
偶然がある。
制度がある。
他人から渡された言葉がある。
拒むことのできた言葉がある。
引き受けた選択がある。
人間一人の内部にも、縫い合わさらない場所がある。
苦しんだ者と、憎んだ者と、命令した者が同じ人間であっても、その三者を一本の理由によって結ぶことはできない。
傷は未来を決定しない。
沈黙も救済を保証しない。
精密な文章も、群衆を止めない。
学問も、狂気に対する永久の城壁にはならない。
それでも、違いはある。
語れないものを、語れないまま守ること。
分からないものを、分かったことにしないこと。
恐怖との間に、考えるための距離を残すこと。
複雑な苦痛に、安価な顔を与えないこと。
それらは勝利ではない。
歴史を止める力でもない。
有明の月が夜を救わないのと同じである。
月は闇を消さない。
朝を約束しない。
太陽と争わない。
夜が明ければ、見えなくなる。
それでも月は、最後まで光を手放さない。
夜があったことを、朝の中へ渡す。
人間が闇の中で見たものを、なかったことにさせない。
一九二三年の朝、クロイツリンゲンの療養所で、ヴァールブルクは窓辺に立っていた。
講演の翌朝だった。
疲れていた。
頭の中には、まだ蛇の像があった。
稲妻。
砂漠。
踊る人々。
彼は窓を開けた。
東の空が赤み始めていた。
その上に、細い月が残っていた。
遠いパリでも、同じ時刻に月が見えていたかもしれない。
オーストリアの山村でも。
クラクフの墓の上でも。
ミュンヘンの牢獄の狭い窓からも。
だが、それを同じ月と呼ぶ者はいなかった。
ヴァールブルクは月を見た。
月と自分との間には距離があった。
その距離の中で、彼は呼吸した。
やがて太陽が昇った。
月は空から消えた。
消えたのではない。
光の中で、見えなくなっただけだった。
戦争も同じだった。
終わったのではない。
生活の中で、見えなくなっていった。
人々は働いた。
食事をした。
子供を育てた。
恋をした。
本を書いた。
選挙へ行った。
新聞を読んだ。
次の戦争を準備した。
一九一八年十一月十一日、戦争は終わった。
戦後は、終わらなかった。
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