堂島ばけもの算用
第七話 江戸の役人、天気に値をつける
役人というものは、雨に向かって、
「降るな」
と言い、日照りに向かって、
「ほどほどに照れ」
と言い、米の値が上がれば、
「下がれ」
と言う。
雨にも日にも米にも、べつだん役人の命令を聞く義理はない。
それでも役人は、紙へ書き、印を押し、立札を立てれば、天地の方が恐れ入って従うものだと、どこかで信じている。
葛城主膳という男は、その信心が、いささか強すぎた。
*
曽根崎へ向かう渡し舟には、ずいぶん妙な一行が乗っていた。
九九の怪しい丁稚が一人。
算盤を抱えた娘が一人。
大店の叱られ役が一人。
渡しの婆さん。
それに、どこからついてきたのかわからぬ犬が一匹。
麻田剛立は、
「わしは手伝わぬ」
と言って梅田の葦原へ残った。
ただし、星を見るための長い筒だけは寅吉に持たせた。
「これ、どうするんや」
「星を見よ」
「役人の宿へ忍び込むのに?」
「人間ばかり見ておるから、道を誤る」
「夜道で転ぶ方が先やと思うけどな」
その長筒が、のちにたいそう役に立つのであるが、何に役立ったかは、まだ申し上げぬ。
先に申し上げると面白くない。
もっとも、ここまで何度も死人やら幽霊やらを先に出してきた語り手が、今さら順序を気にするのも、おかしな話ではある。
*
曽根崎の夜は、船場の夜とは違う。
船場では、夜になれば大店の戸が閉まり、番頭が帳面を締め、丁稚が叱られ、主人が妾のところへ出かける。
町の一日が、いったん算盤の音で終わる。
ところが曽根崎では、日が沈んでから、別の一日が始まる。
露天神の境内には灯が並び、願掛けの女、博奕帰りの男、商談を終えた手代、商談より長い言い訳を考える番頭、旅の僧、夜鷹、飴売り、香具師、占い師、盗人を探す岡っ引き、その岡っ引きを避ける盗人が、同じ道を押し合って歩いていた。
茶屋からは三味線。
小屋からは笑い声。
路地からは夫婦喧嘩。
橋の下からは鼾。
神社の前では、
「一生添い遂げられますように」
と若い男女が祈り、そのすぐ横で、年を取った夫婦が、
「どうか早う別れられますように」
と別々に祈っている。
神様も忙しい。
「葛城主膳の宿は、どこや」
寅吉が尋ねた。
お六婆さんは、露天神の裏手を指した。
「雲井屋いう旅籠や。江戸者がよう泊まる」
「なんで知っとるん」
「渡しをしてたら、誰がどこへ行くか、みな聞こえる」
「船頭いうのは、よう知っとるな」
「客は、水の上へ出ると、陸より口が軽うなる」
「なんでや」
「逃げ場がないから、安心するんやろ」
「逆やと思うけどな」
雲井屋は、細い蜆川に近い、二階建ての旅籠であった。
表には江戸言葉を話す供侍が二人。
裏口には中間が一人。
川側には小舟が一艘、いつでも出られるようにつないである。
「見張りが多いな」
鶴松が言った。
「正面から入られへん」
「裏も無理や」
「川から行くか」
「犬はどうする」
犬は、わん、と鳴いた。
「行く言うてる」
「なんで犬の言葉だけわかるんや」
「顔に書いてある」
*
結局、正面から入った。
策がなかったわけではない。
お駒に策があったのである。
「天文方の使いでございます」
雲井屋の番頭に向かって、お駒はしれっと言った。
寅吉は麻田剛立の長筒を担いでいる。
鶴松は、どこから盗ってきたのか、古びた羽織を着せられ、いかにも学者の供らしい顔を作っている。
もっとも、学者の供がどんな顔をするものか、誰も知らぬ。
お六婆さんは一行の後ろで腰を曲げ、
「星読み婆でございます」
と名乗った。
「婆さん、そこまでせんでええ」
寅吉が小声で言った。
「役がある方が入りやすいやろ」
「犬は?」
「天狗犬」
「なんや、それ」
「いま作った」
雲井屋の番頭は、困った顔をした。
「葛城様は、ただいま大切なお話し中でございます」
「せやから来ました」
お駒は言った。
「今夜、潮が変わります。明け方には南東の風。川霧が出て、堂島の火縄が湿る。米相場に関わる大事です」
「それが葛城様と、どういう関わりで」
「御役人は、お天気にも値をつけはると聞いております」
番頭は、ますます困った。
こういうとき、わからぬから追い返す人間と、わからぬから偉い話だと思う人間がいる。
旅籠の番頭は、後者であった。
「少々、お待ちを」
奥へ引っ込んだ。
「うまいこと言うな」
寅吉が感心した。
「何のことや」
「南東の風とか、川霧とか」
「麻田先生が、夜半から雲が出る言うてたやろ」
「火縄が湿るんは?」
「いま考えた」
「嘘やないか」
「天気予報は、外れることもある」
*
通された座敷には、三人の男がいた。
一人は、空木藩の留守居役。
一人は、北浜の商人らしき男。
そして上座に、葛城主膳が座っていた。
四十を少し越えた頃か。
細面で、眉が濃く、髪には乱れ一つない。
着物も、帯も、脇差も、何もかもが、決められた位置へ正確に収まっている。
人間というより、役所の書式が、そのまま歩いてきたような男である。
「天文方の使いだと」
葛城は、お駒たちを順に見た。
娘。
丁稚。
丁稚。
婆。
犬。
どう見ても天文方の使いではない。
だが、どう見ても天文方の使いではないところが、かえって何か秘密の御用らしくも見える。
権威というものは、しばしば、見る者の想像力に助けられている。
「はい」
お駒は平然と頭を下げた。
「今夜から明朝にかけて、水気が変わります」
「何が起きる」
「お米が上がります」
空木藩の留守居役が、顔色を変えた。
北浜の商人も、葛城を見た。
「根拠は」
葛城が尋ねる。
「月です」
「月が米価を決めるのか」
「月が潮を動かし、潮が舟を動かし、舟が米を運びます。米が来れば下がり、来なければ上がる。月が値を決めるというても、半分は当たっております」
「残り半分は」
「人の気です」
葛城の目が細くなった。
「誰に教わった」
「大坂に住んでいたら、どこからでも聞こえてきます」
「名は」
「駒と申します」
「姓は」
「商人の娘に、そんな上等なものはございません」
葛城は、わずかに笑った。
「天文方の使いではないな」
「いま気づきはったんですか」
寅吉が口を挟んだ。
お駒が足を踏んだ。
「痛っ」
「黙っとき」
「お前たちは何者だ」
「大坂の者です」
「それは見ればわかる」
「見てもわからんことを、聞きに来ました」
葛城の顔から笑いが消えた。
*
「空木藩の米を、梅田の泥の下へ隠したんは、あんたですか」
お駒が言った。
空木藩の留守居役が息を呑んだ。
北浜の商人が腰を浮かせた。
葛城だけが、動かなかった。
「何の話だ」
「三艘の平底舟。空木だけやない。ほかの藩の米も積んでありました。偽の印も、偽の米切手も、道頓堀の芝居の勘定も見つけました」
「子供の作り話だな」
「では、これは?」
お駒は、葛城の書状を懐から出した。
梅田の米舟に隠されていたものだ。
葛城は書状を一目見た。
顔は変わらぬ。
だが、右手の指だけが、ほんの少し動いた。
寅吉は、その動きを見逃さなかった。
数字は覚えられぬが、人の顔と癖は覚える。
「それは偽書だ」
「印は本物に見えます」
「偽の印を作る者がいたのであろう」
「その印判師は殺されました」
「ならば、そやつが犯人だ」
「死人に何もかも押しつけるん、江戸では流行ってるんですか」
葛城は、お駒の顔をじっと見た。
「賢い娘だ」
「よう言われます」
「賢い者ほど、自分の見たものだけで、世の中の全てがわかったと思う」
「役人は、見てもいないものまで、わかった顔をしはりますな」
座敷の空気が凍った。
鶴松が、少しずつ後ろへ下がり始めた。
逃げ道を探している。
犬も座敷の端へ移った。
犬の方が鶴松より早い。
*
「お前たちは、堂島を何だと思う」
葛城が聞いた。
「米を売り買いするところや」
寅吉が答えた。
「米はほとんど動かぬ」
「ほな、米が動いたことにするところや」
「嘘を売る場所だ」
葛城は言った。
「米がないのに米を売る。豊作になるか凶作になるかもわからぬうちから、値を決める。噂一つで上がり、恐れ一つで下がる。汗を流して米を作る百姓とは無縁の者が、帳面の数字だけで千両を得る」
「それの何が悪い」
葛城が寅吉を見た。
「悪くないと?」
「わしにはわからん。けど、米を作った百姓かて、収穫する前から金が要るやろ。藩かて、米が売れる前に借金せな回らん。舟も、倉も、人足も、先に銭が要る。ありもせん米を売るから、ほんまの米が動くこともあるんと違うか」
これは、寅吉自身の言葉というより、堂島で聞いた多くの言葉が、腹の中で勝手につながって出てきたものである。
九九は言えぬ。
だが、人の言葉を一度聞けば忘れぬ。
人間は、自分一人の頭だけで考えるわけではない。
他人から拾った言葉を、知らぬ間に腹で煮て、自分のものとして吐き出す。
富永仲基が見れば、これもまた加上じゃ、と喜んだであろう。
「その仕組みが、飢えを生む」
葛城は言った。
「天明の飢饉では、米価が上がり、民が打ちこわしをした。商人は米を抱え、値が上がるのを待った。相場は、恐れを食って肥えた」
「役人は何をしたんです」
お駒が尋ねた。
「何?」
「飢饉になる前に、役人は米を生やしたんですか。雨を降らせたんですか。冷害を止めたんですか」
「だからこそ、値だけでも制御せねばならぬ」
「値を押さえたら、米が増えるんですか」
「米を売り惜しむ者を取り締まれる」
「値が合わんかったら、誰も運ばへん。舟賃にもならん値で、誰が北国から米を持ってくるんです」
「命令する」
「風にも?」
お駒は言った。
「潮にも、嵐にも、日照りにも?」
「人にだ」
「人は、風と潮と銭で動きます。命令だけでは、腹は膨れません」
葛城は黙った。
その沈黙は、言い負かされた者の沈黙ではない。
相手を、どの箱へ入れて処理すべきか考える、役人の沈黙であった。
*
「わしは、大坂へ来るたび、同じことを思う」
葛城は、静かに言った。
「この町は、繁りすぎている」
「繁る?」
「商人が勝手に金を貸す。町人が勝手に学校を作る。医者が勝手に獣を切る。絵師が米を扱い、番頭が天下国家を論じ、芝居小屋が藩政を笑う。坊主が相場を張り、学者が幽霊を論ずる」
「最後のは、たぶん論じてへん」
寅吉が言った。
「黙り」
お駒がまた足を踏んだ。
「誰も、自分の分を守らぬ」
葛城は続けた。
「武士は治め、百姓は作り、職人は作り、商人は運ぶ。それぞれが分を守れば、天下は乱れぬ。ところが大坂では、商人が藩を治め、町人が学問をし、役者が政治を語る。根も枝も蔓も絡み合い、どこを切れば、どこが枯れるのか、誰にもわからぬ」
「切らんかったら、ええんと違いますか」
寅吉が言った。
葛城は彼を見た。
「繁りすぎた藪は、火事になる」
「刈りすぎた畑には、何も生えへん」
お駒が答えた。
「大坂の人間は、皆、口が達者だな」
「口で商売してる者も多いですから」
*
葛城は、北浜の商人に目を向けた。
「市兵衛。子供たちを別室へ」
市兵衛と呼ばれた商人が立った。
鶴松も立った。
「ほな、帰ってええんですか」
「お前は座れ」
「はい」
すぐ座った。
升屋の丁稚は、命令に弱い。
市兵衛が手を叩くと、隣室から四人の侍が入ってきた。
「捕らえよ」
「犬もですか」
「犬もだ」
犬が唸った。
「犬は怒ってますで」
寅吉が言った。
「犬の怒りに値などない」
「噛まれたら、値がわかります」
侍が犬へ手を伸ばした。
犬は、その手を噛んだ。
「痛っ!」
「いくらでした」
「黙れ!」
座敷が乱れた。
お六婆さんが煙管を投げた。
鶴松が逃げようとして柱へぶつかった。
寅吉は麻田の長筒を振り回した。
お駒は算盤で侍の指を叩いた。
算盤は、人を賢くする道具であるが、使い方によっては、人の指をたいそう痛くする。
「小賢しい!」
侍が刀へ手をかけた。
そのとき、二階の障子が外から、がらりと開いた。
「刀を抜くほどの相手ではあるまい」
細く、落ち着いた声がした。
山片蟠桃である。
屋根の上から、座敷へ入ってきた。
「小右衛門はん!」
鶴松の顔が、死人より青くなった。
「お前、何をしておる」
「御用を、立派に果たしております」
「逃げようとして柱にぶつかったところまでは見た」
「そこからですか」
「十分じゃ」
蟠桃の後ろから、升屋の手代が二人、屋根を越えて入ってきた。
「どうして、ここが」
お駒が尋ねた。
「星の先生から、知らせが来た」
「手伝わん言うてたのに」
「あの御仁は、手伝わぬまま、人を動かす」
葛城主膳は、蟠桃を睨んだ。
「山片小右衛門。商人が御用の宿へ、屋根から入るとは何事だ」
「戸口から入ろうとしましたが、御用の方々が塞いでおられたのでな。商いも同じです。正面を塞がれれば、別の道を探します」
「お前も、この一件に関わっているのか」
「大坂の米と銀が揺れておる。関わらぬ方が難しい」
*
「この書状を見ても、偽書だと言われます」
お駒が蟠桃へ渡した。
蟠桃は一読し、葛城を見た。
「偽書ですかな」
「偽書だ」
「では、葛城様が明後日、米会所の差止めを上申なさるという話も、偽りで?」
「江戸の御政道を、商人に答える義務はない」
「なるほど。偽書であるかどうかには答えず、答える義務がない、と」
「言葉尻を取るな」
「帳面の端を拾うのが、番頭の仕事でしてな」
葛城は、鼻で笑った。
「お前たち商人は、市場に自然の理があると言う。値は、放っておけば正しいところへ落ち着くと。ならば空木藩の切手が暴落したのも、市場の理ではないか」
「相場を人為で動かしておきながら、落ちた先だけ自然と申されるか」
「証拠がない」
「梅田の米が証拠です」
「誰の米か、確かめられぬ」
「藩印があります」
「偽印が出回っている」
「便利ですな。都合の悪い印は、すべて偽印になる」
蟠桃は座敷へ上がり、葛城の正面に座った。
「葛城様。一つ、お尋ねしたい」
「何だ」
「米の正しい値とは、いくらです」
「その年の作柄、民の暮らし、諸藩の財政を見て、御上が決める」
「具体的には」
「それを定めるために調べる」
「調べている間に天気が変わる。舟が沈む。蝗が出る。戦が起きる。江戸で火事があれば米が要る。蝦夷から船が来れば余る。それを、いつまでに、誰が、どう調べる」
「役所には諸国から報告が来る」
「報告が江戸へ着くころには、米は腐ります」
「だから商人に任せよと?」
「商人にだけ任せよとは申しませぬ。じゃが、役人だけに任せれば、もっと腐る」
葛城の眉が動いた。
「無礼な」
「米は、礼儀では乾きませぬ」
*
「小右衛門。お前は市場を信じすぎる」
葛城は言った。
「市場とは、人の欲を集めただけのものだ」
「役所は、人の欲が入らぬと?」
「少なくとも、公のために働く」
「では」
蟠桃は、葛城の傍らに置かれた帳箱を指した。
「あの中を、見せていただけますかな」
葛城の顔が、初めて、はっきり変わった。
「何のことだ」
「空木藩の米切手を、底値で買い集めた帳面です」
座敷が静かになった。
「根拠は」
「市を見れば、わかる。空木の切手は下がった。じゃが、下がるたびに、決まって同じだけ買う手がある。買い方が役人らしい」
「役人らしい買い方とは、何だ」
「面白味がない」
葛城のこめかみに、筋が浮いた。
「同じ刻限。同じ量。同じ仲買。帳面の升目へ、きちんと収まるように買う。相場師なら、もっと欲が乱れる。商人なら、値を叩く。役人は、決めた通りに買う」
「憶測だ」
「憶測でも、帳面を見れば済む」
葛城は、帳箱へ手を置いた。
「これは御用の品だ」
「それは、たいそう都合がよい」
その声は、葛城の背後からした。
「御用と書けば、欲まで立派に見える」
いつの間に入ったのか、座敷の隅に、よれよれの木綿を着た爺さんが座っていた。
本間宗久である。
あるいは、本間宗久を名乗る、例の妖怪である。
「爺さん!」
寅吉が叫んだ。
「静かにせい。人の話を聞いておった」
「どこから入ったんや」
「戸から」
「見張りは?」
「握り飯をやった」
「それで通したんか」
「腹の減った者は、役人より正直じゃ」
葛城は宗久を睨んだ。
「何者だ」
「本間宗久じゃ」
「……酒田の?」
「そうかもしれん」
「ふざけるな」
「相場師に名を尋ねる方が悪い」
*
「帳箱を開けなされ」
宗久は言った。
「断る」
「なら、開けずともよい」
「何?」
「中身は知っとる」
宗久は指を折った。
「空木藩の米切手、二千八百石。三割落ちから買い始め、四割二分で千石、四割八分で八百石。名義は北浜の綿屋市兵衛。その綿屋は、そこに座っとる男じゃ」
北浜の商人が震えた。
「違う!」
「違わぬ。お前は右の眉を触るとき、嘘をつく」
市兵衛の手が、右眉の前で止まっていた。
寅吉は感心した。
「爺さんも顔、覚えとるんやな」
「相場は顔で張るものじゃ」
「数字やないんか」
「数字は、顔が作る」
葛城は、市兵衛を見た。
その目だけで、市兵衛は座り直した。
「証文は」
葛城が言った。
「証文がなければ、戯言だ」
「証文なら、ここに」
宗久は懐から、一冊の帳面を出した。
市兵衛が立ち上がった。
「それは、わしの!」
「さきほど、戸口で拾うた」
「盗んだんやろ!」
「落とした物を拾うのは、商いの基本じゃ」
「返せ!」
「値はいくらじゃ」
「人の帳面を売るな!」
「買わんなら、蟠桃はんにやる」
宗久は帳面を蟠桃へ投げた。
蟠桃が受け取り、素早く頁を繰る。
「合いますな」
「偽の帳面だ!」
葛城が叫んだ。
「都合の悪い物は、すべて偽ですな」
お駒が言った。
「子供は黙れ!」
「偽の子供かもしれませんで」
*
葛城は立ち上がった。
「もうよい。全員捕らえよ」
侍たちが刀を抜いた。
今度は本気である。
蟠桃の手代も身構えた。
お六婆さんは棹を持っていないことに気づき、代わりに床の間の花瓶を持ち上げた。
犬は、先ほど噛んだ侍を、もう一度噛もうとしている。
「待ちなされ」
蟠桃が言った。
「ここで商人と子供を斬れば、明日の大坂で、どのような噂になるでしょうな」
「御用を妨げた賊を斬ったまで」
「『江戸の役人、空木藩の偽切手を調べた娘を斬る』」
宗久が言った。
「朝には、それが」
お駒が続けた。
「『葛城主膳、偽切手を自分で刷って、口封じに子供を皆殺し』になる」
「昼には」
寅吉が言った。
「『江戸の御勘定方、大坂じゅうの子供を斬る』やな」
「夕方には」
お六婆さんが言った。
「将軍様が直々に、堂島へ火ぃつけたことになる」
葛城は周囲を見た。
この者たちは、武力では弱い。
だが、口が多い。
そして大坂では、刀より口の方が、遠くまで届く。
「脅すつもりか」
「いえ」
蟠桃は答えた。
「市場の見通しを申し上げただけです」
*
そのとき、外から半鐘が鳴った。
先ほどより近い。
雲井屋の廊下を、宿の者が走る。
「堂島で騒ぎです!」
障子の外から声がした。
「空木藩の切手を持った者が、蔵屋敷へ押しかけております! 北浜でも銀の引き出しが始まりました!」
葛城の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「もう遅い」
彼は言った。
「空木藩の蔵は空だ。明朝、米会所は立合を始められぬ。商人たちは互いを疑い、切手を投げ、銀を引き出す。そこへ、わしが御用として入る」
「御定相場を出す」
蟠桃が言った。
「市場を止め、米価を定める。混乱を鎮めるためだ」
「底値で買うた切手を持ったまま?」
お駒が尋ねた。
「それは市兵衛が勝手にしたことだ」
「さきほどまで、公のため言うてはったのに、急に他人の勝手になるんですな」
「証明はできぬ」
「市場を止めれば、値は戻らぬ」
宗久が言った。
「切手を買うた主膳どのも、儲からんぞ」
「市場を再開させる時期も、御上が決める」
「なるほど」
宗久は、嬉しそうに笑った。
「天気だけやない。春の来る日まで、自分で決めるつもりじゃ」
「何がおかしい」
「冬を止めれば、春は来ぬと思うとる」
葛城の顔から、最後の余裕が消えた。
*
「小右衛門はん」
宗久が蟠桃を見た。
「骨は、そろうたか」
「おおむね」
「血は、わしが見る」
「何をする気じゃ」
葛城が尋ねた。
宗久は答えなかった。
代わりに寅吉へ言った。
「坊。噂を走らせられるか」
「どんな噂や」
「嘘ではない噂じゃ」
「嘘でないと、走るの遅いで」
「そこを速う走らせるのが、お前の仕事じゃ」
蟠桃がお駒へ尋ねた。
「梅田の米、何石と見た」
「空木だけで、少なくとも千五百。ほかの藩を合わせたら、三千はあります」
「空木の切手を支えるには」
「千五百あれば、今出回っとる分の取り付けには、ひとまず足ります。ただし、一度に全部見せなあかん。小出しにしたら、隠しとったと思われる」
「舟を堂島へ入れる刻限は」
宗久が聞く。
「満ち潮が止まる前。明け六ツより少し前です」
お駒は答えた。
「星の先生が、そう言うてました」
「米を積んだ舟を、朝一番に堂島へ並べる」
蟠桃が言った。
「空木藩の蔵が空でも、米そのものはあると、皆に見せる」
「見せるだけでは足りん」
宗久は言った。
「切手を持つ者へ、その場で米を渡す」
「蔵屋敷を通さずに?」
「蔵役人が絡んどる。蔵を通せば、また止められる」
「勝手に渡せば、法に触れる」
葛城が言った。
「明朝には、わしが差し止める」
「それより先にやる」
お駒が答えた。
「法は日の出から働くんですか」
「何?」
「役人が正式に大坂へ着くんは、明後日のはずです。今夜のあんたは、まだ大坂におらんことになってます」
座敷が静まり返った。
葛城は、公には明後日、大坂入りする。
今夜ここにいることは、表へ出せない。
彼が今、御用を名乗って動けば、自分の裏入りを認めることになる。
「おらん人の命令は、聞けませんな」
寅吉が言った。
「幽霊と同じです」
お駒が言った。
「蟠桃はんに言わせれば、勘定に入れんでよい」
宗久が笑った。
*
「行くぞ」
蟠桃が立った。
葛城の侍たちが道を塞ぐ。
しかし葛城は、すぐには命じなかった。
斬れば噂になる。
捕らえれば、自分の存在を明らかにする。
追えば、裏入りが露見する。
役人というものは、法を武器にする。
だが、法の外へ一歩出た役人は、刀を持った、ただの男である。
その一歩を、葛城主膳は、すでに踏み出してしまっていた。
「明朝、堂島で会おう」
葛城は言った。
「そのころには、米会所は地獄だ」
「地獄は、見慣れております」
蟠桃が答えた。
「堂島ですからな」
*
一行は雲井屋を出た。
露天神の境内は、先ほどより人が増えている。
空木藩の蔵が空だったという噂が、もう曽根崎まで届いていた。
「切手が紙屑になる!」
「北浜で銀が出えへん!」
「鴻池が店閉めたらしい!」
「嘘や!」
「けど、みんな言うてる!」
加上という化け物が、また走り始めている。
「寅」
お駒が言った。
「噂を止められる?」
「無理や」
寅吉は即答した。
「噂は止まらん。けど、もっと面白い噂を、先に走らせることはできる」
「何を言う」
宗久が尋ねた。
寅吉は少し考えた。
「空木の米が、梅田の泥から生えてきた」
「嘘ではないな」
蟠桃が言った。
「千五百石の米が、明け方、堂島へ攻め込む」
「米が攻め込むんか」
鶴松が言った。
「その方が面白いやろ」
「誰が信じる」
「面白かったら、信じる前に人へ言う」
宗久が、満足そうに頷いた。
「坊。ようやく相場がわかってきたな」
「算盤は、まだわからんけどな」
*
そこから、大坂の夜が動き始めた。
鶴松は升屋へ走った。
お駒は鯰屋へ走り、利兵衛が空木の切手を投げ売りせぬよう、帳場へ縛りつけに行った。
お六婆さんは福島へ舟を返し、米舟を動かすよう、荷役たちへ声をかけた。
犬は、誰にも命じられぬまま、魚屋の方へ走った。
たぶん腹が減ったのである。
蟠桃は北浜へ向かい、両替商と仲買へ手を回す。
宗久は、どこかへ消えた。
「どこ行ったんや、爺さん」
寅吉が振り向いたときには、もういない。
相場師と幽霊は、必要なときには現れ、用が済むと、勘定を残して消える。
寅吉だけが、曽根崎の辻に残った。
いや、一人ではない。
麻田剛立の長い筒がある。
寅吉は筒を肩へ担いだ。
「これで星を見ろ、か」
空を見上げる。
雲が出て、月が隠れ始めていた。
星は、ほとんど見えない。
「役に立たんやないか」
だが、そのとき、寅吉は思いついた。
長い筒を口へ当てる。
「空木の米が、梅田から出たぞう!」
筒が声を遠くへ飛ばした。
通りの向こうで、人が振り返った。
「千五百石の米が、明け方、堂島へ攻め込むぞう!」
「なんやて?」
「米が攻め込む?」
「梅田の泥から出たらしい!」
一人が、隣へ言う。
隣が、また隣へ言う。
「梅田から米が三千石!」
「泥から米が湧いた!」
「千艘の米舟が堂島へ来る!」
早くも、増え始めた。
「増やしすぎや!」
寅吉が叫んだ。
だが、噂はもう走っている。
真実は足が遅い。
ならば、真実にも少しばかり、派手な草履を履かせるほかない。
曽根崎から天満へ。
天満から北浜へ。
北浜から船場へ。
船場から道頓堀へ。
道頓堀から難波へ。
米が梅田の泥から生え、舟に乗り、堂島へ攻め込むという話が、大坂じゅうを駆け抜けていく。
町の北では、荷役たちが、泥を剥がし、米舟の縄を解いている。
中之島では、空木藩の切手を抱えた男たちが、蔵の門を叩いている。
北浜では、銀蔵の戸が閉まりかけている。
堂島では、明日の立合をするか止めるか、仲買たちが怒鳴り合っている。
その全ての上で、雲が月を隠し、風が変わり、海から満ちた水が、ゆっくりと大坂の川を押し上げていた。
江戸の役人は、明日の米の値を決めようとしている。
だが、天気も、潮も、舟も、商人も、丁稚も、噂も、まだ一つとして、葛城主膳の帳面には収まっていない。
大坂という、むせ返るほど繁った化け物が、夜の底で、ゆっくりと身を起こし始めていた。
*
(第七話・了。最終話「堂島のばけもの、天下を喰う」へつづく)
◆この物語の史実と虚構について(語り手より)
寛政年間の曽根崎が、大坂三郷の北辺に接する村落・街道・寺社・茶屋などの入り混じる地域であり、露天神が古くから鎮座していたこと、大坂の川と舟運が夜も人と物を動かしていたことは、おおむね本当である。
天明の飢饉後、幕府が米価、備荒、囲米、都市統制などへ強い関心を持ち、寛政の改革において倹約や統制を進めたことも、本当である。ただし、葛城主膳という御勘定方の役人が、空木藩の米を隠して堂島米会所を止めようとした記録は、当然ながら存在しない。
山片蟠桃が屋根から旅籠へ侵入したこと、本間宗久が見張りへ握り飯を渡して通過したこと、麻田剛立の天体望遠鏡を丁稚が拡声器として用いたことも、すべて拵えものである。
なお、表向きにはまだ到着していない役人の命令を、幽霊と同じく勘定に入れなくてよいかどうかについては、時と場合による。
読者諸氏におかれては、真似をなさらぬよう願いたい。
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