最後の哲学者のための弔辞
一
私はサルトルの葬儀には行かなかった、と長いあいだ人に話してきた。
厳密に言えば、嘘ではない。
私は葬列には加わらなかったし、墓地にも入らなかった。ただ、ラスパイユ大通りの薬局の軒下に立ち、彼の棺が群衆の頭上を運ばれていくのを見ていた。
四月だというのに、パリには冷たい雨が降っていた。
傘を持たない若者たちが、街路樹や自動車の屋根にまで登っていた。窓という窓から人が顔を出し、歩道には花束が落ち、誰かが踏んだ新聞紙が雨水を吸って黒くなっていた。
人々は泣き、怒鳴り、歌い、互いの肩を押した。
あれほど無秩序な葬列を私は見たことがない。
無秩序という言葉を、私は不用意には使わない。
私の一生は、無秩序に見えるものの背後に秩序を探すために費やされた。神話、婚姻、料理、仮面、親族名称。人間が偶然に作ったように見えるものの中には、本人たちも知らない規則がある。二つのものを分け、別の二つを結び、ある項を別の項へ変換する規則である。
だが、あの日の群衆からは、どうしても構造を取り出せなかった。
学者も労働者も学生も、彼の本を読んだ者も読まなかった者もいた。彼の政治的立場を支持した者も、数年前まで罵っていた者もいた。葬列は階級にも世代にも分けられず、いかなる二項対立にも素直に従わなかった。
群衆はただ、ひとりの男が死んだことを知っていた。
そして、その男の死が、自分たちの何かを終わらせたことを感じていた。
棺は小さく見えた。
生前の彼も、実際には小柄な人だった。しかし、人間というものは、生きているあいだに、その肉体より大きな場所を占めることがある。
彼は二十世紀のパリで、ひとりの人間が占めることのできる最大限の場所を占めた。
私は薬局の軒下に立ち、濡れた帽子を手に持っていた。近くにいた若い女が、私の顔を二度ほど見た。私に気づいたのかもしれない。
「先生は、あの人に勝ったんでしょう」
女はそう言った。
声には非難も敬意もなかった。ただ、試験問題の答えを確認するような響きがあった。
私は返事をしなかった。
何に勝ったというのだろう。
彼の歴史に、私の構造が勝ったのか。
彼の自由に、私の無意識の規則が勝ったのか。
彼の人間に、私の人類学が勝ったのか。
棺が見えなくなってからも、私はしばらくそこに立っていた。
そしてその日以来、私は何度も、彼こそ最後の哲学者だったのではないかと考えてきた。
最後に哲学した人、という意味ではない。
彼の後にも哲学者はいた。優れた者も、彼より厳密な者も、彼より深遠な者もいた。
だが、自分の死を一つの都市の喪失に変えることのできた哲学者は、彼が最後だった。
二
私が歴史を信用しなくなったのは、歴史を研究したからではない。
歴史に追い出されたからである。
一九四〇年、私はフランス人だった。
翌年、私はユダヤ人になっていた。
もちろん、その前から私はユダヤ人だった。しかし、それまでは、それが私のすべてではなかった。私は教師であり、夫であり、息子であり、哲学の教授資格を持つ者であり、ブラジルから戻ったばかりの民族学者だった。
ところが、ある日、行政上の数行が、それらの属性をすべて二次的なものにした。
歴史は、私を一つの名詞に変えた。
ユダヤ人。
その名詞によって職を失い、住む場所を失い、国を離れなければならなくなった。
後年、サルトルは、人間はまず存在し、その後で自分自身を作るのだと述べた。
それは気高い考えである。
だが私の経験では、人間はときに、自分で選んだのではない名詞によって、存在することを禁じられる。
自由より先に分類が来る。
選択より先に戸籍が来る。
実存より先に、役所の用紙が来る。
私は船に乗り、ヨーロッパを離れた。
海上から見た大陸は、ひどく静かだった。その内部で人間が互いを分類し、運び、閉じ込め、焼いていることなど、海からは分からなかった。
ニューヨークでヤコブソンに出会い、私は言語の中に、事件より長く持続するものを見た。
一つの音は、それ自体で意味を持たない。別の音との差によって、はじめて働く。
人間の世界を作っているのは、実体ではなく関係なのかもしれない。
個人の意志より古い規則があり、歴史上の出来事より深い変換があるのかもしれない。
それは学説である前に、私にとって避難所だった。
歴史が狂気に陥っているなら、その下にある構造を探せばよい。
人間が自分のしていることを理解していないなら、人間の意識を信用せず、その背後で働く体系を調べればよい。
私が構造を発見したのか、それとも歴史から逃れるために構造を必要としたのか、今となっては分からない。
おそらく、学説とはしばしばそのようなものだ。
人は普遍的真理を発見したつもりでいる。
だが実際には、自分が生き延びることのできる場所を、世界の中に建てている。
サルトルもまた、戦争から一つの家を建てた。
私が関係と規則の家を建てたのに対し、彼は自由と責任の家を建てた。
世界がいかに不条理でも、人間は選ばなければならない。
選ばないこともまた、選択である。
誰も自分の責任から逃れることはできない。
あの時代に、その言葉がどれほど多くの若者を救ったかを、私は否定しない。
私たちは同じ戦争を見て、反対の方向へ歩いた。
私は、人間の意識を疑った。
彼は、人間の意識に最後の責任を負わせた。
私は歴史から逃れようとした。
彼は歴史の中にとどまり、そこで自由であろうとした。
どちらが勇敢だったかと尋ねられれば、答えは明らかである。
しかし、どちらが正しかったかと尋ねられれば、私は今でも答えることができない。
三
一九六二年、私は『野生の思考』の最後に、サルトルへの批判を書いた。
あの章だけは、それ以前の章とは調子が違っていた。
それまで私は、分類、動植物、トーテム、神話について論じていた。だが最後に、私は突然、パリへ戻ってきた。
獲物はサルトルだった。
彼は歴史を特別なものと考えていた。
歴史の中で人間は自らを作り、集団は実践によって変化し、弁証法的理性は社会を理解する。彼にとって歴史は、人間が自己を実現する舞台だった。
私には、それが西洋人の神話に見えた。
人類の無数の社会の中から、自分たちの時間だけを特別な時間として取り出す。歴史を持つ社会と、歴史を持たない社会を分ける。そして自分たちの進歩を、人類全体の方向として語る。
それは神話ではないか。
かつて神が担っていた役割を、「歴史」が引き継いだだけではないか。
私はそう書いた。
書き終えたとき、勝利の感情はなかった。
学者が一冊の本の中で誰かを批判する時、相手の身体は目の前にない。机上にあるのは文章だけである。文章には顔も声もなく、老いも疲労もない。こちらが鋭く切れば、切り口だけが残る。
だから学問上の殺人は、実際の殺人より清潔に見える。
血が出ないからだ。
しかし、血が出ないからといって、何も死なないわけではない。
数年後、パリでは「構造主義」という言葉が流行した。
人々は、サルトルの時代は終わったと言った。
若い研究者たちは、主体、自由、人間性という言葉を、古い家具を見るような目で見た。まだ使用できるかもしれないが、現代的な部屋には合わない、とでもいうように。
私の名前は、フーコー、ラカン、バルトらと並べられた。
私たちが一つの学派を作ったことになっていた。
実際には、私たちは互いにかなり違っていた。しかし時代は、思想家本人より分類を好む。思想家もまた、研究対象となれば、分類を免れることはできない。
私はそれを不愉快に思いながら、どこかで満足していたのだろう。
新しい時代が始まり、自分がその一部であることに、満足していなかったと言えば嘘になる。
ある午後、私はサン=ジェルマン大通りで、新聞を配るサルトルを見た。
彼はすでに老いていた。
目も悪くなっていた。小さな身体を少し前に傾け、一枚ずつ新聞を通行人に差し出していた。
受け取る者もいれば、無視する者もいた。若者の中には、彼が誰であるか知らない者もいたかもしれない。
かつて講演会場を埋め尽くした男が、道端で紙を配っていた。
私は通りの反対側にいた。
声をかけることもできた。
しかし、かけなかった。
彼を哀れんだからではない。
むしろ、近づく資格がないように感じた。
私は書斎で人間という主体を解体し、彼は街頭で一人の人間として立っていた。
私の理論は、なぜ新聞を配る老人の前を、ある者は足早に通り過ぎ、ある者は立ち止まるのかを説明できたかもしれない。
階級、世代、政治的所属、記号の体系。
しかし、なぜ彼がそこに立つことを選んだのかについて、私の理論は何も語らなかった。
あるいは、それを「選択」と呼んでよいのかについてさえ。
やがて信号が変わり、人波が私たちの間を横切った。
もう一度見たとき、彼の姿は見えなくなっていた。
私は彼を見失ったのではない。
私たちの時代が、彼を見失い始めていたのである。
四
一九六六年、アメリカで若い哲学者が私の仕事について語った。
ジャック・デリダ。
アルジェリア生まれのユダヤ人で、少年時代、反ユダヤ的な規則によって学校から排除された経験を持つ男だった。
その経歴を知ったとき、私は奇妙な親近感を覚えた。
彼もまた、ある朝突然、一つの名詞に変えられたことがある。
彼は構造を外部から攻撃したのではない。
内部へ入り、その中心が本当に中心なのかを尋ねた。
構造には中心が必要だと私たちは考えていた。中心が要素の配置と変換を統御する。しかし中心そのものは、構造の一部なのか。構造の一部なら、中心もまた他の要素との関係によって定義される。構造の外部にあるなら、どうして構造に働きかけることができるのか。
彼は私の道具を使って、私の家を解体した。
後年、私たちは何度か顔を合わせた。
ある晩、講演後の小さな会食で、彼は私に言った。
「先生の構造を壊したつもりはありません」
「では、何をしたのですか」
「戸を開けたのです」
「外から風が入る」
「風の入らない家は、墓です」
彼が実際にそう言ったのか、私は確信していない。
老人の記憶は、過去を保存するより、過去にふさわしい会話を新たに作ることがある。
だが彼なら、そのようなことを言ったかもしれない。
そして私は、こう答えたように思う。
「人類学者は墓も研究します」
彼は笑った。
私も笑った。
思想史は、後世から見ると父殺しの連続に見える。
アリストテレスがプラトンを退け、カントが形而上学を裁き、ヘーゲルがカントを包み込み、マルクスがヘーゲルを逆立ちさせ、ニーチェが道徳を打ち壊す。
だが実際に会ってみれば、父と子は必ずしも憎み合ってはいない。
子は父の言葉を最も熱心に読んだからこそ、その限界を見つける。
父は子に否定されることで、自分の思想が本当に読まれたことを知る。
私はサルトルにしたことを、デリダによって自分に返された。
その時、私は初めて、サルトルが感じたかもしれないものの一部を理解した。
怒りではない。
敗北でもない。
自分の築いた家から、知らないうちに客が帰っていく時のような寂しさである。
灯りはまだついている。
暖炉にも火がある。
しかし、次の世代はもう別の場所に集まっている。
五
サルトルが死んだ四年後、フーコーが死んだ。
一九八四年六月。
私は新聞でその知らせを読んだ。
病名は、沈黙と噂のあいだを移動していた。
彼は、社会が狂気、病気、犯罪、性をどのように名づけ、分類し、管理するかを研究した。だが最後には、彼自身の身体が、一つの病名をめぐる社会の恐怖と沈黙の中に置かれた。
それを皮肉と呼ぶのは容易である。
だが死者の生涯に、気の利いた対称性を見つけることは、残された者の悪い習慣だ。
フーコーは、人間という概念は比較的新しい発明であり、いつか消えるかもしれないと書いた。
砂浜に描かれた顔が波で消えるように。
当時、その比喩は鮮やかだった。
人間の終焉。
主体の終焉。
著者の終焉。
歴史の終焉。
私たちは次々に、何かの終わりを告げた。
若い思想家にとって、終わりを宣言することほど魅力的な仕事はない。何かを終わらせるたびに、自分たちの時代が始まったように思えるからだ。
だが、人間という概念の終わりを告げた人間が実際に死ぬと、概念とは別のものが残った。
声。
歩き方。
眼鏡の向こうから人を見る時の、あの集中的な視線。
講義の前に紙を整える手。
人間は存在しないと論じることはできても、死者の固有名を消すことは難しい。
死は、私たちが解体したはずの主体を、残酷なほど鮮明に復元する。
フーコー。
ミシェル。
その名を呼べば、彼はもはや権力と知の交差点ではなかった。言説によって構成された主体でもなかった。
ただ、もう会うことのできない一人の人間だった。
彼の最後の講義は、真理を語る勇気についてだったという。
私はそのことを後から知った。
真理を解体した時代の思想家が、最後に真理を語る勇気へ戻った。
これもまた、出来すぎた対称性だろうか。
あるいは私たちは、どれほど遠くへ旅をしても、最後には古い問いへ帰ってくるのだろうか。
どう生きるべきか。
何を恐れるべきか。
死を前にして、何を語るべきか。
それらはサルトル以前からあった問いであり、サルトルの後にも残った。
哲学者たちは哲学を解体したが、問いの方は、解体されることを拒んだ。
六
ガタリが死んだのは一九九二年だった。
私は彼をよく知っていたわけではない。
彼は私のように、世界から距離を取って構造を眺める人間ではなかった。世界の内部へ入り、制度の壁を動かそうとする人だった。
ラ・ボルドの病院で、彼は精神科病院が一つの固定した機械になることを防ごうとしていた。
医師は医師、患者は患者、病者は治療される側、専門家は治療する側。
その区別が硬直すれば、病院は病気を治す場所ではなく、病気という身分を生産する場所になる。
彼は役割を混ぜ、会議を開き、言葉の通路を増やした。
私は構造を発見した。
彼は構造が人を閉じ込める時、その戸を外そうとした。
私たちは反対の仕事をしていたようで、実は同じものを見ていたのかもしれない。
人間は、自分で作った制度の中に捕らわれる。
ただ私はそれを記述し、彼はそれを変えようとした。
ガタリの死後、私は書棚から『アンチ・オイディプス』を取り出した。
表紙には二人の名が並んでいた。
ドゥルーズとガタリ。
その間の「と」という一文字が、不意に墓碑のように見えた。
人間は一人で生まれ、一人で死ぬとよく言われる。
しかし思想には、二人でしか生まれないものがある。
二人のあいだにできる思考。
どちらか一人に還元できない言葉。
ドゥルーズとガタリ。
ガタリが死んだ後、その「と」の片側には、誰もいなくなった。
三年後、もう片側も空白になった。
ドゥルーズが窓から身を投じたと聞いたとき、新聞にはすぐに、彼の哲学にふさわしい比喩を見つけようとする文章が現れた。
逃走線。
生成。
身体からの脱領土化。
私はそれらを読むことができなかった。
一人の男が長い病気によって呼吸する力を奪われ、耐えがたい地点にまで追いつめられた。それ以上のことを、哲学的な比喩にしてはならないと思った。
窓は概念ではない。
落下は思想ではない。
死者の最期を、その人の著作の美しい結論に変えることは、残された者の傲慢である。
私たち思想家は、死を前にすると臆病になる。
死を死のまま受け止められず、意味に変えようとする。
構造、自由、差異、欲望、超越。
意味を与えれば、死者は完全には失われないと思うからだ。
しかし、ある死には意味がない。
意味がないまま、私たちの中に残る。
その重さに耐えることもまた、思考の仕事であるはずだった。
七
二〇〇四年、デリダが死んだ。
私は九十五歳だった。
その頃には、人の死を聞くことに慣れていた、と言うべきかもしれない。
だが、人は他人の死に慣れるのではない。
驚く力を少しずつ失っていくだけである。
新聞に彼の写真が載っていた。
白い髪。少し疲れた目。何かを断定した直後に、それを自ら疑い始めるような口元。
私の構造を開いた男。
私の二項対立の内部に入り、自然と文化、話し言葉と書き言葉、中心と周縁が、私の考えたほど素直に分かれていないことを示した男。
私は彼より二十二歳年上だった。
普通なら、私が先に死ぬはずだった。
だが思想の世界では、父が子の葬儀を見ることがある。
彼の死を知った日、私は長いあいだ机に向かったまま、何も書かなかった。
彼は私に何をしたのだろう。
若い頃の私は、それを批判と呼んだかもしれない。
さらに若ければ、攻撃と呼んだかもしれない。
だが老年になってみれば、それは相続だったのだと思う。
人は、受け継がないものを解体することはできない。
無関心な文章を、何十年もかけて読み直す者はいない。
デリダは私の仕事を壊したのではない。
それが簡単には閉じないようにした。
そのことを本人に伝えたことはなかった。
私たちの世代の男は、感謝を批判の形でしか表せないことがある。
私はサルトルに対してそうだった。
デリダも私に対してそうだったのかもしれない。
あるいはこれは、最後に残った者に都合のよい解釈だろう。
老人は、自分が受けた傷を、すべて愛情の跡に変えたがる。
そうしなければ、長く生きた時間に耐えられないからである。
デリダの死後、私はサルトルについて考えることが増えた。
私はようやく、彼より年上になった。
人は死者の年齢を追い越す時、不思議な罪悪感を覚える。
サルトルは七十四歳のままになり、私は九十を超えた。
かつて老人に見えた彼が、いつの間にか私より若くなっていた。
フーコーも、ガタリも、ドゥルーズも、デリダも、皆、私より若くなった。
死者は老いない。
老いるのは、見送った者だけである。
八
日本について書くようになったのは、希望を探したからではない。
少なくとも、初めはそう思っていた。
私は人類学者として、日本を一つの文化として見ようとした。西洋と比較し、差異を見つけ、変換の規則を考えた。
だが晩年になると、私は日本に、学問以上のものを求めていたのかもしれない。
西洋文明は、自分自身を普遍的なものとして世界に押し広げた。
自分たちの歴史を、人類の歴史と呼んだ。
自分たちの理性を、理性そのものと呼んだ。
自分たちの人間像を、人間そのものと呼んだ。
私はその傲慢を批判してきた。
しかし、批判した後に何が残るのかについて、私は十分に語らなかった。
中心を壊すことはできる。
普遍を疑うこともできる。
だが、人は中心のない場所で、どのように暮らせばよいのか。
すべての価値が一つの文化の構築物にすぎないなら、私たちは何を守り、何を拒むのか。
日本で私を慰めたのは、古いものが残っていたことではなかった。
古いものが、そのまま保存されているのではなく、別の形へ移されながら生きているように見えたことである。
素材に逆らわず、物を作る。
空間を何かで満たすのではなく、空いている場所を働かせる。
新しいものが古いものを完全に破壊せず、古いものも新しいものを拒まない。
もちろん、これは外国人が作った日本像にすぎないだろう。
日本にも暴力があり、破壊があり、忘却がある。
私は日本を理想郷にするほど、若くも無知でもなかった。
それでも、別の配列が可能であることを知るだけで、人は救われることがある。
西洋の終わりは、世界の終わりではない。
哲学の終わりも、思考の終わりではない。
私の机の上には、日本でもらった小さな木箱がある。
何を入れるためのものだったか、もう覚えていない。
蓋は、力を入れなくても静かに閉じる。だが密閉はされない。わずかな空気が、内部と外部を行き来する。
私は時々、デリダの戸を思い出す。
風の入らない家は墓だ、と彼が言ったことになっている、あの戸である。
九
百歳を過ぎると、人は未来について尋ねられなくなる。
若い頃は、これから何を書くのかと聞かれた。
中年になると、現在の社会をどう考えるかと聞かれた。
老人になると、過去についてだけ質問される。
サルトルはどのような人でしたか。
構造主義とは何でしたか。
なぜフランス思想はあれほど世界を熱狂させたのですか。
人々は、すでに終わった時代の証言を求める。
私は、生きた人間ではなく、遺跡の管理人になった。
ある若い記者が、私に尋ねたことがある。
「哲学は、本当に終わったのでしょうか」
私は、哲学者ではなく人類学者だと答えた。
これは私が何十年も使ってきた、便利な逃げ道だった。
もともと私は哲学を学んだ。
哲学の教授資格まで取得した。
それから哲学を離れ、人類学へ進んだ。
哲学者であることをやめたつもりだった。
しかし、哲学を離れた理由を説明するために、私は一生哲学について語り続けた。
神話を研究しながら、思考とは何かを考えた。
親族関係を研究しながら、人間とは何かを考えた。
歴史を批判しながら、時間とは何かを考えた。
サルトルを批判しながら、自由とは何かを考えた。
哲学から逃げるために歩いた道が、巨大な円を描き、再び哲学へ戻っていた。
「終わったのは、哲学ではないのかもしれません」
私は記者に言った。
「では何が終わったのですか」
「哲学者が、世界全体に責任を負っていると人々が信じた時代です」
サルトルは、世界中のあらゆる事件について発言することを求められた。
戦争、植民地、革命、収容所、労働者、学生、文学。
彼自身も、その要求を拒まなかった。
今から見れば、傲慢だったと言える。
一人の知識人が、世界のあらゆる苦しみに答えられるはずはない。
彼は誤り、迷い、しばしば自分の政治的判断に裏切られた。
それでも彼は、答える責任があると信じていた。
私たちは、その責任の根拠を解体した。
普遍的人間などいない。
歴史に一つの方向などない。
主体は自分自身の主人ではない。
真理は権力と無関係ではない。
言葉は意味を完全には支配できない。
私たちは正しかった。
おそらく、そのほとんどについて正しかった。
だが、正しさによって失われるものもある。
誰も世界全体を語る資格がないと証明した後、誰も世界全体に責任を感じなくなった。
大きな物語を壊した後、小さな専門領域だけが残った。
哲学は精密になった。
慎重になった。
自分の限界を知るようになった。
そして、かつて持っていた、危険で滑稽で壮大な光を失った。
サルトルは、多くの点で間違っていた。
だが、世界の出来事は自分と無関係ではないという、その一事において、彼は最後まで間違うことを拒んだ。
十
私は今、サルトルのための弔辞を書こうとしている。
彼が死んでから、ほぼ三十年が経っている。
弔辞を書くには遅すぎる。
だが、死者に対して遅すぎるということがあるだろうか。
死者は待つことを苦にしない。
困るのは生きている者の方である。
私は何度か、原稿の冒頭に「親愛なるサルトル」と書いた。
そのたびに消した。
私たちは親しくなかった。
親愛なる、という言葉には虚偽がある。
しかし、「サルトル氏」と書けば、もっと大きな虚偽になる。
私は彼の本を読み、彼に反対し、彼の時代を終わらせることに加担した。
他人とは言えない。
私は結局、宛名を書かずに始めた。
あなたは、人間は自由であると言った。
私は、人間は自分でも知らない構造によって動かされていると言った。
あなたは、歴史の中で人間が自分自身を作ると言った。
私は、歴史とは西洋が自分自身に与えた神話の一つにすぎないと言った。
あなたは、選択には責任が伴うと言った。
私は、選択以前に、文化と言語と制度が選択肢を作っていると考えた。
私は今でも、自分の方が正しかったと思っている。
少なくとも、学問としては。
だが、ある人間が正しく、別の人間が偉大であるということはあり得る。
正しさと偉大さは、同じ尺度では測れない。
あなたの人間は、あまりに大きかった。
世界の中心に立ち、自分の選択によって意味を作り、歴史の責任を引き受ける。
その人間像は、西洋的であり、男性的であり、英雄的でありすぎた。
その影には、多くの人々が隠されていた。
私たちはその像を壊した。
フーコーは人間の歴史的な誕生を示した。
デリダは主体の声の中に、消すことのできない他者の痕跡を見つけた。
ドゥルーズとガタリは、一つの自我の代わりに、欲望と接続と生成を置いた。
私も、人間の意識の背後に構造を置いた。
私たちは、あなたの巨大な人間像を、細かく分解した。
その仕事は必要だった。
悔いてはいない。
しかし、分解した部品を前にして、時折思う。
これらを、もう一度人間と呼ぶことはできないのだろうか。
あなたが死んだ後、フーコーが死んだ。
ガタリが死んだ。
ドゥルーズが死んだ。
デリダが死んだ。
彼らは皆、あなたの後に来た。
あなたを乗り越えた世代だった。
だが、死者の国では、先に来た者も後に来た者もないだろう。
今頃あなたたちは、同じカフェにいるのかもしれない。
もっとも、死後の世界にカフェがあるという考えは、あまりにパリ的だ。
あなたは例によって大声で話し、フーコーは話題の前提を疑い、デリダはあなたの使った一語に長い注釈を加え、ドゥルーズとガタリはテーブルそのものを別の何かへ接続しようとしている。
私は少し離れた場所から、その様子を見ている。
生前と同じように。
そして、生前と同じように、近づくことができない。
だが間もなく、私もそちらへ行く。
その時、あなたは私に尋ねるだろうか。
結局、君は何を見つけたのか、と。
私は答えることができるだろうか。
私は、人間の社会には、人間が意識しない構造があることを示した。
神話の背後には変換があり、婚姻の背後には交換があり、料理の背後には分類があることを示した。
しかし、なぜ人間が死者を悼むのかについて、私は十分な構造を見つけられなかった。
弔いには交換がある。
生者は言葉を捧げ、死者から記憶を受け取る。
弔いには変換がある。
一人の人間が物語に変わり、声が文章に変わり、時間が意味に変わる。
それでも、弔いは構造だけでは説明できない。
なぜ、ある死者の名を呼ぶと胸が痛むのか。
なぜ、自分が否定した思想を、失った後で懐かしく思うのか。
なぜ、終わらせる必要があった時代を、もう一度見たいと思うのか。
私には分からない。
分からない、と書くために、私は百年生きたのかもしれない。
十一
夜が明け始めている。
窓の外で、清掃車の音がする。
パリは、思想家たちが何を考え、何を終わらせたかに関係なく、毎朝街路を洗う。
カフェは椅子を並べ、地下鉄は人間を運び、学校では新しい学生が、死者たちの本を読む。
彼らはサルトルを古いと思うだろう。
レヴィ=ストロースも、フーコーも、デリダも古いと思うだろう。
それでよい。
思想が保存されるためには、崇拝される必要はない。
読み違えられ、批判され、別の問題に利用されればよい。
正しく保存された思想は、博物館の標本に似ている。
壊れやすいので触れてはならず、元の文脈から動かしてはならない。
だが本当に生きている思想は、誤解されることを恐れない。
私がサルトルを誤解し、デリダが私を誤解したように。
誤解もまた、継承の一つである。
机の上に、若い学生から届いた手紙がある。
名前は知らない。
彼は、人間が構造と制度と言語によって作られるものなら、誰が責任を負うのか、と尋ねている。
私はまだ返事を書いていない。
その問いは、私たちが半世紀かけて退けた場所から戻ってきた。
自由。
責任。
人間。
古い言葉である。
だが、古い言葉が必ずしも死んだ言葉とは限らない。
人類は、同じ問いに何度も別の答えを与える。
神話がそうであるように。
一つの神話が別の神話へ変換されても、解こうとしている矛盾は残る。
生と死。
個人と社会。
自由と必然。
自己と他者。
私たちの思想もまた、巨大な神話の変形だったのかもしれない。
サルトルは人間の自由という神話を語った。
私は構造という神話を語った。
フーコーは権力と知の神話を語った。
デリダは、神話が自分自身を閉じることのできない理由を語った。
どれが真理だったのか。
その問いには、もうあまり関心がない。
重要なのは、どの神話も一時、人間が世界の矛盾に耐えることを助けたということである。
私は原稿の最初へ戻り、題名を書いた。
最後の哲学者のための弔辞。
書いてから、少し考えた。
サルトルは、本当に最後の哲学者だったのだろうか。
あるいは私は、自分たちの時代を始めるために、彼を最後の哲学者にしたのではないか。
哲学は終わったのではなく、私たちが終わったことにしたのではないか。
神を解体し、人間を解体し、主体を解体し、真理を解体し、最後に哲学そのものを解体した。
それは哲学の敗北だったのか。
いや。
自分自身を疑うことを最後までやめなかったという意味で、それは哲学の最も完全な勝利だったのかもしれない。
だが、完全な勝利は、ときに勝者をも消滅させる。
哲学は、自分の仕事を完遂することで、自分の居場所を失った。
そして今、私はその消滅について考えている。
哲学の終わりについて考えることを、哲学以外の何と呼べばよいのだろう。
私は弔辞を書いているつもりだった。
しかし読み返してみれば、これは弔辞ではない。
告解でもない。
弁明でもない。
まして勝利者の回想ではない。
これは、返事である。
あの雨の日、薬局の軒下で、若い女が私に尋ねた。
先生は、あの人に勝ったのでしょう。
三十年近く経って、私はようやく答えることができる。
いいえ。
私たちは誰も勝たなかった。
サルトルも、私も、彼の後に来た者たちも。
私たちはただ、同じ問いを、それぞれの時代の言葉へ移し替えた。
そして一人ずつ、その問いを次の者に手渡して死んでいった。
窓の外が明るくなった。
私は日本の木箱の蓋を開けた。
中には何も入っていなかった。
空であることが、この箱の用途なのかもしれないと思った。
何かを入れるための空白。
まだ来ていないものの場所。
私は学生への返事を書くため、新しい紙を取り出した。
最初の一行を書く前に、もう一度、死者の名を思った。
サルトル。
フーコー。
ガタリ。
ドゥルーズ。
デリダ。
名を呼ぶたびに、終わったはずの時代が、ほんの一瞬だけ息をした。
哲学は、死者の名を呼ぶたびに、また始まってしまう。
それが哲学の欠点なのか、救いなのか、私には最後まで分からなかった。
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