2026年5月25日月曜日

釈迦伝、草稿

 

釈迦伝

 

第一章

 

「輪廻転生はないか」

 シッダールタは川面を眺めながらつぶやいた

 夜で暗いが晴れて月あかりと満天の星で水面が暗く見える。

 29歳で出家してから6年余り、苦行中から何となく考えてはいた。

 アートマンは存在するのかと。

この世に真の自我であるアートマンと世界や宇宙の法則であるブラフマンがあるというのは修行者なら常識だ。

 しかしシッダールタはいつのころからか他の事を考えるようになった。

 思えば思春期の時に生じた考えだったが苦行の途中でだんだん強く感じるようになった。

 子供時代は家庭教師のバラモンのヴェーダやウパニシャッドの講義が好きで真理について考えるのが楽しくて仕方がなかった。

 その時はアートマンの存在を強く感じていた。

しかし段々複雑なことを考えるようになって頭を使いすぎたせいか頭痛がするようになり物事が現実感をもって感じられなかったり、いろんなことに心地よさや喜びが感じられなくなったりして、荒涼とした苦しさや自分が自分でない感じがしてアートマンというものがよく分からなくなり混乱するようになった。

 出家して苦行を続ける中で人間について考えるようになった。

家庭教師からは人間は真の自我のアートマンが存在して輪廻転生を永遠に繰り返すと教わった。

また人間は体や思考や想像や意欲や認識などのいろいろな要素から成り立つと教わった。

 なんとなくぼんやりとした違和感はあった。

 しかし苦行の中でだんだん違和感が大きくなっていった。

 アートマンの存在と人間がいろいろなものから成り立つのは両立しないのではないか、と。

 何かをつかめる予感がした。

 苦行をしていると落ち着いて考えられない。

 苦行をやめることにして考えることに専念することにした。

 そもそも苦行についても前から疑問があった。

 出家したときアーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人のところで瞑想の仕方を教わった。

 瞑想している間は苦しみから離れられたが瞑想をやめると苦しみについて考えてしまう。

 これでは意味がないと思って離れたが、考えれば苦行も同じことではないかと。

 苦行している間は苦しくて苦行をやめると苦しみはなくなる。

 苦行し続けて苦しみをいっぱいにすればいつか永久に苦しくない状態に到達できるのだろうか?

 どうにも納得できなかった。

 苦行して永遠に苦しまなくなった人が実際にいるのかはっきりしない。

 シッダールタはより苦行している人は周りにたくさんいたが誰も苦しみから永遠に解放されそうな気配はない。

 それどころか怪我したり後遺症が残ったり障害をおったり死んでしまったりする。

 死んだらどっかでまた生まれ変わって苦しむかもしれない。

 死ななくても苦行していれば生きているのが余計苦しくなるだけだ。

 意味がない。

 それより今何かをつかめそうな予感があるので落ち着いてじっくり考えてみることにした。

非難する仲間も多かったが仕方がない。

 

 

第二章

 苦行で体は弱っていたが沐浴と周辺住民の托鉢で体を整えている。

 もうすぐ冬至で肌寒く夜が長い。

 (生きている人間がいろいろな要素で成り立っているとするとアートマンはどこにあるのだろう?)

 体がアートマンでないことはもちろんだろう。

 アートマンはもっと精神的なものの感じがする。

 とすると受想行識のどれかかそれらの組み合わせ?

 あるいは受想行識以外の別の精神的な要素?

 あるいは色受想行識全部を家としてその中に住んでいる別の何か?

 いろいろな考えが巡っていく。

 (そもそも人間とはどうなっているのだろう?苦しみとは何だろう?)

 また別の考えに流れる。

 思考は巡る。

 (人間はなぜ苦しむのだろう?それは生きているからか。生きているとは何だろう?生きていると言っても客観的に生きていることと主観的に生きていると感じることは分けないといけないな。主観的な方が問題なのだから生きていると感じるのはなぜなのだろう?)

 多分この主観的と客観的を分けるのが大切なのだ、とシッダールタは思った、というか考えた。

 生きていても生きている感じがしないことは多い。

 そしてそれは大変つらいことがある。

 それはシッダールタが少年から青年に至るまでの間、あるいはその後もいまだに引きずっている問題だった。

 生きていても生きているという感じを感じていてそれが快さをもたらさないと人生はかなりつらい。

 生きている感覚でも悪い生きている感覚とよい生きている感覚があってよい生きている感覚が得られるのは何かが満たされた時だと思った。

 それは多分欲求や欲望が満たされた時だと思う。

 ただ欲求や欲望みたいなのがうまくわかない、あるいは精神的にかみ合わないつらさもシッダールタが苦しんできたことだった。

 欲望というのはあって当たり前のものではない、というのがシッダールタや数少ない人しか知らないことだろう、という確信がシッダールタにはあった。

 シッダールタのような体験をした修行者はまだ結構いるかもしれない。

 その中にはシッダールタと同じように生を感じること、欲望が単純なものでないのに気付いている人はその中でもさらに少なくなるはずだ。

 ということは今シッダールタが掴みつつあることと同じことを自覚的にそこに真理があるという確信をもって探求している修行者は少ないに違いない。

 多分自分は自分にとってだけではなく全ての人間にとって価値のことを成し遂げようとしているのだ、という予感が堰を切るように押し寄せつつように感じた。

 

 

第三章

 

 考えが奔逸して群がり起きるような感覚があった。

 苦行により体は弱っているが気にならない。

 そういうことはシッダールタの人生ではしばしばあることだった。

 調子のいいのはいいのだがその後調子が悪くなることがあるので注意だ。

 特に思春期の頃のはひどくて信じられないほど頭が冴えたのだがその後に思考や感情が上手くかみ合わなくなってそういうのが今でも続いている。

 だから考えすぎは注意だ。

 35歳まで生きられた。

 苦行で体を痛めつけて弱らせたことを考えればこれは運がよかった。

 王子なので恵まれて育ったお陰かもしれない。

 でももう一沙門に過ぎないからそんなに長くは生きられないだろう。

 この世界では人間はすく死ぬ。

 病気にもなるし怪我もする。

 35歳で老いも強く少年時代のような健康感はない。

 ただ今は体調も良く頭も晴明だった。

 後でどうなろうと今は考えないといけない時だと思った。

 夜半は深まり水面に吹き渡る風が肌に届いて先ほどより冷たくなった気がしたがどうでもよかった。

 シッダールタは元々物に執着のない子供だった。

 シッダールタは両親が溺愛されて育った。

 王だったためか財力もあった。

 両親も家臣もシッダールタが何か欲しそうな感じに見えると何も言わずとも先回りして十二分以上のものが用意されているような環境だった。

 しかしそれよりも10台に精神を病んでから心がかみ合わずちぐはぐになってしまった。

 快楽であるはずの事に快楽を感じない。

 快楽を求めようという気にもならない。

 快楽をもたらすものがあれば快楽を感じるのは当たり前だと思っていた。

 しかし快楽をもたらすものと快楽が分裂してしまった。

 周りは心を病んでいるのではないかと言った。

 その通りで病んでいたのかもしれない。

 しかしまた自分の中ではこうも思った。

 快楽をもたらすものが快楽を生じされるというのは分裂しているのが本来の在り方でそれらを統合しているのが当たり前だと思っているのは実は人間の錯覚であり妄執なのではないかと。

 欲望も作られたり形が変わるのだ。

 欲望はあって当たり前というものではない。

 また欲望を満たされても満足を感じるのもまた当たり前ではない。

 それらは心の働きだがそうでない心の働きもあるのだ。

 出家して修行者の仲間になってからはシッダールタは変わっていると言われていた。

 王族だから俺たちとは違うのだという沙門もいた。

 確かに私は変わっているのかもしれない。

 しかし今ははっきりとわかる。

 多分誰も私のように感じて考えていた者はいなかったのだ。

 今欲望が作られるものであるという事の意味が初めて分かる気がする。

 みんな欲望はあって当たり前と思っている。

 生まれてから欲望と欲望を満たすものの関係が当たり前で自然で疑いようもなかったからだ。

 私も昔はそうだった。

 今は違う。

 当然他の人々や昔の自分の心の中も理解できるが違う見方を得ている。

 そしてそれは重要な事のように思える。

 

 

第四章

 夜は深まっていく。

 しかしシッダールタは自分の考えに没頭していて周囲のことは入らない。

 (欲望が形成されるものだとしたら何によってか?何か刺激を受けることによってだ。外部との接触と言ってもいいだろう。ただ自分と外部やいろいろな事物と接触しても欲望が生じるとは限らない。大前提として自分と自分以外の何かからの刺激や接触を感じ取れないとだめだ。そのためには感覚がいる。耳が聞こえなければ音がなっても何も影響はない。自分は変わらない。欲望も生じない。目が見えなくてもそうだ。他の感覚もそうだ。感覚があるから欲望が生じる。感覚が刺激となって欲望が生じるのだ。では感覚は何から生じるのか?)

 シッダールタの思考は止まらない。

 いつの間にか不自然な姿勢になって筋肉に力が入って体が固まっているが動かす気にはならない。

 (後で体がこるな)

 ちらっとよぎったがまあいつものことだ。

 (結局欲求も生の実感もこころが作るものだ。とすると五感が根源的で元になるものかというとそうではないだろう。これは出家して最初についたアーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人、2人の師匠から教わった。無所有処と非想非非想処。何ものも存在せずあらゆる執着を離ている精神状態と表象があるわけでもなくないわけでもない状態。それは自己分析のようで簡単だった。他の修行者たちから聞くとこれが分かっている修行者は師匠たちだけでなく他の仙人や聖者レベルならたくさんいそうだ。まあそうだろう。定や止観や瞑想や瑜伽行すればいずれ分かることではある)

 心の探求―、結局シッダールタには修業はそういうものだ。

 いろんな修行者がいる。

 宇宙とは何かとか世界とは何かとか存在とは何かとか実在とは何かを追求する修行者もいるし偉い仙人や教団もある。

 それはそれでいいのだがシッダールタの求めるものとは違うものだ。

 シッダールタの求めるものは人間が永久に苦しまないようになれるかどうかだ。

 短期間苦しまなければいいというものではない。

 永久に苦しまない状態があるかどうかだ。

 そしてあればその状態になりたい。

 私がその状態になれるのか。

 その状態になる方法があるのか。

 それが問題だ。

 死んで終わりなら楽なのだが今生の苦が終わるかもしれないが生物は死んでも生まれ変わる。

 次生、来生、あるいは次が終わってもまた次の生があり、永久に生まれ変わり続けるのだからそのどこかでは苦しむ可能性は残るだろう。

 だから死んでも意味はないのだ。

 死んでも苦しみが終わるわけではない。

 生きていれば結局苦しみがある。

 病気になれば苦しいし怪我すれば苦しい。

 おなか減っても苦しいし、愛する者との別れも苦しいし、ほしいものが手に入らないのも苦しいしまさに四苦八苦だ。

 苦しくないときはあるし、瞑想で苦しくないようにはできることもある。

 でも短時間だしずっと迷走していることはできない。

それに瞑想していても苦しいときもあるし瞑想がうまくいかないこともある。

 苦行すれば苦しい。

 というかなんで苦行していたんだろう。

 なぜ修行者は苦行するのか?

 何となく苦行の果てに苦しみを離れた境地があるみたいな感じで初めて見たが、よく考えるとふわっとしているな。

 苦しみ尽くせば苦しまない状態になれるのか?

 全く根拠がないな。

 よく考えるとなんで苦行していたのだろう?

 結局それしかなさそうだったからだ。

 どこにいっても誰に教えを乞うても永久に苦しまない方法を教えてくれる人もいなければ、その境地に達している人もいないようだった。

 だからなんとなくみんながやってる、みんなが言ってる方に流されてしまったのだろう。

 よく考えれば何も考えていなかったな。

 行き詰っていたのだろう。

 今も行き詰っているのだがもうちょっとで何か思いつきそうな手ごたえがあった。

 

 

第五章

 シッダールタの精神は冴え渡る。

 考えが次々とわいてくる。

 もやっとして形にならないものもあるがもう少しで届きそうな感じがした。

 (まあ昔のことを考えても仕方があるまい。過ぎたこと終わったことより今掴みつつある何かだ。感覚の前には全感覚と言えるようなものがある。見ても聞いても触っても何も感じないことも気づかないこともある。今の私がそんな感じだろうな…。それは感覚以前のもっと抽象的な、観念的なものだ。例えば名や言葉や絵や音楽、あるいはそういうのを聞いているときに感じる何か感覚を超越しているような…、いや超越という言葉はおかしいか、仮に前感覚みたいに感覚の前にあるものというのとでも言っておこう。それは感覚のように個別具体的ではないかもしれないが象徴的な形で示されることもある。思考や表象中に現れるもの、表象や抽象とでもいっておけばいいか。しかし表象や抽象というと広すぎる気もするのでそういう形でしか表現しにくいものだな。六感というが感覚はそんなに厳密に分けられない場合も多い。悲しい音楽を聴けばブルーな感じがするし、明るい音楽を聴けば明るい、赤や黄色やピンクのような温かい色を思い浮かべるだろう。仮に「名色」とでも読んでおくか…。誰かがそんなこと言っていたような気もするがいまはいいだろう。なかなかぴったりした呼び方だ)

(生や欲望や感覚の前にある名色自体も当たり前のものではない。生や欲望や感覚が作られたものであるなら名色もつくられたものだ。名色は感じている時ではなくこうして思考したり想像しているときに感じることができるな。名色は頭の中にいつもあるのかもしれないが我々はそれを認識している場合もあれば認識していない場合もある。認識している名色と認識していない名色が混在している場合もある。注意を変えれば認識される名色も変わる。とすると認識か。問題は認識だ。我々が何の名色を認識するかは何によってきめられているのだろう?注意の焦点をどこに当てるかと関係があるが我々の注意を捜査しているのはなんだろう?)

 (結局意識するものと意識されないものがある、という言い方はちがうな、意識したり意識しなかったりするような心の仕組みがあるのだ。意志?主体?自主性?自覚?笑われは自分の心を自由に操れるように思っているがそうではない。我々は何かによって何かに注意させられているのだ。同じように何かを注意しないようにさせられているということもできる。何となく自分で自由に自分の注意を向けているように思っているが何かよく分からないものに注意を向けさせられているとも言える。もちろん自分の自由意志で注意を向けている場合もあるかもしれない。しかしそうでないことがあるということがあること自体が重要だ。むしろそっちの方が本当で我々が自分で自由に好きなものに注意を向けていると感じること自体が錯覚、というかそう思い込んでいるだけのことかもしれない)

 「行、か」

 何となく頭に浮かんだ言葉を口にしてみる。

 

 

第六章

 ―行―。

 どっかで聞いたことがあるかもしれないが思い出せない。

 そもそも子供の時、いや思春期頃、教育係の先生にヴェーダやウパニシャドを教わってからずっと考え続けてきたのだ。

 出家してかもいろいろな先生に教えを乞うて回った。

 我以外皆師、というのがシッダールタのモットーだった。

 別に答えを見つけるのが目的名だけではなく考えること、学ぶことが好きだった。

 考えていればそれなりに楽しかった。

 まあ楽しくないこともあったが少なくとも自分の好きなことを考えているときには楽しかったといってよかっただろう。

 何せヴェーダやウパニシャドは難しい。

 世の中に修行者はたくさんいて大昔みたいに伝統的な教えだけでなく今の時代はバラモン以外のいろいろなヴァルナの者が自由に真理を探究する時代だ。

 それで偉くなる者もいる。

 それを目当てに修行者になる者もいる。

 ヴァルナは変わらなくてもそれなりの修行者になればバラモン以上に尊敬を集められる。

 弟子や教団を持つこともできる。

 シッダールタもそういう勧誘を受けたことがある。

 というかよく誘われた。

 出家して最初の師匠のところで早速後継ぎにならないかと誘われたほどだ。

 そもそもそこではシッダールタの求めていたものは得られそうになかったのでそんなことは論外だった。

 いい先生だったが国も家族も捨てて仙人、教団の後継ぎになっても仕方がないというのもある。

 と考えるとちょっとおかしくなった。

 国王の地位を捨てて仙人になる、か。

 釈迦国も大した国ではなかったがそれでもそこそこ大きくても中小の教団の指導者に転職するのは何か滑稽だ。

 そんなことになっていたら父上も母上もみんなびっくりしただろうな、と心の中で諧謔めいたことを想像すると面白かった。

 それはそれとして…。

 結局我々は何一つとして確かなものはない。

 「生も欲望も感覚も認識も行も心が作っているものだ」とつぶやいた。

 何か一本の線で通じる感じがあった。

 芯が通ったような、一気通貫な感覚。

 多分我々はいろいろな要素からなる行によって何かを認識するようにさせられる。

 認識「する」、ではなくて認識「させられる」だ。

 そして認識する対象は名色、六感と具体化される。

 感覚する、ではなく感覚「できる」「できるようになる」と感覚「させられる」というのが大切だ。

 感覚が実体として存在するかどうかはこの場合はどうでもいい。

 我々が何かを感覚自体があることと感覚しているときにはそれを支える心の仕組みが発動しているからであって、我々は自分で自分の心を自由に働かせているのではなく、自分の心(心でいいのかな?一旦そう呼んでおこう)に働かされるにすぎない。

 思考の本流は止まらない。

 流れる流路を得たのだ。

 感覚システムに何か刺激を与えればそれに反応することがある。

 そして欲望が生まれる。

 欲望は何か感覚だか名色だか認識だかあるいはそういったものの全部だか知らないが(今は細かい所はどうでもいい)それを満たすことを求める。

 我々は欲望を満たそうと考え、実際に満たされ満足することもあれば満たせず満足しない場合もあるかもしれないが、その中間もあるかもしれずいろいろあるだろう。

 しかし注目すべきは欲望が満たされ充実感や充足感を得られた場合だ。

 欲望が満たされても、そしてさらに充足しても喜びも快楽も得られない場合もある。

 それはシッダールタが長年苦しんできた思春期以来の心の後遺症ともいうべきものでもあった。

 シッダールタは欲望が満たされても快楽を感じられないときがある。

 シッダールタにとっては欲望を満たされることと快楽を得られることは分裂したことだった。

 さらには適切な欲望が生じないときもある。

 そのためシッダールタの行動や言動には奇異なところがある、そしてそれは自分でもそう思うし自覚している。

周りの人に変に思われているのだろうなと。

 「心の病」「王子が心を病んだ」ということで問題になったこともあった。

なんでも医者によるとそういうことは思春期にはあることのようだ。

心がこじれてなかなか元に戻らない。

一生元に戻らないときもあるし気が狂ってしまうときもあるのだそうだ。

シッダールタは王位継承者では実母はシッダールタの出生時に死んでいたが王である父にも乳母にも親戚や家来にもバラモンの先生にもそれなりに愛されて恵まれて育ったと自分でも思う。

小さな国だったしみんな家族親戚のようなところがあった。

自分でもまた周辺からも「釈迦族」と呼ばれていた。

コーサラ国やマガダ国のような大国だったらまた違っただろうと思う。

特に父はコーサラ国との関係に心を痛めていた。

父はシッダールタを後継者として教育を受けさせ厳しい所もあったが基本的に甘い父親だったと思う。

結局出家させてくれたが後継ぎを生んだおかげか、シッダールタでは王は無理だと思ったせいかよく分からない。

出家できたのでシッダールタにはどうでもいいことだった。

それでもやはり気になることはあるが。

 

 

第七章

 欲望が満たされると普通の人は満足して喜ぶし快楽を感じるし生きている実感を得るのだ。

 シッダールタには当然ではないところもあったがシッダールタでもうれしいときはあるし生の実感を得ることもある。

 シッダールタは心の病と言われて心の病とはこういうものなのかと思ったものだが、自分が普通の人間と違うとは思わなかった。

 それは誰の心もそういうものだしだれでも自分のような状態になりうるのだ。

 シッダールタはそれに気づいただけで他の人は気づいていないだけだ。

 でもそのせいで思考がスムーズにいかないこともあり奇異なだけではなく人にどんくさく思われたことも多かっただろうとは思う。

 しかしその体験が今生きていると思った。

 思春期以来苦しんできたこと、変わってしまったこと、人と違ったこと、そして得たことは今このためにあったのだと思った。

 生の実感は喜びで生の実感が脅かされるときには苦しみを感じる。

 それはいいとして皆には実感はない。

 私にも実感がなかった、というよりは何か愚鈍で鈍重で暗愚の中にいてそこにあったのは知っていたのに意識ができてなかっただけのような感じが近いと言えるかもしれない。

 「行はつくられるのだ」

 シッダールタの思考は行に向けられる。

 行とは人間の心の、内面のよくわからないもの全体のようなものだ。

 人間には確固たる自分というか自分の中心としてのアートマン、自我とか自己とかあると言われているがそんなものはないのではないか。

 いろんなものの、いろんな精神要素、心の要素の総体と関係性こそが行だろう。

 そのいろんなものが何かは分からない。

 分からないが見方によっては分かる部分もある。

 かりに人間を色受想行識、物質的な体の部分、感じる感覚の部分、想像したり思考したりする部分、意欲の形成の部分、認識の部分、その他から成り立つとしよう。

 そのどれかだけが自分というわけではない。

 それらの全てとそれらの働きとそれらの関係の総体がじぶんをなす。

 「自分が存在する感じがするから自分は存在する」

 そんな風に単純にはシッダールタは考えられなかった。

 シッダールタ以外の人にはそれは単純ではなく自明なことかもしれない。

 そんなことを単純ではなく複雑に考えるシッダールタの方がおかしいというかもしれない。

 しかしシッダールタには確信があった。

 革新が生じたと言ってもいいかもしれないがこの際どうでもいいしどっちでもいい。

 シッダールタはどっちの考え方も理解できる。

 一通りの考え方ができないより二通りの考え方ができた方がいいに決まっているしなんなら三通り四通り、もっと多くの考え方ができればできるほどいいに決まっている。

 実用、実務に際して選択する際に絞ればいいだけだ。

 思考、判断、決断、実行によって我々は生活しているが思考の範囲や考え方や知識は多い方がいいに決まっている。

 思考が一つしかないなら判断する必要はなく決断して実行するだけだ。

 考える際にはできるだけいろいろ考えた方がいい。

 全部を考えつくすことはできないだろうが可能な限りたくさんがいい。

 それらは全て可能性がある。

 可能性自体はどんな時でもどんなところでもあるのだ。

 

 

第八章

 思考のドライブは止まらない。

 もうシッダールタには確信があった。

 多分自分は答えに到達しつつあるし間違ってもいないしそれを形にして表現すること、細部を論理的に検証していくだけだと。

 「アートマンは存在しない」

 口に出していってみた。

 アートマンが存在する可能性とアートマンが存在しない可能性は同じだけある。

 他の可能性もあるがややこしいので置いておこう。

 とするとブラフマンが存在しない可能性もあるのかな?

 まあこれも今は関係ないのでおいておこう。

 結局アートマンが存在するということには根拠がないのだ。

 思春期前期のシッダールタにはアートマンがあることは歴然として確かなことだった。

 自我はありありと実在感、実在感をもって存在していた。

 自我が肥大しすぎて心の病になってしまったと言ってもいいかもしれない。

 考えすぎて内省しすぎてこんがらがってこじれてしまったのだ。

 そしてそれ以降は以前に戻れなくなった。

 しかし実在感や実体感を感じることと実際に実在するか、集諦として存在するかは別のことだ。

 実在感を持っていても存在しない場合もあれば、実体感があっても実体がない場合もある。

 逆に実在感や実体感がなくても実在していたり実体がある場合もあるだろう。

 結局分からないのだ。

 何とでもいえると言ってもいい。

 しかしそれが分からない人も多い。

 シッダールタ自体も確信を持ったというか表現できたのはたった今だ最初だろう。

 分からないのはいいが分かっていないことを知らないしその自覚もない。

 結局これに尽きるな、とシッダールタは思った。

 これを何と呼べばいいか、無明と呼ぼう。

 結局実体があるかどうかも分からない自我や自己、言い換えればアートマンや自分を実体として存在すると決めつけて疑いを持たなかった、ということが構造的にあって皆それに縛られていた、と言っていいだろう。

 アートマンがなければ全て解決する。

 アートマンがなければ輪廻転生もない。

 輪廻転生する主体、エージェントがないからだ。

 そして私の中ではアートマンがないことはもはや自明だ。

 もちろんアートマンが存在する可能性もあるのだがそれは一旦おいておこう。

 一番の問題はみんな先入観に縛られていたということにある。

 存在するかどうかわからないものを存在するとしてそれに疑いを持たなかった。

 存在する感じがあるということは存在することを意味しない。

 存在する可能性があるということも存在することを意味しない。

 結局我々には何も分からないのだ。

 分からないことを分からないでいた。

 分かったつもりでいた。

 これはこの世界全体について言えることなのかもしれない。

 ヴェーダやウパニシャドもそうだが。

 そもそも人間の性質のようなものなのかもしれない。

 そういう人間が社会を作ると社会もそういうことになるのかもしれない。

 無明―我々は目が見えない人を何かを分かりえない人と考える。

 しかし目が見えようが見えまいが関係ない。

 目が見えても分からないのだ。

 人間にはけしてわからないものがあるのだろう。

 しかし分からないことを分かることはできる。

 この違いが重要なのだと考えられる。

 これを自覚すればもはや輪廻転生にこだわる心がなくなる、とけていく。

 死んでも生まれ変わると思わなくなる、死んでも生まれ変わらないと思えれば問題自体が消え去る。

 問題が解決するのではなく問題は問題とすれば問題だが問題としなければ問題ではないという感じか。

 何かややこしいが問題なのは問題を作り出してしまう人間の心なのだろう。

 そして人間は問題に限らず何かを作り出してそれを正しいと思ってしまう心の仕組みがあるのだ。

 

 

第九章

 シッダールタは考えを何日も反芻した。

 菩提樹の木の下でずっと過ごした。

 食べ物は近所の少女が持ってきてくれた。

 悟ってみれば何ということはなかった。

 人間でなくなったわけでも特別な人間になったわけでもなかった。

 ただ気付いた、考え付いたのだ。

 何のための苦行だったのかなとも思ったがもう終わったことだ。

 よく生き残れたものだ。

 あれでだいぶ寿命が短くなっただろう。

 35歳という年齢を考えるとこの弱った体ではそう長くは生きられまい。

 長くてあと数年というところではないか。

 釈迦は王子だったから周りの人は比較的長い気だった。

 しかし出家して世俗や修行者と接してみると世の中ではみな健康状態は悪く治安も悪くすぐ病気になったり殺されたりして人は簡単に死んでいった。

 シッダールタは体格がよく体力があったが釈迦のように恵まれた体格を持つものはまれだった。

 一部のバラモンやクシャトリヤや代々の富裕な商人は恵まれた生活をしていたがそれでも釈迦国にいた時よりは不健康で不潔な感じがした。

 釈迦国は田舎だったが比較的清潔でのんびりして栄えた都市のように豊かではなかったが環境が良かったのだなと思うときがある。

 山沿いで丘陵地帯が多く遠くにヒマラヤを望み山の神々に守られていたのかもしれない。

 今は聖なる河、母なる河、霊の住まう河ガンジスの河岸に望み川面をみている。

 その場で寝てその場で起きる。

 起きては座禅を組み悟ったことを考える。

 人生でなすことはなした。

 このまま死んでもいいかもしれない。

生まれ変わることはないだろう。

 今生の苦しみから解放されれば二度と苦しむことはない。

 輪廻転生が存在する可能性も0ではないがもはやそのことを考える気持ちもない。

 納得の中で生まれて初めてかもしれないような静かな喜びの中にいた。

 多分自分の考えに到達したものは他にはいまいと思った。

 唯一無二の人間に慣れたことはうれしかった。

 世の中広いしどこか徳の世界か昔に自分と同じ悟りに達したものはいるかもしれないが少なくともこのあたりにはいまいと考えた。

 悟って考えて検証してそういうのを数日行うといろいろなそれ以外の考えもわいてくる。

 ただ浮かんでくるいろいろな考えと悟りの内容に行きつ戻りつ法悦とも言える気持ちの中にいた。

 このまま死んでしまっても構うまい。

 ただこの悟ったことは失われてしまう。

 この悟りの内容ははっきり言って難しい。

 シッダールタもはっきり言語化できない部分がある。

 どこかの修行者やウパニシャド哲学の専門家に聞けばもっとうまく言語化できるかもしれない。

 言語化できても内容もぶっ飛んでいるな、と思ったりもする。

 多分教えの内容はかなりすっきり表現できる可能性がある。

 しかしすっきりした表現にしてもかなりないようがどんなバラモンだろうと沙門だろうと一般人だろうと理解できない可能性が高いと思えた。

 修行者同士は身分を越えた仲間だ。

 新たに発見した考えを教え合い共有する者もあればそれを秘匿する者もある。

 隠者のように生活する者もあれば教えを広めるための教団ができる場合もある。

 自分の悟りを広めることを考えてみた。

 (…ちょっと難しいな)

 というのがまあ忌憚のないところと思えた。

 これからどうしよう、と考えた。

 別にもう生きていなくてもいいか積極的に死ぬ意味もない。

 故意にわざわざ自死するのは変だ。

 悟った時は興奮してもう死んでもいい、死のうと思ったこともあったが。

 やっぱりこのまま死んでしまうのがきれいに人生を終得られていいのかなとも考えた。

 別に王子時代のある時期のようにだらだら生きていても仕方がない。

 シッダールタは心を病んだので周囲が治療のためシッダールタを慰めるため喜ばせるために致せりつくせりな生活をしていたこともある。

 特に楽しくもなくだらだらして無駄な日々であったな。

 生きるということはただ生命があって息をして動いていれば生きているというわけでもないだろう。

 シッダールタが悟ったように生きている感じを味わうことが生きていることだ。

 そして生きている意味はもう達成してしまった。

 やっぱりこのまま過ごして死ぬ日を待つべきだろうか。

 もはや永遠に苦しむ可能性があるという懸念は消えたとはいえ生きることはやはりつらいことだ。

 12月の空気はとても寒い。

 苦行で体が弱っているし、食べ物も十分ではなくあらためて気づいてみれば寒くひもじい状況だ。

 苦行で死ぬものはたくさん見てきた。

 餓死も衰弱死もよく分からない死も何でもある。

 死は特別なことではない。

 やはりこのまま死んでしまうのがいいか?

 

 

第十章

 しかし、だ。

 シッダールタは出家して世俗から離れ自分のために生きられるようになったが育ちがよかったせいか利己的な性格でもなかった。

 まあはた目には王位継承の責任をほっぽらかして家どころか王族なのに国を捨てて出家して無責任に見えなくもないが病んでいた面もあり仕方なかったとも言える。

 それでもちゃんと結婚して後継ぎは残してきたのだ。

 ひどい名前を付けたものではあったが。

 内向的で神経質なところがあった青年だったがようやく長年の問題は解決してみると基本品性も高いし毛並みもよい。

35歳という初老の年齢にも達し、長年の問題が解決して気持ちも軽くなり世俗も体験して社会もしり自己同一性が固まったとも言え、自分のことに精一杯だったのが解消されもともと王位継承のための帝王学や統治学や人倫や道徳や宗教について十分な教養があり責任感や義務感も潜在的に強い資質を持っていた。

さて悟った内容を人に伝えないでいいのだろうか?

自分一人で生きてきたわけでもなくいろいろな人にお世話になってきたし出家後に出会った多くの仲間もいる。

今も近所の少女が毎日食事を布施してくれる。

自分が悟ったからって死んでしまうのは利己的ではないか?

長く生きて世俗で生活しているとロクデナシもたくさん見てきたが立派な尊敬できる人達も多かった。

なにか世の中に報いないといけないのでは?

人間は一人で生きているわけではない。

全ては関係なのだ、と悟ったばかりでもある。

輪廻転生はなくても世の中の全てのものはつながっている。

時間的にもだ。

世の中をよくすることができるならそのために何かした方がいいのでは?

自分の悟りの内容は世の中をよくすることと直接は関係ないが、それでも新しい考え方だから何かの役に立つだろう。

それに自分のような悩みを抱えている人は他にもいるだろう。

また心の病を抱えてしまった人にも何か薬に立つかもしれない。

国元と釈迦族には悪いことをしたと思っている。

直接的にではなくても間接的にではあっても何かお返しができるのではなかろうか。

まあ都合のいい考えだが人間の普通の考えとは都合の良いものであるのは悟った内容のとおりでもある。

そしてそういう普通の人の普通の考え方も必要だろう。

自分の悟りは難解すぎるし特殊過ぎる。

また自分の悟りの考え方だけするというのは不可能だしすべきではない。

人間、子供の自然な心の発達からは不自然で小さな子供に教えるべき内容でもない。

子供の間は普通に育ってもらってある程度人間ができて身が固まってから学ぶ方がいいだろう。

思春期くらいのまだ心が定まってないときに教えると心によくない負担をかけることも考えられる。

などと考えていると自然に自分の悟りを人々に伝えるように思考していることに気付く。

多分人間には利他心とか良心みたいなものがあるのだろうな、とシッダールタは冷静に分析してみたりした。

そして自分は自分の教えを世の中に広めることが世の中のためになると考えている。

 

 

第十一章

 しかし迷いもある。

 シッダールタは自嘲した。

 悟っても迷う。

 さっき死のうと思って今は生きることを考えている。

 しかも悟りを教えとして世の中に広めるという大きなことを考えている。

 教えを広めるというのは大変なことだ。

 シッダールタは王として国を運営する教育を受けている。

 そして出家するまでの29歳まで父の下で政治を手伝っている。

 組織運営のしんどさは分かっていた。

 しかも0から立ち上げるのだ。

 多分とてつもなく面倒くさい。

 修行中いろいろな教団に教えを請いに行った。

 いろんな教団を見たが多分教団の運営は楽ではない。

 教団を作っていない仙人もいた。

 あれの方が楽だろう。

 楽だが教えは広まりにくいはずだ。

 苦行で分かれたが修行仲間が協力してくれるかな?

 というかそもそも理解してもらえるのか。

 …かなりしんどい。

 私のような悟り方は特殊だろう。

 私は王子だったからめちゃめちゃ教育を受けた。

 自分でいうのも口幅ったいが私はヴェーダやウパニシャドでは優秀な生徒だったのではないかと自負している。

 それに思春期以来の特殊体験でヒトとモノの見方が若干違うようになった。

 だから他の人が同じものと考えていることが違うものと考えられる。

 他の人が自然に統合してしまっていることを分離、解体できる。

 しかしこれは普通は不自然であるしむしろできる方が病的だ。

 リスクもある。

 私のように“心の病気”になってしまう。

 本当に病気かどうかわからないが私のように思考の障害が生じてしまう危険性もある。

 安易には教えられない。

 何かを得れば何かを失う場合がある。

 うまくすれば何も失わずに何かを得られる場合もあるかもしれないが…

 私も悟らなかったらみじめな人生だったかもしれない。

 今や私は悟ったから自分では満足だが人は私をみじめな人間と思っているかもしれない。

 このまま死んでしまったらなおのことそうだろうな…。

 まあ別にそれでいいのだが。

 私の悟りの内容を少なくとももっと分かりやすく整理しないといけない。

 それに私の悟り方でなくても同じことを悟ることは多分可能だ。

 と言っても結局結論に至るのは簡単ではないと思われる。

 多分どんな道を通ろうと簡単ではない。

 時間もかかる。

 私だってもっと整理しないといけないな。

 きちんと悟ったことをしっかりまとめないと自分でもせっかくつかんだこの感じを忘れてしまうかもしれない。

 それにしても私の悟ったことを表すのにそもそもうまい言葉がない。

 多分どこにもないのではないか?

 既存のヴェーダやウパニシャドの言葉、あるいはいろんな教団や修行沙門たちが新しい概念や言葉を日々磨いている。

 そういったものの中に私の悟りを使えるのに役に立つものはあるかもしれない。

 しかしそのまま借用したら誤解の元にもなる。

 そもそも自分で作ってしまうのがいいのだがそれだと教えを作るのにも教えるのにもとんでもない時間と労力がかかる。

 私は大丈夫だしむしろ得意だ。

 しかし教えを受ける方はかなり…、いや、とてつもなく難しい。

 というか事実上むりでは…?

 何人かを悟らせるのに成功しても後に続かず結局途絶えてしまう可能性が高い。

 とすると教えを広めるというのは事実上無理となる…か?

 釈迦はため息をついた。

 

 

第十二章

 私の考え方は逆転の発想とも言えるだろう。

 実体や存在の実在はない。

 それは人間の心が作るものだ。

 知らない間に作ってしまっているものだ。

 これを心が作るのではなくもともと心が備えている実在したものと考えてしまっているのをどう作られたものと捉えなおせるのか?

 これはもちろん存在論だが認識論でもある。

 しかしこの逆転の発想は精神要素を解体するよりは危険ではない。

 危険ではないがやはり難しい。

 何にせよ難しいことが多いな。

 教えとしてうまく表現することに成功してもなお難しいだろう。

 分かりやすく表現するのがたとえできても理解にも納得にも高い山を越えないといけない。

 ヒマラヤの山々を越えることができるのか?

 ガンジスの流れを泳いで渡れるのか?

 とすると私は珍しいというか希少ケースだな。

 運がよかった。

 多分運もよくないと悟れない。

 頭がいいだけではだめだ。

 頭の回転が速い人も記憶力がいい人もたくさんいる。

 私など及びもつかない人々を私はたくさん知っている。

 しかしそういう人が悟れるのかといえばどんなに教えをうまくシステム化できても難しい場合があるだろう。

 むしろ頭の回転がよかったり記憶力がいいことが悟るのに邪魔になる場合があるのでは?

 頭のいい人はすでにある考え方を早くたどれるだけの人も多い。

 記憶力がいい人もすでにあるスキームに当てはめたりすでにある知識とつなぐ連想みたいな覚え方をしている人も多い。

 そうでない人たちもいるが…。

 私の教えは場合によってはそういうものを壊してしまわないといけない。

 壊さなくてもいいかもしれないが先入観となって悟るのに邪魔になるかもしれない。

 「気付き」でうまく悟れる場合もあるかもしれないが0から考え方を作り上げるようなのが必要になるかもしれない。

 そういう能力は思考が速いとか記憶力があるとかとは違うものかもしれない…

 思えば修行僧たちはプライドが高い傾向があるな…

 私もそうかもしれないが…

 これは有利なところもあるかもしれないがプライドが邪魔になる場合もあるかもしれないな…

 自分の考え方を捨てたり壊したりそれを持ちつつも新しい考えの枠組みを一から構築するのは年を取ってからではしんどいに違いあるまい…

 しかし教えを広めようとすると既存の修行者層や大物たちの協力が必要だな…

 これも難しい。

 教えを学ぼうとしないどころか邪魔しようとさえする可能性がある。

 そもそも学びたいと思えるほど魅力的な感じに思ってもらわないといけないのだがそれがかのうなのか?

 訳の分からないやつが訳の分からないことを言っているで終わってしまいそうな…

 それに金がいるな。

 あるいはパトロンやスポンサー。

 組織的に教えを広めようとすると先立つものが必要だ。

 いかん、考えすぎだ、思考に負荷かけすぎだ、厚くなってしまってはいかん…

 

 

第十三章

 ひと眠りすると頭がすっきりした。

 別に急ぐことはない。

 もう目的は達したのだ。

 後の生きている期間は余生のようなものだ。

 気楽にしていこう。

 しかし意外と体調が良いな。

 苦行を離れて体が回復してきたのかもしれない。

 長年の重しも心からとれた。

 それも調子がいい原因かもしれない。

 養生すればあと数年は生きていけるかもしれないな。

 健康に気を付けて。

 でも寒いな。

 これからもっと寒くなっていく。

 まだ悟ったことを味わいたかった。

 何回も繰り返し反復して考えるといろいろなアイデアがわいてくる。

 しかし悟りと関係なことを考えることも増えてきたな。

 考えるだに、思い出すだに喜ばしい気持ちがわいてくるのは心地よいが禅譲ばかりでは体がこるしなまるな。

 座ってばかりだと健康に悪いのでは?

 ちょっとは体を動かした方がいいな。

 と考えて少し歩いてみた。

 立ち眩みやふらつきがあるので注意だ。

 自分が健康のことを考えているのがおかしくて笑みがこぼれた。

 ちょっと余裕が出てきたのかもしれない。

 もう命なんてどうでもいいのにな。

 真理への思考の絶好調はピークアウトしてきた感じがある。

 どれくらいだったか、7日くらいの集中的禅譲で自分の中では考えはだいぶまとまっていると感じた。

 まだまだ考えることはあるのだが。

 例えばアートマンがないと言ってもなくてもよいというだけだ。

 アートマンなしでもこの世は成り立つ。

 しかしあってもいいのだ。

 同じく輪廻転生もあってもいいのだ。

 実体としてのアートマンはなくても関係としてアートマンのようなものが形成される。

 それだけでいいのだが、それと実体としてのアートマンが存在することは両立しえる。

 まあ無駄な両立ではあるが。

 中道を取るとでもいおうか。

 まあここら辺はあとでもいいな。

 いまやるとややこしくなりすぎる。

 まずは分かりやすいのが正義だ。

 そのうち体系化する時に別立てで理論化しとこう。

 こう考えると私の中にもこの教えを人に教えたいという気持ちがあるだろうな、おそらく。

 そう考えると人間は短絡的というかいろいろ単純化しすぎたり、意味がないと思ったものを無意識にそぎ落として前提をなくしてしまう思考の癖があるのだろうなと思ったりした。

 実体としてのアートマンがあって実体としての輪廻転生があれば結局輪廻転生して生まれ変わりのどこかで苦しむ可能性はあるのだがそういうのはどうでもよくなっていた。

 つきものが落ちたとはこういう感じなのかもしれないな。

 一体長年何に苦しんできたのかも分からなくなったりする。

 生きることは苦だ。

 この地では人は苦しむ。

 これが常識だ。

 まあそれには同意するが薬くないときもある。

 楽しいときも楽な時もある。

 とすると生即苦と考えるもの一つの考え方に過ぎないかもしれないがまあ小さな枝葉末節の問題だ。

 どうでもいいことを考えることが増えてきた。

 暇とかやることがないとか目標がないということも苦の一つなのかもしれない。

 まあ何を苦とするかによって苦も変わるのだが。

 そういう相対的な考え方が自然に浮かぶようになってきた。

 シッダールタは論理的な性格だった。

 もちろん学問や修行としての論理は収めていたがもともと合理的で論理的なところがあった。

 体系化も大好きだ。

 いろいろなアイデアを出すのも楽しいタイプだ。

 多分もうちょっと時間がかけたいと思った。

 禅譲はもう不要だろう。

 悟りは成ったのだ。

 今は自由、気楽な気分というようなかんじだろうか。

 もういつ死んでもいいのだがすぐには死ぬことはなさそうだ。

 とすると死ぬまでは時間がかかりそうだ。

 その間どうやって過ごしていけばいいだろう。

 まあなるようになるな。

 野宿もなんだから過ごせるところがあるといいな。

 あるいは修行者の仲間たちの様子を見てみようか。

 アートマンが作られるものだとするとブラフマン、宇宙の真理も同じようなものかもしれないな。

 あらゆるものは関係性で成り立つ、と一般化できるような気もするな。

 というかそういう考え方もできるな。

 実際はどうだか知らないが実際なんて我々には多分分からないのだ。

 今なら自信を持ってそういえる。

 とすると全ての修行者や学者に役に立つな。

 ヴェーダもウパニシャドも刷新できるのでは?

 とすると学問を発展させて修行者や学者のみならず世の中の全ての人にとって役に立つ可能性があるな。

 しかもそれを残す言葉出来れば後世の人にも役に立つ。

 ということはだいぶ世界にとっていいことなのでは?

 広めるのはだいぶ難しいがもし広められたらその利益は計り知れまい

 とすると私が死んで教えが途切れるのはもったいないな。

 いつか誰かが同じことに至るのかもしれないがそうだとしてもその間の時代の人々がかわいそうだろう。

 少なくとも私のような苦しみや問題を持っている人は今もこの先もいるだろうからその人たちには役に立つかもしれない。

 それどころか人間の心だけではなく宇宙の成り立ちの説明も説明できるとなれば界隈に考え方を紹介できれば世の中の成り立ちを知りたい人や仕事や産業にも役に立つかもしれないな。

 とすると一つ教えとして広めてみようか。

 そうするとまず体力と健康を回復させねばなるまいな。

 シッダールタは菩提樹を後にした。

 

 

釈迦伝

第一章

「輪廻転生はない、か」

 シッダールタは、川面を眺めながらつぶやいた。

 夜だった。月は出ていたが細く、そのぶん星が満ちていた。空の光が、ゆっくり流れる黒い水の上に、こまかく砕けて散っている。岸辺の葦が、ときおり、川を渡る風に低く鳴った。乾季の終わりの、冷えた夜気だった。

 ネーランジャラーの川は、痩せていた。雨季には岸を呑むほどに膨れるこの川も、今は中州に白い砂を晒し、流れは細く、痩せた者のように静かだった。シッダールタ自身が、その痩せた川によく似ていた。六年の苦行で、肋は数えられるほどに浮き、腹は背に貼りつき、手首は子供の足首ほどしかない。

 二十九歳で出家してから、六年あまり。苦行のさなかから、何となく考えてはいた。

 アートマンは、本当に存在するのか。

 そして、もし存在しないのなら、いったい何が輪廻するというのか、と。

 この世には、真の自我であるアートマンと、世界や宇宙の根本法則であるブラフマンがある。それが一つに合一することを目指す。それは、修行者なら誰もが疑わない常識だった。子供の頃に教わって以来、疑ったことのない大前提だった。

 しかしシッダールタは、いつの頃からか、別のことを考えるようになっていた。

 思えば、それは思春期に芽生えた考えだった。子供の時分には消えていたが、出家し、苦行を続けるなかで、だんだんと強く、無視できないものになっていった。

 子供時代、彼は家庭教師のバラモンから受けるヴェーダやウパニシャッドの講義が好きだった。真理について考えるのが、楽しくて仕方がなかった。世界はどうできているのか、自分とは何か、死とは何か。問いはいくらでも湧き、考えれば考えるほど、世界が深く、奥行きをもって見えてくる気がした。その頃の彼は、アートマンの存在を、ありありと、強く感じていた。自分の中心に、揺るがぬ一点がある。そう信じて疑わなかった。

 しかし、だんだんと複雑なことを考えるようになり、頭を使いすぎたせいか、慢性的に頭痛がするようになった。それだけではない。物事が、現実感をもって感じられなくなった。目の前の景色が、薄い膜の向こうにあるようだった。いろいろなことに、心地よさも喜びも感じられなくなった。荒涼とした、乾いた苦しさ。そして、自分が自分でないような感覚。アートマンというものが、よく分からなくなり、彼はひどく混乱した。

 あれは、何だったのか。今でも、ときどき分からなくなる。

 出家して苦行を続けるなかで、彼は人間そのものについて、考えるようになった。

 家庭教師からは、こう教わった。人間には真の自我であるアートマンが存在し、それが死後も滅びず、永遠に輪廻転生を繰り返す。同時に、人間は、肉体や、思考や、想像や、意欲や、認識といった、さまざまな要素から成り立っている、と。

 その二つを、子供の頃は、何の疑いもなく、並べて受け取っていた。

 だが、なんとなく、ぼんやりとした違和感があった。

 苦行のなかで、その違和感は、だんだん大きくなっていった。

 アートマンという、不変で単一の実体が存在することと、人間がさまざまな要素の寄せ集めから成り立っていること。この二つは、そもそも両立しないのではないか。寄せ集めの、どこに、単一の自我が宿るというのか。

 何かを、つかめる予感がした。

 しかし、苦行をしていると、落ち着いて考えられない。空腹と痛みが、思考を断ち切ってしまう。

 苦行をやめよう。やめて、考えることに専念しよう。彼はそう決めた。

 そもそも、苦行という手段そのものに、前から疑問があった。

 出家したとき、彼はまずアーラーラ・カーラーマ仙人のもとで、次いでウッダカ・ラーマプッタ仙人のもとで、瞑想の仕方を教わった。二人とも、当代の名のある師だった。瞑想に没入しているあいだは、たしかに苦しみから離れられた。心は澄み、苦は遠のいた。だが、瞑想を解けば、また苦しみについて考えてしまう。これでは意味がない。一時しのぎにすぎない。そう思って、彼は二人のもとを離れた。

 しかし、よく考えれば、苦行も同じことではないか。

 苦行をしているあいだは、ただ苦しい。やめれば、その苦しみはなくなる。では、苦行を続けて、苦しみを極限まで満たしていけば、いつか「永久に苦しくない状態」に、ひっくり返って到達できるのだろうか。

 ……どうにも、納得できなかった。

 苦行の果てに、永遠に苦しまなくなった人が、実際にいるのか。それも、はっきりしない。

 彼の周りには、彼よりもさらに激しい苦行に耐えている者が、たくさんいた。骨と皮になり、髪も髭も伸び放題で、目だけがぎらぎらと光っている者たち。だが、誰一人として、苦しみから永遠に解放されそうな気配はなかった。それどころか、怪我をし、後遺症が残り、体を壊して動けなくなり、そして死んでいく。彼は、それを何人も見てきた。

 死んだら、どこかでまた生まれ変わって、苦しむかもしれない。死ななくても、苦行を続けていれば、生きているのが余計に苦しくなるだけだ。

 ……意味がない。

 それより今、何かをつかめそうな予感がある。落ち着いて、じっくり考えてみよう。

 苦行を捨てた彼を、非難して去っていく仲間も多かった。五人の、ともに苦行に励んできた者たちは、彼が川で身を清め、村の娘の差し出す乳粥を口にするのを見て、堕落した、と顔を背けた。あれほど厳しく自分を律していた男が、ついに欲に負けた、と。

 仕方がない、とシッダールタは思った。彼らには、まだ見えていないのだ。いつか、分かる時が来るかもしれない。あるいは、来ないかもしれない。だが今は、彼らを説き伏せている場合ではなかった。

第二章

 苦行で、体は弱り切っていた。だが、川での沐浴と、近隣の村人の托鉢のおかげで、少しずつ整いつつあった。

 彼に毎日、食べ物を運んでくれるのは、近くの村の娘だった。素焼きの椀に、米を乳で煮たものを入れて、何も言わず、そっと置いていく。痩せ細った修行者を、憐れんでのことだろう。その娘の手が、まだ少女のようにふっくらとしているのを見るたびに、シッダールタは、人がまだ飢えていない時期の、あの手のことを思った。

 もうすぐ冬至だ。肌寒く、夜が長い。日が落ちるのが早く、暗いなかで考える時間が、長くなった。

 (生きている人間が、いろいろな要素から成り立っているとすると、アートマンは、いったいどこにあるのだろう)

 体が、アートマンでないことは、もちろんだろう。体は変わり、老い、傷つき、やがて腐る。これがアートマンであるはずがない。

 アートマンは、もっと精神的なものの感じがする。

 とすると、受・想・行・識——感覚、表象、意志、認識——のどれか、あるいはそれらの組み合わせだろうか。

 あるいは、それら以外の、別の精神的な要素なのか。

 あるいは、色・受・想・行・識のすべてを「家」として、その家の中に住んでいる、まったく別の何かなのか。

 いろいろな考えが、巡っていく。

 (そもそも、人間とはどうなっているのだろう。苦しみとは、何だろう)

 また、別の考えに流れる。思考は巡る。一つの問いが、別の問いを呼び、それがまた別の問いを呼ぶ。

 (人間は、なぜ苦しむのだろう。それは、生きているからか。では、生きているとは、何だろう。生きていると言っても——客観的に生きていることと、主観的に生きていると感じることは、分けて考えないといけないな。問題なのは、主観的な方だ。客観的に息をして動いていることが問題なのではない。生きていると「感じる」、その感じが問題なのだ。では、人はなぜ、生きていると感じるのだろう)

 多分、この二つを分けることが、大切なのだ。生きていることと、生きていると感じることは、同じではない。シッダールタは、そう考えた。

 生きていても、生きている感じがしないことは、多い。

 そして、それは、大変につらいことがある。

 それは、シッダールタが少年から青年に至るまでのあいだ、あるいはその後も、いまだに引きずっている問題だった。生きているはずなのに、生きている手応えがない。世界から切り離されて、ガラスの向こうにいるような。あの感覚を、彼は誰よりもよく知っていた。

 生きていて、生きているという感じがあって、しかしそれが快さをもたらさないと、人生はかなりつらい。

 生きている感覚にも、悪い生きている感覚と、よい生きている感覚がある。よい感覚が得られるのは、何かが満たされた時だ、と彼は思った。

 それは多分、欲求や欲望が満たされた時だ。

 ただ——その欲求や欲望みたいなものが、うまく湧かない。あるいは、湧いても、精神的にかみ合わない。そのつらさもまた、シッダールタが長く苦しんできたことだった。腹は減るのに、何を食べたいとも思わない。眠いのに、眠ることに喜びがない。そういう時期が、彼にはあった。

 欲望というのは、あって当たり前のものではない。

 それは、シッダールタや、ごく少数の人しか知らないことだろう、という確信が、彼にはあった。

 シッダールタのような体験をした修行者は、世の中にまだ結構いるかもしれない。心を病み、世界が変質して見える経験。それ自体は、珍しくはないのかもしれない。だが、そのなかで、シッダールタと同じように、「生を感じること」や「欲望が単純なものではないこと」に気づいている人は、さらに少なくなるはずだ。

 ということは、今シッダールタがつかみつつあることと同じことを、自覚的に、そこに真理があるという確信をもって探求している修行者は、ほとんどいないに違いない。

 多分、自分は、自分にとってだけではなく、すべての人間にとって価値のあることを、成し遂げようとしているのだ。

 その予感が、堰を切ったように、押し寄せてくるのを感じた。

第三章

 考えが奔逸し、群がり起きるような感覚があった。次から次へと、像が浮かび、つながり、また別の像を呼ぶ。頭の中が、明るく、速い。

 苦行で体は弱り切っているが、気にならない。

 こういうことは、シッダールタの人生では、しばしばあることだった。

 調子がいいのは、いい。だが、その後で、ガクンと調子を崩すことがあるので、注意がいる。特に思春期の頃のは、ひどかった。信じられないほど頭が冴えわたり、何日も眠らずに考え続けられた。だがその後で、思考や感情が、うまくかみ合わなくなった。そして、その余波が、今でも続いている。だから、考えすぎには注意だ。冴えているときほど、危ない。

 三十五歳まで、生きられた。

 苦行で体を痛めつけ、弱らせたことを考えれば、これは運がよかったと言うほかない。王子として、恵まれた体格と体力に育ったおかげかもしれない。生まれつき、骨太で、背も高かった。

 だが、今はもう、一介の沙門にすぎない。そんなに長くは生きられないだろう。

 この世界では、人間は、あっけなく死ぬ。

 それを、彼は知っていた。書物の上の知識としてではない。王子として、父の統治を手伝うなかで、嫌というほど見てきたのだ。飢饉の年に、村がいくつも痩せ細り、道端に行き倒れが転がった。隊商が山賊に襲われ、生き残った者が血まみれで城門に駆け込んできた。疫病が出れば、祭祀だけでは足りず、井戸を閉じるか、村を隔てるか、薬草をどこから運ぶかを決めねばならなかった。一つの集落が、ひと月で消えることもあった。子を産んで、そのまま母親が死ぬのは、珍しくもなんともなかった。彼自身の母も、彼を産んで七日で死んだという。

 病気にもなるし、怪我もする。三十五ともなれば、当時の感覚では、もう若者ではない。まして六年の苦行で、身体は早く老いた。歯ぐきは痩せ、目は乾き、朝起きると関節が痛む。少年時代のような健康感は、とうにない。

 ただ、今は体調も良く、頭も清明だった。

 後でどうなろうと、今は、考えなければならない時だ。今を逃せば、もう二度と、この澄んだ頭は戻ってこないかもしれない。

 夜半は深まり、水面を渡る風が肌に届いて、先ほどより冷たくなった気がしたが、どうでもよかった。

 シッダールタは、もともと物に執着のない子供だった。

 両親には、溺愛されて育った。父は王であり、それなりの財力もあった。シッダールタが何か欲しそうな顔をすれば、口に出さずとも、家臣たちが先回りして、十二分以上のものを用意した。新しい衣も、珍しい菓子も、遠い国の細工物も。望めば、何でも手に入った。だからかえって、欲しいものが、なかった。

 しかし、それよりも大きかったのは、十代で精神を病んでから、心がかみ合わず、ちぐはぐになってしまったことだ。

 快楽であるはずのことに、快楽を感じない。

 快楽を求めようという気にも、ならない。

 かつては、快楽をもたらすものがあれば、快楽を感じるのは当たり前だと思っていた。美しいものを見れば心が動き、うまいものを食べれば満たされる。それが当然だと。

 しかし、彼の中で、快楽をもたらすものと、快楽そのものが、分裂してしまった。美しいものを、美しいと頭では分かる。だが、心が動かない。うまいものを、うまいと舌では分かる。だが、満たされない。

 周りは、心を病んでいるのではないか、と言った。

 その通りで、病んでいたのかもしれない。

 しかし、自分の中では、こうも思ったのだ。

 快楽をもたらすものが、快楽を生じさせる——そのつながりの方が、もしかすると、後からくっつけられたものなのではないか。本来、両者は別々で、分裂しているのが当たり前で、それらが一つにつながって感じられているのが、実は人間の錯覚であり、妄執なのではないか。

 欲望もまた、作られたり、形を変えたりするのだ。

 欲望は、あって当たり前というものではない。

 また、欲望が満たされても、満足を感じるのが当たり前でもない。

 それらは、心の働きの、一つのありようにすぎない。そして、そうではない心の働きも、ありうるのだ。彼自身が、その「そうではない」働きの中に、長く住んでいた。

 出家して修行者の仲間になってからも、シッダールタは「変わっている」と言われていた。「王族だから、俺たちとは違うのだ」と、やっかむ沙門もいた。

 確かに、私は変わっているのかもしれない。

 しかし今は、はっきりと分かる。

 多分、誰も、私のように感じ、考えていた者は、いなかったのだ。

 今、「欲望が作られるものである」ということの意味が、初めて、はっきりと分かる気がする。

 みんな、欲望はあって当たり前だと思っている。生まれてからずっと、欲望と、それを満たすものとの関係が、自然で、当たり前で、疑いようもなかったからだ。

 私も、昔はそうだった。

 今は、違う。

 当然、他の人々の心の中も、昔の自分の心の中も、理解できる。だが今は、それとは違う見方を、得ている。両方が、見える。

 そして、それは、重要なことのように思えた。

第四章

 夜は、深まっていく。中州の白い砂が、星明かりにぼんやりと浮かんでいる。だが、シッダールタは自分の考えに没頭していて、周囲のことは、もう入ってこない。

 (欲望が形成されるものだとしたら、何によってか。何か、刺激を受けることによってだ。外部との接触、と言ってもいいだろう。ただ、自分と外部の事物が接触しても、必ずしも欲望が生じるとは限らない。大前提として、自分以外の何かからの刺激や接触を、感じ取れなければ、だめだ。そのためには、感覚がいる。耳が聞こえなければ、音が鳴っても、何の影響もない。自分は変わらないし、欲望も生じない。目が見えなくても、そうだ。他の感覚も、そうだ。感覚があるから、欲望が生じる。感覚が刺激となって、欲望が生じるのだ。では——その感覚は、何から生じるのか)

 シッダールタの思考は、止まらない。

 いつの間にか、不自然な姿勢になって、筋肉に力が入り、体が固まっている。だが、動かす気にはならない。

 (後で、体が凝るな)

 ちらっと、よぎった。だが、まあ、いつものことだ。

 (結局、欲求も、生の実感も、心が作るものだ。とすると、五感が根源的で、すべての元になるものか、というと、そうではないだろう。これは、出家して最初についた二人の師、アーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人から教わったことに、つながる。無所有処と、非想非非想処。何ものも存在せず、あらゆる執着を離れた精神状態。そして、表象があるわけでもなく、ないわけでもない状態。あの境地に入れば、五感など、たやすく超えられる。それは、いわば極限まで澄ませた自己分析のようなもので、私には、簡単だった。あまりに簡単に到達したので、師は私に、後継ぎにならないかと言ったほどだ。だが、他の修行者たちから聞くところでは、これが分かっている修行者は、あの二人の師だけでなく、名のある仙人や聖者のレベルなら、たくさんいそうだ。まあ、そうだろう。禅定や、止観や、瑜伽の行を積めば、いずれは分かることではある。だが、そこは、私の行き先ではない)

 心の探求——結局、シッダールタにとって、修行とは、そういうものだった。

 世の中には、いろんな修行者がいる。宇宙とは何か、世界とは何か、存在とは何か、実在とは何か。そういう大きな問いを追求する修行者もいるし、それで尊敬を集める偉い仙人や、大きな教団もある。

 それはそれでいいのだが、シッダールタの求めるものとは、違う。

 シッダールタが求めているのは、ただ一つ。人間が、永久に苦しまないようになれるかどうか、だ。

 短期間、苦しまなければいい、というものではない。

 永久に苦しまない状態が、あるのかどうか。

 そして、あるのなら、その状態になりたい。私が、その状態になれるのか。その状態になる方法が、あるのか。

 それが、問題だ。

 死んで終わりなら、楽なのだが。今生の苦は、終わるかもしれない。だが、常識では、生物は死んでも生まれ変わる。次の生、来世、あるいは、その次が終わっても、また次の生があり、永久に生まれ変わり続ける。そのどこかで、苦しむ可能性は、必ず残るだろう。

 だから、死んでも、意味はないのだ。

 死んでも、苦しみが終わるわけではない。

 生きていれば、結局、苦しみがある。病気になれば苦しいし、怪我をすれば苦しい。腹が減っても苦しいし、愛する者との別れも苦しいし、欲しいものが手に入らないのも苦しい。まさに、四苦八苦だ。

 苦しくないときも、ある。瞑想で、一時的に苦しみを遠ざけることも、できる。

 でも、それは短時間だし、ずっと瞑想していることはできない。それに、瞑想していても苦しいときはあるし、瞑想がうまくいかないこともある。

 苦行をすれば、当然、苦しい。

 ……というか、なぜ私は、苦行をしていたんだろう。

 なぜ、修行者は、苦行をするのか。

 何となく、苦行の果てに、苦しみを離れた境地がある、みたいな雰囲気で、始めてみた。だが、よく考えると、ふわっとしているな。

 苦しみ尽くせば、苦しまない状態になれるのか。

 まったく、根拠がない。

 よく考えると、なぜ苦行をしていたのだろう。

 結局、それしか、道がなさそうだったからだ。

 どこへ行っても、誰に教えを乞うても、永久に苦しまない方法を教えてくれる人は、いなかった。その境地に達している人も、いないようだった。だから、何となく、みんながやっている、みんなが言っている方に、流されてしまったのだろう。

 よく考えれば、何も考えていなかったな。

 行き詰まっていたのだ。

 今も行き詰まっているのだが——もうちょっとで、何か、思いつきそうな手応えがあった。

第五章

 シッダールタの精神は、冴えわたる。

 考えが、次々と湧いてくる。もやっとして、まだ形にならないものもあるが、もう少しで、届きそうな感じがした。指の先が、何か硬いものに、触れかけている。

 (まあ、昔のことを考えても、仕方があるまい。過ぎたこと、終わったことより、今つかみつつある「何か」だ。——感覚の前には、全感覚とでも言えるようなものが、ある。見ても、聞いても、触っても、何も感じないことが、ある。気づかないことが、ある。今の私が、まさにそうだ。風が冷たいはずなのに、感じていない。だが、まったく無いのではない。感覚になる手前で、何かが、ある。それは、感覚以前の、もっと抽象的で、観念的なものだ。たとえば、名や、言葉や、絵や、音楽。あるいは、それらを受け取っているときに感じる、何か、感覚を超えたような……いや、超えた、という言葉はおかしいか。仮に、前感覚、とでも——感覚の前にあるもの、とでも、言っておこう。それは、感覚のように個別具体的ではないかもしれないが、象徴的な形で、示されることもある。思考や、表象のなかに、現れるもの。表象、抽象、とでも言っておけばいいか。しかし、表象や抽象というと、広すぎる気もする。そういう形でしか、表現しにくいものだな。——六感、というが、感覚は、そんなに厳密には分けられない場合も、多い。悲しい音楽を聴けば、青く、ブルーな感じがする。明るい音楽を聴けば、明るい、赤や黄やピンクのような、温かい色を思い浮かべる。音が、色になる。色が、気分になる。それらが、分かれる前の、混ざったところ。仮に、名色、とでも呼んでおくか。……誰かが、そんなことを言っていたような気もするが、今はいい。なかなか、ぴったりした呼び方だ)

 (生や、欲望や、感覚の前にある、その名色そのものも、当たり前のものではない。生や欲望や感覚が、作られたものであるなら、名色も、作られたものだ。名色は、何かを感じている時ではなく、こうして思考したり、想像したりしている時にこそ、感じることができるな。名色は、頭の中に、いつもあるのかもしれない。だが、我々は、それを認識している場合もあれば、認識していない場合もある。認識している名色と、認識していない名色が、混在している場合もある。注意を変えれば、認識される名色も、変わる。——とすると、認識か。問題は、認識だ。我々が、どの名色を認識するかは、何によって決められているのだろう。注意の焦点を、どこに当てるか。それと関係がある。だが、では、その我々の注意を、操作しているのは、何だろう)

 (結局、意識するものと、意識されないものがある——という言い方は、違うな。「意識したり、意識しなかったりするような、心の仕組み」が、あるのだ。それを動かしているのは、意志か。主体か。自主性か。自覚か。——我々は、自分の心を、自由に操れるように思っている。だが、そうではない。我々は、何かによって、何かに、注意させられているのだ。同じように、何かを、注意しないように、させられている、とも言える。何となく、自分で自由に、自分の注意を向けているように思っているが、本当は、何かよく分からないものに、注意を向けさせられている、とも言える。もちろん、自分の自由意志で、注意を向けている場合も、あるかもしれない。しかし、そうでないことがある、ということ自体が、重要だ。むしろ、そちらの方が本当で、我々が「自分で自由に、好きなものに注意を向けている」と感じること自体が、錯覚——というか、そう思い込んでいるだけのこと、なのかもしれない)

 「行(ぎょう)、か」

 何となく頭に浮かんだ言葉を、口にしてみる。

 声は、痩せた喉から、かすれて出た。川の音が、それを呑んだ。

第六章

 ——行。

 どこかで聞いたことのある言葉かもしれないが、思い出せない。

 そもそも子供の時、いや、思春期の頃、教育係の先生にヴェーダやウパニシャッドを教わってから、ずっと考え続けてきたのだ。出家してからも、いろいろな先生に教えを乞うて回った。「我以外、皆、師」。それが、シッダールタのモットーだった。誰からでも、何からでも、学べるものは学ぶ。

 別に、答えを見つけるのだけが目的ではなく、考えること、学ぶことそのものが、好きだった。考えていれば、それなりに楽しかった。まあ、楽しくないこともあったが、少なくとも、自分の好きなことを考えているときには、楽しかったと言ってよかっただろう。

 何せ、ヴェーダやウパニシャッドは、難しい。一筋縄ではいかない。だからこそ、面白い。

 世の中に、修行者はたくさんいる。大昔のように、伝統的なバラモンの教えだけが幅をきかせる時代ではない。今は、バラモン以外の、いろいろなヴァルナの者が、自由に真理を探究する時代だ。商人の出も、職人の出も、立派な思想家になる。それで偉くなる者もいる。それを目当てに、修行者になる者もいる。生まれは変わらなくても、それなりの修行者になれば、バラモン以上に尊敬を集められる。弟子や教団を、持つこともできる。

 時代が、動いている。シッダールタは、それを肌で知っていた。父の都にも、年々、商人たちが増えていた。貨幣が、人の手から手へ、速く回るようになった。新しい富が生まれ、新しい身分の者が力を持ち、古い秩序が、少しずつ緩んでいた。ガンジス流域には、いくつもの都市が栄え、マガダやコーサラといった大国が、周りの小国を呑み込んで、膨れ上がっていた。世は、変わり目だった。

 シッダールタも、そういう勧誘を受けたことがある。というか、よく誘われた。出家して最初の師のところで、早速、後継ぎにならないか、と誘われたほどだ。だが、そこでは、シッダールタの求めているものは、得られそうになかった。だから、そんな話は、論外だった。

 いい先生だった。だが、国も家族も捨てて出家したのに、どこかの仙人や教団の後継ぎに、おさまっても仕方がない。

 そう考えると、ちょっと、おかしくなった。

 国王の地位を捨てて、仙人になる、か。

 釈迦国も、たいした国ではなかった。コーサラの属国も同然の、小さな国だ。だが、それでも一国は一国だ。その跡取りが、中小の教団の指導者に鞍替えするというのは、何だか、滑稽だ。そんなことになっていたら、父上も、義母上も、家臣たちも、みんな腰を抜かしただろうな、と、心の中で諧謔めいたことを想像すると、少し、面白かった。

 久しぶりに、口の端が、わずかに動いた。笑った、というほどでもない。だが、こわばっていた頬が、ほんの少し、緩んだ。

 それは、それとして——。

 結局、我々には、何一つとして、確かなものはない。

 「生も、欲望も、感覚も、認識も、行も——心が作っているものだ」

 そう、つぶやいた瞬間、何か、一本の線が通じる感じがあった。

 芯が通ったような。一気通貫の、感覚。

 ばらばらだった考えが、一つの流れに、束ねられていく。

 多分、我々は、いろいろな要素からなる「行」によって、何かを認識するように、させられる。

 認識「する」のではない。認識「させられる」のだ。

 そして、認識する対象は、名色、六感として、具体化される。

 感覚「する」のではない。感覚「できる」「できるようになる」、そして感覚「させられる」というのが、大切だ。

 感覚が、実体として存在するかどうかは、この際、どうでもいい。我々が何かを感覚しているとき、それは、それを支える心の仕組みが、発動しているからであって、我々は、自分で自分の心を、自由に働かせているのではない。むしろ、自分の心——心、でいいのかな。一旦、そう呼んでおこう——その心に、働かされているにすぎない。

 思考の本流は、止まらない。流れる流路を、得たのだ。痩せた川とは逆に、彼の中の流れは、今、満ちて、勢いを増していた。

 感覚というシステムに、何か刺激を与えれば、それに反応することがある。そして、欲望が生まれる。

 欲望は、何か——それが感覚なのか、名色なのか、認識なのか、あるいはそれら全部なのか、今は細かいことはどうでもいい——とにかく、何かを満たすことを、求める。

 我々は、欲望を満たそうと考え、行動する。実際に満たされて満足することもあれば、満たせずに満足しない場合もある。その中間も、あるだろう。いろいろだ。

 しかし、注目すべきは、欲望が満たされ、充実感や充足感を得られた場合だ。

 欲望が満たされても、さらに充足しても、喜びも快楽も得られない場合が、ある。

 それは、シッダールタが長年苦しんできた、思春期以来の、心の後遺症ともいうべきものだった。

 シッダールタには、欲望が満たされても、快楽を感じられないときがある。彼にとって、欲望が満たされることと、快楽を得られることは、分裂したことだった。

 さらには、適切な欲望が、そもそも生じないときもある。

 そのため、シッダールタの行動や言動には、奇異なところがある。そしてそれは、自分でも、そう思うし、自覚している。周りの人に、変に思われているのだろうな、と。

 「心の病」「王子が、心を病んだ」ということで、問題になったこともあった。

 なんでも、医者によると、そういうことは、思春期にはあることのようだ。心がこじれて、なかなか元に戻らない。一生、元に戻らないときもあるし、気が狂ってしまうときもあるのだそうだ。

 シッダールタは、王位継承者だった。実母は、シッダールタの出生時に死んでいた。だが、王である父にも、乳母にも、親戚や家来にも、バラモンの先生にも、それなりに愛されて、恵まれて育ったと、自分でも思う。小さな国だったし、みんな、家族か親戚のようなところがあった。自分でも、また周りからも、「釈迦族」と呼ばれていた。

 コーサラ国や、マガダ国のような大国だったら、また違っただろうと思う。

 特に父は、コーサラ国との関係に、いつも心を痛めていた。釈迦国は、コーサラの庇護のもとにある、弱い立場だった。父は、コーサラの王に礼を尽くし、機嫌を損ねぬよう、細心の注意を払っていた。あるとき、コーサラの王が、釈迦族から妃を出せと求めてきたことがあった。誇り高い釈迦族の長老たちは、内々で、卑しい身分の娘を、王女と偽って差し出した。シッダールタは、その評定の場に、末席で連なっていた。あれは、まずいことになるのではないか。あのとき、彼は若いながらに、そう感じた。偽りは、いつか露見する。露見したとき、コーサラは、どう出るか。——その不安を、彼は今も、どこか覚えている。だが、それも、もう、自分の手を離れたことだ。

 父は、シッダールタを後継者として、厳しく教育した。帝王学、統治学、武術、祭祀の作法。同時に、政務の現場にも、若いうちから連れ出した。徴税の帳簿を読まされ、罪人の裁きに立ち会わされ、隣国の使者との交渉の席に、控えさせられた。基本的には、甘い父親だったと思う。だが、こと国のこととなると、別人のように厳しかった。

 結局、父は、出家を許してくれた。なぜ許したのかは、よく分からない。後継ぎ——息子のラーフラ——が生まれて、家系が絶える心配がなくなったからか。あるいは、シッダールタでは、どのみち王は務まらないと、見切ったせいか。

 ラーフラ。「障害」という意味の名を、わが子につけてしまった。子が生まれたと聞いたとき、思わず、そう口走ったのだ。これで、出家を妨げる絆が、一つ増えた、と。ひどい父親だ。あの名は、一生、あの子について回る。

 まあ、出家できたのだから、シッダールタには、もう、どうでもいいことだった。

 それでも、やはり、気になることは、ある。

第七章

 欲望が満たされると、普通の人は、満足して喜ぶし、快楽を感じるし、生きている実感を得る。

 シッダールタには、それが当然ではないところもあったが、それでも、嬉しいときはあるし、生の実感を得ることもある。

 シッダールタは、「心の病」と言われ、心の病とは、こういうものなのか、と思ったものだが、自分が、根本のところで、普通の人間と違うとは、思わなかった。

 それは、誰の心も、そういう構造をしているのだ。だれでも、自分のような状態に、なりうる。シッダールタは、ただ、それに気づいただけで、他の人は、気づいていないだけだ。

 でも、そのせいで、思考がスムーズにいかないこともあり、奇異なだけでなく、人に、どんくさく思われたことも、多かっただろうとは思う。

 しかし、その体験が、今、生きていると思った。

 思春期以来、苦しんできたこと。変わってしまったこと。人と違ってしまったこと。そして、そこから得たこと。それらは、すべて、今、この瞬間のためにあったのだ、と思った。

 生の実感は、喜びだ。そして、生の実感が脅かされるときには、苦しみを感じる。

 それはいいとして——皆には、その仕組みへの「実感」が、ない。

 私にも、実感がなかった。というよりは、何か、愚鈍で、鈍重で、暗愚のなかにいて、それがそこにあるのは知っていたのに、意識ができていなかっただけ、という感じが、近いかもしれない。

 「行は、つくられるのだ」

 シッダールタの思考は、行に向けられる。

 行とは、人間の心の、内面の、よく分からないもの全体のような、ものだ。

 人間には、確固たる自分、自分の中心としてのアートマン——自我とか、自己とか——があると言われている。だが、そんなものは、ないのではないか。

 いろんなものの、いろんな精神要素、心の要素の、その総体と関係性こそが、行だろう。

 その、いろんなものが何かは、分からない。分からないが、見方によっては、分かる部分もある。

 仮に、人間を、色・受・想・行・識——物質的な体の部分、感じる感覚の部分、想像したり思考したりする部分、意欲の形成の部分、認識の部分、その他——から成り立つとしよう。

 そのどれか一つだけが、「自分」というわけではない。

 それらのすべてと、それらの働きと、それらの関係の、その総体が、自分をなす。

 「自分が存在する感じがするから、自分は存在する」

 そんなふうに、単純には、シッダールタは考えられなかった。

 シッダールタ以外の人には、それは、単純で、自明なことかもしれない。そんなことを、単純ではなく、複雑に考えるシッダールタの方が、おかしいと言うかもしれない。

 しかし、シッダールタには、確信があった。

 確信が生じた、と言ってもいいかもしれないが、この際、どっちでもいい。

 シッダールタは、どちらの考え方も、理解できる。「自分は当たり前に存在する」という見方も、「自分などというものはない」という見方も、両方、分かる。

 一通りの考え方しかできないより、二通りの考え方ができた方が、いいに決まっている。なんなら、三通り、四通り、もっと多くの考え方ができれば、できるほど、いいに決まっている。

 実用、実務に際して、選択するときに、絞ればいいだけだ。

 これは、政務を手伝っていた頃に、骨身にしみて学んだことだった。一つの策しか持たぬ者は、その策が破れたとき、何もできない。優れた家臣ほど、いくつもの策を並べ、状況を見て、選んだ。父も、そうだった。一見、決められない、優柔不断に見えて、その実、いくつもの可能性を、同時に握っていた。

 思考、判断、決断、実行。それによって、我々は生活している。だが、思考の範囲や、考え方や、知識は、多い方がいいに決まっている。

 思考が一つしかないなら、判断する必要はなく、ただ決断して、実行するだけだ。それは、もはや思考ではない。

 考えるときには、できるだけ、いろいろ考えた方がいい。

 全部を考え尽くすことは、できないだろうが、可能な限り、たくさんがいい。

 それらは、すべて、可能性がある。

 可能性そのものは、どんなときでも、どんなところでも、あるのだ。

第八章

 思考のドライブは、止まらない。

 もう、シッダールタには、確信があった。

 多分、自分は、答えに到達しつつある。間違っても、いない。あとは、それを形にして表現すること、細部を論理的に検証していくことだけだ。

 「アートマンは、存在しない」

 口に出して、言ってみた。

 言葉にすると、それは、思っていたよりも、ずっと静かに響いた。世界がひっくり返るような言葉のはずなのに、川は、変わらず流れていた。

 アートマンが存在する可能性と、アートマンが存在しない可能性は、同じだけ、ある。他の可能性もあるが、ややこしいので、置いておこう。とすると、ブラフマンが存在しない可能性も、あるのかな。まあ、これも今は関係ないので、置いておこう。

 結局、アートマンが存在するということには、何の根拠も、ないのだ。

 思春期前期のシッダールタには、アートマンがあることは、歴然として、確かなことだった。自我は、ありありと、強烈な実在感をもって、存在していた。

 今になって思えば、あれは、自我が肥大しすぎて、心の病になってしまった、と言ってもいいかもしれない。考えすぎ、内省しすぎて、こんがらがって、こじれてしまったのだ。そして、それ以降は、以前の、無邪気な状態には、戻れなくなった。

 しかし——実在感や実体感を感じることと、実際に実在するか、実体として存在するかは、別のことだ。

 実在感を持っていても、存在しない場合もある。実体感があっても、実体がない場合もある。

 逆に、実在感や実体感がなくても、実在していたり、実体があったりする場合も、あるだろう。

 結局、分からないのだ。

 何とでも言える、と言ってもいい。

 しかし、それが分からない人も、多い。

 シッダールタ自身も、確信を持って、こう表現できたのは、たった今が、最初だろう。

 分からないのは、いい。問題は、分かっていないことを、知らない。その自覚も、ない。結局、これに尽きるな、とシッダールタは思った。

 これを、何と呼べばいいか。

 無明——明るくないこと、暗愚——と呼ぼう。

 結局、実体があるかどうかも分からない自我や自己、言い換えれば、アートマンや自分を、「実体として存在する」と決めつけて、疑いを持たなかった。そういうことが、構造的にあって、皆、それに縛られていた、と言っていいだろう。

 アートマンがなければ、少なくとも、問題の形が変わる。

 アートマンがなければ、輪廻転生は、いままで言われてきた形では、成り立たない。

 輪廻転生する主体、生まれ変わっていく当のエージェントが、ないからだ。

 そして、私の中では、アートマンがなくてもすべては成り立つことが、もはや、自明だ。

 もちろん、アートマンが存在する可能性も、あるのだが、それは一旦、置いておこう。

 一番の問題は、みんなが、先入観に縛られていた、ということにある。

 存在するかどうか分からないものを、存在するとして、それに疑いを持たなかった。

 「存在する感じがある」ということは、「存在する」ことを、意味しない。

 「存在する可能性がある」ということも、「存在する」ことを、意味しない。

 結局、我々には、何も分からないのだ。

 分からないことを、分からないでいた。分かったつもりで、いた。

 これは、この世界全体について、言えることなのかもしれない。ヴェーダや、ウパニシャッドも、そうだ。そもそも、人間の性質のようなものなのかもしれない。そして、そういう人間が社会を作ると、社会も、そういうことになるのかもしれない。

 無明——我々は、目の見えない人を、何かを分かりえない人、と考えがちだ。

 しかし、目が見えようが、見えまいが、関係ない。

 目が見えても、分からないのだ。

 人間には、けっして分からないものが、あるのだろう。

 しかし——「分からないこと」を、「分かる」ことは、できる。

 この違いが、重要なのだ、と考えられる。

 これを自覚すれば、もはや、輪廻転生にこだわる心が、なくなる。とけていく。

 死んでも生まれ変わる、と思わなくなる。死んでも生まれ変わらないかもしれない、と思えれば、問題そのものが、消え去る。

 問題が解決するのではない。問題は、問題とすれば問題だが、問題としなければ、問題ではない。そういう感じか。

 何か、ややこしいが——問題なのは、問題を作り出してしまう、人間の心、なのだろう。

 そして、人間には、問題に限らず、何かを作り出して、それを正しいと思ってしまう、心の仕組みが、あるのだ。

第九章

 シッダールタは、その考えを、何日も反芻した。

 菩提樹の木の下で、ずっと過ごした。葉のあいだから落ちる光が、地面に、こまかい斑をつくり、それが日に従ってゆっくり動いていくのを、ただ眺めていた。食べ物は、近所の少女が、毎日、持ってきてくれた。

 悟ってみれば、何ということは、なかった。

 人間でなくなったわけでも、特別な人間になったわけでも、なかった。

 ただ、気づいた。考えついたのだ。

 何のための、苦行だったのかな、とも思ったが、もう、終わったことだ。

 よく、生き残れたものだ。あれで、だいぶ寿命が縮んだだろう。三十五という年齢を考えると、この弱った体では、そう長くは生きられまい。長くて、あと数年、というところではないか。

 シッダールタは、王子だったから、周りの人は、比較的、長生きだった。だが、出家して、世俗の人々や修行者と接してみると、世の中では、みな、健康状態も悪く、治安も悪く、すぐに病気になったり、殺されたりして、人は、簡単に死んでいった。

 四十日、ガンジス流域を歩けば、いやでも分かる。道は、楽な道など一つもない。乾季には灼け、雨季には泥に沈む。水は濁り、腹を下す。蚊と蠅と、得体の知れぬ熱病。盗賊。野犬。痩せた子供たちの、大きな目。健やかに生きるには、まったく、向いていない土地だ。

 シッダールタは、体格がよく、もともと体力があったが、彼のように恵まれた体格を持つ者は、稀だった。一部のバラモンや、クシャトリヤや、代々の富裕な商人は、恵まれた生活をしていた。だが、それでも、釈迦国にいた時よりは、不健康で、不潔な感じがした。

 釈迦国は、田舎だった。栄えた都市のように豊かでは、なかった。だが、比較的、清潔で、のんびりしていて、環境が良かったのだな、と思うときがある。山沿いで、丘陵地帯が多く、遠くにヒマラヤの白い峰を望む。山の神々に、守られていたのかもしれない。あの、澄んだ水と、乾いた風を、今、ふと思い出す。

 今、彼がいるのは、聖なる河、母なる河、霊の住まう河に注ぐ、その支流の岸辺だ。やがてはガンジスに合し、東へ、大きな国々のあいだを縫って流れていく水。その川面を、見ている。

 その場で寝て、その場で起きる。起きては、座禅を組み、悟ったことを、考える。

 人生で、なすべきことは、なした。

 このまま、死んでもいいかもしれない。

 生まれ変わることは、ないだろう。今生の苦しみから解放されれば、二度と、苦しむことはない。輪廻転生が存在する可能性も、ゼロではないが、もはや、そのことを考える気持ちも、ない。

 納得のなかで、彼は、生まれて初めてかもしれない、静かな喜びのなかにいた。あの、世界から切り離されたような、ガラスの向こうの感覚は、消えていた。世界が、ただ、そこにあった。

 多分、自分の考えに到達した者は、他にはいまい、と思った。

 唯一無二の人間になれたことは、嬉しかった。

 世の中は広いし、どこか遠くの地か、あるいは、はるか昔に、自分と同じ悟りに達した者は、いるかもしれない。だが、少なくとも、このあたりには、いまい、と考えた。

 悟って、考えて、検証して。そういうことを、数日、行っていると、いろいろな、それ以外の考えも、湧いてくる。ただ、浮かんでくるさまざまな考えと、悟りの内容に、行きつ戻りつしながら、法悦とも言える気持ちのなかに、いた。

 このまま、死んでしまっても、構うまい。

 ただ——この悟ったことは、失われてしまう。

 この悟りの内容は、はっきり言って、難しい。

 シッダールタ自身も、まだ、はっきり言語化できない部分が、ある。どこかの修行者や、ウパニシャッド哲学の専門家に聞けば、もっとうまく言語化できるかもしれない。だが、言語化できても、内容が、ぶっ飛んでいるな、と思ったりもする。

 多分、教えの骨子は、かなりすっきり、表現できる可能性がある。しかし、すっきりした表現にしても、その中身は、どんなバラモンだろうと、沙門だろうと、一般人だろうと、理解できない可能性が、高いと思えた。

 修行者同士は、身分を越えた仲間だ。新たに発見した考えを、教え合い、共有する者もあれば、それを秘匿する者もある。隠者のように一人で生活する者もあれば、教えを広めるための教団が、できる場合もある。

 自分の悟りを、広めることを、考えてみた。

 (……ちょっと、難しいな)

 というのが、まあ、忌憚のないところ、と思えた。

 これから、どうしよう、と考えた。

 別に、もう生きていなくてもいいが、積極的に死ぬ意味も、ない。故意に、わざわざ自死するのは、変だ。悟ったときは、興奮して、もう死んでもいい、死のう、と思ったこともあったが。やっぱり、このまま自然に死んでしまうのが、きれいに人生を終えられて、いいのかな、とも考えた。

 別に、王子時代のある時期のように、だらだら生きていても、仕方がない。

 シッダールタは、心を病んだので、周囲が、治療のため、彼を慰めるため、喜ばせるために、至れり尽くせりの生活をさせていたことがある。美しい侍女、珍しい音楽、季節ごとの宮殿。だが、特に楽しくもなく、だらだらして、無駄な日々であった。何を与えられても、心が、動かなかった。

 生きるということは、ただ生命があって、息をして、動いていれば、生きている、というわけでもないだろう。

 シッダールタが悟ったように、生きている感じを味わうことが、生きていることだ。

 そして、生きている意味は、もう、達成してしまった。

 やっぱり、このまま過ごして、死ぬ日を待つべきだろうか。

 もはや、永遠に苦しむ可能性があるという懸念は、消えた。とはいえ、生きることは、やはり、つらいことだ。

 十二月の空気は、とても寒い。苦行で体が弱っているし、食べ物も十分ではなく、あらためて気づいてみれば、寒く、ひもじい状況だ。

 苦行で死ぬ者は、たくさん見てきた。餓死も、衰弱死も、よく分からない死も、何でもある。死は、特別なことではない。

 やはり、このまま、死んでしまうのが、いいか。

第十章

 しかし、だ。

 シッダールタは、出家して世俗から離れ、自分のために生きられるようになったが、育ちがよかったせいか、利己的な性格でも、なかった。

 まあ、はた目には、王位継承の責任を放り出して、家どころか、王族なのに国を捨てて出家して、無責任に見えなくも、ない。だが、病んでいた面もあり、仕方がなかったとも言える。それでも、ちゃんと結婚して、後継ぎは残してきたのだ。ひどい名前を、つけてしまったが。

 内向的で、神経質なところがあった青年だった。だが、ようやく長年の問題が解決してみると、自分で言うのもおかしいが、基本の品性は悪くなく、育ちもよいのだろう、とは思う。三十五という、初老の年齢にも達した。長年の問題が解決して、気持ちも軽くなった。世俗も体験し、社会も知った。自己同一性が、固まったとも言える。自分のことに精一杯だったのが、ようやく解消された。

 そして——もともと、王位継承のための教育を、受けてきた。帝王学、統治学、人倫、道徳、宗教。一通り、十分な教養が、あった。それだけではない。父の下で、二十九まで、実際の政務を手伝ってきた。徴税のこと。水利のこと。裁きのこと。隣国との駆け引きのこと。兵の配置のこと。祭祀の段取りのこと。飢えた民をどう食わせるか、病人をどこに隔てるか、孤児や寡婦を誰に預けるか、というような、生々しいことも。だから、潜在的に、責任感や義務感も、強い資質を持っていた。机上の学問だけでなく、人を動かし、組織を回し、誰かを救うために別の誰かに我慢してもらうということが、どれほど面倒で、どれほど大切で、どれほど汚れる仕事か。それを、体で知っていた。

 さて——悟った内容を、人に伝えないで、いいのだろうか。

 自分一人で生きてきたわけでもなく、いろいろな人に、世話になってきた。出家後に出会った、多くの仲間もいる。今も、近所の少女が、毎日、食事を布施してくれる。自分が悟ったからといって、何も返さずに死んでしまうのは、利己的では、ないか。

 長く生きて、世俗で生活していると、ろくでなしも、たくさん見てきた。だが、立派な、尊敬できる人たちも、多かった。なにか、世の中に報いなければ、いけないのでは、ないか。

 人間は、一人で生きているわけでは、ない。

 すべては、関係なのだ、と、悟ったばかりでもある。

 輪廻転生はなくても、世の中のすべてのものは、つながっている。空間的にも、そして、時間的にも。

 世の中をよくすることができるなら、そのために、何かした方がいいのでは、ないか。

 自分の悟りの内容は、世の中を直接よくすることとは、関係ないかもしれない。だが、それでも、新しい考え方だから、何かの役に立つだろう。それに、自分のような悩みを抱えている人は、他にもいるだろう。心の病を抱えてしまった人にも、何か、役に立つかもしれない。

 国元と、釈迦族には、悪いことをしたと思っている。後継ぎの責務も、半端に投げ出した。直接的にではなくても、間接的にでも、何か、お返しが、できるのではなかろうか。

 まあ、都合のいい考えだ。だが、人間の普通の考えとは、都合のよいものである、というのは、悟った内容の通りでもある。そして、そういう、普通の人の、普通の考え方も、必要だろう。それを、頭から否定するのは、違う。

 自分の悟りは、難解すぎるし、特殊すぎる。

 また、自分の悟りの考え方だけをする、というのは、不可能だし、すべきでもない。それでは、人は生きていけない。

 人間の、子供の自然な心の発達からすれば、これは不自然な考え方だ。小さな子供に、教えるべき内容では、ない。子供のあいだは、普通に育ってもらって、ある程度、人間ができて、身が固まってから、学ぶ方がいいだろう。思春期くらいの、まだ心が定まっていないときに教えると、心によくない負担をかけることも、考えられる。

 ——自分が、そうだったように。

 などと考えていると、自然に、自分の悟りを、人々に伝えるように、思考していることに、気づく。

 多分、人間には、利他心とか、良心みたいなものが、あるのだろうな、とシッダールタは、自分自身をも、冷静に分析してみたりした。利他心すらも、おそらくは、作られたものだ。だが、作られたものであっても、それは、確かに、ここにある。

 そして、自分は、自分の教えを世の中に広めることが、世の中のためになると、考えている。

第十一章

 しかし、迷いも、ある。

 シッダールタは、自嘲した。

 悟っても、迷う。さっきは、死のうと思って、今は、生きることを考えている。しかも、悟りを教えとして、世の中に広める、という大きなことを、考えている。

 教えを広めるというのは、大変なことだ。

 シッダールタは、王として、国を運営する教育を、受けている。そして、出家するまでの二十九まで、父の下で、政治を手伝っていた。組織を運営することの、しんどさは、分かっていた。書類の山。人と人との、面倒ないさかい。誰を、どこに、どう配するか。金の出入り。それを、ゼロから立ち上げるのだ。

 多分、とてつもなく、面倒くさい。

 修行中、いろいろな教団に、教えを請いに行った。いろんな教団を見たが、多分、教団の運営は、楽ではない。指導者は、教えを説くだけでなく、弟子たちの食い扶持や、寝る場所や、内輪のもめごとまで、面倒を見ねばならない。教団を作っていない、一人きりの仙人もいた。あれの方が、楽だろう。楽だが、教えは、広まりにくいはずだ。その者が死ねば、教えも、消える。

 苦行で別れた、あの五人の仲間が、協力してくれるかな。——いや、というか、そもそも、理解してもらえるのか。彼らは、私が苦行を捨てたことを、堕落と見て、去っていった。あの者たちに、まず、分かってもらわねばなるまい。だが、それすら、容易ではない。

 ……かなり、しんどい。

 私のような悟り方は、特殊だろう。私は、王子だったから、めちゃめちゃ教育を受けた。自分で言うのも口幅ったいが、私は、ヴェーダやウパニシャッドでは、優秀な生徒だったのではないか、と自負している。それに、思春期以来の特殊な体験で、人と物の見方が、若干、違うようになった。だから、他の人が「同じもの」と考えていることを、「違うもの」として考えられる。他の人が、自然に統合してしまっていることを、分離し、解体できる。

 しかし、これは、普通は、不自然なことだ。むしろ、できる方が、病的だ。リスクも、ある。私のように、「心の病」になってしまう。本当に病気かどうかは分からないが、私のように、思考の障害が生じてしまう危険性も、ある。

 だから、安易には、教えられない。

 何かを得れば、何かを失う場合がある。うまくすれば、何も失わずに、何かを得られる場合も、あるかもしれないが……。

 私も、悟らなかったら、みじめな人生だったかもしれない。今や、私は、悟ったから、自分では満足だが、人は、私を、みじめな人間だと思っているかもしれない。このまま死んでしまったら、なおのこと、そうだろうな……。

 まあ、別に、それでいいのだが。

 私の悟りの内容を、少なくとも、もっと分かりやすく、整理しないといけない。

 それに、私の悟り方でなくても、同じことを悟ることは、多分、可能だ。と言っても、結局、結論に至るのは、簡単ではないと思われる。多分、どんな道を通ろうと、簡単ではない。時間も、かかる。

 私だって、もっと整理しないといけないな。きちんと悟ったことを、しっかりまとめないと、自分でも、せっかくつかんだ、この感じを、忘れてしまうかもしれない。

 それにしても——私の悟ったことを表すのに、そもそも、うまい言葉が、ない。

 多分、どこにも、ないのではないか。

 既存のヴェーダやウパニシャッドの言葉。あるいは、いろんな教団や、修行沙門たちが、新しい概念や言葉を、日々、磨いている。そういったものの中に、私の悟りを伝えるのに、役に立つものは、あるかもしれない。しかし、そのまま借用したら、誤解の元にもなる。彼らの言葉には、彼らの前提が、貼りついている。

 そもそも、自分で言葉を作ってしまうのが、いいのだが、それだと、教えを作るのにも、教えるのにも、とんでもない時間と労力が、かかる。

 私は、大丈夫だ。むしろ、得意だ。だが、教えを受ける方は、かなり……いや、とてつもなく、難しい。

 というか、事実上、無理では……。

 何人かを悟らせるのに成功しても、後が続かず、結局、途絶えてしまう可能性が、高い。とすると、教えを広めるというのは、事実上、無理となる……か。

 釈迦は、ため息をついた。

 川面に、最初の、白い光が、にじみ始めていた。夜が、明けようとしていた。

第十二章

 私の考え方は、逆転の発想とも言えるだろう。

 実体や、存在の実在は、ない。それは、人間の心が作るものだ。知らないあいだに、作ってしまっているものだ。

 これを——「心が作るのではなく、もともと心の外に、実在しているもの」と、考えてしまっているのを、どうやって、「作られたもの」だと、捉え直させるのか。

 これは、もちろん、存在論だが、認識論でもある。

 しかし、この逆転の発想は、精神の諸要素を、ばらばらに解体してみせるよりは、危険では、ない。あれは、下手をすると、聞いた者の心を、壊しかねない。私が、そうなりかけたように。それに比べれば、こちらは、まだ、危険は少ない。

 危険は少ないが、やはり、難しい。

 何にせよ、難しいことが、多いな。

 教えとして、うまく表現することに成功しても、なお、難しいだろう。

 分かりやすく表現することが、たとえできても、理解にも、納得にも、高い山を、越えないといけない。

 ヒマラヤの山々を、越えることができるのか。

 ガンジスの流れを、泳いで渡れるのか。

 とすると、私は、珍しい、というか、希少なケースだな。運がよかった。多分、運もよくないと、悟れない。

 頭がいいだけでは、だめだ。頭の回転が速い人も、記憶力がいい人も、たくさんいる。私など、及びもつかない人々を、私は、たくさん知っている。父の宮廷にも、修行者のなかにも、舌を巻くような切れ者が、いた。

 しかし、そういう人が、悟れるのか、といえば、どんなに教えをうまくシステム化できても、難しい場合があるだろう。

 むしろ、頭の回転がよかったり、記憶力がよかったりすることが、悟るのに、邪魔になる場合があるのでは、ないか。

 頭のいい人は、すでにある考え方を、早くたどれるだけの人も、多い。記憶力がいい人も、すでにあるスキームに当てはめたり、すでにある知識とつなぐ、連想のような覚え方をしている人も、多い。

 そうでない人たちも、いるが……。

 私の教えは、場合によっては、そういうものを、壊してしまわないといけない。壊さなくてもいいかもしれないが、先入観となって、悟るのに、邪魔になるかもしれない。

 「気づき」で、うまく悟れる場合も、あるかもしれない。だが、ゼロから、考え方を作り上げるようなものが、必要になるかもしれない。そういう能力は、思考が速いとか、記憶力があるとかとは、違うものかもしれない……。

 思えば、修行僧たちは、プライドが高い傾向があるな……。私も、そうかもしれないが……。これは、有利なところもあるかもしれないが、プライドが、邪魔になる場合も、あるかもしれないな……。自分の考え方を、捨てたり、壊したり、それを持ちつつも、新しい考えの枠組みを、一から構築するのは、年を取ってからでは、しんどいに違いあるまい……。

 しかし、教えを広めようとすると、既存の修行者層や、大物たちの協力が、必要だな……。これも、難しい。

 彼らは、教えを学ぼうとしないどころか、邪魔しようと、さえするかもしれない。新参者が、自分たちの築いてきたものを、覆そうとするのだから。そもそも、学びたいと思えるほど、魅力的に思ってもらわないと、いけないのだが、それが、可能なのか。

 訳の分からないやつが、訳の分からないことを言っている——で、終わってしまいそうな……。

 それに、金が、いるな。

 あるいは、パトロン。後ろ盾。

 組織的に教えを広めようとすると、先立つものが、必要だ。弟子を食わせ、雨季に雨をしのぐ場所を確保し、遠くまで教えを運ぶ。それには、富める者の、王侯や、大商人の、寄進がいる。今、商人たちは、力をつけている。生まれではなく、各人の行いを問う私の教えは、もしかすると、彼らの心に、届くかもしれない。だが、そこまで考えるのは——。

 いかん、考えすぎだ。思考に、負荷をかけすぎだ。熱くなってしまっては、いかん……。

 以前の私なら、ここで、また、こじれていた。冷えていく頭を、彼は、自分で感じた。今日は、止めどきを、知っている。

第十三章

 ひと眠りすると、頭が、すっきりした。

 別に、急ぐことは、ない。もう、目的は、達したのだ。後の生きている期間は、余生のようなものだ。気楽に、していこう。

 しかし、意外と、体調がいいな。苦行を離れて、体が回復してきたのかもしれない。長年の重しも、心から、取れた。それも、調子がいい原因かもしれない。養生すれば、あと数年は、生きていけるかもしれないな。健康に、気をつけて。

 でも、寒いな。これから、もっと寒くなっていく。

 まだ、悟ったことを、味わいたかった。何回も、繰り返し反復して考えると、いろいろなアイデアが、湧いてくる。しかし、悟りと関係ないことを考えることも、増えてきたな。

 考えるだに、思い出すだに、喜ばしい気持ちが湧いてくるのは、心地よい。だが、座禅ばかりでは、体が凝るし、なまるな。座ってばかりだと、健康に悪いのでは、ないか。ちょっとは、体を動かした方がいいな。

 と考えて、少し、歩いてみた。立ちくらみや、ふらつきがあるので、注意だ。痩せた足が、砂を踏むたびに、頼りなく沈む。

 自分が、健康のことを考えているのが、おかしくて、笑みがこぼれた。ちょっと、余裕が出てきたのかもしれない。もう、命なんて、どうでもいいはずなのにな。

 真理への思考の、絶好調は、ピークアウトしてきた感じが、ある。どれくらいだったか——七日ほどの、集中的な禅定で、自分の中では、考えは、だいぶまとまっていると感じた。

 まだまだ、考えることは、あるのだが。

 たとえば——アートマンがない、と言っても、なくてもよい、というだけだ。アートマンなしでも、この世は、成り立つ。しかし、あっても、いいのだ。同じく、輪廻転生も、あっても、いいのだ。

 実体としてのアートマンは、なくても、関係として、アートマンのようなものは、形成される。それだけで、いいのだが、それと、実体としてのアートマンが存在することは、両立しうる。まあ、無駄な両立では、あるが。

 無いと断じることにも、根拠はない。在ると断じることに根拠がないのと、同じように。

 中道、とでも言おうか。

 まあ、ここらへんは、後でもいいな。今やると、ややこしくなりすぎる。まずは、分かりやすいのが、正義だ。そのうち、体系化するときに、別立てで、理論化しておこう。

 こう考えると、私の中にも、この教えを人に教えたい、という気持ちが、やはり、あるのだろうな。おそらく。

 そう考えると、人間は、短絡的というか、いろいろ単純化しすぎたり、意味がないと思ったものを、無意識にそぎ落として、前提をなくしてしまう、思考の癖が、あるのだろうな、と思ったりした。

 実体としてのアートマンがあって、実体としての輪廻転生があれば、結局、輪廻転生して、生まれ変わりのどこかで、苦しむ可能性は、あるのだが——そういうのは、もう、どうでもよくなっていた。

 憑き物が落ちた、とは、こういう感じなのかもしれないな。いったい、長年、何に苦しんできたのかも、分からなくなったりする。

 生きることは、苦だ。この地では、人は苦しむ。これが、常識だ。

 まあ、それには同意するが、苦しくないときも、ある。楽しいときも、楽なときも、ある。とすると、「生即苦」と考えるのも、一つの考え方にすぎないかもしれない。だが、まあ、小さな、枝葉末節の問題だ。

 どうでもいいことを考えることが、増えてきた。

 暇とか、やることがないとか、目標がないということも、苦の一つなのかもしれない。まあ、何を苦とするかによって、苦も変わるのだが。そういう、相対的な考え方が、自然に浮かぶようになってきた。

 シッダールタは、論理的な性格だった。もちろん、学問や修行としての論理は、修めていたが、もともと、合理的で、論理的なところがあった。体系化も、大好きだ。いろいろなアイデアを出すのも、楽しいタイプだ。

 多分、もうちょっと、時間をかけたい、と思った。

 禅定は、もう、不要だろう。悟りは、成ったのだ。

 今は、自由、気楽な気分、というような感じだろうか。もう、いつ死んでもいいのだが、すぐには、死ぬことは、なさそうだ。とすると、死ぬまでは、時間がかかりそうだ。そのあいだ、どうやって過ごしていけばいいだろう。

 まあ、なるように、なるな。

 野宿も何だから、過ごせるところが、あるといいな。あるいは、修行者の仲間たちの、様子を見てみようか。あの、去っていった五人は、今、どこにいるだろう。たしか、西の方、鹿の遊ぶ林の方へ、向かったと聞いた。

 アートマンが作られるものだとすると、ブラフマン、宇宙の真理も、同じようなものかもしれないな。あらゆるものは、関係性で成り立つ、と、一般化できるような気もするな。というか、そういう考え方も、できるな。実際は、どうだか知らないが——「実際」なんて、我々には、多分、分からないのだ。今なら、自信を持って、そう言える。

 とすると、すべての修行者や、学者に、役に立つな。ヴェーダも、ウパニシャッドも、刷新できるのでは、ないか。とすると、学問を発展させて、修行者や学者のみならず、世の中のすべての人にとって、役に立つ可能性が、あるな。しかも、それを残す言葉が、できれば、後世の人にも、役に立つ。

 ということは、だいぶ、世界にとって、いいことなのでは、ないか。

 広めるのは、だいぶ難しいが、もし広められたら、その利益は、計り知れまい。

 とすると、私が死んで、教えが途切れるのは、もったいないな。

 いつか、誰かが、同じことに至るのかもしれない。だが、そうだとしても、それまでの時代の人々が、かわいそうだろう。少なくとも、私のような苦しみや問題を持っている人は、今も、この先も、いるだろうから、その人たちには、役に立つかもしれない。

 それどころか——人間の心だけでなく、宇宙の成り立ちまで、説明できるとなれば。うまく、世に紹介できれば、世の中の成り立ちを知りたい人や、仕事や、産業にも、役に立つかもしれないな。

 とすると、一つ、教えとして、広めてみようか。

 そうすると、まず、体力と、健康を、回復させねば、なるまいな。

 そして、言葉を整えねばならない。誰にでも、すぐ分かる言葉ではないだろう。だが、誰か一人でも分かる言葉なら、そこから道は開ける。まずは、あの五人だ。彼らは私を見捨てた。だからこそ、最初に彼らに会いに行くのがよい。彼らが分からなければ、誰にも分からないかもしれない。彼らが分かれば、道は、少しだけできる。

 東の空が、白んでいた。痩せた川の向こう、まだ霜の残る野の果てに、ゆっくりと、光が満ちてくる。鳥が、鳴き始めた。どこかで、村の竈の煙が、まっすぐに、立ちのぼっている。

 シッダールタは、立ち上がった。

 膝が、笑った。立ちくらみが、視界を白く塗った。だが、倒れはしなかった。

 そして、ゆっくりと、菩提樹を、後にした。

 西へ、向かう道だった。

2026年5月21日木曜日

GABAのはなし―精神科の隠れた主役―

GABAのはなし精神科の隠れた主役

 

精神科ではいろいろな薬を使います。

多くは神経細胞、特にシナプスのところの神経伝達物質受容体に働く薬がメインです。

広くは精神に何らかの作用をもたらす薬、狭くは精神に何らかの作用をもたらす薬、もっと狭くは精神科で使われる薬を向精神薬と言います。

 直訳すれば「精神に向いた薬」でしょうか。

 抗精神病薬という似た言葉も精神科で使うので注意が必要です。

 これは統合失調症などの精神病などに主に使う薬です。

 向精神薬は精神に影響があればなんでもいいので向精神薬は抗精神病薬を含みます。

 

 GABAチョコとかGABAが入っていて血圧を下げる野菜ジュースなどたまに広告宣伝しているのを見かけます。

 GABAというのはγアミノ酪酸(γ amino butyric acid)か何かの略でアミノ酸の一種です。

 アミノ酸というとαアミノ酸が生体内ではよく使われますがGABAはカルボキシル基とアミノ基が別の炭素についているγアミノ酸というものです。

 脳内伝達物質として生体内で使われています。

 抑制性の神経伝達物質でGABA受容体はいくつかタイプがありますが塩素チャンネルタンパクを開いて細胞内に塩化物イオンを流入させ、細部内電位というより膜電位を低下させます。

 神経細胞というのは電線みたいなものです。

 厳密にいうと神経細胞の細胞膜が電気信号を運ぶ媒体のような感じです。

 細胞内外の電位が異なりその変化により情報を細胞膜を使って他の神経細胞などに伝えていきます。

 その最終段階のシナプス感激で神経伝達物質が使われます。

 GABAはその神経伝達物質の一つでGABAが伝達前の神経細胞から放出されそれが別の神経細胞の受容体に結合することでその細胞の静止膜電位を下げて電気信号が伝わっていくのを抑制する働きがあります。

 GABAは抑制性神経伝達物質としてはたしか唯一のものです。

 また神経伝達物質には即時性のものと即時性ではない遅効性のものがありますが即時に効果を発揮します。

 

 GABA受容体作動薬というとGABAの代わりにGABAの役割を果たす薬の総称です。

薬理学、薬学の歴史でも大切ですし精神科臨床でも大切です。

 抗不安薬とか睡眠薬とかいうとGABA受容体作動薬が主役で特に長らくベンゾジアゼピン系とか非ベンゾジアゼピン系とかいうのが主役を張っていました。

 その前にはバルビツール系というGABA受容体作動薬がありましたが最近はあまり使われません。

 アルコールや吸入麻酔薬もGABA受容体は一応関係しているようですが多分いろいろな作用機序があるようでGABAだけで作用するわけではないようです。

 歴史的にはGABA受容体に働くいろいろな薬が使われてきましたし使われています。

 静脈麻酔薬のプロポフォールはGABAを介する作用が強いですし、吸入麻酔薬もGABAが関係します。

 メプロバメートというのが市販薬として使われていた時期がありますがこれはベンゾジアゼピン系でもバルビツール酸系でもないGABA受容体作動薬です。

 最近はザズベイという薬が新しく保険認可され使えるようになっていますがこれは抗うつ剤です。

 抗うつ作用を持つ向精神薬、あるいは構成新物質にはいろいろなものがありますがGABA受容体をターゲットとする物質で保険認可されたのは今回が初めてか昔あったとすれば久しぶりになります。

 それらの他にもGABA受容体作動薬はいろいろな用途で使われます。

 大腸内視鏡の時などで心を落ち着かせたり寝てもらうために使ったりします。

 手術の前投薬とか手術自体で使ったりとかもします。

 てんかん発作や熱性けいれんの際に使うこともありますし発作時ではなくても予防薬として使うこともあります。

 自律神経失調症に適用の者もあります。

 精神科領域で初診時や緊急時には急性の鎮静薬として使うためか今はあまり使わない用語かもしれませんがマイナートランキライザーと呼ばれていました。

 精神科救急などで急性の興奮状態の患者さんなどをいったん寝かしつけるためにフルニトラゼパムというGABA受容体作動薬が点滴されることは今でも多いと思います。

 これには議論があって昔の精神科救急学会では議論されていましたが今はどういう風向きになっているのかは不案内なのですみません。

 睡眠薬として最近はオレキシン受容体拮抗薬であるデエビゴ、クービビック、ベルソムラ、ボルズィなどのの売り上げが高い、あるいは高かったですが処方するとしてはベンゾジアゼピン系/非ベンゾジアゼピン系の使用量の方がまだ多いのではないでしょうか。

 オレキシン受容体拮抗薬は新薬が多いので売り上げベースでは高く見えるという事情があります。

 

 GABA受容体作動薬は上手に使えばいいのですが上手に使うのが難しい場合があるので使用を避ける傾向が欧米を中心に強いです。

 日本でもアカデミックなにおいの強い大学病院系ではそういう傾向が強いと思われます。

 特に持続時間が短時間型のものは依存性やら乱用やら身体依存性の強さやらで使用を控えられる傾向があります。

 現在ベンゾジアゼピン系の薬剤がGABA受容体作動薬の主役なのはそういう有害事象が少ないからでベンゾジアゼピンの親戚で非ベンゾジアゼピン系というのは身体依存やら体制がないといわれていたりあっても少ないようなので使いやすい他、知恵の自畔ピン系というのがあったり、ベンゾジアゼピン系でもω1系とかω2系とか区別することもあり使い分けることがあります。

 

 GABA受容体作動薬は今もって精神科の主役級の登場人物ですがこれを避ける傾向があります。

 特に欧米系に強いですし、欧米系の影響を受けやすいアカデミックや研究や教育に関わる医者に多いです。

 欧米で避けられるのはGABA作動薬がアルコールの仲間とみられているためです。

 欧米は代謝酵素の関係かアルコール依存症の患者が多かったり問題になりやすい歴史がありました。

 また宗教の関係もあると思われます。

 日本人はアルコールに弱い人が多い国です。

 これはアルコールやアルデヒドの代謝酵素が関係します。

 生物が陸上生活を始めてから腐敗と発酵が問題になるようになりました。

 陸上で生物の時間がたった死骸や腐肉を食べる際にそれらが腐敗と発酵でアルコールを含む場合があり生物には早い段階からアルコール代謝酵素やアルデヒド代謝酵素を持つものがあります。

 遺伝子変異の関係でこれらにもいくつかのタイプがあります。

 これは日本人法医学者が発見したのですが日本人はアルコール代謝酵素の活性が高くてアルデヒド代謝酵素の活性が低い人が多いようです。

 日本人というよりアルデヒド代謝酵素の変化は長江流域のコメ栽培の時期に起こったという説があるので東アジアなど日本を含むもっと広域の問題かもしれません。

 アルコールが入ると人間は気持ちよくなります。

 それに対してアルデヒドは毒物で有害なので体にたまると有毒で不快な症状を起こします。

 日本人は気持ちよいアルコールがすぐに代謝されてしまって有毒なアルデヒドが体がたまってしまう人が多いためアルコールに弱かったり、アルコールが嫌いな人が多いです。

 欧米人だけか知りませんが逆にアルコールが代謝されず体の中に長くとどまり代謝されてアルデヒドができてもアルデヒドがすぐ代謝されて体に残らない人が欧米には多くいてそういう人はアルコールの気持ちよさだけを感じられるのでアルコール依存症になりやすいと言われています。

 ただアルコールはアルデヒドのように短期で体に炎症を起こして顔が真っ赤になったりするような毒性はありませんが長期に大量に飲み続けるとやっぱり有害です。

 また長期ではなくても酒が入っていれば注意力や認知機能が下がったりして飲酒運転は禁止されているのは多分日本以外でもそうでしょう。

 そういう事情のためか欧米ではアルコール依存症が嫌われやすく、アルコールが警戒されやすいです。

 

 また依存には身体的依存と心理的依存があります。

 身体的依存というのは物質に耐性がついたりある程度長く大量に止揚していて急にやめると退薬症状/離脱症状が生じたりするものを指します。

 他方で心理的依存はそういう物質による代謝酵素の誘導とか休息中止によるリバウンド(反跳)症状はでませんが、何となくその物質を使っていると安心で、ないと不安となると心理的依存です。

 基本短時間作用型は効きの切れ味がよいのと薬が切れる時の感じが分かりやすいので依存になりやすいと言われます。

 ドラックで言えば注射の方が血中濃度が上がりやすいし、炙りで肺吸入の方が血中濃度が上がりやすいのでそのようにドラッグを使う場合があります。

 また経口摂取では腸に吸収された後一旦肝臓で代謝されるので摂取効率が低いというのもあります。

 また薬固有の体制のつきにくさなどがあってそういうのを予想して処方調整を行います。

 今主流のGABA作動薬のベンゾジアゼピン系は薬事態での毒性はアルコールのように臓器毒性などがなく基本過量服用しても致死量がありません。

睡眠薬として使う場合はいまだ欠かせぬ薬剤です。

抗不安薬としては短期型や中時間作用型は使われない方向になってきて使う場合には長時間作用型を使う方向になってきている感じです。

少ない量では前頭葉や連合野みたいな高次なところから聞くのか軽度の脱抑制や麻酔のような興奮期みたいなのが他の鎮静系薬剤と同じくありそうで元気になったり体調がよくなったり疲れが取れたり集中力が上がったりするようです。

量を増やしていくとリラックス、不安、緊張をとる、うつを改善する、痛み止め作用、筋弛緩で肩こりや頭痛に効くなどの作用があります。

てんかんにも広く効きます。

もっと量が多くなると眠くなります。

睡眠薬として使う場合は眠気を利用するわけですがこれまた作用時間によってうまく使う必要があります。

 深睡眠を減らすなどがあるようですが人間は寝ている間にも起きているときのストレスは残っているものでそれが睡眠を悪くするのでベンゾジアゼピン系睡眠薬は寝ているときに残っているストレス症状にも効くためうつや不安では中途覚醒や夢を見やすいオレキシン受容体拮抗薬より使いやすい場合があります。

 また近年働き方改革で仕事のオンオフやメリハリのある生活、スケジュールがきっちりとした生活になると欧米のエリートなどがそんな感じですが睡眠薬を使って仕事外の時間も睡眠も上手にコントロール必要が高まる場合があります。

 大人はストレス関連症の適応反応症の様なストレスがあると頭やおなかや睡眠に症状が出やすいです。

 子供は体ではおなかに症状が出やすい感じですがまだ自分の心身発達が未分化なせいかあるいは言語化苦手なせいかもしれません。

 小学校くらいの学童期だと大人と違って睡眠にはストレスが出にくいようです。

 もっと急性で激しいストレスや逆に慢性長期のストレスには別の身体症状が出たりするのかもしれません。

 最近はリモート勤務を減らすかなくすかして通勤を義務付ける会社が増えてきて電車が込むようで電車周りのパニック障害などが増えてきているようです。

 電車周辺で起こるのなら電車や駅で起きる特定の恐怖症と名付けた方がいいのかもしれません。

 慢性的になるとストレス学説のハンスセリエの3徴のように胃潰瘍、胸腺萎縮、副腎萎縮が起きるのかもしれませんが今は時代も違いまし古い学説なので知っておく感じでいいかもしれません。