山中伸弥先生の生物学の革命を使った現代哲学と構造主義の説明
―初等生物学を学んだ若者・青年向けの現代哲学入門―
現在の高校生物や大学の初等教育では、iPS細胞の登場以降、「エピジェネティクス(後天的な環境や関係性による遺伝子発現の制御)」が標準的なパラダイムとして教えられています。
この「現代生物学のパラダイムシフト」は、現代哲学(構造主義やポスト構造主義)を一般の方に説明するための、**これ以上ないほど強力で美しい「方便(メタファー)」**として機能します。
構造主義の難解な概念が、細胞の話を使うと魔法のようにスッキリと説明できてしまいます。
- 古典的決定論(実体主義的な見方):
「この細胞は皮膚になる運命(絶対的な本質)を持って生まれた」という考え方。哲学で言えば、「私という人間の本質はあらかじめ決まっている」とする古い実存主義や決定論です。
- 現代の生物学(構造主義的な見方):
「細胞そのものに絶対的な本質はなく、すべてになれる可能性(多能性)を秘めている。しかし、隣の細胞との『関係性』や『配置された場所(構造)』の要請によって、一時的に『皮膚』という役割を演じるようにスイッチを押され、他の可能性を抑圧(捨象)されているに過ぎない」という考え方。
「私たちが何者であるか(皮膚か、神経か)は、内なる絶対的な本質が決めるのではなく、外部のネットワーク(構造)との関係性が事後的に決定している」 ——これはまさに、ソシュールの言語学やレヴィ=ストロースの構造主義が言いたかったことの「細胞版」です。
現代哲学を広く伝えたり、あるいは現代人が自分とは何かをふと考えるときに日常と結びつけるような際にも、この切り口は非常に魅力的です。
「今のあなたの役割や息苦しさは、あなた自身の絶対的な本質ではなく、周囲との『関係性(構造)』が一時的にそうさせている(多能性を抑え込んでいる)だけなんですよ」と、誰もが持っている「自分の身体(細胞)」のスケールで語りかけることで、難解な哲学が、読者の心を優しく解きほぐす実践的なツールに変わります。
純粋な応用科学(生物学)のパラダイムが、現代哲学の最高のメタファーになるという発見、本当に見事な着眼点です。
多能性の抑制という逆転した見方
「抑制することで個体を作る」という逆転
これは非常に鮮やかな視点の転換です。
古典的決定論的見方:
未分化(可能性ゼロ)→ 分化(可能性が付与される)
シンプルなものが複雑になる
設計図が実装される
→ 分化=獲得
逆転した見方:
多能性(可能性が全開)→ 分化(可能性が制限される)
複雑なものがシンプルにされる
可能性空間が縮減される
→ 分化=抑制・制限
「無理かし抑えて」という表現は少し強いかもしれませんが、エピジェネティックなサイレンシングは能動的な抑制機構であり、放置すれば多能性が維持されるところを積極的に抑え込んでいるという見方は発生学的に支持されます。
具体的な抑制機構:
DNAメチル化:
遺伝子のプロモーター領域を
メチル化することで発現を沈黙させる
→ 多能性遺伝子(Oct4等)が
分化とともにメチル化されて沈黙
ポリコーム複合体(PRC1・PRC2):
幹細胞では多くの遺伝子を
「準備状態(poised)」で保持
分化シグナルで特定遺伝子を永続的抑制
→ 「使わない可能性」を封印する機構
ヘテロクロマチン形成:
使わない遺伝子群を
アクセス不能な凝縮状態に封じ込める
→ 可能性の物理的な封鎖
哲学的パラレルとして
この逆転は哲学史の流れと深く共鳴します。
古典的決定論との対応
ライプニッツ的モナド論・
デカルト的機械論:
本質が先にあり
それが展開・実装される
→ 分化決定論と同型
生物学的対応:
設計図(ゲノム)が全てを決める
デターミナントが運命を決定する
分化は一方向の情報実装
構造主義との対応
ソシュール的構造主義:
要素に本質的意味はない
差異と関係が意味を生む
システムが要素を規定する
生物学的対応:
細胞に本質的な「種類」はない
隣接細胞・ECM・シグナルとの
関係と差異が細胞の状態を規定する
文脈(構造)が細胞(要素)を規定する
ポスト構造主義・德ゥルーズとの対応
ドゥルーズの「差異と反復」:
同一性より差異が先にある
可能性の空間(仮想的なもの)が
現実化する際に差異を産む
全ての現実は可能性の縮減
生物学的対応:
多能性(差異の空間)が先にある
分化は可能性空間の縮減
個体は全可能性の一つの現実化
ドゥルーズの「器官なき身体」:
組織化される以前の純粋な可能性
器官という固定化への抵抗
→ 多能性幹細胞のメタファーとして読める
現象学との対応
ハイデガーの「被投性と企投」:
人間は特定の状況に投げ込まれ(被投性)
そこから可能性を企投する
本質は存在に先立たない
生物学的対応:
細胞は特定の文脈に投げ込まれ
そこで状態を決定する
「細胞の種類という本質」は
文脈(存在)に先立たない
サルトルの「実存は本質に先立つ」:
人間に予め与えられた本質はない
状況の中で選択し本質を作る
生物学的対応:
細胞に予め固定された種類はない
文脈の中で状態が決まる
「神経細胞である」は
名詞でなく動詞的プロセス
「方便として使う」可能性
ご指摘の「現代哲学を説明するために生物学を方便として使う」という方向は、現在の教育・啓蒙において非常に有効だと思います。
なぜ有効か
現代哲学の難点:
抽象的・言語依存的
「差異が先にある」と言われても
直感的イメージが持ちにくい
生活経験と結びつかない
細胞生物学をアナロジーとして使う利点:
視覚的・具体的
「幹細胞が全ての可能性を持つ」
「分化は可能性の抑制」
→ 直感的に了解しやすい
高校生物・大学初年度で触れる知識
→ 既存知識との接続が容易
具体的な使い方の例
ソシュールを教えるとき:
「犬という言葉の意味は
犬という動物の本質から来るのではなく
猫でも猿でもないという差異から来る」
→ 難しい
「神経細胞が神経細胞である理由は
神経細胞という本質的性質を持つからではなく
その文脈・状態において
筋細胞でも上皮細胞でもない状態に
あるからである」
→ 同じことを言っているが
具体的なイメージが持てる
サルトルを教えるとき:
「実存は本質に先立つ」
→ 「細胞に予め固定された種類はない
文脈の中で状態が決定される
山中因子を入れれば
皮膚細胞は神経細胞にも腸管細胞にもなれる
細胞の本質は固定していない」
→ 実存主義の直感的把握
ウィトゲンシュタインの家族的類似を教えるとき:
「神経細胞・筋細胞・上皮細胞という分類は
本質的カテゴリーではなく
家族的類似による分類に近い
シングルセル解析では
離散的なカテゴリーより
連続的な状態空間が見えてくる」
より大きな含意
この「多能性の抑制として個体を理解する」という視点は、現代思想の最も重要なモチーフの一つである**「制限・差異・否定性が存在を作る」**という考え方と深く共鳴します。
ヘーゲルの弁証法:
否定を通じて高次の総合へ
バタイユの蕩尽論:
過剰なエネルギーを消費することで
文化・社会が作られる
フロイトの抑圧概念:
欲動の抑圧が文明を作る
ラカンの象徴界:
欠如・制限によって主体が生まれる
生物学的パラレル:
多能性の抑制(エピジェネティックな制限)
によって分化した個体が生まれる
制限・抑制・否定が存在を産むという逆説的な構造が、現代思想と現代生物学の両方に貫通していることを示す例として、細胞分化のパラダイム転換は非常に強力な方便になりえます。
そしてこれは単なるアナロジーではなく、同じ構造が異なるスケールで現れているという意味で、より深い何かを示しているかもしれません。
発生学・細胞生物学の進展が、古典的決定論(deterministic view, 分化は不可逆的に固定され、多能性を「抑えて」多細胞生物の高度分化を実現する)から、現代的な構造主義的(structuralist)視点(構造の相互関係・柔軟性・文脈依存)へのシフトを象徴している点は、まさにその通りです。体細胞系列(somatic lineage)では、多能性(pluripotency)を「無理やり抑える」イメージが古典的ですが、現代ではエピジェネティクス(epigenetics)と再プログラミング(reprogramming)の発見で、分化は文脈依存の動的構造として見なされ、外因・内因の縁起的相互作用が鍵——これは原始仏教の無常(anicca)と中道(majjhimā paṭipadā)の観点からも、固定観念を捨てる良い喩えになります。現代哲学(構造主義、デリダの脱構築、ラカンの象徴界など)のイメージを伝える方便として、生物学を活用するのは確かに有効で、数学愛好家としてあなたが感じるように、構造の「柔軟な最適化」が共通の風景を生むかもしれません。以下で、生物学的シフトを基に哲学的アナロジーを織り交ぜて整理します。ケースバイケースですが、応用科学の例を方便として使うのは、倫理的にも「きっかけ」として中庸で良いアプローチです。
古典的決定論から現代的構造主義へのシフト:生物学の視点
古典的な発生学(例: 20世紀中盤の教育)では、デターミネーション(determination)と分化(differentiation)が強調され、体細胞は多能性を「抑え込まれて」特定の役割に固定され、多細胞生物の複雑な組織(例: 神経・筋肉・内分泌の分化)を構築するという決定論的イメージが強かったです。これは、セントラルドグマの厳格解釈(DNA→RNA→蛋白質の一方向)と重なり、応用科学(組織学・病理学・癌研究)で不可逆性が基調——癌は「分化の乱れ」として、後戻り不能の異常と見なされました。体細胞の多能性を「無理やり抑える」ことで、個別な生態(organism)の安定性を確保するという、構造の「固定化」志向でした。
しかし、2000年代以降のYamanaka因子(Oct4, Sox2, Klf4, c-Myc)の発見とエピジェネティクス研究で、パラダイムがシフト——分化はエピゲノム(DNAメチル化・ヒストン修飾)の可逆的スイッチで、文脈依存の構造として再解釈されています。体細胞は潜在的に多能性を保持し、外因(環境刺激、因子導入)でリセット可能——つまり、多細胞生物の高度分化は「抑え込み」ではなく、動的バランス(構造の相互関係)で維持される、という構造主義的視点が主流です。例:
- 体細胞の柔軟性: 皮膚細胞(fibroblast)をiPS細胞に戻すのは、内因的ポテンシャル(Yamanaka因子は細胞内在性)を外因的介入で活性化するだけ——分化は「かっちり」ではなく、確率的遷移(stochastic
transition)で、予断の強い不可逆性は過大評価だった。
- 癌研究の変化: 癌幹細胞(cancer stem cells)の可塑性で、分化転換(transdifferentiation)が起こり、治療は構造の再構築(エピゲノム標的)へシフト。
- 教育の変化: 現代の生物学初等教育(例: 大学テキスト)では、エピジェネティクスを軸に柔軟性を強調——古典的決定論は「歴史的文脈」として扱われ、構造の動的関係が焦点。
数学的に言うと、古典は「決定論的方程式」(deterministic
equation, 分化=固定関数)でしたが、現代は「構造方程式モデル」(structural equation modeling, 内/外因のネットワーク)で、柔軟性が極限最適化(例: エネルギー景観の多谷構造)として機能します。
現代哲学の説明に生物学を方便として使う:イメージのきっかけとして有効
あなたがおっしゃるように、応用科学(生物学)を現代哲学の説明に使うのは「どうでもいい」と思われがちですが、実は便利な方便——構造主義(structuralism, サッスールやレヴィ=ストロース)のイメージ(要素の関係性が全体を定義、固定本質なし)を、生物学のシフトで喩えると、抽象的な哲学が身近になるきっかけになります。例:
- 構造主義のイメージ: 構造主義では、意味や社会は要素の関係性(relations)で生じ、本質(essence)はない——生物学で言うと、分化は遺伝子「本質」ではなく、エピゲノムの関係構造で決まる。Yamanaka因子の再プログラミングは、デリダの脱構築(deconstruction)のように、固定構造を崩し、再構築可能を示す。
- ラカンの象徴界: 象徴界(symbolic order)は関係の網目でアイデンティティを形成——細胞の分化も、外因的シグナル(社会的文脈)と内因的ポテンシャルの関係で「アイデンティティ」を得るが、可逆的で本質なし。
- きっかけの有効性: 精神科の視点で、うつやアイデンティティ危機は「固定分化」の苦(dukkha)だが、再プログラミングの柔軟性は回復の希望——これを哲学の方便にすると、抽象的な構造主義が「生物の無常」としてイメージしやすくなる。倫理的に、中道として使うなら、過度なアナロジーは避けつつ、きっかけとして活用可能。
初期大乗仏教の縁起観で言うと、このシフトは「本質なき関係性」の好例——古典的決定論の予断は執着を生み、現代の柔軟視点が智慧を促す。もし具体的な哲学者(例: フーコーの権力構造)とのアナロジーを深掘りしたい場合、教えてください!
古典的決定論 → 現代的(構造主義っぽい)見方 って、単なる流行というより「実験事実がそう言わせた」タイプの転回なんですよね。だから哲学の方便に使っても、わりと足場が硬い。
1) 生物学側の見取り図:決定論が“間違い”というより「見えてなかった層」が増えた
昔の教え(分化=ほぼ不可逆)は、個体が安定している理由を説明するには強い。
でも今は、そこにもう1枚レイヤーが乗った:
- 体細胞は本質的に「何にでもなれる」…というより
遺伝子ネットワークとクロマチン(エピゲノム)が作る“谷”に落ちて安定している - その谷は深いけど、条件(転写因子・環境・損傷・ストレス)で谷から谷へ遷移し得る
- しかも谷の形は
周囲(ニッチ)や力学環境で変形する
つまり「自由な多能性が抑圧されている」という先生の言い方は、比喩としてかなり良いです。
“抑圧”というより “ロック&ガードレール” ですが、方向は同じ。
2) これ、構造主義の説明にめちゃ使える理由
構造主義(やそれ以降)を初学者に説明するのが難しいのは、みんな「主体の意志」や「本質」を先に置きたがるからですよね。
そこで細胞を出すと、一気にこう言える:
- **細胞の本質(エッセンス)**が「肝細胞らしさ」を作ってるんじゃない
- **ネットワーク(関係)**と
**制約(ルール)**と **環境(文脈)**が、
その細胞を「肝細胞として振る舞わせている」
これ、ほぼそのまま
「個人の本質が社会を作る」のではなく「関係の配置が個人の役割を作る」
に接続できます。
3) 哲学への“翻訳”としての使い方(刺さる言い回し)
① 本質主義 → 構造主義
- 本質主義:AはAである(中身が決める)
- 構造主義:AはAとして振る舞わされる(配置が決める)
② 自由意思 → 制約下の遷移
- 「何にでもなれる」わけじゃない
- でも「一度決まったら絶対に変われない」でもない
- 変化は“意思”というより“条件”で起きる
③ “私”の正体=状態(state)
人の人格や役割も、細胞分化みたいに
複数の安定状態のどれにいるかとして描ける。
(心理臨床の肌感とも相性が良いですよね)
4) 便利な注意点:生物学を哲学に持ち込むときの落とし穴を一つだけ
比喩が強いほど、読者が「じゃあ人間も細胞と同じで決まってるんだ!」と飛躍しがちです。
ここだけ先回りして、
細胞の話は「決定論の証明」ではなく、
“自由と制約が同時に成り立つ”直感の補助輪
と言っておくと、思想として綺麗になります。
5) 記事の核になりそうな一文(先生向け)
多細胞生物とは、自由な可能性を“抑えて”成立する社会である。
だが抑圧は完全ではなく、条件が変われば秩序は書き換わる。
本質ではなく、配置とルールが個体を作る――それが生命の構造主義だ。
これ、現代思想の導入としてかなり強いフックになります🔥