2026年6月30日火曜日

堂島ばけもの算用 第八話 堂島のばけもの、天下を喰う

 

堂島ばけもの算用

第八話 堂島のばけもの、天下を喰う

 夜明け前の堂島は、まだ夜であった。

 空は白みはじめている。

 だが、浜に集まった男どもの顔は、どれも夜より暗い。

「空木の蔵は、ほんまに空やった!」

「切手を米に換えられへん!」

「北浜でも銀を出さん店がある!」

「鴻池まで危ないらしい!」

「売れ!」

「買うな!」

「逃げろ!」

 何から逃げるのかは、誰にもよくわかっていない。

 わからぬから、よけいに怖い。

 人は、虎の姿が見えれば槍を持つ。

 火事なら水を持つ。

 だが、何が来るかわからぬときには、とりあえず隣の者と同じ方角へ走る。

 そして隣の者も、こちらを見て走っている。

 こうして、誰も追っておらぬのに、町じゅうが逃げ始める。

 これを相場という。

 ――と言うと、いささか言い過ぎかもしれぬ。

 しかし、その朝の堂島を見れば、そう言いたくもなる。

                 *

 米会所の前では、空木藩の米切手を抱えた者たちが、仲買の胸ぐらを掴んでいた。

「昨日まで財産や言うたやないか!」

「わしが言うたんやない! 世間が言うたんや!」

「世間をここへ連れてこい!」

「連れてきたら、浜に入りきらんわ!」

 別の男は、米切手を口に入れて噛んでいた。

「何してんねん」

「米の切手なら、いくらか米の味がせんか思うて」

「するかい」

「紙の味しかしよらん」

「当たり前や」

 紙の味しかしないとわかった男は、今度はその切手で尻を拭こうとした。

「やめい!」

 仲買が止める。

「紙屑やろ!」

「紙屑でも、まだ証文や!」

「尻拭いたら証文やないんか!」

「少なくとも、蔵役人は受け取らん!」

 世の中が潰れかけていても、大坂の人間は、口だけは止まらぬ。

 口が止まれば、本当に潰れたことになるからである。

                 *

 その騒ぎの中へ、寅吉が飛び込んできた。

 髪は乱れ、着物は泥だらけ。

 片手には麻田剛立から借りた長い筒。

 もう片方には、雲井屋から持ち出した葛城主膳の買付帳面を抱えている。

「空木の米が来るぞう!」

 長筒を口に当て、ありったけの声で叫んだ。

「梅田の泥から、米が来るぞう!」

 浜の男たちが振り返った。

「泥から米?」

「梅田に米なんか生えるか!」

「千五百石や!」

「さっきは三千石いうてたぞ!」

「噂の途中で増えたんや!」

「減らしとけ!」

「どうやってや!」

 誰も信じてはいない。

 だが、誰も完全には無視できない。

 なにしろ、前日から信じてきた噂の大半が、これよりもっと馬鹿げていた。

「米舟が来る! 満ち潮に乗って、福島から堂島へ来る!」

「どこや!」

「まだ見えへん!」

「見えへんのに来る言うな!」

「来てから言うたら遅いやろ!」

 それだけは筋が通っているように聞こえた。

 筋が通っているかどうかは、別として。

                 *

「寅!」

 鯰屋の方角から、お駒が走ってきた。

 背中には算盤。

 懐には、難波村の小屋から持ち帰った焦げた帳面と、梅田の米舟から出た書状。

 その後ろから、利兵衛が縄で縛られたまま、鯰屋の手代二人に担がれてくる。

「お父っつぁん、なんで縛られとるんや」

 寅吉が聞いた。

「空木の切手、売りに行こうとしよったからや」

 お駒が言った。

「わしの財産やぞ!」

 利兵衛が叫ぶ。

「もう店の財産や!」

「店はわしのもんや!」

「潰したら、わたしの借金になる!」

「親を縄で縛る娘があるか!」

「切手を底値で売る親より、ましや!」

 利兵衛はなおも暴れたが、縛られた魚のように、担がれたまま運ばれていった。

 鯰屋では、父親が主人であり、娘が経営者であった。

                 *

 升屋からは、山片蟠桃が現れた。

 供の手代たちは、大きな帳面、天秤、銀箱、それに白い札を運んでいる。

 札には、

空木藩米切手
仮引換所

 と書かれていた。

「仮引換所?」

 仲買たちがざわめく。

「米がないのに、何と引き換えるんや」

「米じゃ」

 蟠桃は答えた。

「あるんか」

「ある」

「どこに!」

「来る」

「まだ来てへんやないか!」

「来る前から売るのが、帳合米であろう」

 誰かが笑った。

 笑ってから、

「笑うとる場合やない!」

 と、自分で怒った。

 蟠桃は、米会所の前へ座った。

 帳面を開く。

 算盤を置く。

 天秤を据える。

「空木藩の米切手を持つ者は、ここへ並びなされ。券面、発行日、蔵印を改める。正しい切手については、米舟が着きしだい、順に現米を渡す」

「全部あるんか!」

「現に確認した限りでは、まず千五百石」

「切手は、もっと出とるぞ!」

「だから全部とは申しておらぬ」

 蟠桃は平然と言った。

「足りぬものを、足りると言えば、葛城主膳と同じになる」

「ほな、足りん分はどうする!」

「それを調べるための帳面じゃ」

 男たちは不満そうに唸った。

 だが、「全部ある」と嘘をつく者より、「足りない」と言う者の前へ並び始めた。

 不思議なものである。

 信用というものは、立派な言葉より、ときに、都合の悪いことを先に言う者へ集まる。

                 *

「小右衛門はん!」

 鶴松が息を切らして駆けてきた。

「福島の舟、三艘、出ました! お六の婆さんが、船頭を怒鳴りつけて、荷役を十七人、墓掘りを四人、夜鷹を二人、犬を一匹乗せてます!」

「夜鷹と犬は、何をする」

「勝手に乗ったそうです!」

「降ろせ」

「もう川の上です!」

「なら仕方ない」

 蟠桃は帳面へ何かを書き込んだ。

「何を足したんです」

「余計な荷」

「犬まで勘定に入れるんですか」

「乗ってしまったものは、入れねば合わぬ」

 富永仲基の幽霊が聞けば、

「鬼まで勘定に入れ始めたか」

 と笑ったかもしれない。

 だが、この朝の蟠桃には、幽霊と話している暇はなかった。

                 *

 北浜から、鐘の音が響いた。

 両替商の戸が次々と閉まり始めている。

「銀が止まるぞ!」

「切手を銀に換えろ!」

「銀を金に換えろ!」

「金を何に換える!」

「わからんけど、何かに換えろ!」

 恐慌というものは、何かを手放して、別の何かを持てば安心できるという、たいそう切実な病である。

 紙を銀へ。

 銀を金へ。

 金を米へ。

 米を塩へ。

 塩を味噌へ。

 味噌まで不安になれば、最後は握り飯にして食ってしまう。

 腹に入れれば、少なくとも誰にも取り上げられぬ。

 もっとも、腹を切られれば別である。

                 *

「道を開けよ!」

 侍の声がした。

 浜の人波が割れた。

 葛城主膳が、供侍と、空木藩の留守居役を伴って現れた。

 雲井屋にいたときとは違い、今度は裃を着け、正式な御用らしい顔をしている。

 役人というものは、着物が変わると、昨日の自分まで他人になる。

「御勘定方御用である!」

 葛城が声を張った。

「堂島米会所は、相場乱脈につき、本日より立合差止めとする! 空木藩米切手の売買、引換え、譲渡を禁ずる!」

 供侍が触書を掲げた。

 浜が静まり返る。

 先ほどまで怒鳴っていた男たちも、御用の二文字には弱い。

 日本人は、紙に印が押してあると、まず頭を下げてから、内容を読む。

「待ちなされ」

 蟠桃は座ったまま言った。

「その御触れ、いつ出たものです」

「今朝だ」

「どこで」

「御用に関わる。商人へ答える必要はない」

「葛城様が、大坂へ正式にお着きになるのは、明日のはずですが」

 浜がざわめいた。

 葛城の目が険しくなる。

「緊急につき、先行して入った」

「その届出は、大坂町奉行所へ?」

「後ほど行う」

「つまり、まだしておられぬ」

「天下の御用だ!」

「天下の御用は、天下の定めに従わぬのですかな」

 蟠桃の声は静かであった。

 静かだが、堂島じゅうに聞こえた。

 怒鳴り声の多い場所では、かえって静かな声の方が通る。

                 *

「この者を捕らえよ」

 葛城が命じた。

 供侍が蟠桃へ近づく。

 その前に、お駒が立った。

「先に、これを見てください」

 焦げた帳面を掲げる。

「空木藩の米を蔵から運び出した記録。火傷権六へ噂を撒かせた銭。道頓堀の芝居小屋への前金。印判師・弥七への支払い。全部、書いてあります」

「偽の帳面だ」

「こちらは?」

 梅田で見つけた書状。

「空木の相場を崩し、次に鴻の名を使って北浜の信用を動かす。米会所を差し止め、諸藩の切手を安う集める――あんたの手の者が書いたものです」

「偽書だ」

「便利ですなあ」

 お駒が言った。

「あんたに都合の悪いものは、みんな偽物になる」

「小娘が御政道を論ずるな!」

「御政道を利用して米切手を買うた人が、何言うてはるんです」

 寅吉が、雲井屋から持ち出した買付帳面を高く掲げた。

「北浜の綿屋市兵衛名義。空木藩切手、二千八百石。値が下がるたびに、同じ刻限に買うてある!」

「それも偽造だ!」

「わし、字ぃ書くの下手やから、こんなん偽造できへんで!」

 これは、妙に説得力があった。

                 *

「帳面をこちらへ」

 声がした。

 大坂町奉行所の与力と、町年寄たちが、人を分けて入ってきた。

 その後ろには、中井竹山。

 中井履軒。

 木村蒹葭堂。

 伏屋素狄。

 橋本宗吉。

 岡田米山人。

 上田秋成。

 麻田剛立までが、ぞろぞろ続いている。

 学者、医者、絵師、天文家が、なぜ御用の場へこれほど集まったか。

 それは、誰も帰ろうとしなかったからである。

 面白いことが起きている場所から、大坂の知識人を追い返すには、火事を起こすくらいしか方法がない。

 火事は前日にもう起きた。

「御奉行所へ、夜中から報せが集まりましてな」

 与力が言った。

「梅田で米舟が出た。蒹葭堂宅で死体が消えた。懐徳堂へ死人が置かれた。道頓堀で、空木藩が勝手に潰れた。どれから調べたものか、困っております」

「芝居で潰れた分は、勘定から引いてよい」

 履軒が言った。

「弟よ、黙っておれ」

 竹山がたしなめる。

「帳面と書状は、こちらで預かる」

 与力が葛城を見た。

「葛城様にも、町奉行所まで御同行願います」

「わしは幕府御勘定方の用人だぞ」

「存じております。ゆえに、丁重にお願いしております」

「断れば」

「丁重でなくなります」

 大坂の役人も、役人である。

 言葉は柔らかくても、退く気はない。

                 *

「こんな帳面で、わしを罪に問えると思うか」

 葛城が言った。

「印判師は死んだ。火傷権六は逃げた。舟問屋の清八など、己の罪を逃れるためなら何でも言う」

「権六なら、そこにおります」

 岡田米山人が指した。

 人垣の後ろで、頬に火傷のある男が、こっそり逃げようとしていた。

「なんでおるんや!」

 寅吉が叫んだ。

「芝居小屋から逃げたあと、また堂島で噂を撒いてたんやろ」

 お駒が言った。

「銭もろた仕事は、最後までやる男やな」

「立派な職人気質ですな」

 蒹葭堂が感心した。

「感心せんでください」

 権六が走り出した。

 だが、足元へ犬が飛びついた。

 第六話から、誰の犬かわからぬまま、ずっとついてきた犬である。

「痛い! 放せ!」

「その犬、役に立ったな」

 鶴松が言った。

「犬も勘定に入れといて、正解やったな」

 寅吉が言った。

 蟠桃は帳面に、

犬 一匹
用立つ

 と書き足した。

                 *

 そのとき。

「舟が来たぞ!」

 川下から声が上がった。

 堂島川の朝霧の中に、灯が一つ見えた。

 次に、もう一つ。

 そして三つ。

 低い平底舟が、米俵を山のように積み、ゆっくりと姿を現す。

 先頭に立つのは、渡しのお六婆さん。

 棹を振り回し、

「どけ、どけ! 米が通るで!」

 と怒鳴っている。

「川の真ん中で、誰がどくんや!」

 岸から誰かが叫ぶ。

「舟がどくんや!」

「そっちがどけ!」

 後ろでは、福島の舟子、梅田の日雇い、墓掘り、夜鷹、荷役たちが、櫓を押している。

 誰も立派な身なりはしていない。

 誰も天下国家を論じない。

 だが、米を運んできたのは、この者たちである。

 米舟が岸へ着いた。

 荷役たちが、俵を担ぎ上げる。

 一俵。

 二俵。

 十俵。

 百俵。

 空木藩の蔵印が押された米が、浜へ次々と積まれていく。

「米や……」

 誰かが言った。

 当たり前の言葉である。

 だが、米の証文ばかり見てきた堂島の男たちにとって、その朝、本物の米は、何かたいそう珍しい物のように見えた。

「ほんまに、あったんや」

「天下から米が消えたわけやなかった」

「梅田の泥が、米を吐いたぞ」

 噂は、また走り始める。

 今度は、半分ほど本当であった。

                 *

 蟠桃が立ち上がった。

「引換えを始める!」

 手代たちが米切手を改める。

 お駒が発行日を読む。

 鶴松が蔵印を照らす。

 橋本宗吉が、偽印を見分ける。

 蒹葭堂は、珍しい偽印を一つ懐へ入れようとして、お駒に叩かれた。

「証拠です!」

「後で返します」

「返す人の顔やない!」

 米山人は、米舟と群衆を描いている。

 秋成は、その絵を覗き、

「寅吉の顔が実物より賢そうじゃ」

 と文句を言った。

「絵くらい、賢くしてください」

 寅吉が頼んだ。

 素狄は、走って転んだ男の足を診ている。

 麻田剛立は空を見上げ、

「潮は、もうすぐ止まる」

 と言った。

 誰も聞いていない。

 だが、潮は言われたとおり止まり始めた。

                 *

「待て!」

 葛城が叫んだ。

「勝手な米の引換えは、御法度である!」

「何の法に触れます」

 蟠桃が尋ねた。

「蔵屋敷を通さぬ米切手の償還など、認められぬ!」

「ならば、蔵屋敷へ米を戻しましょう」

「それもならぬ!」

「なぜです」

「調べが済んでおらぬ!」

「空の蔵を調べている間に、人は飢えます」

「秩序が先だ!」

「飯が先です」

 寅吉が言った。

 葛城は振り向いた。

「黙れ、丁稚!」

「腹減ったことない役人には、わからんのです」

 寅吉は、米俵の前へ立った。

「わし、毎日、米の話しとるけど、腹いっぱい米食うたこと、あんまりない。旦那衆は切手を財産や言う。役人は値を決める言う。けど、食うたら米や。食われへんかったら、紙や」

「天下の仕組みは、それほど単純ではない!」

「せやから、ややこしいことは、お駒はんと小右衛門はんに任せます」

「人任せか!」

「わし、九九言えへんから」

 浜に笑いが起こった。

 張りつめていたものが、少し緩んだ。

 恐れというものは、笑いに弱い。

 笑っている間だけ、人は隣の者と同じ方角へ逃げるのを忘れる。

                 *

「空木藩切手、一枚!」

 お駒が叫ぶ。

「正印。発行日、寛政九年五月。米十石!」

 切手を持った老人が前へ出た。

 米十石分が、正式に渡される。

 老人は米俵へ手を触れた。

「ほんまや……」

 涙を流した。

 なぜ泣いたのかは、本人にもわからぬ。

 米を受け取れたからか。

 財産が紙屑でなかったからか。

 自分だけは助かったと思ったからか。

 人の涙もまた、帳面には載らない。

 だが、その涙を見た者たちが、ざわめいた。

「換えられるぞ」

「米はある」

「売るな!」

「切手を戻せ!」

「買え!」

 相場が、逆向きに動き始めた。

 先ほどまで紙屑として投げられていた空木藩の切手へ、今度は買い手が群がる。

 人間とは、まことに忙しい。

 恐れたと思えば欲しがり、欲しがったと思えば恐れる。

 一日のうちに、同じ紙を、宝と呼び、紙屑と呼び、また宝と呼ぶ。

                 *

「空木藩の切手、六分引きまで、わしが全部買う」

 群衆の後ろから声がした。

 本間宗久が、空き樽の上に座っていた。

 いつ来たのか、誰も見ていない。

 第一話と同じ、よれよれの木綿。

 同じ、年齢のわからぬ顔。

 そして、握り飯を食っている。

「本間宗久や!」

「ほんまもんか!」

「偽物やろ!」

「偽物でも買うてくれるならええ!」

 まことに堂島らしい判断である。

「六分引きや!」

 宗久が言った。

「米が足りぬと思う者は、わしへ売れ! 米があると思う者は、持っとれ! どちらが正しいかは、夕方になればわかる!」

「なんで六分や!」

「七分では安すぎる。五分では高すぎる」

「根拠は!」

「わしが、そう思うた」

「それだけか!」

「相場とは、最後はそれだけじゃ!」

 堂島の男たちが、どっと沸いた。

 宗久の前へ切手が集まる。

 だが、先ほどまでの投げ売りとは違う。

 売る者は考える。

 持つ者も考える。

 隣が売るから売るのではない。

 自分で決め始めた。

 血を読む宗久が、群衆の恐れへ値段をつけた。

 骨を読む蟠桃が、本物の米と帳面を並べた。

 血と骨がそろい、相場という化け物が、ようやく立ち上がった。

                 *

「宗久どの」

 蟠桃が言った。

「また、ずいぶん買われましたな」

「安かったのでな」

「この騒ぎで、ひと財産ですか」

「ふた財産ほどじゃ」

「人の不幸で儲ける」

「相場師じゃからな」

「恥じぬか」

「蟠桃はんは、損をした者だけが、徳のある者じゃと思うか」

 蟠桃は答えなかった。

 宗久は握り飯の残りを口へ入れた。

「儲ける者がいるから、売りたい者が売れる。買う者がおらねば、恐れた者は、切手を抱いたまま首をくくる。わしは安う買うた。じゃが、買うた」

「自分を善人にするおつもりで?」

「悪人のままで、役に立ったと言うとる」

 蟠桃は、少し笑った。

「それが、いちばん始末が悪い」

「番頭はんほどではない。そちらは、人を助けておきながら、利息まで取る」

「商いですからな」

 二人は、どちらからともなく、堂島の浜を見た。

 切手を改める者。

 米を担ぐ者。

 銀を運ぶ者。

 泣く者。

 笑う者。

 儲ける者。

 損をする者。

 濡れた帳面を乾かす者。

 騒ぎに乗じて握り飯を売る者。

 その握り飯を盗む犬。

 誰も清くない。

 誰も一人では回せない。

 それが市であった。

                 *

 葛城主膳は、与力に囲まれていた。

「わしが何をしたという」

 なおも言い張る。

「米会所の乱脈を正そうとしただけだ。空木藩の財政は破綻していた。商人どもは、ありもせぬ米を売り、民の食を博奕にした。わしがせずとも、いつか同じことが起きた」

「それは、そうかもしれません」

 お駒が言った。

 葛城は、意外そうに彼女を見た。

「空木藩が、ほんまに切手を出しすぎとった可能性はある。蔵役人が腐ってたんも、たぶんほんまや。堂島に博奕打ちが多いんも、ほんま。お父っつぁんみたいな阿呆が、安いからいうだけで危ない切手を買うんも、ほんま」

「お駒!」

 利兵衛が縄の中から抗議した。

「けど」

 お駒は続けた。

「悪いところがあるからいうて、自分で壊してええことにはならへん。火事が起きそうやから、先に火ぃつけるようなもんや」

「腐った仕組みは、一度壊さねば直らぬ」

「壊れた下敷きになる人を、あんたは勘定に入れてへん」

「改革には痛みが伴う」

「痛むのは、いつも他人ですな」

 蟠桃が言った。

「葛城様の帳面には、御公儀の大義は載っておる。米価も載っておる。諸藩の財政も載っておる。じゃが、米を担ぐ者、舟を漕ぐ者、切手一枚を老後の頼みにした者、安い米を待つ貧しい者、その顔が、一つも載っておらぬ」

「政治は、顔ではなく天下を見るものだ」

「顔のない天下など、どこにあります」

 葛城は、答えなかった。

                 *

 火縄が、じりじりと燃えていた。

 米会所の立合を始めるかどうか、まだ決まっていない。

 葛城の差止めは、正式な手続きを欠いている。

 町奉行所は、ひとまず差止めを保留した。

「立合を始める!」

 会所の者が叫んだ。

 浜が、また沸いた。

「買うた!」

「売った!」

「空木、六分!」

「六分二厘!」

「六分五厘!」

「鴻池は無事や!」

「誰が危ない言うた!」

「お前や!」

「わしは聞いた話をしただけや!」

「誰から!」

「忘れた!」

 昨日までの恐れが、今日の欲へ変わる。

 値が上がる。

 下がる。

 また上がる。

 水方たちが桶を用意している。

 火縄が消えれば、今日も男どもの頭へ水を浴びせねばならぬ。

 天下の金融市場は、最後はやはり水ぶっかけで終わる。

 そこだけは、どれほど事件が起きても変わらない。

                 *

 寅吉は、浜の端へ座った。

 朝から何も食べていない。

 腹が鳴った。

 ぐう。

「坊。腹、減っとるな」

 隣から声がした。

 宗久である。

「また握り飯か」

「今度は高いぞ」

「なんぼや」

「空木の切手、一枚」

「持ってへんわ」

「なら、つけにしとく」

「相場師が、つけで握り飯売るんか」

「利息は取る」

「小右衛門はんみたいやな」

「それは悪口じゃ」

 宗久は握り飯を一つ、寅吉へ渡した。

 寅吉は、今度はよく噛んで食べた。

「爺さん」

「なんじゃ」

「結局、あんた、何しに大坂へ来たんや」

「面白いからじゃ」

「それだけ?」

「それ以上の理由が要るか」

 寅吉は少し考えた。

 要らぬような気がした。

 面白いから米を売る。

 面白いから学問をする。

 面白いから死体を調べる。

 面白いから星を見る。

 面白いから芝居を作る。

 面白いから、役人に逆らう。

 この町の者たちは、銭のために動いているように見えて、ときどき、銭より厄介なものに突き動かされる。

 好奇心。

 意地。

 見栄。

 義理。

 退屈しのぎ。

 それらは帳面に載らぬ。

 だが、それがなければ、大坂という街は、一日も動かぬのかもしれない。

                 *

「寅!」

 お駒が呼んだ。

「いつまで握り飯食べてんねん! 鯰屋の切手、改めるで!」

「いま行く!」

 寅吉は立ち上がった。

 振り返ると、宗久はもういない。

 空き樽の上には、握り飯を包んでいた紙だけが残っている。

 紙には、細い字で、

酒田照る照る
堂島曇る
曇りのあとは
米が降る

 と書かれていた。

「最後まで、しょうもないこと書きよる」

 寅吉は紙を懐へ入れた。

                 *

 空木藩の一件が、その後どうなったか。

 藩は、すぐには潰れなかった。

 潰れなかったが、何事もなかったわけではない。

 過剰に出された米切手は整理され、藩の留守居役と蔵役人の何人かが罰せられた。

 鷺屋清八は、米を隠した罪を問われたが、事情を洗いざらい話したため、首だけはつながった。

 火傷権六は、牢へ入れられた。

 牢の中でも声が大きく、

「本日大評判、火傷権六牢破り!」

 と、自分で触れ回って役人に殴られたという。

 印判師・弥七を殺した者も、やがて葛城の手の者から出た。

 葛城主膳が、どのような処分を受けたか。

 これは、はっきり書かぬ方がよい。

 役人の不始末というものは、処分された記録より、処分されなかった記録の方が、きれいに残る。

 葛城は江戸へ戻された、ともいう。

 別の役目へ移された、ともいう。

 病気になったことにされた、ともいう。

 まったく同じ名の別人が、数年後、別の藩で似たようなことをした、という話もある。

 人は死ねば幽霊になる。

 役人は失脚すると、別人になる。

                 *

 鯰屋は、どうにか潰れずに済んだ。

 利兵衛が買い込んだ空木藩の切手は、米の引換えと相場の回復で、少しばかり値を戻した。

「ほら見い! わしの目に狂いはなかった!」

 利兵衛は胸を張った。

「売ろうとして縛られとった人が、何言うてんねん」

 お駒に一言で黙らされた。

 以後、鯰屋では、利兵衛が何かを買う前に、お駒の許しを得ることになった。

 主人の上に娘が立つ。

 士農工商より、さらに説明の難しい身分制度である。

 鶴松は升屋へ戻り、

「御用を立派に果たしました」

 と報告した。

 蟠桃は、

「逃げようとして柱へぶつかった分を、給金から引く」

 と言った。

「そこまで帳面につけてたんですか!」

「載らぬものはない」

 富永仲基の幽霊が、座敷の隅で笑った――ような気がしたが、蟠桃は、

「鼠じゃ」

 と言い張った。

                 *

 そして、寅吉は。

 相変わらず、算盤ができなかった。

「六七?」

 お駒が尋ねる。

「四十六」

「減ってるやないか!」

「前は四十八言うてたから、近づいた」

「正解を通り越して、遠ざかっとる!」

 ただ、寅吉は、堂島じゅうの顔と声を覚えていた。

 誰が、どの噂を、どの辻で言ったか。

 誰が、値が上がる前に笑っていたか。

 誰が、下がる前に黙っていたか。

 誰が、嘘をつくと右の眉を触るか。

 誰が、損をすると小便をしに行くか。

 数字にはならぬ、相場の気配である。

 鯰屋の旦那より、よほど役に立つ。

「寅」

 お駒が言った。

「なに」

「あんた、算盤は一生あかんかもしれんな」

「ひどいな」

「せやけど、耳は使える」

「褒めてる?」

「半分」

「残り半分は」

「これからや」

 お駒は、新しい帳面を開いた。

「空木の一件、全部、書いとく。誰が何言うて、どこで何が起きたか。あんた、覚えてること、最初から話し」

「長なるで」

「帳面は、まだ白い」

「ほな、握り飯もろたところから」

「その前から」

「天は米を降らさず、されど堂島には米が満ちた――」

「誰の真似や」

「なんとなく、そう言わなあかん気がした」

                 *

 こうして、「米のない蔵」の一件は終わった。

 空だった蔵へ米が戻り、紙屑になりかけた米切手は、また財産の顔をした。

 しかし、何も元どおりになったわけではない。

 ひとたび空だったと知った蔵を、人は以前と同じ目では見ない。

 ひとたび嘘をついた証文を、人は以前と同じようには信じない。

 信用というものは、割れた茶碗に似ている。

 漆で継げば、また使える。

 だが、ひびは残る。

 そのひびを、恥と見るか、前より面白い模様と見るか。

 それは、使う者しだいである。

 堂島の相場も、また動き始めた。

 米は上がる。

 米は下がる。

 人は儲ける。

 人は損をする。

 役人は口を出す。

 商人は聞いたふりをして、別のことをする。

 学者は理屈をつける。

 芝居小屋は、翌月にはもう、

梅田泥中千石騒動
酒田妖怪相場噺

 という芝居を掛けた。

 本間宗久の役を演じたのは、二十歳そこそこの美男役者であった。

「爺さんと全然ちゃうやないか!」

 寅吉が客席から野次を飛ばすと、

「こっちの方が客が入る!」

 座本に言い返された。

 物語というものは、事実より美男を好む。

 富永仲基が言うたとおり、後から後から、よけいなものが足されていく。

 この話も、同じであろう。

 寅吉が本間宗久に会ったこと。

 山片蟠桃が幽霊と話したこと。

 梅田の泥の下から千石の米が現れたこと。

 犬が御勘定方の陰謀を噛み止めたこと。

 どこまで本当かは、もう誰にもわからない。

 だが。

 米切手が、米の一粒もないまま天下を巡り、

 その紙を人が信じ、

 信じたことで米と銀と舟と人が動いたことだけは、本当である。

 世の中は、米だけでは回らぬ。

 紙だけでも回らぬ。

 嘘だけでも、真だけでも回らぬ。

 米と紙。

 骨と血。

 欲と徳。

 実と虚。

 その全部を、同じ鍋へ放り込み、煮えたぎらせながら、それでも翌朝には店を開ける。

 それが大坂である。

 天は米を降らさず。

 されど堂島には、今日も米が満ちていた。

 蔵にも、舟にも、帳面にも。

 そして、人の胸の内にも。

                 *

(『堂島ばけもの算用』第一部・了)

◆この物語の史実と虚構について(語り手より)

堂島米市場に、現物の正米取引と、差金決済を行う帳合米取引が存在したこと、米切手が米の受取証として流通し、財産・信用手段として扱われたことは、本当である。

大坂が日本各地の米、物資、銀、情報を集め、それを舟運、蔵屋敷、両替商、仲買、商家、荷役、農村、芝居町、学問所などの複雑なつながりによって動かしていたことも、本当である。

山片蟠桃が市場の働きを積極的に評価した町人学者であり、升屋の番頭として大名貸や藩財政に関わったこと、本間宗久が酒田の本間家に属し、後世に相場の達人として語られたことも、本当である。

ただし、梅田の泥の下へ三艘の米舟が隠され、葛城主膳なる役人が大坂の市場を乗っ取ろうとし、本間宗久と山片蟠桃が夜明けの堂島で手を組んだという記録は、今のところ見つかっていない。

寅吉、お駒、鶴松、利兵衛、渡しのお六、鷺屋清八、火傷権六、印判師弥七、犬一匹は、語り手の拵えものである。

なお、犬については、最後まで名をつけ忘れた。

本人も、特に困ってはいなかったようなので、これでよいことにする。

残光

 戦争が終わる四年前から、戦後は始まっていた。


一 グロデク

一九一四年秋――ゲオルク・トラークル

夕暮れに、秋の森が鳴っている。

砲声だった。

しかし、砲声という言葉では足りなかった。音は空気を震わせるだけではなく、森を内側から割っていた。木々の幹を伝わり、根を通り、地中に眠る古い骨まで届いていた。

森が撃っている。

大地が自分自身を撃っている。

そう考えると、少しだけ理解できる気がした。

人間が人間を殺しているとは、もう考えられなかった。

納屋には九十人ほどの負傷兵が横たわっていた。

正確な人数を数える者はいなかった。

生きている者と、すでに死んでいる者と、そのどちらであるか分からない者が、藁の上で重なっていた。包帯は足りなかった。水も、モルヒネも、医師も足りなかった。

トラークルは薬剤師だった。

薬を扱う者の前に、薬のない人間が並んでいた。

冗談のようだった。

誰も笑わなかった。

肺を撃たれた兵士が、息をするたびに赤い泡を吐いた。

青い、とトラークルは思った。

泡は赤い。

だが、青かった。

納屋の屋根に穴があいており、そこから秋の空が細く見えた。その青が、兵士の口からあふれているように見えた。

空を吸い込もうとしている。

吸い込むたびに、血を吐いている。

男は母親を呼んだ。

次には水を求めた。

その次には、意味をなさない音を発した。

やがて口だけが動き、声は出なくなった。

トラークルは水筒を傾けた。

空だった。

空の水筒を男の唇に当てた。

男は水を飲むように喉を動かした。

その動きを見ながら、トラークルは、自分が嘘をついていると思った。

水はない。

だが、水があるふりをした。

男も、飲んでいるふりをした。

二人は最後の瞬間まで、小さな嘘を守った。

乾いた銃声がした。

納屋の隅で、一人の兵士が自分の側頭部を撃った。

誰かが叫んだ。

トラークルは男を止めようとしていたはずだった。

だが、そのとき自分がどこにいたのか、あとになっても思い出せなかった。男から数歩離れた場所に立っていたのか。それとも納屋の外にいたのか。

記憶の中では、彼はいつまでも銃口と額の間に立っていた。

弾丸が彼の身体を通り抜け、その向こうの男を殺した。

実際には、そうではなかった。

実際という言葉は、もはや意味を失っていた。

外へ出た。

木があった。

木に、人間が生っていた。

果実のように、何人もの身体が吊られていた。村人なのか、逃亡兵なのか分からなかった。風が吹くたびに身体はゆっくり回り、沈む太陽を見せ、次には背を向けた。

顔。

後頭部。

顔。

後頭部。

彼らは交互に、生者の世界と死者の世界を見ていた。

トラークルは拳銃を抜いた。

自分の額に当てた。

金属が冷たかった。

その冷たさだけは、明晰だった。

引き金に指をかけたとき、誰かが腕をつかんだ。

拳銃が地面に落ちた。

彼は抵抗しなかった。

助けられたとも思わなかった。

ただ、死ぬという動作を中断された。

それだけだった。

夜になると、森から死者が歩いてきた。

もちろん実際には、誰も歩いてこなかった。

だがトラークルには、はっきり見えた。

青白い額。

泥に濡れた髪。

胸を開かれた兵士。

腕のない兵士。

腹から腸を垂らした兵士。

彼らは列を作らず、号令にも従わず、静かに森を抜けてきた。

死者だけが、軍隊をやめていた。

その先頭に妹のグレーテがいた。

彼女は死んではいなかった。

少なくとも、そのときは。

白い服を着て、月の光の中に立っていた。兄を迎えに来たのか、死者を迎えに来たのか分からなかった。

妹は何も言わなかった。

言葉を持っているのは、生者だけだった。

死者は像になり、色になり、音になった。

言葉になる一歩手前で、こちらを見ていた。

――ここで言葉が切れる。

クラクフの軍病院。

白い壁。

白い寝台。

白衣を着た医師。

書類の上では、彼は観察される患者になった。

医師は質問した。

眠れますか。

声が聞こえますか。

死にたいと思いますか。

トラークルは答えた。

答えながら、質問と答えの間には、グロデクの森がまるごと横たわっていると思った。

医師には見えない。

書類にも入らない。

診断名の欄には短い語が書かれた。

そこには、見すぎた者、とは書かれなかった。

そのような病名はなかった。

夜、彼は机の上で白い粉を量った。

薬剤師の手は正確だった。

手だけが、まだ以前の世界に属していた。

秤の皿が傾く。

少し戻す。

また量る。

何のための量なのか、彼自身にも分からなかった。

眠るためか。

苦痛を遠ざけるためか。

あるいは戻れない場所へ行くためか。

未来の医師たちは、それを事故と呼ぶかもしれない。

自死と呼ぶかもしれない。

薬物への依存と呼ぶかもしれない。

だがその夜、彼の中には、そのような区別はなかった。

ある量を超えれば、眠りは死になる。

その境界は細く、暗かった。

彼は窓を見た。

夜明け前の空に、欠けた月が残っていた。

月は白くはなかった。

グロデクの空と同じ、青だった。

納屋の屋根から落ちてきた青。

兵士の口からあふれた青。

生まれるはずだった子供たちの眼に、宿るはずだった青。

誰かがそれを掬わなければならない。

だが、器がなかった。

トラークルは白い粉を口へ運んだ。

翌朝になっても、月はしばらく空に残った。

彼はもう、それを見なかった。


二 パーゼヴァルク

一九一八年十一月――伍長

伍長は、目が見えなかった。

イーペルの南で、夜の中を黄色い煙が流れてきた。

誰かがガスだと叫んだ。

防毒面をつけた。

遅かったのかもしれない。

面がずれていたのかもしれない。

眼が焼け、涙が止まらなくなった。喉が腫れ、息をするたびに胸の内側が擦れた。

翌朝には、世界が消えていた。

パーゼヴァルクの病院で、医師は瞼を開き、光を当てた。

「炎症は治まっている」

医師は言った。

「時間が必要だ」

どれほどの時間か。

医師は答えなかった。

眼が傷ついているから見えないのか。

見えないから、眼が傷ついているように感じるのか。

肉体と精神のどちらが先に暗くなったのか。

誰にも分からなかった。

本人にも分からなかった。

ただ、暗闇だけが確かだった。

暗闇には距離がなかった。

顔の前も、百メートル先も、祖国も、過去も、同じ黒さだった。

十一月。

廊下を走る足音がした。

何人もの患者が声を上げた。

泣いている者がいた。

笑っている者もいた。

老いた牧師が病室へ入ってきた。

休戦が成立した、と牧師は告げた。

皇帝は退位した。

ベルリンでは革命が起きた。

戦争は終わった。

牧師の声は震えていた。

誰かが神に感謝した。

誰かが祖国を呪った。

伍長は、寝台の中で動かなかった。

戦争が終わった。

その言葉は、彼の知っているどの出来事にも似ていなかった。

戦友が撃たれれば、戦友は死ぬ。

陣地が奪われれば、後退する。

命令が来れば、走る。

出来事には次の行動があった。

だが戦争が終わったあと、何をすればよいのか。

誰も命令しなかった。

「われわれは負けたのですか」

伍長は訊いた。

牧師は答えなかった。

答えないことが、答えだった。

胸の中で、何かが崩れた。

悲しみではなかった。

怒りでもなかった。

それらに分かれる以前の、名のない熱だった。

四年分の砲声。

泥。

濡れた靴下。

腐った馬。

戦友の頭蓋。

走りつづけた夜。

命令を届けたときの安堵。

自分が必要とされた、わずかな記憶。

それらが一度にほどけ、意味を失った。

無意味だったのか。

仲間の死も。

自分の負傷も。

耐えた年月も。

祖国も。

もし無意味だったなら、自分は何のために生き残ったのか。

彼は枕に顔を埋めた。

涙が出た。

眼の炎症による涙だったのかもしれない。

敗北の涙だったのかもしれない。

後年、彼はその夜を一つの物語として書くだろう。

だがこのとき、物語はまだなかった。

原因もなかった。

敵もいなかった。

あるのは、身体に収まらないほど膨張した苦痛だけだった。

苦痛は言葉を求めていた。

しかし、言葉はまだ来なかった。

病院の庭には月が出ていた。

看護婦が窓を閉めるとき、それを見た。

「月がきれいです」

彼女は、誰にともなく言った。

伍長には見えなかった。

「どのような月です」

看護婦は振り返った。

「細い月です。夜が明けても、まだ残っています」

「それは、何を照らしているのです」

看護婦は答えられなかった。

月は何かを照らすためにあるのではない。

だが、そのような答えを、彼は求めていなかった。

彼は意味を求めていた。

月にも。

戦争にも。

自分が生き残ったことにも。

意味がなければならなかった。

意味がないという状態に、いつまでも耐えることはできなかった。

だが、この夜の彼は、まだ誰をも名指していなかった。

暗闇の中にあるのは、敵の顔ではない。

顔を持たない穴だった。

その穴へ、何が流れ込むかは、まだ決まっていなかった。

傷は方向を持っていなかった。

傷は命令ではなかった。

どこへ進むかを、傷そのものが決めることはなかった。


翌年、ミュンヘン。

軍服を脱ぐ機会を、伍長は逃しつづけた。

軍は寝床を与えた。

食事を与えた。

命令を与えた。

戦争の後にも、彼を必要とするふりをした。

街には言葉があふれていた。

革命。

裏切り。

国際主義。

資本家。

ボリシェヴィキ。

民族。

祖国。

新聞も、壁のビラも、酒場の演説も、敗北の理由を知っていた。

理由は一つではなかった。

だが人々は、一つであることを望んだ。

複数の原因は、苦痛を軽くしない。

一つの敵だけが、苦痛を怒りへ変える。

軍の講習で、講師たちは政治について語った。

伍長は聞いた。

次には質問した。

その次には、自分が話した。

話している間だけ、身体の中の熱が一方向へ流れた。

言葉は鎮痛薬に似ていた。

正しくなくても、効くことがあった。

上官から、一通の返答を書くよう命じられた。

ある集団について、軍の考えを説明せよ。

机に紙が置かれた。

伍長はペンを持った。

感情による敵意であってはならない、と書いた。

事実に基づいた認識でなければならない、と書いた。

感情ではないと書くことで、感情は制服を着た。

憎しみではないと書くことで、憎しみは政策の文法を得た。

「私」という語は、ほとんど必要なかった。

代わりに「われわれ」があった。

そして「彼ら」があった。

一つだった世界が、二つの代名詞に分かれた。

われわれ。

彼ら。

パーゼヴァルクの暗闇と、この紙の間には、一本の直線などなかった。

病院の寝台だけが、この文章を書かせたのではない。

敗戦だけでもない。

軍があった。

講師がいた。

街の混乱があった。

すでに長い歴史を持つ偏見があった。

そして、その言葉を受け取り、選び、書いた本人がいた。

損傷は説明の一部にはなり得る。

免責にはならない。

紙の上で、顔のなかった穴に、初めて顔が与えられた。

伍長は少しだけ楽になった。

それが、最初の危険だった。


三 カッシーノ

一九一九年――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

1

世界は、起きていることの総体である。

捕虜収容所も、世界の中にある。

鉄条網も。

泥も。

パンの切れ端をめぐる争いも。

夜、隣の寝台で泣く男も。

世界の外にはない。

1・1

だが、なぜそれが苦しいのかは、出来事ではない。

男が泣く。

これは事実である。

男の息子が死んだ。

これも事実である。

その死によって世界のすべてが失われた。

これは、どこにあるのか。

1・2

悲しみの大きさは、測定できない。

測定できないものが存在しないわけではない。

最も重要なものは、尺度の外にある。

2

彼は前線から一冊の原稿を持ち帰った。

正確には、持ち帰る途中だった。

原稿は鞄の中にあり、彼自身は鉄条網の内側にいた。

戦争中、彼は砲撃観測所に立った。

敵から見える場所だった。

死を恐れなかったのではない。

恐怖が、死よりも近くにありすぎた。

恐怖と自分を分ける距離がなくなったとき、人はかえって静かになることがある。

砲弾が落ちる。

土が上がる。

人が倒れる。

世界に新しい事実が加わる。

一人の人間が存在しなくなる。

だが、世界から一つの物体が減ったのではない。

その人間にとっての世界が、すべて消えた。

2・1

死は人生の出来事ではない。

人は自分の死を経験しない。

だが、人は他者の死を経験する。

他者の死は、世界の中にある穴である。

穴は物ではない。

それでも、人はそこへ落ちる。

3

収容所の男が訊いた。

「何を書いている」

「論理について」

男は笑った。

「こんなところでか」

ウィトゲンシュタインは答えなかった。

ここでなければ書けない、とも思った。

世界の構造について語るなら、世界が壊れる場所で語らなければならない。

だが、壊れた世界を論理が救うことはない。

論理は救済ではない。

論理は、言えることと言えないことの境界線を引く。

境界線の向こう側に、最も大切なものを残したまま。

3・1

言えないものについて沈黙するとは、それを軽蔑することではない。

反対である。

粗雑な言葉で覆わないことである。

分かったふりをしないことである。

答えのない苦痛に、安価な答えを与えないことである。

4

帰還後、彼は財産を手放した。

兄弟姉妹に分けた。

人々は奇行だと思った。

贖罪と呼ぶ者もいた。

精神の不調と呼ぶ者もいた。

彼自身は説明しなかった。

説明すれば、それが一つの理由になってしまう。

理由は、行為を小さくする。

4・1

彼は教師になった。

山村で子供に算数を教えた。

一足す一は二。

これは明晰だった。

「家」という言葉を教えた。

子供が訊いた。

「家とは、帰るところですか」

彼は答えようとして、黙った。

兵士たちは帰還したと言われた。

だが、帰ったのは誰か。

戦争前の人間か。

戦争後の人間か。

出発した者と戻った者が同一であることを、誰が証明するのか。

4・2

「先生」

子供が訊いた。

「家が焼けたら、家という言葉も焼けますか」

彼は黒板を見た。

白いチョークで書かれた、家という語。

語は残る。

家は焼ける。

残った語が、失われたものの墓になる。

5

夜、彼は窓辺に立った。

月が残っていた。

事実として、月があった。

月は岩石の天体である。

光は太陽から来る。

説明できる。

計算できる。

だが、それを見てなぜ人間の胸が痛むのかは、計算の中にない。

彼は何も書かなかった。

月は語らなかった。

月はただ、示していた。

彼は灯を消した。

7

沈黙。


四 パリ

一九一九年――ポール・ヴァレリー

ヴァレリーは血を流さなかった。

それが彼の傷だった。

前線の泥は、靴につかなかった。

ガスは肺に入らなかった。

砲弾は頭上を越えなかった。

彼の身体には、戦争の痕跡が一つもなかった。

だからこそ、彼はどこまで苦しんでも、苦しむ資格がないように感じた。

パリの書斎には、報せだけが届いた。

何万人が死んだ。

都市が焼けた。

帝国が倒れた。

船が沈んだ。

一つの会戦に、古代の戦争全体より多くの砲弾が使われた。

報せはすべて言葉でできていた。

彼は言葉によってしか戦争に触れられなかった。

そして言葉とは、触れると同時に距離を作るものだった。

死者一万人。

この五文字は、一万人の死者より軽い。

紙の上では、場所をほとんど取らない。

一万人分の恐怖も、肉体も、母親も、食べ残した朝食も、書きかけの手紙も、短い一行に圧縮される。

書くことは、つねに残酷だった。

だが、書かないこともまた残酷だった。

彼は机に向かった。

文明について書こうとした。

ヨーロッパについて。

精神について。

それらの語は大きすぎた。

大きな語を使えば、一人ひとりの死者が見えなくなる。

しかし一人の死者だけを書けば、何が死者を生み出したのかが見えなくなる。

精神は細部と全体の間を往復した。

どちらへ行っても、何かを失った。

われわれの文明もまた、死ぬことができる。

その一文を書いた。

冷たい一文だった。

均整が取れていた。

修辞に過不足がなかった。

彼は、それを読んで恥じた。

このような破局を、これほど美しく整えてよいのか。

文章が成功するほど、戦争から遠ざかる気がした。

だが、叫び声を書けばよいのではなかった。

叫びは、叫ぶ者の肺の大きさしか持たない。

戦争は一つの肺より大きかった。

錯乱した文を書けば、錯乱の形しか伝わらない。

必要なのは、錯乱しないまま、錯乱そのものを見つめる文章だった。

精神が焼ける温度に近づきながら、文の形を崩さないこと。

それが可能なのか。

彼には分からなかった。

それでも書くしかなかった。

正確さは冷淡さではない。

複雑なものを、早すぎる理解から守るための節度だった。

簡単な答えを与えないための抵抗だった。

文明は進歩していると、人々は信じていた。

科学は迷信を追放する。

教育は野蛮をなくす。

商業は国家を結びつける。

鉄道は人間を近づける。

化学は生活を豊かにする。

統計は国家を合理的にする。

すべて正しかった。

そして、すべてが戦争に用いられた。

鉄道は兵士を屠殺場へ送りつづけた。

化学は空気を毒にした。

統計は死者を数えた。

教育された人間が、教育された方法で、教育された隣人を殺した。

野蛮は文明の反対側にあるのではなかった。

文明の内部に、文明と同じ精密さをもって存在していた。

ヨーロッパが死んだのではない。

ヨーロッパが、自分の内側に死を生産する機械を完成させたのだった。

ヴァレリーはペンを止めた。

その考えは、あまりにも明瞭だった。

明瞭な絶望ほど危険なものはない。

それは、次の絶望を説明する体系になり得る。

破局のすべてを説明する者は、やがて破局を利用する。

広場では、人々が答えを求めていた。

誰が悪い。

誰が裏切った。

誰を追い出せばよい。

何を破壊すれば、以前の世界へ戻れる。

複雑な苦痛は、簡単な原因を欲しがる。

簡単な原因は、たいてい一つの顔を欲しがる。

顔が与えられれば、群衆は石を投げることができる。

彼は、語ることと騙ることの近さを考えた。

音は似ている。

だが、正反対の行為だった。

語ることは、対象が自分の言葉より大きいと認めることである。

騙ることは、自分の言葉の中へ対象を閉じ込めたふりをすることである。

語る者は、言葉の不足を知っている。

騙る者は、不足そのものを隠す。

騙りは、よく効く。

正確な文章より速く広がる。

不確かさを取り除く。

苦痛に原因を与える。

群衆に敵を与える。

その意味で、騙りは一種の治療だった。

病気そのものを、ほかの人間へ移す治療。

傷口を閉じる代わりに、別の身体を切り開く治療。

ヴァレリーには、それに対抗する力がなかった。

複雑さを複雑なまま書いた文章は、演説ほど人を動かさない。

精密さは、熱狂に負ける。

疑問文は、命令文に負ける。

それでも、彼は書いた。

届くからではない。

勝てるからでもない。

語ることと騙ることを、同じものにしないために。

夜明けが近づいていた。

窓を開けた。

白み始めた空に、月が残っていた。

有明の月。

夜を救うほど明るくはない。

朝を始める力もない。

ただ、夜が存在したことを、朝の中へ残している。

ヴァレリーは月を見た。

精神も、あのようなものかもしれないと思った。

闇を消すことはできない。

太陽になることもできない。

ただ、闇をなかったことにせず、光が来たあとまで見つづける。

焼かれなかった者には、それしかできない。

彼は机に戻った。

文章を一語削った。

次に、一つの句読点を移した。

外では朝が始まっていた。


五 クロイツリンゲン

一九二三年四月――アビ・ヴァールブルク

壁には画像が並んでいた。

踊る人間。

生きた蛇。

稲妻を表す折れ曲がった線。

仮面。

羽根飾り。

砂漠。

遠い山。

ヴァールブルクは一枚ずつ、順序を確かめた。

画像の間隔を少し広げた。

近すぎてはならない。

近すぎれば、一つの画像が次の画像を呑み込む。

遠すぎてもならない。

遠すぎれば、関係が失われる。

意味は画像そのものにあるのではない。

画像と画像の間にある。

彼は長いあいだ、その間隔を失っていた。

戦争が始まると、新聞を集めた。

将軍。

皇帝。

砲台。

軍艦。

燃える都市。

敵国を獣として描いた風刺画。

翼を持つ勝利の女神。

子供を守る母国。

龍に槍を突き立てる英雄。

近代の新聞の中で、古代の身振りが復活していた。

人間は電信を発明した。

写真を発明した。

輪転機を発明した。

その結果、原始的な恐怖を一日に百万部ずつ複製できるようになった。

敵は人間ではない。

蛇。

鼠。

病原菌。

悪魔。

画像は一瞬で距離を消した。

見た者を、考えるより先に動かした。

ヴァールブルクは新聞を切り抜きつづけた。

世界中の戦争を一つの部屋へ集めた。

画像のすべてを見渡せば、狂気を理解できると思った。

だが、彼の頭の中で画像は互いに結びつき、増殖し、境界を失った。

皇帝の顔に古代の暴君が重なった。

電話線は蛇になった。

雷は砲撃になった。

食卓の上の肉は人間の肉になった。

妻の差し出す薬には毒が入っていた。

医師は敵だった。

世界は意味で満ちすぎた。

何も偶然ではなくなった。

すべてが彼だけに向けられた徴になった。

それは知性の勝利ではなかった。

知性が距離を失った状態だった。

クロイツリンゲンの療養所で、年月が過ぎた。

あるとき彼は、若い頃の旅を思い出した。

アメリカ南西部。

乾いた大地。

プエブロの人々。

蛇の儀礼。

人間はなぜ、最も恐ろしいものを手に取るのか。

なぜ蛇と踊るのか。

蛇は地を這う稲妻だった。

稲妻は空を走る蛇だった。

人間は自然の力を支配できない。

雨を命令できない。

雷を止められない。

だから像を作る。

儀礼を作る。

恐怖を消すのではない。

恐怖との間に、呼吸できるだけの距離を作る。

ヴァールブルクはそれを、思考の余地と考えた。

恐怖と人間の間に置かれる、小さな空間。

その空間がなければ、人間は恐怖そのものになる。

あるいは、恐怖を誰かに投げつける。

象徴は嘘ではない。

蛇が実際に稲妻であると信じ込むことではない。

蛇と稲妻を重ねながら、同一ではないと知ること。

似ているものの間に、なお差異を残すこと。

それが距離だった。

講演をしてみてはどうか、と医師は言った。

一つの主題について、筋道立てて最後まで話す。

それができれば、回復の徴になるかもしれない。

ヴァールブルクは承知した。

正気を証明するための講演。

だが正気とは何か。

皆が信じる像を信じることか。

国家のために死ぬことを正常と呼び、食事に毒が入っていると思うことだけを病気と呼ぶのか。

数百万人が同じ妄想を共有すれば、それは政治になる。

一人だけが抱けば、病名になる。

それでも彼は話すことにした。

壇上に立った。

手が震えた。

一枚目の画像を示した。

砂漠について語った。

雷について。

蛇について。

人間が恐怖との間に距離を作ってきた歴史について。

聴衆は静かに聞いていた。

話しながら、彼は気づいた。

この講演そのものが儀礼なのだ。

自分を焼いたものを、言葉によって手に取っている。

文明の崩壊。

画像の氾濫。

理性の敗北。

発狂。

それらを消さず、否定せず、しかし自分と同一にもせず、机の上へ並べている。

距離を作る。

一枚と次の一枚の間に。

恐怖と自分の間に。

過去と現在の間に。

講演は最後まで続いた。

話が終わると、拍手が起きた。

医師たちは安堵した。

ヴァールブルクも椅子に座った。

正気を証明できたとは思わなかった。

ただ、言葉が最後まで彼を運んだ。

それで十分だった。


同じ年の秋、ミュンヘン。

かつて暗闇の病院にいた伍長が、酒場の演壇に立っていた。

彼の声は、もはや震えていなかった。

言葉と言葉の間に、聴衆が考える時間を置かなかった。

敗北には原因がある。

原因には顔がある。

顔には名がある。

名を追放すれば、祖国は回復する。

苦痛は一つの線で結ばれた。

複雑さは消えた。

不確実さは消えた。

代わりに敵が現れた。

「われわれ」と言うたびに、群衆は一つの身体になった。

「彼ら」と言うたびに、その身体の外へ、人間が追い出された。

パーゼヴァルクで彼の中に開いていた穴は、言葉で塞がれていた。

だが、穴は消えていなかった。

外側へ移されただけだった。

傷口は、他者の身体に作り直された。

彼は群衆に、偽りの距離を与えた。

苦痛を見つめるための距離ではない。

苦痛から逃れ、別の人間へ投げつけるための距離だった。

酒場に銃声が響いた。

人々が走った。

倒れた。

彼も路上へ身を伏せた。

一瞬、病院の暗闇が戻った。

黄色い煙。

包帯。

牧師の声。

夜明けの月。

彼は月を見なかった。

見えなかったのではない。

もう必要としなかった。

月より強い光を、自分が群衆に与えられると思っていた。

偽りの太陽。

人間の顔を焼く太陽。


六 有明

五人は、互いに会わなかった。

トラークルとウィトゲンシュタインの間には、一本の細い糸があった。

ウィトゲンシュタインが匿名で与えた金。

トラークルが会いたいと願った支援者。

ウィトゲンシュタインが病院へ着いたとき、詩人はすでに死んでいた。

会うはずだった二人は、会わなかった。

その不在だけが残った。

ヴァレリーは、ほかの四人を知らなかった。

少なくとも、彼らの内部で何が起きていたかを知らなかった。

ヴァールブルクは、自分が蛇の画像を並べていた年、南の酒場で何が始まりつつあるかを知らなかった。

伍長は、パリの書斎で一人の詩人が文明について書いていることも、療養所で一人のユダヤ人学者が恐怖との距離を取り戻そうとしていることも知らなかった。

彼らは、同じ戦争を経験したのではない。

同じ月を見たのでもない。

トラークルの月は青かった。

死者の色だった。

伍長の月は見えなかった。

意味を与えない光だった。

ウィトゲンシュタインの月は、語ることのできる事実であり、語ることのできない意味だった。

ヴァレリーの月は、夜を朝へ伝える証人だった。

ヴァールブルクの月は、闇と光との間に残された思考の距離だった。

それらを一つの月と呼ぶのは、後世の者だけである。

後世の者は、出来事を並べたがる。

一つの原因から、一つの結果が生まれたように語りたがる。

戦争が男を壊した。

男が憎悪を選んだ。

憎悪が次の戦争を生んだ。

文章にすれば、歴史は滑らかになる。

だが、その滑らかさは真実ではない。

一九一四年の納屋と、一九一八年の病室と、一九一九年の書斎と、一九二三年の講堂は、一本の線では結べない。

そこには空白がある。

偶然がある。

制度がある。

他人から渡された言葉がある。

拒むことのできた言葉がある。

引き受けた選択がある。

人間一人の内部にも、縫い合わさらない場所がある。

苦しんだ者と、憎んだ者と、命令した者が同じ人間であっても、その三者を一本の理由によって結ぶことはできない。

傷は未来を決定しない。

沈黙も救済を保証しない。

精密な文章も、群衆を止めない。

学問も、狂気に対する永久の城壁にはならない。

それでも、違いはある。

語れないものを、語れないまま守ること。

分からないものを、分かったことにしないこと。

恐怖との間に、考えるための距離を残すこと。

複雑な苦痛に、安価な顔を与えないこと。

それらは勝利ではない。

歴史を止める力でもない。

有明の月が夜を救わないのと同じである。

月は闇を消さない。

朝を約束しない。

太陽と争わない。

夜が明ければ、見えなくなる。

それでも月は、最後まで光を手放さない。

夜があったことを、朝の中へ渡す。

人間が闇の中で見たものを、なかったことにさせない。

一九二三年の朝、クロイツリンゲンの療養所で、ヴァールブルクは窓辺に立っていた。

講演の翌朝だった。

疲れていた。

頭の中には、まだ蛇の像があった。

稲妻。

砂漠。

踊る人々。

彼は窓を開けた。

東の空が赤み始めていた。

その上に、細い月が残っていた。

遠いパリでも、同じ時刻に月が見えていたかもしれない。

オーストリアの山村でも。

クラクフの墓の上でも。

ミュンヘンの牢獄の狭い窓からも。

だが、それを同じ月と呼ぶ者はいなかった。

ヴァールブルクは月を見た。

月と自分との間には距離があった。

その距離の中で、彼は呼吸した。

やがて太陽が昇った。

月は空から消えた。

消えたのではない。

光の中で、見えなくなっただけだった。

戦争も同じだった。

終わったのではない。

生活の中で、見えなくなっていった。

人々は働いた。

食事をした。

子供を育てた。

恋をした。

本を書いた。

選挙へ行った。

新聞を読んだ。

次の戦争を準備した。

一九一八年十一月十一日、戦争は終わった。

戦後は、終わらなかった。

戦後

 

戦後

一 鐘

一九一八年十一月十一日。

正午より少し前から、鐘が鳴り始めた。

はじめは一つだった。

遠くにある教会の鐘が、冬の低い空を押し上げるように、一度だけ鳴った。その音が消えきらないうちに別の鐘が応え、さらに別の鐘が鳴った。

鐘の数は増えつづけた。

村の鐘、市庁舎の鐘、修道院の鐘、工場の始業を知らせていた鐘。長いあいだ沈黙していたものまで、何かを取り戻そうとするように鳴っていた。

ポンメルンの陸軍病院では、看護婦のアンナ・ヴァイスが包帯を巻いていた。

患者は顔を上げなかった。

両眼を覆う白い布は、涙と薬液と膿で湿っていた。瞼がどの程度傷ついているのか、医師にもまだ分からなかった。毒ガスによる炎症なのか。ショックによる一時的な視覚障害も加わっているのか。それについて医師たちは、患者のいない場所でだけ話した。

患者は痩せていた。

年齢より老けて見えた。口髭の下の唇は乾き、顎だけが不自然に固かった。

「何の鐘ですか」

患者が訊いた。

アンナは包帯を巻く手を止めなかった。

病棟のほかの患者たちは、すでに知っていた。誰かが廊下を走りながら、休戦だ、と叫んだ。戦争が終わった、と叫んだ。泣いた者もいた。笑った者もいた。寝台から起き上がれず、毛布の中で手だけを叩いている者もいた。

「休戦だそうです」

アンナは言った。

「戦争が終わったのですか」

「ええ」

患者の顎が動いた。

それが笑いなのか、何かを噛み砕こうとしたのか、アンナには分からなかった。

鐘は鳴りつづけていた。

患者はしばらく黙っていた。

「では」

彼は言った。

「われわれは、何になったのです」

アンナは答えなかった。

包帯の端を鋏で切り、留め金で固定した。

患者の名札には、アドルフ・ヒトラー、伝令兵、伍長、と書かれていた。

その名前は、当時、何の意味も持っていなかった。


パリでは、人々が通りへ出ていた。

見知らぬ者どうしが抱き合い、帽子を投げ、国旗を振った。酒瓶が開けられ、兵士たちは自動車の屋根に乗った。女たちは窓から身を乗り出し、紙吹雪を撒いた。

ポール・ヴァレリーは、その音を部屋の中で聞いていた。

彼は机に向かっていた。

目の前には白い紙があった。

白い紙には、何も書かれていなかった。

街路から歓声が上がるたびに、窓硝子がかすかに震えた。

戦争が終わった。

その言葉を、彼は頭の中で発音してみた。

戦争が終わった。

文法としては完全だった。主語があり、述語があり、意味も明瞭だった。

しかし現実の何にも対応していないように思われた。

戦争は、いつ始まったのか。

一九一四年八月か。皇帝たちが署名した日か。最初の兵士が国境を越えた瞬間か。

あるいはもっと以前、ヨーロッパが自分自身を理性の大陸だと信じたときから、すでに始まっていたのではないか。

科学が戦争をなくすと人々は言った。

商業が国家を結びつけると人々は言った。

鉄道は文明を運ぶと人々は言った。

その鉄道が、一日に何万人もの若者を屠殺場へ運んだ。

化学は自然を支配すると人々は言った。

その化学が、肺を焼き、眼球を腐らせ、風そのものを兵器にした。

文明は野蛮を克服したのではない。

文明は野蛮に、数学と時刻表と工業規格を与えたのだ。

歓声が上がった。

ヴァレリーは立ち上がり、窓辺へ行った。

通りの人々は皆、生きていることに驚いているように見えた。

若い女が老兵に接吻した。片脚のない兵士が松葉杖を掲げた。子供が小さな旗を振りながら転び、大人たちが笑った。

ヴァレリーは窓を閉めた。

静かにはならなかった。

閉ざされた窓の向こうで、ヨーロッパが自らの生存を祝っていた。

生き残った者は、生き残ったことを祝う。

だが文明は、生き残ったのだろうか。

それともこれは、すでに死んでいる肉体が、死を認識できないまま踊っているだけなのだろうか。

彼は机に戻った。

そして紙の上に、最初の一行を書いた。

われわれは、文明もまた死ぬということを知った。

書いたあとで、彼は長いあいだ、その文を見つめていた。

それは文章ではなかった。

悲鳴が、文章の形を借りているだけだった。


イタリアの捕虜収容所では、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが鉛筆を削っていた。

兵士たちは休戦の噂をしていた。

勝った者と負けた者の区別は、収容所の中では曖昧だった。鉄条網の内側にいる者は皆、同じような毛布をかぶり、同じような缶から薄いスープを飲んだ。

ウィトゲンシュタインはノートを開いた。

一と書いた。

その下に、短い文を書いた。

一・世界は、起きていることのすべてである。

鉛筆を止めた。

隣で横になっていた兵士が訊いた。

「何を書いている」

「世界についてです」

兵士は笑った。

「こんなところでか」

ウィトゲンシュタインは答えなかった。

兵士は毛布を鼻まで引き上げた。

「世界は終わったよ」

ウィトゲンシュタインは、書いた文を見た。

世界は、起きていることのすべてである。

ならば世界が終わるとは、どういうことか。

事実がなくなることか。

人が死ぬことは事実である。

帝国が崩壊することも事実である。

村が焼けることも、砲弾で身体が分かれることも、母親に手紙が届くことも事実である。

しかし、なぜそれが恐ろしいのかは、事実の中にはない。

意味は、世界の中にはない。

ならば、意味はどこにある。

彼は鉛筆を持ち直した。

二・死は、生の出来事ではない。

書き終えた瞬間、遠くで誰かが歌い始めた。

祖国の歌だった。

一人が加わり、二人が加わった。

ウィトゲンシュタインは耳を塞がなかった。

歌の中には、戦争前の祖国が残っていた。

実際にはもう存在しない国が、声の中でだけ完全な形を保っていた。

言葉は、存在しないものを存在させる。

それなら、言葉は世界の写しではない。

言葉はときに、失われた世界を保存する墓なのだ。

彼はノートを閉じた。

その夜、彼はほとんど眠らなかった。

二 手

ケーテ・コルヴィッツは粘土に触れていた。

粘土は冷たかった。

人間の身体を作るには、あまりに冷たすぎると彼女は思った。

息子のペーターの額は、もっと温かかった。

熱を出したとき、額に手を当てたことがある。子供の頃だった。彼女の掌の下で、細い血管が動いていた。

その額は、いまベルギーの土の下にあった。

四年前、ペーターは志願したいと言った。

まだ若すぎた。

親の許可が必要だった。

夫は反対した。

ケーテも、最初は反対した。

だが息子は語った。祖国について。義務について。若者が歴史に参加することについて。

その言葉のいくつかは、彼女自身が息子に教えた言葉だった。

自由。

正義。

犠牲。

人間は、自分が子供に与えた言葉によって、子供を失うことがある。

最後に彼女は署名した。

ペーターは出征し、まもなく死んだ。

戦争が終わった日にも、彼は帰らなかった。

戦争が終われば死者が戻ると、誰も言ってはいなかった。それでも心のどこかで、彼女はそう思っていた。

終わるとは、元に戻ることだと思っていた。

何一つ元には戻らなかった。

粘土の中から、父親の身体が現れかけていた。

膝を折り、頭を垂れた男。

その傍らに母親を置く。

二人のあいだに、死んだ息子はいない。

不在そのものを、像にしなければならなかった。

だが不在には形がない。

作っては潰した。

顔を作れば、それはペーターではなかった。

顔を作らなければ、それは誰の死でもなかった。

ケーテは両手を粘土に押し込んだ。

十本の指が沈んだ。

粘土の表面に、指の跡が残った。

人間は死んでも、触れた者の手に残る。

彼女はそう考えた。

だが次の瞬間、それは嘘だと思った。

手に残るのは死者ではない。

死者に触れられなくなったという感覚だけである。

戸が叩かれた。

夫が診療所から戻ってきたのかと思ったが、そこに立っていたのは若い男だった。

軍服を着ていた。

右袖が空だった。

「奥様が、兵士の絵を描いていると聞きました」

男は言った。

ケーテは男を中へ入れた。

名はヤーコプ・ヴァイスといった。

戦争前は印刷工だったという。

「座ってもらえますか」

ケーテは言った。

「どのように」

「楽な姿勢で」

ヤーコプは笑った。

「楽な姿勢というものを忘れました」

彼は椅子に座った。

左手を膝に置いた。

空の右袖が、椅子の脇に垂れた。

ケーテは木炭を取った。

輪郭を描き始めた。

顔ではなく、左手から描いた。

「妹が看護婦です」

ヤーコプは言った。

「休戦の日、病院にいたそうです」

「そうですか」

「兵士たちは喜んだそうです。ですが一人だけ、戦争が終わったのなら、自分たちは何になったのかと訊いた」

木炭の先が止まった。

「妹さんは何と答えたのです」

「答えられなかったそうです」

ケーテは再び描き始めた。

「それでよかったのだと思います」

「なぜです」

「答えがあるふりをするよりは」

ヤーコプは黙った。

ケーテは、彼の左手を描きつづけた。

その手は生き残った者の手だった。

だが、生き残るとは、身体のどこかが残ることではない。

戦争から帰ってきた者の中には、帰ってこなかった部分がある。

絵にすべきなのは、残った手ではなく、その手がつかむことのできないものなのだと、彼女は思った。

三 画像

アビ・ヴァールブルクの書斎には、戦争が終わっていなかった。

新聞の切り抜きが積み上げられていた。

将軍の写真。

戦死者名簿。

国旗。

砲身。

燃える都市。

傷ついた馬。

敵国を獣として描いた風刺画。

勝利の女神。

剣を持つ母国。

子供を食らう怪物。

飛行船。

毒ガスを表す緑色の雲。

ヴァールブルクは、それらを壁に貼った。

新聞の記事が伝えているのは出来事ではなかった。

出来事に耐えるために、人間が呼び戻した古い身振りだった。

腕を振り上げる兵士は、古代の英雄と同じ姿勢をしていた。

髪を振り乱す母親は、ギリシア悲劇の女と同じ顔をしていた。

敵を踏みつける国家は、古代の勝利の女神の衣装を着ていた。

電信と写真と輪転機によって、近代人は古代の情念から自由になるどころか、古代の情念を一日に百万部ずつ印刷していた。

「彼らは戻ってきた」

ヴァールブルクは言った。

妻は返事をしなかった。

「神々だ。追放された神々だ。理性の地下室に閉じ込めておいたものが、電話線を通って戻ってきた」

彼は電話機を見た。

黒い受話器は、机の端に置かれていた。

沈黙している。

だがその沈黙の奥で、誰かが聞いているように思われた。

ヴァールブルクは受話器を布で包んだ。

「アビ」

妻が言った。

「休みましょう」

「休めば、彼らが入ってくる」

「誰が」

ヴァールブルクは壁を指した。

壁一面の人間たちが、こちらを見ていた。

兵士。

皇帝。

母親。

女神。

死者。

「画像は死なない」

彼は言った。

「人間が死んでも、身振りは生き延びる。身振りは次の身体を探す。いま彼らは、われわれの身体を探している」

妻は彼の肩に触れようとした。

ヴァールブルクは身を引いた。

その手が誰の手なのか、一瞬、分からなかった。

妻の手なのか。

勝利の女神の手なのか。

死者を冥界へ引く手なのか。

彼は壁の写真を一枚ずつ剥がし始めた。

剥がしても剥がしても、下から別の写真が現れた。

床に紙が降り積もった。

「燃やさなければ」

彼は言った。

「何を」

「画像を」

だが、火をつければ炎の画像が生まれる。

破壊すれば破壊の身振りが残る。

逃げ場はなかった。

数日後、彼は病院へ運ばれた。

馬車の窓から、冬の街が見えた。

人々はパンを買い、新聞を読み、電車を待っていた。

戦後の街だった。

ヴァールブルクには、古代ローマの廃墟に見えた。

四 帰還

アンナの兄ヤーコプは、右腕をフランスに残して帰ってきた。

実際には、どこに残してきたのか本人にも分からなかった。

砲弾が落ちた。

身体が地面を離れた。

気がついたときには野戦病院におり、右肩から先がなかった。

腕を見た者はいなかった。

回収されたのか。

土に埋まったのか。

ほかの兵士の身体と一緒になったのか。

ヤーコプはときどき、存在しない右手を握った。

指が掌に食い込む感覚があった。

爪が伸びているような気もした。

夜になると、その手がどこか遠い土地で勝手に動いているように思えた。

自分が眠っているあいだに、失った手だけが戦争を続けている。

「痛むの」

アンナが訊いた。

「ないものが痛む」

「医師に話した?」

「医師は知っている」

「薬は」

「薬は、ないものには効かない」

ヤーコプは印刷所に戻ろうとした。

活字を拾い、組版し、紙を機械へ送る仕事だった。

以前は両手で行っていた。

左手だけで活字を拾おうとすると、金属片はすぐに床へ落ちた。

親方は親切だった。

急がなくてよいと言った。

それがいちばんつらかった。

かつては誰より速く組めた。

いまは一つの単語を作るあいだに、若い職人が一段を組み終えた。

ヤーコプは床に落ちた活字を拾った。

小さな鉛の文字だった。

という字に相当するドイツ語の一部だった。

次に拾ったのは、

に相当する語の一部だった。

戦争の後。

戦後。

二つの言葉を並べれば、時間の名前になる。

しかし、その時間にどのように生きるかは、どの文字にも書かれていなかった。

印刷所には、新しい注文が増えていた。

政党のビラ。

集会の告知。

共和国を守れ。

祖国を救え。

裏切り者を許すな。

労働者よ、団結せよ。

兵士よ、立て。

どの文章も命令形だった。

戦争が終わったあと、人々は互いに命令するようになった。

ヤーコプは左手だけで活字を並べた。

彼自身は、どの命令にも従いたくなかった。

だが印刷された言葉は、彼の意思とは関係なく街へ出ていった。

アンナは病院を辞めずに働いていた。

戦争が終われば患者は減ると思っていた。

逆だった。

戦争中、前線に隠されていた傷病兵が、戦後になると街へ戻ってきた。

身体を欠いた者。

眠れない者。

声を失った者。

歩けるのに歩けない者。

音のない場所で砲撃を聞く者。

食卓の下へ潜り込む者。

妻の顔が敵兵に見える者。

自分の子供を抱くことのできない者。

医学は彼らに名前をつけた。

震顫。

失語。

麻痺。

神経衰弱。

ヒステリー。

砲弾神経症。

名前がつくと、理解されたように見えた。

だが名前は、傷を説明しなかった。

ただ、書類の所定の欄に収めただけだった。

ある夜、アンナは病院の記録簿を開いた。

休戦の日に包帯を巻いた患者の名前を探した。

アドルフ・ヒトラー。

すでに退院していた。

行き先はミュンヘンの兵舎と記されていた。

アンナは、彼の問いを思い出した。

われわれは、何になったのです。

あの日、自分は何と答えるべきだったのだろう。

市民です。

敗者です。

生存者です。

帰還兵です。

人間です。

どの答えも、あの男の問いには小さすぎるように思われた。

五 文法

ミュンヘンの兵舎には、まだ寝台があった。

軍服もあった。

食事の時間もあった。

命令する者と、命令される者がいた。

アドルフにとって、それは世界がまだ完全には崩壊していない証拠だった。

街へ出れば、何もかもが曖昧だった。

皇帝はいない。

政府は変わった。

赤い腕章をつけた男たちが演説し、別の男たちが彼らを撃った。

昨日まで味方だった者が、今日は反逆者と呼ばれた。

祖国という言葉は残っていたが、その祖国がどこにあるのか分からなかった。

地図の中か。

軍旗の中か。

死んだ戦友の身体の中か。

兵舎の食堂で、兵士の一人が言った。

「俺たちは負けたんじゃない。裏切られたんだ」

アドルフは顔を上げた。

その言葉は短かった。

短い言葉は、疲れた者にも理解できる。

負けたのではない。

裏切られた。

それまで彼の内部にあったものには、形がなかった。

眼の痛み。

敗戦の知らせ。

皇帝の退位。

戦友の死。

空腹。

職業のなさ。

帰るべき家のなさ。

それらは互いにつながらず、暗闇の中に散らばっていた。

裏切りという言葉は、それらを一本の線で結んだ。

原因があった。

原因があれば、責任を負う者がいる。

責任を負う者がいれば、怒りを向ける方向が生まれる。

怒りには、悲しみにない利点があった。

悲しみは人を座らせる。

怒りは人を立たせる。

軍の政治教育の講義で、教師は国家、民族、革命、宣伝について語った。

アドルフは聞いた。

はじめは聞くだけだった。

やがて質問した。

さらに、質問に答えるようになった。

彼が話すと、兵士たちはこちらを見た。

人に見られるという感覚を、彼は長いあいだ知らなかった。

画家になろうとしていた頃、誰も彼の絵を見なかった。

ウィーンでは、彼は群衆の中の一人だった。

戦場では伝令だった。言葉を運ぶ者であり、自分の言葉を持つ者ではなかった。

いま、彼が話すと、人々が黙った。

彼の内部で、何かが反転した。

見えなかった男が、見られる男になった。

声は彼に輪郭を与えた。

ある日、上官から、一通の問い合わせに返答を書くよう命じられた。

ユダヤ人問題について、軍の見解を説明せよ。

紙が置かれた。

アドルフはペンを持った。

最初の一文を書くまでには時間がかかった。

彼は病院の暗闇を思い出した。

鐘の音。

看護婦の手。

戦争が終わったという声。

われわれは何になったのか、という自分の問い。

あのとき問いには答えがなかった。

いまはあった。

少なくとも、答えの形をした文章があった。

彼は書いた。

個人的な嫌悪ではなく、理性による認識として考えなければならない。

書きながら、自分の文章に説得された。

感情ではない、と書くことで、感情は事実の衣服を着た。

憎悪ではない、と書くことで、憎悪は政策になった。

彼は「私」とは書かなかった。

「われわれ」と書いた。

そして「彼ら」と書いた。

世界は二つに分かれた。

われわれ。

彼ら。

文法が完成した。

六 精神

パリで、ヴァレリーの文章が印刷された。

紙の上では、文明の崩壊は整然としていた。

帝国の没落。

精神の混乱。

知性の危機。

ヨーロッパの有限性。

文章は均衡を保ち、節度を守り、一つの文が次の文を正確に導いた。

読者は、その美しさを褒めた。

ヴァレリーは褒められるたびに、失敗したように感じた。

美しく書けたということは、恐怖を制御できたということだった。

恐怖を制御できたということは、それを本当には表現していないのではないか。

夜明け前、彼は目を覚ました。

午前四時だった。

机に向かい、ノートを開いた。

文章では足りない。

しかし文章以外に何がある。

叫び声は、叫んだ者の喉が嗄れれば消える。

死体は埋められる。

廃墟は建て直される。

記憶は変形する。

最後まで残るのは、言葉かもしれない。

だが言葉は、残るために整えられなければならない。

整えた瞬間、傷から離れる。

精神とは、傷から距離を取る能力なのか。

それとも、傷を見えなくする技術なのか。

彼は書いた。

人間は、自分が耐えられる形に世界を変形して理解する。

書いたあと、その一行を消した。

正確すぎた。

正確な文章は、ときに不正確な沈黙よりも卑怯だった。

窓の外が、わずかに白み始めていた。

有明の月が残っていた。

夜が終わっても消えきれず、朝の光の中で薄く浮かんでいる。

ヴァレリーは月を見た。

人間の精神も、あのようなものかもしれないと思った。

夜を照らすことはできない。

朝を始めることもできない。

ただ、夜が存在したことを、朝の中に残す。

精神にできるのは、それだけなのかもしれなかった。

七 黒

ケーテは木版を彫った。

彫刻刀が板を削った。

白い木の肌に、黒となる部分を残していく。

版画では、彫らなかった場所が黒になる。

触れなかった部分が、最も濃く印刷される。

彼女は母親を彫った。

子供たちを抱き込む母親。

死から子供を守ろうとする母親。

だが腕は足りなかった。

二本の腕で、すべての子供を守ることはできない。

彼女自身も、息子を守れなかった。

ペーターは十八歳だった。

彼の意志を尊重した。

そう言えば聞こえはよかった。

本当は、自分もまた、あの時代の熱狂の中にいた。

息子の目に宿った光を、美しいと思った。

若者が自分より大きなものに身を捧げようとする姿に、心を動かされた。

母親だけが被害者だったのではない。

母親もまた、息子を戦場へ送った世界の一部だった。

彫刻刀が滑った。

指先から血が出た。

血は板に一滴落ちた。

ケーテは拭かなかった。

赤は、印刷すれば黒になる。

すべての血は、紙の上では同じ色になる。

作品を見に来たアンナは、一枚の版画の前で動けなくなった。

母親が、子供たちを身体の中へ戻そうとしていた。

生まれる以前の場所へ。

国家も戦争も言葉も存在しなかった場所へ。

アンナは兄の空の袖を思った。

病院の患者たちを思った。

包帯を巻いた眼を思った。

「この人は、守れているのでしょうか」

アンナは訊いた。

ケーテは版画を見た。

「いいえ」

「では、なぜ抱いているのです」

「守れないからです」

アンナはしばらく黙った。

「守れないのに、抱くのですか」

「守れるから抱くのではありません」

ケーテは言った。

「人間は、守れないと知ったあとにも、抱くしかないのです」

八 学校

オーストリアの山村で、ウィトゲンシュタインは子供たちに単語を教えていた。

黒板に、家、と書いた。

子供たちが声をそろえて読んだ。

「家」

「家とは何ですか」

彼は訊いた。

子供たちは笑った。

「住むところです」

一人が答えた。

「家族がいるところ」

別の子が言った。

「帰るところ」

ウィトゲンシュタインはチョークを持ったまま、動かなかった。

帰るところ。

戦争から戻った兵士は、皆、帰還兵と呼ばれた。

だが戻った場所が出発した場所と同じでなければ、それは帰還なのか。

自分自身が出発したときの人間と同じでなければ、誰が帰ったのか。

「先生」

子供が言った。

「答えは何ですか」

ウィトゲンシュタインは黒板の家という文字を見た。

言葉の意味は、物の中に隠されているのではない。

人間がその言葉を使う生活の中にある。

ならば、生活が壊れたとき、言葉の意味も壊れる。

帝国。

祖国。

勇気。

名誉。

犠牲。

平和。

戦争前と戦争後では、同じ音を持つ言葉が、別のものを意味していた。

「先生?」

「答えはありません」

子供たちが黙った。

ウィトゲンシュタインは、自分の言い方が間違っていたと思った。

答えがないのではない。

一つの答えしかないと思うことが、間違いなのだ。

「家とは」

彼は言い直した。

「われわれが、家という言葉を使う場所です」

子供たちは困った顔をした。

最前列の少女が手を挙げた。

「では、家が燃えたら、家という言葉も燃えますか」

ウィトゲンシュタインは少女を見た。

教室の窓から、雪の山が見えた。

「いい質問です」

彼は言った。

それ以上は答えられなかった。

九 蛇

一九二三年。

スイスの療養所で、アビ・ヴァールブルクは講演の準備をしていた。

机の上に、北米先住民の蛇の儀礼を写した写真が並べられていた。

若い頃に見た儀式だった。

人間が蛇を手に持ち、踊り、雨を求める。

蛇は地を這う。

稲妻は空を走る。

両者は形が似ている。

人間は理解できない自然を、形の類似によって結びつける。

恐怖に距離を与える。

象徴とは、恐怖を消すものではない。

恐怖に触れずに見つめるための間隔である。

医師たちは、講演がうまくいけば、ヴァールブルクの回復の証拠になると考えていた。

彼自身も、それを知っていた。

これは学術講演であると同時に、裁判だった。

自分は正気である。

画像を配列できる。

原因と結果を語ることができる。

蛇を蛇として、稲妻を稲妻として区別できる。

そのことを証明しなければならない。

聴衆の前に立った。

写真を示した。

言葉は最初、震えていた。

やがて整った。

儀礼について語った。

象徴について語った。

魔術から理性へ向かう人間の努力について語った。

だが、話しながら彼は考えていた。

本当に人間は魔術から理性へ向かったのか。

ヨーロッパ人は蛇を笑った。

雨乞いを未開と呼んだ。

その同じヨーロッパ人が、国旗に接吻し、皇帝の肖像の前で跪き、民族という目に見えない存在のために何百万人もの若者を殺した。

どちらが魔術なのか。

蛇を手にして踊る人々か。

地図上の線を神聖なものと信じて死ぬ人々か。

講演を終えると、拍手が起こった。

医師は満足そうだった。

ヴァールブルクは椅子に座った。

彼は正気を証明した。

少なくとも、正気と呼ばれる形式で話すことには成功した。

同じ夜、ミュンヘンでは、別の男が群衆の前に立っていた。

アドルフは旗を見た。

旗は布にすぎなかった。

だが人々は布を見ているのではない。

そこに、自分たちが失ったものを見ていた。

帝国。

勝利。

秩序。

父親。

戦友。

価値。

未来。

彼は話した。

声を高くした。

言葉と言葉のあいだを短くした。

聴衆が考える時間を与えなかった。

怒りを一つの像に集めた。

敗北には顔がある。

苦痛には原因がある。

われわれには敵がいる。

彼が「われわれ」と言うたびに、群衆の身体は一つになった。

彼が「彼ら」と言うたびに、その身体の外側に別の人間が追い出された。

象徴は、恐怖との距離を作ることもできる。

象徴は、恐怖と人間を一体化させることもできる。

スイスで、ヴァールブルクは蛇の画像を使い、人間が恐怖から半歩退く方法を語った。

ミュンヘンで、アドルフは敵の画像を使い、人間を恐怖の中へ半歩進ませた。

どちらも、戦後に生まれた言葉だった。

一方は傷を見つめるための言葉。

もう一方は傷を他人へ移すための言葉。

夜が更けた。

ミュンヘンでは銃声が響いた。

人々が走った。

倒れた。

旗が路上に落ちた。

アドルフも地面へ倒れた。

一瞬、病院の暗闇が戻ってきた。

眼を覆う包帯。

鐘の音。

看護婦の手。

われわれは何になったのか。

あの問いは、まだ彼の中にあった。

彼は答えを得たつもりだった。

だが実際には、問いを巨大にし、何千何万という人間の口に移しただけだった。

十 有明

ヴァレリーは、夜明け前の机に向かっていた。

遠いドイツで起きた騒乱の記事が置かれていた。

ミュンヘン。

武装した一団。

失敗した政変。

逮捕された指導者。

記事は小さかった。

新聞の一面を占めるほどの事件ではなかった。

ヨーロッパでは、毎日のように政府が倒れ、通貨が崩れ、群衆が行進していた。

彼は記事を切り取らなかった。

ただ、その名前を見た。

アドルフ・ヒトラー。

知らない名前だった。

新聞を畳んだ。

窓の外には有明の月があった。

戦争が終わって五年が過ぎていた。

街には新しい服を着た若者が歩き、自動車が走り、劇場では音楽が演奏された。

人々は恋をした。

子供が生まれた。

株価が上がり、下がった。

新しい詩が書かれ、新しい機械が作られた。

生活は続いていた。

生活が続くことは、救いである。

同時に、それは恐ろしいことでもある。

人間は、あらゆることのあとに朝食を食べることができる。

百万人が死んだあとにも、珈琲を飲む。

文明が崩壊したあとにも、劇場へ行く。

忘れる能力がなければ、人間は生きられない。

だが忘れる能力によって、人間は同じことを繰り返す。

精神とは、記憶することと忘れることのあいだに張られた、細い糸なのかもしれない。

強く引けば切れる。

緩めれば地面に落ちる。

ヴァレリーは白い紙を前にした。

書くべきことは、すでに書いたように思われた。

文明が死ぬこと。

知性が自らを破壊すること。

人間の精神が、自分の作った力に追いつけないこと。

だが、それでも足りなかった。

死について書くことと、死者を戻すことのあいだには、無限の距離がある。

彼はペンを置いた。

月は薄くなっていた。

夜が朝に敗れたのではない。

朝の中に、夜が見えなくなっていくだけだった。

そのとき彼は、戦後という時間の正体を理解したように思った。

戦後とは、戦争が過去になる時間ではない。

戦争が、見えないものになる時間である。

終章 戦後

一九二三年の冬、アンナは兄と歩いていた。

ヤーコプは左手で杖を持っていた。

失った右腕は、今日も痛むと言った。

二人は駅前の新聞売り場を通った。

新聞の片隅に、ミュンヘンの反乱事件の裁判についての記事があった。

写真が載っていた。

口髭のある男。

アンナは足を止めた。

「どうした」

ヤーコプが訊いた。

「この人を知っている気がする」

新聞を手に取った。

写真の男は、真っすぐ前を見ていた。

眼は開いていた。

あの日、包帯の下に隠れていた眼だった。

「病院にいた人?」

「たぶん」

アンナは記事を読んだ。

男は法廷で長い演説を行い、自分こそが国家を救おうとしたのだと主張したという。

「どんな患者だった」

ヤーコプが訊いた。

アンナは答えようとした。

暗い人だった。

怒っていた。

危険だった。

そのどれも正しくなかった。

彼女が覚えているのは、包帯と、乾いた唇と、一つの問いだけだった。

「何も見えない人だった」

アンナは言った。

「眼が悪かったのか」

「それだけではなくて」

彼女は新聞を戻した。

二人は再び歩き始めた。

駅前には復員兵が座っていた。

片脚の者。

顔を布で覆った者。

何の傷も見えないのに、壁にもたれて震えている者。

通勤する人々は、その前を通り過ぎた。

誰も冷酷なのではなかった。

毎日立ち止まっていては、生活できないだけだった。

街路電車が走った。

店が開いた。

パンの匂いがした。

子供たちが学校へ向かった。

世界は続いていた。

ヤーコプは存在しない右手を握った。

アンナは、包帯を巻いた眼を思い出した。

ベルリンでは、ケーテ・コルヴィッツが黒い版画を刷っていた。

オーストリアでは、ウィトゲンシュタインが黒板の文字を消していた。

スイスでは、ヴァールブルクが蛇の写真を箱へ戻していた。

パリでは、ヴァレリーが有明の月の消えた空を見ていた。

ミュンヘンでは、一人の男が牢獄の中で、自分の過去を新しい物語へ書き換え始めていた。

誰も互いを知らなかった。

誰も、同じものを見てはいなかった。

けれど彼らは皆、同じ戦争のあとにいた。

戦争は終わっていた。

戦後は、まだ始まったばかりだった。

堂島ばけもの算用 第七話 江戸の役人、天気に値をつける

 

堂島ばけもの算用

第七話 江戸の役人、天気に値をつける

 役人というものは、雨に向かって、

「降るな」

 と言い、日照りに向かって、

「ほどほどに照れ」

 と言い、米の値が上がれば、

「下がれ」

 と言う。

 雨にも日にも米にも、べつだん役人の命令を聞く義理はない。

 それでも役人は、紙へ書き、印を押し、立札を立てれば、天地の方が恐れ入って従うものだと、どこかで信じている。

 葛城主膳という男は、その信心が、いささか強すぎた。

                 *

 曽根崎へ向かう渡し舟には、ずいぶん妙な一行が乗っていた。

 九九の怪しい丁稚が一人。

 算盤を抱えた娘が一人。

 大店の叱られ役が一人。

 渡しの婆さん。

 それに、どこからついてきたのかわからぬ犬が一匹。

 麻田剛立は、

「わしは手伝わぬ」

 と言って梅田の葦原へ残った。

 ただし、星を見るための長い筒だけは寅吉に持たせた。

「これ、どうするんや」

「星を見よ」

「役人の宿へ忍び込むのに?」

「人間ばかり見ておるから、道を誤る」

「夜道で転ぶ方が先やと思うけどな」

 その長筒が、のちにたいそう役に立つのであるが、何に役立ったかは、まだ申し上げぬ。

 先に申し上げると面白くない。

 もっとも、ここまで何度も死人やら幽霊やらを先に出してきた語り手が、今さら順序を気にするのも、おかしな話ではある。

                 *

 曽根崎の夜は、船場の夜とは違う。

 船場では、夜になれば大店の戸が閉まり、番頭が帳面を締め、丁稚が叱られ、主人が妾のところへ出かける。

 町の一日が、いったん算盤の音で終わる。

 ところが曽根崎では、日が沈んでから、別の一日が始まる。

 露天神の境内には灯が並び、願掛けの女、博奕帰りの男、商談を終えた手代、商談より長い言い訳を考える番頭、旅の僧、夜鷹、飴売り、香具師、占い師、盗人を探す岡っ引き、その岡っ引きを避ける盗人が、同じ道を押し合って歩いていた。

 茶屋からは三味線。

 小屋からは笑い声。

 路地からは夫婦喧嘩。

 橋の下からは鼾。

 神社の前では、

「一生添い遂げられますように」

 と若い男女が祈り、そのすぐ横で、年を取った夫婦が、

「どうか早う別れられますように」

 と別々に祈っている。

 神様も忙しい。

「葛城主膳の宿は、どこや」

 寅吉が尋ねた。

 お六婆さんは、露天神の裏手を指した。

「雲井屋いう旅籠や。江戸者がよう泊まる」

「なんで知っとるん」

「渡しをしてたら、誰がどこへ行くか、みな聞こえる」

「船頭いうのは、よう知っとるな」

「客は、水の上へ出ると、陸より口が軽うなる」

「なんでや」

「逃げ場がないから、安心するんやろ」

「逆やと思うけどな」

 雲井屋は、細い蜆川に近い、二階建ての旅籠であった。

 表には江戸言葉を話す供侍が二人。

 裏口には中間が一人。

 川側には小舟が一艘、いつでも出られるようにつないである。

「見張りが多いな」

 鶴松が言った。

「正面から入られへん」

「裏も無理や」

「川から行くか」

「犬はどうする」

 犬は、わん、と鳴いた。

「行く言うてる」

「なんで犬の言葉だけわかるんや」

「顔に書いてある」

                 *

 結局、正面から入った。

 策がなかったわけではない。

 お駒に策があったのである。

「天文方の使いでございます」

 雲井屋の番頭に向かって、お駒はしれっと言った。

 寅吉は麻田剛立の長筒を担いでいる。

 鶴松は、どこから盗ってきたのか、古びた羽織を着せられ、いかにも学者の供らしい顔を作っている。

 もっとも、学者の供がどんな顔をするものか、誰も知らぬ。

 お六婆さんは一行の後ろで腰を曲げ、

「星読み婆でございます」

 と名乗った。

「婆さん、そこまでせんでええ」

 寅吉が小声で言った。

「役がある方が入りやすいやろ」

「犬は?」

「天狗犬」

「なんや、それ」

「いま作った」

 雲井屋の番頭は、困った顔をした。

「葛城様は、ただいま大切なお話し中でございます」

「せやから来ました」

 お駒は言った。

「今夜、潮が変わります。明け方には南東の風。川霧が出て、堂島の火縄が湿る。米相場に関わる大事です」

「それが葛城様と、どういう関わりで」

「御役人は、お天気にも値をつけはると聞いております」

 番頭は、ますます困った。

 こういうとき、わからぬから追い返す人間と、わからぬから偉い話だと思う人間がいる。

 旅籠の番頭は、後者であった。

「少々、お待ちを」

 奥へ引っ込んだ。

「うまいこと言うな」

 寅吉が感心した。

「何のことや」

「南東の風とか、川霧とか」

「麻田先生が、夜半から雲が出る言うてたやろ」

「火縄が湿るんは?」

「いま考えた」

「嘘やないか」

「天気予報は、外れることもある」

                 *

 通された座敷には、三人の男がいた。

 一人は、空木藩の留守居役。

 一人は、北浜の商人らしき男。

 そして上座に、葛城主膳が座っていた。

 四十を少し越えた頃か。

 細面で、眉が濃く、髪には乱れ一つない。

 着物も、帯も、脇差も、何もかもが、決められた位置へ正確に収まっている。

 人間というより、役所の書式が、そのまま歩いてきたような男である。

「天文方の使いだと」

 葛城は、お駒たちを順に見た。

 娘。

 丁稚。

 丁稚。

 婆。

 犬。

 どう見ても天文方の使いではない。

 だが、どう見ても天文方の使いではないところが、かえって何か秘密の御用らしくも見える。

 権威というものは、しばしば、見る者の想像力に助けられている。

「はい」

 お駒は平然と頭を下げた。

「今夜から明朝にかけて、水気が変わります」

「何が起きる」

「お米が上がります」

 空木藩の留守居役が、顔色を変えた。

 北浜の商人も、葛城を見た。

「根拠は」

 葛城が尋ねる。

「月です」

「月が米価を決めるのか」

「月が潮を動かし、潮が舟を動かし、舟が米を運びます。米が来れば下がり、来なければ上がる。月が値を決めるというても、半分は当たっております」

「残り半分は」

「人の気です」

 葛城の目が細くなった。

「誰に教わった」

「大坂に住んでいたら、どこからでも聞こえてきます」

「名は」

「駒と申します」

「姓は」

「商人の娘に、そんな上等なものはございません」

 葛城は、わずかに笑った。

「天文方の使いではないな」

「いま気づきはったんですか」

 寅吉が口を挟んだ。

 お駒が足を踏んだ。

「痛っ」

「黙っとき」

「お前たちは何者だ」

「大坂の者です」

「それは見ればわかる」

「見てもわからんことを、聞きに来ました」

 葛城の顔から笑いが消えた。

                 *

「空木藩の米を、梅田の泥の下へ隠したんは、あんたですか」

 お駒が言った。

 空木藩の留守居役が息を呑んだ。

 北浜の商人が腰を浮かせた。

 葛城だけが、動かなかった。

「何の話だ」

「三艘の平底舟。空木だけやない。ほかの藩の米も積んでありました。偽の印も、偽の米切手も、道頓堀の芝居の勘定も見つけました」

「子供の作り話だな」

「では、これは?」

 お駒は、葛城の書状を懐から出した。

 梅田の米舟に隠されていたものだ。

 葛城は書状を一目見た。

 顔は変わらぬ。

 だが、右手の指だけが、ほんの少し動いた。

 寅吉は、その動きを見逃さなかった。

 数字は覚えられぬが、人の顔と癖は覚える。

「それは偽書だ」

「印は本物に見えます」

「偽の印を作る者がいたのであろう」

「その印判師は殺されました」

「ならば、そやつが犯人だ」

「死人に何もかも押しつけるん、江戸では流行ってるんですか」

 葛城は、お駒の顔をじっと見た。

「賢い娘だ」

「よう言われます」

「賢い者ほど、自分の見たものだけで、世の中の全てがわかったと思う」

「役人は、見てもいないものまで、わかった顔をしはりますな」

 座敷の空気が凍った。

 鶴松が、少しずつ後ろへ下がり始めた。

 逃げ道を探している。

 犬も座敷の端へ移った。

 犬の方が鶴松より早い。

                 *

「お前たちは、堂島を何だと思う」

 葛城が聞いた。

「米を売り買いするところや」

 寅吉が答えた。

「米はほとんど動かぬ」

「ほな、米が動いたことにするところや」

「嘘を売る場所だ」

 葛城は言った。

「米がないのに米を売る。豊作になるか凶作になるかもわからぬうちから、値を決める。噂一つで上がり、恐れ一つで下がる。汗を流して米を作る百姓とは無縁の者が、帳面の数字だけで千両を得る」

「それの何が悪い」

 葛城が寅吉を見た。

「悪くないと?」

「わしにはわからん。けど、米を作った百姓かて、収穫する前から金が要るやろ。藩かて、米が売れる前に借金せな回らん。舟も、倉も、人足も、先に銭が要る。ありもせん米を売るから、ほんまの米が動くこともあるんと違うか」

 これは、寅吉自身の言葉というより、堂島で聞いた多くの言葉が、腹の中で勝手につながって出てきたものである。

 九九は言えぬ。

 だが、人の言葉を一度聞けば忘れぬ。

 人間は、自分一人の頭だけで考えるわけではない。

 他人から拾った言葉を、知らぬ間に腹で煮て、自分のものとして吐き出す。

 富永仲基が見れば、これもまた加上じゃ、と喜んだであろう。

「その仕組みが、飢えを生む」

 葛城は言った。

「天明の飢饉では、米価が上がり、民が打ちこわしをした。商人は米を抱え、値が上がるのを待った。相場は、恐れを食って肥えた」

「役人は何をしたんです」

 お駒が尋ねた。

「何?」

「飢饉になる前に、役人は米を生やしたんですか。雨を降らせたんですか。冷害を止めたんですか」

「だからこそ、値だけでも制御せねばならぬ」

「値を押さえたら、米が増えるんですか」

「米を売り惜しむ者を取り締まれる」

「値が合わんかったら、誰も運ばへん。舟賃にもならん値で、誰が北国から米を持ってくるんです」

「命令する」

「風にも?」

 お駒は言った。

「潮にも、嵐にも、日照りにも?」

「人にだ」

「人は、風と潮と銭で動きます。命令だけでは、腹は膨れません」

 葛城は黙った。

 その沈黙は、言い負かされた者の沈黙ではない。

 相手を、どの箱へ入れて処理すべきか考える、役人の沈黙であった。

                 *

「わしは、大坂へ来るたび、同じことを思う」

 葛城は、静かに言った。

「この町は、繁りすぎている」

「繁る?」

「商人が勝手に金を貸す。町人が勝手に学校を作る。医者が勝手に獣を切る。絵師が米を扱い、番頭が天下国家を論じ、芝居小屋が藩政を笑う。坊主が相場を張り、学者が幽霊を論ずる」

「最後のは、たぶん論じてへん」

 寅吉が言った。

「黙り」

 お駒がまた足を踏んだ。

「誰も、自分の分を守らぬ」

 葛城は続けた。

「武士は治め、百姓は作り、職人は作り、商人は運ぶ。それぞれが分を守れば、天下は乱れぬ。ところが大坂では、商人が藩を治め、町人が学問をし、役者が政治を語る。根も枝も蔓も絡み合い、どこを切れば、どこが枯れるのか、誰にもわからぬ」

「切らんかったら、ええんと違いますか」

 寅吉が言った。

 葛城は彼を見た。

「繁りすぎた藪は、火事になる」

「刈りすぎた畑には、何も生えへん」

 お駒が答えた。

「大坂の人間は、皆、口が達者だな」

「口で商売してる者も多いですから」

                 *

 葛城は、北浜の商人に目を向けた。

「市兵衛。子供たちを別室へ」

 市兵衛と呼ばれた商人が立った。

 鶴松も立った。

「ほな、帰ってええんですか」

「お前は座れ」

「はい」

 すぐ座った。

 升屋の丁稚は、命令に弱い。

 市兵衛が手を叩くと、隣室から四人の侍が入ってきた。

「捕らえよ」

「犬もですか」

「犬もだ」

 犬が唸った。

「犬は怒ってますで」

 寅吉が言った。

「犬の怒りに値などない」

「噛まれたら、値がわかります」

 侍が犬へ手を伸ばした。

 犬は、その手を噛んだ。

「痛っ!」

「いくらでした」

「黙れ!」

 座敷が乱れた。

 お六婆さんが煙管を投げた。

 鶴松が逃げようとして柱へぶつかった。

 寅吉は麻田の長筒を振り回した。

 お駒は算盤で侍の指を叩いた。

 算盤は、人を賢くする道具であるが、使い方によっては、人の指をたいそう痛くする。

「小賢しい!」

 侍が刀へ手をかけた。

 そのとき、二階の障子が外から、がらりと開いた。

「刀を抜くほどの相手ではあるまい」

 細く、落ち着いた声がした。

 山片蟠桃である。

 屋根の上から、座敷へ入ってきた。

「小右衛門はん!」

 鶴松の顔が、死人より青くなった。

「お前、何をしておる」

「御用を、立派に果たしております」

「逃げようとして柱にぶつかったところまでは見た」

「そこからですか」

「十分じゃ」

 蟠桃の後ろから、升屋の手代が二人、屋根を越えて入ってきた。

「どうして、ここが」

 お駒が尋ねた。

「星の先生から、知らせが来た」

「手伝わん言うてたのに」

「あの御仁は、手伝わぬまま、人を動かす」

 葛城主膳は、蟠桃を睨んだ。

「山片小右衛門。商人が御用の宿へ、屋根から入るとは何事だ」

「戸口から入ろうとしましたが、御用の方々が塞いでおられたのでな。商いも同じです。正面を塞がれれば、別の道を探します」

「お前も、この一件に関わっているのか」

「大坂の米と銀が揺れておる。関わらぬ方が難しい」

                 *

「この書状を見ても、偽書だと言われます」

 お駒が蟠桃へ渡した。

 蟠桃は一読し、葛城を見た。

「偽書ですかな」

「偽書だ」

「では、葛城様が明後日、米会所の差止めを上申なさるという話も、偽りで?」

「江戸の御政道を、商人に答える義務はない」

「なるほど。偽書であるかどうかには答えず、答える義務がない、と」

「言葉尻を取るな」

「帳面の端を拾うのが、番頭の仕事でしてな」

 葛城は、鼻で笑った。

「お前たち商人は、市場に自然の理があると言う。値は、放っておけば正しいところへ落ち着くと。ならば空木藩の切手が暴落したのも、市場の理ではないか」

「相場を人為で動かしておきながら、落ちた先だけ自然と申されるか」

「証拠がない」

「梅田の米が証拠です」

「誰の米か、確かめられぬ」

「藩印があります」

「偽印が出回っている」

「便利ですな。都合の悪い印は、すべて偽印になる」

 蟠桃は座敷へ上がり、葛城の正面に座った。

「葛城様。一つ、お尋ねしたい」

「何だ」

「米の正しい値とは、いくらです」

「その年の作柄、民の暮らし、諸藩の財政を見て、御上が決める」

「具体的には」

「それを定めるために調べる」

「調べている間に天気が変わる。舟が沈む。蝗が出る。戦が起きる。江戸で火事があれば米が要る。蝦夷から船が来れば余る。それを、いつまでに、誰が、どう調べる」

「役所には諸国から報告が来る」

「報告が江戸へ着くころには、米は腐ります」

「だから商人に任せよと?」

「商人にだけ任せよとは申しませぬ。じゃが、役人だけに任せれば、もっと腐る」

 葛城の眉が動いた。

「無礼な」

「米は、礼儀では乾きませぬ」

                 *

「小右衛門。お前は市場を信じすぎる」

 葛城は言った。

「市場とは、人の欲を集めただけのものだ」

「役所は、人の欲が入らぬと?」

「少なくとも、公のために働く」

「では」

 蟠桃は、葛城の傍らに置かれた帳箱を指した。

「あの中を、見せていただけますかな」

 葛城の顔が、初めて、はっきり変わった。

「何のことだ」

「空木藩の米切手を、底値で買い集めた帳面です」

 座敷が静かになった。

「根拠は」

「市を見れば、わかる。空木の切手は下がった。じゃが、下がるたびに、決まって同じだけ買う手がある。買い方が役人らしい」

「役人らしい買い方とは、何だ」

「面白味がない」

 葛城のこめかみに、筋が浮いた。

「同じ刻限。同じ量。同じ仲買。帳面の升目へ、きちんと収まるように買う。相場師なら、もっと欲が乱れる。商人なら、値を叩く。役人は、決めた通りに買う」

「憶測だ」

「憶測でも、帳面を見れば済む」

 葛城は、帳箱へ手を置いた。

「これは御用の品だ」

「それは、たいそう都合がよい」

 その声は、葛城の背後からした。

「御用と書けば、欲まで立派に見える」

 いつの間に入ったのか、座敷の隅に、よれよれの木綿を着た爺さんが座っていた。

 本間宗久である。

 あるいは、本間宗久を名乗る、例の妖怪である。

「爺さん!」

 寅吉が叫んだ。

「静かにせい。人の話を聞いておった」

「どこから入ったんや」

「戸から」

「見張りは?」

「握り飯をやった」

「それで通したんか」

「腹の減った者は、役人より正直じゃ」

 葛城は宗久を睨んだ。

「何者だ」

「本間宗久じゃ」

「……酒田の?」

「そうかもしれん」

「ふざけるな」

「相場師に名を尋ねる方が悪い」

                 *

「帳箱を開けなされ」

 宗久は言った。

「断る」

「なら、開けずともよい」

「何?」

「中身は知っとる」

 宗久は指を折った。

「空木藩の米切手、二千八百石。三割落ちから買い始め、四割二分で千石、四割八分で八百石。名義は北浜の綿屋市兵衛。その綿屋は、そこに座っとる男じゃ」

 北浜の商人が震えた。

「違う!」

「違わぬ。お前は右の眉を触るとき、嘘をつく」

 市兵衛の手が、右眉の前で止まっていた。

 寅吉は感心した。

「爺さんも顔、覚えとるんやな」

「相場は顔で張るものじゃ」

「数字やないんか」

「数字は、顔が作る」

 葛城は、市兵衛を見た。

 その目だけで、市兵衛は座り直した。

「証文は」

 葛城が言った。

「証文がなければ、戯言だ」

「証文なら、ここに」

 宗久は懐から、一冊の帳面を出した。

 市兵衛が立ち上がった。

「それは、わしの!」

「さきほど、戸口で拾うた」

「盗んだんやろ!」

「落とした物を拾うのは、商いの基本じゃ」

「返せ!」

「値はいくらじゃ」

「人の帳面を売るな!」

「買わんなら、蟠桃はんにやる」

 宗久は帳面を蟠桃へ投げた。

 蟠桃が受け取り、素早く頁を繰る。

「合いますな」

「偽の帳面だ!」

 葛城が叫んだ。

「都合の悪い物は、すべて偽ですな」

 お駒が言った。

「子供は黙れ!」

「偽の子供かもしれませんで」

                 *

 葛城は立ち上がった。

「もうよい。全員捕らえよ」

 侍たちが刀を抜いた。

 今度は本気である。

 蟠桃の手代も身構えた。

 お六婆さんは棹を持っていないことに気づき、代わりに床の間の花瓶を持ち上げた。

 犬は、先ほど噛んだ侍を、もう一度噛もうとしている。

「待ちなされ」

 蟠桃が言った。

「ここで商人と子供を斬れば、明日の大坂で、どのような噂になるでしょうな」

「御用を妨げた賊を斬ったまで」

「『江戸の役人、空木藩の偽切手を調べた娘を斬る』」

 宗久が言った。

「朝には、それが」

 お駒が続けた。

「『葛城主膳、偽切手を自分で刷って、口封じに子供を皆殺し』になる」

「昼には」

 寅吉が言った。

「『江戸の御勘定方、大坂じゅうの子供を斬る』やな」

「夕方には」

 お六婆さんが言った。

「将軍様が直々に、堂島へ火ぃつけたことになる」

 葛城は周囲を見た。

 この者たちは、武力では弱い。

 だが、口が多い。

 そして大坂では、刀より口の方が、遠くまで届く。

「脅すつもりか」

「いえ」

 蟠桃は答えた。

「市場の見通しを申し上げただけです」

                 *

 そのとき、外から半鐘が鳴った。

 先ほどより近い。

 雲井屋の廊下を、宿の者が走る。

「堂島で騒ぎです!」

 障子の外から声がした。

「空木藩の切手を持った者が、蔵屋敷へ押しかけております! 北浜でも銀の引き出しが始まりました!」

 葛城の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。

「もう遅い」

 彼は言った。

「空木藩の蔵は空だ。明朝、米会所は立合を始められぬ。商人たちは互いを疑い、切手を投げ、銀を引き出す。そこへ、わしが御用として入る」

「御定相場を出す」

 蟠桃が言った。

「市場を止め、米価を定める。混乱を鎮めるためだ」

「底値で買うた切手を持ったまま?」

 お駒が尋ねた。

「それは市兵衛が勝手にしたことだ」

「さきほどまで、公のため言うてはったのに、急に他人の勝手になるんですな」

「証明はできぬ」

「市場を止めれば、値は戻らぬ」

 宗久が言った。

「切手を買うた主膳どのも、儲からんぞ」

「市場を再開させる時期も、御上が決める」

「なるほど」

 宗久は、嬉しそうに笑った。

「天気だけやない。春の来る日まで、自分で決めるつもりじゃ」

「何がおかしい」

「冬を止めれば、春は来ぬと思うとる」

 葛城の顔から、最後の余裕が消えた。

                 *

「小右衛門はん」

 宗久が蟠桃を見た。

「骨は、そろうたか」

「おおむね」

「血は、わしが見る」

「何をする気じゃ」

 葛城が尋ねた。

 宗久は答えなかった。

 代わりに寅吉へ言った。

「坊。噂を走らせられるか」

「どんな噂や」

「嘘ではない噂じゃ」

「嘘でないと、走るの遅いで」

「そこを速う走らせるのが、お前の仕事じゃ」

 蟠桃がお駒へ尋ねた。

「梅田の米、何石と見た」

「空木だけで、少なくとも千五百。ほかの藩を合わせたら、三千はあります」

「空木の切手を支えるには」

「千五百あれば、今出回っとる分の取り付けには、ひとまず足ります。ただし、一度に全部見せなあかん。小出しにしたら、隠しとったと思われる」

「舟を堂島へ入れる刻限は」

 宗久が聞く。

「満ち潮が止まる前。明け六ツより少し前です」

 お駒は答えた。

「星の先生が、そう言うてました」

「米を積んだ舟を、朝一番に堂島へ並べる」

 蟠桃が言った。

「空木藩の蔵が空でも、米そのものはあると、皆に見せる」

「見せるだけでは足りん」

 宗久は言った。

「切手を持つ者へ、その場で米を渡す」

「蔵屋敷を通さずに?」

「蔵役人が絡んどる。蔵を通せば、また止められる」

「勝手に渡せば、法に触れる」

 葛城が言った。

「明朝には、わしが差し止める」

「それより先にやる」

 お駒が答えた。

「法は日の出から働くんですか」

「何?」

「役人が正式に大坂へ着くんは、明後日のはずです。今夜のあんたは、まだ大坂におらんことになってます」

 座敷が静まり返った。

 葛城は、公には明後日、大坂入りする。

 今夜ここにいることは、表へ出せない。

 彼が今、御用を名乗って動けば、自分の裏入りを認めることになる。

「おらん人の命令は、聞けませんな」

 寅吉が言った。

「幽霊と同じです」

 お駒が言った。

「蟠桃はんに言わせれば、勘定に入れんでよい」

 宗久が笑った。

                 *

「行くぞ」

 蟠桃が立った。

 葛城の侍たちが道を塞ぐ。

 しかし葛城は、すぐには命じなかった。

 斬れば噂になる。

 捕らえれば、自分の存在を明らかにする。

 追えば、裏入りが露見する。

 役人というものは、法を武器にする。

 だが、法の外へ一歩出た役人は、刀を持った、ただの男である。

 その一歩を、葛城主膳は、すでに踏み出してしまっていた。

「明朝、堂島で会おう」

 葛城は言った。

「そのころには、米会所は地獄だ」

「地獄は、見慣れております」

 蟠桃が答えた。

「堂島ですからな」

                 *

 一行は雲井屋を出た。

 露天神の境内は、先ほどより人が増えている。

 空木藩の蔵が空だったという噂が、もう曽根崎まで届いていた。

「切手が紙屑になる!」

「北浜で銀が出えへん!」

「鴻池が店閉めたらしい!」

「嘘や!」

「けど、みんな言うてる!」

 加上という化け物が、また走り始めている。

「寅」

 お駒が言った。

「噂を止められる?」

「無理や」

 寅吉は即答した。

「噂は止まらん。けど、もっと面白い噂を、先に走らせることはできる」

「何を言う」

 宗久が尋ねた。

 寅吉は少し考えた。

「空木の米が、梅田の泥から生えてきた」

「嘘ではないな」

 蟠桃が言った。

「千五百石の米が、明け方、堂島へ攻め込む」

「米が攻め込むんか」

 鶴松が言った。

「その方が面白いやろ」

「誰が信じる」

「面白かったら、信じる前に人へ言う」

 宗久が、満足そうに頷いた。

「坊。ようやく相場がわかってきたな」

「算盤は、まだわからんけどな」

                 *

 そこから、大坂の夜が動き始めた。

 鶴松は升屋へ走った。

 お駒は鯰屋へ走り、利兵衛が空木の切手を投げ売りせぬよう、帳場へ縛りつけに行った。

 お六婆さんは福島へ舟を返し、米舟を動かすよう、荷役たちへ声をかけた。

 犬は、誰にも命じられぬまま、魚屋の方へ走った。

 たぶん腹が減ったのである。

 蟠桃は北浜へ向かい、両替商と仲買へ手を回す。

 宗久は、どこかへ消えた。

「どこ行ったんや、爺さん」

 寅吉が振り向いたときには、もういない。

 相場師と幽霊は、必要なときには現れ、用が済むと、勘定を残して消える。

 寅吉だけが、曽根崎の辻に残った。

 いや、一人ではない。

 麻田剛立の長い筒がある。

 寅吉は筒を肩へ担いだ。

「これで星を見ろ、か」

 空を見上げる。

 雲が出て、月が隠れ始めていた。

 星は、ほとんど見えない。

「役に立たんやないか」

 だが、そのとき、寅吉は思いついた。

 長い筒を口へ当てる。

「空木の米が、梅田から出たぞう!」

 筒が声を遠くへ飛ばした。

 通りの向こうで、人が振り返った。

「千五百石の米が、明け方、堂島へ攻め込むぞう!」

「なんやて?」

「米が攻め込む?」

「梅田の泥から出たらしい!」

 一人が、隣へ言う。

 隣が、また隣へ言う。

「梅田から米が三千石!」

「泥から米が湧いた!」

「千艘の米舟が堂島へ来る!」

 早くも、増え始めた。

「増やしすぎや!」

 寅吉が叫んだ。

 だが、噂はもう走っている。

 真実は足が遅い。

 ならば、真実にも少しばかり、派手な草履を履かせるほかない。

 曽根崎から天満へ。

 天満から北浜へ。

 北浜から船場へ。

 船場から道頓堀へ。

 道頓堀から難波へ。

 米が梅田の泥から生え、舟に乗り、堂島へ攻め込むという話が、大坂じゅうを駆け抜けていく。

 町の北では、荷役たちが、泥を剥がし、米舟の縄を解いている。

 中之島では、空木藩の切手を抱えた男たちが、蔵の門を叩いている。

 北浜では、銀蔵の戸が閉まりかけている。

 堂島では、明日の立合をするか止めるか、仲買たちが怒鳴り合っている。

 その全ての上で、雲が月を隠し、風が変わり、海から満ちた水が、ゆっくりと大坂の川を押し上げていた。

 江戸の役人は、明日の米の値を決めようとしている。

 だが、天気も、潮も、舟も、商人も、丁稚も、噂も、まだ一つとして、葛城主膳の帳面には収まっていない。

 大坂という、むせ返るほど繁った化け物が、夜の底で、ゆっくりと身を起こし始めていた。

                 *

(第七話・了。最終話「堂島のばけもの、天下を喰う」へつづく)

◆この物語の史実と虚構について(語り手より)

寛政年間の曽根崎が、大坂三郷の北辺に接する村落・街道・寺社・茶屋などの入り混じる地域であり、露天神が古くから鎮座していたこと、大坂の川と舟運が夜も人と物を動かしていたことは、おおむね本当である。

天明の飢饉後、幕府が米価、備荒、囲米、都市統制などへ強い関心を持ち、寛政の改革において倹約や統制を進めたことも、本当である。ただし、葛城主膳という御勘定方の役人が、空木藩の米を隠して堂島米会所を止めようとした記録は、当然ながら存在しない。

山片蟠桃が屋根から旅籠へ侵入したこと、本間宗久が見張りへ握り飯を渡して通過したこと、麻田剛立の天体望遠鏡を丁稚が拡声器として用いたことも、すべて拵えものである。

なお、表向きにはまだ到着していない役人の命令を、幽霊と同じく勘定に入れなくてよいかどうかについては、時と場合による。

読者諸氏におかれては、真似をなさらぬよう願いたい。

2026年6月29日月曜日

堂島ばけもの算用 第七話 江戸の役人、天気に値をつける

 

堂島ばけもの算用

第七話 江戸の役人、天気に値をつける

 役人というものは、雨に向かって、

「降るな」

 と言い、日照りに向かって、

「ほどほどに照れ」

 と言い、米の値が上がれば、

「下がれ」

 と言う。

 雨にも日にも米にも、べつだん役人の命令を聞く義理はない。

 それでも役人は、紙へ書き、印を押し、立札を立てれば、天地の方が恐れ入って従うものだと、どこかで信じている。

 葛城主膳という男は、その信心が、いささか強すぎた。

                 *

 曽根崎へ向かう渡し舟には、ずいぶん妙な一行が乗っていた。

 九九の怪しい丁稚が一人。

 算盤を抱えた娘が一人。

 大店の叱られ役が一人。

 渡しの婆さん。

 それに、どこからついてきたのかわからぬ犬が一匹。

 麻田剛立は、

「わしは手伝わぬ」

 と言って梅田の葦原へ残った。

 ただし、星を見るための長い筒だけは寅吉に持たせた。

「これ、どうするんや」

「星を見よ」

「役人の宿へ忍び込むのに?」

「人間ばかり見ておるから、道を誤る」

「夜道で転ぶ方が先やと思うけどな」

 その長筒が、のちにたいそう役に立つのであるが、何に役立ったかは、まだ申し上げぬ。

 先に申し上げると面白くない。

 もっとも、ここまで何度も死人やら幽霊やらを先に出してきた語り手が、今さら順序を気にするのも、おかしな話ではある。

                 *

 曽根崎の夜は、船場の夜とは違う。

 船場では、夜になれば大店の戸が閉まり、番頭が帳面を締め、丁稚が叱られ、主人が妾のところへ出かける。

 町の一日が、いったん算盤の音で終わる。

 ところが曽根崎では、日が沈んでから、別の一日が始まる。

 露天神の境内には灯が並び、願掛けの女、博奕帰りの男、商談を終えた手代、商談より長い言い訳を考える番頭、旅の僧、夜鷹、飴売り、香具師、占い師、盗人を探す岡っ引き、その岡っ引きを避ける盗人が、同じ道を押し合って歩いていた。

 茶屋からは三味線。

 小屋からは笑い声。

 路地からは夫婦喧嘩。

 橋の下からは鼾。

 神社の前では、

「一生添い遂げられますように」

 と若い男女が祈り、そのすぐ横で、年を取った夫婦が、

「どうか早う別れられますように」

 と別々に祈っている。

 神様も忙しい。

「葛城主膳の宿は、どこや」

 寅吉が尋ねた。

 お六婆さんは、露天神の裏手を指した。

「雲井屋いう旅籠や。江戸者がよう泊まる」

「なんで知っとるん」

「渡しをしてたら、誰がどこへ行くか、みな聞こえる」

「船頭いうのは、よう知っとるな」

「客は、水の上へ出ると、陸より口が軽うなる」

「なんでや」

「逃げ場がないから、安心するんやろ」

「逆やと思うけどな」

 雲井屋は、細い蜆川に近い、二階建ての旅籠であった。

 表には江戸言葉を話す供侍が二人。

 裏口には中間が一人。

 川側には小舟が一艘、いつでも出られるようにつないである。

「見張りが多いな」

 鶴松が言った。

「正面から入られへん」

「裏も無理や」

「川から行くか」

「犬はどうする」

 犬は、わん、と鳴いた。

「行く言うてる」

「なんで犬の言葉だけわかるんや」

「顔に書いてある」

                 *

 結局、正面から入った。

 策がなかったわけではない。

 お駒に策があったのである。

「天文方の使いでございます」

 雲井屋の番頭に向かって、お駒はしれっと言った。

 寅吉は麻田剛立の長筒を担いでいる。

 鶴松は、どこから盗ってきたのか、古びた羽織を着せられ、いかにも学者の供らしい顔を作っている。

 もっとも、学者の供がどんな顔をするものか、誰も知らぬ。

 お六婆さんは一行の後ろで腰を曲げ、

「星読み婆でございます」

 と名乗った。

「婆さん、そこまでせんでええ」

 寅吉が小声で言った。

「役がある方が入りやすいやろ」

「犬は?」

「天狗犬」

「なんや、それ」

「いま作った」

 雲井屋の番頭は、困った顔をした。

「葛城様は、ただいま大切なお話し中でございます」

「せやから来ました」

 お駒は言った。

「今夜、潮が変わります。明け方には南東の風。川霧が出て、堂島の火縄が湿る。米相場に関わる大事です」

「それが葛城様と、どういう関わりで」

「御役人は、お天気にも値をつけはると聞いております」

 番頭は、ますます困った。

 こういうとき、わからぬから追い返す人間と、わからぬから偉い話だと思う人間がいる。

 旅籠の番頭は、後者であった。

「少々、お待ちを」

 奥へ引っ込んだ。

「うまいこと言うな」

 寅吉が感心した。

「何のことや」

「南東の風とか、川霧とか」

「麻田先生が、夜半から雲が出る言うてたやろ」

「火縄が湿るんは?」

「いま考えた」

「嘘やないか」

「天気予報は、外れることもある」

                 *

 通された座敷には、三人の男がいた。

 一人は、空木藩の留守居役。

 一人は、北浜の商人らしき男。

 そして上座に、葛城主膳が座っていた。

 四十を少し越えた頃か。

 細面で、眉が濃く、髪には乱れ一つない。

 着物も、帯も、脇差も、何もかもが、決められた位置へ正確に収まっている。

 人間というより、役所の書式が、そのまま歩いてきたような男である。

「天文方の使いだと」

 葛城は、お駒たちを順に見た。

 娘。

 丁稚。

 丁稚。

 婆。

 犬。

 どう見ても天文方の使いではない。

 だが、どう見ても天文方の使いではないところが、かえって何か秘密の御用らしくも見える。

 権威というものは、しばしば、見る者の想像力に助けられている。

「はい」

 お駒は平然と頭を下げた。

「今夜から明朝にかけて、水気が変わります」

「何が起きる」

「お米が上がります」

 空木藩の留守居役が、顔色を変えた。

 北浜の商人も、葛城を見た。

「根拠は」

 葛城が尋ねる。

「月です」

「月が米価を決めるのか」

「月が潮を動かし、潮が舟を動かし、舟が米を運びます。米が来れば下がり、来なければ上がる。月が値を決めるというても、半分は当たっております」

「残り半分は」

「人の気です」

 葛城の目が細くなった。

「誰に教わった」

「大坂に住んでいたら、どこからでも聞こえてきます」

「名は」

「駒と申します」

「姓は」

「商人の娘に、そんな上等なものはございません」

 葛城は、わずかに笑った。

「天文方の使いではないな」

「いま気づきはったんですか」

 寅吉が口を挟んだ。

 お駒が足を踏んだ。

「痛っ」

「黙っとき」

「お前たちは何者だ」

「大坂の者です」

「それは見ればわかる」

「見てもわからんことを、聞きに来ました」

 葛城の顔から笑いが消えた。

                 *

「空木藩の米を、梅田の泥の下へ隠したんは、あんたですか」

 お駒が言った。

 空木藩の留守居役が息を呑んだ。

 北浜の商人が腰を浮かせた。

 葛城だけが、動かなかった。

「何の話だ」

「三艘の平底舟。空木だけやない。ほかの藩の米も積んでありました。偽の印も、偽の米切手も、道頓堀の芝居の勘定も見つけました」

「子供の作り話だな」

「では、これは?」

 お駒は、葛城の書状を懐から出した。

 梅田の米舟に隠されていたものだ。

 葛城は書状を一目見た。

 顔は変わらぬ。

 だが、右手の指だけが、ほんの少し動いた。

 寅吉は、その動きを見逃さなかった。

 数字は覚えられぬが、人の顔と癖は覚える。

「それは偽書だ」

「印は本物に見えます」

「偽の印を作る者がいたのであろう」

「その印判師は殺されました」

「ならば、そやつが犯人だ」

「死人に何もかも押しつけるん、江戸では流行ってるんですか」

 葛城は、お駒の顔をじっと見た。

「賢い娘だ」

「よう言われます」

「賢い者ほど、自分の見たものだけで、世の中の全てがわかったと思う」

「役人は、見てもいないものまで、わかった顔をしはりますな」

 座敷の空気が凍った。

 鶴松が、少しずつ後ろへ下がり始めた。

 逃げ道を探している。

 犬も座敷の端へ移った。

 犬の方が鶴松より早い。

                 *

「お前たちは、堂島を何だと思う」

 葛城が聞いた。

「米を売り買いするところや」

 寅吉が答えた。

「米はほとんど動かぬ」

「ほな、米が動いたことにするところや」

「嘘を売る場所だ」

 葛城は言った。

「米がないのに米を売る。豊作になるか凶作になるかもわからぬうちから、値を決める。噂一つで上がり、恐れ一つで下がる。汗を流して米を作る百姓とは無縁の者が、帳面の数字だけで千両を得る」

「それの何が悪い」

 葛城が寅吉を見た。

「悪くないと?」

「わしにはわからん。けど、米を作った百姓かて、収穫する前から金が要るやろ。藩かて、米が売れる前に借金せな回らん。舟も、倉も、人足も、先に銭が要る。ありもせん米を売るから、ほんまの米が動くこともあるんと違うか」

 これは、寅吉自身の言葉というより、堂島で聞いた多くの言葉が、腹の中で勝手につながって出てきたものである。

 九九は言えぬ。

 だが、人の言葉を一度聞けば忘れぬ。

 人間は、自分一人の頭だけで考えるわけではない。

 他人から拾った言葉を、知らぬ間に腹で煮て、自分のものとして吐き出す。

 富永仲基が見れば、これもまた加上じゃ、と喜んだであろう。

「その仕組みが、飢えを生む」

 葛城は言った。

「天明の飢饉では、米価が上がり、民が打ちこわしをした。商人は米を抱え、値が上がるのを待った。相場は、恐れを食って肥えた」

「役人は何をしたんです」

 お駒が尋ねた。

「何?」

「飢饉になる前に、役人は米を生やしたんですか。雨を降らせたんですか。冷害を止めたんですか」

「だからこそ、値だけでも制御せねばならぬ」

「値を押さえたら、米が増えるんですか」

「米を売り惜しむ者を取り締まれる」

「値が合わんかったら、誰も運ばへん。舟賃にもならん値で、誰が北国から米を持ってくるんです」

「命令する」

「風にも?」

 お駒は言った。

「潮にも、嵐にも、日照りにも?」

「人にだ」

「人は、風と潮と銭で動きます。命令だけでは、腹は膨れません」

 葛城は黙った。

 その沈黙は、言い負かされた者の沈黙ではない。

 相手を、どの箱へ入れて処理すべきか考える、役人の沈黙であった。

                 *

「わしは、大坂へ来るたび、同じことを思う」

 葛城は、静かに言った。

「この町は、繁りすぎている」

「繁る?」

「商人が勝手に金を貸す。町人が勝手に学校を作る。医者が勝手に獣を切る。絵師が米を扱い、番頭が天下国家を論じ、芝居小屋が藩政を笑う。坊主が相場を張り、学者が幽霊を論ずる」

「最後のは、たぶん論じてへん」

 寅吉が言った。

「黙り」

 お駒がまた足を踏んだ。

「誰も、自分の分を守らぬ」

 葛城は続けた。

「武士は治め、百姓は作り、職人は作り、商人は運ぶ。それぞれが分を守れば、天下は乱れぬ。ところが大坂では、商人が藩を治め、町人が学問をし、役者が政治を語る。根も枝も蔓も絡み合い、どこを切れば、どこが枯れるのか、誰にもわからぬ」

「切らんかったら、ええんと違いますか」

 寅吉が言った。

 葛城は彼を見た。

「繁りすぎた藪は、火事になる」

「刈りすぎた畑には、何も生えへん」

 お駒が答えた。

「大坂の人間は、皆、口が達者だな」

「口で商売してる者も多いですから」

                 *

 葛城は、北浜の商人に目を向けた。

「市兵衛。子供たちを別室へ」

 市兵衛と呼ばれた商人が立った。

 鶴松も立った。

「ほな、帰ってええんですか」

「お前は座れ」

「はい」

 すぐ座った。

 升屋の丁稚は、命令に弱い。

 市兵衛が手を叩くと、隣室から四人の侍が入ってきた。

「捕らえよ」

「犬もですか」

「犬もだ」

 犬が唸った。

「犬は怒ってますで」

 寅吉が言った。

「犬の怒りに値などない」

「噛まれたら、値がわかります」

 侍が犬へ手を伸ばした。

 犬は、その手を噛んだ。

「痛っ!」

「いくらでした」

「黙れ!」

 座敷が乱れた。

 お六婆さんが煙管を投げた。

 鶴松が逃げようとして柱へぶつかった。

 寅吉は麻田の長筒を振り回した。

 お駒は算盤で侍の指を叩いた。

 算盤は、人を賢くする道具であるが、使い方によっては、人の指をたいそう痛くする。

「小賢しい!」

 侍が刀へ手をかけた。

 そのとき、二階の障子が外から、がらりと開いた。

「刀を抜くほどの相手ではあるまい」

 細く、落ち着いた声がした。

 山片蟠桃である。

 屋根の上から、座敷へ入ってきた。

「小右衛門はん!」

 鶴松の顔が、死人より青くなった。

「お前、何をしておる」

「御用を、立派に果たしております」

「逃げようとして柱にぶつかったところまでは見た」

「そこからですか」

「十分じゃ」

 蟠桃の後ろから、升屋の手代が二人、屋根を越えて入ってきた。

「どうして、ここが」

 お駒が尋ねた。

「星の先生から、知らせが来た」

「手伝わん言うてたのに」

「あの御仁は、手伝わぬまま、人を動かす」

 葛城主膳は、蟠桃を睨んだ。

「山片小右衛門。商人が御用の宿へ、屋根から入るとは何事だ」

「戸口から入ろうとしましたが、御用の方々が塞いでおられたのでな。商いも同じです。正面を塞がれれば、別の道を探します」

「お前も、この一件に関わっているのか」

「大坂の米と銀が揺れておる。関わらぬ方が難しい」

                 *

「この書状を見ても、偽書だと言われます」

 お駒が蟠桃へ渡した。

 蟠桃は一読し、葛城を見た。

「偽書ですかな」

「偽書だ」

「では、葛城様が明後日、米会所の差止めを上申なさるという話も、偽りで?」

「江戸の御政道を、商人に答える義務はない」

「なるほど。偽書であるかどうかには答えず、答える義務がない、と」

「言葉尻を取るな」

「帳面の端を拾うのが、番頭の仕事でしてな」

 葛城は、鼻で笑った。

「お前たち商人は、市場に自然の理があると言う。値は、放っておけば正しいところへ落ち着くと。ならば空木藩の切手が暴落したのも、市場の理ではないか」

「相場を人為で動かしておきながら、落ちた先だけ自然と申されるか」

「証拠がない」

「梅田の米が証拠です」

「誰の米か、確かめられぬ」

「藩印があります」

「偽印が出回っている」

「便利ですな。都合の悪い印は、すべて偽印になる」

 蟠桃は座敷へ上がり、葛城の正面に座った。

「葛城様。一つ、お尋ねしたい」

「何だ」

「米の正しい値とは、いくらです」

「その年の作柄、民の暮らし、諸藩の財政を見て、御上が決める」

「具体的には」

「それを定めるために調べる」

「調べている間に天気が変わる。舟が沈む。蝗が出る。戦が起きる。江戸で火事があれば米が要る。蝦夷から船が来れば余る。それを、いつまでに、誰が、どう調べる」

「役所には諸国から報告が来る」

「報告が江戸へ着くころには、米は腐ります」

「だから商人に任せよと?」

「商人にだけ任せよとは申しませぬ。じゃが、役人だけに任せれば、もっと腐る」

 葛城の眉が動いた。

「無礼な」

「米は、礼儀では乾きませぬ」

                 *

「小右衛門。お前は市場を信じすぎる」

 葛城は言った。

「市場とは、人の欲を集めただけのものだ」

「役所は、人の欲が入らぬと?」

「少なくとも、公のために働く」

「では」

 蟠桃は、葛城の傍らに置かれた帳箱を指した。

「あの中を、見せていただけますかな」

 葛城の顔が、初めて、はっきり変わった。

「何のことだ」

「空木藩の米切手を、底値で買い集めた帳面です」

 座敷が静かになった。

「根拠は」

「市を見れば、わかる。空木の切手は下がった。じゃが、下がるたびに、決まって同じだけ買う手がある。買い方が役人らしい」

「役人らしい買い方とは、何だ」

「面白味がない」

 葛城のこめかみに、筋が浮いた。

「同じ刻限。同じ量。同じ仲買。帳面の升目へ、きちんと収まるように買う。相場師なら、もっと欲が乱れる。商人なら、値を叩く。役人は、決めた通りに買う」

「憶測だ」

「憶測でも、帳面を見れば済む」

 葛城は、帳箱へ手を置いた。

「これは御用の品だ」

「それは、たいそう都合がよい」

 その声は、葛城の背後からした。

「御用と書けば、欲まで立派に見える」

 いつの間に入ったのか、座敷の隅に、よれよれの木綿を着た爺さんが座っていた。

 本間宗久である。

 あるいは、本間宗久を名乗る、例の妖怪である。

「爺さん!」

 寅吉が叫んだ。

「静かにせい。人の話を聞いておった」

「どこから入ったんや」

「戸から」

「見張りは?」

「握り飯をやった」

「それで通したんか」

「腹の減った者は、役人より正直じゃ」

 葛城は宗久を睨んだ。

「何者だ」

「本間宗久じゃ」

「……酒田の?」

「そうかもしれん」

「ふざけるな」

「相場師に名を尋ねる方が悪い」

                 *

「帳箱を開けなされ」

 宗久は言った。

「断る」

「なら、開けずともよい」

「何?」

「中身は知っとる」

 宗久は指を折った。

「空木藩の米切手、二千八百石。三割落ちから買い始め、四割二分で千石、四割八分で八百石。名義は北浜の綿屋市兵衛。その綿屋は、そこに座っとる男じゃ」

 北浜の商人が震えた。

「違う!」

「違わぬ。お前は右の眉を触るとき、嘘をつく」

 市兵衛の手が、右眉の前で止まっていた。

 寅吉は感心した。

「爺さんも顔、覚えとるんやな」

「相場は顔で張るものじゃ」

「数字やないんか」

「数字は、顔が作る」

 葛城は、市兵衛を見た。

 その目だけで、市兵衛は座り直した。

「証文は」

 葛城が言った。

「証文がなければ、戯言だ」

「証文なら、ここに」

 宗久は懐から、一冊の帳面を出した。

 市兵衛が立ち上がった。

「それは、わしの!」

「さきほど、戸口で拾うた」

「盗んだんやろ!」

「落とした物を拾うのは、商いの基本じゃ」

「返せ!」

「値はいくらじゃ」

「人の帳面を売るな!」

「買わんなら、蟠桃はんにやる」

 宗久は帳面を蟠桃へ投げた。

 蟠桃が受け取り、素早く頁を繰る。

「合いますな」

「偽の帳面だ!」

 葛城が叫んだ。

「都合の悪い物は、すべて偽ですな」

 お駒が言った。

「子供は黙れ!」

「偽の子供かもしれませんで」

                 *

 葛城は立ち上がった。

「もうよい。全員捕らえよ」

 侍たちが刀を抜いた。

 今度は本気である。

 蟠桃の手代も身構えた。

 お六婆さんは棹を持っていないことに気づき、代わりに床の間の花瓶を持ち上げた。

 犬は、先ほど噛んだ侍を、もう一度噛もうとしている。

「待ちなされ」

 蟠桃が言った。

「ここで商人と子供を斬れば、明日の大坂で、どのような噂になるでしょうな」

「御用を妨げた賊を斬ったまで」

「『江戸の役人、空木藩の偽切手を調べた娘を斬る』」

 宗久が言った。

「朝には、それが」

 お駒が続けた。

「『葛城主膳、偽切手を自分で刷って、口封じに子供を皆殺し』になる」

「昼には」

 寅吉が言った。

「『江戸の御勘定方、大坂じゅうの子供を斬る』やな」

「夕方には」

 お六婆さんが言った。

「将軍様が直々に、堂島へ火ぃつけたことになる」

 葛城は周囲を見た。

 この者たちは、武力では弱い。

 だが、口が多い。

 そして大坂では、刀より口の方が、遠くまで届く。

「脅すつもりか」

「いえ」

 蟠桃は答えた。

「市場の見通しを申し上げただけです」

                 *

 そのとき、外から半鐘が鳴った。

 先ほどより近い。

 雲井屋の廊下を、宿の者が走る。

「堂島で騒ぎです!」

 障子の外から声がした。

「空木藩の切手を持った者が、蔵屋敷へ押しかけております! 北浜でも銀の引き出しが始まりました!」

 葛城の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。

「もう遅い」

 彼は言った。

「空木藩の蔵は空だ。明朝、米会所は立合を始められぬ。商人たちは互いを疑い、切手を投げ、銀を引き出す。そこへ、わしが御用として入る」

「御定相場を出す」

 蟠桃が言った。

「市場を止め、米価を定める。混乱を鎮めるためだ」

「底値で買うた切手を持ったまま?」

 お駒が尋ねた。

「それは市兵衛が勝手にしたことだ」

「さきほどまで、公のため言うてはったのに、急に他人の勝手になるんですな」

「証明はできぬ」

「市場を止めれば、値は戻らぬ」

 宗久が言った。

「切手を買うた主膳どのも、儲からんぞ」

「市場を再開させる時期も、御上が決める」

「なるほど」

 宗久は、嬉しそうに笑った。

「天気だけやない。春の来る日まで、自分で決めるつもりじゃ」

「何がおかしい」

「冬を止めれば、春は来ぬと思うとる」

 葛城の顔から、最後の余裕が消えた。

                 *

「小右衛門はん」

 宗久が蟠桃を見た。

「骨は、そろうたか」

「おおむね」

「血は、わしが見る」

「何をする気じゃ」

 葛城が尋ねた。

 宗久は答えなかった。

 代わりに寅吉へ言った。

「坊。噂を走らせられるか」

「どんな噂や」

「嘘ではない噂じゃ」

「嘘でないと、走るの遅いで」

「そこを速う走らせるのが、お前の仕事じゃ」

 蟠桃がお駒へ尋ねた。

「梅田の米、何石と見た」

「空木だけで、少なくとも千五百。ほかの藩を合わせたら、三千はあります」

「空木の切手を支えるには」

「千五百あれば、今出回っとる分の取り付けには、ひとまず足ります。ただし、一度に全部見せなあかん。小出しにしたら、隠しとったと思われる」

「舟を堂島へ入れる刻限は」

 宗久が聞く。

「満ち潮が止まる前。明け六ツより少し前です」

 お駒は答えた。

「星の先生が、そう言うてました」

「米を積んだ舟を、朝一番に堂島へ並べる」

 蟠桃が言った。

「空木藩の蔵が空でも、米そのものはあると、皆に見せる」

「見せるだけでは足りん」

 宗久は言った。

「切手を持つ者へ、その場で米を渡す」

「蔵屋敷を通さずに?」

「蔵役人が絡んどる。蔵を通せば、また止められる」

「勝手に渡せば、法に触れる」

 葛城が言った。

「明朝には、わしが差し止める」

「それより先にやる」

 お駒が答えた。

「法は日の出から働くんですか」

「何?」

「役人が正式に大坂へ着くんは、明後日のはずです。今夜のあんたは、まだ大坂におらんことになってます」

 座敷が静まり返った。

 葛城は、公には明後日、大坂入りする。

 今夜ここにいることは、表へ出せない。

 彼が今、御用を名乗って動けば、自分の裏入りを認めることになる。

「おらん人の命令は、聞けませんな」

 寅吉が言った。

「幽霊と同じです」

 お駒が言った。

「蟠桃はんに言わせれば、勘定に入れんでよい」

 宗久が笑った。

                 *

「行くぞ」

 蟠桃が立った。

 葛城の侍たちが道を塞ぐ。

 しかし葛城は、すぐには命じなかった。

 斬れば噂になる。

 捕らえれば、自分の存在を明らかにする。

 追えば、裏入りが露見する。

 役人というものは、法を武器にする。

 だが、法の外へ一歩出た役人は、刀を持った、ただの男である。

 その一歩を、葛城主膳は、すでに踏み出してしまっていた。

「明朝、堂島で会おう」

 葛城は言った。

「そのころには、米会所は地獄だ」

「地獄は、見慣れております」

 蟠桃が答えた。

「堂島ですからな」

                 *

 一行は雲井屋を出た。

 露天神の境内は、先ほどより人が増えている。

 空木藩の蔵が空だったという噂が、もう曽根崎まで届いていた。

「切手が紙屑になる!」

「北浜で銀が出えへん!」

「鴻池が店閉めたらしい!」

「嘘や!」

「けど、みんな言うてる!」

 加上という化け物が、また走り始めている。

「寅」

 お駒が言った。

「噂を止められる?」

「無理や」

 寅吉は即答した。

「噂は止まらん。けど、もっと面白い噂を、先に走らせることはできる」

「何を言う」

 宗久が尋ねた。

 寅吉は少し考えた。

「空木の米が、梅田の泥から生えてきた」

「嘘ではないな」

 蟠桃が言った。

「千五百石の米が、明け方、堂島へ攻め込む」

「米が攻め込むんか」

 鶴松が言った。

「その方が面白いやろ」

「誰が信じる」

「面白かったら、信じる前に人へ言う」

 宗久が、満足そうに頷いた。

「坊。ようやく相場がわかってきたな」

「算盤は、まだわからんけどな」

                 *

 そこから、大坂の夜が動き始めた。

 鶴松は升屋へ走った。

 お駒は鯰屋へ走り、利兵衛が空木の切手を投げ売りせぬよう、帳場へ縛りつけに行った。

 お六婆さんは福島へ舟を返し、米舟を動かすよう、荷役たちへ声をかけた。

 犬は、誰にも命じられぬまま、魚屋の方へ走った。

 たぶん腹が減ったのである。

 蟠桃は北浜へ向かい、両替商と仲買へ手を回す。

 宗久は、どこかへ消えた。

「どこ行ったんや、爺さん」

 寅吉が振り向いたときには、もういない。

 相場師と幽霊は、必要なときには現れ、用が済むと、勘定を残して消える。

 寅吉だけが、曽根崎の辻に残った。

 いや、一人ではない。

 麻田剛立の長い筒がある。

 寅吉は筒を肩へ担いだ。

「これで星を見ろ、か」

 空を見上げる。

 雲が出て、月が隠れ始めていた。

 星は、ほとんど見えない。

「役に立たんやないか」

 だが、そのとき、寅吉は思いついた。

 長い筒を口へ当てる。

「空木の米が、梅田から出たぞう!」

 筒が声を遠くへ飛ばした。

 通りの向こうで、人が振り返った。

「千五百石の米が、明け方、堂島へ攻め込むぞう!」

「なんやて?」

「米が攻め込む?」

「梅田の泥から出たらしい!」

 一人が、隣へ言う。

 隣が、また隣へ言う。

「梅田から米が三千石!」

「泥から米が湧いた!」

「千艘の米舟が堂島へ来る!」

 早くも、増え始めた。

「増やしすぎや!」

 寅吉が叫んだ。

 だが、噂はもう走っている。

 真実は足が遅い。

 ならば、真実にも少しばかり、派手な草履を履かせるほかない。

 曽根崎から天満へ。

 天満から北浜へ。

 北浜から船場へ。

 船場から道頓堀へ。

 道頓堀から難波へ。

 米が梅田の泥から生え、舟に乗り、堂島へ攻め込むという話が、大坂じゅうを駆け抜けていく。

 町の北では、荷役たちが、泥を剥がし、米舟の縄を解いている。

 中之島では、空木藩の切手を抱えた男たちが、蔵の門を叩いている。

 北浜では、銀蔵の戸が閉まりかけている。

 堂島では、明日の立合をするか止めるか、仲買たちが怒鳴り合っている。

 その全ての上で、雲が月を隠し、風が変わり、海から満ちた水が、ゆっくりと大坂の川を押し上げていた。

 江戸の役人は、明日の米の値を決めようとしている。

 だが、天気も、潮も、舟も、商人も、丁稚も、噂も、まだ一つとして、葛城主膳の帳面には収まっていない。

 大坂という、むせ返るほど繁った化け物が、夜の底で、ゆっくりと身を起こし始めていた。

                 *

(第七話・了。最終話「堂島のばけもの、天下を喰う」へつづく)

◆この物語の史実と虚構について(語り手より)

寛政年間の曽根崎が、大坂三郷の北辺に接する村落・街道・寺社・茶屋などの入り混じる地域であり、露天神が古くから鎮座していたこと、大坂の川と舟運が夜も人と物を動かしていたことは、おおむね本当である。

天明の飢饉後、幕府が米価、備荒、囲米、都市統制などへ強い関心を持ち、寛政の改革において倹約や統制を進めたことも、本当である。ただし、葛城主膳という御勘定方の役人が、空木藩の米を隠して堂島米会所を止めようとした記録は、当然ながら存在しない。

山片蟠桃が屋根から旅籠へ侵入したこと、本間宗久が見張りへ握り飯を渡して通過したこと、麻田剛立の天体望遠鏡を丁稚が拡声器として用いたことも、すべて拵えものである。

なお、表向きにはまだ到着していない役人の命令を、幽霊と同じく勘定に入れなくてよいかどうかについては、時と場合による。

読者諸氏におかれては、真似をなさらぬよう願いたい。

2026年6月28日日曜日

堂島ばけもの算用 第六話 梅田の泥、千石を呑む

 

堂島ばけもの算用

第六話 梅田の泥、千石を呑む

 大坂の北へ出ると、地面が、急に頼りなくなる。

 船場や北浜では、立派な商家が、まるで天地開闢以来そこに建っていたような顔で、軒を並べている。ところが堂島川を越え、福島村から曽根崎、梅田の方へ近づくにつれ、道は細くなり、橋は軋み、踏んだ土が、ぐにゃりと足の裏へ返事をする。

 このあたりは、水と陸とが、まだ相談の途中なのである。

「ここは地面や」

「いや、川や」

「田にしよう」

「やっぱり沼や」

 と、人間と水が、何百年も言い争っておる。

 梅田という地名も、もとは低湿地を埋めた「埋田」から来たのだ、という説がある。もっとも、梅の木があったからじゃという話もあり、どちらが本当かは知らぬ。

 地名というものも、相場と同じで、皆がもっともらしい方を信じれば、それで通用する。

 ともかく寛政九年の梅田は、後の世のように人が集まる場所ではなく、人がなるべく足を踏み入れぬ、泥と葦と細い水路の国であった。

 もっとも、人が寄りつかぬ場所というのは、たいてい、見られたくない物を隠すには、たいそう都合がよい。

                 *

 寅吉、お駒、鶴松の三人は、難波村から町へ戻る荷車に便乗し、日が落ちるころには堂島川の南岸まで戻ってきた。

 荷車には、空になった野菜籠、肥桶、折れた鍬、酔いつぶれた百姓が一人。

 寅吉たちは、その隙間に押し込まれていた。

「くさい」

 鶴松が鼻をつまんだ。

「何がや」

「全部や」

「お前かもしれへんで」

「道頓堀川へ落ちたお前が言うな」

「肥えは金になる」

 お駒が焦げた帳面を読みながら言った。

「臭い臭い言うたらあかん。町の糞が難波の野菜になって、また町へ戻ってくるんや。あんたら、その野菜食うとるやろ」

「今、言わんでええ話や」

 鶴松が青くなった。

「そういうもんは、知らん顔して食うのが礼儀や」

 寅吉も青くなった。

 大坂では、銭も米も糞も、よく回る。

 回らぬのは、借金を返す日の主人の頭くらいのものである。

 荷車は堂島川の手前で止まった。

「福島へ行くなら、舟の方が早い」

 車の百姓が、眠ったまま言った。

「起きてたんか」

「寝言や」

「寝言で道を教えるな」

 だが、その寝言は正しかった。

 夜の大坂では、道を歩くより、川へ出た方が早い。

 昼の町は、人が銭を動かす。

 夜の川は、舟が物を動かす。

 寅吉たちは、小さな渡し舟へ乗った。

 船頭は、口に煙管をくわえた婆さんであった。

「福島まで、三人でなんぼや」

 お駒が尋ねた。

「三人やない。四人や」

 婆さんは答えた。

「四人?」

「その焦げた帳面の中に、死人が何人も乗っとる」

「そういう勘定は、いらん」

「なら三人分でええ」

 舟は岸を離れた。

                 *

 川の上には、陸とは別の大坂があった。

 薪を積んだ舟。

 酒樽を積んだ舟。

 魚を積んだ舟。

 人を積んだ舟。

 積んでいる物を、他人に知られたくない舟。

 どれも舳先に小さな灯を掲げ、黒い水面を、音もなく滑っていく。

 中之島の蔵屋敷には灯が並び、その下を、裸の荷役たちが、汗を光らせながら米俵を担いでいた。

 百姓が半年かけて育てた米を、一人の男が一俵ずつ担ぎ、商人が一息で値を決め、帳面の上では一瞬で千石が動く。

 米を作る者。

 米を運ぶ者。

 米を数える者。

 米を見ずに売る者。

 同じ米に、何百人もの暮らしが、蔓のように絡みついている。

 その蔓の一本を誰かが切れば、どこで誰が転ぶか、切った当人にもわからぬ。

「見てみい」

 渡しの婆さんが、川上を煙管で指した。

 一艘の荷舟が、福島の方角へ向かっている。

 筵をかぶせているが、船縁が水面すれすれまで沈んでいる。

「空舟みたいな顔しとるけど、腹いっぱい積んどる」

「米やろか」

 寅吉が尋ねた。

「知らん」

「船頭やのに」

「舟は見たらわかる。荷は、開けなわからん」

「追えるか」

「銭を出せば」

「なんぼや」

「四人分」

「三人や言うたやろ」

「いま、怪しい舟が一人増えた」

 この婆さんには、蟠桃以上の算術がある。

                 *

 渡し舟は、怪しい荷舟を追って堂島川を上った。

 ところが福島村の舟入へ近づく手前で、荷舟は葦の陰へ入り、ふっと消えた。

「消えた!」

 鶴松が立ち上がった。

「座れ。舟がひっくり返る」

「けど、消えたで」

「舟は消えん。見えんようになっただけや」

 婆さんは舟を岸へ寄せた。

 そこは福島村と曽根崎村の境に近い、細い堤の下であった。

 岸には柳が立ち、泥の中から蛙が鳴き、遠くに寺の鐘が聞こえる。

 その堤の上に、妙な男が一人いた。

 細長い筒を、空へ向けている。

 夜中に長い筒を持つ男を見れば、たいていの者は、盗人か、覗き屋か、気の触れた者だと思う。

 この男は、そのどれでもなかった。

 天文学者である。

 もっと悪い、と思う人もおるかもしれぬ。

「麻田先生」

 渡しの婆さんが声をかけた。

 男が筒から目を離した。

 麻田剛立である。

 豊後から大坂へ出てきて、医者をしながら星を眺め、幕府の暦より正確に日食を言い当てたという、これまた、たいそう世間の役に立つのか立たぬのか、すぐには判断のつかぬ人物である。

「お六どのか」

「星ばっかり見て、川へ落ちんといてくださいよ」

「星は落ちても、わしは落ちぬ」

「前に落ちはったやろ」

「あれは地面の方が崩れた」

「落ちた人は、みなそう言います」

 麻田剛立は、寅吉たちを見た。

「木村蒹葭堂どののところで、火事を起こした子供らじゃな」

「起こしてへん」

 寅吉が言った。

「火事場におった者は、みな、そう言う」

「先生まで婆さんみたいなこと言わんといて」

「誉め言葉じゃ」

 お六婆さんが言った。

                 *

 お駒は焦げた帳面を麻田に見せた。

現米、福島へ移す。
北の舟入に隠す。

「今しがた、米らしい荷を積んだ舟が、葦の向こうへ消えました」

 麻田は川を見た。

「何艘目じゃ」

「一艘しか見てへん」

「今夜だけで三艘目じゃ」

「三艘?」

「空舟の顔をして、三艘通った。だが、どれも水への沈み方が深い」

「なんで止めへんかったんです」

「わしは星を見る者じゃ。舟を止める者ではない」

「見たんやったら教えてください」

「誰に」

「誰でもええやろ」

「誰でもよい話は、たいてい、誰にも伝わらぬ」

 まことに学者というものは、すぐ理屈を言う。

「舟はどこへ行きました」

 お駒が聞き直した。

 麻田は空を見上げた。

 薄い月が、雲の間に浮かんでいる。

「もうすぐ、水が上がる」

「雨、降ってへんで」

「雨の話ではない。潮じゃ」

 大坂の川は、海とつながっている。

 海が満ちれば、川の水も押し戻される。

 月と海と川が、遠く離れたところで相談して、舟を浮かべたり、泥へ座らせたりする。

「さきほどの舟は、潮が満ちる前に、浅い水路へ入った」と麻田は言った。「いまは泥の上へ腹を置いて、動けぬ。水が上がれば、また動き出す」

「どの水路です」

「音を聞け」

 一同は耳を澄ませた。

 蛙。

 虫。

 遠い鐘。

 葦の擦れる音。

 その奥から、

 ごとん。

 ぎい。

 という、木の軋む音が聞こえた。

「舟や」

 寅吉が言った。

「西やない。北や」

 お駒が言った。

「北には梅田の泥しかないで」

 鶴松が言った。

 麻田は長い筒を肩へ担いだ。

「だから隠せる」

                 *

 麻田を先頭に、一行は堤を下り、葦の間の細道へ入った。

 お六婆さんもついてくる。

「婆さん、渡しはええんか」

「客は、ほかにも舟はある。こんな面白い話は、ほかにない」

「銭は?」

「あとで四人分もらう」

「また増えとる」

「星の先生が一人増えた」

 低地の夜道には、中心の町とは違う人間がいた。

 川魚を獲る者。

 葦を刈る者。

 薪を積む者。

 夜のうちに野菜を町へ運ぶ者。

 死んだ馬を引いていく者。

 墓穴を掘る者。

 日雇いの仕事を求めて、橋の下で眠る者。

 旅の途中で銭が尽きた者。

 店を逃げた丁稚。

 主人を逃げた奉公人。

 名前を捨てた者。

 新しい名前を買おうとしている者。

 大坂の中心が吐き出した物と人が、この泥の上で、もう一度、別の値をつけられていた。

 欠けた茶碗は、飯を盛れば茶碗である。

 折れた板は、泥の上へ置けば橋になる。

 身元のない男は、米一俵を担げば荷役になる。

 名を問わぬ仕事があり、昨日を問わぬ寝床がある。

 それを自由と呼ぶか、行き場がないと呼ぶかは、腹の減り具合による。

「足元、気ぃつけ」

 お六婆さんが言った。

「ここから先は、道のふりをした泥や」

「さっきまでは?」

「泥のふりをした道」

「どう違うんや」

「落ちたらわかる」

 寅吉が一歩踏み出した。

 ずぼり。

 膝まで沈んだ。

「わかった」

                 *

 葦の向こうに、低い小屋が幾つも並んでいた。

 炭焼き小屋。

 漁具小屋。

 舟大工の作業場。

 墓守の小屋。

 何に使うのかわからぬ小屋。

 どの小屋も傾き、風が吹けば一斉に倒れそうである。

 ところが、お駒は小屋を見ず、地面を見ていた。

「おかしい」

「何がや」

 寅吉は、片足を泥から抜きながら尋ねた。

「このへんだけ、葦が生えてへん」

 葦原の中に、妙に平らな土地がある。

 表面には薄く泥が塗られ、ところどころ板や藁が覗いていた。

「埋め立ての途中やろ」

 鶴松が言った。

「それにしては、新しい」

 お駒は足元を踏んだ。

 どん。

 地面の下から、空洞のような音が返ってきた。

「土やない」

「ほな、なんや」

 寅吉も踏んだ。

 どん。

 もう一度。

 どん。

「太鼓みたいや」

「踊るな」

 お駒が言うより先に、地面が、ばきり、と割れた。

 寅吉の体が消えた。

「寅!」

 泥と藁と板を突き破り、寅吉は下へ落ちた。

 どさり。

 だが、地面へ落ちた音ではない。

 何か柔らかく、乾いた物の上へ落ちた音である。

「いてて……」

「生きとるか!」

 お駒が穴から覗き込む。

「生きとる」

「何がある!」

 寅吉は暗闇の中で、手探りをした。

 藁。

 縄。

 俵。

 俵。

 また俵。

「米や!」

 穴の下に、米俵が、ぎっしり積まれている。

 そこは地面ではなかった。

 三艘の平底舟を並べ、その上へ板を渡し、藁を敷き、薄く泥をかぶせて、陸地に見せかけていたのである。

 大坂の泥が、千石の米を呑み込んだのではない。

 人間が、舟の上へ泥を塗り、千石の米を、泥に呑まれたように見せていたのだ。

「手ぇ貸して」

 寅吉が穴から手を伸ばした。

「その前に、俵の印見て」

「わし、米の中に埋まっとるんやで」

「せやから見やすいやろ」

「助けてからにしてくれへんか」

「先に印」

 お駒という娘は、友人の命より帳面を優先する。

 もっとも、寅吉は元気に文句を言っているので、まだ命の心配はなかった。

「空木藩や!」

 寅吉が叫んだ。

「ほかには!」

「待ってや。暗い……あ、ほかの印もある。波みたいなん。丸に木。三本線……空木だけやないで!」

 お駒の顔から、笑いが消えた。

「何藩分ある」

「知るか。わし、藩の印なんか覚えてへん」

「噂は覚えるくせに」

「印は喋らへん」

                 *

「上げろ」

 背後から、男の声がした。

 振り向くと、葦の間から、十人ほどの男たちが現れていた。

 舟子。

 荷役。

 浪人らしい男。

 中には、墓掘りの鍬を持つ者もいる。

 先頭にいるのは、五十ばかりの、肩幅の広い男であった。

 羽織の胸に、鷺の印がある。

「鷺屋の者やな」

 鶴松が言った。

「升屋の小僧か」

 男は鶴松を見た。

「わしは鷺屋清八。ここは、うちの荷置き場じゃ」

「荷置き場を、なんで泥で隠すんや」

 お駒が尋ねた。

「湿気避けじゃ」

「米の上へ泥を塗って?」

「大坂の米は、泥にも慣れとる」

「下手な嘘やな」

「上手な嘘なら信じるんか」

「値段による」

 清八は笑わなかった。

「子供の遊び場やない。帰れ」

「空木藩の米、返してから言い」

「米は、預かっただけじゃ」

「誰から」

「客の名を言わぬのが、舟問屋の信用じゃ」

「盗んだ米を隠す信用があるか」

「商いの信用は、きれいごとだけでは回らん」

 清八が手を上げた。

 男たちが一歩前へ出る。

 お六婆さんは、渡し舟の棹を構えた。

「年寄りに乱暴する気か」

「婆さんは引っ込んどれ」

「年寄りいうたな」

「そこかい」

 お六の棹が唸り、男の脛を払った。

 男が泥へ倒れた。

 それを合図に、あたりは大騒ぎとなった。

                 *

 鶴松は、升屋の丁稚らしく、喧嘩には弱かった。

 そのかわり、逃げ足だけは速い。

「助け呼んでくる!」

「どこへや!」

「どっか!」

 麻田剛立は、長い天体望遠鏡を槍のように構えた。

「それ、殴る道具ちゃうやろ!」

「星を見ぬときは棒じゃ」

 寅吉は穴の中から、米俵を一つ押し上げた。

 俵は板を転がり、清八の足へぶつかった。

「痛っ!」

「助ける前に印見ろ言うたん、お駒はんやからな!」

「誰も投げろとは言うてへん!」

 男たちが穴へ手を伸ばす。

 寅吉は米俵の間を這い回って逃げた。

 舟の底は暗く、米と縄と木の匂いがする。

 その奥で、何か硬い箱へ頭をぶつけた。

「いてっ」

 箱には錠が掛かっている。

 だが、錠より板の方が古い。

 寅吉が蹴ると、箱の側面が割れた。

 中から、書状と印判がこぼれた。

 空木藩。

 別の藩。

 さらに別の藩。

 そして、彫りかけの「鴻」の印。

「お駒はん! あったで! 印、ようけある!」

「持って上がり!」

「わしも上がりたいんや!」

 そのとき。

 ごご、と、足元が動いた。

 舟が浮き始めたのである。

                 *

「水が来るぞ!」

 麻田剛立が叫んだ。

 満ち潮が、海から川をさかのぼり、細い水路へ入ってきた。

 泥へ腹を置いていた三艘の舟が、ゆっくりと持ち上がる。

 その上へ載せた板が軋む。

 泥の地面に、亀裂が走る。

「何が起こっとる!」

 清八が叫ぶ。

「月が、お前らの嘘を持ち上げとる」

 麻田は言った。

「月に、そんな暇あるか!」

「月は暇じゃ。人間と違うて、銭勘定をせん」

 地面が、大きく割れた。

 泥と葦と板が崩れ、その下から、米を満載した舟の舷側が姿を現す。

 隠していた千石が、夜の空気へむき出しになった。

 近くの小屋から、人々が出てきた。

 漁師。

 墓守。

 日雇い。

 夜鷹。

 薪売り。

 荷役。

 子供。

 仕事のない者。

 仕事を終えた者。

 喧嘩があるなら見ておこうという者。

 火事でもないのに走ってきた者。

 数十人の目が、泥の下から現れた米舟を見つめた。

 秘密というものは、一人が見れば秘密である。

 二人なら相談になる。

 三人なら噂になる。

 五十人が見れば、翌朝には天下の常識である。

 清八の顔が、変わった。

「まずい」

「何がや」

 お駒が言った。

「湿気か?」

 清八は部下へ叫んだ。

「火をつけろ!」

「米にか!」

「舟にや! 証文も印も、全部燃やせ!」

 一人が松明を振り上げた。

 だが、投げるより早く、お六の棹がその手を打った。

 松明は泥へ落ち、じゅ、と消えた。

「年寄りを怒らせたら、火ぃまで消えるで」

                 *

 寅吉は、割れた地面から這い上がった。

 頭に藁。

 顔に泥。

 懐には、箱から拾った書状と印判を突っ込んでいる。

「取ったで!」

 お駒が書状を受け取った。

 一通目。

 空木藩の米の移動。

 二通目。

 火傷権六への支払い。

 三通目。

 道頓堀の芝居小屋への前金。

 そして四通目には、江戸風の堅い文字で、こう記されていた。

空木の一件、相場乱脈の証とすべし。
次いで鴻の名を用い、北浜の信用を動かすこと。
明後日、御勘定方御用掛、大坂入り。
米会所差止め、御定相場の儀、上申の用意あり。
その前夜までに、諸藩切手を安値にて集むべし。

「御定相場……」

 お駒がつぶやいた。

「なんや、それ」

 寅吉が尋ねる。

「お上が、米の値を決めるんや。堂島の相場を止めてな」

「ほな、この騒ぎは」

「堂島が勝手に荒れたことにして、米会所を潰すつもりや」

 鶴松も、いつの間にか戻っていた。

 助けは連れていない。

 かわりに、酒売り、魚屋、墓掘り、犬を一匹連れている。

「どっかに助け呼びに行ったんやないんか」

「呼んできた」

「犬まで?」

「ついてきた」

 お駒は書状を読み続けた。

「空木の切手を暴落させて、安う買い集める。ほんまの米は隠しておく。堂島が混乱したところへ江戸の役人が来て、『大坂商人に相場を任せるから、こんなことになる』て言う。それで市場を止めて、お上の決めた値にする」

「なんで、そんな面倒なことを」

「米の値を決める者は、天下の腹を握れる」

 麻田剛立が言った。

「暦を決める者は日を支配し、米価を決める者は人の飯を支配する。役人は、何でも自分の帳面へ入れたがる」

「鴻の名を用い、て」

 鶴松が聞いた。

「鴻池のことか」

「鴻池が黒幕やない」

 お駒は書状を握った。

「鴻池がやったように見せるつもりや。空木の次は、鴻池の信用を落とす。北浜の両替が揺れたら、大坂じゅうの銀が止まる」

「米の次は銀か」

「空木藩は、最初の一幕にすぎへんかったんや」

 芝居である。

 空の蔵。

 偽の切手。

 噂。

 死人。

 道頓堀の見世物。

 泥の下の米。

 その全部が、大坂の市場を「乱脈」と見せるために組まれた、大きな芝居の一場面だった。

                 *

 鷺屋清八は、泥の中へ膝をついた。

「わしは、頼まれて運んだだけじゃ」

「誰に」

 お駒が迫った。

「知らん」

「客の名を言わんのが信用やったな」

「もう信用も何もない」

 清八は、むき出しになった米舟を見た。

 周りには、見物人が増え続けている。

「江戸から来た男じゃ。名は葛城主膳。御勘定方の用人と名乗った」

「役人本人か」

「役人の手先かもしれん。じゃが、江戸の御用状を持っとった。空木藩の留守居役も頭を下げとった」

「なんで手伝った」

「銭じゃ」

「それだけか」

「それだけなら、まだ楽じゃった」

 清八は吐き捨てるように言った。

「鷺屋は、北国の舟を三艘沈めて、借金を抱えとる。葛城は、『手伝わねば、升屋にも鴻池にも、鷺屋の船は使わせぬ』と言うた。舟問屋から舟を取ったら、首を取るのと同じじゃ」

「それでも人を殺したんか」

「弥七を殺したのは、わしやない」

「火傷権六は」

「葛城の犬じゃ。もっとも、銭をくれる者なら誰にでも吠える犬や」

「葛城主膳は、どこにおる」

 清八は、しばらく黙った。

「曽根崎」

「どこや」

「露天神の裏手に、江戸者が使う宿がある。じゃが、もうおらんかもしれん。明日の朝には、中之島の空木藩蔵屋敷へ入る手筈じゃ」

「明後日、大坂入りて、書状にあるで」

「公には、明後日じゃ」

 清八は笑った。

「役人は、表へ来る二日前から、裏へ来とる」

                 *

 遠くで、半鐘が鳴った。

 一つ。

 二つ。

 福島の方角。

 続いて、堂島の方角から、人の叫ぶ声が風に乗ってきた。

「何や」

 寅吉が耳を澄ませた。

 噂を一度聞けば忘れぬ耳である。

 遠い。

 だが、聞き取れた。

「空木の蔵が開いたぞ!」

「米がない!」

「切手を売れ!」

 お駒の顔が強張った。

「向こうも動き出した」

 葛城主膳は、隠した米が見つかったことを、まだ知らない。

 予定どおり、空木藩の蔵を開かせ、空であることを人々へ見せたのだ。

 堂島では、これから本当の取り付けが始まる。

 米切手を持つ者が、一斉に蔵へ米を取りに行く。

 米はない。

 米会所は荒れる。

 北浜の銀も揺れる。

「急いで堂島へ戻らな」

 鶴松が言った。

「その前に、曽根崎や」

 お駒が答えた。

「葛城を捕まえるんか」

「捕まえられると思う?」

「思わん」

「せやから、何をしようとしてるか、先に盗む」

「役人から?」

「向こうが、大坂じゅうの信用を盗もうとしてるんや。帳面一冊くらい、返してもらう」

 寅吉は、泥だらけの顔を拭いた。

「わしら、丁稚やで」

「知っとる」

「相手、江戸の役人やで」

「知っとる」

「捕まったら、どうなる」

「升屋と鯰屋が、なんとかする」

「他人任せやな」

「大店いうのは、こういうときのためにあるんや」

 鶴松が首を振った。

「小右衛門はんに聞かれたら怒るで」

「ほな、黙っとき」

「それも怒られる」

「どっちにしても怒られるなら、役に立ってから怒られ」

 この娘には、たいそう筋の通った無茶がある。

                 *

 麻田剛立は、空を見上げていた。

「夜半から雲が出る」

「雨ですか」

「雨にはならぬ。だが、月が隠れる」

「それが何や」

「盗みに入るには都合がよい」

「先生、手伝う気ですか」

「わしは手伝わぬ」

「ほな、なんで教えるんです」

「星の話をしただけじゃ」

「便利な言い訳やな」

 麻田は、長い筒を寅吉へ渡した。

「持っていけ」

「これで役人殴るんですか」

「星を見る物じゃ」

「さっき棒にしてたやろ」

「人は用途を一つに決めたがる。道具は、さほど窮屈ではない」

 お六婆さんも棹を担いだ。

「曽根崎まで舟で行ったる」

「なんぼです」

 お駒が尋ねた。

「七人分」

「三人から、えらい増えたな」

「死人、怪しい舟、星の先生、犬。全部乗った」

「犬は置いていく」

 犬が、わん、と吠えた。

「本人が嫌や言うとる」

「本人ちゃう」

 大坂の北の闇の中で、隠されていた米が、満ち潮に持ち上げられ、泥の上へ姿を現している。

 千石の米。

 三艘の舟。

 幾つもの藩の印。

 それを取り囲む、舟子、日雇い、墓掘り、夜鷹、学者、丁稚、商家の娘、渡しの婆さん、それに犬。

 大名も奉行もいない。

 だが、大坂の実際の米を動かしているのは、こういう者たちである。

 その者たちが、米のありかを見た。

 もう、蔵は空でも、天下から米が消えたわけではない。

 問題は、その事実が堂島へ届くのが先か。

 空木藩が潰れたという噂が、天下へ届くのが先か。

 銭も、舟も、噂も、夜道を走る。

 走るものの中で、このとき、いちばん遅かったのは、真実である。

「行こか」

 お駒が言った。

 渡し舟が、暗い水路へ滑り出す。

 向かう先は、曽根崎。

 江戸から来た役人が、表向きにはまだ大坂へ着いてもいない夜に、裏ではすでに、大坂の値段を盗もうとしていた。

 その夜の梅田では、泥が千石の米を吐き出し、かわりに、一つの大きな陰謀が、ぬるりと姿を現したのである。

                 *

(第六話・了。第七話「江戸の役人、天気に値をつける」へつづく)

◆この物語の史実と虚構について(語り手より)

寛政年間の大坂北郊に、福島村、曽根崎村、梅田周辺の低湿地や田畑、水路が広がっていたこと、大坂の河川が海の潮汐の影響を受け、夜も舟運と荷役が盛んであったことは、おおむね本当である。

梅田の名が、低湿地を埋めた「埋田」に由来するという説もあるが、梅の木に由来するという説もあり、語り手は決着をつける能力も意欲も持たない。

麻田剛立が豊後から大坂へ移り、医業を営みながら天文観測を行い、優れた観測と暦学で知られた人物であったことも、本当である。ただし、満ち潮を利用して泥の下の米舟を浮かび上がらせ、丁稚へ望遠鏡を貸したという記録は、今のところ見つかっていない。

鷺屋清八、渡しのお六、葛城主膳、泥をかぶせた三艘の米舟、大坂の米会所を潰すための一連の企みは、すべて拵えものである。

もっとも、表へ到着する二日前から裏へ到着している役人というものについては、昔も今も、それほど珍しくない。