2026年6月27日土曜日

失われた希望と失われた30年~ ―近現代の経済は希望で出来ている―

 

失われた希望と失われた30年~ ―近現代の経済は希望で出来ている―

 

価格は数式と心が織りなす芸術:株価と資本主義を動かす「心理のグラデーション」

株価やGDPといった経済の数字は、無機質な数式だけで決まるものではありません。そこには常に、人間の「希望」や「恐怖」といった感情がグラデーションのように溶け込んでいます。

資本主義のメカニズムと市場の価格形成を読み解く鍵は、この「目に見える数字」と「目に見えない心理」の混ざり合いを理解することにあります。

株価を形成する「3層のグラデーション」

株価という将来価値を取引する世界は、白と黒で明確に分かれているわけではなく、ガチガチの現実から純粋な妄想までのスペクトラム(連続体)で成り立っています。これを3つの層に分けると、市場の構造が視覚的に見えてきます。

  • 1層:核(ファンダメンタルズ) 現在の利益、保有する現金、工場や特許といった「過去と現在」の確定した事実です。数字で完璧に証明できる、相場の最も重い土台となります。
  • 2層:移行帯(合理的な推測) 来期の成長予測や新製品の売上見込みなど、事実をベースにしつつも「未来への楽観や悲観」が混ざり始める領域です。
  • 3層:外殻(純粋なムード) 「この技術で世界が変わる」「戦争で経済が終わる」といった、数字の裏付けがない純粋な熱狂や恐怖の集団心理です。

平常時、株価は業績という「核」に沿って動きますが、バブルのような強気相場では「外殻(純粋なムード)」だけで価格の大部分が説明されるようになります。逆に暴落時には、過剰な恐怖が「移行帯」の合理性をすっ飛ばし、「核」である現在の価値すら疑い始めることで価格が不当に叩き落とされます。 市場価格とは、この3つの層が常に伸び縮みしながら混ざり合うスープのようなものなのです。

資本主義のエンジンは「明日への期待」

この心理のグラデーションは、株式市場だけでなく、実体経済(GDP)の根底にも流れています。

そもそも資本主義の根底には、「明日は今日よりも良くなる」という全員の合意(信仰)が不可欠です。投資家がリスクを取って株を買うのは将来への「期待」があるからであり、企業が借金をして設備投資をするのも未来への「楽観」があるからです。

この「期待する心」が自由な売買を生み、それが巡り巡ってリアルな経済の拡大(GDPの成長)を作り出します。資本主義における自由な売買とGDPの成長は、人間の未来に対する信頼という同じ燃料で動く「不可分のセット」なのです。

「失われた30年」が証明した心理の力

この「期待する心」が失われた時、経済に何が起きるのでしょうか。その完璧な証明が、日本のデフレと「失われた30年」です。

1990年のバブル崩壊以降、日本の市場からは「楽観や夢」という外殻が完全に消え去りました。「どうせ明日も物価が下がる」「給料は上がらない」というムード(悲観)が国民全体に定着した結果、誰もお金を使わず、企業も投資を止めました。

日本は企業の現預金や技術力といった「ファンダメンタルズ(核)」としては非常に健全で豊かだったにもかかわらず、悲観のムードが現実を支配し、GDPの成長を止めてしまいました。まさに、心理の冷え込みが実体経済を殺してしまった典型例と言えます。

グラデーションの前提となる「信用の土台」

では、この理論は世界中どこでも通用するのでしょうか。実は、発展途上国では全く別のダイナミズムが働きます。

日本や欧米のような先進国では、「法律が守られる」「虚偽の決算をすれば罰せられる」「通貨の価値が安定している」という絶対的な「信用の土台」があります。この土台があるからこそ、投資家は安心して不確実な未来(ムード)を売買できるのです。

しかし、土台となる制度やルールがない途上国では、国のトップが変われば資産が没収されたり、発表される数字自体が偽造であったりするリスクが常に牙をむきます。どれだけ高いGDP成長率を誇っていても、絶対的な信用という「核」が存在しないため、そこでの投資は健全な成長期待ではなく、明日は我が身のマネーゲームになりがちです。

市場は人間の心を映す鏡

裏を返せば、日本の失われた30年という苦しいデフレの時代は、「それだけ長期間、国や市場のルールが壊れずに耐え抜いた」という、世界でも稀有な信用の強さの証明でもありました。

価格とは、冷徹な数式だけで決まるものではありません。市場全体が恐怖のムードに支配されている時、霧の奥にある「核(ファンダメンタルズ)」の価値を見極めること。それこそが投資の神髄であり、経済活動の最も人間らしい側面なのです。

 

希望と失望のグラデーション

──株価・GDP・そして失われた三〇年

株価のように「将来の価値」を取引する世界では、目に見える数字と、目に見えない心理とが、白と黒のようにはっきり分かれているわけではない。両者はグラデーションをなして溶け合い、毎秒の価格を形づくっている。

そう考えると、価格とは確定した事実と純粋な気分とのあいだに引かれた、たえず伸び縮みする一本のスペクトラムだということになる。その構造を、三つの層に分けて眺めてみたい。

価格をつくる三つの層

いちばん内側にあるのがである。現在の利益、手元の現金、工場、特許――過去と現在においてすでに確定した事実の層だ。数字で証明でき、誰が見ても動かない、重い土台である。

その外側に移行帯がある。来期の成長予測、新製品の売上見込みといった、事実を足場にしながらも「未来への楽観や悲観」が混ざりはじめる領域だ。ここから先、価格は次第に人間の心の側へ傾いていく。

そしていちばん外側を覆うのが外殻、純粋なムードの層である。「AI革命で世界が一変する」「戦争で世界が終わる」――数字の裏づけを持たない、集団の恐怖や熱狂がここに渦巻く。

現実の株価は、この三層が溶け合った一杯のスープのようなものだ。問題は、その境界線が、外部環境と時間軸に応じてたえず伸縮することにある。

グラデーションはなぜ激しく揺れるのか

景気が穏やかなとき、価格の中心には核が据わっている。ムードは薄いベールのように株価を包むだけで、相場はおおむね業績に沿って動く。これが平常時のグラデーションだ。

ところが強気相場が行きすぎると、グラデーションは一気に楽観の側へ偏る。投資家は核の数字を見なくなり、外殻の「きらびやかな未来」だけで株価の九割を説明しようとしはじめる。テクニカル指標がしばしば天井に張りついて機能しなくなるのは、ちょうどこの局面だ。

逆にパニックが起きると、今度は一瞬で恐怖と失望が全体を染める。投資家は移行帯の合理的な予測を飛び越え、ついには核の――現在の確固たる価値そのものを疑いはじめる。「この会社は潤沢な現金を抱えているが、世界恐慌が来れば無価値になるかもしれない」。この過剰な恐怖が、株価を本来の価値のはるか下まで叩き落とす。

伝説的な投資家たちが冷徹なのは、まさにこの歪みを見ているからだ。市場全体が恐怖のムードに覆われ視界が濁っているとき、彼らはあえてその霧の奥にある核――会社の利益と資産だけを凝視する。そして「ムードのせいで核の価値より不当に安くなっている」という歪みを見つけたとき、静かに買いを入れる。ウォーレン・バフェットの「他人が貪欲なときに恐れ、他人が恐れているときに貪欲であれ」とは、このグラデーションの読み方そのものである。

資本主義は「成長への期待」と一体である

ここで少し視点を上げてみる。

そもそも資本主義の根底には、「明日は今日より良くなる」という、ほとんど信仰に近い合意がある。投資家が株を買うのは、その企業が成長して取り分が増えると期待するからだ。企業が借金をして工場を建てるのは、もっと売れると楽観しているからだ。

この「期待する心」が自由な売買を生み、それがめぐりめぐって実体経済の拡大、すなわちGDPの成長をつくる。株価もGDPも、元をたどれば「未来への信頼」という同じ燃料で動いている。だとすれば、自由な売買と成長への期待とは、切り離せない一組のものだと言ってよい。

そして、この燃料が尽きたとき何が起こるのか。それを三〇年かけて実演してみせたのが、ほかならぬ日本である。

失われた三〇年――心理が経済を縛った国

一九八九年十二月二十九日、日経平均は終値で三万八九一五円八七銭という史上最高値をつけた。バブルの絶頂である。そして翌年からの崩壊以降、日本の市場からは外殻――楽観や夢の層が、ごっそりと消え去った。

この最高値を再び超えるまでに、日本はおよそ三四年を要した。更新は二〇二四年二月二十二日。世界的に見ても異様なほど長い、ムードの凍結である。

注目すべきは、この間の日本がファンダメンタルズとしてはむしろ健全だったことだ。企業は潤沢な現預金と技術力を抱えていた。事実、バブル期の日経平均のPERが六〇倍前後という純然たる熱狂だったのに対し、最高値を更新した二〇二四年のPERは一六倍台にすぎない。同じ株価でも、かつては夢が、今度は利益が支えていた。

それでも成長は止まった。「どうせ明日も物価は下がる」「給料は上がらない」という悲観が国民全体に定着し、誰も金を使わず、企業も投資をためらった(経済学者リチャード・クーが「バランスシート不況」と呼んだ、負債圧縮へと一斉に傾く心理もまた、凍りついた期待のひとつの形である)。

健全な核を持ちながら、外殻の悲観がそれを上書きし、実体の成長まで縛り上げてしまう。失われた三〇年とは、心理が経済の足を引いた典型例だった――むろんそれが唯一の原因ではないにせよ、この一枚のグラデーションは、気分が現実をどれほど支配しうるかを生々しく映している。

土台のない市場――途上国という別のゲーム

ここまでの議論は、実はある前提の上に成り立っている。「核」と呼べる確かな土台が存在する、という前提だ。

日本や欧米の先進国には、「ルールが守られる」「嘘の決算をすれば逮捕される」「通貨の価値が安定している」という絶対的な信用がある。だからこそ人は安心して、未来という不確実な夢を売買できる。グラデーションがきれいに映るのは、土台がびくともしないからだ。

この前提を欠く発展途上国では、まったく別のゲームが始まる。為政者が変われば企業の資産が没収されるかもしれない。発表されるGDPや決算書が、そもそも偽造されているかもしれない。通貨が一夜にして紙切れになるかもしれない。

こうなると市場は「未来への健全な楽観」ではなく、「明日は我が身の大博打」――純粋なマネーゲームに近づく。どれほど高いGDP成長率を誇っても、土台の信用がなければ、世界の長期資金はそこを終の住処には選ばない。グラデーション以前に、制度の崩壊という文字どおりの「リスク」と隣り合わせなのである。

結び――停滞の裏にあった「信用の強さ」

整理すれば、こうなる。先進国の相場は、強固な土台の上に人間の楽観と悲観のグラデーションがくっきりと映し出される世界だ。途上国の相場は、その土台じたいが砂上の楼閣であるために、グラデーション以前の崩壊リスクと隣り合わせの世界である。

そう考えたとき、日本の失われた三〇年には、苦さとは別の一面が見えてくる。それだけ長いあいだ悲観に沈みながら、この国のルールも、通貨も、信用の仕組みも、ついに壊れなかった。停滞は確かに重い代償だったが、裏を返せばそれは、三〇年以上にわたって土台が崩れなかったという、世界でも稀な信用の強さの証明でもあったのだ。

価格とは、冷徹な数式と、生身の人間の心とが、たえず綱を引き合う場所である。だからこそそれは、私たちが思うよりずっと人間的な現象なのだ。

 

株価は「未来への気分」でできている

――ファンダメンタルズ、期待、制度、そして失われた30

株価とは、いったい何だろうか。

企業が保有する現金や工場、現在の売上や利益を表した数字だろうか。それとも、「この会社はこれから成長する」という投資家の期待を表したものだろうか。

おそらく、そのどちらか一方ではない。

株価のように将来価値を取引する価格は、確定した事実から、合理的な予測、希望、楽観、失望、恐怖に至るまで、さまざまな要素が連続的に溶け合ったものとして形成される。

そこには、数字と感情を分ける明確な境界線はない。

ファンダメンタルズと市場心理は、白と黒のように分かれているのではなく、むしろ一つのグラデーションをなしている。

株価を構成する三つの領域

株価を大まかに分解すると、次の三つの領域を考えることができる。

1.比較的確かな現在

最も確実性が高いのは、すでに存在している事実である。

企業の現預金、借入金、保有資産、現在の売上、現在の利益、生産設備、顧客数などがここに含まれる。

もちろん、会計上の数字にも推計や評価は入り込む。工場や不動産の価値、のれん、将来の退職給付などは、完全に客観的な数字ではない。それでも、将来予測に比べれば、現在の財務諸表は比較的確かな土台である。

これが、一般にファンダメンタルズと呼ばれる領域である。

2.事実に基づいた未来予測

しかし、株を買う人が見ているのは現在だけではない。

新製品が売れるだろうか。海外市場に進出できるだろうか。原材料価格は上がるだろうか。金利はどうなるだろうか。競争相手に勝てるだろうか。

こうした予測は、現在のデータを基礎にしている。しかし、そこにはすでに楽観と悲観が混じり始めている。

同じ決算書を見ても、ある投資家は「一時的な減益にすぎない」と考え、別の投資家は「衰退の始まりだ」と考える。

つまり、事実は一つでも、そこから導かれる未来は一つではない。

3.物語と集団心理

さらに外側には、「この技術が世界を変える」「この国の経済はもう終わりだ」といった、より大きな物語が存在する。

AI革命、宇宙産業、脱炭素、人口減少、金融危機、戦争、国家衰退――

こうした物語は、単なる妄想とは限らない。現実の変化を先取りしていることもある。しかし、遠い未来の物語ほど検証が難しくなり、期待や不安が入り込む余地は大きくなる。

バブルでは、希望に満ちた物語が数字を圧倒する。

暴落では、恐怖に満ちた物語が企業の現実価値を覆い隠す。

株価とは、現在の企業価値の値札であると同時に、社会がその企業の未来についてどのような物語を信じているかを示す指標でもある。

ムードは株価に「付着する」のではない

市場心理は、ファンダメンタルズの外側に付着する飾りではない。

もっと深く、企業価値の計算そのものに入り込んでいる。

株価は理論的には、企業が将来生み出す利益や現金を、現在価値に割り引いたものとして考えられる。

ところが、「将来どれだけ利益を生むか」も、「その未来をどの程度割り引くか」も、確定した数字ではない。

景気に対して楽観的になれば、将来利益の予測は大きくなる。社会が不安定になれば、投資家は高い安全性を求めるため、同じ将来利益でも現在の評価額は低くなる。

期待や恐怖は、外から株価を揺らすだけではない。

将来利益の予想と、リスクの評価を通じて、株価の計算式の内部に入り込んでいるのである。

平常時、バブル、暴落

このグラデーションの形は、いつも同じではない。

平常時には、現在の利益や企業の競争力を中心として、一定の成長期待が付け加えられる。価格は多少揺れながらも、長期的には業績との関係を保つ。

ところがバブルになると、遠い未来の物語が急速に膨張する。

「今は利益が出ていなくても、巨大市場を支配する」「従来の評価基準は通用しない」と語られ、現在の数字を無視すること自体が、新時代への理解の証明であるかのように扱われる。

反対に暴落時には、恐怖が未来を覆う。

利益を出している企業、十分な現金を持つ企業まで売られ、「これまでの前提がすべて崩れるのではないか」という疑いが広がる。

ただし、楽観が常に誤りであり、悲観が常に非合理的なのではない。

技術革新が実際に社会を変えることもある。危機によって企業の事業基盤が本当に崩壊することもある。

問題は、市場の物語が正しいか間違っているかだけではない。どこまでが根拠のある予測で、どこからが集団心理による増幅なのかを見分けることにある。

資本主義と「明日は豊かになる」という期待

現代の資本主義は、未来への期待と深く結びついている。

企業が借金をして設備投資をするのは、将来の売上が現在より増えると考えるからである。投資家が株を買うのは、その企業が将来利益を生み、配当や企業価値が増えると予想するからである。

銀行の融資も、住宅ローンも、年金運用も、国の税収見通しも、程度の差はあれ、将来の所得や生産力を前提としている。

したがって現代の信用経済は、

明日は、少なくとも今日と同じ程度には生産できる。
できれば今日より豊かになる。

という未来への信頼によって支えられている。

ただし、資本主義とGDP成長が論理的に完全な同義語であるわけではない。

成長しない経済でも、私有財産や市場取引は存在し得る。しかし、信用、株式、年金、財政などが複雑に組み合わさった現代資本主義は、継続的な成長がないと、さまざまな場所に負担が集中しやすい。

人口が減り、経済全体が拡大しない社会では、誰かの所得増加が別の誰かの取り分の減少に見えやすくなる。

成長はすべての問題を解決するわけではないが、社会の対立を和らげる余白をつくるのである。

失われた30年は「期待を失った時代」だったのか

日本の失われた30年を、期待や希望が失われた時代として読むことには、かなりの妥当性がある。

バブル崩壊後、日本では企業と金融機関が過剰債務や不良債権の処理を優先した。企業は投資より借金返済を選び、家計は将来不安から消費を抑えた。

長いデフレと低成長のなかで、

「価格は上がらない」
「給料も上がらない」
「会社は成長しない」
「失敗するより現状を守った方がよい」

という予想が社会に定着した。

期待は、単なる心の状態ではない。

物価が上がらないと思えば、消費は先送りされる。商品が売れないと思えば、企業は設備投資や賃上げを控える。賃金が上がらないと思えば、家計はさらに支出を減らす。

このように、悲観的な予想が悲観的な行動を生み、その行動が本当に経済を停滞させることがある。

期待が現実をつくり、できあがった現実が再び期待を強化する。

ここには一種の循環がある。

日本経済を「ムードだけ」で説明してはいけない

もっとも、日本の長期停滞を国民の悲観や心理だけに帰するのは適切ではない。

バブル崩壊後の債務調整、不良債権問題、金融政策と財政政策、人口構造の変化、生産性の伸び悩み、雇用制度、社会保障負担、国際競争の変化など、多数の構造的・政策的要因が存在した。

したがって、次のように考える方がよい。

日本経済が停滞したのは、日本人が悲観的だったからだけではない。
長期停滞を生み出す制度と政策と経済条件があり、その結果として悲観が生まれた。
そして、定着した悲観が、さらに投資と消費を抑え、停滞を長引かせた。

心理は原因であると同時に結果でもある。

経済的現実と社会的ムードは、互いに影響し合う。

日本の株価が1989年末の高値を回復するまで長い年月を要し、2024年になってようやく名目上の最高値を更新したことは、この長期停滞を象徴する出来事だった。

ただし、それは単純に「日本人の気分が34年間暗かった」ことを示すのではない。

企業収益、産業構造、金融政策、海外投資家の評価、物価、賃金、為替、企業統治などが重なった結果である。その全体が市場価格という一つの数字に圧縮されて現れた、と考えるべきだろう。

市場を支える、目に見えない制度

株式市場で未来の価値を取引するには、期待以前に必要なものがある。

それが信用である。

企業の決算書がある程度正しい。株主の権利が守られる。契約が裁判によって執行される。突然、国家に資産を没収されない。通貨と金融制度が極端には崩れない。

こうした制度的な信用があるからこそ、投資家は不確実な未来を計算し、長期的な投資を行うことができる。

市場価格とは、企業への評価だけではない。

その国の法律、会計制度、政治、中央銀行、通貨、所有権、統治機構に対する評価も含んでいる。

つまり、株価のファンダメンタルズには、企業の利益だけでなく、企業活動を可能にしている社会制度そのものが含まれている。

「先進国対途上国」という単純な二分法

この点から、制度の安定した国と不安定な国とでは、株価の意味が異なることが分かる。

しかし、「先進国には信用があり、途上国には信用がない」と一括りにすることはできない。

新興国の中にも、比較的安定した法制度や資本市場を持つ国がある。一方、先進国でも政治的混乱、会計不正、金融危機、制度への不信が起こる。

重要なのは、国の分類ではなく、個別に次の条件を見ることである。

  • 財産権と少数株主の権利が守られるか
  • 会計情報が信頼できるか
  • 政治権力が企業経営にどこまで介入するか
  • 通貨価値が安定しているか
  • 資本を自由に持ち出せるか
  • 経済成長の成果が株主に帰属するか

GDPが大きく成長しているからといって、株式投資の収益が高くなるとは限らない。

企業が利益を上げても、国家や支配株主に吸い上げられるかもしれない。増資によって一株当たりの価値が薄まることもある。通貨下落によって、外国人投資家の利益が消えることもある。

経済成長と株主利益のあいだにも、制度という橋が必要なのである。

株価は社会の「未来予想図」である

市場は、完全に合理的な計算機でもなければ、純粋な賭博場でもない。

そこでは、現在の利益、将来の成長率、金利、制度への信用、技術への期待、戦争への恐怖、社会全体の楽観と悲観が、一つの価格に押し込められている。

だから株価は、ときに企業の現実から大きく離れる。

しかし、価格が現実から離れているように見えても、その価格が企業の資金調達や人材獲得、設備投資に影響し、やがて現実の企業活動を変えることがある。

期待が価格をつくり、価格が資金を動かし、資金が現実をつくる。

そして、変化した現実が再び期待を変える。

株式市場は、現実を映す鏡であるだけではない。映し出した像によって、現実そのものを動かしてしまう鏡でもある。

おわりに――希望は経済的な力である

希望や楽観は、数字と対立する非合理的な感情ではない。

適度な希望は、投資を生み、研究開発を促し、人を雇い、新しい産業をつくる。まだ存在していない未来を信じることが、未来を現実にすることもある。

しかし、根拠のない楽観はバブルを生む。

反対に、慎重さは危機を避けるために必要だが、過度の悲観は投資と挑戦を止め、恐れていた停滞を自ら実現してしまう。

健全な資本主義に必要なのは、楽観そのものでも悲観そのものでもない。

確かな制度と事実を土台にしながら、不確実な未来に向かって、一定の希望を持つことである。

株価とは、冷たい数字と、生身の人間の期待が出会う場所である。

そして経済とは、現在存在する富を分配する仕組みであるだけでなく、まだ存在していない未来を、社会がどこまで信じられるかを試す仕組みなのである。

 

堂島ばけもの算用 第三話 死人の足し算

 

堂島ばけもの算用

第三話 死人の足し算

 翌朝、空木藩は、朝飯前に一度潰れ、五ツ時には殿様が夜逃げし、昼までには御家老が腹を切った。

 もちろん、本物の空木藩は、まだ潰れておらぬ。

 殿様も夜逃げしておらぬし、御家老も、たぶん朝餉の焼き魚などを、何も知らずに食っておる。

 ただ、堂島の浜では、そういうことになったのである。

「空木の船が二日遅れとる」

 という話が、魚屋の口に入ると、

「船が難破した」

 となり、湯屋へ入るころには、

「蔵が空になった」

 となり、駕籠かきの肩に乗ると、

「殿様が逃げた」

 となり、茶屋で酒を一杯飲むうちに、

「家老が腹を切った」

 となった。

 噂というものは、足が速い。

 しかも、走っているうちに、勝手に太る。

 人間なら、朝から昼まで走れば、いくらか痩せるものだが、噂だけは、走れば走るほど、でっぷりと肥え太る。まことに羨ましい体質である。

 その肥え太った噂が、堂島を一周して鯰屋へ戻ってきたころ、空木藩の米切手は、昨日よりさらに値を下げていた。

                 *

「あかん、売る。いま売る。全部売る」

 鯰屋の主人・利兵衛は、空木藩の米切手を両腕いっぱいに抱え、店先を右へ左へ駆け回っていた。

「誰ぞ買わんか。安いで。昨日より、もっと安いで」

「安いから売るんやろが」

 帳場から、お駒が冷たく言った。

「お父っつぁん。昨日は、安いから買うた。今日は、安いから売る。明日は何をするつもりや」

「明日のことは、明日考える」

「そうやって今日まで来たんやな。よう店が残ったもんや」

 利兵衛は娘に痛いところを突かれ、米切手の束を抱いたまま、うう、と唸った。

「せやけどな、お駒。このまま持っとったら、紙屑になるかもしれへんやないか」

「もう紙や」

「そういう意味やない」

「ほな、黙ってそこ置き」

 お駒は、父親から米切手の束をひったくると、帳場の上へ広げた。

 一枚、二枚、三枚。

 額面を見、日付を見、蔵屋敷の印を見ていく。

 隣では、寅吉が、何の役にも立たぬ顔で眺めている。

「なあ、お駒はん」

「なんや」

「そんな紙、何枚見ても、おんなじやないか」

「おんなじやから見とるんや」

「おんなじもんを何枚見ても、おんなじやろ」

「寅。あんた、自分が昨日と今日で、おんなじ顔しとると思うか」

「思うけど」

「昨日より阿呆になっとる」

「なんやと」

「紙も人間も、よう見たら、同じ顔なんぞ一つもない」

 お駒は、十枚ほどを脇へ除けた。

「このへんの古い切手は、印の右肩がきれいや。ところが、こっちの新しい切手は、印の右肩が、ほんの少し欠けとる」

 寅吉は顔を近づけた。

「……どこがや」

「ここや」

「見えへん」

「見えん目は、閉じとき」

 お駒が指したところを、寅吉は片目をつぶって覗き込んだ。

 なるほど、丸い印の縁が、ごくわずかに欠けている。鼠が一口だけ囓ったような、小さな欠けである。

「これが、なんやねん」

「知らん。せやから調べる」

 そのとき、表から、聞き覚えのある生意気な声がした。

「鯰屋のどぶ鼠、おるか」

 升屋の丁稚、鶴松であった。

「誰がどぶ鼠や」

「おまはん以外に、どぶ鼠がおるか」

「おるわ。どぶにも鼠にも、ようけおる」

「鼠と張り合うな。小右衛門はんから言付けや」

 鶴松は、懐から一通の紙を出した。

 そこには、山片蟠桃の、細く堅い字で、こう書かれていた。

値を見るな。
日付と印を見よ。
死人を一人、勘定に足してみい。
懐徳堂の中井先生に見せること。

 お駒は二度読み、寅吉は一度読もうとして、途中で諦めた。

「死人を、足す?」

 利兵衛が首を傾げた。

「お父っつぁんは、ここで切手を見張っとき」

「お前ら、どこ行くんや」

「学問所」

「うちの店が潰れかけとるときに、学問なんぞして何になる」

 お駒は切手を風呂敷に包みながら答えた。

「学問せえへんかったから、潰れかけとるんや」

                 *

 懐徳堂というのは、大坂の町人が、自分らで銭を出し合って拵えた学問所である。

 武士が町人に学問を許してやったのではない。

 町人が、自分らに要る学問を、自分らで買うたのである。

 このあたりが、いかにも大坂らしい。

 玄関を入ると、商家の若旦那が『論語』を読み、その隣で薬種屋の手代が天文の話をし、さらにその隣では、浪人が昼飯代を誰に借りるか思案している。

 身分は違えど、腹が減るところだけは、皆、平等である。

「中井先生はん、いてはりますか」

 お駒が声をかけると、奥から、落ち着いた男が姿を現した。

 中井竹山である。

 懐徳堂の学主を務め、大坂じゅうの商人や武士から敬われる学者で、物腰は穏やかだが、目には人の腹の底まで見通すような光があった。

「升屋の小右衛門どのから、話は聞いております」

 竹山は二人を座敷へ通した。

「米切手を見せてください」

 お駒が風呂敷を開くと、障子の向こうから、別の声がした。

「米切手を見るのに、兄者一人では、目が上品すぎる」

 障子が開き、もう一人、痩せた男が入ってきた。

 竹山の弟、中井履軒である。

 兄の竹山が、人を安心させる顔をしているのに対し、こちらは、人をわざわざ不安にさせて楽しんでいるような顔をしている。

「これは、山片小右衛門が寄越した丁稚か」

 履軒は寅吉を見た。

「いえ、鯰屋の丁稚だす」

「ほう。見るからに鯰屋じゃ」

「どこ見たらわかるんや」

「口を開けたときの、知恵のなさ加減じゃ」

「会うてすぐ悪口言う学者があるか」

「ある。ここにおる」

「履軒」

 竹山が、弟をたしなめた。

「子供をからかうものではない」

「兄者は、子供には甘い。大人には、もっと甘いが」

「米切手を見なさい」

「はいはい」

 履軒は、お駒の前に広げられた切手を、一枚ずつ手に取った。

 日付を見る。

 紙を透かす。

 印の欠けを、爪の先でなぞる。

 やがて、ふん、と鼻を鳴らした。

「小右衛門の言うた死人とは、これか」

「ご存じなんですか」と、お駒。

「空木藩の蔵改役、榊原久兵衛。この男は、若いころ、ここへ通うておった」

 竹山が、奥の書棚から古い箱を取り出した。

 中には、何通もの書状が納められている。

 その一通を開くと、末尾に、空木藩蔵改役・榊原久兵衛の名と印があった。

 お駒は、米切手の印と、書状の印を並べた。

 どちらにも、右肩に、鼠が囓ったような小さな欠けがある。

「同じ印や」

「同じですな」と竹山。

「ほんで、この榊原はんは、いま、どこにいてはるんです」

 寅吉が尋ねた。

 履軒は、こともなげに答えた。

「墓の下じゃ」

「えっ」

「三年前に死んだ」

 寅吉は、もう一度、切手の日付を見た。

 新しいものは、今月。

 古くても、去年。

 どれも、榊原久兵衛が死んだあとの日付である。

「死人が、切手に印を押しとるんか」

「そういう勘定になるな」と履軒。

「そら、幽霊や」

「小右衛門に言うてみい。たいそう喜ぶぞ」

 お駒は、すでに算盤を出していた。

 新しい切手を日付順に並べ、額面を読み、ぱらぱらぱらと玉を弾く。

「榊原はんが死んだあと、この印で出た切手だけで……わかる限り、四千二百石」

「死人にしては、よく働く」と履軒。

「笑い事ではありません」と竹山。

「笑えるうちに笑うておかねば、あとで笑えんようになる」

 履軒は、古い書状と新しい切手を並べて、もう一度眺めた。

「字は、榊原のものではない。榊原は、もっと右へ傾く字を書いた。これは誰かが似せて書いたものじゃ。じゃが、印だけは本物に見える」

「ということは」と、お駒。「死んだ榊原はんの印を、誰かが持っとる」

「それも、空木藩の蔵屋敷の内側に出入りできる誰かがな」

 竹山が静かに言った。

 寅吉は、米切手の赤い印を見つめていた。

 赤い。

 妙に、赤い。

 その赤を見ているうちに、頭の奥で、今朝見たものが、ふっと浮かんだ。

「あ」

「なんや、寅」と、お駒。

「親指や」

「何の話や」

「けさ、浜で、『空木はもうあかん、早よ売れ』て触れ回っとった男がおったやろ。あいつの右の親指、真っ赤やった。血かと思うたけど、あれ、朱肉や」

 座敷の空気が変わった。

「どんな男でした」と竹山。

「背の低い、声のでかい男や。頬に古い火傷があって、空木の切手を一枚、ひらひらさせながら歩いとった。あいつ、噂を撒いとっただけやない。切手か、印か、どっちかを触っとる」

「顔を覚えとるか」と履軒。

「九九は忘れても、顔は忘れへん」

「世の中、何が役に立つかわからんな」

「九九も、そのうち役に立つわ」

 お駒が言った。

「そのうち、て、いつや」

「来世や」

 そのときである。

 表の方で、どさり、と、何か重いものが倒れる音がした。

 続いて、誰かが叫んだ。

「先生! 先生、来てください。人が倒れました!」

 一同が玄関へ走ると、懐徳堂の門の内側に、一人の男が倒れていた。

 空木藩の蔵屋敷に勤める者らしく、袖に藩の印がある。

 歳は四十ばかり。

 顔は青黒く、口の端から細い泡を吹いていた。

 外傷は見当たらぬ。

 だが、右手だけは、何かを絶対に放すまいとするように、固く握られている。

 お駒が、その指を一本ずつ開いた。

 中から出てきたのは、一枚の米切手であった。

 空木藩蔵屋敷。

 榊原久兵衛の、欠けた印。

 そして日付は――。

「……明日や」

 寅吉が言った。

 そこに書かれていたのは、まだ来てもいない、明日の日付であった。

 死んで三年になる役人の印で、明日発行されるはずの米切手を握った男が、今日、懐徳堂の門前で死んでいる。

 竹山は眉をひそめた。

 履軒は、さすがに笑わなかった。

 お駒は算盤を握りしめたまま、死体を見下ろしている。

 寅吉は、死人の手から落ちた米切手を眺めて、ぽつりと言った。

「死人が、もう一人、増えたな」

 この日の勘定に、米は一粒も足されなかった。

 ただ、死人だけが、一人、足された。

 しかも、帳面の上では、明日という日まで、先に足されていたのである。

                 *

(第三話・了。第四話へつづく)

◆この物語の史実と虚構について(語り手より)

懐徳堂が大坂町人の出資によって設けられ、商人・武士その他、身分を越えた者たちが学んだ学問所であったこと、中井竹山・履軒兄弟がその中心を担ったことは、本当である。

ただし、二人が空木藩の米切手を鑑定したこと、中井履軒が鯰屋の丁稚に会うなり悪口を浴びせたこと、三年前に死んだ蔵改役の印が米切手へ押されていたこと、明日の日付の切手を握った死人が懐徳堂の門で倒れたことは、今のところ、ことごとく怪しい。

とりわけ最後の死人については、語り手にも、まだ何者なのか、よくわかっていない。

わからぬが、死体というものは、出してしまえば、あとで誰かが始末をつけねばならぬ。

次の話では、医者を呼ぶことになる。

2026年6月26日金曜日

堂島ばけもの算用 第二話 升屋の番頭、鬼を勘定に入れず

 

堂島ばけもの算用

第二話 升屋の番頭、鬼を勘定に入れず

 寅吉(とらきち)が、夕焼けの中をたったか駆けていく先(さき)は、升屋(ますや)である。  升屋といえば、大坂でも指折りの大店(おおだな)で、ただの米屋・両替屋(りょうがえや)ではない。なにをしている店かというと、これが面白い。──大名(だいみょう)に、金を貸している。  考えてもみていただきたい。刀(かたな)を差した御大名(おだいみょう)が、丸腰(まるごし)の町人(ちょうにん)に、頭(あたま)を下げて金を借りに来る。借りた金が返せぬとなると、今度はその町人が、藩(はん)の勝手向(かってむ)き──つまり財政(ざいせい)のいっさいを、「御勝手御用(おかってごよう)」と称(しょう)して、まるごと預かって、立て直しにかかる。米俵(こめだわら)の上にあぐらをかいた御百姓(おひゃくしょう)が一番(いちばん)えらい、というのが世の建前(たてまえ)であるが、本(ほん)のところは、算盤(そろばん)を弾(はじ)く番頭(ばんとう)が、刀を差した殿様(とのさま)の首根(くびね)っこを、しっかと押さえておる。士農工商(しのうこうしょう)などというお題目(だいもく)が、いかにあてにならぬ作り話か、この升屋ひとつ眺(なが)めればよくわかる。  その升屋に、これまた天下(てんが)に名の知れた番頭がいる。  山片蟠桃(やまがたばんとう)──と、人は号(ごう)で呼ぶが、店(みせ)では「小右衛門(こうえもん)はん」で通っている。蟠桃というのは、唐(から)の言い伝えにある、食えば不老不死(ふろうふし)になるという仙界(せんかい)の桃(もも)の名であって、つまりこの御仁(ごじん)、自分の本職(ほんしょく)である「番頭(ばんとう)」に、ぴたりと音(おん)をひっかけて、「蟠桃(ばんとう)」と洒落(しゃ)れたのである。仙人(せんにん)の桃と、店の番頭とを、しれっと同じ音(おん)で並べて澄(す)ましている。──こういう人を食った洒落(しゃれ)を、まじめくさった仏頂面(ぶっちょうづら)でやってのけるところに、この男の、底(そこ)の知れぬところがある。

                 *

 さて、その升屋の立派(りっぱ)な暖簾(のれん)をくぐろうとして、寅吉は、いきなり行(ゆ)く手(て)をふさがれた。 「これ、待ち。待たんかい」  升屋の丁稚(でっち)である。鶴松(つるまつ)とかいって、同じ丁稚でも、こちらは天下の升屋の丁稚(でっち)、片(かた)や鯰屋(なまずや)の使い走り、というわけで、この鶴松、寅吉を上(うえ)から下(した)まで、ねっとりと眺(なが)め回して、鼻(はな)の先(さき)で笑った。 「うちの小右衛門はんに、おまはんみたいな、どぶ鼠(ねずみ)が、なんの用(よう)や。だいたい、その泥(どろ)だらけの足(あし)で、升屋の敷居(しきい)、またげる思(おも)とんのか。出直(でなお)してきなはれ。十年(じゅうねん)ほど」 「どぶ鼠で悪(わる)かったな」と寅吉。「そのどぶ鼠が、お前(まえ)んとこの大事(だいじ)な番頭はんに、火急(かきゅう)の用や。退(ど)け」 「退かんわい」 「退かんか」 「退かん」  水掛(みずか)け論(ろん)である。米市(こめいち)で水をぶっかけられてきたばかりの寅吉が、ここでまた水掛け論をやっている。ところが、ここで寅吉が、ふと思い出して、例(れい)の呪文(じゅもん)を口にした。 「──本間宗久(ほんまそうきゅう)が、来とる」  とたんに、鶴松の顔(かお)から、すうっと、笑いが引(ひ)いた。  申し上げたとおり、堂島じゅうが「本間宗久」と聞けば、いるかいないかも知れぬくせに、とりあえず背筋(せすじ)が寒(さむ)くなる。鶴松も、ご多分(たぶん)にもれず、背筋を寒くした口(くち)である。 「……ほ、本間宗久が、なんやて」 「升屋の番頭はんに、伝(つた)えることがあるそうや。『酒田(さかた)の照(て)る照る、堂島曇(くも)る。蔵(くら)の米(こめ)は、空(から)を売(う)る』てな。──さあ、退け。退かんと、この火急(かきゅう)の用が遅(おく)れたんは、升屋の鶴松が、どぶ鼠の足(あし)を笑(わろ)て突(つ)っ立(た)っとったせいや、と、わし、ちゃんと番頭はんに言うたるからな」  最後(さいご)のひとことが、よく効(き)いた。  奉公人(ほうこうにん)というものは、損(そん)を出すのが、なにより怖(こわ)い。鶴松は、青(あお)くなったり赤(あか)くなったりしたあげく、 「……ま、待っとれ。今(いま)、取り次(つ)ぐ」  と言うが早(はや)いか、奥(おく)へすっ飛(と)んでいった。  間(ま)もなく、寅吉は、升屋の奥座敷(おくざしき)へ通(とお)された。──泥(どろ)だらけの足のまま、である。

                 *

 行燈(あんどん)のあかりの下(した)で、一人(ひとり)の男が、帳面(ちょうめん)を繰(く)っていた。  歳(とし)のころは五十(ごじゅう)に手(て)が届くかどうか。痩(や)せて、背(せ)が高く、色(いろ)は黒(くろ)い。これといって偉(えら)そうな身なりはしておらぬが、坐(すわ)っているだけで、なにやら、しんと、座敷(ざしき)の空気(くうき)が引き締(し)まる。手(て)もとには、算盤(そろばん)が一挺(いっちょう)。その玉(たま)を、見るともなしに、ぱちん、ぱちん、と、まるで考え事(ごと)の拍子(ひょうし)を取(と)るように、はじいている。  これが、山片蟠桃である。 「お前(まえ)が、その使(つか)いか」と、蟠桃は、顔(かお)も上げずに言った。「鯰屋の、丁稚(でっち)じゃな。もういっぺん、言(い)うてみい。一字一句(いちじいっく)、たがえずにな」 「『酒田の照る照る、堂島曇る。蔵の米は、空を売る』」  寅吉が言うと、蟠桃は、ぱちん、と算盤の玉を、ひとつ、はじいた。  それきり、しばらく、黙(だま)っている。  ここで、語り手(かたりて)として、ひとつ、面白いことを申し上げておきたい。  昨日(きのう)、浜(はま)のはずれで、あの妖怪(ようかい)じみた爺(じい)さん──本間宗久が、同(おな)じ謎掛(なぞか)けを口にしたとき、寅吉は、さっぱりわけがわからず、ただ背筋(せすじ)を寒(さむ)くした。宗久という男は、相場(そうば)を「人の心(こころ)」で読(よ)む。皆(みな)が信(しん)じればそれが相場(そうば)じゃ、嘘(うそ)でも皆が信じれば米(こめ)が動(うご)く──と、そういう、なんとも掴(つか)みどころのない、血(ち)の通(かよ)った、生(なま)あたたかいことを言う。あの爺さんが惚(ほ)れておるのは、相場という大(おお)きな生き物の、どくどく脈(みゃく)打つ、熱(あつ)い血(ち)のほうである。  ところが、この蟠桃という御仁(ごじん)は、ちがう。  同(おな)じ謎掛けを聞(き)いても、この男は、背筋(せすじ)を寒くしたりはせぬ。算盤(そろばん)を引(ひ)き寄(よ)せる。──蟠桃が惚れておるのは、相場という生き物の、もっと奥(おく)にある、ごりごりと硬(かた)い「骨(ほね)」のほうだ。米(こめ)の出来(でき)、藩(はん)の台所(だいどころ)、舟(ふね)の費(つい)え、銀(かね)の利(り)、誰(だれ)がいくら借(か)りて、誰がいくら儲(もう)けたか。そういう、勘定(かんじょう)の通った、揺(ゆ)るがぬ骨組(ほねぐ)みのほうを、この男は、惚れ惚(ぼ)れと、撫(な)でさするのである。  血(ち)を読む宗久と、骨(ほね)を読む蟠桃。  であるから、世間(せけん)には、よく、こういう誤解(ごかい)がある。──「血(ち)を読む山師(やまし)・宗久は、相場(そうば)が好(す)きな男。骨(ほね)を読む堅物(かたぶつ)・蟠桃は、相場なんぞ嫌(きら)いで、米や物(もの)の実(じつ)だけを尊(たっと)ぶ男」だと。  とんでもない、と、私(わたし)は声(こえ)を大(おお)にして申し上げたい。  この蟠桃という男ほど、相場(そうば)と市(いち)を、心(こころ)の底(そこ)から愛(あい)し、敬(うやま)っておる者はない。あの男はのちに『夢(ゆめ)の代(しろ)』という書物(しょもつ)を著(あらわ)して、その中(なか)で、将軍家(しょうぐんけ)のお膝元(ひざもと)たる江戸(えど)を、「あんなものは、ただ食(く)うて捨(す)てるだけの、なんも生(う)まぬ田舎(いなか)じゃ」と、けろりと言い切(き)った。市(いち)が立(た)って物(もの)が動(うご)く下関(しものせき)や尾道(おのみち)のほうが、よほど上等(じょうとう)じゃ、とまで言うた。物(もの)の値(ね)というものは、お上(かみ)が「これこれの値(ね)にせよ」と力(ちから)ずくで決(き)めるものではない。市場(いちば)が、おのずからの理(ことわり)で──まるで目(め)に見(み)えぬ手(て)にでも導(みちび)かれるように──ひとりでに、釣(つ)り合(あ)うところへ落(お)ち着(つ)く。だからお上は、よけいな口(くち)出(だ)しをせず、市場(いちば)の honesty(しょうじき)を信(しん)じておればよい、と、こう説(と)いた男なのである。  つまり、宗久(そうきゅう)が、相場(そうば)の「嘘(うそ)」を喰(く)って銭(ぜに)に換(か)える男だとすれば、蟠桃(ばんとう)は、相場(そうば)の「正直(しょうじき)」を、神(かみ)のごとくに信(しん)じておる男だ。  二人(ふたり)とも、相場(そうば)に惚(ほ)れておる。ただ、惚れた女(おんな)の、どこに惚れたかが、まるでちがう。──そう思(おも)って読(よ)んでいただくと、これからの話(はなし)が、ぐっと面白(おもしろ)くなる。

 さて、その「相場(そうば)の正直(しょうじき)」を信(しん)じる男が、しばらく算盤(そろばん)をはじいたのち、ぽつりと言った。 「──宗久(そうきゅう)の爺(じい)さんが、ほんまに来とるとは、思(おも)わなんだ」 「ほな、本間宗久(ほんまそうきゅう)て、ほんまにおるんか」と寅吉。 「おる、と言(い)えば嘘(うそ)になり、おらぬと言うても嘘(うそ)になる」蟠桃は、薄(うす)く笑(わら)った。「あの爺(じい)さんは、そういう男(おとこ)じゃ。──じゃが、坊(ぼん)。この謎掛(なぞか)け、中身(なかみ)は、たいして謎(なぞ)でもないぞ」 「えっ」 「ええか」蟠桃は、算盤(そろばん)の玉(たま)を、すっと、いっぺんに、はらった。「『蔵(くら)の米は、空(から)を売る』──これはな、どこぞの御藩(ごはん)の蔵屋敷(くらやしき)が、蔵(くら)にありもせぬ米(こめ)を担保(かた)にして、米切手(こめきって)ばかりを、刷(す)りすぎとる、ということじゃ」  米切手(こめきって)、というのは、ここでひとこと申し添(そ)えておくと、藩(はん)の蔵屋敷(くらやしき)に、「米が何石(なんごく)、たしかに預(あず)かってあります」という、いわば米(こめ)の預(あず)かり証文(しょうもん)である。これが大坂(おおさか)では、まるで小判(こばん)か銀(ぎん)のように、人(ひと)の手(て)から手へ、ぐるぐると回(まわ)って、立派(りっぱ)な財産(ざいさん)として通用(つうよう)する。──ところが。 「蔵(くら)に千石(せんごく)しか米(こめ)が無(の)うても、切手(きって)は三千石(さんぜんごく)ぶん刷(す)れる。四千石(よんせんごく)ぶんでも刷(す)れる。紙(かみ)と墨(すみ)があればええんやからな」蟠桃は、いとも事(こと)も無げに言う。「皆(みな)が、いっぺんに『米(こめ)をくれ』と蔵(くら)へ押(お)しかけさえせなんだら、足(た)りぬことは、ばれぬ。──じゃが、そんな無理(むり)が、いつまでも続(つづ)くか。続(つづ)かん。どこかで、ぱちん、と弾(はじ)ける」 「……それ、宗久(そうきゅう)の爺(じい)さんも、おんなじこと言(ゆ)うとったわ」と寅吉。「ぱちんと弾(はじ)けたら、堂島(どうじま)に、見(み)たこともない地獄(じごく)が見(み)える、てな」 「言(ゆ)うとったか」蟠桃は、ふん、と鼻(はな)を鳴(な)らした。「あの爺(じい)さんは、その地獄(じごく)を、銭(ぜに)に換(か)えに来(き)とる。──わしは、ちがう」  そう言うと、蟠桃は、はじめて、まっすぐに寅吉(とらきち)の顔(かお)を見(み)た。その目(め)が、行燈(あんどん)のあかりを受(う)けて、静(しず)かに光(ひか)っている。 「ええか、坊(ぼん)。市(いち)というものはな、嘘(うそ)を、いつまでも、つき通(とお)せはせん。あの蔵(くら)が空(から)じゃと、市(いち)は、もう薄々(うすうす)、感(かん)づいておる。なんでわかる、と思(おも)うか」 「……知(し)らんわ」 「値(ね)じゃ」蟠桃は言った。「その御藩(ごはん)の米切手(こめきって)だけ、ほんのちょびっと、安(やす)う取引(とりひき)されとるはずや。額面(がくめん)より、安(やす)うな。皆(みな)、口(くち)では何(なに)も言(ゆ)わん。言(ゆ)わんが、銭(ぜに)を出(だ)すときには、正直(しょうじき)になる。誰(だれ)も、『この切手(きって)は危(あぶ)ない』とは口(くち)に出(だ)さんが、値(ね)が、こっそり、それを言(ゆ)うとる。──市(いち)というのは、人(ひと)よりよっぽど正直(しょうじき)な、たいした生(い)き物(もの)じゃ」  寅吉(とらきち)は、ぽかんとした。  ぽかんとしたが、なんとなく、この骨(ほね)を読(よ)む番頭(ばんとう)の言(ゆ)うことのほうが、血(ち)を読(よ)む爺(じい)さんの言(ゆ)うことより、まだしも、頭(あたま)に入(はい)ってくる気(き)がした。なにしろ、こちらは、「値(ね)」という、目(め)に見(み)える物差(ものさ)しがある。

                 *

 ここで、その「どこぞの御藩(ごはん)」の名(な)を、はっきり書(か)いてしまいたいところだが──やめておく。  実在(じつざい)の御藩(ごはん)の名(な)を出(だ)すと、後(のち)の世(よ)のご子孫(しそん)から、「うちのご先祖(せんぞ)を、なんと心得(こころえ)る」と、苦情(くじょう)が舞(ま)い込(こ)んでもかなわぬ。ゆえに、ここでは仮(かり)に、その御藩(ごはん)を、「空木藩(うつぎはん)」としておく。──いや、藩(はん)の名(な)にまで「空(から)」の字(じ)を入(い)れてしまうのは、いかにも私(わたし)の趣味(しゅみ)が悪(わる)い。悪(わる)いが、覚(おぼ)えやすかろうと思(おも)って、わざとそうした。読者(どくしゃ)諸氏(しょし)、どうか、この戯作者(げさくしゃ)の浅(あさ)はかさを、お笑(わら)いくだされ。  その空木藩(うつぎはん)の米切手(こめきって)が、いま、どれだけ、どこに、出回(でまわ)っておるか。  それを知(し)らねば、蟠桃(ばんとう)とて、骨(ほね)の在(あ)り処(か)が掴(つか)めぬ。 「坊(ぼん)」蟠桃は言った。「お前(まえ)んとこは、鯰屋(なまずや)じゃな。けちな仲買(なかがい)ほど、こういう、安(やす)う出回(でまわ)っとる切手(きって)を、『掘(ほ)り出(だ)し物(もの)じゃ』と喜(よろこ)んで、せっせと買(か)い込(こ)む。──帰(かえ)って、お前(まえ)んとこの旦那(だんな)が、ちかごろ、どこぞの御藩(ごはん)の切手(きって)を、安(やす)い安(やす)いと、抱(かか)え込(こ)んどらんか、確(たし)かめてみい。もし、抱(かか)え込(こ)んどったら──」  蟠桃は、そこで、ふっと、言葉(ことば)を切(き)った。  その先(さき)を言(い)わなんだのが、かえって、寅吉(とらきち)の背筋(せすじ)を、ぞっと、冷(ひ)やした。

                 *

 鯰屋(なまずや)へ戻(もど)ると、案(あん)の定(じょう)、というべきか、店(みせ)の奥(おく)から、旦那(だんな)の利兵衛(りへえ)の、上機嫌(じょうきげん)な声(こえ)が、もれていた。 「いやぁ、ええ買(か)いもんした。ええ買(か)いもんしたで」  覗(のぞ)いてみると、利兵衛(りへえ)が、米切手(こめきって)の束(たば)を、それはもう、子(こ)を抱(だ)くように胸(むね)に抱(かか)えて、にやにやしている。利兵衛という男(おとこ)、人(ひと)は悪(わる)うないが、これがまた、おそろしく算盤(そろばん)が甘(あま)い。安(やす)い、と聞(き)けば、後先(あとさき)考(かんが)えず飛(と)びつく。鯰屋(なまずや)の身代(しんだい)が、ちまちまと痩(や)せていく原因(げんいん)は、九分九厘(くぶくりん)、この旦那(だんな)の「安(やす)い物(もの)好(ず)き」にある。 「旦那(だんな)はん」と寅吉(とらきち)。「それ、どこの切手(きって)だす」 「おう、寅(とら)。聞(き)いて驚(おどろ)け。空木藩(うつぎはん)の米切手(こめきって)が、額面(がくめん)より、まるまる一割(いちわり)も、安(やす)う出(で)とったんや。一割(いちわり)やぞ、一割(いちわり)。こんな掘(ほ)り出(だ)し物(もの)、めったにあるかい。ありったけ、買(か)うたった」  寅吉(とらきち)の、顔(かお)から、すうっと、血(ち)の気(け)が引(ひ)いた。  ──額面(がくめん)より、一割(いちわり)、安(やす)い。  市(いち)が、こっそり、正直(しょうじき)になっとる、と、蟠桃(ばんとう)は言(ゆ)うた。誰(だれ)も口(くち)では言(ゆ)わんが、値(ね)が言(ゆ)うとる、と。  つまり、この一割(いちわり)安(やす)は、「掘(ほ)り出(だ)し物(もの)」では、ない。市(いち)が、薄(うす)目(め)を開(あ)けて、「その蔵(くら)、空(から)とちがうか」と、こっそり囁(ささや)いておる、その囁(ささや)きの、声(こえ)の大(おお)きさなのである。  それを、よりにもよって、うちの旦那(だんな)が、ありったけ、抱(かか)え込(こ)みやがった。 「旦那(だんな)はん、それ──」 「やかましわ、寅(とら)。お前(まえ)に相場(そうば)のなにがわかる。九九(くく)も言(い)えんくせに」  と、利兵衛(りへえ)が、上機嫌(じょうきげん)のまま、寅吉(とらきち)の頭(あたま)を、ぽかりと小突(こづ)いた、そのときである。  帳場(ちょうば)の奥(おく)から、ぴしゃり、と、鋭(するど)い声(こえ)が、飛(と)んできた。 「お父(と)っつぁん。その切手(きって)、いったい、なんぼ買(こ)うたんや」

 声(こえ)の主(ぬし)は、帳場格子(ちょうばごうし)の中(なか)で、これまた算盤(そろばん)をはじいていた、一人(ひとり)の娘(むすめ)である。  お駒(こま)、という。鯰屋(なまずや)利兵衛(りへえ)の、一人娘(ひとりむすめ)で、歳(とし)は十六(じゅうろく)。  この娘(むすめ)が、また、とんでもない。  父親(ちちおや)の利兵衛(りへえ)が、算盤(そろばん)が甘(あま)いぶん、神様(かみさま)は帳尻(ちょうじり)を合(あ)わせなさったとみえて、この娘(むすめ)に、おそろしいほどの、算盤(そろばん)の才(さい)を授(さず)けてしまわれた。お駒(こま)の指(ゆび)にかかると、算盤(そろばん)の玉(たま)が、まるで生(い)き物(もの)のように、ぱらぱらぱら、と鳴(な)って、どんな込(こ)み入(い)った勘定(かんじょう)でも、瞬(またた)く間(ま)に、答(こた)えが出(で)る。鯰屋(なまずや)の、ほんとうの帳面(ちょうめん)は、阿呆(あほ)な父親(ちちおや)ではなく、とうの昔(むかし)から、この娘(むすめ)が、裏(うら)で、ぴしりと締(し)めておる。  ただし、口(くち)が、悪(わる)い。 「九九(くく)も言(い)えん寅(とら)に、相場(そうば)のなにがわかる、て、お父(と)っつぁん」お駒(こま)は、算盤(そろばん)から目(め)も上(あ)げずに言った。「そら、わからんやろ。けど、九九(くく)が言(い)えるはずのお父(と)っつぁんが、なんで、市(いち)が一割(いちわり)も値(ね)を引(ひ)いとる切手(きって)を、『掘(ほ)り出(だ)し物(もの)』や思(おも)て、ありったけ抱(かか)え込(こ)むんや。九九(くく)が言(い)えても、わからんもんは、わからんのやな。ようわかったわ」 「な、なんやと、お駒(こま)」 「寅(とら)」お駒(こま)は、はじめて顔(かお)を上(あ)げて、寅吉(とらきち)を見(み)た。その目(め)が、利兵衛(りへえ)とは似(に)ても似(に)つかぬ、きりりと、よく切(き)れる目(め)だ。「あんた、いま、どこ行(い)て、何(なに)、聞(き)いてきた。顔(かお)に、書(か)いてあるで。──お父(と)っつぁんが、なんぞ、えらいもん、踏(ふ)んだんやろ」  寅吉(とらきち)は、思(おも)わず、唾(つば)を、ごくりと呑(の)んだ。  九九(くく)も言(い)えぬ自分(じぶん)が、たまたま、本間宗久(ほんまそうきゅう)と山片蟠桃(やまがたばんとう)という、二人(ふたり)の怪物(かいぶつ)から、たてつづけに同(おな)じ秘密(ひみつ)を聞(き)かされ、そして今(いま)、目(め)の前(まえ)には、三人目(さんにんめ)の──こちらは小(ちい)さな、けれども、おそろしく切(き)れる、算盤(そろばん)の化(ば)け物(もの)が、いる。  血(ち)を読(よ)む爺(じい)さん。骨(ほね)を読(よ)む番頭(ばんとう)。そして、その骨(ほね)の、いちばん細(こま)かな目盛(めも)りまで読(よ)んでしまう、この娘(むすめ)。  ──どうやら、この鯰屋(なまずや)の、けちな店先(みせさき)に、天下(てんが)を揺(ゆ)るがす「米(こめ)のない蔵(くら)」の、いちばん危(あぶ)ない切れ端(はし)が、知(し)らぬ間(ま)に、舞(ま)い込(こ)んできてしまったらしい。  寅吉(とらきち)は、覚悟(かくご)を決(き)めて、口(くち)を開(ひら)いた。 「お駒(こま)はん。──ちょっと、込(こ)み入(い)った話(はなし)が、あるんや」

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 さて、ところ変(か)わって、その晩(ばん)の、升屋(ますや)。

 奥座敷(おくざしき)では、山片蟠桃(やまがたばんとう)が、ただ一人(ひとり)、行燈(あんどん)のあかりの下(した)で、何冊(なんさつ)もの帳面(ちょうめん)を、畳(たたみ)いっぱいに広(ひろ)げて、難(むずか)しい顔(かお)をしていた。  空木藩(うつぎはん)の、知(し)れたかぎりの石高(こくだか)。蔵屋敷(くらやしき)の、おおよその蔵(くら)の数(かず)。回(まわ)っておるとおぼしき、切手(きって)の見当(けんとう)。──それらを、銀(ぎん)の匁(もんめ)に直(なお)し、石(こく)に直(なお)し、ぱちん、ぱちん、と、算盤(そろばん)に乗(の)せていく。ちなみに、ここ大坂(おおさか)では、勘定(かんじょう)はすべて、銀(ぎん)の目方(めかた)、すなわち匁(もんめ)でする。江戸(えど)は、金(きん)じゃ。「東(ひがし)の金遣(かねづか)い、西(にし)の銀遣(ぎんづか)い」と申(もう)してな、同(おな)じ日(ひ)の本(もと)の国(くに)でも、東(ひがし)と西(にし)とでは、銭(ぜに)の数(かぞ)え方(かた)からして、まるでちがうのである。 「……合(あ)わぬな」  蟠桃(ばんとう)は、つぶやいた。 「どう転(ころ)んでも、合(あ)わぬ。あの蔵(くら)から出(で)てよい切手(きって)の数(かず)と、現(げん)に出(で)回(まわ)っとる数(かず)とが、まるで、合(あ)わぬ。これは──」  と、そこまで言(い)って、蟠桃(ばんとう)は、ふと、口(くち)をつぐんだ。  行燈(あんどん)のあかりが、ふっと、ひとつ、揺(ゆ)れた。  誰(だれ)も、いないはずの、座敷(ざしき)の隅(すみ)で。

「──無鬼(むき)、と申(もう)すはな」  と、声(こえ)が、した。  しずかな、けれども、よく通(とお)る、若(わか)い男(おとこ)の声(こえ)である。 「無鬼(むき)と申(もう)すは、鬼(おに)がおらぬ、という意味(いみ)では、ない。鬼(おに)を、勘定(かんじょう)に、入(い)れぬ──という、肚(はら)の据(す)わりのことじゃ。ちがうか、小右衛門(こうえもん)どの」  蟠桃(ばんとう)は、算盤(そろばん)から、目(め)を、上(あ)げなかった。  上(あ)げぬまま、ぴしゃりと、こう言(い)った。 「……どなたか存(ぞん)ぜぬが、この刻限(こくげん)に、人(ひと)の店(みせ)に上(あ)がり込(こ)むとは、無作法(ぶさほう)な。それに、あいにくと、わしは、鬼(おに)も、幽霊(ゆうれい)も、信(しん)じませぬ。──ゆえに、あんたは、おらぬ」 「おらぬ者(もの)と、ようも、まあ、喋(しゃべ)るな」と、声(こえ)が、くつくつと笑(わら)った。 「独(ひと)り言(ごと)でござる」と、蟠桃(ばんとう)。  座敷(ざしき)の隅(すみ)の闇(やみ)が、ゆらりと、人(ひと)の形(かたち)に、なった。  痩(や)せた、青白(あおじろ)い、まだ若(わか)い男(おとこ)である。歳(とし)のころは、三十(さんじゅう)を、出(で)たか、出(で)ぬか。だが、その目(め)だけが、もう何百年(なんびゃくねん)も、ありとあらゆる書物(しょもつ)を読(よ)み尽(つ)くしてしまった老人(ろうじん)のように、底(そこ)が、深(ふか)い。  この男(おとこ)、五十(ごじゅう)年(ねん)も前(まえ)に、わずか三十一(さんじゅういち)で、この世(よ)を去(さ)った、大坂(おおさか)の醤油屋(しょうゆや)の倅(せがれ)。仏(ほとけ)の経(きょう)も、儒(じゅ)の教(おし)えも、後(あと)の世(よ)になるほど、言葉(ことば)が、あとから、あとから、足(た)し込(こ)まれて、ふくれ上(あ)がっていくものだ──と、そういう、おそろしく剣呑(けんのん)なことを見抜(みぬ)いて、世(よ)の学者(がくしゃ)どもを震(ふる)え上(あ)がらせた、町人(ちょうにん)学者(がくしゃ)。  名(な)を、富永仲基(とみながなかもと)、という。  その、五十(ごじゅう)年(ねん)前(まえ)に死(し)んだはずの男(おとこ)が、いま、鬼(おに)も幽霊(ゆうれい)も信(しん)じぬと言(い)い張(は)る、当代(とうだい)一(いち)の合理(ごうり)の番頭(ばんとう)の、すぐ枕元(まくらもと)に、ちんまりと、坐(すわ)っている。 「小右衛門(こうえもん)どの。お前(まえ)さまは、骨(ほね)を、読(よ)む」と、富永仲基(とみながなかもと)は言(い)った。「蔵(くら)の石高(こくだか)、切手(きって)の数(かず)、銀(ぎん)の匁(もんめ)。合(あ)う、合(あ)わぬ。──結構(けっこう)じゃ。じゃがな、お前(まえ)さまの、その立派(りっぱ)な帳面(ちょうめん)には、どうしても、載(の)らぬものが、一(ひと)つだけ、ある」 「……何(なに)が、載(の)らぬと」と、蟠桃(ばんとう)。  その声(こえ)が、ほんの少(すこ)し、低(ひく)くなったのを、私(わたし)は、聞(き)き逃(のが)さなかった。 「人(ひと)が、勝手(かって)に、足(た)していくもの、じゃ」  富永仲基(とみながなかもと)は、青白(あおじろ)い指(ゆび)を、一本(いっぽん)、立(た)てた。 「最初(さいしょ)はな、ただ、『北(きた)の船(ふね)が、三日(みっか)遅(おく)れとる』と、それだけのことであった。──翌日(よくじつ)には、『難破(なんぱ)したらしい』に、なる。三日(みっか)も経(た)てば、『あの藩(はん)は、もう潰(つぶ)れる』に、なる。人(ひと)はな、小右衛門(こうえもん)どの。事(こと)の真(まこと)を、伝(つた)えはせぬ。事(こと)の真(まこと)に、おのれの恐(おそ)れを、ひとつかみ、足(た)して、伝(つた)える。経(きょう)が、後(のち)の世(よ)になるほど膨(ふく)れ上(あ)がるのと、同(おな)じことよ。──わしは、これを、加上(かじょう)、と名(な)づけた」  蟠桃(ばんとう)は、しばらく、黙(だま)っていた。  畳(たたみ)いっぱいに広(ひろ)げた帳面(ちょうめん)を、じっと、見(み)つめている。そこには、米(こめ)の石高(こくだか)も、銀(ぎん)の匁(もんめ)も、びっしりと、書(か)き込(こ)まれている。だが、たしかに、そのどこを探(さが)しても、「人(ひと)の恐(おそ)れ」という勘定(かんじょう)だけは、一(ひと)つも、書(か)き込(こ)まれて、いなかった。  やがて、蟠桃(ばんとう)は、ゆっくりと、顔(かお)を上(あ)げた。  そして、誰(だれ)もいないはずの、座敷(ざしき)の隅(すみ)に向(む)かって、はっきりと、こう言(い)った。 「──幽霊(ゆうれい)など、おらぬ」  行燈(あんどん)のあかりが、また、ひとつ、ゆれた。

(第二話・了。第三話「死人(しびと)の足し算」へつづく)


◆この物語の史実と虚構について(語り手より)

升屋が仙台藩などへ巨額の大名貸を行い、藩財政の立て直しに深く関わったこと、山片蟠桃(通称・升屋小右衛門)が無類の市場肯定論者で、江戸を「消費するだけの田舎」と評し、市場の自然な理を信じる「無鬼論者」であったこと、大坂が銀建て・江戸が金建てであったこと、米切手が貨幣のように流通したこと――このあたりは、おおむね本当である。

富永仲基(一七一五~一七四六)が大坂の醸造業の家に生まれ、三十一歳で夭折し、経典や思想が後世になるほど言葉を継ぎ足されていくという「加上」の説を唱えた町人学者であったことも、本当である。ただし、彼の幽霊が無鬼論者の枕元に現れて議論を吹っかけたかどうかは、まことに、怪しい。

空木藩、鯰屋、利兵衛、お駒、鶴松は、まるごと、わたしの拵えものである。藩の名に「空」の字を入れたのは、断じて、わざとである。

堂島ばけもの算用

 

堂島ばけもの算用

第一話 米を喰わぬ男、千両を呑む

 天は米を降らさず、されど堂島には米が満ちた。  ──と、いきなり大仰に始めてみたが、念のため申し添えておく。この堂島の浜に満ちていた米というのは、蔵にも舟にも一粒として存在せぬ、いわば「気(き)」の米である。  享保の御代、八代将軍吉宗公がしぶしぶ御免(ごめん)を出して以来、大坂堂島の米市は、世界のどこにもまだ無かった奇態(きたい)な商いを始めていた。帳合米(ちょうあいまい)という。籾(もみ)の一俵も受け渡さず、ただ米の値が上がるか下がるかだけを紙の上の数字でやり取りして、差額をふところに入れる。早い話が、ありもせぬ物を売り買いするのである。罰当たりにも程があるが、なに、これを後の世の異人どもがそっくり真似て「フューチュル」だの「先物(さきもの)」だのと気取って呼び、ロンドンだのシカゴだのが百年遅れで自慢することになるのだから、堂島の旦那衆(だんなしゅう)の慧眼(けいがん)、恐るべしというほかない。  さて、その堂島へ、出羽(でわ)の酒田から一人の男が下(くだ)ってきた。──いや、「下ってきた」は語弊がある。上方(かみがた)から見れば江戸も奥羽(おうう)も等しく「下(しも)」であって、上方の上物が「下り物(くだりもの)」、江戸の安物が「下らぬ物」、ゆえに今日われわれが下らぬ駄洒落(だじゃれ)を「くだらない」と申すのも、もとはと言えば大坂のこの高慢から出ている──と、まあそれはよい。とにかく、本間宗久(ほんまそうきゅう)という。  酒田の本間家といえば、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と里謡(りよう)に唄われたほどの分限者(ぶげんしゃ)で、つまりそのへんの大名よりよほど金がある。その本間家の男が、なんだって自前の蔵に米をうならせておきながら、わざわざ大坂くんだりまで来て、ありもせぬ気の米を売り買いしているのか。  理由は一つ。──面白いからである。  なお、この本間宗久、後の世では「蝋燭足(ろうそくあし)という罫線(けいせん)を編み出した相場の神様」ということになっている。実のところ、あの蝋燭の絵を最初に引いたのが本当にこの御仁(ごじん)かどうか、学者衆のあいだでは今もって怪しいものだとされておるのだが──まあ、よい話というのは、たいてい少々怪しいほうが面白い。我らはしばらく、怪しいほうの本間宗久につきあうことにしよう。

                 *

 話を寛政九年(かんせいくねん)の夏に進める。  その日の堂島浜は、いつもどおり気が狂っていた。

 米会所(こめがいしょ)の立合(たちあい)というのは、正気の沙汰ではない。何百という男が地面に膝をつき、額をぶつけ合うほどに寄り集まって、てんでに腕を振り上げ、指を立て、唾を飛ばし、「買うた」「売った」「いくらや」「あほんだら」と喚(わめ)き続ける。傍(はた)から見れば、米屋の集会というよりは、何かの宗派が一斉に憑(つ)かれて踊っているとしか思えぬ。げんに、ここで動いているのは米ではない。男どもの胸の内にある、欲と、恐れと、見栄(みえ)と、隣のやつには負けたくないという、あの煮えたぎった汁だけである。  立合の終いは、火縄(ひなわ)で計る。一日の刻限を決めた火縄が、じりじりと焦げて尽きる。その火が消えたが最後、立合は終(しま)い、もう何を喚いても勘定には入らぬ。ところが欲のかかった男どもは、火が消えてもなお「あと一声、あと一声」と粘りやがる。そこでどうするか。──水である。「水方(みずかた)」と呼ばれる屈強(くっきょう)な若い衆が、桶(おけ)になみなみと汲んだ水を、粘る男どもの頭から容赦なくぶっかける。世界に冠(かん)たる金融市場の引け方が、頭から水ぶっかけ、というのが、いかにも大坂らしくて私は好きだ。  その水しぶきの中を、一匹のすばしこいのが、ぬらりくらりとくぐり抜けていく。

 寅吉(とらきち)、歳(とし)は十四。  仲買(なかがい)の「鯰屋(なまずや)」に奉公する丁稚(でっち)である。鯰屋というけったいな屋号は、初代が鯰(なまず)の蒲焼(かばや)きで身上(しんしょう)を築いたとも、地震のたびに身代(しんだい)が揺れるからとも言うが、ともかく今の主(あるじ)、利兵衛(りへえ)の代になってからは、もっぱら米相場でちまちまと張る、けちな仲買屋に成り下がっている。  寅吉という男は、これがまた、算盤(そろばん)がまるで駄目(だめ)である。三と七を足させると、たまに九になる。掛算(かけざん)に至っては、九九を「ろくしちしじゅうろく」などと、聞いたこともない数を堂々と言い放って、店じゅうの者を凍りつかせる。  そのかわり、足だけは速い。  堂島から、北浜(きたはま)の両替屋まで、人混みをすり抜けて駆けて、また戻ってくる。その間(あいだ)に、どこそこの店で誰が泣いていた、誰が高笑いしていた、どの蔵屋敷(くらやしき)の門の前に立派な駕籠(かご)が止まっていた、という見聞きしたことを、ぜんぶ覚えて帰ってくる。数は覚えられぬが、噂(うわさ)は一度で覚える。妙な才能である。  その寅吉が、水方の若い衆に尻(しり)を蹴(け)とばされながら、浜のはずれまで転がり出てきて、どてっと尻もちをついた。

 ここで、引けたばかりの堂島浜を、ひとつ見渡してみよう。  水をかぶってずぶ濡れのまま、なお算盤を弾(はじ)き直して「勝った勝った」と踊る男がいる。隣では、今日一日で身上(しんしょう)を溶かしたとみえる男が、会所(かいしょ)の白壁(しらかべ)に向かって両手をついて、声もなく嘔吐(へど)を吐いている。その横で、別の男が、その同じ壁に向かって、これは盛大に小便をひっかけながら、「相場なんぞ、どこのどいつが考えやがった」と呪詛(じゅそ)している。──ちなみに考えたのは大坂商人である。自分で考えたものに自分で呪われておるのだから世話はない。  その向こうを、蔵屋敷の留守居役(るすいやく)とおぼしき侍(さむらい)が、供を従えて、苦虫を噛みつぶした顔で通る。藩(はん)の年貢米(ねんぐまい)を金に換えに来て、思うた値がつかなんだか、刀の柄(つか)に手をかけたいような顔をしているが、ここ堂島では侍の刀よりも商人の算盤のほうが切れる、ということを、この御仁もそろそろ思い知り始めているらしい。  その後ろから、墨染(すみぞめ)の衣(ころも)の坊主が、米切手(こめきって)の束を懐(ふところ)から覗(のぞ)かせて、いそいそと両替屋のほうへ歩いていく。寺の喜捨(きしゃ)で張った相場が当たったとみえる。仏は果報(かほう)を諭(さと)すが、坊主は相場を張る。けっこうなことである。  そのまた後ろを、医者がひとり、薬箱を担(かつ)いだ供を連れて、これは何やら難しい顔で空を見上げながら歩いていく。──この男のことは、いずれまた書く。今は名だけ覚えておいていただきたい。伏屋素狄(ふせやそてき)という。犬や豚の腹をかっさばいて、腎(じん)の臓(ぞう)に醤油(しょうゆ)を注ぎ込み、それがどこから滲(にじ)み出てくるかを、目を皿にして眺めているという、たいそうな変人である。後の世では「日本の実験生理学の祖」などと、ずいぶん御立派な肩書(かたがき)を頂戴(ちょうだい)することになるのだが、この時分(じぶん)の堂島では、ただの「臓物(ぞうもつ)いじりのけったいな先生」で通っていた。  米を売る者、米を買う者、米を金に換える侍、その金で経(きょう)をあげぬ坊主、その坊主を診(み)る変人医者──。  この狭い浜に、武家(ぶけ)も、町人(ちょうにん)も、僧(そう)も、学者も、博奕(ばくち)打ちも、ずぶ濡れの破産者も、ことごとくが渾然(こんぜん)と入り混じって、てんでに勝手な欲をかいている。これを一色(ひといろ)に染めようなどというのは、土台(どだい)無理な相談で、大坂という街は、もとからこういう、けったくその悪い、ありとあらゆる色のごった煮なのである。

 さて、その寅吉が尻もちをついて、空腹(すきばら)を抱えて、ぼんやり浜を眺めていると、腹の虫が「ぐう」と、それはもう情けない音で鳴いた。  考えてみれば妙なものである。  寅吉は、朝から晩まで米のことしか喋(しゃべ)っておらぬ。米が上がる、米が下がる、米が何万石(まんごく)動いた、と、口を開けば米、米、米。それでいて、その寅吉が今日の昼に食ったのは、塩をまぶした握り飯がたった一つ。米を商う街のどまんなかで、米を商う者が、その米を腹いっぱい食えぬ。天下の台所(だいどころ)と呼ばれる大坂で、いちばん米に困っているのが、米を扱う者だというのだから、世の中というのは、よくよく出来そこないに出来ている。

 その、出来そこないの世の中の片隅(かたすみ)に、一人、妙な爺(じい)さんが座っていた。

 浜のはずれ、荷揚(にあ)げの済んだ空き樽(あきだる)を椅子(いす)がわりにして、その爺さんは、引けてがらんとし始めた米会所のほうを、じっと眺めていた。  歳のころは、わからぬ。六十にも見えるし、八十にも見える。日に焼けた顔は皺(しわ)だらけだが、背筋(せすじ)はしゃんと伸びて、目だけが、やけに澄んでいて、若い。よれよれの木綿(もめん)の着物を着ているが、その着物の上から、なんとも言えぬ──そう、相場で言うところの「地合(じあい)」のようなものが滲(にじ)み出ていて、近寄りがたい。  その爺さんが、寅吉のほうをちらと見て、こう言った。 「坊(ぼん)。腹、減っとるな」  出羽訛(でわなま)りの、ぼそりとした声であった。 「減ってへんわい」と寅吉。腹が「ぐう」と返事をした。 「正直な腹じゃ」爺さんは笑った。「主(あるじ)よりよう出来とる」  寅吉はむっとした。むっとしたが、相手の懐(ふところ)から、握り飯らしき紙包(かみづつ)みが覗(のぞ)いているのを見て、むっとしたまま、そろりと近寄った。 「爺(じ)い。それ、なんや」 「握り飯じゃ」 「食わへんのか」 「歳をとると、あんまり食わんでも生きとられる。──やる。そのかわり、ひとつ走ってもらおう」  寅吉は、握り飯ほしさに、ぱっと受け取って、ほとんど噛(か)まずに半分を呑(の)み込んでから、口をもごもごさせて尋ねた。 「どこへや」 「升屋(ますや)の番頭はんとこじゃ」

 ここで、語り手として、ひとつ申し上げておかねばならぬ。  升屋といえば、その敏腕(びんわん)の番頭、山片蟠桃(やまがたばんとう)である。──と、ここまでは、たいていの御方(おかた)が御存じであろう。だが、世間には妙な誤解がはびこっておって、この蟠桃という御仁を、まるで「相場や金貸(かねか)しのごとき虚業(きょぎょう)を嫌(きら)い、米や物の実(じつ)だけを尊(たっと)ぶ、お堅い実物の人」のように思っている向きがある。  とんでもない。  蟠桃という男は、相場と金融の、これ以上ないほどの信奉者(しんぽうしゃ)である。あの男は、その著(あらわ)した『夢の代(ゆめのしろ)』の中で、将軍家のお膝元(ひざもと)たる江戸を、「あんなものは、ただ食って捨てるだけの、なんも生まぬ田舎じゃ」と平然と言い切り、下関(しものせき)だの尾道(おのみち)だの、市(いち)が立って物が動く湊(みなと)のほうが、よほど上等じゃと喝破(かっぱ)した男である。物の値というものは、お上(かみ)が「これこれの値にせよ」と力ずくで決めるものではなく、市場(いちば)が、おのずからの理(ことわり)で──まるで目に見えぬ手にでも導かれるように──ひとりでに釣り合うところへ落ち着くのだ、と説いた。これは、海の向こうの紅毛(こうもう)の国で、スミスとやらいう学者が同じようなことを書物(しょもつ)に著(あらわ)したのと、ほとんど同じ時分のことである。  つまり蟠桃は、相場を嫌うどころか、相場の中に天地(てんち)の理を見た男なのだ。  であるから、これから先、この物語に出てくる二人の怪物──升屋の番頭・蟠桃と、酒田の妖怪・宗久とを、「実(じつ)の人」と「虚(きょ)の人」とに分けて読もうなどとは、ゆめゆめ思われぬほうがよい。二人はどちらも、相場という名の、あの巨(おお)きな生き物に惚(ほ)れ込んだ者どうしである。ただ、その惚れ方が、ちがう。  蟠桃が惚れたのは、相場という生き物の「骨」である。米の出来(でき)、藩の台所(だいどころ)、舟の費(つい)え、銀(かね)の利(り)、誰がいくら借りて誰がいくら儲(もう)けたか──そういう、勘定の通った、揺るがぬ骨組(ほねぐ)みのほうを、惚れ惚れと眺める。  いっぽう、この爺さんが惚れているのは、その生き物の「肉」のほう、それも、肉の奥でどくどくと脈打っている、熱い血のほうだ。皆が上がると思えば、もう上がらぬ。皆が怖(こわ)がって投げ売れば、そこが買い場じゃ。──人の心の、あの煮えたぎった汁を読む。  骨を読む番頭と、血を読む爺さん。  この二人を引き合わせるための使い走りに、よりにもよって、九九もろくに言えぬ寅吉が選ばれた、というところに、私はどうも、この世というものの、底意地(そこいじ)の悪い采配(さいはい)を感じるのである。

                 *

「升屋やったら、知っとるわ」と寅吉は、握り飯の残り半分を頬張(ほおば)りながら言った。「けど、爺い。あんた、誰や。升屋の番頭はんに、なんて言うて取り次げばええんや」  爺さんは、しばらく黙って、引けたばかりの浜を眺めていた。それから、ぽつりと、 「本間宗久(ほんまそうきゅう)が来とる、と」  と言った。  寅吉は、握り飯を喉(のど)に詰まらせかけた。  本間宗久といえば、堂島で知らぬ者はない。──いや、正しくは、堂島じゅうが「知っている」と思い込んでいる、という言い方のほうが当たっている。なにしろ、その噂(うわさ)たるや、 「宗久先生は、酒田から、ようやく出てきはったらしいで」 「あほ言え、あの御方はもう江戸の根岸(ねぎし)に住んではる」 「いや、三日で十万両(まんりょう)儲けて、もう国へ帰らはったがな」 「あれは本人やのうて、弟子(でし)の宗久二代目(にだいめ)や」 「そもそも本間宗久ちゅう人間、ほんまにこの世におるんか」  と、会う者ごとに歳(とし)も、住まいも、儲(もう)けた額も、生きているか死んでいるかさえもが、ことごとくちがう。堂島の連中(れんじゅう)にとって、本間宗久という名は、もはや一人の人間の名というよりは、「相場で途方(とほう)もないことが起きたとき、とりあえずその名を口にしておけば恰好(かっこう)がつく」という、便利な掛(か)け声(ごえ)、いわば縁起物(えんぎもの)に近いものになっていた。  その、縁起物が、目の前で空き樽に腰かけて、握り飯を恵んでいる。 「……うそやろ」と寅吉。 「うそかもしれん」と爺さん。 「えっ」 「相場師に歳と儲けを訊(き)くな、と言うてな」爺さんは、皺(しわ)の中の目を、いよいよ細めて笑った。「どっちも、答えた途端(とたん)に、嘘になる。──わしが本間宗久じゃと答えれば、それもまた、そのへんの噂(うわさ)と、たいして変わらん嘘になる。じゃがな、坊。嘘でも、皆がそれを信じれば、相場は動く。米の一粒も動かんでも、人の胸の内は、嘘ひとつで、ごっそり動く。──それが、わかるか」  寅吉には、さっぱりわからなかった。  わからなかったが、この爺さんが、ただの腹をすかせた行き倒(だお)れではない、ということだけは、なんとなく、背中(せなか)の毛(け)が逆立(さかだ)つようにして、わかった。  爺さんは、空き樽から、よいしょと腰を上げた。背は、思うたより高い。立ち上がると、よれよれの木綿(もめん)の着物が、急に上等の絹(きぬ)ででもあるかのように、ぴんと張って見えた。 「ついでに、もうひとつ覚えておけ」  と、爺さんは、引けてがらんとした米会所のほうを、顎(あご)でしゃくった。 「あの蔵(くら)にはな、坊。──米が、無い」 「は?」 「いや、米会所の話やない。中之島(なかのしま)の、とある御藩(ごはん)の蔵屋敷(くらやしき)の話じゃ。あすこの蔵には、帳面(ちょうめん)の上では、それはもう、ぎっしりと米が積まれとることになっとる。その米を担保(かた)にした米切手(こめきって)が、今、天下(てんが)じゅうを、立派(りっぱ)な財産(ざいさん)の顔をして、ぐるぐる回っとる。──ところがな、坊。その蔵を開けてみたら、中は、すかすかの、もぬけの殻(から)じゃ」  寅吉は、ぽかんとした。 「……米、あらへんのに、米の証文(しょうもん)だけ、回っとるんか」 「そういうことじゃ」 「そんなん、ばれたら、どうなんねん」  爺さんは、ひどく愉(たの)しそうに、笑った。それは、後にも先にも寅吉が、これほど嬉(うれ)しそうに人の破滅(はめつ)を語る顔を見たことがない、というほどの、見事な笑顔であった。 「ばれるまでは、財産(ざいさん)じゃ。ばれた途端(とたん)に、ただの紙(かみ)きれじゃ。──ええか坊、世の中というものはな、米で回っとるんやない。『あの蔵には米がある』と、皆が信じとる、その信じ込みだけで、回っとる。その信じ込みが、ぱちんと弾(はじ)けるとき、堂島は、わしの生涯(しょうがい)で見たこともないような、それはそれは見事(みごと)な、地獄(じごく)を見せてくれるはずじゃ」  そう言うと、本間宗久と名乗った爺さんは、寅吉の頭をひとつ、ぽんと叩(たた)いて、 「行ってこい。升屋の蟠桃はんに伝えよ。──『酒田の照る照る、堂島曇(くも)る。蔵の米は、空(から)を売る』とな」  と、なんとも人を食った謎掛(なぞか)けを言い残し、ゆらりと、夕暮れの人混みの中へ、消えていった。

 あとに残されたのは、握り飯を呑み込み損(そこ)ねて目を白黒(しろくろ)させている、九九もろくに言えぬ丁稚(でっち)が、ただ一人。  この、いちばん間の抜けた男が、これから、天下を揺るがす「米のない蔵」の一件(いっけん)に、まるで関(かか)わりたくもないのに、首までずっぷりと突っ込んでいくことになる──のだが、それは、まだ、この子(こ)の知ったことではない。

 今はただ、腹を満たした一匹の丁稚が、夕焼(ゆうや)けの堂島を、升屋目指して、たったか、たったかと駆けていく。その背中の向こうで、何百という男が、ありもせぬ米のために、まだ何やら喚(わめ)いている。  米のない天下の台所に、夏の日が、ゆっくりと、暮れていった。

                 *

(第一話・了。第二話「升屋の番頭、鬼を勘定に入れず」へつづく)


◆この物語の史実と虚構について(語り手より)

帳合米市場、米切手、中之島の蔵屋敷、升屋と仙台藩、火縄と水方による引け、銀建ての大坂——このあたりは、おおむね本当の話である。山片蟠桃が無類の市場肯定論者であったこと、江戸を「消費するだけの田舎」と評したこと、市場の自然な理を信じたことも、本当である。

いっぽう、本間宗久がこの年この場所にこの恰好で座っていたかどうか、蝋燭足を本当にこの男が引いたのかどうか、「米のない蔵」の一件が実在したのかどうか——このあたりは、ことごとく、怪しい。怪しいが、怪しいほうが面白いので、そう書いた。

寅吉とお駒(次話より登場)と鯰屋は、まるごと、わたしの拵(こしら)えものである。

2026年6月24日水曜日

ヒルベルトの最後の問題

 

ヒルベルトの最後の問題

一 最後の秋

 一九三二年十月八日、ゲッティンゲンには朝から細かな雨が降っていた。

 雨というより、空気そのものが湿っているような日だった。ヴィルヘルム・ウェーバー通りの木々は、夏の名残をすでに失い、黄色い葉を石畳へ一枚ずつ落としていた。

 高木貞治が門をくぐったとき、ヒルベルトはまだ食卓にいた。

 皿の上には、薄く切った仔牛の肝臓があった。

 医師から毎日食べるように言われているのだ、とヒルベルトは説明した。自分の命は、いまや定理でも薬でもなく、このあまり愉快ではない食べ物によって支えられているらしい。

「数学者が肝臓によって生かされるとは思わなかったよ」

 ヒルベルトはそう言って笑った。

 七十歳になった顔には、かつて高木が知っていた童顔の名残があった。だが、手は細くなり、椅子から立ち上がるときには、机の端に片手をつかなければならなかった。

「よく来てくれたねえ」

 そう言って、高木の両手を握った。

 高木が初めてゲッティンゲンへ来たのは、三十年以上も前のことだった。

 当時の彼は、ヨーロッパの学界ではほとんど知られていない、東洋から来た若い数学者にすぎなかった。代数的整数論を研究したいと手紙に書いたところ、ヒルベルトは住む場所まで手配した。かつて自分が住んでいた家を紹介し、研究所の扉を開いた。

 国籍も、宗教も、家柄も問わなかった。

 何を考えたいのか。

 ヒルベルトが人に尋ねたのは、ほとんどいつもそれだけだった。

「君は、私の考えた類体より先へ行ってしまった」

 客間に入ると、ヒルベルトは言った。

「先へ行ったというより、少し横へ外れたのです」

「横へ外れることを、先へ行くと言うんだよ」

 高木は笑った。

 ヒルベルトも笑った。

 若い頃のヒルベルトは、問題を提示することに喜びを感じていた。だが、それは自分の領地に旗を立てるためではなかった。問題は、誰かが入るための入口だった。

 解く者がドイツ人であろうと、日本人であろうと、女であろうと、ユダヤ人であろうと、彼にはどうでもよかった。

 正しい証明には、出生証明書が添付されていない。

「東京には若い人が育っているかね」

 ヒルベルトは尋ねた。

 高木が何人かの名を挙げると、ヒルベルトは身を乗り出した。自分の病気のことを話すときより、はるかに熱心だった。

 外国から来た客に会うたび、彼はその国の若い数学者について尋ねた。

 誰が何を研究しているのか。

 どんな問題に夢中になっているのか。

 才能のある者はいるか。

 その者はよい環境にいるか。

 ヒルベルトにとって数学とは、すでに証明された定理の集積ではなかった。まだ知られていない何かを見つけようとして、異なる人間が同じ黒板の前に集まることだった。

 数学は本の中にあるのではない。

 人と人との間に生まれる。

 高木との会話は、夕方まで続いた。

 外では雨がやみ、濡れた庭木の間から低い西日が差していた。

「人類は、少しずつでも前へ進んでいると思いますか」

 帰り際、高木は尋ねた。

 それは数学の質問ではなかった。

 ヨーロッパでは、通りに制服を着た若者が増えていた。新聞には、民族、血、領土、裏切りという言葉が並び、政治家たちは、国を浄化しなければならないと繰り返していた。

 ヒルベルトは窓の外を見た。

「人間については分からない」

 しばらくして言った。

「だが、知識については、そう信じるしかないだろう」

 彼は微笑んだ。

「われわれは知らなければならない。われわれは知るであろう」

 それは彼が好んで使う言葉だった。

 高木は頭を下げた。

 二人とも、その秋がゲッティンゲンの最後の秋になるとは知らなかった。

 数学者たちがまだ同じ廊下を歩き、同じ食堂で昼食をとり、黒板の前で互いの誤りを遠慮なく指摘できた、最後の秋だった。

二 ミンコフスキーの椅子

 高木が帰った後、ヒルベルトは長いあいだ客間に残っていた。

 日が落ちると、窓ガラスに自分の姿が映った。

 白い髪。

 薄い肩。

 大きすぎる上着。

 ガラスの向こうに、別の老人が立っているように見えた。

 彼は、ミンコフスキーのことを思い出した。

 二人はケーニヒスベルクで出会った。

 ヒルベルトがまだ、自分がどのような数学者になるのか知らなかった頃である。ミンコフスキーは年下だったが、すでに揺るぎない自信を持っていた。

 二人は町を歩きながら数学を話した。

 歩くことと考えることを、ほとんど同じ行為だと思っていた。

 一人が問いを出し、もう一人が反例を挙げる。

 その反例を避けるため定義を変える。

 すると、初めの問題とは別の問題が現れる。

 彼らは夕方まで歩き、どこまで来たのか分からなくなることがあった。

 だが、道に迷ったとは思わなかった。

 数学の中では、道を外れることが新しい道を見つける唯一の方法だった。

 後にヒルベルトがゲッティンゲンへ移ったとき、彼はミンコフスキーを呼び寄せることに力を尽くした。

 自分一人では足りなかった。

 優秀な人間が一人いるだけでは、学問の中心は作れない。

 必要なのは、別の仕方で考える人間だった。

 自分の考えに賛成する者ではない。

 自分一人では見ることのできない誤りを発見し、自分一人では開けることのできない扉を開く者である。

 ミンコフスキーが一九〇九年に死んだとき、ヒルベルトは、世界の一部が突然沈黙したように感じた。

 だがその後も、数学研究所には人がいた。

 講義は続いた。

 若者たちはミンコフスキーの論文を読み、その先を考えた。

 一人の人間が死んでも、共同体がその問いを引き継いだ。

 椅子は空いた。

 しかし、その空席の周りに人々が集まった。

 死とは、そのようなものだとヒルベルトは思っていた。

 一人ずつ奪っていく。

 残された者に、失われた者の仕事を託す。

 翌年の春、彼は、死とはまったく異なる仕方で人間を奪うものがあることを知った。

 国家は、一人ずつ奪わなかった。

 国家は名簿を作り、部屋全体を空にした。

三 名簿

 一九三三年四月、大学へ一通の文書が届いた。

 紙そのものは、何の変哲もなかった。

 上等でも粗末でもない、官庁で使われる薄い紙だった。上部に鷲の印があり、いくつかの条文と、記入すべき欄が並んでいた。

 祖父の名。

 祖母の名。

 宗教。

 従軍歴。

 政治的所属。

 ヒルベルトは二度読んだ。

 それから秘書に尋ねた。

「これは数学研究所に送られてきたのかね」

「全学部にです」

「数学者の祖父母を調べて、何が分かるのだろう」

 秘書は答えなかった。

 ヒルベルトはもう一度、用紙を見た。

 証明に不要な条件を追加すれば、定理は弱くなる。

 必要のない仮定を増やすことは、数学では不器用さの印である。

 しかし、これは定理を強くするための条件ではなかった。

 人を除外するための条件だった。

 数日後、教授たちの名簿が回ってきた。

 ある名前の横には印がつけられていた。

 別の名前には線が引かれていた。

 線は定規を使って引かれていた。

 まっすぐで、感情がなかった。

 人間を殺す命令も、おそらくこのように整然と書かれるのだろうとヒルベルトは思った。

 赤い鉛筆の線が、リヒャルト・クーラントの名を横切っていた。

 クーラントは、研究所を実際に動かしていた。

 資金を集め、建物を整え、学生の相談に乗り、優れた研究者を各国から招いた。

 ヒルベルトが問題を開いた人間なら、クーラントは、人々がその問題に取り組める部屋を作った人間だった。

 彼は第一次大戦で従軍していた。

 国のために働いた。

 負傷者を運び、砲火の下で通信装置を考案した。

 それでも、新しい国家は、彼を祖父母によって分類した。

「何かの間違いでしょう」

 若い事務官は言った。

「先生ほどのお方が申し出れば、例外が認められるかもしれません」

「例外」

 ヒルベルトはその言葉を繰り返した。

 クーラントが優れた数学者であることは、例外を求める理由ではなかった。

 そもそも数学者を祖先によって選別する規則そのものが、誤っている。

 だが事務官には、その違いが分からないようだった。

 彼らは不正な法を撤回する話をしているのではなかった。

 不正な法の中で、偉い人間だけを救う話をしていた。

 ヒルベルトは政府へ手紙を書いた。

 クーラントの研究業績、従軍歴、研究所への貢献を列挙した。

 数学は国際的な営みであり、研究者を血統によって分類することは、ドイツ科学に回復できない損害を与える、と書いた。

 文章は論理的だった。

 各段落は前の段落から導かれ、結論には飛躍がなかった。

 それでも何の効果もなかった。

 相手は論理を誤解しているのではなかった。

 論理を必要としていなかった。

四 エミー

 エミー・ネーターは、大きな鞄を抱えて研究所へ来た。

 鞄からは本の角が突き出し、留め金が閉まっていなかった。

「旅行ですか」

 ヒルベルトは尋ねた。

「まだです」

 ネーターは言った。

「ただ、いつ出てもよいようにしているのです」

 彼女は平然としていた。

 いつものように髪はうまくまとまっておらず、外套のボタンを一つ掛け違えていた。

 ヒルベルトは彼女が若かった頃を思い出した。

 女性に大学で講義をさせるべきではない、と多くの教授が反対した。

 兵士たちが戦場から帰ってきて、女性の足元に座って学ばされると知ったら、どう思うでしょう、と言った者もいた。

 ヒルベルトには、その質問の意味が理解できなかった。

 正しい定理を証明できる者から学ばず、証明できない男性から学ぶ方が、兵士たちの名誉にかなうというのだろうか。

 大学は男子浴場ではない。

 彼がそう言ったと、後に人々は語った。

 実際にどのような言葉を使ったのか、彼自身もう覚えていなかった。

 ただ、腹を立てたことは覚えていた。

 数学の前に、人間の性別を置く人々がいることに。

 ネーターは長いあいだ、正式な地位も報酬もほとんど得られないまま講義を続けた。

 それでも彼女の周りには学生が集まった。

 学生たちは彼女の話す速さについていくため、必死でノートを取った。彼女は一つの定理を説明している途中で、より一般的な構造に気づき、初めの定理そのものを置き去りにすることがあった。

 多くの数学者が個々の対象を研究していたとき、ネーターは対象を支配する関係を見ていた。

 他の者が家々を数えている間に、彼女は都市の地図を描いていた。

「アメリカから話が来ています」

 ネーターは言った。

「よい大学ですか」

「女子大学です」

「君にふさわしい地位を用意できるのかね」

「少なくとも、講義はさせてもらえるでしょう」

 彼女は笑った。

 その笑い方に、恨みはなかった。

 ヒルベルトは、それがかえって苦しかった。

「私はもう一度、政府へ書く」

「先生」

「君を追い出すことが、どれほど愚かなことか説明する」

「愚かな人は、説明されて賢くなるでしょうか」

 ヒルベルトは答えなかった。

 ネーターは鞄を床に置いた。

「先生は昔、私を例外として大学に入れようとしてくださいました」

「例外ではない。君には資格があった」

「今度は、例外になりたくありません」

「どういう意味だね」

「私一人だけ残れるようにしてもらうことです」

 窓の外で、学生たちが行進していた。

 同じ色の制服を着て、同じ歩幅で歩き、同じ言葉を叫んでいた。

 数学研究所の窓ガラスが、声に合わせてかすかに震えた。

「代数学は軽いものです」

 ネーターは言った。

「国境を越えるのに、機械も標本も要りません。頭に入れて持っていけます」

「学生はどうする」

「学生も頭を持っています」

 ネーターは再び笑った。

「いつか、どこかで会えます」

 ヒルベルトは、彼女が鞄を持ち上げるのを手伝おうとした。

 だが腕に力が入らなかった。

 ネーターは一人で持ち上げた。

 廊下の先で、彼女は一度だけ振り返った。

「先生」

「何だね」

「数学は、ここだけにあるものではありません」

 それは慰めだったのだろう。

 だがヒルベルトには、宣告のように聞こえた。

五 ドイツ数学

 夏になる頃には、研究所の廊下から多くの声が消えていた。

 扉には、新しい名前札が掛けられた。

 新しく任命された者の中には、誠実な研究者もいた。空席を望んだわけではなく、ただ与えられた職を受けただけの者もいた。

 だが、急に昇進したことを、新しい時代による正当な評価だと考える者もいた。

 ある若い講師が、講演で「ドイツ的数学」という言葉を使った。

 ヒルベルトは後方の席で聞いていた。

 講師は、抽象的で形式的な数学はユダヤ的であり、真にドイツ的な数学は直観的で、民族の生活に根ざしたものでなければならないと語った。

 黒板には式が一つも書かれなかった。

 講演の後、司会者が質問を求めた。

 誰も手を挙げなかった。

 ヒルベルトはゆっくり立ち上がった。

「一つ教えてください」

 若い講師の顔に緊張が走った。

「ドイツ的な三角形と、ユダヤ的な三角形では、内角の和が違うのですか」

 会場のどこかで、短い笑い声がした。

 すぐに消えた。

 講師は、これは比喩です、と答えた。

「数学では、比喩で証明を済ませることはできません」

 ヒルベルトは座った。

 それは小さな抵抗だった。

 あまりに小さく、その日の午後にも世界は何一つ変わらなかった。

 講師は職を失わず、追放された者たちは帰ってこなかった。

 その夜、ヒルベルトは自分の言葉を何度も思い返した。

 少し機知の利いた質問をしたことで、自分が何かを成し遂げたような気持ちになってはいないか。

 人々が職を失い、国を失っているときに、老人が講演会で一度相手を黙らせた。

 それに何の意味があるのか。

 彼は抵抗したのだろうか。

 それとも、自分は抵抗したと思える程度のことだけをしたのだろうか。

 数学では、証明に穴があれば、どれほど美しくても定理として認められない。

 だが人は、自分の人生については、穴だらけの証明で自分を納得させる。

 私は病気だった。

 私は老人だった。

 私には政治的な力がなかった。

 できるだけの手紙は書いた。

 抗議もした。

 すべて本当だった。

 そして、そのどれも、去っていった人々を連れ戻しはしなかった。

六 手紙

 秋から冬にかけて、外国の切手を貼った手紙が届くようになった。

 ケンブリッジ。

 オックスフォード。

 プリンストン。

 ニューヨーク。

 フィラデルフィア。

 イスタンブール。

 人々の名前は、ゲッティンゲンの名簿から消え、世界地図の上に散らばっていった。

 クーラントからは、イギリスでの生活について書かれた手紙が来た。

 新しい職を探していること。

 子どもたちの将来が心配なこと。

 それでも研究は続けていること。

 末尾には、研究所の若い者たちをよろしく頼む、と書かれていた。

 自分が追い出された研究所のことを、まだ心配していた。

 ネーターからは、アメリカの学生たちについて書かれた手紙が来た。

 講義の進み方を少し遅くしなければならないこと。

 女性の学生たちが熱心であること。

 プリンストンへも出かけていること。

 文章からは、不満よりも、新しい数学を教えられる喜びの方が強く伝わってきた。

 ヒルベルトは、それを読んで安心した。

 同時に、恥ずかしくなった。

 彼女は奪われたものについてではなく、これから作るものについて書いていた。

 残された自分だけが、失われたゲッティンゲンについて考え続けていた。

 ある日、日本から高木の手紙が届いた。

 前年の訪問への礼と、ヒルベルトの健康を案じる言葉が書かれていた。最後に、ゲッティンゲンの皆様はいかがお過ごしでしょうか、とあった。

 ヒルベルトは返事を書き始めた。

 皆、元気です。

 そう書いて、消した。

 クーラントはイギリスにいる。

 ネーターはアメリカへ渡った。

 ヴァイルも去った。

 若い者たちは、残るべきか、逃れるべきか迷っている。

 研究所は存続している。

 建物も、図書室も、黒板もある。

 しかし、「皆様」はもう、どこにもいなかった。

 ヒルベルトは新しい紙を取り出した。

 私は元気です、とだけ書いた。

 それも嘘ではなかった。

 嘘でないことと、真実であることは、同じではない。

七 空いた椅子

 研究会の日、ヒルベルトは予定より早く研究所へ行った。

 講義室には長い机と椅子が並んでいた。

 彼は前から三列目の端に座った。

 そこは、かつてミンコフスキーが好んで座った場所だった。

 クラインは前方に座り、しばしば講演者の話を途中で止めた。

 クーラントは出入口に近い席を選んだ。遅れて来る学生を入れたり、急な連絡に対応したりするためだった。

 ネーターは椅子に深く腰かけることができず、講演が面白くなると、ほとんど立ち上がりながら質問した。

 若い高木は、言葉を一つも聞き落とさないよう、少し前屈みになって座っていた。

 ヒルベルトには、彼らの姿が見えた。

 もちろん、実際にはいなかった。

 記憶は、ときに現実よりも多くの人間を部屋に集める。

 開始時刻になっても、聴衆は十人ほどしか来なかった。

 以前なら、廊下まで学生が立っていた。

 講演者は、新しい微分方程式の解法について話し始めた。

 悪い講演ではなかった。

 正確で、よく準備されていた。

 だが質問が出なかった。

 以前のゲッティンゲンでは、講演が終わるまで待つ者はいなかった。定義が不明瞭なら、その場で声が飛んだ。主張が強すぎれば反例が出され、弱すぎればもっと一般化できると言われた。

 講演者と聴衆が争い、黒板の上で別の数学が生まれた。

 今は、誰も誤りを犯さないよう注意して話し、誰も目立った質問をしなかった。

 間違うことより、間違った人物と見なされることの方が危険な時代になっていた。

 講演が終わると、礼儀正しい拍手が起きた。

 ヒルベルトは黒板を見た。

 証明は正しかった。

 それでも、そこに数学があるようには思えなかった。

 数式が書いてあれば数学なのではない。

 反対する者がいる。

 先へ進める者がいる。

 全く違う分野から、思いがけない関係を見つける者がいる。

 失敗を笑い、成功を奪い合わず、他人の発見によって自分の世界が広がることを喜ぶ者がいる。

 数学とは、そのような人間の集まりだった。

 黒板は残っていた。

 だが、その前に集まるべき人々がいなかった。

八 新しい世界地図

 一九三四年になると、国外へ去った者たちが新しい場所を作り始めたという知らせが届いた。

 クーラントは、やがてニューヨークへ渡ることになるらしい。

 アメリカには、ゲッティンゲンのような数学研究の中心はまだ少ない。だからこそ、そこに作れるかもしれない、と彼は書いた。

 ヒルベルトは手紙を読みながら、地図を広げた。

 ヨーロッパの外側に、いくつもの点をつけた。

 プリンストン。

 ニューヨーク。

 ブリンマー。

 ケンブリッジ。

 数学の中心は、国王や大臣の命令によって作られるものではない。

 人が集まり、話し、教え、反論し、若い者を受け入れることで、長い時間をかけて作られる。

 だが、壊すのには数か月しかかからなかった。

 ドイツは研究者を国外へ追い出した。

 国外へ追い出された研究者は、その国々へ数学を運んだ。

 ナチスはドイツ数学からユダヤ人を取り除いたつもりだった。

 実際には、数学をドイツから取り除いていた。

 それは復讐でも罰でもなかった。

 数学は誰かを罰するために移動するのではない。

 呼吸のできる場所へ移っただけだった。

 ヒルベルトは、かつてネーターが言った言葉を思い出した。

 代数学は軽いものです。

 頭に入れて持っていけます。

 確かにその通りだった。

 国家は研究室を閉鎖できる。

 教授職を奪える。

 本を焼くこともできる。

 だが、一度理解された定理を、人間の頭から完全に取り出すことはできない。

 それだけが慰めだった。

 しかしその慰めには、別の悲しみが伴った。

 数学は生き残る。

 ゲッティンゲンがなくても。

 ドイツがなくても。

 ヒルベルトがいなくても。

 自分が一生をかけて築いた場所は、数学にとって不可欠ではなかった。

 学問の普遍性とは、国境を越える力であると同時に、どの故郷も見捨てて生き延びられる力でもあった。

九 晩餐会

 晩餐会はベルリンで開かれた。

 ヒルベルトは出席を断ろうとしたが、大学側から、ドイツ科学を代表する者としてぜひ出席してほしいと言われた。

 ドイツ科学。

 近頃、その言葉を聞くたびに、彼は疲れを覚えた。

 かつて科学には、ドイツもフランスもなかったわけではない。

 学派はあり、伝統はあり、国ごとの好みもあった。

 しかし一つの定理がドイツで証明されたからといって、フランスでは偽になるわけではなかった。

 晩餐会場には旗が並び、軍服と礼服を着た男たちが集まっていた。

 給仕が銀の皿を運び、楽団がワーグナーを演奏した。

 ヒルベルトの席は、文部大臣ベルンハルト・ルストの隣だった。

 大臣は礼儀正しかった。

 ヒルベルトの業績を称え、ドイツ民族がいかに彼を誇りに思っているかを語った。

 ヒルベルトは黙って聞いていた。

「教授」

 食事が半ばまで進んだ頃、大臣が尋ねた。

「ゲッティンゲンの数学は、その後いかがですか」

 ヒルベルトは顔を上げた。

「その後、とは」

「ご存じでしょう」

 大臣は微笑んだ。

「好ましくない影響から解放された後のことです。ユダヤ的な影響が強すぎたために、多少の混乱はあったでしょう。しかし、いまは純粋なドイツ科学を再建しておられるのでしょうな」

 周囲の男たちが会話をやめた。

 何人かは、笑う用意をしていた。

 大臣は、自分が気の利いた質問をしたと思っているようだった。

 ヒルベルトは、卓上の白いクロスを見た。

 そこに、一本のまっすぐな線が見えた。

 赤い鉛筆で名簿に引かれた線だった。

 クーラントの名を消した線。

 ネーターの名を消した線。

 何十人もの研究者を、大学から、都市から、祖国から切り離した線。

 彼はミンコフスキーの椅子を思い出した。

 高木が三十年前に座っていた若者の席を思い出した。

 ネーターの閉まらない鞄を思い出した。

 外国の切手を貼った手紙を思い出した。

 質問の出ない講義室を思い出した。

 黒板はある。

 机もある。

 研究所の建物もある。

 予算も、教授の肩書も、大学の印章も残っている。

 だが、それらを数学と呼ぶことができるのだろうか。

「混乱しているのではありません」

 ヒルベルトは言った。

 大臣の微笑が、少し固くなった。

「では、順調なのですか」

「いいえ」

 ヒルベルトは首を振った。

「苦しくなったのでもない」

 声は小さかった。

 長いテーブルの端までは聞こえなかったかもしれない。

 しかし、大臣には聞こえた。

「数学ですか」

 ヒルベルトは言った。

「ゲッティンゲンには、もうそんなものはありません」

 大臣は一瞬、彼を見た。

 それから大きく笑った。

 老人の皮肉を、無害な冗談だと思ったらしい。

 周囲の男たちも笑った。

 ヒルベルトは笑わなかった。

 笑い声の中で、彼には別の音が聞こえていた。

 ケーニヒスベルクの道を歩きながら議論するミンコフスキーの声。

 講義を途中で止め、もっと一般化できると叫ぶネーターの声。

 不慣れなドイツ語で質問する若い高木の声。

 研究所の廊下を走る学生たちの足音。

 それらは遠く、すでに別の時代の音になっていた。

十 最後の問題

 ゲッティンゲンへ戻った夜、ヒルベルトは一人で研究所へ行った。

 守衛は彼の顔を見ると、何も言わずに扉を開けた。

 廊下は暗かった。

 窓から月の光が入り、床に細長い四角形を作っていた。

 ヒルベルトは講義室へ入った。

 黒板には、前日の講義の数式が一部残っていた。

 彼はチョークを取った。

 手が震えた。

 かつては、大きく明瞭な字で黒板いっぱいに式を書いた。いまは、一本の線を引くことさえ難しかった。

 ヒルベルトは黒板の上部に書いた。

 問題。

 そこで手を止めた。

 何を書くつもりだったのか。

 なぜ人間は、自分たちの最も優れた知性を追放するのか。

 なぜ国家は、自らを強くすると称して、自分の未来を破壊するのか。

 なぜ教育を受けた人間が、明らかな虚偽に従うのか。

 なぜ善良な人々は、悪が始まったとき、それが一時的な愚行にすぎないと考えてしまうのか。

 なぜ私は、彼らを救えなかったのか。

 どの問いも、数学の問題にはならなかった。

 未知数を定めることができない。

 仮定を整理することもできない。

 解が存在するかどうかさえ分からない。

 ヒルベルトは、パリで二十三の問題を提示した日のことを思い出した。

 あの頃、彼は、明確に述べることのできる問題は、いつか必ず解かれると信じていた。

 解けないように見える問題も、正しい言葉で表現し直せば、解への入口が見つかる。

 分からないということは、一時的な状態にすぎない。

 われわれは知らなければならない。

 われわれは知るであろう。

 だが、目の前にある問題は、正しい言葉で述べることさえできなかった。

 人間はなぜ、自分が知ることを恐れるのか。

 人間はなぜ、知らないことを誇りに変えるのか。

 人間はなぜ、真理よりも、真理を語る者の血筋を問題にするのか。

 ヒルベルトはチョークを置いた。

 黒板には「問題。」という一語だけが残った。

 番号は書かなかった。

 それは二十四番目の問題ではなかった。

 数学者に解ける問題ではなかった。

 窓の外で、風が木々を揺らした。

 数枚の枯葉が石畳を転がり、研究所の階段の下へ集まった。

 ヒルベルトは空いた椅子を見渡した。

 かつてそこに座っていた人々の多くは、もう遠い国にいた。

 彼らは別の大学で教え、別の学生を育て、別の黒板に式を書くだろう。

 数学は続く。

 ゲッティンゲンがなくても続く。

 それは喜ぶべきことだった。

 けれども、その夜のヒルベルトには、数学が生き延びることと、自分たちの世界が滅びることが、同じ出来事の二つの面のように思えた。

 彼は明かりを消し、講義室を出た。

 扉が閉まる直前、月の光が黒板を照らした。

 そこには、問いだけが残されていた。

 誰も解くことのできない問い。

 あるいは、人類が何度も解いたつもりになり、そのたびに初めから間違え続ける問い。

 ヒルベルトは廊下をゆっくり歩いた。

 彼の後ろで、誰もいない講義室は静まり返っていた。

 数学を失った国には、数学を失ったことを証明する者さえ、やがていなくなるのだった。

2026年6月23日火曜日

最後の哲学者のための弔辞

 

最後の哲学者のための弔辞

 私はサルトルの葬儀には行かなかった、と長いあいだ人に話してきた。

 厳密に言えば、嘘ではない。

 私は葬列には加わらなかったし、墓地にも入らなかった。ただ、ラスパイユ大通りの薬局の軒下に立ち、彼の棺が群衆の頭上を運ばれていくのを見ていた。

 四月だというのに、パリには冷たい雨が降っていた。

 傘を持たない若者たちが、街路樹や自動車の屋根にまで登っていた。窓という窓から人が顔を出し、歩道には花束が落ち、誰かが踏んだ新聞紙が雨水を吸って黒くなっていた。

 人々は泣き、怒鳴り、歌い、互いの肩を押した。

 あれほど無秩序な葬列を私は見たことがない。

 無秩序という言葉を、私は不用意には使わない。

 私の一生は、無秩序に見えるものの背後に秩序を探すために費やされた。神話、婚姻、料理、仮面、親族名称。人間が偶然に作ったように見えるものの中には、本人たちも知らない規則がある。二つのものを分け、別の二つを結び、ある項を別の項へ変換する規則である。

 だが、あの日の群衆からは、どうしても構造を取り出せなかった。

 学者も労働者も学生も、彼の本を読んだ者も読まなかった者もいた。彼の政治的立場を支持した者も、数年前まで罵っていた者もいた。葬列は階級にも世代にも分けられず、いかなる二項対立にも素直に従わなかった。

 群衆はただ、ひとりの男が死んだことを知っていた。

 そして、その男の死が、自分たちの何かを終わらせたことを感じていた。

 棺は小さく見えた。

 生前の彼も、実際には小柄な人だった。しかし、人間というものは、生きているあいだに、その肉体より大きな場所を占めることがある。

 彼は二十世紀のパリで、ひとりの人間が占めることのできる最大限の場所を占めた。

 私は薬局の軒下に立ち、濡れた帽子を手に持っていた。近くにいた若い女が、私の顔を二度ほど見た。私に気づいたのかもしれない。

「先生は、あの人に勝ったんでしょう」

 女はそう言った。

 声には非難も敬意もなかった。ただ、試験問題の答えを確認するような響きがあった。

 私は返事をしなかった。

 何に勝ったというのだろう。

 彼の歴史に、私の構造が勝ったのか。

 彼の自由に、私の無意識の規則が勝ったのか。

 彼の人間に、私の人類学が勝ったのか。

 棺が見えなくなってからも、私はしばらくそこに立っていた。

 そしてその日以来、私は何度も、彼こそ最後の哲学者だったのではないかと考えてきた。

 最後に哲学した人、という意味ではない。

 彼の後にも哲学者はいた。優れた者も、彼より厳密な者も、彼より深遠な者もいた。

 だが、自分の死を一つの都市の喪失に変えることのできた哲学者は、彼が最後だった。

 私が歴史を信用しなくなったのは、歴史を研究したからではない。

 歴史に追い出されたからである。

 一九四〇年、私はフランス人だった。

 翌年、私はユダヤ人になっていた。

 もちろん、その前から私はユダヤ人だった。しかし、それまでは、それが私のすべてではなかった。私は教師であり、夫であり、息子であり、哲学の教授資格を持つ者であり、ブラジルから戻ったばかりの民族学者だった。

 ところが、ある日、行政上の数行が、それらの属性をすべて二次的なものにした。

 歴史は、私を一つの名詞に変えた。

 ユダヤ人。

 その名詞によって職を失い、住む場所を失い、国を離れなければならなくなった。

 後年、サルトルは、人間はまず存在し、その後で自分自身を作るのだと述べた。

 それは気高い考えである。

 だが私の経験では、人間はときに、自分で選んだのではない名詞によって、存在することを禁じられる。

 自由より先に分類が来る。

 選択より先に戸籍が来る。

 実存より先に、役所の用紙が来る。

 私は船に乗り、ヨーロッパを離れた。

 海上から見た大陸は、ひどく静かだった。その内部で人間が互いを分類し、運び、閉じ込め、焼いていることなど、海からは分からなかった。

 ニューヨークでヤコブソンに出会い、私は言語の中に、事件より長く持続するものを見た。

 一つの音は、それ自体で意味を持たない。別の音との差によって、はじめて働く。

 人間の世界を作っているのは、実体ではなく関係なのかもしれない。

 個人の意志より古い規則があり、歴史上の出来事より深い変換があるのかもしれない。

 それは学説である前に、私にとって避難所だった。

 歴史が狂気に陥っているなら、その下にある構造を探せばよい。

 人間が自分のしていることを理解していないなら、人間の意識を信用せず、その背後で働く体系を調べればよい。

 私が構造を発見したのか、それとも歴史から逃れるために構造を必要としたのか、今となっては分からない。

 おそらく、学説とはしばしばそのようなものだ。

 人は普遍的真理を発見したつもりでいる。

 だが実際には、自分が生き延びることのできる場所を、世界の中に建てている。

 サルトルもまた、戦争から一つの家を建てた。

 私が関係と規則の家を建てたのに対し、彼は自由と責任の家を建てた。

 世界がいかに不条理でも、人間は選ばなければならない。

 選ばないこともまた、選択である。

 誰も自分の責任から逃れることはできない。

 あの時代に、その言葉がどれほど多くの若者を救ったかを、私は否定しない。

 私たちは同じ戦争を見て、反対の方向へ歩いた。

 私は、人間の意識を疑った。

 彼は、人間の意識に最後の責任を負わせた。

 私は歴史から逃れようとした。

 彼は歴史の中にとどまり、そこで自由であろうとした。

 どちらが勇敢だったかと尋ねられれば、答えは明らかである。

 しかし、どちらが正しかったかと尋ねられれば、私は今でも答えることができない。

 一九六二年、私は『野生の思考』の最後に、サルトルへの批判を書いた。

 あの章だけは、それ以前の章とは調子が違っていた。

 それまで私は、分類、動植物、トーテム、神話について論じていた。だが最後に、私は突然、パリへ戻ってきた。

 獲物はサルトルだった。

 彼は歴史を特別なものと考えていた。

 歴史の中で人間は自らを作り、集団は実践によって変化し、弁証法的理性は社会を理解する。彼にとって歴史は、人間が自己を実現する舞台だった。

 私には、それが西洋人の神話に見えた。

 人類の無数の社会の中から、自分たちの時間だけを特別な時間として取り出す。歴史を持つ社会と、歴史を持たない社会を分ける。そして自分たちの進歩を、人類全体の方向として語る。

 それは神話ではないか。

 かつて神が担っていた役割を、「歴史」が引き継いだだけではないか。

 私はそう書いた。

 書き終えたとき、勝利の感情はなかった。

 学者が一冊の本の中で誰かを批判する時、相手の身体は目の前にない。机上にあるのは文章だけである。文章には顔も声もなく、老いも疲労もない。こちらが鋭く切れば、切り口だけが残る。

 だから学問上の殺人は、実際の殺人より清潔に見える。

 血が出ないからだ。

 しかし、血が出ないからといって、何も死なないわけではない。

 数年後、パリでは「構造主義」という言葉が流行した。

 人々は、サルトルの時代は終わったと言った。

 若い研究者たちは、主体、自由、人間性という言葉を、古い家具を見るような目で見た。まだ使用できるかもしれないが、現代的な部屋には合わない、とでもいうように。

 私の名前は、フーコー、ラカン、バルトらと並べられた。

 私たちが一つの学派を作ったことになっていた。

 実際には、私たちは互いにかなり違っていた。しかし時代は、思想家本人より分類を好む。思想家もまた、研究対象となれば、分類を免れることはできない。

 私はそれを不愉快に思いながら、どこかで満足していたのだろう。

 新しい時代が始まり、自分がその一部であることに、満足していなかったと言えば嘘になる。

 ある午後、私はサン=ジェルマン大通りで、新聞を配るサルトルを見た。

 彼はすでに老いていた。

 目も悪くなっていた。小さな身体を少し前に傾け、一枚ずつ新聞を通行人に差し出していた。

 受け取る者もいれば、無視する者もいた。若者の中には、彼が誰であるか知らない者もいたかもしれない。

 かつて講演会場を埋め尽くした男が、道端で紙を配っていた。

 私は通りの反対側にいた。

 声をかけることもできた。

 しかし、かけなかった。

 彼を哀れんだからではない。

 むしろ、近づく資格がないように感じた。

 私は書斎で人間という主体を解体し、彼は街頭で一人の人間として立っていた。

 私の理論は、なぜ新聞を配る老人の前を、ある者は足早に通り過ぎ、ある者は立ち止まるのかを説明できたかもしれない。

 階級、世代、政治的所属、記号の体系。

 しかし、なぜ彼がそこに立つことを選んだのかについて、私の理論は何も語らなかった。

 あるいは、それを「選択」と呼んでよいのかについてさえ。

 やがて信号が変わり、人波が私たちの間を横切った。

 もう一度見たとき、彼の姿は見えなくなっていた。

 私は彼を見失ったのではない。

 私たちの時代が、彼を見失い始めていたのである。

 一九六六年、アメリカで若い哲学者が私の仕事について語った。

 ジャック・デリダ。

 アルジェリア生まれのユダヤ人で、少年時代、反ユダヤ的な規則によって学校から排除された経験を持つ男だった。

 その経歴を知ったとき、私は奇妙な親近感を覚えた。

 彼もまた、ある朝突然、一つの名詞に変えられたことがある。

 彼は構造を外部から攻撃したのではない。

 内部へ入り、その中心が本当に中心なのかを尋ねた。

 構造には中心が必要だと私たちは考えていた。中心が要素の配置と変換を統御する。しかし中心そのものは、構造の一部なのか。構造の一部なら、中心もまた他の要素との関係によって定義される。構造の外部にあるなら、どうして構造に働きかけることができるのか。

 彼は私の道具を使って、私の家を解体した。

 後年、私たちは何度か顔を合わせた。

 ある晩、講演後の小さな会食で、彼は私に言った。

「先生の構造を壊したつもりはありません」

「では、何をしたのですか」

「戸を開けたのです」

「外から風が入る」

「風の入らない家は、墓です」

 彼が実際にそう言ったのか、私は確信していない。

 老人の記憶は、過去を保存するより、過去にふさわしい会話を新たに作ることがある。

 だが彼なら、そのようなことを言ったかもしれない。

 そして私は、こう答えたように思う。

「人類学者は墓も研究します」

 彼は笑った。

 私も笑った。

 思想史は、後世から見ると父殺しの連続に見える。

 アリストテレスがプラトンを退け、カントが形而上学を裁き、ヘーゲルがカントを包み込み、マルクスがヘーゲルを逆立ちさせ、ニーチェが道徳を打ち壊す。

 だが実際に会ってみれば、父と子は必ずしも憎み合ってはいない。

 子は父の言葉を最も熱心に読んだからこそ、その限界を見つける。

 父は子に否定されることで、自分の思想が本当に読まれたことを知る。

 私はサルトルにしたことを、デリダによって自分に返された。

 その時、私は初めて、サルトルが感じたかもしれないものの一部を理解した。

 怒りではない。

 敗北でもない。

 自分の築いた家から、知らないうちに客が帰っていく時のような寂しさである。

 灯りはまだついている。

 暖炉にも火がある。

 しかし、次の世代はもう別の場所に集まっている。

 サルトルが死んだ四年後、フーコーが死んだ。

 一九八四年六月。

 私は新聞でその知らせを読んだ。

 病名は、沈黙と噂のあいだを移動していた。

 彼は、社会が狂気、病気、犯罪、性をどのように名づけ、分類し、管理するかを研究した。だが最後には、彼自身の身体が、一つの病名をめぐる社会の恐怖と沈黙の中に置かれた。

 それを皮肉と呼ぶのは容易である。

 だが死者の生涯に、気の利いた対称性を見つけることは、残された者の悪い習慣だ。

 フーコーは、人間という概念は比較的新しい発明であり、いつか消えるかもしれないと書いた。

 砂浜に描かれた顔が波で消えるように。

 当時、その比喩は鮮やかだった。

 人間の終焉。

 主体の終焉。

 著者の終焉。

 歴史の終焉。

 私たちは次々に、何かの終わりを告げた。

 若い思想家にとって、終わりを宣言することほど魅力的な仕事はない。何かを終わらせるたびに、自分たちの時代が始まったように思えるからだ。

 だが、人間という概念の終わりを告げた人間が実際に死ぬと、概念とは別のものが残った。

 声。

 歩き方。

 眼鏡の向こうから人を見る時の、あの集中的な視線。

 講義の前に紙を整える手。

 人間は存在しないと論じることはできても、死者の固有名を消すことは難しい。

 死は、私たちが解体したはずの主体を、残酷なほど鮮明に復元する。

 フーコー。

 ミシェル。

 その名を呼べば、彼はもはや権力と知の交差点ではなかった。言説によって構成された主体でもなかった。

 ただ、もう会うことのできない一人の人間だった。

 彼の最後の講義は、真理を語る勇気についてだったという。

 私はそのことを後から知った。

 真理を解体した時代の思想家が、最後に真理を語る勇気へ戻った。

 これもまた、出来すぎた対称性だろうか。

 あるいは私たちは、どれほど遠くへ旅をしても、最後には古い問いへ帰ってくるのだろうか。

 どう生きるべきか。

 何を恐れるべきか。

 死を前にして、何を語るべきか。

 それらはサルトル以前からあった問いであり、サルトルの後にも残った。

 哲学者たちは哲学を解体したが、問いの方は、解体されることを拒んだ。

 ガタリが死んだのは一九九二年だった。

 私は彼をよく知っていたわけではない。

 彼は私のように、世界から距離を取って構造を眺める人間ではなかった。世界の内部へ入り、制度の壁を動かそうとする人だった。

 ラ・ボルドの病院で、彼は精神科病院が一つの固定した機械になることを防ごうとしていた。

 医師は医師、患者は患者、病者は治療される側、専門家は治療する側。

 その区別が硬直すれば、病院は病気を治す場所ではなく、病気という身分を生産する場所になる。

 彼は役割を混ぜ、会議を開き、言葉の通路を増やした。

 私は構造を発見した。

 彼は構造が人を閉じ込める時、その戸を外そうとした。

 私たちは反対の仕事をしていたようで、実は同じものを見ていたのかもしれない。

 人間は、自分で作った制度の中に捕らわれる。

 ただ私はそれを記述し、彼はそれを変えようとした。

 ガタリの死後、私は書棚から『アンチ・オイディプス』を取り出した。

 表紙には二人の名が並んでいた。

 ドゥルーズとガタリ。

 その間の「と」という一文字が、不意に墓碑のように見えた。

 人間は一人で生まれ、一人で死ぬとよく言われる。

 しかし思想には、二人でしか生まれないものがある。

 二人のあいだにできる思考。

 どちらか一人に還元できない言葉。

 ドゥルーズとガタリ。

 ガタリが死んだ後、その「と」の片側には、誰もいなくなった。

 三年後、もう片側も空白になった。

 ドゥルーズが窓から身を投じたと聞いたとき、新聞にはすぐに、彼の哲学にふさわしい比喩を見つけようとする文章が現れた。

 逃走線。

 生成。

 身体からの脱領土化。

 私はそれらを読むことができなかった。

 一人の男が長い病気によって呼吸する力を奪われ、耐えがたい地点にまで追いつめられた。それ以上のことを、哲学的な比喩にしてはならないと思った。

 窓は概念ではない。

 落下は思想ではない。

 死者の最期を、その人の著作の美しい結論に変えることは、残された者の傲慢である。

 私たち思想家は、死を前にすると臆病になる。

 死を死のまま受け止められず、意味に変えようとする。

 構造、自由、差異、欲望、超越。

 意味を与えれば、死者は完全には失われないと思うからだ。

 しかし、ある死には意味がない。

 意味がないまま、私たちの中に残る。

 その重さに耐えることもまた、思考の仕事であるはずだった。

 二〇〇四年、デリダが死んだ。

 私は九十五歳だった。

 その頃には、人の死を聞くことに慣れていた、と言うべきかもしれない。

 だが、人は他人の死に慣れるのではない。

 驚く力を少しずつ失っていくだけである。

 新聞に彼の写真が載っていた。

 白い髪。少し疲れた目。何かを断定した直後に、それを自ら疑い始めるような口元。

 私の構造を開いた男。

 私の二項対立の内部に入り、自然と文化、話し言葉と書き言葉、中心と周縁が、私の考えたほど素直に分かれていないことを示した男。

 私は彼より二十二歳年上だった。

 普通なら、私が先に死ぬはずだった。

 だが思想の世界では、父が子の葬儀を見ることがある。

 彼の死を知った日、私は長いあいだ机に向かったまま、何も書かなかった。

 彼は私に何をしたのだろう。

 若い頃の私は、それを批判と呼んだかもしれない。

 さらに若ければ、攻撃と呼んだかもしれない。

 だが老年になってみれば、それは相続だったのだと思う。

 人は、受け継がないものを解体することはできない。

 無関心な文章を、何十年もかけて読み直す者はいない。

 デリダは私の仕事を壊したのではない。

 それが簡単には閉じないようにした。

 そのことを本人に伝えたことはなかった。

 私たちの世代の男は、感謝を批判の形でしか表せないことがある。

 私はサルトルに対してそうだった。

 デリダも私に対してそうだったのかもしれない。

 あるいはこれは、最後に残った者に都合のよい解釈だろう。

 老人は、自分が受けた傷を、すべて愛情の跡に変えたがる。

 そうしなければ、長く生きた時間に耐えられないからである。

 デリダの死後、私はサルトルについて考えることが増えた。

 私はようやく、彼より年上になった。

 人は死者の年齢を追い越す時、不思議な罪悪感を覚える。

 サルトルは七十四歳のままになり、私は九十を超えた。

 かつて老人に見えた彼が、いつの間にか私より若くなっていた。

 フーコーも、ガタリも、ドゥルーズも、デリダも、皆、私より若くなった。

 死者は老いない。

 老いるのは、見送った者だけである。

 日本について書くようになったのは、希望を探したからではない。

 少なくとも、初めはそう思っていた。

 私は人類学者として、日本を一つの文化として見ようとした。西洋と比較し、差異を見つけ、変換の規則を考えた。

 だが晩年になると、私は日本に、学問以上のものを求めていたのかもしれない。

 西洋文明は、自分自身を普遍的なものとして世界に押し広げた。

 自分たちの歴史を、人類の歴史と呼んだ。

 自分たちの理性を、理性そのものと呼んだ。

 自分たちの人間像を、人間そのものと呼んだ。

 私はその傲慢を批判してきた。

 しかし、批判した後に何が残るのかについて、私は十分に語らなかった。

 中心を壊すことはできる。

 普遍を疑うこともできる。

 だが、人は中心のない場所で、どのように暮らせばよいのか。

 すべての価値が一つの文化の構築物にすぎないなら、私たちは何を守り、何を拒むのか。

 日本で私を慰めたのは、古いものが残っていたことではなかった。

 古いものが、そのまま保存されているのではなく、別の形へ移されながら生きているように見えたことである。

 素材に逆らわず、物を作る。

 空間を何かで満たすのではなく、空いている場所を働かせる。

 新しいものが古いものを完全に破壊せず、古いものも新しいものを拒まない。

 もちろん、これは外国人が作った日本像にすぎないだろう。

 日本にも暴力があり、破壊があり、忘却がある。

 私は日本を理想郷にするほど、若くも無知でもなかった。

 それでも、別の配列が可能であることを知るだけで、人は救われることがある。

 西洋の終わりは、世界の終わりではない。

 哲学の終わりも、思考の終わりではない。

 私の机の上には、日本でもらった小さな木箱がある。

 何を入れるためのものだったか、もう覚えていない。

 蓋は、力を入れなくても静かに閉じる。だが密閉はされない。わずかな空気が、内部と外部を行き来する。

 私は時々、デリダの戸を思い出す。

 風の入らない家は墓だ、と彼が言ったことになっている、あの戸である。

 百歳を過ぎると、人は未来について尋ねられなくなる。

 若い頃は、これから何を書くのかと聞かれた。

 中年になると、現在の社会をどう考えるかと聞かれた。

 老人になると、過去についてだけ質問される。

 サルトルはどのような人でしたか。

 構造主義とは何でしたか。

 なぜフランス思想はあれほど世界を熱狂させたのですか。

 人々は、すでに終わった時代の証言を求める。

 私は、生きた人間ではなく、遺跡の管理人になった。

 ある若い記者が、私に尋ねたことがある。

「哲学は、本当に終わったのでしょうか」

 私は、哲学者ではなく人類学者だと答えた。

 これは私が何十年も使ってきた、便利な逃げ道だった。

 もともと私は哲学を学んだ。

 哲学の教授資格まで取得した。

 それから哲学を離れ、人類学へ進んだ。

 哲学者であることをやめたつもりだった。

 しかし、哲学を離れた理由を説明するために、私は一生哲学について語り続けた。

 神話を研究しながら、思考とは何かを考えた。

 親族関係を研究しながら、人間とは何かを考えた。

 歴史を批判しながら、時間とは何かを考えた。

 サルトルを批判しながら、自由とは何かを考えた。

 哲学から逃げるために歩いた道が、巨大な円を描き、再び哲学へ戻っていた。

「終わったのは、哲学ではないのかもしれません」

 私は記者に言った。

「では何が終わったのですか」

「哲学者が、世界全体に責任を負っていると人々が信じた時代です」

 サルトルは、世界中のあらゆる事件について発言することを求められた。

 戦争、植民地、革命、収容所、労働者、学生、文学。

 彼自身も、その要求を拒まなかった。

 今から見れば、傲慢だったと言える。

 一人の知識人が、世界のあらゆる苦しみに答えられるはずはない。

 彼は誤り、迷い、しばしば自分の政治的判断に裏切られた。

 それでも彼は、答える責任があると信じていた。

 私たちは、その責任の根拠を解体した。

 普遍的人間などいない。

 歴史に一つの方向などない。

 主体は自分自身の主人ではない。

 真理は権力と無関係ではない。

 言葉は意味を完全には支配できない。

 私たちは正しかった。

 おそらく、そのほとんどについて正しかった。

 だが、正しさによって失われるものもある。

 誰も世界全体を語る資格がないと証明した後、誰も世界全体に責任を感じなくなった。

 大きな物語を壊した後、小さな専門領域だけが残った。

 哲学は精密になった。

 慎重になった。

 自分の限界を知るようになった。

 そして、かつて持っていた、危険で滑稽で壮大な光を失った。

 サルトルは、多くの点で間違っていた。

 だが、世界の出来事は自分と無関係ではないという、その一事において、彼は最後まで間違うことを拒んだ。

 私は今、サルトルのための弔辞を書こうとしている。

 彼が死んでから、ほぼ三十年が経っている。

 弔辞を書くには遅すぎる。

 だが、死者に対して遅すぎるということがあるだろうか。

 死者は待つことを苦にしない。

 困るのは生きている者の方である。

 私は何度か、原稿の冒頭に「親愛なるサルトル」と書いた。

 そのたびに消した。

 私たちは親しくなかった。

 親愛なる、という言葉には虚偽がある。

 しかし、「サルトル氏」と書けば、もっと大きな虚偽になる。

 私は彼の本を読み、彼に反対し、彼の時代を終わらせることに加担した。

 他人とは言えない。

 私は結局、宛名を書かずに始めた。

 あなたは、人間は自由であると言った。

 私は、人間は自分でも知らない構造によって動かされていると言った。

 あなたは、歴史の中で人間が自分自身を作ると言った。

 私は、歴史とは西洋が自分自身に与えた神話の一つにすぎないと言った。

 あなたは、選択には責任が伴うと言った。

 私は、選択以前に、文化と言語と制度が選択肢を作っていると考えた。

 私は今でも、自分の方が正しかったと思っている。

 少なくとも、学問としては。

 だが、ある人間が正しく、別の人間が偉大であるということはあり得る。

 正しさと偉大さは、同じ尺度では測れない。

 あなたの人間は、あまりに大きかった。

 世界の中心に立ち、自分の選択によって意味を作り、歴史の責任を引き受ける。

 その人間像は、西洋的であり、男性的であり、英雄的でありすぎた。

 その影には、多くの人々が隠されていた。

 私たちはその像を壊した。

 フーコーは人間の歴史的な誕生を示した。

 デリダは主体の声の中に、消すことのできない他者の痕跡を見つけた。

 ドゥルーズとガタリは、一つの自我の代わりに、欲望と接続と生成を置いた。

 私も、人間の意識の背後に構造を置いた。

 私たちは、あなたの巨大な人間像を、細かく分解した。

 その仕事は必要だった。

 悔いてはいない。

 しかし、分解した部品を前にして、時折思う。

 これらを、もう一度人間と呼ぶことはできないのだろうか。

 あなたが死んだ後、フーコーが死んだ。

 ガタリが死んだ。

 ドゥルーズが死んだ。

 デリダが死んだ。

 彼らは皆、あなたの後に来た。

 あなたを乗り越えた世代だった。

 だが、死者の国では、先に来た者も後に来た者もないだろう。

 今頃あなたたちは、同じカフェにいるのかもしれない。

 もっとも、死後の世界にカフェがあるという考えは、あまりにパリ的だ。

 あなたは例によって大声で話し、フーコーは話題の前提を疑い、デリダはあなたの使った一語に長い注釈を加え、ドゥルーズとガタリはテーブルそのものを別の何かへ接続しようとしている。

 私は少し離れた場所から、その様子を見ている。

 生前と同じように。

 そして、生前と同じように、近づくことができない。

 だが間もなく、私もそちらへ行く。

 その時、あなたは私に尋ねるだろうか。

 結局、君は何を見つけたのか、と。

 私は答えることができるだろうか。

 私は、人間の社会には、人間が意識しない構造があることを示した。

 神話の背後には変換があり、婚姻の背後には交換があり、料理の背後には分類があることを示した。

 しかし、なぜ人間が死者を悼むのかについて、私は十分な構造を見つけられなかった。

 弔いには交換がある。

 生者は言葉を捧げ、死者から記憶を受け取る。

 弔いには変換がある。

 一人の人間が物語に変わり、声が文章に変わり、時間が意味に変わる。

 それでも、弔いは構造だけでは説明できない。

 なぜ、ある死者の名を呼ぶと胸が痛むのか。

 なぜ、自分が否定した思想を、失った後で懐かしく思うのか。

 なぜ、終わらせる必要があった時代を、もう一度見たいと思うのか。

 私には分からない。

 分からない、と書くために、私は百年生きたのかもしれない。

十一

 夜が明け始めている。

 窓の外で、清掃車の音がする。

 パリは、思想家たちが何を考え、何を終わらせたかに関係なく、毎朝街路を洗う。

 カフェは椅子を並べ、地下鉄は人間を運び、学校では新しい学生が、死者たちの本を読む。

 彼らはサルトルを古いと思うだろう。

 レヴィ=ストロースも、フーコーも、デリダも古いと思うだろう。

 それでよい。

 思想が保存されるためには、崇拝される必要はない。

 読み違えられ、批判され、別の問題に利用されればよい。

 正しく保存された思想は、博物館の標本に似ている。

 壊れやすいので触れてはならず、元の文脈から動かしてはならない。

 だが本当に生きている思想は、誤解されることを恐れない。

 私がサルトルを誤解し、デリダが私を誤解したように。

 誤解もまた、継承の一つである。

 机の上に、若い学生から届いた手紙がある。

 名前は知らない。

 彼は、人間が構造と制度と言語によって作られるものなら、誰が責任を負うのか、と尋ねている。

 私はまだ返事を書いていない。

 その問いは、私たちが半世紀かけて退けた場所から戻ってきた。

 自由。

 責任。

 人間。

 古い言葉である。

 だが、古い言葉が必ずしも死んだ言葉とは限らない。

 人類は、同じ問いに何度も別の答えを与える。

 神話がそうであるように。

 一つの神話が別の神話へ変換されても、解こうとしている矛盾は残る。

 生と死。

 個人と社会。

 自由と必然。

 自己と他者。

 私たちの思想もまた、巨大な神話の変形だったのかもしれない。

 サルトルは人間の自由という神話を語った。

 私は構造という神話を語った。

 フーコーは権力と知の神話を語った。

 デリダは、神話が自分自身を閉じることのできない理由を語った。

 どれが真理だったのか。

 その問いには、もうあまり関心がない。

 重要なのは、どの神話も一時、人間が世界の矛盾に耐えることを助けたということである。

 私は原稿の最初へ戻り、題名を書いた。

 最後の哲学者のための弔辞。

 書いてから、少し考えた。

 サルトルは、本当に最後の哲学者だったのだろうか。

 あるいは私は、自分たちの時代を始めるために、彼を最後の哲学者にしたのではないか。

 哲学は終わったのではなく、私たちが終わったことにしたのではないか。

 神を解体し、人間を解体し、主体を解体し、真理を解体し、最後に哲学そのものを解体した。

 それは哲学の敗北だったのか。

 いや。

 自分自身を疑うことを最後までやめなかったという意味で、それは哲学の最も完全な勝利だったのかもしれない。

 だが、完全な勝利は、ときに勝者をも消滅させる。

 哲学は、自分の仕事を完遂することで、自分の居場所を失った。

 そして今、私はその消滅について考えている。

 哲学の終わりについて考えることを、哲学以外の何と呼べばよいのだろう。

 私は弔辞を書いているつもりだった。

 しかし読み返してみれば、これは弔辞ではない。

 告解でもない。

 弁明でもない。

 まして勝利者の回想ではない。

 これは、返事である。

 あの雨の日、薬局の軒下で、若い女が私に尋ねた。

 先生は、あの人に勝ったのでしょう。

 三十年近く経って、私はようやく答えることができる。

 いいえ。

 私たちは誰も勝たなかった。

 サルトルも、私も、彼の後に来た者たちも。

 私たちはただ、同じ問いを、それぞれの時代の言葉へ移し替えた。

 そして一人ずつ、その問いを次の者に手渡して死んでいった。

 窓の外が明るくなった。

 私は日本の木箱の蓋を開けた。

 中には何も入っていなかった。

 空であることが、この箱の用途なのかもしれないと思った。

 何かを入れるための空白。

 まだ来ていないものの場所。

 私は学生への返事を書くため、新しい紙を取り出した。

 最初の一行を書く前に、もう一度、死者の名を思った。

 サルトル。

 フーコー。

 ガタリ。

 ドゥルーズ。

 デリダ。

 名を呼ぶたびに、終わったはずの時代が、ほんの一瞬だけ息をした。

 哲学は、死者の名を呼ぶたびに、また始まってしまう。

 それが哲学の欠点なのか、救いなのか、私には最後まで分からなかった。

2026年6月21日日曜日

精神医学の性格論

 

精神医学の性格論

 

・精神医学と性格

 「性格」は精神医療で大問題です。

 精神医学でも科学全般でも本当は大問題のはずです。

 しかし扱いにくいです。

 扱いにくいので精神医学では性格を極めて限定的に扱っています。

 現代の診断基準ではパーソナリティ障害という項目でまとまっています。

 世界の診断基準WHOICD10では性格その他の生来的特徴をまとめた大項目の中の主要な小項目、アメリカの診断基準DSMTRTRは改訂版)では割り切って性格の問題をパーソナリティ障害という大項目にしています。

 結果としてパラフィリアなどの嗜好の問題や性(セックスやジェンダー)の問題はICD10では一つの大項目にしていますがDSMTRではそれぞれ別の大項目になっています。

 人間が正徳的に持っていたり環境によって形成される性格、性質、気質、英語ではパーソナリティやキャラクター(日本でもキャラは性格の意味で使われるが英語とちょっと意味が変わる)やネイチャーなどひっくるめたものは臨床精神医療でも医学でも大問題のはずですが科学的にスマートでジャストフィットな定式化ができないため遠ざけられる傾向にあります。

 この手段がないから大切でも扱わないというのは現代的に誠実(科学的でもどんな意味でも)である場合陥りやすい盲点かもしれません。

 精神科の主要な症状である抑うつとか不安は玄以やきっかけがあるないはともかくエピソーディックに生じる場合がありますが、生まれつき、あるいは成育環境によって性格の一部になっている場合があります。

 そういうのは現代の精神医学では扱いませんし、精神医学に限らず科学が浸透した世の中では扱いにくく、扱われるのはメディアやネットや公的でない部分で扱われる感じでしょう。

 実証、あるいは検証できないものは扱わないという姿勢です。

 数理的なエビデンス、統計学か論理学かどっちも扱えないとあかんという時代風潮が近代以降は波はあっても通底してあるのでしょう。

 また精神科で扱う場合は病的、あるいは障害的(障害構造論で自分が困るか周りが困るか)なものの扱いに限る傾向が強くなっています。

 病前性格や精神疾患罹患後の性格変化、病気が盛んな時の性格的特徴などは昔の精神医学に比べて全然扱いません。

 あまりに扱わなさ過ぎて精神科医の心理離れが進んでいるようです。

 現代精神医学の性格論で歴史的、現代的に大切なものを3つ紹介します。

 精神科の性格論ですから病的?というか異常?な性格に焦点を当てているので病的でも異常でもない人間一般の性格論ではないのはご注意ください。

 現代精神医学の源流はドイツのミュンヘン学派のクレペリンにあります。

 もう一つの巨頭はハイデルベルグ学派でクレペリンもそこの元教授ですがミュンヘン大学に移ってから別の方法論で精神科の疾患分類を作り現代精神医学の父と呼ばれています。

 ハイデルベルグ大学もミュンヘン大学も今でもドイツのトップ大学です。

 当時はゲッティンゲン大学もすごかったのですが今はややドイツでは地盤沈下しています。

 現代の世界やアメリカの診断基準はクレペリンの方法論を継承しています。

 ハイデルベルグ学派はクレッチマーやヤスパースや(クルト・)シュナイダーなどこれも現代精神医学の分類学とは違う意味での母体ですがクレペリンが診断学で画期的であるのに対してハイデルベルグ学派は精神病理学で名高いです。

 クレペリンの方法はカールバウムやヘッカーの方法を引き継いで客観的、記述的な方法で疾患分類する方法です。

 ハイデルベルグ学派の精神病理学の方法は説明と了解で代表される患者さんの内面を理解する主観的なアプローチでこちらはだいぶ廃れてしまいました。

 クレペリンの方法で1980年代にアメリカの診断基準DSM-Ⅲが今の診断基準の元です。

 クレペリンの方法は主観的なのを排して科学的、統計的である診断基準であること、すなわち主観を排して客観的に観察される患者さんの症候の観察だけで精神疾患を分類、診断するシステムです。

 DSM-Ⅲまでは英米の精神医学はひたすら精神分析で主観的な診療を行っていましたがクレペリンの科学的な方法を取り入れたためネオ・クレペリニズムと言われることがあります。

 性格は主観的なものを完全に排して分類するのは難しい所があります。

DSM-Ⅲはカテゴリー分類でいくつかの性格類型を作ってパーソナリー障害をそれに当てはまるかどうかで分類するという方法で行われました。

これは精神分析学の影響もあります。

パーソナリティー障害で20世紀後半に精神医療全体で大きな問題となった境界例(初期は精神病圏と神経症圏の境界で精神病圏より、今でいうとARMSとか統合失調症の前駆期、病前期から病初期、寡症状性統合失調症とか、その後神経症圏と精神病圏の境界の病態とパーソナリティ)の研究に精神分析家が大きな貢献を果たしたことにもよっていると思われます。

DSM5までは中途半端なものにとどまっていましたがおそらくアメリカのDSMではなく世界のWHOICD-11では中途半端なカテゴリー分類ではなくディメンション分類という症候と記述的・操作的な診断基準で記述しカテゴリー診断をやめるとの話ですが境界性パーソナリティー障害(BPD)だけはそれを確立した精神分析家のカーンバーグを敬意を表してかどうかは分かりませんがBPDだけ残っているらしいです。

性格論と言っても障害構造論で問題になる性格類型の分類で異常というか病理的な性格論が主なものです。

正常というか生理的なあらゆる人間の性格を扱ったものではないことには注意が必要です。

 

 

・クレッチマーの気質論

 クレッチマーはハイデルベルグ学派の重鎮です。

 クレペリンの客観的、科学的、統計的障害分類では性格は扱いにくいと思われますがハイデルベルグ学派は患者さんの内面的を恣意的に研究するスタイルなので性格論と相性が良かったのか性格分類を行っています。

 クレッチマーもドイツ精神医学の大物で彼の提唱した多元精神医学の考え方はDSMの改革時に多軸診断として取り入れられましたがDSM5ではなくなってしまいました。

 ただパーソナリティー障害においてはディメンション分類として取り入れられるのではないかとずっと噂されていますしコンピューターサイエンスやデータサイエンスとは多次元分類(もはや分類ではないかもしれないが)は相性がいい面もあるかもしれません。

 クレッチマーの性格論は生物学の三胚葉論とつながりがあります。

 人によって発生学的か遺伝的か環境的か分かりませんが外胚葉優位な人と内胚葉優位な人と中胚葉優位な人がいると考えてそれが体系や性格に影響すると考えます。

 そして外胚葉気質の人が統合失調症と親和性があり統合失調症に発症しやすくそのような病前性格をしている、内胚葉気質が躁うつ病と親和性があり躁うつ病を発症しやすくそのような病前性格をしている、中胚葉気質はてんかんと親和性があり転換を発症しやすくそのような病前性格をしている、みたいに考えます。

 当時も今も科学的な根拠はないので仮説です。

 根拠がないというかどちらかといえば否定されているようです。

 でもなかなか面白いので紹介します。

 ちなみにクレッチマーは古典的ヒステリーにおける狸寝入り仮説というのも唱えています。

 発想力が豊かだったのかもしれません。

 下記に図などでまとめましたが外胚葉気質が分裂気質、内胚葉気質が循環気質/躁鬱気質、中胚葉気質が粘着気質/てんかん気質と考えます。

 昔は精神分裂病(今の統合失調症)、躁うつ病(今の双極症とうつ病)、てんかんは三大精神病と言われていました。

 現在は内因性精神病はこのなかでは統合失調症だけでうつ病や躁うつ病は気分障害として精神病とは呼ばないようになってきました。

 てんかんは20世紀前半に脳波が発見されたのが景気で現在はそもそも精神疾患の分類ではなくなってしまいます。

 気分障害にしても躁うつ病とうつ病よりは統合失調症と躁うつ病の方が近いとされています。

 ドイツの精神医学者エルンスト・クレッチマー(Ernst Kretschmer)が提唱した性格の3類型は、「分裂気質」「循環気質(躁鬱気質)」「粘着気質(てんかん気質)」です。

クレッチマーは「体型と性格には密接な関係がある」と考え、人間の体型を3つに分類し、それぞれに対応する性格(気質)を導き出しました。

クレッチマーの3類型一覧

体型の特徴

対応する気質

性格の主な特徴

細長型
(痩せ型・筋肉が少ない)

分裂気質
(シゾイド)

非社交的、静か、繊細、冷淡、知性的、自分の世界に閉じこもりやすい

肥満型
(ふくよか・脂肪が多い)

循環気質 / 躁鬱気質
(サイクロイド)

社交的、気さく、親しみやすい、感情の起伏(陽気と陰気)が激しい

闘士型
(筋肉質・骨太)

粘着気質 / てんかん気質
(イクソチム)

几帳面、頑固、熱中しやすい、礼儀正しいが融通が利きにくい

補足

  • 4つ目の体型:上記の3つに当てはまらない、身体のバランスが極端に悪い体型を「発育不全型(異形成型)」として分類しています。
  • 現代の評価:現在の心理学では「体型だけで性格が決まるわけではない」とされていますが、性格と統計を結びつけた先駆的な研究として広く知られています。

 

 

・シュナイダーの精神病質

 クルト・シュナイダー(カール・シュナイダーという別の精神医学者もいる)も精神医学会の大物です。

 アメリカの精神科医学の転換点であるDSM-Ⅲはシュナイダーの臨床精神病理学にそっくりです。

 知的障害以外の発達障害などは入って言いませんが逆に言えばそれくらいしか違いません。

 ハイデルベルグ学派ですがクレペリンも踏まえています。

 シュナイダーはその後のパーソナリティ障害の元みたいなのを作っています。

 多分試行的な感じだったのかもしれませんがきりよく10の精神科親和的な性格を提案しています。

 現在のパーソナリティ累計とはかなり違うのがおもしろい所です。

 時代が違うと問題となる性格もどういう過去にはどういう性格が多かった少なかった、現在は過去と比べてどういう性格が減ってどういう性格が増えたかという見方ができると思われ時代によって人々の性格も変わっていく可能性を考えさせられます。

 シュナイダーが提案した精神病質は現在では別の大分類に含まれている場合があります。

 例えば抑うつ型は気分障害の気分変調症っぽいものかもしれませんし、爆発型は秩序破壊的・衝動制御・素行症群になるかもしれません。

ドイツの精神医学者クルト・シュナイダー(Kurt Schneider)が提唱した「精神病質(サイコパシー)」は、その偏った性格によって本人や社会が苦悩する10の類型に分類されます。

シュナイダーの精神病質10類型は以下の通りです。

  1. 抑うつ型(抑鬱者):常に悲観的で、陰鬱な気分にとらわれやすい。
  2. 発揚型(発揚者):いつも元気で活動的。自信過剰で興奮しやすい一面もある。
  3. 自己不確実型(自信過小者):自分に自信が持てず、常に他人の評価を気にしたり思い悩んだりする。
  4. 狂信型(熱狂者):強固な信念や理想を持ち、それを頑なに追求する。
  5. 自己顕示型(自己顕示欲者):周囲の注目を集めることを好み、自分を実際より大きく見せようとする。
  6. 爆発型(爆発者):些細な刺激やフラストレーションで激しい怒りや暴力を爆発させる。
  7. 気分易変型(情緒易変者):気分がコロコロと変わりやすく、感情の起伏が激しい。
  8. 意志欠如型(意志薄弱者):持久力や決断力に欠け、周囲の誘惑や環境に流されやすい。
  9. 惰性欠如型(人間性欠落者):情愛や共感性、良心の呵責が欠如しており、冷酷で無責任な行動をとる。
  10. 無力型(無気力者):エネルギーに乏しく、主体的な行動や努力が極めて苦手。

なお、シュナイダー自身は、これら精神病質は医学的な病気ではなく、あくまで「正常な人格の変異(極端なバリエーション)」に過ぎないとしています。

 

 

DSMのパーソナリティ障害

 

 いろいろ問題はありますが現在は日本ではICD-10DSM5TMを使っています。

DSM5では多軸診断システムというものをなくしたのが新しい一つの特徴になっています。

昔はパーソナリティ障害や知的障害は二軸の疾患修飾因子というか疾患の土台にあるものとして扱われてはいましたが一軸目の統合失調症や躁うつ病のように精神科の主役ではないように見える扱いをされていました。

軸をなくした代わりにそれまでよりかなり自由な疾患併存を認めています。

相互背反ではなくいろいろな病名を重ねてつけることが容易になりました。

 ICD-10DSMTRはほぼ共通していますが違いもあります。

 違いとしては統合失調症型パーソナリティはDSM5TRではパーソナリティ障害にも載っていますが精神病スペクトラム障害にも載っています。

 このパーソナリティ障害があると統合失調症の発症率が高いというのが示されているからです。

 DSMの反社会性PD(アンチソーシャル)とICDの非社会性(ディソーシャル)は対応するように見えてだいぶ中身が違います。

 反社会性PDDSMでは秩序破壊的・衝動制御・素行症群の大項目にも含まれています。

 DSMはパーソナリティ障害のクラスター分けをしていますがICDではそのようなクラスター分けはしていません。

 ICDではパーソナリティ障害は成人のパーソナリティおよび行動の障害という大項目の解分類で他に混合性及び他のパーソナリティ障害や持続的パーソナリティ変化、脳損傷及び脳変化によらないもの、習慣及び衝動の障害、性同一性障害、姓嗜好障害、姓の発達と方向付けに関連した心理及び行動の障害と性格というか性質みたいなものを広くカバーしています。

 ICD10は大項目が10しかないのに対してDSM5TRでは大項目が20くらいあるのでICD10でパーソナリティ及び行動の障害の下位項目とされているものはDSMTRでは単独の大項目になっているか、何かに吸収されているか、そもそもなくなっていたりします。

 逆に言えばICDで性格や性質、個性や特性としてまとめられているようなものはDSMTRではバラバラになっています。

 また司法・警察やジェンダー、性欲などの問題は扱いが慎重になっています。

 人生の大きな精神的な負荷やショックにより性格が変わってしまうのはDSMでは直接扱われていませんがICD1110の次のバージョンでは複雑性PTSDという新しい診断が採用されてこれから研究されていくでしょう。

 ICDの次のバージョンはパーソナリティ障害の診断体系そのものが変わっています。

 DSM5TRではそこまでは生きませんが、ディメンション診断が研究課題とされています。

DSM-5-TRICD-10最新版はICD-11)のパーソナリティ障害(パーソナリティ症)は、10のタイプに分ける基本構造はほぼ共通」ですが、「グループ分け(クラスター分類)の有無」「名称・カテゴリの細かな違い」があります

具体的な分類と対応は以下の通りです。

1. DSM-5-TRの分類(10種類・3群)

DSM-5-TRでは、10種類のパーソナリティ障害を特徴別に3つの群(クラスター)に分けて整理しています。

  • A群(奇妙で風変わりなグループ)
    • 妄想性パーソナリティ障害
    • スキゾイドパーソナリティ障害
    • 統合失調型パーソナリティ障害
  • B群(感情が不安定で衝動的なグループ)
    • 境界性パーソナリティ障害(BPD
    • 演技性パーソナリティ障害
    • 反社会性パーソナリティ障害
    • 自己愛性パーソナリティ障害
  • C群(不安と恐怖心が強いグループ)
    • 回避性パーソナリティ障害
    • 依存性パーソナリティ障害
    • 強迫性パーソナリティ障害

2. ICD-10の分類(特定のパーソナリティ障害)

ICD-10ではABC群のようなグループ分けはせず、「特定のパーソナリティ障害(F60)」として以下のようにリストアップされています。DSMと名称や分類が少し異なります。

  • 妄想性パーソナリティ障害
  • 分裂病質パーソナリティ障害(DSMのスキゾイドに相当)
  • 情緒不安定性パーソナリティ障害DSMの境界性に相当する「境界型」などを含む)
    • ※ICD-10では「境界性」という独立した項目はなく、情緒不安定性の中に含まれます。
  • 非社会性パーソナリティ障害DSMの反社会性に相当)
  • 演技性パーソナリティ障害
  • 強迫性パーソナリティ障害
  • 不安性(回避性)パーソナリティ障害DSMの回避性に相当)
  • 依存性パーソナリティ障害

3. その他の大きな違い

  • カテゴリカル分類から次元モデルへ: 現在の最新版であるICD-11では、これまでの細かいタイプ分けを廃止し、パーソナリティの偏りの「重症度」と「特定の領域の特性(次元的アプローチ)」で評価する新しいシステムへと大きく移行しています。
  • 診断基準の数: DSM-5-TRは「○○の項目のうち個を満たす」というように診断基準が非常に細かく数値化されているのに対し、ICD-10は文章による全体的な特徴の記述を重視する傾向があります。

 

・新しいパーソナリティ障害、精神科の病理的性格論の時代

 現在はICD-11という世界診断基準ができていますが日本では翻訳がちょっと関西弁で言えばわやなほどに遅れてしまって変な状態になっています。

 翻訳してそれを使いやすくした単行本サイズの手引きやガイドができてようやく現場に普及するのですがちょっとICD10を使うべきかDSMTRを使うべきかICD11を使うべきか現場が混在状態になっています。

 例えば日本の精神科の学会で病名?に障害という言葉を使わず症という言葉を使いましょうということになっているのですがICD10はが国家の公式な診断基準なので障害を使うか、学会の方針やDSMTRの翻訳で使われている症を使うかで混乱状態です。

 病名だけならいいのですが疾患概念や診断基準や分類ごと違う場合があるのでそれを使っていいのかどうかやや混乱状態が随所にあるようです。

 DSMでもディメンション型のパーソナリティ障害の診断基準を作るという話はあったのですがDSM5では一旦お流れになって流れている間にISDが先んじてパーソナリティ障害の診断基準を変えてしまいました。

 DSMICDは統一化を図る方向になっていたはずなのでDSM6ではICDに準じてパーソナリティ障害のディメンション診断が導入される可能性が高いです。

 「分類」という言葉はカテゴリーやカテゴライズで使われやすいと思われます。

 ディメンションで扱うのは大きな情報を扱うので取り回しが大変かもしれませんが情報科学やコンピュータやAIが発展している昨今にはこちらの方が向いているかもしれません。

 そもそも性格が科学的に扱いにくいのはカテゴリーでは扱いにくいからです。

 全ての人間がいくつかの性格に当てはまるのならカテゴリーでもいいのでしょうが、人間は多分多様な要素を持っていて単純な類型化は不可能なのでしょう。

 不可能だけども問題はあるので何とか医学や社会が対処しようと思ってむりかし10くらいのパーソナリティの類型をつくってつかっていたのですが(その他とか特定されないパーソナリティ障害は除く)流石に限界という感じです。

ICD-11におけるパーソナリティ障害(パーソナリティ症)の診断基準は、これまでの歴史のなかで最も劇的といえるほど「だいぶ変わって」います。

一言でいうと、従来の「タイプに当てはめる分類(カテゴリカル・モデル)」を完全に廃止し、「全体の重症度と、個人の性格特性の組み合わせ(ディメンショナル・モデル)」へと180度方針転換されました。

具体的な変更のポイントは以下の3つに整理できます。

1. 従来の「〇〇型」という下位分類がほぼ消滅

ICD-10やアメリカのDSM-5で馴染み深かった、以下の10種類におよぶ個別の診断名(下位分類)が、「パーソナリティ症」という1つの診断名に一本化されました。

  • 消滅した主な分類:自己愛性、反社会性(非社会性)、回避性、依存性、強迫性、演技性など
  • 唯一の例外:臨床現場でのニーズが非常に高い「境界性パターン(Borderline pattern)」だけは、補足的な指定子(特徴の記述)として例外的に残されました。

2. まず「重症度」から評価する仕組みに

新しい基準では、個別のタイプを見る前に、まず「本人や周囲がどれだけ困っているか、生活にどれだけ支障が出ているか」という全体の重症度を以下の4段階に分類します。

  • パーソナリティの困難(Personality Difficulty:病気(障害)とは診断されないが、日常生活で特定の性格傾向による生きづらさがあるレベル
  • 軽度(Mild:いくつかの領域で支障はあるが、社会的役割は概ね維持できている
  • 中等度(Moderate:多くの領域で人間関係や仕事に明確な支障が出ている
  • 重度(Severe:ほぼすべての領域で機能不全に陥り、自身や他者に深刻な危害が及ぶリスクがある

3. 性格の傾向を「5つの特性」で記述

重症度を決めたあと、その人の生きづらさが「どのような性格の偏りから来ているか」を、心理学のビッグファイブ(5大性格特性)に近い5つの特性領域(ドメイン)から当てはまるものを複数選んで記述します。

特性領域(ドメイン)

具体的な特徴

否定的感情(Negative Affectivity

不安、怒り、不信感、自己嫌悪などのネガティブな感情を抱きやすい

離脱(Detachment

他人との距離を置き、親密な関係を避け、感情の表出が乏しい

非社会性(Dissociality

他者への共感や配慮に欠け、自己中心的で、他者を利用・攻撃しやすい

脱抑制(Disinhibition

衝動的に行動してしまい、計画性がなく、目先の欲求を我慢できない

アナンカスティア(Anankastia

完璧主義、ルールへの執着、過度なコントロール(強迫性に近い)

なぜここまで大きく変えたのか?

従来のやり方では「複数のタイプにまたがって診断されてしまう(例:境界性であり、かつ回避性でもある)」という重複や、「どれにもぴったり当てはまらない」という問題が多く発生していました。ICD-11の新しい基準は、「グラデーション(度合い)で捉えるほうが、一人ひとりの実際の状態に合わせた柔軟な支援や治療がしやすい」という臨床的なメリットから導入されています。