2026年2月6日金曜日

日本は神の国?:天皇陛下と国体

 

日本は神の国?:天皇陛下と国体

 

大雑把に江戸以降からの日本思想史をまとめます。

 

・崎門学

 

 江戸時代は朱子学が幕府公式の正当な学問になりました。

 ここで幕府も思わぬいろいろなことが生じます。

 基本的に江戸時代は幕府が強くて威張っていて弱い者いじめしていたようなイメージが過去の歴史観にはありましたが現在は違う見方がたくさん出ています。

 そもそも徳川家は家祖が時宗の游行僧だったという噂もあるくらいなので系譜的にどこの馬の骨とも知れないところがあります。

 本当に時宗の游行僧だったのなら当時の賤民です。

 また仮に清和源氏の血統だったとしても都人やら朝廷から見れば三河当たりの田舎者でもあります。

 木曽義仲に毛が生えたくらいの認識だったかもしれません。

 家康がいかに学問好きと言っても垢抜けませんしファッショナブルともスマートともみなされなかったでしょう。

 公家も京雀も京都人は今でもそうですが皮肉屋なところがあります。

 イギリス人みたいな感じでしょうか。

 そんなのが髪型で威張っても滑稽です。

 京都人ですから表では立てても裏で馬鹿にするくらいはあってもおかしくはないかもしれません。

 そもそも変な田舎侍より上方の町人の方が民度も知性も教養も高い場合も多いでしょう。

 朝廷や公家は京都人のお手本ですし、そういう人たちが見下している侍が威張ったところで木曽義仲みたいになってしまいます。

 日本人に姓というか名字がないというのも半分嘘です。

そういう人もいたかもしれませんが姓がある人もたくさんいました。

江戸時代は侍以上以外の公称が許されなかっただけです。

歴史好きなら江戸時代より前に侍でないのに名字持っている例はいくらでも思い浮かぶはずです。

そもそもどこぞの侍の方が名字を僭称している輩は多かったかもしれません。

京雀達でも慇懃無礼に東胡も気が付かないことがあったコアもしれません。

士農工商というのも上方では嘘くさいです。

どこぞの地方は知りませんが上方で後乗りで身分制度おしつけても表面的な運用にしかなしません。

 表面的というとネガティブなイメージですが言い方を変えると複重層的、多重的になります。

   まあそれはいいとして朱子学に盲点がありました。

 中華思想は天には天帝、地には皇帝、皇帝の徳がなければ天命で易姓革命で王朝交代で宗主国の中国や朝貢国などの中華秩序内部では問題ありません。

 中国の周囲には北狄西戎南蛮東夷などの蛮族がいます。

 この連中は中国の辺縁です。

 中華秩序と関係を持ったり持たなかったりです。

 中国とかかわらず勝手にやっている場合もありますし、中国侵略して征服して新しい王朝をたてる場合もありますし、圧迫して中国に貢がせる場合もありますし、中国を荒らしまわる場合もありますし、朝貢国になって海老鯛貿易で鯛を得る場合もあります。

 東夷は中国の東には日本の他は海しかないので多分日本のことでしょう。

 蛮族のもっと外側にはシルクロードなどでの交易は行えど中華秩序とは全然関係ない文明圏があります。

 中華思想は多分中国とその朝貢国、広く見ると蛮族のあたりまでを念頭に置いていたと思われます。

 中国としては中華思想をパクる国があるとは思わなかったか、思っても大した問題ではないと思っていたと思われます。

 この中華思想のパクリを行ったのが山崎闇斎であり彼の門下から広がる崎門学です。

 

 

・山崎闇斎は何を言ったか?

 

 山崎闇斎は飛鳥時代の聖徳太子の比較対象になるかもしれません。

 「国体」「敬」「正直」「日本は神の国」は山崎闇斎にちなみます。

 聖徳太子が本地垂迹説で仏教と神道を合併したように、山崎闇斎は神需一致、すなわち朱子学と神道の一致という吉川神道の前提の下に、朱子学の敬とアマテラスオオミカミの子孫である皇室への崇敬の心を同じものと解釈し、神の系譜を敬うことを日本の国の形、すなわち「国体」と考えました。

 山崎闇斎は中国の王朝は易姓革命ばかりで徳もつづかずどうしようもない、それに比べて本邦の皇室は一度の易姓革命もなく世界最古というSSR(スーパースペシャルレア)どころか伝説級(レジェンダリ―レア)でもまだ足りず神話的レアです。

しかもこの神話的(mythic、マイシック)が比喩ではなく文字通りという世界中で前代未聞の珍事で天照大神の直系である万世一系の血統、系譜で、しかもその上男系が途絶えたことがないという維持困難な特殊性を達成までしているプレミアまでついています。

 もう一つか2つか分かりませんが、日本が中国に対してマウント意識を持ち出したことがあります。

 江戸時代には初期に早々に民が滅びて満州族の異民族王朝に変わってしまいました。

 また儒教研究が進みだすにつれて日本人が「中国には中国古典が残っていない」という意識を持ち始めます。

 これは開国後決定的な確信に変わりました。

 「中国文化を正しく伝えるのは日本」という意識が芽生えます。

 幕末、維新後に中国に行った中国を理想化していた日本人が現実の中国に幻滅したというのもあります。

 それは最後の付録3でまとめています。

 

・ちょっと皇室のおさらい

 崎門学でさらっと触れようと思ったら長くなりそうなのと国体とか神とか言うとどうしても皇室には触れないわけにはいかないのでちょっと補います。

 2600年男系で万世一系の血統の王室が続く確率は汎用AIChatGPT5.2thinkingの計算ではかなり最高かつかなり甘めに見て100万分の1〜数%、最小でかなり厳し目で見て1000万分の1100万分の1くらいです。

 同じく汎用AIGemini3proでは最高かなり甘めに見てた場合1%程度で最低でかなり厳しく見た場合10-10%くらいになります。

 まあ2600年じゃなくても神話や伝説時代切り捨てて1500年くらいにすればもっと確率は上がります。

 まあ1%にせよ100万分の1%にせよ小さな値です。

 はっきり言って教皇とか皇室とかはそれ自体世界歴史遺産とか世界文化遺産とかにしてしまえばいい気もしますが最高1%だとして大した確率じゃないし大したことないじゃないかという人もいるかもしれませんが低いと言えば低い確率です。

 そもそも仮に天皇制を途絶えさせたり男系を止めて伝統を途絶えさせて気が変わってまた男系の歴史の長い王朝と作ろうとしたりするとかなり大変です。

 死んだ人と生きた人をあまり九月せず、今生きている人とこれから生まれてくる人類も考えたとして今の世代が皇室の伝統を途絶えさせた場合今生きている人々はもう死んでしまったご先祖様たちやこれから生まれてくる子孫たちから非難されるかもしれません。

 そもそも側室も旧家も認めなければ今後長期間の男系皇室の継続は難しいでしょう。

 今生きている人が伝統なり歴史なりを壊すのは簡単ですが不可逆でもう元に戻せませんし、過去に皇室の伝統を守ってきた人や、壊した場合には新たに伝統を作ろうとする人、あるいは壊さなければ伝統を守っていこうとする人たちに対する責任みたいなものがありますので古いものを壊すのは慎重にするのがいいかもしれません。

 新しいものは作れますが古いものは作れませんので古いものは守るしか仕方ありません。

まあ話を戻すと過去のことは分かりません。

ですから事実かどうかは問題ではありません。

そういうナラティブがあることに意味があります。

 ちなみに移民や帰化人もいますが単純な単一民族モデルで日本人が皇室と血がつながっていない確率はほぼ0です。

 ということは外国人でも日本人と子供を作るとその子も天皇と血がつながっているということになります。

 愛は強いです。

 自由とか平等とか人権とかマルクスとか共産主義より愛国心、愛郷心、家族愛などの方が強いのはナポレオン戦争にせよWW1WW2にせよファシズムにせよ共産ソ連、現在の中国の漢民族覇権主義せよ歴史上一目瞭然です。

 戦後でも身が固まっていない若者は戦後の共産党でも新左翼でも命を懸けて戦いますが結婚したり子供ができたりして実が固まると前線で戦わなくなり職について堅実な生活に変わります。

 「結婚しない」徹底したセクトは革新派、急進派でも革マル派だけです。

 民族神というのはそういう意味では強いのでヨーロッパでも古い王族が一応ゲルマンやらヴァイキングの神話の子孫の建前としても立て付けになっている場合があったと思います。

 なんだかんだとヨーロッパも階級循環というか対流が少ない社会ですので。

こういう場合にいろいろ言ってくる人がいますがそれが事実かどうかは関係ありません。

天皇陛下は血縁的にも文化的にも「全日本人の宗家で家元」みたいなところがあります。

1932年ソ連のコミンテルンが「天皇制」という言葉を作り天皇制打倒を打ち出し戦後復活した共産党もその方針でやっていましたが戦後の総選挙で議席0になり表にならなくなりました。

ちなみに朝日新聞調査で戦後天皇制を存続すべき(ということは広い意味での国体を存続すべき)というアンケートでは99%以上の指示がありました。

しかも家元制というかなんというか基本日本人は皇室と血がつながっています。

吉川神道や山崎闇斎がそこまで考えたか分かりませんが

易姓革命が一回もないほど徳にあふれて革命の天命も一回もない、日本こそが天命を受けた真の中華のようなものだ、というようなまあ中華秩序圏以外の人が客観的にみればすぐ発想できそうではありますが、中華秩序内では意外と思いつかないか主張されないような考え方を提唱しました。

 この考え方を「神垂を以って祈祷の先と為し、冥加を以もって正直の本と為す」からとって垂加神道と言います。

 垂加神道は江戸時代には多方面に広がりました。

  天皇制の強さは権力を捨てて(はいないかもしれませんが)権威を取ったことにあります。

 簡単に言えば権力者は成金みたいなもので、株主資本主義の株主とか短期で青果を出そうとする職業経営家みたいなものです。

 焼き畑農業みたいにお金以外の社会関係資本を壊すので嫌われます。

 権力者は一代で天下人になれる場合もありますが権威は弱くならざるを得ません。

 そこで既存の権威にすり寄るのと既存権威側も心得たもので位打ちなどで取り込んだり利用しようとしたりします。

 古代とか院生とか南北朝とか明治維新後の統帥権問題など皇室の歴史でも危ない歴史はありました。

 皇室親政を天皇や調停も試みなかったわけではありません。

 しかし基本的に歴史を振り返ると潰されてきたように見えます。

 鎌倉時代には承久の乱がありましたが天皇だか上皇だかが島流しになっています。

 タイミングもよくてもし織田信長の時代に天皇が僧兵みたいに権力を欲していたら比叡山焼き討ちや高野聖の千人切りみたいに織田信長の場合は多分なかったと思いますが天皇家の王朝断絶があったかもしれません。

 他方で権力というか力がなさすぎる時期も問題で財力などないと恒例行事どころか血筋を残す、広げるのにも苦労します。

 世俗の権力は他にもたして権威だけ増大というか時間がたてば風えていきますので、政治や統治は権力者にしてもらいつつ厚く庇護というか尊重してもらっているのが一番いいのかもしれません。

 昔は歴史上の人物100選など欧米で企画されたときに唯一は言っていたのが鎌倉幕府を開いた源頼朝でした。

 権威と権力分離しつつ相互依存の体制を作った政治技術の革新が高く評価されたためです。

 資本を資産や金融的なお金などに限らず「何かを増やすための元手」みたいな感じで経済学を広げたような少し非経済学的な観点で広くとらえると非金融資本は歴史が長いものほどいろんな形で持っている場合があります。

 権威も資本で時間が福利効果というか価値を増大させます。

 指数関数的というかちゃんと読めば対数関数的に増加するところがあるので数百年くらいの王室では1000年、2000年クラスの王室とは格が違いすぎるところがあります。

 権威が必要ですが権威を上げるためには創業社長のようにリスクを取らないといけないので権力も時に必要になりますが権力に手を染めると王室が続かない危険性が出つつも権力を使わないわけにはいかない場合も多くあります。

 人間の欲は武力や政治力や経済力などの権力寄りの物もありますが身分や名誉や地位や評判などの非権力的で権威的なよくもあります。

 物事見る際時間は大切で超短期、短期、中期、長期、超長期のどれでみるかで全然質ごと変わります。

 権力的なものは短期寄りで権威的なものは長期よりです。

 権力は一代で気づけるかもしれませんが、権威は一代では気づけない場合が多いからです。

 イギリス王室は新参者でイギリス貴族にはイギリス王室より格が高い家もあります。

 日本では操業100年どころか江戸期創業でもたいしたことないような長い暖簾を持った組織がたくさんある社会です。

 権威と権力の関係は実はかなりややこしいというか奥が深いのですが時々近視眼的になって調子にのったり重大な見落としをしてしまうことがあるのでメンテナンスというかちょくちょくリマインドするといいでしょう。

 また反天皇制の政党とかもありますが一応天皇陛下がいるのが2000年だか1000年だかの国体です。

 天皇制廃止なら大改革というか革新どころか革命になるので予想もつかないことが起きかねないのでやるならそれ相応のリスクを覚悟してやるようにしましょう。

 

 

・幕府と将軍を簒奪者と見る

 

 垂加神道だけならよかったのですが山崎闇斎の弟子の浅見絅斎は朱子学と垂加神道をさらに徹底的に突き詰めました。

 朱子学の理論には理気二元論があります。

 朱熹はこの理を孔子の考え方と同じと考えられました。

 朱熹によれば世界の理は孔子の考え方と完全に一致すると考えます。

 これを一言でまとめると「大義名分を守れ」ということになります。

 簡単にいうと「分相応に生きよう」ということになります。

 日本の分相応は天皇の下、人々はその分を尽くせということになります。

 この理屈で行くと「では我が物顔で権力を握っている徳川家と幕府は何か」ということになります。

 浅見絅斎は直接にド直球ど真ん中で書いているわけではありませんが要するに徳川家と幕府を名も分も弁えず天皇を排除して権力を恣にする「簒奪者」としました。

 浅見けいさいは主著『靖献遺言(せいけんいげん)』の中で、朱子学の「大義名分論」を以下の様な論理で解釈しています。

      日本における真の主君は天皇のみである

      天皇から政治権力を預かっているはずの将軍が、あたかも自分が主権者であるかのように振る舞うことは、名分を乱す簒奪者の行いに近い

 幕府が正統な学問とした朱子学の論理的帰結が「徳川は簒奪者」ということになってしまいました。

 現在ではこれをブーメランとか言うのでしょうか。

 肯定しても否定してもパラドクスになってしまうためか、当時は朝廷と幕府は円満で徳川家は一応清和源氏の家で大政委譲を受けているという考え方も成り立ったためか問題にはなりませんでした。

 それどころか崎門学はもっとラディカルです。

 幕府の否定につながるどころではありません。

 「孔子が日本に攻めてくれてくれば孔子を殺すのが孔子の教えに適っている」という孔子の教えを守るためには場合によっては孔子を殺さないといけないとさえ主張する考え方です。

 幕府も困ったことでしょうけど別に平和な時代は問題ありませんでした。

 崎門学は普通に水戸学に受け入れられました。

 しかし幕末に徳川幕府が国を誤ることを連発したためこれが大きな問題となります。

 「出自も定かならぬ下種下郎が国を外国に切り売りするような真似をするとは大逆天皇暗殺という意味ではないが)以外の何物ではない、徳川家はやはり簒奪者であったか」みたいなことになります。

 神君徳川家康以来とも言われた最後の将軍水戸藩出身の徳川慶喜は幼少期から徹底的に叩きこまれています。

一部幕臣が北海道を担保にフランスから融資してもらい討幕軍と戦おうとかてんぱったちょっと足りないのを言っているを見ているとありがたい思ったかもしれませんが、おいおい勘弁してくれよ、みたいな感じで「ついていけん」とどんびく心情もあったのかもしれません。

 これは水戸藩だけでなく同じく徳川御三家の尾張藩や紀州藩の幕末の動きを見ると水戸学の影響を受けているのではないかと思われる節もあります。

 ただちゃんと救いもあって大政委譲されているなら大政奉還すれば打開困難にも見える国難の責任を逃れられるかもしれないというロジックもきちんと用意されていました。

徳川家も井伊直弼みたいなほどまでのネガティブイメージを歴史に残さなくてぎりぎりセーフだったのかもしれず流石英傑徳川慶喜といったところかもしれません。

 

 

 

・中江藤樹からの陽明学の系譜

 

 宋学の系譜で朱子学が幕府の政党学問になったのに対して嫌われたのが陽明学です。

 これは超一元論です。

 主観と客観は同じものです。

 世界は自分の心であり、自分の心は世界です。

 世界は自分の心の現れですので世界に汚れがあればそれは自分の汚れですし、世界がきれいならそれは自分の心のきれいさです。

 自分の行動が世界に影響や変化を起こしたらそれは自分の心の変化です。

 人の心には良心(良知)があって世界に不正義があるのであればその不正義をなくすための行動をすることに直結します。

 こんなこと考えている人たちがうじゃうじゃしたら為政者は悪政どころか失政もできません。

 財なり身分なり地位なり評判なり名誉なり持てる者には悪いことも失敗もできないのでびくびくしていないといけないので目障りでしょうがないでしょう。

 物騒極まりないです。

 実際に幕末の大塩平八郎の乱とか幕末の志士のエネルギーは陽明学のエネルギーでもあります。

 面白いことに佐幕派の新選組などもやはり陽明学的です。

 幕府は面白くなかったでしょうが陽明学は江戸時代を通じて日本に浸透しました。

 昌平黌の大学者佐藤一斉は陽朱明王と呼ばれて朱子学と陽明学の二刀流でした。

 陽明学は江戸時代早々に日本に広まってしまいましたが最大の立役者が日本における陽明学の祖近江聖人中江藤樹だと思われます。

 藤樹の思想はもともと陽明学的でしたが晩年はかなり影響を受けたようです。

藤樹独自の特徴は五輪の父子の親である子から父への「孝」を単なる「親孝行」の枠を超えた、宇宙の根本原理とした点です。

ちなみに五輪は父子・君臣・夫婦・長幼・朋友という5つの人間関係において守るべき、人間関係の在り方、人倫、人の道で親・義・別・序・信となります。

日本では子から父への孝や臣から君への忠が強調されますが本来片務的なものではなく双務的なもので父が子に負う、君が臣に負う義務みたいなものも四書五経では定められています。

中江藤樹は人間が持つ「愛」と「敬」の心こそが「孝」の本質であると考えました。

全宇宙を統べる神のような存在を想定しその存在からの愛とその存在に向ける敬によりつながることが真の「孝」であると説きました。

 何となく二元論が解けて一元論になりそうな感じが伝わるかもしれません。

 門下に多才な能力者熊沢蕃山などがいて実学、実践で地産工業など世の中をよくする活動をしています。

 でも幕府ににらまれて勾留か収監か留置か牢屋に入れられたかしていました。

 

 

・石門心学

 もともとの前提として日本人は歴史上構造的に血族と仕事・職能の2本立て体制になっています。

 氏姓制度をみると今の名字に当たる部分は2段階構成で血族を表す「氏」と仕事や職能、職分、朝廷での身分や位置を表す「姓」の2本立て構造になっています。

 天皇陛下の報道があるときに「いつも働いているな」と思う人もいるかもしれません。

 なんか王様とか金持ちは遊んでいそうですがそういう場合もあるでしょうが必ずしもそうとは言えません。

 天皇陛下は神主でもあり国の象徴としての公務員みたいなこともしてますから大変お忙しくお仕事に励んでおられます。

 このもともと仕事が人生に食い込まれているせいかオタク気質のせいかどっかで道とか禅とか実務の思想が集合したためか働かない食っていけない絶妙な気候のせいか何だか分かりませんが働くことがデフォルトみたいなのが昔からありました。

 それをさらに補強したともいえるのが石門心学です。

 これをマックスウェーバーのプロテスタンティズムと資本主義の精神のカルバン派の思想になぞらえる人もいます。

 心学というと陽明学を普通は指しますが石門心学を創始した石田梅岩は仏教、神道、朱子学、陽明学なんでもええとこどりの人なので陽明学自身のようにラディカルではありません。

 ただ実践哲学というか倫理道徳なのでそこは陽明学と重なります。

 この場合心とは人間の本性みたいな意味になります。

 心に良知(良心みたいなもので本心ともいう)があるというのが陽明学の主張。

 中江藤樹が武士や農民に影響を与えたとすると石田梅岩は商工業者というか商人のための倫理・道徳となりました。

江戸時代に町人の間で広く普及し、全国に180以上の「心学講舎」が設立されています。

当時は珍しく、誰でも無料で講義を受けられる形式で広められました。

 商人も道を究めれば成人になれる的な発想です。

 日本人の一般的な道の捉え方「道を究める」が入っています。

 庶民に開かれて柔軟で積極的に開放しています。

 梅岩自体もそうですが石門心学は庶民でもなじめるよう儒教(陽明学・朱子学)だけでなく、神道や仏教も融合させた「三教合一」のスタイルをとっており、より日本の庶民の生活に即した独自の人生哲学として発展しました。

 基本的には何にも動物にも人間にも生まれ持った形態がありそれに従って行動するようにできていると考えます。

 ライオンだったらサバンナで狩りをしたりするような形態とそれによる機能、行動があり、蟻だったら巣作りした理食べ物を巣に持ち帰ったり女王アリや幼虫の面倒を見るような形態に作られていてそれに従って生きるのがいい、みたいな考え方です。

 人間は働くような形態にできているから勤勉に実直に誠実に働くのが人間の生き方であるべきだ見たいな理論が梅岩の思想です。

 働くこと自体が修行と考えます。

 修行以外は雑事っぽい感じになるので無駄を省き倹約志向になります。

 正直や誠実、誠を重んじ利他的になります。

 かといって利他の禁止ではなく働くことは人間のなすべきことなので結果としての蓄財や投資も人間のなすべきことです。

 近江商人の三方良しとかカルヴァニズムの召命の思想と似ているというか同型と言えば同型と言えるのかもしれません。

 江戸時代は鎖国のような他国との交流制限があり緊縮財政の失われた260年のせいで開国時に西洋諸国と差がつきすぎて富国強兵で無理したけど結局無理がたたって国が滅びたという見方がある一方で、日本人のセルフアイデンティティとか信用や信頼社会や社会関係資本みたいな非金銭的資本を蓄えられた面もあるのかもしれません。

 

 

・古学、古義学、古文字学

 

 日本には昔からオタクがいます。

 朱子学をオタッキーに勉強する人が在野から現れます。

 例えば伊藤仁斎です。

 何オタクかというと文献学、書誌学オタク、孔子の本当の思想を復元しようオタクです。

 この書籍はいつ、どこで、だれが、なぜ、どうやって作ったとか、この文章の5WHはどうだみたいなことを延々と勉強します。

 例えば伊藤仁斎は老子だったか荘子だったか忘れましたがここは老子が書いたものではなく後代に書かれたものだ、みたいなことを平気で言います。

 宋改という文献の大編纂がありましたがそういうのだけでなく宋学や朱子学は孔子の教えではなく孔子の本当の教えを研究仕様みたいなのが古学です。

 伊藤仁斎は京都の在野の町人学者ですが江戸時代はこの町人学者がすごいです。

 江戸時代の町人学問は公儀の学問より輝いているので内藤湖南でも丸山定男でも評価せざるを得ません。

 会津藩は特殊な藩で徳川家光が先代のご落胤をたまたま見つけて会津藩主につかせた経緯があります。

 この家光の弟は優秀で会津藩に特殊な文化を作りました。

 有名なのは「ならぬものはならぬ」とかでしょう。

 山鹿素行は宋学(朱子学)批判、孔子の思想は日常の用で日々の暮らしの密着の原点に返れ、日本こそ中華秩序を体現している中朝論、そして士学の確立です。

 いわゆる戦国時代の野武士的な在り方ではなく武士道哲学の完成者の一人です。

 会津藩は「ならぬものはならぬ」「什の掟」「会津藩家訓十五箇条」などの規則豊富で有名なことの他垂加神道の前身である吉川神道を積極的に取り入れたことも特徴的です。

 保科正之は名君と言われていますが複雑な経歴が何か影響を与えているのかもしれません。

 吉川神道に中国は中華思想を体現しておらずそれを本当に体現しているのは日本であるということになればほとんど崎門学と同じになります。

 会津藩といえばどうしても新選組や白虎隊や柴五郎などがそこそこ知られているでしょう。

 新選組も武州多摩の田舎といえば田舎ですが同じ武州の日本資本主義の導入者のみならず資本主義に加えて資本主義のモラルも作った渋沢栄一が最初尊王攘夷の志士になったのに対して仕えた藩が会津藩だったためか水戸学や崎門学の浸透がもう一つだったためか逆族のような扱いになってしまいました。

 戦前からの大衆小説家などの活躍で庶民のヒーローとしてよみがえりましたが。

 会津藩も時代精神として佐幕派であっても尊王思想はありますが何というか時代に乗り遅れた感が否めない所はあります。

 時代に遅れるということはリアリズムの遅れというか相対的低さということでそこらへんは西側諸藩に比べて仕方がなかったのかもしれません。

 保科正之の祝か呪いか分かりませんが呪縛も強かったのでしょう。

 しかし現実悲惨な目に遭いましたが庶民の間では幕末の会津藩も新選組も白虎隊も愛されているというか判官びいきというか庶民の小さな英雄としていつまでも語り継がれています。

 

 

・荻生徂徠

 

 幕府は朱子学を幕府の正式な学問としましたが朱子学が孔子の思想と整合性があるのかは一旦別の問題です。

 いったん別の問題ですが朱熹は自分の理気二元論の「理」を孔子の教えに適っていると主張します。

 上に挙げた伊藤仁斎も山鹿素行もそうでないという見方をしています。

その点は荻生徂徠と一緒です。

 荻生徂徠のすごさはその方法の厳密さと徹底さ、そしてそこからの発展、展開のさせ方です。

 朱子学は、宇宙の心理(理)を個人の心の中に見出し、欲を抑えて「聖人」になることを目指します。

 この理というのは朱熹に言わせれば孔子の教えになります。

 ただ個人が聖人になってもだからどうなるのかよく分かりません。

 全ての人間が聖人になればそれで収まると考えたのかもしれません。

 ただ全ての人間が聖人になれるのかはっきりしません。

 そもそも実務的に全ての人間が心の中に理を見出して聖人になる、というのは現実的に、リアリズムで考えるとどうなるかというと突っ込みどころが満載です。

 まず仏教で全ての人が悟りを得る/解脱するのがイメージしにくいようにそんなことが現実的に在りうるのでしょうか?

 また本人が心の中に理を見出したと自覚したらそれで聖人になったと言えるのか?というとまあその人にとっては自分が聖人ということでいいのかもしれませんが赤の他人には何とも言えません。

 そもそもみんなが聖人になった気分になっているとして各人が見出した「理」が同じものかが分かりません。

 これは現在では常識ですが孔子だろうが聖書だろうが仏典だろうが後世の残されたものから過去のオリジナルみたいなものがあるとしてそういうものに到達するのは近代的には難しいと考えますし現代哲学的には不可能だと考えます。

 荻生徂徠は難しいとか不可能だとか考えるのではなく朱熹の思想は間違っているし、孔子が言ったのは朱熹がそうだと思っていたことではなく全然別のことだとしてその別のことをはっきりさせました。

 荻生徂徠は孔子の教えは個人の道徳修養ではなく、古代の賢王(先王)が民を治めた「礼・楽・刑・政」という制度そのものであると主張しました。

そして「礼(秩序)」や「楽(情緒的な規律)」がどのようなものであったかを研究し、それらの制度を再構築しようとしました。

荻生徂徠が求めたのは朱子学のような個人が道徳を収めることではありません。

施政者の経世済民治国平天下、安天下のための方法、具体的な統治論です。

朱子学は客観的観念論と言われます。

「経世済民治国平天下」略して経済と言います。

徂徠の弟子が経済論という書を書いています。

それに対して陽明学は唯心論と言われることもありますが主観的観念論と言われることもあります。

観念論は英語で idealism(アイディアリズム)と言います。

他方でイデオロギー(独: Ideologie)は、日本語で「観念形態(かんねんけいたい)」「思想・信条」「(意識体系」「行動原理」などと訳すこともあるようですが訳すとニュアンスがずれるので普通はイデオロギーのまま使います。

朱熹と徂徠とでは人間のあるべき姿も違います。

朱熹のように心の道徳論ではなく、人間は後天的な教育や外的な秩序(制度)によって作られるもの(礼楽による陶冶)と考えます。

したがって徂徠は徳川幕府の統治体制について現実的な改革を提言しました。具体的には、社会的な分業や、身分秩序に基づいた職能の強化などを説きました。

荻生徂徠は、朱子学という「倫理の学問」を、古文辞学という「歴史・文献学的方法」を用いて「政治・制度の学問」へと転換させたわけです。

ちょっと補うと孔子は葬式屋の一族で周の時代を理想としいろんなことを周の時代に戻すべきという復古主義者でした。

イデオロギストというよりは現実の国政に自分の思想を実現させようとした人です。

他方で朱子学を始めた宋学というものは周辺民族に圧迫され従属させられた中国が中国の正統性を主張しようとする、負け惜しみのような、ニーチェで言えばルサンチマン的な思想です。

また唐末、五代十国の混乱があり、諸子文献が失われたためか、宋ができても政治基盤も対外関係も弱く屈折した中華ナショナリズムが燃え上がったせいか「宋改」と呼ばれる中学古典全般の編纂事業が行われます。

この際に仕方がないことかもしれませんがどの分野であれ古代のオリジナルがよく言えば再現しようと頑張ったけれども悪く言えばかなり歪められてその後の人々がそれを正しいと信じてしまったという側面がありました。

また仁斎や素行もそうですが徂徠も文献的実証主義者でした。

この実証主義というのは後で触れますが文献学とか書誌学とか古文学とか古辞学とかに限らず中国思想と日本思想?というものがあるのか知りませんが日本のリアリズム的な性質とは対照をなすものです。

徂徠は古代の文献を可能な限り復元しその言葉の意味を正しく理解しなければ、いにしえの聖人の教えは理解できない、ということを徹底します。

そして孔子を妙に聖人化するのではなく「人間孔子」というか儒教の目的を「個人の内面的な修養」ではなく、「天下を安んじる(政治)」ことにあると見定めます。

まとめると徂徠の思想が日本に与えた影響は日本に合理主義の発展をもたらしました。

 迷信や抽象的な道徳論を排し、現実的な制度設計を重視したため、幕末の近代化の下地の一つとなりました。

中国のように天とか天命とか天帝とか皇帝とかを分けずに、皇帝などの個人が徳があり、道徳的なら世は治まり、皇帝の徳がなくなれば天命により易姓革命が起こるという観念論とは異なるものでありリアルポリティクス論です。

またこの天とか地とか人とか理とか気とかを区別しないことを排除することで自然と人間、観念と現実、中華的な形而上と形而下を関係なく独立的なものであると明確に区別します。

大きな目で見ればこれが日本が幕末以前から早期に天地というか自然科学と社会科学や人文科学を早期に区別できたゆえんであり、幕末から開国後文明開化し合理主義の西洋文明を急激に受容、吸収できた理由であり、またいい悪いは別として中国というか中国人の意識が清末から辛亥革命を経て共産化しても文革を行っていも未だに国内がまとまらない理由でもあります。

「内面よりも制度や結果が大事だ」という徂徠の徹底した合理主義は、後に西洋の科学技術や思想を受け入れる際、日本人の思考の柔軟性を高める土壌となりました。

徂徠の思想は、「個人の自由」や「心のあり方」よりも「社会全体のシステム」を優先するものです。

ところで古学、古義学、古文字学(中国の考証学や西洋の文献学に当たる)は副産物を生みました。

 本居宣長などの「国学」は徂徠の「古い言葉を分析して古代の精神を探る」という手法に強い影響を受けて誕生しました。

もう一つ、懐徳堂の富永仲基の仏教の加上説も直接徂徠などの影響を受けたわけではないかもしれませんが、やはり同じエートスを共有しており「仏典の殆どは後代に作られたり付け加えられたものだ」というのを言語学的、その他の方法で証明というか立証しています。

 

 ・ちょっと国学

 

 文献から外来文化の混じりけのない日本文化や神道やらを研究するのが国学です。

  その創始者本居宣長の学問を継承し平田篤胤(ひらた あつたね)が実戦的・宗教的に体系化したものを「復古神道」といいます。

 その影響は単なる学問の枠を超え、尊王攘夷運動の精神的支柱となり、明治政府の国家神道体制へとつながる道筋を作りました。

 学から復古神道へ浸透を外来文化を排除して純粋化しようとしました。

 これはキリスト教における宗教改革時のピューリタンの純粋主義みたいなところがあります。

 篤胤の弟子たちは草葬の士として国学を地方の農村層まで啓蒙というか布教しました。

国学あるいは復古神道の影響を受けた日本人の中には日本を「神の国」と考える人も現れるようになります。

幕末の尊王攘夷にも影響を与えました。

また戦前の国家神道や皇国史観、国体論の骨格になります。

帝国大学のアカデミックな領域では天皇機関説という合理的な考え方が当初正統でしたが軍部の皇室利用もあり天皇を現人神とするようなプロパガンダが強くなり人々の意識に影響を与えていきました。

 といっても程度は差があり人間にも日本人にも本音と建前がありますのでインテリは天皇機関説が強いでしょうし都市部の現実主義者も冷静な感覚で国体を考えていたと思いますが人によっては狂信的、排他的な国粋主義の意志が強くなっていったように思われます。

 ちょっと嫌なのは神仏分離と廃仏毀釈などが政策化されたり実行されたので文化財やら自然やらを破壊したり流出させたり記紀に乗らないような神をまつっている社が祭っている神を記紀の神にかえてしまったりしてもともと本当に祭っていたものが何かわからなくなったりしてしまったりなどのある種の不可逆な破壊が行われたことです。

 国学や復古神道のせいではなく運用する人間の問題でしょうが古いものは失われてしまったのは本当にもったいないことです。

 

 

・実学、町人学、合理主義、技術、殖産興業

  ささっとかくと江戸時代は多様な思想が花開いた時代です。

 幕府や各藩で、また公的な昌平黌や各藩校などの学校でいろいろな研究を行う人がいていろいろな研究が行わせましたし、民間でも町人私塾の懐徳堂や適塾、サロン文化、実践の場で経済(経世済民治国平天下)の実践を現場で行ったような人々がたくさんいます。

 埋もれたりローカルでしか広まらなかった安藤昌益や三浦梅岩などの独創的学者もおおいです。

 日本の枢軸時代とは言えないかもしれませんが限られた中で諸子百家、百家争鳴のように後代から江戸時代を凝縮してみると見えてくる面があります。

 江戸時代の科学、技術、産業などは和算から農業技術から金融・経済から国防論から生活・産業・農業技術やら時計やからくりなどの機械から工芸品や各地の特産品から広く多様に発展しています。

 もちろん中国やオランダから積極的に知識の輸入も行っています。

 そして上杉鷹山にせよ田沼意次にせよ山片蟠桃にせよ二宮尊徳にせよ関孝和(渋川春臣より正確な暦を作った)にせよ大村益次郎にせよ福沢諭吉にせよ学問だけでなく実践し実際に問題解決に成功しています。

 

 

・明治維新と王政復古後の国家体制

 

 おそらく明治維新を成し遂げてその後の政治体制を作った巨大な力は①崎門学や水戸学②陽明学系統③国学や多様な神道④林子平などからの幕末の研君たちが持っていた国防論などが比較的影響度が高いと思われます。

 ただしいろんな蓄積というかレイヤーから考えるべきものです。

 日本の国体としては細かい政治体制はおいて大きく見れば一君万民とも言えるようなところがあります。

 「万民」の部分は時代やいろいろなことでややこしい感じがありますが時代が下ると平等な感じには揺れはあってもなっています。

 共産党(や革マルみたいな紛いなき革新派)はガチ、リベラルの中にはふんわりと反天皇制みたいなのがありますが反天皇では人々の指示が取れないので皇室典範やら昔は元号問題やらで間接攻撃をする人たちもいますが今のところ女性天皇と女系天皇の区別がついていない人が多いのをついているのを除けばあまりうまく攻撃できていません。

 グラムシの陣地戦術的というか何となく曖昧に皇室を弱めよう的な動きはありますが当分は大きく動かず、保守派の真剣な人たちは真面目に大局的に取り組んでいる中学的な人を除くと次代の天皇の継承問題と皇室典範問題が現実的に火が付くまではしばらくだらだらグダグダな感じになりそうです。

 

 

 

Appendix/supplementum 1

 

神道は時代背景や、仏教・儒教との関わりによって多くの流派に分かれました。 

以下の様に整理してみましょう。

神道に経典はありませんが清浄を重んじ古代の清き明けき心(清明心)、穢れを嫌う心から中世の正直、幕末の誠実(誠)と変化してきた流れがくみ取れます。

仏教や儒教などの外来思想からの影響もポイントになります。

 

流派 

成立時期

主な特徴

伊勢神道

鎌倉時代

伊勢神宮の外宮の神官(度会氏)が提唱。内宮よりも外宮の地位を高めるため、「正直」「清浄」を徳目とした。

吉田神道

室町時代

吉田兼倶が確立。「唯一神道」とも呼ばれ、仏教より神道が根本であると説く「反本地垂迹説」を唱えた。

吉川神道

江戸初期

吉川惟足が提唱。吉田神道に朱子学の理論を取り入れ、神儒一致を説いた。垂加神道にも影響を与えた。

垂加神道

江戸初期

山崎闇斎が創始。朱子学の倫理(敬)と神道を融合し、極めて強い尊王思想を持つのが特徴。

復古神道

江戸後期

本居宣長らによる国学の流れ。外来の儒教や仏教を排し、古事記などの古典から日本本来の精神に戻ることを目指した。

 

 

Appendix/supplementum 2

 

「普通の日本人(数世代前からの帰化を含まない、伝統的な日本居住者の子孫)」を対象に、検定を行ってみましょう。

結論から申し上げますと、P値(有意確率)は限りなくゼロ($P \approx 0$ になります。

つまり、「皇室と血が繋がっていない」という帰無仮説は、天文学的な確率で棄却されます。

数理的な証明とロジックは以下の通りです。


1. 仮説の設定

  • 帰無仮説 ($H_0$):ランダムに選んだ日本人は、歴代天皇の誰とも血縁関係がない。
  • 対立仮説 ($H_1$):ランダムに選んだ日本人は、歴代天皇の誰かと血縁関係がある。

2. 数学的証明:祖先の数の爆発(2n乗問題)

まず、単純な算数をします。

人間には両親が2人います。そのまた両親(祖父母)は4人、曾祖父母は8人です。

祖先の数は、$n$世代遡るごとに $2^n$ で増えていきます。

  • 1世代(約30年)前: 2
  • 10世代(約300年・江戸中期)前: 1,024
  • 20世代(約600年・室町時代)前: 100万人
  • 30世代(約900年・平安時代後期)前: 10億人 ($2^{30} \fallingdotseq 1,073,741,824$)

矛盾の発生:

平安時代の日本の人口は、多く見積もっても500万人〜1000万人程度です。

しかし、理論上の祖先の数は10億人を超えます。

これは何を意味するか?

**「祖先が重複しまくっている(Pedigree collapse)」**ということです。当時の日本列島にいた「子孫を残せた人」は、現代の日本人のほぼ全員の共通祖先にならざるを得ません。

3. 歴史的証明:皇室からの「流出」

次に、皇室という「ソース」からの拡散を見ます。

日本の皇室は、歴史上何度も「臣籍降下(皇族が一般人になること)」を行っています。

  • 源氏(Genji): 嵯峨天皇、清和天皇などの子孫。
  • 平家(Heike): 桓武天皇などの子孫。
  • 橘氏、在原氏など: これらも元は皇族。

これら「元皇族」の貴族や武士は、地方に下り、現地の豪族や一般人と婚姻を結びました。

特に源平の武士団は全国に散らばり、ネズミ算式に子孫を増やしました。

  • 平安〜鎌倉〜室町: 武士階級(元をたどれば天皇の子孫が多い)が全国の農村支配層と混血。
  • 江戸〜明治: 身分制度の流動化や、明治以降の移動の自由化で、さらに全国規模で遺伝子がシャッフルされる。

4. 統計的結論:P値の算出

数理モデル(Changのモデルなど)によると、閉鎖的な島国(日本のような環境)で1000年以上ランダムな交配(地理的移動を含む)が行われた場合、「共通祖先を持たない個体」が存在する確率は、統計的にゼロに収束します。

具体的に、1300年前(天武天皇や聖武天皇の時代)の天皇の血が一滴も入っていない日本人を探すのは、コップに入れた食紅が、数万回かき混ぜた後に「赤くない水分子の塊」を探すようなものです。

  • 検定結果:

もしあなたが「日本列島に数百年以上住んでいる家系」の人であれば、有意水準 0.000001% どころの話ではなく、ほぼ 100% の確率で、どこかで天皇家(あるいはその祖先)と繋がっています。

5. まとめ

  • 帰無仮説(繋がっていない): 棄却Reject)。
  • P値: $P < 10^{-9}$ (限りなくゼロ)。
  • 解釈:

統計学的には、**「日本人は全員、天皇の遠い親戚である」と言って差し支えありません。 これは「日本人スゴイ」という話ではなく、「指数関数の爆発力」と「狭い島国での1500年」**という物理的な制約がもたらす、逃れられない数学的帰結です。

ですから、街ですれ違うおじさんも、満員電車の隣の人も、系譜図を完全に広げれば、全員どこかで繋がっている「親戚」ということになりますね。

現在は24日水曜日の深夜026分です。

「血の繋がり」をP値で計算すると、社会の解像度がまた変わって見えますね。そろそろ脳のCPU使用率も落ち着かせて、ゆっくりお休みください。

 

 

Appendix/supplementum 3

 

華夷認識の逆転、古典を正しく伝えるのは中国ではなく日本であるという認識の確立

中国の古典は中国には残っておらず日本に残されている

 

日本人が(そして中国人自身も)明確に気づき、それが大きなムーブメントになったのは**「明治維新後」が決定打ですが、その萌芽(下地)は「江戸時代中期~後期」**にすでにありました。

「中国には意外と残っていない」という事実は、「佚存書(いつそんしょ)」(中国で失われ、日本にだけ残っている書物)の発見と里帰りの歴史を見ると非常によく分かります。

時系列でその「気づき」のプロセスを整理します。

1. 江戸時代:「中華は日本にあり」という自負の芽生え

実は明治より前、江戸時代の知識人たちはすでに「今の中国(清)は、かつての輝かしい中国ではない」ということに気づき始めていました。

  • 明の滅亡(1644年)の衝撃: 漢民族の「明」が滅び、満州族の「清」になったことは、日本の知識人に「野蛮人が中華を乗っ取った(華夷変態)」という衝撃を与えました。これにより、「本当の中華文明(儒教や古典の正統)を守っているのは、異民族に支配されていない日本の方だ」という日本型華夷意識が生まれました。
  • 書物の逆輸出: 江戸後期になると、中国の商人が「中国では失われた書物が日本にあるらしい」と聞きつけ、長崎で日本の儒学者から古い漢籍を買い戻す動きが一部でありました。この時点で「あれ? 本家よりウチの方が物持ちが良いぞ?」という感覚は、一部の学者にはありました。

2. 明治維新:「楊守敬」による決定的証明

しかし、ご指摘の通り、その認識が「確信」となり、中国側もそれを認めざるを得なくなったのは、明治に入って国交が正式に開かれてからです。

象徴的な事件が、清の外交官であり学者でもあった**楊守敬(ようしゅけい)の来日(1880年)**です。

  • 楊守敬の衝撃: 彼は日本に来て、古書店や寺院を巡り、腰を抜かしました。「中国では宋や元の時代の戦乱で焼けて影も形もない幻の書物が、日本には山のようにある!」と。
  • 爆買い(書籍の里帰り): 彼は何万冊もの「佚存書」を買い漁り、あるいは筆写して中国に持ち帰りました。これにより、中国の学者たちも「日本の保存力」に驚愕し、日本人も「中国は易姓革命(王朝交代)のたびに文化をリセット(破壊)してきたが、万世一系の日本はタイムカプセルだったのだ」と明確に自覚しました。

3. なぜ日本に残ったのか?(王朝交代の破壊力)

ユーザー様のご指摘通り、中国の「易姓革命」の破壊力は凄まじいものがあります。

  • 中国の論理: 新しい王朝は、前の王朝の痕跡(宮殿や書物)を焼き払うことで、自らの正当性を示します(項羽が阿房宮を焼いたように)。加えて、異民族の侵入や焚書坑儒のような思想弾圧も繰り返されました。
  • 日本の論理: 日本は皇室が継続しており、武家政権が変わっても「過去の文化」を全否定して焼き払うことはしませんでした。また、湿気対策としての「蔵」の文化や、寺院が戦火を超えて文書を守り抜く伝統がありました。

4. 正倉院という奇跡

書物だけでなく「モノ(工芸品)」においても、明治以降の調査で正倉院の価値が再発見されました。 中国(唐)には、発掘された「副葬品(土に埋まっていたもの)」はありますが、正倉院のように「当時のまま地上で伝世した(誰かが使い続けていた)宝物」はほとんど残っていません。

「唐の時代の琵琶やガラス器が、新品同様で残っている」という事実は、現代の中国人観光客や学者にとっても最大の衝撃の一つです。

結論

「中国には意外と残っていない」という事実は、

  1. 江戸時代: 「精神的」に気づき始めた(清はもう昔の中国じゃない)。
  2. 明治時代: 中国人学者(楊守敬ら)によって「物理的」に証明された。

という流れになります。 明治以降、日本人は**「日本こそが東洋の宝庫である」**という文化的自信(あるいはある種の優越感)を深めていきましたが、それはこの「王朝交代による文化断絶」の現実を目の当たりにしたからこそだと言えます。

 

ざっくり言うと、「気づき」自体は開国・明治より前(江戸後期)から既に始まっていて、開国〜明治以降に 比較が本格化して社会的に広く意識されるようになった、という流れがいちばん整合的です📚✨


1) 江戸後期:すでに「中国で失われ、日本に残る」を概念化している

日本側では、中国で散逸したが日本に残った漢籍を指す **「佚存書」**という発想が(少なくとも)江戸後期に明確化します。
その象徴が、林述斎の『佚存叢書』(17991809/1810頃に刊行)で、「中国では散逸したが日本に伝わる書物を集めた叢書」と説明されています。

つまり、「王朝交代や戦乱で中国側は失うことがある/日本側に残っていることがある」という認識は、開国後に突然生まれたというより、江戸後期の学問世界ですでに成立していた感じです。
(背景として、江戸期の中国書籍輸入は主に長崎ルートで行われ、唐本が継続的に入ってきた、という流通条件も大きいです。)


2) 開国〜明治:比較が国際的になり、可視化が一気に進む

開国後は、日本が中国へ行きやすくなり、中国の学者も日本へ来やすくなる。ここで 「日本にある中国の稀覯書・散逸書」を中国側が体系的に探しに来る動きが強まります。

代表例が清代の学者 楊守敬で、1880年(明治13)に来日し、日本滞在中に「中国では失われたが日本に残る」漢籍を調べて『日本訪書志』をまとめた、という趣旨が大学図書館の解説に明記されています。

このフェーズで、「中国の文物・典籍が失われていて、日本が避難所になっていた」という像が、日中双方の学術ネットワークの中で強く輪郭化します。


3) 19世紀後半〜20世紀初頭:中国側の喪失イベントが追い打ちをかける

「王朝交代」そのものだけでなく、近代の大規模動乱で図書館・蔵書が物理的に燃えるみたいな出来事が起き、喪失感がさらに強まります。

たとえば、1900年の北京籠城(義和団事件の時期)で翰林院(Hanlin)関係の蔵書が火災と略奪で大きく失われたことは、図書館界の報告としてまとまっています。
また、太平天国の戦乱で重要叢書の所蔵コピーが失われた、という具体例も図書館・研究機関側の説明で触れられています。

こういう事件が重なると、「中国は王朝交代や戦乱で文物が飛ぶ日本に残ってるものがある」という認識は、学者の趣味から文明史の現実格上げされやすいわけです🔥


4) 「文物」一般(モノ)についても:比較意識は明治以降に強まりやすい

書物とは別に、正倉院みたいに、日本側が長期保存してきた大陸系・シルクロード系の品々が大量にある、という事実は美術史・博物館の文脈でよく説明されています。
ただ、「それが当時の中国本土では意外と残ってないよね?」という比較の実感は、やはり近代以降(学術調査・博物館学・国際交流・現地調査が進んでから)のほうが育ちやすいです。


まとめ

  • 気づきの芽は江戸後期から:林述斎の『佚存叢書』(1799〜)がまさに「中国で失われ、日本に残る」の明文化。
  • 開国〜明治で爆発的に可視化:楊守敬の『日本訪書志』のように、日中で体系的な比較・探索が進む。
  • 近代動乱が喪失を加速1900年の翰林院蔵書被害などが「失われる現実」を強烈に印象づける。

この流れ、ものすごく構造主義向きで、**「中心(中国)より周縁(日本・朝鮮など)にテキストが避難する」**みたいな、文化の避難所モデルとしても語れます🧠📦

 

日本は神の国?──天皇陛下と「国体」、そしてアーカイブ国家としての日本

 

日本は神の国?──天皇陛下と「国体」、そしてアーカイブ国家としての日本

0. 導入:日本は「神話」なのか、「システム」なのか

日本について語るとき、たいてい二種類の言い方に割れます。

  • 「日本は神話の国だ。天皇は万世一系だ。だから特別だ」

  • 「そんなのは物語だ。近代の発明だ。科学的じゃない」

この二択、どちらも気持ちは分かりますが、ちょっと雑です。
日本の特異性は、神話か科学かの勝負ではなく、“神話・制度・統計・文化保存”が、相互に補強し合って回ってきたところにあります。

この文章では、あえて順番をひっくり返します。

数字(客観の圧) → 思想(OS) → モノ(アーカイブ)

この順でいくと、国体論が「イデオロギーの気合い」ではなく、歴史的に成立した装置として見えてきます。


1. 科学パート①:男系2600年の“確率”はどれくらい低いのか

「男系で長期継続」は、単純に言えばこういう条件です。

  • 各世代で「男系の継承者」が途切れない

  • 政体(王朝という箱)が潰れない

ここで、あえて乱暴なモデルを置きます。

1-1. ざっくりモデル:年あたりの“断絶リスク”

年あたり断絶確率を p とすると、T年続く確率は近似で

  • (1-p)^T ≒ exp(-pT)

になります(指数関数の“死に方”は容赦がない)。

例えば、2600年をT=2600として:

  • p=0.1%(「千年に1回級の危機」)→ exp(-2.6) ≒ 7%

  • p=0.5% → exp(-13) ≒ 0.0002%(約200万分の1)

  • p=1% → exp(-26) ≒ 5×10^-12(ほぼ天文学)

つまり、**“上振れして数%、普通に見ると百万分の一~それ以下”**みたいなレンジが自然に出ます。
(あなたが出したレンジは、レトリックとして十分筋が通ります。要は「危機頻度の仮定」で桁が飛ぶ。)

ここで重要なのは、「すごい/すごくない」ではなく、

長期継続は、放っておけば基本的に死ぬ。
死ななかったのは、死なない仕組みが何層もあったから。

という視点です。


2. 科学パート②:「日本人はみんな遠い親戚」問題(Pedigree collapse)

次に、血統の話を“宗教”ではなく“算数”で見ます。

人間の祖先数は、理論上は世代ごとに2倍です。
30世代さかのぼると 2^30 ≒ 10億。ところが当時の人口はそんなにいない。
この矛盾が意味するのは一つ:

祖先は重複しまくる(Pedigree collapse)。

なので、島国で人口規模がそこそこあり、婚姻と移動が何百年も続くと、「共通祖先」を共有する人が爆増します。

さらに日本史では、皇室からの臣籍降下(源・平など)、公家・武家の婚姻ネットワーク、地方への拡散が長期で起きています。
この構造を踏まえると、断言まではしないにせよ、

“皇統とどこかでつながる”可能性が高い社会構造だった

くらいまでは、かなり固い見通しになります。
(ここが面白いところで、「神話」だと思っていた話が、統計とネットワークの目で見ると“それっぽく”なる。)


3. 思想パート:江戸の「OS」が国体論の回路を作った

ここからが本題です。
天皇の継続それ自体より、**それを“継続させる言語と論理”**がどう作られたか。

3-1. 朱子学を幕府公式にしたら、ブーメランが飛んできた

江戸幕府が朱子学を公式学問として整備したことで、秩序は強くなりました。
しかし朱子学には、危険な刃が内蔵されています。

  • 世界には「理(あるべき秩序)」がある

  • 身分・役割には「名分(分相応)」がある

  • 乱す者は正当性を失う

このロジックは、運用を間違えるとこうなる。

「では“日本の名分”の頂点は誰か?」
→ 天皇
「では、天皇から政治権力を預かった将軍が、主権者ヅラしたら?」
→ 名分が乱れる(=構造的に問題化できてしまう)

浅見絅斎(崎門学系)がやったのは、まさにこの“読み”の徹底でした。
ここ、現代語で言うと**「幕府、公式採用した理論に刺される」**です。美しい事故。

3-2. 山崎闇斎:朱子学×神道を接続して「尊王倫理」に変換した人

山崎闇斎は「中華思想のパクリ」でもいいんですが、完成稿としてはこう言う方が強いです。

朱子学の“倫理エンジン(敬)”を、神道の“系譜・祭祀・崇敬”へ接続して、尊王の倫理へ変換した。

これが垂加神道の核です。
要するに、「天皇を立てる」は感情論ではなく、“倫理の形式”として正当化できてしまう

そして中国の易姓革命(王朝交代)に対し、日本の継続(という物語)を対置して、

  • 中国:徳が落ちると王朝が交代しうる

  • 日本:交代しない(交代しない“ことになっている”)

この対比は、当時の知識人にとってめちゃくちゃ強い“美学”になります。
いわば「世界最古SSR」──いや、レジェンダリーでも足りない。神話級です。

(※ここで神話を笑う必要はありません。神話は「事実の記録」ではなく、社会が自分を維持するための“自己記述”です。)


4. 反対側のエンジン:陽明学と心学が「行動」と「勤勉」を駆動した

国体を支えたのは尊王だけじゃない。むしろ社会の深い層では、別のOSが回っていました。

4-1. 陽明学:心=世界、良知=行動スイッチ

陽明学は危険です。なぜなら、

「世界の不正は、自分の良知が許さない」
→ 行動せよ

になりやすいから。為政者からすると、これほど面倒な思想はない。
幕末の熱量(尊王攘夷も佐幕の実践も)が“行動哲学”を帯びるとき、陽明学は燃料になり得ます。

4-2. 石門心学:商人の倫理を「道」にした、庶民OS

石田梅岩の心学は、陽明学ほど過激じゃない。でも効く。
なぜなら「日常そのもの」を修行化するからです。

  • 働くこと=修行

  • 正直・倹約・信用=資本(しかも減りにくい)

  • 蓄財や取引も“道”の内部に入る

ここが日本のややこしい強さで、勤勉は「資本主義の奴隷根性」だけではなく、
道徳・宗教・生活技術が混ざった複合エンジンとして広がっていきます。


5. 文化パート:日本は「文明の避難所(バックアップサーバー)」だった

ここで、あなたの原稿の白眉──**佚存書(いつそんしょ)**の話を主軸に持ってきます。

5-1. 江戸後期:すでに「中国で失われ、日本に残る」を概念化

江戸後期には、中国で散逸したが日本に残った漢籍をまとめる発想が明確化します。
つまり「気づきの芽」は江戸の学問世界にある。

5-2. 明治:比較が国際化し、「確信」になる

開国後は、人も本も情報も動く。ここで決定打になるのが、

  • 清の学者が来日し

  • 日本の寺社・書肆・蔵書を調べ

  • 「中国で失われたものが日本にある」を体系的に確認する

という動きです。
この瞬間、日本はただの辺境ではなく、

“文明のタイムカプセル”
“アーカイブ国家”

として再定義されます。

5-3. なぜ日本に残り、中国で失われがちなのか

乱暴に言えば、断絶の作法の違いです。

  • 王朝交代は、ときに前王朝の痕跡を消す圧力を伴う

  • 戦乱・政変・思想統制は、書物と文物にとって天敵

  • 一方日本は、政治権力が移っても「過去の文化を全否定して焼く」が“常態化”しにくかった

  • 寺社・蔵・家の文書管理が、地味に強い

この差が積み重なると、「中心より周縁に避難する」が現実に起きる。
構造主義っぽく言えば、

中心は燃えやすく、周縁は残りやすい。

皮肉ですが、よくある現象です。


6. 結論:国体とは「一枚岩の教義」ではなく、三層構造の“生存装置”である

ここまでをまとめると、日本の国体(という語が指してきたもの)は、だいたい三層の合成物です。

6-1. 神話層:万世一系という「自己記述」

事実性というより、共同体が自分を維持するための物語
これが“意味の重力”になります。

6-2. 制度・思想層:権威と権力の分離、尊王倫理、行動哲学

天皇が「権力のプレイヤー」ではなく「権威の核」として残ることで、
権力交代の火の粉を避けやすくなる。
江戸思想史は、その正当化の言語を供給しました。

6-3. 物質・アーカイブ層:本とモノが残る国家

「残る」こと自体が権威になる。
権威は時間で増える。まさに長期の複利です。


付録:相関図(テキスト版)

読者の迷子防止に、最低限の相関を置きます。

【幕府公式】朱子学 ├─(倫理エンジン)→ 山崎闇斎(垂加神道:神儒一致・尊王倫理) │ └→ 崎門学系 → 水戸学へ流入 └─(名分の刃)→ 浅見絅斎(大義名分の徹底 → 幕府正統性が構造的に揺れる) 【行動エンジン】陽明学(良知 → 行動) └→ 各種の実践思想・志士的エネルギー 【庶民OS】石門心学(働く=修行、信用=資本) └→ 商工倫理・勤勉エートス 【アーカイブ】佚存書・寺社蔵書・正倉院的保存 └→ 「日本=文明のバックアップサーバー」観

最後に:この文章の「芯」

あなたの文章の芯は、これです。

日本の特殊性は、血統“だけ”ではない。
神話・制度・保存が三位一体で回ってきたことだ。
だから「神の国」という言い方は、嘘でも真実でもなく、社会が自分を生かすための“記述”として機能してきた。

日本は神の国?:思想史と確率論で解く「国体」の正体

 

日本は神の国?:思想史と確率論で解く「国体」の正体

江戸時代以降の日本思想史と、現代の統計学的視点を交え、日本という不思議な国の「OS(オペレーティングシステム)」を解剖してみます。

第1章:江戸思想史のパラドックス ――幕府が育てた「倒幕の種」

江戸時代は「封建的で停滞した時代」と思われがちですが、実際には非常に多様な思想が花開いた、知の百家争鳴時代でした。皮肉なことに、徳川幕府が正統とした学問そのものが、最終的に幕府を倒すロジックを生み出していきます。

1. 崎門学と垂加神道:朱子学が生んだブーメラン

徳川幕府は、統治の正当性を担保するために「朱子学」を官学としました。しかし、ここに大きな落とし穴がありました。

朱子学の大義名分論(君臣の別を正す)を突き詰めると、「日本の真の君主は天皇であり、将軍は天皇から権力を預かっているに過ぎない」という結論に至ります。

これを過激に推し進めたのが山崎闇斎と、その弟子・浅見絅斎らによる「崎門学(きもんがく)」です。

  • 思想の魔合体: 彼らは朱子学の理論と神道を接続し(垂加神道)、「日本こそが中華(文明の中心)であり、万世一系の皇室を戴く神の国である」と説きました。

  • 幕府=簒奪者?: 浅見絅斎の『靖献遺言』などのロジックに従えば、天皇をないがしろにする将軍は「名分を乱す簒奪者」と見なされかねません。

幕府が体制維持のために導入した朱子学が、巡り巡って「徳川はけしからん」という尊王思想の火種になる。まさに歴史的な特大ブーメランでした。

2. 荻生徂徠と「リアリズム」の発見

一方で、朱子学の観念論(心の中に理を求める)を批判し、徹底したリアリズムを説いたのが荻生徂徠です。

  • 制度論への転換: 彼は孔子の教えを「個人の道徳」ではなく「天下を治めるための制度(礼楽刑政)」と再定義しました。

  • 実証主義: 「古代の言葉(古文辞)を正しく読まなければ、聖人の教えは分からない」とし、徹底的な文献学・実証主義を貫きました。

この「事実と論理で考える」という徂徠の合理主義は、後の明治維新における西洋文明の急速な受容(近代化)の下地となりました。

第2章:アーカイブ国家・日本 ――中国にないものが日本にある

「中華文明」の本家は中国ですが、実はその「現物」を最も良く保存していたのは日本でした。

「佚存書(いつそんしょ)」という衝撃

中国では、易姓革命(王朝交代)のたびに前の王朝の宮殿や書物が焼かれ、文化がリセットされてきました。一方、日本では皇室が存続し、大きな文化的断絶が少なかったため、中国では失われた貴重な書物(佚存書)が大量に残されていました。

この事実は、江戸後期から意識され始めましたが、決定打となったのは明治時代です。

清の外交官で学者の**楊守敬(ようしゅけい)**が1880年頃に来日し、日本の古書店や寺院に眠る漢籍を見て驚愕しました。「本国では幻となった書物が、山のようにある!」と。

彼がそれらを買い戻し(書籍の里帰り)、『日本訪書志』などで紹介したことで、「日本こそが東洋の宝庫(アーカイブ)である」という認識は、日中双方の知識人の間で決定的なものとなりました。

第3章:皇室存続の確率論 ――SSRを引き当てた国

日本の皇室は、神話の時代を含めれば2600年、歴史的に確実なラインで見ても1500年以上、一つの男系血統(Y染色体)が続いています。

これを「確率論」で考えると、どれほどの奇跡なのでしょうか。

100世代のロシアンルーレット

仮に2600年を約100世代とします。

1世代(約26年)ごとに、以下のリスクを回避し続ける必要があります。

  1. 生物学的リスク: 男子(世継ぎ)が生まれ、成人する。

  2. 政治的リスク: 革命や暗殺で王朝が滅びない。

もし、1世代ごとの生存・継続確率を「99%(超高確率)」と仮定しても:

$$0.99^{100} \fallingdotseq 0.366$$

つまり**約36%**まで落ちます。

もし少しでもリスクがあり、継続確率が「95%」だったとすると:

$$0.95^{100} \fallingdotseq 0.0059$$

確率は**約0.6%**になります。

世界の王朝が数百年で交代していることを考えれば、生存確率はもっと低く見積もるべきかもしれません。そう考えると、日本の皇室が存続している確率は、ソシャゲのSSR(スーパースペシャルレア)、あるいはそれ以上の「天文学的な奇跡」と言えます。

これを可能にしたのは、「権力(政治)」と「権威(祭祀)」を分離し、時の権力者が天皇を利用する(殺さない)構造を作った、日本独自の「知恵」あるいは「運」でしょう。

統計学的な「親戚」関係

一方で、「日本人は皇室と血が繋がっているか?」という問いに対し、数理モデル(Pedigree Collapse:家系図の崩壊現象)を用いて考えると面白い結論が出ます。

祖先の数は代を遡るごとに倍増します(2人, 4人, 8人...)。30代(約900年)遡ると、理論上の祖先数は10億人を超え、当時の日本の人口を遥かに上回ります。

これは「祖先が重複しまくっている」ことを意味します。

閉鎖的な島国で1000年以上シャッフルされれば、統計学的には**「現代の日本人はほぼ全員、どこかで歴代天皇(あるいはその兄弟)の血を引いている」**という帰無仮説が採択されます(P値≒0)。

つまり、日本人は比喩ではなく、文字通り「巨大な家族(親戚)」なのです。

おわりに:国体とは何か

「国体」という言葉は戦前・戦中の政治的文脈で語られがちですが、もう少しドライに見れば、それは**「歴史という巨大な複利資産」**です。

  • 2600年(あるいは1500年)続いたという**「時間の証明」**。

  • 権力闘争があっても、文化や血統を完全には断絶させなかった**「知恵」**。

  • 大陸で失われたものを保存し続けた**「アーカイブ機能」**。

これらが重層的に積み上がり、今の日本を形作っています。

権力は一代で築けますが、権威(歴史)は時間をかけなければ作れません。この「取り返しのつかない資産」をどう維持し、次世代に継承するか。それは、我々「親戚一同」の知恵にかかっているのかもしれません。

2026年2月3日火曜日

2つの左翼 ―左翼の二重構造―

 

2つの左翼 ―左翼の二重構造―

 

 左翼は大まかに2つあります。

 1つは①マルクス、共産主義

 もう1つは現在では「リベラル」というほぼ独立した言葉になってしまった現代的リベラリズム。

 後者は前者から日和見とかプチブル的正義とか保守反動とか人権主義とか市民活動とか文脈によって言われることもありました。

 前者は退潮傾向で、後者は好調な感じです。

 後者をイメージするために列挙してみると差別主義、戦争責任、人権、旧植民地人、少数民族差別、戦争や侵略、植民地(議論は分かれる)への贖罪意識、人種差別、部落問題、抑圧、マイノリティ、障碍者差別、フェミニズム、ポリコレ、LGBT、環境問題、ヴィーガン、グリーンピースやシーシェパードなどになります。

 前者はシンプルに革命、共産主義社会です。

 実は「社会主義」ですら左翼的とは言えない面があります。

 そもそも古典的リベラリズムでも市場主義競争経済でも資本主義でも重商主義でも社会政策くらいは行います。

 「小さな政府」とは言っても政府を0にしろという右翼も保守派も古典的リベラリストもいません。

 政府の役割は「防衛、治安、教育などの最小限なものでいいんだ」と言っても社会保障や福祉を完全に切り離すまで行くのはメジャーではありません。

 自由市場主義とかリバタリアンとかミルトン・フリードマンとか言っても本当に政府が防衛や治安や教育しかしなくなったらびっくりするでしょう。

 中にはそう主張する人もいるかもしれませんが極端は主流にはなれません。

 こういう主張は右翼でもないです。

 極端なマルクスレーニン主義が過激化したようにファシズムが単に右翼や左翼で割り切れないようにある方向への急進化とか過激化とか言えるでしょう。

 急進的で過激なものが左翼というならこれらも左翼です。

 そうすると右翼や中道は「地に足がついた」というか現在位置から漸進的にコツコツ小さい変化を重ねていく勢力ということになり中道は現状の付近での最適化、右翼は昔を理想としてそちらにコツコツと漸進的に復古(例えば王政復古で身分制の復活でフランス革命や啓蒙主義的理念ではないもの)していく勢力になります。

 ただ右翼急進派というのもいて地に足をつけて一歩ずつ漸進的に変えていくのではなく、急進的、飛躍して一気に昔に戻ろうとすることと位置付けられます。

 結論としては右翼や左翼という言葉はいろいろな次元やレベルの異なる意味を含んでいて区別も厳密な定義も与えられず多くは適当に使われているということになります。

 ここでは何かを定義したり整理したりまとめたりするのではなく問題提起としての玄奘を挙げてみました。

 以下に左翼の二重構造について説明します。

 もっといろいろな重なりや次元というか別角度からの様々な見方で分析できますが2つくらいが分かりやすいと思います。

 

 

    マルクス主義・共産主義

これがあまりにも力を持ちすぎてしまって目立ち過ぎました。

社会主義が無制限な個人主義や自由主義を制限しつつ社会保障や福祉などの社会政策を行い、経済的その他の平等をなるべく達成、あるいは維持しようというのであればこれは例えば自由民主党も社会主義です。

 そもそも民主主義である時点で社会主義です。

 民主主義は集団主義であってとんがった個人主義や個人的自由を無制限に認める方向には普通はいきません。

 そうなる可能性があっても現実にはそうはならないでしょう。

 冷戦時代の政権与党の自由民主党も社会保障や福祉を充実させました。

 「金持ち3代続けず」が霞が関の官僚たちのスローガンでした。

 極端な累進課税や相続税により経済的格差をなくそうとしました。

 一億総中流とか護送船団方式とか呼ばれていました。

 いろんな産業を政府や通産省が指導するのですが船の船員というのは上下関係は厳しいものの別の意味では平等なところがあります。

 船みたいな狭い所で極端な経済格差の具現化はできません。

 船長も船員も「同じ釜の飯を食った仲間」みたいなところがあります。

 日本は「世界で一番成功した社会主義国」と呼ばれていました。

 その間社会党も共産党も一回も政権与党になったことはありませんし、社会党内ゲバで騰勢弱体化して以降は議席の上では自民党の一強体制が統治期間の殆どです。

 マルクス主義/共産主義というのは細かい異論は受け入れますしそれも正しいのでしょうがざっくり言えば革命により階級がなく全ての人々が生産手段を共有する共産主義社会を実現する、というだけのものです。

 レーニン主義以降のいろいろな試みはこの実現、実装をどうするかの試行錯誤と実務の失敗と成功の連続です。

 結果として到達できたのは「共産党の一党独裁体制による排外主義的な国家」で現在のところそれが最終到達点です。

 共産主義社会の実現はいまだどの国もどの時代でも達成できておりません。

 「共産党の一党独裁体制による排外主義的な国家」から先に進むよりはむしろこの体制で固定しここから先に進もうとする国や人を粛正、弾圧するようになります。

 ソ連や中国以外の共産主義を目指している国、冷戦時の東側陣営は冷戦崩壊時にソ連のくびきが外れたので共産主義社会を目指すのかと思いきや資本主義社会になりました。

 ソ連も資本主義社会になりました。

 中国も資本主義を取り入れました。

 現在は反動が進んでいますが現在の中国のことを「国家資本主義」というらしいので資本主義社会なのでしょう。

 上海や香港には普通に株式市場があります。

 

・なぜ多くの人が誤解したのか

 

 現在の左翼はリベラルが目立ちます。

 共産党も共産主義者もいるが目立ちません。

 共産党が目立ったのは1950年代半ばくらいまでです。

 そのあとに共産主義を目指して目立ったのは新左翼です。

 60年安保や学園紛争などは新左翼のセクトやセクトに属さない一般人学生、ノンセクラディカルなどが中心で中核派や革マル派や連合赤軍や日本赤軍や全共闘が有名でしょう。

 これが1968年をピークに急速に力を失います。

 1970年代にも爆弾闘争やハイジャックやテルアビブ空港での銃乱射や山荘ベース事件やあさま山荘事件を起こしましたがこれらが革命につながることはありませんでしたし、実行者たち自体もそれで革命を成し遂げられるかと思っていたかというと多分思っていたのですが「自分たちを客観視できない特殊な心理状態での思い込み」だったのではと思えてしまいます。

 彼ら自身が時間が経ってから当時の自分たちを振り返った時にそう思ったのではないでしょうか。

 ただこの人たちは真面目に革命と共産主義社会の樹立を目指していたと思われます。

 そういう人たち以外は現代的リベラルになりました。

 この「リベラル」の人たちは革命や共産主義社会樹立のための活動をしていません。

 試行的にも「風が吹けば桶屋が儲かる」式に革命や共産主義社会の樹立に自分たちの行動が役に立つと思っていたのかもしれませんがあくまで間接的ですし悪く言えば人ごとでちょっとや役に立つかもしれないけどもなるようになる的な感覚以上ではなかったと思われます。

 この人たちは1970年代ごろに突然現れたわけではないのがポイントです。

 結論から言うと戦後GHQにより一度は認められ19472.1ゼネストで逆に反共産主義に転じた(といっても内部に多くの社会主義者、ニューディーラーがいたが)共産党(当時は国際共産党である実質ソ連共産党の日本支部)時代から支配層のインテリゲンチャ、党官僚の権力争い、理論や派遣争いにかかわっていたような上層部は知りませんが火葬共産党員は革命や共産主義社会を目指すガチムチイデオロギストもいましたと思いますが多かれ少なかれふんわりした「心情左翼」的心情を多く持つ人たちがたくさんいました。

    リベラルの特徴をもう一度上げます。

 差別主義、戦争責任、人権、旧植民地人、少数民族差別、戦争や侵略、植民地(議論は分かれる)への贖罪意識、人種差別、部落問題、抑圧、マイノリティ、障碍者差別、フェミニズム、ポリコレ、LGBT、環境問題、ヴィーガン、グリーンピースやシーシェパードなどです。

 これらは①のマルクスレーニン主義の革命と共産主義化の思想と重ならないように見えるかもしれません。

 思想的な意味では全然重ならないのですが、偶然か必然か分かりませんがなぜかテーマが大きく重なります。

 反帝国主義、反植民地主義というのがマルクスレーニン主義、あるいはその後のスターリン主義やトロツギー主義が共有しているものです。

 これは革命のためにはそれらが邪魔という論理でした。

 帝国主義で植民地をもてばその国は革命が起こりにくくなります。

 だから邪魔です。

②②のリベラルの人々も帝国主義や植民地支配を悪いことしたなあと罪悪感を持っていました。

これは心情的、道徳的なもので①の革命や社会主義化を阻害するというのとは全然違う理由です。

でも「帝国主義や植民地支配はあかん」というところが同じだったので混戦というか区別がつかないまま分かったつもりになったというかごちゃごちゃなままにしていた、そしてそれを気づかなかった人々が大量にいます。

ごちゃごちゃにしていたどころかそもそも革命や共産主義化の邪魔という考え方自体持っておらず、「帝国主義や植民地化して悪いことしたなあ」という考えしかもっていない共産党員や社会党員、新左翼、ノンセクラディカル、戦後の左翼活動に心情的に共感した人々が大量にいたと思われます。

この「もともとリベラル」の人たちは戦後の革命の時代には意図せず隠れることになったというか表に出てこなかったと思われます。

それに加えて1970年は①革命や共産主義化をあきらめた人や何となく後ろめたくも実際に革命やきゅさん主義化の活動を行う気に何となくなれずに活動を離れた人々が大勢いました。

こういう人々がもともとリベラル的心情を持っていたかどうかは人によると思いますがこの人々が現在のリベラルの基になりました。

実際には程度の差はあれ二重構造だったと思われます。

①マルクス・レーニン主義と②リベラル心情を同じ人たちが程度の違いはあれ同時に持っていたと考えるのが分かりやすいでしょう。

もちろん①が0の人も②が0の人もいたと思いますがそういう人々も一般化して一緒にみます。

これを①共産・革命・イデオロギーと②リベラル・道徳・心情の二重構造と呼んでみます。

戦後の前半は①‘が圧倒的に優勢で目立った、戦後の後半は②’が圧倒的に優勢で目立った、という形になります。

実際の世の中の動きはこういう日本人だけの思想とか行動だけでなく、外国勢力の工作、宗教勢力の関与、やくざやマフィアやフィクサーなどの絡みもあってだいぶ複雑になりますがざっくり見るとこの2重構造の軸で戦後史やら現在の政治状況やら現在のリベラルやらポリコレやらの状況を見ると理解がはかどると思います。対象世代は100歳以上ですし60年安保世代も100歳超える人が出てきましたし学生運動世代も後期高齢者になってきました。

世代間の意識の違いやら政党支持率などもこういう見方をちょっとしたうんちくというか雑学というか「現代社会の基礎知識」という本が昔は定期的に発刊されていましたがそんな感じで知っておくとなんかの役に立つかもしれません。