戦後
一 鐘
一九一八年十一月十一日。
正午より少し前から、鐘が鳴り始めた。
はじめは一つだった。
遠くにある教会の鐘が、冬の低い空を押し上げるように、一度だけ鳴った。その音が消えきらないうちに別の鐘が応え、さらに別の鐘が鳴った。
鐘の数は増えつづけた。
村の鐘、市庁舎の鐘、修道院の鐘、工場の始業を知らせていた鐘。長いあいだ沈黙していたものまで、何かを取り戻そうとするように鳴っていた。
ポンメルンの陸軍病院では、看護婦のアンナ・ヴァイスが包帯を巻いていた。
患者は顔を上げなかった。
両眼を覆う白い布は、涙と薬液と膿で湿っていた。瞼がどの程度傷ついているのか、医師にもまだ分からなかった。毒ガスによる炎症なのか。ショックによる一時的な視覚障害も加わっているのか。それについて医師たちは、患者のいない場所でだけ話した。
患者は痩せていた。
年齢より老けて見えた。口髭の下の唇は乾き、顎だけが不自然に固かった。
「何の鐘ですか」
患者が訊いた。
アンナは包帯を巻く手を止めなかった。
病棟のほかの患者たちは、すでに知っていた。誰かが廊下を走りながら、休戦だ、と叫んだ。戦争が終わった、と叫んだ。泣いた者もいた。笑った者もいた。寝台から起き上がれず、毛布の中で手だけを叩いている者もいた。
「休戦だそうです」
アンナは言った。
「戦争が終わったのですか」
「ええ」
患者の顎が動いた。
それが笑いなのか、何かを噛み砕こうとしたのか、アンナには分からなかった。
鐘は鳴りつづけていた。
患者はしばらく黙っていた。
「では」
彼は言った。
「われわれは、何になったのです」
アンナは答えなかった。
包帯の端を鋏で切り、留め金で固定した。
患者の名札には、アドルフ・ヒトラー、伝令兵、伍長、と書かれていた。
その名前は、当時、何の意味も持っていなかった。
パリでは、人々が通りへ出ていた。
見知らぬ者どうしが抱き合い、帽子を投げ、国旗を振った。酒瓶が開けられ、兵士たちは自動車の屋根に乗った。女たちは窓から身を乗り出し、紙吹雪を撒いた。
ポール・ヴァレリーは、その音を部屋の中で聞いていた。
彼は机に向かっていた。
目の前には白い紙があった。
白い紙には、何も書かれていなかった。
街路から歓声が上がるたびに、窓硝子がかすかに震えた。
戦争が終わった。
その言葉を、彼は頭の中で発音してみた。
戦争が終わった。
文法としては完全だった。主語があり、述語があり、意味も明瞭だった。
しかし現実の何にも対応していないように思われた。
戦争は、いつ始まったのか。
一九一四年八月か。皇帝たちが署名した日か。最初の兵士が国境を越えた瞬間か。
あるいはもっと以前、ヨーロッパが自分自身を理性の大陸だと信じたときから、すでに始まっていたのではないか。
科学が戦争をなくすと人々は言った。
商業が国家を結びつけると人々は言った。
鉄道は文明を運ぶと人々は言った。
その鉄道が、一日に何万人もの若者を屠殺場へ運んだ。
化学は自然を支配すると人々は言った。
その化学が、肺を焼き、眼球を腐らせ、風そのものを兵器にした。
文明は野蛮を克服したのではない。
文明は野蛮に、数学と時刻表と工業規格を与えたのだ。
歓声が上がった。
ヴァレリーは立ち上がり、窓辺へ行った。
通りの人々は皆、生きていることに驚いているように見えた。
若い女が老兵に接吻した。片脚のない兵士が松葉杖を掲げた。子供が小さな旗を振りながら転び、大人たちが笑った。
ヴァレリーは窓を閉めた。
静かにはならなかった。
閉ざされた窓の向こうで、ヨーロッパが自らの生存を祝っていた。
生き残った者は、生き残ったことを祝う。
だが文明は、生き残ったのだろうか。
それともこれは、すでに死んでいる肉体が、死を認識できないまま踊っているだけなのだろうか。
彼は机に戻った。
そして紙の上に、最初の一行を書いた。
われわれは、文明もまた死ぬということを知った。
書いたあとで、彼は長いあいだ、その文を見つめていた。
それは文章ではなかった。
悲鳴が、文章の形を借りているだけだった。
イタリアの捕虜収容所では、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが鉛筆を削っていた。
兵士たちは休戦の噂をしていた。
勝った者と負けた者の区別は、収容所の中では曖昧だった。鉄条網の内側にいる者は皆、同じような毛布をかぶり、同じような缶から薄いスープを飲んだ。
ウィトゲンシュタインはノートを開いた。
一と書いた。
その下に、短い文を書いた。
一・世界は、起きていることのすべてである。
鉛筆を止めた。
隣で横になっていた兵士が訊いた。
「何を書いている」
「世界についてです」
兵士は笑った。
「こんなところでか」
ウィトゲンシュタインは答えなかった。
兵士は毛布を鼻まで引き上げた。
「世界は終わったよ」
ウィトゲンシュタインは、書いた文を見た。
世界は、起きていることのすべてである。
ならば世界が終わるとは、どういうことか。
事実がなくなることか。
人が死ぬことは事実である。
帝国が崩壊することも事実である。
村が焼けることも、砲弾で身体が分かれることも、母親に手紙が届くことも事実である。
しかし、なぜそれが恐ろしいのかは、事実の中にはない。
意味は、世界の中にはない。
ならば、意味はどこにある。
彼は鉛筆を持ち直した。
二・死は、生の出来事ではない。
書き終えた瞬間、遠くで誰かが歌い始めた。
祖国の歌だった。
一人が加わり、二人が加わった。
ウィトゲンシュタインは耳を塞がなかった。
歌の中には、戦争前の祖国が残っていた。
実際にはもう存在しない国が、声の中でだけ完全な形を保っていた。
言葉は、存在しないものを存在させる。
それなら、言葉は世界の写しではない。
言葉はときに、失われた世界を保存する墓なのだ。
彼はノートを閉じた。
その夜、彼はほとんど眠らなかった。
二 手
ケーテ・コルヴィッツは粘土に触れていた。
粘土は冷たかった。
人間の身体を作るには、あまりに冷たすぎると彼女は思った。
息子のペーターの額は、もっと温かかった。
熱を出したとき、額に手を当てたことがある。子供の頃だった。彼女の掌の下で、細い血管が動いていた。
その額は、いまベルギーの土の下にあった。
四年前、ペーターは志願したいと言った。
まだ若すぎた。
親の許可が必要だった。
夫は反対した。
ケーテも、最初は反対した。
だが息子は語った。祖国について。義務について。若者が歴史に参加することについて。
その言葉のいくつかは、彼女自身が息子に教えた言葉だった。
自由。
正義。
犠牲。
人間は、自分が子供に与えた言葉によって、子供を失うことがある。
最後に彼女は署名した。
ペーターは出征し、まもなく死んだ。
戦争が終わった日にも、彼は帰らなかった。
戦争が終われば死者が戻ると、誰も言ってはいなかった。それでも心のどこかで、彼女はそう思っていた。
終わるとは、元に戻ることだと思っていた。
何一つ元には戻らなかった。
粘土の中から、父親の身体が現れかけていた。
膝を折り、頭を垂れた男。
その傍らに母親を置く。
二人のあいだに、死んだ息子はいない。
不在そのものを、像にしなければならなかった。
だが不在には形がない。
作っては潰した。
顔を作れば、それはペーターではなかった。
顔を作らなければ、それは誰の死でもなかった。
ケーテは両手を粘土に押し込んだ。
十本の指が沈んだ。
粘土の表面に、指の跡が残った。
人間は死んでも、触れた者の手に残る。
彼女はそう考えた。
だが次の瞬間、それは嘘だと思った。
手に残るのは死者ではない。
死者に触れられなくなったという感覚だけである。
戸が叩かれた。
夫が診療所から戻ってきたのかと思ったが、そこに立っていたのは若い男だった。
軍服を着ていた。
右袖が空だった。
「奥様が、兵士の絵を描いていると聞きました」
男は言った。
ケーテは男を中へ入れた。
名はヤーコプ・ヴァイスといった。
戦争前は印刷工だったという。
「座ってもらえますか」
ケーテは言った。
「どのように」
「楽な姿勢で」
ヤーコプは笑った。
「楽な姿勢というものを忘れました」
彼は椅子に座った。
左手を膝に置いた。
空の右袖が、椅子の脇に垂れた。
ケーテは木炭を取った。
輪郭を描き始めた。
顔ではなく、左手から描いた。
「妹が看護婦です」
ヤーコプは言った。
「休戦の日、病院にいたそうです」
「そうですか」
「兵士たちは喜んだそうです。ですが一人だけ、戦争が終わったのなら、自分たちは何になったのかと訊いた」
木炭の先が止まった。
「妹さんは何と答えたのです」
「答えられなかったそうです」
ケーテは再び描き始めた。
「それでよかったのだと思います」
「なぜです」
「答えがあるふりをするよりは」
ヤーコプは黙った。
ケーテは、彼の左手を描きつづけた。
その手は生き残った者の手だった。
だが、生き残るとは、身体のどこかが残ることではない。
戦争から帰ってきた者の中には、帰ってこなかった部分がある。
絵にすべきなのは、残った手ではなく、その手がつかむことのできないものなのだと、彼女は思った。
三 画像
アビ・ヴァールブルクの書斎には、戦争が終わっていなかった。
新聞の切り抜きが積み上げられていた。
将軍の写真。
戦死者名簿。
国旗。
砲身。
燃える都市。
傷ついた馬。
敵国を獣として描いた風刺画。
勝利の女神。
剣を持つ母国。
子供を食らう怪物。
飛行船。
毒ガスを表す緑色の雲。
ヴァールブルクは、それらを壁に貼った。
新聞の記事が伝えているのは出来事ではなかった。
出来事に耐えるために、人間が呼び戻した古い身振りだった。
腕を振り上げる兵士は、古代の英雄と同じ姿勢をしていた。
髪を振り乱す母親は、ギリシア悲劇の女と同じ顔をしていた。
敵を踏みつける国家は、古代の勝利の女神の衣装を着ていた。
電信と写真と輪転機によって、近代人は古代の情念から自由になるどころか、古代の情念を一日に百万部ずつ印刷していた。
「彼らは戻ってきた」
ヴァールブルクは言った。
妻は返事をしなかった。
「神々だ。追放された神々だ。理性の地下室に閉じ込めておいたものが、電話線を通って戻ってきた」
彼は電話機を見た。
黒い受話器は、机の端に置かれていた。
沈黙している。
だがその沈黙の奥で、誰かが聞いているように思われた。
ヴァールブルクは受話器を布で包んだ。
「アビ」
妻が言った。
「休みましょう」
「休めば、彼らが入ってくる」
「誰が」
ヴァールブルクは壁を指した。
壁一面の人間たちが、こちらを見ていた。
兵士。
皇帝。
母親。
女神。
死者。
「画像は死なない」
彼は言った。
「人間が死んでも、身振りは生き延びる。身振りは次の身体を探す。いま彼らは、われわれの身体を探している」
妻は彼の肩に触れようとした。
ヴァールブルクは身を引いた。
その手が誰の手なのか、一瞬、分からなかった。
妻の手なのか。
勝利の女神の手なのか。
死者を冥界へ引く手なのか。
彼は壁の写真を一枚ずつ剥がし始めた。
剥がしても剥がしても、下から別の写真が現れた。
床に紙が降り積もった。
「燃やさなければ」
彼は言った。
「何を」
「画像を」
だが、火をつければ炎の画像が生まれる。
破壊すれば破壊の身振りが残る。
逃げ場はなかった。
数日後、彼は病院へ運ばれた。
馬車の窓から、冬の街が見えた。
人々はパンを買い、新聞を読み、電車を待っていた。
戦後の街だった。
ヴァールブルクには、古代ローマの廃墟に見えた。
四 帰還
アンナの兄ヤーコプは、右腕をフランスに残して帰ってきた。
実際には、どこに残してきたのか本人にも分からなかった。
砲弾が落ちた。
身体が地面を離れた。
気がついたときには野戦病院におり、右肩から先がなかった。
腕を見た者はいなかった。
回収されたのか。
土に埋まったのか。
ほかの兵士の身体と一緒になったのか。
ヤーコプはときどき、存在しない右手を握った。
指が掌に食い込む感覚があった。
爪が伸びているような気もした。
夜になると、その手がどこか遠い土地で勝手に動いているように思えた。
自分が眠っているあいだに、失った手だけが戦争を続けている。
「痛むの」
アンナが訊いた。
「ないものが痛む」
「医師に話した?」
「医師は知っている」
「薬は」
「薬は、ないものには効かない」
ヤーコプは印刷所に戻ろうとした。
活字を拾い、組版し、紙を機械へ送る仕事だった。
以前は両手で行っていた。
左手だけで活字を拾おうとすると、金属片はすぐに床へ落ちた。
親方は親切だった。
急がなくてよいと言った。
それがいちばんつらかった。
かつては誰より速く組めた。
いまは一つの単語を作るあいだに、若い職人が一段を組み終えた。
ヤーコプは床に落ちた活字を拾った。
小さな鉛の文字だった。
戦
という字に相当するドイツ語の一部だった。
次に拾ったのは、
後
に相当する語の一部だった。
戦争の後。
戦後。
二つの言葉を並べれば、時間の名前になる。
しかし、その時間にどのように生きるかは、どの文字にも書かれていなかった。
印刷所には、新しい注文が増えていた。
政党のビラ。
集会の告知。
共和国を守れ。
祖国を救え。
裏切り者を許すな。
労働者よ、団結せよ。
兵士よ、立て。
どの文章も命令形だった。
戦争が終わったあと、人々は互いに命令するようになった。
ヤーコプは左手だけで活字を並べた。
彼自身は、どの命令にも従いたくなかった。
だが印刷された言葉は、彼の意思とは関係なく街へ出ていった。
アンナは病院を辞めずに働いていた。
戦争が終われば患者は減ると思っていた。
逆だった。
戦争中、前線に隠されていた傷病兵が、戦後になると街へ戻ってきた。
身体を欠いた者。
眠れない者。
声を失った者。
歩けるのに歩けない者。
音のない場所で砲撃を聞く者。
食卓の下へ潜り込む者。
妻の顔が敵兵に見える者。
自分の子供を抱くことのできない者。
医学は彼らに名前をつけた。
震顫。
失語。
麻痺。
神経衰弱。
ヒステリー。
砲弾神経症。
名前がつくと、理解されたように見えた。
だが名前は、傷を説明しなかった。
ただ、書類の所定の欄に収めただけだった。
ある夜、アンナは病院の記録簿を開いた。
休戦の日に包帯を巻いた患者の名前を探した。
アドルフ・ヒトラー。
すでに退院していた。
行き先はミュンヘンの兵舎と記されていた。
アンナは、彼の問いを思い出した。
われわれは、何になったのです。
あの日、自分は何と答えるべきだったのだろう。
市民です。
敗者です。
生存者です。
帰還兵です。
人間です。
どの答えも、あの男の問いには小さすぎるように思われた。
五 文法
ミュンヘンの兵舎には、まだ寝台があった。
軍服もあった。
食事の時間もあった。
命令する者と、命令される者がいた。
アドルフにとって、それは世界がまだ完全には崩壊していない証拠だった。
街へ出れば、何もかもが曖昧だった。
皇帝はいない。
政府は変わった。
赤い腕章をつけた男たちが演説し、別の男たちが彼らを撃った。
昨日まで味方だった者が、今日は反逆者と呼ばれた。
祖国という言葉は残っていたが、その祖国がどこにあるのか分からなかった。
地図の中か。
軍旗の中か。
死んだ戦友の身体の中か。
兵舎の食堂で、兵士の一人が言った。
「俺たちは負けたんじゃない。裏切られたんだ」
アドルフは顔を上げた。
その言葉は短かった。
短い言葉は、疲れた者にも理解できる。
負けたのではない。
裏切られた。
それまで彼の内部にあったものには、形がなかった。
眼の痛み。
敗戦の知らせ。
皇帝の退位。
戦友の死。
空腹。
職業のなさ。
帰るべき家のなさ。
それらは互いにつながらず、暗闇の中に散らばっていた。
裏切りという言葉は、それらを一本の線で結んだ。
原因があった。
原因があれば、責任を負う者がいる。
責任を負う者がいれば、怒りを向ける方向が生まれる。
怒りには、悲しみにない利点があった。
悲しみは人を座らせる。
怒りは人を立たせる。
軍の政治教育の講義で、教師は国家、民族、革命、宣伝について語った。
アドルフは聞いた。
はじめは聞くだけだった。
やがて質問した。
さらに、質問に答えるようになった。
彼が話すと、兵士たちはこちらを見た。
人に見られるという感覚を、彼は長いあいだ知らなかった。
画家になろうとしていた頃、誰も彼の絵を見なかった。
ウィーンでは、彼は群衆の中の一人だった。
戦場では伝令だった。言葉を運ぶ者であり、自分の言葉を持つ者ではなかった。
いま、彼が話すと、人々が黙った。
彼の内部で、何かが反転した。
見えなかった男が、見られる男になった。
声は彼に輪郭を与えた。
ある日、上官から、一通の問い合わせに返答を書くよう命じられた。
ユダヤ人問題について、軍の見解を説明せよ。
紙が置かれた。
アドルフはペンを持った。
最初の一文を書くまでには時間がかかった。
彼は病院の暗闇を思い出した。
鐘の音。
看護婦の手。
戦争が終わったという声。
われわれは何になったのか、という自分の問い。
あのとき問いには答えがなかった。
いまはあった。
少なくとも、答えの形をした文章があった。
彼は書いた。
個人的な嫌悪ではなく、理性による認識として考えなければならない。
書きながら、自分の文章に説得された。
感情ではない、と書くことで、感情は事実の衣服を着た。
憎悪ではない、と書くことで、憎悪は政策になった。
彼は「私」とは書かなかった。
「われわれ」と書いた。
そして「彼ら」と書いた。
世界は二つに分かれた。
われわれ。
彼ら。
文法が完成した。
六 精神
パリで、ヴァレリーの文章が印刷された。
紙の上では、文明の崩壊は整然としていた。
帝国の没落。
精神の混乱。
知性の危機。
ヨーロッパの有限性。
文章は均衡を保ち、節度を守り、一つの文が次の文を正確に導いた。
読者は、その美しさを褒めた。
ヴァレリーは褒められるたびに、失敗したように感じた。
美しく書けたということは、恐怖を制御できたということだった。
恐怖を制御できたということは、それを本当には表現していないのではないか。
夜明け前、彼は目を覚ました。
午前四時だった。
机に向かい、ノートを開いた。
文章では足りない。
しかし文章以外に何がある。
叫び声は、叫んだ者の喉が嗄れれば消える。
死体は埋められる。
廃墟は建て直される。
記憶は変形する。
最後まで残るのは、言葉かもしれない。
だが言葉は、残るために整えられなければならない。
整えた瞬間、傷から離れる。
精神とは、傷から距離を取る能力なのか。
それとも、傷を見えなくする技術なのか。
彼は書いた。
人間は、自分が耐えられる形に世界を変形して理解する。
書いたあと、その一行を消した。
正確すぎた。
正確な文章は、ときに不正確な沈黙よりも卑怯だった。
窓の外が、わずかに白み始めていた。
有明の月が残っていた。
夜が終わっても消えきれず、朝の光の中で薄く浮かんでいる。
ヴァレリーは月を見た。
人間の精神も、あのようなものかもしれないと思った。
夜を照らすことはできない。
朝を始めることもできない。
ただ、夜が存在したことを、朝の中に残す。
精神にできるのは、それだけなのかもしれなかった。
七 黒
ケーテは木版を彫った。
彫刻刀が板を削った。
白い木の肌に、黒となる部分を残していく。
版画では、彫らなかった場所が黒になる。
触れなかった部分が、最も濃く印刷される。
彼女は母親を彫った。
子供たちを抱き込む母親。
死から子供を守ろうとする母親。
だが腕は足りなかった。
二本の腕で、すべての子供を守ることはできない。
彼女自身も、息子を守れなかった。
ペーターは十八歳だった。
彼の意志を尊重した。
そう言えば聞こえはよかった。
本当は、自分もまた、あの時代の熱狂の中にいた。
息子の目に宿った光を、美しいと思った。
若者が自分より大きなものに身を捧げようとする姿に、心を動かされた。
母親だけが被害者だったのではない。
母親もまた、息子を戦場へ送った世界の一部だった。
彫刻刀が滑った。
指先から血が出た。
血は板に一滴落ちた。
ケーテは拭かなかった。
赤は、印刷すれば黒になる。
すべての血は、紙の上では同じ色になる。
作品を見に来たアンナは、一枚の版画の前で動けなくなった。
母親が、子供たちを身体の中へ戻そうとしていた。
生まれる以前の場所へ。
国家も戦争も言葉も存在しなかった場所へ。
アンナは兄の空の袖を思った。
病院の患者たちを思った。
包帯を巻いた眼を思った。
「この人は、守れているのでしょうか」
アンナは訊いた。
ケーテは版画を見た。
「いいえ」
「では、なぜ抱いているのです」
「守れないからです」
アンナはしばらく黙った。
「守れないのに、抱くのですか」
「守れるから抱くのではありません」
ケーテは言った。
「人間は、守れないと知ったあとにも、抱くしかないのです」
八 学校
オーストリアの山村で、ウィトゲンシュタインは子供たちに単語を教えていた。
黒板に、家、と書いた。
子供たちが声をそろえて読んだ。
「家」
「家とは何ですか」
彼は訊いた。
子供たちは笑った。
「住むところです」
一人が答えた。
「家族がいるところ」
別の子が言った。
「帰るところ」
ウィトゲンシュタインはチョークを持ったまま、動かなかった。
帰るところ。
戦争から戻った兵士は、皆、帰還兵と呼ばれた。
だが戻った場所が出発した場所と同じでなければ、それは帰還なのか。
自分自身が出発したときの人間と同じでなければ、誰が帰ったのか。
「先生」
子供が言った。
「答えは何ですか」
ウィトゲンシュタインは黒板の家という文字を見た。
言葉の意味は、物の中に隠されているのではない。
人間がその言葉を使う生活の中にある。
ならば、生活が壊れたとき、言葉の意味も壊れる。
帝国。
祖国。
勇気。
名誉。
犠牲。
平和。
戦争前と戦争後では、同じ音を持つ言葉が、別のものを意味していた。
「先生?」
「答えはありません」
子供たちが黙った。
ウィトゲンシュタインは、自分の言い方が間違っていたと思った。
答えがないのではない。
一つの答えしかないと思うことが、間違いなのだ。
「家とは」
彼は言い直した。
「われわれが、家という言葉を使う場所です」
子供たちは困った顔をした。
最前列の少女が手を挙げた。
「では、家が燃えたら、家という言葉も燃えますか」
ウィトゲンシュタインは少女を見た。
教室の窓から、雪の山が見えた。
「いい質問です」
彼は言った。
それ以上は答えられなかった。
九 蛇
一九二三年。
スイスの療養所で、アビ・ヴァールブルクは講演の準備をしていた。
机の上に、北米先住民の蛇の儀礼を写した写真が並べられていた。
若い頃に見た儀式だった。
人間が蛇を手に持ち、踊り、雨を求める。
蛇は地を這う。
稲妻は空を走る。
両者は形が似ている。
人間は理解できない自然を、形の類似によって結びつける。
恐怖に距離を与える。
象徴とは、恐怖を消すものではない。
恐怖に触れずに見つめるための間隔である。
医師たちは、講演がうまくいけば、ヴァールブルクの回復の証拠になると考えていた。
彼自身も、それを知っていた。
これは学術講演であると同時に、裁判だった。
自分は正気である。
画像を配列できる。
原因と結果を語ることができる。
蛇を蛇として、稲妻を稲妻として区別できる。
そのことを証明しなければならない。
聴衆の前に立った。
写真を示した。
言葉は最初、震えていた。
やがて整った。
儀礼について語った。
象徴について語った。
魔術から理性へ向かう人間の努力について語った。
だが、話しながら彼は考えていた。
本当に人間は魔術から理性へ向かったのか。
ヨーロッパ人は蛇を笑った。
雨乞いを未開と呼んだ。
その同じヨーロッパ人が、国旗に接吻し、皇帝の肖像の前で跪き、民族という目に見えない存在のために何百万人もの若者を殺した。
どちらが魔術なのか。
蛇を手にして踊る人々か。
地図上の線を神聖なものと信じて死ぬ人々か。
講演を終えると、拍手が起こった。
医師は満足そうだった。
ヴァールブルクは椅子に座った。
彼は正気を証明した。
少なくとも、正気と呼ばれる形式で話すことには成功した。
同じ夜、ミュンヘンでは、別の男が群衆の前に立っていた。
アドルフは旗を見た。
旗は布にすぎなかった。
だが人々は布を見ているのではない。
そこに、自分たちが失ったものを見ていた。
帝国。
勝利。
秩序。
父親。
戦友。
価値。
未来。
彼は話した。
声を高くした。
言葉と言葉のあいだを短くした。
聴衆が考える時間を与えなかった。
怒りを一つの像に集めた。
敗北には顔がある。
苦痛には原因がある。
われわれには敵がいる。
彼が「われわれ」と言うたびに、群衆の身体は一つになった。
彼が「彼ら」と言うたびに、その身体の外側に別の人間が追い出された。
象徴は、恐怖との距離を作ることもできる。
象徴は、恐怖と人間を一体化させることもできる。
スイスで、ヴァールブルクは蛇の画像を使い、人間が恐怖から半歩退く方法を語った。
ミュンヘンで、アドルフは敵の画像を使い、人間を恐怖の中へ半歩進ませた。
どちらも、戦後に生まれた言葉だった。
一方は傷を見つめるための言葉。
もう一方は傷を他人へ移すための言葉。
夜が更けた。
ミュンヘンでは銃声が響いた。
人々が走った。
倒れた。
旗が路上に落ちた。
アドルフも地面へ倒れた。
一瞬、病院の暗闇が戻ってきた。
眼を覆う包帯。
鐘の音。
看護婦の手。
われわれは何になったのか。
あの問いは、まだ彼の中にあった。
彼は答えを得たつもりだった。
だが実際には、問いを巨大にし、何千何万という人間の口に移しただけだった。
十 有明
ヴァレリーは、夜明け前の机に向かっていた。
遠いドイツで起きた騒乱の記事が置かれていた。
ミュンヘン。
武装した一団。
失敗した政変。
逮捕された指導者。
記事は小さかった。
新聞の一面を占めるほどの事件ではなかった。
ヨーロッパでは、毎日のように政府が倒れ、通貨が崩れ、群衆が行進していた。
彼は記事を切り取らなかった。
ただ、その名前を見た。
アドルフ・ヒトラー。
知らない名前だった。
新聞を畳んだ。
窓の外には有明の月があった。
戦争が終わって五年が過ぎていた。
街には新しい服を着た若者が歩き、自動車が走り、劇場では音楽が演奏された。
人々は恋をした。
子供が生まれた。
株価が上がり、下がった。
新しい詩が書かれ、新しい機械が作られた。
生活は続いていた。
生活が続くことは、救いである。
同時に、それは恐ろしいことでもある。
人間は、あらゆることのあとに朝食を食べることができる。
百万人が死んだあとにも、珈琲を飲む。
文明が崩壊したあとにも、劇場へ行く。
忘れる能力がなければ、人間は生きられない。
だが忘れる能力によって、人間は同じことを繰り返す。
精神とは、記憶することと忘れることのあいだに張られた、細い糸なのかもしれない。
強く引けば切れる。
緩めれば地面に落ちる。
ヴァレリーは白い紙を前にした。
書くべきことは、すでに書いたように思われた。
文明が死ぬこと。
知性が自らを破壊すること。
人間の精神が、自分の作った力に追いつけないこと。
だが、それでも足りなかった。
死について書くことと、死者を戻すことのあいだには、無限の距離がある。
彼はペンを置いた。
月は薄くなっていた。
夜が朝に敗れたのではない。
朝の中に、夜が見えなくなっていくだけだった。
そのとき彼は、戦後という時間の正体を理解したように思った。
戦後とは、戦争が過去になる時間ではない。
戦争が、見えないものになる時間である。
終章 戦後
一九二三年の冬、アンナは兄と歩いていた。
ヤーコプは左手で杖を持っていた。
失った右腕は、今日も痛むと言った。
二人は駅前の新聞売り場を通った。
新聞の片隅に、ミュンヘンの反乱事件の裁判についての記事があった。
写真が載っていた。
口髭のある男。
アンナは足を止めた。
「どうした」
ヤーコプが訊いた。
「この人を知っている気がする」
新聞を手に取った。
写真の男は、真っすぐ前を見ていた。
眼は開いていた。
あの日、包帯の下に隠れていた眼だった。
「病院にいた人?」
「たぶん」
アンナは記事を読んだ。
男は法廷で長い演説を行い、自分こそが国家を救おうとしたのだと主張したという。
「どんな患者だった」
ヤーコプが訊いた。
アンナは答えようとした。
暗い人だった。
怒っていた。
危険だった。
そのどれも正しくなかった。
彼女が覚えているのは、包帯と、乾いた唇と、一つの問いだけだった。
「何も見えない人だった」
アンナは言った。
「眼が悪かったのか」
「それだけではなくて」
彼女は新聞を戻した。
二人は再び歩き始めた。
駅前には復員兵が座っていた。
片脚の者。
顔を布で覆った者。
何の傷も見えないのに、壁にもたれて震えている者。
通勤する人々は、その前を通り過ぎた。
誰も冷酷なのではなかった。
毎日立ち止まっていては、生活できないだけだった。
街路電車が走った。
店が開いた。
パンの匂いがした。
子供たちが学校へ向かった。
世界は続いていた。
ヤーコプは存在しない右手を握った。
アンナは、包帯を巻いた眼を思い出した。
ベルリンでは、ケーテ・コルヴィッツが黒い版画を刷っていた。
オーストリアでは、ウィトゲンシュタインが黒板の文字を消していた。
スイスでは、ヴァールブルクが蛇の写真を箱へ戻していた。
パリでは、ヴァレリーが有明の月の消えた空を見ていた。
ミュンヘンでは、一人の男が牢獄の中で、自分の過去を新しい物語へ書き換え始めていた。
誰も互いを知らなかった。
誰も、同じものを見てはいなかった。
けれど彼らは皆、同じ戦争のあとにいた。
戦争は終わっていた。
戦後は、まだ始まったばかりだった。
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