2025年12月2日火曜日

現代哲学の別の角度からの学び方 無矛盾なものと「無矛盾でないもの」の比較で学ぶ ― 日本と西洋文化比較で学ぶ現代哲学 ネオジャポニズム/ネオ・アールヌーヴォー 心と意気と感性の隙間に浸透して埋める「気」とエーテル ― ロゴスと非ロゴス的なものの対置から ―

現代哲学の別の角度からの学び方 無矛盾なものと「無矛盾でないもの」の比較で学ぶ ― 日本と西洋文化比較で学ぶ現代哲学 ネオジャポニズム/ネオ・アールヌーヴォー 心と意気と感性の隙間に浸透して埋める「気」とエーテル ― ロゴスと非ロゴス的なものの対置から ― 1. 現代哲学をどう学ぶか ― 相対主義と構造主義 現代哲学を学ぶうえで、いちばん手前に見えてくるのは ポスト構造主義的な 相対主義 そしてそれを支える メタ認知 です。これは、キャッチコピーとしては比較的わかりやすい。 「どんな立場も絶対ではない」「自分の立場も一つの構造にすぎない」といった態度ですね。 ただし、これだけだとどうしても「きれいな理想論」で終わりがちです。 相対主義は“言うのは簡単だが、運用するのは難しい”思想です。 一方で、現代哲学の中で学ぶのが難しいけれど、実践性と具体性の土台になるのが 構造主義 です。 構造主義なしでは、「じゃあ実際に社会や心の動きをどう分析するのか」がつかみにくい。 相対主義・メタ認知 … スローガンは簡単、実装が難しい 構造主義 … 学ぶのは少し骨が折れるが、現実に手が届く道具になる 本稿では、構造主義やポスト構造主義そのものを直接解説するのではなく、 「無矛盾なもの」と「無矛盾でないもの」 という切り口から、 日本と西洋文化の比較を通して、現代哲学への別ルートを用意してみたいと思います。 2. 「無矛盾なもの」と「無矛盾でないもの」 ここで、少し変な日本語を押し通してみます。 無矛盾なもの 無矛盾でないもの 普通は「矛盾したもの」と言えばよさそうですが、あえて 「無矛盾ではない(が、必ずしも“矛盾している”とも限らない)もの」 という、ゆるい言葉を使ってみます。 なぜこんなまわりくどい言い方をするかというと、 矛盾/非矛盾の二値だけで世界を切り分けてしまうと、こぼれ落ちるものが多すぎる からです。 はっきりした論理・制度・法則 → 無矛盾を志向する「ロゴス的なもの」 それに入りきらない感情・雰囲気・場のムード → 「無矛盾とは言えないが、単純に矛盾とも言えないもの」 仏教の古い文献でも、「非非〜」「無無〜」といった、排中律に抵抗するような表現がよく出てきます。 「ある/ない」の二項対立だけではつかまえきれない領域を、どうにか表現しようとした苦心の跡です。 ここでは、整理のために: 無矛盾なもの = ロゴス的なもの 無矛盾でないもの = 非ロゴス的なもの(レトリック的・感性的なものを含む広い領域) と、大づかみに呼んでみましょう。 3. 西洋近代の宿痾:「心をなくす」方向への圧力 西洋近代とは何か。 その過程を観察するには、近代化途上の社会 を描いた文学が格好の材料になります。 たとえば、ドストエフスキー。 『罪と罰』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』『白痴』…… 一言で言えば、近代と非近代の葛藤 の物語です。 そこに頻繁に登場するのが、 イデオロギーに憑依された人間 「正しさ」の名のもとに、人間的な柔らかさ=心を失っていく人物像 です。 現代を見回しても、ある種の政治家や評論家、コメンテーターの顔つき・言葉遣いが 「昔と違うな」と感じることがあります。 かつてはもっと柔らかい人だったのに いつのまにか、イデオロギーの代弁者になってしまったように見える こうした変化は、 人間の内側を、無矛盾なロゴス(イデオロギー)で埋め尽くそうとする圧力 として理解することもできます。 西洋近代は、「心」を抑え、「原則」「条文」「教義」を前面に押し出す方向に動いてきた、と。 4. 日本と西洋 ― 「心を推す文化」と「心を抑圧する文化」 大ざっぱに言えば、日本文化と西洋文化の違いは 「心を推す文化」と「心を抑圧する文化」 の違いとして見られます(もちろん、現実はもっと複雑ですが)。 日本 その場で湧いてきた感情や感覚を、そのまま受け入れてよしとする傾向 無意識に「感じたまま」を大事にする、やや天然な側面 西洋 感じたものや湧き上がる感情に対して、「それは許されるか?」という検閲の原則が働く 心を抑え、ルールや信条を優先させる、やや人工的な側面 もちろん日本にも心を抑える場面はあるし、西洋にも心を推す場面はあります。 ただ、基盤にどちらの傾きが強く埋め込まれているか という話です。 ここで重要なのは: 西洋 … ロゴス的なもの(原理・教義・法則) を前景化 日本 … 非ロゴス的なもの(場・空気・気配・心) を厚く育てた という 設計思想の違い です。 5. ロゴス中心主義とイデオロギー 西洋近代を支えてきたのは、聖書と古代ギリシア思想の連合体です。 ヨハネ福音書は「初めに言葉(ロゴス)があった」と宣言し、 ある意味では「神 = ロゴス」とまで言ってしまいました。 ここから、 ロゴス中心主義 = イデオロギー中心主義 が強化されていきます。 ロゴス … なるべく無矛盾で、一貫した説明を目指す イデオロギー … ロゴスで練り上げた世界観・価値観のパッケージ 法学・神学・経済学・科学理論などは、このロゴス中心主義の典型です。 「正しさ」「整合性」「一貫性」「真偽」を追い求める領域ですね。 現代の論理学は、実は矛盾を扱うロジック(パラコンシステント論理など)も生み出していますが、 それでも対象は、基本的に「命題」「理論」「知識」といった ロゴス側の材料 に限られます。 感情・感性・意欲・場のムードは、原理的にロジックの外側に置かれてしまいます。 つまり、無矛盾なものは強力な道具で扱えるが、無矛盾でないものは扱いが難しい。 この非対称性が、現代哲学を学ぶときの一つのポイントになります。 6. 言説とそれ以外 ― 象徴界と「その他もろもろ」 人間の心の中には、大きく分けて 言説的なもの(言葉・記号・イデオロギー) 非言説的なもの(イメージ・感覚・感情・欲望など) が同居しています。ラカンは前者を「象徴界」と呼びました。 さらに、言説の中にも 無矛盾を志向する イデオロギー(ロゴス) 説得・扇動・冗談・下ネタなどを含む レトリック 感嘆・掛け声・終助詞・オノマトペのような、論理にも修辞にも回収されない表現 など、さまざまな層があります。 ここで、 イデオロギー = 無矛盾なものの代表 それ以外の言葉・イメージ・感情・欲望 = 大雑把に 「無矛盾でないもの」 と見なしてみると、世の中は長いあいだ 無矛盾なイデオロギーが主役 その他もろもろは脇役 として扱われがちだった、と言えるでしょう。 7. 日本 ― 「異端が正統になった」文化として ところが、日本には少し奇妙なねじれがあります。 西洋ではしばしば「異端」とされた要素が、日本ではむしろ 正統・中心 に座ってしまうのです。 たとえば、 対象への感情移入・投影 物や場所に「心」を見る感性 場の空気・気配を最優先する態度 などは、西洋的な禁欲的ユダヤ・プロテスタント文化からすれば、 「偶像崇拝的」「感情移入しすぎ」と見なされがちな要素です。 しかし日本では、 対象に心をこめる・投影する・感じること = 人間のロゴスであれパトスであれ、最優先で肯定されるべきこと として受け取られてきました。 ここで言う「心」とは、 人間に対する共感だけでなく、非人間的なもの・無生物・概念にまで及ぶ感覚です。 桜に心を感じる 使い込んだ道具に「魂」を見る アニメキャラや架空の存在に本気で感情移入する こうしたあり方は、西洋的なロゴス中心主義から見ると「周辺」だったかもしれませんが、 日本では 周辺がそのまま中心を乗っ取ってしまった ようなところがあります。 これを少し気取って言えば、 「周辺から正統へ」 日本とは、西洋の異端が標準装備になった文明圏である という見方もできるでしょう。 8. ロゴス/非ロゴスで見る日本ブーム では、なぜいま世界で日本文化への関心が高まっているのか。 理由はいろいろ考えられますが、この文章の文脈に沿ってあえて一つだけ言うなら、 西洋側が、「非ロゴス的なもの」の価値を否定しきれなくなってきたから と説明できます。 長いあいだ、西洋は「神と条文」とイデオロギーで世界を組み立ててきた その結果、豊かさの一方で、味気なさ・疲労感・メンタルヘルスの問題も噴き出した そこで、「場」「空気」「気配」「推し」「オタク的情念」といった 非ロゴス側のソフトウェアを厚く持つ日本文化が、 一種の「もうひとつのOS」として魅力を帯び始めた と見ることができます。 一方で、日本側もまた、戦後の高度経済成長やグローバル化を通じて、 西洋的なロゴス(法・契約・合理性・市場原理)をかなりインストールしてきました。 その結果、 西洋側 … 非ロゴス(場・気配)の重要性を再発見しつつある 日本側 … ロゴス(法・契約・論理)の重要性を痛い目に遭いながら学んできた という形で、両者のメンタリティが以前より接近している のかもしれません。 9. 現代哲学をこの視点で学ぶために ― 小さな実践 ここまでの話を、現代哲学の学び方に引き戻してみましょう。 9-1. 世界を二つのレイヤーで見る 日常のニュースやSNS、文学作品、人間関係を眺めるときに、 これは ロゴス的なもの(無矛盾を志向するもの) か? それとも 無矛盾でないもの(感情・場・気配・雑多なもろもろ) か? という二つのレイヤーに分けてみる。 法律・政策・イデオロギー・「正しさ」を語る文章は、概ねロゴス側。 そこにまとわりつく終助詞、オノマトペ、空気感、場のムードは非ロゴス側。 どちらか一方だけを真とし、他方を無視するのではなく、 両方が絡み合って世界を形作っている という感覚を持つことが、構造主義的な見方の良い入口になります。 9-2. 図と地を入れ替える訓練 ゲシュタルト心理学のルビンの壺のように、 普段は「図(ロゴス)」として見ている部分を地に引き下げる 逆に「地(非ロゴス)」だった空気・場・心の動きを主役にして眺めてみる という 視点の反転 を意識的にやってみると、 「構造が見える感覚」が少しずつ育っていきます。 9-3. 日本文化を「非ロゴスの高度な実験場」として読む 和歌・俳句・マンガ・アニメ・ネットスラング・オノマトペ・敬語…… これらを単なる“日本的おもしろ文化”として消費するのではなく、 「非ロゴス的なものをここまで高度に扱っている例」として読む と、現代哲学への距離がぐっと縮まります。 10. 結び ― 無矛盾でない世界を抱えたまま生きる 現代哲学の最前線では、矛盾を含んだままの世界をどう生きるか、 という問いがさまざまなかたちで繰り返し問われています。 無矛盾なロゴスだけで世界を埋め尽くすことはできない だからといって、ロゴスを全部捨てて感情だけで生きるわけにもいかない このあいだを行ったり来たりしながら、 矛盾や揺らぎを抱えたまま、生きていく技術 を少しずつ磨いていく。 その際、日本という「非ロゴスの実験場」から学べることは、実はとても多いのではないか――。 そんな仮説のもとに、本稿の「別ルートからの現代哲学入門」を終えたいと思います。

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