2025年12月9日火曜日

量子論:構造主義ではない実在論相対化のもう一つの立場 実在論・構造主義・量子論の鼎立は可能か

量子論:構造主義ではない実在論相対化のもう一つの立場 実在論・構造主義・量子論の鼎立は可能か 1. 構造主義を使わなくても「非実在論」はありうる 現代哲学の基本的な枠組みの一つは、ざっくり言えば 実在論(リアリズム) 構造主義(ストラクチュラリズム) の対立と緊張関係です。 実在論は、ほとんどの人の頭に「デフォルト設定」として染みついている前提です。 世界には人間の心とは独立に、しっかりした“モノ”や“本質”がある。 観測や言語は、それを写し取ったりラベルを貼ったりしているだけだ。 構造主義は、それに対して いや、むしろ「構造」や「差異」や「制度」の方が先にあって、 「モノ」や「主体」はそれによって“立ち上がってくる側”ではないか。 という方向から、実在論の絶対性を相対化してきました。 ここで言いたいのは、 実在論は、実用的だし発達の過程で自然に身につく「知的OS」 構造主義は、それをメタ認知して書き換える「上位のOSアップデート」 という関係に近いだろう、ということです。 ただし、実在論を批判しながら、単なる「否定」で終わらせず、 別の見方でも世界はちゃんと説明できると示せる思想は、構造主義だけではありません。 そこにもう一つ、非常に強力な選手がいます。 それが物理学の 量子論(量子力学・量子論的世界像) です。 量子論を「思想」と呼んでよいかはともかく、 その世界像は十分に哲学的なインパクトを持っていますし、 実在論だけでは足りない 構造主義だけで生きるには冗長で疲れる という現代人にとって、第三の視点としてちょうど良いバランスを提供してくれます。 個人的な立場を言えば、 認識論・存在論の基礎では構造主義は実在論を含む形でより包括的 しかし、実在論だけでもある程度世界は回るし、生活には便利 そこへ量子論という物理側からの「第三の視点」を立てることで、 実在論と構造主義を“挟み撃ち”にできる という配置がいちばん面白く、かつ実りが多いと感じています。 2. 実在論の肝としての「境界」と「体積」 実在論の中核にある直感は、デカルト以来の「延長」の概念です。 物質的な世界には「体積」があり、「境界」があり、「空間を占有する何か」がある。 それは勝手に消えたり現れたりせず、ある程度の恒常性を持つ。 このイメージが、「実体」「実在」という言葉の素朴なイメージを支えています。 精神や観念の世界はこれとは違うように見えますが、 それでも私たちはしばしば、観念を「心の中の物体」のように扱います。 思想が「頭の中にある感じ」 感情が「胸のあたりに居座っている感じ」 などは、延長や体積のメタファーで心を捉えている例とも言えます。 ただ、この「延長」を数学的に真面目に扱おうとすると、 ユークリッド幾何学の冒頭でいきなりつまずきます。 点とは、大きさを持たないものである。 で、納得できる人はそれでよいのですが、 よく考えると「大きさのない何か」とは何なのか、かなり不思議な定義です。 境界も体積もない「点」が、どうやって「線」や「面」や「立体」の基礎になるのか 実在論的な“モノ”の感覚を素直に延長していくと、どこかで概念がすべってしまう その違和感や限界が、集合論・位相空間を経て、 構造主義的な現代数学(圏論など) を生み出してきた側面があります。 それでも、実用上は「点」も「質点」も、 実在論的に扱った方がずっと楽です。 量子論でさえ、 粒子の大きさや境界を本気で詰めていくと頭が爆発するので ある程度は「ここにある小さな粒」のように仮構して計算する という「実在論からの借用」を手放しきれてはいません。 3. 古典物理学は徹底的に実在論的である その意味で、古典物理学はほとんど純粋な実在論の世界です。 質点 剛体 連続体としての流体や弾性体 どれも、実在論的な直感さえあれば、十分に学べます。 「どこそこに、これくらいの質量を持った物体があり、 その位置と速度は常に確定して存在している」 観測は、その既にある性質を「読み取る」だけであり、 時間発展はニュートン方程式などで決まる。 これは、かなり素直な「素朴実在論+決定論」のコンボです。 逆に言うと、 実在論+古典物理学の世界しか知らない状態で 量子論に挑むと、大抵はどこかで挫折します。 高校物理の延長で量子論を理解しようとすると、 決定的に足りないものが多すぎるのです。 いったん 構造主義(言語・意味・制度側からの相対化) 量子論(物理側からの相対化) を通ってから古典物理学を振り返ると、 それまで「当たり前」だと思っていたものが別の顔を見せ始めて、とても楽しい。 ただ、その贅沢な視点を身につけるまでの学習コストが高いのもまた事実です。 4. 現代哲学の三点セットとしての 実在論・構造主義・量子論 現代哲学は、構造主義とポスト構造主義の登場によって、 実在論を相対化し 相対化そのものをメタ認知し 多重の視点を遊べるところまで来ました。 仏教はこれをかなり明瞭に図式化していて、 原始仏教の縁起と中道 大乗仏教の空論と中観 天台の三諦論(仮・空・中) などに、明確な三点構造が見えます。 たとえば三諦論を、かなり乱暴に対応付けると、 仮諦 「とりあえずそう見なす世界」 日常的な実在論、社会的な仮構 空諦 実体を否定し、関係や構造のレベルで見る 構造主義・ポスト構造主義的な相対化 中諦 両者を貫きつつ両方を生かすメタな視点 メタ認知的な立場、複数のOSを切り替えて使う態度 ここで問題になるのは、 「構造主義以外に、実在論と対抗できる別の理論はないのか」 という点です。 現代哲学だけを見ていると、 構造主義の対抗馬として具体例を挙げるのが少し難しいのですが、 ここで出番が回ってくるのが量子論です。 量子論は、 構造主義で翻訳しようと思えば翻訳できる 実在論で読み替えようと思えばそれも一部可能 という性質を持ちつつも、 自然科学としての実証を背景に持ち 実験と理論の緊張の中でアップデートされ続けている という点で、哲学理論とは違うタイプの「第三の極」です。 その意味で、 実在論・構造主義・量子論の三者を、 一種の「鼎立する三点」として扱う という戦略は、現代哲学を広く一般に開くうえで、かなり使い勝手がよいと思います。 5. なぜ量子論は、実在論に対する「構造主義以外の理論」になりうるのか 5-1. 量子論が古典的実在論を揺さぶる理由 古典力学的世界像は、 「誰も見ていなくても、月はそこにあり、 その位置と運動量はちゃんと決まっている」 という素朴実在論を前提にしています。 量子論(特にコペンハーゲン的理解やベルの不等式の結果)は、これを根本から揺さぶります。 観測するまでは、位置やスピンなどの性質は確定していない 観測とは、「元からあった値を読む」のではなく 「関係の確定」というイベントに近い 量子もつれでは、「ここ」と「そこ」の状態を分解不能な一つの全体として扱わざるを得ない この世界像は、 「隠れた本質がどこかにあり、それを探り当てる」 という古典的実在論の語り方とは、根本的に整合しません。 ただし、量子論にも 道具主義・反実在論寄りの解釈(コペンハーゲン等) 実在論寄りの解釈(多世界解釈、ボーム理論、GRWなど) が共存しているので、 「量子論=非実在論」 と言い切ってしまうと危険です。 むしろ、 「量子論は、古典的実在論が当たり前と思っていた前提 (局所性・決定論・観測から独立した性質)を そのままでは維持できないところまで追い込んだ理論」 という言い方の方が正確でしょう。 5-2. 構造主義との「共犯関係」 実在論・構造主義・量子論を、ざっくり比較すると次のようになります。 実在論 基本単位は「個体」や「主体」 性質は、そのものに内在している メッセージ:「真実は“そこに”隠れている」 構造主義 基本単位は「関係」や「構造」 性質は、全体の中の位置関係や差異によって決まる メッセージ:「真実はシステムが生み出す効果にすぎない」 量子論 基本単位は「状態」と「相互作用」 性質は、観測という関係の中で確定する メッセージ:「現実とは、観測結果のパターンの総体である」 どちらも、古典的実在論から 「実体(substance)から関係(relation)へ」 という方向に重心を移している点で、共犯関係にあります。 5-3. 構造的実在論と「量子構造主義」 科学哲学には、構造的実在論(structural realism) という立場があります。 電子やクォークという“粒”が実在するかどうかは怪しいが、 それらの間の数学的な「関係構造」だけは実在しているとみなそう。 という立場です。 量子論をこの方向から読むと、 量子論は、「対象そのもの」ではなく 「状態空間と演算子の構造」「確率的相関の構造」の方に実在を移動させた理論 とも言えます。 これはもはや、 物理学版の構造主義 あるいは「量子構造主義」 と呼びたくなるほど、哲学的な構造主義と接近しています。 6. 量子論から見た時空間の書き換え 実在論・構造主義からの時空観の再構成 ここで、実在論の前提にもう一度立ち戻ってみます。 実在とは何か。 いちばん分かりやすい例は「物体」である。 空間を占有し、変化や変形をしてもある程度の恒常性を持つ。 とするなら、実在は時空間の中にあるという前提が隠れています。 では、その時空間概念そのものを揺さぶってしまったらどうなるか。 量子論、とくに量子情報・量子重力の最前線は、 まさにこの方向に踏み込みつつあります。 6-1. もつれが示す「距離」の崩壊 量子もつれは、 どれだけ遠くに離しても 一方の測定結果と他方の測定結果に 強い相関が現れる という現象です。 ここで重要なのは、 相関は「瞬時」に立ち現れているように見えるが それを利用して「情報」を光速より速く送ることはできない という点です。 つまり、 因果律(光速度制限)は壊れていない けれども「物理的距離」と「関係としての近さ」は別物らしい という状況になります。 そのため、 空間的に遠く離れていても、 関係的には「限りなく近い」ことがありうる という、二重の距離概念が必要になります。 6-2. 重ね合わせと「時間」のゆらぎ 遅延選択実験などを真面目に考えると、 現在の観測が、過去の「経路」のあり方を決めてしまうように見える 観測前の状態は「まだ決まっていない」のか、 あるいは「複数の可能性が並立している」のか といったイメージが出てきます。 時間が、 過去から未来へ一方通行に流れていく“物理的川” というより、 観測(関係の確定)が起きるまでは、 過去も未来も「可能性の束」として重なっている と見た方がよいのではないか、という感覚が生まれます。 日本語的に言えば、 主語が先にがっちり決まっていて あとは述語がそれに従う のではなく、 述語的な「コトの起こり方」によって、 はじめて主語が立ち現れてくる という語感の方が、量子論的にはしっくりくるかもしれません。 6-3. 「ER=EPR」と創発する時空間 量子重力やホログラフィーの分野では、 量子もつれ(EPR) ワームホール(ER) が、何らかの意味で同じものの別表現なのではないか、 という「ER=EPR」仮説が提案されています。 ここでは細部は省きますが、 ざっくりと言えば、 量子もつれのネットワーク構造が、 幾何学的な距離や時空の「つながり」として現れているのではないか という発想です。 そうだとすると、 根源的なのは「関係」や「情報」のネットワーク 3+1次元の時空は、そのネットワークの見かけの姿、 一種のホログラムにすぎない ということになります。 6-4. 圏論的な世界像としてのまとめ 先生の圏論的な直感でまとめるなら、こう言えます。 従来の時空観(集合論的な絵) まず「空間」という箱があり そこに「点」や「物体」が並んでいる 近さ・遠さは座標の距離で決まる 新しい時空観(圏論的な絵) まず「関係」や「射」のネットワークがある その濃淡やパターンが、「距離」や「幾何」として見えているだけ 近さ・遠さは、「どれだけ強く・直接的につながっているか」で決まる このとき、 時空はOSではなく、「UI」や「アプリ層」かもしれない。 本当のOSは、ヒルベルト空間と射・もつれのネットワークにある。 という比喩は、かなりしっくり来ると思います。 7. 結論 実在論・構造主義・量子論の「鼎立」と相互翻訳 ここまでをまとめると、次のような絵が見えてきます。 実在論 個体・物体・主語を前提にする世界像 日常生活や工学、古典物理学には非常に実用的 構造主義 関係・差異・構造を前面に押し出す世界像 言語・文化・制度・精神分析など、「意味」の側を相対化する 量子論 状態・相互作用・相関を中心に据える物理学的世界像 古典的実在論の前提(局所性・決定論・観測独立性)を揺さぶり 構造主義と親和的な「構造的実在論」へも接続できる これら三者は、 互いに相容れない「教義争い」をするための三つ巴ではなく 互いを翻訳し、補完し、相対化し合うための三点測量の頂点 として並べてしまうのがよいように思います。 日常や工学では、素直な実在論で考える方が圧倒的に楽で速い 社会・文化・イデオロギーを扱うときには、構造主義で一度地図を書き換える 物理世界や時空の基盤を考えるときには、量子論を第三の極として参照する そのうえで、 実在論を構造主義の言葉で翻訳することも 構造主義を実在論の比喩で説明することも 量子論を両者のどちらの言語でも表現し直すことも すべて「可能だが、それだけではもったいない」として扱う。 実在論・構造主義・量子論の鼎立は、 「どれが正しいか」を決めるためではなく、 「どのOSで世界を立ち上げるか」を状況に応じて選べるようにするための三本柱である。 こう位置付けておくと、 現代哲学・現代物理・仏教的思考を、無理なく一つの地図の上で扱えるようになるのではないかと思います。

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