2025年12月2日火曜日

現代哲学の別の角度からの学び方、無矛盾なものと無矛盾でないものの比較で学ぶ ―日本と西洋文化比較で学ぶ現代哲学、ネオジャポニズム ネオアールヌーボー 心と意気と感性の隙間に浸透して埋める気とエーテル -ロゴス、非ロゴス的なものの対置から-

現代哲学の別の角度からの学び方、無矛盾なものと無矛盾でないものの比較で学ぶ ―日本と西洋文化比較で学ぶ現代哲学、ネオジャポニズム ネオアールヌーボー 心と意気と感性の隙間に浸透して埋める気とエーテル -ロゴス、非ロゴス的なものの対置から-  現代哲学の学び方として一番大切なのはポスト構造主義的な相対主義とメタ認知です。  これは学習が簡単です。  現代哲学で多分学習が難しい概念は構造主義になります。  これは現代哲学を学ぶ優先順位は前者より下がるかもしれませんがこれが分からないと具体性や実践性が期待できません。  相対主義やメタ認知は理念や理想主義みたいなものでキャッチコピーは簡単です。  例えばフランス革命を例にすると「自由、平等、博愛、(愛国心)」みたいなのはぱっと言葉を挙げられただけで聞く人は分かったつもりになります。  ただこれらを実装するのは非常に高度な実務処理やシステムの限界を熟知する必要があります。  そもそも自由にせよ平等にせよ実現しようとすると現実的に手間がかかるというレベルでなく内的な矛盾やパラドクスを内包しておりシステムエラーを起こします。  そしてその矛盾やパラドクスは本質的なものなので除去不能なのでそういうのを知ったうえで自由や平等を運用しなければいけませんが不幸なことにそれを知らない人や場合が多いので世の中の混乱の元になりがちです。 現代哲学を広める活動としては理解が難しいと思われる構造主義の理解と納得と啓発が一番難しいけどやらなきゃいけないことだと思っていました。 もう一本の柱はポスト構造主義の相対主義の普及ですがこれは簡単です。 簡単ですが受け入れがたいという思想系列に属している人も多いので受け入れないながらも知ってもらって必要に応じては共通のリテラシーを世の中に確立するのが使命です。 これと同じものは仏教の空と中道の思想と同じなので宗教としてではなく哲学として仏教を普及するのでもいいです。 更に厳格な構造主義は現代数学がぴか一ですが理系の人で数学基礎論好きの人はこのアプローチもおすすめです。  実質構造主義を学ぶという現代哲学の学習アプローチは退屈でマンネリでもあります。  なんでもそうですが何か学びたければいろいろなアプローチ法があった方がいいに決まっています。  あるアプローチでは分からなかったり拒絶感を持ってしまったりしても別のアプローチをすれば学習対象を楽しく学べるかもしれませんし、他の方法ではピンとこなかったものがピンとくることもあるかもしれません。 ただこのアプローチで現代哲学を勉強するだけでなくもっといろんな見方で現代哲学を眺められるのがいいでしょう。 対照はいろんな角度、側面、視点、切り口、何でもいいですがいろんな見方・考え方ができるのが現代哲学が他の対象に向ける姿勢としてではなく現代哲学が現代哲学自分自身に対する態度としても例外なく向けていくのがいいでしょう。 なのでここでは世界を現代哲学を使って無矛盾なものと無矛盾でないものに分けて論じてみようと思います。 無矛盾というのはロゴス的と言ってもいいかもしれませんし理性的と言ってもいいですし別の言い方もたくさんありますがとりあえずこの切り口で現代哲学で世の中を分析する方法を説明してみようと思います。 ・無矛盾なものと無矛盾でないもの  「無矛盾でないもの」というのは持って回った表現です。  「「単に矛盾したもの」と言ったらいいのではないか?」という疑問がわくのではないでしょうか。  それでもいいのかもしれませんがそれだと世界が「矛盾」というカテゴリーだけで閉じた感じになります。  「無矛盾的なもの」とすれば矛盾したものを含んだ、矛盾とか無矛盾とかとは関係ないその他のよく分からないいろいろな物を含ませることができます。  こういうのは排中律を簡単には受け入れない世界、例えばお釈迦様時代のインドはヤスパースのいう枢軸時代というもので古代ギリシアや春秋戦国の中国みたいに様々な思想が百花繚乱花開きました。  インドでも諸子百家、百家争鳴みたいになっていたのでいろいろな思想が現れますが、その時代、あるいは仏教が根本分裂、枝葉分裂して部派仏教だった時代にはやたらと非非なんとかとか、無無なんとかという表現が出てきますが排中律による単純化という特性を意識し熟知しているという点では評価できます。  「無矛盾的なもの」と「無矛盾的でないもの」という表現では慣れないし耳障りが悪いというのであれば「ロゴス的なもの」「非ロゴス的なもの(レートリケー(レトリック)的なもの)」という表現も並行して使います。 ・西洋近代の宿痾、「心をなくす」  西洋近代とは何か近代化とは何かを考える際には近代化途上の社会を見てみるのがいいかもしれません。  せっかくだから一流の物を使いたいので文学世界一候補の一角であるドストエフスキー自身とその文学作品を例にとっていましょう。  ドストエフスキーの小説は一言で言ってしまえば近代と非近代の葛藤です。  ここら辺を来会するにはドストエフスキーの小説をじかに読むだけでは不十分なのでドストエフスキーの小説の解説集(例えば『謎解き罪と罰』『謎解きカラマーゾフの兄弟』)などがいろんな人が出しているので読んでみるのもいいですし、バフチンのカーニバル論やポリフォニー論も有名です。  ドストエフスキーの小説の中ではイデオロギーに取りつかれた人が出てきます。  「罪と罰」のラスコーリニコフでもいいですし「悪霊」のスタヴローギンでもいいですし「カラマーゾフ」のイワンでもいいしなんなら「白痴」のムイシュキン侯爵でもいいです。  ある種のイデオロギーに染まった人間が非人間的になるというのは近現代のテーマです。  今でもある種の政治家や評論家やコメンテーターの顔つきが以前と変わってしまっている人がいます。  いろいろ事情があるのでしょうが一部はイデオロギーに憑依されてしまって人間性というか柔らかい「心」みたいなものを失ってしまった人たちなのかもしれません。  「若い時とか以前はこうじゃなかったのになあ」と感じる人はよく見かけるでしょう。  身近にもいると思います。   ・文明、文化としてみた場合の日本と西洋圏の違い  日本文化と西洋文化の違いを一言で表すと 「心を推す文化と心を抑圧する文化」 の違いになります。  もちろん簡単に分けられるものではなく分けるべきものでもありません。  日本文化にも心を抑圧するTPOがありますし西洋文化にも心を推すTPOがあります。  でも大雑把な基層にはこういう傾向があります。  日本人は無意識的にやっているところがあるのでやや天然、西洋文化は意識してやっているところがあるのでやや人工的です。  日本はその時感じたもの、湧いてきた感情を受け入れて従う文化です。  西洋文化にはそれを禁止する意識と原則が基底に常に働いている文化です。  ぐっと単純化してイメージ付けを行えば結果として日本人の内面は感じたものやわいてきた感情で満ちている状態になります。 他方で西洋文化では感覚的に何かを感じたり、何かの感情がわいてもそれが禁止事項に振れれば抑圧したり、封殺したり、ないことにしてしまう文化になります。  これは場合によってはOSとかBIOSとかレベルではなく電子回路の設計レベル、というかハードレベルで違う可能性すらあります。  仮に日本人が2000年くらい島国で海外から隔離されて独自な環境で遺伝子の突然変異や自然淘汰を重ねてきたとするとそもそもネアンデルタール人と現生人類のホモサピエンスほどではないかもしれませんが外の世界との違いが脳のレベル、脳の形態は個体発生をつかさどるDNAレベルで存在しているのかもしれません。  動物の家畜化や家畜化実験、あるいは生き物の品種改良を見ていると結構短い期間で変化が出ることが分かっています。  むかし白人と黒人の間の子供は子孫を残すが白人と日本人、黒人と日本人の子供は子孫が続かないという観察を述べた人がいました。  数十年前の個人的観察なので現在では違っているかもしれませんが。   ・いろいろあってなかなか日本人と西欧人は溶け込めない時代が長かった  多分明治維新後2020年代くらいまでは2025年現在と比べるとなんとなく古い日本人は西洋文化圏の人々と相いれない感じを持っていたのではないでしょうか。  草の根で理解と共感は深まったり広がっていたのかもしれませんが大きく社会的に実感されたり可視化されたりしたものとしてはまだまだだったのではないでしょうか。  ところがコロナ後くらいから鈍い我々年配層から見ても日本文化の西洋文化圏に対する受容が爆発的に起こっているように見えるようになりました。  少なくとも1970年代生まれくらいの日本人は世界の中で日本と日本人はぼっちで特殊でよその人というか外人・外国人とは理解しあうのが困難感を持っていた人が多かったのではないでしょうか。  もちろん両方の世界には昔から交流がなかったことはありません。  西洋社会の日本の需要の点からみると19世紀末のジャポニズムとアールヌーヴォー、戦後の禅ブーム、冷戦期の日本製品の輸出、日本アニメの輸出、ゲームの輸出、オタク文化やアングラなネット文化の輸出見たいなものがあります。  そういう目で見ると日本もいろいろ輸出しているなとなりますが今回の日本ブームは昔より規模が大きいのと、最も大きな違いとしてメンタリティの垣根がだいぶ低くなっているように見えます。  日本は昔から宣教師に褒められたり、黄禍論を言われたり、差別されたり、日本特殊論があったり、日本ガラパゴス論があったり、日本は第8の文明である論があったりと良くも悪くも別枠扱いされてぼっちでした。  ただ最近はなんとなく世界が日本を積極的に理解してくれているように見えます。 ・そもそも土台の設計思想が違うのになぜ受け入れ可能になっているのか  先ほど西洋文化圏と日本ではOSやらDNAやらが違うと強調しました。  それはともかく後天的に文化的なもので違う部分もあると思うのでその際に参考になるのが現代思想の直にはやった西洋のロゴス中心主義という考え方です。  ロゴスは英語ではロジックですが別の言葉では記号(言語)中心主義とも言えますし、イデオロギー中心主義とも言えます。  一応ロジックの意味なので真偽とか正しさや正義を目指しそうですが最近の論理学はロジック必ずしも真偽や無矛盾だけを扱いませんし、そもそも人間が現代的な意味で記号論理学的な厳密な真偽の論理学があったのもこの100年程度にすぎません。  しかも専門家を除いてほとんど使えません。  という事はいつの時代でも世の中いかに論理的でないか、真偽や無矛盾や一貫性や整合性の論理がなくても世の中は成り立ってしまうわけです(ただ失われた30年だの共産圏の大量飢餓死などを問題とするならばなんとかなっているとはとても言えないとも言えますが)。  日本人の心が一瞬のひらめきや感覚的感性や湧き上がる感情や情動みたいなふわふわしたもので満たされているとすれば、西洋文化の人の心の中には神と条文みたいなイデオロギーが散在しその隙間は真空です。  真空になってしまうのは唯一神を思う以外の対象には感情移入や臨在感を感じるなどの感情を禁止するための内外のシステムが働いているからです。  いわゆる偶像崇拝禁止がそうですし、唯一神以外には神を認めない(神聖さや聖性を感じてはいけない)というルールもそうですし、神は創造者でその他の物は被造物なので被造物に特別な感情を持ってはいけないというものもあります。  宗教以外にも牧畜や遊牧民の心理で説明する考え方も昔はあり今でもあるかもしれません。  家畜に感情移入してしまう事への禁止です。  ペットと違って家畜は殺したり、売ったり、食べたり、死体の部位を生活に利用します。  ペットや人間で同じことをしたら現代社会では、そして人道主義が現在より薄い昔でもかなりやばかったのではないでしょうか。  神に対しては祈ってもいいのですがイメージする場合は形而上学的なものとして、と言っても頭の中で行うのは観念的な表象とか概念化で要するに単なる想像です。  神に祈ったり神の事を考えたからと言って考えたり祈った自分が聖なるものに近づくと考えるのは不敬です。  神は絶対で超越していなければならず、それ以外は自分も人間も含めてただの物で土くれです。  この区別は絶対的なルールです。  出ないと唯一神の唯一性と神性を犯すことになります。  このようなことを頭の中や社会の中で常時やっていると頭の中が唯物的になります。  神様を考えるのは別としてその他の物に対しては唯物主義になります。  おじいさんがユダヤ教のラビでしたが近代ユダヤ人のゲットーからの解放史と近代への同化の中でお父さんの代くらいで改宗したマルクスが唯物的だっただけでなく、原理主義的な聖書主義は唯物的になります。  時に神さえも理神論でシステムの作り手ではあるが人間にはかかわらずシステムにお任せ仮説もあります。  無神論的だったり無視神論というか神に興味が薄い人だったりしても理神論的な考え方で神を一応信じている西洋人は多いのではないでしょうか。  マルクスが唯物論を持ち出すまでもなくそもそもユダヤ教やプロテスタントは唯物論的です。  他方でカトリックは偶像崇拝も許しているし聖書文化圏の中でも日本人に近い部分があるのではないでしょうか。  ですから宗教改革後のクリスチャンや市民革命後のゲットーから解放されたユダヤ人が影響を持つと日本人と非常に対照的、味方によっては対立的になります。 ・西洋文化は唯物論的であると同時にイデオロギー的  ロジック化されているアイデアはイデオロギーとしましょう。  必ずしも言語化や記号化されているわけではなく、真偽の二値論理学化が厳密になされているものではありませんがそういうものを志向して作られている考え方のひとまとまりをイデオロギーとしましょう。  そう定義するとイデオロギーはロゴスの内容と種類を表すものになります。  世の中にはいろんなイデオロギーがあります。  イデオロギーがロゴスであれば何となく無矛盾性を志向します。  イデオロギーが我々が人間性や社会性と呼ぶものの中でも硬い部分を形成しているといえます。  我々の世界はいろいろなイデオロギーで構築されています。  政治、法、制度、宗教、倫理、道徳、科学、技術、産業、美術、芸術、音楽、文学、何でもいいですが~制とか~主義とか~法とか~則とか~教とか~理論とか~理とか語尾につくことが多いです。  文学や美術はイデオロギーではないのではないかとかロゴスではないのかという意見もあるでしょう。  そういうものは必ずしも無矛盾性を志向しないからです。  イデオロギーが無矛盾を志向して無矛盾的なものであるとすればこういったものは「無矛盾でないもの」と言えるかもしれません。  無矛盾でないものの研究というのは大変難しいです。  無矛盾なものは論理や数学基礎論みたいな強力なものが使えます。  これらは最近では矛盾なものを取り扱う論理学があるようです。  パッと上げるとパラコンシステント論理、ダイアレティカル論理、関連論理、多値論理、非単調論理、パラコンプリート論理、知識ベース型拡張、ファジー論理などです。  理系の人や思考はやっぱりすごいのですが扱うのが真偽や正しさを扱う思考であって感性や感情や意欲は扱いません。  そういう意味では思考、そしてそれが扱う無矛盾なものは扱いやすいです。  まあ感情も意欲も矛盾というか葛藤とかはあるかもしれませんがそういうのは置いときます。  そういうものを扱うのはここでは無矛盾なものではなく無矛盾ではないものとして扱います。 ・世の中は矛盾のないものを主役に構成されがち  人の心も世の中も矛盾のないもの、あるいは無矛盾を志向するものを主人公にして構成されがちです。  それは真理であり正義に近いしいものだからでしょうか。  聖書もギリシア思想を取り入れて「初めに言葉があった」というルカ福音書の冒頭の文句で大胆にも「神はロゴス」と宣言してしまっています。  これは日本人には違和感たっぷりでしょう。  聖書と古典ギリシアをOSとする西洋文明はロゴスで世界を構成したり分析しようとします。  個々のロゴスはイデオロギーなのでロゴス中心主義はイデオロギー中心主義でもあります。  ロゴスは整合性と一貫性、無矛盾性を大切にしますのでイデオロギーもやっぱり硬質なものです。  真理であり正義であり権威です。  ですからラビユダヤ教ではファリサイ人のような聖書学者が強くイエスのように「権威あるもの」のように語るとバッシングを受けました。  このロゴス(イデオロギー)中心主義と唯物論が日本人から見た西洋文化圏の一つの特徴です。 ・なぜか日本では異端が主流になった  西洋文明が唯物論とイデオロギー中心主義が骨格にあると書きましたがもちろんそれだけではありません。  別に非唯物論的、非イデオロギー的な要素もあります。  何にせよ人も人の世も無矛盾的なものと無矛盾的でないものの両方で成り立っています。  無矛盾的でないものは矛盾したものとそもそも矛盾という観点で見るべきではない様々な雑多なものを含んでいます。  美術や文学やエンタメなどそういうものが主役になる場面もあるのでしょうが、硬い大人の社会はイデオロギーを骨格に設計されています。  まあ人間はそんなにきれいでも全でもないので海千山千でいろいろ汚いところや腐敗もあるものですがそういう大人の部分も硬いかもしれませんが非無矛盾的なものに入れとけばいいかもしれません。  場合分けで2つに分ける場合の便利技で~でないものを何でもごった煮の吹き溜めのガラクタ箱として一括処理できる便利さがあります。  ちなみに言葉だからといってロゴス≒論理とは限りません。  レートリケー(レトリック)というものもあります。  説得術、弁論術、詭弁術などと訳され内容の真や正しさに関わらず相手を目的に誘導するための手段を問わない言葉の使い方です。  これも言葉で構築されています。  かつ言葉や記号はロジックやレトリックを扱うものだけではありません。  例えば文法では法(mood)というのがあります。  例えば直説法、命令法、関節法(仮定法、接続法)などがあります。  ロジックは直説法の平叙文で記述されます。  レトリックは全部使うかもしれません。  ただ言葉や記号はロジックやレトリックを扱うだけではありません。  下ネタも扱いますし冗談も扱いますし掛け声も扱いますし感嘆も扱うしうめき声も悲鳴も喃語も扱いますし言い尽くせないくらいいろんなものを扱います。  そういうものは無矛盾なものもあれば無矛盾ではないものもあるでしょうが論理や修辞を扱わない言葉や記号の使い方はたくさんあります。  言葉の集合はロゴスとレートリケーだけでなくその他の多様なものを含むということです。 ロゴスもその意味を含みますが多くは言葉で表現されることが多いです。 書き言葉ならエクリチュール、話し言葉ならディスクールと言ったりします。  エクリチュールとディスクールは非ロゴス的なものを含むのではっきり重なるわけではありませんが。  言葉は記号であり象徴です。  最近は絵文字が文字と同じようにコード化されました。  アルファベットの場合は昔はアスキーコードと言いましたが文字コードの中に絵文字コードというものが新たに加わったという感じでしょうか。  そういう意味でデリダは記号学や形而上学批判、バルトはテキスト論、フーコーは知の考古学や系譜学と呼んだりします。  ここでは記号とか言語を無矛盾なものと無矛盾でないものでざっくり切って論じます。 ・言説とそれ以外、言説の中でもイデオロギーとそれ以外のもの  人間の頭の中には言説的なものとそれ以外のものがあります。  言説的なものをラカンは象徴界と呼びました。  人間の頭の中には言葉だけがあるわけがありません。  表象(イメージ)もあるし感覚、感性的なものもあるし、感情的なものもあるし、意志や欲求的なものもありますし、言説以外のいろいろなものがあります。  また言説の中にもイデオロギーみたいなロゴスの種類もあればレトリックもありますし、下ネタ、冗談、掛け声、感嘆、うめき声、悲鳴、喃語何でもいいですが記号や言葉というのはいろいろなものを表現します。  その中で人や社会での主役になるのはイデオロギーであり無矛盾なものの代表とします。  そしてイデオロギー以外の言葉も言葉でない精神を形成するものをひっくるめて無矛盾でないものとして無矛盾なもの以外のその他の雑多なもろもろを全部集めたものとします。  そうするとやはり人も人の世も長らく主役はイデオロギーでその他の雑多なもろもろは脇役でした。  ただ日本では西洋や日本でも権威や権力が担うイデオロギーがその他と逆転します。  その他という雑多なものが主役になりイデオロギーが脇役になる場合があります。  というかそれが日本のある場面における支配的な考え方になったりします。  日本の特徴は西洋の異端が正統になっていること、例えば対象に感情移入や投影を行わないという西洋思想の中核がむしろ日本では対象に対する投影や感情移入、心を籠めること、感じることが日本人のパトスにせよロゴスにせよミュートせよ最優先、プライマリーなものとされているということです。  これが最近世界で注目されているようです。 私たちが「日本的」だと感じるあの世界観は、西洋的な「構築(ロゴス)」の隙間を埋める「気配(非ロゴス)」あるいは時にロゴス的ではあるが社会の政党では不条理とされたり異端とされていたりするものでできているのではないか、と。 世界は、ざっくり言えば「ロゴス的なもの」と「非ロゴス的なもの」に分けられます。 ロゴス的なものは、法律・制度・宗教教義・科学理論・イデオロギーなど、名前がつき、輪郭を持ち、「~主義」「~法」「~論」「~理」と呼ばれるものたちです。  いろんな形をしていますが一言でいうならロゴス(~ロジー)という接辞がつくと言っていいかもしれません。  一方で、そのあいだを満たしているのが非ロゴス的なものです。空気、エーテル、タオ(道)、虚、ムード、場、といった名前で呼ばれてきたもの。ロゴスの「すき間」を埋め、浸透し、満たしている媒体のようなものです。 ゲシュタルト・ルビンの壺は · 図=ロゴス(制度・理論) · 地=非ロゴス(場・空気) という図式からなします。  聖書文化+古代ギリシア文化の後継者たちと日本は 目に見えるもの=ロゴス的=図=西洋 目に見えないもの=非ロゴス的=地=日本 という対照をなします。 具体例を2つだけ入れると • 例①:法律/契約 vs. 空気/暗黙の了解 • 例②:論理的主張 vs. 終助詞・オノマトペ・敬語がつくる「場」 という感じになります。 ・ロゴス的なものとその間を満たす非ロゴス的なもの  世界は2つに分けられます。  ロゴス的なものと非ロゴス的なものです。  ロゴス的なものは形態を持つので分かりやすく目立ちます。 西洋は、「聖書+ギリシア哲学」の系譜のなかで、ロゴス=図を徹底的に磨き上げてきました。神学体系、法哲学、近代科学、契約理論……どれも「言葉でかっちり輪郭を与える」営みです。 日本はその一方で、「非ロゴス=地」の側を厚く育ててきた文化圏だと言えるかもしれません。はっきりした主張よりも「空気」、論理よりも「場の雰囲気」、契約書よりも「阿吽の呼吸」。 典型的なのが、終助詞・オノマトペ・敬語です。  こういったものは言語学の分類でいえば例えば敬語自体が態(能動、受動、中動)や法(直接、間接(仮定、接続)、命令)など様々なものを含むので敬語があれば主語や主語の対象、話者や対者、そして場の雰囲気などを省くこともできます(ちなみに最近の日本語文法の義務教育では尊敬語、謙譲語、丁寧語、丁重語、美化語にわかれています。丁重語や美化語は  古い世代は尊重体敬語とか説明されていた参考書を読んだことがあるかもしれません)。 • 終助詞「ね・よ・さ・かな」は、情報そのものではなく、場の温度と距離感を調整します。 • オノマトペは、「カチッ」「ふわっと」「じんわり」のように、ロゴスのすき間を埋める感覚のきめ細かさを表します。 • 敬語は、主語や目的語を省略しても、「誰が誰をどう扱っているか」という関係の場を立ち上げてしまう装置です。 こうして見ると、日本語・日本文化は、ロゴス的な図そのものよりも、そのまわりを取り巻く「地」の側――非ロゴス的な層――をずっと前から緻密に扱ってきた、とも言えるでしょう。  非ロゴス的なものはその間に空気とかエーテルとか道(タオ)とか虚とか言えばいいでしょうか。 それらのように隙間を満たすメディアというかロゴスがない所に浸透して埋めていきます。 そういう意味では真空のない二元論というか二項的に世の中を見ていきましょう。 2つにわけることは単純化の極地なので分かりやすいでしょう。 世界は目立つものと目だ経つその間を埋めているもので出来ていますが、間を埋めているものは満ちているので逆に意識されにくい場合があります。 但し視点の転換は可能です。 ゲシュタルト心理学のルビンの壺のように慣れれば、あるいは訓練すれば図と地を反転させることができます。 ・聖書文化+古代ギリシア文化の後継者たちと日本  目に見えるもの、目立つもの、ロゴス的なもの、ゲシュタルト心理学の図的なもので突っ走った文化があります。  聖書文化+古代ギリシア文化を根っこに持つ西洋思想です。  他方で目に見えないもの、目立たないもの、非ロゴス的なもの、ゲシュタルト心理学の地的なものを重視し続けた文化圏もあります。  大雑把に日本の特徴ともいえる部分だったりします。  西洋思想は主役みたいなもので目立ちますし認識されるので名前がきちんと与えられます。  日本文化はその他全般とか~ではないという否定的な言葉をつけて表されていますが言葉にネガティブとか否定的な接辞がつくからと言って悪く考える必要もありません。  むしろその他を躁取りできます。  また数学の場合分けではこの分け方が便利です。 ですから「非~」とか「~でない」とかで悪いイメージを持つ必要はありません。 ゲシュタルト心理学のルビンの壺のように図と地を反転させてこちらを主役であちらをモブにした場合には全く違う世界観を習得することができます。 「周辺から正統へ」これは「キリスト教よ、汝は勝ったのだ」と古代ローマ皇帝を嘆息させたキリスト教のようなものでもありますし、日本でも仏教の最大宗派は伝統的な正統仏教からは異端ともいえる浄土系仏教です。  こういうのが時間をファイナンスする、過去という周辺から現在、そして未来では複利的、指数関数的に爆発的に増大します。 ・世界が日本を受け入れつつある?  なぜ日本ブームが起こっているかというといろいろ考え方があるでしょう。  ただ日本人の頭の中と西洋文化圏の人の頭の中がぐっと近づいたというのが一つの原因としてあるでしょう。  何が起こっているのか、というとやはりこれまたいろいろな分析はあると思いますがここではこの文章の文脈に基づいて一つの説明を行ってみます。  日本人の頭の中は心に満ちています。  この場合心とは人間に対する共感に限らず非人間的で非生物的なもの、時には物だけではなく概念的に対して感じる感覚であり、あるいは心から湧き上がる感情的なものだったりします。  そういったものではロゴスでも言葉でもイデオロギーでもなかったりします。  無矛盾的なものでもなくむしろ無矛盾的でないものであることも多いですし、その他多くの雑多なもろもろだったりします。  それらは無樹淳どころか整合性や一貫性や不変性、単一性、唯一性、同一性や恒常性すら必要ありません。  主役でもなく空気のような環境のような背景のような場のようなものだったりします。  場は比較的進んだ物理学である量子場理論では偏在してそこから素粒子が生じるマトリックスみたいなものであり、遍く時空に満ちるエーテルみたいなものです。  場から見れば素粒子はそこから生成したり消滅したり他の種類の場や素粒子と相互作用するもので、場のような偏在するものが背景みたいなものと見えるのであれば素粒子はまさに主役です。  この場合は素粒子はイデオロギーで場はその他の雑多な非無矛盾的なもので目立たないどころかあたかも空気と水と安全がタダで存在が意識されないものであるように存在することすら気づかれないことがあります。  経済学的に言えば「希少性」がないどころか無限大に存在します。  無限大とゼロは主役になりませんし光景とか特異点のようなちょっと特殊なキャラクターになります。  この日本人の大切にしていた場というか心を西洋文化圏が否定しなくなってきたのではないでしょうか。  先ほど書いたように西洋文化圏の純粋な聖書主義とか古代ギリシアの一部の伝統を引き継いだ考え方では神以外は心を籠めることは許されない唯物論の世界でした。  西洋文化圏からそういったものが消えたとは思いませんし1000年くらいは続いた伝統だったのですぐには消えないでしょう。  しかしたかだか1000年くらいの伝統とも言えてキリスト教以前のヨーロッパはむしろ現在の日本と親和性が高い古層の文化を残した社会だったかもしれません。  キリスト教を相対的に見る見方は数十年前に世界的ベストセラーになった「ソフィーの世界」みたいな小説やその他いろいろな歴史と経過の仮定の中で西洋思想文化圏の背景を持っている人でも自分自身を相対的に見ることができるようになってきたのではないでしょうか。  他方で日本にももともとイデオロギー的なものがあります。  というか人間であって文化があって言語がある人間集団というか社会がどんなに小さくてもあればイデオロギー的なものがないことはないのではないでしょうか。  それは骨であり骨格のようなところもあります。  今回の場合は西洋文明が日本文化を受容してくれている形でかつ駅ぞ地図むだけでなく共感を持ってむかえられているのがおもしろい所ですが、日本側もかなり唯物的な考え方や唯一神的なものの尊重、心というか感性と感情の排他ルールを理解したり身に着けたりした人も多いのかもしれません。  戦後の高度経済成長時代に(見方によってはもっと前かもしれませんが)日本らしさや日本人らしさをお金に換えてしまったようなところがありましたし、その後の失われた30年でもアメリカ一極覇権の中で新自由主義やグローバリズム(人によっては国際金融資本主義という)が強力で生き残りかつ成功した人たちは金融やコンサルやベンチャー、スタートアップ、経営者などのやや心と思考・行動を切り離せるサイコパスっぽい所がある人が多かったのでだいぶ昔風の日本人の心や伝統というものも弱くなってしまい、日本人の表現も受け入れる側の西洋文化系の人のメンタリティも近くなってきた部分があるのかもしれません。  また別の側面として結局日本需要はオタク文化というか金銭合理性みたいなものを超越した深い底なし沼のような情念の一般の人に対する拡大という風にも見えるのでアンチグローバリズムやアンチ新自由主義の保守反動の流れに乗っているのかもしれません。

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