2025年12月8日月曜日

現代哲工学の練習:現実を扱うのは現代思想も便利 ~「差別絶対悪論」を教材にした、現代哲学による相対化~

現代哲工学の練習:現実を扱うのは現代思想も便利 ~「差別絶対悪論」を教材にした、現代哲学による相対化~ 現代哲学は、実在論そのものを茶化すこともできますし、実在と「うまく付き合う」ための技法として使うこともできます。 否定もできますが共存もできます。いろんな使い方ができます。 実在というのは様々です。物質的なものもあれば観念的なものもあります。 また実在は正しさとか正義とかと結びつきやすいです。 実在を正義と言って押し付けてくるのに対抗するカウンターとして現代思想ができたと呼べる側面もあります。 そのため、正義を主張してくるイデオロギーとか普遍性をうたってくる実体とかで他人に干渉してくる動きに対する対処は、現代哲学の得意というか真骨頂です。 結構ハイレベルでの権威の押し付けに対する対抗も現代哲学の大好物です。生態系の天敵関係とでもいうのでしょうか。 まあ現代哲学の方が素朴実在論より後に作られているので、後出しじゃんけんで強いのは当たり前ではありますが。 聖書の神や、共産主義革命、前衛党といった「絶対正義」の看板をいったん脇に置かせる──こうしたカウンターとしての役割は、現代思想の得意技です。 そして現代では、「差別」という言葉そのものが、かつての神や革命に近い「絶対悪」の地位を与えられつつあります。 今回はこの「差別の絶対正義(悪?)化」を教材にして、現代哲学の具体的な使い方を練習してみます。 ※注: ここで扱うのは、「差別」という言葉や概念が、絶対悪として神格化され武器化される現象(イデオロギーとしての差別論)であって、実際の不当な扱い・暴力・不利益などの「差別被害」そのものを軽く見るつもりは全くありません。 1. 恰好の教材、差別 現代哲学は、結構な権威どころかすごい権威の対抗言説としても普通に使えて、例えば聖書の神とかマルクス主義の革命とか前衛党とか、そういう絶対的イデオロギーすら脱構築してしまえます。 神とか共産主義さえ相対化してしまえるので、実は現代の神のようになっている、というか神の逆で絶対悪のようになっている「差別」も解体してしまえます。 成熟社会化した日本では、「差別」は昔の感覚で言うとあまり見かけないというかなくなってきているし、あってもたいしたことないように見えます(もちろん、見えにくい形での構造的な問題は残っているとしても)。 しかし、これを振りかざす使徒の声がうるさくなりすぎて、過剰な攻撃を食らう気の毒な人たちがいてかわいそうです。 当然差別されたら差別された人はもちろんかわいそうなのですが、差別を神格化(ゾロアスター教的な悪の神の絶対化?)みたいにしてしまうことも、それはそれで弊害があると思われます。 ですので基本的な現代哲学というかその応用なので「現代哲工学(てっこうがく? 鉄道ファンか鉄鋼業みたいなネーミングしか思いつかず恐縮ですが)」を使って、差別の神格化を脱構築して、現代哲学の使い方の練習と演習問題として学習の習得に役に立つように実例を示したいと思います。 2. 具体例を示す前にまず現在の差別の概要から 近代の理念は「自由、平等、博愛、人権、(愛国)」みたいな感じでしょう。 まあいろいろな見方ができますが、ここでは一つの見方で独断と偏見でいうと「人間の平等」でまとめられるかもしれません。 多分不平等とか公平とか差別とかもここから導き出せるかもしれませんし、偏見もそうかもしれません。 中世では人間の平等というのはあったかもしれませんが、近代とも現代とも違ったでしょう。 近代の平等ですら現代の平等とは違うものかもしれません。 「人間の平等」であれば、人間でなければ平等でなくてもいいかもしれません。 「ある種の宗教の信徒でなければ人間でない」という考え方もできるかもしれませんし、「人間にも人種という種別がある」と考えれば種別間では差別があってもいいのかもしれません。 また「近代的な人間の指す『人間』とは、主体性や自主性、覚悟や自覚がある近代的自我であり、そういうものを持っていなければ『人権』の『人』には含まれない」という考え方もあるかもしれません。 良くも悪くも特に19世紀の中ごろからの思想の主役はマルクス主義や共産主義で、それが20世紀後半くらいまで続いていますし、その名残が今でも続いています。 この思想は流石で「人間の平等」を目指す思想です。この他の思想はここまでの力は持ちえなかったと思えます。 正統な哲学は狭い世界です。保守思想というのはおおらかで大雑把なものです。 リアリズムもどちらかというと思想というより反思想的な感じです。保守とか右翼とか言いますが、いい加減で適当な感じです。 だからアメリカでは1960年まで連邦レベルで法的な人種差別がありましたし、南アフリカのアパルトヘイトがなくなったのはいつか忘れましたが、下手すると20世紀ではなく21世紀だったかもしれません。 3. 正義、正しさとイデオロギーと実体、実在論 ある種のイデオロギーは正しくて正義な対象があります。 聖書文化圏では唯一神や聖書、マルクス主義では共産党や革命みたいな感じです。 それぞれもっと細かく見れば正しくて正義のものはいっぱい含まれていますが、その中でトップなのが聖書文化圏では神でしょうし、マルクス主義では共産主義社会でしょう。 近代までの前現代は現代哲学はなかったので、素朴実在論があらゆる思想の芯でした。 実在論は例えば石ころのような物質なら、目の前に差し出したり触らせたりすればないとは言いにくいでしょう。 観念的なものもやはり実在論なら、人に見せられなくても触らせることができなくても「ある」というナラティブで出来ているので、ないとは言いがたい空気です。 そもそも疑うこと自体がナンセンスなのは、現代哲学的なもの(仏教や現代数学)を知らなければ現代でも昔と変わりはありません。 そもそもあるということが自明である上に、それに正義とか正しいとか保証するナラティブ、イデオロギー、思想があれば、それは絶対のものにもなるでしょう。 というわけで中世西洋社会なら神の正しさは結論ですし、共産主義社会や革命も結論です。 それを正しいと結論付けるための理屈は後付けですし、矛盾していようが分派しようが内部や外部でゲバルト(暴力)があろうが関係ありません。 ちなみに暴力というと悪いもののようですが、「暴」という言葉がやや荒っぽいのでネガティブなイメージがありますが、国家の意義、国防にせよ治安にせよ暴力が欠かせない要素です。 そういう意味では国家は暴力装置ですし、我々の社会は暴力で支えられています。 「暴力」という言葉がだめなら「物理的な強制力」と言ってもいいです。 4. 結論ありきになるとパラノイド的になる 結論ありきでその結論へいたる理屈にコンセンサスがないと、外目にはややこしいことになります。 部外者でなくても関係者にとっても、実際は訳が分からないものかもしれません。 この訳の分からなさが、中世神学の神学論争だったり、共産主義の訳の分からない論争や分派化や内部抗争や外部攻撃の歴史だったりします。 ただ経過や議論過程や結論に至る理論や理屈はどうであろうが、結論は絶対不可侵です。 平等も同じようなものです。そして問題は差別も同じようなものです。 「差別した」となると絶対悪になります。 「差別を受ける」、これは善とされるわけではないかもしれませんが、少なくとも絶対に悪とされることはありません。 これは神や共産党(前衛党)と同じです。神と共産党(前衛党)と平等は絶対正義であり、神の否定と共産党(前衛党)を一番と認めないことと平等の否定としての差別は全て絶対悪になります。 そういうのがすっきりした結論の導き方があってみんな合意していれば問題ないのかもしれませんが、なかなかそうはならず、万人の万人に対する闘争というか、非常に分かりにくいしめんどくさいししつこくて粘着質になることがあるし、結論を犯してしまうような合理性や論理性を変な扱いをしてうっとおしかったりうざったい印象を与えてしまったり、外部の人からはネガティブに見えてしまうことがあります。 かといってやっている方も自分ではどうにもならないときも多いです。 精神科や右翼の本では(例えば鈴木邦男の『がんばれ!新左翼!』など)、神父の子か教師の子か警官の子や共産主義者は、ぐれたり引っ込もりになったり精神病になりやすいという意見がありました。 神学にせよ共産主義にせよ差別を絶対視するポリコレにせよ、エネルギーがぐわっと盛り上がるのですが、段々勢いがなくなって先細りしていきます。 まあこれは全てのものに当てはまる諸行無常の盛者必衰は世の常かもしれませんが。 5. 現代哲学は絶対正義の主張の相対化が得意 現代哲学は、こういう正しさの主張なり正義の主張なり確実さの主張なり絶対性の主張なり普遍性の主張なりとかを扱うのが得意です。 というか現代思想はそのために作られたようなところがあります。 サルトルのような人ですら、世俗のイデオロギーというか自分の生き方の指針として共産主義者たることを選んだ感じの時代です。 思想といえばマルクス主義みたいなところがあって、マルクス主義とその背後にある西洋文明の根底、さらに背後にある人間の精神のより深い所を明らかにして対処するために作ったカウンターイデオロギーが現代思想みたいなところがあります。 世界にせよ日本にせよ、左派思想というか活動というかはややこしいし、内側でやっているだけでなく押しつけがましく世の中全体に干渉してくるので、関わりたくなくなる人たちが出ます。 関わりたくない人が出るというより、かかわらない人が大部分です。 その中には明確に嫌う人もいたりノンポリもいたり、いろんな雑多な常民というか庶民大衆その他の思想を持つインテリいろいろありますが、向こうからかかわってきて時には攻撃してくるので逃げるかかわすか時にやり返したりします。 マルクスなどの主義者の人たちも全ての人間を巻き込まらなきゃいけないので、関わりたくないという大衆衆生に対してもかかわらざるを得ないので余計両者はうまくいかなくなります。 昔や社会主義は正義だったので国民も主義者には理解があったのですが、生理的に受け入れない人や良く分からないけど嫌悪感を感じるという人も出てきて、やはり内外でぐじゃぐじゃになる面が出てきます。 自分たちだけでやっていればいいのですが、そういう考え方にはなっていません。 大きく見ると社会思想というのは2つに分かれます。 社会主義・共産主義・マルクス主義・全体主義に代表される集団主義 民主主義、経済的自由主義競争経済、市場主義交換経済、資本主義などに代表される個人主義 現実社会においてはどっちかだけというのは多分難しくて、スペクトラム的なものだと思いますが、時に両極端になる場合もありますがこの両者の間のどこかにいるのが実際かもしれません。 あるいはスペクトラムではなくディメンション(次元)的なものかもしれませんが、どっちか一本というのはなかなか実際、現実にはないのではないのでしょうか。 自由主義やリベラリズムはというと歴史的にごちゃごちゃしすぎていますし、地域によって違ったりするので今ではややこしすぎて何とも言えません。 聖書宗教、マルクス主義、ポリコレは集団主義なので個人主義的な人たちに絡んでくるところがあります。 からまれると長いものにはまかれる人もいると思いますが、長くないのでまかれないとか、長くてもまかれるのは嫌という人もいるでしょうから、摩擦やら軋轢やらは生じることはあるでしょう。 6. 近代から現代の差別の歴史 思想といえば近現代は社会主義、共産主義で、1960年~1970年くらいにはかなり盛り上がりましたし、現在にも影響も与えていますし当時の当事者もまだまだたくさん存命で場合によっては現役でやっています。 しかし1970年頃には流石に暴力革命で前衛党の共産党による共産主義達成みたいなのがしぼんでしまって、新左翼の人達が環境、ジェンダー、平等、市民活動などそれまであまり顧みられなかったものに向かうようになります。 スターリン批判やらハンガリー動乱やらプラハの春やら文化大革命やらアフガン侵攻などいろいろあったので熱気が冷めてしまったのかもしれません。 「爆弾の竜」などと言われた活動家が有機野菜を作るみたいな、元気のなく見える事態になってきました。 これは別に戦後の共産党所感派の山村工作隊みたいな激しいものではなく、純粋に地球にやさしい明るい農村みたいな方向を目指したようです。 さらには冷戦まで崩壊してしまって新左翼的な人たちはアノミーになってしまいましたが、一部の人たちは新左翼をさらにか細くしたような隠れ市民活動家みたいになって、1990年頃は差別論などよく流行りました。 社会主義者系の人たちは加入戦術というトロツキー由来の伝統戦術を使いこなしますので、世の中のいろいろな組織に細胞が存在していたりしますし、乗っ取りに成功することもあります。 まあ近代史上の主役は啓蒙思想だったり共産主義だったりしますが、それらは大体集団主義で特に大切なのは平等主義です。 社会主義は最近まで正義で今もそういったところがありますし、さらに根幹の人間の平等は絶対正義で差別は絶対悪で、それに対抗する言説は現代哲学をマスターしていないので難しいです。 今後も人類こういうことはあるでしょうから、ここで絶対や正義や悪を解体したり脱構築する具体的な手法を2つほど紹介してみます。 7. 2つの手軽に使える方法 大雑把にあらかじめどういう方法かを先に書いておきます。 手法①:トレードオフ法 ひとつは簡単に書くと「何事にもよいことには悪い面もあり、悪いことにもいい面がある」という考え方です。 ちょっと経済学のトレードオフや機会費用の考え方に似ていますね。 よいとか正しいとか悪いとか悪とかは、英語にしてみたら分かる通り実は多義的な意味に分けようと思えば分けられますが、ここでは大雑把でいいです。 ただある程度の教養やら知識やらいろいろな考え方やら見方やらをたくさん持っている人の方が、よりたくさんの反対からの見方をできるので、できるだけ普段からたくさん勉強しておく、この場合の勉強は知識の蒐集ではなく情報処理方法、いろいろな多様な考え方や見方などをたくさん知って集めて収蔵しておくといいでしょう。 やり方はというと、よいとか正義とか正しい主張する場合にそのことの悪い面を片っ端から上げてみるということです。 逆に悪とか悪いとか言っている場合には、そのことの良い面をできるだけたくさん挙げることになります。 形而上学の世界では知りませんが、何かよいことがある場合その良いことが生じる同じ本質が悪い所や悪いものを生じる場合があります。 また特に良い悪いに共通する何か根っこの本質というものがなくても、良いことには単純に悪いことであるという見方をできる場合があります。 これが一つの脱構築の具体的なやり方になります。 これをやっていると勝手に対象が解体していくので、アイデアを出すことや発想力やインスピレーションや教養がたくさんあるほどいいでしょう。 手法②:複対立的対象把握法 2つ目の方法は、対象をよりたくさんの見方、視点、視角、角度、側面、切り口、理論、異なる学問領域、異なる思想、そういったもので多角的、多面的、多元的、多次元的に対象を見るようにします。 これを私は評論家の山本七平にちなんで**「複対立的対象把握」**と呼んでいますが、山本七平氏とは同じ意味ではないかもしれませんのであしからず。 これも教養やらなんやらが必要で、この場合の教養はやはり簡単に言えばいろんな考え方や見方を知っておくことになります。 情報という言葉を知るのならば情報処理方法を増やしておくことです。 魚はいらないですが魚の捕まえ方、釣りでも網でも素手でもいいですが方法をたくさん知っておく、方法論、方法学の習得の種類の多さ、習熟度が上がるほどいいです。 その方がいろいろ思いついたり思い出したりします。 インスピレーションの記憶の想起も似たようなところがありますが、なんでもいいので対象を多様な見方、考え方でとらえるのです。 すると不思議なことに勝手に脱構築していきます。 この2つの方法、そして場合によっては両方の方法を組み合わせるとより対象を解体的に見ることができます。 分離のことをギリシア語ではスキゾ―と言いますが、現代哲学ブームの時はパラノ、スキゾという言い方が流行りました。 ちなみにスキゾフレニアというと現在では統合失調症、スキゾイドというと現代では統合失調性みたいに訳す場合があります。 現代思想家の中には精神科医や精神科医療・医学研究者などの精神科関係者が多かったので、そういうところからアイデアや言葉を得たのでしょう。 8. 具体的に2つの方法で平等を脱構築してみる 具体的に実践に入る前に、この2つの方法を組み合わせてしまいます。 これは2つの方法は1つの方法になると見ることもできますし、2つの方法を組み合わせた3つ目の方法と見ることもできます。 多因子分析的な見方をすれば、ベクトル解析のイメージで座標を作って、独立な見方や考え方ごとに基底のベクトルを考えます。 例えば対象を経済学的に見たいのなら経済学的に見る軸、生物学的に見たいなら生物学的に見る軸を作っていきます。 そうするといろいろな見方考え方が多いほどに座標系が多次元になっていきます。 ベクトルというと線形代数学くらい学んだ人なら連続な値を取りそうなイメージもあるかもしれませんが、離散的な値をとっても構いません。 またマイナス方向の軸が伸ばせるのかマイナスはないのかとかもありますが、そういうのはその場で創意工夫、当意即妙、融通無碍(むげ)に運用を柔軟にすればいいだけです。 これは先ほど挙げた例の2つ目の物(複対立的対象把握)になります。それを座標幾何学的な見立てで表現してみただけです。 ここに1つ目の見方(トレードオフ)を組み込みます。 ある見方、例えば対象をこの座標系で評価する場合に、ある軸ではプラスの値なのか、プラスの値が大きいのか小さいのか、それとも0なのか、或いはマイナスの方に軸があってマイナスの値なのかというような感じになります。 プラスならよい、マイナスなら悪いみたいに見るのが、人間の単純化した脳の使い方では負荷もかからず楽かもしれませんが、単純にプラスが大きいからよい、という考え方にもう一手間かけます。 「プラスが大きいから無条件にいいとはいえず、いい面もあれば悪い面もあり、悪い面はこういう例がある」みたいな知的な作業を行います。 そうすると前の小節の2つの方法を組み合わせて3つ目の方法、あるいは1つに統合することができます。 これによってややこしくなるか簡単になるか分かりませんが、いざ実例を書くとなると筆者自体が長年この方法が体にしみこんでしまっていてうまく分解できるか分からないのでごちゃまぜっぽい説明になるかもしれませんが、これで行かせていただきます。 1つ注意点といたしましては、日本語の「よい」とか「悪い」とかは多義語というかあいまいなところがあります。 「いじめはいじめられる方にも悪いところがある」 よく聞いた言説ですし今でも使われるかもしれません。 この場合の「悪い」の定義がよく分かりません。 法的に悪いのか、倫理的に悪いのか、何かやらかしてしまったのか、嫌われるような性格をしているのか、その他何個でも思いつきます。 当時の日本(現在でも)では多分勝手に文脈を補って「いじめられやすそうな態度や性格やリアクションをしている」みたいな感じに解釈するのでしょうが、倫理面とかから見れば全然悪くありませんし、現在は相対倫理でなく絶対倫理が日本人にも普通に浸透しているのでいじめは理由がある無しに関わらずアウトです。 まあよいとか悪いとかいじめとかを解体するのはここではテーマではないのですが、ちょっと頭に入れておいて頂けばここからの例が理解が深まりやすいと思います。 9. 差別の絶対悪の脱構築の例 では差別を脱構築してみましょう。 あまりまとまりなく次々いろいろな見方考え方を例示するような感じでまとまりなくなってしまうかもしれませんがご了解いただければ幸いです。 差別だけでなく平等や偏見もいじってしまうか(いじるはいわゆるお笑いとか最近の意味ではなく昔ながらの意味)もしれませんがそれもご了承いただければ幸いです。 ① まずずばっといって差別は必ず悪いのか? 上記に上げた方法でまず根本的なところから言えば、差別は必ず悪いのか、いいところもあるのではないかという問いかけが一番シンプルになります。 そもそも差別の定義があいまいですし、「差別絶対悪論」で差別が悪いものであるのは絶対的な結論にするために定義をあいまいにしといた方がいいのは、聖書の神とかマルクス主義の共産党とか革命とかも同じです。 「神や共産党や革命の定義は明確ではないか」と反論する人もいるかもしれませんが、まあそれはそれでおいておいて。平等というのは自由と同じで形而上学的には明確な定義があって存在し得ても、現実社会では定義も実在もはっきりしない概念ではあります。 一応簡単なモデルとして「区別」「ネガティブな感情」「上下関係」くらいで定義できるのかもしれませんが、ここではそれらの要素で見ていきましょう。 ② 区別は悪いことか? 多分区別は悪いことではありません。 というか区別のない世の中はあり得ません。 区別を「差異」とか「差延」というならばそれは現代哲学の核心ですが、まあ差別と関係ないでしょう。 ③ ネガティブな感情を持つことは悪いことか? 最近の日本では先人達の努力を含めてみんな頑張ってきたので、昔より差別というものがなくなってきていたり弱まってきたりするように見えます。 (※ただし私が見てきた範囲では、昔に比べれば露骨な差別は減ってきたように見えますが、構造的な格差や、表に出にくい形の差別が残っているのも事実だと思われます。) というわけで「ヘイト」という概念が最近は出ているようです。 私は極端な自由主義があった時期の癖で、そういうのは内面の自由と表現の自由の侵害でヘイトな発言を受けたらやり返せばよくて、言われて言って議論するのが民主主義の長所だし、侮辱に対しては多少物騒でも戦ったらいいだけで法の網で規制するのは好きじゃないですが、自治体によっては「ヘイト禁止法(条例?)」みたいなのを作っている自治体もあるようです。 「差別禁止条例」ではなく「ヘイト禁止条例」であるあたり、いかに日本に差別がなくなってきたかを示す典型的な例かなと思っています。 ④ 差別の文脈依存性 感情は主観的なものですから「差別をしたとされる側の感情」と「差別を受けたと感じる側の感情」があります。 そもそも意図的にせよ無意識にせよ差別をしたとしても受け取られた側が気づかない場合があります。 私事で恐縮ですが私は十数年間大阪の新世界に住んで京都の学校に行っていました。この地域は通天閣でおなじみの観光エリアですが、あいりん地区、昔の釜ヶ崎という寄せ場や昔の赤線地区や同和地区と呼ばれるエリアに隣接しています。 また大阪の日本橋と言われて今は東京で言えば秋葉原みたいなところになっていますが、昔は寄せ場だった地域にも隣接しています。 そのためか関西では差別を受けやすい地域だったようで、今思うと「相手に差別感情が発生していたのだな」と思い当たることが今思えばしばしばありました。 ただ個人的には別に家柄も悪い家の出身でもなかったしそれまでの経歴で部落や在日などの差別というものがない環境で暮らしたことしかなかったので、当時は差別を気づかなかったのだなと今思えば思います。 多分差別というのはある特定の文脈にいないとよく分からないもので、部落やらがない東北の人には同和問題は分からないだろうし、過疎化していたっぽい同和地区の団地に金髪碧眼の外国出身と思われる人が住んでいたのを知っていますので、そういう場合には差別のしようもありませんし差別のうけようもお互いにないのではないでしょうか。 かくのごとくに差別には、双方の「差別感」「非差別感」と差別感の表現とその被差別者の受容と内面的な「非差別感の想起・生成」みたいな主観的なものが揃っていないと、差別は成り立ちません。 そういうのが成り立っていたとしても、差別されたと感じる側がへっちゃらな場合もあります。 ユダヤ人差別と言いますが実害がある場合は嫌でしょうが、ユダヤ人はユダヤ人で選民意識を持っているためユダヤ人じゃない人より自分が下だと思っていない場合は多いと思います。 (※ただ一概には言えないのであるユダヤ人コミュニティについては、こう分析する研究者もいる、例えば19世紀のカトリックのフランス系イギリス人で『ユダヤ人 : なぜ、摩擦が生まれるのか』の著者の当時の有名な評論家ヒレア・ベロック著 ; 中山理訳、渡辺昇一監修、などを参考に留めておきます。) こういうことを念頭に置いたうえで、逆にユダヤ人が非ユダヤ人にその選民思想の故に差別感情を持っている場合もあるかもしれません。 ユダヤ人を差別したと思っている人でも逆に相手のユダヤ人に気にされず逆に差別感情を持たれていたりする場合には、そもそも何もかもがかみ合っておらず、「差別―被差別」というコミュニケーションが成り立っていないような喜悲劇というかナンセンスも多くあるのでしょう。 ⑤ 西洋的な平等の日本文化からの観察 西洋の平等は人間の平等です。 ただ日本みたいな文化圏では「平等は人間に限らない方がいいのではないか」みたいな発想を持つことが可能です。 仏教的には生き物でも物でも皆仏性が宿っています。 神道だかアニミズム的には神性を感じる物が人間よりより高いものとしてみなされることがありますし、それは人間の場合もありますが生き物や物質だったりすることがあります。 日本では人間以外の生物や物質が人間より上の存在という事もあり得ます。 ただ日本人ではそういう人間より上の存在が人間を差別するという発想はあまり少ないようです。 そもそも仏性という観点で言えば偉くても仏性を持つという観点で言えば平等は平等です。 また何かを忌み嫌うというか穢れを嫌って人間、他の生き物、物質を人間より下げる場合があるかもしれません。 ここら辺は怪力乱神を語らない儒教やら、もともとカースト否定の平等主義の仏教の発想ではないので、神道やらアニミズムやら何か別の考え方からきているのかもしれませんがよく分かりません。 ただ最近は世界もペットブームだったりクジラやイルカ、ナチュラリストやビーガンみたいなのが出て、さすがに神や無生物は区別しても人間やそれ以外の生き物の平等的な観点は西洋文化圏でも持ち始めているのではないでしょうか。 日本は逆にそういうものを失うか弱める形で西洋文化圏に近づいて行っているのかもしれませんが。 あくまで西洋的な平等は「人間内だけでの」平等という点が従来見解というのが注意点です。 ⑥ 人種差別? 昔は日本人は外国人慣れしていなかった人が多くいたと思います。 白人だろうが黒人だろうが日本人はそういう人に接近する場合非常に緊張しました。 白人コンプレックスはあったともわれますが、日本に来るような黒人は堂々として卑屈さもないように思いますので、黒人に対して差別感情はなかったように思います。 あったとすれば外国の情報由来の黒人が差別されていたという情報を受容した人たちの中で、黒人差別のコードが立ち上がる瞬間があったかもしれませんが、多分刹那的というか恒常的なものとは思えません。 むしろ黒人を見たら物珍しげにじろじろ見たくなってしまうか、でもそれも失礼だと葛藤するかみたいな感覚しかなかったのでしょうか。 あるいはやはり英語で話しかけられたらどうしようなどと考えつつ、緊張でどこか感情が固まる感じではないでしょうか。 これは差別というより田舎の村によそ者が来た時の感覚です。 逆に現在の都心に住んでいると外国人だらけですので外国人とすれ違おうが何とも思わなくなります。 ちらっと見て外国人だなとか思うときもあるし、ちょっと何かの特徴に引っかかればどこの人だろうかくらいは思うかもしれませんがそれくらいですし、そういうのは道ですれ違う日本人にも思うことはあるはずです。 そもそも最近は混血も多いと思われますし、肌の色と顔つきが昔の日本人の典型的な黒人白人だけでは割り切れないような国の人も大量にいるので、そもそも人種が何だか分かりません。 それ以前に「人種」という言葉も改めて考えるとよく分からない言葉です。 ラテン系文化みたいに混血が盛んだとブラジル人を見て黒人だとか白人だとか黄色人種とか簡単には割り切れないような人も多いのではないでしょうか。 それに大昔は日本に来ているような外国人や日本人が行く外国は西ヨーロッパやアメリカ合衆国がメインだったと思いますが、そのあたりの地域は混血もせず割合白人黒人の区別が分かりやすいです。 広く世界の他の地域と交流を持つようになると、顔立ちは白人だけど肌は黒いとか顔立ちは黒人だけど肌は白いとかいろいろカテゴライズが難しい人たちと多く接するようになります。 ⑦ 宗教差別? 日本人は無神論で啓典宗教の信者は日本人が無宗教だから下に見るという心性が働く場合もあるようです。 ただ日本人から見ると、宗教の規則に縛られている人は不自由でめんどくさそうとかかわいそうとか言う視点で見る場合も多いのではないでしょうか。 食物戒律で豚肉なり牛肉なり海産物なり食べれない人々を日本人はかわいそうな人という思いで見ることがあると思われます。 また決まった日や決まった時間にお祈りしたり儀式をしないといけない宗教を見て日本人はめんどくさそうとか窮屈そうで自分がそうなるのは嫌だと思っている人は多いのではないでしょうか。 ある種の宗教の信者は日本人を見下し、日本人はある種の宗教の信者を憐れむという構図です。 世の中どんどん品がよくなっているのでそういうことを相手に表現する人は世界的にも少なくなっているのではないかと思いますが、変な話ですがお互いがお互いに「見下し」とか「哀れみ」とかいう「差別感情」を持っているといえないこともありません。 法律的には近代法は「内面は罰せず」なので相手に対して差別だろうが敵意だろうがそれを行動化しなければ問題ないのですが、法律は大切ですが世の中法律だけではないのでなかなかややこしいというか世の中複雑だなという感じになります。 ⑧ 差別されてもオーケー、あるいはむしろうれしい? 聖書のヨブ記には神様が聖書的にもよい人であるヨブを散々ひどい目に合わせます。 それでヨブが神様に会ったかどうかは分かりませんが会話できる場面があって、ヨブが神様に抗議をすると「だってお前は被造物で俺が作ってやった土くれじゃん」みたいに言われて、ヨブが抗議したのを反省するということで決着がつきます。 何というか、ある神様に仕える信者とかある教団の中に所属する人にとっては、上位の人から差別されるというのはいいことの場合もあるのかもしれません。 また聖書というか教義的には、異端やその宗教の信者でない人や人間をだました蛇を差別することはいいことかもしれません。 世の中の宗教や社会制度は身分制度みたいなもので作られている場合が、多分人類の歴史では長らくあったと思われます。 例えば儒教なら五倫という考え方があります。父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の関係などがあります。 身分制度というものもあります。年功序列というものもありますし、体育会系や官公庁などでは年次は強力です。 奴隷制というと差別と同じく絶対悪という見方もありますが、現実的には奴隷は会計帳簿で言えば資産であり、資産を大切に扱わない人はあまりいないのではないでしょうか。 (※奴隷制についても、“家畜のように扱われた”という側面だけでなく、“資産として保護される”面を指摘する議論もあります。) 空気のように奴隷制があれば、特にたんたんとお互いその中で日常生活や社会生活を進めるだけであり、そういった一体感や共同体や集団意識が生じる場においてはヘイトも生じる場合もあるでしょうがライクが生じる場合もあるでしょう。 古代ギリシアの奴隷制やイスラム世界の奴隷が作る王朝やアメリカの南部でさえ、奴隷は大切にされていたという方が実態を適切に表していたという見方があります。 (※ここで言いたいのは、「奴隷制にもいいところがあった」という話ではなく、「どんな制度も、多面的に見ると“絶対悪/絶対善”では語れない」ということです。) ⑨ お金、その他の価値観と差別 社会的平等という点で格差や貧困問題を上げる人がいます。 こういう人は無意識に金銭至上主義とか拝金主義とか言われるものに染まっている可能性があります。 実利主義や功利主義も金銭至上主義の言い換えで使われる場合があるので注意です。 「金持ちが貧乏人を差別する」これが成り立つのは、差別する側される側そしてそれを取り巻く社会がお金で価値を図ろうとする意識が強い場合です。 極端な場合、お金でしか人間の価値を図らない場合もあります。 これは日本では時代とともに強まっている弊害だったと思われますが、最近ようやく落ち着いてきたというか反動が来ているように思われます。 戦前戦後を比較しても戦前はお金以外にもっといろいろな物で人や物の価値を図る尺度が多い世の中でした。 別に貧乏でも他の事でプライドを持てたり人に評価されたりします。 お金は分かりやすい例ですが別にお金ではなくても別の物でもいいです。 例えば身分制の世の中でも身分の低い人が身分以外の何かでプライドを持てたり人からの尊敬を得られたりする可能性が、価値観が多様な社会ではあり得ます。 何か一芸に秀でている程度でもいいです。その土地に古くから住んでいる程度でもいいです。背が高いとか容姿がいいとかでもいいです。代々家業を継いでいるでも構いません。 同和問題の一部に古い神社仏閣などで代々神職やその神社仏閣を支える仕事をしてきた人々が零落、反転して被差別民になるなどのサンカ(山窩)や散所民などの図式がある場合があったりしますが、怖れや敬意と蔑視は神でも人でも逆転することがあります。 またある種の奇形児とか知的障碍者などの特別視される人々が機能障害があるのに文化や宗教の中で高い地位を与えられるのは洋の東西を問わずあるようです。 京都とか関西や西日本には天皇の棺を担ぐ家柄の人々が住む集落とか、ちょっと関東で普通の生活をしていたのでは分からないような歴史というか文化の重層性があります。 差別と差別の反対を何というかわかりませんが、敬意や畏敬は同時に存在する場合もあるわけです。 単に差別だけ切り出してそれを実体、実在とし、正義で正しいものとして構築する実在論的な差別の扱い方もありますが、もっと複重層的、歴史的にも文化的にも分厚く複雑な側面を見ないといけないような場合には実在論は向いておらず、構造主義やポスト構造主義のような現代哲学的な見方の方がいい場合があります。 ⑩ 男女差別? ジェンダーやセックス、フェミニズムやLGBTQ+の話題はポリコレの時のLGBTQ+ブームの他、フェミニズムや男女平等問題の方も長い歴史があります。 ここら辺の議論でちょっと問題があるのは一貫性がないこと、結論ありきな事でしょう。 本当のラディカルなリベラリズムであれば、性差をなくしてトイレも風呂もスポーツも全部同じ土俵で行えばいいというのが一つの極論で、極論であるがゆえに筋が通っています。 私自身はラディカルなリベラリストであった時代がありましたが、リベラルを追求すればするほど何か生き方とかの指針とか寄る辺が必要になります。 サルトルが極端な自由主義を訴えながら世俗の活動としては共産主義の活動家だったのと同じです。 形而上学的な自由は日常的な生活指針にはなりません。 私の場合は保守主義や伝統主義や自然な郷土愛や愛国心的なものを指針にしようと考えましたが、別に現代日本と日本人がめちゃ好きというわけでは必ずしもなく、歴史上の日本や日本人で好きな部分はあるものの全部好きというわけではありません。 でも現実にある過去の積み重ねの上で日々の生活を行い、たまに祭りみたいな特別な非日常を楽しむ、それくらいが普通の感覚ではないでしょうか。 ラディカルなリベラリストだった私の目から見れば、夫婦別姓どころか名前も姓もなくしてしまうとか、自由にしてしまえばいいと思います。 現にそれで何とかなります。 例えば東アジアでは中国や日本は戸籍的なものをしっかりつけていたちょっと世界でも例外的な地域ですが、同じ儒教圏でも朝鮮では公的な戸籍的なものには両班の男の姓名しか記されていなかったはずです。 女性は公的な名前はないです。 両班未満の身分の人も公的な姓名はないですが、物や銅銭で購入するなど手に入れる方法はあったようです。 共産主義は1970年くらいは勢いがありましたがそれ以降は勢いをどんどん失ってしまいました。 それ以前の方が天皇制廃止とか暴力革命とか一貫性や整合性がありましたし、2000年くらいまでは基本的な綱領は変わっていなかったと記憶しています。 宮本顕治がなくなってからこっそり変えていったか、今でも基本的な綱領は変わっていないかもしれませんが表に出さなくなりました。 こういうのは池田大作がなくなるまで自民党離脱みたいな大きな動きがなかった公明党とも似ていますし、スターリンが死ぬまでスターリン批判が出てこなかったソ連とも似ています。 LGBTQ+の性の多様性も一元化するか限りない多様性を追求する可しかない感じで、多様化してトイレやスポーツ大会の種類を細分化して大量にするのは現実には難しそうなので、折衷主義よりは一元化の方が良い気がします。 LGBTQ+の前では男女の2項の分類しかないフェミニズムは中途半端な立場になってしまいましたので、哲学的にはLGBTQ+の議論だけしとけばフェミニズムそちらに統合してしまって、そういうのを統合する新しい学問の名前を付けてしまえばいいのではないでしょうか。 その中には当然男性論も入っているべきで、最近は逆差別とかアファーマティブアクション的な問題もありますし、哲学的な議論だけでなく少子化とか経済とか地球環境、人口問題にも関係するので、いっそのこと性別学(ジェンダー・スタディーズより広い意味で)みたいな感じで大きい学問分野を作ったらいいのではないでしょうか。 現代では男女のことだけ考えても男性トイレと女性トイレを分けないと差別、男性トイレと女性トイレを分けないと差別というどっちの主張も結論は差別、論理的な意味でなくても我々一般人にもどっちにも一理あると感じてしまいたくなるようないい加減な差別感覚しか我々は持ち合わせていません。 猫も杓子も何でも差別で、差別によるマウントの取り合いになるような場合もあります。 国会みたいなところでも「差別」と言われると反論できない、水を差せない空気が長らく続いたのでわけわからなくなってしまったのと、逆に差別疲れと陳腐化が生じ、最近では流石に差別とはいいがたいものまで何とか何かの正当化に使いたいということで「ヘイト」という概念が発明され法律などで実装されている地域もあったりします。 また国会の戦後の実質的に同じものが名前をかえただけのものである左派系の野党である社会党→社民党→民主党という系譜は、基本は対案なしで批判だけするのが国会討議の戦術になっています。 これは純粋に対案がない場合もありますし対案があってもそれを出せない場合もあります。 すると野党が与党に質問してどう答えても、どんな答弁にもさらに批判を繰り返し続けることになります。 左派系の野党にとって理想的な答えは与党が自分から左派の考え方にあう心地よい発言をしてくれることですが、与党というのは現実主義が必要ですし既に存在している伝統や保守的に存在しているものに配慮しないで、過去に実現した例のない理想主義的な目標みたいなものを現実的な裏付けや方法もなく無責任に発言してくれることはないですから、永遠に批判して具体的な方法論を示さないが自分の理想通りの答えを相手にしてほしいという感情的というか幼稚というかヒステリー的というか神経症的な形にならざるを得ません。 ですが数少ない理想をその手段を示さず唱えていれば相手も反論できない魔法のようなものがいくつかあり、その一つが「差別」になります。 「平等」は機会の平等とか結果の平等とか法の下の平等とか経済的平等とか社会的身分や階級や階層の平等とかやや複雑な面を誰でも知っているため、簡単に使うのが「差別」ほどは困難です。 ⑪ 平等が近代の究極のテーマ 先に書いておくと暴力というテーマを少し取り上げますが、ここでは別にいい意味でも悪い意味でも使っていません。 暴力は絶対悪とかテロリズムは絶対悪みたいな主張もありますが、広い意味の暴力は戦争や内乱、デモやストライキからの争乱という形で歴史の構成要素です。 そもそも国家というか社会統治というのは国防や治安を司るものですが、そのための最終手段は簡単に言えば暴力です。 暗殺みたいなのも制度化している国も社会も過去にも現在にもあります。 暴力と言って悪ければ物理的な強制力です。 社会を変える際には革命などが起こりますが、そういう場合でも暴力はしばしばみられます。 思想といえば社会主義とか共産主義とかマルクス主義です。 冷戦崩壊以降はなぜかそういうのを唱える人が西側自由主義世界ではいなくなってしまいましたが、別にソ連やら東欧やらが失敗したからと言って彼らの失敗であってまだそれらの理念を捨てることはありません。 と言ってもそもそも左翼(フランス革命の今でいう社会主義的な理想を持っていた人たちが起源)というのが目指すのは人間の平等です。 それを達成するためには革命と議会を通じたものがあり、革命は暴力を伴います(まあ無血革命というのもありますが)。 レーニンは暴力による革命を理論化し実践した人なので、この路線をマルクスレーニン主義と呼んだりします。 議会を通じてゆっくり平等を達成していくのは社会民主主義です。 社会党という言葉は社会民主主義を指す場合と、共産主義に至る移行過程の中途半端な状態を指すとかいろいろな考え方があります。 マルクスレーニン主義はわりかし成功していますが彼の手法は意図したものか結果的かは知りませんが戦争を利用したものです。 パリコミューン、ロシア革命、中共内戦、北朝鮮の成立、全部そうですが戦争をきっかけにして革命を起こして既存の政府を打倒するというのとセットでした。 そういう意味ではソ連による中華人民共和国(いわゆる中国)の成立は最高の成功例と言えます。 平等なのはいいのですが、マルクスですら平等の社会というのがどういうものか明確なビジョンがなかったようです。 マルクスは原始時代を例にして原始共産制というものを挙げていますが、流石に文明が発達した時代では難しいでしょう。 フランス革命以降は平等な社会と言っても人間を二分して、革命を実行して民衆を指導するエリートと指導される大衆という二分法が普通の見方になっていきます。 エリートと指導される民衆の間に差別、あるいは区別がありそうな気がしますが、そういうのはノブレス・オブリージュとかそういうもので埋めるのか、あるいは革命に夢中で革命後の平等な社会を具体的に考えるのが疎かになっていたのか、なかなかみんなに納得できるようなものは難しかったと思われます。 20世紀の歴史を見ると、それでも本当に差別のない平等を実現させてしまうのではないかみたいな活動もあって、文化大革命やポル・ポトの虐殺がそうです。 これはある意味理にかなっていて、エリートなるものをなくして大衆だけにしてしまう方向性で、社会を原始共産制にしてしまうという退化を招く方法ではありますが筋は通っています。 もう一つはSFの中での近未来でコンピュータが人間を管理する社会です。 これはうまくいけば今後実現するかもしれません。 そういう歴史の中で差別の問題は些末な脇役でした。 革命で社会を変えてしまえば平等が実現して差別はなくなってしまうので、差別は二次的な問題です。 革命の闘士というか真の共産主義者は革命の実現にリソースを割くべきで、革命さえなってしまえば解消してしまう二次的な差別の問題に関わるのはメインストリームではありませんでした。 流れが変わってきたのは1970年頃からで、一説には華僑の活動家に新左翼が自己批判を迫られてそれを受け入れたのがきっかけともいわれますし、暴力革命主義が現実的ではなくなってきたので新左翼の人が方向を見失っている空白(アノミー)の中で新しい活動の方向性を見つける際に「差別」という方向性をメインに置く勢力の力が増大していったからかもしれません。 というわけで西側諸国ではここ50年くらいは差別が社会活動の主流になり、他方で暴力革命主義は下火になってしまいました。 共産党も暴力革命は多分否定してはいないし綱領みたいな形で否定されないまま残っているかもしれませんが、表には出していないでしょう。 少なくとも宮本顕治生存中は活動方針は変えていなかったはずです。 1970年代くらいから今まで革新的な問題ではないと軽視してきた「差別」問題に力を入れてくれたおかげで、日本では差別問題はだいぶ改善した、というか昔に比べれば消滅してしまったものもあるレベルのものもあるのではないでしょうか。 また社会も変化しました。 そもそも地域の過疎化や若者の都市への流出や国際的な動き(西洋の社会思想や在日朝鮮韓国人や韓国の国としての地位向上)など、いろいろなものが変わりました。 そもそも在日韓国朝鮮人は韓国人からは「日本の在日の同胞は世界で最もルーツのアイデンティティを失ってしまっている」と非難されるほど1990年頃には同化が進んでいましたが、冷戦崩壊後にまた状況が変わっていろいろごちゃごちゃしていた時期があります。 同和問題も現在でもあるかもしれませんが、浅草などの都市部では近代のいろいろな力がそういうのを脱構築する方向に働いていましたし、ちょっと前のポリコレブームの時でも目立たなかったので、世界的に脱差別化は進んでいるのでしょう。 「差別」いう言葉の代わりに使われたのは最近では「格差」や「ヘイト」や「貧困化」に変わったのかもしれませんが、差別が持っていた穢れと結びつくような嫌悪的な語感はそれらにはありません。 逆に差別を解体するような「能力主義」「努力が足りない」「自己責任」「実力主義」その他新たな差異や区別や上下をつけるものはそれなりに作られて社会に流布されていますが、それらは「差別」に結び付かないように慎重に扱われています。 また民度や教育や情報拡散も高くなりました。 そして昔は当事者の中に否定勢力が結構力を持っていた「時間とともに差別が消えていく」が何十年も経ち時代も世代も年代も入れ替わる中で現実化しています。 伝統に根付く差別は、そもそも社会の進歩と変化でいろいろな旧来ないろいろなものの解体は急速です。 まあ時間とともに見直されたり強まったりしていくものもあるのかもしれませんが。 長い時間が経って過去を振り返ると、部落問題でも何でも学校で教えたりして反復再強化するより、静かにして時代に合わなくなったり忘れられていくというのは有効な面があったようです。 こういう問題も経済学とか別の問題と一緒で超短期と短期と中期と長期と超長期で分けた方がいいのかもしれません。 (そもそも日本人なら外人がユダヤ人かどうかは区別がつきません。) ⑫ 力の論理 差別されても自分に自信があったり主体性や自主性があったり前向きであったりすればいいというのがニーチェの力への意志的スタンスです。 百万人といえども我行かんのような強者のメンタリティを持っていれば、他者にどういわれようが関係ありません。 そもそも他者や外部など目に入らず自分の道を進んでいる人たちはいっぱいいます。 日々やることが多ければ余計なことが頭に浮かぶこともありません。 仮に差別的な害を受けたのであれば戦えばいいだけです。 ⑬ 自由のためにすべて許容する めちゃくちゃ自由市場主義な立場でいえば差別もヘイトも自由にしていいです。 ただそれをやった場合に相手が反撃してくれないと困ります。 反撃して議論して時に暴力的なけんかになろうが自由は保障する。 でもそれで社会のバグを防ぐには、差別やヘイトを受けた側が反論したり反撃したり逆襲してもらわないと、差別を抑制するという点では修正や改善がなされません。 これは別に差別されて気にならない人はほっておくのがめんどくさくなくていいのですが、めんどくさくても差別に反撃してくれた方が社会にとっていいです。 まわりまわって自分にもいいとまでは言えないと思いますが、公共のために差別されたら叩く、差別を見つけてもたたくというのは、誰かや制度や統治機関に頼るのではなく、自由に自治的に自分たちで世の中をよくするようにして統治機関や法や制度の規制を強めないためには、自由を守るためにはよりいい方法です。 ゲーム理論のしっぺ返し戦略にもなっているかもしれません。 平等が人権というもので人権というものは本来は「貴族的人間」「主体性、自主性、自覚や覚悟がある人間」を念頭に置いています。 「自分で考えて、判断して、決断して、行動して、結果のケツをもつ(責任を取る)」みたいなことがある人間が近代的な自我です。 みんながそういう人間であれば、啓蒙主義とかフランス革命以来のエリートと大衆の二分法、共産党員とそれ以外の分離ではなく、個々人が集まって直接民主制のように各自自立して戦うときは戦い仲良くするときは仲良くするような横に平等な関係が望める可能性があり、それが権威主義国と、民主主義や自由主義を奉じる国の違いになります。 ⑭ うれしい差別もある 身分制社会は差別社会かもしれませんが、そういう社会の中でも最上層のトップ以外でも普通に幸せに暮らしていた人はいつでもいたと思います。 差別も幸福という場合もあるでしょう。 侍が主君に仕えるのは幸せな関係です。 受動的に仕えている人もいたでしょうが主体的に主君に仕える侍もいたはずです。 これは上下関係のある社会全般に言えると思います。 また例えば上下関係は変化もします。 儒教社会や体育会系社会、近代以前の村落社会では年配者が若い者の面倒を見る代わりに、若い者が年配者のためにいろいろしないといけません。 それはそれで幸せですし、時間とともに立場は上昇したり引退したりして下がったり、赤ちゃんのように小さいから優遇される場合もあります。 競争社会では上下が付きます。でも競争が好きな人は多いでしょう。 ギャンブルでは勝ち負けが生じます。でも負ける可能性があってもギャンブルが好きでギャンブルする人も多いでしょう。 日本の封建制で御恩と奉公という関係性があるのであれば身分の上下は単なる役割です。 偉そうにされるかもしれませんがそれでも統治者の義務を果たすよりは気楽な姿勢の庶民を好む人は多いのではないでしょうか。 また偉そうな人に対して被差別感を抱く場合もあるかもしれませんが、いろいろな要素の関係で尊敬や畏敬の念を抱きそれを好む人もいるかもしれません。 犬猫やある種のペットは飼い主と上下関係を作る性質があります。 ペットから下に見られていても幸せだと感じる飼い主はいるのではないでしょうか。 男はつらいのでお父さん方によっては娘に非人道的な扱いを受けながら生活しておられる方々も多いでしょう。 私もその一人です。 私は別にマゾヒストではありませんが別に子供に嫌われようが子供のことは好きですし、差別されている気がしますが別に差別されても構いません。 むしろ生意気で気が強く親すら見下すくらいの方がたくましくしたたかで自立や自活して生きていってくれる可能性もあるのかなと思われ、多分いい面もあるのではないでしょうか? かくの如くに人間とは訳が分からずカオスなところもあるでしょう(なんかの理屈はつけられるかもしれませんが)。 そういう理詰めだけで出来ているわけではない世の中の中で、差別だけを絶対悪(差別に限らず神でも共産党でも人間には対象を自由に感じ考えることができうる)として固定するのはしようと思えばできますが、枝葉を思わなければしない方法がいくらでもあります。 ⑮ 差別を利用して強かに生きる 日本の場合はここら辺が同和問題やら部落差別につながるのですが、これも単純ではなく和歌山などでは部落指定地区が多いらしいのですが、これは「そう指定された方が得だから取った」という例があったと聞きました。 和歌山は中上健次(なかがみけんじ)の出身だったりカムイ伝の舞台みたいな感じだったり水平社発祥や橋のない川、あるいは市役所の清掃局の不祥事の奈良県の南側で歴史もいろいろ複雑で独特な地域ではあります。 慇懃無礼という言葉もあります。 頭のいい官僚は頭の悪い政治家を立てることもありますが内心差別というか見下している場合もあるかもしれません。 別の部分でお互い差別し合ってバランスをとる場合もあります。 また差別の代わりに得られる実利や実をとるという手もあります。 百姓やら士農工商の身分制度の実体を相対化したのはアナール主義的な歴史家の網野善彦でした。 福岡県では福岡区は侍の街で博多は商人の街で商人の街ですが、豊かな商人が貧しい侍のところに嫁にやろうとするのが昔は普通に見られたそうです。 そもそも制度自体が怪しい所がありますが公的な身分制度と実質的な上下関係が異なる場合は多々見られます。 李氏朝鮮ではこちらは身分制度がはっきりしていて両班の男でないと公式な姓も名もないのが建前ですが、貧乏な両班が裕福な下の身分の者に姓やら名前を売ることがあったそうで、同じようなことは日本にもあり勝海舟の祖父がそうです。 そもそも京都に昔から住んでいる民度の高い庶民が、得体のしれない侍と称するものが急に公的な身分が上と威張りだしても笑いものにしかならないでしょう。 国家を超越して国家より上にある共産党のトップがネットで世界中から笑われたり時に嘲られ見下される現代社会と同じです。 その共産党のトップが差別されたとか誰かに泣きつくことはないでしょう。 ネットの狂燕みたいな常民というか庶民たちも共産党のトップに愚民を差別されていても全く気にしないでしょう。 むしろ嘲り見下し返すのではないでしょうか。 明るく笑いがあり諧謔を解すればむしろユーモラスでほほえましい風景とすらいえます。 ⑯ そもそも隣国というものは… ドイツとフランスは仲が悪いです。これは一般的に言われることだと思います。 ロシアの隣接国でロシアが好きな国はないと思います。日本もそうです。 もちろん隣接国というのはもっと複雑なものがあるでしょうから簡単には言えないかもしれません。 隣接国だから好きなところもあるかもしれません。 これは日本と中国、韓国にも言えることです。 多分お互い好きではないのではないでしょうか。 他方で好きな面もあったりするので多分複雑なのでしょう。 でもそれが普通の隣国関係といえば普通の隣国関係かもしれません。「普通」が何を指すかはいろいろあるとおもいますが。 日本がちょっと特殊だったのは昭和の時代は中国や韓国を嫌ってはいけないという空気や実際の行動があったことです。 何でそうなったかはやはりいろいろあるのかもしれませんが、日本人が中国人や韓国人に対して差別的感情を持っていた引け目みたいなのもあったのかもしれませんし、もしかしたらあの中華の国がとあり得ないことのように思えますが、中国人や韓国人も差別を受けて傷つくといういわゆる差別が成立する「かみ合う」関係が成立してしまっていたのかもしれません。 多分中国は世界の中心のような国ですから他国を差別したり差別されても気にしない、あるいは差別されているとは考えられないようなところがあったかもしれませんが、韓国、朝鮮の方はいわゆる典型的な差別構造が日本、日本人との間で成立してしまったのかもしれません。 これは多分平成のどこかくらいでなくなったのではないかと思います。いろいろあってちょっと長引いたと思いますが。 多分被害者意識を掻き立てる政治や社会運動がいろいろな国際的力学の中で作られてそうなったのかもしれません。 ただ今は比較的普通の隣国となってお互い嫌い合うという普通の隣国関係として対等な感じになったのかもしれません。 ただ中国は大昔から世界の中で大国ですから我々中小国とはメンタリティが違うかもしれませんのでよく分かりませんが。 ⑰ 「ヘイト」「格差」「貧富」が差別なら何でもありになってしまう 何はともあれ日本は平和でした。戦後も長らく平和でした。江戸時代も平和でした。 江戸時代鎖国をしたせいであとで欧米との差をつけられ無理にキャッチアップを頑張って無理がたたって国が滅んだような面もあるかもしれませんが、もしかしたらいい面もあったかもしれません。 もしかしたら現在の日本ブームのソフトウェアパワーと言われているものは江戸時代に育まれたのかもしれません。 失われた30年も終わりです。悪い面がたくさんありました。 しかし新自由主義とかグローバリズムとか移民とかポリコレが吹き荒れる中でそれらの悪い面を比較的受けなかった面があるのかもしれません。 戦争は文明やら技術を発展させるといわれますが、平和な時代は時代で平和だからこそ発展させられるものがあります。 仮に戦争的なもので発展させやすいものをハードなものとするなら、平和の中で培われやすいものをソフトなものと言えるかもしれません。 ⑱ 差別は古いしダサいし時代に合わない 現在の若者はそもそも差別というコードのある種のものが弱ったりなかったりする可能性があります。 「差別だ」とか言ってデモしたりニュースになったりする活動家や出来事をみたら今の若者は引くししらけるしうざいというかめんどくさく感じる可能性があります。 差別、差別者、被差別者、いろいろありますがそういうの全体にかかわりたくないと思う可能性があります。 そもそも今時ではありません。 あるいは豊かになり成熟した社会で育つとひがみや妬みやそねみや吝嗇(けちくささ)の感情が薄かったり適用範囲が狭かったりします。 昔の貧乏で世の中国内も外交的にも安定しない時代で戦争なり内乱なりあった世代はともかく、現在はある種の虐待は今もありますが昔よりはずっと平和で豊かな世の中の中で上品で民度も高い人々の中で文化的にも教育的にもめぐまれ大切に育てられ小さいころから物にも娯楽にもデジタル機器にも不自由せず育っている人がたくさんいます。 私の小学校の頃は小学校の先生に「カムイ伝」を回されて夢中になって読んでいた記憶がありますが、そもそも今の子供や若者に「カムイ伝」とか「橋のない川」とかちょっとずれますが「ドストエフスキーの小説」を読めと言われて読んでも、何か暗いし粘着質というかよく分からない人間のどろどろしたものが感情に心地よくないものを想起するなりして読みたくなくなる可能性があります。 個人的に言わせてもらえば図書館にあった「はだしのゲン」や現在世界でも人気のあるジョジョの奇妙な冒険の最初の部分のディオの行為など見て私などは怖くなるというか嫌な感じがして読むのをやめてしまったくらいです。 ジャンプを買っていたのにです。 後でジョースターが失明してないのを見てまた読んでいたのかもしれませんが多分ああいうのは子供には怖いと思いますしある種の生理的嫌悪などを生じさせるのではないでしょうか。 ジョジョはだいぶ時間を空けてまとめ読みしましたが、漫画は週刊誌で発売日にすぐ見たい漫画もあれば後でコミックでまとめ読みしないと良さも悪さも発見も気づきも得にくいものがあります。 そもそも差別そのものにせよそれにかかわる社会活動にせよ普通の子供たちのみならず一般市民やそのコードを共有しないもの、豊かな社会で上品というか恵まれて育った人たちにはかかわること自体が煩わしく感じられる可能性があります。 昔はそういう姿勢はダメで問題に関わらないといけない、自分の社会や共同体や人類の一部なのだから関われみたいな、かかわらないと自己批判を強いられてしまうような左翼活動家的な雰囲気があった時代もありますが、そういうのにはだいぶ前にしらけてしまう人が多かった時代でしたし、当時でさえそれに反論する言説がうまく構築されていなかったので何となく逆らえなかった人々がいたにせよ、そういうのに関わりたくない人が多かったと思われます。 教育機関では道徳の時間に同和教育やら戦争加害の問題を教える洗脳的な教育が昭和の日教組の戦後的な教育空間の中ではありえたのでしょうが、現在ではそもそもそういうのを支える枠組み自体がなくなってきているように思います。 現場で教える教師自体もそうですし教育委員会の関係者ですらそうかもしれません。 とういうか昔は労働組合や職域の組合は左翼の巣窟で今も連合の中でも公務員系はそういうところがありますが、そういうのと関係ない民社党系の労働組合などは普通にあります。 組合によっては比喩的な意味ではなくそのままの意味で中核派やら革マル派やらの極左の活動拠点です。 そしてその中核派やら革マル派やら自体が高齢化が進んで若い人が入ってこず規模縮小が続いています。 敬遠されているのかもしれません。 ⑲ 終わり理論 そもそも現代哲学は何かを終わらせるための哲学と言えます。 それで自分自身もおわらせてしまいました。 西洋哲学というのは終わった学問です。 この場合の「終わり」とは実在論の文脈から解放できるということです。 どういう意味で終わっているかというと構造主義とポスト構造主義の中の相対主義やメタ認知などの部分を持って西洋哲学の基礎研究というのは完成してしまい新規の基礎研究というのは打ち止めです。 後は応用やら哲学史やらをやるのはいいのかもしれませんが基礎は終わっています。 応用は工学というかテクノロジーというか実践という意味では倫理・道徳、特に道徳の範疇ですし、哲学史は知っていれば教養も深まるし現代哲学の理解や応用も含めていろいろなことの役に立つしそれ自体がおもしろいですが現代哲学にとっては別になくてもいい部分です(というと怒られるかもしれませんが)。 同じように神もニーチェが終わらせています。有名な「神は死んだ」というやつです。 近代というのも終わらせています。リオタールの近代のメタナラティブ論です。 人間も歴史も精神病も性などの差別の問題も終わっています。フーコーの考古学や系譜学です(別に現実になくなったわけではありませんが)。 現実社会も終わってます。ボードリヤールのシミュレーション・シミュラークル論です。 ロゴス中心主義や形而上学全般も終わっています。デリダの記号学などの理論です。 共産主義は終わっているのかどうかは分かりませんがアルチュセールが相対化済みです。 同じように「自由」「平等」「博愛」「愛国心」なども、そして「差別」なども構造主義化できるし相対化できるしメタ認知かできるでしょう。 とすると終わりです。 フェミニズムやら差別について分析した現代思想家は色々いるのですが私は現代思想の方はあまり勉強したことがないので詳しく知りません。 終わりというのは従来の実在論としての在り方の終わりです。 別になくなるわけではないですし(なくすこともできる言説づくりはできますが)、なくす必要もありません。 ただ自分を絶対だとか正義だとか言われるとちょっと時代にそぐわない感じになります。 そのために大切なのはインターネットのような自由な情報空間かもしれません。 ジュリアスシーザーが殺されたときのブルータスの裁判の民衆暴動やカラマーゾフの兄弟の裁判のような民衆の偏った熱狂、東京裁判やそれ以外のアジア各地でも行われたB級C級戦犯みたいな狂躁と結果ありきが支配する民衆裁判みたいなパラノイドで非ロゴス的なもので人や集団、そしてこれから先にはいろいろな生物や環境や地球自体が不幸にならないようにしていかないと将来が大変です。 多分ポリコレ的な差別議論は世界的にはしばらく続くでしょう。 格差と貧困問題が広がってしまいましたし、制度としての差別さえアメリカでは1960年まで、現在でもアファーマティブアクションみたいな逆差別がありますし、南アフリカでは2000年くらいまでアパルトヘイト政策が続いていましたしカースト制度もありますし差別が社会に組み込まれていた中に生きた人々の記憶、そして現状が現在もあります。 ただ時間とともにあるいは人々の努力とともに改善の方向に向かっていく流れに歴史はあるようですし、そういったのがもりあがったときに変に取りつかれたように熱狂してしまうとキリスト教の魔女裁判や共産主義国家のチベットやウイグルに対する民族浄化政策のようにおかしなことを許してしまいます。 思いつくままに書くといくらでも書けてしまってバルトのテキスト論やフーコーの文献学的逍遥のようになってしまいますから以下略とします。 まとめ 上では多くの「①トレードオフ」「②複対立的対象把握」の両方が働いています。 ある文脈では不当な差別に見え、別の文脈では単なる区別であったり、相互の見下し哀れみが絡み合っていたりします。 「絶対悪としての『差別』という単語」が状況を単純化しすぎる状況が多少は伝わってくると思います。 具体的に「差別」や「平等」を使って現代哲学の練習してみましたがいかがだったでしょうか。 具体例が冗長になってしまいましたのでいかに簡単に振り返ってみましょう。 実践①:トレードオフ法(良いことの裏側を見る) 「平等は良いことだ」という命題に対し、その「良いこと」が必然的に生み出してしまう「悪いこと(コスト)」を列挙します。否定するのではなく、「副作用」を指摘するのです。 「結果の平等」の裏側: 全員が同じ結果になるなら、誰も努力しなくなる(悪平等)。頑張った人が報われない社会は、活力とイノベーションを殺す。無理やり結果を揃えるためには、突出した個人の足を引っ張る(プロクルステスのベッド的な)暴力が必要になる。 「機会の平等」の裏側: スタートラインを揃えたとしても、才能や運の不平等までは是正できない。完全に機会を平等にするには、親ガチャ(家庭環境)の影響を消すために、子供を親から引き離して国家が管理するしかなくなる(プラトンの『国家』やディストピア小説の世界)。 「差別の完全撤廃」の裏側: 「区別」と「差別」の境界を厳しくしすぎると、あらゆるコミュニケーションが「ハラスメント」のリスクになり、誰も口を開かなくなる(沈黙社会)。「傷ついた」という主観が絶対視されると、客観的な事実や真実さえも「差別的だ」として言えなくなる(学問の死)。 実践②:複対立的対象把握法(多角的に見る) 「平等=正義」という一つの視点(アングル)だけでなく、別の角度から光を当ててみます。すると、平等が一つの「イデオロギー(偏った見方)」に過ぎないことが分かります。 生物学のアングル: 自然界に平等はない。個体差(変異)こそが進化の源泉であり、多様性そのもの。完全に平等な種は、環境変化で全滅する。 物理学(エントロピー)のアングル: 「熱的な平等(平衡状態)」とは、エネルギーの移動が止まった「死」の状態である。生命活動とは、不均衡(格差)を作り出し続けることである。 美学・文化のアングル: 日本の「わびさび」や「粋(いき)」は、不完全さや非対称性(不平等)の中に美を見出す。整いすぎた平等は、退屈で無粋である。 仏教のアングル: 「平等性智(びょうどうしょうち)」という悟りの境地はあるが、それは「みんな同じ給料にする」ことではなく、「現象としての差(差別相)を認めつつ、本質においては空であると知る」という、もっと高次元の捉え方である。 「能力に基づく選抜(難関大入試・プロスポーツ)は差別か?」 「ジェンダーをめぐるジョーク/表現が、どこから差別になり、どこまでが文化なのか?」 難関入試、芸人のネタ、ジェンダー表現など、「はい/いいえ」で割り切れない例を提示して、ここでも同じ2つの技法(①トレードオフ ②複対立的対象把握)を使うと、「これは絶対悪の差別だ/差別ではない」という単純な二択から、だいぶ自由になれる。 結論:脱構築のあとに残るもの こうして解体していくと、「平等」は絶対的な神様ではなくなり、**「使いどころを間違えると毒にもなる、一つのツール」になります。 「差別」もまた、絶対悪ではなく、「人間の認知機能(区別)の副作用」や「社会の摩擦熱」**として、冷静に観察できる対象になります。 現代哲工学(Modern Philosophical Engineering)の目的は、平等を否定することではありません。 平等を「神」の座から引きずり下ろし、**「人間が使いこなすべき道具」**の座に戻すこと。 それによって、ポリコレに怯えることなく、もっと自由に、もっと「心」を持って生きられるようにすることです。 捕逸:全体のまとめ直し 現代哲工学の練習:現実を扱うためのツールキット ~「差別絶対悪論」を教材にした、現代哲学による相対化と脱構築~ 現代哲学は、実在論そのものを茶化すこともできますし、実在と「うまく付き合う」ための技法として使うこともできます。 聖書の神や、共産主義革命、前衛党といった「絶対正義」の看板をいったん脇に置かせる──こうしたカウンターとしての役割は、現代思想の得意技です。 そして現代では、「差別」という言葉そのものが、かつての神や革命に近い「絶対悪(あるいは裏返しの絶対正義)」の地位を与えられつつあります。 今回はこの「差別の絶対正義(悪?)化」を教材にして、現代哲学の具体的な使い方を練習してみます。 ※注:ここで扱うのは、「差別」という言葉や概念が絶対悪として神格化され武器化される現象(イデオロギー)であって、実際の不当な扱い・暴力・不利益などの「差別被害」そのものを軽く見るつもりは全くありません。 1. 恰好の教材としての「差別」 現代哲学は、権威の押し付けに対する対抗言説として機能します。いわば、行き過ぎた実在論(絶対的な正義の押し付け)の「天敵」です。 かつては神や共産主義が絶対でしたが、現代の日本のような成熟社会では、それらは相対化されました。その代わりに台頭してきたのが、ポリコレ的な「差別絶対悪論」です。 差別はもちろん良いことではありませんが、それを神格化(ゾロアスター教的な悪神の絶対化)し、それを根拠に他者を過剰に攻撃するのは、別の弊害を生みます。 そこで、今回は**「現代哲工学(Modern Philosophical Engineering)」**の手法を使って、この絶対化された概念を解体(脱構築)してみましょう。 2. 現代における「差別」とイデオロギーの歴史 近代の理念は「人間の平等」を目指してきました。特にマルクス主義は強力でしたが、1970年代以降、その熱気は冷め、新左翼的なエネルギーは環境、ジェンダー、そして「差別論」へと向かいました。 かつての「革命」という絶対正義が失われた穴を埋めるように、「差別の糾弾」が新たな正義の座に座ったのです。 しかし、結論ありき(差別は絶対悪である)の議論は、中世の神学論争や共産主義の内ゲバと同様、パラノイド(偏執的)で粘着質なものになりがちです。 エネルギーが盛り上がり、そして先細りしていく「盛者必衰」のサイクルも、歴史の韻を踏んでいるように見えます。 3. 脱構築のための2つの具体的技法 絶対化された概念を解体するために、以下の2つの手法(ツール)を使います。 1. トレードオフ法(良い面の裏返し): 「良いことには悪い面もあり、悪いことにも良い面がある」という視点。経済学のトレードオフに近い考え方です。 2. 複対立的対象把握法(多角的視点): 一つの対象を、生物学、物理学、美学、宗教など、多様な座標軸(アングル)から眺めることで、絶対性を相対化する手法です(山本七平氏の用語を借用・応用)。 これらを組み合わせることで、対象を多次元ベクトルとして解析し、単純な「善・悪」の二元論から脱出します。 4. 実践:差別論の脱構築 では、実際に「差別」という概念を様々なアングルから解体してみましょう。 ① 差別の文脈依存性(コミュニケーションとしての差別) 差別は一方的な行為ではなく、「差別する側の感情」と「差別されたと感じる側の感情」がかみ合った時に初めて成立するコミュニケーションです。 • 体験的考察: 私がかつて大阪の新世界界隈(同和地区や寄せ場に隣接する地域)に住んでいた頃、今思えば「差別的な視線」を受けていたことがあったかもしれません。しかし、当時の私にはその文脈(コード)がなかったため、差別として成立しませんでした。 • すれ違いの喜悲劇: 逆に、ユダヤ人差別の文脈でも、ユダヤ人側が選民意識を持っていて「異教徒に何を言われても気にならない」場合、差別は成立しません。 差別には、双方が共有する「文脈」が必要なのです。 ② 区別と敬意の裏返し 「区別」は悪いことでしょうか? 日本の文化や宗教(神道・仏教)のアングルで見ると、人間以外の存在(動物、自然、物)に対しても魂や神性を見出します。これは西洋的な「人間だけの平等」とは異なる、広義の平等観です。 また、被差別民とされる人々が、同時に宗教的な「聖性」や「畏怖」の対象となっていた歴史(天皇の棺を担ぐ人々など)もあります。差別と敬意は、紙一重で反転する可能性があります。 ③ お金以外の価値尺度の多様性 「貧乏人を差別する」という図式が成り立つのは、社会全体が「お金至上主義」に染まっている場合だけです。 かつての日本のように、家柄、芸事、容姿、伝統など、多様な価値尺度があれば、「金はないがプライドはある」という状態で、差別感は緩和されます。一元的な価値観こそが、差別を深刻化させます。 ④ ジェンダーと平等の脱構築 ラディカルなリベラリズム(完全な自由)を突き詰めれば、性差をなくし、名前も戸籍もなくせばいいという結論に至ります(朝鮮の女性に公的な名がなかったように)。 しかし、それは現実的ではありません。 LGBTQ+やフェミニズムの議論も、結論ありきで一貫性がないことが多いです。いっそ「人類学(未来編)」のような大きな枠組みで、少子化や経済も含めて統合的に議論する方が建設的でしょう。 ⑤ 実践的脱構築:トレードオフと多角化 最後に、より具体的に「平等」を2つの技法で解体します。 【実践1:トレードオフ法(平等のコスト)】 • 結果の平等: 悪平等を生み、努力やイノベーションを殺す。プロクルステスのベッド的な暴力が必要になる。 • 機会の平等: 親ガチャ(家庭環境)を否定し、完全な国家管理(ディストピア)を招く恐れがある。 • 差別の完全撤廃: 「ハラスメント」の恐怖で誰も口を開けない「沈黙社会」や、事実さえ言えない「学問の死」を招く。 【実践2:複対立的対象把握法(多角的アングル)】 • 生物学: 自然界に平等はない。個体差(変異)こそが進化と多様性の源泉。 • 物理学: 熱的な平等(エントロピー最大)は「死」である。生命は不均衡(格差)によって動く。 • 美学: 日本の「わびさび」は不完全さや非対称性に美を見る。完全な平等は無粋。 • 仏教: 「平等性智」とは一律にすることではなく、現象の差異を認めつつ本質の空を知る高次元の視点。 結論:道具としての「平等」、現象としての「差別」 こうして解体していくと、「平等」は絶対的な神様ではなくなり、**「使いどころを間違えると毒にもなる、一つのツール(道具)」になります。 「差別」もまた、絶対悪ではなく、「人間の認知機能(区別)の副作用」や「社会の摩擦熱」**として、冷静に観察できる対象になります。 現代哲工学の目的は、平等を否定することではありません。 平等を「神」の座から引きずり下ろし、**「人間が使いこなすべき道具」**の座に戻すこと。 それによって、ポリコレに怯えることなく、もっと自由に、もっと「心」を持って生きられるようにすることです。

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