2026年2月11日水曜日

「人間の配管工学」シリーズ

 

「人間の配管工学」シリーズ

第1本 体は「内なる海」を守るための装置である

人間にとって最も大切なものは何か。 家族、仕事、趣味……と答えは人それぞれですが、もっと狭く、生物学的に問うなら、それは「細胞外液の恒常性」、つまりホメオスタシスです。

私たちの体は細胞からできています。ウイルスはさておき、高等生物の細胞はすべて、脂質二重膜に囲まれ、その周囲に「細胞外液」という海水に似た液体を必要とします。原始の海から陸に上がったとき、生物は外の海を失いました。だから体内に「内なる海」を持ち込んだのです。

細胞には体細胞と生殖細胞があります。生殖細胞(精子・卵子)は種の存続を担う特別な存在。それ以外はすべて、体細胞が生きるための環境――細胞外液――を維持する装置にすぎません。蟻のコロニーで言えば、女王アリが「生殖細胞」、働きアリが「体細胞」。どちらが偉いではなく、役割の相互依存です。

胴体(胸腹部)の臓器は、この内なる海を守る配管工学の結晶です。 皮膚や消化管、呼吸器、泌尿器……すべては細胞外液の温度、pH、浸透圧を一定に保つため。細胞膜が直接外気に触れることはほとんどありません。上皮細胞のシートが内外を仕切り、漿膜が体腔を包み、腎臓は特異な環境に耐えながらターンオーバーを速めて働く。

結局、私たちの体は「生殖細胞を次の世代へ運ぶための、細胞外液恒常性維持装置」なのです。 少し冷たく聞こえるかもしれませんが、これが生物学の現実。健康とは、この装置がうまく回っている状態のことです。

第2本 多細胞生物が最初に作った革命的発明=消化管

巨大化したい生物が最初に必要とした器官は、脳でも心臓でもなく、消化管でした。

単細胞生物は表面から直接栄養と酸素を取り込み、老廃物を排出できます。しかし体が大きくなると表面積/体積比が減り、拡散だけでは中心まで届きません。そこで進化が編み出したのが「内面化した表面」――消化管です。

トポロジー的に見ると、原始的な多細胞生物には二つの型があります。 ・入り口と出口が共用の球型(位相的に球と同等) ・入り口と出口が別々のドーナツ型(変形すればちくわ状)

海綿動物は前者を残しましたが、人類は後者を選びました。口と肛門が別れ、効率的な一方向の流れが生まれたのです。

消化管は内胚葉由来のシートでできています。ここから呼吸器、肝胆膵外分泌系、泌尿器系が派生しました。皮膚と脳は外胚葉、心臓・血管・筋肉は中胚葉。それ以外の「管」はほぼ消化管の末裔です。

何億年も昔、海の中で生まれたこの発明なくして、私たちのサイズはありえませんでした。小さな体なら拡散で十分。巨大化の代償として、生物はまず「食べるための管」を作ったのです。

第3本 消化管は「第二の脳」――リトルブレインと脳腸相関

脳死しても動き続ける臓器が、体の中にいます。 それは消化管――まるで「腸のなかのミミズ」のようです。

消化管は驚くほど自立しています。神経を完全に切断しても蠕動運動を続け、カハール細胞がペースメーカーとしてリズムを刻みます。東洋医学では「腑」と呼ばれ、臓(心肝脾肺腎)とは区別されるのも納得です。

この自立性の高さから、消化管は「リトルブレイン(第二の脳)」と呼ばれます。神経細胞の数は脳に次ぎ、腸固有の神経叢が独立して働きます。しかも一方通行ではなく、腸から脳への指令も強い。それが脳腸相関です。

セロトニンの90%以上は腸で作られます。不安やうつ、自閉スペクトラム症、IBS(過敏性腸症候群)……精神科の現場で腸の状態が心に影響を与える例は枚挙にいとまがありません。ストレスで腹が痛くなるのは、脳が腸に命令しているだけでなく、腸が脳にフィードバックしているからです。

精神科医として実感するのは、心の不調はしばしば腸から始まるということ。 腸を大切にするのは、身体だけでなく、心を大切にすることでもあるのです。

第4本 死ぬときに見える臓器の「頑丈さ序列」

人間が天寿を全うするとき、最後まで動き続ける臓器はどれでしょうか。

多くは感染症で亡くなります。特に高齢者では誤嚥性肺炎や尿路感染症が直接死因の筆頭。悪性腫瘍、心血管疾患、脳血管疾患が元死因でも、最終的には感染症がトドメを刺すことが多いのです。

脳や心臓は急性イベントで止まりやすい。一方、消化管は最後まで機能します。嚥下障害が進んでも、胃瘻や経管栄養で栄養を入れれば、体は生き続けます。循環器・呼吸器も予備能力が高く、かなり持ちこたえる。腎臓は繊細で透析が必要になる例が増えていますが、小腸は極めて頑丈――小腸癌はきわめて稀です。

かつて日本では延命優先で胃瘻が頻繁でした。今はQOL(生活の質)を重視し、末梢静脈補液で体力が尽きるのを「天命」と受け止める傾向が強まっています。

死の床で見えるのは、臓器の「歴史の長さ」による頑丈さの序列です。 最も古い消化管が、最も最後まで動き続ける。これは進化の記憶そのものです。

第5本 腸内細菌――灯台下暗しの巨大フロンティア

昔、日本の外来で最も多かった主訴は「腹痛」でした。 急性腹症の半数は原因不明。検査を尽くしても異常なし――それが機能性消化管疾患研究の走りとなりました。

今、その主役は腸内細菌です。 常在菌は体に不可欠だと誰もが思っていましたが、長らく研究は遅れていました。理由は単純――ほとんどの腸内細菌が偏性嫌気性菌で、空気に触れると死んでしまうからです。

培養困難な細菌が大半を占め、知られている種は氷山の一角。土壌細菌と同じく、ビッグデータとメタゲノム解析がなければ解析は進みません。研究コストは高く、かつてはモチベーションが低かったこの分野が、今、花形になっています。

精神疾患、自己免疫疾患、がん、肥満……腸内細菌叢の乱れ(ディスバイオシス)が関与する疾患は増える一方。灯台下暗しだった巨大フロンティアが、ようやく本格的に開かれつつあります。

第6本 消化管は最大の免疫器官である

体の「外」と「内」の境界は、実は消化管が最も厳格に管理しています。

消化管の内腔は、厳密には「体の外部」です。上皮細胞を通過して初めて内部に入ります。皮膚は異物を跳ね返すだけですが、小腸は積極的に栄養を吸収しなければならない――だから多層の免疫チェックが必要になります。

粘膜下組織、上皮内リンパ球、腸関連リンパ組織(GALT)、メセンタリーリンパ節……免疫細胞の7割以上が消化管周辺に集中しています。入国審査にたとえれば、皮膚は「国境の壁」、消化管は「移民局+税関+検疫」の複合施設です。

哲学的に考えると興味深い問いが生まれます。 「人間はどこまで人間か」「体と外の境界はどこか」。腸内細菌は私たちと共生し、吸収した栄養は異物から自己になる。免疫とは、自己と非我の動的な境界線そのものです。

忙しい現代ではそんなことを考える余裕はないかもしれませんが、かつての免疫学者はまさにこの問いを起点に研究を始めました。知っておくと、別のひらめきのきっかけになるかもしれません。

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