2026年2月10日火曜日

消費税が奪った「胴体」 ——昭和の街の消滅と、粗利税化する国家

 

消費税が奪った「胴体」

——昭和の街の消滅と、粗利税化する国家

昭和の街には、いま思うと奇妙な“混住”があった。
社長も従業員も、町工場の親方も、スーパーの店員も、わりと同じ半径で暮らしていた。子どもは同じ公園で遊び、同じ学区に通い、同じ駄菓子屋の前でだべっていた。身分の差が消えたわけではない。しかし、差が「違う宇宙」には分離していなかった。

その混住が、社会の分配装置になっていた。
立派なイノベーションなどなくても、平凡な努力だけで、人生が少しずつ上がっていく余地があった。丁稚や奉公人でも、小商いでコツコツ食っていける余地があった。江戸の大阪のように、他の都市とは違う商業の呼吸があった——持たざる者が、持てる者になる“細い道”が確かに残っていた。

結婚も、子どもも、「天才であること」や「家柄」より、もう少し単純に「働くこと」によって現実になりやすかった。
この“昭和の夢”は、いわゆる「一億総中流」の感覚として語られてきた。もちろん理想化はある。しかし、この国が、少なくとも相当長い期間「無階級に近い巨大な中間層」をつくることに成功していたのも事実だろう。

ところが、同じ国に生きているようでいて、私たちはこの数十年で、別の社会に引っ越してしまった
目に見える風景は似ている。コンビニも電車も役所もある。けれど下部構造——人々が食っていく仕組み、家族を作る条件、誇りの支え方——が変質した。

その変質の中心に、私は「消費税」があると思っている。
正確に言えば、消費税という制度そのものが単独で悪魔なのではない。消費税が、他の構造改革と“噛み合った”とき、街の分配装置を破壊する刃になったという話だ。


1. 消費税は「制度上は中立」だが、現場では「粗利税化」する

消費税は1989年4月に3%で導入された。
ここから先、税率がどう上がったかは各論としても、導入が「昭和の終わり」に置かれたことの象徴性は大きい。高成長の“余白”が消え、バブルとその崩壊をまたぎ、社会が締まっていく入口に消費税が置かれた。

建前として消費税は「付加価値税」であり、最終的には消費者が負担する、という顔をしている。
しかし現場で起きるのは、もっと泥臭い力学だ。

転嫁できない。
取引の力関係がある。需要が弱い。競争が過密。下請けは代替が効く。値上げを言った瞬間に切られる。
このとき消費税は「消費者税」ではなく、企業の粗利を削る税として振る舞う。

それを裏から支えるデータもある。公取委の調査では、コスト別の転嫁状況として、とくに労務費の転嫁が弱いことが示されている(中央値で30%)。
転嫁できない労務費は、結局どこで吸収されるか。粗利だ。つまり中小零細の生命線だ。

だから私はこう言いたい。
消費税は、取引構造が歪んだ社会では「粗利税」に化ける。
そして粗利が削られると、何が死ぬか。まず「未来」が死ぬ。設備投資が止まる。賃上げが止まる。雇用の余裕が消える。家族を養う“見通し”が弱くなる。


2. 小商いの生態系を削った「流通の構造改革」と合体した

消費税が痛いのは、それが単独で作用したからではない。
同時期に、街の分配装置そのものが削られていった。

象徴が「大店法」まわりだ。
日米構造協議(SII)の最終報告には、流通規制の緩和として大型店規制(Large-Scale Retail Store Law)を含む分野の規制緩和が明記されている。
その後、制度は形を変え、2000年には大店法は廃止され、新たな枠組みに置き換わっていく(流れとしては研究・公文書でも整理されている)。

ここで起きたのは、単に「便利になった」だけではない。
商店街という“弱者の分配装置”が、ルールの地盤ごと沈んだということだ。

商店街は、効率だけで見れば非合理の塊だ。
狭い。古い。駐車場がない。値段も安くない。
しかし商店街には、経済合理性で測れない機能があった。

  • 失敗しても、もう一回立て直す余地

  • 店主同士の信用で回る融通

  • 親の仕事を子が見て学ぶ回路

  • “普通の努力”で生活を維持できる仕事の束

  • そして何より、顔の見える小さな誇り

この生態系が削られると、街は何になるか。
答えは簡単だ。**「強い資本に最適化された街」**になる。そこでは、庶民が頑張って暖簾分けして独立して、家族を養うための“細い道”が急に細くなる。


3. 「中小が日本の胴体」なのに、その胴体を細らせた

中小企業は、日本の企業のほとんどだ。雇用の大部分だ。
たとえば日本政策金融公庫の資料では、**SMEは全企業の99.7%、雇用の約70%**とされる。

つまり、ここを削るというのは「一部の弱者が苦しい」話ではない。
国の胴体が細る話だ。胴体が細れば、頭(大企業・官僚機構・金融)の動きは軽く見えても、歩けなくなる。

ここで不思議な現象が起きる。
消費税は「消費者が払っている」顔をしているから、国民の痛みが“見えにくい”。
一方で、転嫁できない中小は、粗利と体力を削られ続ける。しかも、それは表に出にくい。表に出ないから、政治的に守られにくい。

結果として、社会は静かに二層化する。

  • ルールと規模で吸収できる側(大企業・強い資本)

  • ルールと市場の狭間で吸収する側(中小・庶民の働き口)

この二層化は、どこか冷戦期の共産主義国が持っていた「ノーメンクラツーラ/一般大衆」という構図に似ている。もちろん同一ではない。だが、**“制度の設計が、特定の階層に有利な形で固定化する”**という意味では、似た匂いがする。

日本はかつて、世界一成功した「無階級の一億総中流」だとさえ言われた。
ところが今、別の形で階級が再生産されている。
それも、スローで、静かで、見えにくい形で。


4. 何が壊れたのか:数字より先に「風景」が壊れた

政策を語るとき、私たちは数字に寄りがちだ。
GDP、成長率、効率、競争力、イノベーション。
だが、街の風景が壊れるとき、壊れるのは数字ではない。生活の設計図だ。

昭和の街には「凡人の上昇ルート」が複数あった。
商店、工場、職人、運送、飲食、小売、修理屋、理容、駄菓子屋。
それらは“非イノベーティブ”だったかもしれない。だが、それでよかった。社会は天才だけで回らない。むしろ凡人が回す。

消費税が粗利税化し、流通の構造改革がそれに噛み合ったとき、凡人の上昇ルートが細った。
細ると、人はどうするか。二択に追い込まれる。

  • 競争に勝てる側に寄る(大きい会社、強い資本、東京、学歴、資格)

  • 勝てない側は沈む(非正規、孤立、諦め、地方の衰退、家族形成の断念)

そして社会は、経済合理性で測れるものだけを残し、測れないものを捨てる。
それは、身体の胴体を削って頭だけを残すような変形だ。
頭は賢くなるが、歩けなくなる。腹が据わらなくなる。世界が薄くなる。


5. これからも破壊されるのか?——「起業」すら阻害する構造

ここが痛いところだが、現代社会が求める「ベンチャー」すら、この構造の中では育ちにくい。

起業初期に必要なのは、天才よりまずキャッシュフローの呼吸だ。
固定費、仕入、外注、採用、少しの失敗を吸収する余白。
だが、粗利が薄い商売に“粗利税化した税”が刺さると、呼吸が止まる。
そして、流通・広告・プラットフォームの力が巨大化している時代に、個人商店の勝ち筋は「努力」だけでは届きにくい局面が増えた。

だから、「消費税は社会保障財源だから仕方ない」という整理では足りない。
財源の議論は大事だ。しかし同時に、その税が国の胴体(中小の生態系)を削っていないかを、同じ熱量で点検しなければならない。


6. では何を目標にするか:「胴体を取り戻す」政策言語

ここまで書くと、単なる懐古主義に聞こえるかもしれない。
だが私の主張は「昭和に戻れ」ではない。
“多様な生存ルート”を再び増やせということだ。

そのための政策言語は、たとえばこうなる。

  1. 価格転嫁を「お願い」ではなく「執行」にする
     とくに労務費転嫁が弱い現実を前提に、サプライチェーンの力関係を是正する。

  2. 小規模事業のキャッシュフローを殺さない税設計
     納税タイミング、簡素化、一定の猶予、そして“粗利税化”が起きにくい仕組みへ。

  3. 都市政策・流通政策を「街の生態系」から再設計する
     効率だけでなく、商業の多様性、顔の見える信用、再挑戦可能性を守る。

  4. 社会保障財源を、逆進性と“現場の痛み”の両面で議論する
     「財源だから」で終わらせず、胴体を削っていないかまで含めて設計する。


結び:同じ国に見えて、もう別の国に住んでいる

私たちは、同じ日本に住んでいるようでいて、実は別の国に引っ越してしまった。
昭和の街が持っていた「凡人の努力が報われる回路」は、制度と市場の噛み合わせで痩せていった。
消費税は、その中心にある。制度の顔は“消費者税”でも、現場では“粗利税”として中小を削り、分配装置としての街を弱らせた。

だから私は、税の議論を「損得」だけで終わらせたくない。
税は、街の風景を作る。人の誇りを作る。家族を作る。
経済合理性で測れないものまで含めて、社会の胴体を作る。

そして胴体がなければ、頭がどれだけ賢くても、国は歩けない。

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