2025年10月23日木曜日
日本と聖書文化の本質的な違い、制度を変えたくらいでは変わらないもの これが分かれば本質が理解できる
日本と聖書文化の本質的な違い、制度を変えたくらいでは変わらないもの
これが分かれば本質が理解できる
私たちが世界に触れるとき、何に「心」を置くかは文化によって異なる。日本では対象に心性を感じ取り、行為に「道」を通じて情を込める傾向が強い。対して聖書文化圏では、創造主と被造物を厳密に区別する教義と契約(律法)が、対象への過度な神性付与を抑制する。両者の差は、宗教実践だけでなく、美術・金融・技術倫理にも射影されてきた——ただし時代・宗派差は大きく、断定は避けたい。本稿はこの差異を「感情移入の許容量」と「契約の統治力」という二軸で読み直す。
・日本と聖書文化圏では物事に対する態度と感性が根本的で強力に異なる
「人間はみな同じ」というのは嘘です。
別に平等でないとか差別があるとかそういう話ではありません。
世界の認識の仕方が異なります。
もっと細かく言えば事物に対する感性が異なります。
これはたぶん後天的な物ですが根本的な違いを生じます。
何が違うかというと、
「聖書文化圏では事物(被造物)に神性を感じない(ように訓練される)のに対し、日本では事物に心(仏性や神性)を感じる(ように訓練される)」
ということに集約されます。
・日本は感情移入する文化、聖書文化圏は対象に距離を取る文化
誤解を恐れずに言えば、或いは誤解されてもいいので言わせてもらえば、日本は感情移入する、あるいは感情やら心やら情熱やら魂を実物に込めるように訓練を行う文化です。
それに対して聖書文化圏の発想は例えばキリスト教のカトリックやプロテスタントでは温度差がある者の、対象に対する感情移入をしない、あるいは感情移入をしないように訓練する文化です。
その程度が上がると、例えばキリスト教徒ならカトリックの方が人懐っこく感じて、イギリス人やアメリカ人などのプロテスタントはそっけなく冷たく感じたりします。
最近は傾向が変わりましたが大昔はイギリスやアメリカなんかに留学すると結構冷たい対応をされたように感じることがあったようです。
夏目漱石なんかが有名でしょう。
つめたいイギリスの雰囲気の中でノイローゼというか精神病発症っぽくなりつつ、帰ってきた日本でも西洋近代化に悩み乃木希典の殉死や潰瘍の喀血などを経て日本人古来の心というものに気づいていきます。
日本思想史は心の思想なので古代は清明心、中世は正直の思想、幕末は誠実の思想と変遷していきますがそれは心の思想、或いは忠恕の思想と言い換えることができます。
忠は真心とまじめなことで自分の心の中です。
漱石は江戸時代育ちなので江戸時代の日本を覚えている世代です。
森鴎外も乃木希典の殉死には感銘を受けて小説を書いていますので何か江戸時代育ち以前の人たちには感じるところがあったのでしょう。
乃木希典は吉田松陰の兄弟弟子で親戚です。
同じ師匠の下滅私奉公のスパルタ教育を受けています。
吉田松陰の哲学は一言でいえば心の哲学です。
江戸時代に入った儒教の亜流の陽明学は江戸初期から心学という形に日本的に編集され(石田梅岩などの独走の部分も多いですが)庶民にも広がり、幕末の志士たちの精神的な主柱になりました。
恕は思いやりと許すことで、字形のごとく人の気持ちになって考えること、感じることです。
これを孔子は儒教で、あるいは人間にとって一番大切なものと言っています。
一番大切どころか「君子の倫は忠恕のみ」十分条件と言っています。
まあ修辞的に強調したいだけかもしれませんが、字義通りにとれば人間は忠恕、心や心遣いがあればそれだけでよい、といっていることになります。
・西洋の場合
西洋はそれに対して水臭い文化と言えば文化です。
過度な感情移入は神以外の対象に神性さを感じたり、神の被造物に過ぎないものに神を感じる不敬をなすことになるかもしれないのである種事物に対して感情的な距離を取るような訓練を受けます。
そうは言っても人間ですからいろんなものには感情移入してしまうのでそこの境界はあいまいです。
原理主義的な厳しいころのサウジアラビアでは国内に写真も絵も人形も持ち込み禁止でした。
現在のジャパンエキスポとかしているのを見ると信じられないのかもしれませんがそっちの方が聖書に忠実と言えば忠実な感じがします。
ユダヤ人なのに画家になったシャガールなどは特殊な例でした。
物に感情移入しないのは商売や金融に向いています。
シェイクスピアのヴェニスの商人ではユダヤ商人のシャイロックが悪役のように書かれていますがそもそも偶像崇拝を許すカトリックと偶像崇拝禁止でかつ聖書では禁止されている金貸しをしているとキリスト教では解釈されるユダヤ人の商人ではかなり感覚が違うというか性格的に相性が悪かった可能性があります。
逆に偶像崇拝を禁止したプロテスタントが資本主義やマルクス主義を作ったのはものに感情移入しないことと何か関係があるかもしれません。
・まず日本から
日本人は物事に心を感じます。
日本人が大昔のアニミズムを残しているのかは分かりませんが現代の日本人はアニミズム的な要素があります。
一部は神道の八百万の神々の考えかもしれません。
日本書紀やら古事記を見ても神様を自然物と見立てています。
あるいは自然物を神と見立てています。
また天台宗の山川草木悉皆仏性的な考え方かもしれません。
全ての事物に仏性が宿ると考えます。
あるいはヒンドゥー教あたりの影響を受けている密教の影響もあるかもしれません。
密教ややはり事物を仏や仏の眷属と見立てます。
その上聖徳太子が本地垂迹の神仏習合で宗教混交(シンクレディズム)を意図的に行ったと思われます。
また老荘の思想の影響があります。
老荘の道とは違いますが日本は道を禅の影響などを通じて独特に作り変えています。
あらゆる行動や対象をトータルの精神や心の修養とみています。
これは自分を高めるだけでなく対象をも高める考え方です。
剣道なら剣にも心を感じ茶道なら作法所作場の全てに心を籠めます。
道教もそれ自体が神を地上の秩序と見立てるものです。
道教はあまり目立った形ではないかもしれませんが講や七福神などいろいろな形で日本文化に溶け込んでいます。
・日本人が対象に込めるもの
日本人は対象に何かを籠めます。
何を籠めるのかはよく分かりませんしいろいろかもしれません。
魂や情熱を込めるのかもしれません。
感情移入をするのかもしれません。
漱石が晩年に悟った心を籠めるのかもしれません。
数学者の岡潔が言うように情緒だか情を籠めるのかもしれません。
擬人化を行うのかもしれません。
仏性や神性を感じるのかもしれません。
万物を輪廻転生するものとして人間と差別するものとしてではなく平等に見るのかもしれません。
物にも付喪神のような何かが宿ると考えているのかもしれません。
中国の魂魄の思想があるのかもしれません。
アイヌの熊送りや日本昔話のように動物も人間になりうると考えているのかもしれません。
例を挙げればきりがありませんがこういう考え方は聖書の考え方では実は異端です。
・聖書文化は物を感情をこめてみない
聖書文化圏では物に感情をこめてみませんし、見ないように訓練されています。
感情というと広すぎるので神性や心とここでは行ってみましょう。
一つは聖書がそのように規制しています。
あるいはこれも聖書に関係するのかもしれませんが農耕民と牧畜民の違いがあるのかもしれません。
後者から言うと日本人は仏教とですから殺生を禁じる戒律があります。
本当は動物どころか植物も殺してはいけないのです。
ですから昔の仏教徒は食べるために托鉢を行いました。
人の施しを食べるのです。
施されたものも死んだ生物かもしれませんがある程度は仕方ありません。
一方牧畜民は家畜との心理的距離間のコントロールが重要な仕事です。
時に殺し、時に食べ、時に資源化し、時に去勢し、時に焼き印を押し、時に傷つけ、時に交換し、時に売買し、時に譲渡しなければいけません。
家畜に対して思い入れを持たない、あるいは思い入れを持ってもいいのかもしれませんが必要な時には家畜にとっては気の毒なことでもやることはやらなければいけませんのでそういう場合に家畜に対する感情をコントロールする必要があります。
愛する家畜がかわいそうでも生きていくためには殺して食べないといけないかもしれません。
時に感情を押し殺す、時に最初から感情を持たないようにする、時に自分の中で整理しにくい感情を整理するため儀式を行う必要があるかもしれません。
・聖書の神との関係
聖書の神と人間との関係は「契約」という日本の宗教や思想では主役にならないものが主役級の役割をなします。
聖書の立て付けをみると次のようになります。
・聖書は契約書と契約のいきさつを繋ぐナラティブで出来ている
聖書の構成は大きな物語のような作りになっています。
この物語は人類の歴史書のようになっています。
途中からは神とユダヤ人の関係の歴史書になっています。
歴史の中でのいろいろなエピソードやユダヤ民族のいろいろな宗教的思想も聖典として採用されればこの物語に加えられるので物語集のようにもなっています。
この歴史において大切なのは神との関係なのですが、聖書において神と人間との関係は契約によって関係つけられています。
それによって聖書は別の読み方もできます。
・聖書は契約書で物語はその契約書を繋ぐいきさつが書かれている
聖書は契約書であると見ることができます。
契約の条項を律法と言います。
法律と似ているというか語順を反対にしたものですが法律が社会契約的なものとしてみるのであれば聖書は法律書としてみることができます。
その場合法律でない部分は契約が結ばれた理由やいきさつが書かれていると見ることができます。
法律でも歴史が長いのでイギリスの慣習法や日本の貞永式目や御成敗式目のような法律の積み重ねみたいなところがあります。
ただイギリスの不文法のようなものではなく逆にめちゃくちゃ成文法です。
ユダヤ人は「書の民」といわれます。
歴史が長いですから法律の積み重ねのようになります。
日本の法律も地層のような積み重ねです。
明治憲法ができるまでは日本の正当な法律は律令制でした。
武士が既成事実みたいに凡例集めて実質的な法律を作っていきましたが、公式には大昔の律令制の法律が日本の正当法でそれが明治憲法公布まで続いたわけです。
聖書を契約書をメインとしてみると契約の具体的内容である律法がメインでそれ以外は契約に至る経緯を説明したりするエピソード周みたいなもので脇役のように見ることができます。
・契約とはどんなものか?
いかにざっくりと聖書の契約書の側面をまとめてみます。
聖書文化圏の構造は神との契約です。
聖書は六法全書のような法律書とその法律(律法)の契約の背景をつなげるナラティブからなります。
契約書には甲と乙があり、甲は創造主としての唯一神、乙は被造物としての人です。
唯一神は契約を結んだ以上は他の神に浮気するのを契約書で禁じています。
また唯一神と唯一神が想像した人間を含めた被造物を厳格に区別することを契約条項としています。
またその契約内容を守るための周到な契約条項を幾二十重にも張り巡らせています。
聖書というのは一つの見方として契約書とその間を埋めるストーリーとして捉えることができます。
聖書の契約関係の実例を列挙します。
ここは流し読みしてください。
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聖書における契約とその更新
1. 主要な契約の種類
聖書の根幹を成す主要な契約(神と人との約束)です。
• ノア契約
• アブラハム契約
• モーセ(シナイ)契約
• ダビデ契約
• 新しい契約
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2. 契約の「更新」および再確認の主要な場面
既存の契約(特にモーセ契約)を、民が改めて確認し、守ることを誓約した歴史的な場面です。
• シナイ契約の再確認(黄金の子牛事件の後)
• エバル山/ゲリジム山での律法朗読と誓約(カナン入国時)
• シケムでの契約更新(ヨシュアによる「誰に仕えるかを選べ」との問いかけ)
• サムエル時代の全国的な悔い改め
• ピネハスの「平和の契約」(特定の功績に対する契約)
• アサ王による全国的な契約
• 大祭司ヨヤダとヨアシュ王による改革契約
• ヒゼキヤ王による神殿・礼拝の再建
• ヨシヤ王による「律法の書」発見後の契約更新
• 奴隷解放の契約(ゼデキヤ王の時代、ただし直後に破棄)
• エズラ・ネヘミヤによるバビロン帰還後の悔い改めと署名
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3. 預言から成就への流れ
旧約で預言された契約が、新約において成就する流れです。
• エレミヤなどによる「新しい契約」の予告
• 主の晩餐における「新しい契約」の成就宣言
さらにはキリストもムハンマドも新しい契約という事になっていますし、パオロやユダヤ教のラビなどによるミシュナ、ムハンマドのコーランやハディスなども契約でなくても信者を律するものです。
・聖書系の宗教は日本の宗教とは違う
日本の宗教はというと神道にははっきりとした教義がありません。
あるとすれば「きれいで清らかでいよう、きれいで清らかであろう」みたいな感覚的なものです。
仏教は本質的には哲学です。
仏教も異論な宗派があるので定義というのによっては宗教と言えるかもしれませんが中核部分は日本に伝わる大乗仏教ではお釈迦様の教えを龍樹(ナーガールジュナ)の空論と中観論で再構成された協議を中心に据えています。
宗教的な要素がアジアの広域で長い歴史があるのでそういうのがくっついて日本に入ってきている面もありますし、日本でも鎌倉新仏教や明治時代以降もいろんな新興宗教ができますがまあ契約が中心の物は聖書系以外は少ないか勢力が弱いでしょう。
空論と中観論は西洋哲学の認識論と存在論なので日本仏教の中核部分は哲学です。
道教は老荘の思想と中国の民間宗教としての道教の部分があります。
これは宗教と言ってもいいかもしれません。
ただ聖書型の宗教とは違います。
契約というものが大きな比重を占めることはありません。
どんな宗教家というと西遊記とかそれを子供向けに書いた児童書の西遊記を読んでもらえれば何となくわかると思います。
とはいえ中国の道教とは違います。
中国の道教は地上の皇帝と官僚の行政制度の天上におけるコピペみたいなものです。
日本は天皇陛下もいらっしゃるしそんな天上の秩序のコピペは必要ないので頂くところだけ頂いて日本風に編集したものです。
儒教は同化というと周礼を再現するという孔子からいろいろ変遷を経て朱子学や陽明学みたいなものになりますがこれは多分世界的にも宗教とは違うものというコンセンサスが強いと思います。
陽明学は主観的唯心論とも言えて世界は自分で自分が世界ですから自らの行動が世界の全てを背負う、世界の全てのケツを持つという感じのある意味世界との一体論です。
これは江戸時代には心学から明治維新まで日本史に圧倒的な影響を与えました。
陰陽道みたいなものもありますがこれは宗教というよりテクノロジーではないでしょうか。
アニミズムやトーテミズムやシャーマニズムみたいなものもあるかもしれませんが何となく神道と一緒くたになっているのではないでしょうか。
北東アジアのシャーマニズムは儒教やアイヌの宗教に関係あると思いますが。
というわけで契約バリバリの宗教は日本にはあまりありません。
戦国時代に入ってきたキリスト教が江戸期を通じて長崎の方に生き残っていたようですが隠れていたので日本全体に大きな影響は及ぼさなかったのではないでしょうか。
また妖怪みたいなものもあります。
なんだかよく分からないものは日本には実は結構あるし、昔はもっとありました。
星新一のショートショートにありますが主人公のところに突然よく分からないものが現れて、お前は何だといろいろ問い詰めても全部否定されて最後に「世の中には意味のないものも尊大するのですよ、私やあなたのように」といって消えていく話があります。
人間は解釈や意味づけする傾向がありますが人間は大概意味のないものの基盤の上に生きています。
またよく既存の何かに当てはまらないよく分からないけど活躍する何かは創作や日本の漫画・アニメにはたくさん出てきます。
一応意味づけされていることが多いですが。
というわけで聖書系宗教やあるいは聖書系の思想は日本人のメンタリティに大きな影響を及ぼしていないと思われます。
・聖書は唯一神教
聖書は一神教です。
契約を結んで信者になった以上は他の神に信じたり神性を感じたりすることを忌避します。
聖書は聖書の神以外の神には寛容ではありません。
聖書の神を信じることも禁止です。
いったん神と契約を浮かんだら非常に厳格な意味で浮気は許されません。
・聖書では事物に神性を感じるのは禁止
聖書は他の神に神性を感じることを忌避しますが、神以外の何かの事物に聖書の神を投影することを禁じます。
聖書文化圏の宗教は神と契約結ぶことで入信して信者になります。
神と人間は契約を結ぶことで宗教共同体となる構造です。
これはユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でも変わりません。
この契約では他の神は認めないという契約であり、他の神を信仰することも認めないという契約内容になっています。
入信した以上は神以外の事物に神を感じることを原則認めません。
聖書では創造主である神とその被造物である人間をはじめとするあらゆる事物を厳格に区別します。
被造物が神をかたどることを許しません。
神の絵を描いたり神の像を作ることを認めません。
いわゆる偶像崇拝の禁止です。
神以外のものに神を感じることになる全てのことはあらかじめ近似されます。
神を被造物でかたどれるとするのは神に対する冒涜ともいえます。
たかだか被造物ごときが神のまねごとをすることはできないししてはいけないのです。
また神の名前をみだりに唱えたり絵にかいたり像を作ることも認めません。
あまりにも神の名前を唱えなかったため歴史の中で神の名前は忘れられてしまいました。
現在は復元されているようですがどのように復元されたのかは知りません。
もしかしたら復元に成功しているとはいいきれないままヤーウェと呼んでいるのかもしれません。
セム系の言語は母音表記をしないのが今でもアラビア語などで残されているはずです。
YHWHという文字の母音が分からなくなってしまったのではないでしょうかと推測しています。
特に名乗らず神性4文字としてそのまま扱う場合もあるようです。
かのごとくあらゆる事物に神性を感じることを禁止します。
神自体に神性を感じるのはいいのかもしれませんが基本的には神とは会えないものです。
聖書の登場人物の中で神を見たことがある人はたしか多くて2~4人くらいいたかもしれませんがほとんどいなかったはずです。
声を聴いたことがある人はたくさん登場します。
そういう人は預言者と呼ばれたりします。
未来を予言する予言者と区別することが大切です。
預と予で漢字が一文字違います。
つかり聖書の神であろうが他の宗教の神であろうが関係なく事物に神を感じてはいけないのです。
・神性とは何か?
神性とは何かが問題になりますがこれは難しい問題です。
神聖な感じ、聖なる感じ、どういう感情をもって神を感じるというのかは難しい問題です。
日本人なら事物に神性を感じようと何を感じようと自由です。
しかし聖書民は何かに神性を感じて神と見立ててしまったらアウトです。
神とその他の全ての事物を分けて神には神性を感じるべきでその他の物には神性を感じず感じても否定するというのは言葉でいうのは簡単ですが具体的な実践を考えると非常にはっきりしないことになります。
聖書には神は自分をかたどって人間を作ったと記されています。
とすると頭の中で人間のようなものを思い浮かべてそれに対して神性を感じて信仰心を持ち契約を守ると念じて実践することが聖書の信仰でしょうか?
それとも神をある特定の人間のイメージで思い浮かべること自体不遜なのでしょうか?
こういったもろもろなことが細かく考えると出てきて洋の東西を問わずこういうのが神学者の神学的議論、東洋なら禅問答の様だという風に難解で複雑でよく分からないものをたとえる際の題材になっています。
一つの解決方法はあらゆる事物に何ら中の感情を持たないように努めることです。
歴史の中ではこの戦略がしばしば使われたと思われます。
・近代と神
神と人間の関係を具体的に細かく追及することは難しいです。
これは進学者のみならず哲学者や宗教改革の時もそうでした。
カルヴァンは予定説というのを唱えます。
これも神と人間との関係に関する一つの説です。
ライプニッツはモナド論や予定調和論を唱えました。
これも神と人間の関係のモデルの一つです。
スピノザは汎神論を唱えました。
これもスピノザ風の神のイメージでしょう。
科学が勃興すると理神論を言うものも現れます。
神は世界というシステムや法則を作ったので後はそれに従って運航するだけというものです。
ラプラスの悪魔という考え方もあります。
これも決定論的宇宙論ですが神と人間との関係をこれに当てはめると興味深い結論になります。
神の不可知論や無神論というものも語っていい自由な時代に近代はなりつつありました。
アインシュタインは神は信じられないとユダヤ教徒になる選択をしませんでした。
ユダヤ教では十代前半に子供にユダヤ教徒になるかどうかを選択させる儀式があります。
対象を情緒を持って見ないというのは近代とは相性が良かった、というか対象に情緒を見ないようにしたからこそ西洋文明ができたのかもしれません。
おじいさんがユダヤ教のラビでおじいさんの代か何かにキリスト教徒に改宗したマルクスは唯物論や唯物史観を唱えました。
マルクスの思想は古典派の経済学の系譜でもあります。
事物を感情を持って見ないという考え方は経済や商売や金融と相性が良かったと思われます。
感情の代わりに値段や欲望を即物的、世俗的に入れる容器のようなものに事物はなりえます。
経済学というのがそういうものですし、資本主義研究のウェーバーでもゾンバルトでもこの点は通底する思考が共通しています。
分かりにくければ最近まではやっていた新自由主義やグローバリズムがそういうものでした。
ウォール街で象徴される国際金融資本主義はまさに事物から感情を切り離すことから成り立っています。
感情を切り離すと言っても欲望や価値というか値付けが感情であればそれを除いてです。
・ユダヤ教で最も大切な祈り
以下はユダヤ教において最も重要とされる「シェマー・イスラエル」(Shema Yisrael)というお祈りで、神の唯一性と、神への愛を表明する内容です。
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 (祝されよ、その栄光の御国の御名は、とこしえに。) ※この行は聖書本文にはなく、祈りとして唱える際に挿入される部分です。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
今日、私があなたに命じるこれらの言葉を、あなたの心に刻みなさい。
これをあなたの子らに教え込みなさい。あなたが家に座っている時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語りなさい。
これをしるしとしてあなたの手に結び付け、記章として額に置きなさい。
これをあなたの家の門柱と門に書き記しなさい。
この祈りは、ユダヤ教徒が朝と夜に唱える、信仰の中心となる非常に大切なものです。
この祈りはヘブライ語を習ってたりすると結構早くに学習書に出てきたりします。
ヘブライ語関係の学習書は昔はミレトス出版というところが出していました。
現代のヘブライ語は20世紀に復元したもので復元した人はイスラエルのお札に肖像画が印刷されていたと思います。
この祈りにも心とか魂という言葉が書かれています。
まあこの祈りが同行ではありませんが事物に心や魂を込める、込めないというのは言うのは簡単ですが具体的にはあいまいです。
人間には感覚や感性があるので事物には何か思いや感情やその他いろいろな物を感じます。
それに聖性や神性を感じてそれを聖書の神だとか聖書以外の神だとか思ってしまうのは聖書文化圏ではあまり推奨はしないかもしれませんが、何が聖性で何が神聖かというのも非常にあいまいです。
何か作業をしている時にその対象に心を籠めたり魂を込めたり力を籠めることはいずれの文化圏でも人間は行いそうですが日本人はそれに神性や聖性を感じるほどに感性や心技体を高めることをよいこととします。
日本の技術者魂根性や職人精神、道の考え方はそういうものでしょう。
他方で聖書文化圏の技術者の考え方はどうかというとそういう勉強をしたことがないのでよく分かりません。
西洋の宗教画や彫刻にはミケランジェロを見ればわかるように素晴らしいものがありますが、カトリックは偶像崇拝やら偶像作成を禁止していません。
聖書文化圏でも時代や地域や宗派によって温度差があることでしょう。
クリスチャンでもイスラム教徒でも今どきアニメを見てそれに神を感じる人はいません。
他方でタリバンみたいなのは歴史的に貴重な文化財の仏像を破壊したりしています。
新教徒の聖像破壊みたいな感じでしょうか。
よく考えてみるとユダヤ教もキリスト教もイスラム教もそんなに歴史が長いわけでもありません。
イスラム教は1500年くらいですし、キリスト教も2000年くらい、ユダヤ教も晴天がまとまったのは実はキリスト教より遅いくらいかもしれず仮にバビロン捕囚後のエズラ・ネヘミヤの改革で現在のラビユダヤ教の開始としても2500年足らずです。
バビロン捕囚以外はほとんどのユダヤ民衆は聖書にもあるようにいろいろな周辺地域の宗教の影響を受けまくっていました。
さっきのお祈りは申命典という聖書のモーセ五書のひとつにある言葉ですがこれができたのがバビロン捕囚の直前といわれていてこの時の宗教改革は成功していません。
キリスト教なんかはキリスト教以外の宗教の影響が残りまくりです。
まあユダヤ教も古代オリエントの影響を受けまくっていますが。
そもそも宗教というものも時代によって変化していきます。
宗教の教義や解釈も時代によって変わります。
カトリックがカトリック以外の宗教を認めたのは高々20世紀の中盤以降です。
歴史は長いように見えて意外と短いという見方もできます。
その間事物に関する考え方も時代や地域や宗派によってさまざまでかつ変遷していきました。
・まとめ:日本人は心を込める、聖書文化圏は心を籠めるのに慎重
日本人は万物に心を籠めますし事物に神性を感じてポジティブにリスペクトする方向であればむしろ称揚します。
他方で聖書文化圏においては事物に対して非常に慎重です。
実部を作る際にもそれに何かを感じる際にも慎重です。
日本のように事物に神性を感じて神として扱うというのは禁止です。
事物に神性を感じるという事に関しては言葉でいうのは簡単ですがそれが何を指すのかはっきりしませんので解釈がいつでもどこでも恣意的になります。
恣意的にならないようにしようとすると議論が難しくなりすぎて庶民には実用的ではありません。
ユダヤ教の律法学者(ラビ、ファリサイ派)や神学者の狭い世界の議論になってしまい一般信者から遊離してしまいます。
ただ物神化してはいけないというエートスは常に発信し続けているところがあって日本人もそうですが非聖書民の仏教やヒンドゥー教の国、現代では少なくなりましたが古い非聖書的な伝統を堅持している人たちや聖書化してもアフリカや南アメリカのような地域では日本人のような神性を持ちやすい部分があります。
聖書の民であれば契約はめちゃめちゃ大切でキリスト教徒にハラールのような食物戒律がないのもこれは聖書に書いてあるからでそこら辺の原則はしっかりしているのですが、実際の実務や生活、現実や運用ベースでは柔軟ですし、大きな歴史の流れで見ると非宗教かが進んでおり歴史に登場するような狂信者や狂信集団は弱く少なくなっているのが実情でしょう。
まあテロなどありますしテロのレッテルなども問題ではありますが数十年前に比べると世の中おとなしいものです。
むしろウクライナ戦争やガザのイスラエルの戦争など見ると国家の方が恐ろしい感じです。
まあまとめると日本は事物に何を感じても構いません。
神を感じても仏を感じてもいいしむしろ感じるべきだという根強い文化があります。
これは明治式の啓蒙主義で見えなくなってしまうこともありますが極めて強力で排除が難しい日本らしさの中核でもあります。
最近はここら辺のところが日本ブームとかソフトパワーとして世界に注目されている時代ではないでしょうか。
ただなかなか日本人と聖書的思考の両方のメンタリティや歴史やいきさつを実感として知らないと分かりにくい所です。
他方で事物や対象にある種の感情移入や臨在感、聖性や神性を感じることを制限するという考え方も聖書文化圏だけの中で育ってそうでない日本的な文化を知らない人には分かりにくい考え方ですし、日本人のような他者から見てもよっぽど勉強しないと分かりにくい点はあります。
しかしこの両者を知っておくと強力です。
日本人論や聖書文化圏の比較文化論をしたければこの観点は必要条件だと思います。
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