2025年10月21日火曜日

現代哲学(思想)のポスト構造主義と仏教の中観(中道)の倫理と道徳の課題 ・ポスト構造主義や中道、中観には突っ込みどころがある

現代哲学(思想)のポスト構造主義と仏教の中観(中道)の倫理と道徳の課題 ・ポスト構造主義や中道、中観には突っ込みどころがある  現代哲学とかそれと同じ本質を持つ大乗仏教を分かりやすく解説しようとするときに哲学の目から見ると少し誤魔化しのところがあります。  ここをごまかしているので現代哲学は現代哲学というより現代思想と呼ばれるのかもしれず、仏教は哲学ではなく宗教になっているのかもしれません。  簡単に言うと哲学は存在論や認識論など本質的な問題だけ扱っていればいいのかもしれないのに、ポスト構造主義の相対主義や中道や中観では人にある生き方を勧めるようなところがあるという事です。  つまり倫理や道徳が入り込んでいます。  「こういう風に生きたり考えたり行動した方がいいよ」みたいな感じです。  これははっきり言って余計なお世話です。  カントを勉強した人なら純粋理性批判には感動しても実践理性批判とか判断力批判には納得できなかった記憶があるのではないでしょうか。  実践理性批判は道徳や倫理を扱ったものです。  誤解を恐れずに書くと「~であるべきである」「~すべきである」についての本ですが現代人には余計なお世話というかカントの著作の蛇足みたいな感じがするかもしれません。  我々は脱宗教的な時代傾向の中でニーチェの洗礼もサルトルの洗礼も受けているニヒリズムと自由の刑の世界に生きているのでせっかく手に入れた自由を束縛する「こうしなさい」みたいな根拠もなく口うるさいお母さんみたいな説教はいらないという人が多いかもしれません。  「ニヒリズム」とか「自由の刑」とかいうとネガティブな語感があるかもしれませんがまあいったん自由はいいものとしておきましょう。  せっかく自由を獲得したのに自由を制限するというのは嫌な感じです。  その説教臭い押し付けをポスト構造主義の相対主義と仏教の中道や中観はしているようなところがあります。 ・20世紀人類の最大の発明  20世紀の最大の発明は、といっても19世紀末にはすでにあったのかもしれませんし、2600年前の仏教がすでに同じことを言っていますが―、は自由と構造主義です。  最大の発明と言っておいて2つ挙げるのは語義矛盾かもしれませんがまあ細かいことは気にしないでおきましょう。  自由についてはニーチェやサルトル他の哲学者が開いた道とみていいかもしれません。  構造主義は数学で生まれましたが同時多発で言語学でも生まれその他の領域に広まって20世紀半ばには爆発的に拡散しました。  現代社会の基礎は構造主義です。  実在論でも構造主義でも不自然で直観に反する現象はいろいろ起こりますがシステムづくりには構造主義が向いています。  各学問の基礎は構造主義ですし、今はコンピュータが爆発的な発展を遂げて社会に遍く汎用的に広がっていく様を見ていくと人間中心主義は現実的な意味でも終わったなとか人間の過大評価はやめなあかんなと謙虚な気分になりますがそのコンピュータなりAIなりインターネットなりSNSなりは構造主義の申し子です。 ・構造主義は革命的、ポスト構造主義はそうでもない  構造主義は革新的な思想です。  構造主義的な思想はいつの時代にもありましたが純粋な構造主義を抽出できたのは現代数学が初めてです。  本当は仏教のお釈迦様なりナーガールジュナ(龍樹)なりがさきですがここではおいておきます。  純粋な構造主義は破壊的なイノベーションです。  実用性が段違いです。  哲学的には実在論の完全なだいたいになりえます。  科学的には全ての学問の基礎になりえます。  産業、経済的な基礎も今のAI投資を見ればどれだけすごい未来が待っているかはわかるでしょう。  そんなこんなで現代社会の基盤になるほどの実用性です。  実用性はいいのですが哲学的には認識論と構造論の実在論に代わる完全な基礎理論になりえます。  他方ポスト構造主義の相対主義や仏教の中観や中道は「実在論も構造主義もどっちも成り立つし共存できるから仲良くしていきましょうや」みたいな感じです。  どっちも独立で成り立つというのはポスト構造主義の発見だったかもしれませんがたいした発見ではないとも言えます。  むしろ小さな発見ですし、発見ですらなく鋭い人なら最初から分かっていたかもしれません。  ここら辺がポスト構造主義がもやっとするところです。  ポスト構造主義の発見者、発明者は誰だという議論にはなりません。  これは仏教もそうです。  お釈迦様は縁起(十二因縁生起)を発見したときはこれで悟った、真でもいいというほどに感激したものですが、中道については特に発見の経緯や感動やエピソードなど伝わっていないのではないでしょうか。  ここら辺が仏教が空の思想であって中道の思想ではないと誤解されやすい原因かもしれません。  それに対して龍樹(ナーガールジュナ)はもっと戦略的です。  中観を中心に据えています。  空は大切なのは変わりませんが空にこだわるのを空執として戒めています。 「空は薬に過ぎない」とナーガールジュナは言っています。 実在論しか理解できず実在論だけに執着する人を治すための薬と言っています。 空という薬を使って実在論の思い込みという病気を治したら本当に目指すべきは中観であるという建付けです。  そういう意味では中観的な物をもやっとしてしか残せなかった西洋のポスト構造主義者たちは思想家としてナーガールジュナより格下です。  と同時にあえてここをあいまいにしたポスト構造主義者たちはナーガールジュナより格上だったとも見ることもできます。  ただ実際はナーガールジュナという個人よりはナーガールジュナとその周辺とその時代の周辺にいた人々の代表としてナーガールジュナを考えた方がいいでしょう。 ・中観や相対主義はすごいのだが・・・  中観や相対主義を一言でいうと現在の言葉ではDEIです。  社会的な人間に関してではなく個人の内面の思想に関してですが、 「いろいろな思想の多様性を尊重して平等に扱い、吸収して活用していく」 という考え方でしょうか。  ただ人間に対してはそれでいいのかもしれませんが、思想に関しては人間のように平等である必要はないでしょう。  「俺はこの思想は嫌だから採用しない」、とか「私はこの思想一本でいくので他の思想の優先順位は下」だとかいろんない意見があってもいいです。  というかその方がDEIではないかもしれませんが大切な「自由」を守ることができます。 ・ポスト構造主義や中道はメタ認知  ポスト構造主義や中道はメタ認知を持て、という考え方です。  絶対主義でなく相対主義だとメタ認知は勝手に抽出されてきますので自然に現れます。  メタ認知は「認知を認知する」ということです。  「自分はこの思想にしたがって思考して行動している」 というのを自覚することです。  「全体があって他者(人とは限らない)があって自分もあって外部がある」という事を認識することです。  それを前提に何かを絶対化してもいいし他社も自分も相対化するのもありです。  メタ認知を持つことがいいこととは限りません。  そんなの知らない方がよかったという場合もあるでしょう。  禅では「随処で主となれ」という言葉ありますが「奴隷の安逸」ということばもあります。  メタ認知なんか持たず主体性や自覚なんかも持たない方が幸せに生きていける場合も多いでしょう。  江戸時代の日本やブータンのように鎖国していた方が国民の幸福度も高いかもしれません。  そもそもメタ認知を持てない場合もあります。  分かりやすいのはどの程度のIQからかわかりませんが重度や中等度くらいの知的障害がある場合にはメタ認知は持つ知能まで達しない可能性があります。  またある種の精神病、統合失調症のような病気はメタ認知障害が生じます。  臨床的には病識、病感の欠如とか言う言葉が使われたりします。  「自分がへんなこと、おかしなことを言ったりしているというのを客観的な視点でとらえることができない」という状態です。  反対の言い換えもできて「メタ認知がない(低下している)、自分を客観的にみれなくなるから他の人に変な事、おかしな事を言ったりしたりしている」という見方ができます。  だから重度以上の知的障害やある種の精神疾患はだめなんだという事ではなく、これはこれで、人間の在り方としてありだという事です。  そもそも現代哲学は統合失調症などの精神病理学や精神分析学から生まれた側面があります。  精神病理学的に言えば「病識のなさ」は悪いことではなく「症状や状態を安定させるいいこと」あるいは「疾患治癒的に働くもの」である可能性もあります。  逆に晩期緩解といって晩年に病識ついたり症状が軽くなったりする時があるのですが昔はそういう時は自殺に注意しないといけないと言われていました。  そもそもメタ認知は疲れます。 常時働かせておくのに向いてません。  普通の人はいろいろな思考のモードやペルソナを持っていて場面場面で勝手に切り替えて生きています。  普通の人は記憶でつながっているので問題ないですが記憶に障害が出る解離性障害では多重人格のような形で現れます。  いちいちメイン画面に戻って選択するよりは自動で切り替わってくれた方が楽なのでそれでいい場合も多いです。 あまり自覚なくそういう風に生きていくのをニーチェやハイデガーは畜群とか頽落とか世人とか批判しましたが無個性同調的に生きていけるあり方も個性や独創ばかり推すあり方よりは気楽でいい面もあります。 ・ポスト構造主義も中道、中観も運用上の問題だけ  ポスト構造主義も中観も中道もある種の認識の在り方ですが、新しい認識論を使っているわけではなく実在論や構造主義を使ったシステムの作り方や運用方針だけのことで画期的な新しい何かを作っているわけではありません。  単に相対主義なら構造主義とか実在論とか小難しい哲学の議論すら必要ありません。  誰に習うともなく自然に実践している人も多いのではないでしょうか?  そもそも物理でガリレオやニュートンの相対論を知っている人であればすぐにアナロジーで相対論とは何かを理解できるでしょう。  そもそもポスト構造主義の相対主義モデルも中道も中観論も実在論の上でも構造主義の上でも構築できるので応用に過ぎないといえば過ぎません。  その上DEIみたいに「こうするべし」みたいな道徳みたいなのを入れるのはどうかという事です。  道徳の問題はある種の根拠のない押し付けであることです。  結局認識論や存在論がどうであれポスト構造主義の相対主義や中観や中道がどうであれ我々はその時その時で考えて判断して決断して行動しないといけません。  場合によっては行動の結果の責任を取るというか、関西弁で言うとけつをとる場合もあります。  ニーチェだったら実践道徳としては超人であれですし、サルトル自身は自由の中で共産主義の活動家としての生き方を選んでいます。  選ばなくても我々は日々何か考えたり行動したりしなければいけないので、主体的でなくともたとえ何かに流されたり主体性なく没個性的に同調したりするだけのようなかたちであってもその瞬間瞬間で何かをやっているわけです。  純粋理性に留めて、実践理性(道徳や倫理)や判断力(価値観)について語らない方が哲学としては純粋かもしれません。  倫理や道徳はニーチェやその他の偉大な先人が切り開いた自由の世界の中ではどんなものであれ、自分に向けられたものであれ人に向けられたものであれある種の押し付けです。  しかも道徳や倫理はやはりニーチェだか誰か以降は恣意的なものです。  恣意的だったり誰かにとって都合がいいものを自分であれ他人であれ押し付けることは主体性や自主性、主体の自覚への冒涜とまではいかなくても尊重や敬意が足りないと言わざるを得ません。 ・まとめ、人間は自由である  人間は自由です。  だからポスト構造主義の相対主義や中道や中観を採用する必要はありません。  見方によっては、あるいは見方によらずとも押し付けの倫理・道徳論ですので。  必要はないのですが知っとくと便利です。  めちゃめちゃ便利なのでこういう考え方もあるのだなあと理解しておいて必要に応じて実際に使うような感じで付き合っていくことをお勧めします。

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