2025年10月7日火曜日
かんたんな代数学と解析学の違い
かんたんな代数学と解析学の違い
・代数学と解析学は似ているが違う
数学の分野をわざわざ分ける必要もないのかもしれませんが分けてみると便利なこともあります。
中学までは義務教育で共通、高校の途中から分離が分かれて数学1,2,3、A、B、Cが理系は必修、文系はその一部をやったり受験に応じて選択みたいな感じだったでしょうか?
今思うと何でそういうわけかたをするのか理由が知りたいところではあります。
大学に入るとはっきりと理系なら大抵微分積分学と線形代数学が必修になります。
統計学は私の時は選択でした。
微分積分学という言葉を使って解析学でないのは興味深いところです。
同じように線形代数学であって代数学自体出ないのも興味深いです。
微分積分学にせよ線形代数学にせよ解析学と代数学の一分野です。
初等的なところからアプローチすると数学は幾何学、代数学、解析学、かっこつきで躁経学や数論(算術を含むか?)、数学基礎論などに分かれるかもしれません。
いろんな分類の仕方があるでしょうが代数学と解析学の違いについて説明を試みます。
・代数学と解析学の違い
代数学と解析学の違いをざっくり3点でまとめます。
① 代数学は無限を扱わず、解析学は無限を扱う。
② 代数学は加減乗除(とべき根)を扱い解析学はもっといろいろな演算を扱う
③ 「関数」を扱うのは解析学であって代数学ではない
入門、基礎、初級、初等と言われる段階ではこの2つの見方で分類していいのではない意のではないでしょうか。
この3つの見方で代数学と解析学という言葉をみるとなぜ代数学は「代数」学というのか、また解析学は「解析」学というのか、をすっきりあるいは直観的に理解できる糸口になると思います。
・「代数」とは何か
中学数学からはx、yとかの記号を使って「変数」というのを扱うのが代数学のイメージかもしれません。
中学数学では確か微分積分は習わなかったと思います。
中学数学のメインは幾何学と代数学、およびそれらを組み合わせた代数幾何学ではないでしょうか?
方程式を解いたり一部関数が出てくると思います。
このx、y、zが変数で方程式を解くまでは不明の数だから代わりの数として使われるので「代数」という言葉を使われるのかもしれません。
多分幕末か明治の翻訳語でしょう。
英語ではアルゼブラになります。
これはアラビア語起源の言葉になります。
代数学は古代ギリシアではディオファントスの台数がありましたがヨーロッパの闇黒の中世ではその存在は無視していいでしょう。
古代ギリシアの継承はイスラムによってなされて、一部ヨーロッパに残ったものがあるくらいが常識的な見方でしょう。
代数学をもうちょっと進めていくと代数にはもっと別の意味を与えられます。
集合論で集合の要素にある特定の性質や属性を付与すると我々の知っている数になりますが別の性質を与えると別の物になります。
場合によってはその別なものを「代数」という数をより一般化した数とみなしてしまってもよいという考え方です。
我々が知っている数、自然数や整数や有理数や実数や無理数や虚数や複素数は代数というより一般的な数の一部であって代数というのは≒「集合の要素」と言い換えることができるかもしれません。
抽象数学はそのような方向に発展していきます。
・加減乗除と多項式
サイン、コサイン、タンジェントや指数関数、対数関数など我々はいろいろな関数を習います。
それらは超越関数と言います。
そしてこれらは入門、基礎、初等的な代数学では出てこないはずです。
そういった関数は解析学で出てきます。
代数学で扱うのは基本的に加減乗除です。
ですから扱う式は多項式になります。
変数が一個の場合、実数とエックスで加減乗除を使って表せる式は多項式か有理式になります。
有理式は多項式の割り算のように見える式ですがこれはここではおいて代数学が扱う式は誤解を恐れずにはっきり言えば多項式になります。
サインやコサインや指数関数が混じった式ではありません。
また関数でもありません。
そして多項式の項の数は有限で無限のものは扱いません。
ちなみに無限の多項式をつかうと実はサイン、コサイン、タンジェントも指数関数も対数関数も無限の多項式の形で表すことができます。
でも代数学では無限は扱わず有限までという①のルールから三角関数も指数関数も解析学に任せて代数学ではまず扱わないと考えてもらうと思考がすっきりするはずです。
・解析学とは?
中学の頃に代数学、幾何学、代数幾何学を習うでしょう。
これだけでも数学のすごさに感動する中学生もいるかもしれません。
いろんな問題が解けます。
と同時に不自由というか制限というか限界を感じた中学生もいるのではないでしょうか?
例えば円の面積も円周の長さも求めることはできません。
アルキメデスも近似は求めましたが正確な値は求まっていません。
そもそも「正確な値って何?」というのは少し整理が必要なのですがここでは渇愛します。
実は解析学を使うと正確な値が求まります。
アルキメデスの方法を無限回行えばいいのです。
アルキメデスの方法は円に内接か外接する正多角形を円の近似として求める物でした。
角(辺)の数の数が無限大になれば正多角形はほとんど円と同じになるという考え方です。
ただアルキメデスはこの無限という方法を取りませんでした。
無限を警戒したのです。
微分積分の発見者のニュートンもそうです。
かれは自然哲学の数学的原理という本で自身の作った古典力学や重力で天文学を説明しましたがあえて微分積分を使うのを避けてユークリッド幾何学の形式で書いています。
やはり無限を警戒したのでしょう。
ただその後の物理学者も数学者も無限を乱用し始めます。
結果としてその後の自然科学は非常に実り多いものになりました。
無限を安易に使っていいのかという問題もフッサールの師匠である解析学の帝王話いえるシュトラウスやコーシーなどの基礎付けのおかげで形式的、公理的に扱えるようになりました。
現代数学の手前ですのでヒルベルトほど徹底はしてなかったと思いますが現在もεδ論法などで何となく実用的な扱い方は想像できるかなとは思います。
・カントールと代数学と解析学の戦い
ただ無限は一筋縄ではいかないところがあってカントールという数学者が無限を使うと不自然で非直感的な事象が様々出てきてしまうことを発見してしまいました。
例えば有理数の数も無理数の数も無限ですが無理数の無限の方が有理数の無限より大きかったりすることをカントールは発見しました。
そういう変な結果が出てきたので当時の代数学者でこれまたフッサールの師匠でもあるクロネッカーがカントール批判を行いました。
クロネッカーは時代が時代なので実在論的な面を残しつつも代数学の公理化を行った大代数学者です。
クロネッカーのデルタは有名ですし(代数学でなく解析学で習いますが)、「神は整数をつくりたもうた。他は人間の技である」という言葉で有名です。
ヒルベルトやブルバキの影響からか公理主義や形式主義、公理主義は無定義語、無定義概念の無定義主義とセットのように思われがちですがそれらは独立事象です。
別に無定義主義だろうが定義主義だろうが公理主義も形式主義も構造主義も成り立ちますし共存できますし、それらは独立の概念です。
クロネッカーが代数学の公理化をしたのなら自然数なり整数の実在は認めたまま公理化を行ったのでしょう。
クロネッカーのセリフの後半は構成主義を表します。
クロネッカーは自然数なり整数なりがあれば他の数は人間が校正できると言っているのです。
まあ実際には自然数も整数も人間が構成できるのですがクロネッカーは過渡期の人なので症がありません。
この直観主義で構成主義的な態度は代数学者が持ちがちな部分かもしれませんし、何か深い根を持つ部分です。
ここでは無限に関する代数学対解析学という形をとっているのかもしれません。
人間が直観できて構成できるものだけを扱うという思想です。
それに対する立場は人間が構成できなくても論理的に問題なければ扱ってよい、というものになります。
論理的に問題なければ無限を扱ってもいいという事です。
似たような対立がちょっと後に起こっています。
そして現在は対立してませんが両方の流れが一つの分野や領域で共存していることもありますし領域や分野ごとにどちらか一方だけを選択することもあります。
カントール対クロネッカーの対立は対立というより一方的ないじめみたいになってしまいましたが、そのあとの公理主義や形式主義や無定義主義の開祖で近代数学の父ヒルベルト学派のヒルベルトプロジェクトとそれに批判的な直観主義で構成主義のブラウアーの対立として数学史では知られています。
・名は体を表すか
どの学問もいろんな風につかえますが、名は体を表すというか代数学や「数」「代数」という数とは何か、どういう関係性を持つのかという数をめぐる基礎論的な旅のようなところがあります。
他方で解析学は物理学と手を取り合って育ってきたせいか、数学、物理学を含めた学問の解析のための道具、みたいなところがあり実利的、応用的な側面が強いように見えます。
関数(function、functor)みたいなものは分かりやすくてインプットすればアウトプットが一つ出るようなコンピュータというか測定装置に見たいなところがあります。
代数学でなら扱えない円の円周や面積も解析学なら正しい値を導き出せると書きましたが、その「正しい値」にも問題があります。
円周長なら2πr、円面積ならπr²となりますがそもそも「πとは何か」という問題になります。
代数学ではこれは代数学的な操作で導くことができない数です。
代数学的数とは代数方程式の解にはならないという意味です。
一方解析学ではπは分かったつもりになることはできますが「じゃあ実際に具体的な数を書いてみて」と言われると書けないというかスーパーコンピューターの助けを借りつつ永遠に書き続けることになります。
これを可能というのか不可能というのかわかりませんが「ここまで求めろと言われたら求められるがそれは近似でしかない」という事になります。
「そういうのもありだよ」という事を決めて決着をつけるためにεδ論法のようなものを作ったわけです。
超越数というのも面白い言葉です。
科学は科学で万能を目指していますが、人間の手の届かない神や仏のような超越は科学の望むところではありません。
科学の目指すべきものとして「超越してしまってはあかん」みたいな気持ちがどこかにあるかもしれません。
とすると「超越」という言葉を使った人は皮肉を込めていたのかもしれません。
超越数というのはπやeのような代数方程式の解にならない実数です。
また解析学でも具体的な数字を描けと言われたら永久に計算しつつ書き続けなければいけない数で無限と関係があります。
三角関数や指数・対数関数は超越関数と言われますがこれも無限の多項式で定義された関数です。
無限に懐疑的な立場から言えば安易に無限を使うのは不順と見えるかもしれません。
・おわりに
ざっくりした代数学と解析学の違いをまとめてみました。
高度な領域になるとこう簡単にざっくり竹を割ったように説明できなくなるというか、むしろ違う分野が関係性を持っているのが分かったりして不思議や感動が出てきたりしますが、まずは「違う学問分野」の「違いを知る」のが何か数学に興味を持ってもらうのに役に立つかなと思ってまとめてみました。
小中学校もそうですし、高校数学も分け方が数字とかアルファベットで学習領域を分けていて分かりにくいし、大学の教養数学も応用や実利的な道具の数学しか触れられないのはそれはそれでいいのかもしれませんが知的刺激や探求心が刺激されないかなと思い、いろんな角度から両者を眺めつつ、でも①②③の3つの違いという完結明瞭さをもって理解できるように工夫してみました。
何か数学に興味を持つきっかけになってくれれば幸いです。
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