2009年12月1日火曜日

生産性の向上とcontemoprarism

生産性の増大、生産力の向上、共同体や組織の規模の向上、技術の進歩という観点からcontemporarismについて考えてみます。
生産性や生産能力が高まるほどに環境はcontemporarism親和的になっていくように見えます。
生産性の低い社会はパラノイド性の強い社会のように歴史を眺めると見えます。
生産性の低い社会では個人主義や自由主義が成り立つ余地が低そうに見えます。
生産性の高い社会では個人が共同体や組織に従属せずに生き易くなります。
組織や共同体の大きさ、また対象関係論的な人間の内外界での関係性、それに現代主義的精神と近代主義ないしそれ以前の精神性というのはどういうわけか関係があるように見えます。
マルクスやら近代主義の思想家達がこの観点からいろいろ議論している気持ちというのは理解できる余地がなんとなくあります。
生産力の低い貧しい社会では発想がゼロサム的になりますし、誰かが得をしたら誰かが損をするような観点を持ちやすくなるのかもしれないと思います。
近代社会主義者や共産主義者などの集団主義者の勘違いは経済的格差はよくないと思い込んでいたところにもあるような気がします。
これは生産性の低い社会では結構流通しそうな考え方です。
この考え方、感じ方が社会の生産性が高まっていったときにどうなるかです。
社会主義者や共産主義者は社会の生産性が高まったときにも、生産性が低いときと同じようなこの図式が成り立つという先入観を持っていたように思います。
実際はある適度以上生産性が高まった社会ではこのような嫉妬的というか、吝嗇的な見方や感じ方しなくなる可能性があります。
何の関係でそうなったかは知りませんが、豊かになり成熟した社会では近代以前のものの感じ方は人々は持たなくなっていく傾向があるようです。
今も時々誤解があることですが格差と貧困問題は本来全く別のことです。
貧困はなくした方がいいかもしれませんが、較差はむしろあった方がいい可能性すらもあります。
豊かな社会ではパラノイド的な強圧的な圧力やそれに個人がまかれたり従属したりする必要が薄くなるのはそうしなくても生きていけるからです。
何かに依存したり支配されなくても食っていけることがあります。
また個々人が主体的、自覚的になること、また個々人の力が強くなることは経済に助けられている面があります。
必要最低限の生きていく糧をより簡単に得られる、より生産力を享受できる状況では人の精神は自由になります。
自由で主体的な個人は経済的な格差に関係なく強いものでより個人主義的土壌を育てます。
支配、被支配の関係に時代がより新しくなる(生産性、技術が進歩する)につれて関わらないで生きていくことができます。
自由、主体、意志、恒産というか生きていく糧をもった個人は較差や金持ちでも支配しにくいものです。

経済的な生産性の向上とcontemporarismは親和性があります。
両方とも自由や個人、解放、創造性、オープン性などについて同じようなベクトルを向いているからです。
これがたまたまなのか何らかのつながりがあるのかは分かりません。

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