2026年6月24日水曜日

ヒルベルトの最後の問題

 

ヒルベルトの最後の問題

一 最後の秋

 一九三二年十月八日、ゲッティンゲンには朝から細かな雨が降っていた。

 雨というより、空気そのものが湿っているような日だった。ヴィルヘルム・ウェーバー通りの木々は、夏の名残をすでに失い、黄色い葉を石畳へ一枚ずつ落としていた。

 高木貞治が門をくぐったとき、ヒルベルトはまだ食卓にいた。

 皿の上には、薄く切った仔牛の肝臓があった。

 医師から毎日食べるように言われているのだ、とヒルベルトは説明した。自分の命は、いまや定理でも薬でもなく、このあまり愉快ではない食べ物によって支えられているらしい。

「数学者が肝臓によって生かされるとは思わなかったよ」

 ヒルベルトはそう言って笑った。

 七十歳になった顔には、かつて高木が知っていた童顔の名残があった。だが、手は細くなり、椅子から立ち上がるときには、机の端に片手をつかなければならなかった。

「よく来てくれたねえ」

 そう言って、高木の両手を握った。

 高木が初めてゲッティンゲンへ来たのは、三十年以上も前のことだった。

 当時の彼は、ヨーロッパの学界ではほとんど知られていない、東洋から来た若い数学者にすぎなかった。代数的整数論を研究したいと手紙に書いたところ、ヒルベルトは住む場所まで手配した。かつて自分が住んでいた家を紹介し、研究所の扉を開いた。

 国籍も、宗教も、家柄も問わなかった。

 何を考えたいのか。

 ヒルベルトが人に尋ねたのは、ほとんどいつもそれだけだった。

「君は、私の考えた類体より先へ行ってしまった」

 客間に入ると、ヒルベルトは言った。

「先へ行ったというより、少し横へ外れたのです」

「横へ外れることを、先へ行くと言うんだよ」

 高木は笑った。

 ヒルベルトも笑った。

 若い頃のヒルベルトは、問題を提示することに喜びを感じていた。だが、それは自分の領地に旗を立てるためではなかった。問題は、誰かが入るための入口だった。

 解く者がドイツ人であろうと、日本人であろうと、女であろうと、ユダヤ人であろうと、彼にはどうでもよかった。

 正しい証明には、出生証明書が添付されていない。

「東京には若い人が育っているかね」

 ヒルベルトは尋ねた。

 高木が何人かの名を挙げると、ヒルベルトは身を乗り出した。自分の病気のことを話すときより、はるかに熱心だった。

 外国から来た客に会うたび、彼はその国の若い数学者について尋ねた。

 誰が何を研究しているのか。

 どんな問題に夢中になっているのか。

 才能のある者はいるか。

 その者はよい環境にいるか。

 ヒルベルトにとって数学とは、すでに証明された定理の集積ではなかった。まだ知られていない何かを見つけようとして、異なる人間が同じ黒板の前に集まることだった。

 数学は本の中にあるのではない。

 人と人との間に生まれる。

 高木との会話は、夕方まで続いた。

 外では雨がやみ、濡れた庭木の間から低い西日が差していた。

「人類は、少しずつでも前へ進んでいると思いますか」

 帰り際、高木は尋ねた。

 それは数学の質問ではなかった。

 ヨーロッパでは、通りに制服を着た若者が増えていた。新聞には、民族、血、領土、裏切りという言葉が並び、政治家たちは、国を浄化しなければならないと繰り返していた。

 ヒルベルトは窓の外を見た。

「人間については分からない」

 しばらくして言った。

「だが、知識については、そう信じるしかないだろう」

 彼は微笑んだ。

「われわれは知らなければならない。われわれは知るであろう」

 それは彼が好んで使う言葉だった。

 高木は頭を下げた。

 二人とも、その秋がゲッティンゲンの最後の秋になるとは知らなかった。

 数学者たちがまだ同じ廊下を歩き、同じ食堂で昼食をとり、黒板の前で互いの誤りを遠慮なく指摘できた、最後の秋だった。

二 ミンコフスキーの椅子

 高木が帰った後、ヒルベルトは長いあいだ客間に残っていた。

 日が落ちると、窓ガラスに自分の姿が映った。

 白い髪。

 薄い肩。

 大きすぎる上着。

 ガラスの向こうに、別の老人が立っているように見えた。

 彼は、ミンコフスキーのことを思い出した。

 二人はケーニヒスベルクで出会った。

 ヒルベルトがまだ、自分がどのような数学者になるのか知らなかった頃である。ミンコフスキーは年下だったが、すでに揺るぎない自信を持っていた。

 二人は町を歩きながら数学を話した。

 歩くことと考えることを、ほとんど同じ行為だと思っていた。

 一人が問いを出し、もう一人が反例を挙げる。

 その反例を避けるため定義を変える。

 すると、初めの問題とは別の問題が現れる。

 彼らは夕方まで歩き、どこまで来たのか分からなくなることがあった。

 だが、道に迷ったとは思わなかった。

 数学の中では、道を外れることが新しい道を見つける唯一の方法だった。

 後にヒルベルトがゲッティンゲンへ移ったとき、彼はミンコフスキーを呼び寄せることに力を尽くした。

 自分一人では足りなかった。

 優秀な人間が一人いるだけでは、学問の中心は作れない。

 必要なのは、別の仕方で考える人間だった。

 自分の考えに賛成する者ではない。

 自分一人では見ることのできない誤りを発見し、自分一人では開けることのできない扉を開く者である。

 ミンコフスキーが一九〇九年に死んだとき、ヒルベルトは、世界の一部が突然沈黙したように感じた。

 だがその後も、数学研究所には人がいた。

 講義は続いた。

 若者たちはミンコフスキーの論文を読み、その先を考えた。

 一人の人間が死んでも、共同体がその問いを引き継いだ。

 椅子は空いた。

 しかし、その空席の周りに人々が集まった。

 死とは、そのようなものだとヒルベルトは思っていた。

 一人ずつ奪っていく。

 残された者に、失われた者の仕事を託す。

 翌年の春、彼は、死とはまったく異なる仕方で人間を奪うものがあることを知った。

 国家は、一人ずつ奪わなかった。

 国家は名簿を作り、部屋全体を空にした。

三 名簿

 一九三三年四月、大学へ一通の文書が届いた。

 紙そのものは、何の変哲もなかった。

 上等でも粗末でもない、官庁で使われる薄い紙だった。上部に鷲の印があり、いくつかの条文と、記入すべき欄が並んでいた。

 祖父の名。

 祖母の名。

 宗教。

 従軍歴。

 政治的所属。

 ヒルベルトは二度読んだ。

 それから秘書に尋ねた。

「これは数学研究所に送られてきたのかね」

「全学部にです」

「数学者の祖父母を調べて、何が分かるのだろう」

 秘書は答えなかった。

 ヒルベルトはもう一度、用紙を見た。

 証明に不要な条件を追加すれば、定理は弱くなる。

 必要のない仮定を増やすことは、数学では不器用さの印である。

 しかし、これは定理を強くするための条件ではなかった。

 人を除外するための条件だった。

 数日後、教授たちの名簿が回ってきた。

 ある名前の横には印がつけられていた。

 別の名前には線が引かれていた。

 線は定規を使って引かれていた。

 まっすぐで、感情がなかった。

 人間を殺す命令も、おそらくこのように整然と書かれるのだろうとヒルベルトは思った。

 赤い鉛筆の線が、リヒャルト・クーラントの名を横切っていた。

 クーラントは、研究所を実際に動かしていた。

 資金を集め、建物を整え、学生の相談に乗り、優れた研究者を各国から招いた。

 ヒルベルトが問題を開いた人間なら、クーラントは、人々がその問題に取り組める部屋を作った人間だった。

 彼は第一次大戦で従軍していた。

 国のために働いた。

 負傷者を運び、砲火の下で通信装置を考案した。

 それでも、新しい国家は、彼を祖父母によって分類した。

「何かの間違いでしょう」

 若い事務官は言った。

「先生ほどのお方が申し出れば、例外が認められるかもしれません」

「例外」

 ヒルベルトはその言葉を繰り返した。

 クーラントが優れた数学者であることは、例外を求める理由ではなかった。

 そもそも数学者を祖先によって選別する規則そのものが、誤っている。

 だが事務官には、その違いが分からないようだった。

 彼らは不正な法を撤回する話をしているのではなかった。

 不正な法の中で、偉い人間だけを救う話をしていた。

 ヒルベルトは政府へ手紙を書いた。

 クーラントの研究業績、従軍歴、研究所への貢献を列挙した。

 数学は国際的な営みであり、研究者を血統によって分類することは、ドイツ科学に回復できない損害を与える、と書いた。

 文章は論理的だった。

 各段落は前の段落から導かれ、結論には飛躍がなかった。

 それでも何の効果もなかった。

 相手は論理を誤解しているのではなかった。

 論理を必要としていなかった。

四 エミー

 エミー・ネーターは、大きな鞄を抱えて研究所へ来た。

 鞄からは本の角が突き出し、留め金が閉まっていなかった。

「旅行ですか」

 ヒルベルトは尋ねた。

「まだです」

 ネーターは言った。

「ただ、いつ出てもよいようにしているのです」

 彼女は平然としていた。

 いつものように髪はうまくまとまっておらず、外套のボタンを一つ掛け違えていた。

 ヒルベルトは彼女が若かった頃を思い出した。

 女性に大学で講義をさせるべきではない、と多くの教授が反対した。

 兵士たちが戦場から帰ってきて、女性の足元に座って学ばされると知ったら、どう思うでしょう、と言った者もいた。

 ヒルベルトには、その質問の意味が理解できなかった。

 正しい定理を証明できる者から学ばず、証明できない男性から学ぶ方が、兵士たちの名誉にかなうというのだろうか。

 大学は男子浴場ではない。

 彼がそう言ったと、後に人々は語った。

 実際にどのような言葉を使ったのか、彼自身もう覚えていなかった。

 ただ、腹を立てたことは覚えていた。

 数学の前に、人間の性別を置く人々がいることに。

 ネーターは長いあいだ、正式な地位も報酬もほとんど得られないまま講義を続けた。

 それでも彼女の周りには学生が集まった。

 学生たちは彼女の話す速さについていくため、必死でノートを取った。彼女は一つの定理を説明している途中で、より一般的な構造に気づき、初めの定理そのものを置き去りにすることがあった。

 多くの数学者が個々の対象を研究していたとき、ネーターは対象を支配する関係を見ていた。

 他の者が家々を数えている間に、彼女は都市の地図を描いていた。

「アメリカから話が来ています」

 ネーターは言った。

「よい大学ですか」

「女子大学です」

「君にふさわしい地位を用意できるのかね」

「少なくとも、講義はさせてもらえるでしょう」

 彼女は笑った。

 その笑い方に、恨みはなかった。

 ヒルベルトは、それがかえって苦しかった。

「私はもう一度、政府へ書く」

「先生」

「君を追い出すことが、どれほど愚かなことか説明する」

「愚かな人は、説明されて賢くなるでしょうか」

 ヒルベルトは答えなかった。

 ネーターは鞄を床に置いた。

「先生は昔、私を例外として大学に入れようとしてくださいました」

「例外ではない。君には資格があった」

「今度は、例外になりたくありません」

「どういう意味だね」

「私一人だけ残れるようにしてもらうことです」

 窓の外で、学生たちが行進していた。

 同じ色の制服を着て、同じ歩幅で歩き、同じ言葉を叫んでいた。

 数学研究所の窓ガラスが、声に合わせてかすかに震えた。

「代数学は軽いものです」

 ネーターは言った。

「国境を越えるのに、機械も標本も要りません。頭に入れて持っていけます」

「学生はどうする」

「学生も頭を持っています」

 ネーターは再び笑った。

「いつか、どこかで会えます」

 ヒルベルトは、彼女が鞄を持ち上げるのを手伝おうとした。

 だが腕に力が入らなかった。

 ネーターは一人で持ち上げた。

 廊下の先で、彼女は一度だけ振り返った。

「先生」

「何だね」

「数学は、ここだけにあるものではありません」

 それは慰めだったのだろう。

 だがヒルベルトには、宣告のように聞こえた。

五 ドイツ数学

 夏になる頃には、研究所の廊下から多くの声が消えていた。

 扉には、新しい名前札が掛けられた。

 新しく任命された者の中には、誠実な研究者もいた。空席を望んだわけではなく、ただ与えられた職を受けただけの者もいた。

 だが、急に昇進したことを、新しい時代による正当な評価だと考える者もいた。

 ある若い講師が、講演で「ドイツ的数学」という言葉を使った。

 ヒルベルトは後方の席で聞いていた。

 講師は、抽象的で形式的な数学はユダヤ的であり、真にドイツ的な数学は直観的で、民族の生活に根ざしたものでなければならないと語った。

 黒板には式が一つも書かれなかった。

 講演の後、司会者が質問を求めた。

 誰も手を挙げなかった。

 ヒルベルトはゆっくり立ち上がった。

「一つ教えてください」

 若い講師の顔に緊張が走った。

「ドイツ的な三角形と、ユダヤ的な三角形では、内角の和が違うのですか」

 会場のどこかで、短い笑い声がした。

 すぐに消えた。

 講師は、これは比喩です、と答えた。

「数学では、比喩で証明を済ませることはできません」

 ヒルベルトは座った。

 それは小さな抵抗だった。

 あまりに小さく、その日の午後にも世界は何一つ変わらなかった。

 講師は職を失わず、追放された者たちは帰ってこなかった。

 その夜、ヒルベルトは自分の言葉を何度も思い返した。

 少し機知の利いた質問をしたことで、自分が何かを成し遂げたような気持ちになってはいないか。

 人々が職を失い、国を失っているときに、老人が講演会で一度相手を黙らせた。

 それに何の意味があるのか。

 彼は抵抗したのだろうか。

 それとも、自分は抵抗したと思える程度のことだけをしたのだろうか。

 数学では、証明に穴があれば、どれほど美しくても定理として認められない。

 だが人は、自分の人生については、穴だらけの証明で自分を納得させる。

 私は病気だった。

 私は老人だった。

 私には政治的な力がなかった。

 できるだけの手紙は書いた。

 抗議もした。

 すべて本当だった。

 そして、そのどれも、去っていった人々を連れ戻しはしなかった。

六 手紙

 秋から冬にかけて、外国の切手を貼った手紙が届くようになった。

 ケンブリッジ。

 オックスフォード。

 プリンストン。

 ニューヨーク。

 フィラデルフィア。

 イスタンブール。

 人々の名前は、ゲッティンゲンの名簿から消え、世界地図の上に散らばっていった。

 クーラントからは、イギリスでの生活について書かれた手紙が来た。

 新しい職を探していること。

 子どもたちの将来が心配なこと。

 それでも研究は続けていること。

 末尾には、研究所の若い者たちをよろしく頼む、と書かれていた。

 自分が追い出された研究所のことを、まだ心配していた。

 ネーターからは、アメリカの学生たちについて書かれた手紙が来た。

 講義の進み方を少し遅くしなければならないこと。

 女性の学生たちが熱心であること。

 プリンストンへも出かけていること。

 文章からは、不満よりも、新しい数学を教えられる喜びの方が強く伝わってきた。

 ヒルベルトは、それを読んで安心した。

 同時に、恥ずかしくなった。

 彼女は奪われたものについてではなく、これから作るものについて書いていた。

 残された自分だけが、失われたゲッティンゲンについて考え続けていた。

 ある日、日本から高木の手紙が届いた。

 前年の訪問への礼と、ヒルベルトの健康を案じる言葉が書かれていた。最後に、ゲッティンゲンの皆様はいかがお過ごしでしょうか、とあった。

 ヒルベルトは返事を書き始めた。

 皆、元気です。

 そう書いて、消した。

 クーラントはイギリスにいる。

 ネーターはアメリカへ渡った。

 ヴァイルも去った。

 若い者たちは、残るべきか、逃れるべきか迷っている。

 研究所は存続している。

 建物も、図書室も、黒板もある。

 しかし、「皆様」はもう、どこにもいなかった。

 ヒルベルトは新しい紙を取り出した。

 私は元気です、とだけ書いた。

 それも嘘ではなかった。

 嘘でないことと、真実であることは、同じではない。

七 空いた椅子

 研究会の日、ヒルベルトは予定より早く研究所へ行った。

 講義室には長い机と椅子が並んでいた。

 彼は前から三列目の端に座った。

 そこは、かつてミンコフスキーが好んで座った場所だった。

 クラインは前方に座り、しばしば講演者の話を途中で止めた。

 クーラントは出入口に近い席を選んだ。遅れて来る学生を入れたり、急な連絡に対応したりするためだった。

 ネーターは椅子に深く腰かけることができず、講演が面白くなると、ほとんど立ち上がりながら質問した。

 若い高木は、言葉を一つも聞き落とさないよう、少し前屈みになって座っていた。

 ヒルベルトには、彼らの姿が見えた。

 もちろん、実際にはいなかった。

 記憶は、ときに現実よりも多くの人間を部屋に集める。

 開始時刻になっても、聴衆は十人ほどしか来なかった。

 以前なら、廊下まで学生が立っていた。

 講演者は、新しい微分方程式の解法について話し始めた。

 悪い講演ではなかった。

 正確で、よく準備されていた。

 だが質問が出なかった。

 以前のゲッティンゲンでは、講演が終わるまで待つ者はいなかった。定義が不明瞭なら、その場で声が飛んだ。主張が強すぎれば反例が出され、弱すぎればもっと一般化できると言われた。

 講演者と聴衆が争い、黒板の上で別の数学が生まれた。

 今は、誰も誤りを犯さないよう注意して話し、誰も目立った質問をしなかった。

 間違うことより、間違った人物と見なされることの方が危険な時代になっていた。

 講演が終わると、礼儀正しい拍手が起きた。

 ヒルベルトは黒板を見た。

 証明は正しかった。

 それでも、そこに数学があるようには思えなかった。

 数式が書いてあれば数学なのではない。

 反対する者がいる。

 先へ進める者がいる。

 全く違う分野から、思いがけない関係を見つける者がいる。

 失敗を笑い、成功を奪い合わず、他人の発見によって自分の世界が広がることを喜ぶ者がいる。

 数学とは、そのような人間の集まりだった。

 黒板は残っていた。

 だが、その前に集まるべき人々がいなかった。

八 新しい世界地図

 一九三四年になると、国外へ去った者たちが新しい場所を作り始めたという知らせが届いた。

 クーラントは、やがてニューヨークへ渡ることになるらしい。

 アメリカには、ゲッティンゲンのような数学研究の中心はまだ少ない。だからこそ、そこに作れるかもしれない、と彼は書いた。

 ヒルベルトは手紙を読みながら、地図を広げた。

 ヨーロッパの外側に、いくつもの点をつけた。

 プリンストン。

 ニューヨーク。

 ブリンマー。

 ケンブリッジ。

 数学の中心は、国王や大臣の命令によって作られるものではない。

 人が集まり、話し、教え、反論し、若い者を受け入れることで、長い時間をかけて作られる。

 だが、壊すのには数か月しかかからなかった。

 ドイツは研究者を国外へ追い出した。

 国外へ追い出された研究者は、その国々へ数学を運んだ。

 ナチスはドイツ数学からユダヤ人を取り除いたつもりだった。

 実際には、数学をドイツから取り除いていた。

 それは復讐でも罰でもなかった。

 数学は誰かを罰するために移動するのではない。

 呼吸のできる場所へ移っただけだった。

 ヒルベルトは、かつてネーターが言った言葉を思い出した。

 代数学は軽いものです。

 頭に入れて持っていけます。

 確かにその通りだった。

 国家は研究室を閉鎖できる。

 教授職を奪える。

 本を焼くこともできる。

 だが、一度理解された定理を、人間の頭から完全に取り出すことはできない。

 それだけが慰めだった。

 しかしその慰めには、別の悲しみが伴った。

 数学は生き残る。

 ゲッティンゲンがなくても。

 ドイツがなくても。

 ヒルベルトがいなくても。

 自分が一生をかけて築いた場所は、数学にとって不可欠ではなかった。

 学問の普遍性とは、国境を越える力であると同時に、どの故郷も見捨てて生き延びられる力でもあった。

九 晩餐会

 晩餐会はベルリンで開かれた。

 ヒルベルトは出席を断ろうとしたが、大学側から、ドイツ科学を代表する者としてぜひ出席してほしいと言われた。

 ドイツ科学。

 近頃、その言葉を聞くたびに、彼は疲れを覚えた。

 かつて科学には、ドイツもフランスもなかったわけではない。

 学派はあり、伝統はあり、国ごとの好みもあった。

 しかし一つの定理がドイツで証明されたからといって、フランスでは偽になるわけではなかった。

 晩餐会場には旗が並び、軍服と礼服を着た男たちが集まっていた。

 給仕が銀の皿を運び、楽団がワーグナーを演奏した。

 ヒルベルトの席は、文部大臣ベルンハルト・ルストの隣だった。

 大臣は礼儀正しかった。

 ヒルベルトの業績を称え、ドイツ民族がいかに彼を誇りに思っているかを語った。

 ヒルベルトは黙って聞いていた。

「教授」

 食事が半ばまで進んだ頃、大臣が尋ねた。

「ゲッティンゲンの数学は、その後いかがですか」

 ヒルベルトは顔を上げた。

「その後、とは」

「ご存じでしょう」

 大臣は微笑んだ。

「好ましくない影響から解放された後のことです。ユダヤ的な影響が強すぎたために、多少の混乱はあったでしょう。しかし、いまは純粋なドイツ科学を再建しておられるのでしょうな」

 周囲の男たちが会話をやめた。

 何人かは、笑う用意をしていた。

 大臣は、自分が気の利いた質問をしたと思っているようだった。

 ヒルベルトは、卓上の白いクロスを見た。

 そこに、一本のまっすぐな線が見えた。

 赤い鉛筆で名簿に引かれた線だった。

 クーラントの名を消した線。

 ネーターの名を消した線。

 何十人もの研究者を、大学から、都市から、祖国から切り離した線。

 彼はミンコフスキーの椅子を思い出した。

 高木が三十年前に座っていた若者の席を思い出した。

 ネーターの閉まらない鞄を思い出した。

 外国の切手を貼った手紙を思い出した。

 質問の出ない講義室を思い出した。

 黒板はある。

 机もある。

 研究所の建物もある。

 予算も、教授の肩書も、大学の印章も残っている。

 だが、それらを数学と呼ぶことができるのだろうか。

「混乱しているのではありません」

 ヒルベルトは言った。

 大臣の微笑が、少し固くなった。

「では、順調なのですか」

「いいえ」

 ヒルベルトは首を振った。

「苦しくなったのでもない」

 声は小さかった。

 長いテーブルの端までは聞こえなかったかもしれない。

 しかし、大臣には聞こえた。

「数学ですか」

 ヒルベルトは言った。

「ゲッティンゲンには、もうそんなものはありません」

 大臣は一瞬、彼を見た。

 それから大きく笑った。

 老人の皮肉を、無害な冗談だと思ったらしい。

 周囲の男たちも笑った。

 ヒルベルトは笑わなかった。

 笑い声の中で、彼には別の音が聞こえていた。

 ケーニヒスベルクの道を歩きながら議論するミンコフスキーの声。

 講義を途中で止め、もっと一般化できると叫ぶネーターの声。

 不慣れなドイツ語で質問する若い高木の声。

 研究所の廊下を走る学生たちの足音。

 それらは遠く、すでに別の時代の音になっていた。

十 最後の問題

 ゲッティンゲンへ戻った夜、ヒルベルトは一人で研究所へ行った。

 守衛は彼の顔を見ると、何も言わずに扉を開けた。

 廊下は暗かった。

 窓から月の光が入り、床に細長い四角形を作っていた。

 ヒルベルトは講義室へ入った。

 黒板には、前日の講義の数式が一部残っていた。

 彼はチョークを取った。

 手が震えた。

 かつては、大きく明瞭な字で黒板いっぱいに式を書いた。いまは、一本の線を引くことさえ難しかった。

 ヒルベルトは黒板の上部に書いた。

 問題。

 そこで手を止めた。

 何を書くつもりだったのか。

 なぜ人間は、自分たちの最も優れた知性を追放するのか。

 なぜ国家は、自らを強くすると称して、自分の未来を破壊するのか。

 なぜ教育を受けた人間が、明らかな虚偽に従うのか。

 なぜ善良な人々は、悪が始まったとき、それが一時的な愚行にすぎないと考えてしまうのか。

 なぜ私は、彼らを救えなかったのか。

 どの問いも、数学の問題にはならなかった。

 未知数を定めることができない。

 仮定を整理することもできない。

 解が存在するかどうかさえ分からない。

 ヒルベルトは、パリで二十三の問題を提示した日のことを思い出した。

 あの頃、彼は、明確に述べることのできる問題は、いつか必ず解かれると信じていた。

 解けないように見える問題も、正しい言葉で表現し直せば、解への入口が見つかる。

 分からないということは、一時的な状態にすぎない。

 われわれは知らなければならない。

 われわれは知るであろう。

 だが、目の前にある問題は、正しい言葉で述べることさえできなかった。

 人間はなぜ、自分が知ることを恐れるのか。

 人間はなぜ、知らないことを誇りに変えるのか。

 人間はなぜ、真理よりも、真理を語る者の血筋を問題にするのか。

 ヒルベルトはチョークを置いた。

 黒板には「問題。」という一語だけが残った。

 番号は書かなかった。

 それは二十四番目の問題ではなかった。

 数学者に解ける問題ではなかった。

 窓の外で、風が木々を揺らした。

 数枚の枯葉が石畳を転がり、研究所の階段の下へ集まった。

 ヒルベルトは空いた椅子を見渡した。

 かつてそこに座っていた人々の多くは、もう遠い国にいた。

 彼らは別の大学で教え、別の学生を育て、別の黒板に式を書くだろう。

 数学は続く。

 ゲッティンゲンがなくても続く。

 それは喜ぶべきことだった。

 けれども、その夜のヒルベルトには、数学が生き延びることと、自分たちの世界が滅びることが、同じ出来事の二つの面のように思えた。

 彼は明かりを消し、講義室を出た。

 扉が閉まる直前、月の光が黒板を照らした。

 そこには、問いだけが残されていた。

 誰も解くことのできない問い。

 あるいは、人類が何度も解いたつもりになり、そのたびに初めから間違え続ける問い。

 ヒルベルトは廊下をゆっくり歩いた。

 彼の後ろで、誰もいない講義室は静まり返っていた。

 数学を失った国には、数学を失ったことを証明する者さえ、やがていなくなるのだった。

2026年6月23日火曜日

最後の哲学者のための弔辞

 

最後の哲学者のための弔辞

 私はサルトルの葬儀には行かなかった、と長いあいだ人に話してきた。

 厳密に言えば、嘘ではない。

 私は葬列には加わらなかったし、墓地にも入らなかった。ただ、ラスパイユ大通りの薬局の軒下に立ち、彼の棺が群衆の頭上を運ばれていくのを見ていた。

 四月だというのに、パリには冷たい雨が降っていた。

 傘を持たない若者たちが、街路樹や自動車の屋根にまで登っていた。窓という窓から人が顔を出し、歩道には花束が落ち、誰かが踏んだ新聞紙が雨水を吸って黒くなっていた。

 人々は泣き、怒鳴り、歌い、互いの肩を押した。

 あれほど無秩序な葬列を私は見たことがない。

 無秩序という言葉を、私は不用意には使わない。

 私の一生は、無秩序に見えるものの背後に秩序を探すために費やされた。神話、婚姻、料理、仮面、親族名称。人間が偶然に作ったように見えるものの中には、本人たちも知らない規則がある。二つのものを分け、別の二つを結び、ある項を別の項へ変換する規則である。

 だが、あの日の群衆からは、どうしても構造を取り出せなかった。

 学者も労働者も学生も、彼の本を読んだ者も読まなかった者もいた。彼の政治的立場を支持した者も、数年前まで罵っていた者もいた。葬列は階級にも世代にも分けられず、いかなる二項対立にも素直に従わなかった。

 群衆はただ、ひとりの男が死んだことを知っていた。

 そして、その男の死が、自分たちの何かを終わらせたことを感じていた。

 棺は小さく見えた。

 生前の彼も、実際には小柄な人だった。しかし、人間というものは、生きているあいだに、その肉体より大きな場所を占めることがある。

 彼は二十世紀のパリで、ひとりの人間が占めることのできる最大限の場所を占めた。

 私は薬局の軒下に立ち、濡れた帽子を手に持っていた。近くにいた若い女が、私の顔を二度ほど見た。私に気づいたのかもしれない。

「先生は、あの人に勝ったんでしょう」

 女はそう言った。

 声には非難も敬意もなかった。ただ、試験問題の答えを確認するような響きがあった。

 私は返事をしなかった。

 何に勝ったというのだろう。

 彼の歴史に、私の構造が勝ったのか。

 彼の自由に、私の無意識の規則が勝ったのか。

 彼の人間に、私の人類学が勝ったのか。

 棺が見えなくなってからも、私はしばらくそこに立っていた。

 そしてその日以来、私は何度も、彼こそ最後の哲学者だったのではないかと考えてきた。

 最後に哲学した人、という意味ではない。

 彼の後にも哲学者はいた。優れた者も、彼より厳密な者も、彼より深遠な者もいた。

 だが、自分の死を一つの都市の喪失に変えることのできた哲学者は、彼が最後だった。

 私が歴史を信用しなくなったのは、歴史を研究したからではない。

 歴史に追い出されたからである。

 一九四〇年、私はフランス人だった。

 翌年、私はユダヤ人になっていた。

 もちろん、その前から私はユダヤ人だった。しかし、それまでは、それが私のすべてではなかった。私は教師であり、夫であり、息子であり、哲学の教授資格を持つ者であり、ブラジルから戻ったばかりの民族学者だった。

 ところが、ある日、行政上の数行が、それらの属性をすべて二次的なものにした。

 歴史は、私を一つの名詞に変えた。

 ユダヤ人。

 その名詞によって職を失い、住む場所を失い、国を離れなければならなくなった。

 後年、サルトルは、人間はまず存在し、その後で自分自身を作るのだと述べた。

 それは気高い考えである。

 だが私の経験では、人間はときに、自分で選んだのではない名詞によって、存在することを禁じられる。

 自由より先に分類が来る。

 選択より先に戸籍が来る。

 実存より先に、役所の用紙が来る。

 私は船に乗り、ヨーロッパを離れた。

 海上から見た大陸は、ひどく静かだった。その内部で人間が互いを分類し、運び、閉じ込め、焼いていることなど、海からは分からなかった。

 ニューヨークでヤコブソンに出会い、私は言語の中に、事件より長く持続するものを見た。

 一つの音は、それ自体で意味を持たない。別の音との差によって、はじめて働く。

 人間の世界を作っているのは、実体ではなく関係なのかもしれない。

 個人の意志より古い規則があり、歴史上の出来事より深い変換があるのかもしれない。

 それは学説である前に、私にとって避難所だった。

 歴史が狂気に陥っているなら、その下にある構造を探せばよい。

 人間が自分のしていることを理解していないなら、人間の意識を信用せず、その背後で働く体系を調べればよい。

 私が構造を発見したのか、それとも歴史から逃れるために構造を必要としたのか、今となっては分からない。

 おそらく、学説とはしばしばそのようなものだ。

 人は普遍的真理を発見したつもりでいる。

 だが実際には、自分が生き延びることのできる場所を、世界の中に建てている。

 サルトルもまた、戦争から一つの家を建てた。

 私が関係と規則の家を建てたのに対し、彼は自由と責任の家を建てた。

 世界がいかに不条理でも、人間は選ばなければならない。

 選ばないこともまた、選択である。

 誰も自分の責任から逃れることはできない。

 あの時代に、その言葉がどれほど多くの若者を救ったかを、私は否定しない。

 私たちは同じ戦争を見て、反対の方向へ歩いた。

 私は、人間の意識を疑った。

 彼は、人間の意識に最後の責任を負わせた。

 私は歴史から逃れようとした。

 彼は歴史の中にとどまり、そこで自由であろうとした。

 どちらが勇敢だったかと尋ねられれば、答えは明らかである。

 しかし、どちらが正しかったかと尋ねられれば、私は今でも答えることができない。

 一九六二年、私は『野生の思考』の最後に、サルトルへの批判を書いた。

 あの章だけは、それ以前の章とは調子が違っていた。

 それまで私は、分類、動植物、トーテム、神話について論じていた。だが最後に、私は突然、パリへ戻ってきた。

 獲物はサルトルだった。

 彼は歴史を特別なものと考えていた。

 歴史の中で人間は自らを作り、集団は実践によって変化し、弁証法的理性は社会を理解する。彼にとって歴史は、人間が自己を実現する舞台だった。

 私には、それが西洋人の神話に見えた。

 人類の無数の社会の中から、自分たちの時間だけを特別な時間として取り出す。歴史を持つ社会と、歴史を持たない社会を分ける。そして自分たちの進歩を、人類全体の方向として語る。

 それは神話ではないか。

 かつて神が担っていた役割を、「歴史」が引き継いだだけではないか。

 私はそう書いた。

 書き終えたとき、勝利の感情はなかった。

 学者が一冊の本の中で誰かを批判する時、相手の身体は目の前にない。机上にあるのは文章だけである。文章には顔も声もなく、老いも疲労もない。こちらが鋭く切れば、切り口だけが残る。

 だから学問上の殺人は、実際の殺人より清潔に見える。

 血が出ないからだ。

 しかし、血が出ないからといって、何も死なないわけではない。

 数年後、パリでは「構造主義」という言葉が流行した。

 人々は、サルトルの時代は終わったと言った。

 若い研究者たちは、主体、自由、人間性という言葉を、古い家具を見るような目で見た。まだ使用できるかもしれないが、現代的な部屋には合わない、とでもいうように。

 私の名前は、フーコー、ラカン、バルトらと並べられた。

 私たちが一つの学派を作ったことになっていた。

 実際には、私たちは互いにかなり違っていた。しかし時代は、思想家本人より分類を好む。思想家もまた、研究対象となれば、分類を免れることはできない。

 私はそれを不愉快に思いながら、どこかで満足していたのだろう。

 新しい時代が始まり、自分がその一部であることに、満足していなかったと言えば嘘になる。

 ある午後、私はサン=ジェルマン大通りで、新聞を配るサルトルを見た。

 彼はすでに老いていた。

 目も悪くなっていた。小さな身体を少し前に傾け、一枚ずつ新聞を通行人に差し出していた。

 受け取る者もいれば、無視する者もいた。若者の中には、彼が誰であるか知らない者もいたかもしれない。

 かつて講演会場を埋め尽くした男が、道端で紙を配っていた。

 私は通りの反対側にいた。

 声をかけることもできた。

 しかし、かけなかった。

 彼を哀れんだからではない。

 むしろ、近づく資格がないように感じた。

 私は書斎で人間という主体を解体し、彼は街頭で一人の人間として立っていた。

 私の理論は、なぜ新聞を配る老人の前を、ある者は足早に通り過ぎ、ある者は立ち止まるのかを説明できたかもしれない。

 階級、世代、政治的所属、記号の体系。

 しかし、なぜ彼がそこに立つことを選んだのかについて、私の理論は何も語らなかった。

 あるいは、それを「選択」と呼んでよいのかについてさえ。

 やがて信号が変わり、人波が私たちの間を横切った。

 もう一度見たとき、彼の姿は見えなくなっていた。

 私は彼を見失ったのではない。

 私たちの時代が、彼を見失い始めていたのである。

 一九六六年、アメリカで若い哲学者が私の仕事について語った。

 ジャック・デリダ。

 アルジェリア生まれのユダヤ人で、少年時代、反ユダヤ的な規則によって学校から排除された経験を持つ男だった。

 その経歴を知ったとき、私は奇妙な親近感を覚えた。

 彼もまた、ある朝突然、一つの名詞に変えられたことがある。

 彼は構造を外部から攻撃したのではない。

 内部へ入り、その中心が本当に中心なのかを尋ねた。

 構造には中心が必要だと私たちは考えていた。中心が要素の配置と変換を統御する。しかし中心そのものは、構造の一部なのか。構造の一部なら、中心もまた他の要素との関係によって定義される。構造の外部にあるなら、どうして構造に働きかけることができるのか。

 彼は私の道具を使って、私の家を解体した。

 後年、私たちは何度か顔を合わせた。

 ある晩、講演後の小さな会食で、彼は私に言った。

「先生の構造を壊したつもりはありません」

「では、何をしたのですか」

「戸を開けたのです」

「外から風が入る」

「風の入らない家は、墓です」

 彼が実際にそう言ったのか、私は確信していない。

 老人の記憶は、過去を保存するより、過去にふさわしい会話を新たに作ることがある。

 だが彼なら、そのようなことを言ったかもしれない。

 そして私は、こう答えたように思う。

「人類学者は墓も研究します」

 彼は笑った。

 私も笑った。

 思想史は、後世から見ると父殺しの連続に見える。

 アリストテレスがプラトンを退け、カントが形而上学を裁き、ヘーゲルがカントを包み込み、マルクスがヘーゲルを逆立ちさせ、ニーチェが道徳を打ち壊す。

 だが実際に会ってみれば、父と子は必ずしも憎み合ってはいない。

 子は父の言葉を最も熱心に読んだからこそ、その限界を見つける。

 父は子に否定されることで、自分の思想が本当に読まれたことを知る。

 私はサルトルにしたことを、デリダによって自分に返された。

 その時、私は初めて、サルトルが感じたかもしれないものの一部を理解した。

 怒りではない。

 敗北でもない。

 自分の築いた家から、知らないうちに客が帰っていく時のような寂しさである。

 灯りはまだついている。

 暖炉にも火がある。

 しかし、次の世代はもう別の場所に集まっている。

 サルトルが死んだ四年後、フーコーが死んだ。

 一九八四年六月。

 私は新聞でその知らせを読んだ。

 病名は、沈黙と噂のあいだを移動していた。

 彼は、社会が狂気、病気、犯罪、性をどのように名づけ、分類し、管理するかを研究した。だが最後には、彼自身の身体が、一つの病名をめぐる社会の恐怖と沈黙の中に置かれた。

 それを皮肉と呼ぶのは容易である。

 だが死者の生涯に、気の利いた対称性を見つけることは、残された者の悪い習慣だ。

 フーコーは、人間という概念は比較的新しい発明であり、いつか消えるかもしれないと書いた。

 砂浜に描かれた顔が波で消えるように。

 当時、その比喩は鮮やかだった。

 人間の終焉。

 主体の終焉。

 著者の終焉。

 歴史の終焉。

 私たちは次々に、何かの終わりを告げた。

 若い思想家にとって、終わりを宣言することほど魅力的な仕事はない。何かを終わらせるたびに、自分たちの時代が始まったように思えるからだ。

 だが、人間という概念の終わりを告げた人間が実際に死ぬと、概念とは別のものが残った。

 声。

 歩き方。

 眼鏡の向こうから人を見る時の、あの集中的な視線。

 講義の前に紙を整える手。

 人間は存在しないと論じることはできても、死者の固有名を消すことは難しい。

 死は、私たちが解体したはずの主体を、残酷なほど鮮明に復元する。

 フーコー。

 ミシェル。

 その名を呼べば、彼はもはや権力と知の交差点ではなかった。言説によって構成された主体でもなかった。

 ただ、もう会うことのできない一人の人間だった。

 彼の最後の講義は、真理を語る勇気についてだったという。

 私はそのことを後から知った。

 真理を解体した時代の思想家が、最後に真理を語る勇気へ戻った。

 これもまた、出来すぎた対称性だろうか。

 あるいは私たちは、どれほど遠くへ旅をしても、最後には古い問いへ帰ってくるのだろうか。

 どう生きるべきか。

 何を恐れるべきか。

 死を前にして、何を語るべきか。

 それらはサルトル以前からあった問いであり、サルトルの後にも残った。

 哲学者たちは哲学を解体したが、問いの方は、解体されることを拒んだ。

 ガタリが死んだのは一九九二年だった。

 私は彼をよく知っていたわけではない。

 彼は私のように、世界から距離を取って構造を眺める人間ではなかった。世界の内部へ入り、制度の壁を動かそうとする人だった。

 ラ・ボルドの病院で、彼は精神科病院が一つの固定した機械になることを防ごうとしていた。

 医師は医師、患者は患者、病者は治療される側、専門家は治療する側。

 その区別が硬直すれば、病院は病気を治す場所ではなく、病気という身分を生産する場所になる。

 彼は役割を混ぜ、会議を開き、言葉の通路を増やした。

 私は構造を発見した。

 彼は構造が人を閉じ込める時、その戸を外そうとした。

 私たちは反対の仕事をしていたようで、実は同じものを見ていたのかもしれない。

 人間は、自分で作った制度の中に捕らわれる。

 ただ私はそれを記述し、彼はそれを変えようとした。

 ガタリの死後、私は書棚から『アンチ・オイディプス』を取り出した。

 表紙には二人の名が並んでいた。

 ドゥルーズとガタリ。

 その間の「と」という一文字が、不意に墓碑のように見えた。

 人間は一人で生まれ、一人で死ぬとよく言われる。

 しかし思想には、二人でしか生まれないものがある。

 二人のあいだにできる思考。

 どちらか一人に還元できない言葉。

 ドゥルーズとガタリ。

 ガタリが死んだ後、その「と」の片側には、誰もいなくなった。

 三年後、もう片側も空白になった。

 ドゥルーズが窓から身を投じたと聞いたとき、新聞にはすぐに、彼の哲学にふさわしい比喩を見つけようとする文章が現れた。

 逃走線。

 生成。

 身体からの脱領土化。

 私はそれらを読むことができなかった。

 一人の男が長い病気によって呼吸する力を奪われ、耐えがたい地点にまで追いつめられた。それ以上のことを、哲学的な比喩にしてはならないと思った。

 窓は概念ではない。

 落下は思想ではない。

 死者の最期を、その人の著作の美しい結論に変えることは、残された者の傲慢である。

 私たち思想家は、死を前にすると臆病になる。

 死を死のまま受け止められず、意味に変えようとする。

 構造、自由、差異、欲望、超越。

 意味を与えれば、死者は完全には失われないと思うからだ。

 しかし、ある死には意味がない。

 意味がないまま、私たちの中に残る。

 その重さに耐えることもまた、思考の仕事であるはずだった。

 二〇〇四年、デリダが死んだ。

 私は九十五歳だった。

 その頃には、人の死を聞くことに慣れていた、と言うべきかもしれない。

 だが、人は他人の死に慣れるのではない。

 驚く力を少しずつ失っていくだけである。

 新聞に彼の写真が載っていた。

 白い髪。少し疲れた目。何かを断定した直後に、それを自ら疑い始めるような口元。

 私の構造を開いた男。

 私の二項対立の内部に入り、自然と文化、話し言葉と書き言葉、中心と周縁が、私の考えたほど素直に分かれていないことを示した男。

 私は彼より二十二歳年上だった。

 普通なら、私が先に死ぬはずだった。

 だが思想の世界では、父が子の葬儀を見ることがある。

 彼の死を知った日、私は長いあいだ机に向かったまま、何も書かなかった。

 彼は私に何をしたのだろう。

 若い頃の私は、それを批判と呼んだかもしれない。

 さらに若ければ、攻撃と呼んだかもしれない。

 だが老年になってみれば、それは相続だったのだと思う。

 人は、受け継がないものを解体することはできない。

 無関心な文章を、何十年もかけて読み直す者はいない。

 デリダは私の仕事を壊したのではない。

 それが簡単には閉じないようにした。

 そのことを本人に伝えたことはなかった。

 私たちの世代の男は、感謝を批判の形でしか表せないことがある。

 私はサルトルに対してそうだった。

 デリダも私に対してそうだったのかもしれない。

 あるいはこれは、最後に残った者に都合のよい解釈だろう。

 老人は、自分が受けた傷を、すべて愛情の跡に変えたがる。

 そうしなければ、長く生きた時間に耐えられないからである。

 デリダの死後、私はサルトルについて考えることが増えた。

 私はようやく、彼より年上になった。

 人は死者の年齢を追い越す時、不思議な罪悪感を覚える。

 サルトルは七十四歳のままになり、私は九十を超えた。

 かつて老人に見えた彼が、いつの間にか私より若くなっていた。

 フーコーも、ガタリも、ドゥルーズも、デリダも、皆、私より若くなった。

 死者は老いない。

 老いるのは、見送った者だけである。

 日本について書くようになったのは、希望を探したからではない。

 少なくとも、初めはそう思っていた。

 私は人類学者として、日本を一つの文化として見ようとした。西洋と比較し、差異を見つけ、変換の規則を考えた。

 だが晩年になると、私は日本に、学問以上のものを求めていたのかもしれない。

 西洋文明は、自分自身を普遍的なものとして世界に押し広げた。

 自分たちの歴史を、人類の歴史と呼んだ。

 自分たちの理性を、理性そのものと呼んだ。

 自分たちの人間像を、人間そのものと呼んだ。

 私はその傲慢を批判してきた。

 しかし、批判した後に何が残るのかについて、私は十分に語らなかった。

 中心を壊すことはできる。

 普遍を疑うこともできる。

 だが、人は中心のない場所で、どのように暮らせばよいのか。

 すべての価値が一つの文化の構築物にすぎないなら、私たちは何を守り、何を拒むのか。

 日本で私を慰めたのは、古いものが残っていたことではなかった。

 古いものが、そのまま保存されているのではなく、別の形へ移されながら生きているように見えたことである。

 素材に逆らわず、物を作る。

 空間を何かで満たすのではなく、空いている場所を働かせる。

 新しいものが古いものを完全に破壊せず、古いものも新しいものを拒まない。

 もちろん、これは外国人が作った日本像にすぎないだろう。

 日本にも暴力があり、破壊があり、忘却がある。

 私は日本を理想郷にするほど、若くも無知でもなかった。

 それでも、別の配列が可能であることを知るだけで、人は救われることがある。

 西洋の終わりは、世界の終わりではない。

 哲学の終わりも、思考の終わりではない。

 私の机の上には、日本でもらった小さな木箱がある。

 何を入れるためのものだったか、もう覚えていない。

 蓋は、力を入れなくても静かに閉じる。だが密閉はされない。わずかな空気が、内部と外部を行き来する。

 私は時々、デリダの戸を思い出す。

 風の入らない家は墓だ、と彼が言ったことになっている、あの戸である。

 百歳を過ぎると、人は未来について尋ねられなくなる。

 若い頃は、これから何を書くのかと聞かれた。

 中年になると、現在の社会をどう考えるかと聞かれた。

 老人になると、過去についてだけ質問される。

 サルトルはどのような人でしたか。

 構造主義とは何でしたか。

 なぜフランス思想はあれほど世界を熱狂させたのですか。

 人々は、すでに終わった時代の証言を求める。

 私は、生きた人間ではなく、遺跡の管理人になった。

 ある若い記者が、私に尋ねたことがある。

「哲学は、本当に終わったのでしょうか」

 私は、哲学者ではなく人類学者だと答えた。

 これは私が何十年も使ってきた、便利な逃げ道だった。

 もともと私は哲学を学んだ。

 哲学の教授資格まで取得した。

 それから哲学を離れ、人類学へ進んだ。

 哲学者であることをやめたつもりだった。

 しかし、哲学を離れた理由を説明するために、私は一生哲学について語り続けた。

 神話を研究しながら、思考とは何かを考えた。

 親族関係を研究しながら、人間とは何かを考えた。

 歴史を批判しながら、時間とは何かを考えた。

 サルトルを批判しながら、自由とは何かを考えた。

 哲学から逃げるために歩いた道が、巨大な円を描き、再び哲学へ戻っていた。

「終わったのは、哲学ではないのかもしれません」

 私は記者に言った。

「では何が終わったのですか」

「哲学者が、世界全体に責任を負っていると人々が信じた時代です」

 サルトルは、世界中のあらゆる事件について発言することを求められた。

 戦争、植民地、革命、収容所、労働者、学生、文学。

 彼自身も、その要求を拒まなかった。

 今から見れば、傲慢だったと言える。

 一人の知識人が、世界のあらゆる苦しみに答えられるはずはない。

 彼は誤り、迷い、しばしば自分の政治的判断に裏切られた。

 それでも彼は、答える責任があると信じていた。

 私たちは、その責任の根拠を解体した。

 普遍的人間などいない。

 歴史に一つの方向などない。

 主体は自分自身の主人ではない。

 真理は権力と無関係ではない。

 言葉は意味を完全には支配できない。

 私たちは正しかった。

 おそらく、そのほとんどについて正しかった。

 だが、正しさによって失われるものもある。

 誰も世界全体を語る資格がないと証明した後、誰も世界全体に責任を感じなくなった。

 大きな物語を壊した後、小さな専門領域だけが残った。

 哲学は精密になった。

 慎重になった。

 自分の限界を知るようになった。

 そして、かつて持っていた、危険で滑稽で壮大な光を失った。

 サルトルは、多くの点で間違っていた。

 だが、世界の出来事は自分と無関係ではないという、その一事において、彼は最後まで間違うことを拒んだ。

 私は今、サルトルのための弔辞を書こうとしている。

 彼が死んでから、ほぼ三十年が経っている。

 弔辞を書くには遅すぎる。

 だが、死者に対して遅すぎるということがあるだろうか。

 死者は待つことを苦にしない。

 困るのは生きている者の方である。

 私は何度か、原稿の冒頭に「親愛なるサルトル」と書いた。

 そのたびに消した。

 私たちは親しくなかった。

 親愛なる、という言葉には虚偽がある。

 しかし、「サルトル氏」と書けば、もっと大きな虚偽になる。

 私は彼の本を読み、彼に反対し、彼の時代を終わらせることに加担した。

 他人とは言えない。

 私は結局、宛名を書かずに始めた。

 あなたは、人間は自由であると言った。

 私は、人間は自分でも知らない構造によって動かされていると言った。

 あなたは、歴史の中で人間が自分自身を作ると言った。

 私は、歴史とは西洋が自分自身に与えた神話の一つにすぎないと言った。

 あなたは、選択には責任が伴うと言った。

 私は、選択以前に、文化と言語と制度が選択肢を作っていると考えた。

 私は今でも、自分の方が正しかったと思っている。

 少なくとも、学問としては。

 だが、ある人間が正しく、別の人間が偉大であるということはあり得る。

 正しさと偉大さは、同じ尺度では測れない。

 あなたの人間は、あまりに大きかった。

 世界の中心に立ち、自分の選択によって意味を作り、歴史の責任を引き受ける。

 その人間像は、西洋的であり、男性的であり、英雄的でありすぎた。

 その影には、多くの人々が隠されていた。

 私たちはその像を壊した。

 フーコーは人間の歴史的な誕生を示した。

 デリダは主体の声の中に、消すことのできない他者の痕跡を見つけた。

 ドゥルーズとガタリは、一つの自我の代わりに、欲望と接続と生成を置いた。

 私も、人間の意識の背後に構造を置いた。

 私たちは、あなたの巨大な人間像を、細かく分解した。

 その仕事は必要だった。

 悔いてはいない。

 しかし、分解した部品を前にして、時折思う。

 これらを、もう一度人間と呼ぶことはできないのだろうか。

 あなたが死んだ後、フーコーが死んだ。

 ガタリが死んだ。

 ドゥルーズが死んだ。

 デリダが死んだ。

 彼らは皆、あなたの後に来た。

 あなたを乗り越えた世代だった。

 だが、死者の国では、先に来た者も後に来た者もないだろう。

 今頃あなたたちは、同じカフェにいるのかもしれない。

 もっとも、死後の世界にカフェがあるという考えは、あまりにパリ的だ。

 あなたは例によって大声で話し、フーコーは話題の前提を疑い、デリダはあなたの使った一語に長い注釈を加え、ドゥルーズとガタリはテーブルそのものを別の何かへ接続しようとしている。

 私は少し離れた場所から、その様子を見ている。

 生前と同じように。

 そして、生前と同じように、近づくことができない。

 だが間もなく、私もそちらへ行く。

 その時、あなたは私に尋ねるだろうか。

 結局、君は何を見つけたのか、と。

 私は答えることができるだろうか。

 私は、人間の社会には、人間が意識しない構造があることを示した。

 神話の背後には変換があり、婚姻の背後には交換があり、料理の背後には分類があることを示した。

 しかし、なぜ人間が死者を悼むのかについて、私は十分な構造を見つけられなかった。

 弔いには交換がある。

 生者は言葉を捧げ、死者から記憶を受け取る。

 弔いには変換がある。

 一人の人間が物語に変わり、声が文章に変わり、時間が意味に変わる。

 それでも、弔いは構造だけでは説明できない。

 なぜ、ある死者の名を呼ぶと胸が痛むのか。

 なぜ、自分が否定した思想を、失った後で懐かしく思うのか。

 なぜ、終わらせる必要があった時代を、もう一度見たいと思うのか。

 私には分からない。

 分からない、と書くために、私は百年生きたのかもしれない。

十一

 夜が明け始めている。

 窓の外で、清掃車の音がする。

 パリは、思想家たちが何を考え、何を終わらせたかに関係なく、毎朝街路を洗う。

 カフェは椅子を並べ、地下鉄は人間を運び、学校では新しい学生が、死者たちの本を読む。

 彼らはサルトルを古いと思うだろう。

 レヴィ=ストロースも、フーコーも、デリダも古いと思うだろう。

 それでよい。

 思想が保存されるためには、崇拝される必要はない。

 読み違えられ、批判され、別の問題に利用されればよい。

 正しく保存された思想は、博物館の標本に似ている。

 壊れやすいので触れてはならず、元の文脈から動かしてはならない。

 だが本当に生きている思想は、誤解されることを恐れない。

 私がサルトルを誤解し、デリダが私を誤解したように。

 誤解もまた、継承の一つである。

 机の上に、若い学生から届いた手紙がある。

 名前は知らない。

 彼は、人間が構造と制度と言語によって作られるものなら、誰が責任を負うのか、と尋ねている。

 私はまだ返事を書いていない。

 その問いは、私たちが半世紀かけて退けた場所から戻ってきた。

 自由。

 責任。

 人間。

 古い言葉である。

 だが、古い言葉が必ずしも死んだ言葉とは限らない。

 人類は、同じ問いに何度も別の答えを与える。

 神話がそうであるように。

 一つの神話が別の神話へ変換されても、解こうとしている矛盾は残る。

 生と死。

 個人と社会。

 自由と必然。

 自己と他者。

 私たちの思想もまた、巨大な神話の変形だったのかもしれない。

 サルトルは人間の自由という神話を語った。

 私は構造という神話を語った。

 フーコーは権力と知の神話を語った。

 デリダは、神話が自分自身を閉じることのできない理由を語った。

 どれが真理だったのか。

 その問いには、もうあまり関心がない。

 重要なのは、どの神話も一時、人間が世界の矛盾に耐えることを助けたということである。

 私は原稿の最初へ戻り、題名を書いた。

 最後の哲学者のための弔辞。

 書いてから、少し考えた。

 サルトルは、本当に最後の哲学者だったのだろうか。

 あるいは私は、自分たちの時代を始めるために、彼を最後の哲学者にしたのではないか。

 哲学は終わったのではなく、私たちが終わったことにしたのではないか。

 神を解体し、人間を解体し、主体を解体し、真理を解体し、最後に哲学そのものを解体した。

 それは哲学の敗北だったのか。

 いや。

 自分自身を疑うことを最後までやめなかったという意味で、それは哲学の最も完全な勝利だったのかもしれない。

 だが、完全な勝利は、ときに勝者をも消滅させる。

 哲学は、自分の仕事を完遂することで、自分の居場所を失った。

 そして今、私はその消滅について考えている。

 哲学の終わりについて考えることを、哲学以外の何と呼べばよいのだろう。

 私は弔辞を書いているつもりだった。

 しかし読み返してみれば、これは弔辞ではない。

 告解でもない。

 弁明でもない。

 まして勝利者の回想ではない。

 これは、返事である。

 あの雨の日、薬局の軒下で、若い女が私に尋ねた。

 先生は、あの人に勝ったのでしょう。

 三十年近く経って、私はようやく答えることができる。

 いいえ。

 私たちは誰も勝たなかった。

 サルトルも、私も、彼の後に来た者たちも。

 私たちはただ、同じ問いを、それぞれの時代の言葉へ移し替えた。

 そして一人ずつ、その問いを次の者に手渡して死んでいった。

 窓の外が明るくなった。

 私は日本の木箱の蓋を開けた。

 中には何も入っていなかった。

 空であることが、この箱の用途なのかもしれないと思った。

 何かを入れるための空白。

 まだ来ていないものの場所。

 私は学生への返事を書くため、新しい紙を取り出した。

 最初の一行を書く前に、もう一度、死者の名を思った。

 サルトル。

 フーコー。

 ガタリ。

 ドゥルーズ。

 デリダ。

 名を呼ぶたびに、終わったはずの時代が、ほんの一瞬だけ息をした。

 哲学は、死者の名を呼ぶたびに、また始まってしまう。

 それが哲学の欠点なのか、救いなのか、私には最後まで分からなかった。

2026年6月21日日曜日

精神医学の性格論

 

精神医学の性格論

 

・精神医学と性格

 「性格」は精神医療で大問題です。

 精神医学でも科学全般でも本当は大問題のはずです。

 しかし扱いにくいです。

 扱いにくいので精神医学では性格を極めて限定的に扱っています。

 現代の診断基準ではパーソナリティ障害という項目でまとまっています。

 世界の診断基準WHOICD10では性格その他の生来的特徴をまとめた大項目の中の主要な小項目、アメリカの診断基準DSMTRTRは改訂版)では割り切って性格の問題をパーソナリティ障害という大項目にしています。

 結果としてパラフィリアなどの嗜好の問題や性(セックスやジェンダー)の問題はICD10では一つの大項目にしていますがDSMTRではそれぞれ別の大項目になっています。

 人間が正徳的に持っていたり環境によって形成される性格、性質、気質、英語ではパーソナリティやキャラクター(日本でもキャラは性格の意味で使われるが英語とちょっと意味が変わる)やネイチャーなどひっくるめたものは臨床精神医療でも医学でも大問題のはずですが科学的にスマートでジャストフィットな定式化ができないため遠ざけられる傾向にあります。

 この手段がないから大切でも扱わないというのは現代的に誠実(科学的でもどんな意味でも)である場合陥りやすい盲点かもしれません。

 精神科の主要な症状である抑うつとか不安は玄以やきっかけがあるないはともかくエピソーディックに生じる場合がありますが、生まれつき、あるいは成育環境によって性格の一部になっている場合があります。

 そういうのは現代の精神医学では扱いませんし、精神医学に限らず科学が浸透した世の中では扱いにくく、扱われるのはメディアやネットや公的でない部分で扱われる感じでしょう。

 実証、あるいは検証できないものは扱わないという姿勢です。

 数理的なエビデンス、統計学か論理学かどっちも扱えないとあかんという時代風潮が近代以降は波はあっても通底してあるのでしょう。

 また精神科で扱う場合は病的、あるいは障害的(障害構造論で自分が困るか周りが困るか)なものの扱いに限る傾向が強くなっています。

 病前性格や精神疾患罹患後の性格変化、病気が盛んな時の性格的特徴などは昔の精神医学に比べて全然扱いません。

 あまりに扱わなさ過ぎて精神科医の心理離れが進んでいるようです。

 現代精神医学の性格論で歴史的、現代的に大切なものを3つ紹介します。

 精神科の性格論ですから病的?というか異常?な性格に焦点を当てているので病的でも異常でもない人間一般の性格論ではないのはご注意ください。

 現代精神医学の源流はドイツのミュンヘン学派のクレペリンにあります。

 もう一つの巨頭はハイデルベルグ学派でクレペリンもそこの元教授ですがミュンヘン大学に移ってから別の方法論で精神科の疾患分類を作り現代精神医学の父と呼ばれています。

 ハイデルベルグ大学もミュンヘン大学も今でもドイツのトップ大学です。

 当時はゲッティンゲン大学もすごかったのですが今はややドイツでは地盤沈下しています。

 現代の世界やアメリカの診断基準はクレペリンの方法論を継承しています。

 ハイデルベルグ学派はクレッチマーやヤスパースや(クルト・)シュナイダーなどこれも現代精神医学の分類学とは違う意味での母体ですがクレペリンが診断学で画期的であるのに対してハイデルベルグ学派は精神病理学で名高いです。

 クレペリンの方法はカールバウムやヘッカーの方法を引き継いで客観的、記述的な方法で疾患分類する方法です。

 ハイデルベルグ学派の精神病理学の方法は説明と了解で代表される患者さんの内面を理解する主観的なアプローチでこちらはだいぶ廃れてしまいました。

 クレペリンの方法で1980年代にアメリカの診断基準DSM-Ⅲが今の診断基準の元です。

 クレペリンの方法は主観的なのを排して科学的、統計的である診断基準であること、すなわち主観を排して客観的に観察される患者さんの症候の観察だけで精神疾患を分類、診断するシステムです。

 DSM-Ⅲまでは英米の精神医学はひたすら精神分析で主観的な診療を行っていましたがクレペリンの科学的な方法を取り入れたためネオ・クレペリニズムと言われることがあります。

 性格は主観的なものを完全に排して分類するのは難しい所があります。

DSM-Ⅲはカテゴリー分類でいくつかの性格類型を作ってパーソナリー障害をそれに当てはまるかどうかで分類するという方法で行われました。

これは精神分析学の影響もあります。

パーソナリティー障害で20世紀後半に精神医療全体で大きな問題となった境界例(初期は精神病圏と神経症圏の境界で精神病圏より、今でいうとARMSとか統合失調症の前駆期、病前期から病初期、寡症状性統合失調症とか、その後神経症圏と精神病圏の境界の病態とパーソナリティ)の研究に精神分析家が大きな貢献を果たしたことにもよっていると思われます。

DSM5までは中途半端なものにとどまっていましたがおそらくアメリカのDSMではなく世界のWHOICD-11では中途半端なカテゴリー分類ではなくディメンション分類という症候と記述的・操作的な診断基準で記述しカテゴリー診断をやめるとの話ですが境界性パーソナリティー障害(BPD)だけはそれを確立した精神分析家のカーンバーグを敬意を表してかどうかは分かりませんがBPDだけ残っているらしいです。

性格論と言っても障害構造論で問題になる性格類型の分類で異常というか病理的な性格論が主なものです。

正常というか生理的なあらゆる人間の性格を扱ったものではないことには注意が必要です。

 

 

・クレッチマーの気質論

 クレッチマーはハイデルベルグ学派の重鎮です。

 クレペリンの客観的、科学的、統計的障害分類では性格は扱いにくいと思われますがハイデルベルグ学派は患者さんの内面的を恣意的に研究するスタイルなので性格論と相性が良かったのか性格分類を行っています。

 クレッチマーもドイツ精神医学の大物で彼の提唱した多元精神医学の考え方はDSMの改革時に多軸診断として取り入れられましたがDSM5ではなくなってしまいました。

 ただパーソナリティー障害においてはディメンション分類として取り入れられるのではないかとずっと噂されていますしコンピューターサイエンスやデータサイエンスとは多次元分類(もはや分類ではないかもしれないが)は相性がいい面もあるかもしれません。

 クレッチマーの性格論は生物学の三胚葉論とつながりがあります。

 人によって発生学的か遺伝的か環境的か分かりませんが外胚葉優位な人と内胚葉優位な人と中胚葉優位な人がいると考えてそれが体系や性格に影響すると考えます。

 そして外胚葉気質の人が統合失調症と親和性があり統合失調症に発症しやすくそのような病前性格をしている、内胚葉気質が躁うつ病と親和性があり躁うつ病を発症しやすくそのような病前性格をしている、中胚葉気質はてんかんと親和性があり転換を発症しやすくそのような病前性格をしている、みたいに考えます。

 当時も今も科学的な根拠はないので仮説です。

 根拠がないというかどちらかといえば否定されているようです。

 でもなかなか面白いので紹介します。

 ちなみにクレッチマーは古典的ヒステリーにおける狸寝入り仮説というのも唱えています。

 発想力が豊かだったのかもしれません。

 下記に図などでまとめましたが外胚葉気質が分裂気質、内胚葉気質が循環気質/躁鬱気質、中胚葉気質が粘着気質/てんかん気質と考えます。

 昔は精神分裂病(今の統合失調症)、躁うつ病(今の双極症とうつ病)、てんかんは三大精神病と言われていました。

 現在は内因性精神病はこのなかでは統合失調症だけでうつ病や躁うつ病は気分障害として精神病とは呼ばないようになってきました。

 てんかんは20世紀前半に脳波が発見されたのが景気で現在はそもそも精神疾患の分類ではなくなってしまいます。

 気分障害にしても躁うつ病とうつ病よりは統合失調症と躁うつ病の方が近いとされています。

 ドイツの精神医学者エルンスト・クレッチマー(Ernst Kretschmer)が提唱した性格の3類型は、「分裂気質」「循環気質(躁鬱気質)」「粘着気質(てんかん気質)」です。

クレッチマーは「体型と性格には密接な関係がある」と考え、人間の体型を3つに分類し、それぞれに対応する性格(気質)を導き出しました。

クレッチマーの3類型一覧

体型の特徴

対応する気質

性格の主な特徴

細長型
(痩せ型・筋肉が少ない)

分裂気質
(シゾイド)

非社交的、静か、繊細、冷淡、知性的、自分の世界に閉じこもりやすい

肥満型
(ふくよか・脂肪が多い)

循環気質 / 躁鬱気質
(サイクロイド)

社交的、気さく、親しみやすい、感情の起伏(陽気と陰気)が激しい

闘士型
(筋肉質・骨太)

粘着気質 / てんかん気質
(イクソチム)

几帳面、頑固、熱中しやすい、礼儀正しいが融通が利きにくい

補足

  • 4つ目の体型:上記の3つに当てはまらない、身体のバランスが極端に悪い体型を「発育不全型(異形成型)」として分類しています。
  • 現代の評価:現在の心理学では「体型だけで性格が決まるわけではない」とされていますが、性格と統計を結びつけた先駆的な研究として広く知られています。

 

 

・シュナイダーの精神病質

 クルト・シュナイダー(カール・シュナイダーという別の精神医学者もいる)も精神医学会の大物です。

 アメリカの精神科医学の転換点であるDSM-Ⅲはシュナイダーの臨床精神病理学にそっくりです。

 知的障害以外の発達障害などは入って言いませんが逆に言えばそれくらいしか違いません。

 ハイデルベルグ学派ですがクレペリンも踏まえています。

 シュナイダーはその後のパーソナリティ障害の元みたいなのを作っています。

 多分試行的な感じだったのかもしれませんがきりよく10の精神科親和的な性格を提案しています。

 現在のパーソナリティ累計とはかなり違うのがおもしろい所です。

 時代が違うと問題となる性格もどういう過去にはどういう性格が多かった少なかった、現在は過去と比べてどういう性格が減ってどういう性格が増えたかという見方ができると思われ時代によって人々の性格も変わっていく可能性を考えさせられます。

 シュナイダーが提案した精神病質は現在では別の大分類に含まれている場合があります。

 例えば抑うつ型は気分障害の気分変調症っぽいものかもしれませんし、爆発型は秩序破壊的・衝動制御・素行症群になるかもしれません。

ドイツの精神医学者クルト・シュナイダー(Kurt Schneider)が提唱した「精神病質(サイコパシー)」は、その偏った性格によって本人や社会が苦悩する10の類型に分類されます。

シュナイダーの精神病質10類型は以下の通りです。

  1. 抑うつ型(抑鬱者):常に悲観的で、陰鬱な気分にとらわれやすい。
  2. 発揚型(発揚者):いつも元気で活動的。自信過剰で興奮しやすい一面もある。
  3. 自己不確実型(自信過小者):自分に自信が持てず、常に他人の評価を気にしたり思い悩んだりする。
  4. 狂信型(熱狂者):強固な信念や理想を持ち、それを頑なに追求する。
  5. 自己顕示型(自己顕示欲者):周囲の注目を集めることを好み、自分を実際より大きく見せようとする。
  6. 爆発型(爆発者):些細な刺激やフラストレーションで激しい怒りや暴力を爆発させる。
  7. 気分易変型(情緒易変者):気分がコロコロと変わりやすく、感情の起伏が激しい。
  8. 意志欠如型(意志薄弱者):持久力や決断力に欠け、周囲の誘惑や環境に流されやすい。
  9. 惰性欠如型(人間性欠落者):情愛や共感性、良心の呵責が欠如しており、冷酷で無責任な行動をとる。
  10. 無力型(無気力者):エネルギーに乏しく、主体的な行動や努力が極めて苦手。

なお、シュナイダー自身は、これら精神病質は医学的な病気ではなく、あくまで「正常な人格の変異(極端なバリエーション)」に過ぎないとしています。

 

 

DSMのパーソナリティ障害

 

 いろいろ問題はありますが現在は日本ではICD-10DSM5TMを使っています。

DSM5では多軸診断システムというものをなくしたのが新しい一つの特徴になっています。

昔はパーソナリティ障害や知的障害は二軸の疾患修飾因子というか疾患の土台にあるものとして扱われてはいましたが一軸目の統合失調症や躁うつ病のように精神科の主役ではないように見える扱いをされていました。

軸をなくした代わりにそれまでよりかなり自由な疾患併存を認めています。

相互背反ではなくいろいろな病名を重ねてつけることが容易になりました。

 ICD-10DSMTRはほぼ共通していますが違いもあります。

 違いとしては統合失調症型パーソナリティはDSM5TRではパーソナリティ障害にも載っていますが精神病スペクトラム障害にも載っています。

 このパーソナリティ障害があると統合失調症の発症率が高いというのが示されているからです。

 DSMの反社会性PD(アンチソーシャル)とICDの非社会性(ディソーシャル)は対応するように見えてだいぶ中身が違います。

 反社会性PDDSMでは秩序破壊的・衝動制御・素行症群の大項目にも含まれています。

 DSMはパーソナリティ障害のクラスター分けをしていますがICDではそのようなクラスター分けはしていません。

 ICDではパーソナリティ障害は成人のパーソナリティおよび行動の障害という大項目の解分類で他に混合性及び他のパーソナリティ障害や持続的パーソナリティ変化、脳損傷及び脳変化によらないもの、習慣及び衝動の障害、性同一性障害、姓嗜好障害、姓の発達と方向付けに関連した心理及び行動の障害と性格というか性質みたいなものを広くカバーしています。

 ICD10は大項目が10しかないのに対してDSM5TRでは大項目が20くらいあるのでICD10でパーソナリティ及び行動の障害の下位項目とされているものはDSMTRでは単独の大項目になっているか、何かに吸収されているか、そもそもなくなっていたりします。

 逆に言えばICDで性格や性質、個性や特性としてまとめられているようなものはDSMTRではバラバラになっています。

 また司法・警察やジェンダー、性欲などの問題は扱いが慎重になっています。

 人生の大きな精神的な負荷やショックにより性格が変わってしまうのはDSMでは直接扱われていませんがICD1110の次のバージョンでは複雑性PTSDという新しい診断が採用されてこれから研究されていくでしょう。

 ICDの次のバージョンはパーソナリティ障害の診断体系そのものが変わっています。

 DSM5TRではそこまでは生きませんが、ディメンション診断が研究課題とされています。

DSM-5-TRICD-10最新版はICD-11)のパーソナリティ障害(パーソナリティ症)は、10のタイプに分ける基本構造はほぼ共通」ですが、「グループ分け(クラスター分類)の有無」「名称・カテゴリの細かな違い」があります

具体的な分類と対応は以下の通りです。

1. DSM-5-TRの分類(10種類・3群)

DSM-5-TRでは、10種類のパーソナリティ障害を特徴別に3つの群(クラスター)に分けて整理しています。

  • A群(奇妙で風変わりなグループ)
    • 妄想性パーソナリティ障害
    • スキゾイドパーソナリティ障害
    • 統合失調型パーソナリティ障害
  • B群(感情が不安定で衝動的なグループ)
    • 境界性パーソナリティ障害(BPD
    • 演技性パーソナリティ障害
    • 反社会性パーソナリティ障害
    • 自己愛性パーソナリティ障害
  • C群(不安と恐怖心が強いグループ)
    • 回避性パーソナリティ障害
    • 依存性パーソナリティ障害
    • 強迫性パーソナリティ障害

2. ICD-10の分類(特定のパーソナリティ障害)

ICD-10ではABC群のようなグループ分けはせず、「特定のパーソナリティ障害(F60)」として以下のようにリストアップされています。DSMと名称や分類が少し異なります。

  • 妄想性パーソナリティ障害
  • 分裂病質パーソナリティ障害(DSMのスキゾイドに相当)
  • 情緒不安定性パーソナリティ障害DSMの境界性に相当する「境界型」などを含む)
    • ※ICD-10では「境界性」という独立した項目はなく、情緒不安定性の中に含まれます。
  • 非社会性パーソナリティ障害DSMの反社会性に相当)
  • 演技性パーソナリティ障害
  • 強迫性パーソナリティ障害
  • 不安性(回避性)パーソナリティ障害DSMの回避性に相当)
  • 依存性パーソナリティ障害

3. その他の大きな違い

  • カテゴリカル分類から次元モデルへ: 現在の最新版であるICD-11では、これまでの細かいタイプ分けを廃止し、パーソナリティの偏りの「重症度」と「特定の領域の特性(次元的アプローチ)」で評価する新しいシステムへと大きく移行しています。
  • 診断基準の数: DSM-5-TRは「○○の項目のうち個を満たす」というように診断基準が非常に細かく数値化されているのに対し、ICD-10は文章による全体的な特徴の記述を重視する傾向があります。

 

・新しいパーソナリティ障害、精神科の病理的性格論の時代

 現在はICD-11という世界診断基準ができていますが日本では翻訳がちょっと関西弁で言えばわやなほどに遅れてしまって変な状態になっています。

 翻訳してそれを使いやすくした単行本サイズの手引きやガイドができてようやく現場に普及するのですがちょっとICD10を使うべきかDSMTRを使うべきかICD11を使うべきか現場が混在状態になっています。

 例えば日本の精神科の学会で病名?に障害という言葉を使わず症という言葉を使いましょうということになっているのですがICD10はが国家の公式な診断基準なので障害を使うか、学会の方針やDSMTRの翻訳で使われている症を使うかで混乱状態です。

 病名だけならいいのですが疾患概念や診断基準や分類ごと違う場合があるのでそれを使っていいのかどうかやや混乱状態が随所にあるようです。

 DSMでもディメンション型のパーソナリティ障害の診断基準を作るという話はあったのですがDSM5では一旦お流れになって流れている間にISDが先んじてパーソナリティ障害の診断基準を変えてしまいました。

 DSMICDは統一化を図る方向になっていたはずなのでDSM6ではICDに準じてパーソナリティ障害のディメンション診断が導入される可能性が高いです。

 「分類」という言葉はカテゴリーやカテゴライズで使われやすいと思われます。

 ディメンションで扱うのは大きな情報を扱うので取り回しが大変かもしれませんが情報科学やコンピュータやAIが発展している昨今にはこちらの方が向いているかもしれません。

 そもそも性格が科学的に扱いにくいのはカテゴリーでは扱いにくいからです。

 全ての人間がいくつかの性格に当てはまるのならカテゴリーでもいいのでしょうが、人間は多分多様な要素を持っていて単純な類型化は不可能なのでしょう。

 不可能だけども問題はあるので何とか医学や社会が対処しようと思ってむりかし10くらいのパーソナリティの類型をつくってつかっていたのですが(その他とか特定されないパーソナリティ障害は除く)流石に限界という感じです。

ICD-11におけるパーソナリティ障害(パーソナリティ症)の診断基準は、これまでの歴史のなかで最も劇的といえるほど「だいぶ変わって」います。

一言でいうと、従来の「タイプに当てはめる分類(カテゴリカル・モデル)」を完全に廃止し、「全体の重症度と、個人の性格特性の組み合わせ(ディメンショナル・モデル)」へと180度方針転換されました。

具体的な変更のポイントは以下の3つに整理できます。

1. 従来の「〇〇型」という下位分類がほぼ消滅

ICD-10やアメリカのDSM-5で馴染み深かった、以下の10種類におよぶ個別の診断名(下位分類)が、「パーソナリティ症」という1つの診断名に一本化されました。

  • 消滅した主な分類:自己愛性、反社会性(非社会性)、回避性、依存性、強迫性、演技性など
  • 唯一の例外:臨床現場でのニーズが非常に高い「境界性パターン(Borderline pattern)」だけは、補足的な指定子(特徴の記述)として例外的に残されました。

2. まず「重症度」から評価する仕組みに

新しい基準では、個別のタイプを見る前に、まず「本人や周囲がどれだけ困っているか、生活にどれだけ支障が出ているか」という全体の重症度を以下の4段階に分類します。

  • パーソナリティの困難(Personality Difficulty:病気(障害)とは診断されないが、日常生活で特定の性格傾向による生きづらさがあるレベル
  • 軽度(Mild:いくつかの領域で支障はあるが、社会的役割は概ね維持できている
  • 中等度(Moderate:多くの領域で人間関係や仕事に明確な支障が出ている
  • 重度(Severe:ほぼすべての領域で機能不全に陥り、自身や他者に深刻な危害が及ぶリスクがある

3. 性格の傾向を「5つの特性」で記述

重症度を決めたあと、その人の生きづらさが「どのような性格の偏りから来ているか」を、心理学のビッグファイブ(5大性格特性)に近い5つの特性領域(ドメイン)から当てはまるものを複数選んで記述します。

特性領域(ドメイン)

具体的な特徴

否定的感情(Negative Affectivity

不安、怒り、不信感、自己嫌悪などのネガティブな感情を抱きやすい

離脱(Detachment

他人との距離を置き、親密な関係を避け、感情の表出が乏しい

非社会性(Dissociality

他者への共感や配慮に欠け、自己中心的で、他者を利用・攻撃しやすい

脱抑制(Disinhibition

衝動的に行動してしまい、計画性がなく、目先の欲求を我慢できない

アナンカスティア(Anankastia

完璧主義、ルールへの執着、過度なコントロール(強迫性に近い)

なぜここまで大きく変えたのか?

従来のやり方では「複数のタイプにまたがって診断されてしまう(例:境界性であり、かつ回避性でもある)」という重複や、「どれにもぴったり当てはまらない」という問題が多く発生していました。ICD-11の新しい基準は、「グラデーション(度合い)で捉えるほうが、一人ひとりの実際の状態に合わせた柔軟な支援や治療がしやすい」という臨床的なメリットから導入されています。

 

2026年6月18日木曜日

5月病と6月病と夏バテ(7月病も)―外部環境と心身反応の夏版(旧暦)―

 5月病と6月病と夏バテ(7月病も)外部環境と心身反応の夏版(旧暦)

 

・季節、気象、年齢、時代、などのメンタルへの影響

 いろんな外部要因が心身の影響に関係します。

 例えば季節によって罹患したり増悪したりしやすかったりしにくかったりする健康上の問題があります。

 冬に風邪をひきやすいとか冬場に炎症性サイトカインが季節性に高まるので症状が悪化しやすいとかそういうのもありますし季節で症状が変化すると明確に知られている病気もあります。

 そういうのとは別に東洋医学的に見れば季節で健康状態が良くも変わるのは当たり前ですし、臨床の経験を積んでくると医学教育では習わなくても季節ごとに外来診療の様子が変わるのが分かってきます。

 季節で健康状態が変わるのは中医学や漢方では常識です。

 中国の医学書黄帝大経(正確には素問、霊枢などの書を後世が編纂しなおしたもの)では例えば夏は遅く寝て早く起きるのが次の季節の秋に向かって体にいいんだ見たいなことを書いています。

 本当にそうなのかは分かりませんが夏に睡眠が浅く短くなるのはよく見られます。

 ニューヨークの精神科救急は夏が一番多いのですがこれも眠りの浅さで説明されていたのを見たことがあります。

 ニューヨークは昔は暴動が多かったのですがこれも夏が多いと言われていました。

 昔はWHOが7時間半から8時間の睡眠が健康によくそれ以上寝ると健康に悪いとか言っていましたが、これらの土台の調査、研究は寝たきりのご老人や重病で寝たきりの人を混ぜ込んでいたようで現在は長く寝ると健康に悪いという根拠が科学的に弱くなってしまいました。

 むしろ大谷選手みたいに12時間以上寝てもいいかもしれません。

 何時間寝たらいいのかなどは大人数を被験者とした大規模研究が必要なので当面は結論が出ないでしょう。

 というかそういうテーマの研究に研究費は出ない時代かもしれません。

 いろいろな基礎研究では今のところたくさん寝た方がよさそうです

 というか現代人は睡眠時間が短すぎなような気もしますのでもっと睡眠時間を取った方がいい気がします。

 天気が心身に与える影響が注目されています。

 例えば雨の前日から当日の頭痛、倦怠感、眠気などは気象病、天気痛、その他いろいろ呼ばれるようになりました。

 昔から漢方の五苓散という薬が何かの頭痛にきくことは分かっていたのですが1999年にそれが低気圧性頭痛であるというのが分かって梅雨時などにはよく処方されます。

 気圧の障害なので多分高山病の軽いものです。

高山病の主な病態は多分脈管内脱水と脈管外浮腫になります。

 漢方では6月を長夏として一つの独立した季節とする見解もあります。

 6月あたりを初期の夏バテ、7月あたりを中期の夏バテ、8月あたりを晩夏の夏バテということもあります。

 人間は環境圧が低いのに弱くて高いのを好む傾向があります。

 素潜りなら深海100mいかにもぐれたりします。

 これは11気圧くらいですがそこまで圧がかからなくてもプールの素潜りを心地よく感じたり風呂が気持ちいいのは温度だけでなく水圧もあります。

 マッサージや指圧もそうですが推されると気持ちいいのかもしれません。

 気象病も面白いことに年齢依存性があります。

 若年の20代前半などはすくなく、50代くらいから弱まっていく傾向があって30代から40代の壮年期に多い感じです。

 また運動していたり体を鍛えていたりした人には少ない傾向があります。

 それにPMSなどと重なると悪化するなどの理由で女性の方が多い傾向があるようです。

 月経前に濃度が上がるエストロゲンやプロゲステロンなどのステロイドホルモンは糖質コルチコイドや鉱質コルチコイドなどの別の体に水をためるステロイドホルモンの活性があるのでそれがダブルパンチで来るのかもしれません。

 時代も病気や疫学に影響します。

 特に旧暦の初夏から初秋くらいまでの心身の変化を概観しています

 これは病気というものが時代によって変わる一例にもなります。

 

 5月病

「五月病」という言葉は、1960年代後半の高度経済成長期に誕生しました。

 某心理学者が自分が名付けたと主張しておられました。

受験戦争を勝ち抜いて難関大学に入学した学生たちが、激しい目標達成後の「燃えつき」や新しい環境への適応不全から、5月頃に無気力になった現象が由来とされています。

昔は東大一直線(小林よしのり)などの作品から見るように受験が激しく受験戦争と言われました。

三島由紀夫や受験勉強や試験のことを一生夢に見たようです。

この言葉の歴史や経緯の詳細は以下の通りです。

言葉のルーツと発祥1960年代後半の誕生: 高度経済成長期、過熱する受験戦争を潜り抜け、超難関大学に入学した学生の一部が、5月頃から無気力になり学校に来なくなる現象が注目されました。

その後、1968年にメディアで取り上げられるようになり、この年の流行語として広く認知されました。

経緯と背景の変化元々は主に「大学生の適応不全」を指していましたが、時代とともにその対象やニュアンスが変化しました。

サラリーマンへの拡大: 大学生だけでなく、新入社員など社会人にも見られるようになり、環境変化によるストレスへの適応不全として広く使われるようになりました。

医学的な位置づけ: あくまで一般名であり、正式な病名ではありません。

現代の医学・心療内科においては、同様の症状は「適応障害」や「うつ病」と診断されるのが一般的です。

 時代を二重写しすると1960年代後半から1970年代には世界的な規模の学生運動(スチューデントパワー)などがありました。

 笠原嘉先生の名著精神科ノートでは第一章がスチューデントアパシーで学生紛争から話が始まります。

 ステューデントアパシーというのは1960年代から言われましたがそれ以前からそういう学生はちらほらいたようです。

 強迫的心性が関係していると述べられていますが当時は強迫性障害(強迫神経症)と強迫性パーソナリティ障害(完璧主義者)は同じスペクトラムでとらえられていてそういう人に多かったとあります。

 ついでに言うとこのパーソナリティは日独で言われたメランコリー親和型性格や下田の執着基質とも重なっています。

戦後の左翼運動は一部で成功して特にヨーロッパではフランスなど1968年革命がある程度は成功していますし北欧諸国も例えばフィンランドのようにこの時期から社会運動家の政治参画が強くなりました。

失敗か成功か分かりませんが一部は爆弾闘争とか銃乱射とかイタリアの鉛の時代みたいな暗殺事件の繰り返しやヒッピーやビート文化やサイケリックムーブメントなどにつながっています。

1970年代からはソ連のプラハの春やらアフガン侵攻で革命運動が後退し反差別やウーマンリブや環境主義のような社会運動にシフトしました。

でもどういう転機をたどったにせよ全体としての大衆活動としては1970年代ごろそれらが沈静化していきました。

スチューデントアパシーとかモラトリアム(エリクソン、小此木圭吾など)の時代とかしらけ世代という言葉ができたりしました。

 音楽もフォークソングからニューミュージックみたいなのが出て新人類と呼ばれる新しい世代が出て、といった具合に世相が変わっていきます。

 うつ病概念はドイツ、日本の精神医学では病前性格がまじめ、几帳面な人で比較的規則的な生活をしていた人が4050代ごろに何か生活の転帰などをきっかけに発症するもので当時の三環系抗うつ薬や休養などの治療でよくなりやすいものが典型とされていました。

 これらはドイツのテレンバッハのメランコリー親和型気質や下田の執着気質として以前から研究されてきました。

 これは英米圏ではなかった考え方です。

 ドイツ語圏全般というわけではなく特にドイツで言われた考え方です。

 それに先立つ戦前から九州帝国大学の下田光三先生が執着気質という考え方で同じことを述べています。

 ただこの病型もうつ病の一系にすぎません。

 ある時期非常に増えて目立ったということです。

 ただあまりにその印象が強かったのか昔の精神科医ではこれこそが真のうつ病みたいな考え方をする先生方が近年迄いらっしゃいました。

 現在は大体御引退の年齢になっていると思われます。

 日本やドイツのような遅れてきた先進国にキャッチアップしようとしていた後進国では国民全体を秩序親和性、他社配向性に強い国民性にしようとする状況があったのかもしれません。

 1970年代ごろから日本では国民皆保険が始まったので外来精神診療というジャンルが出現しました。

 当時は重症者の入院治療が中心です。

 外来診療と言っても当時は町の精神科診療所というものはまずありませんでした。

 大学病院や単科精神病院、総合病院精神科などです。

 今日のように精神科や心療内科のクリニックが増えたのは21世紀以降です。

 日本人とドイツ人の気質が生んだ文化結合症候群だったのかもしれません。

 真面目で几帳面で他者の承認を求めるタイプは階級社会の英米では小役人気質と言われて低く見られていたのが関係しているのかもしれません。

 この時期以降にこの時代に応じたいろんなうつ病(当時は躁うつ病)の分類が提案されました。

 逃避型うつ病、現代型うつ病、ディスチミア親和型うつ病その他ですし笠原木村の抑うつ分類という有名な分類があります。

 ちなみに(ちなみにとか閑話休題的なのが多くて申し訳ありませんが)精神科の用語と世間一般の用語はずれている場合があります。

 精神病の精神分裂病や気分障害の躁うつ病やうつ病(これらはひとまとめにされる考え方もあった)や神経症は違うものですが一般社会では変な人を19世紀の精神科の概念である変質者と呼ばれていたり神経症も憂うつ(うつ、抑うつ)、時に精神病もノイローゼと呼ばれたりしていました。

 こういうのは5月病とやや重なります。

 因みに当時はうつ病は独立しておらず躁うつ病の一部でした。

 また神経症性抑うつや抑うつ神経症という概念がありました。

 もっと前になるといろいろな分類はありますが精神科分類学の草分けのクレペリンはうつ病を細かくは分類していません。

 クレペリンと並ぶドイツ精神医学会の雄クレッチマーは躁うつ病は内胚葉気質である循環気質と関連あるとしていました。

 これは戦後に提唱されたメランコリー親和型とはだいぶ違う概念です。

 19世紀末から20世紀頭だったので多分現在とは抑うつのありようが多分違います。

 よっぽどひどい精神疾患ではないと精神科にかからずそういう人は病院入院で治療です。

 というか治療薬もないような感じです。

 外来で診療するような患者さんは精神分析が引き受けたので精神分析学が外来患者を診る場所として隆盛した感じです。

 昔は5月になると適応障害やうつ病の患者さんが精神科診療で増加していた時期がありました。

 最近は5月病という言葉自体がやや聞くことが少なくなっているようです。

 多分きっかけは2010年代末からコロナ時期にかけての働き方改革や企業のコンプライアンスの強化などが関係あるかもしれません

 残業規制法規やハラスメント防止法などの法制度整備も行われました。

 同時に障害雇用などの障害就労サービスも拡充しています。

 コロナのリモートワークも関係しているでしょう。

 2010年代までは社畜とかブラック企業とか言う言葉を聞きましたが最近は聞かなくなってきました。

 5月病という言葉も減ってきました。

 2020年近くには全業ができないので会社に隠れて仕事しているような広告マンなどの忙しい仕事の人々が散見されました。

 働き方改革は数派に及び研修医が残業できなくなり上級医が忙しくなって勤務医の士気低下や研修医の訓練機会の減少などによる将来の医療の質の低下が懸念されています。

 医療経済学のトリレンマで医療の質と医療アクセスと医療費は鼎立しないというものがありますが医学部を増加させて医師増加をはかりましたが地方の医師不足が解消しなかったため財務省は医療の質とアクセスを下げて国の医療費削減に現在動いているそうです。

 アメリカのオバマケアはあるものの公的医療保険制度がない状況やイギリスのサッチャーの新自由主義の改革でアメリカの医療格差は広がり平均寿命の低下がみられ、イギリスは医療アクセスが低下し(初診や癌の手術が数か月待ち)ロンドン周辺とその他の地域で10年くらい寿命が違うようなので日本もそうなっていくのかもしれません。

 社畜やブラック企業という言葉を聞くことが減ったように五月病という言葉も減ってきました。

 日本は業種や職種によって違いますが年末年始と年度末年度初めが忙しい傾向があります。

 4月は異動や新卒入社などがあり昔は4月にだいぶ負荷がかかったようです。

 GW明けくらいにストレスと精神的負荷にやられて適応障害や精神状態が悪化して医者にかかることが多かったのかと思われます。

 昔は新卒後すぐ転職の考え方が今より薄くてとりあえず3年は頑張れ見たいなのが強かったですのでプレッシャーも強かったのでしょうか。

 2020年前くらいに働き方改革がいろいろ始まって5月病が減っ67月まで我慢してからクリニックを受診する患者さんが増えたという所感をしばしば耳にしました。

 5月は我慢できたが67月くらいでしんどくなって受療が遅延するという理屈で説明されたりしました。

 5月病もそうですが昔の職場うつは症状もきついし後遺症的トラウマもきつかったです。

 2020年より前に発症したような患者さんは今でも社会復帰や会社復帰できていない人がいます。

 人間あまりひどいストレスやトラウマに特に長期間さらされない方がいいのかもしれません。

 昔は苦しみはいいことで苦しみを乗り越えるのが必要だみたいな言説がありましたが現在ではそういうのはケースバイケースであったりやり方や状況やセッティングによるという感じでしょう。

 5月病が減ってみてコロナなどの騒乱も収まってみると5月は意欲が低下する人が見られる感じがあります。

 苦しみは伴わなくても人生とは何かとか生きがいは何かとか自分はどう生きていくべきかみたいなのを考える患者さんが散見されます

 実は日本で一番自殺が多い月は5月がピークです。

 日本社会の組織勤めのしんどさがつらかった時期は職場などのせいかなとも思われていましたがどうもそれだけでもないようです。

 何か実存的な問題を考えやすいのかもしれません。

 苦悶感はそんなに強く出ません。

 こういうのは67月とやや続く傾向はあるようです。

 仕事が忙しい人よりはやや時間がある人に見られる傾向があるようです。

 最近は自殺と非自殺的自傷行為を分ける考え方が出てきています。

 非自殺的自傷行為は最近は減りましたが境界性(情緒不安定性)パーソナリティ障害でよく見られます。

 非自殺的自傷行為はリストカットやらオーバードーズやら電車への飛込みたいなので23月に若い人に多い傾向があったように思いますがこれも最近は減っているようです。

 LCODや飛び込みは死ぬためにやっているというよりは苦しみから逃れたいからやっている、生きるためにやっていると言われたりしました。

 だからBPDの患者さんの自殺率は高くない、という意見もありましたが実際には死んでしまう人もいるので高くなります。

 最近は時代が変わってBPDの減少と症状の軽症化がみられるようです。

 5月には電車の飛び込み自殺で電車が止まるようなことは少なくなると思いますし、救急車の音もあまり聞きませんが自殺が多いということは単身独居高齢者などの自殺もあるかもしれません。

 単身独居老人は孤独死が多くて司法鑑定などで同行させてもらうとそういう症例ばっかりだったりします。

 

 

 

6月病

 20266月から特に患者さんから「6月病」という言葉を聞くことが増えました。

 メディアなどで何か使われているのかもしれません。

 ブラック企業社畜ハラスメント残業関連5月病が減少してきてみるとそれでもやっぱり5月の自殺率はピークのままです。

 ここ数十年は職場うつから自殺する人は私の患者さんでは見かけなかったです。

 ただし精神科医は自分の患者さんの自殺を把握していない場合があります。

 例えば何かの関係で患者さんや関係者(若い人だと家族よりは恋人、パートナーが多い)から連絡があって分かる場合がありますし、異状死(異常ではない、異状は医学や法律の言葉)では警察から問い合わせがあったりしますがそういうことがないと自殺していた都市も分からない場合があります。

 6月病というものがあるのなら一つは5月病との関係で5月以前からの調子の悪さの持続か悪化、梅雨(長夏で五行説では一つの季節と見ることがある、平賀源内の土用丑の日のウナギは超過を季節とする説と夏の終わり18日前の土用の期間をかぶらせたうまい考え方、沖縄では小満芒種ともいう)での低気圧性障害の不調さ、季節代わりの体調、生理、自律機能の変化、東洋医学でいう早期の夏バテ、下記の睡眠の時間や質の低下などが関係するかもしれません。

 さらに東アジアでは呼吸器の状態が悪くなっているようです。

 日本では高度経済成長時代に公害があり、戦後まもなく植えた杉ヒノキで1970年代から花粉症が出現しいまだに悪化しています。

 最初はスギだけだったのがヒノキも出て夏の花粉や秋の花粉など、雑草やイネ科、広葉樹や針葉樹でも時期以外の物などどんどん花粉が増えていっている感じです。

 多分これは日本だけの問題ではなくて東アジアなどのグローバルな問題があります。

 多分韓国の経済成長も中国の経済成長もかかわっています。

 偏西風があるので大陸の環境汚染物質も黄砂もPM2.5も日本に飛んできます。

 日本の海岸に大陸からのプラスチックが流れ着くのと似ています。

 春だけのアレルギーが秋、夏と広がっているのと、最近は夏は喉や咳などが増えています。

 目立ったのはコロナ関連で中国のゼロコロナ政策とその解除で夏の呼吸器症状が顕著に変化したのが目立ちました。

 中国で工場を止めていた時と動き出した時で健康状態が変わったというのでこれは分かりやすかったですが、大陸での経済成長による日本人の呼吸器の健康状態は長年にわたって少しずつ変わってきていたのでしょう。

 若い人には花粉症や夏の咳は当たり前かもしれません。

 かなり高齢者では必ずしも当たり前ではない時代もありました。

 現在は初夏は咳の季節です。

 スギやヒノキの花粉が終わったと思ったら慢性咳嗽が始まるとなるとたまらないですね。

 慢性咳嗽は咳喘息とか感染後咳嗽とかアトピー性咳嗽とか後鼻漏とか逆流性食道炎とかいろいろありますが夏は咳が続きます。

 東京の城南エリアなどだと暑い夏には盛夏に品川大森鎌田羽田川崎などは毎日のように光化学スモック刑法が出るようです。

 内陸の方でも警報が出ることがあるようです。

 九州の方の大学の研究に1日に150個から200個のマイクロプラスチックが入法にたまり全身炎症に関係するというデータがあるようです。

 マイクロプラシチックは動脈硬化のプラークでも見つかっていますし十分小さければ全身を動いているのでしょう。

 

7月病

 いろいろあいまって、5月病、6月病という言葉があるのだから7月病という言葉も作ってしまえみたいなのが一部で見られるようです。

 梅雨が明けたら猛暑です。

 最近は冷夏がなく梅雨が明けると猛暑です。

 空梅雨だとそれが前倒しになります。

 夏至明けで日照量も長いです。

 それらのせいか夏は眠りが悪くなりがちです。

 素問という(黄帝大径としてまとめられている)大昔の中国の所では季節ごとの過ごし方として夏は遅く寝て早く寝れば秋が調子が良くなると書いていますがそれが正しいかどうかは別として夏は睡眠障害―入眠障害、中途覚醒、早朝覚醒、熟眠障害、夢が増えるなど睡眠が浅く短くなります。

 そのせいでニューヨークの精神科救急は夏が一番多い、と説明される場合があります。

 ニューヨークでは昔は暴動がありましたがそれも夏が多かったそうです。

 最近はエアコンや寝具や住居の断熱などが発達したかもしたり、フレックス性やリモートワークやサマータイムなどいろいろ工夫していても7月くらいはそれそうおうにしんどくなります。

 熱中症は暑くなりたてが多いです。

 一番多いのは体感として高齢者の食欲不振の摂食不良からの熱中症が多い感じです。

 しんどいから食思不振になるのか食思不振になるからしんどくなるのかどちらかはわかりません。

 壮年期の労働者はまだ熱中症対策はしていますので救急搬送は地域差などもあるかもしれませんが高齢者に比べて対策はしっかりしていると思います。

 食べないということは脱水になりやすいです。

 人間は年を取るほど体の水分の含有率がすくなくなります。

 また水分代謝も体にせよ腸内にせよ水分を蓄える能力は下がります

 食物に含まれる水分は大切ですし、食物を代謝すると代謝水という水が生じます。

 食べなくても若ければ水分や電解質とればなんとかなりますが高齢者は気づかぬ間に熱中症(病院で検査すると大体脱水を起こしている、まあ具合が悪くて搬送されてきた人は大体そういう傾向がありますが)、特に熱疲労(ヒートクランプ、脱水症)になっています。

 人間は大体喉が渇いたと思ったときはすでに少し脱水傾向になっている傾向があります。

 陸上生物は渇きに強くなければいけないので我慢図良くはなっていますがそういう意味でもこまめな補液をするのがいいでしょう。

 昔と違ってスポーツでも軍隊でもそういう配慮を十全にするようになっているようです。

 高齢になると冬季になくなりやすくなりますが最近は年によっては夏になくなる人の方が増えてきました。

 東洋医学では夏は夏バテの季節で前期の夏バテ、中期の夏バテ、後期の夏バテと分けたりします。

 前期は梅雨時で五苓散など使ったりとか季節の漢方のパターンがあります。

 「バテ」という語感は夏に合う感じで夏は疲れ、不快感、睡眠の不調が出やすいです。

 冬も冬疲れはありませんが冬ばてとは言いません。

 冬はつらくて痛くてまた別のつらさがある季節ですが。

 5月のゴールデンウィーク明けから7月末まで祝日もなく年度が本格的に動き出します。

学校でも会社でも日常をこなしていく時期ですので上半期や前期や一学期が進んで7月くらいにはだいぶ疲れがたまります。