2026年2月1日日曜日

政党の見取り図

政党の見取り図

 

日本の今の政党を大まかに見ていきます。

若い人は「へー、そうだったんだー」となるし、年配者だったら「そういえばそうだったな」という感じになります。

昔のことが今に関係して今が分かるようになります。

ざくっと書きますがちょっと筆が滑って冗長になったらすみません。

 

 

・自由民主党

 

 自民党は、

    日本をマルクス主義、共産主義にしないための政党です。

 ②アメリカと強調するというのもセットです。

 冷戦は要するにアメリカ(と西欧)を守るためのものです。

 ソ連もモスクワを守るために巨大な緩衝地帯として東欧とかいろんな地域を競ってしています。

 西側も緩衝地帯がありますが緩衝地帯の最前線というか防壁、砦、前線要塞がドイツと日本になります。

 日独の国民性も三国同盟も冷戦期の経済発展も全部偶然ではありません。

 地政学なり歴史的な国土の位置なりが関係します。

 冷戦時代の最前線が、韓国ですが韓国は地政学的に戦争になれば一瞬で終わりますし、日本本土も目くそ鼻くそなのでアメリカとしては沖縄を重視します。

 北海道はすぐ占領させるのでアメリカ軍の最前線は青森の三沢基地になります。

 日本をマルクス主義化(マルクスは長いので〇で代用します)化しないのと新アメリカである以外は何でもありです。

 外国からの工作は日本の政治史で大切ですが冷戦時代は、そして今も構図は簡単です。

 対外交策はアメリカが日に影に自民党を支えます。

 ソ連や中国や北朝鮮は日本を〇化したい感じです。

 アメリカとしては①と②以外極端に言えばどうでもいい感じです。

 日本国内でいうと①が大きいです。

 日本は大昔から天皇がおわします国です。

 崎門学や水戸学がそれを学問化しました。

 水戸の会沢せきしんさいという人が「国体」という言葉を編み出しました。

 まあ何であれ天皇が中心かどうかはともかく天皇制を守ることでこれが戦前は前面に、戦後は背景に、そして歴史全体の事実として日本の特徴は万世一系の天皇制の維持です。

 学問化しようがしまいが伝統を続けるということで、ユダヤ教正統派のジュ―ウィッシュマザーが理由を超越してユダヤ教的教育や子育てに熱心なのと一緒です。

 理屈ではありません。

 何千年も続いているものは継承維持継続する、これだけです。

 ですから女性天皇はよくても女系天皇はダメということになります。

 国内的には③天皇を持続し伝統を守る、が大きいです。

 これは大きすぎてもはや無意識レベルです。

 逆に〇は天皇制反対、妥当天皇制です。

 そもそも共産主義社会に天皇の居場所はありません。

 あってもいいと思いますし、天皇だけはOKというのを〇主義と別にくっつければいいだけと思いますがそうはなりませんでした。

 むしろ日本の共産主義を阻むのは天皇制だ(天皇制という言葉は〇がつくった)ということでコミンテルンの32年テーゼで天皇制は打倒とソ連が決めました。

 これは恣意的だと思いますが日本の〇もそれに従いました。

 冷戦期は〇主義(影響力が強すぎて社会主義の一勢力である〇主義とほぼ同義、細々と社会民主主義がある、実は自民党も社会主義要素は強い)とそれ以外、この2文化、2原論で簡単に理解していいです。

 その前のWW2などの戦争の時代も敵、味方の単純な二元論で割れましたが冷戦期もその延長です。

 片方の軸は明確で〇主義です。

 それ以外が自民党です。

 政治的にはそういう感じになります。

 論壇もそうで〇主義とそれ以外です。

 〇主義以外は政治でも論壇でも自民党とか保守とか右翼とか保守反動とか〇からはいろいろ言われましたが端的に言って〇以外ということです。

 定期が「~以外」ですから非常にごった煮闇鍋みたいな感じでいろいろなものが入っています。

 〇以外オールインワンな感じです。

 

 

・共産党

 これも分かりやすいです。

〇、 レーニン主義です。

ML主義と言っていいでしょう。

Mは〇で、Lはレーニンのことです。

これは新左翼も変わりません。

MLまでは共通でそこからは分かれる感じです。

大きく分けるとスターリン主義とトロツキー主義です。

ユーロコミュニズムグラムシの陣地戦術などは初期の社会党右派は唱えていたようですが日本ではマイナーです。

社会民主主義やドイツ共産党のローザルクセンベルグとかは一応MLとは分けておきましょう。

結局スターリン主義にせよトロツキー主義にせよ日本共産党の自主独立路線にせよMLが強すぎるのと加入戦術などもあり結局MLだけ知っとけばいいと思います。

 日本はそもそも社会主義的です。

 社会思想は大きく分けると個人主義と集団主義があって極端な個人主義や集団主義は哲学的にはあっても現実的にはあり得ません。

 集団種の中には社会主義、共産主義、〇主義、全体主義など分かりやすい集団主義の他、民主主義でさえ社会主義の要素があります。

 民主主義といえども個人主義の極限を主張しているわけではなく集団の秩序と調和を尊重する意味で集団主義的な面があるからです。

 スペクトラムで見ると両極端には哲学的な個人主義と集団主義があって現実的にはスペクトラム上の端っこじゃないどっかでその折衷になります。

 まず大前提として日本はML主義の力が強い国です。

 政治的には実現していなくても、純粋な若者や頭のいい学者だけではなく一般国民もML主義、あるいはもっとゆるめて集団主義、社会主義が正しくて正義で真実で真理だという気持ちが長らくありました。

 もしかしたら日本だけではなく世界中そうかもしれず、下手したら人類普遍的な信条なのかもしれません。

 1955年体制というので共産党は穏健路線となります。

 それまでは4.2ゼネストとか山村工作隊とか武装闘争路線とかでまじめに革命を考えていて、革命というのは多くは暴力というか武力とセットです。

 ちょっと国民の支持を失ってしまってスターリン批判やハンガリー動乱で権威も低下して議会でも惨敗でやばいとなって中共から距離を取り穏健路線をとる方向に変えて宮本けんじの40年間の一党独裁体制で安定しました。

 ML路線は変わらないので革命は目指しています。

 暴力は大体は使わないことにしていますが「敵の出方論」というのを採用していて場合によっては使います。

 学生紛争の時は東大を守るため都学連行動隊というのを組織してやや大人気ありませんが学生相手に大人や労働者や他校学生も動員して全共闘を打ち砕きました。

 別に警察とか機動隊が働く以上に東大は共産党がまもってくれました。

 そのあと都学連行動隊の粛清がありますがそれも大した暴力ではありません。

 ナチスはユダヤ人を殺しましたがソビエトやロシア、中国は基本直接殺しません。

 中国だったらウイグルの強制収容所が有名ですし、ろしあならフクロウ刑務所、ブラックドルフィンなどの刑務所みたいなのがあってそこで暴力もつかいますが原始的暴力ではなく、スペースを与えないとか寝かさないとかそういうのです。

 基本は洗脳です。

 シベリア抑留の日本人が帰還したときに船を降りたら「共産党万歳」と言って隊列を組んで代々木の日本共産党に入党しに行ったのは有名です。

 中国はぷーしゅんの洗脳収容所が有名です。

 共産党はML主義で基本考えてもらった方がいいです。

 共産党も日本のリベラルも同じような主張をすることが多いので両者をごっちゃにして十パひとからげで左翼とか言う傾向があります。

 ただ共産党みたいな筋金入りのML主義者と現代的ふわっとリベラルは同じことを主張していても理屈が全く違います。

 収斂進化、とでもいえばいいでしょうか。

 共産党は古い組織なので5代目、6代目と世襲共産党員がいますがやはり退潮傾向です。

 公平を期していうと自民党も退潮傾向です。

 同じ55年体制の仲間?ですがそういう点でいうと55年体制仲間の社会党は今は党名がなくなって基本的には党名などが何度も変わり今は立憲民主党かと思ったら最近はそれもなくすようで新党中道改革連合というものになるようです。

 

 

・公明党

 

 公明党は創価学会の政党で創価学会は日蓮正宗だか日蓮宗だか法華宗だかから分離した分離した檀家団体です。

 日蓮の仏教宗派としての特徴はいくつかありますがざっくばらんに上げます。

 

    三諦論と法華経の尊重

    普通は三諦論は理解できないので一般人は悟れないのでなむみょうほうれんげっきょうというお題目をとなえること。

    組織維持と拡大とさらに他宗を排斥して法華経という宗教と世俗の政治体制を一致させようとしたこと。

    法華経以外の邪教を信じると国難が起きるので法華経を信じなければいけない

    国難が起きれば法華経が正しいことの証明になる

    国難が起きれば法華経を広めて世俗の政治と法華経と宗教を一体化させるチャンス

    三諦論はエリートが理解できればいいが大部分の人は理解できない

    三諦論を理解できない人はお題目を唱える

    法華経の重視

 

社会党左派の社会主義協会派向坂逸郎などの日本をソ連に占領させることによりヘゲモニーを取るとかマルクスの敗戦革命論や革命主義的配線論とまではいかないかもしれませんが同じ方向性です。

そもそも国が弱るときは権力を取るチャンスなのは万古不易の法則のようなものではありますが。

結果として公明党と日本共産党は似ています。

目的もほとんど同じで違うのは最終的到達点です。

ML主義は理論的には共産主義社会の実現です。

現実的には前衛党の一党独裁の大衆支配になります。

日蓮宗は「神というか空気というか世界に満ちる仏法というエネルギーとの一体化」です。

それをどうやって実現するという理屈かもう一つ不明ですがとにかく権力を握って政治と法華経という宗教の一体化のために権力を取るという感じになるので革命政党的ですしイスラム原理主義とも似ています。

世俗政治の神性体制、神権政治の実現という感じでしゅか。

分かりませんが。

そこでその最終状態の具体的な設計よりはとりあえずヘゲモニーの掌握派が力を持つ傾向があります。

日本共産党と似ているということは日本共産党と仲が悪いということです。

立憲民主党は最初は共産党と手を組んだ、というよりは共産党の加入戦術を受けていましたが現在は公明党と合併して新党中道改革連合というものを作りました

これは公明党による立憲民主党や労組への加入戦術のようにも見えますがそうではないかもしれません。

三諦論は日蓮も天台宗の高僧ですし理解していたでしょう。

本来仏教は三諦論だけでいい面があります。

それを全員が理解すればそれでお釈迦様のミッションはコンプリートです。

大乗仏教の祖のナーガールジュナは空論と中観論で純粋に哲学です。

法華経を加えるのはそれなりの意図がある感じになります。

法華経の久遠仏思想はちょっと特殊でキリスト教神学みたいな感じです。

お釈迦様は法を広めるために人間として表れたかりそめの姿で法は時空を超えて遍く存在し続けるみたいな感じの論法です。

イエスは神であり精霊であるとかロゴスが神であるみたいな感じになっています。

法華経は1~2世紀にできてお釈迦様とナーガールジュナ出現の間の時期の経典でお釈迦様の教えが失われていた時期に成立した経典です。

懐徳堂の富永仲基の加上説風に言えばあとから作られて加えられたものです。

天台智顗も三諦論だけ言っとけばと思うのですが教相判釈したということは学僧としての興味や教育的な意図の他に当時の政治情勢や仏教勢力内部や他宗教、他思想、中国内での布教その他複雑な意図があったと思われます。

法華経が全てのお経の頂点みたいに書いてますが法華経自体で三諦論を学べる感じではありませんので。

天台智顗と同じく日蓮もやや政治的意図で法華経を使った節があります。

まあそういうことを言ってしまえば浄土系の宗教は日本人の半分くらいは浄土系宗教系で葬式も浄土系のお寺の人が多いと思われますし日蓮のように邪教とかとは違いますが選定論だけが仏教ではないのでしょう。

ただ永遠無限の法と一体化してエネルギーを得るみたいなのはやや神秘主義的というかナラティブ的な仏教の使用法になります。

創価学会も敗戦で勢力拡大しましたから政治的というか世直しの遺伝子があるのかもしれません。

 

 

・立憲民主党

 

 これは社会党が変質したものです。

 1955年体制では社会党右派の構造改革派と社会党左派の社会主義協会派が連合して社会党ができまいた。

 社会党右派は社会民主主義、社会党左派はML主義です。

 社会党右派は社会党右派は境界主義派と社会主義の学生団体ののちの社青同改革派と組んで社会党右派を弱体化させました。

 社会党右派は冷や飯ぐらいで後に社民連として社会党から分離します。

 更にのちには江田三郎とその息子の江田五月が社民連から民社党に合流しました。

 江田憲司は江田家の宴席かと思っていたのですがどうも違うようです。

 その後社会党左派はさらに左右に内部分裂して左派の原理主義の向坂派と右派の労組を掌握する太田派に分かれました。

 そして今度は社会党右派と社青同の改革派が組んで向坂派を弱体させました。

 社青同解放派はドイツのローザルクセンベルグ主義です。

 その後は内ゲバで社会党は疲弊して冷戦を迎えます。

 その後社会党は他党と連立して自民党から政権を取るのに成功しました。

 その時に自衛隊合法とか日米安保賛成とか方針転換したので求心力はなくなってしまいました。

 社会党の連立政権も政権担当能力がないのですぐにダメになりその後は社会党も党名もどんどん変わっていきます。

 社会党直系子孫は社民党で今もあります。

 その他の国会議員で痛い人たちがいろんな政党と合従連衡したりくっついたり離れたりしてこの後の説明は正確ではないかもしれません。

 とりあえず民主党という政党を作ったと思いますが民進党に変わりまた民主党に戻って小池百合子の希望の塔に入ろうとして失敗し立憲民主党になりそこから国民民主党がわかれて現在は参院では立憲民主党が政党交付金かなんかの関係で残すみたいですが衆院は解散して新党中道改革路線になってそこから原口議員がゆうこく連合か何かが分離したようです。

 労組も総評系と同盟系があります。

 総評系は公務員の組織で自治労や日教組の他に国鉄は巨大なので複数の労組をもっていましたが国鉄由来のJR総連、電電公社由来の全逓起源のNTT関係の労組、郵便局関係の

全電通があります。

 民間企業の労組の寄り合いは同盟系と言います。

 同盟系は基本は民社党系です。

 総評系は社会党の基盤です。

 共産党系労組は全労連です。

 その他は全労協です。

 なんというか社会主義というか〇主義の歴史は労組と大学の奪い合いの歴史です。

 国民民主党は同盟系の民社党の系譜があると思われましたが詳しい人に聞くとあまり関係ないようです。

 東京の三田だか田町だかに同盟系の組織というか博物館というかそういうのを併設したものがあるので一度見てみると面白いかもしれません。

 総評系と同盟系は現在は連合というのにまとまっています。

 最近は連合会長の芳野氏がよくメディアに出ているので有名かもしれません。

 

 

・まとめ

以上で大体分かりにく政党の歴史は網羅していると思います。

 何か忘れているような気もしますが見落としている政党があったらすみません。

 

 

  

ユダヤ人の非金銭的資本  ―ユダヤ人は優秀か―

ユダヤ人の非金銭的資本  ―ユダヤ人は優秀か―

 

 

 ユダヤ人優秀論があります。

 これは正しいが特殊一般化の詭弁ではないですが罠があります。

 ユダヤ人は世俗的な意味では優秀じゃないし成功しない人が分厚くいます。

 いくつかの意味方からユダヤ人論を脱構築してみましょう。

 

・ユダヤ教徒の大まかな分け方

ユダヤ人にもユダヤ教の宗派にもいろいろあります。

 大きく分けると正統派、保守派、改革派、世俗派というのに分かれます。

 正統派は律法を一言一句正確に守る、ユダヤ教の習慣通りに生きるみたいな立場の宗派です。

 改革派は19世紀ごろもうちょっとヨーロッパ近代社会の世俗的な実体に合わせてやっていこうという立場です。

 保守派は改革派があまりにユダヤ教の規範から離れているのに批判してもうちょっと宗教よりであろうとする改革派と正統派の折衷みたいなポジションで、ドイツ、そしてドイツからアメリカに渡ったユダヤ人から広まった考え方です。

 世俗派はノンポリというかユダヤ教に関心が薄いかなかったりユダヤ教の習慣や儀礼の実践が薄いかなかったりする人たちです。

 これらの人々の関係を見てみましょう。

 説明は大雑把で厳密、正確さは欠くかもしれませんが分かりやすさや読みやすさを重視して説明します。

 最近の傾向としては世俗的ユダヤ人は知りませんが保守派が中途半端とみなされたせいか分かりませんが保守派が薄く先細って正統派と改革派に二極化していく方向が見えるようです。

 

 

・周辺化の理論

 

 最初に大雑把な見取り図を書いておきましょう。

 正統派ユダヤ人は原理主義です。

 原理主義というと日本人はイスラム原理主義とか(あるいはキリスト教原理主義)のイメージがある世代があってちょっと異質な感じを持つ人がいるかもしれません。

 異質かもしれませんが理解としては分かりやすいです。

 それに悪い意味ではそもそもありません。

 啓典宗教は経典・正典が中心にある宗教です。

 聖書の一言一句がたがわず同じであることが大切です。

 またそれをそのまま実践することが大切です。

 そのまま実践するのを妥協なく進めるのが啓典宗教の原理主義です。

 日本では例えば無協会派の内村鑑三がそうでしょう。

 エホバの証人もそうではないでしょうか。

 ユダヤ教の原理主義宗派がユダヤ教正統派です。

 ユダヤ教の正典はヘブライ語の聖書とミシュナと呼ばれる文書になります。

 これの研究と勉強と実践と解釈をどうするのか議論するのが正統派です。

 厳格に聖書の律法を一言一句守ります。

 聖書の冒頭のモーセ五書くらいを読んでみると何となく雰囲気が分かると思いますが聖書の律法を一言一句守って社会生活するのは大変です。

 日常生活も大変でしょうが同じ正統派の家族や親せきやコミュニティの中であれば生活しやすいでしょう。

 ということでユダヤ教徒の正統派は集住する傾向があります。

 集住して環境を律法を一言一句守れるように環境を作ったり変えたりします。

 イスラエルやニューヨークなどのユダヤ教正統派が多い場所がユダヤ教正統派の生きやすい場所になります。

 中世のゲットーはユダヤ人居住地ですが何となくゲットーに押し込められたという文脈で語られがちですが、ユダヤ人が集住した結果ゲットーになったという側面があるかもしれません。

 ヨーロッパ成立期のユダヤコミュニティの成立についてオクスフォードの研究があるようです。

 ヴァイキングか何かにくっついて移動したユダヤ人が初期のオクスフォードの街の中心で商業などを行っていたようです。

 テムズ川の水運交易を研究していた現天皇陛下もこういう研究をしていたかもしれません。

 

・正統派は律法学者

 

 新約聖書を読んでいるとイエスのライバルのような形でファリサイ人や律法学者という人々が登場します。

 これが現代ユダヤ教の源流です。

 ラビユダヤ教徒いいます。

 ラビはユダヤ教の学者・研究者であり聖職者であり教師を兼ねたような存在です。

 ラビユダヤ教ではユダヤ教の研究をすることが律法を守ること並みに大切でした。

 学者民族とか言われるゆえんです。

 ラビがユダヤ教を勉強するだけでなく、ユダヤ人はみなユダヤ教を勉強します。

 ユダヤ教を勉強するということはユダヤ教文書を勉強するということです。

 というわけでユダヤ人は書の民とも言われます。

 文献解釈はいつの時代でも解釈が割れることがあるので活発に議論が行われるというよりユダヤ人の場合は活発に議論することが重要視されます。

 こういう生き方を現在でもそのまま続けているのが正統派です。

 

・正統派の別の側面

 

 正統派はユダヤ教ではユダヤ教の勉強、研究する生き方がよいこととされるため熱心な正統派程ユダヤ教の勉強に時間を使います。

 正統派ユダヤ教の男性は仕事の時間を惜しんで、あるいは仕事しないでユダヤ教を勉強する人がいます。

 いるだけでなくそういう人がたくさんいます。

 ですから正統派ユダヤ教徒は貧しい人がたくさんいます。

 妻子を持っていてもそういう生活をします。

 そして正統派の共同体もそういう在り方を受け入れるというより尊敬します。

 それを支える奥さんは大変ですがそれが正統派の在り方です。

 現代社会ですから奥さんも別にそういう夫や過程を支えない生き方を選ぶ、あるいは途中で離婚して別の稼ぎの良い男性と結婚してもいいのでしょうがまあ正統派のユダヤ教徒の女性はそういう生き方をしてユダヤ教の伝統を守っています。

 正統派の起源は今のリトアニア当たりのハレディズムでそのまた起源はいまのウクライナ西部を中心にポーランド東部、ハンガリー当たりのハシディズムです。

 この系統は18世紀くらいに起こった宗教運動です。

 当時はユダヤ人の中でも異端視されましたが今は正統派と呼ばれています。

 他にも正統派的な宗派はあるのかもしれませんが正統派の中の中心がハレディズムです。

 中世ポーランド王国はユダヤ人を重用し生き方を尊重したのでユダヤ人がたくさん集まりました。

 これがアシュケナージと呼ばれるユダヤ人の元と言えます。

 異端が正統になるのはユダヤに限らず世の中色々な馬車や時代で見受けられます。

 日本でも浄土真宗の大谷派は皇室と婚姻を結んでいます。

 

 

・正統派は頭がよいか

 

 正統派は頭が良いでしょう。

 何せ勉強ばかりしています。

 ただ勉強ができることと世俗的成功、金銭的成功は別物です。

 正統派の勉強はユダヤ教やユダヤ文献の勉強です。

 数学、理科、社会などは中心ではありません。

 教育されないこともあるし、教育されても大した教育はされないことが多くあります。

 イスラエルの建国後はそういう世俗的、ユダヤ教徒以外にとっては異教徒的勉強をしていても後から自分で数学やら理科やらを勉強し世俗的に成功する場合があることが強調される場面もありました。

 ただ普通に考えて初等や中等教育でそういう勉強が手薄いのは正統派の共同体の外で職業生活をするのにハンディキャップになりえます。

 そもそも正統派の共同体を出て世俗的、異教徒的な職業につかない人もいるでしょうし金もうけを重視しない人もいるでしょう。

 現在では普通は正統派どっぷりの人はそんなに我々の言うところの世俗的成功をしない人が多いです。

 でも子だくさんなので家族的には恵まれているかもしれません。

 ただ経済的に豊かでない場合が多くあります。

 正統派の共同体のかなりの割合がユダヤ教の勉強に多くのリソースを費やします。

 一芸は板東に通じますのでユダヤ教の勉強で培った頭の良さが世俗的な成功に役立ったり、役立たせたりする場合もあるでしょうが、正統派が大切にするのはそういう世俗的な成功、金銭や社会的な地位や名誉や評判ではありません。

 結果的には正統は内部では豊かでない人が多くなります。

 「貧乏子だくさん」と言ってもいいかもしれません。

 

 

・正統派が外の世界とかかわる時

 

 正統派のユダヤ教徒をルーツに持つユダヤ系の人が何らかの理由で正統派コミュニティの外側の世界とのかかわりを持つ時にその持ち前の頭のよさやメンタリティが世俗の社会での大成功をもたらす場合があります。

 これはナポレオンがゲットーを解放したときかもしれませんし、厳格なユダヤ教徒が宗教性を緩めて正統派外との交流を強める場合かもしれません。

 また自分から正統派のコミュニティを離れたり、ユダヤ性を緩めて正統派外の社会と交流を持とうとする場合もあります。

 正統派を曲げないまま外部の世界と交流を持つ人もいますし、共同体全体の宗教性が薄まっていくときである場合もあるでしょう。

 こういう時にユダヤ人が非ユダヤ人社会、俗世間、ユダヤ教内でも緩い宗教性のユダヤ人の間でやユダヤ人と関係ない人の中で大活躍、大成功する場合があります。

 例えば19世紀から現在までそういう傾向がみられます。

 いわゆる「ノーベル賞の1/32/3がユダヤ人」という場合です。

 正統派は現在はハレディズムのことをほぼ指しているような感じなっていますがどこの地域のユダヤ社会でもユダヤ教を厳格に守り世俗的成功などを巷の栄華を顧みず熱心にユダヤ教を研究したり教育していたりする人たちはいます。

 ただ近代は脱宗教家の時代でもあってユダヤ人もその例外ではありませんでした。

 ユダヤ人のスピノザの哲学を嫌って殺そうとした話は有名です。

 『屋根の下のバイオリン弾き』という映画がありますがユダヤ人が世俗の波の影響で共同体が緩んでいき、最後はポグロムという旧ロシア帝国圏でのしばしば起こったユダヤ人の殺戮を逃れるために故郷を離れる話です。

 初期のユダヤ人の脱ユダヤ化としては音楽家のメンデルスゾーンで知られるユダヤの名門メンデルスゾーン家などが有名です。

 19世紀や20世紀の有名なユダヤ人はユダヤ教徒でない場合も多く、ユダヤ系といった方が正確な場合も多いです。

 祖父母や両親の代で改宗するばあいもあります。

また家族や共同体ごと世俗化してユダヤ教が薄まっていきユダヤ教徒でなくなってしまう場合もあります。

これはアインシュタインが有名です。

ユダヤ教徒はユダヤ人でしょうが、ユダヤ人という場合にユダヤ教徒であるとは限りません。

またユダヤ教徒を辞任していてもユダヤ教の律法や習慣を守っていない人も大勢います。

ユダヤ教徒、ユダヤ系、ユダヤ人、こういったものはきちんと使い分けなくても普通の日本人には関係ない場合が多いでしょうけれども、ユダヤ人やユダヤ教などを勉強する場合には細かく整理した方が分かりやすい場合も多いです。

 

 

・どんな時に「優秀なユダヤ人」が現れるか

 

周辺化、宗教や共同体の希薄化、共同体が維持できなくなってよその土地に移り住まなくなってしまった場合などは濃いユダヤ人、ユダヤ教をより厳格に守ろうとする人々が世俗化したり宗教性を希釈化させないといけなくなって、正統派的ユダヤコミュニティの外に出てくる、出てこざるを得ない場合があります。

あるいはユダヤ人以外と婚姻を結んで子供を作る場合もあります。

正統的なユダヤ教徒ほど母親がユダヤ人であることを重視します。

母親がユダヤ人でない場合にはいろいろその他の条件をそろえないとユダヤ教徒と認めない宗派もあります。

ライフコース論で有名なエリクソンは母親が非ユダヤ人男性と結婚して母子家庭になりユダヤコミュニティで育って大変な苦労をしました。

その体験が彼が「セルフアイデンティティ(自己同一性)論」を作った要因だと言われています。

そういう人々やその子孫が鍛えぬいた頭の良さをユダヤ教以外の分野に向けた場合ユダヤ人の頭の良さ、メンタリティが強みとして何かの分野で大成功する場合があります。

実例としては「教育学におけるハンガリーの奇跡」と呼ばれる現象があります。

19世紀末から20世紀にかけてのブタベストから天才的なユダヤ人が群がり現れました。

ハンガリーもブタベストもユダヤ人が多い地域です。

ただハンガリーやブタベストが優秀なユダヤ人をずっと輩出し続けたわけではありません。

一次的な現象です。

現在は当時に比べてハンガリーにもブタベストにもユダヤ人は少ないですし宗教色の強いユダヤ人もそこまで目立ちません。

 

 

・大きな流れとして

 

 正統派ユダヤ人コミュニティの中ではユダヤ人はユダヤ教に一心不乱です。

 正統派ユダヤ人のコミュニティでなくてもユダヤ人コミュニティの中でユダヤ教に厳格な人々がいて彼らはよく学び、結果として頭がよくなります。

 しかし別に頭を浴したり世俗的に成功したいからユダヤ教を勉強する人もいるかもしれませんがそういうケースは一旦例外的に考えてもらっていいと思います。

 世俗や非ユダヤ的な世界、マジョリティが作る一般的社会に入っていくということはユダヤコミュニティから距離ができていくこと、ユダヤ教性が緩まっていくことと強い相関があります。

 そういった段階でユダヤ人は、あるいはユダヤ系の人は主に知的分野で大活躍、大成功をする場合があります。

 全員が躁ではありません。

 大きく見ればユダヤ人でなくなってしまうユダヤ人の方が多いでしょう。

 これは人類の大部分が奴隷の子孫だとか、日本人のほとんどが天皇陛下と遠い親戚で血がつながっているのと同じで単純で簡単な確率計算が分かれば理解できるでしょう。

 検定論の有意差と同じ理屈でそうでない確率が極端に低すぎて現実的にはあり得ないという結論になります。

 これは進化論と同じです。

 ユダヤ人が優秀だから生き残ったわけではなく、生き残ったユダヤ人、環境に適応して生き延びれたユダヤ人だけがユダヤ人というわけです。

 世の中にユダヤ人の血を引いた人がいてもユダヤ人でない人がたくさんいるということで進化論を考えるときに間違いやすい点ですし、ハーバード・スペンサーなどの社会進化論的発想や優生学などがちょっとおかしいくつかわれる原因になります。

 ユダヤコミュニティから離れ、ユダヤ教性が薄まり、知的能力がユダヤ教以外の分野に向けられたときにその分野ですごい功績を残す場合があります。

 でもユダヤコミュニティと離れすぎたりユダヤ教性がなくなるとユダヤ人、ユダヤ系ですらなくなる、というかそういうことがよくわからなくなり非ユダヤ人になります。

 

 

 

・生物学的な視点をちょっとだけ

 

 ユダヤ人は家族制度的に女系です。

 母がユダヤ教徒でないと基本はユダヤ教徒にならないのでミトコンドリアDNAが保存されます。

 これは遺伝学的な研究結果がエビデンスとなります。

 またY染色体もJハプロタイプというのがあってこれはレバント地域やあら日や半島などセム系の土地で多く見られます。

 ユダヤ人の優秀さとそれらを結び付けるのはちょっと無理筋です。

 ユダヤ人の優秀さを遺伝学と結びつける仮説として近親婚によるインブリード仮説があります。

 ユダヤ人は今では知りませんが共同体内で閉鎖的に婚姻関係を結んでいたと思われるためか常染色体劣性遺伝が多いです。

 スフィンゴミエリンなどの脂質系に関する代謝の問題でテイサックス病やゴーシュ病やニーマンピック病などが知られています。

 ホモ接合体では遺伝疾患を発症しますがヘテロ接合体ではこれが知能に有利に働くという説があります。

 人間は脂質で出来ているようなところがあります。

 容姿もスタイルも脂質が作るものです。細胞膜も脂質で作られています。神経細胞の樹状突起などを取り巻くグリア細胞などの特性が加わりホモ接合体では知能が高くなるのではないか、という仮説があります。

 昔調べた時より詳しいことが分かっているようなので研究はされているのでしょう。

 ちなみに統合失調症の起源論として脂質代謝がかかわっているのではないかとかサルが人間に進化するにあたって脂質代謝が関係しているのではないかという説も昔ありましたが今はどうなっているかはわかりません。

 生物学も遺伝子のことも爆発的に研究が進んでいるので昔よりいろんなことが分かっているのでしょう。

 

 

・ユダヤ人は日本の恩人だから感謝の心を忘れずに

 

 日本の明治以降の発展は基本的に自分たちで成し遂げたところがあります。

 第二次世界大戦以降はアメリカのお陰がめちゃめちゃ大きかったですが。

 日本は植民地化されるのが嫌だったので二宮尊徳的な自力根性と、どうしてもお金が必要な時には投資ではなく融資だけで何とかしようとしました。

 有名な例が日露戦争の時です。

 日本と帝政ロシアが戦ってもまずロシアの勝ちです。

 実際にも一応日本の勝ちにはなっていますが内容を見るとまあ引き分けと言っていいような辛勝です。

 負ける日本にお金を貸してくれるような奇特な人はいないはずでしたがユダヤ人が負けるの覚悟ということは返済されないのを覚悟でお金を貸してくれました。

 これはユダヤ人側にも同法がロシアで迫害されているとか他にもいろいろ意図があったのかもしれませんがこれがないとそもそも日本はロシアに負けていたと言っていいでしょう。

 日本人はちゃんとお金を返すのが国民性なのでちゃんと返しましたが普通は不良債権となって焦げ付くような外債を引き受けてくれたヤコブシフやそのバックのロスチャイルドやユダヤ系金融資本には足を向けて寝られません。

 あの時にお金を貸してもらえなければ日本は最悪滅んでいた可能性もあったでしょう。

 受けた恩は忘れないようにしないと徳がうしなわれますし、理屈でなく感謝するのが敬の精神というか大切なことです。

 ちなみにその時シフにお金を貸してもらえたのは高橋是清の功績です。

 高橋是清は緊縮財政でどん底になっていた大学を出たけれど就職先もなく東北の農民は娘を未売りに出さないといけないような状況の中で経済緩和で立て直しました。

 軍部のテロで暗殺されてしまったので道半ばだったかもしれませんが。

 緊縮財政とか国民の窮状を顧みず、あるいは気付かず行い続けると国を誤ります。

 最終的に大日本帝国は滅亡してしまいましたが日本国は国を誤らないようにしましょう。

 結果としてシフの融資は現代日本という資本、あるいは日本を形成する資本の束をつくりました。

 資本は資本を生みますがお金に変わると一言されてしまうことが多いです。

 資本主義は前近代的なものを解体する、ということです。

 地球の環境と自然と伝統と遺跡と資源と全てをお金に換算するのが近代経済学の、資本主義でもマルクス主義でもゴールです。

 それらは無限の経済的成長と経済的イノベーションを求めています。

 全ての自由エネルギーを使いつくしてエントロピーを最大化するのがすべてをお金と価値と価格にした状態ですが資本の変換は必ずしも可逆ではないですし、多くは不可逆です。

ユダヤ数千年の歴史も日本2600年の神話からの歴史も壊すのは簡単です。 

ユダヤ人の「見えざる資本」と、資本が資本を生む変換装置 ――お金は“種”であって、“森”じゃない 🌳💴

 

ユダヤ人の「見えざる資本」と、資本が資本を生む変換装置

――お金はであって、じゃない 🌳💴

「ユダヤ人は優秀だ」という雑な一言は、たぶん半分当たってて、半分ズレてます。
当たってる部分は「ある局面で、とんでもない成果が出る」こと。ズレてる部分は「それを生まれつきの本質で説明したくなる」こと。

ここでは、**“人間集団が持つ資本は多種類で、互いに変換され、時間で複利化する”**という一本の線で書きます。ユダヤ共同体は、その変換が歴史的に強烈に回ってきた例、という扱いです。
(そして同じ話は、日本にも、世界のどの共同体にも当てはまる――ここが着地点です。)


1. 「資本」はスカラーじゃなくてベクトル(束)である 🧠📚🤝

社会学者の ピエール・ブルデュー は、資本を**経済資本(お金)**だけでなく、文化資本・社会関係資本・象徴資本などの「変換可能な資源」として捉えました。資本は形を変えて移動しうる、という発想がキモです。

政治学者の ロバート・パットナム も、社会関係資本を「ネットワーク・規範・信頼」など、協力を可能にする社会の性質として定義します。

**だから資本は「一つの数」じゃなくて、複数成分の資本ベクトル”**として扱うと理解が速い。
そして社会は、だいたいこう動きます:

資本ベクトル × 変換ルール(制度・教育・宗教・文化) × 時間別の資本ベクトル(増えたり偏ったりする)


2. ユダヤ共同体(特に正統派圏)が持つ「資本」の棚卸し(網羅版)📦

「社会関係資本」だけでは全然足りないので、**“資本の束(bundle”**として並べます。
「ユダヤ人一般」ではなく、共同体が長期で蓄える資源として読むと安全で強いです。)

A. テキスト・教育・知の資本

  • 聖典(テキスト)資本:テキストが共同体のOS。世代を超えて更新される共通の参照点
  • 読解・解釈資本:難解テキストを読む、矛盾を抱える、議論する訓練(いわば解釈筋トレ
  • 教育資本:学習を「美徳」として制度化(家庭・宗教・共同体で再生産)
  • 人的資本:集中力、論理、記憶、議論耐性などが技能として貯まる

B. ネットワーク・互助・信用の資本

  • 結束(ボンディング)資本:共同体内の強い相互扶助(貧困耐性=セーフティネット)
  • 橋渡し(ブリッジング)資本:外部社会との接続点(商取引・学界・移民ネットワーク)
  • 信用資本:評判、約束を守る規範、内部での監督コストの低さ(取引コストを下げる)
  • 慈善・互助の制度資本:寄付・救済・教育支援などの仕組みが常設化している

C. 歴史・伝統・記憶の資本(ヘリテージ資本)

  • 歴史資本:過去の経験が意思決定の辞書になる(成功も失敗も学習済みデータ
  • 伝統資本:儀礼・習慣が生活を型として支える(行動が安定し、共同体が持続する)
  • 境界資本:何を守り、どこからが外か、という線引き(同一性の保存装置)
  • 物語(ナラティブ)資本:共同体の意味づけが、困難時の心理的・社会的燃料になる

D. 可搬性(ポータビリティ)資本

  • ディアスポラ(分散)資本:国境を越えて拠点が分散=単一国家リスクを減らす
  • 言語資本:複数言語・複数文化の往復(翻訳能力=適応力)
  • 職能の可搬性:場所依存しない技能や専門性に寄せやすい(歴史的事情も含む)

E. 規範・制度・法の資本

  • 規範資本:行動規範(生活律)が共同体の秩序コストを下げる
  • 法文化資本:規範を「条文+解釈+議論」で運用する文化(制度設計・契約・ルール感覚に接続)

F. 象徴・文化・美意識の資本

  • 文化資本:芸術・学問・教養・ユーモア・批評精神
  • 象徴資本:名誉、肩書き、共同体内評価(他の資本の交換レートを上げる)

G. 生物学的(遺伝的)資本は「扱い方が難しい」🧬

ここは火薬庫なので、**“結論ではなく論点”**として位置づけるのが知的に良いです。
アシュケナージ系で特定の遺伝性疾患が多いこと、そこから「ヘテロ接合体が認知に有利かも」という仮説が出たことは事実として整理できますが、反論・批判も強く、決着していません。
この話は説明力が強そうに見えるわりに、誤用されやすいので、主役にしないのが得策です(主役は制度・教育・ネットワークの変換力)。


3. 変換のエンジン:「正統派」は知の生産工場であり、世俗的成功工場ではない

あなたの原稿の白眉だった点――「正統派の知的訓練が、外部世界に接続された瞬間に爆発する」――を、資本変換として言い直します。

正統派(特にハレディなど)では、トーラー学習が至高の価値になりやすく、結果として世俗的な意味では貧困が厚くなる、という現象が観察されます。
ここが重要で、

  • 共同体内部
    「宗教資本・伝統資本・結束資本・テキスト資本」が最大化
    (交換の優先順位が低いので)「経済資本」は最大化されないことも多い
  • 境界をまたいだ瞬間(世俗化・移住・職業転換)
    宗教文献の読解・議論で鍛えた 人的資本/教育資本 が、
    学問・法律・医療・工学・金融・起業変換される

つまり「天才が生まれる」のは、民族の魔法というより、
高密度の訓練資本が、外部の評価関数(市場・大学・特許・出版)に接続された瞬間に、換金(換価)されるからです。


4. “生き金の具体例:日露戦争の外債調達は「資本変換の連鎖」だった 💸➡️🏭➡️🏛️

ここで日本の話に接続します。

日露戦争期、日本は海外での資金調達が死活的課題になり、高橋是清 がロンドンやニューヨークで外債を組成していきます。研究では、海外での起債成功が戦費・国内経済の下支えになり、海外起債なしに戦争遂行は極めて困難だったという評価が書かれています。

その過程で、ジェイコブ・シフ と クーン・ローブ商会 の関与が大きかったこと、1905年末までに総額2億ドル規模の起債が行われたことが論じられています。
また、フランス側では ロスチャイルド家 が引受団に入り、配分の一部を担ったことも記録されています。

ここを「生き金」として読み替えると、構造はこうです:

資本変換の連鎖(図式)

  1. ユダヤ共同体が蓄えた
    社会関係資本(ネットワーク)+信用資本(評判)+制度資本(金融実務)
  2. それが戦時の日本に注入され、
    **
    金融資本(外債)**として具体化
  3. 外債は戦費だけでなく国内経済の弾力にもなり、
    産業資本・制度資本・国家信用の維持に寄与
  4. その結果として(反実仮想を最小限に言えば)
    「日本という資本束」が毀損せずに時間を得た
  5. その時間が、教育・産業・文化・制度の資本を増やし、
    今日の日本の厚みになった

そして動機の部分も、単なる金儲けだけでなく、帝政ロシアの反ユダヤ政策や迫害への反発(ロシア系ユダヤ人への思い)が絡んでいた、という論述があります。
ここが美味しいところで、倫理(道徳)資本が、ネットワーク資本を介して、金融資本になり、国家の制度資本へ変換される
「お金だけじゃない」が、ただの綺麗事じゃなく、現実に作動している例です。


5. 構造主義っぽく言うと:社会は「資本の変換則」でできている 🧩

あなたの狙い(物理・数学・構造主義で一本線)に寄せて言うなら:

  • 資本の種類は記号の集合(経済・教育・信用・伝統
  • 共同体はそれを変換する**写像(ルール)**を持つ(教育制度・宗教律・家族戦略・互助)
  • 歴史は、その写像がどの環境で**増幅(ゲイン)**を得るかの実験場
  • 成功とは、個体の能力だけでなく
    **
    「変換が起きる条件がそろった」**という系の性質

ここまで言うと、「ユダヤ人は優秀か?」の問いは、だいぶ別物になります。

優秀さ=才能の本質
ではなく
優秀さ=資本束 × 変換則 × 時間 × 環境適合


6. 日本版の結論:「日本という資本束」をどう育てるか 🇯🇵🌾

あなたが書きたい核心はここだと思います:

  • **ヘリテージ(歴史・文化・制度・信頼)**は、ただの飾りじゃなく「資本」
  • それは放置すると減価するが、手入れすると複利化する
  • 生き金とは、単にリターンが高い金ではなく、資本変換を起こす金である

ユダヤ共同体の例は、「特殊な民族論」ではなく、
資本が資本を生む構造の、極端に見やすい標本です。

そして日本もまた、すでに巨大な資本束を持っている。
信頼、治安、職人性、教育、衛生観念、共同体の作法、制度運用の粘り、災害対応のノウハウ……
これらは**お金に換算しにくいが、いざというとき換算される側”**です(危機・外交・産業・観光・医療・学術で交換レートが跳ねる)。


世界は「お金で動く」のではなく、「資本の変換で動く」。
お金は資本の一形態にすぎない。
歴史・伝統・教育・信頼・ネットワーク――それらが変換されるとき、社会は伸びる。
日露戦争期の外債は、金融国家の時間を買い、その時間が日本という資本束を育てた例だった。

2026年1月29日木曜日

Levinas and Shohei Ohtani: The "Reason of Athens" vs. The "Body of Jerusalem"

 

Levinas and Shohei Ohtani: The "Reason of Athens" vs. The "Body of Jerusalem"

Introduction: Why Does Shohei Ohtani "Resonate" So Deeply?

The frenzy surrounding Shohei Ohtani in the United States seems to transcend the mere dimension of "being a great baseball player." Of course, his performance is the greatest in the history of the sport. However, that is merely a necessary condition, not a sufficient one. The reason he touches the deepest parts of the souls of Americans—and indeed, people all over the world—lies in his very "Mode of Existence" (Way of Being).

To decipher this phenomenon, I would like to draw a somewhat unexpected auxiliary line: Emmanuel Levinas. He was a French philosopher of Jewish descent, born in Lithuania. By borrowing his philosophical perspective—specifically the contrast between "Athens" (Western Reason) and "Jerusalem" (Hebraic Tradition)—we can begin to see the true nature of why Shohei Ohtani shakes the modern soul to its core.

Levinas's Perspective: The "Knowledge" of Athens and the "Deed" of Jerusalem

Levinas, while situated within the lineage of phenomenology, attempted to critically overcome the "Ontology" of his mentor, Heidegger. While Heidegger asked, "What is Being?", Levinas argued that "Responsibility to the Other" comes first (Ethics as First Philosophy).

Crucial here is the contrast he draws between two modes of thinking: "Athens" and "Jerusalem."

  • Athens (Western Reason): This is the attitude of asking "Why?", seeking to understand and grasp the world. Here, "freedom" and "subjectivity" are paramount. One acts only after being convinced; one moves only after the logic holds up. This has been our "norm" since the dawn of modernity.

  • Jerusalem (Hebraic Tradition): Here, "Response" precedes the "Question." In Judaism, there is the phrase "Na'aseh V'nishma" (We will do, and we will hear). Before being convinced by logic, one practices the Commandments (Torah). It is an attitude of responding to an absolute command or a call from the Other before interjecting with the question "Why?"

In modern society, particularly under Western values, the "Athenian" way of life—thinking for oneself, deciding for oneself, and acting upon conviction—is considered virtuous. However, Levinas suggested the nobility of the "Jerusalem" way of being: the state of being passively "captured" by something, rather than insisting on subjectivity.

Baseball as "Torah" (The Law)

Let us return to Ohtani. Watching him, one strongly senses a "Jerusalem-style" physicality that modern people are losing.

For him, baseball is not merely a sport or a profession. It appears to be the "Torah" (Law) itself in the context of Levinas. There is no gap to insert "Athenian" questions like "Why do I play baseball?" or "What does baseball mean to me?" He immerses his entire existence in the "Law" called baseball. Eating, sleeping, training—everything is dedicated to observing this Law.

From a Western (Athenian) perspective, this might appear "too stoic" or "ascetic." But from the perspective of Jerusalem, it is not an act of suffering, but a figure continuously responding to a "Beruf" (Calling). There is no hesitation of "Why?"; like a mountaineer who climbs simply "because the mountain is there," or a devout Jew who observes the Law simply "because the Law is there," he just "Does."

Saintliness Filling the Void in America

Why does this figure of Ohtani "resonate" so powerfully in America, a Christian nation?

While America is ostensibly a secular state with separation of church and state, the ethics of Christianity (especially Protestantism) are deeply rooted in its spiritual soil. Diligence, temperance, devotion to God. These were once the virtues Americans idealized. However, modern society has become complex, and a vast "gray zone" has expanded between faith and daily life. Many people likely harbor the conflict of wanting to be devout while being swept away by secular desires and the logic of capitalism.

Into this space appeared Shohei Ohtani. He is not a Christian. However, his attitude toward baseball completely overlaps with the Archetype of the "Saint" or "Seeker" that Americans hold deep in their hearts.

He dedicates 24 hours a day, 365 days a year, to the "God" known as Baseball, without a single impurity. It is a devotion of 100% purity, with no gray or black zones. It seems he embodies, on the secular field of baseball, the state of being that monks and clergy once aimed for. Spectators feel a sense of religious "Awe" not just for his play, but for the "beauty of his life itself."

Conclusion: Salvation for Moderns Fatigued by "Freedom"

As Levinas's philosophy suggests, "freedom" and "subjectivity" are not everything for human beings. Modern people may actually be exhausted by the pressure to "live freely" and "think for yourself." Constantly asking "Why?" can sometimes weigh down life and bring our feet to a halt.

Ohtani's presence offers us another possibility. It is the beauty and strength of immersing oneself utterly in a mission or role given to oneself (Jerusalem), transcending logic and reasoning (Athens).

This is not a "suspension of thought." It is a state where the body and soul respond to something before thought occurs. We, too, in our daily work, parenting, and lives, are likely observing some kind of "Law" and "Doing" for the sake of someone, often without realizing it. We don't need to attach a "Why?" to everything. We proceed simply because there is a path. Through the rare existence of Shohei Ohtani, we may be rediscovering the brilliance of the simple, powerful "Body of Jerusalem," liberated from the "Reason of Athens."

レヴィナスと大谷翔平 ――「アテネの理性」と「エルサレムの身体」

 

レヴィナスと大谷翔平 ――「アテネの理性」と「エルサレムの身体」

はじめに:なぜ大谷翔平は「刺さる」のか

大谷翔平選手がアメリカで引き起こしている熱狂は、単に「野球が上手い」という次元を超えているように見えます。 もちろん、彼のパフォーマンスは野球史上最高です。しかし、それは必要条件であっても十分条件ではありません。彼がアメリカ人の、いや世界中の人々の魂の深い部分に触れているのは、その**「在り方(存在の仕方)」**にあるのではないでしょうか。

この現象を読み解くために、少し意外な補助線を引いてみたいと思います。エマニュエル・レヴィナス。リトアニア出身のユダヤ系フランス哲学者です。 彼の哲学、特に「アテネ(西洋的理性)」と「エルサレム(ヘブライ的伝統)」の対比という視点を借りると、大谷翔平という存在がなぜこれほどまでに現代人の心を揺さぶるのか、その正体が見えてきます。

レヴィナスの視点:アテネの「知」とエルサレムの「行」

レヴィナスは、現象学の系譜にありながら、師であるハイデガーの「存在論」を批判的に乗り越えようとした哲学者です。ハイデガーが「存在とは何か」を問うたのに対し、レヴィナスは「他者への責任」こそが第一であると説きました(第一哲学としての倫理)。

ここで重要なのが、彼が用いる**「アテネ」「エルサレム」**という二つの思考様式の対比です。

  • アテネ(西洋的理性): 「なぜ?」と問い、世界を理解し、把握しようとする姿勢です。ここでは「自由」や「主体性」が重視されます。納得してから行動する、理屈が通ってから動く。これが近代以降の私たちの「当たり前」です。

  • エルサレム(ヘブライ的伝統): こちらは「問い」よりも先に「応答」があります。ユダヤ教には「ナアセ・ベニシュマ(我々は為す、そして聞く)」という言葉があります。理屈で納得する前に、まず戒律(律法)を実践する。そこに「なぜ?」という問いを挟む前に、絶対的な命令や他者からの呼びかけに応答する姿勢です。

現代社会、特に西洋的な価値観では、「アテネ」的な生き方――自分で考え、自分で決め、納得して行動すること――が善とされています。しかし、レヴィナスはあえて「エルサレム」的な在り方、つまり主体的であることよりも、何かに受動的に「捕らえられている」ことの尊さを示唆しました。

「律法」としての野球

ここで大谷選手に話を戻しましょう。 彼を見ていると、現代人が失いつつある「エルサレム」的な身体性を強く感じます。

彼にとっての野球は、単なるスポーツや職業ではありません。それはレヴィナスの文脈における**「律法」**そのものに見えます。 「なぜ野球をやるのか?」「自分にとって野球とは何か?」といった「アテネ」的な問いを挟む隙間がないほど、彼は野球という「律法」に全存在を浸しています。食事も、睡眠も、トレーニングも、すべてがその「律法」を遵守するために捧げられています。

西洋的(アテネ的)な視点で見れば、それは「ストイックすぎる」「禁欲的だ」と映るかもしれません。しかし、エルサレム的な視点で見れば、それは苦行ではなく、**「召命(ベルーフ)」**に応答し続けている姿なのです。そこに「なぜ」という迷いはなく、ただ「山があるから登る」登山家のように、あるいは「そこに律法があるから守る」敬虔なユダヤ人のように、彼はただ「為して」います。

アメリカの「空洞」を埋める聖人性

この大谷選手の姿が、なぜキリスト教国であるアメリカでこれほど強烈に「刺さる」のでしょうか。

アメリカは建前上、政教分離の世俗国家ですが、その精神的土壌には深くキリスト教(特にプロテスタント)の倫理が根付いています。勤勉、節制、神への献身。これらはかつてアメリカ人が理想とした美徳でした。 しかし現代社会は複雑化し、信仰と生活の間には大きなグレーゾーンが広がっています。「敬虔でありたい」と願いつつも、世俗の欲や資本主義の論理に流されてしまう。そんな葛藤を抱える人々も多いでしょう。

そこに現れたのが、大谷翔平です。 彼はキリスト教徒ではありません。しかし、彼の野球に対する姿勢は、アメリカ人が心の奥底で理想とする**「聖人(セイント)」「求道者」**のアーキタイプ(原型)と完全に重なったのです。

「野球」という神に対して、一切の不純物なく、24時間365日を捧げる姿。グレーゾーンもブラックゾーンもない、純度100%の献身。 それは、かつての修道士や聖職者たちが目指した境地を、野球という世俗のフィールドで体現してしまっているように見えます。観客たちは、彼のプレーだけでなく、その**「生活そのものの美しさ」**に、宗教的な畏敬の念(Awe)を抱いているのです。

結論:「自由」に疲れた現代人への救い

レヴィナスの哲学が示唆するように、人間にとって「自由」や「主体性」だけが全てではありません。 現代人は「自由に生きろ」「自分で考えろ」という圧力に、実は少し疲れているのかもしれません。「なぜ?」と問い続けることは、時に生を重くし、足を止めさせます。

大谷選手の姿は、私たちに別の可能性を提示しています。 それは、理屈や理由付け(アテネ)を超えて、自分に与えられた使命や役割(エルサレム)にただひたすらに没頭することの美しさと強さです。

「思考停止」ではありません。思考よりも先に、身体が、魂が、何かに応答している状態。 私たちもまた、日々の仕事や子育て、生活の中で、知らず知らずのうちに何かの「律法」を守り、誰かのために「為して」います。それにいちいち「なぜ?」と理由をつけなくていい。ただ道があるから進む。 大谷翔平という稀有な存在を通じて、私たちはそんな「アテネの理性」から解き放たれた、シンプルで力強い「エルサレムの身体」の輝きを再発見しているのかもしれません。

2026年1月28日水曜日

There Is No Such Thing as "Normal Sex" —Deciphering Love as Learned Fetishism through Erotic Games, Chigo, and Bonobos—

 

There Is No Such Thing as "Normal Sex"

—Deciphering Love as Learned Fetishism through Erotic Games, Chigo, and Bonobos

Introduction: Human "Karma" Cannot Be Contained in "L, G, B, T"

Recent gender discourse is entirely too well-behaved. While people preach "acceptance of diversity," it ultimately looks like an attempt to force human beings into new labels—"L," "G," "B," "T"—and recover them within existing institutions.

But are human "sexuality" and "desire" really so simple that they can be classified by a few letters of the alphabet? Take a look into the abyss of the internet. There, you will find infinite fetishes—or what psychiatry might clinically categorize as paraphilias—swirling around every conceivable object: 2D characters, inanimate objects, imaginary creatures, and specific situations. Behind the "love" discussed in sanitized terms, there is always the chaotic desire of "Karma."

In this piece, I wish to present a radical truth based on the technology born from erotic games, the Chigo (acolyte) culture of Japan’s past, and primatology: "Sex is not an instinct, but a learned fetishism."


1. It Was "Erotica" That Evolved Technology

"I started using the internet to see porn." There is no need to be ashamed of this motivation. The evolution of IT technology has always been driven by the engine of desire known as "erotica."

Programmers and hackers of the past worked desperately to animate static images in erotic games, break copy protections, and display images even a fraction of a second faster over slow connections. Video compression, VR, and online payment systems—these are all byproducts born from the human obsession to "see" and "touch." Geniuses like Isamu Kaneko, the developer of Winny, also emerged from this underground heat. "Desire (The Id)" is the strongest driver of civilizational evolution.


2. Japanese Sexual Culture: Gender is Fluid

Until Western "sexual morality" was imported following the Meiji Restoration, Japanese sexuality was far more free—or rather, chaotic.

The practice of "Chigo" (young acolytes) and "Shudo" (the way of the young) in Buddhist temples and samurai society was not merely a means of sexual relief, but functioned as an educational system and a bond of patronage. Furthermore, the lineage of "Otokonoko" (cross-dressing boys) continues uninterrupted from the Wakashu Kabuki of the Edo period to modern-day "Babiniku" (Virtual Incarnation). Japanese people traditionally possess a highly developed sensibility for gender performance, finding appeal ("Moe") not in the biological sex of the flesh, but in the "performed sex (the sex of the soul)."

The same applies to age. In the past, a girl was considered an adult upon menarche, and marriage and childbirth in the mid-teens were commonplace. The modern line drawn at "under 18 is a child" is merely an "artificial wall" demanded by modern society, not an absolute biological standard.


3. Is "Sex" Instinct or Learning?

Here, I want to pose a fundamental question: "If human beings were raised in isolation, could they have sex based on instinct alone?"

The answer suggested by primatology research (such as Harlow's rhesus macaque experiments) is a resounding "NO." Monkeys raised in isolation from their mothers and peers could not engage in appropriate sexual behavior even after reaching sexual maturity. They did not know how to mount, nor did they know how to accept a mate.

In other words, the process of joining genitals and reaching ejaculation is not an automatic instinct like breathing or a heartbeat. It is a "highly complex learned behavior (skill)" acquired through the imitation of others and social experience.


4. All Love is "Fetishism"

If sex is the result of learning, then the premise that "heterosexuality is normal and homosexuality is an anomaly (a bug)" also collapses.

Looking at great apes like bonobos, sexual behavior is frequently performed between males and between females, not just for reproduction, but as a tool for greeting, reconciliation, and stress relief. As suggested in papers such as those in Nature, "indiscriminate sexual behavior (pan-sexuality)" may be the ancestral trait (default) of living things, and heterosexuality may be nothing more than a form specialized for reproductive efficiency.

If so, then heterosexuality, homosexuality, and love for 2D characters are all ingredients in the same pot—"Fetishism" imprinted post-natally. Whoever or whatever one loves, it is merely a "sexual propensity" learned by that person's brain; there is no superior or inferior, no normal or abnormal.


Conclusion: Doubt the "Cage" of Institutions

Currently, discussions on same-sex marriage and separate surnames are heated, but in the end, they are limited to the question of how to fit minorities into the "cage" of existing institutions.

However, what is truly necessary is to doubt the cage itself. "Marriage," "Names (Family)," and "Normal Sex" are all merely "fictions (institutions)" added later to manage society.

Human desire (The Id) is muddier, more comical, and more powerful. If you feel uncomfortable with the bleached, sanitized "LGBT" discourse, try peeling off that label and re-examining your own inner "Karma." What lies there may be "Life" itself—a wild energy that cannot be contained within any institution.

「正常なセックス」など存在しない ——エロゲ・稚児・ボノボから解き明かす、学習された性癖(フェティシズム/パラフィリア)としての愛——

 

「正常なセックス」など存在しない

——エロゲ・稚児・ボノボから解き明かす、学習された性癖(フェティシズム/パラフィリア)としての愛——

はじめに:きれいな「L・G・B・T」には収まらない、人間の「業」

最近のジェンダー論は、どうも行儀が良すぎる。 「多様性を認めよう」と言いながら、結局は「L」「G」「B」「T」という新しいラベル(カテゴリー)の中に人間を押し込め、制度の中に回収しようとしているだけに見える。

しかし、人間の「性」や「欲望」とは、そんなアルファベット数文字で分類できるほど単純なものだろうか? インターネットの深淵を覗いてみてほしい。そこには、あらゆる対象(二次元、無機物、空想生物、シチュエーション)に向けられた、無限の性癖(フェティシズム)が渦巻いている。 きれいごとで語られる「愛」の裏側には、常に混沌とした「業(カルマ)」としての欲望がある。

今回は、エロゲが生んだテクノロジー、かつての日本の稚児文化、そして霊長類学の視点から、**「性とは本能ではなく、学習されたフェティシズムである」**というラディカルな真実を提示したい。


1. テクノロジーを進化させたのは「エロ」である

「エロを見るためにインターネットを始めた」。 この動機を恥じる必要はない。なぜなら、IT技術の進化は、常に「エロ」という欲望のエンジンによって駆動されてきたからだ。

かつてのプログラマーやハッカーたちは、エロゲの動かない絵を動かし、プロテクトを突破し、低速回線で少しでも早く画像を表示させるために、死に物狂いで技術を磨いた。動画圧縮、VR、オンライン決済。これらはすべて、人間の「見たい、触れたい」という執念が生み出した副産物だ。 Winnyの開発者、金子勇氏のような天才も、アングラな熱気の中から生まれた。 「欲望(エス)」こそが、文明を進化させる最強のドライバーなのである。


2. 日本の性文化:ジェンダーは流動する

明治以降、西洋的な「性道徳」が輸入されるまで、日本の性はもっと自由(カオス)だった。

寺院や武家社会における**「稚児・衆道」は、単なる性欲処理ではなく、教育システムや主従の絆として機能していた。 また、「男の娘(女装少年)」**の系譜は、若衆歌舞伎から現代の「バ美肉」まで脈々と続いている。 日本人は伝統的に、肉体の性別よりも「演じられる性(魂の性)」に萌えるという、高度なジェンダー・パフォーマンスの文化を持っている。

年齢に関してもそうだ。かつては初潮を迎えれば大人と見なされ、10代半ばでの結婚・出産は当たり前だった。 現代の「18歳未満は子供」という線引きは、あくまで近代社会が要請した「人工的な壁」であり、生物学的な絶対基準ではない。


3. 「セックス」は本能か、学習か?

ここで一つの根源的な問いを投げかけたい。 「人間は、隔離して育てられても、本能だけでセックスできるのか?」

霊長類学の研究(ハーロウのアカゲザル実験など)が示す答えは、限りなく**「NO」**だ。 母親や仲間から隔離されて育ったサルは、性成熟しても、適切な性行動が取れなかった。マウントの仕方も、受け入れ方も分からないのだ。

つまり、性器を結合させて射精に至るプロセスは、呼吸や心拍のような自動的な本能ではない。 それは、他者の模倣や社会的な経験によって獲得される**「高度な学習行動(スキル)」**なのだ。


4. すべての愛は「フェティシズム」である

セックスが学習の結果であるなら、「異性愛が正常で、同性愛が異常(バグ)」という前提も崩れ去る。

ボノボなどの類人猿を見れば、性行動は生殖のためだけでなく、挨拶や仲直り、ストレス解消のツールとして、オス同士・メス同士で頻繁に行われている。 ネイチャー等の論文でも示唆されるように、**「無差別な性行動(パン・セクシャル)」こそが生物の祖先形質(デフォルト)**であり、異性愛はそこから生殖効率のために特化した一つの形態に過ぎないのかもしれない。

そう考えれば、異性愛も、同性愛も、二次元への愛も、すべては後天的に刷り込まれた**「フェティシズム(偏愛)」**という同じ鍋の中にある具材だ。 誰が誰を(何を)愛しても、それはその人の脳が学習した「性癖」であり、そこに優劣も正常異常もない。


結論:制度という「檻」を疑え

現在、同性婚や夫婦別姓の議論が盛んだが、それらは結局「既存の結婚制度」という檻の中に、どうやってマイノリティを入れるかという話に終始している。

しかし、本当に必要なのは、その檻自体を疑うことではないか。 「結婚」も「名前(家)」も「正常な性」も、すべては社会を管理するために後付けされた「フィクション(制度)」に過ぎない。

人間の欲望(エス)は、もっとドロドロとしていて、滑稽で、力強いものだ。 きれいな言葉で漂白された「LGBT」論に違和感を覚えるなら、一度そのラベルを剥がし、自分の内なる「業」を見つめ直してみてほしい。 そこにあるのは、制度には収まりきらない、野生のエネルギーとしての「生」そのものかもしれない。