2026年1月28日水曜日

There Is No Such Thing as "Normal Sex" —Deciphering Love as Learned Fetishism through Erotic Games, Chigo, and Bonobos—

 

There Is No Such Thing as "Normal Sex"

—Deciphering Love as Learned Fetishism through Erotic Games, Chigo, and Bonobos

Introduction: Human "Karma" Cannot Be Contained in "L, G, B, T"

Recent gender discourse is entirely too well-behaved. While people preach "acceptance of diversity," it ultimately looks like an attempt to force human beings into new labels—"L," "G," "B," "T"—and recover them within existing institutions.

But are human "sexuality" and "desire" really so simple that they can be classified by a few letters of the alphabet? Take a look into the abyss of the internet. There, you will find infinite fetishes—or what psychiatry might clinically categorize as paraphilias—swirling around every conceivable object: 2D characters, inanimate objects, imaginary creatures, and specific situations. Behind the "love" discussed in sanitized terms, there is always the chaotic desire of "Karma."

In this piece, I wish to present a radical truth based on the technology born from erotic games, the Chigo (acolyte) culture of Japan’s past, and primatology: "Sex is not an instinct, but a learned fetishism."


1. It Was "Erotica" That Evolved Technology

"I started using the internet to see porn." There is no need to be ashamed of this motivation. The evolution of IT technology has always been driven by the engine of desire known as "erotica."

Programmers and hackers of the past worked desperately to animate static images in erotic games, break copy protections, and display images even a fraction of a second faster over slow connections. Video compression, VR, and online payment systems—these are all byproducts born from the human obsession to "see" and "touch." Geniuses like Isamu Kaneko, the developer of Winny, also emerged from this underground heat. "Desire (The Id)" is the strongest driver of civilizational evolution.


2. Japanese Sexual Culture: Gender is Fluid

Until Western "sexual morality" was imported following the Meiji Restoration, Japanese sexuality was far more free—or rather, chaotic.

The practice of "Chigo" (young acolytes) and "Shudo" (the way of the young) in Buddhist temples and samurai society was not merely a means of sexual relief, but functioned as an educational system and a bond of patronage. Furthermore, the lineage of "Otokonoko" (cross-dressing boys) continues uninterrupted from the Wakashu Kabuki of the Edo period to modern-day "Babiniku" (Virtual Incarnation). Japanese people traditionally possess a highly developed sensibility for gender performance, finding appeal ("Moe") not in the biological sex of the flesh, but in the "performed sex (the sex of the soul)."

The same applies to age. In the past, a girl was considered an adult upon menarche, and marriage and childbirth in the mid-teens were commonplace. The modern line drawn at "under 18 is a child" is merely an "artificial wall" demanded by modern society, not an absolute biological standard.


3. Is "Sex" Instinct or Learning?

Here, I want to pose a fundamental question: "If human beings were raised in isolation, could they have sex based on instinct alone?"

The answer suggested by primatology research (such as Harlow's rhesus macaque experiments) is a resounding "NO." Monkeys raised in isolation from their mothers and peers could not engage in appropriate sexual behavior even after reaching sexual maturity. They did not know how to mount, nor did they know how to accept a mate.

In other words, the process of joining genitals and reaching ejaculation is not an automatic instinct like breathing or a heartbeat. It is a "highly complex learned behavior (skill)" acquired through the imitation of others and social experience.


4. All Love is "Fetishism"

If sex is the result of learning, then the premise that "heterosexuality is normal and homosexuality is an anomaly (a bug)" also collapses.

Looking at great apes like bonobos, sexual behavior is frequently performed between males and between females, not just for reproduction, but as a tool for greeting, reconciliation, and stress relief. As suggested in papers such as those in Nature, "indiscriminate sexual behavior (pan-sexuality)" may be the ancestral trait (default) of living things, and heterosexuality may be nothing more than a form specialized for reproductive efficiency.

If so, then heterosexuality, homosexuality, and love for 2D characters are all ingredients in the same pot—"Fetishism" imprinted post-natally. Whoever or whatever one loves, it is merely a "sexual propensity" learned by that person's brain; there is no superior or inferior, no normal or abnormal.


Conclusion: Doubt the "Cage" of Institutions

Currently, discussions on same-sex marriage and separate surnames are heated, but in the end, they are limited to the question of how to fit minorities into the "cage" of existing institutions.

However, what is truly necessary is to doubt the cage itself. "Marriage," "Names (Family)," and "Normal Sex" are all merely "fictions (institutions)" added later to manage society.

Human desire (The Id) is muddier, more comical, and more powerful. If you feel uncomfortable with the bleached, sanitized "LGBT" discourse, try peeling off that label and re-examining your own inner "Karma." What lies there may be "Life" itself—a wild energy that cannot be contained within any institution.

「正常なセックス」など存在しない ——エロゲ・稚児・ボノボから解き明かす、学習された性癖(フェティシズム/パラフィリア)としての愛——

 

「正常なセックス」など存在しない

——エロゲ・稚児・ボノボから解き明かす、学習された性癖(フェティシズム/パラフィリア)としての愛——

はじめに:きれいな「L・G・B・T」には収まらない、人間の「業」

最近のジェンダー論は、どうも行儀が良すぎる。 「多様性を認めよう」と言いながら、結局は「L」「G」「B」「T」という新しいラベル(カテゴリー)の中に人間を押し込め、制度の中に回収しようとしているだけに見える。

しかし、人間の「性」や「欲望」とは、そんなアルファベット数文字で分類できるほど単純なものだろうか? インターネットの深淵を覗いてみてほしい。そこには、あらゆる対象(二次元、無機物、空想生物、シチュエーション)に向けられた、無限の性癖(フェティシズム)が渦巻いている。 きれいごとで語られる「愛」の裏側には、常に混沌とした「業(カルマ)」としての欲望がある。

今回は、エロゲが生んだテクノロジー、かつての日本の稚児文化、そして霊長類学の視点から、**「性とは本能ではなく、学習されたフェティシズムである」**というラディカルな真実を提示したい。


1. テクノロジーを進化させたのは「エロ」である

「エロを見るためにインターネットを始めた」。 この動機を恥じる必要はない。なぜなら、IT技術の進化は、常に「エロ」という欲望のエンジンによって駆動されてきたからだ。

かつてのプログラマーやハッカーたちは、エロゲの動かない絵を動かし、プロテクトを突破し、低速回線で少しでも早く画像を表示させるために、死に物狂いで技術を磨いた。動画圧縮、VR、オンライン決済。これらはすべて、人間の「見たい、触れたい」という執念が生み出した副産物だ。 Winnyの開発者、金子勇氏のような天才も、アングラな熱気の中から生まれた。 「欲望(エス)」こそが、文明を進化させる最強のドライバーなのである。


2. 日本の性文化:ジェンダーは流動する

明治以降、西洋的な「性道徳」が輸入されるまで、日本の性はもっと自由(カオス)だった。

寺院や武家社会における**「稚児・衆道」は、単なる性欲処理ではなく、教育システムや主従の絆として機能していた。 また、「男の娘(女装少年)」**の系譜は、若衆歌舞伎から現代の「バ美肉」まで脈々と続いている。 日本人は伝統的に、肉体の性別よりも「演じられる性(魂の性)」に萌えるという、高度なジェンダー・パフォーマンスの文化を持っている。

年齢に関してもそうだ。かつては初潮を迎えれば大人と見なされ、10代半ばでの結婚・出産は当たり前だった。 現代の「18歳未満は子供」という線引きは、あくまで近代社会が要請した「人工的な壁」であり、生物学的な絶対基準ではない。


3. 「セックス」は本能か、学習か?

ここで一つの根源的な問いを投げかけたい。 「人間は、隔離して育てられても、本能だけでセックスできるのか?」

霊長類学の研究(ハーロウのアカゲザル実験など)が示す答えは、限りなく**「NO」**だ。 母親や仲間から隔離されて育ったサルは、性成熟しても、適切な性行動が取れなかった。マウントの仕方も、受け入れ方も分からないのだ。

つまり、性器を結合させて射精に至るプロセスは、呼吸や心拍のような自動的な本能ではない。 それは、他者の模倣や社会的な経験によって獲得される**「高度な学習行動(スキル)」**なのだ。


4. すべての愛は「フェティシズム」である

セックスが学習の結果であるなら、「異性愛が正常で、同性愛が異常(バグ)」という前提も崩れ去る。

ボノボなどの類人猿を見れば、性行動は生殖のためだけでなく、挨拶や仲直り、ストレス解消のツールとして、オス同士・メス同士で頻繁に行われている。 ネイチャー等の論文でも示唆されるように、**「無差別な性行動(パン・セクシャル)」こそが生物の祖先形質(デフォルト)**であり、異性愛はそこから生殖効率のために特化した一つの形態に過ぎないのかもしれない。

そう考えれば、異性愛も、同性愛も、二次元への愛も、すべては後天的に刷り込まれた**「フェティシズム(偏愛)」**という同じ鍋の中にある具材だ。 誰が誰を(何を)愛しても、それはその人の脳が学習した「性癖」であり、そこに優劣も正常異常もない。


結論:制度という「檻」を疑え

現在、同性婚や夫婦別姓の議論が盛んだが、それらは結局「既存の結婚制度」という檻の中に、どうやってマイノリティを入れるかという話に終始している。

しかし、本当に必要なのは、その檻自体を疑うことではないか。 「結婚」も「名前(家)」も「正常な性」も、すべては社会を管理するために後付けされた「フィクション(制度)」に過ぎない。

人間の欲望(エス)は、もっとドロドロとしていて、滑稽で、力強いものだ。 きれいな言葉で漂白された「LGBT」論に違和感を覚えるなら、一度そのラベルを剥がし、自分の内なる「業」を見つめ直してみてほしい。 そこにあるのは、制度には収まりきらない、野生のエネルギーとしての「生」そのものかもしれない。

戦争抑止のリアリズム ——「むき身の牡蠣」が地獄を見ないための、唯一の一次予防——

 

戦争抑止のリアリズム

——「むき身の牡蠣」が地獄を見ないための、唯一の一次予防——

はじめに:軍役でおなかを壊すストレスを知っていますか?

私は予備自衛官(衛生の予備士官)です。 だからやや生々しい話をします。 自衛隊の訓練は、勇ましいものではありません。それは「生理的尊厳の維持」のための普段の努力です。

プライバシーのない集団部屋での集団生活。分刻みのスケジュールで、自由時間は少なく早寝早起きで娯楽の時間も僅か。 あまりにも日常とかけ離れた生活はストレスとなり過敏性腸症候群になって品弁を繰り返す。歯根には膿瘍が再発し、その後家に帰っても慢性化で何かストレスがあると歯ぐきから腫物が飛び出してきます。 訓練期間を早めて帰ってしまったり予備役止めてしまう人も多いです。これは演習の話です。実戦なら、単に生活の不自由さや快適さがないことに加えて、ここに「死傷の恐怖」や「家族へのおもい」、「仲間との良くも悪くも人間関係の様々なこと」が加わります。

ウクライナのYouTuberの動画を毎日見ています。 彼は前線の兵士ではありませんがロシア軍の民間インフラ攻撃(国際法違反)によりマイナス20度の極寒、停電した暗闇の中でいつ普及するかもわからない電気の復旧を待ちます。徐々に精神が削られていきメンタル不調のなかも配信を続けています。 それが戦争です。銃後でさえこうです。エアコンの効いた部屋で「戦う覚悟」を語ることと、排せつ物処理が難しいこともある不衛生な塹壕で震えることの間には、限りない断絶があります。

私の祖父母は戦中派で祖父は2人とも戦地に行きました。祖母たちは空襲に遭い大阪のお御堂さんの焼ける豪華を見ながら中之島まで逃げていったそうです。もう一人の祖母も空襲で家財系図をやかれ戦後は食料良達のために奔走します。父は「戦争を知らない子供たちさ」などの北山修のフォーククルセイダーズのフォークソングが青春の戦後派ですが子供の頃に兄弟で食べ物を取り合った記憶があります。

私の子供の頃は戦争体験者が生きていましたし、朝の連続テレビドラマにせよ大河ドラマにせよ戦時中ものは定番で学校でも戦争の実情を伝える努力をしていたようです。

現在でも戦争教育はあると思いますがなかなか私の父も私も含めて戦争の感覚はどんどん失われていると思われます。

戦争や軍隊生活も昔と今では違うので第二次世界大戦以前の軍隊生活や戦争体験は今とは違うかもしれません。しかし向いている人はいるかもしれませんが私を含めて現在の若者から年配者まで戦時下の生活を軍隊生活であれ銃後であれすることはストレスを感じると思います。 だからこそ「国防(軍備)」が必要です。 それは戦争をするためではなく戦争、それ以前に軍隊生活を物理的に回避(一次予防)するためです。はっきり言って病気になったり怪我をしたり心身を壊したりしたら治療できても治っても負けくらいに思って体を大切にするのがこれからの人生には大切です。不養生して体を壊したら治療できても治っても損です。

戦わずして勝つのではなくそもそも戦わない状態をキープできるかどうかです。戦争は勝っても国内が戦場になれば負けです。現代という時代はもう戦争になった時点で圧勝しようがどうしようが負けです。ストレス、トラウマ、事態が収まった後の気持ちの折り合いもすんなりいくとは限りません。以前のような生活や仕事が残されていて戻れるかも分かりません。

「金持ち喧嘩せず」ではありませんが「争いになったら負け」です。争いどころか戦争になったらもう目も当てられません。


1. 日本はすでに「殻のない牡蠣」である

明治の日本人は、黒船を見て「このままでは植民地になる」と直感し、必死で富国強兵に走りました。 しかし令和の日本人は、黒船以上の危機が迫っているのに、まだ「平和憲法」と「日米同盟」という殻の中にいるつもりでいます。

はっきり言います。その殻は、もう割れています。 私たちは今、捕食者のうろつく真冬の海に、むき身のままで放り出された牡蠣のようなものです。

2. 「アメリカが守ってくれる」というカルト宗教

「いざとなれば米軍が来てくれる」。 これは現実ではなく、一種の信仰(カルト)です。

日米安保条約第5条をよく読んでください。「自動的に参戦する」とは一言も書いてありません。「憲法上の規定及び手続に従って行動する」とあります。 つまり、アメリカ議会が「NO」と言えば、米軍は来ません。

考えてみてください。 もし台湾や尖閣で有事が起きた時、アメリカ大統領はこう考えるでしょう。 「日本を守るために、ロサンゼルスやニューヨークが核攻撃されるリスクを冒せるか?」 答えは明白です。 彼らは武器や情報はくれるでしょう。しかし、血を流して戦うのは、私たち日本人だけです。 ウクライナを見れば、それが「世界のリアル」であることは明らかです。「アメリカが守ってくれたらラッキー」くらいに思っておくのが無難です。アメリカが守ってくれなかったらどうしましょう。誰かに生殺与奪の権を渡すのは鬼滅の刃ではありませんが懸命とは言えないどころか愚か者のすることだと有名な投資家なら言うかもしれません。

3. 国防とは「戦争のワクチン(一次予防)」である

「軍備を持つから戦争になる」という主張があります。 医学的に言えば、これは「ワクチンを打つから病気になる」と言っているのと同じです。

  • 一次予防(発症させない): こちらが強力な反撃能力(長射程ミサイル、無人機、サイバー攻撃能力)を持ち、「日本に手を出したら、お前の国もただでは済まないぞ(コストが合わない)」と相手に思わせる。これが**「抑止力」**です。戦争という病気を未然に防ぐ、唯一のワクチンです。
  • 二次予防(発症後の治療): 抑止が破れ、敵が上陸し、本土決戦となる。これは「手遅れのがん治療」です。今のウクライナが置かれている、最も苦しいステージです。

私たちが目指すべきは、断じて「勇ましく戦うこと」ではありません。 「戦うなんて割に合わない」と相手に諦めさせることです。

4. 「軍隊」を知ることもまた、予防である

色々な歴史的経緯で、軍隊や兵器に対してアレルギー反応を示し日本人も多くいます。しかし、「知らない」ことは「備えられない」ことです。

軍隊とはどういう組織か。兵器とは扱いも整備も自分でやらないといけなくてそれがどんなに面倒くさいか。兵士の生活や訓練がいかに神経を使うか、実際に戦争が始まったらさらにがいかに過酷になりうるのか。 これらを具体的に知る(0次予防)ことで、初めて現実的な議論ができます。

  • 「人が死ぬのが嫌なら、無人兵器(ドローン)を大量配備しよう」
  • 「兵士のストレスを減らすために、処遇や装備(アメニティ)を改善しよう」
  • 「いざという時に予備自衛官が動きやすいよう、法制度を整備しよう」

これらは「戦争賛美」ではありません。「リアリズムに基づく人命救助」です。 現場を知らないまま反対することは、手術室を見たこともない人が「メスは危険だから捨てろ」と言って、患者(国民)を殺すようなものです。

結語:静かなる「マインドセットの再軍備」を

今、この瞬間も、日本の防衛力を底上げしようと必死に動いている現場の人々がいます。 彼らは「戦争屋」と罵られながらも、国民が「むき身の牡蠣」として食われないよう、必死でチタン合金の殻を編んでいます。

彼らに必要なのは、熱狂的な喝采ではありません。 昔1970年頃「日本人は戦争と水はタダだと思っている」という言葉が流行りました。しかし現代の我々はコストとリスクをちゃんと考えるようになりました。国民一人ひとりが、「平和はタダではない」「全てのものにはコストがかかる」「ただより高いものはない」「コストがかからないように見えても実はトレードオフで機会費用を払っている」「裁判になる前に解決するのがかしこい」「弁護士も行政も年金も政党も宗教もいろんな組織も最近はあてにならない」「自分の身は自分で守るしかない」という冷徹な事実を受け入れ、国防強化という「保険料」を支払うことに合意するしかありません。

戦争に行きたくないなら、備えましょう。 あのウクライナやロシアの兵士たちのようにが寒くて臭くて痛い塹壕の中で震えたくないなら、今、思考のOSを入れ替えましょう。

「備えあれば憂いなし」ではありません。 「備えても憂いはあるが、備えなければ死あるのみ」くらいに構えましょう。 これが、令和の日本人が直視すべき、生存のためのトリアージです。

最後に繰り返しますが「戦争になったら勝っても負け」「戦いになったら負け」です。「戦争にならないように、争いにならないように、2手345手と先手を打ちかつ多方面に同時に手を打ち続ける地道な泥臭い懐も痛む実務処理が大切です。

2026年1月27日火曜日

リベラリズムと「リベラル」はべつもの、古典的リベラルと現代的リベラルと「ふわっとリベラル」の奇妙な関係


 

リベラリズムと「リベラル」はべつもの、古典的リベラルと現代的リベラルと「ふわっとリベラル」の奇妙な関係

 

 昔は訳の分からないものを「神学者の論争」といいました。

 冷戦終結前にとあるエッセイストが「岩波語」という言葉を作りました。

 冷戦終結で資本論を含めた左翼関係の本が神田やそれ以外の古本屋で山積みになっていた時期がありました。

 広い意味の社会主義は現役で我々が常に考えすぎなければいけない政治的に緊張感のあるテーマです。

 社会主義の一派であるマルクス主義や共産主義は一次は大流行して社会主義の代表どころかマルクス主義こそ社会主義みたいな倒錯したマウントをとってましたが今はすたれました。

 ファッションやブームだったわけです。

 流行ったものは意外と歴史に残りません。

 残らないので実証主義的な後世の歴史家が過小評価してしまうか見落としてしまうものさえあります。

 流行りでなくても社会を実効支配というか支えているのは地道で泥臭くて単調な実務作業です。

 そういう書類だのデータなどは処分や消去されてしまいます。

 むしろマイナーだったり希少だったりするものが残ったりします。

 すると残ったマイナーなものや希少なものが後世には目立ってそれを前面に歴史を構築しがちになります。

 それではあかんということでアナール派や常民の歴史や網野善彦のような人がふすまの裏張りで使われて残されていた古い文献を発掘して当時の実際の下部構造の再現、分析を試みたわけです。

 するとでるわでるわ、歴史学の誤りが大量に出てきて歴史学にショックを与えます。

 「網野善彦ルネサンス」などと持ち上げられて一般でも流行りました。

 氏の『日本の歴史を読みなおす』だか『続・日本の歴史を読みなおす』のどちらかが一般向きに分かりやすく書かれてめちゃいい本なのでおすすめです。

 まあ氏に対する批判も年月が過ぎれば多くなってきましたが、現代歴史学のちゃんとした人たちは実証主義のバランスを取ってきちんと学問、研究をしている人もいます。

 しかし社会のどこの領域もそうですがまだ前時代の左翼やマルクス主義の影響は強くて

未だに加入戦術実行中です。

 それはどこの世界でも例外ではなく歴史学の世界でも今でも唯物史観を浸透させようとする人がいると思われますので注意が必要です。

 意外と身近に浸透しているので例えば前の選挙では革マル系労組から出馬の立憲民主党議員10名弱は全員当選しているようです。

 網野善彦も50年代山村工作を指揮した若手のトップかナンバー2です。

 網野善彦の親戚の中沢何某も左的なことを熱く語る傾向があるので感情的に主義が根を張っているのでしょう。

 

 

・論理的、数学的な目で人文科学や社会科学を分類する。

 

 何というか人文とか社会科学系の人というと文系の人になりますが熱くなりやすい人が多いです。

 冷静にしゃべっているように見えても迸らないけどうちに秘めた情念が垣間見えたりします。

 岩波語の書籍は30年くらい前まではあふれてました。

 今でも古い岩波文庫を読めば触れることができると思います。

 そういう意味では岩波文庫はタイムカプセルですので大切にしましょう。

 岩波語の特徴は難解なこと、結論がマルクス主義が正しいと決まっていることにあります。

 マルクス主義が難解だから文章が難解になるとも言えますし、マルクス主義を正しいと結論付けないといけないから文章が難解になるという持ちつ持たれつの関係です。

 現在はマルクス主義が正しいという結論を出さなくてもよくなったので岩波がどうなっているか知りませんが文章が分かりやすくなりました。

 厨二病っぽいというか左翼小児病っぽい文章も減りました。

 ただ何となく捨てられないプライドがあるのか分かりやすくしたらリベラルっぽくなりました。

 本来社会主義の本流たるマルクス主義は暴力革命で資本主義から共産主義に社会を前進、解放させるための理論が必要です。

 「暴力革命」が昔は戦中派も多かったし戦争から近い、あるいは冷戦中も世界中で代理戦争が行われていましたから暴力自体がそれほど違和感がなく子供向けのアニメでも暴力いっぱいでした。

 最近はアニメはいいですが実際の社会で暴力を肯定すると問答無用でバッシングされるようになってしまいました。

 アメリカは冷戦後でも各国で戦争を繰り返しましたが、「テロは絶対ダメ」みたいないい暴力と悪い暴力は違う論を展開しています。

 まあ当然でいい暴力と悪い暴力は分けないといけません。

 AIが賢いわけでもないですが(衆知の確率分布だから)やはりいい暴力悪い暴力論で突っ込んだ質問をするとGeminiは賢いのでいいですがチャッピーは論旨無茶苦茶で反論、説得してこようとします。

 というわけで自由と自由主義を分かりやすくまとめます。

 

 

・政治色のない純粋な自由主義

 

 これは古典的なリベラリズムと言ってもいいかもしれません。

 リベラルという言葉はリベラリズムと違う言葉と区別します。

 「リベラル」は現代的なリベラリズムの一形態とも言えますが経済の新自由主義などは古典的リベラリズムの仲間ですのでいわゆる「リベラル」と呼び捨てられるものとは反対の考え方になります。

 社会科学的に説明すると政治やら利害関係やらCOIやら色というか不純物が混じりますので論理学的、哲学的に説明していきます。

 

 古典的リベラリズム=個人主義、主体の絶対的自由

 現代的リベラリズム=集団主義的、誰かの自由を守るために誰かの自由を規制する

 

という対比になります。

 両社は前者は万人の自由の絶対的肯定、後者は一部のものの自由を確保するためにそれ以外の自由は規制するという感じで違う思想です。

 両社とも自由を使って定義しているところが共通点でしょうか。

 「自由」という言葉の定義は深く考えるとややこしくなる種類のものなのでここでは置いておきます。

 両者とも誰かの自由を尊重しようという意味での共通点があります。

 ただその誰かが違います。

 自由の程度も違います。

 後者は「マイナスの自由」すなわち誰かの不自由を肯定します。

 その面だけ見ると「これは自由主義ではないのではないか」という風にも考える人もいるでしょうから混乱します。

 混乱している人が多いので今の世界も混乱しています。

 混乱の中心は「リベラル」にあります。

 後者には自由の分配とも言っていいような経済学的ともいえるべき観点が入っているのかもしれません。

 ただこの「分配」というのは争いの元です。

 世界中の政治を見ればわかると思います。

 一国の政治も国際政治も分配の問題です。

 以下に多くの分け前を得るのかが政治のテーマと言って過言ではありません。

 古典的なリベラリズムやいっそのこと左翼権威主義というか社会主義の程度を強めればこの問題は薄くなります。

 そうするといろいろ実務的な泥臭い調整をするのをやめたり、辞めざるを得なくなったり、めんどくさくなったりすればこのどちらかに全振りすればいいです。

 古典的リベラリズムは「結果を受け入れよ」で終わります。

 左翼社会主義というか権威主義の場合は「支配階級が配分するのを受け入れる」みたいな形になります。

 誰かにやってもらうという発想です。

 

・古典的リベラリズムを深掘りすると

 

 純粋な古典的リベラリズムは、と言っても人の世の現実的なレベルの話で形而上学的というか観念的な自由主義は無理ですから実際の社会制約の可能な範囲で話します。

 極論いうと古典的リベラリズムは、

 「自分のしたいことを達成するために人を殺してでも頑張る」

みたいになります。

 必然的に個人主義的になります。

 分配と調整を考慮に入れる現代的リベラリズムというか「リベラル」はどちらかというとというか明白に集団主義的になります。

 集団主義とは社会思想でいえばその要素を含まないものの方が少ないかもしれません。

 「完全な個人主義と個人的自由を理念とする」というのはもしかしたらわりかし新しい思想潮流かもしれません。

 無人島に漂着したロビンソンクルーソーは古典的リベラリストです。

 というかそれにしかなれません。

 他人がいないからです。

 他人がいて交流を始めるとどうしても思うようにならないことも出てきます。

 社会的「不自由」の発生です。

 もちろんロビンソンクルーソーもめちゃ不自由です。

 文明から離れて人もいない無人島で一人でサバイバルしないといけません。

 ただ「社会的」不自由はないです。

 何をするのも自由です。

 社会や他人へ配慮する必要がありません。

 古典的リベラリズムは社会の中でも他人がいる中でも「ロビンソンクルーソーの様であれ」と言っているようなものです。

 「他人や社会に迷惑をかけたらどうするんだ」「それじゃあ社会が成り立たないじゃないか」という声が聞こえてきそうです。

 別に社会に迷惑をかけようが他人に迷惑をかけようが社会が成り立たなかろうがそれは関係ありません。

 別問題です。

 古典的自由主義は別に結果を考えませんし、考えなくてもいいです。

 結果など考えたら理論の純粋性、論理性、抽象性、全部なくなります。

 社会と折り合いをつけるのは次の段階での話です。

 そういうのは古典的リベラリズムとは独立事象です。

 ここを明確に区別しないと整合的、客観的、冷静な思考や推論やら議論はできません。

 頭の中で区別できずこんがらがって感情的になったりヒステリックになっているのが多いのが悪く言えば問題、よく言えば人間らしくていいのでしょう。

 

 

・そもそも個人的な自由を追求すると何があかんのか

 

 「個人的なリベラリズムは社会の秩序と安定の敵」と短絡的に考える人が世の中多くいます。

 あまり他人も世の中も信じていないというか性悪せずが骨の髄までしみ込んでいるというか信用なり社会関係資本的な発想がみじんもない感じの人にありがちです。

 「みじんもなくもないけど現実的、経験的にはあり得ない」というより知性が高い考え方をする人もいます。

 社会や他人や自分や自由意志について悲観的な思考を持っているのかもしれません。

 そもそもこれは人類思想史における大テーマです。

 短絡的な悲観論はちょっと高校社会の思想倫理でも履修するのがお勧めです。

 そもそも個人的な自由を追求すると世の中よくなるという思想があります。

 あるだけではなく大昔から人類文明のトップランナーであり続けた中国ではそっちの方が勝ちました。

 「儒家対法家の戦い」です。

 法家は性悪説で儒教は性善説です。

 中国最初の統一王朝の秦は法家思想で国家設計をしましたがあっという間につぶれてしまいました。

 秦がつぶれたせいかどうかは分かりませんが次の漢王朝は儒教を国家の統治思想とします。

 あまり言い切ったり断言したらあかんという人もいますが文章を読みやすく分かりやすくするためにはある程度の言い切りや断言はしないと書く方も読む方もやっていられませんのでそこらへんは空気を読んでいただけると幸いです。

 儒教は性善説です。

 別に法律や制度で締め付けなくても古代には理想的な国があってそれを真似すればよいという考え方です。

 また性善説です。

 人間は孟子の惻隠の情とかいろいろいい資質があってほっておいても勝手にいいことをしてしまうという考え方です。

 現代的な言葉で言えば信用やら社会関係資本を重視するという考え方でしょうか。

 

 もしそうなら人間がほったらかしで全員を自由にさせた方がいい社会になると言えるかもしれません。

 そういう視点から見たら「古典的リベラリズムでは社会は悲惨なことになる」という考え方は性悪論の人で易しくない社会で生まれ育って優しい社会があることを信じられない人なのかもしれません。

 それはそれでかわいそうなのかもしれません。

同じ社会でもこういうのはまだらです。

お釈迦様やら儒家やらは王族だったり王族と面会ができる立場の上層階級ですから上層階級の社会というのは社会関係資本が分厚いです。

性善説とは言わないまでもかりに完全な個人的な自由主義でふるまってもそれが上層の社交界で評判を落とすなら得はしないでしょう。

持たざる者はその日暮らしというか今を生き延びるのに必死ですから犯罪親和性が高くなります。

前者は楽観主義、性善説になりがちで後者は悲観主義、性悪説になりがちという面もあるかもしれません。

金持ち喧嘩せずと言いますし、心理学でもマズロー理論みたいなものもあります。

 仏教も教えの中心とは関係ありませんが性善説的な方向に進化していきます。

 仏性みたいなものが人間の心にはあって誰でも解脱できるという考え方です。

 でも悪いことたら餓鬼道だの阿修羅界だの畜生界だの地獄界を巡らないかんという考え方で(六道輪廻は仏教ではなくバラモン教のものだと思いますが)なんとなく人間を肯定的に見ています。

 仏教国は世界で少ないですが内的秩序がある国が多そうです。

 日本、ブータン、チベット、タイ、ミャンマー、モンゴルなどが挙げられます。

 実証研究は難しい面があるかもしれませんがその場合は経験や症例というのが大切で経験といえばイギリス経験論のジョンロックがいます。

 ジョンロックといえば自然権ですが、これは権利というより人間には常識とか習慣とか伝統とか言うものがあってほっておけばそういうのに従って逸脱しない、みたいな現実的で大人っぽい見方です。

 思想界の余裕派とも言えるかもしれません。

 近代経済学にはアダムスミスの「神の見えざる手」というものがあります。

 これは古典主義経済学の源流で今の資本主義も新自由主義もグローバリズムもマルクス主義も基本はアダムスミスをベースとしています。

 いわゆる共産国とか社会主義国とかいうものがいつでもあまりにも経済が停滞しすぎるため誤解されやすいのですがマルクス主義は究極の進歩主義です。

 各セクトの機関誌の名前もその他も「前進」とか「進歩」とかそういうのが旗印です。

 彼らは共産主義社会が生産性を向上させイノベーションを加速させると信じていました。

彼らの考え方はこうです。

 「人間は数寄にやらせると欲があるから非効率的なことをしてしまい本当に効率的なことをしない傾向がある。だから生産手段の共有化や階級をなくすことでそういう欲に基づいた非効率とイノベーションの阻害要因をなくせる」

というものです。

 ハイエクはどんなに人類が進歩して頭がよくなってもそういうことはないという立場でそれはAIやらスパコンやら量子コンピュータが発展しても変わらない構造的な問題という見方をしていますが、実際にはテクノロジーがハイエクの壁を破ってそういう社会を実現するかもしれません。

 ただしそういう社会は欧米系のSFではユートピアかディストピアとえがかれることが多いですがコジェーブなどの思想家や日本系の星新一などに代表されるSFとか未来予想では退屈な未来という風に書かれることが多くて西洋と東洋では見方が違うのかもしれません。

 アダムスミスは経済の方面では市場主義でやればよい、各人が個人的リベラリズムで勝手気ままにやれば神の見えざる手が勝手に調和をもたらしてくれる、的な楽観論です。

 キリスト教系というか聖書系啓典宗教も楽観論的な感じがします。

 神様が「よきにはからってくれるだろう」みたいな匂いがします。

 ドストエフスキーの小説読んでいても結局逸脱しても神が補正をかけてハッピーエンドでない場合もありますが調和や秩序は取り戻される感じになっています。

 まあドストエフスキーは生涯帝政ロシアに見張られていたので変なことは書けなかったのかもしれませんが。

 

 

・極論は現実には使えないので折衷や修正が必要

 

 古典的リベラリズムにせよ現代的リベラリズムにせよそれだけでは使えませんし、現実やら社会やらにあわした改良やら超性やらメンテナンスが必要になります。

 その際に最初の段階での区別がきちんとついていないと最初からぐだぐだになります。

 現代社会がよい例です。

 変な話左翼や新左翼が左派の中でも支配的な時代の方がまだ秩序というか見通しというか思考がすっきりしていた面があります。

 マルキシストは革命を目指していればいいしその段階では暴力も合理的に使われます。

 ちなみに日本共産党の公然の暴力が1955年で終わっているので60年安保だとか70年安保は肩透かしでしたが学園紛争やら労働争議とか三里塚闘争などには共産党はかかわっていません。

 というか共産党は皮肉なことに非公然的な暴力を使いましたが学園紛争などはむしろ止める側でした。

 ここには左翼も新左翼も「暴力の美学」というか暴力の理由みたいなものが理論的に在りそれに基づいて行動していたので賛否はあれ応援者にも反対者にも分かりやすかったですし、暴力の理由を社会全体で(形式的には)共有していました。

 日本共産党にせよ新左翼にせよ現在生き残っているものはリベラルっぽい主張をしていても現代的リベラルリズムとかリベラルの人たちと同じ理由ではありません。

 ただし最近は人気取りのためか構成員の世代交代のためか日共も本当にリベラルっぽくなってきた節があります。

 立憲民主党と共産党の協力は共産党側からの立憲民主党に対する加入戦術だと思いますが木乃伊取りが木乃伊になってリベラルに染まってしまったのかもしれません。

 立憲民主党というのは社会党の直接の後継者でしょうけども、社会党の昔から各勢力の加入戦術や工作員やらスパイの草刈り場のようなところがあります。

 また途中から自民党から後任を得られなかったので仕方がないから民主党というのが選挙制度が変わって大量に生じました。

 「批判や反対ばかりして対案を言わない」というのはネット時代のせいか流石に時代遅れになってきました。

 国民民主党が躍進しているのもそのためでしょう。

 

・流石に古典的リベラリズム一本でいくのは無理だった

 

 古典的リベラリズムは貴族社会とか成金とか投資家などの上流階級には相性がいいです。

 ただ相性がよかろうがよくなかろうがそれ一本でいくのはシステム工学的に問題があります。

 やはり外形的な方とか制度とか規制とかの強制力を設置しておく必要はあるでしょう。

 そういうのが発動されないままうまくいってくれればラッキーですがリスクは積んでおかないといけません。

 他方で現代的リベラリズムとかリベラルはまさに最適値問題というかゲーム理論的な分配の最適化を自然に任せるのではなく人為的に行うという意味で集団主義的ですし権威主義的ですし社会主義的ですし統制的です。

 アメリカの若者で社会主義を支持する人が冷えているみたいですし、トリクルダウンが幻想と分かった時点で新自由主義とグローバリズムは崩壊し反新自由主義、反グローバリズムの世界の再編成が起こっています。

 社会主義はマルクス主義や共産主義でみそがついてしまいましたが別に悪い思想ではありませんし使うべきところでうまく使うべき思想です。

 電子演算テクノロジーというかICTやらAIやらスパコンやら量子コンピュータやらその他のコンピューティングの技術や産業がハードレベルでもソフトレベルでももっと発展すればテクノソーシャリズムともいうべき新しいものが生まれるかもしれません。

 現代的なリベラリズムとそのグダグダであるリベラルの短所はまあなんというかやっぱりグダグダなところです。

 数年前にはBLMとかSDGSとかDEIとかポリコレとかいろいろ盛んになる以上に社会に騒擾を起こしましたが昔の左翼みたいにもう一つ理論がしっかりしていないというか参加者たちがしっかり思想を理解しているのかあいまいです。

 まあ全共闘とかああいうのも若者が単に若さのエネルギーを発散したいとかいうので参加した人が実は多かったのですが。

 新自由主義やらグローバリズムの焼き畑農業でもう不可逆になってしまった国も多いかとは思いますが、ジャパンは30年間経済的資本や人的資本にはポートフォリオ振りませんでしたが、伝統守るとか、清潔守るとか、ソフトウェアパワーを育てるとか、一部の製造業を変態的、ガラパゴス的に磨き上げてオンリーワン企業を作ったり、海外投資で運用で稼ぐ国になったりと増えたり喪失を防げたポートフォリオの資本勘定も多いわけですから将来は分かりませんが現代は失敗しつつある国家群の背中を見て反面教師にしていけたらいいかもしれません。

リベラリズムと「リベラル」は別種の生き物である ——古典的自由、現代的介入、そして日本というガラパゴスの奇妙な関係——

 

リベラリズムと「リベラル」は別種の生き物である

——古典的自由、現代的介入、そして日本というガラパゴスの奇妙な関係——

一、かつて「岩波語」という方言があった

昔、訳の分からない文章をありがたがる奇妙な時代があった。 「岩波語」である。 難解であればあるほど高尚で、結論がマルクス主義に接続されていれば「良識」とされた時代。神田の古本屋に山積みされた『資本論』の死屍累々は、かつてそこにあった熱病の跡地だ。

マルクス主義という名のファッションは廃れた。 流行り廃りというのは残酷なもので、実証主義的な歴史家は「ブーム」を軽視しがちだが、どっこい、流行が去っても「根っこ」は残る。 網野善彦を見よ。彼は山村工作隊の闘士だった過去を持ちながら、ふすまの下張りから出てくるような泥臭い古文書を読み解き、「常民の歴史」を再発掘した。 イデオロギーの眼鏡を外して「下部構造(生活の実態)」を見たら、歴史の教科書が嘘だらけだったと気づいたわけだ。 しかし、油断はならない。歴史学だろうが立憲民主党だろうが、かつての「加入戦術」の末裔たちは、今もリベラルという新しい皮を被って、組織の奥深くで息をしている。

二、ロビンソン・クルーソーの孤独な自由

さて、本題の「自由」だ。 ここを整理しないと、現代社会のグダグダは理解できない。 まず、**「古典的リベラリズム」「現代的リベラル」**は、名前が似ているだけの赤の他人、いや、むしろ敵同士に近い。

古典的リベラリズムとは何か。 一言で言えば、「ロビンソン・クルーソー」である。 無人島で一人、誰にも気兼ねせず、自分の食い扶持を自分で稼ぎ、邪魔する奴がいればマスケット銃で撃ち払う。これが原点だ。 「個人の絶対的自由」。 社会がどうなろうが、隣人が飢えようが知ったことではない。自分のしたことの結果は自分で引き受ける(自己責任)。 これはある種、究極の「性善説」あるいは「楽観論」に基づいている。 アダム・スミスが言った「神の見えざる手」だ。 「みんなが好き勝手に金儲けすれば、神様が上手いこと調整してくれて、結果的に社会は豊かになるだろう」 ……なんとも能天気で、しかし強靭な思想ではないか。

三、お節介な「リベラル」の登場

これに対し、現代の**「リベラル」**はどうか。 彼らはロビンソン・クルーソーを許さない。 「お前が一人で自由にやることで、傷つく人がいる」「格差が生まれる」「環境に悪い」と言って、島に管理事務所を作りたがる。

**現代的リベラリズム=「修正主義」である。 彼らは「神の見えざる手」など信じていない。放っておけば強者が弱者を食い物にする「性悪説」が前提だ。 だから、「誰かの自由を守るために、お前の自由を規制する」**という論理になる。 これはもう自由主義ではない。「分配」という名の社会主義的介入だ。 ここに経済学的な「ゲーム理論」や「最適化」の発想が混じるからややこしい。 「万人の自由」ではなく、「全体の幸福量を最大化するための自由の配給制」。 それが現代のリベラルの正体だ。

だから話が噛み合わない。 古典派は「俺の邪魔をするな」と言い、現代派は「お前の為にしてやってるんだ」と言う。 この同床異夢が、世界中で起きている「分断」の正体だ。

四、思想なき「グダグダ」の時代

かつての新左翼には、まだ「暴力の美学」があった。 革命のためなら交番も襲うという、狂ってはいるが筋の通った論理があった。 しかし今の「リベラル」には、それがない。 BLMだのSDGsだのポリコレだの、スローガンは威勢がいいが、その中身は「なんとなく良いこと」のパッチワークだ。 理論的骨格のない正義は、ただの感情的なヒステリーになり下がる。

新自由主義(これは古典的リベラリズムの鬼っ子だ)が世界を焼き畑にした後で、対抗馬のリベラルもまた、理論なき感情論で社会を混乱させている。 アメリカの若者が社会主義に憧れるのも無理はない。彼らは「自由」に疲れ、「公正な分配」という名の新しい権威を求めているのだから。

五、日本という「ガラパゴス」の勝算

そこで、我らが日本である。 「失われた30年」と人は言う。 確かに、新自由主義の波に乗り切れず、金融資本(カネ)も人的資本(若者)も増やせなかった。経済的には「負け組」に見える。

だが、**「資本のポートフォリオ(資産の組み合わせ)」という視点で見たらどうだ? 欧米が「経済成長」という麻薬のために、「社会の治安」や「共同体の信頼」という大事な資本を切り売りしてしまった横で、日本は何をしていたか。 我々は、経済成長を犠牲にして、「社会関係資本(治安・信頼)」「文化資本(アニメ・食・清潔)」**を、ガラパゴスの殻の中でじっくりと醸成していたのではないか。

これはいわば、30年かけた巨大な「仕込み(インキュベーション)」だ。 世界中が分断と暴力に怯える今、日本に残された「夜道を一人で歩ける自由」や「財布が戻ってくる社会」、そして「変態的に磨き上げられたオタク文化」は、金では買えない希少な資産(キャピタル)として輝き始めている。

古典的リベラリズムの「野蛮な活力」も、現代的リベラルの「管理された平等」も、どちらも行き詰まった。 その先にあるのは、もしかしたら、日本が意図せず守り抜いた**「古くて新しい資本主義」**——信頼と文化をベースにした、泥臭くも温かいポートフォリオなのかもしれない。

群盲、象を撫でる。 目が見えるようになった時、そこに立っていたのは「衰退した日本」ではなく、「次の時代のOSを準備し終えた日本」だった——そんな皮肉な結末も、あながち夢物語ではないだろう。

2026年1月26日月曜日

リアリズムが分かれば哲学が分かる、リアリズムとイデオロギーと実在論の三角関係

 

リアリズムが分かれば哲学が分かる、リアリズムとイデオロギーと実在論の三角関係

 

 リアリズムというと日本では2つの意味を持ちます。

 そして意味ごとに言葉が違います。

 一つは普通のリアリズム。

 「リアリティーがある」「リアルだ」みたいなのはこのリアリズムです。

 もう一つは実在論です。

 中世神学の普遍論争の唯名論に対するもう一方の立場です。

 そのせいか実在論は哲学の分野で使われます。

 というか哲学の分野でしか使われません。

 

・実在論は非リアリズムと親和性があった?

 

 実在論は事物が実在するという考え方です。

 別に普通の生活をしている分にはこれが普通の考え方です。

 実在論と唯名論の論争みたいな持って回った問題は生じません。

 すくなくとも日本では。

 論争自体をなぜするのかなぜそれが大きな問題になるかは分かりにくいです。

 唯名論は唯名論で言われてみれば「そういう考え方もあるんだな」とそれなりに理解できます。

 ただどちらかというと唯名論の方が持って回った考え方のように見えます。

 わざわざ持って回った考え方を持ち出して持って回った論争をする意味が分からないのが普通の日本人ではないでしょうか。

 これは西洋思想やキリスト教があるかどうかわからないもの、あるかどうかを実証も立証もできないものを「ある」「実在する」「実在するかもしれない」と細かく考えなければいけなかったことに起因します。

 例えば「神」の存在です。

 これは日本では、少なくとも非キリスト教などでは相当にどうでもいい問題です。

 普通の日本人の普段の日常で「神の実在」の議論をするのは非日常的ですし、する場合は知的なゲーム、哲学的な問題を考える特別な時(学校の社会科の授業など)か何かてんぱっているときで、誰かが神は実在するか、とか言い出したらやばいのではとか厨二病でも発症したかとか何か困っていることがあっててんぱっているのではと心配されるような感じになります。

 問題は問題としなければ問題にならないものですし、ふつう日本ではそういうことを問題にしませんし、問題にする意味とか必要性がないというか、不必要でした。

 他方で西洋では存在するか分からないもの、日本人にとってはどっちでも好きにしてくれよと言ってリソースを割かれない、「なぜそんなにどうでもいい、あるいは考えても仕方がないことを考えんとあかんのだ」と日本人に思われそうなことを問題にする必要がありました。

 キリスト教でもギリシア思想でもあるかどうかわからないもの、あってもなくてもどっちでもいいものを問題にしなければならないような仕組みになっています。

 この「あるかないか」より「歩かないかを問題にしないといけない仕組み」の方を研究しだしたのがどちらかというと唯名論でその子孫のイギリス経験論で後年のニーチェの哲学だったり構造主義だったりと西洋思想史の一つの流れを作ります。

 

・聖書と神が強かった

 

 聖書やキリスト教は誤解を恐れず分かりやすく言うとないものをあると主張する考え方です。

 もっと冗長だけど厳密に言えば「あるかどうかわからない」ものを「ある」と主張し続けないといけない構造を持っています。

 一番分かりやすいのはやはり神様で神様がほんとに存在するかどうかは分かりません。

 それが簡単に分かって神様にいつでも会ったり話したりできるような存在であればそれもそれで「そんなものは神様ではない」と何を言っても突っ込まれるという機嫌の悪い時やさかった時の猫みたいなことになります。

 全方向地雷みたいな感じです。

 「イエスは神ではなく人間だ」みたいな隠れアリウス派だったニュートンみたいに言ってしまえば簡単です。

 余計なことを考えないという点でまさにオッカムのカミソリです。

 でも「イエスはただの人間ではなく、かといって神そのものではない」みたいなのが正統になったので三位一体説がでてきて、普通の日本人にはただでさえ不自然でどうでもよく感じられることにさらに訳の分からない理屈を畳みかけられるので、分からない×(+でもいい)分からない、でもはやついていけなくなります。

 理解するにはそれこそオッカムのカミソリで切り捨ててしま隊ようなややこしい理屈をわかる必要があり分かったところで納得もできず「なんでこんなことしてるんやろ、時間の無駄ではないか」とむなしくなります。

 この「神がいる」と言い張る主張を実在論(リアリズム)と言います。

 これは我々現代日本人が「リアリズム」というものと全く真逆です。

 我々はないもの、あるいはあるかどうかわからないもの、そしてそれがあるという感覚的手がかりすらないものをあると主張することをリアリズムと呼びません。

 むしろそういうスタンスは非リアリズム的と考えたり感じたりします。

 リアリズムという言葉を全く反対の意味で使うという状態になります。

 そこで日本ではリアリズムという言葉を2つで分けて名前も変えて使っています。

 一つは我々が常日頃使う実在論です。

 「リアルだ」「リアリティのある映画」「ヴァーチャルリアリティ」という言葉はこちらの意味で使われます。

 本当のことであったり本当っぽさみたいな感じだったりを表します。

 

・一方でもう一つのリアリズム(実在論)の方は…

 そもそも聖書を読めばわかると思いますが神の存在など一切感じられず他の宗教を信仰する一般民衆とそれをなんとか今でいうユダヤ教を進行させようとするエリートの中でも特に一部のエリートの歴史と言えます。

 そのエリートでさえ神のことを感じたような人はほぼいない感じです。

 エリート層というか上層階級ならユダヤ教重視ということは全然なく王様がユダヤ教を離れてユダヤ教派のエリートがその王を糾弾するということの繰り返しです。

 そういうユダヤ教のエリートの系譜の人々の文書を後世のユダヤ教の立場の人が編纂したり新たに作って付け加えたのが現在の聖書ですので神やらユダヤ教を信じなかったり他の宗教を信じる民にたいする糾弾書のような趣になります。

 聖書を読むと神の存在を本当に感じたことがある人は数えるほどしかいません。

 モーゼみたいに神と直接契約を結べる人もいますしヤコブのように神と取っ組み合いをする人もいますがそういうのはどちらかというと聖書の中でも伝説級に古い層になります。

 時代が下ると神の声を預かる人の時代になり、予言者といわれて言い神の言葉を聞いたと主張しますがそれもすんなり世の中に通るわけではありません。

普通に考えて「自分は神の声を聴いて神の言葉を預かった」とでも言おうものなら「ほんまかいな」となるはずです。

 エリヤもエレミヤも予言者ですが結構ひどい目に合っています。

 申命典改革でしっかりした聖書が編纂されて、バビロン捕囚後エズラとネヘミヤの改革で民衆が聖書を大切にするラビユダヤ教徒いうのが成立すると庶民は信心深くなりますが代わりに予言者が出てこない時代になります。

 そういう時代にガリラヤのような過激派が跋扈する辺境から我こそが正しいみたいな感じでイエスが現れラビユダヤ教を糾弾するのでラビユダヤ教の主流のファリサイ派を攻撃し始めたわけですからそれは騒ぎにもなろうともいうというものです。

 しかもイエス自信が行ったかどうか分かりませんが「イエスは預言者としてふるまっているのではないか」という疑いを抱かせますし、イエスに感化された人々はイエスを予言者と見なした人も多かったです。

 ただ予言者たちの時代ですら「自分は神の声を聴いた」といっても相手にされずに場合によってはひどい目にあっていたのに、予言者が全く現れなくなって数百年もしてから「自分は預言者だ」と言っているように見える人が現れたら「はぁ?」となる人も多かったと思われます。

 文字通り「イエス、神だぜ」までつけぬけてしまった人もイエス存命中は知りませんが後世には現れ多数派になり最後はローマ皇帝だか教会や恐慌にも認められ「イエスは神」ということになります。

 念のためはっきり書いておくと私はイエスが神ではないとは言っていませんのであしからず。

 こういったことは現在ではナラティブといったりイデオロギーという文脈で読み解かれることが多いです。

 近代の実証主義的世界観とやや対立する面があります。

 実証主義的な科学や近代主義もリアルを追求します。

 他方で協会の聖職者たちも神こそがリアリズムと主張します。

 リアルやリアリズムがある程度分裂してしまうのは仕方がなかったのかもしれません。

 日本ではそういった中で西洋文化を取り入れました。

 リアリズムを2つの言葉と概念に分けてしまうのはある程度自然であり、結構ナイスなやり方だったかもしれません。

 

・キリスト教だけでなく他のことも実在論を前提としている

 リアルは言い換えれば現実で、現実というものがいろいろあるとしても仮に外部環境を現実というのなら、人は現実なしに生きることはないでしょう。

 人間はいつでも外部環境と相互交流しています。

 仮に外部がなかったらと考えるのは思考実験としてはあり得ますが現実にはあり得ません。

 現実感というのは人間の心理発達の子供時代には成立してくるものというのが発達心理学の見方です。

 自然に身に着けてしまうので人間は自然に現実主義的な面が何らかの形であります。

 現実主義的、言い換えれば実在論的です。

 リアリズム的とかリアリストとか言ってもいいのかもしれませんが話を整理するために実在論的としておきましょう。

 我々の普通の感覚でリアリズム的とかリアリストとか言うと生き方やその場の処世におけるスタンスやスタイルの話になってしまいます。

 実在論は神学や哲学の言葉ですからより論理的、ロジカルというよりはよりロゴスティックでイデアティック、イデア的、ロゴス的、哲学的、理論的な言葉です。

 イデアとはアイデアの意味でもありますし、観念的とか理想主義的とかそういう意味を持ちます。

 イデオロギーとイデアのロゴスで思想、宗教、理論何でもいいですがそういうものを観念的にとらえなおしたものです。

 イデオロギーは知らない間に実在論が紛れ込んでいることが多いです。

 我々は自然に、だからこと無意識的に外部環境、外界の影響を受け外界の存在を信じてしまっていて外界と交流しているので我々の精神の作られ方に実在論的な要素があるのはまあ当たり前といえば当たり前です。

 それはそれでいいのですが問題は無自覚さにあります。

 あまりに自然、当然、当たり前、常識、通念的といったものはメタ認知的に自覚することが困難な場合があります。

 我々が数や母国語を自然に使って自覚がないのと一緒です。

 逆に英語の学習に苦労すれば自覚やメタ認知を得る機会となりえます。

 

 

・イデオロギーは現実離れすることがある、しかも現実離れすることが多い

 

 普通のイデオロギーには実在論が知らないうちに含まれています。

 近代以前の全てのイデオロギーの土台が実在論と言ってもいいかもしれません。

 イデオロギーに実在論が含まれるのはイデオロギーの必要条件みたいなものです。

 ただし現代、ぽすと近代のじだいになるとポストモダンとか構造主義とかポスト構造主義がそのことに気付いて批判し始めます。

 まあ学問の場とか教会の中でとかそういう世の中から離れたところでそういう議論をしているのは世間に大きな歪みを生みません。

 ただイデオロギーが源氏巣社会というか世間の中に進出してきた影響を与えようとすると大きな歪みをもたらすことがあります。

 イデオロギーは世俗や俗世、現実や社会の中で正義や真理や真実を主張する傾向があります。

 そのイデオロギーこそが実在だという感じです。

 言い換えるとそのイデオロギーこそがリアリズムだという感じになります。

 他方でイデオロギーというのは現実離れしたところがあります。

 現実離れということはリアリティーがない、リアルでない、リアリズムでないということです。

 他方でイデオロギーの基礎は実在論です。

 何かが確実である、何か確実なものがあるというのがイデオロギーの基礎です。

 しかしその何かの実在性や確実性が誰にも感覚では感じられないし実証も立証も困難です。

 これを司馬遼太郎という作家が「金平糖」といいました。

 金平糖は仲が空で空洞でスペースがあります。

 熱心なクリスチャンがこれを聞けば「金平糖はおまえらやないか」と日本人の非クリスチャンの司馬遼太郎に怒ったり叱ったりすることがあるかもしれません。

 ただ普通の日本人にはこの金平糖の空っぽな部分に神が実在するという主張がよく分かりません。

 実際に神がいればそれはそうだなということになりそうです。

 ただ逆に金平糖を砕いて中から神様が出てきたらそれはそれで熱心なクリスチャンも起こるかもしれません。

 なんか怒ってばかりな人ということになりますが、神とはあったり見たりできるような存在ではありません。

 「見たら死ぬ」とも言われます。

 聖書の中でも声くらいは聴いても神を見たりあったりした例はこれは片手で数えられる程度です。

 それも厳密な意味でというか、ヨブ記のようなお話も混じっていますし、詳細に検証すると会ったとか見たとか言えるか曖昧なことが殆どです。

 簡単に合えたり見えたりする物質的で現実的で世俗的なものは神ではないと主張するかもしれません。

 神とはもっと超越的なものということになっています。

 昔からそうではなかったと思います。

 神話や伝説の時代はもっと簡単に在ったり感じたりできたかもしれません。

 ただ聖書学の研究によると聖書の神概念というのは週刊少年漫画のバトルものみたいな感じにインフレの歴史とも言えます。

 どんどん超越さ、偉大さがインフレしていく感じです。

 だから新しい時代にイエスみたいなのが出てくると怒るわけです。

 予言者も神もそんなに簡単に表れるものではない、といった感じです。

 そもそも現れたら神ではないかもしれません。

 現れないから神みたいなところがあります。

 臨在感というか存在を感じさせることはあるかもしれませんが感じると言っても視角で見たり触ったりするのは難しいイメージです。

 せいぜい静かなる過疎聞こえが聞こえるか自然現象で天変地異を起こす形で存在をにおわす感じです。

 真打は簡単には御開帳しません。

 日本の古寺の秘仏と同じです。

 三種の神器を天皇陛下すら見たことがないのとも似ているかもしれません。

 でもリアリティでありリアリズム、というよりは実在して実在論です。

 ここでそういう感じられず目で見えず触れずなものにリアリティとかリアルとかリアリズムという言葉を与えるのはなんかちょっと違う感じです。

 というわけでヨーロッパでは1つの言葉が日本では実在論とリアリズムという2つの言葉に分かれたのかもしれません。

 しかも意味が反対です。

 リアリズムやリアリティというとイデオロギーの天敵みたいなところがあります。

 イデオロギーの弱点は数学でいう反例です。

 反証やそのイデオロギーに合わない事実や現実に極端に弱い所があります。

 でもイデオロギーの中核、OS、むしろ物理層ともいえるハードウェアは実在論で出来ています。

 そして実在論とリアリズムは反対の意味の言葉ですが西洋語に訳すとどっちも同じ言葉、ということになります。

 三すくみやじゃんけん程すっきりした構図ではありませんが不思議な三角関係をなしています。

 非対称的な三角形ということで男女の三角関係の比喩があうかもしれません。

 ・・・不謹慎でしたか。

すみません・・・。

 しかし構造的にはそういうことになります。

 

 

リアリズムの三角関係、あるいは「神」という名の金平糖 ——現実と実在とイデオロギーの奇妙な情事——

 

リアリズムの三角関係、あるいは「神」という名の金平糖

——現実と実在とイデオロギーの奇妙な情事——

序:分裂する「リアル」

リアリズム。 この言葉は、日本という言語空間において、奇妙な多重人格を患っている。

我々が普段、居酒屋や映画館で口にする「リアルだ」「リアリティがある」という時のリアリズム。これは**「現実味」だ。手触りがあり、匂いがあり、そこに確かな質量を感じること。 しかし、哲学の講義室で使われる「リアリズム(実在論)」は、これとは真逆の顔をしている。 それは、目にも見えず、手でも触れられず、あるかどうかも定かではない「普遍」「神」「正義」**といった概念が、そこらの石っころよりも確実に「在る」と言い張る態度だ。

片や「現実(Reality)」の手触りを求め、片や「実在(Reality)」の観念を信じる。 同じ「リアル」という音を持ちながら、一方は泥臭い地上の現実を指し、もう一方は天空の彼方のイデアを指す。 この捩れ。この分裂。 まるで、本妻と愛人の両方に「ハニー」と呼びかけるような危うさが、この言葉にはある。

一、神という名の「無いものを有るとする」作法

そもそも、西洋思想という巨大な伽藍は、「無いものを有るとする」、あるいは「有るか無いか分からぬものを、絶対に有ると信じ込む」という、一種の知的アクロバットの上に建っている。

最たるものが「神」だ。 日本人の感覚で言えば、神などというのは「鰯の頭」であって、信じたければ信じればいいし、どうでもよければどうでもいい。日常会話で神の実在を大真面目に論じる奴がいれば、厨二病をこじらせたか、よほど切羽詰まって壺でも買いそうな手合いだと心配されるのがオチだ。 しかし西洋ではそうはいかない。 彼らにとって、見えない神は、見えるリンゴよりも「リアル(実在)」でなければならなかった。

これが中世の**「実在論(Realism)」**だ。 個々のリンゴ(唯名)などは仮の姿に過ぎず、「リンゴという普遍概念(実在)」こそが真実だと言い張る。 なんとも持って回った、胃にもたれる理屈ではないか。オッカムがカミソリで切り捨てたくなるのも無理はない。

聖書を開いてみればいい。 神を見た、会った、触ったという話は、数えるほどしかない。モーセやヤコブといった伝説級の猛者はともかく、時代が下れば下るほど、神は姿を消し、せいぜい「声が聞こえた(気がする)」程度の、曖昧模糊とした存在になっていく。 まさに**「神のインフレ」**だ。 姿が見えなくなればなるほど、その権威と超越性はバブルのように膨れ上がり、「見えないからこそ実在する」という、ねじれ切った論理が完成する。

二、イデオロギーという名の「金平糖」

さて、ここに「イデオロギー」という厄介な友人が割り込んでくる。 イデオロギーとは、言ってみれば**「世俗化された実在論」**だ。

神の代わりに「歴史の必然」だの「民族の正義」だの「市場の原理」だのを中心に据え、それこそが唯一絶対の「リアル(実在)」だと主張する。 彼らは言う。「現実は間違っている。我々の理論(イデオロギー)こそが正しいリアルなのだ」と。 現実(Actual)を否定するために、実在(Real)を持ち出す。 この倒錯した情熱こそが、イデオロギーのエンジンだ。

司馬遼太郎はかつて、これを**「金平糖」**に例えた。 金平糖の核には、ケシ粒のような芯があるが、時にはそれが空洞になっていることもある。 イデオロギーも同じだ。 その中心には「神」や「正義」といった、甘美だが実体のない空洞(スペース)がぽっかりと口を開けている。 その空洞を「有る」と言い張る熱量だけで、彼らは革命を起こし、断頭台を築き、世界をひっくり返そうとする。 空洞の中身を見ようとして砕いてみれば、そこには何もない。だから彼らは怒る。「見るな、信じろ」と。

三、リアリズムの三角関係

ここで、役者は出揃った。

  1. 現実主義(リアリズム): 目の前の利害、力関係、物理法則に従う、冷徹な処世術。政治や商売の現場で幅を利かせる「大人の態度」。

  2. 実在論(リアリズム): 見えない普遍、価値、神こそが真実だと信じる、哲学と神学の「純愛」。

  3. イデオロギー: 実在論を燃料にして、現実主義を殴り倒そうとする「革命家」。

この三者は、じゃんけんのように三すくみ、いや、もっとドロドロとした奇妙な三角関係にある。

イデオロギーは「実在論」を愛しているが、「現実主義」には手酷く裏切られる。 「計画経済は完璧だ(実在論)」と叫んでも、「市場は動かない(現実主義)」という冷たい事実にビンタされる。 逆に、現実主義者は「実在論」を嘲笑うが、時にはイデオロギーの熱狂を利用して金儲けを企む。

日本人は、このややこしい「Realism」という単語を、あえて「現実」と「実在」に切り分けた。 これは翻訳の妙技であり、ある種の文化的防衛本能だったのかもしれない。 「リアル(現実)」は大事だが、「リアル(実在)」に深入りすると火傷をする。 見えないものを「有る」と言い張る連中とは、適度な距離を保ちつつ、目の前のサンマでも焼いて食うのが一番だ、と。

結:踊る阿呆に見る阿呆

結局のところ、リアリズムが分かれば哲学が分かるというのは、この**「言葉の詐術」**に気づくことに他ならない。

西洋哲学の歴史とは、「無いものを有ると言いたい」実在論と、「有るものしか無いと言いたい」唯名論(後の経験論や実証主義)との、果てしなき夫婦喧嘩の記録だ。 そして現代、構造主義やポストモダンといった新しい踊り子たちが現れ、「そもそも『有る』って言ってるお前の言葉自体が虚構じゃん?」と茶々を入れるに至って、この喧嘩はますます混沌(カオス)の度合いを深めている。

我々日本人は、この喧嘩を遠巻きに眺めながら、時折「リアルだねぇ」と呟いて、金平糖をつまむくらいが丁度いいのかもしれない。 中身が空洞であろうとなかろうと、甘ければそれでいいじゃないか、と嘯きながら。