2020年8月11日火曜日

世界のエリートだけが知っている現代リベラルアーツ。 教科書と並行して執筆。 P9ページまで書いた。 教養とリベラルアーツが意味が違う事を書く。 大学教育というものも、大学までの教育も地域や歴史によってまるでことなる。 日本の大学や教育制度のアナロジーとして簡単に欧米の、たとえばアメリカ、イギリス、フランス、ドイツの大学制度や教育制度を考えると間違いを犯す。 研究大学、大学院、専門課程までいけば収束して共通点が出てくるかもしれないが、学士過程より前の教育を受けている生徒という者は学ぶべきことがある。 「日本の大学」の「教養課程」を「中世ヨーロッパの大学」の伝統を受け継ぐ「ヨーロッパの”大学”」の「リベラルアーツ」と同じものと考えるのは誤りである、ということを説明する。

世界のエリートだけが知っている現代リベラルアーツ。 教科書と並行して執筆。 P9ページまで書いた。 教養とリベラルアーツが意味が違う事を書く。 大学教育というものも、大学までの教育も地域や歴史によってまるでことなる。 日本の大学や教育制度のアナロジーとして簡単に欧米の、たとえばアメリカ、イギリス、フランス、ドイツの大学制度や教育制度を考えると間違いを犯す。 研究大学、大学院、専門課程までいけば収束して共通点が出てくるかもしれないが、学士過程より前の教育を受けている生徒という者は学ぶべきことがある。 「日本の大学」の「教養課程」を「中世ヨーロッパの大学」の伝統を受け継ぐ「ヨーロッパの”大学”」の「リベラルアーツ」と同じものと考えるのは誤りである、ということを説明する。 世界のエリートだけが知っている 現代の Liberal Arts リベラルアーツ 前書き  本書では現代のリベラルアーツとしてエリートが身につけておくべきことについて解説します。    エリートと言っても色々なエリートがあると思いますが、ある一定の学術的素養を付けることをエリートとします。 本書ではエリートになるに必要なそのある一定の学術的素養をリベラルアーツと呼びます。    普通、リベラルアーツという言葉は日本では教養と訳されます。  日本の大学では教養課程がありそこでリベラルアーツを学ぶと認識されていると思いますが本書では教養とリベラルアーツは区別して使用します。  教養とリベラルアーツを区別する理由としては日本の大学の教養課程では真に身につけるべき教養がきちんと身につけらることができないと考えるからです。  日本の大学の教養課程ではこれだけは身につけなければいけないという明確な指針がありません。  しかし学問の世界では高等教育で身につけなければいけない事があります。  それは学問の基礎です。  学問の基礎が何かを知らなければ、学問とは何か考える時にどうなるでしょうか。  大学では高校以下の教員資格を得ることが出来ますが、生徒に学問とは何かと問われたときに自信を持った答えを導くことが出来るでしょうか。  高等教育を受けるものが身につけるべき学問の基礎が現代には存在します。  大学以降の高等教育で必修すべき学問の基礎をリベラルアーツと呼び本書では「教養」という言葉と区別します。  学問の世界は世界共通でありです。 大学という高等教育機関で身につけた学問の基礎はグローバルに世界中で通用すべきです。 「教養」という言葉にはこの様なニュアンスがないので世界的に使われるliberal artsという言葉と区別します。 専門で学んだ学問は変わることがあっても学問の基礎は変わらないので身につければ一生使えます。  学問の基礎はどの学問も共通ですので身につければ他の学問を専門とする人ともコミュニケーションをすることが出来ます。  リベラルアーツは身につけるのに訓練が必要ですので全ての人が身につけられるわけではありません。  努力をすれば身につけられる方法はいくらでもありますが、人それぞれの人生で誰もがその努力の機会が得られるわけでは残念ながらないでしょう。  Liberal artsを身につけられた人は幸運に恵まれたエリートなのです。  エリート同士は基礎を共有しているのでコミュニティーを作り協力することが可能です。  しかしliberal artsの基礎がないと共通する確かなものがないためエリートとの交流でトラブルを起こす可能性があります。  話が通じない人通しが同じコミュニティーを維持することは困難ですので、リベラルアーツのない人はエリートのコミュニティーに所属できなくなってしまいます。  選ばれた幸福を余力が許す範囲でよいので世の中の訳に立てられれば素晴らしいことです。  本書ではエリートの共通して身につけているliberal artsについて勉強します。 第一章 リベラルアーツの歴史  Liberal artsという言葉は古代ギリシアの歴史に由来します。  ギリシアの都市国家であるポリスは、自由市民と奴隷から構成されていました。  liberalという言葉はこの年自由市民に由来します。  Liberaral artsとは自由市民が身につけるarts(技術、学術、芸術、芸事、方法)ということです。  自由市民も奴隷も人間ですがポリスでは自由市民が支配層で政治や軍事を司り、奴隷は自由市民に隷属します。  自由市民の自由とは労働する必要がないという事です。  私的な生活、生存に必要な労働は全て奴隷が行う事が必要です。  自由市民はより高尚な事のために生きるのが理想とされます。  自由市民は権利と義務を持ちます。  ポリスが民主制である場合には自由市民だけが選挙権を持つ制限選挙制度であるため自由市民には議論や討論をする知的な能力が求められます。  また自由市民は兵士になって戦争へ行く義務を負うため勇気や軍事訓練も必要です。  古代ギリシアと古代ローマが終わった後、中世ヨーロッパで古代の遺産の数学と古典語であり共通学述語のラテン語、ローマ語が学ばれます。 matematics数学はもともと学ばれるべきものという意味です。現代数学により数に関するものだけを研究する学問とすると誤解を受けやすくなるので数学という言葉は変えてもいいかもしれません。 中世のヨーロッパの大学では基礎科目と専門科目がありました。  基礎科目は専門科目を学ぶ前に身につけておくべきと考えられた学問です。   自由7科とも呼ばれ文法学・修辞学・論理学(弁証法)・算術・幾何・天文学・音楽からなります。中世の学術言語はラテン語、あるいはギリシア語など古典言語であり文法、修辞学、論理学は語学の学習でもあります。 算術・幾何学・音楽は数学に属すとみなされました。  この自由7科がliberal artsです。  この基礎7科を身につけたうえで専門科目に進みます。 専門科目は神学、法学、医学で専門職養成のための学問です。  哲学は大学によって歴史が異なるようですが、専門科目に分類され種々の学問を含んでいたようです。近代以降学問の発達により専門化が進むと哲学と自然・人文・社会の諸科学の領域・分野ごとに細分化されます。  こうしてみるとリベラルアーツという言葉には生活や生存のために労働を行い世俗的に生きるのではなくより高尚な知的活動を行うという特権的な意味が含まれます。  いくつか日本の「教養」という言葉を考える際に注意するべき点を挙げて見ます。  まず歴史が長いことです。  自由市民が持つべき知的能力については古代ギリシアから考えられており、しかもその伝統は現在も続いていると言えます。  日本にはリベラルアーツに相当する言葉や概念がなかったので明治時代に西周が「藝術」と訳しました。これは「芸」と「術」の組み合わせでどちらかというと「arts」の翻訳語です。「liberal arts」それ自体が持っている歴史的、学術的、そして社会的意味には目がいかなかったようです。  また外国のリベラルアーツは専門教育を受けるために必要であるとされます。   第2章 大学とは何かについての考察  リベラルアーツと教養という言葉を比較してみましょう。  その前に大学という物について考えてみます。リベラルアーツも教養も大学も日本人にとっては明治維新で初めて知ったものです。  明治政府は大学を非常に重視しました。明治維新で最初に作ったものの一つと言っていいでしょう。文部省より先に作られています。  日本の学制も欧米諸国の学制も各国ごとに異なり歴史的にも変遷があると思いますが、明治以降の日本の学制の変化は複雑で理解が困難です。  まず日本の大学と欧米の大学は同じといえるのか?  明治維新直後に東京大学の元を作り変遷、紆余曲折を経て現在の形になったのは明治10年です。その後明治30年に京都大学が出来るまではそもそも日本には大学が一つしかありませんでした。大学がなくても高等教育機関がなかったわけではなく色々な専門学校や私学校がありました。ただ今度は「高等教育」とは何かも問題になります。  明治政府は大学を重視したので大学を最初から大学をもっと作りたかったのですが、明治期の前半に大学が1つしかなかったのは貧乏過ぎたのと大学の体をなす人材や設備が集められなかったからでしょう。  研究と教育をする総合的高等教育機関を大学とすると国立でないと不可能です。国力が低い国が大学を作るのは困難ですが当時の日本人は教育を国家の存亡を決めるほど重大なものと考えました。  帝国大学を徐々に増やすとともに大正7年(1918年)それまであった帝国以外の各種学校に大学を名乗ることを認めます。慶応大学や早稲田大学はこの時大学になりました。  大学を考える際には大学より前の段階の教育制度・教育機関と大学に入るまでに何を教育するのか、入試などの入学のための審査制度を大学との関係で見ていかないと大学の理解がきちんとできません。  戦前昭和には旧制高等学校がありこのカリキュラムに現在の日本の大学の教養で科目とされているところまで教えていることがあります。  戦後は占領国軍によりアメリカと同じ6・3・3制がひかれそれで変わらず安定しているように見えるため若い世代にはこれが先入観になりがちです。  大学というのはこの様に教育の歴史の中で見ていかなければなりませんが、現在の大学という物が世界各国共通化というとそれもまた違う様です。  日本の教育制度に大きな影響を与えたアメリカを見てみます。  アメリカのリベラルアーツカレッジについての説明(2020年8月10日14:29の日本版ウィキペディア)を調べると下記の様な記載があります。 ……アメリカ合衆国の大学は、大学院を持つ大規模な研究型大学(Reserch University)、リベラル・アーツ・カレッジ(Liberal Arts College)、公立で地域の学生が通う2年制のコミュニティ・カレッジ(Community College) に大別される。日本の大学と異なり、多くのアメリカの学部課程カリキュラムには「法学部」「医学部」「経営学部」(またはその専攻課程)がなく、それらの専門に進む生徒はまず4年制学部過程(Undergraduate School)で学ぶ必要がある。大学院には、法科大学院(Law School)、医科大学院(Medical School) 、経営大学院(MBA) といった専門職大学院と、学部過程で学んだ専門をさらに追究する学術系大学院に大別される……  大まかにリサーチユニバーシティを日本の総合大学と対応させる見方が一般的でしょう。 大きな違いは医学部や法学部が専攻過程にないという点です。リベラルアーツカレッジは私立で全寮制、一クラス当たりの学生数が少なく教育重視であるところが研究型大学と違うところで日本では一致するものが少なく、認知されていない大学の形態でしょう。コミュニティーカレッジは公立であることを除けば日本の短大でしょうか。    ヨーロッパでもイギリス、フランス、ドイツなど国ごと、宗派ごと、歴史ごと、個別の大学ごとに教育制度に特徴があります。  大学は中世からあるものもありますが、歴史や国家の影響を経て変遷があります。  「研究をするところ」、という観点から大学をみるのと「大学に扶養されて教育を受けるところ」という観点で大学を見る場合では大学に対する見方が異なります。  大学院を出て学士、修士、博士を取っていれば基礎教育は終了したものとみなされて研究する、または教育する側として大学と関わりますが、学士取得以前の学制にとっての大学は教育機関ですので、属する教育機関の教育に関する考え方に基づいて影響を受ける 第3章 リベラルアーツと教養  大学教育については各地域、各歴史ごとに、各大学ごとに違いが大きいことを説明しました。  大学教育を修了し博士号を取れば学問の世界では学者として認められ、教授や講師などの大学教員になることが出来ます。  欧米の中世の学問の伝統をひく大学では大学で学ぶべきこととしてリベラルアーツが必要です。  考え方によってはリベラルアーツさえ身につけておけば十分と言えるかもしれません。  中世の大学の例でいえば基礎科目についてはリベラルアーツを学んでおけば必要十分であったでしょう。  アメリカのリベラルアーツカレッジであればリベラルアーツを身につけることのみに専念するのですから、リベラルアーツを身につける事が大学教育を受ける事の必要十分条件でしょう。  アメリカではリベラルアーツカレッジを卒業するとメディカルスクールやロースクールに進むことが出来ます。  言い換えると医学や法学などの専門教育がリベラルアーツの習得を専門教育を受けるのに有用とみなしていることが分かります。  これは中世のヨーロッパと同じスタイルです。 中世の大学では神学、法学、医学の専門職になる専門教育を受ける条件としてリベラルアーツを習得するシステムになっていました。 リベラルアーツという言葉にはこのような意味がありますが、教養という言葉にこれと同じ意味があるかと言えば同じ意味はありません。  私の小学2年生の息子が持っている金田一春彦先生などが監修なさっている学研の新レインボー小学国語辞典第6版で教養を調べてみましょう。 「学問や知識を身につけることによってうまれる心のゆたかさ」 試しにグーグル検索してみましょう。」 「学問・知識を(一定の文化理想のもとに)しっかり身につけることによって養われる、心の豊かさ。」 似ていますね。  もう一つウィキペディアで調べてみます。 「教養(きょうよう)とは個人の人格や学習に結びついた知識や行いのこと。これに関連した学問や芸術、および精神修養などの教育、文化的諸活動を含める場合もある。」 せっかくですからカタカナのリベラルアーツと英語のliberal artsをグーグルやウィキペディアで調べてみましょう。 カタカナグーグル なし カタカナウィキペディア 「リベラル・アーツ(英: liberal arts)とは、ギリシャ・ローマ時代に理念的な源流を持ち、ヨーロッパの大学制度において中世以降、19世紀後半や20世紀まで[注釈 1]、「人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本」と見なされた自由七科のことである。具体的には文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何(幾何学、図形の学問)・天文学[注釈 2]・音楽[注釈 3]の4科のこと。現代では、「学士課程において、人文科学・社会科学・自然科学の基礎分野 (disciplines) を横断的に教育する科目群・教育プログラム」に与えられた名称である。具体的な教育内容に関しては「リベラル・アーツ・カレッジ」「教養学部」を参照のこと。」 英語google 「Liberal arts, also referred to as the humanities, includes the study of history, literature, writing, philosophy, sociology, psychology, creative arts, and more. More broadly speaking, students earning a liberal arts degree learn to formulate effective arguments, communicate well, and solve problems.Sep 10, 2018」 英語wikipedia これはなんの事情かliberal artsの項目がありませんでした。 代わりに先頭に「liberal arts education」が出てきましたのでそれを収載します。 「Liberal arts education (from Latin liberalis "free" and ars "art or principled practice")[1] is the traditional academic program in Western higher education.[2] Liberal arts generally covers three areas: sciences, arts, and humanities. Its central academic disciplines include philosophy, logic, linguistics, literature, history, political science, sociology, and psychology. Liberal arts education can refer to studies in a liberal arts degree program or to a university education more generally. Such a course of study contrasts with those that are principally vocational, professional, or technical.」 教養とリベラルアーツ(日本語)/liberal arts(英語)を比較してみると教養には「心のゆたかさ」「人格」「精神修養」などの言葉が出てきます。 教養自身が学問であるというよりは学問を身につけた結果身につけられる倫理・道徳的な人間の価値の様なものを意味の中心としているようです。  一方でリベラルアーツ(日本語)/liberal arts(英語)には倫理・道徳的な意味合いがなく知的な意味しか出てきません。学問の技、術、芸、方法、手段、道具として見ています。具体的な教育課程で占める位置付けについても書かれています。日本語のウィキペディアの「教養」の説明を読むと「教養」もその様に使っても良い様な事を書かれていますが、そのような使い方は二次的であると付記されており、さらに書いてあることが曖昧です。  ですから「教養」と「リベラルアーツ」は別の意味で使った方がいいかもしれません。  「教養」という言葉には学問が自己修養や人格陶冶であることを意味した儒教の影響が張り込んでいると思われます。それはそれで構わないのかもしれませんが「リベラルアーツ」の訳語の意味があることや「リベラルアーツ」の学問における意味が理解されていない場合にまずい場合があります。  最悪なケースは大学の新入生が教養課程の意味を取り違える事です。  教養課程が教養を身につけるところであってリベラルアーツを勉強すべきところと思わずリベラルアーツを身につけず教養課程を終わってしまうことです。日本の場合、そうであっても専門課程に進める事が多くあります。大学入学時にすでに専攻が決まっている場合専門教育の勉強を急ぎ教養課程を軽視する場合があります。  あるいは教養教育を嫌う可能性があります。若い多感な時期に大学という権威から大学の価値に従う倫理・道徳を身につけなければ希望する専攻に進ませてやらないと言われれば反感を持つのは当たり前です。  ステューデントアパシーに陥ったり、モラトリアム期に入り込んでしまうかもしれません。不登校や多留生になるのもいいかもしれませんが、無駄で効率が悪いです。そのようなつまらない理由で時間もお金もエネルギーを無駄にするのは大学、社会、本人、家族、その他あまり良い感じがしないかもしれません。  旧制高校的な教養主義文化ともいえるので本人の人格形成につながったり文化として残していくのもいいのかもしれませんが昔の事はよく見えやすいお年寄りの回顧であったり、前向きにトライするのを回避する若者の良い訳に過ぎない場合も多いかもしれません。無駄こそ文化だという考え方も共感はするのですが。   第4章 リベラルアーツで何を学ぶのか  前章までで「教養」という言葉と「リベラルアーツ」という言葉を区別すべき理由を書きました。  具体的な施策としては「教養課程」、「教養教育」を「リベラルアーツ過程」「リベラルアーツ教育」に変更するか、「教養」という言葉が「リベラルアーツ」を含むことを普及、宣伝、啓発、教育していくべきです。  大学で学ぶ基礎教育期間は大学を卒業した全ての人が身につけるべきことを身につけさせる最大にして最後のチャンスになるかもしれません。基礎過程で身につけずにリベラルアーツを身につけさせるのにこの機会を逃す場合に考えられる次の手段は、大学卒業時に試験を課すことです。そうすれば自習でも何でもリベラルアーツを勉強するでしょう。補講を設けたり家庭教師を雇ったりダブルスクールして塾や予備校で勉強するのもいいでしょう。勉強には社会も個人もお金を惜しむべきではありません。最高の投資だと思いますし経済効果もあるかもしれません。  全ての大学生が共通に教育されるべき学問があるのかという疑問あるいは習字疑問文による否定的な考えを持つ人がいるかもしれません。  まず教養課程をさぼったり代返を頼んだり名前だけ書いて教室を出て行ったりレポートをコピペしたり一夜漬けしたりカンニングしたりして実質的にリベラルアーツを身につけずに専門教育に進んで問題を感じなかったという感想を持つ人が多くいると考えられます。それに対する答えは気付かぬ間に本人や社会が損をしているかもしれないと考えるべきという事です。  原点に返ってリベラルアーツの意味を考えます。自由市民が持つべきものでした。まず自由市民同士で議論が出来ないといけません。議論でなくても話が出来ないといけません。時にポリスの代表者や軍の司令官も選ばないといけないかもしれません。選ぶどころか他に適任者がいないとあれば自分でやらないといけないと思うかもしれません。直接民主制なら誰もが良い志を持っているとは限らず合理的、論理的に誠実に話すのではなく、詭弁を使って人心を誘導しようとするソフィストもいるかもしれず騙されないようにしなければいけません。ですから自由市民は優秀である必要があります。逆に自分がソフィストになって他の市民を黙失用があります。ロゴスとレートリケー(レトリック=修辞法)は自由7科にどちらも含まれます。分かり易く理解させるためには時には詭弁的なものアジテーション的なものも必要な場合があるのでしょう。自然言語を使うとは理性的なもの、非理性的なものをどちらも使う事になります。「社会性」というのは非理性的なものも含まれているのです

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