2020年8月20日木曜日

世界の知的エリートが知っているリベラルアーツ、完成。 第一稿完成2020年8月20日129,720字 とりあえずこれを講談社の担当に読んで頂くことを目指す。 これを推敲してもいいが、精神科医療の紹介の本の話もあるのでそちらも書き始めようと思います。

世界の知的エリートが知っているリベラルアーツ、完成。 第一稿完成2020年8月20日129,720字 とりあえずこれを講談社の担当に読んで頂くことを目指す。 これを推敲してもいいが、精神科医療の紹介の本の話もあるのでそちらも書き始めようと思います。 世界の知的エリートだけが知っている 現代のリベラルアーツ 前書き  本書では現代のリベラルアーツとしてエリートが身につけておくべきことについて解説します。    エリートと言っても色々なエリートがあると思いますが、ある一定の学術的素養を付けることをエリートとします。 本書ではエリートになるに必要なそのある一定の学術的素養をリベラルアーツと呼びます。    普通、リベラルアーツという言葉は日本では教養と訳されます。  日本の大学では教養課程がありそこでリベラルアーツを学ぶと認識されていると思いますが本書では教養とリベラルアーツは区別して使用します。  教養とリベラルアーツを区別する理由としては日本の大学の教養課程では真に身につけるべき教養がきちんと身につけらることができないと考えるからです。  日本の大学の教養課程ではこれだけは身につけなければいけないという明確な指針がありません。  しかし学問の世界では高等教育で身につけなければいけない事があります。  それは学問の基礎です。  学問の基礎が何かを知らなければ、学問とは何か考える時にどうなるでしょうか。  大学では高校以下の教員資格を得ることが出来ますが、生徒に学問とは何かと問われたときに自信を持った答えを導くことが出来るでしょうか。  高等教育を受けるものが身につけるべき学問の基礎が現代には存在します。  大学以降の高等教育で必修すべき学問の基礎をリベラルアーツと呼び本書では「教養」という言葉と区別します。  学問の世界は世界共通でありです。 大学という高等教育機関で身につけた学問の基礎はグローバルに世界中で通用すべきです。 「教養」という言葉にはこの様なニュアンスがないので世界的に使われるliberal artsという言葉と区別します。 専門で学んだ学問は変わることがあっても学問の基礎は変わらないので身につければ一生使えます。  学問の基礎はどの学問も共通ですので身につければ他の学問を専門とする人ともコミュニケーションをすることが出来ます。  リベラルアーツは身につけるのに訓練が必要ですので全ての人が身につけられるわけではありません。  努力をすれば身につけられる方法はいくらでもありますが、人それぞれの人生で誰もがその努力の機会が得られるわけでは残念ながらないでしょう。  Liberal artsを身につけられた人は幸運に恵まれたエリートなのです。  エリート同士は基礎を共有しているのでコミュニティーを作り協力することが可能です。  しかしliberal artsの基礎がないと共通する確かなものがないためエリートとの交流でトラブルを起こす可能性があります。  話が通じない人通しが同じコミュニティーを維持することは困難ですので、リベラルアーツのない人はエリートのコミュニティーに所属できなくなってしまいます。  選ばれた幸福を余力が許す範囲でよいので世の中の訳に立てられれば素晴らしいことです。  本書ではエリートの共通して身につけているliberal artsについて勉強します。 第一章 リベラルアーツの歴史  Liberal artsという言葉は古代ギリシアの歴史に由来します。  ギリシアの都市国家であるポリスは、自由市民と奴隷から構成されていました。  liberalという言葉はこの年自由市民に由来します。  Liberaral artsとは自由市民が身につけるarts(技術、学術、芸術、芸事、方法)ということです。  自由市民も奴隷も人間ですがポリスでは自由市民が支配層で政治や軍事を司り、奴隷は自由市民に隷属します。  自由市民の自由とは労働する必要がないという事です。  私的な生活、生存に必要な労働は全て奴隷が行う事が必要です。  自由市民はより高尚な事のために生きるのが理想とされます。  自由市民は権利と義務を持ちます。  ポリスが民主制である場合には自由市民だけが選挙権を持つ制限選挙制度であるため自由市民には議論や討論をする知的な能力が求められます。  また自由市民は兵士になって戦争へ行く義務を負うため勇気や軍事訓練も必要です。  古代ギリシアと古代ローマが終わった後、中世ヨーロッパで古代の遺産の数学と古典語であり共通学述語のラテン語、ローマ語が学ばれます。 matematics数学はもともと学ばれるべきものという意味です。現代数学により数に関するものだけを研究する学問とすると誤解を受けやすくなるので数学という言葉は変えてもいいかもしれません。 中世のヨーロッパの大学では基礎科目と専門科目がありました。  基礎科目は専門科目を学ぶ前に身につけておくべきと考えられた学問です。   自由7科とも呼ばれ文法学・修辞学・論理学(弁証法)・算術・幾何・天文学・音楽からなります。中世の学術言語はラテン語、あるいはギリシア語など古典言語であり文法、修辞学、論理学は語学の学習でもあります。 算術・幾何学・音楽は数学に属すとみなされました。  この自由7科がliberal artsです。  この基礎7科を身につけたうえで専門科目に進みます。 専門科目は神学、法学、医学で専門職養成のための学問です。  哲学は大学によって歴史が異なるようですが、専門科目に分類され種々の学問を含んでいたようです。近代以降学問の発達により専門化が進むと哲学と自然・人文・社会の諸科学の領域・分野ごとに細分化されます。  こうしてみるとリベラルアーツという言葉には生活や生存のために労働を行い世俗的に生きるのではなくより高尚な知的活動を行うという特権的な意味が含まれます。  いくつか日本の「教養」という言葉を考える際に注意するべき点を挙げて見ます。  まず歴史が長いことです。  自由市民が持つべき知的能力については古代ギリシアから考えられており、しかもその伝統は現在も続いていると言えます。  日本にはリベラルアーツに相当する言葉や概念がなかったので明治時代に西周が「藝術」と訳しました。これは「芸」と「術」の組み合わせでどちらかというと「arts」の翻訳語です。「liberal arts」それ自体が持っている歴史的、学術的、そして社会的意味には目がいかなかったようです。  また外国のリベラルアーツは専門教育を受けるために必要であるとされます。   第2章 大学とは何かについての考察  リベラルアーツと教養という言葉を比較してみましょう。  その前に大学という物について考えてみます。リベラルアーツも教養も大学も日本人にとっては明治維新で初めて知ったものです。  明治政府は大学を非常に重視しました。明治維新で最初に作ったものの一つと言っていいでしょう。文部省より先に作られています。  日本の学制も欧米諸国の学制も各国ごとに異なり歴史的にも変遷があると思いますが、明治以降の日本の学制の変化は複雑で理解が困難です。  まず日本の大学と欧米の大学は同じといえるのか?  明治維新直後に東京大学の元を作り変遷、紆余曲折を経て現在の形になったのは明治10年です。その後明治30年に京都大学が出来るまではそもそも日本には大学が一つしかありませんでした。大学がなくても高等教育機関がなかったわけではなく色々な専門学校や私学校がありました。ただ今度は「高等教育」とは何かも問題になります。  明治政府は大学を重視したので大学を最初から大学をもっと作りたかったのですが、明治期の前半に大学が1つしかなかったのは貧乏過ぎたのと大学の体をなす人材や設備が集められなかったからでしょう。  研究と教育をする総合的高等教育機関を大学とすると国立でないと不可能です。国力が低い国が大学を作るのは困難ですが当時の日本人は教育を国家の存亡を決めるほど重大なものと考えました。  帝国大学を徐々に増やすとともに大正7年(1918年)それまであった帝国以外の各種学校に大学を名乗ることを認めます。慶応大学や早稲田大学はこの時大学になりました。  大学を考える際には大学より前の段階の教育制度・教育機関と大学に入るまでに何を教育するのか、入試などの入学のための審査制度を大学との関係で見ていかないと大学の理解がきちんとできません。  戦前昭和には旧制高等学校がありこのカリキュラムに現在の日本の大学の教養で科目とされているところまで教えていることがあります。  戦後は占領国軍によりアメリカと同じ6・3・3制がひかれそれで変わらず安定しているように見えるため若い世代にはこれが先入観になりがちです。  大学というのはこの様に教育の歴史の中で見ていかなければなりませんが、現在の大学という物が世界各国共通化というとそれもまた違う様です。  日本の教育制度に大きな影響を与えたアメリカを見てみます。  アメリカのリベラルアーツカレッジについての説明(2020年8月10日14:29の日本版ウィキペディア)を調べると下記の様な記載があります。 ……アメリカ合衆国の大学は、大学院を持つ大規模な研究型大学(Reserch University)、リベラル・アーツ・カレッジ(Liberal Arts College)、公立で地域の学生が通う2年制のコミュニティ・カレッジ(Community College) に大別される。日本の大学と異なり、多くのアメリカの学部課程カリキュラムには「法学部」「医学部」「経営学部」(またはその専攻課程)がなく、それらの専門に進む生徒はまず4年制学部過程(Undergraduate School)で学ぶ必要がある。大学院には、法科大学院(Law School)、医科大学院(Medical School) 、経営大学院(MBA) といった専門職大学院と、学部過程で学んだ専門をさらに追究する学術系大学院に大別される……  大まかにリサーチユニバーシティを日本の総合大学と対応させる見方が一般的でしょう。 大きな違いは医学部や法学部が専攻過程にないという点です。リベラルアーツカレッジは私立で全寮制、一クラス当たりの学生数が少なく教育重視であるところが研究型大学と違うところで日本では一致するものが少なく、認知されていない大学の形態でしょう。コミュニティーカレッジは公立であることを除けば日本の短大でしょうか。    ヨーロッパでもイギリス、フランス、ドイツなど国ごと、宗派ごと、歴史ごと、個別の大学ごとに教育制度に特徴があります。  大学は中世からあるものもありますが、歴史や国家の影響を経て変遷があります。  「研究をするところ」、という観点から大学をみるのと「大学に扶養されて教育を受けるところ」という観点で大学を見る場合では大学に対する見方が異なります。  大学院を出て学士、修士、博士を取っていれば基礎教育は終了したものとみなされて研究する、または教育する側として大学と関わりますが、学士取得以前の学制にとっての大学は教育機関ですので、属する教育機関の教育に関する考え方に基づいて影響を受ける 第3章 リベラルアーツと教養  大学教育については各地域、各歴史ごとに、各大学ごとに違いが大きいことを説明しました。  大学教育を修了し博士号を取れば学問の世界では学者として認められ、教授や講師などの大学教員になることが出来ます。  欧米の中世の学問の伝統をひく大学では大学で学ぶべきこととしてリベラルアーツが必要です。  考え方によってはリベラルアーツさえ身につけておけば十分と言えるかもしれません。  中世の大学の例でいえば基礎科目についてはリベラルアーツを学んでおけば必要十分であったでしょう。  アメリカのリベラルアーツカレッジであればリベラルアーツを身につけることのみに専念するのですから、リベラルアーツを身につける事が大学教育を受ける事の必要十分条件でしょう。  アメリカではリベラルアーツカレッジを卒業するとメディカルスクールやロースクールに進むことが出来ます。  言い換えると医学や法学などの専門教育がリベラルアーツの習得を専門教育を受けるのに有用とみなしていることが分かります。  これは中世のヨーロッパと同じスタイルです。 中世の大学では神学、法学、医学の専門職になる専門教育を受ける条件としてリベラルアーツを習得するシステムになっていました。 リベラルアーツという言葉にはこのような意味がありますが、教養という言葉にこれと同じ意味があるかと言えば同じ意味はありません。  私の小学2年生の息子が持っている金田一春彦先生などが監修なさっている学研の新レインボー小学国語辞典第6版で教養を調べてみましょう。 「学問や知識を身につけることによってうまれる心のゆたかさ」 試しにグーグル検索してみましょう。」 「学問・知識を(一定の文化理想のもとに)しっかり身につけることによって養われる、心の豊かさ。」 似ていますね。  もう一つウィキペディアで調べてみます。 「教養(きょうよう)とは個人の人格や学習に結びついた知識や行いのこと。これに関連した学問や芸術、および精神修養などの教育、文化的諸活動を含める場合もある。」 せっかくですからカタカナのリベラルアーツと英語のliberal artsをグーグルやウィキペディアで調べてみましょう。 カタカナグーグル なし カタカナウィキペディア 「リベラル・アーツ(英: liberal arts)とは、ギリシャ・ローマ時代に理念的な源流を持ち、ヨーロッパの大学制度において中世以降、19世紀後半や20世紀まで[注釈 1]、「人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本」と見なされた自由七科のことである。具体的には文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何(幾何学、図形の学問)・天文学[注釈 2]・音楽[注釈 3]の4科のこと。現代では、「学士課程において、人文科学・社会科学・自然科学の基礎分野 (disciplines) を横断的に教育する科目群・教育プログラム」に与えられた名称である。具体的な教育内容に関しては「リベラル・アーツ・カレッジ」「教養学部」を参照のこと。」 英語google 「Liberal arts, also referred to as the humanities, includes the study of history, literature, writing, philosophy, sociology, psychology, creative arts, and more. More broadly speaking, students earning a liberal arts degree learn to formulate effective arguments, communicate well, and solve problems.Sep 10, 2018」 英語wikipedia これはなんの事情かliberal artsの項目がありませんでした。 代わりに先頭に「liberal arts education」が出てきましたのでそれを収載します。 「Liberal arts education (from Latin liberalis "free" and ars "art or principled practice")[1] is the traditional academic program in Western higher education.[2] Liberal arts generally covers three areas: sciences, arts, and humanities. Its central academic disciplines include philosophy, logic, linguistics, literature, history, political science, sociology, and psychology. Liberal arts education can refer to studies in a liberal arts degree program or to a university education more generally. Such a course of study contrasts with those that are principally vocational, professional, or technical.」 教養とリベラルアーツ(日本語)/liberal arts(英語)を比較してみると教養には「心のゆたかさ」「人格」「精神修養」などの言葉が出てきます。 教養自身が学問であるというよりは学問を身につけた結果身につけられる倫理・道徳的な人間の価値の様なものを意味の中心としているようです。  一方でリベラルアーツ(日本語)/liberal arts(英語)には倫理・道徳的な意味合いがなく知的な意味しか出てきません。学問の技、術、芸、方法、手段、道具として見ています。具体的な教育課程で占める位置付けについても書かれています。日本語のウィキペディアの「教養」の説明を読むと「教養」もその様に使っても良い様な事を書かれていますが、そのような使い方は二次的であると付記されており、さらに書いてあることが曖昧です。  ですから「教養」と「リベラルアーツ」は別の意味で使った方がいいかもしれません。  「教養」という言葉には学問が自己修養や人格陶冶であることを意味した儒教の影響が張り込んでいると思われます。それはそれで構わないのかもしれませんが「リベラルアーツ」の訳語の意味があることや「リベラルアーツ」の学問における意味が理解されていない場合にまずい場合があります。  最悪なケースは大学の新入生が教養課程の意味を取り違える事です。  教養課程が教養を身につけるところであってリベラルアーツを勉強すべきところと思わずリベラルアーツを身につけず教養課程を終わってしまうことです。日本の場合、そうであっても専門課程に進める事が多くあります。大学入学時にすでに専攻が決まっている場合専門教育の勉強を急ぎ教養課程を軽視する場合があります。  あるいは教養教育を嫌う可能性があります。若い多感な時期に大学という権威から大学の価値に従う倫理・道徳を身につけなければ希望する専攻に進ませてやらないと言われれば反感を持つのは当たり前です。  ステューデントアパシーに陥ったり、モラトリアム期に入り込んでしまうかもしれません。不登校や多留生になるのもいいかもしれませんが、無駄で効率が悪いです。そのようなつまらない理由で時間もお金もエネルギーを無駄にするのは大学、社会、本人、家族、その他あまり良い感じがしないかもしれません。  旧制高校的な教養主義文化ともいえるので本人の人格形成につながったり文化として残していくのもいいのかもしれませんが昔の事はよく見えやすいお年寄りの回顧であったり、前向きにトライするのを回避する若者の良い訳に過ぎない場合も多いかもしれません。無駄こそ文化だという考え方も共感はするのですが。   第4章 大学入学前後の教育システム  前章までで「教養」という言葉と「リベラルアーツ」という言葉を区別すべき理由を書きました。  具体的な施策としては「教養課程」、「教養教育」を「リベラルアーツ過程」「リベラルアーツ教育」に変更するか、「教養」という言葉が「リベラルアーツ」を含むことを普及、宣伝、啓発、教育していくべきです。  大学で学ぶ基礎教育期間は大学を卒業した全ての人が身につけるべきことを身につけさせる最大にして最後のチャンスになるかもしれません。基礎過程で身につけずにリベラルアーツを身につけさせるのにこの機会を逃す場合に考えられる次の手段は、大学卒業時に試験を課すことです。そうすれば自習でも何でもリベラルアーツを勉強するでしょう。補講を設けたり家庭教師を雇ったりダブルスクールして塾や予備校で勉強するのもいいでしょう。勉強には社会も個人もお金を惜しむべきではありません。最高の投資だと思いますし経済効果もあるかもしれません。  全ての大学生が共通に教育されるべき学問があるのかという疑問あるいは習字疑問文による否定的な考えを持つ人がいるかもしれません。  まず教養課程をさぼったり代返を頼んだり名前だけ書いて教室を出て行ったりレポートをコピペしたり一夜漬けしたりカンニングしたりして実質的にリベラルアーツを身につけずに専門教育に進んで問題を感じなかったという感想を持つ人が多くいると考えられます。それに対する答えは気付かぬ間に本人や社会が損をしているかもしれないと考えるべきという事です。  原点に返ってリベラルアーツの意味を考えます。自由市民が持つべきものでした。まず自由市民同士で議論が出来ないといけません。議論でなくても話が出来ないといけません。時にポリスの代表者や軍の司令官も選ばないといけないかもしれません。選ぶどころか他に適任者がいないとあれば自分でやらないといけないと思うかもしれません。直接民主制なら誰もが良い志を持っているとは限らず合理的、論理的に誠実に話すのではなく、詭弁を使って人心を誘導しようとするソフィストもいるかもしれず騙されないようにしなければいけません。ですから自由市民は優秀である必要があります。逆に自分がソフィストになって他の市民を黙失用があります。ロゴスとレートリケー(レトリック=修辞法)は自由7科にどちらも含まれます。分かり易く理解させるためには時には詭弁的なものアジテーション的なものも必要な場合があるのでしょう。自然言語を使うとは理性的なもの、非理性的なものをどちらも使う事になります。「社会性」というのは非理性的なものも含まれています。  近代になると啓蒙思想や市民革命がおこります。自由・平等・博愛を謳うフランス革命では人権という概念が原則になりました。近代的な自我という者は自分で考え、判断し、決断し、行動し、行動の結果のケツを持つ人間を念頭に考えられています。奴隷がなくなり全ての人間が人権と主体性を持つことが理念になります。例えばナポレオン戦争後世界的にユダヤ人の多かったドイツではユダヤ人がゲットーから解放され大学に入れるようになります。19世紀後半以降ユダヤをルーツとする知識人が目立つようになるのはそのためです。ユダヤをルーツに持つという事はユダヤ教からキリスト教に改宗者の子孫であったりユダヤ人以外の配偶者を持った場合などです。ユダヤ教にも色々な宗派がありますが13歳の男子にバト・ミツワや12歳の女子にバト・ミツワという儀式が行われる場合がありそこで神を信じるか、ユダヤ教徒であるかを選ばせます。有名なアインシュタインはこの時神の存在を信じられないとしたのでユダヤ系ですがユダヤ人ではありません。ラビの一族でしたが前の世代が弁護士になるためにキリスト教に改宗したのがカール・マルクスでマルクスはユダヤ系ですがユダヤ人ではありません。近代にはこのように差別されていたり、まだ社会的あるいは制度的な制約を持たれていた被差別民も市民として扱われるようになります。人間は人権を持ち平等なので義務も権利も負います。  ヨーロッパは今も昔も階級社会ですので貴族などの上層階級がいます。上層階級の子弟は上層階級の教育を受けます。大学に行くのもそうです。たとえばイギリスではそれ以前は昔は家庭教師などつけられて教育されたりプライベートスクールという全寮制の予備教育、初等教育機関で教育を受けます。  ヨーロッパ全体の大学の定員枠は日本に比べれば少ないので誰もが入れるわけではありません。ですから大学の学生の主体は上層階級になります。専門教育を受けたり研究をしに行く場合には留学生や社会人を経て大学で勉強するような人もいるでしょう。  大まかに分けて大学には基礎と専門があります。ヨーロッパの上層階級は初等教育から高等教育までは幼少期、学童期から一貫して学びます。それは家族の伝統でありイギリスの上層階級なら息子は、祖父、父と同じ学校に行くような一家の伝統があります。 第5章 近代の大学教育    日本の大学教育に対するイメージは人によってことなります。この100年あまりで大学制度も教育制度も教育内容も変化していますので大学在学歴のある人の世代や在籍年代によってかなり大学のイメージに多様性があります。自分の体験は本や自分より年配や若年の人に聞いた大学体験と違うと思います。 初等教育から高等教育を一貫して行う場合、初等教育と高等教育の線訳がどこでなされるかがポイントになります。 そもそも教育内容の高等度を決める規格があります。国際標準教育分類(International Standard Classification of Education 、ISCED)といいます。1997年版と2011年版がウィキペディアに収載されっていたので示します。 ISCED 1997版[2] レベル 説明 特徴、およびサブカテゴリ 0 Pre-primary education (就学前教育) 初等教育を受ける前、3歳から開始される。幼児に対して学校環境を紹介し、また認知的、身体的、社会的、感情的スキルを開発する。 1 Primary education or first stage of basic education (初等教育または基礎教育ステージ1) 通常5-7歳から開始される。音声による読み書き、数学、および他教科の基本的な理解をする。 2 Lower secondary education or second stage of basic education (前期中等教育もしくは基礎教育ステージ2) 基礎教育ステージを修了するための教育であり、たいていは客観的パターン志向となる。初等教育(ISCED レベル1)の学習結果を基に構築され、それは生涯にわたっての学習・人間開発の基礎となることを目的とする。 3 Upper secondary education (後期中等教育) 15-16歳もしくは中等教育を修了した者を対象とする、より専門的な教育であり、第3期の教育の準備や、雇用に関連するスキル、もしくはその両方に関連する。 • 3A:大学(レベル5A)への進学準備過程 • 3B:職業志向教育(レベル5B)への進学準備過程 • 3C:就職準備、またはレベル4への進学準備 4 Post-secondary non-tertiary education (中等以降高等以前教育) 国際的視点に基づいて、中等教育と高等教育の境界をまたぐプログラム。ISCEDレベル4のプログラムについては、内容を考慮し、第3期の教育プログラムとみなすことはできない。 • 4A:第3期の教育への進学準備 • 4B:就職準備 5 First stage of tertiary education (第3期の教育ステージ1) ISCED レベル3,4よりも高度である第3期の教育。学術的、もしくは実務的・職業的固有のプログラムである。このプログラムに就くためには、通常はISCED レベル3Aまたは3B、もしくは4Aと同等のプログラムを修了していることが求められる。 • 5A:研究および職業技能資格(たとえば医学、歯学、建築学)プログラム。最低3年以上。 • 5B:労働市場に直接結びつく技術的・職業的スキルのプログラムで、5Aよりも短期間。最低2年以上。 6 Second stage of tertiary education (第3期の教育ステージ2) 高度な研究者としての認証を得るための第3期の教育(たとえばPh.D.)。このプログラムはコースカリキュラムに基づくものではなく、高度な独自の研究がなされる。典型的には、独自の研究と知識への重要な貢献が含まれた出版品質の論文の提出が必要となる。 ISCED 2011版とISCED 1997版との比較 レベル 説明 特徴、およびサブカテゴリ ISCED 1997に対応したレベル 0 Early childhood Education (01 Early childhood educational development) (就学前教育) 学校や社会への参加のための早期準備。 3歳未満の子供のためのプログラムである。 なし 0 Early childhood Education (02 Pre-primary education) (就学前教育) 学校や社会への参加のための早期準備。3歳以上の子供のための初等教育の開始前のプログラムである。 レベル0:Pre-primary education (就学前教育) 1 Primary education or first stage of basic education (初等教育または基礎教育ステージ1) 読み書き、読書および数学などの基礎的なスキルを提供するプログラムである。 レベル1:Primary education or first stage of basic education (初等教育または基礎教育ステージ1) 2 Lower secondary education or second stage of basic education (前期中等教育もしくは基礎教育ステージ2) 初等教育や一般教科を基にしている中等教育の第一段階である。 レベル2:Lower secondary education or second stage of basic education (前期中等教育もしくは基礎教育ステージ2) 3 Upper secondary education (後期中等教育) 第3期の教育の準備または仕事に関連する技術、もしくはその両方に提供している。中等教育の第二段階である。 レベル3:Upper secondary education (後期中等教育) 4 Post-secondary non-tertiary education (中等以降高等以前教育) 中等教育を基にし、第3期の教育や雇用の準備、もしくは両方の準備をするプログラム。教育内容は広く高等教育ほど複雑ではない。 レベル4:Post-secondary non-tertiary education (中等以降高等以前教育) 5 Short-cycle tertiary education (短期高等教育) 労働市場に直接結びつく技術的・職業的スキルを学ぶ最初の短期の第3期の教育。上位の第3期の教育へ進む道もある。 レベル5B:First stage of tertiary education (第3期の教育ステージ1) 労働市場に直接結びつく技術的・職業的スキルのプログラム 6 Bachelor’s or equivalent level (学士) 中間的な専門の知識、技術と能力を提供する。最初の第3期の教育である。 レベル5A: First stage of tertiary education (第3期の教育ステージ1) 研究および職業技能資格プログラム 7 Master’s or equivalent level (修士) 中間的な専門の知識、技術と能力を提供する。2番目の第3期の教育である。 レベル5A:First stage of tertiary education (第3期の教育ステージ1) 研究および職業技能資格プログラム 8 Doctoral or equivalent level (博士) 先端研究に結びつくことを目指したプログラムである。独自の研究と知識への重要な貢献が含まれた出版品質の論文の提出が必要となる。 レベル6:Second stage of tertiary education (第3期の教育ステージ2) 大学入学者の大半は初等教育から大学入学までを一貫して行ってきた人々になります。 戦後の6・3・3制なら高等学校卒業相当の学力を持つものが大学への入学資格を持ちます。言葉は難しいもので日本では小学校、中学校、高校、大学と進みます。 中学校は前期中等教育機関とのことです。国際標準教育分類ではレベル3はUpper secondary education(後期中等教育)に相当します。高校はレベル4のPost-secondary non-tertiary education(中等以降高等以前教育)と分類されています。 ここで微妙な位置にあるのが高校で中等以降高等以前教育となっています。中等教育も含むし高等教育も含むと表現されています。 レベル5の改定が顕著でISCE1997番がレベル5で終わっている一方、2011年版はそれが細分化され5から8の4つに分類されています。 問題はレベル4の「中等以降高等以前教育」という中途半端な表現です。ISCEは非常に細分化された分類なので何らかの境界があって分割可能と判断すれば分割するでしょう。ですからこれは分割できなかったと考えられます。 この分類では初等教育が具体的に表現されるほかは中等教育以降の教育内容が曖昧です。初等教育より後の社会との関係の意味で職業との関係を重視していることが推測されます。 戦前のこの境界領域の教育では旧制中学校、旧制高校と大学予科があります。 予科とは大学を予科と本科に分ける考え方です。 予科も本科も大学に属します。予科は教養課程で本科は専門課程です。 旧制高等学校は予科と同じ教育をしますが大学ではなく別の学校です。 専門に進む基礎として教養のみを教えるのでアメリカのリベラルアーツカレッジと同じ考え方です。戦前の教育制度も時期によって違いますし、色々な形態の学校があり多様性がありましたが、初等教育、中等教育、高等教育を制度で明確に分けていました。 すなわち旧制の小学校では初等教育を学び、旧制中学校では中等教育を学び、大学予科や旧制高等学校では高等教育のうち専門に進むための準備であり専門に関わらず共通の内容を学ぶ(予科は理科と文科に分かれましたが)段階であり教養課程ですが、この場合の教養は欧米の中世の伝統を継承した大学のリベラルアーツを志向しています。  日本は貧しく開国後まもなくであり欧米の近代文明の導入にハンディキャップがあるため外国の大学の様に私立ではなく公立・国立が中心にならざるを得ません。  一方で欧米の教育を模倣しているため共通点もあります。基本的に寮制度があります。私生活でも学校生活でも教養文化に触れる機会がありました。  この教養文化を教養主義と呼びますが戦前でさえ教養とリベラルアーツの意味は解離していたようです。  戦後の連合国軍による学校教育法により大学予科がなくなり、旧制高等学校の教える内容も変わりました。旧制の高等学校は予科と同じく申請の大学の教養課程を教えていたため新制の高校ではその地域の国立大学の教養学部の前身として大学に吸収されるか、教える内容を中等教育よりに下げて新制の高等学校として高等学校として留まりました。 留まったと書きましたが改造された、あるいは取り換えられたと考えることも出来ますし、継続せず断絶し全く違うものを指すようになったとも言えます。敗戦と敗戦後の改革は革命であり社会体制も憲法もラディカルに変わりました。 教育制度も大学も高等学校も戦前と、あるいはモデルにしたアメリカの学制とも環境も背景も異なります。 大学というものも洋の東西を問わず近代になると変わります。近代は国家の力が強くなり、国家が教育制度に協力に関わります。ですから現在の教育制度を国別にみていくことも意味があります。 例えばフランスのパリ大学は12世紀にできた中世大学ですがグランゼコールというエコールノルマルやエコールポリテクニークは官僚の養成機関です。 リセという後期中等教育を受けた後、バカロレアという試験を受けて高等教育機関にいくわけですが、グランゼコールという専門高等学校に行くのがエリートです。 広く歴史をみると日本の大学という概念は曖昧で例えばグランゼコールを大学というべきかという視点も生じます。 「大学」や「教育」というものを広く勉強してみるのは有意義な事です。 第5章 中等教育と高等教育について  第4章までの予備知識を踏まえた上で日本の中等教育の後半とと高等教育の前半について考えてみたいと思います。  ISCEでは日本の高等学校はレベル4に相当し「中等教育以降高等教育以前」とされています。これが中等教育と高等教育に明確な境界がないためであると書きました。他に考えらる可能性はこの段階の教育を明確に区別してもISCEの目的上意味がないというものですが歴史や世界の教育の多様性を考えると否定されるでしょう。  教養と比較するためやはりリベラルアーツについて考えます。リベラルアーツは中世においては自由7科と同義であり、7つの学問で構成される明確な概念です。  自由7科がリベラルアーツであり、リベラルアーツは自由7科です。これは必要十分情景で同値です。  近代や現代になるとリベラルアーツの意味が変わってきます。7つの学問をリベラルアーツと呼んできましたが、リベラルアーツの理念である「学問の基礎」がこの7科でよいとは言えなくなりました。これは学問も社会も変化したので仕方がありません。  仕方がありませんが時期が悪かったとも言えます。そもそも明治からの日本の留学生は促成栽培で専門家になるために国費留学生として派遣された各学問の千龍たちは大学の基礎教育から学んでません。一方で大学の初めから留学した人々は日本の大学教育に貢献しています。また外国のキリスト教宗派により作られたミッション系の大学がありそういうところでも極力リベラルアーツ教育を使用としたかもしれません。  ただ近代になって自由7科が必修であるのはさすがに時代遅れです。日本が西洋文明を熱心に取り入れ始めたころに中世7学を勉強する優先順位は低かったでしょう。いつ西洋列強どころか近隣の清国に対してさえ弱小の日本はいつ滅ぼされても植民地にされてもおかしくない状況でしたし、国内の統一も怪しく不平士族、自由民権運動、社会主義者など反政府主義者がうじゃうじゃいた時代で内乱や国家反逆運動で国内の統一が乱れてもおかしくない状況です。  外国に留学した第一期生は日本の江戸期の教育を受けたエリートでラテン語やギリシア語は出来ないにせよ四書五経など中国の文献にはたけています。中国は世界史の中では近代のある時期までは世界の中でずば抜けた文明国です。漢文の文法も修辞学も特に西洋古典語に劣っているとは思えず寧ろ優れていると思われます。  論理学にしても古代、中世までの論理学は近代、現代の論理学の目からみれば幼稚な論理です。稚拙ななんちゃって論理でしたら別に論理学を学んでいなくても論理的に見える人間を装う、あるいは自分で自分が論理的と誤解するのは簡単で現在でも世の論理的に見える人は論理能力のレベルが高くありません。高いと自分や他人が思い込んでいる場合には謙虚さもなくなりかねないので余計たちが悪いです。  算術、幾何学、天文学、音楽ですが武士は金計算を貴ばない場合があるので計算が出来ない武士がいる一方で読み書きそろばんは庶民の教育の基本です。そろばんはある程度の習熟でも高度な四則演算が可能です。武士でも経理の様な仕事をする人はやはりそろばんを取得せざるを得ません。端的な事実として幕末は経済が分かる藩が買って、経済に疎い人々が負け組になりました。  幾何学、天文学ですが、日本の和算は世界の数学史から見ても画期的です。関孝和は微分、積分、行列式などについて先達者争いをする資格のある人物で世界の歴史上の天才のトップテンに入る可能性があります。音楽は別に国力増強のために急いで学ぶ必要はないでしょう。  その様な経緯で初期の西洋文明や学問の導入は専門重視で、基礎は後回しであったと思われます。リベラルアーツの習得を重視するのは適齢期に西洋に留学したり西洋の教育学を広めようとした一部の人々に限られると思います。  津田梅子や新島襄はアメリカのリベラルアーツカレッジに留学しています。  津田塾大学や同志社大学が特別な意味を持っているのはそこに関係があるでしょう。  まとめると日本がリベラルアーツ概念を取り入れるのに失敗した理由の一つは近代においてリベラルアーツ教育で教えるべきことを何にするかに混乱が生じたためです。  近代においてどの分野の学問も大きく刷新し続ける中でリベラルアーツを何にするかは中世以来の大学でも混乱をきたしたかもしれません。 第6章 教養課程の問題点  リベラルアーツ教育と教養課程の両者の理解とその違いを理解するため教養課程の問題点を当てていきましょう。 ・リベラルアーツ教育導入時点でのリベラルアーツ教育の混乱  中世においてはリベラルアーツは自由7科を指し、高等教育において必ず身につけるべきものでした。高等教育を完了した人はリベラルアーツを身につけていると言えました。リベラルアーツは学問の基礎であるとともに高等教育を受けた人の常識でした。大学を出た人は専門は何であれリベラルアーツは同一に理解してるため、それを土台にコミュニケーションが取れます。しかし近代も進むと古典語の履修なり音楽の履修なりが学問の世界においてさえ必要性が認められなくなりました。リベラルアーツ教育は西洋においても混乱があったはずですが、その時期に日本はヨーロッパの教育制度を導入しました。日本人がリベラルアーツの意味について理解できなかったと思われます。これが教養課程の軽視につながったと思います。 ・教育を促成栽培せざるを得なかった  明治維新後の日本は悲惨極まりなかったと言えます。植民地にされないために元々低い国力を軍事に充てなければいけなかったので国民は江戸時代以上の税負担を強いられました。経済的な負担だけでなく教育をはじめあらゆる負担を強いられました。明治期初期の留学生たちは江戸の教育を基礎として直接専門を身につけに欧米大学に行きました。これは目的から見れば大成功したと言えます。欧米流の初等教育や中等教育を受けたわけでもなくリベラルアーツ教育を受けたこともない留学生たちが留学先で優秀であり専門の学問を習得するのに成功しました。明治中期以降の学生たちは欧米の教育制度導入の教育の混乱状態の中におかれていましたので欧米流のリベラルアーツの概念を理解していたとは思えません。また歴史は継続、悪く言えば惰性の面がありますので明治初期の留学生のやり方をなし崩しに模倣していたと思われます。教育制度が欧米式に整えられましたが、リベラルアーツの意味の理解には失敗したと思われます。 ・教養課程の曖昧さ  中世ではリベラルアーツ=自由7科という同等の関係が成り立っていました。  専門教育を受けるにはリベラルアーツを学ばなければいけないし、リベラルアーツを身につければ専門教育を受けられるのです。これは非常に分かり易いです。  近代以降この学問をしておけばリベラルアーツを身につけているという条件がはっきりしなくなりました。例えば中等教育後期高等教育前期の移行期に相当する日本の申請高等学校では理科や社会が選択制なことが普通です。数学も選択制です。  理科は物理、化学、生物、地学のうちどれか2科目を勉強していれば大学への入学資格が得られます。社会科は日本史、世界史、地理、倫理、政経のどれか2教科を勉強していればやはり大学受験が出来ます。数学も数学Ⅲや数学Cは文系の学制では学びません。受験科目にないからです。  かといって高等学校で学ばなかった教科が大学の教養課程で必修になっているわけでもありません。結果として数学Ⅲや数学Cを学ばなくても専門に行けます。また社会科や理科のどれも大学生なら身にするべき学問とはみなされていません。  4教科中どれか2教科が必要というだけです。つまり選ばれなかった強化は専門のための必要条件でもありませんし十分条件でもありません。  結果として教養課程は大学生が専門に進むための必要十分条件ではなくなっています。  教養課程では選択と必修と選択必修があります。つまり学ぶべきことを学生に選ばせている、悪く言えば投げています。  この結果教養課程が大学生なら必ず身につけているべき共通の学問の基礎という意味がなくなってしまってます。  これが現状だけならいいのですが、日本においてはそもそも明治時代からそうである形跡があります。これは欧米のリベラルアーツ概念の導入の失敗とも言えますし、リベラルアーツ概念は必要ないと判断したからかもしれません。 ・精神主義としての教養  江戸時代までの儒教などの影響を受けた学問感は学問とは人間の精神性を高めるものであるという事です。中国思想は分けるというより一緒にする傾向があります。  これは西洋の学問とは真逆な考え方です。  西洋では徹底的に学問を分けます。  ある科学に倫理・道徳的側面があるなら、その倫理的・道徳的側面をその科学から分離して独立一科とします。  そもそも西洋ではキリスト教があり学問や科学の領域に口出ししてくる傾向があるのでしっかり分けて宗教分離をするのが大切です。  そうしないと地動説でも進化論でも研究を妨害されます。  中国の学問感はまさに学問の目的は人間性を高めるもの、というもので、これは教養と同じ意味です。  大学制度を導入してリベラルアーツ教育を教養教育と訳して高等教育に組み入れた際にこの江戸時代の古い考え方が混入して混交してしまいました。  この混交、集合現象はそのまま現在まで引き継がれています。  ですからそもそも一般人にとって教養課程が人間性を磨くものでなかった時期がそもそも日本にはなかったのかもしれません。 ・思春期、人格形成期の問題  学問、科学を勉強することは人間修養とは少なくとも西洋では別のもののはずですが、日本においては混ぜ込まれている事の理由に教養課程の学習が若者を対象としているから、というのがあります。  そもそも10代や20代は思春期や社会への参加の意味で人格形成期ですので教育にはそのためのケアがあるべきなのです。しかし日本ではそのケアが漠然としています。  西洋では宗教なり啓蒙思想なりが人間の倫理教育を行うためのものとして明確に存在しています。これは学問から倫理的な部分を切り離す自覚的な方法でもあり、クラブ活動や寮生活、スポーツなどで社会性や人間性を養います。  日本でも寮生活やクラブやスポーツをその目的で学生のために使いますが日本では宗教系列の大学を除いて大学に教会やお寺や神社がついていることはありません。  寧ろ大学にそういった施設をつけることに否定的です。  欧米の大学は歴史的にキリスト教と結びついているので学校の伝統としてそれを否定するか肯定するかに関わらず、修身、修養、人格陶冶として大学、教会との結びつきがあります。  日本で学生の実存的な問題、人生的な問題に対応するのは保健管理センターのカウンセラーかもしれません。つまり若者の精神的ケアやサポートが元々脆弱です。  その結果か知りませんが、日本の学生は洗脳されやすいです。オーム真理教や統一教会などの新興宗教やマルチビジネスにはまってしまう人もいます。社会主義や共産主義、社会改革運動や革命運動、左翼活動の巣窟ですので公安が入っていたりします。  国公立大学だと政教分離の考え方を教育制度、教育施設に持ち込んだ結果だと思いますが、その結果として生じたと思われる面白い現象の一つが「学問で精神を高める」学問による精神主義です。  繰り返しますが、「リベラルアーツ」という言葉には精神主義がありません。ただの技術と方法です。  日本の「教養」という言葉は学問を精神修行に使う考え方です。「リベラルアーツ」は単に知的なものであり、倫理とは全く関係のない概念なので「リベラルアーツ」と「教養」は違う意味です。  「リベラルアーツ教育」と「教養課程」も別のもので同じように見える事もあるかもしれませんが全く別物です。 第7章 リベラルアーツ教育の必要性  日本には教養課程がありますので、それを望むのであれば教養で精神を高める修行をすると良いでしょう。  一方で日本には「リベラルアーツ」の考え方と「リベラルアーツ教育」がありません。  日本以外の世界のエリートは大学でリベラルアーツ教育を受けています。リベラルアーツ教育は全ての大学生が共通して身につけなければいけない、学問の土台です。それを身につけていればその技術を使って相互にコミュニケーションすることが出来ます。コミュニケーションのツールと規格が一緒なのでそれを共有しているもの同士、それを使えばいいのです。  日本の大学にはリベラルアーツの考え方もリベラルアーツ教育もありません。したがって外国の大学でのエリートとコミュニケーションを取れない可能性が生じます。  これは日本人と日本にとってミゼラブルで不幸なことです。  リベラルアーツが誤解されてしまう原因の一つに「リベラル」「自由」という言葉があるかもしれません。自由は近代の啓蒙主義において倫理的な価値を持ちます。自由、平等、博愛がフランス革命の理念です。  ただリベラルアーツの「リベラル」はこの様な意味を持ちません。単に歴史的にたまたま残ってしまった残滓です。リベラルアーツの「リベラル」はギリシアの都市国家ポリスの自由民、自由市民に由来します。ポリスは自由民と奴隷に分かれていたので奴隷ではないという事も示しています。なぜ民を自由民と奴隷に分けたかというと、生活のための労働は過当な職業的、家事的なものも含めて下等であり人間の制約と考えたからです。肉体的な労働を下賤と考え知的労働を高級としました。人間は精神をより価値の高い知的活動に充てるべきという考え方です。下賤な労働から離れて知的活動に自由に専念できるから自由民です。  近代の自由は貴族の階級的支配からの自由でした。リベラルアーツの「自由」は自由市民を同じ支配階級の貴族と同質にみなせば貴族の自由です。前提として被支配者から提供される生活のサポートの土台の上に立つものです。  ですから「リベラルアーツ」というのはある意味で差別的な言葉です。また「リベラル」は近代の自由の様に高尚な意味ではなく、単に「働かなくていい」「家事もしなくていい」という労働から離れて勝手気ままに思考や研究、学問をしていいよという者です。  伝統の継承という意味ではアカデメイアを作ったプラトンの影響で、学問は強制ではなく自由意思で行うもの、制約されず強制されず自由に思想、学習、研究、勉強をすべきだという伝統にのっとっています。しかしそのためには基礎となる技術や方法を身につけておかなければいけないという意味になります。 つまりリベラルアーツの自由とは学問の自由であるとともに自由に学問するためには最低限の基礎が必要というものです。  学問をする階級、学問が出来る階級、学問をしないといけない階級はエリートです。  エリートの項目をウィキペディア日本版から拾ってみましょう(2020年8月13日現在)。   「エリート(フランス語: élite)は、社会の中で優秀とされ指導的な役割を持つ人間や集団。別称「選良(せんりょう)」。」 「語源はラテン語の ligere(選択する)で、「選ばれた者」を意味する[1]。一般的には、ある社会において優越的な地位を占める少数者を指す。優越性の根拠には社会資源の独占、意志決定機能の独占、職業・知識・経験など少数者の属性に関わるものなど、エリート論によって違いがある[2]。民族・宗教などの場合は選民思想、階級として貴族制、知識経験の場合は知識人や資格主義に関連する場合がある。政治学的には、統治者(層)に必要な資質を持っている、あるいは持っているとみなされている場合が多い。ハロルド・ラスウェルはエリートと特定される人物について、ある勢力の主体として社会的尊敬・収入・安全の3つの価値を最大限に獲得できる者をエリートと定義している[2]。 エリートが重視される思想や傾向はエリート主義と呼ばれ、一元主義の一種である。対する概念には、非エリートである大衆の立場を重視するポピュリズム、平等主義、複数の観点や基準を並存させる多元主義などがある。 エリートが単独で支配者となる体制は寡頭制の一種であるが、これそのものは必ずしも権威主義ではない。エリートが全体の代表者に選出されたり、全体の代表者の配下でエリートがテクノクラートとして登用され重視される形態は、民主制でも独裁制でもありうる。エリートは専門家集団であるため官僚主義となり実権を握る場合も多いが、その場合は最終権力者からエリートへの統治(ガバナンス)の有効性が議論となる。 一般にエリートは、他者より高い経験と責任を発揮して国家の統治や一般大衆への指導を行うことが期待されており、社会的な分業体制の一端として捉えることもできる。森嶋通夫は、日本に限らず現代世界のエリートの分布状態を、民主制の基盤たる素人主義に対する玄人主義ないし専門家主義という言葉で位置づけている[3]。ただしエリートが期待された役割を果たしていない、と他者からみなされた場合には、エリート層の交代論や、各種の反エリート主義が発生しやすい。 転じて、単に一定範囲の職業、役職などや、いわゆるキャリアなどが「エリート(集団)」などとも呼ばれている。」  リベラルアーツと同じくエリートも差別的な概念です。そもそも大学には全員いけないのでこれも差別的な概念です。  高等教育を受けられる人も限られていますし、「高等」という差別的な概念です。  因みに差別的というのはここでは悪い意味では使っていません。  物事を何かの基準で良い、悪いで区別すると世の中は差別の体系になります。  物事を何を基準に区別するかもどちらを良いとするか、悪いとするかも現代的な視点においては恣意的なものでしかないのでここれは差別を悪い意味で受け取らないようにしてください。  差別という言葉を原理主義的に使う人がいますので一応注意しておきます。  政治をはじめどの分野でも指導者層は必要ですのでエリートは社会に必要です。  現代では指導者層にはなろうと思えば努力は必要な場合もありますがなることは出来ますので、指導者層やエリートに排除的な意味はありません。  逆に指導者層やエリート層に入れるのに入らないのもメリットがある選択肢の一つです。 世俗の事は何でもトレードオフ、機会費用が生じます。別の言い方をすると何にでも良い面も悪い面もありますし、良い事も別の見方から見ると悪いことである場合もあれば、悪いことが別の見方から見ればよいことである場合もあります。  メリットにはそれに伴うデメリットも同時に発生するという考え方が出来る事が望ましいです。 第8章 リベラルアーツの中身  リベラルアーツという言葉は欧米の教育制度の中では一貫して使い続けられています。  一方日本の教育制度でも教養課程というのがあります。  教養課程は一時期「教養課程不要論」というのもあって教養の年限が短縮されたり、教養課程中に専門課程も同時に進める様な流れがありました。今現在はどうなっているかは知りません。  高等学校で高等教育をすでに行っているので大学の教養課程をごまかしても何とかなってしまう場合があります。私は2回大学を卒業しており1回目は1995年から1999年まで北大の理学部物理学科入学で生物化学科で卒業、2回目は2001年から2008年まで京都府立医科大学の医学部に通学していました。2回大学生をやったことで色々発見がありました。  発見の1つ目は教員も学生も真面目に授業しないことです。教員は手を抜きまくっていますし、学生の教養教科の勉強不足も顕著です。それでも専門課程に進めてしまいました。  発見の2つ目は高校できちんと勉強を理解していないと大学の勉強は理解できない事。私は高校時代劣等生だったので1回目の大学時代は学業の理解が十分なされなかったと思います。生物学科を卒業していますがそもそも高校で物理と化学の選択でしたので生物学の基礎がないまま専門に進んでしまったためです。専門もそうですが真面目な学生だったので教養課程も深く広く勉強しようとしましたが十分に理解できませんでした。  私の場合1回目の大学卒業後2年間浪人をして医学部に入学しており、1回目の大学時代も1年浪人した末の入学でした。高校時代勉強していませんでしたが浪人3年と大学4年間で7年間2回目の大学の勉強の準備をしていたことになります。2回目の大学時代は教養も専門も手ごたえを持って理解できました。2回目の大学の私の同級生はストレートで入学していれば1982年4月~1983年3月に生まれた世代で主に京都の進学校、その他も関西の進学校の学生で構成されたローカルな大学でした。全国でも名立たる進学校の学生が多数を閉めましたが、観察していると高校で物理学を専攻した学生は教養の物理学も医学部の基礎科目の生理学の神経科学の活動電位や循環器科学などの物理学が必要な勉強は理解できていませんでした。一方物理学を専攻して生物学を専攻していない学生はやはり教養課程の生物学も専門の基礎も臨床も理解できない穴があったようです。それを見て私は高校の勉強を理解できていない学生は大学のアドバンスの同じ教科の授業は理解できないと考えて周囲を観察していました。学問は積み重ねですので分野領域に問わず初級を理解していなければ中級も不完全な理解しかできず、中級までの段階を理解していなければ上級も理解できないと考えました。  3つ目の発見は2回目の大学で学生の学力低下を感じました。私は謙遜ではなく頭がよくありません。あるいは得意不得意にかなりばらつきがあります。一つの理由は郊外や田舎の小中高校に行っていたこと、2つ目の理由は高校時代学校の勉強をせず読書と哲学と思索に没入していたこと、3つ目の理由はAt risk mental status(ARMS)という状態になり認知機能が低下してしまったためです。学校での学業は下から十数番目や数十番目でしたが模試で国語が校内1位であったり、活字中毒の様になって文字という文字を読まないと気がすまない強迫的な状態になっていたり仏教や哲学や思想の勉強と思索、まとめると倫理学オタクになったため予備校の小論文では絶賛されたりしていました。しかし注意力や作業記憶、概念形成能力が低下し、両義的思考が顕著になり頭はいつも混乱状態で知的活動のパフォーマンスが低下してしまいました。この認知機能低下は長引きかつ完全には回復しないと見えて今も尾を引いているのですが、そんな私ですら医大に受かってしまいました。これは少子化が関係していると思います。  4つ目の発見は学生も教員も教養主義的な傾向がない人が増えていました。むしろ流行らない遅れた考えと見られていたようです。勉強に対する考え方がプラグマティスティックになっていて必要な事をいかに効率よく無駄なく早く行うかという考え方が徹底していました。  5つ目の発見は生徒の出自です。2/3以上が親が医者でした。京都周辺の進学校でかつ数項の生徒が大部分を占めており、かつ小中高の塾などでも知り合いであった子達が多数いました。たまに進学校でない学校出身者や学校から離れた県の出身者や身内が医療系でない子や編入性、多浪生、他大学を卒業か中退、あるいは社会人経験のある人がいましたがごく稀でしかもあまり適応がよくなかったようです。  6つ目は貧乏な家の子がいませんでした。本当にごくまれにいましたが適応に更に苦労していたようです。  7つ目は受験勉強以外のことについての発達がよくなかったようです。受験勉強の内容以外の知識が薄かったです。精神的にも幼稚で私の事を父か兄に重ねたのか何かのコンプレックスがあるのかパーソナリティ障害があるのか知りませんが嫌がらせばかりしてくるので耳元で「喧嘩売ってるんなら表出ろや」という意味のことを言ったらそれ以降卑屈で従順になりました。正々堂々とするとか決闘をするとかプライドとかそういうことを言う人がいるかもしれないとか物事にはリスクがあるとかの概念がなかったようです。そういう人が何人かいたのであまりその人だけが特殊なわけでもなかったと思います。当時は気が付きませんでしたが私は当時大阪の浪速区恵美須町に住んでおり西成区の釜ヶ崎、あいりん地区というところの隣接地域です。大学と研修医、後期研修医の間差別されていたようです。ちなみにうちは両親ともに家柄は問題ないので住んでいる場所から何か差別的なものを想像したのでしょう。ちなみに医学部の教育ではポリクリというものがあってそこで班行動をします。みんなで家柄の話になって遠慮がちに奥村という名前はすごい庶民の感じだと京都的な事を言われたので侍で水戸黄門に仕えていた儒学者と言ったら班員に驚かれたので私について何かうわさがあったのかもしれません。大学でも大阪出身者の私への態度は独特だったように思います。また初期研修病院が堺市の大阪市立大医学部出身の医師が多い病院で大阪市立大学付属病院も西成の釜ヶ崎、愛隣地区に隣接しています。大阪市立大学出身の身体科の医師が私への態度が独特だったのお年齢が高かった以外に住んでいる場所への意識が過剰だったことがあるのでしょう。ちなみに自分に自信があり過ぎたせいか差別感情に極端に鈍感でした。選民意識があって差別されても変なコンプレックスを形成しないユダヤ人がこのメンタリティと一緒なのかもしれません。  8つ目が特に教養課程の強要しなくても国家試験には受かること、基礎研究者としても臨床医としてもやっていける事です。有名進学校でその学校でも優秀な生徒なら医学部6年間の教育なしでも国家試験は受かると思います。研修医になると未熟さと経験不足からほったらかしなら問題を起こすかもしれませんが、マンツーマンの丁寧な指導があれば優秀な医者になれてしまうと思います。実際に大学時代に始めから研究者になるために授業などさぼりながら研究室に入りびたって国試直前の2か月くらいで合格してしまうような経験をしている医学研究者の話などはよく聞く話です。 臨床医をやっていれば普通に生活していれば経験する様な事しか知っている必要がありません。あとはそれをどうやって組み合わせるかです。組み合わせの多様さがあるのでこれに必要なのは記憶力と作業記憶です。ある程度思考を効率化するために論理的な思考などを身につけておけば更に簡単です。例えば学生時代には英語、数学、理科なしで入れる医学校がありました。国語と社会だけで受かってしまうのですから必要なのは読解力だけです。医師免許を取るには予備校通学や講師浪人が必要になるかもしれませんが臨床医にはなれます。しかもいいお医者さんになれる可能性もあります。逆にどんなに頭脳優秀でも愛想も説明も接遇も不良で患者さんからの評判が悪い医者は悪いこともあります。診断治療が優秀でもです。しかしそれの方が満足なさる患者さんは大勢おられます。ここら辺は旨くても接遇が悪い飲食店より不味くても接遇のいい飲食店にリピーターになる心理と似ているかもしれません。 第9章 リベラルアーツは必要か  というわけで医師のような中世以来プロフェッショナルとして認められている特殊な専門職ですら教養課程は必要ないわけですがリベラルアーツはどうでしょうか。  問題なのは経験的に理解できることは物量や速度で押せば何とかなってしまう事です。  非経験的な事を身につけるためには特殊な才能か訓練が必要です。特殊な才能は求めて得られるものではないかもしれないですからおいておいて訓練が必要な事はしっかり訓練しないといけません。  読み書きそろばんではありませんが四則演算や国語ができればあとは生きていくには何とかなるでしょう。必要な事はその都度身につけていけばいいのです。加減乗除と読解力は必須でこれは義務教育で何とかなるでしょう。  これに生活経験から得られる諸知識を身につければ生活できますが、覚えるだけでは不十分な分野があります。  数学でいえば解析学は訓練しないと見につきません。量子力学も訓練しないと見につきません。解析学は経験の積み重ねで定理や原理に到達できるかもしれませんが、積み重ねが必要です。量子力学はそもそも手段も方法も非経験的です。どちらも複素数が出てきますがこれも非経験的と見て良いでしょう。直感的に理解できるかもしれませんがガウス平面の他色々な理解のための工夫を要します。  リベラルアーツにはこの様に簡単な直感的理解が不可能な内容が含まれます。訓練が必要になります。これを忌避すると大変なことが生じる事があります。理系嫌い、理系の軽視とよく言われますが、理系回避は最近の傾向ではありません。明治、あるいは明治より前から一貫した日本の傾向と見て良いかもしれません。  大東亜戦争のアメリカとの戦争は日本軍の科学・技術軽視が招いたものです。科学・技術・産業・経済の不利を補う者として「精神主義」という概念が使われました。しかし明治以降戦後まもなくは江戸期の欧米諸国との交流制限のハンディキャップを背負いながら圧倒的に遅れた立場で文明が進んだ圧倒的な国力の差がある国々と対峙しないといけなかったのですからまだ良い訳も立ちます。  現在の愛国心や国益意識がある人でさえ教育や理系の大切さを分かっていないように見えます。分かっていて軽視なら自覚がある分良いのですが、分からないで軽視は深刻です。  結局教育が悪いのです。日本は初等教育は優れているが高等教育がダメな国と言われます。これは子供の学力調査や大学ランキングなどでも見られる現象です。  高等教育がダメな理由としては外国の高等教育を結局理解しなかったからです。形だけ取り入れたように見えても本質を理解しないと齟齬が生じます。  高等教育が何かを理解できない理由としてリベラルアーツを理解していないことが大きな理由になります。  先進国の大学で理解されて学習されていることを日本では教養課程という名の下、理解もされず学ばれている、というよりさぼって学ばれてもいません。  10代後半から20代前半の初期高等教育の中核であるリベラルアーツを知らないというのは国として致命的で大日本帝国は滅んでしまいました。個人としても致命的で日本の高等教育は外国人はおろか日本人からでさえも馬鹿にされています。  これは当たり前のことでリベラルアーツを知らないからです。更に知らないことも知らないというメタ認知もありませんから自覚もありません。なぜ日本の教育がダメなのか、これは高等教育と教育の目的、理念を理解しないとどうしようもありません。高等教育を理解しないとプレスクール以前の教育も含めて制度の設計や改善のしようがないからです。  教育とは何か、とは人生とは何か?にもつながります。国家とは何か?にもつながります。これには人によっていろいろな回答があるかもしれません。  しかし教育の歴史を考える上ではリベラルアーツの理解なしには議論が片手落ちになります。現代文明は西洋文明の延長線上にあります。日本の教育がだめでもいい、という意見もあるかもしれませんがグローバルに見れば日本は世界が切り開くイノベーションのお世話になっており、イノベーションをなしているのは西洋の教育システムです。成果だけ頂いて自分では何も作らない、というのはひどい話です。 第10章 現代のリベラルアーツ  リベラルアーツはその性質と定義上、学問の基礎になるものでなくてはいけません。  中世自由7科は語学と論理学と数学でした。論理学は語学と数学に共通するものと考えてもいいかもしれません。語学は言葉です。学問を語る、学問を記述する共通の言葉が学問の基礎になるという事は自明でしょう。現代ではラテン語に代わって英語です。分野によっては、例えば日本史ならば日本語だけでもいいかもしれませんし、中医学であれば中国語だけでもいいかもしれませんが基本は英語であることに異論はないと思われます。  中世のリベラルアーツを構成したもう一つの要素は数学です。数学については問題があります。そもそも語源のギリシア語が数を意味していません。μαθηματικάは「学ぶべきこと」という意味であり数を意味しません。ですから古代、中世、あるいは現代においてさえmathematicsで数を研究する学問とイメージしていたか分かりません。ギリシア語を勉強していたのであれば当然数だけのイメージではないでしょう。私も古代ギリシア語を勉強しましたが入門書の最初の方にすでに出てきた基本的な単語です。Mathematicsが何を表すにせよ古代は中世はともかく現代では必須科目でしょう。中世ですら必修だあったのなら現代ではなおさらそうです。数学は現在では自然科学、人文科学、社会科学の分類に含まず形式科学という一分野を形成する様です。観察や観測がないからです。現代数学は論理学はもちろん圏論など言語さえも対象範囲にしています。文系や理系を区別するのは問題はないのですが、文系だから数学を学ばなくていいという事は現在ではすべきでありません。そもそも近代科学以降実証がなければ科学は成立しません。実証するには統計学が必要です。2020年8月13日現在この原稿を執筆時点で世界でコロナウイルスが流行しています。この場合は数でいいのですが多くの人が数字の読み方、解釈の仕方が分からないために人類の福利厚生が毀損されています。複雑に入り組んだ現代社会では直接、健康や死に影響がなくても政治、経済その他を通じて衛生や公衆衛生に影響を与え健康を損なったり人を殺します。ですから正しい答えがあるのであれば正しい答えを導かなければいけないのですが知力が足らずそれが出来ません。知力はつけようと思えばつけれるのにつけないせいで不幸が生じるのは良い事ではありません。  リベラルアーツが高等教育の共通の基礎である点を鑑みて現代において何がそれにあたるか考えてみましょう。  共通の基礎とは各学問の本格的な教科書のはじめに概論や総論で語られる各学問の基礎でしょう。概論や総論はイントロダクションで序論や第一章で説明されているかもしれません。入門書や初級編でも書かれているかもしれませんがなるべく読者が分かり易い様に書くためにあえて基礎の基礎には触れられていない可能性もあります。  現代では学問の基礎というものが本当の意味で明らかになっています。  そもそも学問とは確かさや正しさを追求するものです。現代では正しさや確かさの基礎付けが済んでいますのでそれをリベラルアートにすればよいのです。  科学はその科学の対象とするものの確かさや正しさを追求しますが、確かさや正しさとは何かの研究は哲学で行われます。現代哲学が西洋哲学の完成形ですのでそれをリベラルアーツで教えます。それは簡単に言うと正しさや確かさというものは正しいこと確かなことがあるのではなく、人間が正しいと決めたこと、確かであると決めたことが確かであるというものです。  この正しいもの、確かなものを作り出すために必要になるのが数学の数学基礎論です。これで論理学、公理主義、形式主義を学びます。  これらが形式科学である数学の基礎になり、数学はあらゆる理論や体系(システム)の基礎になります。一方技術の基礎もやはり数学です。技術や工学とは科学の応用による実用化です。現代社会は存在論や認識論の基礎を現代哲学に追っていますのであらゆる物事の根本を追求したければ現代哲学を勉強することになります。現代哲学は現代数学の数学基礎論の考え方の一般化で、現代数学の基礎論は現代哲学の特殊化ですからどっちも同じものになります。  追う考えると現代におけるリベラルアーツは中世の自由7科とあまり変わりなくて語学としてラテン語やギリシア語の代わりに英語、数学として現代数学の基礎論、あるいはその一般化としての現代哲学を学ぶことになります。  違いは現代哲学が入っているところですが、学問の進歩により現代数学の基礎と収束して一般・特殊の違いを別にすれば同じものです。哲学は中世には専門職につながる神学、法学、医学と共にその他の学問の総称として専門教科にいれられたり神学の端ためと言われたり色々な扱い方をされたようですが、論理、合理、理性など理について語る場合には広い意味で正しさと確かさを追求する純粋哲学や純粋数学によることになります。  応用哲学や基礎数学に対して数論、幾何学、算術、解析学などを応用数学とすればそれは専門で勉強すれば良いことになります。中世との違いは学問の発展のお蔭で基礎がめいかくに定まっているところです。  日本では日本では哲学と言うと残念ながら哲学史や広い意味の現代思想を扱うくらいで純粋哲学である素朴実在論や構造主義的哲学、ポスト構造主義については教えないことが多いようです。  しかし哲学史や現代思想というと応用哲学であって基礎哲学、純粋哲学である現代哲学を勉強しないと意味がありません。根幹をリベラルアーツで学び枝葉は専門で学ぶべきです。哲学史や応用哲学は哲学が完成した現在にあっては歴史的には古くても根幹たり得ません。 第11章 その他のリベラルアーツ候補  前章で英語、現代哲学、現代数学の基礎論は現代のリベラルアーツに含まれることを説明しました。  中世の自由7科と比較すると文法、修辞法、論理学は英語に対応し、重複しますが論理学、算術、幾何学、天文学は現代哲学と現代数学基礎論に相当します。音楽はリベラルアーツから外しています。論理学は英語と重複すると書きましたがやはりきちんと現代数学の数理論理学や記号論理学を学ばなければいけません。もっと時代が進んで現代数学が進歩すれば記号の科学、記号論や記号学というのが出てきて自然言語を凌駕するかもしれません。その場合、英語が現代数学を基礎とした記号法である言語に置き換わり自然言語が人工言語、人造言語に置き換えられるかもしれません。  人工や人造と書きましたが無視できないのがITの進歩です。そもそも計算機科学、情報科学などは現代数学から派生した学問です。IT情報工学はその応用ですが、人工知能や量子コンピュータなどの進展により将来シンギュラリティと呼ばれる計算器、演算装置が人間の知能を超えるかもしれません。  昔は四色旗問題という地図が4色で塗り分けられる問題の証明にコンピュータを用いたことが議論になりましたが今やそんな議論をすること自体が時代遅れになってしまいました。  ITはテクノロジーですがリベラルアーツは学問である必要はないですし、アートでもテクノロジーでも工学でも高等教育に役に立つのなら何でも取り入れるべきですからITを使いこなす事は現代のリベラルアーツの構成要素の候補の1つになります。  これは初等教育や中等教育で行えばいい可能性もありますし、自分でできなくても企業でも個人でも誰か専門家を雇ってやってもらってもいいのでリベラルアートにすべきではないという意見があるかもしれません。  これは一つはいいアイデアでもっと発展するとリベラルアーツは不要であるという議論もあり得ます。  そもそも単純労働せずもっと高尚な事を自由に考えるのがリベラルアーツの目的です。現代は社会や産業の発展により代行業が盛んです。何でも自分でやるのではなくアウトソーシングするのも1つの考え方で、リベラルアーツという者自体をアウトソーシングして自分はもっと自由にやりたいことに励むという考え方もあるでしょう。  そういう生き方もありですが本書は知的エリートに仲間に入れてもらうための方法としてリベラルアーツを身につけるための本です。ですのでこの議論は本書の趣旨に外れますので解説しませんがもちろんそういう選択をすることも多いと思います。  我々は別にエリートに仲間に入れてもらう必要はその意味がある場合以外にはありません。特にプライドや何かの感情的こだわりもなくエリートの仲間入りすることにメリットもなく知的好奇心もない場合にはリベラルアーツを身につける事はありません。時間の無駄なので他の自分なり他人なりの幸福を増進させることに自分のリソースを注げばいいだけです。  ところで流石に古代ギリシアではないのですから単純労働と知的労働を分けて家事や仕事などを知的労働の下位に置くといった価値観は偏った考え方で時代遅れでしょう。  現在は科学技術社会の進歩の加速度的な速さを考えておかなければいけません。  良くも悪くも昔より人間は自分でやらないといけないことが変わってきていますし誰かや何かに任せられることも変わってきています。  スマートフォンが出たときにガラケーでいいやとスマホに手を出さずデジタルデバイスが生じてしまった高齢者が私の身近にも沢山いました。  エジプトのファラオ、アメリカのロックフェラーに比べて現代の富豪に出来る事は限られているでしょう。時代が下るにつれてテクノロジーの進化でコンピュータや機械がやってくれることは増えましたが手近な事で人にやってもらうことは減っているでしょう。  ある程度世の中が変わったらある程度自分で理解して自分でもできる様にしておかないと楽しみが減ったり不自由が増える可能性がどんな大富豪でもあると思います。  情報量の増加は加速度は加速度でもおそらく指数関数的か階乗関数的です。  情報に関する技術はメディアについての知識でもあります。  我々はニュースで世界の情報を知らなくてはいけません。政治、経済、社会、軍事、健康、地域その他です。我々は民主制の社会に住んでいるため主権者であり、選挙権、被選挙権を持っています。子供がいれば安全に子育てしなければいけませんしこの社会の繁栄や子供たち、子孫、未来の人類のために、また自分のため世界人類のためにより良い社会を作っていかなければいけません。判断を間違うと独裁政権や危険なイデオロギーを持っている人々に社会を乗っ取られてしまうかもしれません。  古代ギリシアの様に生活のための肉体労働とか高尚な哲学や学問や芸術を考える精神的な活動とか区別するような世の中でもありません。  もう一つ世俗に深くかかわらないといけないこととしてマネーリテラシー、お金のリテラシー、経済の知識が必要です。我々が済んでいるのは資本主義社会、市場経済社会であり、生産性や配分、失業率が社会と人々の福利厚生に直結します。経済政策や経済状況、世界経済を知らないでは済まされません。何せ間接であれ直接であれ我々は政治の主体であり、施政者でもあるためです。また自分や家族、友人たちや身の回りの人たちの生活を守らなければいけません。守るとは経済を発展させていかなければいけないのと自分と家族の収入や財産や資産を得るように努めなければいけません。自分の経済も人の経済も地域、国、世界の経済を回さなければいけません。  しかし一方でお金は必要なだけあれば意外と余分にはあまり必要ないと言えます。時にお金よりもっと大切でお金に換金可能なものは腐るほどあります。人から尊敬を得たり地位、名誉、良い評判、知名度など得ればそれはお金に出来ます。  学校の勉強がよくできれば家庭教師や塾講師になれるし、何かの知識があればセミナー講師になれるでしょう。力が強くて健康な肉体があれば力仕事で収入を得られます。単に相続などで受け継いだ小金がある程度や成金では尊敬や自尊心は得られないかもしれません。実業家、事業化になれば事業の立ち上げ方が分かるので自分で商売や会社を始めたり雇われ経営者になれるでしょう。お金があっても家事や泥棒にあえばなくなってしまいます。私の祖母の家は4回泥棒に入られました。でも泥棒なら全部はとっていかないけれども火事は全てを失うので怖いとよく言っていました。友達の地方の素封家で名古屋の近郊に膨大な敷地を持っている地主さんですが蔵に何回も泥棒に入られて古いものが残っていないそうです。ちょっと稼ぎ頭が病気になったり死んだら回らない家はいくらでもあるはずです。長期に地域に貢献してきたり伝統があり身元や家柄がしっかりした人はそれだけで一財で財を成した人には得られない地縁血縁人脈地位があります。何代かかけなければ普通は中産階級にも上っていけないのが昔のヨーロッパでした。歳を取ると非常に多くを失います。40半ばになれば遠視も出るし髪も薄く白く油気もなくなってぱさぱさ史ます。皮膚も汚くなり歯周病などで口も臭くなります。整形外科的な問題が生じはじめどこか身体が痛くなってきたりします。ですからお金よりその稼ぎ方の方が大切ですし、どう使うかも大切ですし、同時世代に残すかも大切ですし、同投資するかも大切です。小金があればデイトレードで食べていけますが株式の売買ではGDPは増えないので投機と呼ばれます。投機にせよそれで食べていければ大したものです。  小さな労苦より辛いのは暇や退屈、つまらないと感じる日常でいい年をしてくると大抵のことを経験して飽きてくるので新しい挑戦や創造が大切です。医者は田舎の方が需要があって稼げますが、田舎では使いようが限られます。洗練された料理屋もないし子供の教育にも困るので収入が少なくても都会に集まる傾向があり地方の医者不足問題が生じます。  仕事をしないで自分の楽しみや快楽で飽きない生活が出来ればむしろ才能であり優れた資質である可能性があります。この高齢社会では仕事をしていないと寿命が縮むというデータがでることもあります。  考えていくとマネーリテラシーとは一方では仕事というより英語でいうビジネスの技術という事でお金を稼ぐ場合もあれば使うだけの場合もありますし、無償の場合もあり、事業、実業というものです。我々は社会の中で何らかの活動をして、他者から承認されて、役割に同一化する方が往々にして充実した人生が遅れます。  社会のシステムに組み込まれて機能していくための知識として資本主義や市場経済、商習慣、工業や産業などお金と経済、財政と金融の知識が自己がサバイバルする生き残るという最小限の事からより大きな自己実現、ないしは社会の福利厚生の増進に貢献することが出来ます。 第12章 現代哲学と現代数学の簡単な解説  西洋の学問の目的は概ね「正しさ」や「確かさ」の追求です。学問領域の違いというのは何を対象にそれを追求するかに分かれます。大まかに言って学問は自然科学、人文科学、社会科学と分かれています。自然科学は自然を対象に研究すると大雑把に言っていいでしょう。その中で細かい分野分けすると物理学、化学、生物学、地学などになります。学問の名前は概ね学問の対象を表すと言っていいでしょう。人文科学と社会科学も同じです。  人文科学は人と文について研究します。文学部や心理学などが含まれるでしょう。社会科学は社会の研究ですので、経済学、法学部などが含まれます。どれにも分類出来たりどれに分類していいかわからない学問もあるかもしれませんが分類自体は大切ではないのであまり気にしなくて良いです。  数学は自然科学と思っていたら最近は形式科学という様です。  美術や音楽や演劇などの研究はどちらかというと美大や音大、専門学校で行われているようです。これは学問かというと研究対象として選べば学問になります。  何を学問の対象としていいかは自由ですので、これが「学問の自由」の一つの意味です。  「理」とは分析することや形を付ける事です。理論や体系を作る際には理性が必要ですが、作られる理性や体系が無矛盾であるとか「正しい」か「確かか」は対象にしません。「正しさ」や「確かさ」は必要な時に作った理論や道理について検証すればいいだけです。  理は本来「確かさ」や「正しさ」を含みませんが、作ったり発見した理論や法則、体系が「確か」か「正しい」か検証する際にやはり「理性」も必要でしょう。  ただ人間の感情や意志、真善美の感覚など矛盾していて整合性がないのが当たり前の対象も理性で分析できる点は考えておくべきです。  中世の大学と教育とリベラルアーツを身につける上で大切なのは中世の大学は進学校であったことです。キリスト教は必須であったはずであり確かで正しいものは神や聖書や教会や教皇だったでしょう。  そもそも正しいこと、確かなことは既に確定していたわけですが、神学で認識や存在についての疑問をめぐって普遍論争というものが発生します。  実在論と唯名論という2つの派に分かれて論争が行われました。これは哲学の問題とみてよいです。聖書やキリスト教の教義を離れて自由に人間の認識や存在について考えようとした萌芽が見られます。  そもそも聖書というのは人間の疑問の何もかもにこたえてくれるように書かれていませんしその様な意図で書かれたわけでもありません。  教義などについて疑問や問題が生じたときにはその都度会議などが行われて疑問や問題の解決や方針の統一が図られます。  普遍論争は世界や人間が行う表象の対象で事物の分類や概念化やカテゴリー化について2派に分かれて議論が行われてます。  実在論はイデア論の継承の様なもので人間なら「人間」という普遍的なイデアがあって、個物は多様性がありますがその派生の様なものと考えます。これはキリスト教や聖書や神学には都合がいい考えと考えられました。神が人間を造った時に「人間」という普遍的なイデアを造ったと考えるべきだと考えたようです。聖書に出てくる概念は全てその様に考えるべきと考えており、例えば「うろこのない水の中のものは食べてはいけない」という記述があるとすると水生生物をうろこのあるなしで明確に2つに分けれるように神が世界を作り給うたと考えられます。  唯名論は個々に異なる個物が先にあって人間がそれを概念化しカテゴライズした、言い換えると「名前」を付けたと考えます。  概念化は人間の恣意的な営みであり、概念が一次的に存在しているわけではありません。この論争は近代の神学抜きの哲学の大陸合理論とイギリス経験論の論争につながります。 もう少し詳しく見ます。大陸合理論につながる実在論とは概念や理は神が最初から作っていると考えます。人間のすることは神の作った正しい確かな概念や理に合わせて物事を見たり考える事です。聖書では明確に人間という者が定められているので、「人間」と「人間でないもの」が明確に分けられるということになり、「人間と人間でないものの中間ゾーンやグレーな存在」はあり得ないことになります。  「人間とは何か」という問いにも神様を裏付けとした確かで正しい答えがあるはずです。 「正しいもの」「確かなもの」の存在を神が保証してくれているのであれば人間のすることはそれに到達するために努力するだけです。  一方イギリス経験論につながる唯名論は神が保証する正しい人間という概念という者はなく、概念というのは個々の人間っぽく見える多くのものから人間が特徴を抽出して人間自身により作り上げた概念であるに過ぎないという者です。この場合は人間だか人間でないか良く分からないものがいても不思議ではありません。また水生生物でもうろこがあるかうろこがないか明確には判別しかねるものが存在してもおかしくはありません。実在論や合理論ではそういう解釈にこまるもの、正しく確かだと思っていた概念や考え方に外れるものが発見されると混乱が生じます。  実在論を聖書の正統的な解釈とすると唯名論は異端的になります。理や概念という者について帰納と演繹が逆になるからです。そこでキリスト教の旧教カトリックの強いヨーロッパ大陸では実在論や合理論、早くから王室が教皇と対立しイギリス国教会による宗教改革、カトリックからの新教の独立がはかられたイギリスでは政治的な事情もあり唯名論や経験論が存在を許されます。  以上の様な経緯もあり「正しいもの」「確かなもの」が存在する、認識できるという考え方が中世近代を通して哲学のテーマになりました。  それを批判する考え方として唯名論や経験論などがあり一つのアンチテーゼになりますが、そちらの方が実在論や合理論に対して優位である、あるいは劣位であるという根拠もありません。実在論・合理論にせよ、唯名論・経験論にせよ一つの考え方に過ぎません。あるかないかわからないが正しさ、確かさの追求、これが近代科学の基本の考え方です。  一方現代の科学、学問は近代の科学、学問と基本の考え方が違います。学問の中で哲学と数学は実証を必要としないので特殊な分野になります。近代には実証至上主義の様な考え方の人が多くいました。臨床医学は人体実験ができないため発展が遅れた分野では実証という近代的な方法を導入するために工夫が必要であったため近代化が20世紀後半まで行われませんでした。その反動からか“エビデンス・ベース度 世界のエリートだけが知っている 現代の Liberal Arts リベラルアーツ 前書き  本書では現代のリベラルアーツとしてエリートが身につけておくべきことについて解説します。    エリートと言っても色々なエリートがあると思いますが、ある一定の学術的素養を付けることをエリートとします。 本書ではエリートになるに必要なそのある一定の学術的素養をリベラルアーツと呼びます。    普通、リベラルアーツという言葉は日本では教養と訳されます。  日本の大学では教養課程がありそこでリベラルアーツを学ぶと認識されていると思いますが本書では教養とリベラルアーツは区別して使用します。  教養とリベラルアーツを区別する理由としては日本の大学の教養課程では真に身につけるべき教養がきちんと身につけらることができないと考えるからです。  日本の大学の教養課程ではこれだけは身につけなければいけないという明確な指針がありません。  しかし学問の世界では高等教育で身につけなければいけない事があります。  それは学問の基礎です。  学問の基礎が何かを知らなければ、学問とは何か考える時にどうなるでしょうか。  大学では高校以下の教員資格を得ることが出来ますが、生徒に学問とは何かと問われたときに自信を持った答えを導くことが出来るでしょうか。  高等教育を受けるものが身につけるべき学問の基礎が現代には存在します。  大学以降の高等教育で必修すべき学問の基礎をリベラルアーツと呼び本書では「教養」という言葉と区別します。  学問の世界は世界共通でありです。 大学という高等教育機関で身につけた学問の基礎はグローバルに世界中で通用すべきです。 「教養」という言葉にはこの様なニュアンスがないので世界的に使われるliberal artsという言葉と区別します。 専門で学んだ学問は変わることがあっても学問の基礎は変わらないので身につければ一生使えます。  学問の基礎はどの学問も共通ですので身につければ他の学問を専門とする人ともコミュニケーションをすることが出来ます。  リベラルアーツは身につけるのに訓練が必要ですので全ての人が身につけられるわけではありません。  努力をすれば身につけられる方法はいくらでもありますが、人それぞれの人生で誰もがその努力の機会が得られるわけでは残念ながらないでしょう。  Liberal artsを身につけられた人は幸運に恵まれたエリートなのです。  エリート同士は基礎を共有しているのでコミュニティーを作り協力することが可能です。  しかしliberal artsの基礎がないと共通する確かなものがないためエリートとの交流でトラブルを起こす可能性があります。  話が通じない人通しが同じコミュニティーを維持することは困難ですので、リベラルアーツのない人はエリートのコミュニティーに所属できなくなってしまいます。  選ばれた幸福を余力が許す範囲でよいので世の中の訳に立てられれば素晴らしいことです。  本書ではエリートの共通して身につけているliberal artsについて勉強します。 第一章 リベラルアーツの歴史  Liberal artsという言葉は古代ギリシアの歴史に由来します。  ギリシアの都市国家であるポリスは、自由市民と奴隷から構成されていました。  liberalという言葉はこの年自由市民に由来します。  Liberaral artsとは自由市民が身につけるarts(技術、学術、芸術、芸事、方法)ということです。  自由市民も奴隷も人間ですがポリスでは自由市民が支配層で政治や軍事を司り、奴隷は自由市民に隷属します。  自由市民の自由とは労働する必要がないという事です。  私的な生活、生存に必要な労働は全て奴隷が行う事が必要です。  自由市民はより高尚な事のために生きるのが理想とされます。  自由市民は権利と義務を持ちます。  ポリスが民主制である場合には自由市民だけが選挙権を持つ制限選挙制度であるため自由市民には議論や討論をする知的な能力が求められます。  また自由市民は兵士になって戦争へ行く義務を負うため勇気や軍事訓練も必要です。  古代ギリシアと古代ローマが終わった後、中世ヨーロッパで古代の遺産の数学と古典語であり共通学述語のラテン語、ローマ語が学ばれます。 matematics数学はもともと学ばれるべきものという意味です。現代数学により数に関するものだけを研究する学問とすると誤解を受けやすくなるので数学という言葉は変えてもいいかもしれません。 中世のヨーロッパの大学では基礎科目と専門科目がありました。  基礎科目は専門科目を学ぶ前に身につけておくべきと考えられた学問です。   自由7科とも呼ばれ文法学・修辞学・論理学(弁証法)・算術・幾何・天文学・音楽からなります。中世の学術言語はラテン語、あるいはギリシア語など古典言語であり文法、修辞学、論理学は語学の学習でもあります。 算術・幾何学・音楽は数学に属すとみなされました。  この自由7科がliberal artsです。  この基礎7科を身につけたうえで専門科目に進みます。 専門科目は神学、法学、医学で専門職養成のための学問です。  哲学は大学によって歴史が異なるようですが、専門科目に分類され種々の学問を含んでいたようです。近代以降学問の発達により専門化が進むと哲学と自然・人文・社会の諸科学の領域・分野ごとに細分化されます。  こうしてみるとリベラルアーツという言葉には生活や生存のために労働を行い世俗的に生きるのではなくより高尚な知的活動を行うという特権的な意味が含まれます。  いくつか日本の「教養」という言葉を考える際に注意するべき点を挙げて見ます。  まず歴史が長いことです。  自由市民が持つべき知的能力については古代ギリシアから考えられており、しかもその伝統は現在も続いていると言えます。  日本にはリベラルアーツに相当する言葉や概念がなかったので明治時代に西周が「藝術」と訳しました。これは「芸」と「術」の組み合わせでどちらかというと「arts」の翻訳語です。「liberal arts」それ自体が持っている歴史的、学術的、そして社会的意味には目がいかなかったようです。  また外国のリベラルアーツは専門教育を受けるために必要であるとされます。   第2章 大学とは何かについての考察  リベラルアーツと教養という言葉を比較してみましょう。  その前に大学という物について考えてみます。リベラルアーツも教養も大学も日本人にとっては明治維新で初めて知ったものです。  明治政府は大学を非常に重視しました。明治維新で最初に作ったものの一つと言っていいでしょう。文部省より先に作られています。  日本の学制も欧米諸国の学制も各国ごとに異なり歴史的にも変遷があると思いますが、明治以降の日本の学制の変化は複雑で理解が困難です。  まず日本の大学と欧米の大学は同じといえるのか?  明治維新直後に東京大学の元を作り変遷、紆余曲折を経て現在の形になったのは明治10年です。その後明治30年に京都大学が出来るまではそもそも日本には大学が一つしかありませんでした。大学がなくても高等教育機関がなかったわけではなく色々な専門学校や私学校がありました。ただ今度は「高等教育」とは何かも問題になります。  明治政府は大学を重視したので大学を最初から大学をもっと作りたかったのですが、明治期の前半に大学が1つしかなかったのは貧乏過ぎたのと大学の体をなす人材や設備が集められなかったからでしょう。  研究と教育をする総合的高等教育機関を大学とすると国立でないと不可能です。国力が低い国が大学を作るのは困難ですが当時の日本人は教育を国家の存亡を決めるほど重大なものと考えました。  帝国大学を徐々に増やすとともに大正7年(1918年)それまであった帝国以外の各種学校に大学を名乗ることを認めます。慶応大学や早稲田大学はこの時大学になりました。  大学を考える際には大学より前の段階の教育制度・教育機関と大学に入るまでに何を教育するのか、入試などの入学のための審査制度を大学との関係で見ていかないと大学の理解がきちんとできません。  戦前昭和には旧制高等学校がありこのカリキュラムに現在の日本の大学の教養で科目とされているところまで教えていることがあります。  戦後は占領国軍によりアメリカと同じ6・3・3制がひかれそれで変わらず安定しているように見えるため若い世代にはこれが先入観になりがちです。  大学というのはこの様に教育の歴史の中で見ていかなければなりませんが、現在の大学という物が世界各国共通化というとそれもまた違う様です。  日本の教育制度に大きな影響を与えたアメリカを見てみます。  アメリカのリベラルアーツカレッジについての説明(2020年8月10日14:29の日本版ウィキペディア)を調べると下記の様な記載があります。 ……アメリカ合衆国の大学は、大学院を持つ大規模な研究型大学(Reserch University)、リベラル・アーツ・カレッジ(Liberal Arts College)、公立で地域の学生が通う2年制のコミュニティ・カレッジ(Community College) に大別される。日本の大学と異なり、多くのアメリカの学部課程カリキュラムには「法学部」「医学部」「経営学部」(またはその専攻課程)がなく、それらの専門に進む生徒はまず4年制学部過程(Undergraduate School)で学ぶ必要がある。大学院には、法科大学院(Law School)、医科大学院(Medical School) 、経営大学院(MBA) といった専門職大学院と、学部過程で学んだ専門をさらに追究する学術系大学院に大別される……  大まかにリサーチユニバーシティを日本の総合大学と対応させる見方が一般的でしょう。 大きな違いは医学部や法学部が専攻過程にないという点です。リベラルアーツカレッジは私立で全寮制、一クラス当たりの学生数が少なく教育重視であるところが研究型大学と違うところで日本では一致するものが少なく、認知されていない大学の形態でしょう。コミュニティーカレッジは公立であることを除けば日本の短大でしょうか。    ヨーロッパでもイギリス、フランス、ドイツなど国ごと、宗派ごと、歴史ごと、個別の大学ごとに教育制度に特徴があります。  大学は中世からあるものもありますが、歴史や国家の影響を経て変遷があります。  「研究をするところ」、という観点から大学をみるのと「大学に扶養されて教育を受けるところ」という観点で大学を見る場合では大学に対する見方が異なります。  大学院を出て学士、修士、博士を取っていれば基礎教育は終了したものとみなされて研究する、または教育する側として大学と関わりますが、学士取得以前の学制にとっての大学は教育機関ですので、属する教育機関の教育に関する考え方に基づいて影響を受ける 第3章 リベラルアーツと教養  大学教育については各地域、各歴史ごとに、各大学ごとに違いが大きいことを説明しました。  大学教育を修了し博士号を取れば学問の世界では学者として認められ、教授や講師などの大学教員になることが出来ます。  欧米の中世の学問の伝統をひく大学では大学で学ぶべきこととしてリベラルアーツが必要です。  考え方によってはリベラルアーツさえ身につけておけば十分と言えるかもしれません。  中世の大学の例でいえば基礎科目についてはリベラルアーツを学んでおけば必要十分であったでしょう。  アメリカのリベラルアーツカレッジであればリベラルアーツを身につけることのみに専念するのですから、リベラルアーツを身につける事が大学教育を受ける事の必要十分条件でしょう。  アメリカではリベラルアーツカレッジを卒業するとメディカルスクールやロースクールに進むことが出来ます。  言い換えると医学や法学などの専門教育がリベラルアーツの習得を専門教育を受けるのに有用とみなしていることが分かります。  これは中世のヨーロッパと同じスタイルです。 中世の大学では神学、法学、医学の専門職になる専門教育を受ける条件としてリベラルアーツを習得するシステムになっていました。 リベラルアーツという言葉にはこのような意味がありますが、教養という言葉にこれと同じ意味があるかと言えば同じ意味はありません。  私の小学2年生の息子が持っている金田一春彦先生などが監修なさっている学研の新レインボー小学国語辞典第6版で教養を調べてみましょう。 「学問や知識を身につけることによってうまれる心のゆたかさ」 試しにグーグル検索してみましょう。」 「学問・知識を(一定の文化理想のもとに)しっかり身につけることによって養われる、心の豊かさ。」 似ていますね。  もう一つウィキペディアで調べてみます。 「教養(きょうよう)とは個人の人格や学習に結びついた知識や行いのこと。これに関連した学問や芸術、および精神修養などの教育、文化的諸活動を含める場合もある。」 せっかくですからカタカナのリベラルアーツと英語のliberal artsをグーグルやウィキペディアで調べてみましょう。 カタカナグーグル なし カタカナウィキペディア 「リベラル・アーツ(英: liberal arts)とは、ギリシャ・ローマ時代に理念的な源流を持ち、ヨーロッパの大学制度において中世以降、19世紀後半や20世紀まで[注釈 1]、「人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本」と見なされた自由七科のことである。具体的には文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何(幾何学、図形の学問)・天文学[注釈 2]・音楽[注釈 3]の4科のこと。現代では、「学士課程において、人文科学・社会科学・自然科学の基礎分野 (disciplines) を横断的に教育する科目群・教育プログラム」に与えられた名称である。具体的な教育内容に関しては「リベラル・アーツ・カレッジ」「教養学部」を参照のこと。」 英語google 「Liberal arts, also referred to as the humanities, includes the study of history, literature, writing, philosophy, sociology, psychology, creative arts, and more. More broadly speaking, students earning a liberal arts degree learn to formulate effective arguments, communicate well, and solve problems.Sep 10, 2018」 英語wikipedia これはなんの事情かliberal artsの項目がありませんでした。 代わりに先頭に「liberal arts education」が出てきましたのでそれを収載します。 「Liberal arts education (from Latin liberalis "free" and ars "art or principled practice")[1] is the traditional academic program in Western higher education.[2] Liberal arts generally covers three areas: sciences, arts, and humanities. Its central academic disciplines include philosophy, logic, linguistics, literature, history, political science, sociology, and psychology. Liberal arts education can refer to studies in a liberal arts degree program or to a university education more generally. Such a course of study contrasts with those that are principally vocational, professional, or technical.」 教養とリベラルアーツ(日本語)/liberal arts(英語)を比較してみると教養には「心のゆたかさ」「人格」「精神修養」などの言葉が出てきます。 教養自身が学問であるというよりは学問を身につけた結果身につけられる倫理・道徳的な人間の価値の様なものを意味の中心としているようです。  一方でリベラルアーツ(日本語)/liberal arts(英語)には倫理・道徳的な意味合いがなく知的な意味しか出てきません。学問の技、術、芸、方法、手段、道具として見ています。具体的な教育課程で占める位置付けについても書かれています。日本語のウィキペディアの「教養」の説明を読むと「教養」もその様に使っても良い様な事を書かれていますが、そのような使い方は二次的であると付記されており、さらに書いてあることが曖昧です。  ですから「教養」と「リベラルアーツ」は別の意味で使った方がいいかもしれません。  「教養」という言葉には学問が自己修養や人格陶冶であることを意味した儒教の影響が張り込んでいると思われます。それはそれで構わないのかもしれませんが「リベラルアーツ」の訳語の意味があることや「リベラルアーツ」の学問における意味が理解されていない場合にまずい場合があります。  最悪なケースは大学の新入生が教養課程の意味を取り違える事です。  教養課程が教養を身につけるところであってリベラルアーツを勉強すべきところと思わずリベラルアーツを身につけず教養課程を終わってしまうことです。日本の場合、そうであっても専門課程に進める事が多くあります。大学入学時にすでに専攻が決まっている場合専門教育の勉強を急ぎ教養課程を軽視する場合があります。  あるいは教養教育を嫌う可能性があります。若い多感な時期に大学という権威から大学の価値に従う倫理・道徳を身につけなければ希望する専攻に進ませてやらないと言われれば反感を持つのは当たり前です。  ステューデントアパシーに陥ったり、モラトリアム期に入り込んでしまうかもしれません。不登校や多留生になるのもいいかもしれませんが、無駄で効率が悪いです。そのようなつまらない理由で時間もお金もエネルギーを無駄にするのは大学、社会、本人、家族、その他あまり良い感じがしないかもしれません。  旧制高校的な教養主義文化ともいえるので本人の人格形成につながったり文化として残していくのもいいのかもしれませんが昔の事はよく見えやすいお年寄りの回顧であったり、前向きにトライするのを回避する若者の良い訳に過ぎない場合も多いかもしれません。無駄こそ文化だという考え方も共感はするのですが。   第4章 大学入学前後の教育システム  前章までで「教養」という言葉と「リベラルアーツ」という言葉を区別すべき理由を書きました。  具体的な施策としては「教養課程」、「教養教育」を「リベラルアーツ過程」「リベラルアーツ教育」に変更するか、「教養」という言葉が「リベラルアーツ」を含むことを普及、宣伝、啓発、教育していくべきです。  大学で学ぶ基礎教育期間は大学を卒業した全ての人が身につけるべきことを身につけさせる最大にして最後のチャンスになるかもしれません。基礎過程で身につけずにリベラルアーツを身につけさせるのにこの機会を逃す場合に考えられる次の手段は、大学卒業時に試験を課すことです。そうすれば自習でも何でもリベラルアーツを勉強するでしょう。補講を設けたり家庭教師を雇ったりダブルスクールして塾や予備校で勉強するのもいいでしょう。勉強には社会も個人もお金を惜しむべきではありません。最高の投資だと思いますし経済効果もあるかもしれません。  全ての大学生が共通に教育されるべき学問があるのかという疑問あるいは習字疑問文による否定的な考えを持つ人がいるかもしれません。  まず教養課程をさぼったり代返を頼んだり名前だけ書いて教室を出て行ったりレポートをコピペしたり一夜漬けしたりカンニングしたりして実質的にリベラルアーツを身につけずに専門教育に進んで問題を感じなかったという感想を持つ人が多くいると考えられます。それに対する答えは気付かぬ間に本人や社会が損をしているかもしれないと考えるべきという事です。  原点に返ってリベラルアーツの意味を考えます。自由市民が持つべきものでした。まず自由市民同士で議論が出来ないといけません。議論でなくても話が出来ないといけません。時にポリスの代表者や軍の司令官も選ばないといけないかもしれません。選ぶどころか他に適任者がいないとあれば自分でやらないといけないと思うかもしれません。直接民主制なら誰もが良い志を持っているとは限らず合理的、論理的に誠実に話すのではなく、詭弁を使って人心を誘導しようとするソフィストもいるかもしれず騙されないようにしなければいけません。ですから自由市民は優秀である必要があります。逆に自分がソフィストになって他の市民を黙失用があります。ロゴスとレートリケー(レトリック=修辞法)は自由7科にどちらも含まれます。分かり易く理解させるためには時には詭弁的なものアジテーション的なものも必要な場合があるのでしょう。自然言語を使うとは理性的なもの、非理性的なものをどちらも使う事になります。「社会性」というのは非理性的なものも含まれています。  近代になると啓蒙思想や市民革命がおこります。自由・平等・博愛を謳うフランス革命では人権という概念が原則になりました。近代的な自我という者は自分で考え、判断し、決断し、行動し、行動の結果のケツを持つ人間を念頭に考えられています。奴隷がなくなり全ての人間が人権と主体性を持つことが理念になります。例えばナポレオン戦争後世界的にユダヤ人の多かったドイツではユダヤ人がゲットーから解放され大学に入れるようになります。19世紀後半以降ユダヤをルーツとする知識人が目立つようになるのはそのためです。ユダヤをルーツに持つという事はユダヤ教からキリスト教に改宗者の子孫であったりユダヤ人以外の配偶者を持った場合などです。ユダヤ教にも色々な宗派がありますが13歳の男子にバト・ミツワや12歳の女子にバト・ミツワという儀式が行われる場合がありそこで神を信じるか、ユダヤ教徒であるかを選ばせます。有名なアインシュタインはこの時神の存在を信じられないとしたのでユダヤ系ですがユダヤ人ではありません。ラビの一族でしたが前の世代が弁護士になるためにキリスト教に改宗したのがカール・マルクスでマルクスはユダヤ系ですがユダヤ人ではありません。近代にはこのように差別されていたり、まだ社会的あるいは制度的な制約を持たれていた被差別民も市民として扱われるようになります。人間は人権を持ち平等なので義務も権利も負います。  ヨーロッパは今も昔も階級社会ですので貴族などの上層階級がいます。上層階級の子弟は上層階級の教育を受けます。大学に行くのもそうです。たとえばイギリスではそれ以前は昔は家庭教師などつけられて教育されたりプライベートスクールという全寮制の予備教育、初等教育機関で教育を受けます。  ヨーロッパ全体の大学の定員枠は日本に比べれば少ないので誰もが入れるわけではありません。ですから大学の学生の主体は上層階級になります。専門教育を受けたり研究をしに行く場合には留学生や社会人を経て大学で勉強するような人もいるでしょう。  大まかに分けて大学には基礎と専門があります。ヨーロッパの上層階級は初等教育から高等教育までは幼少期、学童期から一貫して学びます。それは家族の伝統でありイギリスの上層階級なら息子は、祖父、父と同じ学校に行くような一家の伝統があります。 第5章 近代の大学教育    日本の大学教育に対するイメージは人によってことなります。この100年あまりで大学制度も教育制度も教育内容も変化していますので大学在学歴のある人の世代や在籍年代によってかなり大学のイメージに多様性があります。自分の体験は本や自分より年配や若年の人に聞いた大学体験と違うと思います。 初等教育から高等教育を一貫して行う場合、初等教育と高等教育の線訳がどこでなされるかがポイントになります。 そもそも教育内容の高等度を決める規格があります。国際標準教育分類(International Standard Classification of Education 、ISCED)といいます。1997年版と2011年版がウィキペディアに収載されっていたので示します。 ISCED 1997版[2] レベル 説明 特徴、およびサブカテゴリ 0 Pre-primary education (就学前教育) 初等教育を受ける前、3歳から開始される。幼児に対して学校環境を紹介し、また認知的、身体的、社会的、感情的スキルを開発する。 1 Primary education or first stage of basic education (初等教育または基礎教育ステージ1) 通常5-7歳から開始される。音声による読み書き、数学、および他教科の基本的な理解をする。 2 Lower secondary education or second stage of basic education (前期中等教育もしくは基礎教育ステージ2) 基礎教育ステージを修了するための教育であり、たいていは客観的パターン志向となる。初等教育(ISCED レベル1)の学習結果を基に構築され、それは生涯にわたっての学習・人間開発の基礎となることを目的とする。 3 Upper secondary education (後期中等教育) 15-16歳もしくは中等教育を修了した者を対象とする、より専門的な教育であり、第3期の教育の準備や、雇用に関連するスキル、もしくはその両方に関連する。 • 3A:大学(レベル5A)への進学準備過程 • 3B:職業志向教育(レベル5B)への進学準備過程 • 3C:就職準備、またはレベル4への進学準備 4 Post-secondary non-tertiary education (中等以降高等以前教育) 国際的視点に基づいて、中等教育と高等教育の境界をまたぐプログラム。ISCEDレベル4のプログラムについては、内容を考慮し、第3期の教育プログラムとみなすことはできない。 • 4A:第3期の教育への進学準備 • 4B:就職準備 5 First stage of tertiary education (第3期の教育ステージ1) ISCED レベル3,4よりも高度である第3期の教育。学術的、もしくは実務的・職業的固有のプログラムである。このプログラムに就くためには、通常はISCED レベル3Aまたは3B、もしくは4Aと同等のプログラムを修了していることが求められる。 • 5A:研究および職業技能資格(たとえば医学、歯学、建築学)プログラム。最低3年以上。 • 5B:労働市場に直接結びつく技術的・職業的スキルのプログラムで、5Aよりも短期間。最低2年以上。 6 Second stage of tertiary education (第3期の教育ステージ2) 高度な研究者としての認証を得るための第3期の教育(たとえばPh.D.)。このプログラムはコースカリキュラムに基づくものではなく、高度な独自の研究がなされる。典型的には、独自の研究と知識への重要な貢献が含まれた出版品質の論文の提出が必要となる。 ISCED 2011版とISCED 1997版との比較 レベル 説明 特徴、およびサブカテゴリ ISCED 1997に対応したレベル 0 Early childhood Education (01 Early childhood educational development) (就学前教育) 学校や社会への参加のための早期準備。 3歳未満の子供のためのプログラムである。 なし 0 Early childhood Education (02 Pre-primary education) (就学前教育) 学校や社会への参加のための早期準備。3歳以上の子供のための初等教育の開始前のプログラムである。 レベル0:Pre-primary education (就学前教育) 1 Primary education or first stage of basic education (初等教育または基礎教育ステージ1) 読み書き、読書および数学などの基礎的なスキルを提供するプログラムである。 レベル1:Primary education or first stage of basic education (初等教育または基礎教育ステージ1) 2 Lower secondary education or second stage of basic education (前期中等教育もしくは基礎教育ステージ2) 初等教育や一般教科を基にしている中等教育の第一段階である。 レベル2:Lower secondary education or second stage of basic education (前期中等教育もしくは基礎教育ステージ2) 3 Upper secondary education (後期中等教育) 第3期の教育の準備または仕事に関連する技術、もしくはその両方に提供している。中等教育の第二段階である。 レベル3:Upper secondary education (後期中等教育) 4 Post-secondary non-tertiary education (中等以降高等以前教育) 中等教育を基にし、第3期の教育や雇用の準備、もしくは両方の準備をするプログラム。教育内容は広く高等教育ほど複雑ではない。 レベル4:Post-secondary non-tertiary education (中等以降高等以前教育) 5 Short-cycle tertiary education (短期高等教育) 労働市場に直接結びつく技術的・職業的スキルを学ぶ最初の短期の第3期の教育。上位の第3期の教育へ進む道もある。 レベル5B:First stage of tertiary education (第3期の教育ステージ1) 労働市場に直接結びつく技術的・職業的スキルのプログラム 6 Bachelor’s or equivalent level (学士) 中間的な専門の知識、技術と能力を提供する。最初の第3期の教育である。 レベル5A: First stage of tertiary education (第3期の教育ステージ1) 研究および職業技能資格プログラム 7 Master’s or equivalent level (修士) 中間的な専門の知識、技術と能力を提供する。2番目の第3期の教育である。 レベル5A:First stage of tertiary education (第3期の教育ステージ1) 研究および職業技能資格プログラム 8 Doctoral or equivalent level (博士) 先端研究に結びつくことを目指したプログラムである。独自の研究と知識への重要な貢献が含まれた出版品質の論文の提出が必要となる。 レベル6:Second stage of tertiary education (第3期の教育ステージ2) 大学入学者の大半は初等教育から大学入学までを一貫して行ってきた人々になります。 戦後の6・3・3制なら高等学校卒業相当の学力を持つものが大学への入学資格を持ちます。言葉は難しいもので日本では小学校、中学校、高校、大学と進みます。 中学校は前期中等教育機関とのことです。国際標準教育分類ではレベル3はUpper secondary education(後期中等教育)に相当します。高校はレベル4のPost-secondary non-tertiary education(中等以降高等以前教育)と分類されています。 ここで微妙な位置にあるのが高校で中等以降高等以前教育となっています。中等教育も含むし高等教育も含むと表現されています。 レベル5の改定が顕著でISCE1997番がレベル5で終わっている一方、2011年版はそれが細分化され5から8の4つに分類されています。 問題はレベル4の「中等以降高等以前教育」という中途半端な表現です。ISCEは非常に細分化された分類なので何らかの境界があって分割可能と判断すれば分割するでしょう。ですからこれは分割できなかったと考えられます。 この分類では初等教育が具体的に表現されるほかは中等教育以降の教育内容が曖昧です。初等教育より後の社会との関係の意味で職業との関係を重視していることが推測されます。 戦前のこの境界領域の教育では旧制中学校、旧制高校と大学予科があります。 予科とは大学を予科と本科に分ける考え方です。 予科も本科も大学に属します。予科は教養課程で本科は専門課程です。 旧制高等学校は予科と同じ教育をしますが大学ではなく別の学校です。 専門に進む基礎として教養のみを教えるのでアメリカのリベラルアーツカレッジと同じ考え方です。戦前の教育制度も時期によって違いますし、色々な形態の学校があり多様性がありましたが、初等教育、中等教育、高等教育を制度で明確に分けていました。 すなわち旧制の小学校では初等教育を学び、旧制中学校では中等教育を学び、大学予科や旧制高等学校では高等教育のうち専門に進むための準備であり専門に関わらず共通の内容を学ぶ(予科は理科と文科に分かれましたが)段階であり教養課程ですが、この場合の教養は欧米の中世の伝統を継承した大学のリベラルアーツを志向しています。  日本は貧しく開国後まもなくであり欧米の近代文明の導入にハンディキャップがあるため外国の大学の様に私立ではなく公立・国立が中心にならざるを得ません。  一方で欧米の教育を模倣しているため共通点もあります。基本的に寮制度があります。私生活でも学校生活でも教養文化に触れる機会がありました。  この教養文化を教養主義と呼びますが戦前でさえ教養とリベラルアーツの意味は解離していたようです。  戦後の連合国軍による学校教育法により大学予科がなくなり、旧制高等学校の教える内容も変わりました。旧制の高等学校は予科と同じく申請の大学の教養課程を教えていたため新制の高校ではその地域の国立大学の教養学部の前身として大学に吸収されるか、教える内容を中等教育よりに下げて新制の高等学校として高等学校として留まりました。 留まったと書きましたが改造された、あるいは取り換えられたと考えることも出来ますし、継続せず断絶し全く違うものを指すようになったとも言えます。敗戦と敗戦後の改革は革命であり社会体制も憲法もラディカルに変わりました。 教育制度も大学も高等学校も戦前と、あるいはモデルにしたアメリカの学制とも環境も背景も異なります。 大学というものも洋の東西を問わず近代になると変わります。近代は国家の力が強くなり、国家が教育制度に協力に関わります。ですから現在の教育制度を国別にみていくことも意味があります。 例えばフランスのパリ大学は12世紀にできた中世大学ですがグランゼコールというエコールノルマルやエコールポリテクニークは官僚の養成機関です。 リセという後期中等教育を受けた後、バカロレアという試験を受けて高等教育機関にいくわけですが、グランゼコールという専門高等学校に行くのがエリートです。 広く歴史をみると日本の大学という概念は曖昧で例えばグランゼコールを大学というべきかという視点も生じます。 「大学」や「教育」というものを広く勉強してみるのは有意義な事です。 第5章 中等教育と高等教育について  第4章までの予備知識を踏まえた上で日本の中等教育の後半とと高等教育の前半について考えてみたいと思います。  ISCEでは日本の高等学校はレベル4に相当し「中等教育以降高等教育以前」とされています。これが中等教育と高等教育に明確な境界がないためであると書きました。他に考えらる可能性はこの段階の教育を明確に区別してもISCEの目的上意味がないというものですが歴史や世界の教育の多様性を考えると否定されるでしょう。  教養と比較するためやはりリベラルアーツについて考えます。リベラルアーツは中世においては自由7科と同義であり、7つの学問で構成される明確な概念です。  自由7科がリベラルアーツであり、リベラルアーツは自由7科です。これは必要十分情景で同値です。  近代や現代になるとリベラルアーツの意味が変わってきます。7つの学問をリベラルアーツと呼んできましたが、リベラルアーツの理念である「学問の基礎」がこの7科でよいとは言えなくなりました。これは学問も社会も変化したので仕方がありません。  仕方がありませんが時期が悪かったとも言えます。そもそも明治からの日本の留学生は促成栽培で専門家になるために国費留学生として派遣された各学問の千龍たちは大学の基礎教育から学んでません。一方で大学の初めから留学した人々は日本の大学教育に貢献しています。また外国のキリスト教宗派により作られたミッション系の大学がありそういうところでも極力リベラルアーツ教育を使用としたかもしれません。  ただ近代になって自由7科が必修であるのはさすがに時代遅れです。日本が西洋文明を熱心に取り入れ始めたころに中世7学を勉強する優先順位は低かったでしょう。いつ西洋列強どころか近隣の清国に対してさえ弱小の日本はいつ滅ぼされても植民地にされてもおかしくない状況でしたし、国内の統一も怪しく不平士族、自由民権運動、社会主義者など反政府主義者がうじゃうじゃいた時代で内乱や国家反逆運動で国内の統一が乱れてもおかしくない状況です。  外国に留学した第一期生は日本の江戸期の教育を受けたエリートでラテン語やギリシア語は出来ないにせよ四書五経など中国の文献にはたけています。中国は世界史の中では近代のある時期までは世界の中でずば抜けた文明国です。漢文の文法も修辞学も特に西洋古典語に劣っているとは思えず寧ろ優れていると思われます。  論理学にしても古代、中世までの論理学は近代、現代の論理学の目からみれば幼稚な論理です。稚拙ななんちゃって論理でしたら別に論理学を学んでいなくても論理的に見える人間を装う、あるいは自分で自分が論理的と誤解するのは簡単で現在でも世の論理的に見える人は論理能力のレベルが高くありません。高いと自分や他人が思い込んでいる場合には謙虚さもなくなりかねないので余計たちが悪いです。  算術、幾何学、天文学、音楽ですが武士は金計算を貴ばない場合があるので計算が出来ない武士がいる一方で読み書きそろばんは庶民の教育の基本です。そろばんはある程度の習熟でも高度な四則演算が可能です。武士でも経理の様な仕事をする人はやはりそろばんを取得せざるを得ません。端的な事実として幕末は経済が分かる藩が買って、経済に疎い人々が負け組になりました。  幾何学、天文学ですが、日本の和算は世界の数学史から見ても画期的です。関孝和は微分、積分、行列式などについて先達者争いをする資格のある人物で世界の歴史上の天才のトップテンに入る可能性があります。音楽は別に国力増強のために急いで学ぶ必要はないでしょう。  その様な経緯で初期の西洋文明や学問の導入は専門重視で、基礎は後回しであったと思われます。リベラルアーツの習得を重視するのは適齢期に西洋に留学したり西洋の教育学を広めようとした一部の人々に限られると思います。  津田梅子や新島襄はアメリカのリベラルアーツカレッジに留学しています。  津田塾大学や同志社大学が特別な意味を持っているのはそこに関係があるでしょう。  まとめると日本がリベラルアーツ概念を取り入れるのに失敗した理由の一つは近代においてリベラルアーツ教育で教えるべきことを何にするかに混乱が生じたためです。  近代においてどの分野の学問も大きく刷新し続ける中でリベラルアーツを何にするかは中世以来の大学でも混乱をきたしたかもしれません。 第6章 教養課程の問題点  リベラルアーツ教育と教養課程の両者の理解とその違いを理解するため教養課程の問題点を当てていきましょう。 ・リベラルアーツ教育導入時点でのリベラルアーツ教育の混乱  中世においてはリベラルアーツは自由7科を指し、高等教育において必ず身につけるべきものでした。高等教育を完了した人はリベラルアーツを身につけていると言えました。リベラルアーツは学問の基礎であるとともに高等教育を受けた人の常識でした。大学を出た人は専門は何であれリベラルアーツは同一に理解してるため、それを土台にコミュニケーションが取れます。しかし近代も進むと古典語の履修なり音楽の履修なりが学問の世界においてさえ必要性が認められなくなりました。リベラルアーツ教育は西洋においても混乱があったはずですが、その時期に日本はヨーロッパの教育制度を導入しました。日本人がリベラルアーツの意味について理解できなかったと思われます。これが教養課程の軽視につながったと思います。 ・教育を促成栽培せざるを得なかった  明治維新後の日本は悲惨極まりなかったと言えます。植民地にされないために元々低い国力を軍事に充てなければいけなかったので国民は江戸時代以上の税負担を強いられました。経済的な負担だけでなく教育をはじめあらゆる負担を強いられました。明治期初期の留学生たちは江戸の教育を基礎として直接専門を身につけに欧米大学に行きました。これは目的から見れば大成功したと言えます。欧米流の初等教育や中等教育を受けたわけでもなくリベラルアーツ教育を受けたこともない留学生たちが留学先で優秀であり専門の学問を習得するのに成功しました。明治中期以降の学生たちは欧米の教育制度導入の教育の混乱状態の中におかれていましたので欧米流のリベラルアーツの概念を理解していたとは思えません。また歴史は継続、悪く言えば惰性の面がありますので明治初期の留学生のやり方をなし崩しに模倣していたと思われます。教育制度が欧米式に整えられましたが、リベラルアーツの意味の理解には失敗したと思われます。 ・教養課程の曖昧さ  中世ではリベラルアーツ=自由7科という同等の関係が成り立っていました。  専門教育を受けるにはリベラルアーツを学ばなければいけないし、リベラルアーツを身につければ専門教育を受けられるのです。これは非常に分かり易いです。  近代以降この学問をしておけばリベラルアーツを身につけているという条件がはっきりしなくなりました。例えば中等教育後期高等教育前期の移行期に相当する日本の申請高等学校では理科や社会が選択制なことが普通です。数学も選択制です。  理科は物理、化学、生物、地学のうちどれか2科目を勉強していれば大学への入学資格が得られます。社会科は日本史、世界史、地理、倫理、政経のどれか2教科を勉強していればやはり大学受験が出来ます。数学も数学Ⅲや数学Cは文系の学制では学びません。受験科目にないからです。  かといって高等学校で学ばなかった教科が大学の教養課程で必修になっているわけでもありません。結果として数学Ⅲや数学Cを学ばなくても専門に行けます。また社会科や理科のどれも大学生なら身にするべき学問とはみなされていません。  4教科中どれか2教科が必要というだけです。つまり選ばれなかった強化は専門のための必要条件でもありませんし十分条件でもありません。  結果として教養課程は大学生が専門に進むための必要十分条件ではなくなっています。  教養課程では選択と必修と選択必修があります。つまり学ぶべきことを学生に選ばせている、悪く言えば投げています。  この結果教養課程が大学生なら必ず身につけているべき共通の学問の基礎という意味がなくなってしまってます。  これが現状だけならいいのですが、日本においてはそもそも明治時代からそうである形跡があります。これは欧米のリベラルアーツ概念の導入の失敗とも言えますし、リベラルアーツ概念は必要ないと判断したからかもしれません。 ・精神主義としての教養  江戸時代までの儒教などの影響を受けた学問感は学問とは人間の精神性を高めるものであるという事です。中国思想は分けるというより一緒にする傾向があります。  これは西洋の学問とは真逆な考え方です。  西洋では徹底的に学問を分けます。  ある科学に倫理・道徳的側面があるなら、その倫理的・道徳的側面をその科学から分離して独立一科とします。  そもそも西洋ではキリスト教があり学問や科学の領域に口出ししてくる傾向があるのでしっかり分けて宗教分離をするのが大切です。  そうしないと地動説でも進化論でも研究を妨害されます。  中国の学問感はまさに学問の目的は人間性を高めるもの、というもので、これは教養と同じ意味です。  大学制度を導入してリベラルアーツ教育を教養教育と訳して高等教育に組み入れた際にこの江戸時代の古い考え方が混入して混交してしまいました。  この混交、集合現象はそのまま現在まで引き継がれています。  ですからそもそも一般人にとって教養課程が人間性を磨くものでなかった時期がそもそも日本にはなかったのかもしれません。 ・思春期、人格形成期の問題  学問、科学を勉強することは人間修養とは少なくとも西洋では別のもののはずですが、日本においては混ぜ込まれている事の理由に教養課程の学習が若者を対象としているから、というのがあります。  そもそも10代や20代は思春期や社会への参加の意味で人格形成期ですので教育にはそのためのケアがあるべきなのです。しかし日本ではそのケアが漠然としています。  西洋では宗教なり啓蒙思想なりが人間の倫理教育を行うためのものとして明確に存在しています。これは学問から倫理的な部分を切り離す自覚的な方法でもあり、クラブ活動や寮生活、スポーツなどで社会性や人間性を養います。  日本でも寮生活やクラブやスポーツをその目的で学生のために使いますが日本では宗教系列の大学を除いて大学に教会やお寺や神社がついていることはありません。  寧ろ大学にそういった施設をつけることに否定的です。  欧米の大学は歴史的にキリスト教と結びついているので学校の伝統としてそれを否定するか肯定するかに関わらず、修身、修養、人格陶冶として大学、教会との結びつきがあります。  日本で学生の実存的な問題、人生的な問題に対応するのは保健管理センターのカウンセラーかもしれません。つまり若者の精神的ケアやサポートが元々脆弱です。  その結果か知りませんが、日本の学生は洗脳されやすいです。オーム真理教や統一教会などの新興宗教やマルチビジネスにはまってしまう人もいます。社会主義や共産主義、社会改革運動や革命運動、左翼活動の巣窟ですので公安が入っていたりします。  国公立大学だと政教分離の考え方を教育制度、教育施設に持ち込んだ結果だと思いますが、その結果として生じたと思われる面白い現象の一つが「学問で精神を高める」学問による精神主義です。  繰り返しますが、「リベラルアーツ」という言葉には精神主義がありません。ただの技術と方法です。  日本の「教養」という言葉は学問を精神修行に使う考え方です。「リベラルアーツ」は単に知的なものであり、倫理とは全く関係のない概念なので「リベラルアーツ」と「教養」は違う意味です。  「リベラルアーツ教育」と「教養課程」も別のもので同じように見える事もあるかもしれませんが全く別物です。 第7章 リベラルアーツ教育の必要性  日本には教養課程がありますので、それを望むのであれば教養で精神を高める修行をすると良いでしょう。  一方で日本には「リベラルアーツ」の考え方と「リベラルアーツ教育」がありません。  日本以外の世界のエリートは大学でリベラルアーツ教育を受けています。リベラルアーツ教育は全ての大学生が共通して身につけなければいけない、学問の土台です。それを身につけていればその技術を使って相互にコミュニケーションすることが出来ます。コミュニケーションのツールと規格が一緒なのでそれを共有しているもの同士、それを使えばいいのです。  日本の大学にはリベラルアーツの考え方もリベラルアーツ教育もありません。したがって外国の大学でのエリートとコミュニケーションを取れない可能性が生じます。  これは日本人と日本にとってミゼラブルで不幸なことです。  リベラルアーツが誤解されてしまう原因の一つに「リベラル」「自由」という言葉があるかもしれません。自由は近代の啓蒙主義において倫理的な価値を持ちます。自由、平等、博愛がフランス革命の理念です。  ただリベラルアーツの「リベラル」はこの様な意味を持ちません。単に歴史的にたまたま残ってしまった残滓です。リベラルアーツの「リベラル」はギリシアの都市国家ポリスの自由民、自由市民に由来します。ポリスは自由民と奴隷に分かれていたので奴隷ではないという事も示しています。なぜ民を自由民と奴隷に分けたかというと、生活のための労働は過当な職業的、家事的なものも含めて下等であり人間の制約と考えたからです。肉体的な労働を下賤と考え知的労働を高級としました。人間は精神をより価値の高い知的活動に充てるべきという考え方です。下賤な労働から離れて知的活動に自由に専念できるから自由民です。  近代の自由は貴族の階級的支配からの自由でした。リベラルアーツの「自由」は自由市民を同じ支配階級の貴族と同質にみなせば貴族の自由です。前提として被支配者から提供される生活のサポートの土台の上に立つものです。  ですから「リベラルアーツ」というのはある意味で差別的な言葉です。また「リベラル」は近代の自由の様に高尚な意味ではなく、単に「働かなくていい」「家事もしなくていい」という労働から離れて勝手気ままに思考や研究、学問をしていいよという者です。  伝統の継承という意味ではアカデメイアを作ったプラトンの影響で、学問は強制ではなく自由意思で行うもの、制約されず強制されず自由に思想、学習、研究、勉強をすべきだという伝統にのっとっています。しかしそのためには基礎となる技術や方法を身につけておかなければいけないという意味になります。 つまりリベラルアーツの自由とは学問の自由であるとともに自由に学問するためには最低限の基礎が必要というものです。  学問をする階級、学問が出来る階級、学問をしないといけない階級はエリートです。  エリートの項目をウィキペディア日本版から拾ってみましょう(2020年8月13日現在)。   「エリート(フランス語: élite)は、社会の中で優秀とされ指導的な役割を持つ人間や集団。別称「選良(せんりょう)」。」 「語源はラテン語の ligere(選択する)で、「選ばれた者」を意味する[1]。一般的には、ある社会において優越的な地位を占める少数者を指す。優越性の根拠には社会資源の独占、意志決定機能の独占、職業・知識・経験など少数者の属性に関わるものなど、エリート論によって違いがある[2]。民族・宗教などの場合は選民思想、階級として貴族制、知識経験の場合は知識人や資格主義に関連する場合がある。政治学的には、統治者(層)に必要な資質を持っている、あるいは持っているとみなされている場合が多い。ハロルド・ラスウェルはエリートと特定される人物について、ある勢力の主体として社会的尊敬・収入・安全の3つの価値を最大限に獲得できる者をエリートと定義している[2]。 エリートが重視される思想や傾向はエリート主義と呼ばれ、一元主義の一種である。対する概念には、非エリートである大衆の立場を重視するポピュリズム、平等主義、複数の観点や基準を並存させる多元主義などがある。 エリートが単独で支配者となる体制は寡頭制の一種であるが、これそのものは必ずしも権威主義ではない。エリートが全体の代表者に選出されたり、全体の代表者の配下でエリートがテクノクラートとして登用され重視される形態は、民主制でも独裁制でもありうる。エリートは専門家集団であるため官僚主義となり実権を握る場合も多いが、その場合は最終権力者からエリートへの統治(ガバナンス)の有効性が議論となる。 一般にエリートは、他者より高い経験と責任を発揮して国家の統治や一般大衆への指導を行うことが期待されており、社会的な分業体制の一端として捉えることもできる。森嶋通夫は、日本に限らず現代世界のエリートの分布状態を、民主制の基盤たる素人主義に対する玄人主義ないし専門家主義という言葉で位置づけている[3]。ただしエリートが期待された役割を果たしていない、と他者からみなされた場合には、エリート層の交代論や、各種の反エリート主義が発生しやすい。 転じて、単に一定範囲の職業、役職などや、いわゆるキャリアなどが「エリート(集団)」などとも呼ばれている。」  リベラルアーツと同じくエリートも差別的な概念です。そもそも大学には全員いけないのでこれも差別的な概念です。  高等教育を受けられる人も限られていますし、「高等」という差別的な概念です。  因みに差別的というのはここでは悪い意味では使っていません。  物事を何かの基準で良い、悪いで区別すると世の中は差別の体系になります。  物事を何を基準に区別するかもどちらを良いとするか、悪いとするかも現代的な視点においては恣意的なものでしかないのでここれは差別を悪い意味で受け取らないようにしてください。  差別という言葉を原理主義的に使う人がいますので一応注意しておきます。  政治をはじめどの分野でも指導者層は必要ですのでエリートは社会に必要です。  現代では指導者層にはなろうと思えば努力は必要な場合もありますがなることは出来ますので、指導者層やエリートに排除的な意味はありません。  逆に指導者層やエリート層に入れるのに入らないのもメリットがある選択肢の一つです。 世俗の事は何でもトレードオフ、機会費用が生じます。別の言い方をすると何にでも良い面も悪い面もありますし、良い事も別の見方から見ると悪いことである場合もあれば、悪いことが別の見方から見ればよいことである場合もあります。  メリットにはそれに伴うデメリットも同時に発生するという考え方が出来る事が望ましいです。 第8章 リベラルアーツの中身  リベラルアーツという言葉は欧米の教育制度の中では一貫して使い続けられています。  一方日本の教育制度でも教養課程というのがあります。  教養課程は一時期「教養課程不要論」というのもあって教養の年限が短縮されたり、教養課程中に専門課程も同時に進める様な流れがありました。今現在はどうなっているかは知りません。  高等学校で高等教育をすでに行っているので大学の教養課程をごまかしても何とかなってしまう場合があります。私は2回大学を卒業しており1回目は1995年から1999年まで北大の理学部物理学科入学で生物化学科で卒業、2回目は2001年から2008年まで京都府立医科大学の医学部に通学していました。2回大学生をやったことで色々発見がありました。  発見の1つ目は教員も学生も真面目に授業しないことです。教員は手を抜きまくっていますし、学生の教養教科の勉強不足も顕著です。それでも専門課程に進めてしまいました。  発見の2つ目は高校できちんと勉強を理解していないと大学の勉強は理解できない事。私は高校時代劣等生だったので1回目の大学時代は学業の理解が十分なされなかったと思います。生物学科を卒業していますがそもそも高校で物理と化学の選択でしたので生物学の基礎がないまま専門に進んでしまったためです。専門もそうですが真面目な学生だったので教養課程も深く広く勉強しようとしましたが十分に理解できませんでした。  私の場合1回目の大学卒業後2年間浪人をして医学部に入学しており、1回目の大学時代も1年浪人した末の入学でした。高校時代勉強していませんでしたが浪人3年と大学4年間で7年間2回目の大学の勉強の準備をしていたことになります。2回目の大学時代は教養も専門も手ごたえを持って理解できました。2回目の大学の私の同級生はストレートで入学していれば1982年4月~1983年3月に生まれた世代で主に京都の進学校、その他も関西の進学校の学生で構成されたローカルな大学でした。全国でも名立たる進学校の学生が多数を閉めましたが、観察していると高校で物理学を専攻した学生は教養の物理学も医学部の基礎科目の生理学の神経科学の活動電位や循環器科学などの物理学が必要な勉強は理解できていませんでした。一方物理学を専攻して生物学を専攻していない学生はやはり教養課程の生物学も専門の基礎も臨床も理解できない穴があったようです。それを見て私は高校の勉強を理解できていない学生は大学のアドバンスの同じ教科の授業は理解できないと考えて周囲を観察していました。学問は積み重ねですので分野領域に問わず初級を理解していなければ中級も不完全な理解しかできず、中級までの段階を理解していなければ上級も理解できないと考えました。  3つ目の発見は2回目の大学で学生の学力低下を感じました。私は謙遜ではなく頭がよくありません。あるいは得意不得意にかなりばらつきがあります。一つの理由は郊外や田舎の小中高校に行っていたこと、2つ目の理由は高校時代学校の勉強をせず読書と哲学と思索に没入していたこと、3つ目の理由はAt risk mental status(ARMS)という状態になり認知機能が低下してしまったためです。学校での学業は下から十数番目や数十番目でしたが模試で国語が校内1位であったり、活字中毒の様になって文字という文字を読まないと気がすまない強迫的な状態になっていたり仏教や哲学や思想の勉強と思索、まとめると倫理学オタクになったため予備校の小論文では絶賛されたりしていました。しかし注意力や作業記憶、概念形成能力が低下し、両義的思考が顕著になり頭はいつも混乱状態で知的活動のパフォーマンスが低下してしまいました。この認知機能低下は長引きかつ完全には回復しないと見えて今も尾を引いているのですが、そんな私ですら医大に受かってしまいました。これは少子化が関係していると思います。  4つ目の発見は学生も教員も教養主義的な傾向がない人が増えていました。むしろ流行らない遅れた考えと見られていたようです。勉強に対する考え方がプラグマティスティックになっていて必要な事をいかに効率よく無駄なく早く行うかという考え方が徹底していました。  5つ目の発見は生徒の出自です。2/3以上が親が医者でした。京都周辺の進学校でかつ数項の生徒が大部分を占めており、かつ小中高の塾などでも知り合いであった子達が多数いました。たまに進学校でない学校出身者や学校から離れた県の出身者や身内が医療系でない子や編入性、多浪生、他大学を卒業か中退、あるいは社会人経験のある人がいましたがごく稀でしかもあまり適応がよくなかったようです。  6つ目は貧乏な家の子がいませんでした。本当にごくまれにいましたが適応に更に苦労していたようです。  7つ目は受験勉強以外のことについての発達がよくなかったようです。受験勉強の内容以外の知識が薄かったです。精神的にも幼稚で私の事を父か兄に重ねたのか何かのコンプレックスがあるのかパーソナリティ障害があるのか知りませんが嫌がらせばかりしてくるので耳元で「喧嘩売ってるんなら表出ろや」という意味のことを言ったらそれ以降卑屈で従順になりました。正々堂々とするとか決闘をするとかプライドとかそういうことを言う人がいるかもしれないとか物事にはリスクがあるとかの概念がなかったようです。そういう人が何人かいたのであまりその人だけが特殊なわけでもなかったと思います。当時は気が付きませんでしたが私は当時大阪の浪速区恵美須町に住んでおり西成区の釜ヶ崎、あいりん地区というところの隣接地域です。大学と研修医、後期研修医の間差別されていたようです。ちなみにうちは両親ともに家柄は問題ないので住んでいる場所から何か差別的なものを想像したのでしょう。ちなみに医学部の教育ではポリクリというものがあってそこで班行動をします。みんなで家柄の話になって遠慮がちに奥村という名前はすごい庶民の感じだと京都的な事を言われたので侍で水戸黄門に仕えていた儒学者と言ったら班員に驚かれたので私について何かうわさがあったのかもしれません。大学でも大阪出身者の私への態度は独特だったように思います。また初期研修病院が堺市の大阪市立大医学部出身の医師が多い病院で大阪市立大学付属病院も西成の釜ヶ崎、愛隣地区に隣接しています。大阪市立大学出身の身体科の医師が私への態度が独特だったのお年齢が高かった以外に住んでいる場所への意識が過剰だったことがあるのでしょう。ちなみに自分に自信があり過ぎたせいか差別感情に極端に鈍感でした。選民意識があって差別されても変なコンプレックスを形成しないユダヤ人がこのメンタリティと一緒なのかもしれません。  8つ目が特に教養課程の強要しなくても国家試験には受かること、基礎研究者としても臨床医としてもやっていける事です。有名進学校でその学校でも優秀な生徒なら医学部6年間の教育なしでも国家試験は受かると思います。研修医になると未熟さと経験不足からほったらかしなら問題を起こすかもしれませんが、マンツーマンの丁寧な指導があれば優秀な医者になれてしまうと思います。実際に大学時代に始めから研究者になるために授業などさぼりながら研究室に入りびたって国試直前の2か月くらいで合格してしまうような経験をしている医学研究者の話などはよく聞く話です。 臨床医をやっていれば普通に生活していれば経験する様な事しか知っている必要がありません。あとはそれをどうやって組み合わせるかです。組み合わせの多様さがあるのでこれに必要なのは記憶力と作業記憶です。ある程度思考を効率化するために論理的な思考などを身につけておけば更に簡単です。例えば学生時代には英語、数学、理科なしで入れる医学校がありました。国語と社会だけで受かってしまうのですから必要なのは読解力だけです。医師免許を取るには予備校通学や講師浪人が必要になるかもしれませんが臨床医にはなれます。しかもいいお医者さんになれる可能性もあります。逆にどんなに頭脳優秀でも愛想も説明も接遇も不良で患者さんからの評判が悪い医者は悪いこともあります。診断治療が優秀でもです。しかしそれの方が満足なさる患者さんは大勢おられます。ここら辺は旨くても接遇が悪い飲食店より不味くても接遇のいい飲食店にリピーターになる心理と似ているかもしれません。 第9章 リベラルアーツは必要か  というわけで医師のような中世以来プロフェッショナルとして認められている特殊な専門職ですら教養課程は必要ないわけですがリベラルアーツはどうでしょうか。  問題なのは経験的に理解できることは物量や速度で押せば何とかなってしまう事です。  非経験的な事を身につけるためには特殊な才能か訓練が必要です。特殊な才能は求めて得られるものではないかもしれないですからおいておいて訓練が必要な事はしっかり訓練しないといけません。  読み書きそろばんではありませんが四則演算や国語ができればあとは生きていくには何とかなるでしょう。必要な事はその都度身につけていけばいいのです。加減乗除と読解力は必須でこれは義務教育で何とかなるでしょう。  これに生活経験から得られる諸知識を身につければ生活できますが、覚えるだけでは不十分な分野があります。  数学でいえば解析学は訓練しないと見につきません。量子力学も訓練しないと見につきません。解析学は経験の積み重ねで定理や原理に到達できるかもしれませんが、積み重ねが必要です。量子力学はそもそも手段も方法も非経験的です。どちらも複素数が出てきますがこれも非経験的と見て良いでしょう。直感的に理解できるかもしれませんがガウス平面の他色々な理解のための工夫を要します。  リベラルアーツにはこの様に簡単な直感的理解が不可能な内容が含まれます。訓練が必要になります。これを忌避すると大変なことが生じる事があります。理系嫌い、理系の軽視とよく言われますが、理系回避は最近の傾向ではありません。明治、あるいは明治より前から一貫した日本の傾向と見て良いかもしれません。  大東亜戦争のアメリカとの戦争は日本軍の科学・技術軽視が招いたものです。科学・技術・産業・経済の不利を補う者として「精神主義」という概念が使われました。しかし明治以降戦後まもなくは江戸期の欧米諸国との交流制限のハンディキャップを背負いながら圧倒的に遅れた立場で文明が進んだ圧倒的な国力の差がある国々と対峙しないといけなかったのですからまだ良い訳も立ちます。  現在の愛国心や国益意識がある人でさえ教育や理系の大切さを分かっていないように見えます。分かっていて軽視なら自覚がある分良いのですが、分からないで軽視は深刻です。  結局教育が悪いのです。日本は初等教育は優れているが高等教育がダメな国と言われます。これは子供の学力調査や大学ランキングなどでも見られる現象です。  高等教育がダメな理由としては外国の高等教育を結局理解しなかったからです。形だけ取り入れたように見えても本質を理解しないと齟齬が生じます。  高等教育が何かを理解できない理由としてリベラルアーツを理解していないことが大きな理由になります。  先進国の大学で理解されて学習されていることを日本では教養課程という名の下、理解もされず学ばれている、というよりさぼって学ばれてもいません。  10代後半から20代前半の初期高等教育の中核であるリベラルアーツを知らないというのは国として致命的で大日本帝国は滅んでしまいました。個人としても致命的で日本の高等教育は外国人はおろか日本人からでさえも馬鹿にされています。  これは当たり前のことでリベラルアーツを知らないからです。更に知らないことも知らないというメタ認知もありませんから自覚もありません。なぜ日本の教育がダメなのか、これは高等教育と教育の目的、理念を理解しないとどうしようもありません。高等教育を理解しないとプレスクール以前の教育も含めて制度の設計や改善のしようがないからです。  教育とは何か、とは人生とは何か?にもつながります。国家とは何か?にもつながります。これには人によっていろいろな回答があるかもしれません。  しかし教育の歴史を考える上ではリベラルアーツの理解なしには議論が片手落ちになります。現代文明は西洋文明の延長線上にあります。日本の教育がだめでもいい、という意見もあるかもしれませんがグローバルに見れば日本は世界が切り開くイノベーションのお世話になっており、イノベーションをなしているのは西洋の教育システムです。成果だけ頂いて自分では何も作らない、というのはひどい話です。 第10章 現代のリベラルアーツ  リベラルアーツはその性質と定義上、学問の基礎になるものでなくてはいけません。  中世自由7科は語学と論理学と数学でした。論理学は語学と数学に共通するものと考えてもいいかもしれません。語学は言葉です。学問を語る、学問を記述する共通の言葉が学問の基礎になるという事は自明でしょう。現代ではラテン語に代わって英語です。分野によっては、例えば日本史ならば日本語だけでもいいかもしれませんし、中医学であれば中国語だけでもいいかもしれませんが基本は英語であることに異論はないと思われます。  中世のリベラルアーツを構成したもう一つの要素は数学です。数学については問題があります。そもそも語源のギリシア語が数を意味していません。μαθηματικάは「学ぶべきこと」という意味であり数を意味しません。ですから古代、中世、あるいは現代においてさえmathematicsで数を研究する学問とイメージしていたか分かりません。ギリシア語を勉強していたのであれば当然数だけのイメージではないでしょう。私も古代ギリシア語を勉強しましたが入門書の最初の方にすでに出てきた基本的な単語です。Mathematicsが何を表すにせよ古代は中世はともかく現代では必須科目でしょう。中世ですら必修だあったのなら現代ではなおさらそうです。数学は現在では自然科学、人文科学、社会科学の分類に含まず形式科学という一分野を形成する様です。観察や観測がないからです。現代数学は論理学はもちろん圏論など言語さえも対象範囲にしています。文系や理系を区別するのは問題はないのですが、文系だから数学を学ばなくていいという事は現在ではすべきでありません。そもそも近代科学以降実証がなければ科学は成立しません。実証するには統計学が必要です。2020年8月13日現在この原稿を執筆時点で世界でコロナウイルスが流行しています。この場合は数でいいのですが多くの人が数字の読み方、解釈の仕方が分からないために人類の福利厚生が毀損されています。複雑に入り組んだ現代社会では直接、健康や死に影響がなくても政治、経済その他を通じて衛生や公衆衛生に影響を与え健康を損なったり人を殺します。ですから正しい答えがあるのであれば正しい答えを導かなければいけないのですが知力が足らずそれが出来ません。知力はつけようと思えばつけれるのにつけないせいで不幸が生じるのは良い事ではありません。  リベラルアーツが高等教育の共通の基礎である点を鑑みて現代において何がそれにあたるか考えてみましょう。  共通の基礎とは各学問の本格的な教科書のはじめに概論や総論で語られる各学問の基礎でしょう。概論や総論はイントロダクションで序論や第一章で説明されているかもしれません。入門書や初級編でも書かれているかもしれませんがなるべく読者が分かり易い様に書くためにあえて基礎の基礎には触れられていない可能性もあります。  現代では学問の基礎というものが本当の意味で明らかになっています。  そもそも学問とは確かさや正しさを追求するものです。現代では正しさや確かさの基礎付けが済んでいますのでそれをリベラルアートにすればよいのです。  科学はその科学の対象とするものの確かさや正しさを追求しますが、確かさや正しさとは何かの研究は哲学で行われます。現代哲学が西洋哲学の完成形ですのでそれをリベラルアーツで教えます。それは簡単に言うと正しさや確かさというものは正しいこと確かなことがあるのではなく、人間が正しいと決めたこと、確かであると決めたことが確かであるというものです。  この正しいもの、確かなものを作り出すために必要になるのが数学の数学基礎論です。これで論理学、公理主義、形式主義を学びます。  これらが形式科学である数学の基礎になり、数学はあらゆる理論や体系(システム)の基礎になります。一方技術の基礎もやはり数学です。技術や工学とは科学の応用による実用化です。現代社会は存在論や認識論の基礎を現代哲学に追っていますのであらゆる物事の根本を追求したければ現代哲学を勉強することになります。現代哲学は現代数学の数学基礎論の考え方の一般化で、現代数学の基礎論は現代哲学の特殊化ですからどっちも同じものになります。  追う考えると現代におけるリベラルアーツは中世の自由7科とあまり変わりなくて語学としてラテン語やギリシア語の代わりに英語、数学として現代数学の基礎論、あるいはその一般化としての現代哲学を学ぶことになります。  違いは現代哲学が入っているところですが、学問の進歩により現代数学の基礎と収束して一般・特殊の違いを別にすれば同じものです。哲学は中世には専門職につながる神学、法学、医学と共にその他の学問の総称として専門教科にいれられたり神学の端ためと言われたり色々な扱い方をされたようですが、論理、合理、理性など理について語る場合には広い意味で正しさと確かさを追求する純粋哲学や純粋数学によることになります。  応用哲学や基礎数学に対して数論、幾何学、算術、解析学などを応用数学とすればそれは専門で勉強すれば良いことになります。中世との違いは学問の発展のお蔭で基礎がめいかくに定まっているところです。  日本では日本では哲学と言うと残念ながら哲学史や広い意味の現代思想を扱うくらいで純粋哲学である素朴実在論や構造主義的哲学、ポスト構造主義については教えないことが多いようです。  しかし哲学史や現代思想というと応用哲学であって基礎哲学、純粋哲学である現代哲学を勉強しないと意味がありません。根幹をリベラルアーツで学び枝葉は専門で学ぶべきです。哲学史や応用哲学は哲学が完成した現在にあっては歴史的には古くても根幹たり得ません。 第11章 その他のリベラルアーツ候補  前章で英語、現代哲学、現代数学の基礎論は現代のリベラルアーツに含まれることを説明しました。  中世の自由7科と比較すると文法、修辞法、論理学は英語に対応し、重複しますが論理学、算術、幾何学、天文学は現代哲学と現代数学基礎論に相当します。音楽はリベラルアーツから外しています。論理学は英語と重複すると書きましたがやはりきちんと現代数学の数理論理学や記号論理学を学ばなければいけません。もっと時代が進んで現代数学が進歩すれば記号の科学、記号論や記号学というのが出てきて自然言語を凌駕するかもしれません。その場合、英語が現代数学を基礎とした記号法である言語に置き換わり自然言語が人工言語、人造言語に置き換えられるかもしれません。  人工や人造と書きましたが無視できないのがITの進歩です。そもそも計算機科学、情報科学などは現代数学から派生した学問です。IT情報工学はその応用ですが、人工知能や量子コンピュータなどの進展により将来シンギュラリティと呼ばれる計算器、演算装置が人間の知能を超えるかもしれません。  昔は四色旗問題という地図が4色で塗り分けられる問題の証明にコンピュータを用いたことが議論になりましたが今やそんな議論をすること自体が時代遅れになってしまいました。  ITはテクノロジーですがリベラルアーツは学問である必要はないですし、アートでもテクノロジーでも工学でも高等教育に役に立つのなら何でも取り入れるべきですからITを使いこなす事は現代のリベラルアーツの構成要素の候補の1つになります。  これは初等教育や中等教育で行えばいい可能性もありますし、自分でできなくても企業でも個人でも誰か専門家を雇ってやってもらってもいいのでリベラルアートにすべきではないという意見があるかもしれません。  これは一つはいいアイデアでもっと発展するとリベラルアーツは不要であるという議論もあり得ます。  そもそも単純労働せずもっと高尚な事を自由に考えるのがリベラルアーツの目的です。現代は社会や産業の発展により代行業が盛んです。何でも自分でやるのではなくアウトソーシングするのも1つの考え方で、リベラルアーツという者自体をアウトソーシングして自分はもっと自由にやりたいことに励むという考え方もあるでしょう。  そういう生き方もありですが本書は知的エリートに仲間に入れてもらうための方法としてリベラルアーツを身につけるための本です。ですのでこの議論は本書の趣旨に外れますので解説しませんがもちろんそういう選択をすることも多いと思います。  我々は別にエリートに仲間に入れてもらう必要はその意味がある場合以外にはありません。特にプライドや何かの感情的こだわりもなくエリートの仲間入りすることにメリットもなく知的好奇心もない場合にはリベラルアーツを身につける事はありません。時間の無駄なので他の自分なり他人なりの幸福を増進させることに自分のリソースを注げばいいだけです。  ところで流石に古代ギリシアではないのですから単純労働と知的労働を分けて家事や仕事などを知的労働の下位に置くといった価値観は偏った考え方で時代遅れでしょう。  現在は科学技術社会の進歩の加速度的な速さを考えておかなければいけません。  良くも悪くも昔より人間は自分でやらないといけないことが変わってきていますし誰かや何かに任せられることも変わってきています。  スマートフォンが出たときにガラケーでいいやとスマホに手を出さずデジタルデバイスが生じてしまった高齢者が私の身近にも沢山いました。  エジプトのファラオ、アメリカのロックフェラーに比べて現代の富豪に出来る事は限られているでしょう。時代が下るにつれてテクノロジーの進化でコンピュータや機械がやってくれることは増えましたが手近な事で人にやってもらうことは減っているでしょう。  ある程度世の中が変わったらある程度自分で理解して自分でもできる様にしておかないと楽しみが減ったり不自由が増える可能性がどんな大富豪でもあると思います。  情報量の増加は加速度は加速度でもおそらく指数関数的か階乗関数的です。  情報に関する技術はメディアについての知識でもあります。  我々はニュースで世界の情報を知らなくてはいけません。政治、経済、社会、軍事、健康、地域その他です。我々は民主制の社会に住んでいるため主権者であり、選挙権、被選挙権を持っています。子供がいれば安全に子育てしなければいけませんしこの社会の繁栄や子供たち、子孫、未来の人類のために、また自分のため世界人類のためにより良い社会を作っていかなければいけません。判断を間違うと独裁政権や危険なイデオロギーを持っている人々に社会を乗っ取られてしまうかもしれません。  古代ギリシアの様に生活のための肉体労働とか高尚な哲学や学問や芸術を考える精神的な活動とか区別するような世の中でもありません。  もう一つ世俗に深くかかわらないといけないこととしてマネーリテラシー、お金のリテラシー、経済の知識が必要です。我々が済んでいるのは資本主義社会、市場経済社会であり、生産性や配分、失業率が社会と人々の福利厚生に直結します。経済政策や経済状況、世界経済を知らないでは済まされません。何せ間接であれ直接であれ我々は政治の主体であり、施政者でもあるためです。また自分や家族、友人たちや身の回りの人たちの生活を守らなければいけません。守るとは経済を発展させていかなければいけないのと自分と家族の収入や財産や資産を得るように努めなければいけません。自分の経済も人の経済も地域、国、世界の経済を回さなければいけません。  しかし一方でお金は必要なだけあれば意外と余分にはあまり必要ないと言えます。時にお金よりもっと大切でお金に換金可能なものは腐るほどあります。人から尊敬を得たり地位、名誉、良い評判、知名度など得ればそれはお金に出来ます。  学校の勉強がよくできれば家庭教師や塾講師になれるし、何かの知識があればセミナー講師になれるでしょう。力が強くて健康な肉体があれば力仕事で収入を得られます。単に相続などで受け継いだ小金がある程度や成金では尊敬や自尊心は得られないかもしれません。実業家、事業化になれば事業の立ち上げ方が分かるので自分で商売や会社を始めたり雇われ経営者になれるでしょう。お金があっても家事や泥棒にあえばなくなってしまいます。私の祖母の家は4回泥棒に入られました。でも泥棒なら全部はとっていかないけれども火事は全てを失うので怖いとよく言っていました。友達の地方の素封家で名古屋の近郊に膨大な敷地を持っている地主さんですが蔵に何回も泥棒に入られて古いものが残っていないそうです。ちょっと稼ぎ頭が病気になったり死んだら回らない家はいくらでもあるはずです。長期に地域に貢献してきたり伝統があり身元や家柄がしっかりした人はそれだけで一財で財を成した人には得られない地縁血縁人脈地位があります。何代かかけなければ普通は中産階級にも上っていけないのが昔のヨーロッパでした。歳を取ると非常に多くを失います。40半ばになれば遠視も出るし髪も薄く白く油気もなくなってぱさぱさ史ます。皮膚も汚くなり歯周病などで口も臭くなります。整形外科的な問題が生じはじめどこか身体が痛くなってきたりします。ですからお金よりその稼ぎ方の方が大切ですし、どう使うかも大切ですし、同時世代に残すかも大切ですし、同投資するかも大切です。小金があればデイトレードで食べていけますが株式の売買ではGDPは増えないので投機と呼ばれます。投機にせよそれで食べていければ大したものです。  小さな労苦より辛いのは暇や退屈、つまらないと感じる日常でいい年をしてくると大抵のことを経験して飽きてくるので新しい挑戦や創造が大切です。医者は田舎の方が需要があって稼げますが、田舎では使いようが限られます。洗練された料理屋もないし子供の教育にも困るので収入が少なくても都会に集まる傾向があり地方の医者不足問題が生じます。  仕事をしないで自分の楽しみや快楽で飽きない生活が出来ればむしろ才能であり優れた資質である可能性があります。この高齢社会では仕事をしていないと寿命が縮むというデータがでることもあります。  考えていくとマネーリテラシーとは一方では仕事というより英語でいうビジネスの技術という事でお金を稼ぐ場合もあれば使うだけの場合もありますし、無償の場合もあり、事業、実業というものです。我々は社会の中で何らかの活動をして、他者から承認されて、役割に同一化する方が往々にして充実した人生が遅れます。  社会のシステムに組み込まれて機能していくための知識として資本主義や市場経済、商習慣、工業や産業などお金と経済、財政と金融の知識が自己がサバイバルする生き残るという最小限の事からより大きな自己実現、ないしは社会の福利厚生の増進に貢献することが出来ます。 第12章 現代哲学と現代数学の簡単な解説 31ページ、3万4千字くらい、2010年8月13日の段階で。  次に考えるべき点はリベラルアーツを何にするかです。   必ず身につけるべきことは    今の世の中で身につけておくべきものは何でしょう?  家庭の躾は大切ですよね。  学校の義務教育相当の事は知っておかないと漢字が読めなかったり計算が出来なくて困る場合もありますし、小中学校で教わることは多くの人は当然のこととして話してくるでしょうから知っていないと困ったり嫌な思いをすることがあります。  家庭、学校に加えてドイツでは教会が大切とされ、この3つが教育の柱でした。  協会では宗教、倫理、道徳、コミュニティーとのつながりが得られます。  日本では武士は藩校などの学校で文武を身につけ、武士以外の庶民・百姓(いろいろな武士以外の職業の人々)は寺小屋教育が有名で、読み書きそろばんとまとめられます。  手習いとして習字や修身もかねて四書五経の音読、算術です。  廃仏毀釈前の神仏習合のお寺ですから神仏を尊ぶのは当たり前です。  武士や公家、外国の貴族や王族教育はまた庶民と別の立場ごとの特殊な教育があります。  庶民でも家業や次男・三男坊の将来の実の立て方を考えて教育は工夫されます。  時代によって、地域によっては同じコミュニティーに属してもコミュニケーションを取らない場合もあります。  身分の違いなどがそれですし、敵対的な思想・主義を持つものとはコミュニケーションの必要がなかったり、積極的に取らないことが奨励されたりします。  インドのカースト制度や一部独裁国家の庶民の情報統制などです。  大人になるのは現代は16歳で女性が結婚可能、18歳で選挙権の国があり、本邦では20歳で成人式を迎えます。  昔は日本人では元服が10代前半、ユダヤ教では女子の 世界のエリートだけが知っている 現代の Liberal Arts リベラルアーツ 前書き  本書では現代のリベラルアーツとしてエリートが身につけておくべきことについて解説します。    エリートと言っても色々なエリートがあると思いますが、ある一定の学術的素養を付けることをエリートとします。 本書ではエリートになるに必要なそのある一定の学術的素養をリベラルアーツと呼びます。    普通、リベラルアーツという言葉は日本では教養と訳されます。  日本の大学では教養課程がありそこでリベラルアーツを学ぶと認識されていると思いますが本書では教養とリベラルアーツは区別して使用します。  教養とリベラルアーツを区別する理由としては日本の大学の教養課程では真に身につけるべき教養がきちんと身につけらることができないと考えるからです。  日本の大学の教養課程ではこれだけは身につけなければいけないという明確な指針がありません。  しかし学問の世界では高等教育で身につけなければいけない事があります。  それは学問の基礎です。  学問の基礎が何かを知らなければ、学問とは何か考える時にどうなるでしょうか。  大学では高校以下の教員資格を得ることが出来ますが、生徒に学問とは何かと問われたときに自信を持った答えを導くことが出来るでしょうか。  高等教育を受けるものが身につけるべき学問の基礎が現代には存在します。  大学以降の高等教育で必修すべき学問の基礎をリベラルアーツと呼び本書では「教養」という言葉と区別します。  学問の世界は世界共通でありです。 大学という高等教育機関で身につけた学問の基礎はグローバルに世界中で通用すべきです。 「教養」という言葉にはこの様なニュアンスがないので世界的に使われるliberal artsという言葉と区別します。 専門で学んだ学問は変わることがあっても学問の基礎は変わらないので身につければ一生使えます。  学問の基礎はどの学問も共通ですので身につければ他の学問を専門とする人ともコミュニケーションをすることが出来ます。  リベラルアーツは身につけるのに訓練が必要ですので全ての人が身につけられるわけではありません。  努力をすれば身につけられる方法はいくらでもありますが、人それぞれの人生で誰もがその努力の機会が得られるわけでは残念ながらないでしょう。  Liberal artsを身につけられた人は幸運に恵まれたエリートなのです。  エリート同士は基礎を共有しているのでコミュニティーを作り協力することが可能です。  しかしliberal artsの基礎がないと共通する確かなものがないためエリートとの交流でトラブルを起こす可能性があります。  話が通じない人通しが同じコミュニティーを維持することは困難ですので、リベラルアーツのない人はエリートのコミュニティーに所属できなくなってしまいます。  選ばれた幸福を余力が許す範囲でよいので世の中の訳に立てられれば素晴らしいことです。  本書ではエリートの共通して身につけているliberal artsについて勉強します。 第一章 リベラルアーツの歴史  Liberal artsという言葉は古代ギリシアの歴史に由来します。  ギリシアの都市国家であるポリスは、自由市民と奴隷から構成されていました。  liberalという言葉はこの年自由市民に由来します。  Liberaral artsとは自由市民が身につけるarts(技術、学術、芸術、芸事、方法)ということです。  自由市民も奴隷も人間ですがポリスでは自由市民が支配層で政治や軍事を司り、奴隷は自由市民に隷属します。  自由市民の自由とは労働する必要がないという事です。  私的な生活、生存に必要な労働は全て奴隷が行う事が必要です。  自由市民はより高尚な事のために生きるのが理想とされます。  自由市民は権利と義務を持ちます。  ポリスが民主制である場合には自由市民だけが選挙権を持つ制限選挙制度であるため自由市民には議論や討論をする知的な能力が求められます。  また自由市民は兵士になって戦争へ行く義務を負うため勇気や軍事訓練も必要です。  古代ギリシアと古代ローマが終わった後、中世ヨーロッパで古代の遺産の数学と古典語であり共通学述語のラテン語、ローマ語が学ばれます。 matematics数学はもともと学ばれるべきものという意味です。現代数学により数に関するものだけを研究する学問とすると誤解を受けやすくなるので数学という言葉は変えてもいいかもしれません。 中世のヨーロッパの大学では基礎科目と専門科目がありました。  基礎科目は専門科目を学ぶ前に身につけておくべきと考えられた学問です。   自由7科とも呼ばれ文法学・修辞学・論理学(弁証法)・算術・幾何・天文学・音楽からなります。中世の学術言語はラテン語、あるいはギリシア語など古典言語であり文法、修辞学、論理学は語学の学習でもあります。 算術・幾何学・音楽は数学に属すとみなされました。  この自由7科がliberal artsです。  この基礎7科を身につけたうえで専門科目に進みます。 専門科目は神学、法学、医学で専門職養成のための学問です。  哲学は大学によって歴史が異なるようですが、専門科目に分類され種々の学問を含んでいたようです。近代以降学問の発達により専門化が進むと哲学と自然・人文・社会の諸科学の領域・分野ごとに細分化されます。  こうしてみるとリベラルアーツという言葉には生活や生存のために労働を行い世俗的に生きるのではなくより高尚な知的活動を行うという特権的な意味が含まれます。  いくつか日本の「教養」という言葉を考える際に注意するべき点を挙げて見ます。  まず歴史が長いことです。  自由市民が持つべき知的能力については古代ギリシアから考えられており、しかもその伝統は現在も続いていると言えます。  日本にはリベラルアーツに相当する言葉や概念がなかったので明治時代に西周が「藝術」と訳しました。これは「芸」と「術」の組み合わせでどちらかというと「arts」の翻訳語です。「liberal arts」それ自体が持っている歴史的、学術的、そして社会的意味には目がいかなかったようです。  また外国のリベラルアーツは専門教育を受けるために必要であるとされます。   第2章 大学とは何かについての考察  リベラルアーツと教養という言葉を比較してみましょう。  その前に大学という物について考えてみます。リベラルアーツも教養も大学も日本人にとっては明治維新で初めて知ったものです。  明治政府は大学を非常に重視しました。明治維新で最初に作ったものの一つと言っていいでしょう。文部省より先に作られています。  日本の学制も欧米諸国の学制も各国ごとに異なり歴史的にも変遷があると思いますが、明治以降の日本の学制の変化は複雑で理解が困難です。  まず日本の大学と欧米の大学は同じといえるのか?  明治維新直後に東京大学の元を作り変遷、紆余曲折を経て現在の形になったのは明治10年です。その後明治30年に京都大学が出来るまではそもそも日本には大学が一つしかありませんでした。大学がなくても高等教育機関がなかったわけではなく色々な専門学校や私学校がありました。ただ今度は「高等教育」とは何かも問題になります。  明治政府は大学を重視したので大学を最初から大学をもっと作りたかったのですが、明治期の前半に大学が1つしかなかったのは貧乏過ぎたのと大学の体をなす人材や設備が集められなかったからでしょう。  研究と教育をする総合的高等教育機関を大学とすると国立でないと不可能です。国力が低い国が大学を作るのは困難ですが当時の日本人は教育を国家の存亡を決めるほど重大なものと考えました。  帝国大学を徐々に増やすとともに大正7年(1918年)それまであった帝国以外の各種学校に大学を名乗ることを認めます。慶応大学や早稲田大学はこの時大学になりました。  大学を考える際には大学より前の段階の教育制度・教育機関と大学に入るまでに何を教育するのか、入試などの入学のための審査制度を大学との関係で見ていかないと大学の理解がきちんとできません。  戦前昭和には旧制高等学校がありこのカリキュラムに現在の日本の大学の教養で科目とされているところまで教えていることがあります。  戦後は占領国軍によりアメリカと同じ6・3・3制がひかれそれで変わらず安定しているように見えるため若い世代にはこれが先入観になりがちです。  大学というのはこの様に教育の歴史の中で見ていかなければなりませんが、現在の大学という物が世界各国共通化というとそれもまた違う様です。  日本の教育制度に大きな影響を与えたアメリカを見てみます。  アメリカのリベラルアーツカレッジについての説明(2020年8月10日14:29の日本版ウィキペディア)を調べると下記の様な記載があります。 ……アメリカ合衆国の大学は、大学院を持つ大規模な研究型大学(Reserch University)、リベラル・アーツ・カレッジ(Liberal Arts College)、公立で地域の学生が通う2年制のコミュニティ・カレッジ(Community College) に大別される。日本の大学と異なり、多くのアメリカの学部課程カリキュラムには「法学部」「医学部」「経営学部」(またはその専攻課程)がなく、それらの専門に進む生徒はまず4年制学部過程(Undergraduate School)で学ぶ必要がある。大学院には、法科大学院(Law School)、医科大学院(Medical School) 、経営大学院(MBA) といった専門職大学院と、学部過程で学んだ専門をさらに追究する学術系大学院に大別される……  大まかにリサーチユニバーシティを日本の総合大学と対応させる見方が一般的でしょう。 大きな違いは医学部や法学部が専攻過程にないという点です。リベラルアーツカレッジは私立で全寮制、一クラス当たりの学生数が少なく教育重視であるところが研究型大学と違うところで日本では一致するものが少なく、認知されていない大学の形態でしょう。コミュニティーカレッジは公立であることを除けば日本の短大でしょうか。    ヨーロッパでもイギリス、フランス、ドイツなど国ごと、宗派ごと、歴史ごと、個別の大学ごとに教育制度に特徴があります。  大学は中世からあるものもありますが、歴史や国家の影響を経て変遷があります。  「研究をするところ」、という観点から大学をみるのと「大学に扶養されて教育を受けるところ」という観点で大学を見る場合では大学に対する見方が異なります。  大学院を出て学士、修士、博士を取っていれば基礎教育は終了したものとみなされて研究する、または教育する側として大学と関わりますが、学士取得以前の学制にとっての大学は教育機関ですので、属する教育機関の教育に関する考え方に基づいて影響を受ける 第3章 リベラルアーツと教養  大学教育については各地域、各歴史ごとに、各大学ごとに違いが大きいことを説明しました。  大学教育を修了し博士号を取れば学問の世界では学者として認められ、教授や講師などの大学教員になることが出来ます。  欧米の中世の学問の伝統をひく大学では大学で学ぶべきこととしてリベラルアーツが必要です。  考え方によってはリベラルアーツさえ身につけておけば十分と言えるかもしれません。  中世の大学の例でいえば基礎科目についてはリベラルアーツを学んでおけば必要十分であったでしょう。  アメリカのリベラルアーツカレッジであればリベラルアーツを身につけることのみに専念するのですから、リベラルアーツを身につける事が大学教育を受ける事の必要十分条件でしょう。  アメリカではリベラルアーツカレッジを卒業するとメディカルスクールやロースクールに進むことが出来ます。  言い換えると医学や法学などの専門教育がリベラルアーツの習得を専門教育を受けるのに有用とみなしていることが分かります。  これは中世のヨーロッパと同じスタイルです。 中世の大学では神学、法学、医学の専門職になる専門教育を受ける条件としてリベラルアーツを習得するシステムになっていました。 リベラルアーツという言葉にはこのような意味がありますが、教養という言葉にこれと同じ意味があるかと言えば同じ意味はありません。  私の小学2年生の息子が持っている金田一春彦先生などが監修なさっている学研の新レインボー小学国語辞典第6版で教養を調べてみましょう。 「学問や知識を身につけることによってうまれる心のゆたかさ」 試しにグーグル検索してみましょう。」 「学問・知識を(一定の文化理想のもとに)しっかり身につけることによって養われる、心の豊かさ。」 似ていますね。  もう一つウィキペディアで調べてみます。 「教養(きょうよう)とは個人の人格や学習に結びついた知識や行いのこと。これに関連した学問や芸術、および精神修養などの教育、文化的諸活動を含める場合もある。」 せっかくですからカタカナのリベラルアーツと英語のliberal artsをグーグルやウィキペディアで調べてみましょう。 カタカナグーグル なし カタカナウィキペディア 「リベラル・アーツ(英: liberal arts)とは、ギリシャ・ローマ時代に理念的な源流を持ち、ヨーロッパの大学制度において中世以降、19世紀後半や20世紀まで[注釈 1]、「人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本」と見なされた自由七科のことである。具体的には文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何(幾何学、図形の学問)・天文学[注釈 2]・音楽[注釈 3]の4科のこと。現代では、「学士課程において、人文科学・社会科学・自然科学の基礎分野 (disciplines) を横断的に教育する科目群・教育プログラム」に与えられた名称である。具体的な教育内容に関しては「リベラル・アーツ・カレッジ」「教養学部」を参照のこと。」 英語google 「Liberal arts, also referred to as the humanities, includes the study of history, literature, writing, philosophy, sociology, psychology, creative arts, and more. More broadly speaking, students earning a liberal arts degree learn to formulate effective arguments, communicate well, and solve problems.Sep 10, 2018」 英語wikipedia これはなんの事情かliberal artsの項目がありませんでした。 代わりに先頭に「liberal arts education」が出てきましたのでそれを収載します。 「Liberal arts education (from Latin liberalis "free" and ars "art or principled practice")[1] is the traditional academic program in Western higher education.[2] Liberal arts generally covers three areas: sciences, arts, and humanities. Its central academic disciplines include philosophy, logic, linguistics, literature, history, political science, sociology, and psychology. Liberal arts education can refer to studies in a liberal arts degree program or to a university education more generally. Such a course of study contrasts with those that are principally vocational, professional, or technical.」 教養とリベラルアーツ(日本語)/liberal arts(英語)を比較してみると教養には「心のゆたかさ」「人格」「精神修養」などの言葉が出てきます。 教養自身が学問であるというよりは学問を身につけた結果身につけられる倫理・道徳的な人間の価値の様なものを意味の中心としているようです。  一方でリベラルアーツ(日本語)/liberal arts(英語)には倫理・道徳的な意味合いがなく知的な意味しか出てきません。学問の技、術、芸、方法、手段、道具として見ています。具体的な教育課程で占める位置付けについても書かれています。日本語のウィキペディアの「教養」の説明を読むと「教養」もその様に使っても良い様な事を書かれていますが、そのような使い方は二次的であると付記されており、さらに書いてあることが曖昧です。  ですから「教養」と「リベラルアーツ」は別の意味で使った方がいいかもしれません。  「教養」という言葉には学問が自己修養や人格陶冶であることを意味した儒教の影響が張り込んでいると思われます。それはそれで構わないのかもしれませんが「リベラルアーツ」の訳語の意味があることや「リベラルアーツ」の学問における意味が理解されていない場合にまずい場合があります。  最悪なケースは大学の新入生が教養課程の意味を取り違える事です。  教養課程が教養を身につけるところであってリベラルアーツを勉強すべきところと思わずリベラルアーツを身につけず教養課程を終わってしまうことです。日本の場合、そうであっても専門課程に進める事が多くあります。大学入学時にすでに専攻が決まっている場合専門教育の勉強を急ぎ教養課程を軽視する場合があります。  あるいは教養教育を嫌う可能性があります。若い多感な時期に大学という権威から大学の価値に従う倫理・道徳を身につけなければ希望する専攻に進ませてやらないと言われれば反感を持つのは当たり前です。  ステューデントアパシーに陥ったり、モラトリアム期に入り込んでしまうかもしれません。不登校や多留生になるのもいいかもしれませんが、無駄で効率が悪いです。そのようなつまらない理由で時間もお金もエネルギーを無駄にするのは大学、社会、本人、家族、その他あまり良い感じがしないかもしれません。  旧制高校的な教養主義文化ともいえるので本人の人格形成につながったり文化として残していくのもいいのかもしれませんが昔の事はよく見えやすいお年寄りの回顧であったり、前向きにトライするのを回避する若者の良い訳に過ぎない場合も多いかもしれません。無駄こそ文化だという考え方も共感はするのですが。   第4章 大学入学前後の教育システム  前章までで「教養」という言葉と「リベラルアーツ」という言葉を区別すべき理由を書きました。  具体的な施策としては「教養課程」、「教養教育」を「リベラルアーツ過程」「リベラルアーツ教育」に変更するか、「教養」という言葉が「リベラルアーツ」を含むことを普及、宣伝、啓発、教育していくべきです。  大学で学ぶ基礎教育期間は大学を卒業した全ての人が身につけるべきことを身につけさせる最大にして最後のチャンスになるかもしれません。基礎過程で身につけずにリベラルアーツを身につけさせるのにこの機会を逃す場合に考えられる次の手段は、大学卒業時に試験を課すことです。そうすれば自習でも何でもリベラルアーツを勉強するでしょう。補講を設けたり家庭教師を雇ったりダブルスクールして塾や予備校で勉強するのもいいでしょう。勉強には社会も個人もお金を惜しむべきではありません。最高の投資だと思いますし経済効果もあるかもしれません。  全ての大学生が共通に教育されるべき学問があるのかという疑問あるいは習字疑問文による否定的な考えを持つ人がいるかもしれません。  まず教養課程をさぼったり代返を頼んだり名前だけ書いて教室を出て行ったりレポートをコピペしたり一夜漬けしたりカンニングしたりして実質的にリベラルアーツを身につけずに専門教育に進んで問題を感じなかったという感想を持つ人が多くいると考えられます。それに対する答えは気付かぬ間に本人や社会が損をしているかもしれないと考えるべきという事です。  原点に返ってリベラルアーツの意味を考えます。自由市民が持つべきものでした。まず自由市民同士で議論が出来ないといけません。議論でなくても話が出来ないといけません。時にポリスの代表者や軍の司令官も選ばないといけないかもしれません。選ぶどころか他に適任者がいないとあれば自分でやらないといけないと思うかもしれません。直接民主制なら誰もが良い志を持っているとは限らず合理的、論理的に誠実に話すのではなく、詭弁を使って人心を誘導しようとするソフィストもいるかもしれず騙されないようにしなければいけません。ですから自由市民は優秀である必要があります。逆に自分がソフィストになって他の市民を黙失用があります。ロゴスとレートリケー(レトリック=修辞法)は自由7科にどちらも含まれます。分かり易く理解させるためには時には詭弁的なものアジテーション的なものも必要な場合があるのでしょう。自然言語を使うとは理性的なもの、非理性的なものをどちらも使う事になります。「社会性」というのは非理性的なものも含まれています。  近代になると啓蒙思想や市民革命がおこります。自由・平等・博愛を謳うフランス革命では人権という概念が原則になりました。近代的な自我という者は自分で考え、判断し、決断し、行動し、行動の結果のケツを持つ人間を念頭に考えられています。奴隷がなくなり全ての人間が人権と主体性を持つことが理念になります。例えばナポレオン戦争後世界的にユダヤ人の多かったドイツではユダヤ人がゲットーから解放され大学に入れるようになります。19世紀後半以降ユダヤをルーツとする知識人が目立つようになるのはそのためです。ユダヤをルーツに持つという事はユダヤ教からキリスト教に改宗者の子孫であったりユダヤ人以外の配偶者を持った場合などです。ユダヤ教にも色々な宗派がありますが13歳の男子にバト・ミツワや12歳の女子にバト・ミツワという儀式が行われる場合がありそこで神を信じるか、ユダヤ教徒であるかを選ばせます。有名なアインシュタインはこの時神の存在を信じられないとしたのでユダヤ系ですがユダヤ人ではありません。ラビの一族でしたが前の世代が弁護士になるためにキリスト教に改宗したのがカール・マルクスでマルクスはユダヤ系ですがユダヤ人ではありません。近代にはこのように差別されていたり、まだ社会的あるいは制度的な制約を持たれていた被差別民も市民として扱われるようになります。人間は人権を持ち平等なので義務も権利も負います。  ヨーロッパは今も昔も階級社会ですので貴族などの上層階級がいます。上層階級の子弟は上層階級の教育を受けます。大学に行くのもそうです。たとえばイギリスではそれ以前は昔は家庭教師などつけられて教育されたりプライベートスクールという全寮制の予備教育、初等教育機関で教育を受けます。  ヨーロッパ全体の大学の定員枠は日本に比べれば少ないので誰もが入れるわけではありません。ですから大学の学生の主体は上層階級になります。専門教育を受けたり研究をしに行く場合には留学生や社会人を経て大学で勉強するような人もいるでしょう。  大まかに分けて大学には基礎と専門があります。ヨーロッパの上層階級は初等教育から高等教育までは幼少期、学童期から一貫して学びます。それは家族の伝統でありイギリスの上層階級なら息子は、祖父、父と同じ学校に行くような一家の伝統があります。 第5章 近代の大学教育    日本の大学教育に対するイメージは人によってことなります。この100年あまりで大学制度も教育制度も教育内容も変化していますので大学在学歴のある人の世代や在籍年代によってかなり大学のイメージに多様性があります。自分の体験は本や自分より年配や若年の人に聞いた大学体験と違うと思います。 初等教育から高等教育を一貫して行う場合、初等教育と高等教育の線訳がどこでなされるかがポイントになります。 そもそも教育内容の高等度を決める規格があります。国際標準教育分類(International Standard Classification of Education 、ISCED)といいます。1997年版と2011年版がウィキペディアに収載されっていたので示します。 ISCED 1997版[2] レベル 説明 特徴、およびサブカテゴリ 0 Pre-primary education (就学前教育) 初等教育を受ける前、3歳から開始される。幼児に対して学校環境を紹介し、また認知的、身体的、社会的、感情的スキルを開発する。 1 Primary education or first stage of basic education (初等教育または基礎教育ステージ1) 通常5-7歳から開始される。音声による読み書き、数学、および他教科の基本的な理解をする。 2 Lower secondary education or second stage of basic education (前期中等教育もしくは基礎教育ステージ2) 基礎教育ステージを修了するための教育であり、たいていは客観的パターン志向となる。初等教育(ISCED レベル1)の学習結果を基に構築され、それは生涯にわたっての学習・人間開発の基礎となることを目的とする。 3 Upper secondary education (後期中等教育) 15-16歳もしくは中等教育を修了した者を対象とする、より専門的な教育であり、第3期の教育の準備や、雇用に関連するスキル、もしくはその両方に関連する。 • 3A:大学(レベル5A)への進学準備過程 • 3B:職業志向教育(レベル5B)への進学準備過程 • 3C:就職準備、またはレベル4への進学準備 4 Post-secondary non-tertiary education (中等以降高等以前教育) 国際的視点に基づいて、中等教育と高等教育の境界をまたぐプログラム。ISCEDレベル4のプログラムについては、内容を考慮し、第3期の教育プログラムとみなすことはできない。 • 4A:第3期の教育への進学準備 • 4B:就職準備 5 First stage of tertiary education (第3期の教育ステージ1) ISCED レベル3,4よりも高度である第3期の教育。学術的、もしくは実務的・職業的固有のプログラムである。このプログラムに就くためには、通常はISCED レベル3Aまたは3B、もしくは4Aと同等のプログラムを修了していることが求められる。 • 5A:研究および職業技能資格(たとえば医学、歯学、建築学)プログラム。最低3年以上。 • 5B:労働市場に直接結びつく技術的・職業的スキルのプログラムで、5Aよりも短期間。最低2年以上。 6 Second stage of tertiary education (第3期の教育ステージ2) 高度な研究者としての認証を得るための第3期の教育(たとえばPh.D.)。このプログラムはコースカリキュラムに基づくものではなく、高度な独自の研究がなされる。典型的には、独自の研究と知識への重要な貢献が含まれた出版品質の論文の提出が必要となる。 ISCED 2011版とISCED 1997版との比較 レベル 説明 特徴、およびサブカテゴリ ISCED 1997に対応したレベル 0 Early childhood Education (01 Early childhood educational development) (就学前教育) 学校や社会への参加のための早期準備。 3歳未満の子供のためのプログラムである。 なし 0 Early childhood Education (02 Pre-primary education) (就学前教育) 学校や社会への参加のための早期準備。3歳以上の子供のための初等教育の開始前のプログラムである。 レベル0:Pre-primary education (就学前教育) 1 Primary education or first stage of basic education (初等教育または基礎教育ステージ1) 読み書き、読書および数学などの基礎的なスキルを提供するプログラムである。 レベル1:Primary education or first stage of basic education (初等教育または基礎教育ステージ1) 2 Lower secondary education or second stage of basic education (前期中等教育もしくは基礎教育ステージ2) 初等教育や一般教科を基にしている中等教育の第一段階である。 レベル2:Lower secondary education or second stage of basic education (前期中等教育もしくは基礎教育ステージ2) 3 Upper secondary education (後期中等教育) 第3期の教育の準備または仕事に関連する技術、もしくはその両方に提供している。中等教育の第二段階である。 レベル3:Upper secondary education (後期中等教育) 4 Post-secondary non-tertiary education (中等以降高等以前教育) 中等教育を基にし、第3期の教育や雇用の準備、もしくは両方の準備をするプログラム。教育内容は広く高等教育ほど複雑ではない。 レベル4:Post-secondary non-tertiary education (中等以降高等以前教育) 5 Short-cycle tertiary education (短期高等教育) 労働市場に直接結びつく技術的・職業的スキルを学ぶ最初の短期の第3期の教育。上位の第3期の教育へ進む道もある。 レベル5B:First stage of tertiary education (第3期の教育ステージ1) 労働市場に直接結びつく技術的・職業的スキルのプログラム 6 Bachelor’s or equivalent level (学士) 中間的な専門の知識、技術と能力を提供する。最初の第3期の教育である。 レベル5A: First stage of tertiary education (第3期の教育ステージ1) 研究および職業技能資格プログラム 7 Master’s or equivalent level (修士) 中間的な専門の知識、技術と能力を提供する。2番目の第3期の教育である。 レベル5A:First stage of tertiary education (第3期の教育ステージ1) 研究および職業技能資格プログラム 8 Doctoral or equivalent level (博士) 先端研究に結びつくことを目指したプログラムである。独自の研究と知識への重要な貢献が含まれた出版品質の論文の提出が必要となる。 レベル6:Second stage of tertiary education (第3期の教育ステージ2) 大学入学者の大半は初等教育から大学入学までを一貫して行ってきた人々になります。 戦後の6・3・3制なら高等学校卒業相当の学力を持つものが大学への入学資格を持ちます。言葉は難しいもので日本では小学校、中学校、高校、大学と進みます。 中学校は前期中等教育機関とのことです。国際標準教育分類ではレベル3はUpper secondary education(後期中等教育)に相当します。高校はレベル4のPost-secondary non-tertiary education(中等以降高等以前教育)と分類されています。 ここで微妙な位置にあるのが高校で中等以降高等以前教育となっています。中等教育も含むし高等教育も含むと表現されています。 レベル5の改定が顕著でISCE1997番がレベル5で終わっている一方、2011年版はそれが細分化され5から8の4つに分類されています。 問題はレベル4の「中等以降高等以前教育」という中途半端な表現です。ISCEは非常に細分化された分類なので何らかの境界があって分割可能と判断すれば分割するでしょう。ですからこれは分割できなかったと考えられます。 この分類では初等教育が具体的に表現されるほかは中等教育以降の教育内容が曖昧です。初等教育より後の社会との関係の意味で職業との関係を重視していることが推測されます。 戦前のこの境界領域の教育では旧制中学校、旧制高校と大学予科があります。 予科とは大学を予科と本科に分ける考え方です。 予科も本科も大学に属します。予科は教養課程で本科は専門課程です。 旧制高等学校は予科と同じ教育をしますが大学ではなく別の学校です。 専門に進む基礎として教養のみを教えるのでアメリカのリベラルアーツカレッジと同じ考え方です。戦前の教育制度も時期によって違いますし、色々な形態の学校があり多様性がありましたが、初等教育、中等教育、高等教育を制度で明確に分けていました。 すなわち旧制の小学校では初等教育を学び、旧制中学校では中等教育を学び、大学予科や旧制高等学校では高等教育のうち専門に進むための準備であり専門に関わらず共通の内容を学ぶ(予科は理科と文科に分かれましたが)段階であり教養課程ですが、この場合の教養は欧米の中世の伝統を継承した大学のリベラルアーツを志向しています。  日本は貧しく開国後まもなくであり欧米の近代文明の導入にハンディキャップがあるため外国の大学の様に私立ではなく公立・国立が中心にならざるを得ません。  一方で欧米の教育を模倣しているため共通点もあります。基本的に寮制度があります。私生活でも学校生活でも教養文化に触れる機会がありました。  この教養文化を教養主義と呼びますが戦前でさえ教養とリベラルアーツの意味は解離していたようです。  戦後の連合国軍による学校教育法により大学予科がなくなり、旧制高等学校の教える内容も変わりました。旧制の高等学校は予科と同じく申請の大学の教養課程を教えていたため新制の高校ではその地域の国立大学の教養学部の前身として大学に吸収されるか、教える内容を中等教育よりに下げて新制の高等学校として高等学校として留まりました。 留まったと書きましたが改造された、あるいは取り換えられたと考えることも出来ますし、継続せず断絶し全く違うものを指すようになったとも言えます。敗戦と敗戦後の改革は革命であり社会体制も憲法もラディカルに変わりました。 教育制度も大学も高等学校も戦前と、あるいはモデルにしたアメリカの学制とも環境も背景も異なります。 大学というものも洋の東西を問わず近代になると変わります。近代は国家の力が強くなり、国家が教育制度に協力に関わります。ですから現在の教育制度を国別にみていくことも意味があります。 例えばフランスのパリ大学は12世紀にできた中世大学ですがグランゼコールというエコールノルマルやエコールポリテクニークは官僚の養成機関です。 リセという後期中等教育を受けた後、バカロレアという試験を受けて高等教育機関にいくわけですが、グランゼコールという専門高等学校に行くのがエリートです。 広く歴史をみると日本の大学という概念は曖昧で例えばグランゼコールを大学というべきかという視点も生じます。 「大学」や「教育」というものを広く勉強してみるのは有意義な事です。 第5章 中等教育と高等教育について  第4章までの予備知識を踏まえた上で日本の中等教育の後半とと高等教育の前半について考えてみたいと思います。  ISCEでは日本の高等学校はレベル4に相当し「中等教育以降高等教育以前」とされています。これが中等教育と高等教育に明確な境界がないためであると書きました。他に考えらる可能性はこの段階の教育を明確に区別してもISCEの目的上意味がないというものですが歴史や世界の教育の多様性を考えると否定されるでしょう。  教養と比較するためやはりリベラルアーツについて考えます。リベラルアーツは中世においては自由7科と同義であり、7つの学問で構成される明確な概念です。  自由7科がリベラルアーツであり、リベラルアーツは自由7科です。これは必要十分情景で同値です。  近代や現代になるとリベラルアーツの意味が変わってきます。7つの学問をリベラルアーツと呼んできましたが、リベラルアーツの理念である「学問の基礎」がこの7科でよいとは言えなくなりました。これは学問も社会も変化したので仕方がありません。  仕方がありませんが時期が悪かったとも言えます。そもそも明治からの日本の留学生は促成栽培で専門家になるために国費留学生として派遣された各学問の千龍たちは大学の基礎教育から学んでません。一方で大学の初めから留学した人々は日本の大学教育に貢献しています。また外国のキリスト教宗派により作られたミッション系の大学がありそういうところでも極力リベラルアーツ教育を使用としたかもしれません。  ただ近代になって自由7科が必修であるのはさすがに時代遅れです。日本が西洋文明を熱心に取り入れ始めたころに中世7学を勉強する優先順位は低かったでしょう。いつ西洋列強どころか近隣の清国に対してさえ弱小の日本はいつ滅ぼされても植民地にされてもおかしくない状況でしたし、国内の統一も怪しく不平士族、自由民権運動、社会主義者など反政府主義者がうじゃうじゃいた時代で内乱や国家反逆運動で国内の統一が乱れてもおかしくない状況です。  外国に留学した第一期生は日本の江戸期の教育を受けたエリートでラテン語やギリシア語は出来ないにせよ四書五経など中国の文献にはたけています。中国は世界史の中では近代のある時期までは世界の中でずば抜けた文明国です。漢文の文法も修辞学も特に西洋古典語に劣っているとは思えず寧ろ優れていると思われます。  論理学にしても古代、中世までの論理学は近代、現代の論理学の目からみれば幼稚な論理です。稚拙ななんちゃって論理でしたら別に論理学を学んでいなくても論理的に見える人間を装う、あるいは自分で自分が論理的と誤解するのは簡単で現在でも世の論理的に見える人は論理能力のレベルが高くありません。高いと自分や他人が思い込んでいる場合には謙虚さもなくなりかねないので余計たちが悪いです。  算術、幾何学、天文学、音楽ですが武士は金計算を貴ばない場合があるので計算が出来ない武士がいる一方で読み書きそろばんは庶民の教育の基本です。そろばんはある程度の習熟でも高度な四則演算が可能です。武士でも経理の様な仕事をする人はやはりそろばんを取得せざるを得ません。端的な事実として幕末は経済が分かる藩が買って、経済に疎い人々が負け組になりました。  幾何学、天文学ですが、日本の和算は世界の数学史から見ても画期的です。関孝和は微分、積分、行列式などについて先達者争いをする資格のある人物で世界の歴史上の天才のトップテンに入る可能性があります。音楽は別に国力増強のために急いで学ぶ必要はないでしょう。  その様な経緯で初期の西洋文明や学問の導入は専門重視で、基礎は後回しであったと思われます。リベラルアーツの習得を重視するのは適齢期に西洋に留学したり西洋の教育学を広めようとした一部の人々に限られると思います。  津田梅子や新島襄はアメリカのリベラルアーツカレッジに留学しています。  津田塾大学や同志社大学が特別な意味を持っているのはそこに関係があるでしょう。  まとめると日本がリベラルアーツ概念を取り入れるのに失敗した理由の一つは近代においてリベラルアーツ教育で教えるべきことを何にするかに混乱が生じたためです。  近代においてどの分野の学問も大きく刷新し続ける中でリベラルアーツを何にするかは中世以来の大学でも混乱をきたしたかもしれません。 第6章 教養課程の問題点  リベラルアーツ教育と教養課程の両者の理解とその違いを理解するため教養課程の問題点を当てていきましょう。 ・リベラルアーツ教育導入時点でのリベラルアーツ教育の混乱  中世においてはリベラルアーツは自由7科を指し、高等教育において必ず身につけるべきものでした。高等教育を完了した人はリベラルアーツを身につけていると言えました。リベラルアーツは学問の基礎であるとともに高等教育を受けた人の常識でした。大学を出た人は専門は何であれリベラルアーツは同一に理解してるため、それを土台にコミュニケーションが取れます。しかし近代も進むと古典語の履修なり音楽の履修なりが学問の世界においてさえ必要性が認められなくなりました。リベラルアーツ教育は西洋においても混乱があったはずですが、その時期に日本はヨーロッパの教育制度を導入しました。日本人がリベラルアーツの意味について理解できなかったと思われます。これが教養課程の軽視につながったと思います。 ・教育を促成栽培せざるを得なかった  明治維新後の日本は悲惨極まりなかったと言えます。植民地にされないために元々低い国力を軍事に充てなければいけなかったので国民は江戸時代以上の税負担を強いられました。経済的な負担だけでなく教育をはじめあらゆる負担を強いられました。明治期初期の留学生たちは江戸の教育を基礎として直接専門を身につけに欧米大学に行きました。これは目的から見れば大成功したと言えます。欧米流の初等教育や中等教育を受けたわけでもなくリベラルアーツ教育を受けたこともない留学生たちが留学先で優秀であり専門の学問を習得するのに成功しました。明治中期以降の学生たちは欧米の教育制度導入の教育の混乱状態の中におかれていましたので欧米流のリベラルアーツの概念を理解していたとは思えません。また歴史は継続、悪く言えば惰性の面がありますので明治初期の留学生のやり方をなし崩しに模倣していたと思われます。教育制度が欧米式に整えられましたが、リベラルアーツの意味の理解には失敗したと思われます。 ・教養課程の曖昧さ  中世ではリベラルアーツ=自由7科という同等の関係が成り立っていました。  専門教育を受けるにはリベラルアーツを学ばなければいけないし、リベラルアーツを身につければ専門教育を受けられるのです。これは非常に分かり易いです。  近代以降この学問をしておけばリベラルアーツを身につけているという条件がはっきりしなくなりました。例えば中等教育後期高等教育前期の移行期に相当する日本の申請高等学校では理科や社会が選択制なことが普通です。数学も選択制です。  理科は物理、化学、生物、地学のうちどれか2科目を勉強していれば大学への入学資格が得られます。社会科は日本史、世界史、地理、倫理、政経のどれか2教科を勉強していればやはり大学受験が出来ます。数学も数学Ⅲや数学Cは文系の学制では学びません。受験科目にないからです。  かといって高等学校で学ばなかった教科が大学の教養課程で必修になっているわけでもありません。結果として数学Ⅲや数学Cを学ばなくても専門に行けます。また社会科や理科のどれも大学生なら身にするべき学問とはみなされていません。  4教科中どれか2教科が必要というだけです。つまり選ばれなかった強化は専門のための必要条件でもありませんし十分条件でもありません。  結果として教養課程は大学生が専門に進むための必要十分条件ではなくなっています。  教養課程では選択と必修と選択必修があります。つまり学ぶべきことを学生に選ばせている、悪く言えば投げています。  この結果教養課程が大学生なら必ず身につけているべき共通の学問の基礎という意味がなくなってしまってます。  これが現状だけならいいのですが、日本においてはそもそも明治時代からそうである形跡があります。これは欧米のリベラルアーツ概念の導入の失敗とも言えますし、リベラルアーツ概念は必要ないと判断したからかもしれません。 ・精神主義としての教養  江戸時代までの儒教などの影響を受けた学問感は学問とは人間の精神性を高めるものであるという事です。中国思想は分けるというより一緒にする傾向があります。  これは西洋の学問とは真逆な考え方です。  西洋では徹底的に学問を分けます。  ある科学に倫理・道徳的側面があるなら、その倫理的・道徳的側面をその科学から分離して独立一科とします。  そもそも西洋ではキリスト教があり学問や科学の領域に口出ししてくる傾向があるのでしっかり分けて宗教分離をするのが大切です。  そうしないと地動説でも進化論でも研究を妨害されます。  中国の学問感はまさに学問の目的は人間性を高めるもの、というもので、これは教養と同じ意味です。  大学制度を導入してリベラルアーツ教育を教養教育と訳して高等教育に組み入れた際にこの江戸時代の古い考え方が混入して混交してしまいました。  この混交、集合現象はそのまま現在まで引き継がれています。  ですからそもそも一般人にとって教養課程が人間性を磨くものでなかった時期がそもそも日本にはなかったのかもしれません。 ・思春期、人格形成期の問題  学問、科学を勉強することは人間修養とは少なくとも西洋では別のもののはずですが、日本においては混ぜ込まれている事の理由に教養課程の学習が若者を対象としているから、というのがあります。  そもそも10代や20代は思春期や社会への参加の意味で人格形成期ですので教育にはそのためのケアがあるべきなのです。しかし日本ではそのケアが漠然としています。  西洋では宗教なり啓蒙思想なりが人間の倫理教育を行うためのものとして明確に存在しています。これは学問から倫理的な部分を切り離す自覚的な方法でもあり、クラブ活動や寮生活、スポーツなどで社会性や人間性を養います。  日本でも寮生活やクラブやスポーツをその目的で学生のために使いますが日本では宗教系列の大学を除いて大学に教会やお寺や神社がついていることはありません。  寧ろ大学にそういった施設をつけることに否定的です。  欧米の大学は歴史的にキリスト教と結びついているので学校の伝統としてそれを否定するか肯定するかに関わらず、修身、修養、人格陶冶として大学、教会との結びつきがあります。  日本で学生の実存的な問題、人生的な問題に対応するのは保健管理センターのカウンセラーかもしれません。つまり若者の精神的ケアやサポートが元々脆弱です。  その結果か知りませんが、日本の学生は洗脳されやすいです。オーム真理教や統一教会などの新興宗教やマルチビジネスにはまってしまう人もいます。社会主義や共産主義、社会改革運動や革命運動、左翼活動の巣窟ですので公安が入っていたりします。  国公立大学だと政教分離の考え方を教育制度、教育施設に持ち込んだ結果だと思いますが、その結果として生じたと思われる面白い現象の一つが「学問で精神を高める」学問による精神主義です。  繰り返しますが、「リベラルアーツ」という言葉には精神主義がありません。ただの技術と方法です。  日本の「教養」という言葉は学問を精神修行に使う考え方です。「リベラルアーツ」は単に知的なものであり、倫理とは全く関係のない概念なので「リベラルアーツ」と「教養」は違う意味です。  「リベラルアーツ教育」と「教養課程」も別のもので同じように見える事もあるかもしれませんが全く別物です。 第7章 リベラルアーツ教育の必要性  日本には教養課程がありますので、それを望むのであれば教養で精神を高める修行をすると良いでしょう。  一方で日本には「リベラルアーツ」の考え方と「リベラルアーツ教育」がありません。  日本以外の世界のエリートは大学でリベラルアーツ教育を受けています。リベラルアーツ教育は全ての大学生が共通して身につけなければいけない、学問の土台です。それを身につけていればその技術を使って相互にコミュニケーションすることが出来ます。コミュニケーションのツールと規格が一緒なのでそれを共有しているもの同士、それを使えばいいのです。  日本の大学にはリベラルアーツの考え方もリベラルアーツ教育もありません。したがって外国の大学でのエリートとコミュニケーションを取れない可能性が生じます。  これは日本人と日本にとってミゼラブルで不幸なことです。  リベラルアーツが誤解されてしまう原因の一つに「リベラル」「自由」という言葉があるかもしれません。自由は近代の啓蒙主義において倫理的な価値を持ちます。自由、平等、博愛がフランス革命の理念です。  ただリベラルアーツの「リベラル」はこの様な意味を持ちません。単に歴史的にたまたま残ってしまった残滓です。リベラルアーツの「リベラル」はギリシアの都市国家ポリスの自由民、自由市民に由来します。ポリスは自由民と奴隷に分かれていたので奴隷ではないという事も示しています。なぜ民を自由民と奴隷に分けたかというと、生活のための労働は過当な職業的、家事的なものも含めて下等であり人間の制約と考えたからです。肉体的な労働を下賤と考え知的労働を高級としました。人間は精神をより価値の高い知的活動に充てるべきという考え方です。下賤な労働から離れて知的活動に自由に専念できるから自由民です。  近代の自由は貴族の階級的支配からの自由でした。リベラルアーツの「自由」は自由市民を同じ支配階級の貴族と同質にみなせば貴族の自由です。前提として被支配者から提供される生活のサポートの土台の上に立つものです。  ですから「リベラルアーツ」というのはある意味で差別的な言葉です。また「リベラル」は近代の自由の様に高尚な意味ではなく、単に「働かなくていい」「家事もしなくていい」という労働から離れて勝手気ままに思考や研究、学問をしていいよという者です。  伝統の継承という意味ではアカデメイアを作ったプラトンの影響で、学問は強制ではなく自由意思で行うもの、制約されず強制されず自由に思想、学習、研究、勉強をすべきだという伝統にのっとっています。しかしそのためには基礎となる技術や方法を身につけておかなければいけないという意味になります。 つまりリベラルアーツの自由とは学問の自由であるとともに自由に学問するためには最低限の基礎が必要というものです。  学問をする階級、学問が出来る階級、学問をしないといけない階級はエリートです。  エリートの項目をウィキペディア日本版から拾ってみましょう(2020年8月13日現在)。   「エリート(フランス語: élite)は、社会の中で優秀とされ指導的な役割を持つ人間や集団。別称「選良(せんりょう)」。」 「語源はラテン語の ligere(選択する)で、「選ばれた者」を意味する[1]。一般的には、ある社会において優越的な地位を占める少数者を指す。優越性の根拠には社会資源の独占、意志決定機能の独占、職業・知識・経験など少数者の属性に関わるものなど、エリート論によって違いがある[2]。民族・宗教などの場合は選民思想、階級として貴族制、知識経験の場合は知識人や資格主義に関連する場合がある。政治学的には、統治者(層)に必要な資質を持っている、あるいは持っているとみなされている場合が多い。ハロルド・ラスウェルはエリートと特定される人物について、ある勢力の主体として社会的尊敬・収入・安全の3つの価値を最大限に獲得できる者をエリートと定義している[2]。 エリートが重視される思想や傾向はエリート主義と呼ばれ、一元主義の一種である。対する概念には、非エリートである大衆の立場を重視するポピュリズム、平等主義、複数の観点や基準を並存させる多元主義などがある。 エリートが単独で支配者となる体制は寡頭制の一種であるが、これそのものは必ずしも権威主義ではない。エリートが全体の代表者に選出されたり、全体の代表者の配下でエリートがテクノクラートとして登用され重視される形態は、民主制でも独裁制でもありうる。エリートは専門家集団であるため官僚主義となり実権を握る場合も多いが、その場合は最終権力者からエリートへの統治(ガバナンス)の有効性が議論となる。 一般にエリートは、他者より高い経験と責任を発揮して国家の統治や一般大衆への指導を行うことが期待されており、社会的な分業体制の一端として捉えることもできる。森嶋通夫は、日本に限らず現代世界のエリートの分布状態を、民主制の基盤たる素人主義に対する玄人主義ないし専門家主義という言葉で位置づけている[3]。ただしエリートが期待された役割を果たしていない、と他者からみなされた場合には、エリート層の交代論や、各種の反エリート主義が発生しやすい。 転じて、単に一定範囲の職業、役職などや、いわゆるキャリアなどが「エリート(集団)」などとも呼ばれている。」  リベラルアーツと同じくエリートも差別的な概念です。そもそも大学には全員いけないのでこれも差別的な概念です。  高等教育を受けられる人も限られていますし、「高等」という差別的な概念です。  因みに差別的というのはここでは悪い意味では使っていません。  物事を何かの基準で良い、悪いで区別すると世の中は差別の体系になります。  物事を何を基準に区別するかもどちらを良いとするか、悪いとするかも現代的な視点においては恣意的なものでしかないのでここれは差別を悪い意味で受け取らないようにしてください。  差別という言葉を原理主義的に使う人がいますので一応注意しておきます。  政治をはじめどの分野でも指導者層は必要ですのでエリートは社会に必要です。  現代では指導者層にはなろうと思えば努力は必要な場合もありますがなることは出来ますので、指導者層やエリートに排除的な意味はありません。  逆に指導者層やエリート層に入れるのに入らないのもメリットがある選択肢の一つです。 世俗の事は何でもトレードオフ、機会費用が生じます。別の言い方をすると何にでも良い面も悪い面もありますし、良い事も別の見方から見ると悪いことである場合もあれば、悪いことが別の見方から見ればよいことである場合もあります。  メリットにはそれに伴うデメリットも同時に発生するという考え方が出来る事が望ましいです。 第8章 リベラルアーツの中身  リベラルアーツという言葉は欧米の教育制度の中では一貫して使い続けられています。  一方日本の教育制度でも教養課程というのがあります。  教養課程は一時期「教養課程不要論」というのもあって教養の年限が短縮されたり、教養課程中に専門課程も同時に進める様な流れがありました。今現在はどうなっているかは知りません。  高等学校で高等教育をすでに行っているので大学の教養課程をごまかしても何とかなってしまう場合があります。私は2回大学を卒業しており1回目は1995年から1999年まで北大の理学部物理学科入学で生物化学科で卒業、2回目は2001年から2008年まで京都府立医科大学の医学部に通学していました。2回大学生をやったことで色々発見がありました。  発見の1つ目は教員も学生も真面目に授業しないことです。教員は手を抜きまくっていますし、学生の教養教科の勉強不足も顕著です。それでも専門課程に進めてしまいました。  発見の2つ目は高校できちんと勉強を理解していないと大学の勉強は理解できない事。私は高校時代劣等生だったので1回目の大学時代は学業の理解が十分なされなかったと思います。生物学科を卒業していますがそもそも高校で物理と化学の選択でしたので生物学の基礎がないまま専門に進んでしまったためです。専門もそうですが真面目な学生だったので教養課程も深く広く勉強しようとしましたが十分に理解できませんでした。  私の場合1回目の大学卒業後2年間浪人をして医学部に入学しており、1回目の大学時代も1年浪人した末の入学でした。高校時代勉強していませんでしたが浪人3年と大学4年間で7年間2回目の大学の勉強の準備をしていたことになります。2回目の大学時代は教養も専門も手ごたえを持って理解できました。2回目の大学の私の同級生はストレートで入学していれば1982年4月~1983年3月に生まれた世代で主に京都の進学校、その他も関西の進学校の学生で構成されたローカルな大学でした。全国でも名立たる進学校の学生が多数を閉めましたが、観察していると高校で物理学を専攻した学生は教養の物理学も医学部の基礎科目の生理学の神経科学の活動電位や循環器科学などの物理学が必要な勉強は理解できていませんでした。一方物理学を専攻して生物学を専攻していない学生はやはり教養課程の生物学も専門の基礎も臨床も理解できない穴があったようです。それを見て私は高校の勉強を理解できていない学生は大学のアドバンスの同じ教科の授業は理解できないと考えて周囲を観察していました。学問は積み重ねですので分野領域に問わず初級を理解していなければ中級も不完全な理解しかできず、中級までの段階を理解していなければ上級も理解できないと考えました。  3つ目の発見は2回目の大学で学生の学力低下を感じました。私は謙遜ではなく頭がよくありません。あるいは得意不得意にかなりばらつきがあります。一つの理由は郊外や田舎の小中高校に行っていたこと、2つ目の理由は高校時代学校の勉強をせず読書と哲学と思索に没入していたこと、3つ目の理由はAt risk mental status(ARMS)という状態になり認知機能が低下してしまったためです。学校での学業は下から十数番目や数十番目でしたが模試で国語が校内1位であったり、活字中毒の様になって文字という文字を読まないと気がすまない強迫的な状態になっていたり仏教や哲学や思想の勉強と思索、まとめると倫理学オタクになったため予備校の小論文では絶賛されたりしていました。しかし注意力や作業記憶、概念形成能力が低下し、両義的思考が顕著になり頭はいつも混乱状態で知的活動のパフォーマンスが低下してしまいました。この認知機能低下は長引きかつ完全には回復しないと見えて今も尾を引いているのですが、そんな私ですら医大に受かってしまいました。これは少子化が関係していると思います。  4つ目の発見は学生も教員も教養主義的な傾向がない人が増えていました。むしろ流行らない遅れた考えと見られていたようです。勉強に対する考え方がプラグマティスティックになっていて必要な事をいかに効率よく無駄なく早く行うかという考え方が徹底していました。  5つ目の発見は生徒の出自です。2/3以上が親が医者でした。京都周辺の進学校でかつ数項の生徒が大部分を占めており、かつ小中高の塾などでも知り合いであった子達が多数いました。たまに進学校でない学校出身者や学校から離れた県の出身者や身内が医療系でない子や編入性、多浪生、他大学を卒業か中退、あるいは社会人経験のある人がいましたがごく稀でしかもあまり適応がよくなかったようです。  6つ目は貧乏な家の子がいませんでした。本当にごくまれにいましたが適応に更に苦労していたようです。  7つ目は受験勉強以外のことについての発達がよくなかったようです。受験勉強の内容以外の知識が薄かったです。精神的にも幼稚で私の事を父か兄に重ねたのか何かのコンプレックスがあるのかパーソナリティ障害があるのか知りませんが嫌がらせばかりしてくるので耳元で「喧嘩売ってるんなら表出ろや」という意味のことを言ったらそれ以降卑屈で従順になりました。正々堂々とするとか決闘をするとかプライドとかそういうことを言う人がいるかもしれないとか物事にはリスクがあるとかの概念がなかったようです。そういう人が何人かいたのであまりその人だけが特殊なわけでもなかったと思います。当時は気が付きませんでしたが私は当時大阪の浪速区恵美須町に住んでおり西成区の釜ヶ崎、あいりん地区というところの隣接地域です。大学と研修医、後期研修医の間差別されていたようです。ちなみにうちは両親ともに家柄は問題ないので住んでいる場所から何か差別的なものを想像したのでしょう。ちなみに医学部の教育ではポリクリというものがあってそこで班行動をします。みんなで家柄の話になって遠慮がちに奥村という名前はすごい庶民の感じだと京都的な事を言われたので侍で水戸黄門に仕えていた儒学者と言ったら班員に驚かれたので私について何かうわさがあったのかもしれません。大学でも大阪出身者の私への態度は独特だったように思います。また初期研修病院が堺市の大阪市立大医学部出身の医師が多い病院で大阪市立大学付属病院も西成の釜ヶ崎、愛隣地区に隣接しています。大阪市立大学出身の身体科の医師が私への態度が独特だったのお年齢が高かった以外に住んでいる場所への意識が過剰だったことがあるのでしょう。ちなみに自分に自信があり過ぎたせいか差別感情に極端に鈍感でした。選民意識があって差別されても変なコンプレックスを形成しないユダヤ人がこのメンタリティと一緒なのかもしれません。  8つ目が特に教養課程の強要しなくても国家試験には受かること、基礎研究者としても臨床医としてもやっていける事です。有名進学校でその学校でも優秀な生徒なら医学部6年間の教育なしでも国家試験は受かると思います。研修医になると未熟さと経験不足からほったらかしなら問題を起こすかもしれませんが、マンツーマンの丁寧な指導があれば優秀な医者になれてしまうと思います。実際に大学時代に始めから研究者になるために授業などさぼりながら研究室に入りびたって国試直前の2か月くらいで合格してしまうような経験をしている医学研究者の話などはよく聞く話です。 臨床医をやっていれば普通に生活していれば経験する様な事しか知っている必要がありません。あとはそれをどうやって組み合わせるかです。組み合わせの多様さがあるのでこれに必要なのは記憶力と作業記憶です。ある程度思考を効率化するために論理的な思考などを身につけておけば更に簡単です。例えば学生時代には英語、数学、理科なしで入れる医学校がありました。国語と社会だけで受かってしまうのですから必要なのは読解力だけです。医師免許を取るには予備校通学や講師浪人が必要になるかもしれませんが臨床医にはなれます。しかもいいお医者さんになれる可能性もあります。逆にどんなに頭脳優秀でも愛想も説明も接遇も不良で患者さんからの評判が悪い医者は悪いこともあります。診断治療が優秀でもです。しかしそれの方が満足なさる患者さんは大勢おられます。ここら辺は旨くても接遇が悪い飲食店より不味くても接遇のいい飲食店にリピーターになる心理と似ているかもしれません。  9つ目は自己愛性パーソナリティ障害傾向の人が多かったです。  受験戦争に勝ち残るためのメンタリティを植え込まれたためと当時は思っていましたが人が自分より上か下かに敏感です。学力の面でだと思います。ゆう主な相手には卑屈になる他変にこじらせて反発する場合もあるようです。勉強のモチベーションや競争心や闘争心を身につける必要があったのでしょう。どうでもいい事のプライドが高く変な事に篇着してきます。2チャンネルで同級生にたたかれていた子などもいたようです。ちなみに私の同級生はストレートで入学していれば1982年度生まれでした。この世代は有名な凶悪犯罪をいくつも起こしたことで有名な世代でしたので何か世代のシンクロニシティの様なものがあったのかもしれません。再入学組の3人の学生は幼稚さにあきれ返って阪大に編入してしまいました。   第9章 リベラルアーツは必要か  というわけで医師のような中世以来プロフェッショナルとして認められている特殊な専門職ですら教養課程は必要ないわけですがリベラルアーツはどうでしょうか。  問題なのは経験的に理解できることは物量や速度で押せば何とかなってしまう事です。  非経験的な事を身につけるためには特殊な才能か訓練が必要です。特殊な才能は求めて得られるものではないかもしれないですからおいておいて訓練が必要な事はしっかり訓練しないといけません。  読み書きそろばんではありませんが四則演算や国語ができればあとは生きていくには何とかなるでしょう。必要な事はその都度身につけていけばいいのです。加減乗除と読解力は必須でこれは義務教育で何とかなるでしょう。  これに生活経験から得られる諸知識を身につければ生活できますが、覚えるだけでは不十分な分野があります。  数学でいえば解析学は訓練しないと見につきません。量子力学も訓練しないと見につきません。解析学は経験の積み重ねで定理や原理に到達できるかもしれませんが、積み重ねが必要です。量子力学はそもそも手段も方法も非経験的です。どちらも複素数が出てきますがこれも非経験的と見て良いでしょう。直感的に理解できるかもしれませんがガウス平面の他色々な理解のための工夫を要します。  リベラルアーツにはこの様に簡単な直感的理解が不可能な内容が含まれます。訓練が必要になります。これを忌避すると大変なことが生じる事があります。理系嫌い、理系の軽視とよく言われますが、理系回避は最近の傾向ではありません。明治、あるいは明治より前から一貫した日本の傾向と見て良いかもしれません。  大東亜戦争のアメリカとの戦争は日本軍の科学・技術軽視が招いたものです。科学・技術・産業・経済の不利を補う者として「精神主義」という概念が使われました。しかし明治以降戦後まもなくは江戸期の欧米諸国との交流制限のハンディキャップを背負いながら圧倒的に遅れた立場で文明が進んだ圧倒的な国力の差がある国々と対峙しないといけなかったのですからまだ良い訳も立ちます。  現在の愛国心や国益意識がある人でさえ教育や理系の大切さを分かっていないように見えます。分かっていて軽視なら自覚がある分良いのですが、分からないで軽視は深刻です。  結局教育が悪いのです。日本は初等教育は優れているが高等教育がダメな国と言われます。これは子供の学力調査や大学ランキングなどでも見られる現象です。  高等教育がダメな理由としては外国の高等教育を結局理解しなかったからです。形だけ取り入れたように見えても本質を理解しないと齟齬が生じます。  高等教育が何かを理解できない理由としてリベラルアーツを理解していないことが大きな理由になります。  先進国の大学で理解されて学習されていることを日本では教養課程という名の下、理解もされず学ばれている、というよりさぼって学ばれてもいません。  10代後半から20代前半の初期高等教育の中核であるリベラルアーツを知らないというのは国として致命的で大日本帝国は滅んでしまいました。個人としても致命的で日本の高等教育は外国人はおろか日本人からでさえも馬鹿にされています。  これは当たり前のことでリベラルアーツを知らないからです。更に知らないことも知らないというメタ認知もありませんから自覚もありません。なぜ日本の教育がダメなのか、これは高等教育と教育の目的、理念を理解しないとどうしようもありません。高等教育を理解しないとプレスクール以前の教育も含めて制度の設計や改善のしようがないからです。  教育とは何か、とは人生とは何か?にもつながります。国家とは何か?にもつながります。これには人によっていろいろな回答があるかもしれません。  しかし教育の歴史を考える上ではリベラルアーツの理解なしには議論が片手落ちになります。現代文明は西洋文明の延長線上にあります。日本の教育がだめでもいい、という意見もあるかもしれませんがグローバルに見れば日本は世界が切り開くイノベーションのお世話になっており、イノベーションをなしているのは西洋の教育システムです。成果だけ頂いて自分では何も作らない、というのはひどい話です。 第10章 現代のリベラルアーツ  リベラルアーツはその性質と定義上、学問の基礎になるものでなくてはいけません。  中世自由7科は語学と論理学と数学でした。論理学は語学と数学に共通するものと考えてもいいかもしれません。語学は言葉です。学問を語る、学問を記述する共通の言葉が学問の基礎になるという事は自明でしょう。現代ではラテン語に代わって英語です。分野によっては、例えば日本史ならば日本語だけでもいいかもしれませんし、中医学であれば中国語だけでもいいかもしれませんが基本は英語であることに異論はないと思われます。  中世のリベラルアーツを構成したもう一つの要素は数学です。数学については問題があります。そもそも語源のギリシア語が数を意味していません。μαθηματικάは「学ぶべきこと」という意味であり数を意味しません。ですから古代、中世、あるいは現代においてさえmathematicsで数を研究する学問とイメージしていたか分かりません。ギリシア語を勉強していたのであれば当然数だけのイメージではないでしょう。私も古代ギリシア語を勉強しましたが入門書の最初の方にすでに出てきた基本的な単語です。Mathematicsが何を表すにせよ古代は中世はともかく現代では必須科目でしょう。中世ですら必修だあったのなら現代ではなおさらそうです。数学は現在では自然科学、人文科学、社会科学の分類に含まず形式科学という一分野を形成する様です。観察や観測がないからです。現代数学は論理学はもちろん圏論など言語さえも対象範囲にしています。文系や理系を区別するのは問題はないのですが、文系だから数学を学ばなくていいという事は現在ではすべきでありません。そもそも近代科学以降実証がなければ科学は成立しません。実証するには統計学が必要です。2020年8月13日現在この原稿を執筆時点で世界でコロナウイルスが流行しています。この場合は数でいいのですが多くの人が数字の読み方、解釈の仕方が分からないために人類の福利厚生が毀損されています。複雑に入り組んだ現代社会では直接、健康や死に影響がなくても政治、経済その他を通じて衛生や公衆衛生に影響を与え健康を損なったり人を殺します。ですから正しい答えがあるのであれば正しい答えを導かなければいけないのですが知力が足らずそれが出来ません。知力はつけようと思えばつけれるのにつけないせいで不幸が生じるのは良い事ではありません。  リベラルアーツが高等教育の共通の基礎である点を鑑みて現代において何がそれにあたるか考えてみましょう。  共通の基礎とは各学問の本格的な教科書のはじめに概論や総論で語られる各学問の基礎でしょう。概論や総論はイントロダクションで序論や第一章で説明されているかもしれません。入門書や初級編でも書かれているかもしれませんがなるべく読者が分かり易い様に書くためにあえて基礎の基礎には触れられていない可能性もあります。  現代では学問の基礎というものが本当の意味で明らかになっています。  そもそも学問とは確かさや正しさを追求するものです。現代では正しさや確かさの基礎付けが済んでいますのでそれをリベラルアートにすればよいのです。  科学はその科学の対象とするものの確かさや正しさを追求しますが、確かさや正しさとは何かの研究は哲学で行われます。現代哲学が西洋哲学の完成形ですのでそれをリベラルアーツで教えます。それは簡単に言うと正しさや確かさというものは正しいこと確かなことがあるのではなく、人間が正しいと決めたこと、確かであると決めたことが確かであるというものです。  この正しいもの、確かなものを作り出すために必要になるのが数学の数学基礎論です。これで論理学、公理主義、形式主義を学びます。  これらが形式科学である数学の基礎になり、数学はあらゆる理論や体系(システム)の基礎になります。一方技術の基礎もやはり数学です。技術や工学とは科学の応用による実用化です。現代社会は存在論や認識論の基礎を現代哲学に追っていますのであらゆる物事の根本を追求したければ現代哲学を勉強することになります。現代哲学は現代数学の数学基礎論の考え方の一般化で、現代数学の基礎論は現代哲学の特殊化ですからどっちも同じものになります。  追う考えると現代におけるリベラルアーツは中世の自由7科とあまり変わりなくて語学としてラテン語やギリシア語の代わりに英語、数学として現代数学の基礎論、あるいはその一般化としての現代哲学を学ぶことになります。  違いは現代哲学が入っているところですが、学問の進歩により現代数学の基礎と収束して一般・特殊の違いを別にすれば同じものです。哲学は中世には専門職につながる神学、法学、医学と共にその他の学問の総称として専門教科にいれられたり神学の端ためと言われたり色々な扱い方をされたようですが、論理、合理、理性など理について語る場合には広い意味で正しさと確かさを追求する純粋哲学や純粋数学によることになります。  応用哲学や基礎数学に対して数論、幾何学、算術、解析学などを応用数学とすればそれは専門で勉強すれば良いことになります。中世との違いは学問の発展のお蔭で基礎がめいかくに定まっているところです。  日本では日本では哲学と言うと残念ながら哲学史や広い意味の現代思想を扱うくらいで純粋哲学である素朴実在論や構造主義的哲学、ポスト構造主義については教えないことが多いようです。  しかし哲学史や現代思想というと応用哲学であって基礎哲学、純粋哲学である現代哲学を勉強しないと意味がありません。根幹をリベラルアーツで学び枝葉は専門で学ぶべきです。哲学史や応用哲学は哲学が完成した現在にあっては歴史的には古くても根幹たり得ません。 第11章 その他のリベラルアーツ候補  前章で英語、現代哲学、現代数学の基礎論は現代のリベラルアーツに含まれることを説明しました。  中世の自由7科と比較すると文法、修辞法、論理学は英語に対応し、重複しますが論理学、算術、幾何学、天文学は現代哲学と現代数学基礎論に相当します。音楽はリベラルアーツから外しています。論理学は英語と重複すると書きましたがやはりきちんと現代数学の数理論理学や記号論理学を学ばなければいけません。もっと時代が進んで現代数学が進歩すれば記号の科学、記号論や記号学というのが出てきて自然言語を凌駕するかもしれません。その場合、英語が現代数学を基礎とした記号法である言語に置き換わり自然言語が人工言語、人造言語に置き換えられるかもしれません。  人工や人造と書きましたが無視できないのがITの進歩です。そもそも計算機科学、情報科学などは現代数学から派生した学問です。IT情報工学はその応用ですが、人工知能や量子コンピュータなどの進展により将来シンギュラリティと呼ばれる計算器、演算装置が人間の知能を超えるかもしれません。  昔は四色旗問題という地図が4色で塗り分けられる問題の証明にコンピュータを用いたことが議論になりましたが今やそんな議論をすること自体が時代遅れになってしまいました。  ITはテクノロジーですがリベラルアーツは学問である必要はないですし、アートでもテクノロジーでも工学でも高等教育に役に立つのなら何でも取り入れるべきですからITを使いこなす事は現代のリベラルアーツの構成要素の候補の1つになります。  これは初等教育や中等教育で行えばいい可能性もありますし、自分でできなくても企業でも個人でも誰か専門家を雇ってやってもらってもいいのでリベラルアートにすべきではないという意見があるかもしれません。  これは一つはいいアイデアでもっと発展するとリベラルアーツは不要であるという議論もあり得ます。  そもそも単純労働せずもっと高尚な事を自由に考えるのがリベラルアーツの目的です。現代は社会や産業の発展により代行業が盛んです。何でも自分でやるのではなくアウトソーシングするのも1つの考え方で、リベラルアーツという者自体をアウトソーシングして自分はもっと自由にやりたいことに励むという考え方もあるでしょう。  そういう生き方もありですが本書は知的エリートに仲間に入れてもらうための方法としてリベラルアーツを身につけるための本です。ですのでこの議論は本書の趣旨に外れますので解説しませんがもちろんそういう選択をすることも多いと思います。  我々は別にエリートに仲間に入れてもらう必要はその意味がある場合以外にはありません。特にプライドや何かの感情的こだわりもなくエリートの仲間入りすることにメリットもなく知的好奇心もない場合にはリベラルアーツを身につける事はありません。時間の無駄なので他の自分なり他人なりの幸福を増進させることに自分のリソースを注げばいいだけです。  ところで流石に古代ギリシアではないのですから単純労働と知的労働を分けて家事や仕事などを知的労働の下位に置くといった価値観は偏った考え方で時代遅れでしょう。  現在は科学技術社会の進歩の加速度的な速さを考えておかなければいけません。  良くも悪くも昔より人間は自分でやらないといけないことが変わってきていますし誰かや何かに任せられることも変わってきています。  スマートフォンが出たときにガラケーでいいやとスマホに手を出さずデジタルデバイスが生じてしまった高齢者が私の身近にも沢山いました。  エジプトのファラオ、アメリカのロックフェラーに比べて現代の富豪に出来る事は限られているでしょう。時代が下るにつれてテクノロジーの進化でコンピュータや機械がやってくれることは増えましたが手近な事で人にやってもらうことは減っているでしょう。  ある程度世の中が変わったらある程度自分で理解して自分でもできる様にしておかないと楽しみが減ったり不自由が増える可能性がどんな大富豪でもあると思います。  情報量の増加は加速度は加速度でもおそらく指数関数的か階乗関数的です。  情報に関する技術はメディアについての知識でもあります。  我々はニュースで世界の情報を知らなくてはいけません。政治、経済、社会、軍事、健康、地域その他です。我々は民主制の社会に住んでいるため主権者であり、選挙権、被選挙権を持っています。子供がいれば安全に子育てしなければいけませんしこの社会の繁栄や子供たち、子孫、未来の人類のために、また自分のため世界人類のためにより良い社会を作っていかなければいけません。判断を間違うと独裁政権や危険なイデオロギーを持っている人々に社会を乗っ取られてしまうかもしれません。  古代ギリシアの様に生活のための肉体労働とか高尚な哲学や学問や芸術を考える精神的な活動とか区別するような世の中でもありません。  もう一つ世俗に深くかかわらないといけないこととしてマネーリテラシー、お金のリテラシー、経済の知識が必要です。我々が済んでいるのは資本主義社会、市場経済社会であり、生産性や配分、失業率が社会と人々の福利厚生に直結します。経済政策や経済状況、世界経済を知らないでは済まされません。何せ間接であれ直接であれ我々は政治の主体であり、施政者でもあるためです。また自分や家族、友人たちや身の回りの人たちの生活を守らなければいけません。守るとは経済を発展させていかなければいけないのと自分と家族の収入や財産や資産を得るように努めなければいけません。自分の経済も人の経済も地域、国、世界の経済を回さなければいけません。  しかし一方でお金は必要なだけあれば意外と余分にはあまり必要ないと言えます。時にお金よりもっと大切でお金に換金可能なものは腐るほどあります。人から尊敬を得たり地位、名誉、良い評判、知名度など得ればそれはお金に出来ます。  学校の勉強がよくできれば家庭教師や塾講師になれるし、何かの知識があればセミナー講師になれるでしょう。力が強くて健康な肉体があれば力仕事で収入を得られます。単に相続などで受け継いだ小金がある程度や成金では尊敬や自尊心は得られないかもしれません。実業家、事業化になれば事業の立ち上げ方が分かるので自分で商売や会社を始めたり雇われ経営者になれるでしょう。お金があっても家事や泥棒にあえばなくなってしまいます。私の祖母の家は4回泥棒に入られました。でも泥棒なら全部はとっていかないけれども火事は全てを失うので怖いとよく言っていました。友達の地方の素封家で名古屋の近郊に膨大な敷地を持っている地主さんですが蔵に何回も泥棒に入られて古いものが残っていないそうです。ちょっと稼ぎ頭が病気になったり死んだら回らない家はいくらでもあるはずです。長期に地域に貢献してきたり伝統があり身元や家柄がしっかりした人はそれだけで一財で財を成した人には得られない地縁血縁人脈地位があります。何代かかけなければ普通は中産階級にも上っていけないのが昔のヨーロッパでした。歳を取ると非常に多くを失います。40半ばになれば遠視も出るし髪も薄く白く油気もなくなってぱさぱさ史ます。皮膚も汚くなり歯周病などで口も臭くなります。整形外科的な問題が生じはじめどこか身体が痛くなってきたりします。ですからお金よりその稼ぎ方の方が大切ですし、どう使うかも大切ですし、同時世代に残すかも大切ですし、同投資するかも大切です。小金があればデイトレードで食べていけますが株式の売買ではGDPは増えないので投機と呼ばれます。投機にせよそれで食べていければ大したものです。  小さな労苦より辛いのは暇や退屈、つまらないと感じる日常でいい年をしてくると大抵のことを経験して飽きてくるので新しい挑戦や創造が大切です。医者は田舎の方が需要があって稼げますが、田舎では使いようが限られます。洗練された料理屋もないし子供の教育にも困るので収入が少なくても都会に集まる傾向があり地方の医者不足問題が生じます。  仕事をしないで自分の楽しみや快楽で飽きない生活が出来ればむしろ才能であり優れた資質である可能性があります。この高齢社会では仕事をしていないと寿命が縮むというデータがでることもあります。  考えていくとマネーリテラシーとは一方では仕事というより英語でいうビジネスの技術という事でお金を稼ぐ場合もあれば使うだけの場合もありますし、無償の場合もあり、事業、実業というものです。我々は社会の中で何らかの活動をして、他者から承認されて、役割に同一化する方が往々にして充実した人生が遅れます。  社会のシステムに組み込まれて機能していくための知識として資本主義や市場経済、商習慣、工業や産業などお金と経済、財政と金融の知識が自己がサバイバルする生き残るという最小限の事からより大きな自己実現、ないしは社会の福利厚生の増進に貢献することが出来ます。 第12章 現代哲学と現代数学の簡単な解説  現代哲学と現代数学は実証が必要ない学問です。科学は自然科学、人文科学、社会科学に分かれており、自然科学は自然を対象とする物理学、化学、地学、生物学などを指し、人文科学は心理学や文学部であり、社会科学は経済学や法学部を指します。観察、観測対象により分野や領域を分けています。現代数学は形式科学と呼ばれるようです。扱う対象が実証可能かどうかがはっきりしません。  西洋の科学、学問は確かさや正しさを追求するのが目的です。各学問の観察、観測する対象の法則性などを研究しますがそれが現実の観察、観測事項にあっているのかを確認するのが実証です。  近代科学は方法として実証を用いるのが特徴です。逆に言えば実証できない学問は近代化が遅れる可能性があるわけで、臨床医学は人体実験ができないため実証ができず、近代化が遅れてしまいました。20世紀後半に入ってようやく治験のプロトコールなど実証方法の工夫により“evidence based medicine(EBM)”と呼ばれる近代化がなされ、宣伝、教育、啓発されたわけです。それに伴いエビデンスベイスドメディスン(EBM)原理主義者の様な人が現れて医療を混乱させているのを生物学科卒業の私は悲しい目で眺めていました。2020年8月現在世界でコロナウイルスが流行していますが統計学はエリートのためのリベラルアーツどころか中等教育で必修化してもいいかもしれません。  実証がないと近代科学といえませんが例外は哲学と数学です。  そのためか近代数学は数学の確実な基礎は何かについての研究が行われ、論理主義、公理主義、形式主義化され現代数学となりました。科学の現代化としては最も早く現代思想のプロトタイプとなっています。  哲学はやや数奇な運命をたどっています。中世にあって現代にないのは神と聖書と教会と教皇が確かさや正しさを保証しているという前提です。哲学の位置付けは様々で専門科目に加えて神学、法学、医学を除くその他の学問の高度な研究を行う学問の総称とされていたり、神学を補う婢(はしため)とみなされたりしていました。神や聖書が絶対であっても聖書の解釈や記載されていないことをめぐって哲学的疑問が生じます。実在論と唯名論による普遍論争が古代ギリシアのプラトンやアルキメデスの哲学と近代哲学をつなぐ哲学的事件です。普遍論争とは物事には普遍と個物があると考え普遍が実在するかという議論です。古代哲学ではプラトンがイデアと呼んだものであり、人間なら人間というものの概念の存在と認識について考えます。聖書では神が人間を造ったと書いてあり最初の人間アダムから始まり様々な人間が登場します。人間とは多様な人間がいるように見えますし人間か人間でないかはっきりしないものもあるかもしれません。例えば類人猿です。また人間の死体は人間かと問う事も出来ます。また普遍があるならなぜ個物という人間の多様性が見られるのかも疑問がわきます。人間に限らず聖書で使われている言葉は神が作った普遍的な実在かが問題になります。例えば聖書では「うろこのない水の中の生き物」は食べる事を禁止しています。ということは水生生物はうろこがあるかないかできれいに二分されて中間やグレーゾーンはないという事になります。有限か無限か、普遍をリスト化できるかもしれません。聖書に出てくる普通名詞はとりあえず普遍になるでしょう。このような普遍を作ったのあが神とすれば神学が非常にすっきりします。  他方で唯名論は普遍の存在を認めません。個物が先にあって、人間がカテゴライズすることで概念を作ると考えます。概念に名を付けるだけなので唯名論と言います。カテゴライズされ概念化され名前を付けられたものはあたかも普遍的に存在しているようなリアリティを感じる場合がありますが、それは単にそう感じるだけのことです。  これはあまり旧教のカトリックにはウケがよくなく異端的にみなされる傾向にありました。一方で教皇権に反発し早くから国教会を作ったイギリスの様な国でおそらく政治的な利用も含めて研究されます。  近代に入り学問が脱宗教化していく中で哲学も宗教を棚上げした議論が行われるようになります。  普遍論争が受け継がれる形で大陸合理論とイギリス経験論が成立します。  大陸の合理論では人間の経験に依存しない概念や理(ことわり)が存在すると考えそれに関する精神機能を理性と言います。他方でイギリス経験論では概念や理(ことわり)は経験なくして存在せず、経験することにより形成するものと考えます。概念は似たものをたくさん見る事によってカテゴライズして形成されますし、理というものも経験による連想、観念連合と考えます。  中世の残滓として「「確かなもの」「正しいもの」がある」というテーゼが神を棚上げしてもなおかつ残されました。古代ギリシアからの伝統であるとともに絶対神を擁する一神教の影響もあるでしょう。  近代においても「正しいもの」「確かなもの」は何かということが学問のテーマになります。  観察、観測、実験、などの実証の対象により学問の分野が分化しました中で哲学が追求する「正しさ」「確かさ」の対象は「存在」「認識」「道徳」「真善美の判断力」です。  これ以外にもあるかもしれませんが一応カントの3部作「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」から取り上げてみました。  道徳や真善美の確かさや確実さはともかく存在や認識の確かさ正しさは重要で存在論と認識論が哲学の存在するか、言い換えれば実在で実在論といえば普遍論争の実在論はrealismと書いて普遍の実在を主張するものでした。  「リアリズム」「リアリティ」という言葉はこの中世の意味とは全く違います。そもそも現代では「普遍」と「個物」を分けて考える考え方自体が時代遅れです。聖書の正当化には便利かもしれませんが聖書や神を棚上げしてしまえば取り立てて問題にする必要もありません。問題とは問題にするから問題になるのであって、問題としなければ問題にはならないものです。知的好奇心が活発なのは良いことですが世の中にいくらでも問題に出来る事柄がある中で何かを人間集団で共通の問題とする場合には何かの文脈や意図や欲動があるのでしょう。  現代で使われるリアリズムは実際に存在しているかどうかよりは実際に存在していようがいまいが実在感があるかどうかを表す概念です。中世の実在論は実在感、現実感が例えなくても普遍が存在するのだという主張です。表現作品や創作作品で使われることがあり、フィクションに対しても手法、技術としてよく使われます。  現代哲学で使う実在論は何となくリアリティを感じるから実在すると思い込んでいる状態を指すので素朴実在論と名付けます。  これはリアリティを感じるのが必要という意味で中世の実在論とも意味にずれがありますし、現代のリアリズムとも必ず存在すると無意識に信じ込んでいるという意味でずれています。  普通人間は心理発達の過程で素朴実在論的な存在概念や認識概念を獲得します。このような認識への考え方と存在への考え方の特徴を持つ素朴実在論は現代哲学を理解する上で重要な概念です。  近代までの学問が正しいか確かかを問題にするのに対して、現代の学問は正しさや確かさは確率的な問題です。正しいか、正しくないか、確かか、確かでないかを問題にするのではなくどれくらいの確率で正しいか、正しくないか、どれくらいの確率で確かか、確かでないかを問題にします。正確さより精密さや精度を問題にします。公衆衛生の分野では信頼性とか妥当性ともいわれます。これは工学や科学の実践応用では重要な事です。たとえば実証する際には計測が必要になります。計測には必ず誤差が伴います。そもそも測定精度の関係で測定値は近似値しか出ません。近似値でありかつ誤差があります。誤差の小さい近似値は比較的正確であると言います。一方で誤差の上限と誤差の下限が分かり、上限と下限の範囲内に近似値が100%入る場合があります。ごれを誤差の限界や誤差の範囲と言います。誤差の限界や範囲が小さい近似値は比較的精密であると言います。分からない性格よりも分かる精密の方が大切になる場合があります。  特に工学で大きなもの複雑なものを作る場合です。車なら正確の追求で何とかなるかもしれませんが宇宙船は精密の管理が必要になります。大きなもの、複雑なものは誤差が集積して設計の施工が破綻する可能性があるからです。これは実証主義の学問で言える事で哲学(と数学)はまた違います。  良く分からない正確さを念じて各部品を作っていっても誤差が集積してば最後に組み立てられないこともあるかもしれません。「真面目に心を込めて精神主義的に職人根性で正確を期した部品を作るよりも、全体のバランスの中で資源配分を上手に行い、各部品は正確には作られてはいないが最終的な誤差の積み重ねは計算範囲内なので組み立てるのには問題ない」という視点が必要です。  そもそも現代哲学では正しいとか確かかという事は現代で使うにはそれがどういう意味でか、どういう定義の上でか、どういう前提に基づいているのかを示さないと意味がありません。別の言い方をするとそもそも現代では正しいか、確かかを必要がある場合以外では問題にしません。  近代以前では確実なもの、正しいものが存在するかしないか、存在するとすれば正しく確実に認識できるかどうかを問題にしました。  現代では確かかどうかも正しいかどうかも存在するかも認識できるかも問題にしません。 問題にして正しいもの、確かなものが必要であれば、正しいもの、確かなものを作ります。正しい、確かを定義して規格して規格に合わせて作ります。それなら必ず正しく確かです。  作ってしまえばいいのであって創造する以前にそれが存在するかや認識できるかを問題にするのをやめる様になったのが現代です。  現代のこの特徴は現代では確かで正確なものを作れるまでに文明や学問が進歩したことも一因でしょう。また確かなものや正しいものの存在とその存在の確かで正しい認識を追求しなければいけないという先入観が事情や環境が変わって、あるいは事情や環境を変えてしまう事でなくしてしまったことと関係あるでしょう。  実際に正しく確かなものが存在しようがしまいが認識できようができまいがどうでもいいのです。作ろうと思えば用途に応じて作れるのですから。  全ての現代の学問はこの認識から出発しています。  数学を例に挙げましょう。現代数学では数とは作るものです。用途に応じて自然数、整数、有理数、実数、複素数を作成すればいいだけです。  そのための集合論も位相論も空間論も群、環、体の理論もあるのですから目的に応じて数学的対象を造ればいいだけです。  幾何学も点や線や面を造ればいいのです。それが実在するかなどは現代では考えません。  実証主義の科学といっても理論系は全て論理学も含めた数学に依拠しています。物理学がそうですし、化学は掘り下げれば物理学の応用科学ですし、以下生物学、地学、全てが何かの土台で成り立ちます。生物学は分子生物学でも化学程度分かればいいですが、別のアプローチから独自に勉強する手もあります。どのようなアプローチでも基礎は同じです。  生物学を専攻していた時に生物の入試は国語力の問題だから、と高校で生物選択の学生が言っていました。なかなか含蓄のある言葉ですが実はユークリッド幾何学もアルキメデスも原著は読解力の問題です。読解力はすごく大切です。数学や物理学に苦手意識を持つ人は記法や記号操作が何か特別な技術と思っているようです。しかしあまねく非経験的、非直感的な分野を学んだことがある人は経験があるかもしれませんが、何らかの方法で自分の持っている表象や経験的要素を使って努力を惜しまなければ対象の学問を理解することが出来ます。そういった場合大切なのは読解力や表現力です。特に現代哲学は哲学ですから思考力や色々な見方や言い回しを理解する読解力があれば理解に到達できます。現代数学の基礎論も読解力で理解できます。論理主義、公理主義、形式主義、例えの助けを借りても借りなくても国語力で理解できます。例えば記号論理学や数理論理学でどの様に記号表記されてようが読み方は日本語で表現できます。そのように現代哲学と現代数学基礎論も結局読解力の世界ですし、逆に基本や基礎の意味を国語レベルで理解しなければ記号も使いこなせませんし記号は使いこなせないでしょう。 第13章 構造主義を理解する  第12章で素朴実在論を解説しました。現代哲学の3要素は素朴実在論、構造主義的哲学、ポスト構造主義です。これはリベラルアーツで学ぶべき革新です。一方現代数学で学ぶべきキーの概念は論理主義、公理主義、形式主義です。この現代数学の3要素は構造主義と深い関係があります。現代哲学の3要素素朴実在論とポスト構造主義は簡単です。現代数学の基礎論でリベラルアーツで学ぶべき3要素では論理主義は論理学を理解できれば発展的に類推可能で難解ではありません。公理主義や形式主義を学ぶ際に構造主義が浮かび上がってきます。現代的な構造主義を初めて想像したのは言語学のソシュールではなく現代数学の父のヒルベルトでしょう。構造主義を理解すれば公理主義や形式主義も理解が容易であるとともに、公理主義や形式主義を理解していれば構造主義が理解しやすくなります。そして構造主義も公理主義も形式主義も現代哲学や現代数学を実地で使いこなす場合、仕事や思考に生かす際に習熟すべき考え方です。この3つを理解しておけば自分で学問を造れますし思想も作れます。単に学習者でなくクリエイターになれます。これらはまさに「理」に関することです。高度な現代的な「理」を使いこなすことが出来ます。理論が無矛盾で整合性があり健全で妥当で正しく確かな理論である場合もあれば理論が矛盾を含み整合性がなく健全でなく妥当性もなく正しくもなく確かなでもないいわゆる誤った理論である場合もありますが、理論自体は作れます。後者の場合は屁理屈などと言われるのかもしれません。でも理論は理論です。理とは形にすること、構造や体系を表現することです。言い換えると何か考え方を作ることです。理は現代的に言い換えれば構造とも言えます。第12章の説明を発展させて構造主義を説明します。  ちょっと長いですがヒルベルトの「幾何学基礎論」という本の第一章§1を引用します。 中村幸四郎先生が訳者で第7版が1930年であり、昭和18年に出版され、昭和21年に第3版が出たまま、絶版となっていたものをちくま学芸文庫から新しく出版印刷したと序文にあります。原著者のダーヴィッド・ヒルベルトは1943年に他界しているため生前最後の版とのことです。 「 第一章 五つの公理群 §1.幾何学の構成元素と五つの公理群 定義 われわれは三種類の物の集まりを考える:第一の集まりに属するものを点と名付けA,B,C,…をもって表し;第二の集まりに属するものを直線と名付けa,b,c,…をもって表し;第三の集まりに属するものを平面と名付け、α,β,γ,…をもって表す:また点を直線幾何学の構成元素、点と直線とを平面幾何学の構成元素、点、直線および平面を立体幾何学または立体の構成元素という。  我々は点、直線、平面をある相互関係において考え、この関係を表すのに『横たわる』、『間』、『合同』、『平行』、『連続』などの言葉を用いる。そして幾何学の公理によってこれらの関係を正確に、かつ数学上の目的に対して完全に記述する。  幾何学の公理はこれを五群に分かつことが出来る;これらの群のおのおのは、ある同じ種類の我々の直感の基礎事実を言い表す。これらの公理群を次のごとく名付ける: Ⅰ1-8. 結合の公理、 Ⅱ1-4. 順序の公理、 Ⅲ1-5. 合同の公理、 Ⅳ. 平行の公理、 Ⅴ1-2. 連続の公理。 」 この後§2以降で各公理群の記述に入ります。  まず気付くのはユークリッド幾何学では定義をまずしますが、定義という言葉が使われていません。かわりに「集まり」「属する」「名づけ」「表す」「構成」「元素」という言葉が見られます。「集まり」「属する」「元素」という言葉は集合論の言葉です。「名づけ」「表す」からは恣意性を示します。「定義できる」のではなく「名づける」「表す」作為的、人為的な行為が定義に代わる幾何学の出発点になります。  次に「相互関係」「完全」「記述」「完全に記述する」などの言葉が見られます。  「相互関係」は元素を相互にどのように関係づけるかということです。これも与えられたんの、最初からあるものではなく我々が決める事です。「完全」は完全性を表します。「不完全性定理」という定理があり、一般的な第二階述語論理においてゲーデルがそれを証明していますが、ヒルベルトのこの公理体系はそれとは前提がことなるため不完全性定理が適用できず、完全であることが分かっています。第一章の最後では「完全性」についての考察が書かれています。 「完全に記述する」ということはこの公理系が完全性を満たすという事です。  最後に「ある種類の我々の直感の基礎事実を言い表す」という言葉があります。「直感的基礎事実」とは率直に言えばユークリッド幾何学、リーマン幾何学などの非ユークリッド幾何学で古典力学と同じものであることを主張しています。  ここから読み取れる点は2つです。  まず古典幾何学は公理主義化できることです。公理主義化幾何学と古典力学は同値関係でどちらでも同じことが出来ますし、どちらかでできないことは他方でもできません。どちらかで導き出した定理は他方でも導けます。どちらかで定理やその証明に間違いがあるとわかれば他方でも定理やその証明に間違いがあります。  2つ目は定義という概念を排除しています。排除したうえで一から全て作り上げている、「構成」しています。  そもそも違いの本質は何でしょうか。古典幾何学では幾何学が実在として存在していると考えます。「点」も「線」も「平面」も実在しており、定義できるものです。ヒルベルトの公理主義による幾何学では実在するかどうかに関係なく一から古典力学と同じものを作り上げています。「点」や「線」や「平面」の実在を問わず集合の元とみなし、元素同士の相互関係を「ある種類の我々の我々の直感的事実」を「完全」に「言い表す」「表す」「記述する」ことができると主張しています。  「完全」に記述可能であることは重要であり合わせて「元素」や「相互関係」や「公理」があればそれらの組み合わせに過ぎないことから組み合わせを自動化することが出来ます。人間が考えて幾何学的対象をイメージしながら定理や証明を考えるのではなく、幾何学的対象をイメージすることなく許された記号操作を行う事で幾何学全体が勝手に生成していきます。そもそもこれを自分でやることはなく、幾何学も何も知らない人にやってもらってもいいですし、機械や電子機器による計算機に行わせてもいいのです。  19世紀に保険や航海で使う関数の計算を行う職業をコンピュータと言いました。人を大量に雇って三角関数や複利計算の関数の数値計算を行わせて関数の数値表を作っておきます。最初から作っておけば必要な時に計算することなく図表を見ればいいだけです。コンピュータは基本四則演算だけできればいいので誰でも出来ます。  幾何学もコンピュータの人たちが行えばよいことが帰結されます。コンピュータの人たちは自分が何をしているのかの意味を知る必要もありません。命令されたことを計算すればいいだけです。「内容」や「意味」を知る必要はありません。数学的要素、もっと即物的に言えば記号の形式的操作だけで幾何学全体が自動生成していきます。意味を考える必要はないですし、必要ならば記号列を自分なりに解釈すればよいのです。  この意味と切り離した公理体系の規定により数学の自動生成されていく考え方を形式主義といいます。  古典幾何学との違いを挙げると古典幾何学は幾何学的イメージにより思考しそれを表現していく過程でしたが、公理主義による幾何学は最初に集合やそれに属する元素のその相互関係、公理を設定すれば、幾何学が自動的に構成されていきます。構成される記号列としての幾何学をどう解釈して理解するか、どうイメージするかは人それぞれですが、結果として公理主義の幾何学も「ある種類の我々の直感の基礎事実を言い表す」すなわち古典力学と同じ内容を言い表していることになります。  中世の大学のリベラルアーツの一つをなす幾何学が公理主義と形式主義化できることが分かりました。すなわち、構成する、作ることが出来ることが分かりました。  他の学問もそうです。算術も人間が形式主義的に集合の元と相互関係、公理の設定によって構成できます。初期の代数学の公理化に活躍したレオポルド・クロネッカーは 「正数は神が作った。あとは人間の技である」と言いましたがこれは現代数学の父、公理主義を考案したヒルベルト登場以前の遅れた認識で、現代数学では整数も作ります。  解析学もそうですし、数学のみならず物理学の理論というのは公理主義化されています。  論理学自体も現代の記号論理学や数理論理学と呼ばれるものは公理主義、形式主義で作られています。  現代の学問の理論というものは公理主義で作られています。  公理主義なら形式主義ですし、論理学も公理主義化されていますので公理主義でまとめます。  公理主義について説明したのがこれが構造主義の一形態だからです。構造主義の特殊なものです。公理主義と構造主義はどこが違うのでしょう?一般的な構造主義は公理主義の様に集合とか元素とか公理等の概念を使う必要がありません。集合や元や公理は理論に関する概念です。理論に関連して公理主義を使う場合でも無矛盾性とか完全性とか公理主義の持つ性質について研究したい場合に使います。一般の理論というものは無矛盾とか完全性とかについて考える必要はありません。「矛盾した結論が導かれてしまう理論」これも一つの立派な理論です。理論というと無意識に矛盾がない、完全である、整合性がある、妥当である、真偽を決定できるといったことを念頭に置いてしまいがちですが別に矛盾があっても完全でなくても整合性がなくても真偽が決定できなくても理論は理論です。「理」とは「あらたまを磨いて美しい模様を明らかにする」というのが原義です。明らかにするのが原義であって明らかになったことが正しいとか正しくないとか考えるのはまた別の話です。  もう一つ大切な事は古典幾何学を背景として使われる「点」や「線」や「平面」が存在するかどうかについて肯定も否定もしていませんし、存在するかどうか認識できるのか、認識できるとして正しく認識できるのか出来ないのかについて問題にしていません。  現代数学の公理主義的幾何学も、古典幾何学もどちらも正しいとか確かだとかを議論する必要がもはやなくなっています。問題にしたい人が問題にすればいいだけで、別にその必要がなければ問題にする必要もありません。  現代数学に基づく現代科学が確立したおかげで学問の対象の実在性とか認識可能性は消極的な無視というかスルーというか黙殺される対象になりました。  数学の「独立」という概念を使うと古典科学と現代科学は独立です。どっちも同時に成り立っても構いません。  現代哲学は特に古典幾何学を否定も肯定もしていないことに注目して下さい。全く同じ数学的対象を扱い、同じ操作ができ、それらが対応するので頭の中で意味やイメージに変換する、「ある種類の我々の直感の基礎事実を言い表す」のは古典幾何学でも現代の公理主義的幾何学でも可能なのです。  理論と書きましたがこれは主に学問について考えたからで、もっと別の表現を使うと、体系、とかシステム、とか構造、という言葉で言い表すことも出来ます。   いわゆる構造主義の元祖として教科書的に語られるソシュールの言語論について考えてみましょう。自然言語とは何か。すくなくとも集合も元も公理も不要です。しかし言語自体は古典から近代まで数学も哲学もその他の色々な学問を記述する道具でした。現代の科学は自然言語を排除して記述できるものもありますが、自然言語も用いた方が自然言語の読解力や表現力を活かせます。  構造主義的言語学とはどういうものかざっくり話します。せっかく公理主義の説明をしたのでそれになぞらえてみましょう。  品詞というものがあり、沢山の言葉があります。  品詞同士の相互関係を考えます。  文や文章を作るためのルールを設定する。 これが現代的な構造主義による言語に対する考え方です。  構造とは要素の関係性の規定とまとめられます。  関係性やルールの規定により構造が構成されるわけです。  この場合も公理主義の様にそれが何を指すかの意味を問うていません。 数学基礎論の記号論理学あるいは数理論理学は証明論とモデル理論に分けられます。言語学は統語論と意味論に分けられます。公理主義の説明では証明理論を説明し、自然言語の説明では統語論について述べたことになります。  その作られた構造が意味を持つか、現実なり創造とあうかは別の問題で独立した学問分野である意味論やモデル理論で扱います。  言語の場合は実際に使用されているので観察が可能です。すなわち実証が可能です。実証科学はモデル理論や意味論について考えることになりますがそれはまた別の話です。  自然言語の構造主義は公理も集合も元もつかいませんでした。構造主義をどう使うかはいろいろな方法があるという事です。構造主義の特殊形である公理主義を使ってもいいし別の方法を使っても構いません。  人文科学系などでは公理とか集合とかの概念を使う必要がない場合がない場合が多いです。そもそもその理論の無矛盾性や完全性などを問題にしないからです。そもそも世の中には矛盾していたり不完全で当たり前な事がたくさんあります。人間の心や意志や感情などです。文学や芸術は知や思考に必ずしも属さず、人間の感情や意欲に関係しますので矛盾や不完全であって当たり前で寧ろその方が自然でしょう。 第14章 ポスト構造主義  素朴実在論と構造主義的哲学とポスト構造主義が現代哲学の3本の柱です。  構造主義については前章で説明しました。構造主義的哲学はとは何かというと哲学の2本の柱である存在論と認識論に構造主義を適用したものです。構造主義の構造とは作るものであり構成するものであると書きました。言語学では統語論、数学基礎論では証明理論に当たるものを指します。  構造を作る理由は大きく2つに分けられます。現実の現象を説明するための理論を作る場合とそれ以外です。それ以外というのは知的活動、思惟や思索にふけるのが好きで自分の個人的な楽しみのために行う様な場合です。後者は数学者に多く見られます。楽しみのためではなく考えるのを止められないというタイプの人もいます。往々に天才と認められることが多いようです。  実証科学の精神というものはこれは最初から予想がついたはずの事ですが、その性質上絶対的に正しいもの、確かなものには到達できません。  「理論と観察や観測、計測、実験の結果が一致している」と言えるだけです。それ以上に何かを結論するのは僭越です。「だからその理論は心理である」といえたらいいのですがそれは飛躍です。理論を実証する観察や観測の結果が出たとしてもその理論が特別なものとは結論できません。ですから近代科学は宗教と相性がよくありませんでした。  構造主義による存在論と認識論について考えてみます。近代の哲学、もっと限定すると近代の存在論と認識論は素朴実在論の文脈の中で行われます。あるいは何らかの形で素朴実在論の影響を受けていません。モダニズムの創始者はデカルトですが彼の哲学が典型です。「確実な存在も、確実な認識も存在しそれを保証するものは誠実な神である」とデカルトは考えました。素朴実在論そのものです。カントになると少し複雑になって確実な存在(カントは物自体といった)は存在するが人間の認知機能が情報処理をする過程で何かが変質してしまうので物自体には到達できないというジレンマを抱えた哲学です。物自体が存在する根拠は示せていません。実践理性批判の方を見ると定言命令といった性善説みたいなことを道徳の根拠にしているのでカントの中では彼にとって何か確かなものがあったのでしょう。  その後のドイツ観念論になると観念が実在に優先するので認識が一次的で存在が二次的なものになります。言い換えると存在というものは観念が作り出したものに過ぎないと考えます。これはカントのある方向への発展形です。物自体というものをオッカムの剃刀で切り離してしまいました。そういう意味では哲学は心理主義的になっていきます。観念論の反対ともいえるのが唯物論になります。存在しかない、しかも物しかないと考えます。唯物論から精神の発生を説明するというのはある意味現代科学の方向性で、情報科学や認知科学、脳研究の進展がそれをなす可能性がありますが如何せんそれが分かるのはかなり先の話です。唯物論はマルクス主義となり学問や科学としてより理念として現実世界に影響を与えました。  構造主義として公理主義の例を挙げましたがこれはただの記号の列です。自然言語というものも統語論だけ考えれば文字の列です。文字も記号も結局記号です。結局数学も自然言語も記号の列なので記号論で扱えます。ジャック・デリダと言う結局現代哲学をまとめ、西洋哲学の歴史に終止符を打った哲学者は記号の研究をするための記号学という学問を作ることを提唱しました。形式主義的には数学も自然言語も記号の列です。一方で記号が表すものの存在、記号列が表すものを理解する認識の研究を構造主義的存在論、構造主義的認識論と呼びましょう。合わせて構造主義的哲学です。記号列の表すものという考え方をするとこれは意味論やモデル理論に対応します。記号列はコード化できます。記号の数は有限だからです。アルファベットでもかなでもローマ数字でも感じでもです。高々有限ですので簡単にコード化できます。適当な数字を付ければよいだけでこれはデジタル化です。十進法記法でなく二進法記法でコード化すると現代の計算機科学と相性がよくなります。非常にシンプルです。ある意味確かなのは記号だけとも言えます。だから考古学は大切ですが歴史と言うのは非常に大切です。残された文字の研究だからです。  単純化するために文字列は正確に残せて伝える事が出来るとしましょう。世の中ミスが生じないという事はないのですが形式的な文字を残すだけの場合には意味の伝達に基づいたミスは起こりません。  ここまでの記号列と言うのは本当にそれが何を表しているのかを考えない場合の話です。文字列は意味を持ち、現実や人間の内面である想像、表象や観念を表すと考えてみましょう。記号の世界を象徴界と言います。客観的現実と思われるものの世界を現実界と言います。人間の内面で象徴するものの世界を想像界と言います。  この記号列と現実の一対一対応が可能、そして記号列の読解の一対一内容が可能であると漠然と心のどこかで思っていたのがソシュールより前、すなわち古典的言語学です。これを例えば素朴言語論あるいは素朴記号論と呼びましょう。素朴にこれらが正確に対応できると思い込めるのは実は人間の能力です。現代哲学では記号列と現実や想像を一対一に対応できないという考え方も同時にします。  一人の人間が同じ文を読む場合でも読むたびに何かが異なっている可能性が常にあるという事です。  また記号列に対してイメージしている想像が他者と同じという事も普通はないという見方をします。  また記号列をある意味のある意味の内容と理解したとしても、その理解した内容から正確に同じ元の記号列を復元することはできないという見方もします。  しかしそれが出来るっとだけ考えていたのが近代までの言語学です。  この記号の世界である象徴界を導入したのが現代哲学と現代数学の特徴です。下の図では弁図のmeaningとaとJφがその部分です。  象徴界の導入は哲学では現代哲学の特徴で近代哲学は現実界と想像界だけの世界です。現実と想像の一致、存在と認識が正確に対応できるという考え方が素朴実在論であり、弁図のJAとaの部分を指します。  この集合の弁図の様なものはボロメオの環と言います。  ざっくりいうと近代哲学までは象徴界、想像界、現実界が正確に対応する、一対一対応が可能であると考えている、というより先入観として思い込んでいます。  3つの世界の関係は図のようになります。象徴界がなかったときは存在と認識を表す現実界と想像界しかありませんでした。これらの3つの環が重なる部分が素朴実在論と素朴言語論/素朴記号論です。  この見方と独立してこの3つの環は重ならない、正確に対応することはない、再現不可能である、一対一対応しない、という見方を同時にするのが現代哲学です。  公理主義や言語や記号列を見直してみるとこれらは実在する事物がない、存在や認識する対象が存在しない場合を想定して作られた考え方です。  実在があればそれが出発点に出来ますが、実在があるかどうかわからないのでそれを出発点することはできません。  実在の有無にかかわらず言語の構造や数学の公理主義と言った構造それ自体です。他の科学の様に思考の対象である実在が確認できないので実証できません。 「我々は点、直線、平面をある相互関係において考え、この関係を表すのに『横たわる』、『間』、『合同』、『平行』、『連続』などの言葉を用いる。そして幾何学の公理によってこれらの関係を正確に、かつ数学上の目的に対して完全に記述する。」 これは幾何学基礎論の最初にあった言葉です。ヒルベルトは古典幾何学の対象を実在としては定義できないものと考え「無定義概念」としました。そして幾何学の対象を相互関係、公理体系によって作ることを出発点としました。公理がまずあって存在の有無は関係ないのです。自然言語もそうです。自然言語の内的な関係性、構造、文法、慣習などがあり、それの体系によって言葉が指し示すものの有無に関係なく言語それ自体の構造、関係性により言語要素を構成します。言語が指し示す対象があろうとなかろういと言語はそれ自体が構造を持つのです。そして構造があるから存在も認識もあり得ます。  構造、関係性の規定が先で存在や認識は後です。  極端な場合を挙げましょう。構造主義があれば素朴実在論を否定しても学問も我々の認識能力や認知機能は保たれます。学問も科学も構造主義があれば素朴実在論は必要ありません。一方科学としては素朴実在論はなくても困りませんが構造主義がなくなると困ります。実在があればいいのですがない場合にはその学問の前提がなくなり、学問の全てが崩壊します。19世紀の「数学の危機」とはそのような重大な事態だったのですが構造主義を想像することにより乗り越える事が出来ました。  せっかくボロメオの環の図を示したのでそれを使って説明しましょう。この図形は日本では三輪違えの紋と言われます。素朴実在論が対応するのはこの弁図の7つの領域のうちaとJAの場合だけです。  この図から素朴実在論を除いた図を作ってみましょう。  これはディズニーのロゴの様になるのですが権利関係がうるさそうなのでこの本にのせるを控えます。それに似ているわが国で家紋やお菓子屋さんの紋として使われている「州浜」という図形を代わりに載せます。ウィキペディアから拾ってきた解説も合わせて載せます。 州浜(すはま)とは、大豆、青豆を煎って挽いた州浜粉に砂糖と水飴を加えて練りあわせて作る和菓子の一種。  因みにこの図形を丸で囲むと我が家の家紋になります。  まあどうでもいい事ですがご愛敬で載せてみました。  初期の構造主義は素朴実在論否定のラディカルなもので素朴実在論と背反なものと考えられてきた傾向があります。 構造主義ならこの弁図の7つの領域全ての場合に対応できます。 モダニズム批判やポストモダンという主張があり流行した時期があります。  この時は構造主義は素朴実在論の否定として使われました。すなわちこの図形のaとJAをふくまない素朴実在論と背反するものとして使われたのです。この場合はディズニーで、ディズニーの法務部が文句を言ってくるなら我が家の家紋の丸に州浜で覚えましょう(丸は要らず、ただの州浜でもいいですが)。素朴実在論を含むより一般化された構造主義はボロメオの環、日本の家紋や神社の社紋では三輪違えの紋といいます。 より一般的な構造主義を理解するためにはこの歴史的経緯も含めて素朴実在論も含むより大きな体系としてとらえた方が構造主義の定義がしやすいと思いますし後後役に立ちます。  また素朴実在論は意味やモデル、実証に適した考え方ですが構造主義自体は形式主義や統語論、証明理論に属する考え方なので、構造主義を素朴実在論と言う意味論、モデル理論的に解釈した場合に構造主義のaとJAの部分が素朴実在論に相当すると記号論と意味論の対応関係として考えるのも良いでしょう。 第15章 ポスト構造主義  素朴実在論はどちらかと言うと主観的なものです。自分が確実と思えるもの、リアリティがあるもの、潜在意識や深層心理で存在すると思いたいものを無意識に存在し、正確な認識が可能と考えるものです。存在論や認識論に関わるものですが記号論とは関係がありません。記号論と関係がないので自然言語や記号との関係を考える必要おありませんし統語論や証明理論とも関係ありません。つまり形式主義がないので実質主義ともいえるでしょう。形式主義というとドライで冷たい感じがしますが世界には意味があるのだという意味論者にしてみればドライで冷たく感じるのも無理はありません。感情的とも言えますし提携発達的です。構造主義は逆に冷静客観的過ぎてアスペ的ともいえるかもしれません。  哲学は存在論と認識論が大きな柱と書きましたが、ここまでくると記号論もそれに加えていいかもしれません。現代哲学は存在論と認識論と記号論が3つの大きな柱となっている点で近代哲学までの哲学とは違います。記号論が加わったことの背景には数学、言語学、記号論理学の影響があるでしょう。  対象認知における形式的な理解と直感的納得を結果的に分ける事になっています。形式的とは言い換えると構造主義的ということです。対象とは感情的に納得したから自分にとって存在が確からしく感じるから、あるいは存在してほしいと願うから存在するというものではなく、構造により認知する対象を作り出す行為です。  構造主義により何かが実際に存在している必要もなければ、正しく確かに認識できるいつ用もなく、構造主義、形式主義の知的な世界が成立することが分かったので、更に進んだ考え方が出来るようになります。  素朴実在論と構造主義的哲学を説明したのでポスト構造主義について説明します。  ポスト構造主義は西洋近代哲学の結論です。  ポスト構造主義を理解するのに必ずしも素朴実在論と構造主義的哲学の理解は必要ないかもしれないことに留意してください。素朴実在論や構造主義の成立に刺激と影響を付けて出てきた考え方ですが、その考え方を理解するのにきっかけとなった素朴実在論や構造主義の理解ないということは特別な意味を持ちます。  素朴実在論とその影響を受けた思想で近代哲学を代表させて、構造主義的哲学で近代から現代の移行期や現代の前期の考え方を代表させるとすれば、そもそもそうした思想や哲学自体が必要なかった可能性があります。  ポスト構造主義は哲学ですので確かさと正しさに関係し、確かさと正しさについて何かの主張をなしています。ポスト構造主義の確かさや正しさに対する考え方は「正しさや確かさを大きな問題として考える必要はもはやない」というものです。学問水準が低かった時代は「正しさ」や「確かさ」を探求する、証明することは大切な事だったかもしれませんが、現代では「正しさ」や「確かさ」の定義が明確であれば正しさや確かさを確かめる方法がすでに開発されている場合があります。あるいは正しく確かな何かが必要であればそれを造ればいいのであって特にどこかに探しに行く必要もありません。  そもそも古代人が疑問に思っていたようなことは「確かさ」や「正しさ」だけでなく既に満足のいく回答が与えられている場合が多くあります。中世にしても神が存在するかどうかや聖書が正しいかどうかは無神論や不可知論ですらなくそれ以前に興味がない人が多いのです。人間は環境に依存した生き物であって時代背景や状況や教育や文脈に意識、無意識に関わらず影響を受けます。そういったものをパラダイムとかエピステーメーと言います。時代の知的構造の背景です。問題や疑問というものはみんなが興味がなくなればそれが解決していようがしていまいが捨て置かれます。何にでも流行やムーブメントがあります。流行り廃りは大きな社会の力動です。何事もモチベーションが大切です。意欲があれば楽しいことも意欲がないことをすると苦痛である場合を多く体験します。「教養主義」「基礎」「理系」は忌避されるものの代表です。教養の必要性を学生は認めませんからその分専門や試験勉強に時間を割きます。医学部に入っていも基礎医学に進まず臨床医になるので基礎科学が衰退しています。理系にいく人がいなくなり、科学的な常識を話すとマイノリティーになりメディアは誤った情報を垂れ流し人を欺きます。  個人的に忌避する感情は仕方ありませんが国民の多くが大切な事を回避することで不都合が起こります。  知らないことを知らない人が増えます。あるいは故意に知らないことを知った顔をして話して人を欺きます。語るべきでないことは沈黙すべきですが口を出してくるので知っているひと語ることが出来る人にはめんどくさいというかうざいことになります。  更に切実なのは知っている人のコミュニティから排除されます。上級のコミュニティとはエクスクルーシブなものです。コミュニティの質を保つためでブランディングと同じです。排除されている自覚があればいいのですが排除されていること自体に気が付いていません。良い情報や品性のある人々はその分野で上級のコミュニティを形成しているためそこに入らないと知らないまま死んでしまう事が多くあります。  上品の人たちなので聞けば何でも教えてくれますし、聞かなくても積極的に良質な情報を教えてくれますが、理解できないため「聞いてない」とあとでごねて、不平不満感情を募らせます。排除されるというよりは自分で勝手に聞き流して勝手にコミュニティから自分から進んで出ていく形となります。  理系や基礎の学問の軽視はまわりまわって教師の教育水準の低下、生徒の教育水準の低下、国民の教育水準の低下につながるかもしれません。Μαθηματικά学ぶべきものを学んでいないからです。  そもそも中世であってもキリスト教神学では神のみが絶対とされていました。神を除いたすべてのもで完全なものはありません。神がなければなければ全て相対的かもしれません。近代では神の代わりに絶対的な法則があるのではと研究しましたが見つかっていません。そもそも絶対的な何かがあるというのが一つの仮定で絶対的な何かがないのも一つの仮定です。ルターは非常にうまい表現を使っていますが「神や信仰や宗教はルターのいうように信仰によって義とされるのであり、教皇や教会はもちろん、神の実在や認識可能性とは独立です。 神云々を除けばユダヤ、キリスト、イスラム教徒さえこの点には同意でしょう。  我々は何かがいつでもどこでも正しく確かな世界に生きるなくても十分生活することも文明も作ることも可能ですし、何か確かで正しいことをしたい、例えば宇宙船を作って打ち上げたり、半導体を作るために純粋なシリコンウエハースを造ったり通信機器で情報を正確にやり取りしたければ、任意の精度、精密さでそれを作る技術があります。我々が生活したり社会を運営したりするのには十分な正確さが得られます。正しさや確かさはその時と場所に応じて作ればいいですし、他はもう運でなるようにしかなりません。  我々は現在正しさや確かさを必要に応じて作ることが出来るのですから、漠然としたいつでもどこでもなりたつ正しさや確かさというものは必要ありません。  必要と思いたければ思えばいいですし、探求したり実証しようとしたければすればいいのですが、特に哲学にも世俗の生活、社会にも必要である必要がありません。つまりなくても成り立つことを前提に現代哲学は成り立っています。  この様な哲学感、「正しさ」や「確かさ」に対する考え方の変更をポスト構造主義と言います。  ポスト構造主義では「正しく確かなものがある」という命題も「正しく確かなものがあることはない」という命題も一つの考え方としか見ません。同じく「ある物事の存在が正しく確かである」「全ての物事の存在が正しくて確かであるという事はない(全ての物事の存在は正しくないか確かでない)」と言う命題も「ある哲学/思想は正しく確かである」「ある哲学/思想が正しく確かであるということはない」という事も真偽を決定しません。どれかの命題を真や偽であることを前提として何かを考えたり行動したければ本人の自由にすればいいと考えます。  ポスト構造主義はこの様に一般の哲学や思想とは異なる特殊な考え方です。何かが正しいとか確かであるとかいう考え方自体を特殊な考え方と考えそういった考えから離れて冷静客観的に考えます。考えるのはそもそも何かそのある考え方が正しいとか確かであるかではなくそれを使用するかしないかです。  ポスト構造主義では思想や哲学、考え方が正しいか確かかはそれが意味を持つ場合のみ考えるものであってデフォルトではなくオプションに過ぎません。  正しさ、確かさを問題にしたい場合というのは例えば証明する場合、実証する場合、感情・意欲に関係する場合です。  証明は例えば数学で未解決の問題を証明する場合でこれは与えられた前提条件としての論理と公理の体系を用いてその体系内部での正しさ、確かさを示すことが出来ます。  実証する場合は理論に対して照らし合わせるべき現象がある場合で、観察や観測などの方法で理論の正しさや確かさを判定します。その際統計学を用いる場合があるので統計学を勉強しておくことは学問をする者の基本になるでしょう。  感情や意欲と言うのは例えば人間は自分が信じたいと思う者を意識的に、あるいは無意識的に、あるいは自己欺瞞的に信じる傾向があります。また信じたいという欲求がなくてもリアリティをもって感じられるもの、実在感、臨在感、実体的感覚をもって感じられるものは存在すると判断しがちです。  五感で感じられるものは存在すると判断するでしょうし、五感で感じられなくてもなんだか存在するような感じがする場合があってそれを信じる場合があります。これを実体意識といって例えば股間では感じられなくても誰かがいるような感じがしたり、神や絶対者の存在を感じたり、何かが自分に働きかけてくるように感じる場合があります。  その様な場合何かが存在すると判断しても不自然ではありません。また一方で五感で感じられてもその存在感んを感じられない場合もあります。これは精神科では離人症や現実感消失症候群と言ったりします。五感で感じないのに存在する、あるいは五感で感じるのに存在しないと思う事を実体意識性の問題と言います。これは逆に五感で感じるなら存在感があって当たり前、五感で感じられないものは存在しなくて当たり前と言う考え方に基づいていますが精神医学などで多様な精神状態を調べていると存在感も認識も曖昧なものであることに気づきます。人間が感情や意欲によって実在や認識を正しい、確かと感じる事は実存哲学で観察されたり研究されています。代表はニーチェでしょう。 第16章 素朴実在論、構造主義的哲学、ポスト構造主義の関係  現代哲学をまとめるとポスト構造主義が西洋哲学の結論です。  「『正しい』『確かである』という事には色々な意味が含まれる。『正しい』『確かである』近代哲学以前に考えられていたように重要な問題ではない。『正しい』『確かである』には定義が必要で前提条件があればそれを示すことが出来る場合も出来ない場合もあれば、まだできていないばあいもある。『正しい』『確かである』は必要に応じて作ることが出来る」という事になります。  ポスト構造主義ではあらゆる思想、考え方、学問、理論、そういったものを合わせてここではイデオロギーと呼びますが、イデオロギーを俯瞰的な目でみます。ポスト構造主義自体もイデオロギーですが他のイデオロギーから除外して特別な他の全てのイデオロギーに優先し他の全ての前提となるイデオロギーとしてメタイデオロギーと呼びます。  メタイデオロギーであるポスト構造主義にとっては普通のイデオロギーを正しい、確かであるの視点で見る事は特別な事ではありません。 イデオロギーが確かであるか、正しいかを問題にする場合にはどういう意味で、どういう定義で「正しい」や「確か」という言葉を使っているかはっきりさせなければ意味がないとみなします。 また同時に問題の正しさや確かさを問題にするがなぜそれを問題にするかを考えます。 世の中問題にすれば問題になりますが、問題にしなければ問題にならないことが多くあります。「正しさ」「確かさ」を問題にする人には何か事情があるのではないかと考えます。無知も含めてです。 ポスト構造主義でイデオロギーを考える場合には「正しさ」や「確かさ」よりはまず別の面白い分け方をする場合があります。その分け方は「素朴実在論」に立脚したイデオロギーであるかそうではないかです。 素朴実在論を解説したときに、素朴実在論はボロメオの環の現実界と想像界の共通部分に相当すると解説しました。もう一度図示しましょう。全ての意識に生じる現象を3つの環で表すとすると素朴実在論は飢えの図でJAとa、下の図で対象aと〈他〉の享楽に相当すると解説しました。それ以外の部分は素朴実在論以外の見方ですが、素朴実在論のJAとaの領域を含めてこの図の分画全体を説明できるのが構造主義的哲学です。  ボロメオの環は全てのイデオロギーを含むのでイデオロギーは①素朴実在論的かつ非構造主義的哲学的イデオロギーか、②素朴実在論的であり同時に構造主義的哲学的であるイデオロギーか、③素朴実在論を否定し構造主義的哲学的であるイデオロギーかのどれかに分類されます。①が近代哲学でモダニズムの考え方であり、①、②、③いずれの見方も出来るのがポスト構造主義的な見方になります。  これは哲学の歴史的経緯で出現した思想のどれに属するかによって哲学を分類した見方です。「正しさ」「確かさ」で分類したければ、公理主義と実証主義を用いて矛盾のないイデオロギーか矛盾を含むイデオロギーかで分類すると近代的な「正しさ」「確かさ」の現代哲学的な言い換えになるかもしれません。  ポスト構造主義を前提条件とすると「確かであるか」「正しいか」「素朴実在論的か」「構造主義的哲学的か」「公理主義的か」「理論の実証が上手くいっているか」によって分類できますが、分類すること自体恣意的で必要がなければ分類する必要もなく必要に応じて分類すればいいだけです。  またメタイデオロギーであるポスト構造主義を除いてはどのイデオロギーもどれかが特別でどれかのイデオロギーに対してどちらかが優位であるという見方を必要でなければしません。必要な場合は「特別なイデオロギー」や「イデオロギーの優劣」の意味か定義をつけないといけません。  ポスト構造主義自体はメタイデオロギーでイデオロギーのイデオロギーですのでイデオロギーをどうみなすかについての考え方です。ポスト構造主義にとっては全てのイデオロギーは平等でどれかが他に優越だったりどれかが他に対して特別な意味があるとは「優越」や「特別」の意味を作ることによってしかどれか一つが優越であったり特別であったりすることはありません。  これはイデオロギーに対する平等主義です。  またポスト構造主義自体は世俗のイデオロギーではありません。世俗でないという意味はポスト構造主義を自分の主義とする事により日常生活や社会生活の中での思考や行動に影響を及ぼさないという事です。  これはポスト構造主義を自分の主義とすればいつでもどこでも好きなイデオロギーを好きなだけ選択して自分のイデオロギーとしていいという事を意味します。これを自遊空間と呼び、イデオロギーを自由に選ぶ自由をメタ自由主義と呼びます。イデオロギー全体を俯瞰して客観的に見る視点をメタ認知と呼びます。メタ認知を維持するためには自覚と主体性が必要です。イデオロギーを差別なく眺める視点をメタ平等主義と名付けます。自遊空間の中でイデオロギーを自由に選択する生き方が現代哲学的な生き方です。 第17章 知的エリートとリベラルアーツと現代哲学  現代哲学は全てのイデオロギーの基礎学問になります。イデオロギーとは理論や体系、考え方全てを含むので知的営みの基礎は現代哲学になります。特に諸学問の基礎は素朴実在論の肯定否定はともかく構造主義化されています。ですから現代の全ての学問の基礎は現代哲学と言えます。科学や工学の基礎が現代哲学ですからテクノロジーも現代哲学がベースになっています。物理学も素粒子論も宇宙論も情報科学も計算機科学も現代哲学を基礎としています。人文、社会科学も同じです。全ての学問に共通する部分と言えば現代哲学だけですので学問の基礎と言えます。  現代哲学は我々の世俗の生き方に影響を与えません。現代哲学を自分の主義とした場合にはサブイデオロギーとして世俗で生きていくのに指針となるイデオロギーを選ぶ事になるかもしれません。しかし現代哲学はあらゆるイデオロギーを特別扱いも優位なものともみなさないため何を選択するかは自由であり、何を選択しても平等です。  また現代哲学を自分の主義とした場合には高い主体性と自覚を求められます。物事やイデオロギーを見るに際してメタ認知を必要とするからです。メタ認知とはソクラテスが「私は自分が知らないことを知っている」と言った、ウィットゲンシュタインが「語るべきことでないことは沈黙すべきである」と言ったのと同質のメタ認知です。  こういったものを持たない人間はどういう人間になるかと言うと、まず主体性も自覚もありません。認識する主体を自我、認識される客体を自己という使い分けをすることがあります。客観的に自分や自分の考えていること意識している事を俯瞰的に見れなければ選択も反省もありません。自覚とは作業記憶や意識野を広く見る心的エネルギーや注意力、緊張感、集中力や持続力を要します。選択肢がないか選択肢がないことに気が付かないと偏りますし、限られた選択肢に執着しますし、自由がありません。自分が知らないことに気づかなければ謙虚さもありません。そもそも広い選択肢がなければイデオロギーの平等の意識も保ちにくいですし、自分の知らないことも尊重しにくいでしょう。  偏った考えに執着して不平等で偏見や思い込みが強く精神の自由がなく、人もイデオロギーも尊敬も尊重もできず謙虚さもなく考え方も知識の種類も数量もない人間は知的とは言えません。話していても何が地雷になるか何に反応してどういう態度を取ってくるかわからず不気味ですし不愉快な思いをするかもしれません。そういう人間は自衛のために避けるでしょう。何か学ぶべきところがあればいいのですが知的な広がりや選択肢が少ないと交流しても新しい知識や刺激が得られず退屈かもしれません。現代哲学は上記の様に上品とみなされる徳を持ちやすく人にやさしく寛容ですが、忙しい場合には交際の時間を取ってもらえないかもしれません。  知的なエリートと言うと嫌味に響くかもしれませんがこれは訓練して身につけられるものです。特に生まれつき頭の回転が速いとかワーキングメモリーが大きいとか記憶力がいいとかそれだけでは現代哲学は身につきません。学習と訓練が必要です。勉強と教育を受けた人だけが身につけられるものです。独学でも自分で努力して身につけられます。人並外れた頭脳がなくても良いのです。逆に頭の回転や作業記憶や記憶力に頼って現代哲学を身につけないと頭が悪く見えます。考えが偏っているのにそれの自覚なく、思い込みが強く、物事を決まったやり方でしか考えられず情報処理が出来ず、幅の狭い人間に見られているのに本人にその自覚がなく謙虚さも自分が知らない分野への尊重もない、極端な例かもしれませんがそういう人との新しい接触は引いてしまうでしょう。付き合ってみれば意外と面白くいいやつかもしれませんが。  ですから現代哲学は全ての学問の基礎として高等教育の基礎であるとともに、高等教育を受けたもの同士が共有し人と人とを結びつけるための品性であり徳でもあります。学問は発達し専門教育だけ受けていても人と共有できる共通点を持つ事は出来ないかもしれませんがリベラルアーツは人と人とを結びつけるものであり現代哲学にはリベラルアーツの求める様を備えています。リベラルアーツは教養とは異なると書きましたが現代哲学は偶然にも結果として人間修養にもなるので教養も身につくでしょう。  現代哲学を身につけるとイデオロギーの選択肢を増やすことのことによる恩恵が身につけていない場合と比べ物にならなくなります。新しいイデオロギーを増やせば増やすほど選択肢が増え選択できる組み合わせも増えその管理、制御を自在にこなせますから勉強するモチベーションも上がりますし学習という自己投資が好きになるでしょう。自己投資の結果は知的に豊かな人間になり、かつ寛容さや優しさや謙虚さが身につきます。知的な技術ですが感情や意欲のコントロールにも役に立ちます。色々な人生の問題解決能力も上がるでしょう。交友関係の広がりによるものも含めてです。  なぜこのような効用があるかと言えば、一つには現代哲学の内容は数学基礎論のマスターと言う知的な要素の他、お釈迦様の原始仏教、龍樹の空論や中観論、天台智顗の三諦論などの仏教の悟りの内容、医学である精神病理学の到達点と同じ内容なので単に哲学のみならず人文的要素や倫理的要素を含むからです。もともと哲学philo-+-sophy=知を愛す、知への愛という意味があったり、万学を指す意味が古代よりありますので人類の精神性の決勝なのです。 あとがき  「つくる」という点から現代哲学を解説しました。  モダニズムの特徴はイデオロギーにせよ、「正しさ」「確かさ」にせよ発見するものでしたが、ポストモダン、現代哲学ではイデオロギーも「正しさ」「確かさ」も作るものです。  現代は不自然な時代であり人工的な時代です。しかし自然がいいかどうかも良く分かりません。古い時代を自然であるとすれば公衆衛生的に不潔極まりない時代です。不潔とは医学的には「病原性のある」と言う意味で拾ったものを食べても排泄物をなめてもそれらに菌やウイルス、有毒な化合物などが含まれていなければ不潔とは言えません。時代を遡ると人類は生活環境が不潔であったため短命なのが普通でした。  「自然を制覇する」と言えばおこがましいですが我々は自然を利用しその恩恵を受けています。それにはいいことも悪いこともあるかもしれませんが我々の進む道です。不自然なお蔭で平均寿命も延びましたし若々しく生きられる期間も増えています。  芸は長く、人生は短いArs longus, vita brevis.と言いますが今は逆の時代で芸は短く、人生は長い時代です。細分化された専門性や小手先の技術で長い人生、古い人間にならず生きていくとは思えません。  私達には長く知的に生きていきたいのであればそのために役に立つ技術が必要です。それが現代のリベラルアーツです。応用や専門の知識や技術が爆発的に増大している時代です。また知的な事に関わらず基礎トレーニングの大切さは学者などの職業でなくても、スポーツ選手や職人、ビジネスマンなどの人々でも明らかでしょう。最初から基礎教育を受けさせられますし、それを一生維持していくためのトレーニングやメンテナンスも定期的なセミナーや実習、講習などでなされる時代です。  欧米の大学では基礎教育としてリベラルアーツは重要でありリベラルアーツには現代哲学も含まれています。いわば知的な世界の世界の共通言語ですので日本の大学でもリベラルアーツ教育として現代哲学を必修化すべきです。 (第一稿完成2020年8月20日129,720字)

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