2020年8月6日木曜日

精神科医でありマジシャンである志村先生のアドバイスで本のタイトルを「世界のエリートだけが知っているLiberal artsリベラルアーツ」にしてプロットを変えて書いてみる事になりました。 志村先生が今度ミスディレクションと認知行動療法の本を講談社からお出しになるので、その担当の方に紹介して下さるそうです。 編集者にアピールできるようにパッケージを変えてみます。 ということで現代哲学を広める対象を世界中の人々とし、現代哲学=リベラルアーツという新しい趣旨でやや本の書き方を工夫してみたいと思います。 ①「現代哲学があってliberal artsがある」 ②「現代哲学があってliberal artsがない」 ③「現代哲学がなくてliberal artsがある」 ④「現代哲学がなくてliberal artsがない」 この場合なりたつのは①だけと考えて現代哲学を習得していることとliberal artsがあることを等価で必要条件と考えてみたいと思います。 学習院大学から国立大学に転向した学生さんに伺った話ですが、学習院大学の教養課程では統計学がないそうです。 私としては教養課程で統計学を教えなくても現代哲学だけは教えてくれればいいのですが、統計学を教えない大学の教養や統計学を知らない学士というものに何を求めているのか分かりません。 「教養とリベラルアーツは同じである」と言って教養がリベラルアーツにすり寄ってきても気持ちが悪いので、教養とリベラルアーツという言葉は切り離して別の言葉にしてしまうべきではないでしょうか。 そうすれば統計学のない教養も統計学を知らない博士も統計学を教えない大学も別の事にエネルギーを集中できるので、教養の意味を明確にしたうえで教養科目を厳選すべきではないでしょうか。 でないと大学時代の教養の1年間か2年間が腐ったものになってしまいます。 一番頭を鍛えるべき時期に我々大人が若者に腐った学習教程しか与えられないという事は大学という物が腐っているのではなく我々大人が腐っていると考えられます。

精神科医でありマジシャンである志村先生のアドバイスで本のタイトルを「世界のエリートだけが知っているLiberal artsリベラルアーツ」にしてプロットを変えて書いてみる事になりました。 志村先生が今度ミスディレクションと認知行動療法の本を講談社からお出しになるので、その担当の方に紹介して下さるそうです。 編集者にアピールできるようにパッケージを変えてみます。 ということで現代哲学を広める対象を世界中の人々とし、現代哲学=リベラルアーツという新しい趣旨でやや本の書き方を工夫してみたいと思います。 ①「現代哲学があってliberal artsがある」 ②「現代哲学があってliberal artsがない」 ③「現代哲学がなくてliberal artsがある」 ④「現代哲学がなくてliberal artsがない」 この場合なりたつのは①だけと考えて現代哲学を習得していることとliberal artsがあることを等価で必要条件と考えてみたいと思います。 学習院大学から国立大学に転向した学生さんに伺った話ですが、学習院大学の教養課程では統計学がないそうです。 私としては教養課程で統計学を教えなくても現代哲学だけは教えてくれればいいのですが、統計学を教えない大学の教養や統計学を知らない学士というものに何を求めているのか分かりません。 「教養とリベラルアーツは同じである」と言って教養がリベラルアーツにすり寄ってきても気持ちが悪いので、教養とリベラルアーツという言葉は切り離して別の言葉にしてしまうべきではないでしょうか。 そうすれば統計学のない教養も統計学を知らない博士も統計学を教えない大学も別の事にエネルギーを集中できるので、教養の意味を明確にしたうえで教養科目を厳選すべきではないでしょうか。 でないと大学時代の教養の1年間か2年間が腐ったものになってしまいます。 一番頭を鍛えるべき時期に我々大人が若者に腐った学習教程しか与えられないという事は大学という物が腐っているのではなく我々大人が腐っていると考えられます。 世界のエリートだけが知っている Liberal Arts リベラルアーツ 学問と現代社会の基礎 第1篇 現代哲学の創造 第2篇 現代哲学の活用 我々は知らなければならない。我々は知るだろう   ダフィット・ヒルベルト 知は力なり     フランシス・ベーコン はじめに  この教科書は西洋近代哲学の到達点であり終着点である現代哲学の入門書です。 現代哲学は完成した学問です。  現代哲学の理解には次の3つ基礎事項を理解する必要があります。 ① 素朴実在論 ② 構造主義的哲学 ③ ポスト構造主義  この3つの基礎事項がどの様に成立したかを4つの分野から成立の歴史を通して解説し帰納的に現代哲学を理解してもらうのが第1篇の目的です。  逆に第2篇は現代哲学の原理から演繹的に現代哲学の使用法と現代の学問や社会の基礎としてどの様に使われているのかを解説します。  現代哲学を理解し使いこなせる様にすることがこの本の目的ですがその目的に副次的に随伴して出現するもう一つの目的があります。  それは智と愛を大切にすること、特に智への愛を持ってもらうことです。英語ではそれをphilosophyと言います。Philo-は愛、-sophyは智を表します。直訳すると“知を愛する”“知への愛”という意味にもなります。 またphilosophyは西洋哲学の歴史では「確実性を追求する学問」という意味に使われてきました。contepmorary philosophy、すなわち現代哲学を学ぶことで「確実なものは何か」について人類が到達した答えを知ることができます。 Contemporary philosophyは日本語で現代思想と訳されることがあります。倫理学は哲学を含む大きな学問で哲学を含みます。倫理学では思想は人々の思いなしを表し広い意味があります。意味が広すぎますので本書は哲学の教科書として思想は第2篇でやや触れる程度とします。 副次的な目的のもう一つは教養=liberal artsを身につける事です。 ギリシア時代は都市の住民は市民権を持った市民である自由民(自由市民)と市民権を持たたない非自由民(奴隷)に分かれていました。市民に求められる能力と奴隷に求められる能力は違います。市民、自由な民に求められる能力が自由の技術(liberal arts)教養です。奴隷が自由民になるためには教養(liberal arts)が必要です。Liberal artsは日本語で教養ですがこの教科書では2つの意味を含みます。一つは人間の精神を自由にする技術、もう一つは新しい知識や考え方を学び自分自身に教え知能を養うことです。 なぜ現代哲学を学ぶのにphilosophyやliberal artsが必要になるかというと現代哲学は知の土台にすぎないからです。現代哲学は確実なものは何かについての答えを教えてくれますが、我々がどのように考え、どのように行動し、どの様に生きるべきかについては何も教えてくれません。つまり道徳や倫理については何も教えてくれないので現代哲学だけ学んでも考え方や行動についての選択肢を持てません。 選択肢は自分で考えて決めなければいけませんのでより多くの事を学ぶ必要があるからです。 2019年9月11日 奥村 克行 序論  本書は西洋哲学により行き着いた「確実性」や「正しさ」についての結論である現代哲学の解説と入門の教科書です。  本書は5通りの方法で現代哲学を学んで頂きます。  第一篇では帰納的な4通りの方法で、第二編では演繹的な1通りの方法で学んでもらいます。  「確実なものは何か」「正しいものは何か」これが西洋近代哲学の問いでした。   哲学にも色々あります。高校の社会科で倫理を選択した人は「日本の哲学」「西洋の哲学」「中国の哲学」「インドの哲学」などの項目でいろいろな時代、いろいろな地域の思想や考え方を学んだでしょう。その中には特に「確実性」「正しさ」の追求とは関係ない思想の項目も多くあります。倫理学とは人々の思いなしを研究する学問であって、必ずしも確実性や正しさの追求だけを研究する学問ではありません。  思いなしとは特に確実性の追求や確実性の保証がなされていなくても行う人々の思考の営みですし、知情意のうち思考や知的なものだけを対象にするのではなく、感情や気分、意志や意欲などより幅広い人間の精神の営みを研究します。  倫理学のうち確実性を追求する学問は西洋哲学、仏教、また特に近代に再興した自然科学でしょう。    現代哲学では「確実性」や「正しさ」とは何かの結論は、 ① 素朴実在論 ② 構造主義的哲学 ③ ポスト構造主義 の3つの理論に集約されます。  奇しくも仏教も同じ結論に辿り着いており、現代哲学と仏教、特に原始仏教や大乗仏教の基礎は全く同じ学問です。現代哲学の3大理論である①素朴実在論、②構造主義的哲学、③ポスト構造主義を仏教では ④ 戯(仮)=色 ⑤ 空 ⑥ 中観=中道 で表します。①=④、②=⑤、③=⑥です。 そのように現代哲学と仏教は同じものであるため仏教のナーガールジュナ(龍樹)の空や中観の考え方や天台宗の智顗の三諦論を理解していれば現代哲学も理解できます。 同様に現代哲学を理解するための方法として現代数学の基礎論と精神医学・精神病理学・精神分析学からのアプローチがあります。 この教科書の第1篇では現代哲学を4通りの帰納的な方法で理解してもらう、つまり現代哲学成立に至る経緯から現代哲学を理解してもらうために、①倫理学・哲学、②仏教教学、③現代数学・数学基礎論、④精神医学・精神病理学・精神分析学、の4通りの方法で理解してもらえるように書かれています。 4通りのアプローチのどれかで感覚的に理解のきっかけがつかめれば他の方法も理解できるかもしれませんし、あるいは他の方法は理解しなくてもいいかもしれません。 現代哲学が発見された経緯の説明になりますが、逆に言えば現代哲学の使用方法については重視しません。  他方で第2篇では現代哲学を演繹的に理解して頂きます。  現代哲学の3つの原理から出発し、どの様に現代の思想や現代の科学技術、現代の社会が形作られていくのかを解説します。  現代哲学の使用法、応用方法を原理から発展させて説明し現代哲学を使いこなせる様になることを目指します。  逆に言うと第二編では第一篇の様になぜその原理から出発するのかは説明しません。実践・活用の中でon the job trainingすることも何であれ技能習得の一つの方法です。  第一篇の帰納的理解からでも第二編の演繹的理解からでも何らかの方法で現代哲学の概要を直感的に理解する事が出れば、現代哲学を直感的に理解する事が難しく感じる人が現代哲学を理解する端緒になるでしょう。 現代哲学は近代科学の到達点であるとともに一分野であり、近代科学とは方法の精神です。方法精神とは理解に至る方法を徹底的に再現性を持って明示することです。理解に至る方法が明示されているということは全ての人が少なくとも努力さえすればいつかは理解に到達できるという事です。また最終的に同じ結論に至るにしてもそのための方法が多いに越したことはありません。問題の解法、解説方法、説明方法が多様であるならば現代哲学をマスター出来る確率がより高まります。  現代哲学を習得すると知を愛する、教養を持つという意味でのphilosophyとliberal artsが重要になります。現代哲学を基本とすると新たな知を身につけることで単純に考えて n個の学問を身に付ければ指数関数の2のn乗、あるいは順列の階乗のn!だけ頭がよくなります。 そしてそれを使いこなすためのメタ認知、自覚、主体性、自由、選択肢を増やすこと、これが現代哲学及び現代思想の核心です。 目次 はしがき 序論 第1篇 現代哲学の作り方 第1部 第1章  哲学は存在論と認識論からできている 存在論とは何か? 認識論とは何か? 物と事 構造主義について  現代哲学の歴史 3-1 近代以前 3-2 現代以降現代哲学の歴史 第4章 現代哲学の解説 4-0 4-1 4-2 第2部 現代哲学の生理学と病理学 第5章 仏教と現代哲学 第6章 現代哲学と現代の基礎科学:現代数学と物理学 6-1 なぜ現代数学か 第7章 全ては心より生ずる:精神医学と現代哲学 第1章 philosophyとliberal arts 1-1  philosophy 1-2  liberal arts 1-3 まとめ コラム1 2 現代哲学を学ぶ利益 コラム2  現代思想と現代数学、情報科学、計算機科学 1-3 終論  第1編 現代哲学の基礎編・教養篇・現代哲学篇のまとめ 第2編 現代哲学の応用篇・技術篇・現代思想篇 目次 第2編 現代哲学の応用篇・技術篇・現代思想篇 目次 第2編 現代哲学の応用編・実践編・現代思想篇 第4部 現代哲学の原理と演繹のフレームワーク 第8章 現代哲学の原理 第9章 現代哲学の応用に当たっての注意点  現代哲学で注意すべきこと 第5部 現代哲学の演繹と世俗、実際での適用 第10章 現代哲学と世俗イデオロギーの関係   11-0 イデオロギーの実使用学 イデオロギー分析、応用のための構造主義 構造主義の実践的な活用 現代的構造主義の脱構築と構築 イデオロギーの駆使の仕方 第11章 シミュラークル、シミュレーションの世界、大きな物語とナラティブ シミュラークル、シミュレーションの世界 第12章 時間論 第13章 情報、通信、コミュニケーション 13-0 コミュニケーションの確実性 第14章 現代哲学の自然科学への応用 20-  情報科学と現代哲学 公理主義化されない構造:文学、デザイン、ファッション 第15章 メタアノミー、アノミーの研究、ニヒリズム、思想の無や混乱 第16章 倫理道徳と現代哲学  倫理、道徳、判力と現代哲学 第17章 モダニズム批判 17-0 モダニズム批判、ポストモダン 第18章 精神保健医療への応用 あとがき 謝辞 第1編 現代哲学を作る もし私がそれをより理解したのであればそれは巨人の肩に立って見たからである   アイザック・ニュートン 第1部 現代哲学を学ぶ準備 第1章 現代哲学で何が学べるか 1-1 「確かさ」「正しさ」への問いの答え  現代哲学を学ぶために現代哲学の意義を説明します。  西洋哲学は「確かさ」「正しさ」とは何かを追求する学問です。この現代哲学では西洋哲学の問いに回答が与えられます。 1-2 現代社会の基礎を理解する  現在は現代哲学を基礎に成り立つ時代です。  全ての科学は現代哲学を基礎にしています。  現代社会もたとえそれが成功していないにせよ現代哲学を基礎とすることを志向しています。  科学の基礎を理解したければ現代哲学を習得することで目的を達成できます。 1-3 自分自身を理解する  現代哲学を理解する事で個人が抱えている問題に答えが与えられる可能性があります。  特に実存的な問題がそうで仏教のお釈迦様は修行により現代哲学と同等の内容である仏教を悟ることで自分が抱えていた問題を解決することが出来ました。  現代哲学を理解するとジレンマやダブルバインドな問題を整理できますので、精神疾患の発症予防や治療に役立つ可能性があります。  つまり精神衛生上有意義です。 1-4 仏教の基礎を理解する  現代哲学を理解することで同時に原始仏教や大乗仏教の本質を理解できます。  お釈迦様の悟りの内容や龍樹(ナーガールジュナ)の空論や中観論、天台智顗の三諦論は同じものです。  この教科書では仏教の本質を理解する事ができます。 1-5 現代数学を理解する  現代数学は現代哲学と共通の考え方を土台に成立しています。  数でも幾何学図形でも現代数学ではそれを構成することが基礎になります。  それが何かを問うのではなく、それを作ることが出発点になった理由を学ぶことが出来ます。 1-6 哲学philosophyや教養liberal artsを持つ  現代哲学を理解するとphilosophyやliberal artsの大切さが理解できます。  現代哲学は思弁の基礎です。  基礎を実用に移すためにはその道具が必要です。  自分で道具を作る時に、また先人が作った道具を使えるようにするためにはphilosophyすなわち知への愛着やliberal artsすなわち教養を身につけると良いでしょう。   1-7 現代哲学を使う  観念的な思想である現代哲学を日常や社会生活で使う方法を説明します。  現代哲学を習得すると結果としてメタ認知、主体性、自由度、選択肢が増大するため頭がよくなります。   1-8 第1章のまとめ  現代哲学を学ぶ意義と習得内容について紹介しました。  この教科書はこの章で上げた順番で書かれています。  本章で取り上げたことのどれかを身につけたい場合、この教科書を活用して頂ければ大きなメリットがあるはずです。 第2部 現代哲学はどのように作られたか  第2部では現代哲学がどの様に成立したかについて4通りの方法で説明します。  第3章では倫理学・思想史・哲学史の観点から、第4章で仏教の観点から、第5章では現代数学・数学基礎論の観点から、第6章では精神医学・精神病理学・精神分析学の観点から現代哲学が見出される経緯を説明します。  歴史的に成立までの経緯により説明するので現代哲学の帰納的な理解になります。  第3章、第4章、第5章、第6章、はそれぞれ独立に書くのでどの章から読めるように書かれています。  興味のある読みやすい章からお読みください。 予め説明すると第2篇は現代哲学を演繹的に説明します。  成立の経緯などは置いておいて使い方を詳細に説明します。  その第1篇と第2篇はどちらから読んでもらっても構いません。 第2章 現代哲学を学ぶ準備 2-1 現代哲学の概論  現代哲学とは何か?  哲学とは西洋の哲学においては「正しさとはなにか」「確かさとはなにか」を探求する学問です。  現代哲学はその疑問に解答を与えます。  その回答は「正しさとは何を正しいとするかによる」「確かさとは何を正しいかとするかによる」です。  これだけ理解して記憶しておいて頂ければ現代哲学を学ぶ意義があります。  現代哲学においては「正しさ」や「確かさ」は作るものです。  あるいは「正しさ」や「確かさ」は何を「正しい」と定義するか、何を「確かである」と定義するかによるものです。  言い換えれば現代哲学では「正しさ」や「確かさ」は定義するものであって、「正しさ」や「確かさ」は特別な意味をもっていません。  現代哲学について「正しさ」や「確かさ」に関する上記の解答を受け入れたとしても色々な疑問点が出てくるでしょう。  この教科書はその様な疑問点を理解して納得してもらうために書かれています。  まずは「それでは正しいものはないのか」「確かなものはないのか」という疑問が浮かぶと思います。  いつの時代で誰にでも地域を問わず受け入れられる正しさや確かさというものがあるかどうかは現代哲学では「分からない」と考えます。  知性的、客観的に何かの正しさや正しさを保証できないので現代哲学は考えるので、その様な疑問に対しては不可知論を取ります。  不可知論ですから特に近代以前の哲学を否定しているわけではありません。  それどころか現代哲学をマスターした暁には近代以前の哲学で学んだことは現代哲学にとって有用なつーるになりまうs  また「何を正しいとするのか」「何をたしかとするのか」については自分の好きなものを正しいと思ったり確かだと思ったりするものを正しく、確かであると自分で判断して採用します。  好きなものというのは自分で正しく感じられる、確からしく感じられるものを正しく、確かであると信じるという場合があります。  また正しいと思いたい、確かだと思いたいものを確かだと思う場合が、無意識的に、あるいは意識的に行う場合があります。  あるいは自分が考えた思想、もともと世の中に流布している思想を正しく、確かだと考える場合もあります。  まとめると「何が正しいか」「何が確かか」の答え2通りあります。 一つはその人が正しく確かだと思い込んでいるものがその人にとって正しく確かなものになります。 もう一つはその人が正しく確かであると選択したものがその人にとって正しく確かなものになります。  これらの結論はよく聞こえたり悪く聞こえたりするかもしれませんが、良い悪いを別としてどの場合にも重要な意味があります。  この教科書ではそれぞれの場合の持つ意味について詳しく説明します。 コラム2-1 現代の「正しさ」と「確かさ」の例:科学の場合  現代哲学では「正しさ」や「確かさ」を定義すると説明しました。  これは現代という時代の基本的スタンスでもあります。  自然科学の基礎になっている数学を例にとって考えてみましょう。  算数(算術)や数論では数という概念を使います。  数とは何かは近代以前の数学にせよ、哲学にせよテーマでしたが数とは「人間が作るもの」という考え方はされませんでした。  現代数学では数というのは集合論や位相論などで作るものです。  算術の可能性も群、環、体などの概念から構成します。  代数学を公理化した偉大な数学者レオポルド・クロネッカーは「自然数は神が作り給うた。他は人間のわざである」と言いましたが、現代数学では自然数も人間が作ったわざと考えます。  数学は物理学の基礎で物理学は化学などの全ての基礎系自然科学の基礎であり、すから数学が作られたものなら自然科学も基礎系応用科学である化学、地質学・宇宙物理学などの基礎になり、基礎系応用科学は生物学などの基礎になります。また応用化学、あるいは科学の応用である技術、工学も基礎は数学です。  計算機科学、情報科学、認知科学は一部数学の直系の応用科学であり、人文科学・社会科学は数学の直系の科学であり直接現代社会を支えています。   科学を理論系と実験系に分ける考え方があります。実験系は広く言うと実証系で、観察、観測、実験、測定、実測など観察対象から情報・データを取り出す作業になります。これは人間の恣意性に左右されそうですが、やはり正しさ、確かさを担保するために人間の恣意性を出来るだけ排除することを目指した結果、方法が厳密に定められます。方法の明示と再現性の確保が自然科学であり、理論的にも実証的にも方法を明確にし確実な再現性を担保するという意味で近代以降の科学とは方法の精神です。 2-2 近代以前の哲学と現代哲学  近代以前の西洋哲学では正しいもの、確かなものがあるかないか、正しいもの、確かなものがあるとすればそれは何かを探求します。  あるかないか、そしてあるならそれは何かを追求するのでこれを存在論と呼びます。  存在論とともに重要になるのが正しいもの、確かなものがあるかないかを人間が認識する能力があるのか、もし認識する能力があるとすると実在する正しいもの、確かなものをどのように認識するのかについてが問題になります。  これを認識論と言います。  これは西洋哲学の2つの大きな柱です。  現代哲学では正しいもの、確かなものがあるかどうかという考え方をしません。  正しさや確かさが重要なのであれば、それをどのように作るのかと考えます。  正しいものや確かなものがすでに作られているとすれば、それがどの様に正しさや確かさを保証しているのかを分析します。  裏腹の関係ですが、正しくないことや確かでないことを作ることもありますし、正しくないとわかってること、確かでないとわかっていることの構造分析を行うこともあります。  そういう意味も含めて現代哲学以前の思想、哲学は全て現代哲学の分析対象になります。  近代以前の哲学は現代哲学の研究対象になります。  また特別な場合、特殊な場合を除いて現代哲学はもはや「正しさ」「確かさ」に対する拘りが消失しています。  「正しさ」や「確かさ」に拘っても仕方がない、というのが現代哲学のニュアンスです。  現代哲学が「正しさ」や「確かさ」を問題にするのは、過剰に「正しさ」や「確実さ」を問題にする近代哲学や近代主義(モダニズム)を批判する場合や、論理や数学やコミュニケーションなど「正しさ」や「確かさ」を故意に構築しないといけない場合などです。 現代哲学は近代以前の哲学より一般的な視点を持っているので「正しさ」や「確かさ」を問題にするのは特殊なケースになります。  哲学が「正しさ」や「確かさ」を問題にするのであれば、現代哲学はそれを特殊な例とみなして拡張一般化しているので見ようによっては哲学を超えています。  哲学を含む哲学より広い分野は倫理学になりますが、倫理学は思想全般をそれが正しいか、確かかに関係なく研究します。  また人間が「正しさ」や「確かさ」に執着してしまう心理についても研究します。  そういう意味では現代哲学ではなく現代思想という言葉が使われる場合があります。  この教科書では「正しさ」や「確かさ」をめぐる哲学の文脈内で説明を行っていますので現代哲学の教科書としています。 2-3 「現代」という言葉について  現代哲学は「正しさ」「確かさ」についての人間の思惟の結論です。  英語では近代は「modern」、現代は「contemporary」です。  歴史的には「ポストモダン(post-modern)」という言葉が使われることもあります。  Modern=近代以前は「正しさ」「確かさ」にそれが何を最終的に意味するかもわからぬまま拘束され抑圧されてきた時代ですので、近代以前が批判されるのは仕方がないかもしれません。  現代哲学も現代思想も英語にするとcontemporary philosophyです。  またpost modernという言葉も普通名詞の時代区分が含まれます。  現代思想が西洋哲学の完成形であったとしてもそれに対して普通名詞であり、永遠を表さない時代概念を含む「現代」という言葉を使うのは違和感があります。  ですからいずれ現在現代哲学や現代思想と呼ばれているものに名称変更される時があるかもしれません。  現在は代替用語がないようですから現代哲学という言葉を引き続き使います。  近代と現代の境は近代がすでにあるはずの正しさ、正しさを探す時代であったとすれば、現代は正しさ、確かさは構築するものでしかないという認識の転換によって分ける事ができます。  現代や近代という時代区分は将来人類が長く続けば将来変わるかもしれません。  古代、中世、近代、現代という時代を時間軸で見る、位相的な見方や進歩的な名称は将来はなくなるかもしれません。  近々そういうことはないので現代哲学という言葉で1960年代のフランス現代思想が到達した西洋近代哲学の終焉と現代を基礎づ来る思想を表します。 第3章 倫理・思想・哲学からの現代哲学の理解 私は自分が知らないことを知っている。    ソクラテス ほとんどの場合人間は自分が望んでいることを喜んで信じる。                       ジュリアス・シーザー 3-0 本書での哲学史の意義  第3章では現代哲学が成立前の西洋哲学の歴史について簡単にまとめます。 現代哲学を学ぶのに西洋哲学史を学ぶのは必須ではありません。 ただし哲学史を知っていると現代哲学の理解が格段に楽になります。 例えば現代哲学で使う専門用語は名付けに歴史的いきさつがあり、そのいきさつを知っていると現代哲学の理解の助けになります。 それは現代哲学に登場する理論や概念でもそうです。 例えばラカンのシェーマLの理論です。 ラカンの理論は難解であることで知られます。 しかし実は難解ではありません。 予備知識なく理解しようとすると難解に見えますが、予備知識があれば実は簡単です。 過去の哲学や哲学以外の諸学問で登場する理論や概念の足し算に過ぎません。 例えばラカンのシェーマLは シェーマL = 実存主義哲学(特にニーチェかハイデガーのどちらか)       + 現象学       + 構造主義       + 精神分析学(フロイトのエディプスコンプレックスとクライン派) で理解できます。 それぞれの理論を理解していればシェーマLの理論は簡単です。 「全体としては難しく見えるものでも要素に分解して各要素を理解する事で全体を理解できるようになる」というのは近代科学の神髄で要素還元的方法論と呼ばれます。 近代科学の素晴らしさは理解に至る方法論が明確であることで、そのため一瞬で直感的に理解してしまう天才でなくても努力すれば誰でも理解に到達できる事です。  現代哲学で登場する理論や概念を説明するためにその都度部品の説明をするのはスムーズな理解につながらない可能性がありますので、第3章では現代哲学を説明するために必要そうな哲学史や昔の西洋哲学の理論について予め説明します。 本章では哲学という言葉は確実なものは何かを追求する学問という意味です。 3-1 西洋哲学  西洋哲学は確実性を追求する学問です。 何の確実性かというと存在の確実性、認識の確実性、道徳(行為の正しさ)の確実性、判断力(真善美を判断する)の確実性、コミュニケーションの確実性などです。 この中で存在と認識の確実性、すなわち存在論と認識論が大切でこの2つの確実性についての問題が解決したのが現代哲学です。 現代哲学を理解すれば他の全ての事の確実性についても結論が出ます。 確実なものは何かについての思弁による探求を古代において徹底的に行ったのは古代ギリシアと古代インドでした。 第1篇では現代哲学の存在論と認識論を解説します。  確実性についての徹底した議論は西洋哲学とインド哲学で見られます。  インド哲学については第1篇第3部第5章現代哲学と仏教の章で説明します。 この章では西洋哲学を解説します。 3-2 古代ギリシア哲学  古代ギリシアは知られている限り西洋哲学の源流です。 その中でソクラテス、プラトン、アリストテレスについて取り上げます。 3-2-0 ソクラテスと無知の知 ソクラテスは確かなもの、正しいものは何かを追求し、「分からない」という結論に達しました。 ソクラテスは自分が「分からない」ことを自覚しつつ他の人は分かっているか聞いて回ります。 その結果、他の人々が「分からない」ことを知らないことを発見します。 自分が知らないことを知らないまま知っているつもりになっている人がいます。 また根拠がないまま何かを妄信して確実なことを知っているという人もいます。 ソクラテスは神様の神託もあり「確実なことを何も知らないことを自覚している」自分が最も知恵のあるものであることを自覚します。 これを「無知の知」といいます。 これは西洋哲学史における最も画期的な発見の一つで現代哲学はソクラテスの結論を踏襲しています。 しかしソクラテスは人々の支持を得られず処刑されてしまいました。 3-2-1 プラトンとイデア論  ソクラテスの弟子のプラトンはやはり確実なものについて研究し確実なものはイデアであるという説を立てました。  イデアとは英語や日本語のアイデアの語源でカタカナ英語のアイデアと同じ意味の他、観念などの意味があります。  人間の心の中にわいてくるアイデアはとても確からしく思えるのでこれをプラトンは確実なものにして事物の存在や認識の本質と考えられました。  イデアについては下のコラムで例を挙げます。  現実の世界はイデアのコピーであって真の実在ではないという風に考えます。  イデア論では世界はイデア界の現実の世界の2つの世界があります。  プラトンのイデア論は現代哲学より前の西洋哲学やキリスト教神学に大きな影響を与えました。 コラム3-2-1-0イデア論  例えば犬という概念を持っていない人がいるとします。  柴犬、チワワ、セントバーナード、シェパード、その他のたくさんの犬を見てそれを同じ「イヌ」という種類の動物ではないかというアイデアを持った時にその人は「イヌ」のイデアを認識したことになります。  また目の前に実際の犬が存在したとしてもそれは真の実在ではなく「イデア界」と言われる真実の世界にある「イヌ」というイデアが真の実在であるという風に考えます。 コラム3-3-1-1 イデア論とキリスト教 聖書では神が人間を造ったと記載されています。 ですから聖書では人間を個別の人間ではなく人間というカテゴリーで見る見方があります。 カテゴリーの実在性を説明する理論としてイデア論は適切でした。 古代ギリシア、プラトンやアリストテレスは現実(形而下の世界)と非現実(形而上の世界)の2つに分けて考えました。 中世神学では神、事物、人間の3つに分けて考えます。 神、事物、人間の中にそれぞれ普遍(イデア)があります。 神はイデアを作り、事物はイデアの影として成り立ち、人間はイデアを認識する能力があります。 暗黒時代と言われる中世においてアリストテレスは忘れられ、プラトンはプラトニズム、ネオプラトニズムとして神学を支えました。 3-2-2 アリストテレスのイデアという仮定の排除 プラトンの弟子のアリストテレスも確実なものについて考えました。 質料形相論と呼ばれ確認できない「イデア」や「イデア界」を含めた仮定を排除するため世界を説明する新しい理論を作りました。 アリストテレス以前の哲学者たちの元素論や万物流転論、精神論など様々な哲学を踏まえています。 そのためにアリストテレスは事物の存在を質料(ヒュレー、しりょうと読む)と形相(エイドス)、可能態(デュナモス)と現実態(エネルゲイア)の4つの概念を道具立てとして考えます。 形相(エイドス)はプラトンのイデア(アイデア、概念)と同じように物事をカテゴライズする考え方ですが、プラトンの様に「イデア」「イデア界」という新しい実在を仮定するのではなく、あくまで我々が認識している世界の中だけで全ての物事とその変化を理解し説明します。 形相論では我々が認識する事物の本質がイデア界に存在するという仮定を排除します。プラトンのイデア論と混乱しないよう区別するためイデアという言葉を避け形相と言い換えました。 ただアリストテレスの重要性は質料形相論や可能態実現態論はあまりアリストテレスの業績として重要ではありません。 実際その部分では中世神学も含めて西洋哲学にプラトン程の影響を与えたとは思えません。 アリストテレスは古代の学問の大成者で「万学の祖」と称されます。 自然科学、社会科学、人文科学に広く精通し学問を整理しました。 情報の整理者として重要であり、図書館の司書をしていたライプニッツに似て現代にいれば情報科学者・技術者となっていたかもしれません。 現代哲学との関係で重要な点として現代論理学の祖と言われる記号論理学の命題論理や述語論理を想像したゴットフリート・フレーゲ以前最大の論理学者です。 また心理学的な観点を持っていた、言い換えると認知科学や精神の科学(分析学や医学)的な視点も持ち合わせていました。 更に、形而上学と形而下学という学問の区別を行います。 プラトンや後のキリスト教徒の関係でいうとイデア界や神の国などの異世界、一部の人間の内面などは形而上学にひっくるめてしまいました。 コラム3-2-2-0 プラトンとアリストテレスの違い  プラトンは世界を現実界とイデア界という2つに分けました。  現実界は感覚で認識できるのである意味その存在は確実に思えます。  しかしプラトンは我々のアイデアの主観的な正しさを重視し、イデア界というものを仮定しそちらの方が真実の実在であり、我々が事物の存在に確からしさを感じる理由であると考えました。  感覚的な実感より観念的な確信を重視したわけです。  アリストテレスはイデア論に対立するような世界を2つに分けない現実界だけですべてを説明する説を提示しています。  アリストテレスはプラトンの対立仮説を立てたにもかかわらず自説に拘りがないように見えるのに対してプラトンはイデア論に強いこだわりが見られます。  確実性についての追求、存在論や認識論以外の業績を見るとプラトンは業績が文系的であるのに対してアリストテレスは文理を問わず活躍しています。 またプラトンの私塾アカデメイアの門の上には「幾何学を知らざるものは入るべからず」と掲げられていましたがプラトンの著作からはプラトンの幾何学への心酔が分かりません。 アリストテレスの業績は自然科学、人文科学、社会科学の全てに及び、特に注意すべき点は心理学的見方がある点です。 プラトンはイデア論を唱え見たものの心理学的見方が希薄でイデア界が精神的なものなのか天国や地獄、死後の世界といった異界的なものなのか深く考えた形跡が薄いです。  アリストテレスは個別の学問に対する拘りよりは学問自体を整理した点が偉大です。  学問を大きく形而上学、形而下学と分けました。  アリストテレスは「万学の祖」と呼ばれ、イスラム文化で大切に継承、研究され、ヨーロッパに輸出され西洋哲学に大きな影響を与えました。  それとともに形而上、形而下の区別や論理学の重視など現代哲学にもつながっています。 コラム3-2-2-1 アリストテレスの質料形相論と現実態可能態論 アリストテレスはプラトンの様に世界をイデア界と現実の世界の2つに分割しません。世界は一つだけです。 アリストテレスは世界と現象を質料、形相、現実態、可能態で説明します。 我々が認識する世界の個々の事物は形相を持っていますがイデア界は存在せず個物の中に存在します。 そしてアリストテレスには世界の変化を考えるため、事物を質料と形相論、現実態と可能態という概念を使って説明を試みます。 AがBに変化する場合を考えます。 AはAという形相を持ちBはBという形相を持ちます。 AはBに変化する時Aという形相を失いBという形相を持ちます。 BにとってはAはBになるための材料の様なものと考えてそれを質料と呼びます。 AがBになれるという事を説明するのが現実態と可能態という考え方です。 AはAの現実態をとり、BはBという現実態をとっています。 AがBに変化できるという事はAがBになれる可能性を持つという事でありそれをBはAの可能態であるといいます。 これはこれで世界や成り立ちを説明するイデア論とは別の仮説ですが、アリストテレスがこの仮説にどこまで拘ったかというと単なる一つの対立仮説の例くらいにしか見てなかったかもしれません。 アリストテレスの業績はイスラムに引き継がれ文明の光となり中世ヨーロッパに再輸入されます。 その間ヨーロッパでは暗黒の中世で神秘主義やキリスト教徒親和性の高いプラトンのイデア論が支配的となります。 3-3 中世神学:実在論と唯名論 中世ヨーロッパは哲学の暗黒時代ですが中世末期に神学で遍論争が起こります。 中世神学では普遍が存在するかどうかが議論されます。 普遍とはイデアと言い換えてもよく、現実世界とは異なるところにある究極の実在です。 キリスト教は教義上、普遍が存在する必要があります。 例えば人間というイデアがないと人間全体を作ることも救うこともできないからです。 普遍が存在するという主張を実在論と言います。 一方でこれに対立する理論として唯名論が生まれます。 存在するのは事物のみで元から存在する普遍(=イデア=形相)というのは人間が経験から機能してカテゴライズして思弁に関係なく存在するように思い込んでいるだけであるという考え方です。 この論によれば普遍が元々存在していると思うのは誤りであり、人間がカテゴライズした概念について元から存在していると勘違いして名前を付けてラベリングしていると考えます。 これで事物の実在は説明がつくので、「普遍」という余計な仮定は必要なく棄却します。 これを有名な「オッカムのカミソリ」といいます。 カテゴライズして名前を付けるので「ただ名前があるのみ」と考えるので唯名論と言います。 名前の背後に人知を超えた普遍があるのではなく、ただの人間の恣意性と考えます。 人間が自分が確かだと思ったものを普遍的であると感じるバイアスに対する批判です。 コラム3-3 プラトニズムからアリストテレスへ  プラトニズムは人間の直感に働きかけて非常に確からしく万人に理解・納得しやすい哲学です。  いかもキリスト教と矛盾しません。  ですから中世にはプラトニズム、ネオプラトニズムなどの思想が支配的となります。  一方唯名論はクールな思想です。  しかも熱狂的な空気を作りやすい実在論に水を差します。  普遍論争はルネサンス、近代を経てイギリス経験論と大陸合理論の論争に引き継がれます。 3-4-0 近代の誕生から終焉への流れ  近代より前はキリスト教徒と教会は前提でした。 哲学はキリスト教と聖書の教義を現象の説明に哲学を使おうと努力します。 それが中世末期には哲学によりキリスト教の教義が証明できるのではないかと論争を始めます。 それが普遍論争でした。 近代では感覚でとらえられず、もしとらえられても(神秘主義などで)再現性もない聖書や神の概念はいったん保留にし、無視して思考を始めます。 仮定する必要のない前提は議論から切り離すことを中世の神学者にちなんで「オッカムの剃刀」といいます。 それは無神論や不可知論の形をとる場合もあります。 神を信じるにせよ信じないにせよ、聖書やキリスト教の教義を前提とせず思考するのが近代哲学です。 その結果神の存在を証明する哲学者もいますし、神の存在が理論上必要であるという哲学者もいます。 一方で神の存在を必要としない哲学を打ち立てる哲学者も現れます。 近代初期にはそうした姿勢は宗教勢力から反発されます。 ルネサンス期は無神論者として異端認定したや破門されると無神論者は簡単に変節し懺悔して悔い改めました。 異教の神を描いた「ヴィーナスの誕生」で知られる画家のボッティチェリは教会に批判され自分の作品を全て燃やしました。 フィレンツェのサボナローラの反ルネサンスの保守反動による社会的狂乱は有名です。 キリスト教徒ではありませんがユダヤ教徒のスピノザはユダヤ教から破門され暗殺されかけました。 しかし近代を通して西ヨーロッパ、特に宗教改革や社会変動で中世の枠組みが変化したエリアでは思考の自由が大きくなっていきます。 市民革命やフランス革命による人権と精神の自由の獲得を経て、哲学者の思考は自由になり、近代哲学の最後にして現代哲学を切り開いたといえるニーチェが現れます。 3-4-1 近代:脱宗教化へ:大陸合理論とイギリス経験論 神を前提としない思考をいったん始めると神抜きでも成り立つ理論が現れます。 それらの理論では自然は自立的、自律的な法則を持っています。 別の言い方をすると哲学が持つ性質である世界の説明体系として神抜きで世界の成り立ちを説明できます。 自然や世界を探求する方法として神の介在を前提にするのをやめる一方、帰納法や演繹法といった方法論が自覚的に用いられるようになりました。 演繹法と実在論からヨーロッパの大陸部では大陸合理論という理論が生まれます。 帰納法と唯名論の影響から英国ではイギリス経験論という理論が生まれます。 大陸合理論は人間の精神には先験的に概念や思考の型が存在すると考えます。 イギリス経験論では人間の精神は先験的にタブララサ(真っ白な紙)として人間が経験を積むたびにカテゴライズを行い概念や思考の型を身につけていくと考えます。  宗教を前提とせず脱宗教化している点を除くと普遍論争と同じです。 他方で宗教がなくなった代わりに人間の内面と外界という精神への意識が強くなります。 3-4-2 デカルトのコギト デカルトは確実なものは何かについて考え、cogito ergo sum(コギト エルゴ スム=我考える、故に存在する)と結論しました。 考えている時に今この瞬間試行していると感じる実感が確実性の基礎と考えました。 言い換えると「考えている自分の存在の確かさは疑えないだろう」「考えている時に感じる自分が確実に考えているという感覚が哲学の基礎になる」「自我の存在は確実感があり実在の根拠とできる」という事です。 それを基礎に「自分と思考が確実なものであるなら、思考対象の存在も確実である」と演繹できると考えます。 「自分の思考はゆがんでいたり勘違いしているかもしれない」「自分が実在が確実である様に思えても、認識される事物の存在の確実性を保証するものではない」などの反証があります。 言い換えると「人間は正しい認識をしているとは限らない」「事物が確実に存在するとして人間がそれを正確に認識しているとは限らない」となります。 デカルトはそこで神の存在を仮定して、神様が存在と認識の正しさを保証してくれていると考えます。 これを「神の誠実」と呼びます。  宗教なしで徹底的に確実性の追求を行いましたが最後は神の存在を仮定しました。  またデカルトは確実なものを追求する過程でやはり徹底的に人間の内面の探求を行いました。  哲学が徐々に心理学的になっていきます。  もう一つ発生した問題が心身二元論問題です。  主観で認識される対象と、客観的に存在する対象は正確に一致するかという問題です。 3-4-3 カントの理性批判 近代哲学で提起された問題は、主観と客観、主体と客体の関係の問題で主客一致問題と言います。  対象である存在を認識するのが主観あるいは主体、対象である存在と認識されるのが客観ないしは客体です。  確実な認識と確実な存在に関する理論が認識論と存在論になります。  近代の主客一致問題を整理したのがカントです。  カントは更に自身の著作である「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」で存在、認識、道徳、真善美の判断の確実性についてまとめています。  カントの認識についての考え方は心理学的、あるいは認知科学的と言えます。  カントは人間の認識は人間に先験的(アプリオリ)に備わっている理性によってなされると考えました。  事物の存在に対する認識は理性の能力である感性と悟性によってなされます。 感性で対象を知覚し、悟性で情報処理を行い対象認識を行うと考えられました。 認識される対象である存在は「物自体」と呼ばれます。 人間は理性を通してしか物自体を認識できないので、物自体は人間の感性や悟性により返還された形でしか人間には認識できません。 客観的な物自体と主観的に認識された物自体が同じものであるという保証はありません。 客観的な物自体は存在するとしても、それを正確に認識することは保証できない、物自体はあってもそれは認識できる保証はないというのがカントの結論になります。 これは認識論から見ると人間理性の能力の限界を表します。 また存在論から見ると物自体が本当にあるのかどうかについて何も語っていません。 「物自体が存在する」こと、「物自体を情報処理されて返還された形ではなく正確に認識できる」こと、これがカントの結論です。 3-4-4 ドイツ観念論  カントの結論の不全観を改善しようとドイツ観念論が生まれます。  フィヒテ、シェリング、ヘーゲルが代表です。  観念論はidealismの略で唯心論とも訳されます。  観念論という場合の対義語は実在論であり、唯心論という場合の対義語は唯物論になります。  どちらも主客二元論に立っています。  二元論の一方の極は観念論、唯心論で精神が1次的に存在し、物質世界や自然として我々に現象するものは2次的であると考えます。  二元論の他方の極は実在論、唯物論で物が1次的に存在し、精神的なものは2次的であると考えます。  ドイツ観念論は前者の考え方です。  フィヒテ、シェリング、ヘーゲルと発展していきます。  フィヒテの理論の中途半端さをシェリングが補い、シェリングの理論の中途半端さをヘーゲルが補う形で発展していきます。 弁証法(正命題⦅テーゼ⦆と反命題⦅アンチテーゼ⦆の二律背反命題⦅アンチノミー⦆を合命題⦅ジンテーゼ⦆へ止揚⦅アウフヘーベン⦆する)や絶対精神などの仮定が含まれています。 その様な仮定があるのを除けば世界や現象を整合的に説明する完成度の高い理論です。 しかし仮定があるので哲学の問題は解決されません。 理論だけならヘーゲルの理論以外にもいくらでも出来ますし、どれだけ理論を作っても仮定がある限り意味がないので西洋哲学はここで行き詰ります。 3-5 ヘーゲルより後の現代哲学への過渡期の思想と哲学 科学とは方法の精神です。 科学は結論よりそこに至る方法に意味を見出します。 新しい方法論が開発されるたびに科学は進歩します。 ヘーゲルで一旦行き詰った近代哲学ですが、新たな方法が開発されていきます。 3-5-0 実存主義 実存とは現実的存在の意味です。 現実の反対は理想になります。 この場合の現実とは人間一人一人みな異なり、各々が与えられた状況もみな異なるという事です。 反対に理想的なのは人間が全て同じで、与えられた状況も全て同じ場合です。 理想的な場合であれば、各人は同じ思考をして同じ結論を得るでしょう。 しかし現実には同じ人間はいませんし、与えられた状況も全く同じことはありません。 ですから全ての問題にみんなが同じ解答を出すとは限りません。 実存主義に基づき哲学する場合もそうです。 例えば実存主義の哲学者と言われるニーチェは自分の事を「ヨーロッパで最初のニヒリスト」であると言っていますが、「人間というものはニヒリストである」とは言っていません。 ニーチェの哲学を理解し自分の主義として受け入れた者だけがニヒリストと言っています。 ですから実存主義は個人主義的ですし、実存主義哲学も個人主義哲学です。 ですから状況の普遍的な意味を考えるのではなく、各人にとっての意味を考えます。 また状況の意味に主眼を置くのではなく与えられた状況の中でどうするかを考えます。 また「なぜか」や「なにか」ではなく、「どのように」「どうするか」を重視します。 実存主義的による哲学は人により異なる個別的な哲学だからです。 つまり確実性を追求してもその人のその状況での確実な事であり、別の人や別の状況では確実な事についての結論は同じとは限りません。 実存主義哲学は各人・各状況下での個人的な確信によるプライベートなものになります。 自分にとっての確実性を追求するからであり、人間全体にとっての確実性を追求するわけではないのです。 しかし実存主義哲学は現代哲学の源流の一つとなりました。 コラム3-5-0 実在と実存の違い 実在と実存は意味が違います。 実存は「現実的存在」の略で人間は各々が異なる状況下にいる存在であるいう考え方です。 そのため実存主義哲学は異なる個人の異なる状況でのその人にとっての確実性を追求します。 哲学が潜在的に前提としている万人にとって確実なものという考え方をしません。 セーレン・キルケゴール、フリードリヒ・ニーチェ、カール・ヤスパース、ジャン・ポール・サルトルの実存主義は彼らの個別性を反映し、プライベートな哲学です。 各人は自分にとっての意味(「なぜか」「何か」)やあり方(「どうするか」「どうあるか」)を追求します。 一方実在は「実際に存在する」でありその反対は「実際には存在しない」になります。 実在は存在するかどうかを問うている概念になります。 実存では存在しているかどうかも、その人がどういう現実に置かれているかを問題にしますが、存在している事は始めから前提として受け入れています。 キルケゴールは不安や絶望について考え、信仰が大切だと結論しています。 カール・ヤスパースは死や限界状況について考え、超越者が大切と考えました。 サルトルは自由や無について考え、アンガージュマン(自己拘束)が大切と考えました。 ニーチェとハイデガーは現代哲学の存在論と認識論に関係するので一節を使って説明します。 3-5-1 フリードリヒ・ニーチェの哲学 フリードウィヒ・ニーチェは実存主義者ですが、存在論と認識論について独自の哲学を行いました。 ニーチェの重要性は哲学の問いを転換したことです。 ニーチェは存在の確実性、認識の確実性を探求するのではなく、「なぜ人間は確実なものを追求するのか」と問いました。 それに対するニーチェの答えは、「確実なものの存在を欲する人間の欲望があるから」というものです。 問題は問題とするから問題となるのであって、問題としなければ問題にはなりません。  人間が確実性を問題とするのは心理的にそれを探求したい欲望があるからです。 欲望があると人はそれを叶えようとします。 それを意識的に行うのであればいいですが無意識で行う場合があります。 人間は自分の欲求を叶えるために確実なものを存在させようと現実を捏造、改竄します。 そして捏造、改竄したことに気が付かずにそのままそれが事実だと信じ込みます。 人間は信じたい欲求がありかつ信じたい対象にリアリティを感じれば疑いをはさまずそれを信じ込む傾向があります。 西洋哲学では確実性を求める人間の心が「確実なものは何か」という問題を作り出したと指摘しました。 ニーチェはキリスト教について考察しました。 人によっては神を強い確実性をもって感じることがあります。神の声を聴くこともありますし、神の存在を強い臨在感を感じることもあります。 この場合は神の存在はその人にとって確実と結論してもよいでしょう。 しかしそうでない人が神の存在を信じるのは何故でしょう? それはその人が神の存在を信じたいからです。 「神の存在を信じたい」がいつの間にか「神は存在する」に変換されそれを主張しだします。 では神の存在を信じる原因となった欲望は何でしょうか。 古代ローマのユダヤ人のルサンチマン(嫉妬、恨み)であるとニーチェは考えました。 ニーチェは古代ユダヤ人は政治や軍事でローマに負けて支配されても自分たちの持つ宗教や選民であることにより自分たちはローマ人より上であると思いたい欲望があったと考えます。 そして宗教的にローマ人を逆支配する欲望がキリスト教信仰を広め維持したと考えました。 またキリスト教には強者より弱者を肯定する考え方があります。 物質的なものより精神的なものが優位であるという価値観、あるいは強者よりも弱者の方が尊いとする価値観の転倒がキリスト教信仰の根底にあると考えました。  これは一例ですが、西洋哲学の確実性の追求も同じです。  確実なものを知りたい欲望が西洋哲学を成り立たせています。  確実なものが何かに興味がなければ哲学は必要ないでしょう。  ニーチェにとって哲学は情念に突き動かされているだけのものです。  「神は死んだ」「自分はヨーロッパで最初のニヒリスト」というニーチェの言葉は実存主義哲学の個人主義的傾向をよく表しています。  逆に言えばニーチェがニーチェの哲学に到達するまでは神は生きており、ヨーロッパにニヒリストはいなかったのです。  ニヒリズムとは何かというと確実なものの存在を保証してくれるものはない、というのを自覚することです。  代わりに存在するのはカオスと力への意志だけです。 人の力への意志がその人にとっての確実なものを作り出し、維持していきます。 これは新しい確実性についての見解で、新しい認識論と存在論です。 ニーチェにとっては認識も存在も人間の内面で欲望によって作り出されるものです。 その様なニーチェの哲学にとって理想的な生き方は超人であることです。 超人であることは全ての瞬間を自分の主体性で生きていくことです。 何物にも隷属せず、自分で自分を支配する生き方です。 これを超人思想といい、永劫回帰というニーチェの別の思想とあいまってどの瞬間も後悔なく生きる生き方です。 伝統的な哲学はニーチェの哲学と根本的に異なります。 ニーチェの哲学と比較するとニーチェ以前の哲学者はなぜ確実なものを探究するかという視点がありません。 問題にもしなかったのでしょう。 問題としなければ問題となりません。 逆に新しい問題を作ることが問題への解答を与える以上に重要な場合があります。 ニーチェの業績はその点にあります。  最後に付け加えるとニーチェは非ヨーロッパの別の文明への意識があります。おそらく東洋思想であり中でも仏教でしょう。仏教については後の章で説明します。 3-5-2 現象学とフッサール  エドムント・フッサールは哲学を行う上での確実な方法論を確立しようとしました。  哲学の扱う対象は現象です。  人間の内面に現象の認識が生じることが哲学の土台です。  人間の内面で行われる精神作用のどこまでが確実と言えるかをフッサールは線引きしようとしました。 これを現象学と言います。 哲学は思考を使って行われますが、思考の対象は認識される現象です。 人間の内面のどこまでを確実としていいのかを現象学では考えます。 哲学が確実なものを追求するなら、まずは思考の確実な土台が必要です。 確実なものを土台にしないとそこから進んだ思考も確実とは言えず、確実性の探求ができません。  哲学が科学であるためには方法の明示が必要です。  科学とは方法の精神です。  結論よりそこに至る方法が確かであるかどうかが重要です。  間違った方法で偶々正しい答えが出てもそれは科学ではありません。  逆に正しい方法で間違った結論を導き出してもそれは科学と言えます。  方法が明示されていれば再現可能なので追試により後で正しい結論に到達することが出来ます。  フッサールは哲学の確かな方法として現象学的還元という方法を考えました。 現実感を持って認識される対象を「現前」と言います。 現前により認識され経験されたものの総体が現象です。 現象があるから我々は事物や世界があると考えます。 しかしフッサールによると確実だと言えるのは意識に表れる現象を認識するところまでです。何か意識に現象、すなわち事物の認識が生じた場合、確かだと言えるのは「意識の中に事物の認識が生じた」というところまでです。 それ以上は確かな事とは言えません。 そこで事物が存在するかどうかは判断停止すべきとしました。 この判断停止を留保(エポケー)といいます。 研究すべきは現前までであって、それより先の思考は確実とは言えないとします。 フッサールは人間の思考についてどこまでが確実かを考え確実と不確実の境界をはっきりさせようとしました。 そして人間の意識に現れる現象、主観的経験のみが確かなことであると線引きし、それを基礎に哲学を構築しなおすべきだと考えました。 先入観を捨てて得られる一つの結論は我々が普通考える「事物が存在するからそれを認識する」は確実ではなく「事物が認識したからそれが存在すると無意識に考えてしまっている」というのが確実であるというものです。 それ以上の判断は、「私の意識にある事象が認識された。だからその事象は確実に存在する」とは言えないという事です。 ですからフッサールにおいては哲学は現象の範囲の中でのみで行われるべきものです。 ケーススタディー 3-5-3 ハンマー(金槌)の認識から何が結論できるか 金槌を例に考えましょう。 仮に意識野にハンマーが認識された場合に、そこから「ハンマーが存在する」と結論できるかどうか? 認識がハンマーの存在を保証すると考えるのは確実なことではありません。 思考の飛躍があります。 確実なのは我々の精神にハンマーが認識されていることだけです。 ハンマーが認識されているからハンマーが存在している根拠にはなりません。 コラム3-5-3-0 フッサールと数学 フッサールはもともと数学者です。 数学者として数学の確実性の基礎を研究していました。 数学の確実な基礎から哲学の確実な基礎へ途中で研究対象を変えました。 フッサールは哲学も科学として確実な基礎の上に構築しなければいけないと考えました。解析学(微分積分額を含む)の帝王ワイエルシュトラウスや代数学を公理化したクロネッカーの下で研究しており、哲学への転向後も現代数学の父ダフィット・ヒルベルトとゲッティンゲン大学の哲学科での同僚でした。 実は確実性とは何かの問題については数学で深刻な問題が起こっていました。深刻とは問題を解決しないと歴史を通して数学が蓄積してきた膨大な成果がすべて否定されて使えなくなってしまう程の危機が生じていました。ですので数学的概念や数学の方法の確実性の根拠は何か、という問題を解決しなければいけなかったのですが、この問題は別に数学に限ったことではなく全学問に当てはまる問題でもあったため問題を一般化して拡張し哲学の研究に移ったわけです。 コラム3-5-3-1 ユダヤ人と学術 コラム 現代哲学とユダヤ人  ユダヤの民は中世の西ヨーロッパではゲットーに隔離され特殊な扱いを受けてきました。 レコンキスタやイギリスのユダヤ人迫害や追放は有名です。 他方ポーランドやウクライナなどの東欧では西欧と異なりました。 中世ポーランドではユダヤ人を優遇したためユダヤ人の人口が増大します。 そのためドイツ圏にもユダヤ人が多くいました。 ホロコーストでユダヤ人の数はホロコースト前と比べて1/3~2/3に激減したのは不幸な歴史です。 フランス革命でユダヤ人はゲットーから解放され大学に入学できるようになります。 19世紀後半にはユダヤ人は優秀さのため学術で大活躍しました。 フッサール、フロイト、レヴィ=ストロース、デリダなどもユダヤ人がルーツです。 ユダヤ人として活躍した人もいればキリスト教に改宗した人もいますし、ユダヤ人が13歳で行われるミツヴァという儀式で神の存在を信じられないとユダヤ教徒にならなかったアインシュタインの様な例もあります。 フロイトは無神論者でした。 マルクスは祖父の代までユダヤ教のラビでしたが父の代で弁護士になるためにキリスト教徒に改宗しています。 その他両親、祖父母の代でキリスト教徒と結婚しているためユダヤ人になれなかった人もいます。 ユダヤ教ではユダヤ人の母親から生まれなければ基本的にユダヤ人と認められません。 ユダヤ教も長い歴史を通じて変化し色々な教派に分かれて一様ではありません。 東欧やドイツのユダヤ人はアシュケナージ・ジューと言われて優秀な事で有名ですが、レコンキスタでスペインから追放されたユダヤ人や地中海沿岸のレパント地域のユダヤ人はセファルディック・ジューと言われて特に優秀とは言われていません。 ちなみにスピノザやジャック・デリダはセファルディック・ジューになります。 3-5-3 存在者と存在、現存在分析、ハイデガーの哲学 現象学は哲学の方法でありこの現象学的方法論にて最初に哲学を行ったのがフッサールの弟子のマルティン・ハイデガーです。 ハイデガーは現象学を前提に、存在者が存在する意味を考えました。存在者とは個々の事物の現前です。 また自分自身の事は現存在と言います。 現象学は「存在者が存在するから意識の中で厳然として認識する」という考え方を排し「現前の認識があるので存在者が存在すると思っている」という見方をします。 ハイデガーは存在者は現存在に対して道具的意味があるから存在すると考え道具的存在と言いました。 つまり現存在にとって意味があるものだけが現前するといえます。 また現前するものには意味があるとも言えます。 その様な現存在にとって意味のある者同士が道具的連関、意味的連関をもって存在するのが世界です。 ハンマーという存在者は現存在である自分にとって“叩くためのもの”という意味がある存在です。 現存在は意味のある存在者の存在による世界の総体の中で存在する世界-内-存在です。 つまりハイデガーは現象学を用いて存在の意味論を論じました。 これは現象学独自の存在論、認識論です。 ハイデガーによれば存在も認識も意味を持って人間の内面に現前してくるものです。 これをニーチェと比較してください。 ニーチェの解説で「ニーチェにとっては認識も存在も人間の内面で欲望によって作り出されるものです」 ニーチェは確実と思われるものは人間の欲求や欲望が作り出すものと考えましたが、ハイデガーにとっては意味と意味連関によって確実と思われるものが現前します。 コラム 3-5-3 近代と心理主義  中世の宗教を科学から排除するに従い抽出してきたのが心理の研究です。  心理学が科学の部科として大学で成立するのには時間がかかりますが、様々な形で人間の精神や認知が物質的にも思惟の面からも様々な学問で深まってきます。  世界に対する見方は宗教を排除すると人間の外面世界と内面世界の2つになります。  人間の内面については理論を作っても観察、実験、計測などの方法で定性、定量化が難しく実証が困難で科学としての成立が遅れました。  これは自然科学や純粋な思弁で成り立つにも関わらず歴史的に認められてきた数学、哲学などの学問を除く、人文科学、社会科学全体の傾向でもあります。  心理の研究は行動主義など除いては思弁的に、あるいは自己の内面の観察研究で行われます。  哲学の認識論や精神医学の精神病理学や精神分析学の発展により作られた理論が現代哲学の源流になります。 3-6 ソシュールの言語学と構造主義  なぜソシュールと言語学をここで開設するかというとソシュールが構造主義の確立に徹底的に重要であったためです。  他方でソシュールの構造主義的言語学をより包括する学問としての記号論の基礎にもなります。  フィルディナンド・ド・ソシュールは言語学者です。 ソシュールは言語学に構造主義という考え方を導入しました。 構造主義とは説明が難しい概念です。 その最大の理由は直感的に理解し難いからです。 ソシュールの理論を開設することで構造主義の説明を行います。  言語の持つ機能に表現したいことを表現するための手段とする考え方があります。  言語で表現することをシニフィアン、表現されるものをシニフィエと言います。  語根はSign(シーニュ、記号)と書いて英語のサインと同じです。 その場合表現したいものが頭の中にあり、言語はそれを表現する方法です。 また言語を聞くか読むことで言語で示されている内容を頭の中で理解します。 先程と逆にシニフィアンからシニフィエを構築します。 この場合言語は意思伝達の媒体(メディア)です。 シニフィアンとシニフィエが一対一対応しているのが言語の理想的な姿の様に思えます。 そうであれば情報を、または自己の内面を正確に保存する事が出来ますし、他者に正確に伝えることが出来るかもしれません。 この様にみるとシニフィエがアナログであり、シニフィアンがデジタルですので有限の文字列であるシニフィアンよりシニフィエの情報量が多いように見えます。 しかし別の見方をすると固定した実体の様に見えるシニフィエより、シニフィアンの方が有限である故に多様な解釈を許す可能性があります。 そもそもある単語、文章、文等のシニフィアンであらわされるシニフィエは誰にとってもいつの時代にも普遍的に同一であると言えるでしょうか。 ソシュールはあるシニフィアンが表すシニフィエが普遍的に同一ではないことを示しました。 あるシニフィアンはそれを受け取る人によって、それを受け取る状況によって、それを受け取る時代によってその表現する内容、シニフィエが変化します。 さらに一個人の中においてでさえ瞬間毎に変化します。 逆にある同一のシニフィエを表すシニフィアンも表現する人、状況、時間や時代によって変化します。 それでは言語とは何でしょうか。 言語は表現されるものの再現性、同一性、言い換えると確実性を保証しないのでしょうか。 ソシュールは「差異の体系」と言いました。 あるシニフィアンの示す概念やカテゴライズの範囲などの内容(シニフィエ)は他のシニフィアンとの関係で変化します。 あるシニフィアンが指し示す「シニフィエは人によって変わる」「状況(文脈)によって変わる」「時代や時期によって変わる」という事です。 どう変わるかは自分の中のシニフィアンの差異の体系がどう変わるか、人によってシニフィアンの差異の体系がどうなっているか、状況や文脈によって差異や体系がどうずれ、どう変化するか、時代や時期によって差異の体系がどう置き換えられるか等により流動的、あるいは断続的に変化していきます。 シニフィアンの同一性や恒常性は保証されない、もっと言えば同一でも恒常でもないのが実際です。 シニフィエの側から見るとシニフィエはシニフィアンによって表現される人間の内面にある表現したい、あるいは理解したいと思う内容です。 シニフィアンの同一性や恒常性が保証されないとするとシニフィエの同一性や恒常性はどうなるでしょうか。 ソシュールは“シニフィエに対するシニフィエの優位”という考え方を示しました。 これは自然な感覚からすると逆の様に感じます。 表現したいことを的確に表すために工夫と努力をして表現方法を洗練させるのが言語であるというのが自然な感覚でしょう。 生物学的、発達心理学的な体験から直感的にそう考えやすいと思います。 しかし進んで考えてみると言語能力を獲得した後の人間は言語の干渉を受けることなく思考を行うことは困難です。 言語能力は更に抽象的にみると象徴化作用と記号化作用を構成要素としています。 人間が思考をするときには普通、象徴を用います。 象徴化されるものは記号化され得ますし、記号化されれば言語となり得ます。 ソシュールによれば言葉なしでは対象を認識することはできません。 人間は言葉があるから存在を認識する能力があると考えます。 シニフィアンの性質、差異の体系、すなわちあるシニフィアンは他のシニフィアンとの関係性の規定なしでは言いをなさない、逆に他のシニフィアンとの関係を規定することであるシニフィアンの全体の中での機能を規定する事ができるという考え方を構造主義と呼びます。 ソシュールが言語学において提示した構造主義という考え方が後に他の分野に広まっていきますがそれは後の章で触れます。 特に20世紀の中頃からあらゆるレヴィ・ストロースによる文化人類学に対する構造主義の適用を皮切りに構造主義の流行が起こり現代哲学の源流のいくつかの過程を経て一つになります。 コラム3-6- 構造主義のイメージ 構造主義のイメージは下図のようになります。 名詞を例にとります。 伝統的な言語学ではある物事に対して名称を与えます。 実体が存在しそれにラベルを貼る様なイメージです。 その後名詞同士の関係性が規定されます。 生物学の系統分類学を例にします。 現在は分子遺伝学の進歩により系統分類学は飛躍的に発展していますが、遺伝学が未発達の時代には系統や分類を考えるのに困る生物が今より沢山いました。 カモノハシなどです。卵を産みますが授乳もします。くちばしも持っています。 形態学を基とした過去の系統分類学では哺乳類か鳥類かの区別がつかず論争が行われていました。 あるいは恐竜もそうです。 現在は鳥類に近縁とされていますが過去には問答無用で哺乳類とされていた時代があります。 この過去の言語観は図の左側になります。 まず実体の名称があってラベルされ、その後に名詞同士の関係性が規定されます。 構造主義言語学ではこの関係が逆になります。 関係性の規定、あるいは定義することで実体概念を作りそれに名称を与えます。 恐竜は昔は形態学的に爬虫類と分類されていましたが、現在では研究によって色々な事実が分かりその事実同士の関係性から恐竜の定義を行った結果、現在では爬虫類と鳥類が分岐した後の鳥類の先祖であることが分かっています。 この様に差異の体系を定めることにより結果として実体概念が浮かび上がりそれに名称を与えるのが名詞であり、関係性の規定が先で実体概念の成立が後になります。 関係性はマトリックス、網の目となぞらえることができ、マトリックスの交点、網の目の結節点が名詞や実体とみます。 結節点があるから結節点同士の関係を記載する事は結節点が一次的でマトリックス、網の目が二次的という考え方ですがこれが伝統的な言語学になります。 一方マトリックス、網の目が一時的に構成されることで結節点が2次的に定義されるのが構造主義言語学の考え方です。 マトリックス、網の目の方が先に存在する、結節点に対して優位であるという考え方がソシュールの言う「シニフィエに対するシニフィアンの優位」です。 3-7 構造主義について 要素と要素間の関係に焦点を上げる考え方は構造主義と呼ばれます。 ソシュールの言語学の説明で関係と差異が一次的、結果として生じる要素(実体、言葉)が二次的という見方を提示した事を説明しました。 これを現代的構造主義と呼びます。 これは当然構造主義です。 しかし要素が一次的で差異や関係性が二次的と考える考え方も構造主義ではあります。 前者の構造主義を現代的構造主義、後者の構造主義を古典的構造主義と呼びましょう。 両者は二律背反(アンチノミー)に見えますが二律背反する見方を人間は同時にすることが出来ます。 ちなみに現代数学は要素が先か関係性が先かとは考えません。 両者の見方を同時にします。 一次とか二次とかではなくどちらも両立すると考えます。 要素が一次的で関係が二次的と考えるのも構造主義と言えますが近代以降では人間の直感にとって当たり前の事なので構造主義とは言いません。 デカルトの要素還元的方法論も構造主義と言えるかもしれませんが対象を構造の概念を重視しておらず構造への意識も強くありません。 これは古典的構造主義と呼んでいいでしょう。 古典的構造主義は要素の実在を仮定します。 これは中世神学とは異なる意味で実在論です。 中世神学とは実在とは普遍、またはイデアの実在を指しました。 古典的構造主義は要素の実在を仮定しています。 要素同士の関係性に特に注目しない場合、構造主義ではなく要素の実在を主張しているだけの考え方になります。 これを素朴実在論と呼びましょう。 これに対峙する現代的構造主義は、差異と関係性が一次的、要素の現前は二次的です。  現代的構造主義を認識論と存在論に応用し理論化したものを構造主義的哲学と呼びます。 端的に言うと素朴実在論、構造主義的哲学にポスト構造主義を加えたものが現代哲学です。 3-8-0 科学技術からの精神と心の理論 心理学、精神医学:精神病理学・精神分析学 なぜ心理学や精神医学の精神分析学や精神病理学をここで説明するかというと構造主義を哲学の存在論と認識論に導入して新しい議論を作り上げたからです。 その理論が現代哲学成立の1番重要なカギとなりました。  フロイトは精神分析学の創始者で有名ですが現代哲学にとって重要な理論を提示しました。  前期フロイトの精神の階層論と後期フロイトの精神の構造論です。  前期の精神の階層論で「無意識」という概念が世に広まりました。  後期の精神の構造論ではエディプス・コンプレックスという概念が提示されます。  そして自我の防衛機制という概念を提示します。  防衛機制とは英語でdefence mechanismで心理的ストレスという刺激に対して自我がどう反応するかを示す概念です。  フロイト以降精神分析学は発展しフロイトの娘アンナ・フロイトを中心とする自我心理学、メラニー・クラインを中心とするクライン派または対象関係論、中間学派などの学派が生まれ発展分岐していきます。  現代哲学にとって特に重要なフロイトの構造論であるエディプス・コンプレックス、クラインの対象関係論とパリ・フロイト学派のジャック・ラカンの理論を説明します。 3-8-1 フロイトの精神の構造論とエディプス・コンプレックス  フロイトは神経医学者で19世紀の神経医学の中心であったサル・ペトリエール病院で神経医学の帝王ジャン・マルタン・シャルコーの下に留学していました。 シャルコーは器質的疾患であるてんかんと心理学的な症状である神経症を催眠術で鑑別したことで有名です。 フロイトは神経症の研究を行い精神分析学を想像しました。 後期のフロイトは精神の内部構造を研究しました。 構造論にせよ構造主義にせよ構造的にみる場合、構造を形作る複数の要素と要素間の関係に焦点を当て明らかにすることが必要です。  要素と要素間の関係のどちらが1次的でどちらが2次的かという  そもそも要素が一つだと関係できる他の要素がありません。  要素が2つなら要素どうして1通りの関係が持てます。  要素が3つ、4つと増えるにつれて要素同士の関係が複雑になっていきます。  フロイトは幼児と母と父の関係をエディプス・コンプレックスで説明しました。 エディプス・コンプレックス精神の構造を自我、超自我、エスあるいはイドという概念で説明します。  これがエディプス・コンプレックスの理論です。  精神分析学では要素が2つの二者関係、要素が3つの三社関係が重要です。  精神は発達の段階によって2つ、3つと要素の数が増えていくと考えています。  二者関係は赤ちゃんが母のみを認識し始め、自分と母のみがいてそれ以外の他者が認識されていない状態です。  三社関係は幼児が母とともに父認識する状態です。  その他母子未分離の胎児期や新生児期などを一者関係と呼ぶ学者もいます。  二者関係の理論は次節のクライン派と対象関係論で説明します。  エディプス・コンプレックスは三者関係の理論です。  自我、超自我、エス(イドともいう、エネルギー源はリビドー)の関係は要素が少ないので単純です。  幼児の自我は母親を欲望します。  これはエスの役割です。  一方母という他者しかいなかった幼児の精神にある発達段階で父が認識されます。  父は母親の所有者で幼児と母の関係を邪魔する存在です。  幼児は父を排除しようとします。  これがエディプス・コンプレックスです。  コンプレックスは観念複合体と訳されます。  観念がいくつか混ざり合って複雑化した状態を指します。  父を排除し母を独占しようとしますが、父を排除できなかった場合に父とは共存するしかありません。  心の葛藤を抱えつつ父を超自我、母と2人だけのプライベートな世界に父に代表するパブリックな規範が意識されてそのストレスに対処しようとする自我の機能が働きます。  他者と外部の自覚と言ってもいいでしょう。  それを防衛機制で自己の中に内面化し一体化します。  これを超自我と呼びます。  エスは欲望や欲求と訳されますが、人の心を働かせる精神力動の駆動装置です。  駆動装置がなければ心が内発的に動くことはないでしょう。  一方自我は防衛機制を働かせる精神の制御装置です。  超自我はいやおうなく押し付けられる他者や外部からの強制です。  車でいればエス(イド)はエンジン、リビドーはガソリン、自我は制御装置とドライバー、超自我は交通ルールでしょう。 3-8-2 クライン派の対象関係論  対象関係論は対象との関係性の中でどの様な様式で精神が発達するか、精神病理が発生するかの理論です。  対象関係論、特にクライン派の理論は、フロイトが神経症に対する研究の中で精神分析学を創始したのに対し、小児に対する精神分析や精神病者に対する精神分析からの経験から影響と受けています。  対象関係論は小児の認識の生成がどの様になされるかを研究します。  1か月以下か未満の子供を乳児、1年以下か未満の子供を乳児と言います。  幼児とは学齢期に達する前で学童期の前を指します。  小児とは医学で子供全般を指す言葉です。  新生児は感覚が未発達であり自他の区別が出来ません。  これを一者関係と言います。  乳児が最初に認識する他者は母親です。  ただし母親という人格ある他者を認識するわけではありません。  母親のパーツのみを認識します。  例えばおなかが減った時に与えられるのはおっぱいです。  抱っこされて温かい毛布に包まれ感じる温かさや柔らかさです。 泣いている時あやし声が聞こえて抱っこでゆすぶされて心を安心させてくれます。  眠りに導くのは母の子守歌です。  排泄して気持ち悪いときは気持ち悪さをなくしてくれるおむつ替えです。  目が見える様になれば母親の顔を覚えるようになるでしょう。  母親というそれらをもたらしてくれる実態があるとは認識しません。  そもそも新生児、乳児期は高次の思考や認識は行えません。  感覚も行動も反射で成り立っている面が大きいのです。  反射はより末梢の神経系から中枢の神経系へ向かって発達していきます。  せき髄の反射は延髄が成熟すると抑制されて代わりに延髄の反射が生じます。  延髄の反射は間脳が発達すると間脳に抑制されて間脳の反射が生じます。  このような考え方をジャクソニズムといいます。  防衛機制の発達も段階があります。  より発達年齢の若い新生児、乳児期に見られる原始的防衛機制からより高次の防衛機制が発達し、ストレスがより高次の防衛機制で制御できるようになればより低次の防衛機制は発動しません。  しかし発達し成熟した精神を持つ大人であっても上位の防衛機制が破綻しより下位の防衛機制が発動される場合があります。  統合失調症や境界性パーソナリティー障害でそれが見られます。  乳児は部分的な母親の要素、見える顔や姿、声は発する音、匂い、衣類や毛布に包まれて抱かれる感覚、おなかがすいたときに授乳されるおっぱいの感覚などバラバラに感覚しますが、それが同一の「母親」という実体から与えられたとは認識できません。  発達が進むとそれらが母親という同一のものによりなされたことを認識し、母親という概念が生じます。  このような対象認識は対象との関係を総合することによって生じます。  ゲシュタルトの形成と言ってもいいかもしれませんし、現前の形成と言ってもいいかもしれません。  母を例にしましたが、これは自己や他者、事物の認識でも成り立ちます。  自己認識は例えば鏡に映る自分の顔を自分と認識する、その他自分の体が自分の思い通りに動くとか他者との応答により自己の同一性や恒常性形成をした時に行われます。  他者や事物の認識もやはり関係性からなされます。   3-8-3 ラカンによるシェーマLのモデル、認識論への構造主義の導入  ジャック・ラカンは認識の仕組みについて構造主義を用いて新しい存在論と認識論の理論を作りました。  これを構造主義的哲学と呼びましょう。  この理論はシェーマLというモデルで表されます。  シェーマとは英語でスキーム、日本語で枠組み等と訳されます。  下図がシェーマLを表します。  このモデルにはフロイトの構造論、クライン派をはじめとした対象関係論が含まれています。  構造主義により自己の同一性の生成がどの様に行われるかを示しています。  しかしこのモデルは自己にとどまらず他者や事物をはじめとする全ての現前の生成を表すモデルです。  現前の生成を説明したモデルですから現象学が含まれます。 エスは欲望なのでニーチェ的です。 エスとは人間にとって良く分からない精神力動の駆動力です。 これを意味ととるとハイデガー的でもあると言えるかもしれません。 ラカンの哲学は上記の足し算で示すことが出来ます。 シェーマL=フロイトの構造論      +対象関係論      +構造主義      +現象学      +ニーチェの哲学 別の面からシェーマLを見ます。 シェーマLは構造主義による  構造主義を導入しているため要素と関係性の規定があります。  要素は図の4つの記号、a:自己(他者でも事物でもよい、現前)、エス:欲望、a’:小文字の他者、A:大文字の他者になります。  関係性の規定は要素をつなぐ矢印4つの矢印です。  図で無意識と書かれている矢印は創造的関係と書かれた矢印とクロスした後、点線になっています。  場合によってはこれを別の矢印と考え5つの矢印と考えると5つの関係性があることになります。  これは全ての認識対象、言い換えると現前です。 生成のモデルなので自己、他者、事物など何の現前生成と考えても構いません。  エスはイドとも言い欲望の意味でエネルギー源はリビドー、精神を固定させず動かす力動を発生させる駆動装置です。  しかしエスとは無意識の領域とも関係するため意識的な認識能力だけでは理解できない訳の分からない側面を持っています。  小文字の他者は個別に現象する現前です。  大文字の他者は現前の総体として現象する世界です。   ケーススタディ 3-8 シェーマLによる自己同一性の生成の説明 例を挙げます。 オリジナルのラカンの理論の様にaを自己と考えは自己同一性の説明になります。  小文字のa’を鏡に映った自分の顔や履歴書の写真に貼ってある自分の顔と考えてみます。  まず大雑把に自己同一性(self identity : ID)がどの様に生成するか考えてみましょう。  IDは個人情報によって認証されます。  その人がセルフアイデンティティーを持っているのであればいろんな項目ごとにその人の属性が分かるはずです。  属性とは何かの要素との関係です。  自己同一性があればプロファイリングもできます。  自分がどういう人種で何色の目、髪、肌の色を持ち、身長、体重、生年月日、性別、住所、携帯の電話番号、アドレス等様々な要素と関係しています。  この場合、Aはこれらの人種、目、髪、肌の色、身長、体重、生年月日、性別、住所、携帯の電話番号、アドレス、そして容姿などです。  現象している現前、つまり要素の総体としての世界との関係が、無関係の場合も含めて一つ一つ考えていくことが出来ます。  これがA→aの矢印の示す関係になります。  Aからはもう一本、Sに向かって矢印が出ています。  世界の中で何と関係するかはSによって決まります。  それは意識されるものであっても全てを意識化できるわけではないので無意識の影響を受けます。  そのためこの矢印を無意識の関係と言います。  無意識の関係は想像的関係とぶつかり交差します。  この無意識の関係と創造的関係が影響を与え合うことをコンプレックスと言います。  シェーマLはそもそもエディプスコンプレックスを説明するためのものでもあり、その場合にはaは幼児あるいは自我、a’は母、Aは父、あるいは超自我となります。  自我と自己とは意味が異なります。  自分は認識する主体としての自我、認識される客体としての自己としてありますが、自己認識が出来るのは幼児期よりかなり発達年齢が進んでからになります。  幼児には自己同一性がなく自己もありません。  Sは個別的な要素を欲望します。  Sにより主体が自分の自己同一性を考える際に容姿を一つの要素として選択します。  S→a’が対象に対する欲望の関係を表す矢印です。  現前する世界の中で何に注意が向くかはSが決めます。  a’→aの矢印が創造的関係です。  鏡に映った自分の顔という要素を自分自身の本質であると認識します。  鏡に映った容姿こそが自分であると考えます。  認識した容姿が自分の自己同一性を支える要素になります。  先ほどに挙げたような個人情報に加えて容姿(履歴書の写真でも構いません)を持つのが自分という人間であるとして自己像を作ります。  自己という現前を支える一つの要素になります。  a’→aが“想像的”であることに注意して下さい。  自己認識はイメージから成り立つという事です。  ですから単に勘違いであったり自己欺瞞だったり意識的ないしは無意識的に自分に嘘をついている場合もありますがその人のイメージとしてはその人にとってはそれが確実なものであるのです。 3-9第3章のまとめ  重要なのはラカンの理論はそれまでの理論とは全く異なっていたという事です。 ラカンの理論までは、素朴実在論を肯定するにせよ否定するにせよ全ての哲学理論は素朴実在論を意識的、無意識的に関わらず前提とする理論しか存在していませんでした。 ラカンの理論によって素朴実在論でいうところの「実体」とは存在しないという主張も可能ですし、ではその存在しない実体を人間がなぜ実在すると勘違いしてきたかの説明も可能ですし、更には我々に確実な感覚をもたらす実体の存在を精神がどの様に作り出すかのメカニズムが説明できます。 素朴実在論に具体的で実効性のある対案を示したのです。 これは従来の哲学全てを相対化する理論です。  相対化が可能になったことによりポスト構造主義という新しい理論が生まれます。 ポスト構造主義はメタ認知の思想です。  全体の見取り図は下の図に示します。 構造主義的哲学と言う全く新しい哲学が生まれたことが重要です。 それ以前の哲学では素朴実在論が無自覚に前提とされていた哲学です。 たとえその事に自覚があったにせよ具体的な対案がなければ批判だけして終わりで大きな発展にはつながりません。  構造主義的哲学が生まれたことにより西洋哲学は終焉あるいは感性に至ります。 第4章 現代哲学の解説 近代における純粋数学の発展は、人間精神のもっとも独創的な産物といってよいだろう ホワイトヘッド 私の考えでは、数学者は数学者であるかぎり哲学にかかずらう必要はない……これは多くの哲学者がいだいている意見でもある あんり・ルベーグ 4-0 現代哲学の概要 現代哲学は3つの理論から成り立ちます。 ①素朴実在論 ②構造主義的哲学。 ③ポスト構造主義  この3つの理論を下記の図で示します。  まず各々の理論を説明します。  その後それぞれの理論の関係を説明します。 理解の鍵になるのは構造主義です。 第3章でラカンの理論の説明のところでソシュールの図のところで示した図をもう一度示します。  上図の左が古典的構造主義的哲学、ないし素朴実在論を表します。  右側が現代的構造主義的哲学を表します。  この上図を前提にポスト構造主義を説明します。  現代的構造主義的哲学を理解するにはラカンのモデルが有用です。  もう一度数で示します。  ラカンのシェーマLとそれを発展させて世界を説明する理論が下図のようになります。  左図は現代的構造主義の世界観です。 右の図は通称“ボロメオの輪”と言う図で、世界を3つの見方で理解する図式を表します。 現代的構造主義により世界を理解するにはラカンの理論でなくても別の理論も作成可能かもしれません。 しかしラカンがパイオニアですのでそれを使用して説明します。  初めて出てきた“ポスト構造主義”という言葉ですが以下を表します。 ①’ 実在論を理解と実践 ②’ 現代的構造主義を理解と実践。 ③’ 両者の理論をメタ認知と実践。  それぞれの理論について説明し、その関係を説明います。 4-1 素朴実在論  第3章のソシュールの説明で構造主義の説明を行いました。  構造主義は第3章に説明したように2つに分類できます。 ①古典的構造主義 ②現代的構造主義 現代哲学が確立した現在では構造主義というと普通後者を指します。 それぞれの哲学の存在論と認識論との関係を見てゆきましょう。  構造主義という場合、対象全体を要素と関係に分けて考えます。  古典的構造主義では要素がまず一次的にあって、要素同士の関係を要素の存在から二次的に生ずるものと考えます。  他方で現代的構造主義はまず関係性が一次的にあって、要素はその結果として二次的に生ずるものと考えます。  素朴実在論は古典的構造主義の前提となる我々の事物に対する認識と存在に対する見方です。  我々は発達の過程で素朴実在論による認識や存在についての見方を自然に身につけます。  ですから普通誰でも意識するかしないかに関わらず素朴認識論をすでに身につけています。  素朴実在論は存在や認識について深く考えません。  哲学を勉強する前の認識や存在についてのとらえ方は普通素朴実在論になります。    素朴実在論は我々の事物に対する認識の感覚や存在の感覚をそのまま受け入れる考え方です。  我々が感覚や想像で事物を認識する時、その直感を信じて事物が存在すると観が増すし、事物を正しく認識できる事にも特に疑いを持ちません。  第3章の哲学の歴史を見ると、哲学史とは素朴実在論に対する批判の歴史であったという事が出来ます。  素朴実在論は普通人間の精神や認知機能の発達において思春期を過ぎる頃には自然に身についている考え方です。  素朴実在論が大人になってもついていないと認知発達に障害がある可能性まであります。  素朴実在論は深く考えなければそれを身につけている事すら本人が気づいていない場合があります。  哲学は確実なものは何かを追求しますが、その時には自分の存在に関する考え方や認識に対する考え方について深く考えざるを得ないので認識論と存在論の問題が出現します。  素朴実在論は中世神学の普遍論争の実在論とは異なります。  そのために素朴という言葉をつけて区別しました。  神学の実在論はイデアが実在するという説です。  素朴実在論では“イデア”という観念的な概念については深く考えていません。  事物は事と物に分かれますが、ものについては感覚で近くできて認識しているので存在は自明と考えています。  事というのは創造の世界で思い浮かべる抽象概念で知覚できないながらもリアリティーを持つ観念です。  事という場合には普通機能性を持ちます。  機能性とは言い換えると他の物事との関係を持ち他の物事に何らかの影響を及ぼします。  また上記のように物か事かはっきり区別できない場合も多くあります。  「素朴実在論」という場合には実在論の様に個物やイデアの区別をしていませんし、本当に存在しているのか、正確に認識できているのかを考えることもありません。  リアリティーがあるから漠然と実際に存在していると思い込んでいますし、なぜ認識しているのか、その認識が正しいかなどの疑問も持たないまま認識しています。  下のコラムで例を示します。   コラム 4-1 素朴実在論の物と事の例  物の例として焼き肉の肉を考えましょう。  焼き肉の肉は知覚で認識できます。  焼き肉の肉は五感の視覚で色と形を認識でき、焼くと「ジュウ」と音がするので聴覚で認識でき、香りと味があるので嗅覚と聴覚で認識でき、温度と食感があるので触覚で認識できます。  認識できる上の何度でも同じ感覚を再現できるのでその存在に疑いを持つ必要はないでしょう。  事の例としては「抽象概念」と言いう言葉を考えてみましょう。  我々は「抽象概念」というものを知覚できません。  しかし「抽象概念」という言葉の中身を理解してそれを使いこなしていると考えています。  物質としては存在していないと考えていますが、精神の中で何らか在り様で存在していると考えています。  物だか事だか議論が分かれるものとして持っているものとして「地獄の業火」と考えてみましょう。  地獄の業火はとってきて見せることはできませんが、熱いに違いありませんし、火傷して痛いに違いありません。  そして悪いことをして地獄に行くと焼かれると苦しいという機能を持っています。  物か事かはっきりしない場合も多いですし、物と見ることも事と見ることもできるものは多いので、それらは「物性」や「事性」という実体というより性質と考えることもできます。 4-2 構造主義的哲学  第3章で構造主義について説明しました。  構造主義は事物を構造としてみる考え方です。  この場合構造とはなんでしょうか。  構造とは対象を構成している要素と要素間の関係性の観点から見る見方です。  人間は発達の過程では素朴実在論を身につけます。  そこから思考を発展させると、まず認識できる対象を要素として存在し、要素同士の間に関係性が存在すると考えます。  これを古典的構造主義と考え、この考え方による存在論や認識論を「古典的構造主義的存在論」「古典的構造主義的認識論」と名付け、あわせて「古典的構造主義的哲学」と呼びましょう。  近代までの西洋哲学はこの古典的構造主義的哲学が何らかの形で前提になっています。  哲学者が意識していなくても無意識に先入観になっています。    この古典的構造主義の後に現代的構造主義が生まれます。  現代的構造主義は要素と関係の見方が古典的構造主義と逆になります。  それは関係性が先に存在して、要素は関係性の規定から2次的に生じる、あるいは生じさせることが出来るという考え方です。  古典的構造主義も現代的構造主義も要素と関係性から成り立っているので構造主義ですが、1次的なものが前者は要素、後者は関係性です。  現代的構造主義は素朴実在論を前提としていません。  むしろ批判的です。  両者の古典的構造主義と現代的構造主義の違いを見ましょう。  前者では関係性のない要素というものがあり得ます。  後者では関係性のない要素というものはあり得ません。  関係性を持っているから要素として成立すると考えます。  また関係性があるので、両者を区別できます。  これをソシュールは「差異の体系」と言いました。   現代哲学で大切なのは現代的構造主義になります。 現代的構造主義による哲学を考えましょう。 ラカンのシューマLをもう一度考えます。 シェーマLの要素はS、A、a、a’の4つからなります。  それに対する関係性は5つの矢印からなります。  それはA→a、A→S、S→a’、a’→aの4つの矢印で示されますが、A→Sの矢印がa’→aの矢印と交差するところで前者が後者に関係するので関係性の数は5つになります。  要素から関係を説明するのは第3章で行いましたので、ここでは関係から要素を説明します。  Aとはaに直接影響を与えるとともにSに対して無意識の関係として作用するともにa’→aである想像の関係にも影響を与える何かと考えます。  Aとは体系内の他の要素や関係に影響を与える機能を持っていますが、A自体は存在する実体ではなく、「関係を持つ」「作用」という機能を持つ事で定義されるだけでそれ自体実在するわけではありません。  機能によって定義されることで初めて要素と規定されます。  同じようにSはA→S(無意識の関係)と関係を持ち、a’に作用する機能を持ち、その関係したり作用する事だけがSのアイデンティティーになります。  Sは他者や外部と関係を持つ事で存在し得るのであり、S単体で存在する事は出来ません。  a’はSから作用を受けaと想像的関係を持つことによってはじめ要素となり要素として存在し得るのであり、a’単独の何者とも存在しないa’というものはあり得ません。  aの形成はa’→a(想像の関係)とA→aの矢印から影響を受けることによって生成されます。  Aはaにとって外部であり、他者や実物として現象する現前の総体としての世界であり、a’はAからSの作用により選択される他者や事物です。  外部と他者との差異と関係性から新たなaという現前が生じます。  S以外は全て現前です。  現前は現前によって作られます。  それはSという仮定から生成します。  Sはニーチェの言う欲望です。  Sはハイデガーのいう意味と捉えても構いません。  世界とは結局訳が分からないものでニーチェ流に言うとカオスですし、現象学でいうと現象で我々に与えられた理由もなく与えられた前提で、我々はその中に投企されて存在しています。  すなわち人間存在は実存的なあり方でなっています。  そこに意味付けするのが人間です。  aは我々の意識の中にリアリティーを持って出現するのでそれを確実に存在していると勘違いしますし、リアリティーが強いのでほぼ確実に認識できていると人間は勘違いします。  これが素朴実在論です。  素朴実在論ではaをそれ自体で確実視するので、他の何かと関係しないと存在しえないとは考えません。  他の何かと関係するのは結果としてであり、本質的な問題とは考えません。 コラム3-2 シェーマLによる事物の生成の説明  道に落ちている石ころについて考えましょう。  なぜ我々は道に落ちている石ころに意識が行ったのでしょう?  明確に意識できる理由があるかもしれませんがただ無意識的で良く分からない理由かもしれません。  ちなみに減少額では現象に対する志向性をノエシス、ノエマと表現する事があります。  その石ころを手に取ると重さや大きさ、形や手触りを感じます。形や色は視覚でも感じます。手に取っただけでは音はないかもしれませんが何かでたたいてみると音を発するかもしれません。匂いはないかもしれませんが試しに嗅いで見れば匂うかもしれません。なめてみれば味があるかもしれません。  これは五感の近くで対象を認識する行為です。  一方この石ころに対して過去の経験、記憶、知識と照らし合わせを行うことが出来ます。  地質学の知識があればこの石ころの産地や組成を考えるかもしれません。  子供時代に石ころを河原で川に投げて友達と遊んだ記憶があるかもしれません。  この石は珍しい石と気が付いて家に持って帰ろうと思うかもしれません。  そうした精神機能の総体がこの石を我々の心の中に現前させます。 そうした要素の一つ一つがa’になります。 a’をaと想像する、悪く言うと勘違いするのが我々の認識能力です。 エスは我々にとっては良く分からないものです。 しかし我々が何を認識するかはSによります。 Sが認識したいと思うものを我々は認識し、Sが認識したいと思わないものは我々は認識しません。 4-3 ポスト構造主義 4-3-0 ポスト構造主義成立の流れ  ポスト構造主義は構造主義の後の思想です。  構造主義的哲学が現れたことで、それより前の近代哲学は素朴実在論を前提にしていたことが分かります。  構造主義的哲学が出現したことで近代までの哲学が素朴実在論を前提にしていたことが明確になりました。  それまではそのことに無自覚、無意識であった哲学者もいたという事です。  またもし意識していたとしても素朴実在論以外の何かがなかったのでそれを前提にする以外にありませんでした。  この場合、仮定ではなくて前提です。  自覚がなさ過ぎると前提が過程であることに気が付かないことがあります。  構造主義的哲学が具体的に示されたことにより前提が過程でしかないことが示されました。  前提が真ではないという判例になります。  近代哲学の前提が崩れたことで哲学全体を再検討しないといけないことになりました。  そして近代までの哲学と構造主義的哲学を整理する中で生まれたのがポスト構造主義です。 4-3-1 ポスト構造主義  素朴実在論と構造主義的哲学の違いを数で示しました。  素朴実在論では漠然と正しい確かな実在と認識が在り得ると考えています。  現代的な構造主義哲学では実在感と認識がリアリティーを持って形成するだけで、正しい確かな存在や認識は存在しないと考えます。  後者の考え方はやや行き過ぎで論理的でない面があります。  仮に実在感や認識が人間の中で形成されるものだとしても、正しい確かな存在や認識は存在する可能性があるからです。  構造主義哲学だけではなく、構造主義は哲学以外の色々な学問に適用されましたが構造主義を絶対化して素朴実在論を排除する事は極端な考え方です。  実際にはどちらの可能性もあり得る、という結論が得られるだけです。  また考えてみると素朴実在論とも構造主義的哲学とも違う理論が見つかっていないだけで存在する可能性もあります。  そこで考えられる可能性は次の4通りです。 ①素朴実在論と構造主義的哲学とまだ分かっていない理論のどれも成り立たない。 ②素朴実在論と構造主義的哲学とまだ分かっていない理論のどれか1つだけが成り立つ。 ③素朴実在論と構造主義的哲学とまだ分かっていない理論のどれか2つが成り立つ。 ④素朴実在論と構造主義的哲学とまだ分かっていない理論のどれか1つとも成り立つ。  2^3=8通りの可能性があります。  全ての場合を考えるのもいいですが実際上はまだ分かっていない理論があるという仮定の場合やどれもが成り立たない場合は除くと2^2-1=3通りの可能性を考えれば十分でしょう。  つまり、 ①’ 素朴実在論が成り立ち構造主義哲学が成り立たない。 ②’ 素朴実在論が成り立たず構造主義哲学が成り立つ。 ③’ 素朴実在論も構造主義的哲学も成り立つ。 の3通りが考えられます。 それをまとめると下図のようになります。  あらゆる哲学を①’②’③’のどれかに整理・分類します。  上の様にあらゆる哲学をメタ認知する考え方をポスト構造主義と言います。 大切なのは③’です。 素朴実在論と構造主義的哲学のどちらの見方もする事が出来る点は重要です。 背反と独立は数学では違う概念ですが、この場合は両立した見方が出来る事が大切です。 また現実的な問題としては人が自然に生きている時には①’と②’と③’をまぜこぜにして思考をしていることが多いと考えられます。 そういう意味では現代哲学は純粋な①’と純粋な②’を両端の極としてその間は①’と②’として存在するスペクトラムという風にも捉えられます。 実在論と構造主義を片方を絶対化せず、両方の見方をできるという考え方なので構造主義が理解できればポスト構造主義を理解するのは簡単です。⑤だけでいうと別に構造主義を理解していなくてもすでに日常行っている頭のよい人もいるでしょう。 そこで結論として現代哲学を理解するために最も難しいのは現代的構造主義を理解することと言えます。言い換えると構造主義を理解できれば現代哲学は簡単ということになります。 4-3-2 ポスト構造主義と記号論  第3章のソシュールの構造主義の解説で「シニフィアンの優位」について説明しました。  第4章の構造主義でも関係性により要素が成立する考え方を説明しました。  これは別の言い方をすると関係性により定義することで要素を作ることが出来る事を意味します。  定義された要素には名前を付けることが出来ます。  象徴化と記号化、これが現代哲学の重要なテーマです。  言語学というものはもっと広い意味では象徴と記号を研究する学問です。  記号論の研究、記号学は言語学を含みます。  象徴や記号というのは文字を含みつつ文字だけを指しません。  リテラシーというものは、色々な象徴表現、芸術、ゲーム、イメージなど各種の表象の方法があります。  更に人間は記号を形式的に操作します。  人間の記号や言語の能力は人間の特記すべき一つの能力ではないか、という考え方があります。  その考え方によると人間は世界や現象と3通りの方法で認識します。  まずシェーマLの使用法の例で示しましたが、感覚による知覚で対象を認識する側面、経験や知識や記憶と参照して認識する側面があります。  それに加えて象徴や記号で見る側面があると考えます。  この3通りの見方で世界を見る理論をラカンは「ボロメオの環」という図形で表します(下図参照)。  これはキリスト教やヨーロッパの名門貴族の家紋として使われており日本でお神社の社紋三輪違いの紋と呼ばれ図象学で有名です。 ラカンのシェーマLとそれを発展させて世界を説明する理論が下図のようになります。  これがシェーマLと合わせたラカンの構造主義的精神分析の世界観です。 左図は現代的構造主義の世界観です。 右の図は通称“ボロメオの環”と言う図で、世界を3つの見方で理解する図式を表します。 世界を現実界、想像界、象徴界の3つの側面からの見方をします。  構造主義的哲学で人間が現前の生成を行ったときそれを象徴化、記号化して記号列として捜査する精神の機能を象徴化意図して表します。  現実界は感覚でとらえられる世界であり自然界、あるいは形而下学の対象とする世界、想像界は形而上学の対照する世界として考えられますが、象徴と記号、言語能力を重視する考え方は近代以前の哲学に対する現代哲学の特異性と言えるかもしれません。 第3部 現代哲学の生理学と病理学 第5章 仏教と現代哲学 我の教えは難解過ぎて理解されないであろう。   ゴウタマ・シッダールタ 色即是空 空即是色    諸行無常 諸法無我   般若心経 5-0 なぜ仏教か  まず結論から書きます。 現代哲学は2000年以上前にお釈迦様(以下敬称略して釈迦と記述、本来は釈迦は名前ではなく部族名)が同じ内容を説いています。 ですから仏教は現代哲学と同じ思想を中核としています。 現代哲学をマスターすれば般若心経の意味が分かります。  しかし釈迦の説いた内容は正しく伝わっているか若干曖昧です。  釈迦の悟りの内容が構造主義的哲学の考え方であることは確実であると思われます。 そして十二因縁生起説はラカンのシェーマLと同じ内容でラカンはお釈迦様の影響を受けていると思われます。 中道の概念はポスト構造主義と同じだと思います。 もし釈迦が現代哲学に初めて到達した人でなくとも、大乗仏教の開祖ナーガールジュナ(龍樹)は空論と中観論でやはり現代哲学と同じ内容を説いています。 また天台宗の中興の祖である天台智顗の三諦論は現代哲学と同じ内容です。 空論と三諦論の空の概念は構造主義的哲学と同じものですし、中観論と三諦論の中の概念はポスト構造主義と同じものです。  第5章では仏教について解説します。   5-1 釈迦の思想 5−1−1 釈迦の求道の背景:苦しみからの解脱 釈迦は釈迦族の跡継ぎ王子として生まれ19歳で王位継承の道を外れて出家し35歳にして悟りを開き80歳まで布教して生涯を終えました。  釈迦は何故出家したのでしょう。  老病死の苦しみから逃れる方法を探すためです。 生はある時幸せであっても必ず終わりがあります。 釈迦の文化圏では輪廻転生があるので死んでも生まれ変わります。 ですから必ず苦しむ時があります。 全ての苦しみから完全に逃れる方法を釈迦は求めました。 西洋哲学の言葉でいうと実存不安を解決する方法を求めました。  そして何人もの賢人下で修業し苦行の末、禅定と思索に入り答えを得ることに成功しました。 これを悟りや解脱と言い、覚醒した人という意味の仏陀と呼ばれます。 悟った内容は簡単に言うと「輪廻転生はない。よって死んだらお終いなので苦しみが永遠に終わらないことはない」というものでした。 答えを得て生きている必要が亡くなったので釈迦は入滅(輪廻転生しないから消滅できる)、つまり死んでしまおうとしました。 しかしそこで彼の考え直し悟った内容を人々に伝えようと決心しました。 そして亡くなるまでの45年間で教えを世に広め、教団を作り、教義も深めたものを原始仏教といいます。 コラム5-1-1 四苦八苦  釈迦は8つの苦しみを上げました。  生の苦、老の苦、病の苦、死の苦、愛別離苦、怨憎会苦、不求得苦、五蘊盛苦です。  生きる事は苦しみの事があります。  現代では自殺は精神疾患が基礎にあることが多いことが分かっています。  自決という自分の冷静で客観的な理性と意志で自死する事は多くはありません。  生きていること自体が苦しい状態は珍しいことではありません。  死んでしまいたいと思うほど苦しんだ事がある人は多いと思いますが生きていることが苦しい、いっそ死んでしまいたいと思うのが生苦です。  老、病、死が苦しいのは分かり易いでしょう。  愛別離苦は愛する存在と死別する際などどの苦しみです。  怨憎会苦は嫌な相手いる場合の苦しみです。  不求得苦は求めるものが得られない場合の苦しみです。  五蘊盛苦は自分で自分をコントロールできない事への苦しみです。  インドでは「生きること自体が苦しみ」という生苦という考え方があることにご注意下さい。  生きる事が苦しい事については第7章の精神医学で触れますがここでは精神疾患や自殺があることを思い浮かべれば十分でしょう。 5-1-2 釈迦の悟りの内容  釈迦の悟った内容は何でしょう。  それは十二因縁生起という理論です。 現代哲学の構造主義的哲学と同じものです。  因縁や縁起という言葉はこれから生まれました。  この説の大まかな概要は事物は「相依性」から成り立つという事です。  「彼れあって此れ存ず、彼れなければ此れ存ぜず」と表現されます。  事物は関係性によってしか成り立ちえないという考え方です。  因は因果、縁は縁故と言っていいでしょう。  因果は同一と思われる事物の時間的な前後関係、縁故は異なる事物の同一時間の関係性です。  十二因縁生起は次節で詳しく説明します。  輪廻転生をするには主体となる霊や魂の様なものが必要だがそれは存在しないので、輪廻転生はあり得ないという事を悟りました。  仏教的にいうと五蘊皆空だからです。 五蘊とは人間を成り立たせる5つの要素である色(しき)(=肉体)・受(=感覚)・想(=想像)・行(ぎょう)(=心の作用)・識(=意識)を指します。 五蘊自体も空ですし、色・受・想・行・識のそれぞれも全て空だからです。 空は無とは違います。 構造主義的哲学の言葉で言うと関係性により現前したものであり、実在する要素ではないからです。 例えば肉体である色がなくなれば、五蘊を成り立たせる5つの関係性の一つがなくなり、五蘊が成立しなくなります。 輪廻転生が存在しないことに納得して釈迦は死のうとします(入滅と言います)。 しかし思い直して自分の悟った内容を布教することにします。 最初の伝導は苦行仲間に行われこれを初転法輪と言います。 ここで釈迦は「中道」の概念を説きます。 これは現代哲学のポスト構造主義と同じものです。 中道は釈迦の悟った十二因縁生起の理論が絶対に正しい、という事を否定しています。 絶対化、絶対論の反対に相対化、相対論という考え方があります。 十二因縁生起以外のある考え方があるとして十二因縁生起が正しくそれ以外のある考え方が正しくない、あるいは十二因縁生起が正しくなくてそれ以外のある説が正しいと考えるのを絶対化、絶対論と言います。 この絶対論を否定すると「十二因縁生起が正しくそれ以外のある考え方が正しくない」「十二因縁生起が正しくなくてそれ以外のある説が正しい」という考え方に加えて「「十二因縁生起とそれ以外のある考え方がともに正しい」「十二因縁生起もそれ以外のある説もともに正しくない」という考え方も同時にできる必要がありこれが仏教の中道の考え方であると同時にポスト構造主義の考え方です。 コラム5-4 般若心経  後に釈迦の思想を簡潔にまとめたものに般若心経があります。  全文を示します。 仏説摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罜礙無罜礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶 般若心経  これは仏教と現代哲学のエッセンスを短くまとめてあるので覚えておくと便利です。 5-2 十二因縁生起  現代哲学の構造主義的哲学がラカンにのシェーマLにより成立したように、釈迦は十二因縁生起の理論を悟ることで解脱し覚醒した人という意味の仏陀になりました。 十二因縁生起説とは老病死などの苦がどの様に生じるか釈迦が考察したものです。 図式化すると下図になります。  ①無明から②行が生じ、②行から③識が生じ、③識から④六処が生じ、④六処から⑤名色が生じ、⑤名色から⑥触が生じ、⑥触から⑦受が生じ、⑦受から⑧愛が生じ、⑧愛から⑨取が生じ、⑨取から⑩有が生じ、⑩有から⑪生が生じ、⑪生から⑫老病死などの苦が生じるという因果関係です。  ここから苦をなくす方法を考えると①無明がなくなれば②行がなくなり、②行がなくなれば③識がなくなり、③識がなくなれば④六処がなくなり、④六処がなくなれば⑤名色がなくなり、⑤名色がなくなれば⑥触がなくなり、⑥触がなくなれば⑦受がなくなり、⑦受がなくなれば⑧渇愛がなくなり、⑧渇愛がなくなれば⑨取がなくなり、⑨取がなくなれば⑩有がなくなり、⑩有がなくなれば⑪生がなくなり、⑪生がなくなれば⑫老病死などの苦がなくなるということになります。  十二因縁商機を理解する事はこの12個の要素と11個の関係性の意味を理解する事です。  十二因縁生起の理論により最終的に理解できることは現代哲学の構造主義的哲学、すなわち現代的構造主義による存在論と認識論と同じものです。  この結論を得るためには十二因縁生起の理論は必要ない可能性があります。  実際後世の大乗仏教ではナーガールジュナ(龍樹)の空論や天台智顗の三諦論で空という形で結論が教義の中核をなしていきます。  有名な般若心経では「五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是」の部分で空の思想を端的に表現しています。  ランのシェーマLにせよ十二因縁生起にせよそれが理解できなければ構造主義的哲学や空を理解できないわけではありません。  何通りもある理解の方法への一つと考えてください。 十二因縁生起の理論の説明をしましょう。 ラカンのシェーマLの理論を緩用して説明します。 この場合①②③はポスト構造主義のメタ認知です。 ニーチェでいえばカオス、現象学でいえば現象学的還元で結局実証できないものです。 ④から⑫までは「苦」という現前の生成の仮定です。  我々に生じる現象は④名色、⑤六処という形で意識に現れます。  その中で何が選び取られるかは⑥愛(欲望、渇愛)によります。  ⑩有は意識された現象は統合されある概念として直感されることです。  自己や事物、生や苦しみの成立は⑩有⑪生⑫老病死です。  これにより釈迦は自身の悩みにとって2つの重要な解決を得ました。  一つは輪廻転生をする自己という主体はないことです。  もう一つは生老病死も自己も他者も事物も実在する必要がないことです。 シェーマLとは違いがありますが、どちらも関係性に関する理論であり、実態や実在が想定されてません。 対応できる部分がありますので図でまとめてみます。 言語学のソシュールや精神分析学のラカンだけでなく現代では構造主義を基盤として成り立っているので構造主義を前提とする理論は数多くあります。 釈迦の十二因縁生起説はその一理になります。 コラム5-2 現前の生成の例  釈迦の方便で「群盲象を撫づ」という例えがありますが、「苦」を含めた事物の現前の生成は対象の部分を総合して直感的に同一性を生成する様なものです。 例えば誰か目が見えない像を知らない人がいたとします。 目が見えないので目以外の感覚で対象が象とはまだ知らない何かの色々な部分を知覚します。 その場合Aは象から受ける色々な感覚刺激の総体です。 a’はその目の見えない人が象から感じる個々の感覚刺激です。 耳や鼻や足を触ったり、鳴き声を聞いたりするかもしれません。 aはその目の見えない人が、自分の知らなかった何者かであると気付かれた対象です。 直感的にその人の中にある概念が直感的に生じるでしょう。 これを現前と言ったり同一性と言ったりします。 それが例え目が見える人であったとしても同一性や現前が生じること自体には変わりません。 ただ目が見えることで視覚の影響をA、a’、aが受けるでしょう。 目が見える人通しでもA、a’、aの違いは各人各様で異なります。 ただ同一性や現前が成立する事は同じです。 5-3 中道  釈迦は菩提樹の下で悟りを開いた時の内容を経典では十二因縁生起と書かれています。  一方初転法輪で釈迦が初めて仏法を説いたときの内容に中道があります。  中道(中)は般若心経の序盤の「色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識」と中盤の「是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得」の記述があります。  中道は現代哲学のポスト構造主義と同じ内容です。  釈迦が悟った十二因縁生起でさえも絶対化しないのが「中道」です。  後にナーガールジュナ(龍樹)は空論と中観論を、天台智顗は三諦論で戯(仮)、空、中の3つを上げました。  十二因縁生起の結論が空であるとするとそれに対抗するのは主に伝統的な素朴実在論であり色、仮、戯などと表現出来ます。  大切なのは「空」は「色」「仮」「戯」とは背反ではなく独立であるという事です。  どちらもどちらだけしか成り立たないこともあれば、どちらも成り立つ場合もあり、どちらも成り立たない可能性もあります。  十二因縁生起というものは釈迦にとっては絶対的なものではなく相対的なものです。  中道はポスト構造主義と同じなので全ての存在論と認識論、どちらもイデオロギーという事が出来ますが、それらをメタ認知により相対的に捉える考え方です。  事物は存在する、人は輪廻転生する実体として存在するという考え方を常見と言います。 一方それらは空であって存在しないという考え方を断見と言います。 釈迦はどちらの考え方もできる様になるよう説いています。 これを中道と言います。 これはポスト構造主義の考え方と同じものです。  つまり釈迦は構造主義を理解していた上で尚且つポスト構造主義を理解していたということになります。 つまり釈迦は現代哲学と同じものを説いていたことになります。  中道により全ての観念 コラム5-3 中道とポスト構造主義  「「空」は「色」「仮」「戯」とは背反ではなく独立である」と書きました。  背反と独立は数学や論理学の概念です。  背反はどちらかだけが成り立つという関係です。  独立はどっちも他方に全く影響を及ぼさないという事です。  背反は絶対主義になりやすいのに対して、独立は相対主義になりやすい傾向があります。  空と色、仮、戯の関係はヘーゲル流の弁証法での類推(アナロジー)も役に立ちます。  色(=仮=戯)が正の常識と通念に空という反論が加わることで使用し合として中の概念が生まれます。  また別の数学の概念を使うと統計学の帰無仮説と対立仮説のアナロジーもいいかもしれません。  有意差が出ると帰無仮説が棄却され対立仮説が採用されますが、有意差が出ない場合には帰無仮説と対立仮説はどちらも棄却も採用もできません。  往々にして有意差が出ない場合、対立仮説を棄却して帰無仮説を採用してまう誤りを(第2種の誤りという)犯しやすい傾向が多く見られます。  古代ギリシアの哲学者とソフィストの違いを考えましょう。  哲学者はロゴスを使って詭弁を排するのに対してソフィストは目的遂行がまずありきで詭弁、修辞(レトリック)によりロゴスを危うくするプラグマティズムを哲学者に避難されます。  そもそも問題は問題としなければ問題とならないのですが、人間は何かに執着して問題を作る心の働きがありそれをどのように解体(脱構築という)するか、逆にどのように問題を作るか(構築するという)が現代哲学の主題の一つになります。  中道とポスト構造主義の実践については第2篇で詳しく説明します。 5-4 釈迦の入滅後の仏教 釈迦の教えは正しく伝わらなかったとみてよいでしょう。 教団は根本分裂、枝葉分裂と教派が細分化します。 教義に対する解釈が異なったからです。 その時代を部派仏教と言います。  その過渡期を経て仏教は大きく分けて大乗仏教と上座部仏教に分かれました。 大乗仏教は北伝仏教徒もいいチベットを経て中国に伝わります。 上座部仏教はスリランカを経て東南アジアに広まります。 日本に伝わったのは大乗仏教です。 5-5 大乗仏教の成立:ナーガールジュナ(龍樹)の空論と中観論  大乗仏教の開祖が龍樹です。  龍樹は思想は空論と中観論で伝えられています。  釈迦は龍樹の思想から見ると空や中観を理解していたか不明な点がありますが龍樹は説は明快です。 ですので龍樹菩薩として大乗仏教の第一祖とされています。  仏教の説は四苦八苦、四諦説法、八正道など色々あります。  龍樹は仏教の中核を因縁生起と中道と考えました。  因縁生起を空の思想とまとめ、中道を中観として仏教の教義を再構成しました。  空は構造主義的哲学、すなわち現代的構造主義の存在論と認識論、中はポスト構造主義と同じものです。 コラム5-4 教相判釈(教判説)と方便  釈迦の教えは時期や相手によって説かれる内容が異なります。  これを方便と言います。  釈迦はその時、その状況に、その相手に合った内容を説いていたと考えられました。  そこで釈迦が説いた内容は多様な形で残されます。  釈迦がどの時期にどの理解度の相手に何を説いたのかを系統分類したものを教相判釈と言います。  略して教判説とも言います。  釈迦の死後教えは分権化され、釈迦の教えを集めた経蔵、戒律を集めた律蔵、注釈書を集めた論蔵などを三蔵と言います。 コラム5-4 偽経 全ての仏教文献を集めたものを大蔵経と言います。 経典の中には偽経と呼ばれる広大に創作され、釈迦が実際には説いていない経典もあります。 言語学や音韻学の研究から偽経を証明した日本大阪の私塾の懐徳堂の文献学や書誌学の町人学者の富永仲基は有名です。 教相判釈天台宗の慧観は智慧のあるものとないもので頓教と漸教の2つに分けました。そして漸教を説かれた時期と内容で分類した五時八教とういう教相論があります。 中国北部の華厳宗には法蔵による教えの対象者とその細かい内容で分けた五教十宗説があります。 三論宗の吉蔵は教えの空を正しい教えとし空の受け入れるかどうかで分類した顕正破邪論があります。 5-6 天台智顗の三諦論:空、戯(仮)、中  インドの仏教はシルクロードなどを経て中国にもたらされ中国で発展や変容を遂げます。  日本の仏教は中国からもたらされたものです。 中国仏教で代表的な思想家は天台宗の智顗です。 智顗は三諦論を唱えました。 三諦論は空、戯(仮)、中の3つの諦から成り立ちます。 諦とは真理の事です。 釈迦の理論に四諦という考え方がありますがそれとは別のものです。 空と中は龍樹の空と中観と同じです。 戯(仮)とは素朴実在論の考え方で我々の自然な考え方である存在し認識できる事物です。 この考え方では事物は存在すると考え認識できると考えます。 それ以外の考え方は持っていませんが、その考え方に懐疑的になったとしてもそれ以外の代替案を持っていないので結局突き詰めたり何かを思考し判断するにはそれを選択するしかありません。 それ以外の考え方、特に空の考え方を持つ事が出来ないため素朴実在論だけでとらえる物事を戯(仮)と呼びます。 戯や仮は色と言い換えてもいいかもしれませんが、この様な言葉が使われた背景には現代哲学のシミュレーションとシミュラークルと同じ考え方があります。 第2篇で思想家ボードリヤールの説明の際に詳しく解説します。 他方で中国北部で流行した華厳宗の第三祖で中興の祖、法蔵は様々な経典から存在論、認識論を分析し、存在と認識の溶け合う独自の中論、時事無碍法界を説いた考え方もあります。 コラム5-6 仏教の変容  他の大乗仏教の宗派もそうです。 天台智顗に先行した三論宗の吉蔵(中国人ではなくシルクロード沿いの西方の人)は空論や十二門論で空を絶対とし、百論でそれ以外の考え方を否定しました。 日本の最澄は中国の天台宗を日本化し円・戒、禅、密という競技体系を作りました。 空海は三諦論+法華経で法華経で生き方の在り方を説いたと思われます。  日本の仏教を簡単に見ていくと真言宗の空海は基本この三諦論の基本教義の上に密教を重ねているといえるでしょう。  浄土宗、浄土真宗は念仏や阿弥陀如来、極楽浄土信仰をくっつけています。 浄土真宗の親鸞は我々はすでに解脱しているのだからそれを阿弥陀仏に感謝しなさいと言いました。これも大乗仏教の表現の一つの形です。  日蓮は天台智顗の三諦論と法華経を重要視しました。 しかし日蓮は法華経の本仏論という理論を採用しています。 本仏論は仏陀すなわち仏を本仏と迹仏に分け、迹仏は悟っていますが真の仏ではないという考え方です。 この様な考え方は三諦論とどう両立させるのかにより本当に三諦論を理解しているのかに疑問が生じ、日蓮宗の内部外部に関わらず議論の的になっています。 すなわちこの考えによれば解脱した仏陀にも違いがあり釈迦は本仏で日蓮は迹仏であるとか釈迦は迹物で日蓮が本仏であるとかの議論が生じるからです。  禅宗は三諦論に至るための方法としての禅定の重視でしょう。  奈良時代の仏教は華厳経などの悟った境地を芸術的に表現し、国家の安寧を守ることを重視します。 5-7 仏教と現代哲学の対応  結論として三諦論と現代哲学は同じ哲学になります。  三諦論を理解すれば現代哲学も理解できますし、現代哲学を理解すれば三諦論も理解できます。  現代哲学から見れば三諦論は現代哲学の先駆ですし、仏教から見れば現代哲学のマスターは悟りと同じ事になります。  再掲しますが三泰論を理解すると下図のようなイメージを習得できます。        大乗仏教は三諦論を基本に成り立ちます。  現代哲学と同じく三諦論からは実際の世界、世俗の社会でどう判断し行動すべきかが何も導き出されません。  原始仏教や大乗仏教が宗教であるゆえんは三諦論に世俗で生きる指針となる教義や戒律を加えたからです。  原始仏教では四諦、八正道などになります。  しかし四諦も八正道も三諦論の必然の帰結ではありません。  別の考え方を加えてもよかったでしょう。  また四諦や八正道は仏教に入信するための動機付けや修行方法です。  出家するためのもので、在家信者が自然や社会の中でどう生きるかを示していません。  世俗世界で生きる指針がないと言えます。  あるいは仏教史はこの指針を恣意的に各宗派が作ってきた歴史と言えます。  第2篇では現代哲学の実践応用について解説しますが、この点は現代哲学が仏教より研究が進んでいると考えられます。 また仏教に対する現代思想の長所として勉強方法が豊富である点があります。 三諦論も現代哲学も生物学的な脳の成熟が未熟で知識も経験も考え方も乏しい中で学習する場合には非常に非直感的で概念の形成がし難く習得が困難です。 釈迦、龍樹、智顗の時代では特に三諦、特に偽(仮)を除いた二諦を身につける勉強方法が未熟でした。 現代より前の社会では文化や文明が素朴実在論を前提に構築されています。 その様な環境で中や空を理解するための頭のスキームを作るのに利用できるアナロジーや連想をする対象は希少であったと考えられます。 2020年現在ではその時代とは逆に現代哲学を基盤に世の中が形成されています。 ですので現代哲学的直感も豊富に経験していますし説明するための例えも豊富です。 第6章 現代哲学と現代数学・物理学 カントールが造った楽園から我々を追放することは誰にもできないであろう。  ダフィット・ヒルベルト 健全な哲学を創造するためには形而上学を打ち捨ててよき数学者にならなければならない。 数学はあらゆる種類の抽象概念をとりあつかうのに最適な道具であって、この領域における数学の力は無限である。 ディラック 数学は科学の女王である。   フリードリヒ・ガウス 自分は頭の一番いいときに数学をやり、少し悪くなると哲学をやり、もっと悪くなって哲学もできなくなったので、歴史に手をつけた 。 バートランド・ラッセル 6—1 数学とは何か 学ぶこと、学ぶべきものをマテマウオー、マテマティカ、英語でいうとmathematicsになります。数学というのは語訳です。この場合非常に不幸な語訳でした。Mathematicsは数を学ぶ額もkンではありません、学ぶべきものはもっと広いものです。 6-0 なぜ現代数学か  第5章では仏教が現代哲学に先行して2000年以上前に同じ思想を創造し広めた事を解説しました。  しかし現代哲学は現代においても別の学問に先行されています。  それは数学です。  現代数学は19世紀後半から20世紀の初頭にかけて現代哲学の成立に先立つ事100年よりは短いですが同じ思想を確立しました。  数学は数学という学問の対象である数や量や図形の実在に何の疑いもなく突き進んでいた間は近代自然科学のトップランナーとして科学の女王として君臨していました。  ところが学問の対象である数や量や図形の実在に疑問が起こる事件が起こることにより学問の成立をめぐって危機に陥ります。  本章では現代数学について説明し、現代哲学との関係を解き明かします。  数学mathematicsはギリシア語の語源mathematicaで“学ぶべきこと”を意味します。mathematicsは数学と訳すよりは第1章で上げたリベラルアーツの2つ目の意味に近いものですので本来別の訳の方がよかったかもしれません。 リベラルアーツの2つの意味は①自由になるための技術、②人間性(知性、品性)を高めるため教え養われること、とでした。自由7科の論理学、算術、幾何学は現在でも数学の分野と言えるでしょう。 算術はarithematicsで算数と訳してもよいですし、数論の中の計算を扱うものと見ることができます。 数学が扱う対象は数、量、幾何・図形、集合、空間、位相、解析・変化、代数、構造、計算・アルゴリズム、構造、記号、形式、論理、理論、体系、数理論理学、集合論、モデル理論、証明論、計算理論、演算(数理演算、論理演算)などです。  しかし対象が何かが問題ではなく対象間の関係を扱う事が重要です。  上記のように数学は抽象概念を頭脳労働で扱う学問で観念的で机上の座学で行うことが可能です。 6-1 数学に起こった問題 数学は厳密の学問であり哲学と並ぶ確実性追求の学問です。 例えばユークリッドの原論は人類の到達した確実性、厳密性のお手本のように考えられており、数学の議論こそが確実性を正確に議論する学問の良心のように思われていました。 数学に関わる全ての概念から曖昧さを排除を試みました。 6-1-1 数、量、無限の基礎の問題 近代数学の成果の一つに微分と積分(解析学、関数論)の発見があります。  解析学は無限という概念を基礎とする学問です。 ところが集合論の父と呼ばれるゲオルグ・カントールが無限について予想もつかない発見をいくつもしました。 カントールは同数という事が一対一対応が付くことと定義し、例えば自然数の集合は有理数の集合と等しい、しかし有理数の集合は実数の集合より小さいことなどを証明しました。 そこで「無限とは何か」という問題が生じました。 更には「数は何か」「数や無限は実体か」という問題が生じました。 代数学を公理化した偉大なる数学者レオポルド・クロネッカーは「自然数は神が作った。他は人間のわざである」と言ってカントールを攻撃しましたが、個人攻撃をしたところで問題が解決するわけではありません。 6-1-2 幾何学の基礎の問題  ユークリッド幾何学はギリシア時代から完全な論理の見本であり学問の模範とされてきました。  ユークリッド幾何学は点や線についての定義と5つの公理、5つの公準を基礎に推論と論証を行う様に設計されています。  ただ長年公準の1つについてそれが公準と言えるのかという疑いが持たれてきました。  その公準は「ある直線状にない一点を通る直線である直線と交わらないものを1本だけ引くことが出来る」と表現できます。  この様な直線は直感的には平行線の事であり、そのためこの公準は「平行線公準」と呼ばれてきました。  しかしフリードリヒ・ガウスとボヤイ親子によってこの公準が成り立たなくとも合理的な幾何学が構成できることが分かりました。  平行線公準を別の公準と差し替えて作られる幾何学を非ユークリッド幾何学と言います。 コラム6- 非ユークリッド幾何学の例  定義とともに幾何学の体系を作るのに使われる公準の1つにも問題がありました。第5公準といわれるものは「ある直線上にない点を通る直線である直線とマジ阿波らない直線は1本だけ引ける」というものです。  そのような直線をある直線に対するある点を通る平行線と呼び、この公準を平行線公準と呼びました。  この公準は元々本当に公準と言っていいのか?という疑念が持たれてきましたが自明と言えないことが分かりました。  ①「ある直線上にない点を通る直線はある緒戦と必ず交点を持つ」、 ②「ある直線上にない点を通る直線はある直線と交点を持たない」 という①②の公準を平行性公準と入れ替えることでユークリッド幾何学と同じような美しく整合性のある幾何学が構築できます。  これを非ユークリッド幾何学と言います。  ちなみに①の公準の例は球面上で構築する幾何学で、ユークリッド幾何学の様に三角形の3つの内閣の和は2直角である、などのユークリッド幾何学で得られる結論は得られなくなりますが、他に多くのユークリッド幾何学と同じ定理や結論が得られます。  この様に古代から続き完成された学問と考えられてきた学問である幾何学が自明でないということが分かってきたために、幾何学の確実な基礎とは何かと考える問題が出てきました。 6-2 論理学の進化  数学の基礎の一つは論理学です。  ユークリッドの幾何学も背後に働いているのは我々の合理的な推論能力であり、論証は論理的に進められなくてはいけません。  合理的であり論理的であるためには理とは何か、証明を健全に表現、記述できるのか、その根拠は何かという論理学の基礎研究が必要になります。  歴史を遡るとアリストテレス以来最大の論理学者と言われているのは現代論理学の父と呼ばれるゴットロープ・フレーゲです。  アリストテレスの論理学はオルガノンと呼ばれる著作群として知られています。  中世ヨーロッパではそれを引き継ぎ三段論法でまとめられる論理学が主流になります。  近代、フランシス・ベーコンやデカルトなど演繹法や帰納法などが自覚されるようになり人間の理性が認識されるようになりましたが、近代の論理学では普遍的記号論を考えたライプニッツは自然言語を含めた理性的過程を形式的記号操作により行う事を創造していたようです。  19世紀になるとデ・ブールは論理記号を作り論理学の記号化が進みます。  そのような土台の上に現代論理学の基礎を確立したのがゴッドロープ・フレーゲです。  彼により、記号論理学、数理論理学が作られ、命題論理と述語論理にまとめられます。  しかしフレーゲの著作にバートランド・ラッセルによりフレーゲの著作にパラドクスが見出され、それを解消する形でラッセルの「数学言論」が書かれ数学に用いられる論理学の基礎になりました。  ユークリッド幾何学は定義、公理、公準で形成されていると書きました。  しかしそれ以外にも論理が必要です。  数学における論理とは現代数学より前には何となく自然言語を用いて何となく合理的だと思う推論を行うことでなされてきました。  しかしそれが確かである根拠はありません。  実際に論理学や哲学の歴史ではパラドックスや類推の間違えが見られることがあります。  科学とは方法の精神であり結論よりも結論に至るための方法論をより重視します。  数学において基盤になるのは論理学です。  論理学により数学を基礎付けをはかることを論理主義と言います。 数学全体を論理学の一部とみなすことで、数学の基礎付け、数学の論理学への還元、つまり論理学の諸規則から数学を演繹しようと考えます。 論理と実証の関係は近代における大きなテーマです。 数学は物理学の様な自然科学の様に実証を扱わないのでシンプルな論理主義が研究されました。 コラム6-2 論理学史における誤謬  アリストテレスの誤りとして知られる論証があります。 アリストテレスは「全てのものには原因がある」という命題から「全ての物はある単一の原因から生じる」と類推しました。 これが健全で妥当な推論だとすると全てのものに原因があると証明できれば全ての物の創造者がいる事が証明できます。 しかしこの論証は正しくありません。 またゼノンのパラドックスと言われるものがあります。 「アキレスと亀」「飛んでいる矢は止まっている」などがあります。  アキレスと亀が競走します。 亀が先行してアキレスが亀がいた地点に行くとカメはそれより先に進んでいます。 またアキレスが亀のいた地点に行くと亀はすでに先に進んでいる…、の繰り返しでアキレスは亀に永遠に追いつくことが出来ません。  「飛んでいる矢は止まっている」は我々がより短い時間を認識できるなら瞬間を探知できる能力により動いている矢もゆっくりと感じられついには止まっていると感じられるというものです。  聖書にもパラドクスが載っています。  テトスへの書第一章12節~13節にクレテ人の中なる或預言者いふ『クレテ人は常に虚偽をいふ者、あしき獣、また懶惰の腹なり』この證は眞なり。  この文章はクレタ人のある預言者が正しいのであれば彼の言う『クレタ人は常に虚偽をいう』が誤りであり、このクレタ人の預言者のこの言葉が虚偽であればクレタ人は必ずしも虚偽を言わないこともあることになり矛盾があります。  これは自己言及のパラドクスと言い有名です。 ケーススタディ 論理学の論証の例  まず記号論理学による証明の一例をあげます。 P→Q, -Q  |-  -P  1  (1) P→Q, A  2  (2) -Q A 1,2 (3) -P 1,2 MTT  PやQは命題、「-」は否定、「→」は含意等と呼ばれ「ならば」の意味です。  命題とは真偽が決定できる平叙文です。 ③MTT(modus tollendo tollens)は否定否定律と呼ばれる推論のルールです。 背理法という数学的手法で知られています。 PならばQであるという前提とQではないという前提からはPではないという結論が導かれるというものです。 古い論理学では推論の規則が7つあり、①仮定の規則、②肯定肯定式、③否定否定式、④二重否定、⑤条件的証明、⑥連言導入、⑦連言除去、⑧宣言導入、⑨宣言除去の9つのルールがありますが、これらは直観的に人間の推論規則に当てはまり易いルールです。 実際には命題論理では規則は9つもいらず3つで十分なことが分かっています。 否定と連言と選言で全ての論理的命題や論証が可能です。  更に命題論理については無矛盾性も完全性も保証されています。 規則が9つありますが3つで十分な推論規則が分かり易くするために数を増やしていますので、それぞれの規則は独立ではないことも分かります。  第一階述語論理以上の高次の論理学では無矛盾であれば不完全であることがクルト・ゲーデルにより証明され数学界に震撼を与えました。 自己言及命題が生じるためです。自己言及命題を避けるためにラッセルのクラス理論、あるいはより高次の論理学の場合にはタイプ理論というのもあり、完全性を担保するルールを設ける場合もあります。 6-3 幾何学のもう一つ問題:定義について  平行線公準の問題提起により公準を変える事により別の幾何学を造れることが分かりました。 今まで自明と思われていたことが確実ではないことが分かり数学全体が見直されます。 数学は厳密で正確な学問なのか、数学の対象、定義、公理・公準、論理などについて再検討されます。 数学の対象である、点や線、無限と言った要素やその定義について考えましょう。 ユークリッド幾何学でも非ユークリッド幾何学でも「点とは面積のないもの」「線とは幅のないもの」と定義されます。 改めて考えたときにこれを適切な定義と言えるのか? 何となく何も考えずにそれまで幾何学してきましたがその答えでは納得できないかもしれません。 物理学の様に実証できないからです。 物理学は観測、測定、実験などの方法を明示することで再現性を持って物理学の対象を示すことが出来ます。 数学ではそれが出来ません。 この問題を掘り下げるとそもそも定義とは何かという問題さえ出現します。 現代数学より前には数学的対象は定義が出来ると暗黙に前提されていました。 哲学的な言葉で表現すると数学的対象は存在し認識できるのです。 ですから現代数学以前の数学は素朴実在論を無意識に前提にしています。 実在するから定義できると考えています。 しかし数学を確実な基礎の上に打ち立てるために厳密に考える場合にはそれまで素朴に信じていたことを見直す健全な懐疑主義が必要です。 6-4 定義の除外:無定義語、無定義概念 前節でみてきたように数学の発展によりこれまで前提としてきた事が確実ではなくなりました。 まず数学の対象であり要素である、点や線、無限が直感的に理解できなくなり、その存在や認識について一から考え直す必要が出てきます。 問題を集約すると「定義とは何か」という疑問が現れます。 定義を定義しないといけません。 「そもそも定義する必要はない」という解答で問題を解決したのが現代数学の父ヒルベルトです。 ヒルベルトは定義しなくても数学の理論や体系が成り立ち得ることを示しました。 “点”という我々が発達の過程の中で自然言語とともに身につけた直感的な素朴な概念から出発すると何となくそれが定義できるように感じるし、存在して認識できるように感じるし、幾何学する場合に最初に定義しておくが厳密であるような気がします。 しかし自然で直感的な感覚が確実で厳密であると出来る理由は何もありません。 ただの先入観であり思い込みです。 なぜこのような誤解が生じたかを考えるとそう考える以外に代替案がなかった、という事が挙げられます。 代替案を上げる必要も感じていなかったとも言えます。 ヒルベルトは数学自体を形式的な記号の文字列の変形規則と考えます。 数学の対象である要素や思考方法、前提、全てを実在とは切り離します。 そうした記号のルールの中では今まで実体と考えられ数学の出発点と考えられてきた「点」を自然な感覚や直感的な理解で扱う必要がなくなります。 「点」を自然な感覚や直感的な理解と切り離すために「a」など記号で表現します。 このように要素を記号化して呼ぶことを無定義語と言います。 さらに線というもののもつ機能や他の要素との差異や関係性を記号の体系の中で規定します。  「点」の持つ「広さのないもの」という自然で直感的な概念や定義を捨象して形式的に捉える事を無定義概念と言います。 全体の中での機能や差異や関係性で「a」を規定しても十分にユークリッド幾何学と同じことを行えることをヒルベルトは著作の中で実践して見せる事により示めしました。 6-5 公理主義  ヒルベルトのユークリッド幾何学の構築方法を考えてみましょう。  まず従来のユークリッド幾何学では「線」などの幾何学で扱う対象の定義を行いますがこれは行いません。  かわりに無定義語として記号を決めます。  好きに決めていいですが前節に倣い「a」とします。  「a」は従来のユークリッド幾何学の様に始めから存在する意味は求めませんが全体の記号の中での差異や関係性、機能を定める事により従来のユークリッド幾何学に類似した性質や作用を持ちます。  例えば別に「b」という記号を作ります。  「a」と「a’」の差異、言い換えると「a’」と「b」が異なるものであることを示すために「a≠b」という規則を作ります。  「b」を線のイメージで考えてください。  新しく「c」という記号も決めましょう。  「F(x,y)=z」という構文を規定します。  また平行という関係性を規定し平行でないという記号を∦とします。  述語構文を「F(x,y)=z」を「平行でないxとyは共通集合zを持つ」としましょう。  b∦cとします。  そうすると「b∦c」から「F(b,c)=a」が導かれます。 これは従来のユークリッド幾何学では「線bと平面cはaで交わる」という意味になります。  大雑把で省略もありますがこの様なイメージで捉えて下さい。  数学とはこのような記号の規則で形成できます。  無定義概念と公理・公準、そして論理を規定することで記号列の変形規則が定まり、一つの理論や体系、数学の分野が自動的に定まります。  論理のルールについてはフレーゲやラッセルが研究し土台になるものが作られていました。  ですので公理のセットを適当に設定すれば一つの数学の分野が作れます。  これを公理主義と言います。  現代数学はどの分野も公理主義化されています。  公理主義は従来の数学に比べて説く湯に見えるかもしれませんが、実際に数学する場合に行う事は従来の数学と現代数学では違いはありません。 証明の仕方も大差ありません。 ですから現代数学の数学をする際に数学基礎論を学ぶ必要はありません。 しかし数学の基礎を考える際には従来数学は分析的、現代数学は構成的と言えるかもしれません。 別の面では従来数学は探求的で帰納的、現代数学は不可知的で演繹的です。 ケーススタディー6-5 古典力学の公理主義化  物理学は現代数学の確立とともに並行するように公理主義化された分野です。  ニュートンの著作“Naturalis Philosophiae Principiae Mathematica”(自然科学の数学的原理)は聖書の様に人類の遺産と言えるものです。 ラッセルの“Principia Mathematica”(数学言論)はこのニュートンのこのタイトルを意識しています。 ニュートンの本は論理と数学、3つの原理となる法則、物理学の諸概念を使って書かれています。 ニュートンの時代にはデカルトが代数幾何を確立していましたし、ニュートン自身やライプニッツが微分法、積分法を作り解析学(関数論)が利用できました。 しかしニュートンはあえてユークリッド幾何学を使っています。 ニュートンは完璧主義者で誰もが疑いなく納得する形式で著作を書こうとしたのであると考えられます。 微分や積分はまだ十分に納得できないと考えていたのでしょう。  物理学で扱うのは計測できる量です。  質料、重さ、距離、速度、加速度、等の関係を扱います。  古典力学の3法則は ①慣性の法則 ②f=maの法則 ③作用・反作用の法則です。  物質(質量のある点で表される、応用で体積のある質料、すなわち剛体の運動なども解析できるが上級編になる)がガリレオ空間、すなわちどのように座標系を取るかによらず時間の流れを一定として考え、質点の運動と力について考えるのが初歩的な力学です。  計測される数値を用いてその間の関係にある原理や法則を研究します。  古典力学の3法則を観察しましょう。  古典力学で素朴実在論の立場に立てばこれを「ニュートンが力という実体を初めて明確にした」と見ることが出来ます。 一方構造主義の立場では「fというものをmやaなどの他の要素や関係を提示することで理論に組み込んだ」と見ます。 f(forece=力)というものは「力の概念を発見した」のではなく「力の概念を構成した」と考えて力学を構成していくのが古典力学の現代化(現代哲学、現代数学化)になります。 こうした基礎的な部分は異なってもその力学を使う場合には行う作業はほとんど同じです。 ニュートンの古典力学自体がそもそも公理主義的な初めから持っています。 3法則を公理や公準として背景に論理があることを明確にし、物理学的対象であるfやmやaを実在性の仮定を放棄するだけですぐに公理主義化できます。 同じものを見方や解釈を変えるだけで現代的な力学に変えているだけと言えます。 幾何学の公理主義かも同じです。 公理主義化しても実際に行う操作は同じなので過去の数学の膨大な遺産を一からやり直す必要はありません。 6-6 形式主義  公理主義において行う事は有限後の無定義語、有限個の公理、有限後の論理規則を組み合わせて有限界の記号の変形操作により結論を出すことです。  これが従来の数学で行われてきた思考や推論過程に代わります。  自動的な操作を何かの労力で行えばいいのであって従来人間が行ってきたような思考は必要ありません。  この様な考え方を形式主義と言います。  昔は航海のための天文学や保険計算など三角関数やその他の関数を計算するコンピュータという職業がありました。  大量の人間が関数の具体的な数値計算を行い表を作成します。  形式主義においてはこの様な人間のコンピュータが片端から可能な記号操作を行っていけば有用な定理が導かれますし、コンピュータは人間である必要がありません。  実際に機械式のコンピュータというのもありましたし、真空管や半導体による電子式コンピュータというものもあります。  公理、公準、推論規則は有限です。 記述のために自然言語を使用する必要もありません。 F(a)で一つの命題を表現してもいいのです。 またG(a,b)でaとbの関係を記述してもいいのです。 大切なのは記号の変換規則で自然言語を用いると寧ろ分かり難くなります。 記号のルールを完全に決めて自然言語を排除可能です。 それによって記号操作を自動化することが出来ます。 自然言語の曖昧さや非合理さを排除することが出来ます。 合理性、論理性を完全に達成する事が可能です。   コラム6-6-1 科学と技術とコンピュータ 現代のコンピュータはノイマン型と呼ばれます。 ノイマンとはヒルベルトの弟子の数学者フォン・ノイマンの事です。 現代コンピュータの父と言われるのはアラン・チューリングです。 チューリングは第二次世界大戦中、ドイツ軍の機械式暗号作成装置エニグマの解読作業を行っていた数学者です。 直接現在のコンピュータの起源となったこれらの人物の他に大昔にコンピュータを想像していたと思われる人物にライプニッツがいます。 ライプニッツは「普遍的記号法」という論理、数学、自然言語を含む思考の道具としての全ての記号的操作を包括して可能にする記号体系を想像していました。 数の計算を数理計算というのに対して、規則的な記号操作を行うものを論理演算と言います。 現在は計算機科学、電子工学、情報科学が進歩したのでビックデータやAIにより人間の代替が大分可能になりました。 コラム6-6-2 論理主義:問題点  ラッセルは「Princepia Mathematica」で現代数学の論理的ベースを作りました。  論理体系は色々なものが作成可能です。 論理の体系はその内部で整合性がとれていなければいけません。 整合性には無矛盾性や完全性があります。  無矛盾性はその論理体系で真である前提からは真なる結論が必ず導かれること。  完全性はその論理規則で作成可能な命題がその論理体系を使うことで真偽を決定できること。  この証明が数学界(数学は論理学を含むものとする)のテーマになります。 コラム6-6-3、形式主義、直感主義  ヒルベルトはラッセルの論理学をベースに全ての数学を記述することを考えましたがこれに反対する意見がでました。  背理法や排中律を論理規則とすべきでないという立場の人々が登場しこれを直感主義と言います。  直感主義者の背理法への反対は、背理法による証明では証明される定理とその証明の構造が直感的に理解できない事を理由にしています。  排中律は命題かその否定が真であるか偽であるかが明らかであることを主張したものですがこれに対しても直感主義者は懐疑的で採用を否定します。  この場合直感主義の直感は論理規則は全て直感的に自然な感覚にかなうものであるべきという意味の直感です。  一方形式主義のヒルベルト学派は背理法や排中律を排除してしまう事によりそれまでに達成されてきた数学の多くの成果を証明し直さなければならなくなったり証明できなくなることを理由に直感主義に反対しました。  この論争は結局クルト・ゲーデルが第一階述語論理以上の高級論理では完全性が成り立ったないことを背理法を使って証明することで論争自体がなくなってしまいました。 6-6-3 完全性、無矛盾性:クルト・ゲーデル  現代論理学がラッセルとホワイトヘッドの「pricipia mathematica」で大成しましたが、無矛盾性と完全性は証明されていました。  一番簡単な論理学、命題論理は無矛盾性と完全性が証明されました。  これは簡単な証明ですので論理学の入門レベルの教科書にも載っていることがあります。  因みに命題論理の完全性を証明したのはクルト・ゲーデルという人物です。 この人物は第一階述語論理以上の論理体系では完全性が成り立たないことを証明しました。 この定理の結論は以下のようなものです。 ①「無矛盾であれば不完全である(証明も反証もできない命題が存在する)」 ②「無矛盾であれば自身の無矛盾性を証明できない」  制限を与えれば完全性も担保できると示したのはバートランド・ラッセルです。 ラッセルはタイプ理論という理論を例示しました。 問題は集合とは何か、そして集合の集合とは何か、また自己言及命題をどう取り扱うかです。 またこの定理の証明では背理法が使われています。  数学の基礎をめぐるこうした学問を数学基礎論と言いますが数理論理学、圏論、集合論、モデル理論、証明論、計算理論といった全ての数学の共有する基礎であるとともに数学の数学・メタ数学のような分野を総称しています。 6-7 公理主義と現代哲学  ここで現代哲学について考えてみると公理主義は現代哲学が数学に対して適用されたものという事が出来ます。  従来のユークリッド幾何学は素朴実在論に立脚しています。  公理主義は数学に限定した構造主義です。  しかし公理主義は従来のユークリッド幾何学を特に否定しているわけでもないのでポスト構造主義的とも言うことが出来ます。  数学は抽象概念と観念だけで行う学問です。  また数学者は「点」が実在するか、実体があるかについて数学の扱うテーマとみなしません。  確実な存在と認識、存在論と認識論については哲学の領域です。  色々な理由があると思いますが、仏教を除いて現代哲学の考え方が最初に成立したのは現代数学です。  公理主義の存在と認識に対する考え方は現代哲学を数学限定で特殊化したものでより世の中の全ての事物に一般化したものが現代哲学となります。  これは構造主義もポスト構造主義もそうです。  現代数学の方が現代哲学より先に成立していますので現代数学は現代哲学のプロトタイプという事が出来ます。  自然科学では現代数学が成立して以降、理論的、体系的な全ての思考が公理主義化されていきます。  筆頭は純粋な自然科学と言える物理学です。  物理学は物を対象としますので理論系と実験系に分かれますが、物理学の理論は全て公理化されていきます。  公理主義化とはすなわち構造主義化です。  化学、生物学、地学は物理学の応用化学ですので言及しませんがあらゆる理論は公理主義化はともかく構造主義化が可能です。 人文科学、社会科学における構造主義化は遅れました。 構造主義的言語学は別として構造主義が脚光を浴びたのはレヴィ=ストロースの文化人類学への応用からです。 公理主義と構造主義の違いは理論・体系内部に整合性があるかどうかです。 整合性とは無矛盾性や完全性です。 公理主義は整合的である必要がありますが、構造主義一般は整合的である必要がありません。 ですから公理主義は整合性が必要ない対象には適用できませんが構造主義は整合性のない対象に適用できるのでより広範な科学や学問に適用できます。 ケーススタディ6-7-1 構造主義で扱えて公理主義で扱えないものの例 数学が扱うのは理性による思考です。 数学を構造主義化する際には公理主義化します。 しかし数学や科学以外の厳密性、確実性、正確性が存在しない、あるいは必要ない領域を構造主義を用いるには公理主義では不十分ですし全く公理主義が使えない場合もあります。 無矛盾性や不完全性を含む対象は公理主義は向いていません。 一般的な構造主義では完全性や無矛盾性でないものを扱う事ができます。 現代哲学が扱うのは人間の感情や意志を扱いますが公理主義では理性的な思考しか扱えません。 人文科学や社会科学の一部、自然言語、言語学、文化人類学、共産主義、文学、文献・書誌学、歴史学、芸術、美術、ファッション、デザイン、精神、心理、認知、脳などについて理論や体系を作るためには一般的な構造主義化が適しています。 自然言語を使って理性による思考を行うことが出来ます。 しかし自然言語は合理的で論理的な意向を邪魔する場合があります。 自然言語は理性や思考だけのために専用に作られているわけではないからです。 元々自然言語はそういうものなのです。 記号論理学は平叙文で形成されますが、自然言語には平叙文の他に命令文、質問文、感嘆文などがあります。 そういったものを使って思考以外の感情や意志など物も表します。 記号論理学では表現できない詩や文学や歌詞など美術、芸術にも使われます。 排中律も背理法も成り立たない現実の自然、世界、社会を、曖昧な人間な心を表現する能力があります。 コラム パラドックス  ポスト構造主義を他のイデオロギーと区別しないとどういうパラドックスを生じさせることができるのかについて考えてみましょう。 「『全てのイデオロギーは絶対に正しいとは言えない』と主張するあるイデオロギーは絶対に正しい」 コラム 自己言及命題  数学の基礎分野の一つに集合、位相論があります。これは数や順番というものを含めて数学の色々な概念に対して基礎づけを行っています。 集合とは要素の集合をイメージすると思いますが、集合論は集合の集合も扱います。 集合と集合の集合が入り混じると色々な現象が生じます。 ・自分自身を表す言葉を表自後、自分自身を表さない言葉を表他語とします。言葉という言葉や黒いという言葉や文字という言葉は表自後です(言葉はそれ自体が言葉ですし、文字という言葉はこの文章は活字で表現されているのでそれ自体文字ですし、黒いという言葉は黒いインクで印刷された書物ですのでそれ自体が黒いので表自語です。りんごとか、赤い、とか甘い、という言葉はこの本や文字はりんごではなく、赤く印刷されてもおらず、このページをなめても甘くないので表他語です。さて表自語や表他語自体は表自語でしょうか、表他語でしょうか? ・ある村で自分自身でひげをそらない全ての人のひげをそると看板をあげている床屋があります。その床屋さんは自分自身の髭をそるのでしょうか?そらないのでしょうか?  自然言語では文法に従って、正しい文章としてこのような文章を作ることが許されます。さて論理学ではどうでしょうか? 論理学で許された命題、言説の形成規則でそのようなものが作れてしまうと問題があります。真か偽かはっきりすればいいのですが、どちらでも矛盾です。  健全性や妥当性を考えるとそのような命題を作ることは論理学の規則に従っているので健全で妥当な命題なのです。 ケーススタディ 自己言及命題とパラドックス  昔からよく知られている問題があります。 「『全てのクレタ人はうそつきである』とあるクレタ人が言った事を知っています。まさにいいますがこのことは事実なのです。  とある人が言いました。これは正しいでしょうか?間違っているでしょうか?  こたえは正しくも間違ってもいない、です。問題の出典は聖書でパウロのテトス?人の手紙でパウロが述べた言葉です。  この自己言及命題によるパラドックスは昔から知られており、セルバンテスのドン・キホーテにも描かれており、可哀想なパンチョはこのパラドックスのせいで困って、疲れ果ててしまいます。  現代論理学の父である現代論理学の父ゴットロープ・フレーゲはバートランド・ラッセルにフレーゲの仕事の中にこのパラドックスが含まれていることを発見し、フレーゲは長年の著作活動の時間がパーになってしまいました。  とどめはクルト・ゲーデルのペアの公理系による……不完全性定理で、命題論理は完全であるが、述語論理以上の高次の論理学ではパラドックスを含む自己命題言及が作成可能であることを証明してしまい現代数学の父ダフィット・フィルベルトのプログラムを破綻させてしまいました。  世の中往々にして正しくも間違ってもいないことがあるものです。正しいとも間違っているともいえなかったり、正しくも間違ってもいる場合もあるでしょう。  世の中にはこのようにいけずな根性の悪い質問をする人私は違いますがする人もいます。ただ世の中正しいとか間違っているとか安直に割り切ってしまう方も慎みと謙虚さを持たなければいけないことをこの問題はしめしています。 第7章 精神医学と現代哲学 私を殺さないものは、私を強くする。    フリードリヒ・ニーチェ、ヴィクトールフランクル「夜と霧」からの引用 まことに汝らに告ぐ、一粒の麦、地に落ちて死なずば唯一つに在らん、もし死なば、多くの実を結ぶべし。 ヨハネ傳福音書 第12章 24節、ドストエフスキー、カラマーゾフの兄弟より引用 モンスターと戦う者はその過程で自分もモンスターになることのないように気をつけなくてはならない。汝深淵を見入る時、深淵もまた汝を見入るのである。  フリードリヒ・ニーチェ 常識をもつ人ならだれでも、目の混乱には2とおりあり、そして2つの原因から生じることを思い出すであろう。すなわち明るいところから暗いところへ入ったために生じるか、または暗いところから明るいところに入ったために生じるかである。これは心の目についても肉体のめについてと全く同じく、真である。そして、このことを覚えている人ならば洞察力の混乱し弱まっている人をみたときに、そうむやみに笑えないだろう。彼は、その人の魂がより明るい生活から暗い生活へ入り、それで暗さに慣れていないゆえに見えないのか、あるいは暗闇から白日のもとへ出たので、あまりの明るさのために目がくらんでいるのか、どちらかであるかを始めに問うであろう。そして、彼は一方を健康や境遇において幸せであるとし、他をあわれむだろう。あるいは、もし彼が闇から光の元へ来た魂を笑うような持ち主であれば、この場合を笑う方が、上方の明るいところから穴倉の闇へ戻ってきた人を迎えて笑う場合に比べればまだしも理由があるだろう。 プラトン「国家」より、ダニエル・キース「アルジャーノンに花束を」からの引用 智に働けば角かどが立つ。情に棹さおさせば流される。意地を通とおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。 夏目漱石 7-0 人間と精神は全て同一か、正常と異常とは何か  第6章までで現代哲学の概要を様々な面から説明しました。  第7章ではこれまでとは違う角度から現代哲学を説明します。  第6章までの説明は実はある暗黙の前提の上に立って行われています。 それは人間や精神には正常なものと異常なものがあるという前提です。 人間や精神は誰しも同一である、あるいは正常な精神と異常な精神があると分けて考え正常な人間と正常な精神についてだけイメージするように書かれています。 しかし人間や精神は誰しもが同じなのかという問題があります。 また正常な精神や人間と異常な精神や人間はどう違うのか明確にしなければ不公正です。  実はこの問題を考える事が現代思想誕生の一つの源流になっています。  精神病者は正常の人が近くも認識もできないものを知覚し認識しています。  これを幻覚や妄想と言います。  これを「異常だから」という理由で納得する正常な人もいるかもしれません。  しかし精神医学ではこの状態を診断し治療しなければいけません。  そのために正常も異常も研究する必要がありました。  その結果として精神医学者も存在論と認識論について研究する事になりました。 7-1 精神の生理学と病理学、近代精神医学の確立  医学において生理学とは人体の正常を研究します。  病理学とは病気の研究を行います。  精神医学においては精神疾患の研究を行います。  しかし脳科学や認知科学の研究が十分でないため、精神科の患者さんの内面を理解するのが精神病理学です。  異常とは例えば幻覚や錯覚(併せて盲覚という)や妄想です。  これは様々な原因で生じますがその中でも精神病、特にその中の統合失調症の研究が現代哲学の成立に寄与しています。  19世紀の身体科領域の医学では病気の定義の本体を捉える事に成功し始めます。 ウィルヒョウという病理学者は疾患とは器質的変化が病気を引き起こすものと考え、この考え方は受け入れられました。 細菌学ではコッホが感染症の診断方法を確立しました。 科学とは方法の精神です。 数学は推論を方法としますが自然科学は推論とともに実証が方法になります。 医学は自然科学の中でも基礎科学ではなく基礎科学の応用としての応用科学です。 応用科学という言葉には2つの側面があり、一つは基礎を基礎科学に依拠していることです。 医学は生物学や化学の応用ですが、生物学や化学は物理学の応用です。 物理学は純粋な基礎科学です。 応用化学のもう一つの意味は工学であるという事です。 科学は何故を探求しますが、工学は科学の使い方を研究します。 医学は診断学は科学、治療学は工学です。 19世紀の神経学では臨床診断学と組織学を2本の柱でした。 フランスのサル・ペトリエール病院がヨーロッパの神経学の中心になりそこのボスのジャン=マルタン・シャルコーは神経学の帝王と呼ばれます。 臨床神経症工学により臨床的な症候群を発見し、それに共通する器質的変化を染色法と顕微鏡の進歩による組織学で発見し病気として確立するという方法論で臨床神経学は成功をおさめます。 共通する症状群を持つ患者の死後脳や延髄、せき髄などを解剖し病理標本を作り共通する病理所見が見られれば疾患として確立します。 昔はシャルコー病と言われた筋萎縮性側索硬化症(ALS)やアルツハイマー病などが有名です。 もう一つ、精神病や認知症の原因として梅毒が発見されました。 梅毒は初期には身体症状が主ですが進行すると中枢神経障害を起こします。 サル・ペトリエール病院にはヨーロッパ中から多くの研究者が集まりました。 その中にジークムント・フロイト(1856~1939)がいます。 神経症とは神経に器質的な異常がないのに神経症状をきたす病気とされていました。 神経症の中でヒステリーは中枢神経系に異常がないのに中枢神経症状が現れる病気とされています。 シャルコーは催眠術によっててんかんとヒステリーを鑑別診断する方法を見つけました。てんかんは脳に器質異常がある病気ですが神経症は脳に異常が見られません。 フロイトは神経症について研究し精神分析学を創始しました。 これにより無意識を科学の解明目標として定着させるのみならず社会一般にも広まりました。 当時は精神医学と神経内科学は分離していませんでした。 更にいうとミシェル・フーコーの研究ではフランス革命以前は精神疾患の患者は法に背くもの、宗教に背くもの、性癖が異常と見られたものやLGBT、先天的、あるいは後天的に神経発達の障害がある知的障害などの人々と明確に区別されず、まとめて精神の異常とみなされていました。 近代に精神病院が作られることによりその中から精神障碍者が分離され精神疾患という概念が確立します。 7-2 精神病理学の歴史  梅毒の様な感染症や神経変性疾患による精神疾患は近代的な医学の方法で理解されるようになります。  しかし器質的異常をきたさない、実証的な方法で診断できない患者さんがたくさんいました。  一つは上述の神経症です。  もう一つは一部の精神病です。 精神病は精神が異常をきたしている状態であり、かつて“狂気”“気違い”(現在は差別表現とされるため使われていない)などの言葉で表現されました。  精神の異常とは何かというと「正常な人にない精神の機能がある」状態と「正常な人にある精神の機能を失っている」状態であり、そのために本人や周囲の人が苦悩する事です。。  前者を陽性症状といい例として幻覚や妄想があります。  後者を陰性症状と言い例として感情や意欲の平板化があります。  精神科では精神の異常に色々なやり方で分類を行いますがその一つに原因を外因性、内因性、心因性と分ける方法があります。  精神病の中には梅毒の様に感染性のものや家族性、神経変性や器質的、代謝的異常から起こるものもあり、この様に生物学的原因から精神障害が説明できる場合、外因性と言います。  当時の科学技術のレベルに応じて外因性精神病は早くから研究されました。  フロイトの精神分析学、心理学や心理学的に物事をみる心理主義の影響から神経症のような心因性精神病も認知が容易でした。  神経症も精神病に含める見方もあります。 その様な原因が見つからない多数の精神病患者がいましたが臨床症状や経過から病因や病理が不明でも疾患として認知するべきと考えられたのが内因性精神病です。 統合失調症や躁うつ病、うつ病など疾患が相当します。  例えばうつ病では本人の性質や環境要因から内因素(エンドン)がある一定閾値を超えると不可逆な疾患として発病するという風に考えられました。 疾患の科学技術的実証方法が見つからない中で精神医学者で後に哲学に転向したカールヤスパースが思弁的に精神病を診断する方法を考えました。 彼は現象学を基礎として了解と説明で判別する方法を開発しました。 これは精神障害を説明可能か、説明不可能か、と、了解可能か、了解不可能かの組み合わせで分類する方法です。  ヤスパースによれば精神病は患者の内面や症状が了解不能のものです。  この方法は20世紀を通じて長く使われました。 7-2-1分析学の歴史:フロイトの理論  器質的な、あるいは他の疾患による症状的な異常が見つからない場合には2通りの考え方があります。  そもそもまだその時の科学技術力では見つけられないだけの場合。  そして気質は関係なく機能的な障害の場合です。  フロイトは神経症の研究で神経症が機能的疾患であると考え精神分析の理論を作りました。  初期のフロイトの精神の階層論または局所論と言います。 意識を表在意識、前意識、潜在意識や無意識に階層化しました。 ヒステリーは突然中枢神経が異常を起こしたような症状を起こします。 痙攣したり硬直したり意識を失ったり倒れたりするてんかん様の症状以外にも様々な中枢神経系の異常が推察されるような症状を起こします。 てんかんの場合には脳波や海馬効果や外傷や遺伝子異常などがすでに見つかっているか見つかると想定されています。 ヒステリーによる発作はこの様な生物学的に説明できる身体的、器官的、組織的、遺伝的な異常が見られません。 かわりに心理的、社会的な病因、病理による機能的な異常と考えられます。 ヒステリーによるてんかんと同じような中枢神経異常による身体症状は機能的な問題は防衛機制で説明されます。 防衛機制は心をストレスから守るための生得のdefence mechanismと英語で訳されるものです。 ストレス引退する正常な心のメカニズムですが病的で異常に見えます。 ストレスを抑圧という防衛機制で無意識に抑圧して意識化しないことでストレスの緩和を図ります。 しかし意識していなくても無意識で抑圧されたストレスが色々な影響を意識、身体に及ぼし異常と思える状態を起こします。 これは防衛機制というメカニズムを仮定していますがそのメカニズムを具体的に説明していません。 後期のフロイトの精神の構造論は両親との関係におけるストレスに対する幼児の心理的メカニズムを具体的に示しました。 登場する要素は幼児とその両親です。 自我とはディフェンスメカニズムでは防衛機制を発動する装置です。 幼児の自我と母、幼児がと呼ばれる父との3つの要素の関係性が幼児の心を説明します。 幼児は母を欲求します。 母は父と親密であり幼児にとっては母との親密な関係を持つ上での邪魔者としてストレスになります。 ストレッサーとして働く父への幼児の心のストレスに対する心のディフェンスメカニズムが後期フロイトの構造論と言われます。 構造は要素の関係性と構造の成立させ変化させる力と動きを説明する必要があります。 力と動きを合わせて力動と言います。 精神を構造と見て力動で説明する学問を力動精神医学と言います。 7-2-2 エディプス・コンプレックス  胎児や生後1か月までの子供を表す新生児は自他の区別がつきません。  これを精神の一者関係と言います。  新生児の後の生後1か月から生後1年までを乳児期と言い、小学校以前を幼児、それ以降を学童期と言います。 乳児期から幼児にかけて自他の区別が生じます。 はじめに認識する自分以外の存在は母です。 これを二者関係と言います。 そこに第3者が母子の関係に介入する存在として認識されます。 これは父で象徴されます。 母は子供に快さを与え、不快であるストレスを排除してくれます。 ですから子供の母に対する欲望があります。 これをエスやイドといい子の欲望を発生させるエネルギーや欲望の方向性をリビドーと言います。 子供の成長と発達により母子一致した子供の心に子供と母の間に干渉する別の他者が認識されます。 それは父で象徴されます。 父は母子の関係を脅かす邪魔者として認識されます。 この三者の関係を三者関係と言います。 3つの要素の間の関係と3つの関係通しの関係、そして3つの要素と3つの関係の間の関係が問題になります。 まず子供は母を欲望します。 そして子供は父を邪魔者と認識します。 母は子供を欲望します。 母は父も欲望します。 父は子供を欲望します。 しかし母とは異なり子供が外界(社会)に適応するための援助を志します。 父は母を欲望しますし、外部の生活環境での生存の援助をします。 子供は父と母の関係を邪魔して母を求め父を排除しようとします。 母は子供と父の関係についての態度は色々でしょう。 父は母と子供の関係を肯定的に見ます。 エディプス・コンプレックスという言葉はギリシア神話で父を殺し母と結婚した物語からとられ、主人公のエディプスをフロイトは構造論の例として挙げています。 神話や演劇は悲劇で登場人物は悲しい目にあいますが、正常発達の置けるエディプスコンプレックスは自我が母子密着の人間関係から脱し超自我と呼ばれる父を象徴とする社会規範や外部へ適応し自分の内部に取り入れ超自我を獲得していく過程です。 7-3 フロイト以後:自我心理学と対象関係論、その他 7-3-1 自我心理学 フロイトの娘アンナ・フロイトは防衛機制を中心とする心理学を発展させました。  精神医学では自己と自我は区別されます。  自己は自分に認識される客体であり、自我は防衛機制を働かせる人間に備わる心の機能です。  自我は「抑圧」だけでなく多くの種類があります。  しかも精神発達によりより原始的、生来から持っているような原始的防衛機制から精神年齢の高さにより安定して獲得する高次の防衛機制があります。  防衛機制により心の説明をするのが自我心理学です。 自我心理学では低次の防衛機制から進化して高次の防衛機制に置き換えていく過程として発達を考えます。 7-3-2 クライン派、その他中間派など  一方やはりフロイトの弟子であるメラニー・クラインは対象関係論と広くくくられる理論を中心とした心の説明を行いました。  自我心理学は生得的で生物学的な理論ですが、対象関係論では対象との関係により精神がどの様に発達するか、あるいは精神疾患になるかを説明します。  対象関係論では外部や他者の関係により精神がどの様に発達するかを説明します。  また正常な精神の発達過程とともに発達の仕方によりどの様に精神の異常が生じるかを説明します。  クライン派の理論は小児や精神病者の臨床診療や精神分析の成果を基にしています。  二者関係が与えられない子供もいます。  精神分析学における二者関係での自分以外の存在である母にあたる存在がいないまま発達しないといけない場合もあります。  孤児の様な場合で孤児院で母との二者関係を経た発達と比べてどのような違いが生じるのかを研究しました。  また精神病者に対する精神分析による治療の研究を行いました。  神経学や精神医学の優良な理論にジャクソニズムやネオジャクソニズム(器質力動論)があります。  神経系には階層があり下位の神経系から発達し、すぐ上の神経系が発達するとその直下の神経系は抑制されるというものです。  防衛機制もこの理論にのっとり上位の防衛機制が発達すると下位の防衛機制は抑制されると考えます。  ところが精神病では下位の防衛機制が抑制されません。  特に最も未発達の状態からある原始的防衛機制が活発に働き不適切に発動します。 この不適切な低次の防衛機制が精神病の症状の説明を行います。 例えば精神病では思考障害、自我障害、実体意識性の障害などがみられます。 幻聴や妄想、自分の思考や言葉を他人のものと感じたり逆に他人の思考や言葉を自分の物として考えたりします。 また存在しないものを存在すると感じたり、存在するものの実在感を感じなくなります。 これらは二者関係において見られる原始的防衛機制で説明できます。 この場合高次の防衛機制の抑制、あるいは精神レベルの対抗として考えられます。 自我心理学やクライン派に属さないけれども、それらと重なる考え方も持つようなその他の多くの考え方をする人々を総称して中間学派と言います。 ドナルド・ウィニコットやマイケル・バリントが有名ですし、時代が下るともはや精神分析といえないような自己心理学のハインツ・コフートなどが出てきます。 7-4 フランスの精神医学:現代思想の革命  生物学的精神医学を除けば精神医学の正統はドイツ精神医学で現在の診断基準もドイツの精神病理学の見方を踏襲しています。  英米の精神医学は精神分析学が隆盛しましたが1980年のアメリカ精神医学会の診断基準DSM-Ⅳから分類額はドイツ精神医学をベースに、生物学的、統計学的な科学的研究の勃興の契機となります。  精神医学は精神の異常を研究します。  異常とは必ずしも病気や障害の研究だけでなく天才の研究もします。  ただ異常は本人や他者や社会に悪影響がある場合があるため厚生、福祉、保健、政治、経済、社会の公安の観点から医療が必要な場合があり医学と密接です。  正常の精神を研究する学問は中心が曖昧で雑多です。  そもそも正常と異常を区別する必要がないことを示したのが現代哲学です。  現代哲学にその端緒を開いたのはフランスの精神科医ジャック・ラカンです。  ラカンのシェーマLの理論はクライン派の理論を構造主義で再構成して拡張一般化したものです。  クライン派の理論では精神病症状がなぜ出現するかについての説明を行います。  精神病症状とは異常な認識です。  ラカンの理論は異常な認識だけではなく全ての認識の生成の仕組みを説明します。  ラカンの理論はクライン派の理論を含み、異常な認識の生成を説明しつつ、正常な認識の生成も説明します。 ①ラカンのシェーマLの理論 =  現象学 + 構造主義 + ニーチェの哲学 + 精神分析学 ②精神分析学∋フロイトの精神の階層論+フロイトの構造論(エディプスコンプレックス)+ 自我心理学 + メラニー・クラインのクライン派の理論 ①と②を合わせて以下の③の方程式 ③ラカンのシェーマLの理論 =  現象学 + 構造主義 + ニーチェの哲学 + 精神分析学(∋フロイトの精神の階層論+フロイトの構造論(エディプスコンプレックス)+ 自我心理学 + メラニー・クラインのクライン派の理論) が導かれます。  という事でラカンのシェーマL理論を理解するには、 ①’現象学、 ②’構造主義、 ③’ニーチェの哲学、 ④’フロイトの精神の階層論と構造論、 ⑤’自我心理学、 ⑥’クライン派の理論 の①’~⑥’の6つを理解する必要があります。  ラカンのシェーマLによる世界のイメージは関係を線で表すとマトリックスと関係の線が網の様に広がり、関係の線の交点が結節として実在する概念の様に見える世界です。  そして現代哲学の目から見ると異常な認識と正常な認識には違いがありません。  言い換えるとラカンの理論は全ての人間の全ての認識の生成を説明する普遍的な理論です。  したがってラカンの理論は認識を研究する全ての学問に影響を与えます。  哲学も同様です。  ラカンの理論は哲学の認識論と存在論を含んでおり、認識と存在について新しい方法で説明する事が出来ます。  ラカンの理論は自己認識の生成の説明です。  鏡像段階と呼ばれる鏡に映った自分の顔を自分自身と認識する過程を説明する理論です。  しかしラカンの理論は鏡像の自己同一性だけでなくあらゆる事物の認識の生成の説明に適用可能な理論です。  更に今までの章の全てで説明しましたがこの理論は素朴実在論を否定していません。  素朴実在論は成立しても成立しなくてもどっちでもいいのです。  この観点を持たない場合、素朴実在論否定になり構造主義絶対主義のイデオロギーを持つ極論に走る可能性があります。  しかしラカンの理論は素朴実在論の前提を全く必要としません。  素朴実在論は現代より前の哲学では必ず影響を与えていました。  素朴実在論の存在を必要としない全く新しい認識論と存在論が具体的に提示されたことはエポクメーキングな事ですし、素朴実在論の存在が必ずしも必要がなく別の理論で代替できるという事を示す存在証明でもありました。  この構造主義的認識論と存在論、すなわち構造主義的哲学が素朴実在論を否定していないことに注意が必要です。  構造主義的哲学が素朴実在論を否定していると誤ると構造主義的哲学を絶対化する傾向が生じます。  この傾向を批判したのがポスト構想主義です。  ラカンの理論の影響として正常と異常を区別する事は定性的には不能という結論になります。  言い換えると我々の認識する現象というのは全て作られたものであって本質や心理とは関係ありません。  現代思想家のボードリヤールによるとシミュレーション、シミュラークルというものになります。  これは第2篇で説明します。  何かを正しいと主張する人の意見を聞く時には眉に唾を付けて聞くのが現代的な態度です。 7-4 ボロメオの環  現代哲学の世界観を端的に示すものにボロメオの環という図形があります。  日本では三つ違えの輪と言って神社の社紋などで使われます。  現代哲学では人間の認識対象を現実界、想像界、象徴界という3つの世界で見ます。  現実界は客観的に存在していると思われる世界です。  想像界は我々の頭の中の想像、表象、イメージです。  象徴界は認識対象を象徴化した結果生じた記号や言葉の世界です。 想像界と現実界の考察は近代哲学の主要なテーマでした。  現代哲学ではこれに象徴界を付け加えます。  現代哲学の特徴は記号を重視すること、時に記号の現実界や想像界に対する優位性を強調することにあります。  ボロメオの環はこの3つの世界を環として表し、部分的に重ねて弁図を作り、環の重なりの意味を解釈します。  ボロメオの環は実際の物で作った剛性の高い平面的な環では現実には構成できません。  しかしエッシャーの騙し絵の様に図で示すことが出来ています。  この不可能であり可能である、または可能であり不可能であるという二重性が現代哲学の二重性を表しています。  まず不可能性からいうと、そもそもこの3つの環は本来重なりません。  環の重なりの共通部分の解釈を図示してありますが、これは人間の思い込みです。  一方可能性について述べると、これは人間の持つ特殊な能力であると言えます。  しかし精神医学や通常の発達心理学ではこの3つの環を重ねて見れる能力を身につける事を重視して考えて定型発達とみなします。  この3つを重ねてみる能力が身につけられないことを知的障害等、身につけたことを失う事を統合失調症などの一部の症状で見出します。  現代哲学は記号の優位を強調しますので象徴界から見ていきます。  記号はアナログでなくデジタルです。  デジタルは保存と伝達が可能であることが現代社会の基礎になります。 象徴界と想像界の重なりは意味と書いてあります。 象徴界の言葉(記号列)から我々は意味を表彰しますが、これは再現性はありません。 同じ人でも条件や状況が変わると違う意味に受け取ります。 条件や状況が変わらなくても複数の解釈があって困るかもしれません。 また別の人が同じ記号列を同じ意味に受け取っているとは限りません。 また想像を言葉(記号列)にするときに同じ記号列が生み出される保証はありません。 保証がないという控えめな表現より、条件や状況によりまた人により違う言葉で表現すると考えるのが普通でしょう。 つまり記号列と想像には普遍で不変な一対一対応はつきません。 しかし我々は何となく象徴界と想像界を一致できると思っています。 この一致させようとする精神力動を現代哲学と精神医学は考えます。 自覚的には記号列に一致する想像(イメージ、表象)が可能だと思っています。 ここに「正しさ」「確かさ」という感覚が生まれます。 他覚的、客観的に正しいか、確かかより、自覚的、主観的に正しく、確かであると思えるのは人間の持つ偉大な能力です。 象徴界と現実界の重なりも同じです。 この2つの重なりはファロス的享楽と記されています。 記号列を現実的なものに変換する、あるいは現実的な物事を記号列に正確に繰り返し変換することはできません。 変換できると思い込んでいる事、そしてその精神力動が現代哲学と精神医学が解くべき問題です。 ファロス的享楽とは理性、真理や真実を知りたいと思う思い、学問、科学、興味、好奇心、関心と関係あります。 我々は記号列、言い換えるとアナログではなくデジタルを使って現実との一致を求めるため理論や体系を作り、現実を説明するため実証、立証を行います。 現在と違いそういうものは男性的なものと考えられた時代がありました。 想像界と現実界の一致は近代哲学のテーマですのでここでは触れませが、その重なりがシェーマLの大文字のAになります。 存在できない重なりを重なれると思い込んでいるところのが心理的発達のある段階までの人間の特徴で、現代哲学を勉強しなければ死ぬまでそのままかもしれません。 これに象徴界が加わりボロメオの環、三つ巴の紋になったのが特徴です。 3つの共通集合がa、すなわちシェーマLにおける同一性の生成になります。 この象徴、想像、現実的な認識が一致できると感じられることが人間の偉大な能力です。 偉大な能力ですが、この能力を失う疾患があります。 統合失調症です。 これは統合失調症はその様な人間な偉大な能力を失ってしまった、と見ることも出来ますが、他方ではこの3つの環が重ならないことが理解できる違う意味での偉大な能力を持っていると考えられます。 本来重ならない環を重ねて3つの世界、3つの認識を一致させることが可能であると示すという不可能を可能にする、また逆に3つの世界、3つの世界が一致できるという可能性を不可能であると見る能力、この両方の見方を出来るようにすることが現代哲学習得の目標になります。 現代思想ではこの重ねてみる能力をパラノ性、重ねてみない能力をスキゾ性という場合があります。 7-5 ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ 7-5-1 統合失調症の3つの中核症状  ジル・ドゥルーズは哲学史家でありフェリックス・ガタリは精神科医です。  ドゥルーズは現代哲学成立とともに過去の哲学者の哲学の世見直しを行っています。 またフェリックス・ガタリはラ・ボルドー病院にて精神保健医療改革運動に従事しました。  2名は共著で現代哲学を前提とした新しいものの見方や生き方の提示を行っています。  前節までの流れの様にもうここでは精神病は正常と区別されていません。  寧ろ精神病の持つ可能性を追求しています。  統合失調症はschizophreniaと訳されますがこれは精神分裂病、より誤解を避けると分裂性精神病と訳されます。  分裂とは連合心理学による連想の障害です。  概念というのは色々な要素が統合することで生まれます。  一般に心理学的洞察の知識や学習、訓練がないと人間は直感した概念の確からしさに疑いを持ちません。  整然と概念形成が行われて概念間の関係が整理、整頓できていればよいのですが、これが人によって異なります。  ある程度整理整頓を自覚してできている人はその方法を示すことで他者とのコミュニケーションが可能になったり、自分の現在の知的限界を知ることが出来るでしょう。  しかし概念形成が混とんとして行われ、しかもマトリックスと結節の歪みが大きいと「認知の歪み」の様に感じられます。  精神病の中核である統合失調症の中核は現代思想的にはこの認知の歪みが中核症状の一つ目です。  ゆがんだ認識を次々に生み出し矛盾に気付かず精神的に活発である病態をパラフレニー、あるいはパラフレニーの類縁という意味でパラノイドと言います。  これも統合失調症のもう一つの中核症状です。  この概念を解体、あるいは分裂させてしまう側面を肯定的に見るのがドゥルーズとガタリの見方です。  概念や概念同士の関係が歪んでいる、あるいはメタ認知できないことにはデメリットとともにメリットもあります。  偏っていると情念や独創性、集中力やエネルギーの注入が巨大なものになることがあり大きな仕事を成し遂げることがあります。  一方統合失調症には概念の生成障害という病態があります。 また概念を生成しても主にそれに対して過剰に内省する事により生成した概念や関係性を解体してしまう病態があります。 統合失調症はschizophreniaと訳されますがこれは精神分裂病、より誤解を避けると分裂性精神病と訳されますがこれはパラノイドやパラフレニーの病態よりより中核的な病態と考えられます。 神経学の基本原理としてジャクソニズムは器質力動論(ネオジャクソニズム)について述べました。 これは神経の階層論によるものですが、ピエール・ジャネという精神科医により精神の解離モデルというものがあり、これは精神機能を蜂の巣の様にコンパートメンタリゼーションされた隔壁で分割された横の水平に並ぶモデルとしてみるもので心的エネルギーの流れにより一部の精神機能の活動が弱くなるかなくなり、別の部分が活性化するというモデルがあります。 器質力動論を提唱したアンリ・エーは階層モデルだけでなく解離モデルにも脱抑制活性化モデルを適用しており、パラノイド的な偏執や興奮、認知の歪みは概念の形成不全や解体の二次的なものと考えます。 これによれば概念の欠損や喪失によりの別の部分の概念や関係性の生成の抑制がなくなり活性化しやすくなると考えます。 これはパラフレニーやパラノイドになぞらえて言えば、シゾフレニー、あるいはスキゾフレニー、シゾイドあるいはスキゾイドと言います。  更に別の意味での中核症状があります。  どの症状が一番の中核かというのはどのようにでも議論できますが、現代哲学や精神科臨床では以下に説明するメタ認知の障害を特に重要視します。  パラノイドにせよシゾイドにせよ客観的に自己の認識を内省できればいいのですが、客観性を失う事があります。  物事を広く深く大きな範囲から客観的に眺める事が出来る能力をメタ認知と言い、それが障害されることをメタ認知障害と言います。 メタ認知がなぜ大切なのかというと現代哲学で最も大切な概念な一つである「自覚」を持つ事につながるからです。 自分に思考障害や自我障害、実体意識性の障害があれってもそれを認識できるか、認識できなくても自分がそういう過誤を犯している可能性があると考えられる能力を現代哲学や精神科臨床では重視します。 現代哲学でそれを重視する理由はそれがポスト構造主義そのものだからです。  精神科臨床でそれを重視する理由はそれが「病識」の獲得につながり、経過、転機、予後全てに影響するからです。 7-5-2 統合失調症の世界、また構築と脱構築  概念生成や連想、関係付けを構築と呼びます。  概念解体や分裂、関係性を解除する見方をすることを脱構築と呼びます。  発達心理学の構造主義的、あるいは構成主義的心理学では人間の思考能力の発達を感覚運動期と表象的思考期に分けます。 そして後者を前操作期の前概念的試行段階と直感的思考段階、操作期の具体的操作期と形式的操作期と分けて時間軸で見る事があります。  前操作的思考期で概念の生成能力を、操作的思考期段階を概念を操る能力です。  この過程は自然に身につきます。  言い換えると構築する能力は自然に身につきます。  ですから無自覚、無反省になり易い傾向があります。  これをパラノイド性と呼びます。  現代哲学や精神病理学では概念生成も概念操作もシミュレーション、シミュラークルとしか見ませんので時に応じて生成概念も操作方法も解体可能であることが望まれます。  これを脱構築と言います。  脱構築してしまう、あるいは出来る事をシゾイド性といいます。  メタ認知を持ち構築や脱構築を自覚して自在に行う生き方をドゥルーズとガタリは現代哲学に基づいた生き方として提唱しました。  自覚が大切と前節で書きました。  それはあらゆる物事をシミュレーション、シミュラークルとして見続けるという事でそれをメタ認知能力といいます。  構築するものの内容を問わなければ何らかの表象の構築能力は発達とともに自然に身につきます。  構築する概念や考え方の難易度に関わりなくその生成はシミュレーション、その生成物たる表象はシミュラークルとメタ認知能力を持ち自覚するとそれを脱構築する能力が現代哲学では求められます。  これは自覚し訓練しないと身につきません。  ドゥルーズとガタリはシゾイド性を持つ統合失調症の患者のシミュラークルを自動生成しない点やシミュラークルを解体できる見方や能力、シミュラークルに最初から騙されない点を非常に高く評価します。 異常と言われた統合失調症の患者の方が正常と自認している非精神病患者の普通の人々より虚構に騙されず確実な認識をしているために阻害されるのです。 7-6 ミシェル・フーコー  現代哲学を用いて精神病に対する見方を変えた学者にミシェル・フーコーがいます。  彼は文献・書誌を分析し精神病、監獄、性の歴史を研究し、人間や歴史に対する考え方を刷新しました。  狂気や気違いは現在では禁じられた精神病の呼び方です。  フーコーは「狂気の歴史」の中で精神病、すなわち正常と異常に対する捉え方の歴史的変遷を研究しました。  同様に監獄(犯罪)や性(LGBT)についての歴史的変遷についても研究しました。  精神病を含めた精神障害者、看護に入れられた世俗や宗教の法や命令に背いた者、性別に違和感を持つものや性志向が逸脱している者、その他の正常ではないと判断されたものは異常者として社会の中で処遇されます。  しかしその判断はその時代の社会通念で変わります。  近代までは「人間」というものは社会的に普遍性を持つものであると考えられてきました。  「人間」という他と明確に区別できると思えるものでさえ曖昧な部分があります。  さらに時代ごとに見ると人間に対する捉え方が変化しています。  大きい断絶もあれば小さい断絶もあります。  次に「歴史」についてみてみましょう。  近代までは真実の歴史があると考えられてきました。  それは研究が不十分で明らかにされていない部分があるかもしれないが確実に存在するという考え方です。  そのために近代までは文献を探したり精読したり考古学的資料なども用いて真実の歴史に近づいていけると考えていました。  しかし現代では次々と新しい発見や考え方が出てきてどれが正しいと言えるものでもなく、教科書の記述も毎年の良うに書き換わり政治や思想の圧力により捏造や改竄されることもあり、何が真実の歴史であるかを決める事は出来ません。  しかしそもそも近代の過ぎ去った過去を再構成できると考えている歴史学より、現代の日々移り変わっていく歴史観の方が実態に即しています。  そしてさらに「近代」についてみてみましょう。  近代は人間の理性が宗教を超えることが出来る可能性を追求した時代でした。  理性により、合理性、論理性に真理に達することが出来るかもしれないと努力されました。  各時代はこういう共通認識が共有されてます。  しかしそれには断絶がありその断絶前後では時代の知の共通背景が異なります。  フーコーはそれをエピステーメーといい、時代の断層ごとの知の遺跡を発掘する事を知の考古学と言いました。  精神医学の「精神病」というものも同じです。  現代では正常とか異常とかいう言い方自体が使われなくなりました。  使う必要がないからです。  あるいは使うと差別だという社会的、政治的、思想的思潮があるからです。  あるいは別の言葉や概念に置き換えられたり、概念自体が解体されたからです。   7-6 精神病理学のまとめ  現代哲学、仏教、現代数学基礎論と同じように精神病理学は完成しているのでもう探求は終わっています。  思弁で行き着くことが出来る各学問の基礎論は行き着くところに行き着き執着しているのが現代という時代です。  したがって現代は実学の時代です。  宇宙の成り立ちを研究してもいいし、素粒子の秘密を解明してもいいです。  生命科学を発展させてもいいですし、数学のまだ解明されてない謎を研究するのもいいでしょう。  そして応用といえばやはり工学です。  技術の進歩と発展が人類に選択肢と可能性を与えてくれるでしょう。  そのための基盤は第一篇で説明いました。  第二編では第一篇で学んだ内容の具体的な活用法を学びます。  第1篇にてphilosophy、liberal artsの現代哲学にとっての意味と、現代哲学を学ぶ準備を行います。   第1部 哲学philosophyと教養liberal artsのイントロダクション   第1章 philosophy愛と智、智を愛すること  philosophyはギリシア語語源の英語でフィロは愛する、ソフィーは智ということです。フィロソフィーで智を愛すると解されます。  本教科書ではフィロソフィーを2重の意味で用いることにします。 ①  愛と智を大切にすること、特に智を愛すること。 ②  西洋哲学の主題である確実なものを追求する学問。  現代哲学をマスターすると知的好奇心を満たしたり自分の内面的な問題を解決できます。  それで満足な方はこの教科書の第1篇だけをお読みください。   コラム お釈迦様と悟り  仏教の開祖お釈迦様が王子という立場を捨てて出家し、出家して最初に悟ったのは仏教でいえば空、現代哲学でいうと構造主義で、性格にいうと構造主義的な存在論と認識論を発見したことです。  この発見によりお釈迦様は輪廻転生というものは唯の過程に過ぎず、信じる必要はないことを知りました。お釈迦様のそれでの考え方は人間が生きることは老、病、死、その他苦しみに満ちており、しかもそれは死んでも終わらず輪廻転生し永遠に続くというものでした。  お釈迦様は空を悟り輪廻転生が存在しないこと(この段階ではお釈迦様は空だけを悟り、中道は悟ってなかったと思われます。なぜなら仏典に記載がないからです)を悟り、そのまま厳しい修行の果てに身体も弱り果てていたので死んでしまおうとなさいました。  これは本教科書の第1篇、現代思想を理解するだけで満足するケースです。  お釈迦様の様に現代哲学を理解すれば満足という場合はそれでいいですが、その後も生きて社会生活を続けようと思う場合には現代哲学は生きるための強力なツールになります。  まず現代哲学を理解すると頭が整理されます。学習効率がよくなります。意思決定が上手になります。主体性を獲得できます。自由になります。その他多くのメリットがあります。  現代哲学を使いこなすために第2篇を書きました。  つまりこの教科書の第1篇は科学であり第2篇は工学です。  ただし現代哲学を実生活で使うのに必要なものがあります。  教養です。  知識や考え方をあまり持っていないと現代哲学を使いこなすメリットが小さくなります。  逆に豊富な知識や考え方を持つと現代哲学は頭を良くしてくれます。  頭の良く成り方は単純に考えて、n通りの物事の考え方ができると2のn乗、あるいはnの階乗で増えていきます。  つまりいわゆる“指数関数的”かそれ以上です。  言い換えると現代哲学を身に着けると頭をよくすることができます。  頭がよくなるとは知識や考え方を整理すること、学習能力が高まること、思考力・判断力・決断力が高まること、主体性が高まること、より自由になれること、その他多くのメリットがあります。  しかし現代哲学だけマスターしても頭はよくなりません。 それに加えて教養(liberal arts)が必要です。教養を身に着けるために必要なのは勉強です。  教育ママの様な人がいて強制的に勉強させてくれればいいのですが、強制的に勉強させられるのは苦痛ですし、強制的に勉強させてくれる親心や親切心を持った人がいない場合も多いでしょう。  そこで重要になるのがphilosophyです。  自分で学ぶことが好きになればだれに強制されなくても自分で勉強します。  すると勝手に教養が増えて行きます。  Philosophyの持つもう一つの意味、②確実性の追求について説明します。  現代哲学は人類が追求してきた確実性とは何かについての問いに対する最終的な答えです。  確実性とは全て煮物に対する確実性ですが例えば①存在の確実性、②認識の確実性、③どう考え行動するのが正しいか、④真善美などの判断の正しさの根拠、⑤コミュニケーションが正確に行われる保証はあるのか、その他等の確実性を追求する学問になりました。  現代哲学をマスターすれば確実なものは何かについて説明できます。  これは哲学の中でも現代哲学だけにできることです。  古代、中世、近代の西洋の哲学、西洋以外での哲学でも確実性の説明は行っていますが、何らかの仮定に基づいて行っているに過ぎません。  何の家庭にもよらず確実性についての正確な説明を行ったのは西洋の現代哲学と仏教だけです。  ですから現代哲学(や仏教)をマスターせず確実性を主張する発言は全て怪しまなければいけません。  現代哲学ではこれをシミュラークル、シミュレーション(紛い物)と呼びます。  現代哲学(と仏教)だけが確実性についての確実な答えを提供しています。  以上をまとめると現代哲学と現代がつかないただのphilosophyについて以下のように結論できます。  ・現代哲学を生かすためには教養が必要である。教養を身に着けるためには自発的に円強するようにphilosophyを持つのが望ましい。 ・現代哲学と仏教のみが確実性についての最終的な説明を与えている。phirosopy確実性を追求する学問を究めたいと思う者は現代哲学を学ぶ必要がある。 1-2 教養liberal arts、自由になるための技術  1-1でも触れた教養(liberal arts)ですが、この教科書では2つの意味で使います。 ① 自由のための技術 ② 知識や考え方を身に着けること 第1篇で現代哲学を理解し、第2篇で現代哲学を実生活で活用するために必要になるのは教養です。 繰り返しますが第1篇で現代哲学を身に着けても教養がなければ実生活に活用することはできません。 現代哲学はソフトウェアでいうとOSではあってもアプリケーションやツールではないからです。 現代哲学を実生活で使うには知識や考え方、言い換えると教養を持つ必要があります。 教養が少ないとその中から使える知識や考え方を選べる数が少なくなります。 これを自由度が低いと表現します。 逆に教養が豊富だと教養の中から色々な知識や考え方を選んで使うことが出来ます。 選択肢が豊富で、しかも色々な知識や考え方を組み合わせて使うこともできます。 これを自由度が高いと表現します。 自由度が高ければ高いほど人間は実生活を自由に生きれます。 逆に自由度が低ければ逆に教養が低ければ選べる選択肢がありません。 極端に言うと1つだけの選択肢しかなければそれを選ぶしかありません。 もし1つもなく0ならばそもそも思考による選択はできません。 つまり自分で何かを選んで行動することはできません。 ですから自由がまったくなくなります。 より自由になりたければより教養が豊富でなければいけません。 これが①の意味です。 ②知識や考え方を身につけることが現代思想をマスターする以外に求められるのは①のためです。 ①のためにはやはりphilosophyを持つ事が望ましいです。 強制的に何かを勉強させられるよりは知的好奇心を持ち自分の知らないことを身につけることに喜びを持つ方が幸せだからです。 身につけた教養は現代哲学をマスターしていれば整理できますし、洗練して使いこなす事ができるようになります。 コラム リベラルアーツの歴史  古代ギリシアやローマでは都市に籍を持つ人は市民(自由市民、自由民)と奴隷(不自由民)に分かれていました。奴隷は持たないでもよく自由民が持つべきと考えられた知的能力がliberal artsです。 中世になると神学が最上位の学問になります。中世の大学では自由7科といわれる文法、修辞学、古典語、音楽、算術、幾何学、天文学がliberal artsと呼ばれました。それは上位の専門科目である、神学、医学、法学、哲学に進むのに必要です。奴隷と自由民を分かつものという意味ではなく高等教育に進むための基礎学問という意味になります。欧米の高等教育では教養を学んでから専門科目に進みます。中世の大学で自由7科と呼ばれたリベラルアーツは教養と呼ばれます。教養を学んで学士を取得し、その後神学、法学、医学、(近代で哲学も加わるがこの哲学の分野は自然科学なども含み広い)の専門学部に進んで専門職を養成します。 この場合哲学は色々な学問が含まれ“その他の学問”という意味があったようです。哲学は神学の婢と言われました。神や聖書の正しさを証明する神学を補助する学問と考えられていました。神学は神や聖書を思弁により研究する学問です。神学の中世の普遍論争の実在論と唯名論との論争は近代哲学にも影響を与えました。 そのような教養についての考え方はヨーロッパやアメリカの大学でも継承され哲学と言えば神学、法学、医学除く学問全般を指すこともあるようです。 現在でも教養を学ばないと法学や医学などの専門技術者にはなれません。今では自由7科は高等学校や初等教育でも行われるのでriberal artsの具体的中身は時代や地域により変遷があるようです。  アメリカでは教養大学というのがあって教養をしっかりと教える文化があるようです。そこで勉強しないと医師資格や司法資格を取るための専門のメディカルスクールやロースクールで専門課程に進むことはできないようです。 コラム 倫理、思想、哲学の違い  倫理は広い意味で使われます。思想とは人、あるいは人々の思いなしを表しそれを研究します。哲学は倫理学の一分野とみなせますので高校の選択教科では倫理の中に哲学が含まれています。哲学は中国の宋学から使われている言葉で明治時代にphilosophyの訳語としました。哲学はいろいろな意味を含みますが西洋哲学では「確実性」を追求学問と意味を限定できるので、この教科書では①知を愛することを勧める、②確実性を追求する学問という2つの意味で使います。②の意味の哲学は現代哲学で決着がついたので今は哲学というと応用哲学の研究か、昔の哲学史の研究の様な意味になり最近は哲学という学科や哲学者という人は見かけない傾向にあります。代わりに倫理学に包含しているようです。  哲学の基礎論の決着はついたものの応用の研究はあり、応用哲学ということになりますがこれも倫理学に含めてしまったらいいのでそうなっているようです。  紛らわしいのはcontemporary philosophyという言葉を1970年台から1980年代の日本人が現代思想と訳してしまったようで、現代哲学と現代思想がごっちゃになりやすい点です。現代哲学という場合、やはり確実性に関する場合にだけ使いますので、現代哲学に関係するにせよ、確実性に関係しない場合は現代思想という言葉を使います。 1-3 まとめ  哲学(philosophy)は愛と智を大切にすること、智を愛することであるとともに確実性を追求する学問です。  高校の倫理では哲学という言葉が多様に使われています。哲学の語源は中国古典で明治時代に日本で語源を変形し「哲学」としてphilosophyの訳語として使われるようになったためその他にも多様な意味で使われますが本書では近代西洋哲学と同じくギリシア語語源や近代西洋哲学が探求した「確実や正しさの追求の学問」の意味で用います。  教養(liberal arts)は人間が自由民なる技術、という意味でしたが、本教科書では人間がより知的に自由になるための知識や考え方を差すものとします。  現代哲学は人間に主体性や自由の定義を与えてくれますが、その理論の性質上、現代哲学を学ぶだけでは自由になれません。それに加えて教養が必要です。教養が豊富であればあるほど人間には思考の選択肢が与えられます。選択をする精神の要素が主体といわれます。また選択肢が多ければ多いほど自由度が大きく、選択肢が少なければ自由度は少なく、選択肢が1つか0であれば自由はありません。選択肢が1つならその一通りの思考、判断、決断、行動しか使用がありません。選択肢がなければそもそも思考、判断はできず、何にもよらないなんとなくの、言い換えれば無意識の決断と行動があるのみです。  ですから現代哲学は勉強を大切にします。自分を教え養い知識や考え方をたくさん身につけることを大切に考えます。 そして教養をつけるために強制的にやらされる勉強より自発的に行う勉強が望ましいと考えます。そのため知を愛するという意味でのphilosophyを持つ事を大切に考えます。 これは本教科書の目的である、①現代哲学を理解すること、②現代哲学を使いこなす事、の前提となります。 新第7章 中世ではliberal artsは自由7科と呼ばれ、専門の学問を学ぶ前に学ぶ必要のある学問と考えられました。自由7科とは文法、修辞学、古典語、算術、幾何学、天文学、音楽です。 これはその先のスペシャリスト、特別な専門家、専門の職業に就くための専門4科、神学、哲学、医学、法学を勉強するための前提条件とされました。 これは現在のアメリカでも同じです。教養大学などで教養を学ばないと専門であるメディカルスクールやロースクールには進めません。 Liberal artsの内容は時代によって変わります。学問、人間の知的基盤が変化するからです。現代のliberal artsで最も大切なものは現代哲学です。アメリカの大学では教養課程の現代哲学はほぼ必修です。 第1篇 終論 基礎編・入門篇・現代哲学篇のまとめ 第1篇基礎篇、入門編をまとめます。 ・近代西洋哲学は確実なものは何かを追求します。  現代哲学はその終着点で結論であるため現代哲学を学べば哲学の学習は十分です。 ・現代とは現代哲学を土台とし現代哲学に支配される時代です。 ・現代哲学は素朴実在論、現代的構造論・ポスト構造主義の3つとその関係を理解すれば理解できます。 ・大乗仏教の龍樹の空論と中観論、天台智顗の三諦論を理解すれば現代哲学を理解したのと同じことになります。 ・現代数学の基礎論を理解すれば現代哲学の理解に容易に応用できます。 ・精神医学の精神病理学や構造主義的精神分析を理解すれば現代哲学を理解しやすくなります。 ・教養主義が大切です。  知への愛を持ちあらゆる事に興味を持ち勉強し続けましょう。 第2編 現代哲学の応用篇・技術篇・現代思想篇 目次 第2編 現代哲学の応用編・実践編・現代思想篇 第4部 現代哲学の原理と演繹のフレームワーク 第8章 現代哲学の原理 第9章 現代哲学の応用に当たっての注意点  現代哲学で注意すべきこと 第5部 現代哲学の演繹と世俗、実際での適用 第10章 現代哲学と世俗イデオロギーの関係   11-0 イデオロギーの実使用学 イデオロギー分析、応用のための構造主義 構造主義の実践的な活用 現代的構造主義の脱構築と構築 イデオロギーの駆使の仕方 第11章 確実なものとは何か、シミュラークル、シミュレーション、大きな物語とメタナラティブ、ナラティブの世界 第12章 時間論 第13章 情報、通信、コミュニケーション 13-0 コミュニケーションの確実性 第14章 現代哲学の自然科学への応用 20-  情報科学と現代哲学 公理主義化されない構造:文学、デザイン、ファッション 第15章 メタアノミー、アノミーの研究、ニヒリズム、思想の無や混乱 第16章 倫理道徳と現代哲学  倫理、道徳、判力と現代哲学 第17章 モダニズム批判 17-0 モダニズム批判、ポストモダン 第18章 精神保健医療への応用 あとがき 謝辞 第二編 現代哲学の活用 随所に主となれば立つところ皆真なり 臨済義玄  第2篇で現代哲学の応用の方法を解説し現代哲学を使いこなす力を付けます。  この教科書で勉強することで読者の皆様に現代哲学のマスターになります。  第1篇の理解が十分と感じなくても読み進めてください。  第1篇では理論的に現代哲学を導き理解する方法を取りました。  しかし現代哲学のマスターには理論からではなく実践から入るのも1つの方法です。  第1篇では歴史的、機能的な方法で現代哲学の理論を導きました。  第2篇では現代哲学の理論、体系を規定の原理としその使用方法を説明する事で現代哲学を理解します。  つまり第2篇では第1篇の方法とは違う方法で現代哲学を理解してもらいます。  それは演繹的、原理主義的(公理主義的)方法です。  公理を提示し、それから何が導かれていくかを具体的に示すことで現代哲学の具体的な使い方を学びます。  これは現代哲学を実際に使いこなすと同時に理解にも通じます。  ですから第2篇をまとめると大きく分けて2つの事を学ぶことが出来ます。  ①第1篇の哲学(倫理学)、仏教の教理と教学、現代数学の基礎論、精神医学(精神病理学と精神分析学)とは異なる4番目の方法で現代哲学を理解します。  ②現代哲学を実際の生活で使いこなす、現代哲学の目で実際の世界を見る。  この①②により現代哲学をマスターする、現代哲学のマスターになることが出来ます。  インドでは仏教をマスターする事を悟るといい、悟った人を覚醒した人という意味で仏陀と言いました。  また通俗的な常識から完全に離れる事が出来るため解脱とも呼びました。  現代哲学をマスターすると仏教でいう仏になれますし解脱できます。  ただそれは神秘主義な力を得る事でもカルト的な意味を持つ事でもありません。  単に現代的になるという事と同義です。  近代以前のイデオロギーに支配されて人生を翻弄されることは不幸な事です。  現代人はイデオロギーに支配されるのではなく支配しなければいけません。  現代人は人形ではなく人形遣いです。  単に認知ではなくメタ認知を獲得しロゴス(しかもメタロゴス)をあやしいレトリックを弄するソフィストや詭弁家、フェイクニュースに情報操作される存在ではなく、それらを超越する事が出来ます。  現代人は楽園に住んでます。  現代哲学を学ぶ方法が用意されているからです。  近代の科学(science、知る事)は方法の精神と第一篇で書きました。  この教科書では現代哲学を理解する方法を少なくとも第1篇で4通り、第2篇で1通りの5通りの方法で示し、かつ完全に使いこなせるように訓練して頂きます。  我々は色即是空の世界に生きています。  みんなで現代(contemporarism)に生きましょう。    第2篇はじめにを書きました。 第1篇では帰納的、歴史的に現代哲学が形成される道筋を描くことで、現代哲学の理解の方法を4通りの方法で示しました。 第2篇では逆の方法で現代哲学の理解を促します。 原理主義的にまず現代哲学の理論、体系を提示し、そこから演繹的に現代社会の形成のされ方と、実際の生活でどの様に我々が現代哲学を用いるのかを示します。 まとめると第2篇では、 ①机上ではなくまず実践、やってみる、使ってみることで身につける現代哲学の理解法 ②現代哲学がどの様に現在の基礎を作り、機能、発展させているのか、また個人が日常、社会生活の中で現代哲学を使いこなすための訓練 という2つの側面から現代哲学の解説を行います。 第4部 現代哲学の実使用 第8章 現代哲学の原理と演繹のフレームワーク 我々は自由の刑に処せられている。             ジャン・ポール・サルトル 私は自分が知らないことを知っている。             ソクラテス 8-0 現代哲学の原理から全てを導き直す 第1篇で現代哲学を導きました。 学問の歴史や過去の人たちの蓄積した知の蓄積等によってです。 導かれたものは素朴実在論、構造主義的哲学、ポスト構造主義です。 この3つの理解だけで頭脳の整理がついた人もいるでしょう。 内面的、心の悩みや苦しみに答えを見出して満足するかもしれません。 実際第1篇では哲学(倫理学)、仏教の理解、現代数学の問題、精神医学についての疑問の答えを現代哲学により解決しました。 第2篇では第1篇で説明した現代哲学を原理として現代社会を構成します。 現代哲学を理解することと世俗の生き方、社会での生かし方、分析の仕方に応用する事は別の事です。 第2篇で応用の説明をします。 それを通じて現代哲学の理解を定着、更には深め、現代哲学を個人の生活で使用する、人間、社会問わず全ての事を分析する方法を説明します。  まずおさらいを含めて現代哲学の原理を説明します。 8-1 イデオロギーとは何か  世俗の考え方や行動に対する全ての考え方を世俗的イデオロギーと呼びましょう。  イデアとロゴスを合わせた言葉で思想と訳してもいいかもしれません。  世俗的イデオロギーに信念、信条、信仰を持ち従属すべきものとした場合、それを主義と呼ぶことが出来ます。  イデオロギーは程度の差はあれ理論化、体系化されています。  でないと考え方や行動の指針になりません  イデオロギーは2つの面に分かれます。  現実生活での我々の生活を規定するものとしないものです。  「人を殺すな」これは人の行動を規定するイデオロギーです。  「全知全能のカメムシはいない」これは人の行動に影響を与えないイデオロギーです(一部の全知全能のカメムシがいると信じて探し回っている人は無視します)。  どちらもイデオロギーですが前者は人間の社会生活に影響を与えるので世俗のイデオロギーとします。  後者はどうでもいい事なのでみんな関心を持ちませんし、実生活の何かに影響は皆無です。  現代哲学もイデオロギーです。  現代哲学の原理は、素朴実在論、構造主義的哲学、ポスト構造主義であり、この3つの関係が現代哲学を形成しますがイデオロギーです。  但し世俗のイデオロギーではありません。  現代哲学の理解だけでは日常や社会生活に影響を与えません。  現代哲学もイデオロギーですがイデオロギーのイデオロギーというべきものでメタイデオロギーと呼びましょう。  現代哲学の思考対象はイデオロギーそれ自体です。  ですから世俗的イデオロギーを管理することで現実の生活と関わらせることが可能です。 コラム8-1 メタとは何か メタとは古典ギリシア語で「高次な-」「超-」「-間の」「-を含んだ」「-を入れた」「-の後ろの」という意味で英語でもその意味でそのまま使われます。 哲学ではアリストテレス以来、physicsに対するmetaphysicsでつかわれます。 Physicsは物理学の意味でつかわれます。 Metaphysicsは形而上学の意味でつかわれます。 日本語では哲学で形而上学、形而下学という言葉が使われます。 形而下は形より下、形而上は形より上という意味であり、具象的な世界の研究が形而下学、抽象的な世界の研究が形而上学になります。または物について研究するのは形而下学で事について研究するのは形而上学になるでしょう。 すなわち近代以前では現実界と想像界の区別を重視します。 現実界はphysics、想像界はmetaphysicsの領域です。 現代哲学ではポスト構造主義のみを他の思想に対してメmeta-とします。 現代までの哲学も学問もその対象も全てポスト構造主義に対してmeta-ではありません。Metaphysicsも現代哲学ではphysicsに対してmeta-であるという見方をしてもいいですししなくてもいいですがどちらもポスト構造主義に対してもmeta-ではありません。 現代哲学は色々な使い方がありますが、ポスト構造主義だ特別扱いしてしまって体系化すると階層構造を造れて分かり易くなります。 ポスト構造主義を特別扱いするためにスーパーイデオロギーとか超イデオロギーとかどう名付けてもいいですが、ここではメタイデオロギーと名付けると全ての思想や考え方はただのイデオロギーとなって見分けがつきます。 階層構造にする理由の二番目はこの分かり易さとともに、他のイデオロギーと同じイデオロギーの一つとして扱ってしまうと矛盾が生じる場合があるからです。 自己言及命題に伴うパラドックスという物でそれを避ける方法の一つにポスト構造主義だけ例外化してしまいます。 今後メタという言葉はメタイデオロギー、メタ自由主義、メタ自遊空間、メタ認知、メタ主体性、メタ自主性、メタ個人主義、メタナラティブ等の形で用います。 8-2 現代哲学のイデオロギーとのかかわり方 現代哲学は、素朴実在論、構造主義的哲学、ポスト構造主義の3つの理論とその関係を扱う理論です。  ポスト構造主義がイデオロギーを管理する理論です。  この理論は全てのイデオロギーをメタな視点で見ます。  これをメタ認知と呼び、ポスト構造主義をメタイデオロギーと呼びましょう。  ポスト構造主義は全てのイデオロギーをどれが絶対とかどれが正しいとかいう視点で見ません。  イデオロギーはどれも平等にイデオロギーです。  どれかのイデオロギーだけ正しいとしたり絶対化しないのがポスト構造主義です。  それに対して素朴実在論と構造主義的哲学はメタイデオロギーではなく普通のイデオロギーです。  しかしこの2つは存在論と認識論に関する全てのイデオロギーを分類することが出来る便利な道具です。  普通世俗的イデオロギーは全て何らかの存在論や認識論に立脚していますがそれが素朴実在論に立脚するか、構造主義的哲学(構造主義的認識論と構造主義的存在論をあわせたもの)に立脚するか、あるいはその両者に立脚するかを分類することが出来ます。  イデオロギーは歴史的に周囲の環境に関係して生成されます。  ですから近代西洋哲学までは素朴実在論に立脚して作られています。  構造主義的哲学がなかったので他に考えようがなかったからです。  無意識に自明なものをされました。  構造主義的哲学が成立してから素朴実在論を前提とするイデオロギーでも構造主義的哲学を前提として構成し直せます。  実体の存在があってそれらの関係性から実体を定義できると考えるのを素朴実在論、実体の存在の有無を無視して実体と見えるものを無定義概念として実在の有無を考えず、差異と関係性により定義を行う事により実体があるように見せかけさせるのが構造主義的哲学の手法です。  定義や定義される要素に対する考え方が違うのを除けば、イデオロギーは素朴実在論でも構造主義的哲学でも同じように理論、体系を構築できます。  定義というものが、あるいは存在と思われるものが、どちらが先でどちらが後かだけの違いです。 8-3 現代哲学の第一原理:ポスト構造主義  現代哲学ではポスト構造主義がプライマリーな原理です。  ポスト構造主義は「イデオロギーを公平に扱う」という考え方です。  但し混乱を避けるためにイデオロギーの中からポスト構造主義」だけを除きます。 そしてポスト構造主義だけを特別なイデオロギーなのでメタイデオロギーと呼びます。  公正とは、イデオロギーに正誤を持たせない、イデオロギー間で優劣をつけない、上下関係をつけずにみるということです。  哲学のテーマは確実なものを追求することでした。  存在論や認識論においては存在と認識の確実性を保証できる理論は作れないという前提に立っています。  どのイデオロギーをもってしても確実な存在があることや確実な認識が在ることを示せないのですべてのイデオロギーには正誤も上下も優劣もありません。 8-4 イデオロギーの分類  現代哲学の第一の原理であるポスト構造主義に基づいて色々なイデオロギーを見る場合、イデオロギーを分類することが出来ます。  その分類方法は大雑把に4つです。   ①そのイデオロギーは存在論と認識論を素朴実在論に立脚し構造主義的哲学には立脚していない。  ②そのイデオロギーは存在論と認識論を構造主義的哲学に立脚し素朴実在論には立脚していない。  ③そのイデオロギーは存在論と認識論を素朴実在論と構造主義的哲学の両者に立脚している。  ④その他。  ④その他、は、イデオロギーの内容が良く分からない場合、素朴実在論や構造主義的哲学とは異なる存在論や認識論がある可能性、あるいはイデオロギーが素朴実在論にも構造主義的哲学にもその他の理論にも立脚してない可能性を想定しています。  イデオロギーの内容が良く分からない場合とは思考より感情や意志などの精神要素が複雑に入り込んでいるような場合です。  イデオロギーはlogosという言葉が入っているように思考や理性的な精神要素が強く念頭に置かれていますが、芸術や情念など合理性や論理性で表しがたい分野があり、一応イデオロギーとは思われても現代哲学による分析が困難な場合があります。  いずれにせよ④その他の様な場合には分類が細分化するでしょう。  その時はその時で考えればいいので考えません。  ①が近代以前の考え方です。  これは構造主義的哲学の様な考え方があるとは知らず素朴実在論を無意識に自明と思い込んでいたからです。  ③が現代哲学の考え方です。  イデオロギーを素朴実在論と構造主義的哲学の両方の見方で意識してみる事ができます。  ②が近代哲学から近代哲学の過渡期で現代的な構造主義が確立し広まりつつもポスト構造主義成立より前の哲学・倫理学の考え方です。  あるいは構造主義を絶対化し素朴実在論を否定すると②になります。  これはフーコーなど構造主義の四天王と言われた思想家が構造主義者とみなされることを嫌った理由の一つだと思われます。  仏教でも空を絶対化した三論宗の吉蔵などの思想家はやはり②に属すると思われます。  大は小を含むだけですから素朴実在論も構造主義的哲学もどちらの見方も出来るのであればどちらかを否定するのではなくどちらの見方もするのが現代哲学です。  ですから近代以前の哲学であれば素朴実在論に立つイデオロギーが多いですが、構造主義を用いてそれを構造主義化したイデオロギーに変える事が出来ます。  例えば古典ユークリッド幾何学を構造主義化すればヒルベルトの公理化され形式化された現代数学の幾何学になります。  古典ユークリッド幾何学でも公理化ユークリッド幾何学でも定義の扱いが逆さまであることを除けば殆ど同じ形です。  ですから理論体系は同じ形をしていて証明するのもような事をするだけですし、過去の古典ユークリッド幾何学で得られた遺産は全て引き継げます。 8-4-1 構造主義により作られるイデオロギーを素朴実在論からできたイデオロギー  実体を措定せず定義により実体が存在を感じる直感を得て概念とし基礎とするイデオロギーが構造主義によるイデオロギーです。 無定義で実体であると直感される概念を実体として受け入れて実体の定義を行いその関係性を考えるのが素朴実在論によるイデオロギーです。 8-4-2 世俗のイデオロギーを生活に関係しないイデオロギー 純粋数学や物理学の宇宙論、素粒子論などでは目下実証されていないものも社会に役に立たず研究のための研究として世俗と解離したものもあるでしょう。  一方でイデオロギーは物事の見方、考え方、行動の仕方に関係し生活や人生のあり方に影響を与えるものがありそれを世俗的なイデオロギーと呼びましょう。 8-4-3 矛盾のあるイデオロギーと無矛盾を志すイデオロギー もう一つのイデオロギーの見方はイデオロギーが無矛盾性や完全性などを意識されて整合的である場合と矛盾や詭弁が含まれていても問題とはしないイデオロギーです。 8-4-4 個人のイデオロギーと集団のイデオロギー イデオロギーの別の分類は個人主義イデオロギーと集団のイデオロギーです。 自分一人を対象としているのが個人主義イデオロギーで、人間を集団として律するのが集団主義のイデオロギーです。 8-5 メタイデオロギーとイデオロギー  まず一般的な大きな見取り図を示します。  ポスト構造主義というメタイデオロギーがあって、それ以外に無数のイデオロギーがあります。  主体は無数にあるイデオロギーをどれでもいくつでも自由に選択して自己のイデオロギーと出来ますし、どれでもいくつでも自由にイデオロギーを否定することも出来ます。  どれを自らのイデオロギーとして選択しようと否定しようとそこには正誤も優劣も上下もありません。  主体は自由です。  そしてこのプロセス全体を意識して行っていれば自覚を持っていると言われます。  選択肢を増やすために新しいイデオロギーを学習したり創造することも出来ます。  現代哲学の見取り図は形式にいうと異常の様なものになります。  実用上概念と擁護の整理をします。  選択するものは主体ですが、現代哲学をマスターしたうえで現代哲学を意識して選択できることを主体性としましょう。  また主体性を意識出来る事を自覚としましょう。  主体性とは思考し、判断し、決断し、選択し、行動し、その結果までを自覚出来る機能です。  主体がイデオロギーを選択したり否定するのは自由です。  これは世俗の自由とは違います。 メタ自由主義はイデオロギーの選択が自由というだけで非常に形式的なものです。  メタイデオロギーに基づきイデオロギーを選択するも否定するも自由という事でその自由自体は世俗の生活や人生に直接影響しません。  これをメタ自由主義と言いましょう。  これはサルトルのいう自由と同じものです。  イデオロギーの自由主義とメタイデオロギーに基づくメタ自由主義は違います。  イデオロギーの自由主義はそもそも定義がはっきりしません。  または世俗的な定義を行わないと何が自由かはっきりしません。  ですから地域や時代や人によって指すものがバラバラです。  いまだに定義の合意に至っていないようです。  集団主義的なイデオロギーの場合、経済的な自由主義でも政治的な自由主義でも大抵ルールが存在するためルールで規制される部分は自由ではありません。  個人的なイデオロギーとしての自由主義の場合、勝手気ままに生きれば自由なのかというと何らかの限界により勝手気ままが抑制されれば自由でなくなります。  一般的には認知していることを認知している状態をメタ認知と言います。  現代哲学をマスターした状態において、イデオロギーを選択する主体の状態を自覚できていることはメタ認知と言えます。 8-6 世俗のイデオロギーと現代的な生き方  8-5の形式的な構図を例示で具体的にしましょう。  イデオロギーは様々なものがあります。  純粋数学や物理学の宇宙論、素粒子論などでは目下実証されていないものも社会に役に立たず研究のための研究として世俗と解離したものもあるでしょう。  一方でイデオロギーは物事の見方、考え方、行動の仕方に関係し生活や人生のあり方に影響を与えるものがありそれを世俗的なイデオロギーと呼びましょう。 ポスト構造主義はメタイデオロギーですので自分の信念、信条としたところで世俗の生活に一切影響を与えまません。 世俗の生活や人生を決めるのは世俗のイデオロギーであり、何をどう見るか、どう考えするか、どう行動するかを決定するのは選択したイデオロギーと否定したイデオロギーの種類と数、組み合わせによります。 世俗的イデオロギーの例は宗教、道徳、主義、科学の理論、社会通念、制度、文化などいろいろあります。 メタイデオロギーであるポスト構造主義においては、沢山のイデオロギーの中から自分がどの世俗的イデオロギーを選択します。  ここではどのイデオロギーを選び否定するかの違いに正誤、優劣、上下という考え方はありません。  また選択するためには沢山のイデオロギーを知っておくことが望まれます。  また自分自身で新しいイデオロギーを創造したり既存のイデオロギーを解体できるとなおよいでしょう。  それを構築とか脱構築と言われます。  構築や脱構築を行うにはメタイデオロギーを持ちメタ認知により自覚的にイデオロギーを見れることが望まれるでしょう。 ケーススタディ 8-6 世俗イデオロギー選択の例  身近な日本人であると宗教的イデオロギーとして神仏への信仰を持っていることが多いでしょう。  意識的、無意識的に、シャーマニズムやアニミズムのイデオロギーを持っているかもしれません。  高等教育を受けていないか受けていてもよく理解していない場合には、自然科学的イデオロギーとして高等学校までで学ぶ、素朴実在論的、古典的なイデオロギーが染みついている場合が多いでしょう。  比較的生育環境や教育環境が穏健なものなら自然に愛国心や国益意識を持つかもしれませんが、生育環境やルーツに複雑さがあったり、思春期でこじれたりすると非社会的、反社会的なイデオロギーを持つかもしれません。  経済的なイデオロギーとして市場主義、資本主義的なイデオロギーを無意識的に持つ事が多いでしょうが、より自由主義的か集団主義(社会主義、共産主義)的になるかは障害迷うテーマかもしれません。  政治的なイデオロギーとして欧米先進国の様な民主制を選択するか、一部の国の様な共産党一党独裁を支持するかは時代や地域によって割れるでしょう。  常識や通念として何となくのイデオロギーを持っていることがあり、漠然としているので無意識的な事が多いかもしれません。  世論やメディア、空気や当たり前と言った常に一瞬一瞬結論が変わっていくものもイデオロギーとしましょう。  「日本人とユダヤ人」という本を書いた日本人論で有名な山本七平氏はそれを「日本教」と呼び「空気の研究」「常識の研究」「当たり前の研究」などで研究しています。  人は個別的なイデオロギーをもっているもので「仕事より鉄道が大切」「ワールドカップにいくお金を貯めるためにお金を貯める」「不労所得で経済的な自由を得る」などパーソナルなイデオロギーを持っている場合があります。  そういったイデオロギーの集合がその人のイデオロギーです。  否定も一つのイデオロギーで「一神教は認めぬ」「形而上学的なものは不可知である」などで何かのイデオロギーを否定するのも一つのイデオロギーと言えるでしょう。  また時期や状況でイデオロギーのセットが変わっても不思議ではありませんし、寧ろ頻繁にイデオロギー選択を変えるのが通常です。  現代哲学はメタ認知が大切ですのでそういうイデオロギーの変更に自覚的であるべきであると考えます。  現代哲学のマスターはこのプロセスを繰り返します。  これがドゥルーズとガタリが示した現代的生き方のビジョンでもあります。 8-7 現代哲学の原理のまとめ  ポスト構造主義をメタイデオロギーとして理解する事が必須です。  ポスト構造主義に基づいて全てのイデオロギーはメタイデオロギーであるポス後構造主義以外は公平で、正誤、優劣、上下の違いはありません。  メタイデオロギーに基づいてイデオロギーの否定と選択を行います。  そのプロセスは主体的に行われメタ認知を自覚的に持つ必要があります。  選択するイデオロギーの集合は自由であり、選択するイデオロギーを変化させて集合を選び直しても構いません。  イデオロギー選択は自由さをメタ自由主義と呼びます。  メタイデオロギー以外のイデオロギーは素朴実在論に基づいた見方か、構造主義的哲学に基づいた見方か、その両者で同時に見ます。  現代哲学に基づく生活はこのプロセスの繰り返しです。 第5部 9-0 シミュレーション、シミュラークル、確実性とは何か、大きな物語とナラティブの世界  哲学は確実性を追求する学問です。  現代哲学は存在と認識の確実性についての西洋近代哲学が到達した最終的な結論です。  確実性には存在や認識の他に、行動の確かさ、道徳の確かさ、コミュニケーションの確かさ、真善美の判断の確かさなどがあります。  それらの確実性についてもこの教科書では解説します。 さて確実性とは何か自体の現代哲学の結果としては存在論と認識論の確実性が示されます。  まず一般的な客観性で現代哲学を見ると現代哲学の存在と認識に関する確実性の結論は、良く分からない、つまり不可知になります。  現代哲学の観点から存在と認識の確実性についてみると、存在や認識の確実性を問題にする必要がない、という結論になります。  問題とは問題にするから問題になるのであって、問題にしなければ問題になりません。  現代哲学は人間がなぜ確実性を問題にしてしまったかについて研究し、その結論を示します。  確実性とは近代までは色々な周辺環境や状況により問題にする必要と欲求があったのですが、現代哲学によりその色々な周辺環境や状況を分析し、確実性を問題にする精神性を解体しました。  客観的、現代哲学的な確実性に対する見方を踏まえたうえで我々の個々人の確実性に対する考え方としては、各人の確実と思える、あるいは思いたいものを確実だと信じればよい、ただし、現代哲学の素養を持ち、自分のその様な態度をメタ認知し続ける事、というのが結論で答えになります。  現代哲学はそもそも個人主義的な哲学です。  集団で共有する正しいもの、という考え方はしません。  してもいいですが、現代哲学でそれをしたければ現代哲学の応用という事になりますので、現代哲学の入門書である本書の分を超えています。  自分の確実と思いたいものを確実と思いつつそれをメタ認知している状態は心的態度として謙虚さを生みます。  無知の知、分相応、語るべきことでないことは語らないという姿勢は現代的です。 9-1 シミュレーション、シミュラークル  現実的、客観的に何も確実とは言えない(確実なものがある可能性もあるが)という結論から導き出される世界観をボードリヤールは、シミュレーション、シミュラークルと言いました。  模造、虚像、模倣、紛い物、捏造等と訳します。  日本語訳はネガティブな意味が含まれますのでそのままシミュレーション、シミュラークルとして使います。  模造、虚像、模倣、紛い物、捏造は頭を柔軟にすれば悪ことではありません。  いいとか悪いとかの定義によりますが、どんな事にもいい面も悪い面もあります。  世界と事物は全てシミュレーションにより作られたシミュラークルと考えるのが、それが紛い物でない場合も含めて公平でしょう。  そして紛い物であるかどうかはそもそも現代哲学では問題としない、どうでもいいことだと書きました。  我々がシミュラークルの世界に生きているという事が現代哲学の結論になります。  繰り返しますが現代哲学では確実であるかないかには興味がありません。  主観的には確実で、客観的には紛い物である可能性がある、という事には興味があります。  どのようなイデオロギーに報じて準ずる、従属する場合でもそのイデオロギーが確かではなく紛い物絵ある可能性を常にメタ認知しておくという健全な懐疑主義を持ち続けます。  これもやはり中、中観、中道の見方と言えます。  メタ認知は対象が素朴実在論で確実に思えるという完成と同時に、構造主義的哲学でそれが構成されたものであるという両者の見方で見る事が求められます。  構造主義的哲学で対象を捉える場合シミュレーションによるシミュラークルとした上で、それが素朴実在論でも同様に捉えられるという事を自覚し続けるのが現代哲学です。 9-2 正常と異常  シミュレーションとシミュラークルから言える事に、正常と異常の区別は意味がない、というものがあります。  両者には質的な違いがないからです。  現代哲学的に両者を区別する根拠がありません。  正常とか異常を定義するイデオロギーを選択しそれに従えば何かを正常と呼び、何かを異常という事は出来るでしょう。  しかしそれは一つのイデオロギーと一つの選択でしかありません。  またイデオロギーレベルであるポスト構造主義の内部の問題ではありません。  正常と異常を区別するイデオロギーとともに正常と異常を区別しないイデオロギーも存在しますし新たに作ることも出来ますのでどちらのイデオロギーが正しくて、優れていて、上位であるとはポスト構造主義では判断することが出来ません。  ですから現代哲学をマスターした人は何も信じていません。  同時に何でも信じて言います。  情報に関しては全てがフェイクである可能性を常に自覚しています。  そしてその情報に基づいて行動するときは覚悟して行動します。  現代哲学では信じる、信じない、正しい、誤っているという考え方はしませんが、覚悟、意志、嗜好(好き嫌い)、けつを持つ(結果を引き受ける、時に責任を取る)ことを常に考えて思考と行動を行います。  随所に主となれという禅の言葉がありますが、現代哲学のマスターは主体であり自覚を持った人です。  覚悟を持って決断を行い行動しけつを持ちます。  主体性と自覚の哲学でるので「無条件に信じていたのに裏切られた」という事態が感情の上ではともかく理性の上では発生しません。  目的を達成しようとしまいと、いい目に合おうと悪い目に合おうと常に選択したイデオロギーや情報が正しかったからとは思っていません。  成功しても正しかったからとは思っていません。  うまくいくのも常に偶々であるという意識を持っています。  ですから誰かの言う正常を正しいとも思っていませんし精神病者のいうことを異常とも思っていません。  正常な人と精神病者の区別は現代哲学の上では行われません。  正常、異常の区別はメタイデオロギーではなくイデオロギーがおこなうものです。 9-3 大きな物語、ナラティブ  現代哲学では人間は現実を生きているとは思ってはいません。  ナラティブ、物語の中を生きていると考えます。  近代以前の哲学では人間は現実を生きていると考えていました。 それがあたかも物語の様だと考えることもあったかもしれません。 現代哲学ではリアリティーの概念はあってもリアルの概念がありません。 人間はリアルを生きているのではなく、リアリティーを持った世界を生きているだけです。 近代人は自分を現実の中で生きていると思っていますが、現代哲学では実際には近代人は、自分、人生、歴史、世界という大きな物語の中で生きていると考えています。 物語の中で生きているのは現代人も同じかもしれません。 違いは近代以前の人は自分を現実というノンフィクションの世界で生きていると思い込んでいるのに対し、現代人は近代人も現代人も関係なく現実ではなくフィクションの物語の中に生きていると考えます。 生きるという事はシミュレーション、世界はシミュラークルとみなします。 全てはシミュラークルなのです。 自己も他者も外部も人間も歴史も世界も理性もです。 ミシェル・フーコーは知の考古学(archeology)という概念を提唱しています。 歴史学(言葉⦅記号⦆による過去研究)ではなく、考古学になぞらえた点に注目です。 地層には断層(エピステーメー)があり、その断絶前後で知的環境が大きく変わり、人間の精神と内面が変わります。 現代哲学から見ると近代までの人間は大きな物語の中に生きる、自分という主人公を演じる物語に生きています。 現代はそういう錯覚は持てません。 自分も人間も理性も自己も歴史も神も終焉した、ニーチェ流に言うと死んだ世界に住んでいるからです。 過去というのは地層を発掘されて新しい発掘品が出るたびに新しい過去像に塗り替えられていきます。 その終着点に最終的に正確な過去の歴史が現出する、というのが近代までの学問モデルです。 それは正しいのかもしれませんしいつかそれが可能になり終着点に収束、終息し学問の終焉が見られるのかもしれませんが、実際には我々は常に新しい発見がありアクティブに塗り替える歴史像の中に生きています。 少し前の歴史観はすぐに古くなり意味を失い歴史的な意義を除いては意義がなくなり機能しなくなります。 10-1 選択:エス、イド、リビドー、タナトス 精神の力動  現代哲学では主体がメタ自由主義に基づき選択肢の中から選択を行います。  それでは主体がなぜその選択肢を選択するのかが疑問点になります。  これに対する答えは「分からない」です。  現代哲学は存在や認識の確実性を説明する哲学です。  研究対象も研究方法も思考を用います。  人間の精神は思考だけで成り立っているわけではありません。  西洋では人間の精神を知・情・意で分類する方法がよく使われてきました。  精神間の分類方法はこの例に当てはまります。  これに従えば現代哲学が「知」を研究します。  「情」感情や気分、「意」意志や欲望については現代哲学では直接の対象としませんでした。  しかし情意は思考を研究する際に重要な役割を果たします。  それを2つの面から考察します。 10-2 イデオロギーの選択  現代哲学の理解は内面的なものです。  ですから内面的な問題を解決する場合があります。  例えばあるイデオロギーに執着している場合です。  お釈迦様は輪廻転生のイデオロギーに執着していました。  また生きる事は苦であるというイデオロギーにも執着していたようです。  お釈迦様の前者の悩みは悟る=現代哲学をマスターすることで解決しました。  しかし次にお釈迦様がとろうとした行動は死ぬことでした。  別に死んでも構いませんがこの様な現代哲学の使い方は世俗に影響を与えません。  お釈迦様は結局生きて世俗に影響を与える生き方をしました。  仏教の布教です。  これは世俗に影響を与える行動です。  お釈迦様は仏教を布教するというイデオロギーを選択することで世俗に関わりました。 現代哲学をマスターした場合、お釈迦様と同じ問題に直面します。 お釈迦様は悟る前は生即苦というイデオロギーと輪廻転生というイデオロギーを選択、というか他の選択肢が取れずに選ばされていました。 悟った直後は生即苦というイデオロギーと生を捨てて死んでしまおうという、世俗に関わらないイデオロギーの選択を行いました。 そのあと思い直して生即苦というイデオロギーを継続して保持することと、仏教の布教、すなわち他の人にも苦しみから逃れる方法を教えようというイデオロギーを選択しました。 これはあくまでお釈迦様の自由な選択によっています。 お釈迦様でなくてもメタイデオロギーであるポスト構造主義をマスターした後に何のイデオロギーを選ぶかは完全に恣意的です。 この恣意性、あるイデオロギーを選択して別のイデオロギーを選択しない理由は何でしょう。 10-3 選択に影響するもの  イデオロギー選択の一つのやり方は目的に合わせた方法の最適化です。 選択の際には何かの目的を達成するためのイデオロギー選択もあり、そのような場合には選択は問題解決のためになります。 往々にして複数の目的や状況がイデオロギー選択を制限します。 別の選択方法は“何となく”です。  人間は何でも深く考える必要はないでしょう。  選択肢の直感がわいたら深く考えずにそれを選択します。  あるいは人任せにするのもいいでしょう。  集団に同調したり、選択を他人に委ねたりします。  他には“したいようにする”。  あるイデオロギーを選びたい、選びたくないと理由が良く分からなくても思う場合はそれに従います。  またはイデオロギー対する拒否感、拒絶感、否定感情がある場合にはそれを避けます。  他人とコミュニケーションしたい場合には相手も理解できて共有を合意できるイデオロギーの選択が考えられます。  知情意とともに昔は真善美という言葉が使われました。  “真”は知とかかわりが深そうですが情意は善美とかかわりが深そうです。  美しいからとかかっこいいからとかいう理由でイデオロギーを選択するのもいいでしょう。  これまでをまとめるとイデオロギー選択には知や思考に関するものか、その他の情意や良く分からないものがあります。  現代哲学は情意や良く分からないものに関しては深く追求しません。  一方世の中には時間があり、精神も世界も変化します。  動くには力が働くと考えると精神力動は心の力学の研究対象で、その力の元や性質、方向などをエスやイドやリビドーなどの概念で説明します。  しかしこれらが何かという問いは“心とは何か”と問う事と同じように難しいためブラックボックスに入れて深く追求しません。 10-4 認識、認知の構造論  このエス、イド、リビドーが出てくるもう一つの局面がラカンの構造主義的精神分析におけるシェーマLのモデルです。 この場合は力動発生のエネルゲンはシェーマLのSの記号でまとめられています。 シェーマLの中では一つの要素としてまとめられていますがSの内部構造は分かりません。 例えばSには意志、欲望、感情、気分、嗜好、性癖、性格、人格など色々なものが含まれるでしょう。 シェーマLの理論自体は思考における直感や概念の生成を説明するものであるためSを詳しくする必要はありません。 しかしもし情意や善意の人間の思考や認識など以外の認知機構を説明するためにはSの研究も必要でしょう。 しかしそれは現代哲学の管轄外で美学や芸術、文学や音楽で研究するのがいいでしょう。 11-0現代哲学の集大成:デリダ、現前、同一性と恒常性、差異と差延、脱構築と構築  意識野に現れ認識されるものを現前と言います。  概念やその関係性、差異、それらの連合等です。  直感的に明瞭にリアリティーを持つためそれは実在と関係があると考えられてきたのが素朴実在論です。  認識されているため修飾や変形されている可能性もありそれ自体が実態ではなくても背後にある実態を示唆するように考えるのが少し進んだ素朴実在論です。  これはカントでお馴染みでしょう。  一般的にこの水準は中高生レベルが特に哲学を学ばなくても到達できることがあります。  問題はここで止まることです。  この先のドイツ観念論などに進んでもやはり素朴実在論が意識するにせよしないにせよ潜在的に想定されています。  構造主義的哲学を使いこなすことが出来ると脱構築と構築という手法が使えるようになります。  また差異や差延という分析方法を使えるようになります。  これは近代哲学までの素朴実在論に拘束された考え方より、構造主義を使えるようになったことで概念やその集合体かつ連合体であるイデオロギーを構成する能力及び解体する能力が飛躍的に上昇したためです。  ポスト構造主義のメタイデオロギカル的能力が現代哲学実践の半分であれば、構造主義を使いこなす事が現代哲学実践上の残りの半分です。  構造主義的哲学の理解を深め、差異、差延、構築、脱構築を使い分析能力と構成能力を高めます。 11-1 差異とは何か  構造主義においてはそのイデオロギーに登場する概念の集合は他の概念と何らかの関係があります。  ただ集合しているだけでなく連合しています。  概念同士、あるいは概念のつながり同士、あるいは概念と概念のつながりの間につながりに関係性や意味が定められます。  やや単純化して具象化したモデルを作ってみます。  要素を点で表し、要素同士の関係をそれがどんな関係であれ線でつないでみます。  線と要素が関係ある場合、線分上の適当な点と要素をつなぐ線を引いきます。  線と線が関係ある場合も戦場の適当な点を重複させて新たな点とします。  すると点と結節からなるマトリックスになります。  点と点は線で直接つながっていないかもしれませんが、別の結節を間に挟んでもいいとすると辿って繋がる場合とつながらない場合があります。  集合の中で線でつながる点の集合をあらたにさだめると、集合はいくつかの集合からなることが分かるでしょう。  その場合元の集合はそれぞれ独立したいくつかの全体集合より小さい集合からなると考えます。  線を何らかの関係性を表すものとすると小さい集合同士は関係性を持っていないので、他の小さい集合にとってはあってもなくても小さな集合とその連合には何の影響も及ぼしません。  この小さな集合は一つの連合体で体系を持っておりこの集合を基本集合とします。  この基本集合を点と線でマトリックス化すると結節が他の結節と関係を持ちます。  結節、点、要素が線でつながっていない場合は結節、点、要素が1つだけの場合です。  要素、結節、点が2つ以上の場合には点は必ず線とつながっています。  この様な結節や線で表される対象の研究は数学のグラフ理論や離散幾何学などで行われ  位相幾何学(トポロジー)の一分野です。  この様な線と結節からなる網、マトリックスの要素や結節間の線分は他の要素や線分の全体の中でならば、かつ全体の中でのみ意味を持ちます。  他の結節や線分と無関係に結節のみが実態として存在することはありません。 この結節の集合の中ではある結節と他の結節は差異があります。 そして際によってその結節を実体の様に定義し扱うことが出来ます。 この構造主義の考え方を仏教では相違性、ソシュールは差異の体系などと呼んでいます。 抽象的で形式的なモデルとしてこれを扱えば文字通り数学の位相幾何学、離散幾何学、グラフ理論になりますし、この抽象的なモデルが物理学をはじめとする科学のある何かの分野の具体的な観察対象をうまく説明するものであれば、それはその科学の理論、現象の説明体系として使用できます。 近代以前はまず現実の具体的な観察対象があってそれを合理的に説明する理論が作られるという順番が多かったのに対して、現代ではまず理論やモデルが作られてそれが何らかの観察された現象の説明に偶々うまくしよう出来たり、観察技術の進展が相対的に遅いので先に理論やモデルが作られている場合があります。 網の目、マトリックスの中の結節が現前です。 現前は線分でつながっている他の結節との差異で定められプロファイリング出来ます。 我々が認識する対象はプロファイルにて定義しますし同一性や恒常性があると認識されます。 網の目、マトリックス、これを構造と言います。 11-2 差延とは何か  差延とは現前と差異の時間と変化を考えたものです。  差異の説明では時間と変化を考えませんでした。 構造に時間変化がなければ同一性や恒常性があると認識されます。  科学の理論や仮説は時間変化を考えなくても構いません。  その理論体系、すなわち構造が現実を説明するのに不適切と考えれば棄却しよりよく現実を説明する新しい理論や仮説を考えます。  しかし構造が変化する場合があります。  量子力学の存在確立や自然言語や自己同一性が例になります。  我々が何かを認識したときには次の瞬間もその認識を維持している傾向があります。  言い換えるとその現前は自己同一性を持っていると感じる傾向があります。  しかしそれは唯そう感じているだけです。  一方現代哲学ではその現前が成立してもそれが正しい認識であるとか確実な実在であるとか考えないのと同時に、その現前が次の瞬間も元の現前と同じであるとは考えません。  一瞬後の現前と一瞬後の現前は同じであると考えるのが現代哲学を習得する前の経験的、常識的な考え方ですが、現代哲学ではそれを一瞬一瞬疑う考え方も並行して行います。  仏教ではこの経験的、発達的に自然に身についた見方とポスト構造主義を身につけて、現前を常に疑う、あるいは素朴実在論と構造主義的哲学の見方を同時に行うことを中道、中観、中と言います。  同一性についてはその成立自体、それが真実であるという見方をしない、あるいは成立の機序を構造主義的に見ることを行いますが、人間の自然な認知である現前が継続して不変であるという考え方も偏執しません。  人間が形成された現前の同一性を引きずる背景には発達上の自然な感覚がそうであるとともに、構造が変わらない、あるいは構造が変わってもその現前に大きな変化はないだろうという大雑把な見方が存在します。  この大雑把な見方は思考の無駄を省きますし、実生活上有用な事が多いので出来ないと障害をきたします。  しかしあくまで見立てであって構造主義的には不正確です。  実生活、日常・社会生活では厳密でなくてもいいでしょう。  しかし正確ではない、あるいは素朴実在論に立った見方なので同時に構造主義的哲学に沿った見方も出来ないといけません。  瞬間、瞬間、現前が変化しないように感じるのは、短時間では差異に変化がないことが多いからです。  差異が変化しなければ構造も変化しませんし、個々の結節、個々の要素も変化しないと考えるのは構造主義的にも正しいことです。  構造すなわち差異が変わっていないので現前も変わっていない、あるいは多少変わっていても同じ厳然として同一視する際には、差異を時間の経過で連続的で現前の同一性を崩さない変化していないという見方が内在しています。  差異が同一か差異の痕跡が連続なため、現前が同一で連続に見えています。  必ずしも連続でなくても断続でも同じものと見るバイアス、あるいは思考回路もあるでしょう。  この様に時間という要素を加味して現前の同一性や連続性を考える場合、差異と言わず差延と言います。  一瞬、一瞬の差異を時間軸でつなげたものです。  時間という元を増やして差異の変化を追う見方です。  前の一瞬が今の一瞬と、今の一瞬が後の一瞬と同じであると決めてかからない見方なので差異よりも柔軟な見方かもしれません。  現前の同一性は自明ではない、というのが現代哲学の一つの結論です。 コラム11-2 変化する構造の例:量子力学、自己同一性、自然言語  自己に対する認識は時間とともに変化します。  外部や他者との関係性は常に変化します。  運動すれば自分の位置が変わりますし、時間がたてば時間のパラメータが変化します。  時間が先か変化が先かは分かりませんが、時間は必ず経過し、世界は必ず変化します。  同時に普通自己に対する認識も人間の精神は変わります。  人間は外部環境も変わりますし、精神も心もうつろいます。  世界と自分という構造の中でプロフィール(プロファイル)やパラメータが変化していきます。  データと情報が常に変化していきます。  我々は自己同一性をもち変わらぬ自分を持っていると勘違いしがちですが、一瞬前の自分は一瞬後の自分と何かが構造変化しています。  自己同一性というものはこう考えるとそもそも存在しません。  精神医学や精神分析学、哲学では意識の同一性とは時間が経っても普遍という事で恒常性と同義です。  因みに単一性や唯一性は例えば自分という存在は同時に他には存在しえないという時間のない意識です。  同一性というのはないというのが現代哲学の考え方です。  仏教ではそれを諸行無常、諸法無我などと言います。  自己が変わらない思い込む意識を批判するのが現代哲学です  量子力学を考えてしましょう。  存在はシュレディンガー方程式の解としての波動方程式、あるいはハイゼンベルグの行列力学で表しますが両者は同値です。  両者の結論は不確定性原理(不完全性定理ではない)で万物は常に変化する(偶々変化しない確立もあります)です。  変化しないものはありません。  しかし我々は変化しないことがあると感じます。  これも現代哲学では誤りと考えます。  自然言語を考えます。  言語は変化しまし分岐します。  ある時代、ある瞬間話されていた言葉の内容の意味が変化しないことはありません。  言語自体の変化とともにそれを発する側、受け取る側も変化します。  ただ何となく意味が通じているように感じて分かった気になっているだけです。  実際には言説は口語の話し言葉(ディスクール)でも書かれた文語(エクリチュール)でも変化します。  何らかの言説が真実の意味があるとか、記号によって真実によって正しい意味理解とコミュニケーションが可能であるという考え方を現代哲学は批判します。  もちろん真実不変の自己同一性も物理的存在も言説の意味もあるかもしれません。  しかしそれに執着してそうでない考え方が出来なければ現代哲学を理解しているとは言えません。 11-3 脱構築と構築  素朴実在論では操作が困難な現前も構造主義的哲学であれば操作が可能です。  現前は素朴実在論では感覚的に実在する実体であると感じられます。  しかし構造主義的哲学を知らず素朴実在論しか知らない場合でも実在すると思っていた事物が実在していなかったり、実体と思っていたものの実態が思っていたような実態ではないと感じられたりする場合があります。  現前が現前でないと感じたり、現前の内容を変化させたりすることを脱構築と言います。  前者が脱構築で後者はずらしという言葉で表現される場合がありますが、同一性を否定する見方が出来るようになっている点では同じことです。  現前の同一性を否定する見方をする事が脱構築なのであれば、今までになかった現前を意識的に作り出すことを構築と言います。  そもそも認知科学では記憶の同一性は否定されています。  人間は同じ記憶を想起するように思っていても想起するたびに新たな記憶を作成していると考えられています。 現代哲学も同じ考え方をして記憶も知覚も表象も全て同じものが現前しているように思っていても現前するたびに異なる現前が生成するというイメージを持っています。 同じと思っていても実は変化しているという可能性を考える事、同一性実際に同一である可能性を考えるとともに同一であることに懐疑心を抱くのが現代哲学の考え方です。 そもそも現代哲学を身につけた時点で物事を脱構築と構築の観点で見ています。 この様に現代哲学では現前や同一性について元々肯定と懐疑を同時に行うという点で二重の目を持っていますが、更に現代哲学を応用すると脱構築と構築を意識的に行う事が出来るように訓練できます。 脱構築と構築を意識的に行う方法は数多くあると思いますが特に構造主義の使い方を訓練することで方法の数を増やすことが出来るとともに、迅速、強力に脱構築と構築を行う事が出来るようになります。  脱構築をする方法の一つは自己の現前についてより深く広く勉強し研究してみる事です。  物事は、言い換えると現前は色々な見方や考え方をすることが出来ます。  この対象に対する色々な見方や考え方をした時点ですでに構築と脱構築を行っています。  別の物事との差異や関係性が一つでも少しでも変化すればそれは構造主義的には同一性とは言えません。  例えばある事物をそれがいいものか悪いものかという観点で見てみましょう。  もともとその事物がいいものとか悪いものとかのプロフィールがすでにある、タグ付けがなされている、ラベル張りがなされている場合にはそれとは逆の見方が出来ないか、それがなぜいいもの(あるいはわるいもの)とされっているか考えてみる事が脱構築と構築の方法になります。  その事物にいいものとか悪いものとかという見方や考え方が適用されていない場合にはそれがいいものか悪いものか考えてみることは一つの方法になります。  つまり事物を構造主義で見る場合にはその事物と他の事物との関係を増やしてみる、減らしてみる、変えてみるなどが簡単な構築や脱構築の方法になります。  他の事物が「よい」「悪い」「良い面もあり悪い面もある」でもいいですし、「正しいか正しくないか」「美しいか美しくないか」でも「明るさはどの程度か」「大きさはどの程度か」でも何でも構いません。  数学になぞらえると元や座標軸を操作するのです。  またその事物を別の学問分野の観点や別の理論や別の仮説から見たり考えたりするという方法もあります。  ですのでより多くの情報や情報処理の方法を持っていると脱構築と構築をする能力が向上していきます。  そのためにはより多くのliberal arts、つまりすでに身につけているもの、とより強いphilosophy、つまり教養を身につけようとする心、を持つ事が望ましいでしょう。 第12章 学ぶべきもの:mathematics : 矛盾と無矛盾の構造、現代の社会と科学の基礎、公理主義、論理主義、形式主義  この章は第2篇では第8章と並んで最も重要な章です。  これまでイデオロギーというものを素朴実在論で見る見方と構造主義で見る見方を紹介しました。  この見方と並んで現代哲学を実施用する時に最も重要なイデオロギーへの見方がそのイデオロギーが矛盾を含むか含まないか、です。  論理とは何か?  真なる前提から真なる結論を導く論証についての理です。  その論証のルールが真なる前提から真なる結論を帰結するならばその論証は健全である、あるいは妥当であると言われと言われ、そうでないなら不健全である、あるいは非妥当であると言います。  科学を構成するのは実証と理論です。  理論とはその科学の観察対象とする現象の理を論ずることですが、理論の中に矛盾が含まれていればその理論は健全でも妥当でもありません。  その理論によって「Aである」という結論と「Aでない」という結論が同時に導かれるからです。  我々がイデオロギーを考える時にその内部において矛盾があるか矛盾がないかを分析することが重要になります。  無矛盾なイデオロギーは共通のリテラシーとして人々が共有可能です。  それを介してコミュニケートしても矛盾を生じないからです。  ですから現代の自然科学の基礎になり社会の基礎になります。  矛盾を含むイデオロギーは美学、文学、芸術、修辞学、弁論・論説術、扇動術、詐術、詭弁、メディア論、プロパガンダ論、娯楽、などで研究すればよい分野で理性や思考だけではくくれない感情、意志などの精神要素を含みます。  現代哲学ではそれを非論理的なイデオロギーと見ます。  非論理的なイデオロギーを分析するにはまずは論理的なイデオロギーを学びます。 12-1 理と論、理論と論理  「理」とは「おさむ」「ことわり」「すじめ」などと日本語で訳されます。  これによれば万人が矛盾なく無事におさまる整合性の整った構造と考えましょう。  理が非であれば体系あ整わず人によってあるいは時と場合によって矛盾した結論が出る場合があるので人々はあるいは時代によって民意がおさまりません。  もう一つ、「論」という言葉があります。  日本語では「あげつらう」「とく」と訳されます。  対象を言葉にして述べる事でしょう。  言葉にすること、広く言えば記号化です。  こういった言葉は本来正しいとか正しくないとかの価値判断は中立的に見れば含まれないはずですが、文化によっては言わずとも当然のごとくそれを正しいとか正しくないとか区別する傾向があります。  例えばある種の言語が名詞に性(男性、女性、中世)などがあるのと同じです。  名詞に性がある言語を使う場合には対象を何の性の名詞化言わずもがなで無意識に意識している場合があります。  例えば「義」という言葉は判断するという意味ですが「正義」と言わずとも「義」というだけで正しい判断という意味で使われる場合があります。  実数の正負の数でマイナスの数には必ずマイナス記号「-」ごつけますが正数にはプラス記号「+」を付けないのと同じです。  正の数であることを強調する場合に「+」を付けるのが普通です。  ですので「義」というと「正義」を表し「義人」というと正しくない判断を下す人ではなく正しい判断を下す人という意味になります。  「理」や「論」もそれ自体は正しいか正しくないかは表していないように見えるかもしれませんが、「理」という言葉だけで「正しい理」というものが念頭に置かれていたり、「論」という文字だけで「正論」を指している場合があります。  この場合の正しさとは矛盾がないこと、そして自己と自己、自己と他者が空間と時間に関係なく矛盾なく一致しうることを念頭に置いています。  それをいったんおいて「理論」と「論理」という言葉について訳してみます。  「理論」は「おさまり、ことわり、すじめについてとく、あげつらう」という意味になります。  「論理」は「あげつらう、とくことについてのおさまり、ことわり、すじめ」ということになります。  あまり物事を細かく考えない人の場合、ここに「正しさ」が無意識に入り込んで、「理論」は「正しいおさまり、ことわり、すじめについて(正しく)とく、あげつらう」、また「論理」は「正しくあげつらう、とくことについての(正しい)おさまり、ことわり、すじめ」のような意味になってしまっていることが多くあります。  では「正」「正しい」とは何かというと一致しうるものという事です。  人間同士、あるいは個人の内部でも時期や状況に関わらず共通、一致して到達い得るものでそこから外れると「誤」「誤り」になります。  その様な「正」があると考えるのがある文化圏、というかほとんどの時代のほとんどの文化圏においては人間の傾向でした。  この「一致するもの」「共通のもの」を言い換えると「確実なもの」になり「確実なものは何か」という哲学の主題になります。 12-2 論理学の一例、記号論理学の命題論理で自然言語に近いもの  普通大学教養の論理学入門、初歩、初級などで学習するのは記号論理学で命題論理学、そして一階述語論理です。  ただこれを形式的に使いこなせることよりは総論的な知識、まず論理学とは何かを理解していく必要があります。  論理計算、あるいは論理演算を習うだけではまさに算数を習っているのと同じで数学を習っているとは言えません。  高等教育では操作法を習うのではなく操作法の意味を勉強します。  自分が何を勉強しているのかを知ることがメタ認知です。  高等教育の科目は漠然と表面的にやっていると意味が分からなくなることが多々あります。  命題の審議と論証の妥当性・非妥当性の関係など混同されやすいでしょう。  また命題計算についての整合的であるか、不整合的であるか、また整合的である場合それが恒真的(トートロジー的)であるか、偶然的であるかを正確に理解しないとやはり混乱が生じます。  そしてこれらを踏まえて初めて命題計算の無矛盾性と不完全性の意味が理解できます。  初頭の論理学では現在では最初から記号論理学を学びます。  記号の形成規則とその変形、導出により与えられた問題をどう論証するかを学びます。  記号の生成、変形や導出規則は自然な直感になるべく合うものとして入門段階では否定:「~ではない」、含意:「ならば」、連言:「かつ」、選言:「または」などが使われます。  そしてAをある命題(審議を決定できる平叙文とすれば)、Aでないことはない場合はAである(DN:double navigation,二重否定率)、Aであり、AならばBであればBである(MPP:modus potendo potens、肯定肯定律)、などの自然な直感に反しない、論理的に見える論理規則が適用されます。  この様な導出ルールはA,MPP,MTT,DN,CP,&I,&E,vI,vE, RAAのの10あり論理演算の導出規則などと言われます。  しかしこれは人間の自然な感性、自然言語に近い形で論理を行うために非常に適切ですが必ずしもこれ一通りでなくとも命題論理は構成できます。  例えば論理記号は標準形という考え方を用いると論理記号は含意:「~ならば」は必要なく「否定:~でない」「連言:かつ」「選言:または」の3つで構成可能です。  更にいうと論理記号は3つも必要なく「否定:~でない」と「選言:または」の2つだけで同じ命題論理が形成可能です。  更にもっと言うとこの2つも必要なくAとBが両方とも偽である場合のみ真であって、どちらかが真であれば偽になるような論理記号(例えば↓)を造ればこれだけで同じ命題論理が構成可能です。  但し論理記号の数が減ると導出規則は多くなります。  導出規則は自然言語で表現できますが、論理記号が少なくなると煩雑になります。  直感的に理解するためには少ない論理記号を用いて伝統的な4つの論理記号、10個の導出規則で形成される最初に挙げた命題論理に言い換えるだけですが、手順が多くなり煩雑になるので帰って直感的ではないかもしれません。  基礎論理学では普通命題論理と第一階述語論理を習います。  述語論理は第一階の他にも第二階述語論理、高階述語論理、その他色々な述語論理があります。  論理は色々設定可能ですので用途によって使い分ければよ「いです。  自然言語に近く感じられる論理も形成できます。 第一階述語論理までが初等論理学で習います。  これには理由があって、命題論理と第一階述語論理までは無矛盾性や完全性が成り立ちます。  これは真なる前提から導出可能、あるいは証明可能な結論の命題は真であるという事が分かっています。  しかし第二階述語論理以上の高階述語論理やその他の論理では無矛盾性が成り立つ場合もあれば成り立たない場合もあります。  そこで論理学では初等過程では第一階述語論理まで扱い、高等課程で他の論理学を扱います。  命題論理でも第一階述語論理でも無矛盾性も完全性も成り立ちますが違いがあります。 命題論理でも第一階述語論理でも恒真命題の証明可能性が保証されていますが、命題論理は証明方法を示せるのに対して、第一階述語論理では証明できることは保証されていますがその具体的な証明方法についてはケースバイケースで証明方法を知りたければ各自工夫することになります。 第二階述語論理になるとある場合には完全性が成り立ちません。 これをゲーデルの不完全性定理と言います。 この定理を適用できる場合と出来ない場合があるので注意が必要です。 証明にペアノの自然数公理というのを用いるので算術や数学的帰納法など自然数論を含む必要のある数学分野は基本的には不完全です。 一方でユークリッド幾何学や非ユークリッド幾何学は自然数論を含まないこともあり、完全性を持っていることが分かっています。 コラム12-2-1 第一階述語論理  第一階述語論理の説明をします。  例えば「トマトは赤い」という命題を考えます。  「(トマト)は赤い」というのをF(トマト)で表します。  F()は「()は赤い」という述語関数になります。  F(きゅうり)であれば「きゅうりは赤い」という命題になります。 F(いちご)であれば「いちごは赤い」という命題になります。  ()に入る集合を考えます。  述語論理ではこの命題を考えるのではなく∀F(X)と∃F(X)を命題として論理演算を行います。  これを述語計算と言います。 ∀F(X)は「全てのXは赤である」という命題になります。 ∃F(X)は「あるXは赤である」という命題になります。 コラム12-2-2 ゲーデルの不完全性定理、それが成り立つ場合と成り立たない場合 ゲーデルはラッセルとホワイトヘッドの「プリンキピア・マテマティカ」という本に基づいてそれに関係する体系について、それがペアノの自然数公理を含む体系の場合、その体系が無矛盾であればその体系の不完全性が証明されるというものです。 不完全性とは「体系が無矛盾であれば真偽決定が不能な命題が存在する」と「体系が無矛盾であればその体系の無矛盾性を証明できない」というものでそれぞれ第一不完全性定理と第二不完全生理と言われます。  ペアノの自然数の公理系を含む必要があるのは不完全性定理の証明にある種の算術や数学帰納法が必要だからです。 ゲーデルの不完全性定理ではゲーデル数や対角線論法の形で自然数公理が使われます。 自然数が使われる、という事は群、環、体など多くの数学は数のシステムを含むので自然数論も含みます。 ですのでゲーデルの前提に立つと多くの数学の分野は原理的に不完全です。他方でヒルベルトが行ったユークリッド幾何学の公理化は不完全でない、完全である可能性があります。 自然数公理を使用していないからです。 これを回避する方法としてラッセルのタイプ理論やツェルメロの集合論などがあります。  ラッセルのタイプ理論はゲーデルの前提に述語命題をクラス分けして自己言及命題を封じる方法です。  ツェルメロの集合論は現在ツェルメロ・フレンケルの公理系(ZF)と呼ばれるもので、公理的集合論で最も普通に用いられている公理系になります。  集合論や位相論は自然数を含めた数の理論の基礎になります。 ヒルベルトはヒルベルトプログラムという全数学を記述できる無矛盾で完全な体系を数学の目標としましたが、結果としては無矛盾で完全な体系もあればそうではない体系もあるという結論に終わりました。 12-3 公理主義  前提から結論を出すのが論理です。  導出規則も前提と言えますがそれに加えて公理という前提を追加します。  前節の論理主義は非常に形式的な議論です。  論理式の生成と導出規則、その無矛盾性と完全性を問題にしています。  論理式に含まれる個々の命題の意味については考えず積極的に捨象しています。  言語学でもそうですが記号学、記号を用いているので論理学もその一分野ですが、記号列の生成規則や導出規則を扱うことを統語論と呼びます。  形式論であり意味を問いません。  自然言語では文法です。  論理学では統語論(syntacs)と言います。  数学では証明論という数学基礎論の一分野で勉強します。 例えば「色は象である」この文は意味をなしていませんが日本語の文法規則に則り誤りはありません。  一方で「で象あるは色」は文法的に誤りで日本語とは認められません。  記号列が  これを発展させると数学基礎論の証明論や計算機科学にもなります。  記号論における記号列にはもう一つの見方があります。  それが何を意味しどの様な内容かです。  これを意味論と言います。  現代より前には言語はその表現方法より表す意味が先にあって重要であると考えられていました。  数学基礎論ではモデル理論で研究します。  前節論理学の説明で命題の真偽や論証の妥当性・健全性、また恒真性、整合性、偶然性について説明しました。  命題の真偽は意味論に関係します。  真偽は意味や内容の一種と見なせます。  無矛盾性や完全性、実効性は統語論に属します。  論証の妥当性、健全性や恒真性、整合性、偶然性は意味論と統語論のどちらにも関わります。  公理主義は数学を論理と公理と呼ばれる前提で表現する考え方です。 古典幾何学や非ユークリッド幾何学ではヒルベルトがラッセルの数学原論の論理学と、X8つの結合の公理、4つの順序の公理、5つの合同の公理、1つの平行の公理、2つの連続の公理で記述できる事を示しています。 これにより公理化されていないヒルベルトより前の伝統的な古典幾何学と非ユークリッド幾何学で表現できる全てのことが表現可能ですし、ヒルベルトにより公理主義かされた幾何学で今までに知られていない新たな成果が出ればそれを伝統的な古典幾何学や非ユークリッド幾何学で表現できます。 基礎的な考え方の違いを除けば両者は同じものです。 この両者が表す、すなわち頭の中でイメージするか、現実に画像や記号で表記すれば中学校や高校で習った幾何学と同じものになるでしょう。 この想像にせよ現実にせよユークリッドなどによる伝統幾何学、あるいはヒルベルトによる公理主義かされた現代幾何学が記号やその形式だけでなく意味や内容を表していると考える事ができます。 近代以前は幾何学は想像や現実を記号化と形式化したものと考えられていました。 これは意味論が統語論を生み出したと考えらえます。 公理主義以降は別の考え方もできる様になりました。 伝統的な考え方は」現実やイメージの世界を表現する事が数学であると考えていました。 現代数学ではその考え方と共に、記号や形式が意味や内容を生み出す、言い換えると統語論が意味論を生み出すという考え方をする様になりました。 ここではイメージや現実に対して記号や形式が先行しています。 科学では公理主義の成立が近代と現代の境目です。 近代数学や物理学でも理論が時にイメージや現実に先行する事はありました。 公理主義、すなわち現代数学成立以降はそれが明確になります。 基礎科学である数学と物理学が顕著で理論や論理、記号や形式が意味や内容を先行していきます。 アインシュタインの特殊相対性理論は高速度不変の観測結果から導かれた理論です。 一方一般相対性理論は理論が先行し実証が十数年遅れています。 理論系の実証系に対する優位の時代になりました。 量子力学のシュレディンガー方程式や波動関数、行列力学や不確定性原理の様から予想されるシュレディンガーの猫の様に理論が実証や我々の経験知、直感的理解を超えた意味や内容、イメージや現実を生成する様になります。 コラム12-3  例えば古典力学なら「この力が働いているので反作用として逆方向で同じ大きさの力が働いている」と結論したり、mの質量の物質の重心がaの加速度で運動しているのでfという力が働いていると結論することはプリンキピア・マテマティカの論理では導き出せません。  古典力学の公理、作用・反作用の法則とf=maという力の法則、方程式が必要です。  その学問体系に固有の前提が論理に加わることにより自然科学系の学問の理論は成り立ちます。  数学における重要な概念に数があります。  現代数学では数も元からあるものではなく構成するものです。  集合論に位相論(位相構造)を埋め込み、集合の元である“数”同士を四則演算できるように群、環、体などの理論を入れる事で数を構成します。  論理学を具体的に使う例として同一性の規定を論理学で行ってみます。  述語論理において「ソクラテスは哲学者である」「パリは都市である」「勇気は徳である」などの「である」を「=」という記号で表します。  そして「=」を「等号の記号」と名付け「等号の導入の規則」と「等号の除去の規則」を導入するすれば論理学を拡張できます。  たとえば(a=b)と(b=c)という前提から、b=cを導き出せる論理体系を作ることが出来ます。  これは代数学においては遷移律、熱力学においては温度を規定する0番原理として同じ表現形式を見たことがあるかもしれません。  論理における三段論法の特殊形でもあります。  現代数学の視野ではこれはもともとそうであるものを記述しているのではなく、作っているという事です。  現代数学の考え方として元々あるものなどありません。  現代哲学の素材は人間が作ったもので出来ています。  現代哲学も同じ考え方を取り入れています。  現代では学問とは作るものです。  作り方は論理と公理を作るだけです。  あとはその論理と公理に基づいて自動的に学問が生成されます。  我々はその論理と公理に基づき演繹してその学問分野を研究します。  演繹の作業は自動化できるので機械や電子機器が行ってもいいかもしれません。  これが計算機科学になります。 12-4 形式主義  適当な論理と適当な前提である公理を組み合わせれば、統語論により記号列の生成が可能でそれは意味論を考える必要はありません。  意味が分からなくても公理主義により適当な理論・体型を生成すればルールに基づいた記号列を自動的に作り出す事が出来ます。  それに意味や内容を持たせるか持たせないか、あるいは持たせられるか持たせられないかは意志と能力だけの問題です。 公理主義の持つこの重要な側面を形式主義と言います。 ラッセル、ホワイトヘッドの「principia mathematica」の論理と適当な公理を組み合わせる事で全ての数学を記述可能にする事を目指したのをヒルベルト・プログラムと言います。 ゲーデルの不完全性定理によりそれが不可能な場合がある事が証明されましたが、論理や公理を適当に設定すれば学問分野によって無矛盾性、不完全性を担保する事は可能です。 形式化できるという事は誰にでもできるという事で操作的な手順を定めて時間と労力をかければいつかはその体系で到達可能な結論に演繹的に行き着く事を意味します。 導出規則は言い換えれば演算、計算の規則という事でその組み合わせだけで網羅的な知的な探索が可能になります。 ここから計算機科学に繋がります。 これは電子式計算機のハードの技術的発展と共に現在の情報科学や情報技術(IT)による蒸気機関の発明、すなわち機械による産業革命以来の電子工学による産業革命を支えています。 統語論は形式主義として証明論などにつながりますがそれ自体に意味付けを行うかどうっか、意味付けを行うならどのような意味を与えて解釈するについては各人により理解が異なる可能性があります。 意味論は対象の人間にとっての意味や内容について考える学問です。 モデル理論では記号を象徴として人間にとっての思考対象、想像や現実を生成させる仕組みを考えます。 例えばある種の数学モデル、連立微分方程式などがバネや振り子を含む力学系を表せると同時にコイルやインダクタンスを含む電気回路のモデルでも同時に在り得ることがあります。 またある群が5次方程式のガロア群が同時に正十七面体の交換群としても解釈でき、形式を理解する事は現実に対するパターン認識のような逆の見方も出来ます。 12-5 現代の科学・技術と社会の基盤  歴史学では時代区分の付け方は学問の進歩と共に常に書き換わります。  何らかの大きな政治的事件を区切りにしたり、社会通念の変化を区分にしたりします。  科学や学問における近代と現代には大きな断絶があり、この章で述べた、論理、功利主義、形式主義が成立した事が近代と現代の分け目になります。  一方で社会的な歴史区分の変化は現代哲学が西洋近代哲学を終焉させた事であり、現代哲学が各方面に浸透する程歴史的「現代」が成立するのですが、その浸透は現在でも十分ではありません。  現代哲学の3つの柱である、素朴実在論、構造主義的哲学、ポスト構造主義を理解することが必須ですが、論理主義、公理主義、形式主義の理解がないと現代の自然・人文・社会科学は理解できませんし、技術も政治、経済、社会の理解もできません。  論理・公理・形式主義を理解しないで現代社会を理解していると思っている人は混乱しているだけです。  論理・公理・形式主義に基づくものと基づかないものをいかに自覚的に区別できるかが現代哲学を基本として生きる人、現代人であるかどうかの境目です。  誤解を避けるために加えると、現代人であっても何らかの論理や公理に従って考えたり発言したり行動したりする必要はありません。  非論理主義的、非公理主義的に活動しても良いです。  誰であれ素朴に日常生活を送る場合、職業的、個人的な嗜好、あるいはその他の理由で故意に論理や公理的でないことで人の情動を動かしたり意欲を変化させたりする場合には論理や公理性を無視するのが良い場合が多々あります。  ただし現代人にとって大切なのは論理的、公理的、形式的の是非について自覚的であることです。  それを自覚している、自覚していない、あるいは何かよく分からず頭が混乱している、意識が明確でない事をメタ認知する事が重要です。 第13章 個人主義から集団へ:コミュニケーションの確実性、情報、通信 13-0 現代哲学と個人主義の哲学、集団主義の哲学 現代哲学は個人主義の哲学です。  現代哲学の3本の柱である素朴実在論、構造主義的哲学、ポスト構造主義、そして公理主義(論理主義も含む)を理解すればそれで学習終了でも現代哲学を十分にマスターしていると言えるでしょう。  それを参考に自分の思考、発言、行動、生き方の参考にすれば十分リターンが得られます。  仏教流にいえば修行の功徳で、現代哲学と同じ内容を理解した釈迦は悟った時最理解したこと自体、自分の疑問に回答が与えられたこと自体に満足して最初にはそのまま死んでしまおうとしました。  しかしその後考え直して世の中に布教するため生きていくことを選びましたが現代哲学をマスターした後どうするかは釈迦の様に個人の自由です。  もし世俗、他の人間と関わって生きていくことにした場合に他者との間で情報伝達が生じます。  正確な情報伝達は困難かもしれませんが、現代哲学をマスターしたもの同士であれば情報伝達の確実性について保証できる場合があります。  そうでない場合も含めて人間の意思伝達やコミュニケーションの確実性についてこの章では解説します。 13-1 哲学が目指す確実性の一つ:コミュニケーションの確実性  西洋近代哲学の目的は確実性を求める事です。  言葉を変えて正しいものは何かと言い換えても良いでしょう。  現代哲学はそれに一つの回答を与えます。  現代哲学は哲学の存在と認識についての確実性についての答えです。  しかしここからさらに発展させて他の事についての確実性について応用することが出来ます。  その中で重要なものが意思伝達、コミュニケーションです。  哲学は思考を扱うものであり感情や意志は思考から外れるためその確実性を扱う事は出来ません。  しかし認識や思考についての意思伝達の感情や意志を除いた部分について正確に意思伝達できる可能性があります。   13-2 情報の時代  我々が投げ入れられいつのまにかそこに存在させられていると感じる世界は何が正しいか、何が確実か分かりません。  一般的に考えて我々は自分が与えたもの、選んだものよりも、いつのまにか与えられたもの、与えられているものについて正しさ、確実さを示す場合には難易度が上がります。  人は自分が知っていることを語る場合には神になれます。  しかし人に何かを質問された場合、それに答えられるかどうかは質問の内容次第です。  現代哲学は全てのものの確実性を対象として考えますが、論理的、公理的、形式的なことについては正確で確実なことを言える場合があります。  特に論理、公理、形式のルールを自分で作った場合には確実な事が言える可能性が高まります。  何が確実化について自分で定義しているからです。  自分で問題を作ってそれに対する回答を決めた場合にはその問題について確実に正解することが出来ます。  他人が作った問題を他人が作った自分に教えられていない規則に基づいて解答しなければいけない場合には普通は正解できません。  何か確実なものを作る場合には自分の思考方法と思考内容に対してルールを作る必要があります。  特に発展性がある思考をしたい場合には規則が論理的、公理的、形式主義的に作られることになります。  それでも無矛盾性や完全性をきちんと担保できない時があるかもしれませんし、そもそも論理主義も公理主義も形式主義も何も考慮していなければ、イエスでもありノーでもあるような結論が出てきたりイエスでもノーでもない結論がゴロゴロ出てきても不思議ではありません。  我々は良く分からない世界に自分で作ったもの自分で作っていないものも合わせて生活、厳しく言えばサバイバルしています。  世俗に生きる場合そうした中で生活する、サバイバルするキーになるのは思考方法と思考内容、情報処理と情報になります。  その場合我々の頼りになる、武器や道具になる便利なアイテムは論理、公理、形式主義ですがこれを突き詰めていくと情報科学と情報技術の基礎になります。  情報科学、情報技術は確実性、不確実性両方扱いますが、我々が混沌、カオス、ランダムな世界の中で頼りにしたい規範、ルール、法と言えるものが現代哲学、現代数学の論理主義、公理主義、形式主義を基礎とする科学、技術になります。  現代哲学、現代数学の論理主義、公理主義、形式主義は端的にいうと情報科学の一分野と見ることが出来ます。  記号で表せるものは情報と言えるからです。  記号はそれ自体がルールです。  ルールとは共通認識です。  時間を超えた自分自身の共通認識、あるいは時間も場所も異なる他人に対して共通に認識されるものです。  記号列は情報の保存を可能にしかつそれの変形ルール、論理や公理体系の演算ルールを導入すれば自分にとって確実な世界を作ることが出来ます。  自分にとって確実な世界をルール、規約やプロトコールを他者と共有する可能性が生まれます。  記号数が有限であれば記号の数を最小2つに減らしてコード付けすればデジタル化可能で、デジタル化できると機械や電子式の演算装置を物理的に作成することが出来ます。  演算は演繹と計算という事で論理式や数値計算などのルールに基づく処理です。   13-3 通信  自分は他者と精神の何もかも共有することはできないかもしれませんが、共有できるものもあります。  確実に他者と何かを共有するためには確実なものとは何かについての定義やルールを作る必要があります。  確実なものはないかもしれませんが作ることはきちんと操作的な手続きを作ってそれに従う事で可能です。  この造られた限定的な確実性がコミュニケーションの確実な基礎になります。  発信者と受信者の両者が共通の約束事を理解して、記号列を送受信する具体的な方法があれば確実な通信が可能になります。  通信を媒介するものをメディアと言います。  通信の確実性とは通信規約とメディアのハード、ソフト両面の確実性になります。  アナログのメディアは間違いが生じやすいので通信においてより確実なメディアはデジタルな方法になります。  通信自体の確実性と通信する内容である情報の発信者、受信者双方の処理方法が確実に構築されないと通信により発信者の情報と同じものが受信者に伝わりません。  情報共有の確実性、通信の確実性が保証されるに発し手と受け手の共通のリテラシー、メディアが確実に構築されていることが必要になります。 13-4 個人主義とコミュニケーション  現代哲学は徹底した個人主義です。  現代哲学をマスターし自分の信条としている人が2人いたとしても何の意味もありません。  現代哲学自体は世俗に全く関係がありません。  現代哲学自身に他人とか他者とかいう概念がありません。  コミュニケーションをとるとか何かを共有する、共有しないという考え方もありません。  現代哲学がテーマにするのは存在と認識の存在の確実性のみだからです。  他方で現代哲学は思考やイデオロギーとかかわりを持たせることが出来ます。  現代哲学の使用をベースにメタ認知とメタ自由主義の中で色々な考え方(イデオロギー)を選択できます。  色々なイデオロギーの中には世俗や他者とのコミュニケーションや交流の仕方についての考え方や行動の仕方に関わるものが多くあります。  我々が世俗で生きるとき、他者や外部との接触や交流が生じ得ます。  現実的に我々は他人とコミュニケーションが生じます。  情報として確実に通信できるのは記号だけです。  記号が伝える内容で自然言語の様なものは確実性がありませんが、論理主義、公理主義、形式主義に基づいたものは確実に伝えることが出来ます。  情報は形式主義な記号として伝えることが出来ますが、意味論的なもの、発信者が記号が表すと考えている意味や内容を、受信者が記号から再構成できるとは言える根拠がありません。  ですが繰り返しつつ協調すると記号列が伝える内容が論理、公理、形式主義的なものであればそれは正確に伝えることが出来ます。  ですから人は他人と考え方を確実に共有できる部分があります。  これは人間の持つ可能性です。  この可能性を持つために現代哲学、および論理、公理、形式主義を理解している事が望ましいと言えます。  何事も可能性がないより可能性がある方がいいからです。  選択肢がなければなされるがままに成るだけですが、選択肢があれば自分の意志と主体性で自覚して選び取ること、あるいは選ばないことを自由に選択できます。  自覚し、選択肢を多く持ち、自由であること、これが現代哲学の特徴です。  情報伝達、通信の確実性の可能性や限界を知っておくことは他者とのコミュニケーションに役に立ちます。  確実な情報伝達が可能であることが分かる反面、現実的には我々の生活は殆どが他者と確実なコミュニケーションを取ることが出来ないことが分かるでしょう。  記号列は自然言語では論理的、公理的、形式主義的な部分と非論理的、非公理的、非形式主義的な部分が入り混じる場合があります。  その様な場合には入り混じり方から確実な部分や確実でない部分を分析できるでしょう。  “何となく”や“分かったつもり”や“他人と共感している”という感覚は精神衛生上大切です。  一部の精神疾患ではそういう感覚がなくなり、失快楽症や孤独、離人症や現実感喪失症状を呈します。  これらの症状は生きる意志を毀損する場合があります。 完全な確実性は不可能ながらも記号列を通信に使う事で記号だけは確実に伝わっていることも冷静にポジティブな見方を含めて客観的に考えられた方がいいですし、その要素がコミュニケーションにあることは、コミュニケーションによって多くの、また大きな伝わった感や一致した感を与えてくれる一因でもあります。  確実性の追求を扱うだけの狭い分野である現代哲学を含みつつより広い分野を扱う現代思想で、例えばウィットゲンシュタインの後期の言語ゲーム、家族的類似の概念(あるいは初期の『語り得ぬもの』についての論考)など広く研究されています。 コラム14-4 ラカンの世界の3つの見方、象徴界、想像界、現実界  ボロメオの環、日本では三輪違いの紋などと言われるラカンのモデルがあります。  人間の内界あるいは外界認知を3つの領域に分類しその重なりや重なりの不具合により精神を解釈する見方です。  人間の認識機能を象徴界、想像界、現実界とし、3つの環でそれを示します。  この図形は普通の平面上の硬質な環では作ることが不可能です。  ですからこの図の示すところの一つの意味は本来は象徴界と想像界と現実界は無関係という事です。  この現実には作成不可能な図形は象徴界、想像界、現実界が重なることは不可能である事とを示しています。 一方で実際には不可能な密互いの紋を示すことで人間の能力はそれを重ねて同一性形成を行うことを行えることも示します。  普通我々はその重なりが可能であると思い同一性の形成を行います。 それが素朴実在論の基になります。  しかしそれが不可能であるという見方も同時にしろ、というのが現代哲学の考え方です。  象徴界は記号であり言葉の世界です。  想像界は人間の精神的表象と自覚される世界です。  現実界は人間の認識を超えて確かに実在すると感じられる世界です。  象徴界、つまり記号や言語を重視するのが現代の特徴です。  現代が記号論を重視するのはそれしか確実に伝わるものがないからです。  記号は時間、空間、他者、自分を問わず同一です。  しかし記号や言語からイメージを構成する際には同一ではありません(厳密には同一性の保証はありません。  現実界も同じで、記号や言語から同一な現実を構成することはできません。  しかしそれが出来る、と思うのも人間の能力です。  この3つが正確に再現できると考えるのが素朴実在論です。  近代までは記号や言葉は哲学的に本質的な意味を持つと考えられず、ただの手段と思われていたので想像界と現実界の一致が哲学の重要なテーマでした。  これらが一致する保証はないと明確に言い切ったのが現代哲学です。  そして一致しない場合の例も示します。  その様な例は近代までは正面から受け取られてこなかった亜流の他者、例えば精神病者の研究を正面から行う事で得られました。統合失調症の精神病理の研究では初期から統合失調症の病理を連合心理学の連想の障害と考えました。  そう考えると象徴界や想像界や現実界を重ねる、すなわち結びつけることが出来なくなることがあり得ます。  観念連合や連想が出来ないことは異常である、と素朴実在論の立場であればみなすかもしれませんが、寧ろ出来る方が異常である、あるいは作為的・人為的である、という見方も出来ます。  ある意味では近代哲学までは精神の正常の研究ばかりして、正常でない状態の研究を正面からしてこなかったためその様な見方が出来ないでいたと考えられます。  記号が認識されるときに意味を生じます。  しかしこれも必然ではありません。  記号が示すものの同一性はもちろん、意味を構成できない時もあります。  というか正確に再現性を持って再構成できると考える方が根拠のない錯覚、幻想です。  現実が記号、言葉で言い表せるのか、あるいは言葉で正確な現実が伝わるのかは現代のみならず近代以前から怪しげでしたがやはり怪しいものです。  しかしこの一致しないはずのものが一致したように考えられるのが人間の能力です。  公正に言えば、象徴界、想像界、現実界の重なりが何かの同一性を生み出すことはありません。  少なくとも保証がありません。  しかし人間の精神能力はこの重なり部分に同一性を形成できる、形成したという独自の感覚を得ることが出来ることが人間の精神能力です。  この重なりに同一性を形成し、意義を見出せる、ということは実際には当たり前ではありません。  知能障害などの発達障害などで先天的に、精神病や意識障害、認知症などで後天的に、あるいは事故などの高次機能障害で発達的過程で習得できなかったり、身につけても喪失してしまう事もあります。  象徴界、想像界、現実界が重なるのが自明ではない、という事を示したのが現代哲学であり、現実にはあり得ないボロメオの環の示すものであると同時に、それを重ねるという現実では不可能なことが可能であることをも示しているのがこの象徴図形の意味です。 第14章 イデオロギーの使い方 14-0  本章が第2篇の最後の章になります。 現代哲学をマスターした上でどの様に様々なイデオロギーと付き合い、使いこなすのかについて解説します。  現代哲学では自覚、メタ認知、選択、自由を重視します。  それぞれとレベルのちゅせいの仕方やイデオロギー選択に当たる色々な実使用上のトピックを解説します。 13-1 自覚、メタ認知、選択肢、自由度のレベル。  自覚の軽重、メタ認知の深さ、選択肢の数、自由主義の幅などを調整して世俗の生活を行います。  自覚がなければ現代哲学についての認識がなくメタ認知がなく選択や自由について感じる事もないでしょう。  それは悪い事ではなく、頭を休ませる時に良いでしょう。  自覚を高めれば高めるほど脳が活発になりメタ認知度や意識野の広さ、敏感さなども上がり、多くの選択肢を視野に入れ、選択の組み合わせを注意深く考えるようになるでしょう。  メタ認知は常に意識が戻るべき現代哲学の次元で冷静、客観的に自由度や選択肢を考えるのに働かせます。  実際のイデオロギーに基づいて試行している時には同時並行でメタ認知を働かせておく必要は如何せん作業記憶にも容量があり脳を科活性化させないためにも常時の活動は必要ありません。  しかしメタ認知を継続して働かせないといけない場合や、脳を休ませるために停止するといった管理と制御した方がいいです。  選択肢の数は一つは教養水準によります。  どれだけ色々なイデオロギーをもっているか、情報や情報処理の方法、思考方法や知識を持っているかは座学や実践体験を含めた学習量によります。  この教科書ではそのためにliberal artsを持つ事、liberal artsを持つためにphilosophyをもうことを勧めています。  選択肢の増加による選択の自由度の拡大は組み合わせの通り数の増加ですので足し算ではなく、指数や階乗の増え方をします。  1を知れば+1自由が増えるのではなく、n個目の新しい選択肢を得るという事は2のn-1条が2のn上に増える事、(n-1)!がn!になるを意味します。  最初は1を知って1を知るような増加率ですが、勉強するにつれて1を知って10を知る、1を知って100を知る、1を知って1000を知るような増え方が潜在的に可能です。  自由は選択肢の多さとともに組み合わせる技能、自覚やメタ認知による意識野をどこまで広くとるか、すでに選択しているイデオロギーにより選択肢が規制されるために自由度が狭まることなどが制限要因になります。  現代哲学のメタ自由主義は世俗のイデオロギーの自由主義とは違う意味ですが同じように自由度に制限があります。  選択肢の多さや既に選んでいる選択肢を前提とする事におる制限の他に自由度の高さ、自遊空間の大きさは能力、持続力、技術力、注意力、耐久力、集中力、回復力などにより制限されます。  近代的主体、人権の人の理想は思考し判断し決断し行動し結果を正視、直視出来る主体性ですが、現代哲学ではそのような人のあり方を理想として引き継ぎつつ、技能や本人のやる気やエネルギーなどの即物的な条件に精神が制約されます。 14-2 どのように何を選択するか  我々が学習するイデオロギーは我々の考え方、話す内容、行動の仕方を我々に示すものがあります。  この様なイデオロギーを自分のイデオロギーとして選択した場合には自分以外の外部や他者に影響を与えます。  運動や行為、言葉によって環境や他人に影響を与え変化を与えながら生きていきます。  現実と関わるイデオロギーです。  一方他者や環境に影響を与えない自分だけのイデオロギーもあります。  多細胞生物としての人間は筋肉を使わなければ動くことが出来ず外界に影響を与えるすべがありません。  現代哲学それ自体や化学の理論や空想や想像や知的楽しみなどには自分の精神にだけに意味を持ち、筋肉を動かさないので現実に変化をもたらしません。  そもそも「イデオロギーの選択」という積極的な知的作業をするかどうかも考えどころです。  現代哲学やイデオロギーの選択は思考に関わるものです。  人間は思考しなくてもその時の衝動に任せて行動するのも立派な選択肢です。  寧ろリフレッシュやリラックス、余暇やレジャーや休息のためには必要なものです。  またイデオロギーの選択は問題解決や目標の達成、不快や危険の回避や自身の楽しみなど理由がはっきりしている場合がありますが、そのような選択しなければいけないインセンティブや状況にない場合には選択する必要もなく、モチベーションもわかない場合が多いでしょう。  その様な場合にはイデオロギー選択を意識的に行わなくてもよいし、行き当たりばったりや衝動的なイデオロギー選択を結果としてしまっている場合もあり得ます。  その場合は選択するというよりは結果として選んでしまっているという事になるでしょう。  そもそもイデオロギー選択をせずその時の気分で好き勝手に生きるという判断も一つのイデオロギーかもしれません。  現代哲学を理解していても無視するというのも知っているだけで使用しないというのもあり得るあり方です。  そもそも現代哲学を使うという事はまず現代哲学モードをオンにして、現代哲学についてのみ考えたり味わうか、メタイデオロギーである現代哲学以外のイデオロギー、分かり易くサブイデオロギーと呼びますがサブイデオロギーを選択するかのどちらかです。  それらの場合にも、自覚、メタ認知、特に自由主義の自覚と認知をどの程度の強さで行うのか、あるいはオンにするかオフにするか事態もつまみとスイッチで調整可能です。  選ぶという行為を行う際も積極的に行う場合とそうせざるを得ないからなどの消極的な理由で行われる場合が考えられ、後者の場合には環境が限定されている、すなわちいろいろな外部的、内部的な前提や条件がすでにあってそれを踏まえて選択するという状況が想定されます。  まず現代哲学を積極的に利用して特に制約を感じず積極的にサブイデオロギーを選択していく場合を考えてみると、この場合には選択は自由に行われていると感じられ、選択する根拠は好みや勢い、手拍子などでしょう。  実存的に考えてみると人生というものは幸福感、喜び、楽しみ、充実感、うれしさ、快楽、心地よさ、そういったものがあった方がよいと考えれば最大幸福を求める選択肢を探索することになります。  ニーチェのいうポジティブなニヒリズムと同じようなもので、超人思想的でしょう。  選択というのはしばしば苦しさを逃れるために行われ、宗教や信仰の選択がそうである場合があります。  不幸や苦しみという前提条件がありますので、それを逃れる選択を行います。  その結果選択したイデオロギーが現代哲学を否定するものである場合があります。  この場合は現代哲学を否定する、現代哲学と選択したイデオロギーとの間で葛藤する、現代哲学と選択したイデオロギーを同時に信じるなどの対処法があります。  最後の現代哲学とそれを否定するイデオロギーを同時に信じるという選択肢は意外に思われるかもしれませんが人間にはそれができる様です。  地動説や進化論を否定する教義のあるある種の宗教の熱心な信徒で宇宙物理学の学者や生物学者である場合を頻繁に見かけます。  現代哲学とイデオロギーが両立しない場合もそうですが、イデオロギー同士か矛盾している場合でも人間は両方を同時に信じて両立することが出来ます。  これは病的な状態ではなく、正常と言われる状態の人間でも可能です。   14-3 イデオロギイーの併存と矛盾  メタイデオロギーとしての現代哲学を受容した場合、イデオロギー(メタイデオロギーと区別してサブイデオロギーとここでは呼ぶ)の選択はいくつでも自由に組み合わせが可能です。  イデオロギー同士が矛盾して混乱する場合もありますが、矛盾を受け入れる資質が人間にあるので矛盾したサブイデオロギーを複数採用も出来ます。  矛盾を回避したい場合には、論理、公理、形式の章で解説したことを念頭に注意深く選択をすることになります。  イデオロギーの勉強については大抵人間はいつも発展途上ですのでトライ&エラーを繰り返して構わないでしょう。  矛盾を抱いている状態をネガティブに受け取るのも構いませんが、ポジティブに考える選択肢も持っておくと良いでしょう。  社会学でアノミーと言われる状態があります。  自分が信じていたイデオロギーが突然信じられなくなった、あるいは信じていた対象が消えてしまったような状態です。  これは突然襲ってきて心の準備が出来ていない場合もありますし、過去にそのサブイデオロギーに元図板行動を公開して心に傷を負ってしまったりする場合があります。  トラウマというのは厄介な場合があり、感情の問題でもあるので思考だけで解決できるとは限りません。  病理的状態とも見ることが出来、自分や他者に問題を生じさせる、すなわち障害となる可能性があります。  感情と意志は現代哲学の範囲外ですので現代哲学を含めた総力を尽くしてもなかなか精神的改善が順調にいかない場合もあります。  この様に現代哲学自身もサブイデオロギーも選択する際には後でそれによるデメリットが発生する可能性に注意が必要です。  現代哲学と相反するサブイデオロギーを持っている人が現代哲学に理解、納得してしまった場合にどうするのか。  全く問題ない場合もあると思いますが、真面目に神経質に悩んでしまう場合もあると思います。  切り替え上手な人や割り切れる人は便利です。  矛盾を飲み込む器量の大きい図太い人も便利です。  しかし精神的に弱ってしまう場合もあります。  実際には一瞬一瞬その状況に適したサブイデオロギーの組み合わせを見直し選択し直して実践するのが理想的に見えるでしょう。  しかしこれにはかなりのエネルギーが必要そうです。  現代哲学者、現代思想家には自殺者もいますし、精神疾患発症者もいます。  ただ自殺や発症の原因が現代哲学マスターにあるのかどうかは分かりませんが。  現代哲学である仏教の修行の過程で病気になる場合があることが知られています。  禅宗では禅病と言って白隠禅師という仏教芸術でも有名な仏教者が修行中に病んでしまったことが有名です。  逆に現代哲学をマスターすることで精神障害の治療や予防に役立つ場合があります。  有名な例はお釈迦様で(現代哲学を)悟ったお蔭で人生の悩みが氷解しました。 14-4 近代以前の価値との付き合い  現代哲学をマスターして近代以前によりよいと考えられていた価値観についてどのように付き合っていくかは感情や生育環境、授けられた教育との絡みで複雑です。 例えば論理的に健全であったり、妥当性があったり、正しく確実に、性格であったり、恒真的であったり、整合的であったり、無矛盾的であったり、完全であったり、実効性があったり、独立性を理解して無駄がなかったりすることは何となく良い事のように思われます。  また現代哲学をマスターしたもの同士が現代哲学を使って共通のプロトコールを使ってコミュニケーションすればある部分で確実性を担保したコミュニケーションが保証されます。  しかし現代哲学をマスターし、現代哲学(あるいは現代数学、論理学)が担保する確実性を手に入れられるとしても、それを達成し続けるのは難しい場合も多いでしょう。  現代哲学をマスターしかつできれば論理、公理、形式主義を理解すればそれで現代哲学の学習はおしまいですが、特に後者の論理、公理、形式主義を完全に理解する事は出来ません。  現代数学は基礎論でさえも発展途上で学ぶべき完全形と言ったものはありません。  研究者になれば理解の最先端に立てるかもしれませんが、完全になることはできません。  また現代哲学を理解してもサブイデオロギーをたくさん知っていなければ現代哲学の力を生かしきれません。  現代哲学を活かしたいと思うのであれば、教養が豊富であるべきですし、今現在の教養に満足せずより高い教養を身につけ続けるのがよいです。  これは我々の知性を高めますがそんなに高い知性が自分の生活に必要なのか、あるいは脳を使う、疲労を伴う事もある作業をすることが必要なのかも注意点です。  人間の時間労力は有限、希少ですし、不注意にせよ錯誤にせよ人間は無謬ではありません。 14-4 現代哲学の不確実性と不確実なものの意図的使用 :レートリケー、ソフィスト、詭弁、詐術、プロパガンダなど  逆説的ですが哲学が確実なものの探求とするならば、同時に裏側から不確実とは何かを考えることにも意味があります。  現代哲学は人間の思考の中のそのうちのごく一部を詳しく研究しているだけのものにすぎません。  この教科書は存在と認識と情報伝達の確実性についてのみ議論しています。  一方現実社会には確実でないものに満ちています。  工学、システム工学、情報科学、認知科学、誤差や確立統計研究、セキュリティーの科学技術、バグの研究、意味論、文学や芸術、手品や記述、何にせよこの教科書ではとても取り扱えません。  この教科書では最後に意図的に他人の精神を操作する技術について眺めていきます。  社会や人と関わる際には、特に現在のメディア論、社会論、社会論、政治論を考えるには現代哲学では太刀打ちできません。  この教科書では世俗とのかかわり方については現代哲学をマスターしてそれを用いつつ共通のプロトコールで意思伝達する場合のみを扱っています。  実際には我々は現代哲学をマスターしている人と現代哲学をマスターしていない人とのコミュニケーション、現代哲学をマスターしていてもプロトコールが共通していない場合のコミュニケーション、そして現代哲学をマスターしていない人とプロトコールも一致しない中でのコミュニケーションを考えていかなければいけません。  大前提として現代哲学をマスターしている人はプロトコールが明確な受信情報以外は信じません。  信じると言っても意味内容というものではなく記号と形式を受信したのを確認するのみです。  現代哲学は世界をシミュレーション、シミュラークルとして見ます。  現代哲学のマスターは結果としてほとんど何も信じていませんが、意識的な態度としてそうあるだけで実際にはすでに何かを信じてしまっていますし、本当に無意識から何から何も信じていないという状況が可能なのかは疑問です。  第一意識的に何もかも疑ってかかっていたら疲労します。  また発達心理学では新生児、乳幼児期の母性的なものに対する基本的な信頼と安心感が精神の安定に必須と考えられています。  我々が何か行為をなすとき、思考し判断し決断し行動しその結果のけつを取るわけですが、この過程で何かを意識的に信じる決断をしないと実行できない、前に進めないことが多々あります。  そこで現代哲学をマスターしている人は覚悟して自覚して意識して何かを信頼します。  この様なスタンスでいるため現代哲学を原理として生きている人は信頼や信用を重視します。  この様なスタンスは人と話すとき、メディアから情報を得る時、政治、経済、社会を考える時全てに適用されます。  良し悪しは別として懐疑主義を持ちニヒリズムを持つ事を健全で基本的なあり方と考えます。  また現代哲学のマスターは対象を複重層的、複眼的に、同じことですが多角的に多面的に多軸的に多元的に見て考えます。  よいわるいとか真偽、善悪、美醜などという単純というか端的なしません、というかそれをきちんと定義したうえで行いますし、良いことには悪いことをともない、悪い事にもいい面があるとか、物事はトレードオフして機会費用が発生するものだとかこねくり回してみて考えます。  結果として対象を冷静・客観的に見てしまいますし、延々と構築脱構築を時間の許す範囲で繰り返して一つの対象でも眺めます。  結果としてやはり対象をシミュレーション、シミュラークルの観点から見ます。  科学者などの行う議論は論理の形式や通信のプロトコールがかなり一致していてその範囲内では確実性が担保されているように見えますが、やはり現代哲学をマスターしていない限り議論の確実性の質が怪しく見えます。  現代哲学をマスターしている人は通信される情報を非論理、非公理、非形式的とみたり、意図的な詭弁、詐術、プロパガンダ、情報操作としても眺めることになる、というより眺めるべきだと考える傾向が生じます。  詭弁、詐術、プロパガンダ、情報操作というと悪い意味の様に聞こえますが、基本的に何か良い事のため、善意があり、自分以外に益す目的でそれが行われればそれは良いことかもしれません。  しかし悪意を持って、かつ人を害するためにそれが行われた場合にはそれを行った者は行われたものにとって敵、エネミーと言えます。  悪意を持たなくても人を害するだけで敵とみなしてもいいかもしれませんし、悪意をもっているだけで敵とみなしてもいいという意見もあるかもしれません。  時間的将来に害をなすかもしれないと考えればです。  ですから現代哲学の我々にとっての意味というのは確実性の有効活用かつ友好活用です。  それは我々人類の、社会の幸せ、福利厚生のために寄与するようみなに学ばれるべきものです。 おわりに  この教科書は現代哲学を効率的に学ぶための教科書です。  第一篇と第二編からなっておりどちらから読んでも良い様に書かれています。  第一篇では現代哲学がどの様に形成されたかを歴史的に解説するとともに、現代哲学の成立が異なる分野や地域で多発的に、時に独立に時に相互作用しながら成立したことを鑑みて、①倫理学、思想、哲学の観点から、②仏教の観点から、③現代数学、現代論理学の観点から、④精神医学、精神分析学の観点からの4通りの成立過程を説明しています。  また成立に至る背景を歴史的に解説することで帰納的に現代哲学の原理を理解できるように工夫して書いています。  物事を理解するには帰納的に理解するのを一つの方法とすると他方で演繹的に理解する方法があります。  第2篇では成立の経緯などには触れず、まず現代哲学の原理や構成を説明し、それが実際にどのように使用されているのか、どの様に使用するのかを示すことで実使用論的に理解するように書かれています。  第1篇の4通りの帰納的方法と第2篇の1通りの演繹的方法のどれかからでも現代哲学についての理解の直感が働けばあとはコツコツ勤勉に励むことで現代哲学を身につける事が出来るでしょう。  現代哲学に関わってきた全ての人々、著者の勉強、学習に関わってくれた多くの人々に感謝し、かつこれから現代哲学を勉強するかもしれない人々の幸福を祈りつつ本書の括りとさせて頂きます。                       2020年(令和2年)7月24日17時7分                                奥村 克行  (字数:124,836字)   アノミーとは社会学を作ったオーギュスト・コントやハーバード・スペンサーの次の世代の社会科学者が創った概念で、社会の規範が弛緩・崩壊することなどによる、無規範状態や無規則状態を示す言葉です。 本教科書ではルールや規則、プロトコールや公理主義、論理主義など規範や規則の話を重視してきました。これは整合的、公理的、無矛盾的、完全性があるものを語ることは大切であることもありますが、実は簡単だからです。 誰にでも理解できます。努力をすれば。学習方法が確立しています。直感的に理解する必要はありません。アプローチは色々ありますが、例えば数理系の理論科学、数学や物理学などを基礎、すなわち公理から勉強してみれば、公理が単に観念的なものではなく世の中に密接に結びついて現に社会の中で具体的、目に見える形で使われている、実用的で体験できるものであることが分かるでしょう。 数学の一分野を学ぶためには天才である必要はありません。秀才でいいのです。 直感的、経験的に理解する必要もありません。非経験的、非直感的でもコツコツと勉強をすれば理解できます。よい教科書もたくさん出ていますし、本には金に糸目をつけないようにしましょう。ネットで検索しても構いません。非直感的、非経験的な学問でも上手い例えなどを使って説明してくれています。 ですから数学や物理学など純粋数理科学、自然科学を学ぶことは頭に理系の考え方を身に付けることに役に立ちます。現代では理とは原理でも真理でもなく公理であると書きました。理系というのは原理系でも真理系でもなく公理系です。原理系の頭の人は原理主義者になりやすいでしょう。公理系の頭の人は公理主義者になりやすいかもしれませんが原理主義者にはなりません。現代哲学の勉強が不十分で構造主義の勉強で止まってしまうとただの構造主義者、公理主義者になってしまうことはありますが、ポスト構造主義まで理解が進むと、保険ができます。より情意階層のシステムが完成しているのでいったんそちらに避難できます。この2重構造、2層構造が現代哲学のミソでキモです。理論を理解するだけでなくメタ理論を持っています。フィロソフィーを身に付けるだけでなくメタフィロソフィーを身に付けられます。リベラルアーツを持つだけでなくメタリベラルアーツを持てます。ナラティブに生きるのではなくメタナラティブに生きられます。メタ、メタ、言っているとメタフィジクス、すなわち形而上学の様ですが、現代哲学のポスト構造主義は現代の形而上学といえるでしょう。 現代の形而上学であるメタイデオロギー、ポスト構造主義と現代の啓示科学であるイデオロギー、実在論と構造主義に立脚した思想群を階層構造で理解すること、現代哲学の理解するという事はこれだけです。 さてメタイデオロギーもイデオロギーもどちらもなくなってしまった状態、これをメタアノミーと、アノミーと名付けましょう。 本章ではその状態を考察します。 12-1 メタアノミーとアノミーのもたらすもの  アノミーという言葉は19世紀にはすでにありました。メタアノミーという言葉はありませんでした。本教科書での造語です。   12-2 アノミーについて アノミーはイデオロギーを持たない状態です。普通に育つと意識せずとも、曖昧で、協会不明瞭で、変わりやすく、矛盾やパラドクスを持っているような状態であっても何らかの、個人的、集団的イデオロギーを人間は持っているでしょう。  自分が持っているイデオロギーを自覚せず、無意識に持っている場合です。  アノミー状態が観察しやすい状況は自分が自覚的に信じていたイデオロギーが忽然と消えてしまったような場合です。  革命のときなどで、明治維新や第二次世界大戦後に日本史では観察されました。  ただし人間が自分の持っているイデオロギーをすべていっぺんに総入れ替えするようなことは思考実験以外ではありえないので部分的なアノミー状態しか現実にはあり得ないでしょう。  別の例えでいうとキリスト教徒の前に神様と思っていた存在が降臨して「自分は実は神様ではなかった」と告白されてそれを信じるような場合であり、あるいはキリスト教徒がそういうエピソードがなくても無神論に転向するようなときです。それに代わる別のイデオロギーを奉ずればそれは単に転向ですが、変わるイデオロギーがなく転向する場合、一度にいろいろなイデオロギーが喪失した状態になってしまいます。  純文学は最近ははやりませんが純文学の王様ドストエフスキーが好きな人ならよくモチーフとしてアノミーの問題が出てくるのを読んだことがあるかもしれません。  絶対神、絶対真、絶対者が消えてしまうというのはなかなか独特な状態で、良い場合には開放、自立、自律、主体性、自覚、覚悟、自由、個人の確立などに役立つ場合があるでしょう。それも一種の別のイデオロギーの確立といえるでしょう。  一方人間は何か救いや従いたいもの、無条件で信じられるものを求めたい心境になる時がありますので、代替する既存のイデオロギーでそれを置き換えようとすることがあります。明治維新の時には旧幕臣がクリスチャンになることが多かったのは有名です。   12-3 メタアノミーについて  メタアノミーはメタイデオロギーがない状態です。  本書は現代哲学の教科書ですのでメタイデオロギーはポスト構造主義です。 ですからポスト構造主義をマスターしている人、していない人で人間の精神を分類します。 現代哲学をマスターしている人、使っている人はメタアノミーではない人、現代哲学をマスターしていない、あるいは使っていない人はメタアノミーな人ということになります。  この分け方でいうと殆どの人はメタアノミーの人です。現在は現代哲学が確立しているのでメタアノミーでない人も増えていると思われますが、それより前はメタアノミーではない人は仏教の悟った人以外はメタアノミーでない人はいなかったのではないでしょうか。  現代哲学はメタアノミーな人をメタアノミーでない人にするための思想です。  メタアノミーであることは何が問題なのでしょう。  前節でアノミーについて説明したので4通りのパターンを考えてみましょう。 ③ メタアノミーであってアノミーな人。 ④ メタアノミーであってアノミーではない人 ⑤ メタアノミーではなくてアノミーな人 ⑥ メタアノミーではなくてアノミーではない人。 12-4 メタアノミーであってアノミーな場合。  まず①について考えましょう。現代哲学をマスターしておらず、イデオロギーを持っていない人で、これは今まで信じていた家おろぎーが忽然と消えてしまったときに人が陥る状態が好例になります。  全勝で上げた例の他に明治的啓蒙主義について考えてみましょう。これは山本七平氏が氏のいろいろな著作の中で研究しておられます。 幕末から明治にかけては福沢諭吉をはじめ偉大な啓蒙思想家が輩出しました。封建制や伝統思想を否定し、西洋思想や化学、技術の導入を図ったわけです。  ここである問題が生じました。明治維新までの伝統教育を受けて人格、思想形成を済んでいた世代とその後の明治維新以前に人格形成を済ませないまま啓蒙思想が教育された世代です。これは第二次世界大戦敗戦時もそうで、昭和5年以前、つまり戦前の日本の教育を受けて人格形成をした世代と昭和5年以降に人格形成がなされないまま敗戦を迎え、戦後の社会的風潮や戦後教育を受けた世代とで特徴が異なるようです。  明治的啓蒙主義を見ると、明治維新以前に教育と人格形成が済んでいる人たちは明治維新によりアノミーになっていません。 いわゆる和魂洋才で侍は侍として明治以降も生きて死んでいきました。好例は乃木希典でしょう。明治天皇ご崩御に際して夫婦で殉死しています。その少し後の江戸時代の精神を継承していた世代である夏目漱石や森鴎外はその事件に触発されて「こころ」や「興津弥五右衛門の遺書」を書きました。その後の世代の志賀直哉だと乃木希典の殉死を馬鹿にしています。  庶民も文政老人といって1830年頃までに生まれた世代は昭和期に至るまで江戸時代の生き残り、良くも悪くも骨董品のような特徴を有する世代として有名でした。  福沢諭吉自身も自身は漢学者の息子で幕末明治に至るまで自身の伝統的、儒教的素養を自覚しながら生きていた人です。ですので時に矛盾のように見えることもあり複雑な精神を持っていると論評されることもあります。伝統を継承するにせよ批判するにせよ自身の中にある伝統、教育の自覚は持ち続けていました。  勝海舟や榎本武揚への批判は有名で、日清、日露戦争の時も日本の国難時には主義主張に関係なく国民を励ましました。  日露戦争の将軍はまさに侍出身で良くも悪くも子供時代やまだ生まれていない時代に明治維新を迎えた若い将校には尊敬されていたようです。 侍出身の元老が生きていた時代は明治憲法は機能していましたが、元老がいなくなると機能しなくなり大日本帝国は滅んでしまいました。  さて特に問題なのがこの様な社会の激変時に古いイデオロギーがどう扱われるかです。  自覚して完全に捨て去り、かつ捨て去ったことを自覚できているとしましょう。  人間なかなか一度見についた古い習慣は抜けないもので、意識的に捨て去っても無意識的に作用している場合があります。この無意識的に作用している可能性を自覚できる、あるいは無意識ではなく意識し認識、言語化できるようならば混乱は少ないでしょう。  本当の問題は無意識に作用している可能性の自覚がない場合です。この状態で西洋思想やら合理主義やら古い考え方は迷信であるなどの教育が行われそれが自分のイデオロギーと考えている、しかし実際には同時に無意識のイデオロギーのプログラムが裏で作動している場合です。  これが革命後や既存の社会体制崩壊後の新しい世代で生じやすい現象です。  これは往々にして面白い、興味深い、時に喜悲劇の様な現象を起こすことがあります。  今度は大東亜戦争後を例に出してみましょう。特に日本人と韓国人、北朝鮮人を考えてみます。  戦前戦後で日本人は大きく変わったという考え方がありました。 一方で戦前戦後で見た目や考え方が変わったように見えても本質的な思考の型は内容が変わっただけで、枠組み、構造が変わっていないという議論があります。  例としては日本人では全共闘の思考パターンです。  世代によって多少前後ありますが、20世紀はイデオロギーの時代です。さらに日本は20世紀の第2四半期は戦争の時代でしたので、善悪で国や相手を見る思考を多かれ少なかれ教育されています。戦後はアメリカの占領下になり、また日教組という組織に型にはまった思考を植えられました。戦前は鬼畜米英と反共露助と教育された世代がそのまま戦後はアメリカの艦隊が特攻する日本の飛行機を打ち落とすシーンを映画で見せられ善のアメリカロシアや悪の大日本帝国と育てられました。映画を観て当時の子供は興奮して拍手をしていたそうです。  その結果として思考の型として物事、特に国家やイデオロギーや人を善悪で見る思考が協力に植え付けられました。この善悪二元論で見る構図は現在まで尾を引いています。  韓国と北朝鮮は戦前の大日本帝国の直系の子孫です。特に北朝鮮は一君万民の社会構造からイデオロギーまで大日本帝国そのものです。韓国は第三国として半ば戦勝国のメンタリティーの教育を植え付けられたためイデオロギーが表裏ともに連続してしまい、かえって戦後の日本より戦前の日本を継承することになりました。20世紀の後半まで軍事開発独裁の国であり、現在も休戦というより停戦状態であり、イデオロギーや制度を硬直させなければいけなかった事情もあります。 12-5 メタアノミーであってアノミーではない場合  普通の人は現代哲学マスターではありません。そういう人が主義、主張、思想、哲学、宗教を持っていればこのケースに当てはまります。ですから普通に歴史を振り返れば色々なケースに出会えます。どんなイデオロギーの組み合わせか、どんな人間集団がそれを報じていたか、場所や時期などの状況、環境によって千差万別です。  現代哲学マスターから見ると、現代哲学を知らないことによるメリットとデメリットがある様に見えます。  メリットはイデオロギーの恩恵を盲目的に受けられること。盲信できることはある面幸せです。幸福感や恍惚感を得られるかもしれません。仲間もできるかもしれません。判断に迷うこともないかもしれません。葛藤も反省もしないで済むかもしれません。イデオロギー集団に属することで世俗的利益を得られるかもしれません。特権階級として恩恵を得られるかもしれません。自然に自明に信じている場合と考えて選択して信じている場合があり違いが生じる場合もあるかもしれませんが、あまり問題にしなくてもよいでしょう。他にもメリットが考えられますがこれくらいにします。  デメリットは戒律などの決まりを破ったりすると、精神的、あるいは身体的に苦しむことになることがあります。集団内で排除されるかもしれません。自分が順守している規則を守らず不義な利益を得ている人を見て悔しくなるかもしれません。自分のイデオロギーが間違っていると考えることが難しい場合もあり、何らかの理由でイデオロギーをを変えようとしても場合もあるでしょう。信じたくないのに周りから強制される場合もあります。他にもありますが割愛します。  イデオロギーが非常に強い、またはイデオロギーを絶対化する場合があります。自分であろうと他人であろうと、それを始めると別のイデオロギー保持者に排除的、攻撃に働く場合があります。イデオロギーはある種の言明、平叙文、命題から作られています。するとそれに対する肯定と否定が生じます。正義の発生です。判断することを“義“と言いますが正しい判断であると正義という言葉が生まれます。義だけでも正義を表す場合もありますが判断することの中に正しさを内包させているのでしょう。 返しの不義も発生するでしょう、時に悪も発生します。  イデオロギーが強化されていくとイデオロギーに反するもの、まつろわぬものとなり、順イデオロギー的な存在とは見なされ憎くなるでしょう。正義は善と習合しやすいですし、不義は悪と習合しやすいものです。知的な事や思考的なことを考えなくてもイデオロギーが異なると感情的に合わないこともあるでしょうし、意欲がことなり、意図がぶつかる場合もあるでしょう。摩擦や衝突しやすくなります。 知情意ともにあるイデオロギーに念がこもってくると、そのイデオロギーに賛成したり反対したり、または好きになったり嫌いになったりしてくるかもしれません。 これは現代哲学が普及するまでの一般的な状態でした。アノミー状態は比較的社会や個人の不安定気に訪れ、普通は人々は何らかのイデオロギーを意識、無意識にかかわらず持って安定的に生活しています。革命や個人的な天気の時に部分的あアノミー状態になります。全面的なアノミー、全く何のイデオロギーも持たない状態というのは表面的にはともかく潜在的に機能している集団、個人の機構の中では考えにくいでしょう。 12-6 メタアノミーではなくてアノミーな場合 メタアノミーでない状態というのは現代哲学をマスターしている状態です。メタイデオロギーのポスト構造主義をはじめメタ自由空間やメタ自由主義、主体、自覚、メタ個人主義が基礎に、あるいは上部構造として存在して、イデオロギーの背後か上か下か分かりませんがイデオロギー外のものとして作動している状態です。 その様な高次、あるいは上層の構造があることを思い出して、現代の特徴を思い出してみましょう。イデオロギーというものは現代哲学ではどえかが問う別であるという考え方を認めません。どれかいくつかのイデオロギーが正しいとかいくつかのイデオロギーは間違っているという考え方をしません。どのイデオロギーも家庭や信仰なしには客観的な正当性を外部に主張できるようなイデオロギーはないと考えます。ですからあるイデオロギーを持つ人が自分のイデオロギーが正しく他のイデオロギーが間違っていると主張したり攻撃することに対してその主張の正当性を認めません。あくまでどれも正しさの根拠を持たないという意味で平等に客観的な正しさの根拠を持たないイデオロギーにすぎません。 特殊な人、実際神の存在を見たとか声を聴いたとか、存在感、臨在感を感じたとかいう人が個人的にその神とそれに付随するイデオロギーを信じるのはいいでしょう。しかしそれを他者に再現できないのであればその人の中で正しいだけでやはり客観的に集団で共有できる根拠はありません。 ですから現代哲学マスターはあらゆるイデオロギーに寛容、謙虚、許容的であるとともに、どれか特別なイデオロギーが存在するという主張を無視します。否定するといってもかまいません。ポスト構造主義以外のメタイデオロギーは存在しないというのが現代哲学の持つある意味唯一の人為的な約束事です。パラドックス、ジレンマ、矛盾、詭弁など生じさせないためです。 しかしそういう状態がありうるという事は理解しているのも現代哲学です。具体例として統合失調症が挙げられます。そもそも脳の器質的な疾患としてメタ認知の機能が失調します。「自分が間違っているかもしれない」「おかしなことを言っているかもしれない」というような客観的な思考ができなくなります。現代哲学は異常と正常を区別しません。統合失調症ではなくても、ある種の精神病状態や色々なことでメタ認知が障害されることは精神科疾患にかかわらず広く考えられることです。おそらく脳でこうした機能を司るのは連合野というところで特に前頭葉の連合野でしょう。  メタアノミーではなく、アノミーな状態というのはこういう高次機能を保ちつつ、特定のイデオロギーを持っていない状態です。  簡単な例は「特定のイデオロギーは持たない主義」というあり方があります。これはドゥルーズとガタリのモデルでしょう。その時に応じてイデオロギーを使い分けます。イデオロギーを選択している間の機関にイデオロギーを選択していない期間があり得るのでそれがアノミー状態といえるかもしれません。  あるいは本能のまま、あるいは好き勝手、気ままに生きる、刹那的な生き方を結果的にしてしまっている状態もアノミーといえるでしょうか。意識してやっていたらそれも一つのイデオロギーともいえますが、何も考えないでやっていたらイデオロギーと言いにくそうです。  イデオロギー意識が希薄に生きる、悪く言うと現代的なニーチェの畜群やハイデガーの頽落のような状態もアノミーと言えるのかもしれません。自覚なく周りに流されて生きる状態です。  あるいはやはり現代哲学マスターでも社会の大きな変動や人生の個人的危機では、安定期に選択していたイデオロギーが揺らいで部分的限定的なアノミーが生じるかもしれません。  あるいは不安定な期間でイデオロギーが決められない混乱が続いているときでしょうか。  または独裁者や強力な権力者、あるいは選択の許されない奴隷状態はアノミーになる可能性が考えられます。強力な権力を持っていれば外部の制約を考える必要がなく自分の思うままにふるまえますし、奴隷や拘束、虐待、迫害状態では自分で選びたいイデオロギーがあっても許されず、殉死したり、面従腹背で内の人と外の人を使い分けなければいけません。表では違うイデオロギーを信じているふりをしながら、本心では別のイデオロギーを信じている状態です。  最後はやはり革命や王政復古、啓蒙思想や侵略や占領で体制が変わったときに、新しいイデオロギーを教育、あるいは洗脳され元の自分のイデオロギーが抑圧されて意識されなくなっていますが、実は深層心理でそのイデオロギーが働き続けている場合です。  現代哲学ではメタ認知やメタ主体性、自覚、メタ個人主義を鍛えるので通常の人よりはこうはなりにくいですが、やはりそうなるときはそうなってしまうでしょう。 12-7 メタアノミーではなくてアノミーでない場合。  現代哲学のマスターであってイデオロギーを確立している場合です。主体的、自律的、自覚的によく考えてイデオロギーを選び取った場合が考えられるでしょう。これは例えばプロテスタントやユダヤ人の信仰のようなもので、自分の意志で洗礼を受けたり、信教を選択する通過儀礼を与えられる場合です。カソリックは生まれた時に洗礼を受けてカトリック教徒になれますが、プロテスタントの全てではないかもしれませんが一部の教派はある年齢以上で自分の意志で入信するかどうかを自分の意志で決めるのであり、知らないうちに入信していたという状態は取れないようになっています。ユダヤ人も男所で12歳13歳と年齢が異なりますが、自分でユダヤ教徒になるかどうかを決める儀式があります。ちなみにアインシュタインはこの時一神教に疑念を持っていたため、ユダヤ教に入信して言いません。宗教改革では「人間は行いによってではなく、信仰によって義とされる」という言葉がありますが、ルター派などプロテスタントの派によっては信仰なしにはその教派のイデオロギーが成り立ちません。この場合宗教における信仰は、近代的な合理主義や科学万能主義における仮定や原理のようなものです。原理は一応完成した理論の前提であり、家庭は発展途上の理論の完成した暁には原理や真理となる候補みたいなものでしょうか。  自己のイデオロギーを定めてしまってそれに従って生きる生き方もあれば、何となく意識の薄いイデオロギーを持っていて、通年や常識、当たり前という形で無意識的やぼんやり曖昧に意識しながら生きている場合もあります。現在の自由主義先進国の子供や場合によっては大人がそんな感じでしょうか。  意識的にその状況に応じてイデオロギーをスイッチしていくのは先ほどのドゥルーズとガタリモデルがそうです。  目的を固定してそれを達成するためにイデオロギーを柔軟にというのであればプラグマティズムという思想があり、また自己または他の利を追求するのであれば公理主義となります。サイコパス資質などが生まれつきあると利己的な目標追及でこの切り替えが上手な人がいて社会的に成功者が多いといわれます。  富裕で、自由主義で、個人主義的な現代の先進国ではメタイデオロギーがしっかり自覚されないこともありますが、社会が急速に現代哲学的になっています。また現代哲学的になっている影響で世俗的でも超俗的でも自由主義や個人主義が促進されています。科学技術の進歩も相まって、オープンソースの思想やgoogleの初期の思想はまさに現代哲学を世の中に実現させるための活動の様でした。当時はweb2.0などといわれていましたが、フェイスブックのようなクローズに囲い込む勢力も参入ししのぎを削っているようです。 コミュニケーションが取れている場合でのトラブルが減るでしょう。哲学の最大のテーマは確実性です。第1篇では存在と認識の確実性を大きなテーマとしました。コミュニケーション論ではコミュニケーションの確実性について解説します。 6-5 公理主義とコミュニケーション  公理主義はコミュニケーションを可能にします。裏返してみると公理主義を理解していないとコミュニケーションの保証ができません。  我々は普通自然言語で会話します。例えば日本語で会話します。言語の役割は命令したり、質問したり、感情を伝えたりといろいろありますが論理学は平叙文で形成されます。   真偽をはっきりさせたくて論理的に会話することがあります。その場合が公理主義を用いる機会になります。もっと細かく言うと公理主義化された論理学です。論理学を使うことで我々は合理的に話し合うのに便利です。また会話の内容が論理的であればコミュニケーションの内容もあとから検証できます。また前提をしっかり確認することで、そもそも論理的なきょみにけーしょんが可能かどうかを判断できます。前提が異なればコミュニケーションしないことも可能ですし、前提が異なることを前提に会話すれば、どんなに意見が生じても対立点が出てきても、冷静に対処できます。感情的に話さないための助けになります。別に人は真偽を決定するためだけに会話するわけではありませんので感情的に話すのでもいいのです。その中で感動や発見があるかもしれません。ただ問題解決のため論理的に話し合う必要がある場合には論理学を知っておく必要があります。論理的に話せば話の内容が合理的か検証可能ですし、問題なく真偽についての結論の一致をみることができるかもしれません。  公理の共通のルールに従えば対話で結論に違いが出ることはありません。違いが出ても何を間違ったのか検証することができます。そしてその公理体系の内部で語るべきこと、語るべきでないことがはっきり線引きできます。語るべきことはその公理で命題として生成可能な記号列でこれは真偽を判定できます。公理体系で設定不可能な命題はそもそも真偽がでないので語るべきではありません。 だからある一定の公理を前提にコミュニケーションを行うと話の中に矛盾がなく、その中で正しいか、間違っているかも確認することができます。そしてその公理で語りえることと語りえないことが分かるので公理外のことを話して時間を無駄にすることもありません。  公理を理解している者同士だけが、本当に共通の前提でコミュニケーションでき共通の理解に至ることができます。社会で一般に論理的とか合理的とかいわれていることの最もしっかりした形が公理主義を理解した者同士の会話です。最初に公理の違いを確認すればコミュニケーションしなければいいだけの話です。公理内では真偽は確定するので意見の不一致も理解の高まりと共に解消されます。公理が違うならそれをざっくり認識したうえで、話し合いたければ別のルールを模索すればいいだけの話です。  だから公理が現代社会の基盤なのです。全ての学問は公理化され、公理体系をきちんと明示しています。幾何学の公理・公準、古典力学のアイザック・ニュートンの原理から、電磁気のマクスウェルの方程式、マクロ経済学のIS-LMモデルからマンデルフレミングのモデルの9つの方程式まで、公理体系を決めると全ての話がその上で公理整合的に行えるので本当のコミュニケーションができます。消費税を増税するかどうかも教科書道理にやればいいだけの話です。景気後退時には増税はしない、この一言で片付きます。 これにより人間は初めて他者とのコミュニケーションが可能になります。 言葉を変えると、合理的、論理的な対話が可能になります。 裏を返せば公理主義を知らないと、合理的、論理的に話し合うことができない可能性が高くなります。 13-0 コミュニケーションの確実性  本書は哲学の教科書ですのでコミュニケーションの確実性を追求します。  コミュニケーションの確実性を保証する方法を本章では示します。 13-1 コミュニケーションの方法   13-2 コミュニケーションと言葉 確実性の保証は方法が担保します。これはコミュニケーションに限ったことではなく確実な何かを追求する際には確実な方法が必要になります。例えば科学の確実性は結果ではなく方法によります。計測のミスをしないとか実験を失敗しないという事ではありません。間違いは誰にでもあるのですから、観察も実験も間違っても構いません。観察や計測や実験が上手で誤差が少なければいいという事でもありません。誤差は必然です。間違いも誤差も予定調和させるために最小二乗法や標準偏差、更には確率統計学が創られました。大切なのは観察や実験のプロセスを正確に明示し、再現性がある様に示すことです。間違えなくても誤差のない測定や実験データを取ることができてもその測定方法や実験方法を再現可能な形で正確に伝えられなければ科学とは言えません。前提条件から結果へと至る方法を確立し、それを正確に伝え、その方法が再現可能であることを保証することが科学の精神であるという事です。  一般に人間同士は自然言語でコミュニケーションを行うでしょう。しかし言語以外でもコミュニケーション行います。  確実なコミュニケーションはどのようになされるか、どこまでが可能かについて考えます。 その一つは、何であれ伝えたい内容を持つ側と伝えられる内容を受け取りたい側に共通のルールを作ることがその方法になります。  共通のルールの一つが自然言語ですがそれをもう少し一般化すると象徴的方法を用いているという事になります。 早朝的方法とは具体的にいうと文字であったり話し言葉であったりするでしょう。それをまとめて記号と言います。 あるいは別の面から考えると内容を理解させようとする側と理解する側の両者が理解できる方法が必要になりますが、そのために象徴表現を用いる事が多くあります。象徴表現に対する両者の理解と了解があればコミュニケートできます。 コミュニケーションの道具はアナログなものではなくデジタルなものである必要があります。仮にアナログであってもデジタルで取り出せなくてはいけません。 自然言語ならその文字の数でデジタル化出来ます。 文字数に句読点の様な記号も加えて全てを記号化してコード化できるのが大切です。 コミュニケーションの確実性を保証するものはコミュニケーションに関するルールになります。 コミュニケーションをするという事は通信することになします。文字による視覚的な方法であれ発声と耳により言葉を使う聴覚的方法であれ同じです。通信のプロトコールが必要になります。 暗号解読者として活躍したり原爆開発に活躍していたりしました。 インターネットを使う場合にURLを打ち込んだことがあることがある人は多いでしょう。URLは頭にhttpとかhttpsとかついたりしていると思いますがその略語の”p”はその通信に用いるプロトコールの規格の宣明を行っています。 現在最も発達した汎用化されたプロトコールがhttpだったりhttpsだったりします。プロトコールは発する側と受け取る側の約束ですから両者のコンセンサスがあれば何でもいいのです。 自然言語を用いる場合実はプロトコールがあまりはっきりしていません。学校で国語や英語や古典を学びます。その中には文法や発音や修辞法や論理などが分離して、あるいはごちゃ混ぜにして教えられています。そういうこと一個一個がプロトコールを含んでいますし、文法の事業の様に体系的に行われる場合もあるでしょう。しかし自然言語なのは恣意的なので時代によって変わりますし、意味や表現が変遷しなくなったり生まれたりも足ます。それに文法学といえども発音法と言えども常に発展、変化していきます。 自然言語が確実なコミュニケーション、間違いのない確実なコミュニケーション、発受両者の内容の一致しているかを保証する根拠は実はありません。何となく進化論の様に適者生存して現在の形になっているだけです。正しくて確実なコミュニケーション方法だから現在の形で生き残っているのではなく、生き残っているから正しくて確実なコミュニケーション方法と考えてしまっているに過ぎません。 自然言語を確実なコミュニケーション方法であることを証明するか、それを改良して確実なコミュニケーションにしてしまう方法も考えられます。 近代までの学問や初等教育はそういったスタンスでなされます。 しかし現代的なアプローチ、高等教育、研究機関で確実性を保証しようとする場合、現代 哲学的あるいは現代数学的アプローチは異なります。確実なプロトコール、確実な内容を記述する記号のルールをコミュニケーションの確実性を保証するように構成します。 ですからこの場合、コミュニケーションは現代哲学や現代数学を用いた工学になります。 現代哲学と現代数学の関係は現代哲学が現代数学の基礎科学と考えていいでしょう。 現代思想という言葉は現代哲学の応用、実践と考えれば現代哲学を基礎科学とする工学、つまり応用化学という事になります。 現代思想は現代に行われた現代哲学の影響を受けた思索全般と考えていいでしょう。 13-4 コミュニケーションの確実性を保証するイデオロギー コミュニケーションの確実性保証するように伝達方法を構成するには具体的にはどのようにすればいいでしょうか。いろいろな応用ですので色々な方法が考えられると思います。 1例実例を示すことができれば存在証明にはなりますのでその方法を示しましょう。  コミュニケーションの確実性を担保するには公理主義を用います。公理主義を1篇でしつこく説明したのは一つにはこのコミュニケーション論を説明したかったからでもあります。  基本的には同業者同士は話が通じやすいでしょう。意見の違いがある場合もその違いの原因を理解してはっきり表現する能力を持つ傾向があります。  科学者や学者はなおさらそうでしょう。特に自然科学者はきちんと勉強したかどうかは徒もなくある程度の論理的な表現を例外なく求められる傾向があります。学会内、あるいは学術総会などでは知らない人でも相互の業績や論文、発表について即座に話し合え知り合いになれるでしょう。同じ学問を収めている親近感とか学派の違いなどがあってもです。学術的な意見の違い、学説や仮説のどちらを支持するかなど論争が起こりかつ激しく衝突することもあるでしょうが、科学者としてのフィールドの範囲内です。先入観が強すぎたり時節に固執しすぎたり相手を過剰に攻撃すれば、学会内では学会内の政治的(ポリティカル、政治屋的、ポジションや権力争い)なども生じて世俗的、下劣な品のない劣情を見せてしまう場合もあるかもしれません。その場で指摘されなくても非科学的で世俗的な人は(下に見られますし、情けないですし、恥と思われる場合もあります)。記録のされ方によっては後世にまでそのことが記録や記憶され遺されてしまうので注意が必要です。  それはともかく学問や化学には、簡単のため理数系科学だけをここでは問題にしますが、論理主義、公理主義が必要なことが分かります。論理とは少なくとも命題論理、述語論理を何となく直感的に使いこなせればいい場合が多く、あまり本格的に論理学を勉強し過ぎて本格的な高度な論理を使いすぎると、論理学をあまり勉強していない人の自然な直感的な感覚で理解や納得がされず、かえって話が通じない場合もあります。ですので基礎数学系の学会やそのものずばり論理学の学会以外では何となくの論理学でいいでしょうが、日本の応用科学である医学系の学会しか知りませんが、科学者と言えどもあまり論理を勉強していないこともあるので論理的誤謬を犯している場合はメディアやそこに登場する博士号を持つような評論家の発言を見ても論理的でない場合が多いようです。一般の人に説明するために分かり易くわざと論理性を犠牲にして話している可能性もありますが、初歩的な命題論理の古代からある自然言語に近い形に整えられている基本的なルールすら使いこなせていない場合もあるのでおそらく論理的っぽく話すことはできても論理学は知らないのでしょう。  コミュニケーションの相手が人間である必要はないですので人間がコンピュータに命令をおくる、つまりプログラミングしたりデータを入力する場合を考えてみましょう。  30年前、私が中学生の頃、ベーシックというプログラミング言語を使ってソニーの何とかマックス(マックス何とかかもしれない)でプログラミングをしてゲームを作ったことがありました。ベーシックという言語は先頭の行に順序を示す番号を入力し、英語と似た形の文法を維持して命令や条件付けを行います。  ただコンピュータはその言語をコンピュータに理解できる形に書き直さないといけません。最終的には2進法で記述される記号化すると何でも異なる記号2つであるのですが、0と1を使って記述されるのが慣例でした。私よりもっと前の世代はフロッピーディスクがなく記憶媒体としてカセットテープを使ったり直接紙に穴をあける、あけないという記号化で機械語で直接プログラミングを行っていた様です。マイクロソフト社を創業したビルゲイツ等はそういう世代の人と聞いていました。私は機械語で直接プログラミングはできませんでしたが私の中学や高校の同級生は機械語が分かる人がいたようです。私は分からなかったのでより自然言語に近いベーシックという言語でプログラミングを行っていました。その場合ベーシック言語をハードが分かるように機械語、つまり半導体の電流のオン、オフを命令するための2つの記号による表記に変更しなければいけません。そのためにアセンブルやコンパイル(私は知らなかったがインタープリット)という作業を行います。この作業はソフトウェアで通常行うので、これらの作業を行うようプログラミングされたソフトウェア、ツールあるいはアプリケーションと言ってもいいですが、それらをアセンブラやコンパイラ、インタープリタと言います。これらを翻訳作業と呼びましょう。この翻訳ソフトは一通りではありません。同じプログラミング言語に対して異なるアセンブラで異なる機械語に翻訳されてることもありますが、機械語が違ってもコンピュータは元々のプログラミング言語の命令通りの仕事をしてくれます。ただし機械語が違いますので結果は同じでも異なる電流の流れが集積回路という電線網の中を何回にもわたって流れその経路が異なりますし、流れる回数も違います。プログラミング言語の違い、プログラムの書き方の違い、プログラムの翻訳ソフトの違い、翻訳された機械語の違いがたとえ違っていても最後の結果(例えば計算結果)が一緒にすることはできます。つまり目的を達成する方法は何通りもあります。ただしコンピュータですのでバグがあってはいけません。バグがあっても正しい計算結果が出る場合がありますがそれはたまたまと考えるべきでバグがあれば目的の結果を得られないのが普通です。  何か多様性の話になってしまいましたが実は書きたいのは画一性の話です。 どれか決まったプログラミング言語であるプログラミングを書いて決まった翻訳ソフトを使ってこの翻訳ソフトの特徴による機械語に翻訳されてそれを決まったハードウェアが実行する場合には必ず決まった演算結果が出ます。 上記の過程全てに厳密なルール、約束事を作らなければいけません。 まずプログラミングが翻訳言語の許すルールでなされなければいけません。そのためにプログラミング言語のルール作りが必要です。そしてその言語を翻訳ソフトが処理可能なようなルール作り、規約づくりが必要です。この数段階にわたる過程の間で最初のプログラミング言語が翻訳されていくのですが、ソフトウェアもハードウェアも一回入力がなされると同じインプットの内容ならば必ず同じアウトプットの結果が出ます。一回作られたソフトフェアやハードウェアは固定だからです。一回インプットされたら後の処理は自動ですので難のソフトウェア、ハードウェアを使うか選択すればまずシステム構築の第一段階は終了です。 ソフトウェア、ハードウェアはバグや故障がないように作っておくのは言うまでもありません。その段階で誤りがあると議論が成り立ちません。 あるきまったソフトウェア、ハードウェアは目的達成のために合理的に作られる必要があることは言うまでもありません。 ここまでをまとめると①ソフトウェアにインプット、②ソフトウェアからアウトプット、③②のソフトウェアから出た結果をそのままハードウェアにインプット、④ソフトウェアからアウトプット、という事にまとめられます。 ちなみに機械語しか使わないとこの過程が大幅に省略されます。①’機械に直接機械語でインプット、②’機械から直接機械語でアウトプット、の2つになります。機械語だけの世界ですのでインプットもアウトプットも2つの記号だけでなされます。 昔だと紙とモールス信号のようなパンチの穴の並びになります。あるいは0と1で表現すると0と1の並びになります。0と1の順列ですので2進法ともいえ、それをビルゲイツならビルゲイツの脳が解釈します。すなわち変換します。8ビットくらいがひとまとまりで。2の8乗であればそれを例えばアルファベットに割り当てます。これをアスキーコードといい昔はアスキーという雑誌がありましたが今はあるかは分かりません。つい山本夏彦風の文章になってしまいましたがこれがシンプルな形で機械というかコンピュータとのコミュニケーションになります。現在のコンピュータは半導体を使ってオン、オフをする電子式、その前のエニグマなどのノイマン型コンピュータは真空管を使った電子式というか電流式とでも言いましょうか。オンとオフは別に電気を使わなくてもできます。神の上でもできますし、自動化したければ機会でもいいです。うまく言えませんがパチンコのような、迷路のような、あるいは電車網、道路網のような装置を作ればいいのです。信号や線路の分岐器という線路の方向を分岐点で変えるためのレバーのようなものでも構いません。 この規約のことプロトコールといいます。  第一篇第3部第6章現代数学の所で論理主義や構造主義について説明しました。  もう一度復習します。19世紀にブール代数のブールやアリストテレス以来最大の論理学者と言われた現代論理学の父ゴットロープ・フレーゲが出て論理学が刷新されていきます。 ちなみにアリストテレスの論理学に関する著作はオルガノンとしてまとめられ、ヨーロッパの暗黒時代にはイスラム世界で研究され、中世末期よりヨーロッパに輸入され中世神学に影響を与えています。中世神学末期の人々は徹底した合理主義者が出現し論理的な思考を啓発します。オッカムのカミソリや記号学者ウンベルト・エーコの薔薇の名前という小説・映画で知られる、オッカムのウイリアムやイギリスのフランシス・ベーコン等が知られています。ベーコンはアリストテレスに習いノヴム・オルガヌムを書きました。Novel organ で新しいオルガノンという意味です。Organという言葉は道具とか機関とか器官とかいう意味で使われます。ライプニッツも当時異形の学者でしたが、アリストテレスも師のプラトンと違い、数理系、工学的な観点も持っていたのではないでしょうか。少なくともオルガノンと名付けた人はそうみなしていたのでしょう。アリストテレスは論理学を最も重視しています。質量形相論や可能態、現実態の考え方など非常に現実に即した実用性を重視しています。  数学でも論理学がベースで論理主義の上に形式主義と直感主義の論争が起こりました。 公理主義についてもう一度考えてみましょう。  公理主義は実体の実在の有無を無定義語、無定義概念というものをまず定めて、公理、公準を作り、論証規則により、論理を進めていく考え方です。 その論理は基本的にはフレーゲをパラドックのラッセルのパラドックスの発展以降の研究でアップデートされたバートランド・ラッセルの「Principia Mathematica(数学の原理、数学言論)」という著作上で行われます。ニュートンのこれに「自然科学の」をつけるとニュートンの歴史的な著作名と同じになりラッセルの矜持がうかがえます。  論証規則は整合的なものであれば何でもいいですが中世からの論理学の伝統を継承した自然言語に近いものを考えてみましょう。公理公準は命題の関係を示す、~ではないという否定、~ならばという条件、かつという連言やまたはという宣言などの命題を関係づける、簡単に言うと文(平叙文)をつなぐ接続詞のようなものが使われます。論証の規則はやはり中世からの規則の多くを踏襲し、仮定の規則や肯定肯定式、否定否定式の規則、二重否定の規則、連言や選言の導入や除去規則、背理法の規則など10の規則が使われます。  アリストテレスからの中世に継承された論理学よりはフレーゲのお陰や記号が導入されたおかげでより充実したものになっています。フレーゲ以前の伝統論理学はフレーゲがほぼ確立した述語論理の一部をなしているだけで、フレーゲ以降の論理学はより一般化したものになっています。  このルールでも命題論理なら完全性と無矛盾性が成り立つことはゲーデルをはじめとした数学者、論理学者たちが証明しています。述語論理では集合の制限を付けないと完全性が成り立たないのがゲーデルの不完全性定理です。  ちなみに関係性や規則の数はこんなに要らずもっと少数で単純化できます。もっとも簡単に表した場合を標準系と言い、否定と連言、選言だけで書き換える事ができます。  これは分かりにくいわけではないですが冗長です。直感的でなさすぎたり冗長すぎると使いにくいのでどういう規則や規約を定めるかという問題になります。  先ほどプログラミングの話をしたときにベーシックの話をしましたがもっといろいろな言語があります。自然言語に近く直感的に分かり易いものを高級言語、機械語に近く記号数や規約数が少なすぎて直感的に理解しにくいものを低級言語と言います。昔はメモリー、ハードディスクの容量、CPUの処理スピードのハードのスペックが何もかも低すぎたので、ソフトウェアで、すなわちより低級言語で、洗練されたプログラミングをした方が有利な時代が長くありましたが、現在はハードウェアのスペックが十二分に上がっているので、あまり言語の高級、低級や、プログラミングの違いに拘らなくてもよい時代になっているようです。  そういう論理、つまり論証規則の上に無定義語や、学問分野や対象ごとに公理公準を定めると一つの学問が出来上がります。  例えば古典力学の公理はガリレオの空間、時間は空間と独立に進み観測系によって物理法則が異ならないことを前提に ①慣性の法則 ②作用反作用の法則 ③f=ma で成り立っています。 これに光速度不変等を加えてガリレオの空間と時間の独立を外すと特殊相対性理論が出てきたり一般相対性理論が出てきたりします。一般相対性理論は慣性力と重力は区別の必要がないという公理があったかもしれません。 電磁気学では公理はマクスウェルの4法則になります。 熱力学では基本法則が0番から4番までありその上に構築されます。これに統計力学が加わるとまた別の公理が加わります。 数学ではユークリッド幾何学は完成度が高くあれだけで5公理5公準をそのまま受け入れれば1つの数学の分野の完成です。 ユークリッド幾何学の平行線公準を①平行線は無数にひける、②平行線は一本も引けない、に変えるだけでまた異なる幾何学、非ユークリッド幾何学が2つできます。  代数学では交換率とか結合率が公理になります。  解析学は無限大や無限小を飼いならすための公理系を構築します。初等数学では習わないイプシロンデルタ論法などを最初に説明されるのはそのためです。  確率、統計学などでも1=Σf,0≦f≦1みたいな公理の下に構築されなおしています。  数学や物理学のような純粋利水系科学だけでなく応用科学や経済学のような人文系科学でも理論を厳密に構築する際には公理化を行います。マンキューのマクロ経済学入門という短期、長期の経済を扱う部分では9つの式で理論体系全体の公理化を行っています。  人間がコンピュータや電子計算機に命令する際の確実性を担保する方法を示してきました。まず機械語、すなわち2つの記号のみを使う場合には、その際には人工的な言語を用い、記号の定義をきちんと行い、かつ計算機とのやり取りにおけるルールを曖昧さを一切失くし完全に定めて行います。  機械語よりより高級な言語を使う場合にはプロセスが2つ増えます。①この高級言語を機械語に翻訳する作業、が1つ、②翻訳されて機械語で表現されたものをハードウェアにインプットする作業です。  そのそれぞれに厳密で曖昧さを一切省いた、整合的で完全なルールを設定する必要があります。  人間とコンピュータではなく通信のことを考えてみましょう。おなじみのインターネットを考えてみましょう。メールを送信して相手に読んでもらう場合を考えます。まず自然言語で内容を記述しコンピュータに打ち込みます。コンピュータはこの内容を送信するためのルール、プロトコールが定められており、それに従い、入力内容の情報処理を行い、送信可能な形に翻訳します。この場合も自然言語をインプットするプロセス以外はデジタルに行われます。デジタルに翻訳されたデータをプロトコールに従って送信し、なんか初夏の中継地点を通って相手のコンピュータに届きますが、この過程は全てデジタルかつ自動化されて行われます。相手のコンピュータはプロトコールに従い情報の内容を受診した人間に通じるように、この場合は送信したのと一致する自然言語に戻し、それを受診する人間が読んで終了です。  この間の過程は曖昧さは一切省かれ完全なルール、完全な規約に従って行われます。このすべてのプロセスの中で曖昧なのは受け取った側の人間が届いた自然言語をどう理解、解釈するかです。ここで発信者の意図と違う理解、解釈を行ってしまえばその他がすべて完全でもコミュニケーションが確実に成立したとは言えません。  人間同士が直接自然言語でコミュニケートする場合を考えましょう。この場合は曖昧さが一切なく完全なプロセスが一つも存在しません。  上記は自然言語が曖昧さを含み完全ではないという前提で書かれています。  プログラミング言語や機械語は人工言語なので人為的に曖昧さを排し、完全な形で構築することができます。それは人間が創るからです。  一方自然言語は元々あるものです。曖昧さが一切ないか、完全でないかは証明しなければ保証されません。その様な証明はまだなされていません。また自然言語が曖昧で完全でない実例があります。同じ発音で同じ文字列でも意味が違う場合があります。また同じ文であっても意味が違う場合があります。ここで自然言語が曖昧かどうか説明するのは冗長すぎる気がしますので自明のこととして省かせて頂きます。  自然言語を自然言語のまま使ってコミュニケーションするのは確実性が保証されないので、自然言語を使う際にもルールを徹底的に厳密にして使用する方法があります。通常それが論理的な会話といわれます。こういう厳密さが必要になるのは科学や学問、仕事、政治、経済、社会の話をする場合などです。論理は基本的には知情意のうち知に関する領分で情緒や意志について話す場合には自然言語のままでよいでしょう。情意について扱う場合にも厳密に話し合えるかもしれませんがそれはおそらく現代哲学の得意分野ではありません。現代哲学がコミュニケーションの確立性を保証するという事を本章では扱いますが、情意の分野、言葉を変えると論理主義や公理主義が適用できない分野についてはそれは困難です。現代哲学がコミュニケーションの確実性を保証するのは知的なコミュニケーションについてです。  ではどのようにコミュニケーションの確実性を保証するかというと、公理主義、論理主義のルールを設定し、それを使ってコミュニケートします。これで済みますが、それではよほど訓練されていないと、あるいは訓練されていても現実的には自然言語を排除してコミュニケーションを取ることは難しいでしょう。自然でなく直感的でない場合があるため脳に負荷がかかりすぎます。そこで公理主義、論理主義を我々が自然言語に非常にコミュニケーションをするのが現実的です。そうすると直感的、自然な感覚で理解、納得しがたい局面に差し掛かっても例示などのアナロジーを使ってみたり、表現の仕方を変えることで理解、納得に達することができる可能性が高くなります。  そういう意味で自然言語は大切なものですが、現代数学の数学基礎論や現代論理学では人工言語だけでコミュニケーション、数学や論理を行うという流れもありました。その場合記号とルールをしっかりして人工言語、記号法を使うと形式的、自動的に行う流れが形式主義と呼ばれます。直感主義というのもありますが形式主義を否定するというよりは形式主義の中の論理ルール、背理法の規則や二重否定の規則を排除して論理学を構成するような考え方です。  なぜ直感主義学派ができたかというと、数学の多くの直感的に納得できないような結論は殆どが背理法を用いてなされているからです。それに背理法自体が証明をしたことがあるなら分かるのですが、結論は出せても納得はできない証明方法です。なぜその前提からその結論が出るのかピンときません。論理学ではしばしばその様な問題が起きます。 例えばAならばBとしましょう。Aが正しいならBが正しい、これは妥当で健全な結論です。しかし論理学のルールではAが正しくなければBは正しくても正しくなくてもどちらでもいいという結論が得られます。言い換えると前提が間違っていればどんな結論も正しいというのが砂糖で健全とわれます。これをラッセルは質料含意のパラドクスと言いました。例えばこんなことが起こります。「人間が動物でないならばキュウリは魚である」これは論理学では妥当で健全な言説になります。これは自然で直感的な感覚では妥当で健全とはみなしがたく思われます。妥当とか健全という言葉で論理の成立可能性を表現しているのがそもそもいけないのかもしれないのですが、そういうルールが論理学ではどんなに人間に理解しやすいように設計しても生じる可能性があります。  しかし直感主義論理学だけで全てを進めようとすると人類は数学で成し遂げた人類の偉大な業績の膨大な部分を捨て去らなければいけないことになりこれも非現実的です。ですので20世紀の前半にヒルベルトが率いる形式主義学派とオランダのブロイエルの率いる直感主義学派の論争が起こりました。  直感的で自然という事は情緒的にはいいかもしれませんが、数理や論理の世界では直感的でないこともたくさん起こります。4色旗問題と言ってどんな地図であっても4色あればすべて塗り分けられるという有名な問題があります。これを証明するためにコンピュータを使って、考えられるすべての膨大なパターンを全部調べて証明するという方法がとられました。科学とは方法の精神ですので、方法がきちんと明示できれば正しい前提からの結論は正しいものと決定できます。4色気問題の場合はコンピュータのハードとソフトが曖昧さなく完全に明らかにされていますので方法論は問題ありません。ですが、コンピュータを使って人間では一生かかっても調べられない程の数を調べての証明は直感的ではないので証明とは言えないという声が起こりました。今でもまだ論争があるのかも知りませんが数学者ではないので分かりません。  直感的ではないものを理解するために使われる一つの方法が先に述べた例えや修辞法になります。表現や説明の仕方を変えると理解したり納得できる場合があります。あるいは理解した気に、納得した気になるだけかもしれませんが、人間というのはその気になるのな場合が多くあります。実際には理解していないのに理解して納得した気になる方が大切なのは人間の自信というものと同じです。自信の根拠があるよりは根拠がなくても自信だけある方が幸福な場合も多いでしょう。ダニングクルーガー効果と言ってイグノーベル賞(ノーベル賞ではありませんが、研究としてはしっかりした研究が選ばれます。ただ研究内容が人を笑わせるものが選ばれます)を取った研究では能力が高くなるにつれて自信が低くなっていくという結果が示されました。言い換えると能力が高い人ほど自信がないということです。変な話、頭を良く見せようとすれば実は簡単です。勘違いや詭弁が人生や社会に重要なのは修辞学(レトリック、レートリケー)と詭弁とソフィストが跋扈した古代ギリシアから変わりません。ソフィストだけだと頭がよく見えますがロゴスがないことをソクラテスに批判され、起こってソクラテスを死刑にしてしまいました。人間自分の知っていることだけを語れば神になれます。CPU、メインメモリー、マザーボード、ハードディスクが優秀ならソフトがくそでも頭を良く見させることも可能です。  しかし話してみればわかります。いわゆる脳の構造が分かります。構造の中核をなす現代哲学の理解や論理学の理解はすぐに裸になります。 コミュニケーション論、 ①現代哲学マスター同士 ②現代哲学マスターとノンマスターのコミュニケしょん ① ノンマスター同士のコミュニケーション ② 第5部 現代哲学のadvancedな応用  第4部までで現代哲学の理解と実践のための基礎となる原則、体系を説明しました。  第5部では更に実際に現代哲学を応用したり、現代社会のどこの部分で使われているのかを詳説します。  第5部第10章以降は第1篇と第2篇第4部第9章までで作った骨格を肉付けしていきます。  まず第4部第11章で話した場合の対極について説明します。これは選択できるイデオロギーがない、イデオロギーが選べない、イデオロギーを持っていない、選んだ、時に信じていたイデオロギーが信じられなくなってしまって代わりに選ぶべきものがない場合についても論じます。これをアノミーと呼びます。またニーチェはニヒリズムと呼びました。もし確実なものを信じている、自分は正義に属している、自分のイデオロギーは絶対であるという確信が選べない場合に苦しんだり不安定になる人々がいるというご指摘を受けました。これについて第12章で考えてみます。  これでイデオロギーを使いこなす、作りこなす、解体することを学び、その他方の極である、イデオロギーを選べない状態、アノミーやニヒリズムについて両方学べるわけです。  次に現代哲学のポスト構造主義はメタイデオロギーとして究極の個人主義です。人を殺すのも自由、人類絶滅を図るのも自由、逆に人を救うのも自由、人類救済を図るのも自由です。  しかし現実的に考えて人間は他者と関わっていかなければいけません。理解を求めた話し合いという形でも、自分の意志を通す、あるいは他者の干渉、侵犯を行うという意味の争いでも、あるいは国レベルで争う戦争の場合でもです。  なかなか人や社会と離れて完全に自然と自分だけで生きていくというのは特殊な状況で現実的な状況ではありません。  その際理解を一致させるのを求めるにせよ、争うにせよ、相互理解のためのルールが必要です。意思伝達、コミュニケーションです。完全に自分一人で他者や外界と関わらず生きていく場合にはコミュニケーションは必要ないかもしれませんが現実的ではありません。  ですから現代哲学マスター同士によるコミュニケーション論を第12章で説明しようと思います。現代哲学で大きな恩恵を受ける分野の一つは通信、伝達、コミュニケーションです。哲学は確実性を追求すると第一篇では強調しました。存在と認識の確実性について専ら説明しました。  現代哲学をマスターした場合、更に別の分野の確実性を手に入れることができます。コミュニケーションの確実性です。正しコミュニケーションの中でも知的なコミュニケーションです。  第14章では実践応用用に構造主義を突っ込んで説明します。  主に現代哲学を集大成、完成させたと思われる哲学者ジャック・デリダの概念を説明し、それを実践、社会・日常生活世界にどう応用していくのかを説明します。 第15章では人間はどう生きるか、倫理でいう道徳、カントでいう実践理性について考えてみたいと思います。 14-4 構造主義を使いこなす。  更に②構造主義の実際的な利用法についても本書で言及します。構築、再構築、現前、再現前、差異、差延、構造、構成などの概念はここで詳しく説明し、かつ応用方法を考えてみましょう。  構造主義は独特の難解さがありますが、駆使できると便利です。  便利を通り越して、現代社会は構造主義を土台に成り立っています。実在論だけで世の中も科学も成り立ったのは近代、モダニズムまでです。  厳密、確実な学問なり社会なりの構成には構造主義は必須です。  他方で構造主義を使いこなすことを通して実在論の特徴や長所も学ぶこともできるでしょう。  何度も書きますが、現代哲学、ポストモダンは近代哲学、モダニズムは批判はしますが否定はしません。批判する理由は構造主義の考え方を持っていないので偏っているからです。  現代哲学は実在論と構造主義の両者を取り込んでいます。実在論をより拡張させ、実在論を含んだより一般的な上位互換の哲学が現代哲学です。現代哲学は実在論や近代哲学、モダニズムを含みます。否定しているわけではありません。そもそも特定のイデオロギーを否定するという考え方が現代哲学にないことは説明してきたとおりです。なんでも否定せず取り込み平等に扱うだけです。  実際実在論は重要です。それを否定してしまえば我々が成長、発達の過程で身に付けてきた多くの精神的能力を失うことになるでしょう。  精神医学で見ると分かり易いのですが、実在論が最初から発達しない場合、神経発達の障害として精神や生活に支障をきたす場合があります。後から失われれば、認知機能障害をきたす多くの障害、精神病やうつ病、認知症に関係するでしょう。昔は最初から発達しない場合を白痴、途中から失われるのを痴呆などと言いましたが、例の言葉狩りというか言葉の書き換え、ラベルの張替えで使われなくなりました。差別を含むという理由です。代わりに精神発遅滞などの言葉に還られましたがそれも差別を含むようになったからと変えられてしまいました。商品のモデルチェンジのように、言葉の付けなおしも、社会ではいい面を持つのでしょう。 第14章 構造主義おさらいと実践応用 14-0 イデオロギー分析、応用のための構造主義  メタイデオロギーであるポスト構造主義については第5部で勉強しました。  現代哲学者は例えていえば人形ではなく人形遣いです。イデオロギーを絶対化してそれに盲従するのは人形です。現代哲学者はイデオロギーを絶対化するのではなく相対化します。盲従するのではなく、理解してTPO(time,place,occation)に応じて使い分け感情移入も行いません。イデオロギーを冷静客観的な冷めた目で眺めます。感情移入してもメタ認知は失いません。  イデオロギーを分析、利用するための最大のツールが実在論、構造主義の理解です。実在論は発達の過程で誰もが身に付け、近代哲学、科学技術、モダニズムの土台になっています。ですから自分に中に実在論があることに気付けばいいだけです。  しかし実在論しかない世界の中で実在論以外があると理解するのは難しい場合もあります。基本的に排中律や背理法を否定しない論理学でいえば、実在論であるか、実在論でないかの区別になります。実在論でない場合がどんな場合かどんな場合か具体的に理解しないと、実在論がどんなものかも理解を誤る恐れがあります。  実在論の代わりとして提案され現代社会の基礎として現在位置しているのが構造主義や構造主義的哲学です。  現代的、という言葉を使う場合、ポスト構造主義の理解とともに、構造主義の理解がなければ十分ではありません。ポスト構造主義をマスターするだけで相当に大きなものを得ていますが、構造主義を理解することで更に膨大な知の遺産を利用することができます。  これも繰り返しますが、現代、とは近代の否定ではありません。ポストモダンといわれるものはモダニズムを含みつつ、更に拡大一般化した汎用性の高い思想になっています。  構造主義とポスト構造主義を身に付けることでモダニズムの遺産を継承しつつ更にハイスペックなソフトウェアをインストールすることができるでしょう。  以下ではまず構造主義の説明、特にイデオロギー分析に役に立つ、道具としての構造主義の概念について説明していきます。 14-1 構造主義利用のための概念の紹介  理解することと利用することは別のことで、①理解していなくても利用できたり、②理解していて利用できない場合もあるでしょう。この教科書では可能な限り理解していて利用もできることを目指しますが、①であっても良いような書き方を目指しました。すなわち第1篇を読まず第2篇だけ読んでも役に立つ教科書を目指しました。そのために道具の原理ではなく、道具の紹介と使い方を説明します。利用するためには道具が必要です。道具の原理を知らなくても道具を使ってその道の達人になることは可能ではないか、という考え方をします。本来科学は方法への精神です。方法を確立することが結論より大切です。方法は道具です。道具をいかに使いこなせるかで現代哲学の有用性が決まります。別に数学基礎論を知らなくても偉大な成果をあげる数学者はいるでしょう。偉大に哲学者も仏教者もいるでしょう。  どの道にも道具の原理を知らない達人は存在します。一方で原理は知っていても頭でっかちで考えすぎて手が動かないと怒られたことのある人は少なくないでしょう。  それに社会は万人が原理を知ることを前提に作られていません。むしろ原理が知らなくても問題なく社会も生活も運航していくように作られていきます。  この教科書は人形遣いになることも人形になることも両方できるようになるように書かれています。しかし人形遣いになるのはそれ相応の勉強が必要なのでそのような時間が取れないこともあるでしょう。であれば人形遣いになれなくても人形をよりよく理解し、より良い人形になることを目指しましょう。  実際に世の中の一番の基底の基礎をマスターしている人はどの社会にもどの時代にも多くはないでしょう。この教科書は全ての人が世の中の一番重要な規定と基礎である現代哲学をマスターするために書かれましたが、基礎を知らなくても道具として現代哲学を利用することは可能です。  現代哲学の道具である。現前、再現前、差異、差延、構造、構成、構築脱構築などについて説明しましょう。 13-2 現象と現前  現前は認識の対象です。元々構造主義の重要な構成要素は現象学でした。意識の中に実在感をもって認識される、他の対象と差異によりよって区別される認知対象です。  大切なのは①他の現前と差異を持っているため異なるものとしてはっきり区別されること。②ありありと実在感、実体感、臨在感をもって感じられるという事です。  現象の歴史は長いですが、意識の及ぶ精神の世界を現象と現象学では呼んで存在や認識の確実性を追求する哲学において、最低限、採取減の確実と言えることと考え哲学を展開したのはフッサールをはじめとして弟子のハイデガー、サルトルなどが有名です。  具体的な例についてはコラム15-2を参照してください  さて現前は何から成り立っているかというとそれこそ複数の要素から成り立つことが多く見られます。というか単一の要素から成り立つ現前はもしかしたらないかもしれません。  石ころを考えてみましょう。それこそ仏教的に言えば五蘊から成り立っていると思われます。釈迦によれば少なくとも人間は五蘊から成り立っています。他の現前はそれがもっと多いかもしれませんし、少ないかもしれません。どうであるにせよ、事実上全ての現前は物質的な要素と非物質的な要素で成り立っています。石ころであれば見たり触ったり感覚で感じられる部分もありますし、過去の石ころに対する体験や思い出からなる部分、書物や耳で得た知識で成り立っている部分もあります。  ラカンのシェーマLで説明するとa’が成立するには複数のaが必要で複数のaとの関係がa’の存在を現前させます。 現象は現前から成り立っている、逆に現前の総体が減少といえるでしょう。  複数の現前が存在するから差異があり得ます。また差異があり実体感があるから何か確実に存在するものがあると我々は考えがちです。  差異とは必ず他の何者か、人でもモノでも他者が必要で、自らと他者、外部が存在します。違うから比較ができ、また相互の関係性を考えることができます。また関係性があるから差異が浮かび上がるとも言えます。 コラム14-2 例えば我々が道に落ちている石ころを注意してみるときその石ころは意識の中に現前していると言えるでしょう。そのまま眼をつぶってその石ころのことを思い出してみましょう。やはり石ころは現前していると言えます。現前にも強さがあって臨場感、臨在感を持って生き生きと生々しく具体的に細部まで思い出せて感情を揺さぶるような強い現前もあれば、薄い印象しかなくすぐに他のことに意識が移ってしまうような現前もあるでしょう。認識はしているのに存在感がなく認識しているという実感が薄いかない場合もあります。認識しているのに存在感が感じられない状態は精神科では現実感減退とか喪失とか言われ、色々な状態、例えば仮性障害などでも見られます。自分に対して存在しているという実在感がない場合は離人症と言います。そういう状態合わせて最近のアメリカの精神障害診断基準では1つの障害として分類されていたりします。一方認識の対象が存在しないのに存在しているような感じが生じる場合もあります。これは現前とはいいませんが。宇宙飛行士が宇宙空間で突然絶対者の存在を感じたり、宗教者が神の存在を感じるが認識はしていない状態を臨在感と言ったりします。統合失調症で認識は出来ないが何かが存在しているように感じることがあります。統合失調症でなくても我々は時に認識できないが何かが存在しているような気配を感じることがあるかもしれません。  まとめると実際の意識野に認識対象を思い浮かべてもその存在感を感じない場合もあるし、存在感だけ感じて認識できない場合もあります。 ここでは認識もできるし存在感もある対象を現前と言います。  現前は物質的な物であり、言い換えると具象的な場合もありますし、観念的、抽象的、概念的であって物質性を持ってない場合もあります。事物という言葉を使っていますがものというと物質的、感覚的な要素が強く、事というと観念的抽象的ですが機能的な面もあるでしょう。  実在論との違いは実在論は 14-3 再現前について  再現前はジャック・デリダが提唱した概念で、現代哲学の導き出した恐るべき結論と言えるかもしれません。ヤスパースによると自己意識の単一性、同一性と言って、自分が唯一ただ一人しかいないと考える事を単一性、自分が時間がたっても不変で存在し続けると考える事を同一性と言います。素朴実在論では我々が道で拾った目の前の石ころを見ていて瞬き前後でその外見が変化したように見えるので瞬き前後で違う石ころとは同じと判断するのが普通です。現代哲学では当然のごとくそれを否定します。一見量子論のハイゼンベルグの不確定性原理と同じ結論のように見えますが素朴実在論でもその派生の近代哲学でも同じように考える事は出来るので物理学との絡みでこの結論に特別な意味はありません。ただ伝統哲学ではその様に考える事に意味が見出せず、深堀しても何も出てこなかったのです。建設性のない議論は時間の無駄ですのでオッカムの剃刀でバシッと切ってしまって顧みられる意味がありませんでした。現代哲学ではむしろ同一性を自明視しないのが当たり前の結論になります。現代はこのような認知の同一性の自明性の他記憶の同一性も認知科学では否定されています。これは仏教の言葉でいうと諸行無常、諸法無我と言います。結論だけなら古代の万物流転をといたヘラクレイトスと一緒ですが、結論だけではだめです。科学は方法の精神ですのでその結論を導き出す方法論がなければ結論に意味はありません。結論ありきならそれはファンタジーです。これを発展させると現代哲学は森羅万物に対して懐疑的でニヒリズムのような気分が生じやすいですが、健全な懐疑主義、健全なニヒリズムは現代の教養として持っておくべきものです。現代哲学から見れば全ては捏造で剽窃の面があります。これはボードリヤールという現代思想家の概念でシュミラークル、シミュレーションという言葉で現代思想の方で使われます。これについては次章で説明します。  もう一つ、再現前の重要な点は現代的構造主義に時間軸を導入している点です。三次元から4次元化が可能であれば多次元無限次元に一般化したくなるのが数学者です。仮に公理化されていなくても記号化も形式主義化も可能でしょうし、実際にそれも可能でしょう。ただ論理計算の量が膨大でしょうから理論付けはともかく実用時期はコンピュータの発達スピード次第でしょう。 14-1-3 差異について  構造主義で考えると事物に本質があるという考え方はしません。事物の内容は他の実物との関係性で決まります。別にいうと他の事物というものが必要です。他の事物と対象としている事物は差異があるから分けられます。差異がなければ分けられません。ですので差異というのが現代哲学のキーワードになります。差異がなければイコールな物も差異があれば関係性を考えることができます。ですので関係性と差異は密接な関係があります。 14-1-4 差延  現前に対して再現前があるように構造主義に時間軸を導入します。世界は現実も想像も象徴も刻一刻と変化していくものです。ですので我々が現前として捉えたものも次の瞬間には別の現前に変化しています。我々がそれを同一と認識するかどうかと別問題人です。事物≒現前は変化しますので、現前を成立させる構造、つまり差異も関係性も変化していきます。しかし我々の認識は変化していく現前を再現前性により同じものと認識することで情報を整理します。現前を連続的に捉えたものが再現前であるのなら、現前を成立させる差異や関係性を連続的に捉える場合に差異ではなく差延という言葉を使います。 14-1-5 構成  発達心理学者のピアジェは構造主義者とされているが、時間軸を重視している。その際に構造、という言葉は時間を含まないように聞こえるため、構成主義という言葉を使っている。空間ごとにも時間ごとにも移り変わる関係性と差異、そういう点を重視する場合敢えて構造主義という言葉を使わず、構成主義と呼ぶことがある。   14-2 現前あるいは再現前の操作 14-2-1 脱構築  これもデリダの概念です。構築された現前を解体します。ここでは意味を広げて変質させることも含ませましょう。現前は諸要素の統合より成り立ちます。シェーマLでいえば複数のaがa’を現前されます。生成されたa’は再現前性より現前した当初から時間と共に変わっていくかもしれません。同じa’と思っても時間と共に変わっていくでしょう。a’の構成要素が変わっていくこともあるかもしれません。a’を解体するにはその時点でa’を形成しているaを全て同定して現前生成の前の形に正確に復元する必要はありませんし、そういうことは不可能です。釈迦は人間を五蘊に分け要素のそれぞれの空性を示すことで人間という主体を解体しました。また死ねば色がなくなるから人間を形成する必要条件がなくなることで主体を解体しました。どんな方法でもいいですしやり方は工夫次第です。 a’がその時点で持っている意味を変質させれば十分な場合もあります。ネガティブに見ている対象に別の見方を加えてポジティブに考えれるようになるだけで、固定観念が変質します。時に別の仕方を単に足してやるだけでもいいでしょう。全ての物はいい面と悪い面があると一面的な見方を改めてみるだけでもいいかもしれません。経済我的に機会費用やトレードオフの考え方を組み入れて解釈を変えてやるだけで考えは変質します。常に色即是空 空即是色ですし、諸行無常、諸法無我なのです。但し方法論は色々です。その方法論を学ぶのが第2篇 応用篇、実践篇の一つの主眼です。 14-2-2 構築  構築は現前の生成のことでシェーマLが現前を説明する一つの方法でした。シェーマL以外にもドイツ観念論のフィヒテ、シェリング、ヘーゲルや実存主義哲学や現象学のニーチェやハイデガーなど様々な説明があります。大した説明ではないので現代的構造論のような一般性や実用性には乏しいですが。  現前を構築する際の例として紫前なのは我々が新しい分野の学問を学んでいく際の経験でしょう。構築は我々が発達の過程で無意識に身に付けていくものであまりにも自然で意識しないのでまず存在論や認識論は素朴実在論から始まります。また発達にはそれが必要です。ただ思春期になると抽象的に考える能力が付くようになり、観念論が理解できるようになります。構造主義はある意味観念論の一種ともいえます。発達心理学者ピアジェの発生的認識論では形式的操作段階と言い12歳以降に身に就く認識能力です。懇談会では前の具体的捜査段階と合わせていろいろな事物や中小観念、概念のコントロールを出来る様になります。抽象的、論理的な学問はここから習得が出来る様になり、新しい現前を獲得していけるようになりますが、具体的操作期の前の前操作段階のような自然で無意識になされる現前形成でなく、ある程度自分で概念を創り上げる、つまり現前生成を意識できるようになります。子供の教育はこの認識の発達機構を理解しないと無意味あるいはむしろ有害な場合さえあります。構築は類似概念を少しずつ変化させたり、同形構造を発見したりするのが楽な方法です。古典力学の習得は経験を抽象化する作業なので習得が楽で数が、人生の体験、経験が不足していると困難なものになる可能性があります。与えられた抽象概念に相当する経験がないので、何か別のものでそれを補うか、経験から始めるしかありません。他方で量子力学のような日経験的で、我々の日常生活の中で身に付けた経験からくる直観と異なる分野の学習は困難に感じられることがあります。  より高等で難解と言われる学問分野は非経験的、非直観的です。ですから我々は時に学習の際に我々の経験や記憶から大きく離れる必要がある場合があります。むしろ経験や直観が邪魔をする場合があるからです。その際に現代哲学、とくに理系の科学では公理主義の考え方が非常に役に立ちます。現代の学問は公理主義を基礎をおいているので、端的に言えば形式主義的な記号操作の世界で経験や直観力は公理に慣れた後に後からついてくればいいのです。いろんな分野の学問を見ていると公理体系が似ていたり同じだったりする場合があります。そういう場合は過去の学習の応用が利くので便利です。同型の場合なら偽号を置き換えるだけで同じものになるからです。 第15章 倫理道徳と現代哲学 人は生まれながらにして自由かつ平等である。   フランス人権宣言 人間は自由の刑に処せられている。    サルトル この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ 釈迦の遺言『仏陀最後の旅』からの引用 15-0 哲学とは何かの復習 これまで哲学とは認識と存在に関する確実性を中心に追求する学問であるとして説明してきました。しかし確実性という場合には、どの様に行動するのが正しいのか、善や美をどの様に判断するのが正しいのかなどの存在や認識とは別のことについての確実性を追求する流れがあります。エマニュエル・カントの有名な3部作は『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』です。その中で『純粋理性批判』は認識論と存在論について扱ったものですが、『実践理性批判』は人間がどの様に行動するのが正しいのか、『判断力批判』は人間が真善美をどの様に判断するのが正しいのかについて書かれています。  確実性の追求が近代哲学の定義ですから、存在や認識以外のことについても確実性を追求するのは自然なことです。  本教科書の基礎篇では単純化のため存在、認識の確実性以外の部分をカットしました。第2篇 応用・実践篇ではこれについて述べます。  この章は現代哲学に、「人間はいかに生きるべきか」の答えを求める人には重要な章になります。この章でその答えを提示します。 15-1 倫理学 倫理学は人はどの様に考え、どの様に行動するのかを研究する学問です。人がどういう行動をとるべきかを道徳と言います。狭い意味の倫理という言葉は人間がかくあるべき姿や行動を示します。 第一篇基礎篇 入門編でそれを取り上げなかったのは現代哲学ではそれについて何も示していないからです。人間は喜ばしいことに本質的に自由です。そして悲しいほどに自由でしかありえないのです。 近代の哲学者たちも人はどう生きるべきかを語ります。そしてその根拠として神を挙げたり提言命令というものをあげたり絶対精神というものを挙げたりします。それらはすべて仮定なので取り上げる価値がありません。信じたい者は信じればいいだけの話です。 実存哲学では逆に今与えられた状況の中に我々が存在することを既定としてどう考え、生きているか、どう生きるべきかを問題として哲学の出発点とします。この視点の転換がニーチェを生みます。ニーチェの哲学は実存主義からの存在論、認識論です。ニーチェの哲学はこれによって現代哲学の源流の一つとなります。 現代哲学では第一篇 基礎篇・入門編で触れた(あるいは触れていない)ように人間がどう生きるべきかについて何も語りません。よく言えば無関心、悪く言えば無視です。そんなことは哲学では分からないので個々人で勝手に決めてくれ、というスタンスです。言い換えると分からない、というのが現代哲学の結論です。 ですから現代哲学を応用しようとする我々にとっては、もし我々がどう生きるべきかを決めたい場合には、現代哲学をどの様に応用に活用するかがテーマとなります。 15-2 現代哲学と自由  現代哲学は我々の生き方の正しさを保証してくれませんので、どう生きるかは我々が決めることになします。あるいは決めずに何となく流されて生きるのも良いでしょう。我々は本質的に自由です。  しかし自由というのはなかなかしんどい場合があります。何か指針があった方が精神衛生上良かったり、精神的に安定したり、健全、健康的である場合もあります。逆に指針がないと不安定になる場合があります。もちろん逆に指針があるから不安定になったり、不健康になったりする場合もあるでしょう。そういう人は指針を作らなければいいのです。  現代哲学で行動の指針を作る場合の方法を見て行きましょう。箇条書きで例示します。 ・信仰対象を作る。 ・何か無条件で従うルールを決めてしまう。 ・好きなようにやる。 ・何かに反抗的に思考、行動すると決めてしまう。 ・本能、直観、その時のおもいつくままにふるまう。 ・ルールを定めず天衣無縫にふるまう。 ・周りに流される。 ・誰かに依存する。 ・あるイデオロギーに従属する。 ・目的を定めてプラグマティズムに生きる。 ・目的を定めて達成の方法を考える。 ・人生をゲームのように捉える。 ・ などが挙げられます。  またこれらを組み合わせる方法もあります。またその時その時で都合よくやり方を変えていく方法もあります。 結論を述べます。 ・現代哲学は我々がどう生きるかについて特に示唆しない。 ・逆に我々がどう生きるかについて何も推奨しないのが現代哲学である。 ・我々がどう生きるかは自由である、という消極的結論が導き出される。 ・完全な自由というのは恐らく不可能なので、我々は生き方を時に選択する。 ・それについては現代哲学的に思考すると示唆が得られる。 15-3 主体性 そして自覚 15-3-1 近代的な主体性と自覚  近代において最も大切な概念の中に人権、そして主体性が含まれます。 偉大なフランス革命の思想は自由、平等、人権を全ての人間に宣言した普遍主義的なものです。ギリシア時代はいわゆる人間は自由市民、奴隷、蛮族と別れていました。偉大(、そしてやはり悲惨な)近代西洋は人間を全て自由市民にしようとしたわけです。しかし人間が全て気ままで自分勝手では社会がまとまりません。当時はまだ宗教的権威や階級制度、貧困、法治主義、その他人間の自由を拘束する意識的、あるいは無意識的な不自由が受け入れられていた、あるいは受け入れられざるを得ませんでした。  人間、というのは大切な概念です。近代的な人間の理想像は一番大切なのは自覚を持つことです。そして2番目に大切なのは主体性を持つことです。3番目に大切なのは整合的なる行動規範を持っていることです。まとめると近代が理想とする人間は自分自身で選んだ原理原則を持ち、それを守って判断や行動を行い、もし誤った場合には、これには原理原則が間違っていた場合と原理原則から外れてしまった場合がありますが、それを自分で自分の責任を取る、その一連の過程を自覚して行う人間です。原理原則が間違っていてそれを変える際にはそれも自覚して変更し、原理原則が間違っていた場合にも言い訳したり、責任を転嫁せず、ありのままに責任を受け入れてそれを認められる人間です。そしてその一連の過程を自覚して行います。自覚はメタ認知に相当します。  関西弁で言い換えると、自分で自分のケツを持ち自分のケツを拭く人間です。このケツという言葉は便利で責任という言葉より適切な場合があります。関西ではケツをかく、ケツをたたく、ケツをまくなどいろいろな使われ方がされます(最近の若い関西人は知らない人もいるかもしれません。また上品な言葉ではないので古い関西人でも生育環境によっては知らないかもしれません)。  例えてみます。ナチスやヒトラーを持ち出すのはゴドウィッツの法則と言って現在では信用できない、あるいは議論を終わらせたり、相手を責めるための方法として使われるのでナチスやヒトラーを安易に持ち出す人は信用できないというものです。ネットでうまれた概念の様です。その上であえてナチスの例を持ち出すと、ユダヤ人のホロコーストに関わった下級官吏が裁判で責任を問われたとします。彼はホロコーストは自分の倫理に従って良くない事と自覚していたが家族を養うため仕方なく命令に従っていたとします。その際に「自分は本当はやりたくなかったが仕方なくやったんだ」と言い訳するのと、「自分は当時その過ちに気が付かなかったが、現在では過ちであったと後悔している」と過ちをみとめるか、「自分は当時から過ちと自覚していた。だからその結果の責任は全て受け入れる」というか、彼の思考内容により彼の主体性や自覚度を判断することができます。 15-3-2 現代的な主体性と自覚  現代哲学においては自覚が一番大切です。自覚はすなわちメタ認知とも言い換えられます。ポスト構造主義で最も大切な自覚です。行動規範の原理原則を持たないでもよいし、それに従わなくてもいいし、責任逃れをしてもかまいませんが、その全ての自分の考えと行動を自覚せよ、記憶せよ、改ざんするな、という姿勢が現代哲学的です。行動規範として原理原則を持つか持たないか、それを守るか守らないか、責任をとるかとらないかは現代的というより近代的主体なあり方です。自覚だけは必要なのはそれもなくしてしまえば訳が分からなくなってしまうからです。知性と教養がない状態と言えるでしょう。極端な場合には精神医学の司法鑑定では、心神喪失、心神耗弱と言って刑を免れたり原型処置がとられます。精神障害の他知能障害なども問題になりますが、ここでは単純化のためその可能性は省きます。 15-4 行動の矛盾と無矛盾性  現代的な生き方や行動で一番たいせつなのは自覚であって、2番目に大切なのは主体性3番目に大切なのは原理原則、行動の規範であると前節前々節で書きました。2番目と3番目に大切な主体性と規範について現代哲学の視点で解説します。主体性は自分の意志で思考、行動している状態すので、これは近代哲学、現代哲学を問わず、重視せざるを得ないでしょう。3番目は主体が石を持って行動の原理原則のようなものを取ることを選択した場合です。その場合、現代哲学的にはそれが無矛盾性、完全性を持っているかどうか、つまり公理主義的であるかどうかを見ます。あるいは完全に公理主義化できなくても公理主義化しようとして公理主義化できずに不完全な公理主義化した原理原則を持ちそれをじかくしているなら、その姿勢も評価しましょう。  そうでないならその人の行動原則は公理主義化されておらず、その自覚もないため、矛盾していたり、関係ないことに首を突っ込んだりして、しかもその自覚がないような始末に負えない状態になるでしょう。繰り返しますが、自覚を最重要視しますので、それが自覚できていればまだいいのですが、自覚していない時には矛盾に不意を突かれて驚く場合が出てくるでしょう。  以上をまとめると以下のようになる。 ・現代哲学的には自覚と主体性と公理主義化された原理原則を持ちそれに従って行動する生き方とそれ以外がある。 ・別にどのように生きようがかまわない。良い悪いではない。選択の問題である。首尾一貫して前者に徹する必要もなく必要に応じて使い分けても良い。 15-4 コミュニケーションの可能性 現代哲学でコミュニケーションが成立するということは、彼我のよって立つ考え方の前提と思考方法を一致させてそれを確認してコミュニケーションを行うことです。言い換えると特定の公理体系にしたがってコミュニケーションを行うことです。これはあくまで彼我の認識を一致させるためのコミュニケーションです。コミュニケーションも広い意味を持つため、例えば情緒的な共感、感動の共有、質問や命令、それに対する従属の意志を示す、意志の宣言などいろいろな要素を含むでしょう。現代哲学で扱うのは認識と存在の確実性ですので。精神要素の中の認識機構についてだけ扱い情緒などについては扱いません。ですが現代思想はもっと広い領域を扱うので人間の感情や情緒などについて述べた理論もあるでしょう。それは現代思想で扱う問題で現代哲学で扱う問題ではありません。現代哲学で扱うのはあくまでコミュニケーションの彼我の認識に関する側面だけです。  これは大切なことですので一旦まとめます。 ・認識を一致させるためには現代哲学によらねばならない。 ・彼我の公理が異なるのであれば認識は一致しない可能性がある。 ・彼我の公理が異なるのであればそもそもコミュニケーションしないという選択が最初から取れる。 彼我の公理が異なる場合はそもそも関わらないという配慮ができます。また敢えてコミュニケートして意見が分かれても感情的になりにくくなるでしょう。コミュニケーションにおいて公理体系をを一致させることは他者に対する、あるいは他者から自分への優しさであり寛容さを生むでしょう。 15-5 コミュニケーションの障害  コミュニケーション、つまりこれまでの文脈に従って認識についてのコミュニケーションで破たんを生じる場合を理解の新化と発展のため見て行きましょう。科学や学問の領域で戦争が起こらないのは公理主義を理解しているからです。公理主義を知らない学者や研究者が論争を起こしたり感情的になったりすることはありますが。これは不完全な存在である人間である限り生じる御愛嬌でしょう。また公理体系が一致していなくても議論しなければならないことが他の人間社会と同じく、科学や学問でも生じることもあるでしょう。ある程度はしょうがないのです。ただ正常でも異常事態でも現代哲学が用いられていない、あるいは破たんした状態で行われるコミュニケーションは非常におかしな状態をもたらすことがあるので例を挙げていきましょう。一般社会の例や精神科医療で例を挙げてみます。 ・定型発達症候群  神経発達障害と呼ばれる自閉症スペクトラム障害(ASD)の方や社会コミュニケーション障害(SCD)の方がそうでない人たちを見た場合に奇妙に見える現象があります。それを定型発達症候群と言います。きちんと学術的に定義された言葉ではないですが色々考えさせられることがあります。ASDは赤ちゃんの時代から自然に持っていると考えられる、他者への同調性が低いことから生じる社交性、コミュニケーションの発達の障害と、やはり赤ちゃんの頃から見られる興味のくっつきと呼ばれる注意力の過剰から注意の分配の発達が遅れる障害です。SCDは注意の固着はなく社交・コミュニケーション力の発達だけがが遅れる障害です。ASDやSCDの方は論理性や合理性が非常に高いことが多く、感情と論理を切り離したり、議論を整理して独立事象を切り離し、議論がそれたり、本題かと関係ないことを議論から切り離すのが得意です。そういう方々から見た、そうでない人間、マジョリティーである非定型発達ではない、つまり定型発達である人々に見られる奇妙な行動を皮肉るため提唱されたのが定型発達症候群です。どういう症状を呈するかいかに例を挙げます。 ・社会の問題への没頭 周囲に馴染むことを最優先事項とみなす そして集団になると、社会性および行動において硬直する ・優越性への幻想 自分の経験する世界が唯一のもの、正しいものであるとみなす ・ひとりでいることが困難 人と一緒にいるが、仲間に入らないということを苦手とする 人といるときには必ず何か話さないではいられない ・率直なコミュニケーションが苦手 本音を言わず、建前を優先する ・論理を欠いても平気 一貫性がなく、状況によって対応を変える もっと具体的に言うと我々は嫌いなものを送られてもうれしいと感謝したり、京都人に対するアネクドートとして知られていますが早く帰って欲しい時に「ぶぶづけいかがどすか」と言ったりする心情を解するのが定型発達というもので我々の通念、常識を形作るものです。しかし定型発達の人から見てもこれは奇妙な行動と言わざるを言えません。これらは合理性、論理性を持たない行動で公理主義とは言えません。我々はそういう世界に住んでいるという自覚が必要です。 ・パラノイド  極端な例がこれですが、人間は怏怏としてパラノイドという性格、思考、行動の特徴を有する場合があります。これは体系化された妄想を持つ統合失調症患者の症状が減弱されて見られている状態で一般の人にも見られます。完全に公理主義化された認識に基づき思考、行動する場合のみこの状態を離れることができます。  パラノイアとは偏執症と訳され、非常に強い現実に対して偏った認識を持っている状態でありそれが特に周囲に対して奇怪で日適応的に働く、つまり不快感を持たせたり迷惑を掛けたりする場合です。現代の最先端の精神障害の分類基準であるDSM-5では妄想型パーソナリティー障害と妄想型統合失調症にパラノイドという言葉が含まれています。パラノイドとはパラノイド類というほどの意味で、パラノイドかその周辺群、パラノイドの仲間の状態を指します。認識の偏りは周囲に対する猜疑心や対人過敏、被害念慮、その結果としての不安や恐怖、怯え、臆病、攻撃性として出る場合があり、このようなパラノイアの例は典型的で今までの人生で心当たりのある読者諸兄も多いのではないでしょうか。パーソナリティ障害のパラノイド型は独裁者が良く例に挙げられ、典型例はスターリンやヒトラーです。ヒトラーを例に挙げるとゴドヴィッツの法則に当てはまってしまいかねないのであまり例に挙げたくないのですが。人に限らず集団がそのような状態に陥ってしまう場合もあります。政治集団や宗教集団、国家がそうなってしまう場合もあります。ドストエフスキーの悪霊や学生運動の連合赤軍事件などがそれに当たります。統合失調症で体系化された妄想を持つものでは妄想は修正不能ですし、自分が偏った認識を持っているという病識も減弱しています。すなわちメタ認知が減弱しています。奇妙なことですが、幸か不幸か妄想が本人を守ってくれている面があるらしく妄想が消失して自殺してしまう例も知られています。  こういった状態は普通の人でも過度に寝不足、消耗疲憊している時や思春期の時には軽度なものが見られたりします。  さて問題は偏った認識の内容ですがこれは公理化されていません。ですので矛盾が生じますがそれを指摘すると取り繕うような患者なりの論理を構築して正当化しようとします。かつて共産主義や社会主義の影響が強かった時代にはこのような事例が頻繁にみられました。共産主義や社会主義に限らずある特定のイデオロギーを絶対化する場合には社会的、あるいは集団的に構成成員全体がパラノイド化する例が頻繁に見られます。こうなると公理主義でないのはもちろん、普通の常識的な議論も可能ではなくなってしまいます。このような不幸な状態を避けるために現代哲学の習得の必要性を訴えるのが本教科書の執筆の動機の一員です。パラノイドは人間を幸福にすることはまずないでしょう。自覚的にパラノイドであるのであればまだよいです。自覚≒メタ認知は最も高等な知性であり供与湯です。自覚しないでこうなってしまうと難渋します。精神障害では依存症でも統合失調症でも病識のない患者さんの心理教育による病識の獲得が最も重要な治療である場面を多く経験します。 15-6 現代哲学的生き方  現代哲学が特に推奨する生き方はありません。現代哲学は存在論や認識論については言及してますが、倫理道徳の実践や判断力の正否については何も述べていません。ですから確実性の追求が哲学だとして、どういう風に生きるのが正しいのか、どういう風に判断するのが正しいのか、正しいというのは言い換えれば確実かを現代哲学に問うても理論の範囲外ですので答えてくれません。そういう意味では議論の対象が近代哲学より狭いです。ただ近代哲学のようにおせっかいは焼きません。こう生きるべきだ、こう生きるのがただしいとか押しつけがましいことは行ってきません。そういう意味で本当に自由なのです。自分の好きなようにすれば、というスタンスです。  その上で現代哲学を応用した現代的生き方なるものが提案できます。しかしこれは現代哲学というよりは現代思想の問題で言い換えれば倫理学の問題ですのでそこは分けて考えて下さい。 ・自由主義  本当に何でもアリアリの自由主義です。ラディカルなリベラリストでしたら自分のしたいように生きて下さい。穏健派の自由主義者でしたら周囲の状況をみつつ適度に自由を満喫してください。  自由主義は近代以前もありました。近代以前は社会適応や法や宗教を意識した限定された自由主義が主流だったようです。社会主義や共産主義では活動の過程で大分ラディカルな自由主義も生まれたようですがそれはあくまで社会主義思想や共産主義思想の影響の範囲内であったようでやはり限定されたものだったようです。  ここで取り上げた現代哲学的生き方としての自由主義は限定が全くありません。本当に勝手気ままにして下さって結構です。なぜなら、現代哲学からは自由を制限することを正当化する考え方が一次的には出てこないからです。二次的に自由主義の制限規則を付け加えることは出来ても取ってつけたものでしかありません。  現代哲学でもし自由主義を制限するものがあったとして一番自然なのは公理主義を導入するかどうかです。自分が自分で自由に決めた公理体系に従って行動することを決めた場合これはある意味で制限された自由主義となります。自分にも他者にも自分がどういう制限を受けた自由主義化を示すことができますので、他者からの理解が可能ですし、他者がその人をどう遇するかの判断な基準にもなるので非常に公正で誠実な自由主義であると考えられます。  結論をまとめます。 ・現代哲学の自由主義は公理主義化された道徳規則を定めておくものと置かないものがある。 ・ドゥルーズ=ガタリのモデル  現代哲学を基礎とした言外思想において、現代哲学を土台にしたうえで人間がどうあるべきかのモデルを示したのがジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリです。彼らはノマド、リゾーム、機械、強度、器官なき身体、スキゾフレニー、パラノイア、属領化、欲望など彼らが現代哲学を土台に意味づけた多くの概念を使ってポストモダンの新しい生き方を提示しました。彼らの思想の本ではないので詳細は割愛します。 ・浅田彰の逃走論のモデル  我々は資本主義の部品となり無意識に支配されてしまっているから資本主義から逃げ続けるという思想です。現代型引きこもりの一つのルーツと言えるかもしれません。実際強い影響力をもってこれを実践した人も多かったようです。中には人生を狂わせた人もいたようですが詳細は分かっていません。 15-7 結語 ・現代哲学は道徳を語らない。 ・現代哲学は個々人の生き方のケツも知はしない。 ・生き方を探求したければ倫理学を勉強しよう。 ・倫理学を勉強するにしても基礎、教養として現代哲学は知っておくべき。 ・現代思想ではいくつか生き方の紹介があるので勉強することができる。 第16章 イデオロギーの実際  16-0 どんなイデオロギーがあるか 16-3 選択するイデオロギーの内容  イデオロギーと一言で書いていますが、イデオロギーには様々なものがあります。 単なる常識、伝統、主義主張、宗教、思想、哲学、なんでもイデオロギーといえるでしょう。しかしあまり情緒的過ぎて思考や言葉で表現しに食い物についてはここでは除きましょう。情緒や意欲や遺伝子や生育環境は現代哲学では無意識やSに含まれるものとしてブラックボックスに入れて扱うか、分析したい場合には徹底的に分析します。今回はあまり考えないことにしましょう。  さしあたり日本人に関係ありそうなもので見ていきましょう。  まずはユダヤ、キリスト、イスラム教から考えましょう。 これの特徴は他の宗教に対して排他的、攻撃的です。これはこれらの宗教の超俗のメタイデオロギーといっていいのかもしれませんが、神はただ一人であり、YHWH、あるいはキリスト、あるいはアッラーだけで、他に神はないということを根幹に置きます。  これを支えるのは多くの場合は信仰で無条件に信じることです。  もう一つは実際に神の存在に接すること、感じることです。実体意識の障害として統合失調症では、存在しない他者の存在を感じることがあります。それが絶対者の感じを持つこともあります。臨在感と言って認識はできませんがありありと、何か絶対的なものが存在するのを感じることがあります。それを神と認識することがあります。統合失調症ではよくある症状ですが、統合失調症でない人でも臨在感を持つことがあります。私も絶対者の存在を感じたことがあります。宇宙飛行士や登山家、素潜りの選手、F1ドライバーなど極限状態で感じることが多いようです。この場合は無条件の信仰は必要ありません。神が存在すると感じる根拠が実体験にあるからです。うまくいけば聖書のように神の声も聞こえる場合があります。神を見たことのある人は聖書でも2~3人しかいなかったと思いますが、声を聴いた事がある人は多かったはずです。予見者ではなく預言者、といわれるのは一つはそのためもあるでしょう。  これだけでしたらいいのですが宗教は世俗イデオロギーがくっついている場合が多くあります。このメタイデオロギーを実現しようとすると、他の神を持っている人に布教しようとしたり、他の神を持っている人を攻撃したりする世俗イデオロギーが発生しがちです。現実の歴史では実際そういうことになりました。そうではない教派も多かったでしょうけれども。  このくっついているイデオロギーは宗教の中心のイデオロギーとは関係ないものであることが多くあります。特定の神しか信じてはいけないから豚を食べてはいけないとかは全く結びつきません。  もう一つはこれらの宗教は啓示宗教と言って預言者などの神の言葉を預かる形で書かれたような文献があり、その注釈や歴史などをまとめた経典を持っています。そこに律法という形で戒律が書かれています。これが世俗のイデオロギーであり、現実の行動にじかに影響を与えます。食べていいものとか祈り方とか日時年月の過ごし方とか多かれ少なかれ細かく記載されています。これに反するのも神に反するのと同じです。また解釈をめぐって内部分裂や対立も激しくなります。  内部にも外部にも戦闘的、好戦的な面が多く攻撃を仕掛けるために宗教戦争が起きがちです。  他の宗教はどうでしょう。  西洋人は自分の宗教を基にして宗教の三要素を定義したり、宗教を定義することがありました。神、教義、経典、開祖、教義、戒律、教団、信者、その他です。  これはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教すなわち一神教や啓示宗教の視点でしょう。  世界3大宗教は民族、国を問わない広がりを見せる大きなまとまりということですが、仏教の一部はこういうものを満たしていません。原始仏教の三宝帰依では仏、法、僧をさしますが、この中には神はありません。ですから宗教を定義づけるのは困難な面があるでしょう。 しかしエンティティ=実在として存在し、宗教として認知されているものは一神教系啓示宗教以外にもたくさんあります。 特に注目すべきは聖典や競技がない場合です。キリスト教では聖書や教皇、ユダヤ教では聖書やタルムード、イスラム教では、聖書やクアラーン、ハディスなどがあるでしょう。 本邦の神道や仏教のいくつかの派では経典がないこともあります。経典はあっても本質は不立文字だったり、念仏のみが義とされたり済ます。教典はなくても競技はこの場合はあるでしょう。 革新的な教義や注釈書、キリスト教でいう外典や典外典も広い意味で協議になる場合もあるので競技にも重要さに濃度差があるでしょう。しかもよく見ると矛盾やパラドックスがある場合もあるでしょう。  個人的イデオロギーにせよ集団的イデオロギーにせよ拘束が厳しいイデオロギーから教義があいまいなイデオロギーまでいろいろあります。  宗教でなく主義や思想といった宗教以外のイデオロギーはどうでしょう。  共産主義は単に生産手段の公有化と分配の平等を目指す社会思想のはずですが、実現するためにはそれに同意する集団形成が必要になるため、個人にその考え方に同意させ従わせる同質な思想を持つグループを形成しなければ実現は難しいでしょう。  そこで共産主義を普及、啓発、教育するためのマルクス主義、レーニン主義、スターリン主義、毛沢東主義など、個人のイデオロギーを集団のイデオロギーに一致させるための運動が行われます。教育によるインプリンティングか、思想により説得するか、なんとなくかっこいい、社会的正義であるとブームを起こしたり、情緒や意欲を形成させる空気を醸成するか、思想を矯正するための強制的行為や運動、洗脳などが使われることが多いようです。共産主義を正当化するためのイデオロギーがくっつく場合がありますが、それを銀りとして共産主義を演繹するか、後付けでくっつけるかは考え方次第でしょう。  個人的な生き方のスタイルやポリシー、好悪の情や伝統主義、愛国心、国益主義などはどうでしょう。  このあたりになると個人の情意や集団、時代の空気が影響してきて状況や時期によってころころとイデオロギーが変わります。知情意入り混じってイデオロギーはどんどん変質していき、それはそれで一つの在り方でしょう。  現代哲学から見るとそれらはメタイデオロギーではなくイデオロギーですが、それらのどれかをメタイデオロギーとして考えることもできます。  一神教では神はその神ただ一人でほかの神はないというのをメタイデオロギーとします。この場合、他のイデオロギーには正誤や優先順位がつきます。  これはメタイデオロギー自体がイデオロギーの分類や階層化、多数のイデオロギーの位置付けを必然的に行ってしまうことになります。  共産主義をメタイデオロギーとしましょう。これも他のイデオロギーに位置付けに対して影響を与えます。共産主義にあっている思想は正しい、共産主義に矛盾する思想は正しくないとイデオロギー分類を行うでしょう。  より形のない個人の好悪や集団の空気をメタイデオロギーとするとどうでしょう。メタイデオロギー以外のイデオロギーは常に正誤の位置付けが続けるので安定がありません。不安定なのが特徴です。不安定は悪いこととは必ずしも言えないかもしれません。ブレインストーミングや革命のときなどには役に立つでしょう。集団がそうである場合、空気を読む、水を差す技術があると便利でしょう。集団が固定的なイデオロギー集団の中で個人が常に自分の情状性に従って生きる場合には、いい意味でも悪い意味でも社会から異端的な目でみなされるでしょう。聖性やカリスマ性、スター性、マスコットとして肯定されることもあれば、たまたま目だたず人目に触れなかったり無視されることもあるでしょう。悪い場合には集団のイデオロギーに合わないという理由で敵視されたり矯正されたり攻撃されたりします。  現代哲学のメタイデオロギーであるポスト構造主義と他のイデオロギーをメタイデオロギーとする場合との違いは何でしょう。  現代哲学ではポスト構造主義の性質上、またそのルール規定によって、ポスト構造主義以外のすべてのイデオロギーを平等に扱います。どれか一つを特別視しません。肯定も否定もしません。  一方別のイデオロギーをメタイデオロギーにする場合には、そのメタイデオロギー以外のイデオロギーの平等性を保証しません。  現代哲学のみが全てのイデオロギーの平等性、正誤の区別の無意味さ、上下や高低のないことを保証するイデオロギーです。 よく言えば寛容、優しさ、公正、平等、無差別なメタイデオロギーです。悪く言えば無関心、意味不明な論旨の無視、人の頭の内容を図る冷静客観的な目を持っており、表面主義で冷たい感じを持たれるかもしれません。  悪く見るのも誤解で実際には嫌ったり差別はしないが無関心な場合はあり、すべてイデオロギーを差別せず、すべてに興味関心を持つ知的なメタイデオロギーといえます。  結果として現代哲学は、すなわち感情のコントロール能力を高めますし、意志や欲望についてもよく内省し、行動するときには十分に試行し、判断し、覚悟し、決断し、行動し、行動の結果を受け入れる(例えば責任を取る、あるいは取らないでにげるでもいい)、主体性や自覚に満ちています。 第16章 イデオロギーの選択 16-0 イデオロギーの組み合わせ事態で何がどう変わるか具体的に調べましょう。 現在の教育、教育学では理論や机学習の大切もそうですが、実際に使ってみることが大切です。語学でもなんでも文法、修辞学を学んでも実施用論、実際に使ってみなければ身に付きません。使うとは愛に手に対して離したり聞いたりすることです。たまに天才がいて聞くだけで身についたり、デスクワークだけで身につく方がいます。例えば学習障害で独自障害があるのに聞いた言葉を二度と忘れないアスペルガーの友人がいて数か国語しゃべれるそうです。がそういう方は単純化のためここでは省きます。 16-1 ドゥルーズ、ガタリの場合  これは現代哲学というより現代思想で有名なコンビです。構造主義の四天王という言葉が昔ありましたが、ポスト構造主義の四天王あるいはこのコンビはポスト構造主義では2人で共著していましたので、ポスト構造主義の三大天、あるいは三傑と言えば一角はこのコンビが担うでしょう。残りはジャック・デリダ、ミシェル・フーコーになります。フーコーは構造主義の四天王に入っていますので重複があります。  ドゥルーズは哲学史家でガタリは精神科医です。ドゥルーズは「ベルクソニズム」や「スピノザ」などの単著の著作で過去の哲学者、思想家たちの思想を現代哲学の観点から再構成しています。また「差異と反復」「意味の論理学」などでいわゆる現代思想を展開しています。  ドゥルーズとガタリの共著では『アンチ・オイディプス──資本主義と分裂症』『千のプラトー──資本主義と分裂症』 等の著作にて、現代哲学的に生きるモデルを提示しています。ここでは装置や機械の概念、ノマド、リゾーム、強度、スキゾフレニア、パラノイアなどについて新しい概念規定を行います。  簡単に言えば前章のメタイデオロギーによる自由空間の中で自分に好きなイデオロギーを構造主義的な手段で作成し使用しながら生きろ、という感じでしょうか。  第1篇でも述べましたが、極端な実在論は伝統主義的というか保守的なもので、元からそこにある実体、事実、真実、心理、原理、法則を発見するという世界に与えられ既にあるものであり、それを人間が発見していくというニュアンスが強くあります。  それに対して極端な構造主義では世界に元々天然自然に与えられているような真実、心理、原理、法則などは存在しない、あるいは存在するかしないかは問題にはしない、構造主義を用いて人間がモデルを構成していくのだというニュアンスが強くあります。  ですから実在論で発見という言葉を使う傾向があるのに対し、構造主義では発明、発案、考案、構成、作成、構築などの言葉を使うことが多くなります。  後者の見方は構造主義の成立によって認知されたと言っていいでしょう。ドゥルーズとガタリはその考え方を最大限に利用します。もちろん既存の実在論に基づくイデオロギーを利用してもいいのでしょうが、そういうものも構造主義を用いて構造主義化したモデルが構成可能ですので格段に自由度が上がっていると言えます。念のため言っておきますが、構造主義を用いて構成されたモデルを実在論で解釈することも可能な事が多いでしょう。すべて可能かどうかは分かりませんが。どのみに人間の精神機能には実在論を形成する近代的な言葉でいうと理性、悟性、感性が備わっていると考えられます。ですから個体発生は系統発生に似るという生物学の法則が人間の精神発達や知性に発達にも当てはまるかは分かりませんが、成人するまでのどこかの段階ではカントくらいまでの哲学が一番すっきり理解、納得しやすいのではないでしょうか。ちなみに成人とは現代のように18歳や20歳を指すのではなく、古い時代の通過儀礼、侍の元服やユダヤ今日のミツヴァのように12,13歳くらいの思春期を抜けた時期と考えましょう。その方が生物学的に適当な気がしますし、18歳や20歳で成人とするのは近代以降の社会制度の影響が大きいと考えられるからです。  逆にいうとエリクソンにしてもピアジェにしてももっと新しい認知科学や発達心理学の理論によっても、現代哲学、実在論とポスト構造主義は簡単ですから構造主義が山になりますが、構造主義を理解し、それを含めた現代哲学全体を理解するにはある生物学的、つまり自然科学的な根拠も含めたある発達段階移行でないと難しいという事を示唆します。  さらに第2篇では現代哲学というよりは現代思想という言葉がふさわしくなります。 第2篇の一番謝意所の部章である、第4部第9章もそうですが、現代哲学のように理論解説ではなく、現代哲学を使ってどういう風に応用していくかについて構成的に説明していきます。 また資本主義や分裂症という言葉が使われていることに注意しましょう。  現代哲学、あるいは現代思想自体が哲学であり社会思想であるマルクス主義、共産主義を批判する意味を持っている、あるいは持っていた事を覚えておいて頂けると全体の見通しがつきやすくなります。  現代哲学は社会思想としても個人思想としても自由主義、個人主義と親和性があります。結果として法的自由、平等を保障する、民主主義、経済的自由を保障する市場経済や資本主義と親和性があります。近代の理念としてマルクス・共産主義も自由、平等、個人、人権をできる限り尊重しようとしてできた制度だと思われますが、全く異なる形であることに注意してください。マルクス主義は個人、主体、人権を犠牲にして収入の平等を意図します。そうでないと反論するために教育の段階でそのような政治体制を支持するように洗脳を行います。教育の力で主体的に自由に人権を尊重された形で自らの意志でマルクス主義、共産主義を支持しているのだ、と思い込ませます。  共産主義やマルクス主義を主体的に選び取っている19世紀や20世紀中盤までのインテリならそれで構いませんでしたが、ハンガリー動乱やチェコスロヴァキアのソ連による民主派の武力侵攻、弾圧であるプラハの春を見た後では流石にヨーロッパの知識人はソ連及び共産主義やマルクス主義に懐疑的になり否定派が増加します。共産主義を手放しで支持していたのは中国などの共産主義諸国と先進国ではのんきな日本くらいでそれは今でも変わりません。まあ日本は数十年は先進国でいられましたが、マルクス主義経済学を信じている進歩的文化人が主導権を握っていたので昔の共産主義・社会主義諸国と同じ万年緊縮政策の万年不景気政策をやられて先進国から没落してしまいました。せめて高等教育を行う最高学府である大学の経済学部で世界では常識的に教えられている普通のマクロ経済学やミクロ経済学を教育されていたらと悔やまれてなりません。今からでも遅くありませんので経済官僚や経済に関する発言をする政治家にはマクロ経済学とミクロ経済学の試験を定期的に行い、知的理解力を図ってから分相応の仕事に憑かせることを推奨します。  やや余談になりましたが、自由主義的な民主主義が中国と北朝鮮その他少数の国以外の世界の趨勢であり、理想と考えられていましたが、近年は中京の世界制覇の可能性も高まり情勢が変わってくるかもしれません。  ドゥルーズとガタリは資本主義に批判的に読まれることもあるようですが、資本主義の持つ自由、個人、主体、人権を抑圧する部分についてです。  自由主義的民主主義の特徴は自由主義、個人主義、人権を極限まで尊重することです。その結果として経済的な富の偏在が生じますし、パラドキシカルに自由、個人、主体、人権を制限、あるいは停止しようとする考え方が生まれる場合もあります。  資本主義社会の下におけるドゥルーズとガタリの提示する生き方は個人の自由と主体性を極限まで高めることを前提としたうえでの思想になります。  構造主義は近代のデカルト的要素還元的方法論を用いることもありますが、社会のような複雑な対象を見る場合、要素だけ取り出すことができない、つまり関係性や差異や構造が重要ですので対象をマトリックスのように全体的に複雑なまま解析したり、他因子解析のように要素の数をできるだけ増やしプロファイリングする方向性と禁煙性が強くあります。単純化のモダニズム、複雑化のポストモダニズムとでも言ったらいいでしょうか。  ですから個人を分析する際にもどうしてもその時代背景や社会背景などがくっついてきます。前提条件を提示せず、対象を分析するのは無意味どころか有害でさえあります。  例えばゲーデルの不完全性定理を見てみましょう。これだけ取り出して大騒ぎする人が多かったのですが、論文の正式名称は「ペアノの公理系の…述語論理における…不完全性定理」みたいな名前でした。少なくともペアノ公理系を知らなければいけません。数学的帰納法や対角線論法が使えなくなるからです。また述語論理でないと集合論を含んでないので同じくゲーデルが証明した完全性定理のように命題論理のように虱潰しの有限個の各パターンを全部証明することによって成り立ってしまうかもしれません。   16-2一番単純な形  メタイデオロギー、ポスト構造主義を自らのイデオロギーとするのは規定のこととして今後は語ります。その上でメタ自由主義、メタ個人主義を持ち、主体と選択肢としてのイデオロギーを好きに選ぶ状態のまま、その時、その場で好きなようにイデオロギーを選んでいくスタンスです。  ドゥルーズ・ガタリはその選択に際してドゥルーズガタリは選択肢として構造主義と重視して見えますが、もっと単純な形は勝手気ままにその時の気分やスキキライによってイデオロギーを変えることです。複数のイデオロギーを同時に選択したりしてもかまいません。同時に選択したイデオロギーがイデオロギー同士矛盾していたり、前に選択したイデオロギーと矛盾していたりしてもその人にとっては構いません。無自覚にそういうことをしていたらメタイデオロギーの自覚も自由空間の自覚も主体性もないのでまとまりのない人に見えるでしょう。これは一般の特に主義主張のない方がなんとなく自覚的にやっているというよりこうなっているパターンが多いかもしれません。一部自覚したり世間との兼ね合いであるイデオロギーを選択させられていたり、無意識に選択してしまってますが、メタイデオロギーや自由空間、主体やメタイデオロギーの自覚はありません。これは一般の日本人の生き方でしょう。  第4部第9章の現代哲学応用の基本構造に自覚的にこれを行いますと、ラディカルな自由主義者のように見えたり、アナーキーなように見えたりする場合があります。映画の時計仕掛けのオレンジやイージーライダーやアメリなどはこのようなスタンスで書かれていたかもしれません。ゴダールをはじめとするヌーベルバーグ映画にもその意識があったかもしれません。私もこのスタンスです。  しかしこのスタンスでは世俗とうまくやっていくためにはある程度のイデオロギー選択の制限が必要になります。選択せずに好きなように生きている筋金入りもいるかもしれませんが他者や外部と軋轢を起こすことが多いでしょう。  あるいはたまたま自分のイデオロギーが社会や他者のイデオロギーと調和的でうまくいっている人もいるかもしれません。  何にせよこのような人はある固定したイデオロギーを持たない人で、ある単一、あるいは複数のイデオロギーを自覚的、あるいは無自覚的に選択し守ることに自覚的である人から見れば原理原則のない人間のように見えるでしょう。その場合「自由がおれのイデオロギーだ」と反論するかもしれませんがこの自由はメタ自由主義であって世俗的な自由主義ではありません。  もう一点この考え方は本当の意味での自由至上主義です。この自由空間と選択したイデオロギーの行為の結果はなるべく国家権力などから規制され内容が良いため、基本的に規制緩和と規制をなくす形の構造の構築と構造改革を常に考え行います。行為の結果を刑罰や国会台でも何らかの権力から攻撃されないようにするため、可能な限り規制は作らず、すでにある規制もオッカムのカミソリではありませんが、損得や機会費用計算を行って、切りすてていきます。規制というものは一度できると可逆性が低くその規則の周囲に既得権益が生じたりいったん人心に定着すると変えることに費用や時間やエネルギーなどの手間がかかるため失くしにくいためです。ほっておくと規制と税金と公務員と既得権益がどんどん膨らんでいき、世の中の活気がなくなります。逆学習で意欲をのものを殺していくからです。人間も組織も一度スポ椅子れたりダメになると情熱や破棄や変えられないものと思い込み、思考を停止されます。一度そのようになるとこれも可逆性が高くなく、元に戻れるとも限りません。人間も世界も履歴(ヒステレシス)に支配されます。治安がいいとか安全だとか安定しているとか言われて喜んでいる場合ではありません。言っている人も褒めていいるのではなくあざけっている場合もあります。安定、安心、安全に定住せず常に夢と希望と情熱と勇気と覚悟を持ち安全、安定を恐れず行動していくのが好きな人がこの生き方が向いています。 16-3 あるイデオロギーを絶対的に順守する場合、専制国家の場合  これは思想の自由がない国の民族や国民が強いられる状態でよく見られます。国や集団単位で画一的に行われることが多いです。支配者層と被支配者層が分かれていることが多くて被支配者層は教育段階から洗脳され現代哲学の自由空間を持たせてもらえず、教育もされず、現代哲学の自由空間というイデオロギーがあることに気が付いて実践したり、啓発しようとすると、粛清されたり、強制収容所に入れられて洗脳を受けます。場合によっては集団単位で支配者に不従順だと、粛清されたり虐殺されたり、民族絶滅を企てられたり、思想教育や洗脳をくらわされることがあります。支配階層はそれを現代哲学を理解したうえでやっている場合と理解しないでやっている場合があって、後者が殆どでしょう。前者は支配者階層である地位にしがみつくためか、確信犯的に被支配者の現代哲学的メタ自由主義を弾圧します。これは現代でいえば中国が典型例でしょう。  しかし中国人以外も笑ったり優越感情に浸ることはできません。 16-4 あるイデオロギーを絶対的に順守する場合:自由主義・民主主義国家の場合  面白いことに自由主義や個人主義、主体性や個人の自覚を重んずる国家であっても生じえます。特に興味深いのが自由主義的民主制でリベラルと呼ばれる左派勢力でしょう。リベラルなので自由主義ともいえますし、そう思われていますが、これは現代哲学のメタ自由主義とはことなります。普通のイデオロギーとしての自由主義です。メタ自由主義は個人の内面においては絶対の自由です。自由主義過ぎて実存主義哲学者のサルトルが「自由の刑に処せられている」というくらい自由です。自由もつらい時もあるのでこういう発言になるのでしょう。  メタイデオロギーでないイデオロギーは普通のイデオロギーと呼びましょう。普通のイデオロギーの自由主義は内容がカメレオンのように変化して定まらず、現実の自由主義は多様性がありすぎて、政治的主張が真逆な場合すらあります。  まずメタ自由主義以外の自由は定義をはっきりさせないといけませんが、ここからしてもうコンセンサスが成立せずもめ始めます。  現代は理念としては近代の理念を引きずっているので、自由、平等、人権、個人尊重、主体、自覚、民主制などは近現代に共通したイデオロギーになります。これらが個人と集団で同時に成り立てば殆どメタ自由主義と一緒で問題がないのですが、現実の世俗社会でも超俗的なイデオロギーの整合性の上でもこれら全ては同時には成り立ちません。これら以外の色々なパラメータ、条件も含めてトレードオフします。ジレンマ、トリレンマ、もっと数を増やすとプリレンマかマルチレンマというのかもしれませんが、古典ギリシア語も古典ローマ語も勉強したのですがもう忘れてしまいましたので分かりませんがここではプリレンマと呼びましょう。  人間何から何まで得られることはない、いいことは悪いことの裏返しという見方は現代哲学の一つのテクニックです。  実際の世の中のリベラル、リベラリズムというものを見てみると分化・多様性が強く、党派間の権力闘争が強く内ゲバ状態で、権力が強い勢力がリベラル、リベラリズムとみなされるので国ごとに違うものを指すようです。  特徴と問題点をあげていきましょう。まず誰かの自由は誰かの不自由という状態が生じやすい点が挙げられます。そこで折衷案である程度自由を制限して平等性を担保しようとしますが、自由は弱まって今います。これは個人と集団における自由の葛藤ともいうべきものでモノレンマとでもしましょう。自由だけでもテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)とアウフヘーベン(合)が生じて結果として個人の自由も集団の自由も限定的になります。かといって個人の自由を極限まで追求すると映画イージーライダーのラストシーンのように集団主義者に射殺されておしまいでしょう。集団の自由を保障すると?ホッブズのリバイアサン状態、万人の万人に対する闘争が生じます。私は昔は世俗的にもラディカルな自由主義者だったのこれでもいいかなと思っていましたが、最近は現実的に無意識に制限自由主義者になっているようです。昔は世捨て人だったのでそれでよかったのですが、世俗に分けあって還ってきましたので仕方がありません。でも世の中の経済的福利厚生がもっと発展して人間の知性や精神性も含めあ民度が上がることで人類全員が現代哲学の下で自覚的にお互いを尊重し合える世の中にランクアップすることを望んでやまないものです。この教科書を書く同期の最大のものです。 今度は自由と他の理念との関係を見ていきましょう。自由と平等でジレンマが生じます。経済的自由とは何かという問題がありますがもしそれを保証すると収入、資産の格差なおの経済的格差が生じるでしょう。するとこれは経済的平等に反すると主張する立場の人が出てきます。結果の平等ではなく機会の平等と平等とすると自由な経済活動を保証してしまうと結果の平等がなくなります。これは理念同士でジレンマを生じる例です。  自由と民主性はどうでしょうか。民主制は選挙を用いる場合がありますが、それで自由を規制ないしはなくするという結論を出してしまうと自由が減退、あるいは消滅します。これは現在中国共産党が行っていることです。民主制から見るとそもそも個性的、多様性のある個人がいなくて個性のない画一な人間集団だけであれば民主制は必要ありません。民主制が成り立つのは個人の間に差異がある場合のみです。そもそも民主制が昔から暗黙の前提として意見の異なる個人を前提しているので選挙が必要なのであって、差異のない意見が一致することが自明な人間集団の下では選挙のない民主制が成り立ち得る可能性があります。選挙結果が全員一致するからです。全員一致しない場合は無個性の特定個人にだけ特権を与えるかを占拠する場合です。一人にだけ特権を与えるのは他のみんなが反対するかもしれません。しかし賛成するかもしれません。占拠する側は均質である特定のグループだけそれに外れているグループを形成する場合もあります。  大体これが中京と北朝鮮が国内外で進めていることです。この場合、国内でやっていることと、国外でやっていることは異なります。国内では選挙制度を失くし、特定のグループに特権的地位を与えることを自明としその他の集団を均質化し、その体制を支持するように矯正、強制、教育します。一方で他国を侵略する場合には民主制と選挙制度と自由と人権を使ってインテリジェンス工作に活用します。   そもそも自由というのは主体性とセットであることが示唆されますので自由と主体性と個人について考えてみましょう。全員の自由意思が全く同じであるクローン人間が同じ環境で育てられたようなケースが思考のモデルになるでしょう。全員の自由意思が全く一緒になるのである意味常にコンセンサスが守られるように見えます。この場合は自由ですが画一的意見しかないので自由を失くしてしまうのも無駄を省き効率でもありますから、自由の制限はケースバイケースで選択肢になります。しかし他者と同じ意見を避け個性的であれという風に教育されればやはり多様性が発生するでしょう。ここでは自由が多様性に結びつきます。するとどうしても反対意見やコンセンサスが形成されないことが出るでしょう。その場合の解決策として選挙があります。他にも戦争など戦いに訴える方法をはじめいろいろな工夫が考えられるでしょう。 まあそれぞれの関係を原点から考えるのも時に有意義でしょう。  とにかく近代の理念を実現するには何を選択しても自由主義、個人主義、人権の度合い、民主制かその他の政治体制かなど組み合わせが複雑でどれが最適化を断定するのは困難であるため、色々な人が別々の主張を同じ自由主義という言葉を使って行うことになります。ですから国によってリベラルが真逆になるというよく聞かれる話が出てくるわけです。 本当は以上のような議論は行列など使って数理的にも解析できるのですが(例えばゲーム理論)別に数学や社会学のきちんとした教科書でもないことですし、雑駁な議論で済ませることにしました。 16-5 超俗的イデオロギーと世俗的イデオロギーの問題  近代の理念、言い換えると超俗的イデオロギーは自由、平等、博愛?、人権、民主制、主体性、個人主義などでしょう。これらは政治的イデオロギーで経済的な超俗的イデオロギーは自由主義的民主主義あるいは協和制(貴族性や制限選挙)では所有権を認める事、機械の平等、経済活動による結果の不平等を許容すること、大きな声では言えませんが利己的物質的金銭的豊かさの追求などがあるでしょう。商業など経済活動の自由、例えば金利や貸し借りの許可、市場性の維持、資本主義の需要などもありますが、ここら辺は超俗的イデオロギーと世俗的イデオロギーが混ざってくるかもしれません。世俗的なイデオロギーを守ることが超俗的イデオロギーの実現につながるという、アダムスミスの神の見えざる手のような、超俗的かつ世俗的イデオロギーが多量に入ってきます。  現前は世界が、我々の認知が瞬間瞬間移り変わるのと同じく、本来は一瞬一瞬何かが変わって別の現前になっているはずですが同じ厳然として認識する。これを同一性と言い、同一性が生成するにはどんなに時間とともに移り変わっていても同じ厳然として理解してしまうように我々が考えてしまうからです。つまり同一性は我々に対して現前が再び同じような現前として現れ同じものとして認識するからです。これを再現前と言います。現前同士の差異も同じことで時間軸を導入し時間の流れを考えれば現前が無常に移り変わっているのだから差異も時間とともに変わっていきます。そういった差異のあり方と差延と言います。  空と言ったり現前と言ったりしますがネットワーク、まさにネットのようなもので網の網目のようなものです。網目とは紐や糸の結節です。マトリックスの結節点が現前です。存在とは関係性ネットワーク、マトリックス、関係性の形、構造があってはじめて生じます。ですので現前、空は単体として取り出せません。常に環境との更には世界、更には宇宙とのかかわりあいの中で存在しているように感じるものです。何かを認識する際に紐を網をネットをマトリックスだけ切って結節、結び目だけ取り出すのもいいでしょう。しかし、その時にその結節は何かが変質しています。 個人とは世界と切り離された存在ではありません。世界-内-存在といいます。個は個だけであれば存在としての意味を持ちえず環境、状況とともにあって初めて意味を持ちます。そして個人はそういう世界の中に実存主義でいう投げ入れられた(企投された)た世界を運命、宿命として持ちその中でどう生きていくかが存在者の存在の在り方です。状況やその時点その場所で、自分が存在する世界内でどのように生きるのかという事で、最も大切なのはメタイデオロギー、メタ自由主義、自由空間を持ち、自覚と主体性をもって選択をしていくことです。選択肢を増やすのも選択肢を選んで行動するのも意志と覚悟と勇気と情熱が現代哲学ではなく現代哲学を基礎としてその上に存在する、現代倫理学の、あるいは応用現代哲学である現代思想の最大のテーマです。 第5部のまとめと結語  第5部が第2篇現代哲学の応用編実践編現代思想篇の基礎になります。  まとめるとポスト構造主義で、ポスト構造主義だけが特別なイデオロギーで他のイデオロギーから区別します。そういう意味でポスト構造主義が規定するイデオロギーをメタイデオロギーと呼びます。メタイデオロギーは全てのイデオロギーを平等に扱う考え方です。 実在論にせよ、構造主義的哲学にせよ、あるいは実在論や構造主義的哲学自体もイデオロギーではありますが、実在論に基づくイデオロギーにせよ、構造主義に基づくイデオロギーにせよ、全てのイデオロギーはイデオロギーである以上ものでもそれ以下のものでもなく特別なイデオロギーというものもあれが、正しいイデオロギーと間違ったイデオロギー、より高等なイデオロギーとよりイデオロギーという区別はありません。  ですからポスト構造主義だけがイデオロギーの中では1つだけ例外となります。 ポスト構造主義が定めるメタイデオロギーとはポスト構造主義以外は全て平等なイデオロギーとすることの他にイデオロギーの選択の自由を認めます。全てのイデオロギーの中から複数個のイデオロギー、あるいは単一のイデオロギーを選択してもいいですし、どのイデオロギーも選ばなくてもいいですし、イデオロギーを変えるのも自由です。イデオロギーを平等に、正誤や上下の差がなく見て考えられることをメタ認知とします。またイデオロギーの選択の自由を保障することをメタ自由主義、メタ個人主義とします。個人の主体性、自主性を完全に認めます。この自覚を持つことが現代哲学をマスターするという事です。このような認知と行動が許されている状況を自由空間としましょう。現代哲学的に生きたければ自由空間を維持するよう努める事、妨害するものから自由空間を守ることが必要になる場合があります。  第5部では現代哲学をマスターした人とマスターしていない人の比較を行いました。またイデオロギーにどのようなものがあるのかも見ていきました。そして現代哲学をマスターしていないとどうなるかも説明しました。 現代哲学を使いこなすという事はこのメタイデオロギーとイデオロギーを理解して使いこなすという事が一番重要になります。この最優先事項をマスターすることだけで多くのことが変わるでしょう。 ですから現代哲学で一番大切なのはポスト構造主義の理解です。 そして実在論は簡単なのでおいておくとして、できれば構造主義と構造主義的哲学を理解するのが2つ目の重要事項です。この2つ目の構造主義と構造主義的哲学の理解はやや難解な場合があります。ですが現在ではきちんとした学問として確立しているので努力すれば必ず身に付けることができます。 ですので①ポスト構造主義、②実在論、③構造主義及び構造主義的哲学、とすると①を理解できれば現代哲学の重要な部分を理解できます。①②③とも理解できれば現代哲学を完全に理解できます。 現代哲学を完全に理解すると頭がよくなり、自己啓発力が高まります。それを第6部で説明します。 第6部 現代哲学から見た世界と社会  第6部では現代哲学をマスターしたうえで現実の社会をどう見るかという応用に入ります。 第17章では、人間や歴史についての同一性、恒常性の先入観の解体を行います。モダニズムでは人間を正常、異常、あるいはこうあるべきもの、こうあるべきではないものと区別していました。 そしてモダニズムの考える正しい人間像を持たない人間像を排除したり強制する装置がありました。軍事力、警察力などの暴力装置、精神病院や障碍者施設などの医療保険福祉施設です。 歴史については聖書の文献学的研究は20世紀にはいるまではタブーとされました。日本なら戦前は皇国史観、戦後は唯物史観が正しいとされそれに反する文献は無視され文献学的、考古学的研究結果が恣意的に取捨選択されてきました。現代哲学成立により何が変わったか、を説明します。 モダニズムで前提であった大きな物語(ナラティブ)についての説明を行います。 ポスト構造主義、ポストモダンによる社会の見方、シュミレーションと趣味らーくるについて説明します。 また第18章では 第17章 歴史と人間の終わり 17-0 モダニズム批判、ポストモダン  現代哲学がうまれて、現代哲学から見た近代批判が生じました。 それを解説します。 17-1 同一性神話の解体  人間も歴史も同一性を保っている、万物は平和な状態で破壊的な状況で次々と破壊されていなければ同一性を保って存在し続けると我々は発達過程で感じる様に育ちます。  しかし現代哲学では「現前」の項で少し触れたように現前は一瞬一瞬別の物に変わっていくと考えます。差異により現前は生じますが、時間的にも一瞬一瞬差異が生じて常に同じ現前ではありません。しかし我々の目には同じ現前に見えるため、同一性、恒常性を保っているように見えます。これを差延とジャック・デリダはなずけました。この考え方は認知科学と相性が良く、記憶というものは差延的な物であることが示されています。  一瞬一瞬全ての構成要素が入れ替わるのですから構造というのは性的な物ではなく動的な物、すなわち構成的に見る見方が必要になる場合もあります。  現代哲学を学んで一番実用的なことは公理主義を使いこなせるようになるでしょう。公理主義は静的なイメージがあること、また構造主義という言葉が静的な感じを与えるため静的に捉えられることも多いですが、現実には動的な認識が必要な場合が多くあり、構造的というよりは構成的に見ることが多くあります。  諸行無常 諸法無我  と般若心経にありますが、上が差延、構成的なイメージ、下が現前、構造的なイメージになります。  さてこれを人間や歴史に当てはめてみるとどうでしょう、というのがこの章のテーマになります。 17-2 人間の終わり  個人レベルでは万物と同じように一瞬も同じ存在ではありえない。つまり自己や他者の同一性や恒常性は保証されないと考えるのが現代哲学的な発想になります。さて人間というカテゴリー全体で考えるとどうでしょう。カテゴリー、概念、イデアで考えるとどうなるか。 17-3 歴史の終わり  一次資料から歴史を勉強してみましょう。古い時代は文献がなさすぎるので、考古学資料が重視されます。文字で記されたものが本来の歴史の定義ですが、歴史を広く捉え文字以外の情報も混ぜて広い意味で使ってみましょう。昔は文字情報保存の技術も低く、複製技術も低く、文書保存能力も低かったので、昔の事を知るのに十分な情報がありません。逆に時代が下ると情報が氾濫してきます。昔も今もそうですが、情報は矛盾していたり、一面的な偏った立場から書かれていたり、実は後の時代に作られていたりします。また今は公開されていなかったり発見されていたかったりして時代によって残される文献も刻一刻と変わっていきます。我々はそういったものを使って歴史を知ろうと努力します。昔は真実の歴史があってそれを探求するのが歴史学という考え方がありました。これは理想主知的、観念的な考え方です。しかしそんなものはないといったのがミシェル・フーコーです。そもそも過ぎ去った過去を知ることはできません。正しい歴史を残す努力は出来るかもしれませんが、実際には残せません。文献どころか我々の記憶すらあいまいで想起するたびに再構成されていますし、構造主義的に言えば、常に歴史認識は変わっていくものです。現代哲学からみれば万物は常に変わっていくものです。それは歴史と言えども例外ではありません。現代哲学では真理、真実、事実という概念がないように真実の正しい歴史という考え方はとりません。歴史も常に変わっていくものです。この発想の転換が近代と現代を分ける物です。近代には正しい歴史というものがあって何かの都合で正しく理解できない時でもそれがあるという真実にかわりがないというう考え方をしていました。現代哲学ではそもそもそんなものは歴史にせよ何にせよ初めからないのです。そういう考え方が存在しないからです。 17-2 人間の終わり  こちらの方は現在は普及啓発活動が進んで当たり前の様に理解されてきているため、逆に昔のことが分かりにくくなっていますが、以前には正しい、かくあるべき人間像というのがありました。この考え方によると正常な人間がある一方で異常な人間もいることになります。実際に昔は異常な人間がいると考えられ区別されたり差別されたりしていました。天才とか高貴な血筋とか成人とか預言者がいると考えられた反面、精神異常者やLGBTや知的身体障害者や嗜好が変わっていると見なされている者があると見なされていました。歴史に対する考え方と同じように現代哲学は人間に対しても書くあるべき真実の人間のような考え方をそもそもしません。これは当たり前の様ですが、意外と最近までは日本やアメリカを含め優生学というものがありましたし、共産主義諸国では今でも民族浄化が行われています。フェミニズムや一部の社会活動家が頑張って活動して人間は多様性があり寛容であるべきという考えは現在通念のようになっています。その際に現代哲学を引っ張ってきて時に誤用や意図的、政治的な利用のためのいいとこどりを行うことがあるようですが、それ自体は現代哲学の責任ではありません。 17-3 形而上学批判  近代以前の、実在論が入り込んでいる思想や宗教はひっくるめて形而上学ともいいます。これらはどこかに仮定や無条件の信仰が入っていたりします。現代哲学はそういうものに対して正しいという保証を行いません。また間違っているという保証も行いません。不可知論ともいえるかもしれません。ただそういったものが排他的になったり、他を攻撃したり、自分の思想がただしいと主張する場合には批判的に見てしまう癖がつくかもしれません。そういったことがなければ現代哲学は寛容でむしろ優しい思想です。現代哲学があまりにも何でもありであるため我々がどう生きるべきか、どう判断すべきかを教えてくれません。ですので現実の世界、社会の中で生活していく際に困ることがあります。好き嫌いでもいいし何かの宗教や思想を信じるのでもいいのですが、時に自分で判断し決断し行動し責任を取るための基準を自分で決めないといけない時があるかもしれません。何事もいいことばかりではなくいい面も悪い面もあります。この考え方は現代哲学を応用する際によく使う考え方ですが現代哲学自体にも当てはまります。 第18章 イデオロギー批判と現代哲学 18-0  近代の偉大と悲惨 現代哲学は近代哲学を乗り越える過程で生まれました。近代哲学の基礎には素朴実在論があります。それを肯定するにも否定するにも素朴実在論が必ず意識されていて何らかの形で組み込まれています。素朴実在論には真善美などの観念の実在性も含まれており、肯定するにせよ、否定するにせよ無視できない要素でした。近代哲学、もう少し広げて現代思想をものに作られた理論や体系、イデオロギーにはその考え方がどうしても影響を与えてしまいます。特に問題なのは、真と善です(文学や技術をやっている人にはすみません。美も大切でしょう)。 近代は人類にとって偉大な時代です。科学技術が発達し、経済、産業がそれ以前と比べ物にならないほど発展した結果、人間は物質的に豊かになりました。また知識の集積、情報、メディアにより知的にも豊かになりました。公衆衛生、医学の進歩は死亡率を下げ健康と寿命を改善しました。一方、軍事やイデオロギーによる人間観の対立は多くの人を殺しました。20世紀ほど巨大な偉大と悲惨が同居する世紀はなかったでしょう。 そのイデオロギーが真であり善であれば人間はそれに従うべきだということになるでしょう。それに従わないものは正しくないという意味で偽、つまり間違っており、悪であるという結論を導き出しても不思議ではありません。20世紀は偉大と悲惨の世紀で人類が素晴らしいことを成し遂げる一方、悲惨なことが数多く起こりました。科学・技術の進歩は人間の偉大さの象徴でしょう。一方で悲惨さの象徴は戦争や宗教対立ですが、戦争や宗教対立を正当化する際に時に使われたのがイデオロギーでした。 18-1 イデオロギーの何が問題か  イデオロギーはイデアとロゴスの合成語で観念の体系という意味です。そういう意味ではいろんなものがイデオロギーです。現代哲学もイデオロギーですし、現代的構造主義も、素朴実在論もイデオロギーです。数学基礎論も、集合論も、意総論も、数理論理学もイデオロギーですし、幾何学、解析学、力学、電磁気学、全部イデオロギーです。公理主義もイデオロギーです。  理論や体系というものは抽象化すれば全てイデオロギーです。ここで問題にするのは政治思想です。これもイデオロギーです。これは大変多くの人を巻き込みますので多くの人を幸せにすることもあるし、不幸にすることもあります。政治思想だけでなく、経済思想や科学思想もそうなることがあります。日本の失われた30年は経済学をきちんと勉強していない人たちが主導権を取ったためにおこってしまった(優しく言えば時代的にまだ知的レベルが低かった)ことから起こった悲劇ですし、アメリカ南部では進化論や地動説を教育で教えることの是非が裁判になり、進化論、地動説側が敗訴したりしています。まさにモンキートライアルで現在から見れば猿のような議論でしょう(まだ禁止している州があったらごめんなさい)。  イデオロギー自体はいいのですが、それを絶対化し人々に適用すること、あるいはそれを信じて従うことを強要することから悲劇が生じます。ですから問題はイデオロギー自体ではなくイデオロギーの絶対化が問題です。絶対化までいかなくてもそのイデオロギーがただしくてそれに反する部分がある別のイデオロギーが間違っているといいだすと非常に要注意の警報を発動しなければいけなくなります。  イデオロギーの中で自由主義だけすこし異なっています。特定のイデオロギーを絶対化しないことがラディカルな自由主義の特徴です。自由主義を絶対化しているではないかという批判がありそうです。そういう自己言及命題ができるのが自由主義の特徴です。ラッセルのクラス理論でいえば自由主義は他のイデオロギーとはクラス(階級)が違います。イデオロギーを絶対化するかそれ以外かとすると自由主義派それ以外に含まれます。このあたりの議論は簡単にするために省かせて頂きますが、問題は自由主義以外の政治思想(時に経済思想を含む)の絶対化です。 18-2 近代以前の思想の理論・体系  現代以前の思想について考えてみましょう。とりあえず現代に近い近代の哲学者について考えてみましょう。デカルトは心身二元論を唱えました。物に対する認識は正しい、それは神が保証するからだと考えました。デカルトの哲学は神の誠実を仮定しています。カントは物自体から認識に至る理性、悟性、感性などについて考えましたが、物自体と認識の過程を精緻化しただけであまりデカルトと変わりません。物自体には到達できないジレンマを考えたのはカントの誠実さでしょう。しかし実践理性批判や判断力批判になってくると途端に仮定が入り込み始めます。提言命令、「~すべし」「~すべからず」というルールが存在してそれに従うのが人間の行うべきことだ、みたいな仮定が入り込み始めます。ドイツ観念論になると物自体を否定し観念一元論から出発す。観念だけがあり、実部と見えるものはある種の障害があるとそれが事物として精神に現れるとかフィヒテは言います。それがさらにシェリング、ヘーゲルとごにょごにょなって、絶対精神や弁証法が存在して世界や存在の法則になっているのだという仮定にものづいた物語が語られます。仮定が入っているので全てファンタジーであり、仮定が真であると示されなければフィクションです。しかしある意味近代哲学はここで完成したとも言えるし行き詰ったともいえます。ヘーゲルの体系はそれなりに世界の成り立ちや我々の内面を理解できてすっきりとした理論でもあります。仮定を導入してでもこの様な世界の説明体系が哲学により作られたのは哲学にとって進歩でしょう。ヘーゲルは近代哲学の帝王みたいな存在なのでその後の思想たちはヘーゲルを研究しますし、さらに実用化してマルクス主義を造ったカールマルクスみたいなものも現れます。マルクス主義はドイツ観念論のヘーゲルの哲学、フランスの空想的社会主義、イギリスのマルサスの人口論など当時の色々な物をまとめてつくった体系で、あまりすっきりした印象はありませんがその後の歴史に大きな影響を与えました。ソ連崩壊で古本屋で投げ売られるまでは資本論を金科玉条のように勉強するのが知的だと考えられていました。  こういった近代思想は何らかの形で事物の実在性を説明するという条件に拘束されています。実在論の影響を逃れられなかったところが一つのポイントになります。そこで近代哲学までの哲学を実在論系統の哲学理論と考えます。  一応第3章でふれたフッサールとニーチェとについて考えてみましょう。この2人は近代哲学の最後の人、あるいは現代哲学を切り開くための最初の端緒人のような側面があります。フッサールは現実に見えている事物について考える事を保留(エポケー)し、確実な物、つまり意識の中に現れる現象、認識される現前を観察することで新たな道を切り開こうとする現象学という学問を造りました。現象「学」と学がつくのはそれが方法論だからです。科学とは方法の精神です。意識の中に現れる現象、現前までは確実であるが、それ以上のことは何も言えないと態度を保留しました。ここには何の仮定も入っています。確実な物だけを追求し、仮定を排除しようとすることは哲学にとっては健全な精神です。仮定は確実なものとは言えないからです。真であるか偽であるか確定した時に初めて確実な物だったりしますが、それが神だったり絶対精神だったりすると真偽の確定もできません。ですから家庭に依存している哲学体系は全てフィクションでファンタジーなのです。ソシュールは哲学のフィクションファンタジー性を駆逐します。結果としてその後の現代哲学はソシュールの造った楽園、この意識の中の現象を相手に繰り広げられることになります。ニュートンの古典力学におけるガリレオ空間のようなものです。それは観念論とは違います。観念論は観念の実があると観念を絶対視する思考です。それは仮定と仮定の絶対視の絶対視です。ソシュールが目指したのは哲学の方法論の厳密性と確実性の追求です。そもそもソシュールはもともと数学者で最初は解析学の帝王ワイエルシュトラウスの助手をしており、それから数学の確実な基礎の研究に研究方向を切り替え、それから哲学に来た人物で、通してみると関心の方向性が一定しています。  ニーチェはまた違う現代哲学の開拓者です。ニーチェは哲学に対して重要な問いをはっしました。「なぜ人間は哲学をするのか」です。別のいい方をすると「なぜ人間は確実性を追求したいという欲求にかられるのか」です。また別のいい方をすると「なぜ人間は実在するものがあると思っているのか」です。これは哲学に対するメタ認知です。問題は問題としなければ問題になりません。問題とするから問題になります。問題とするかどうかはそれを問題とする人の内面的な衝動や欲求というような精神力動によって決まります。それはどのような精神力動なのか?ニーチェが問うたのはそれでした。人間は見たいものだけを見、信じたい者だけを信じる、あるいは信じてしまう、とジュリアスシーザーは言いました。ニーチェとが当時の心理学や精神分析学とどういう関係にあったのかは分かりません。そのような問いを立てたうえで、ニーチェは次のような回答を与えました。「実在していると思っているものは、人間が実在して欲しいと思っているから実在している」。別のいい方をすると「人間は実在して欲しいものを実在していると思い込む」あるいは「実在していて欲しいから、実在していると無意識に思い込む習性がある」ということです。今までの文脈から表現すると確実性という観点において、「確実に存在する根拠はないが、人間がそれが確実に存在すると思い込んでいるだけ」、「確実に存在して欲しいものを、人間は確実にそんざいすると無意識にでっちあげてしまう」心の働きがあるということを指摘しました。つまり事物が確実に実在しているという根拠はないのです。あるのはその事物が確実に存在して欲しいという我々の願いだけがあります」  結論としてニーチェは①事物の存在の有無の確実性は問題ではない。②問題なのは我々が事物が確実に実在してしまうと思い込んでしまう心の働きの仕組みだ。 という問題提起を行いました。  これはおおきな、しかも哲学が今まで思いもよらなかった方向転換の提案です。存在論を無視しろと言っています。言い換えると存在が確実だとか確実でないとか問うのは無駄で不可知でよいととれます。またなぜ我々は無意識に確実な事物の存在を仮定する思考をしてしまうのかという、思いもよらなかった質問が今までの哲学者に問いかけられたわけです。これを無視してしまうのも一理あるでしょう。そうすると存在論の絶対化になります。しかしこれを発展させていくとどうなるでしょう。存在論を無視しているのでこれはフッサールの方法論と同じようなフィールドで哲学することに通じます。ニーチェやフッサールの弟子ハイデガーはそれぞれこれに彼らの回答を与えていますがここでは触れません。重要なのは存在論を無視する考え方が出てきたことです。そうすると何が残るか、あるいは何が残るか、あるいは生まれるかが問題です。  歴史上存在論にかわる、ということは存在論の影響を全く受けずないで成り立ちうる哲学として成立したのが構造主義になります。 18-3 存在論の不要の哲学  繰り返しますが近代哲学は存在論の影響を受けています。存在が実在するかどうかを説明することは、どのような哲学であろうと理論の内部に重要な要素として存在しています。それと全く独立の、独立という言葉は数学では背反とは違い、関係ない、無視して成立する、ということですが、新しい哲学があれば、それは大きなニュースになります。  さて口でいうのは簡単ですがそういう哲学をどうしたら作れるか見つけられるかです。実際長らくそういう哲学理論は現れませんでした。現れたのはフランスで1960年代にフランスで構造主義が流行するようになってからで、それが哲学に応用されるようになってからです。変な話ですが、哲学の構造主義にはこの人が哲学において構造主義を確立した、という人はいません。構造主義の四天王として、レヴィ・ストロース、ルイ・アルチュセール、ミシェル・フーコー、ロランバルトなどが言われた時期もあったようです。ある意味流行現象だったのでそういうはでなレッテルが張られたのでしょう。誰が哲学に構造主義をもたらしたかという議論にはなっていません。哲学の構造主義は別の学問の構造主義が移入されたものなので、誰が移入したのかと問うてもそれほど意味はありません。多少の時差があっても同時多発のようなものです。では誰が構造主義を確立したかというと数学者のダフィット・ヒルベルトや言語学者のソシュールが挙げられることが多いでしょう。一般にはソシュールが有名なようですが、ヒルベルトの方がおそらく先です。どちらも象徴と記号、抽象概念と具象を操る学問であることに興味をひかれます。まさに言語とそれが表す対象(シニフィアンとシニフィエといいます)、数学と数学的概念の関係の確実な基礎付けを探求する過程で構造主義的な考え方が生まれました。その後数学は数学内外で公理主義として数学を基礎をする物理学などへも波及しながら発展し、言語学は言語学内外で構造主義言語学として研究されていきましたが、構造主義ブームの火付け役になったのはレヴィ・ストロースで文化人類学のある民族の婚姻の仕組みに構造主義を適用します。フランスの学制の特徴ですが、知識人同士は親密で学際的に勉強会や研究も行われ、各学問分野に構造主義が取り入れられ隆盛を迎えます。ここからの時期はフランス現代思想と呼ばれます。そういう背景の中で哲学も構造主義が取り入れられますが、特に重要なのはジャック・ラカンだと思われます。彼は精神科医で精神分析学を構造主義化します。これは存在とは何か認識とは何かを説明する実在論とは根本的に異なる、ということは独立で実在論の要素が全く入ってない初めての新しい哲学理論に転用できるモデルだったからです。実在の存在を無視あるいは不可知なものとし、認識に現前が生じる仕組みを精神力動を用いて説明しています。これは現象学からニーチェの哲学を継承しています。さてこの理論もシェーマLという仮定のモデルを使っているではないかという意見が出るかと思います。その通りでこれも一つのフィクションでファンタジーです。ただのモデルでしかありません。構造主義を用いて別の認識と存在のモデルを作れるかもしれませんし、構造主義とはなれたところで、かつ実在論とも離れた全く別の独立な哲学理論を造れるかもしれません。そういう意味で構造主義派批判の余地が実在論と同じくありますし、絶対化できない部分が実在論と同じくあります。  実在論にせよ、それに基づく、近代哲学にせよ、構造主義に基づく哲学理論にせよ絶対化は出来ないのです。構造主義が流行すると流行時に往々に見られるように急進化しそれを絶対化、あるいは絶対化と言わなくてもそれを強く押し出す人々が生まれます。イデオロギーとはそういう面があり得ます。  そういう訳で哲学においてそれらを相対化する、メタ認知でみる理論が生まれます。それがポスト構造主義です。 ポスト構造主義は繰り返しですが次の4つの見方をします。 ①実在論を肯定し構造主義を否定する。 ②実在論を肯定し構造主義を肯定する。 ③実在論も構造主義も両方肯定する。 ④実在論も構造主義も両方否定する。  その上でまた別の哲学理論があるかもしれないと考える知性の余裕も必要ですし、ポスト構造主義自体が構造化される可能性もあり得ます(ちなみに数学はそういう不毛に見えかねない事ばかりやっている学問です)。 さてラッセルのクラス理論、タイプ理論でもそうでしたがメタ認知化する、すなわち階層化する、俯瞰的に上から見下ろす見たかとすると全体は良く見えますが、その思想自体に実用性が乏しくなります。ですから我々はポスト構造主義まできちんと理解しそれで終わりでいいのです。 18-4 イデオロギー  さて3章とこの章を読めば哲学史がだいたいわかったと思います。そこでこの教科書だけで哲学史を理解できるのでリーズナブルです。  それはともかく、ここまでの結論は仮定を置かない理論はない、ということでした。つまりイデオロギーというものはすべて仮定に基づいて作られています。ですからその仮定が真であることを証明しない限り絶対に確実であるということはできません。したがってそのイデオロギーを自分で信じることは自由ですが、絶対化できないことを自覚するべきですし、人に押し付けるのも自由ですが、それで押し付けた相手が不幸になった場合に押し付けた人はどう考えるべきか、ということを常に自覚することが大切です。  本教科書は現代哲学を身に付け応用することの習得を目指すものです。それにはきちんとイデオロギーを習得しそれを使いこなし、かつそれを絶対化せず場合によっては別のイデオロギーに切り替えるということです。 ポスト構造主義はメタ認知能力を持ち、全てのイデオロギーを絶対化せず、相対化し、しかも自分が使いこなせるイデオロギーを用途に応じて使いこなし、幸福になろうというものです。ポスト構造主義で常に持たなくてはいけないのはメタ認知ですがそのためには自覚や謙虚さが必要です。 特に問題は ①そのイデオロギーが公理化されているかいないかの自覚を持つこと。 ②イデオロギーを切り替えた時にイデオロギー間で別の結論を出すことがあるので、行動が時間の前後で矛盾してしまうことがあること。 ①もなく②もなければ矛盾だらけになり自覚しきれなく、つまりコントロールできなくなり混乱が生じる恐れがあります。現代哲学は頭を使うことも多いので頭が疲れてしまう場合がありますし、人間の持続力や回復色には限界があります。自分が混乱して疲弊するのも問題ですが、傍の人が人が混乱する恐れがあります。いい混乱ならいいでしょうが、その人々を不幸にする混乱であれば、その人々が自分にとって大切な人々である場合には自分も不幸を感じるでしょう。イデオロギーの取り扱い、イデオロギーの理解、イデオロギーの切り替えには大変注意が必要です。 18-5 イデオロギーの脱構築  イデオロギーを使う話をしてきましたが、イデオロギーというのは一つの構造です。 我々の中にあるイデオロギーがついて離れない場合、そしてそれで苦しんでいるような場合にはそれを改善したくなるかもしれません。 18-5 現代哲学が教えてくれないこと  現代哲学メリット、デメリットを挙げました。メリットとして知的、思考的なものが目立ちますが現代哲学が教えてくれないことを考えてみたいと思います。 現代思想は我々に何を信じるべきかとか、何を好きになるべきかということを教えてくれません。それを選択のは個々人です。何が真実で自分は何を信じるべきで何を信仰すべきか、そういったことについて現代思想は何も教えません。自分が何を好きになり、何をやっていれば楽しく幸せに過ごせるか現代思想では分かりません。我々がどうやって生活していくのかということは我々の現実であり、我々は何かに従って生活従わざるを得ませので、必要なことです。我々がどういう生活や行動のスタイルをとり、何を考え何を感じていくかについて現代思想は教えてくれません。そういうものは自分で決めることであることを現代哲学は結論として示唆します。 現代哲学は我々の精神に対しては思考、認識からのアプローチを行い、感情や意志を扱うツールではありません。 全ての認識を解体することはできません。仮に全てを解体できたとしても私たちが生活するには何か構築されたものが必要です。我々は構築していかなければいけませんし意識しなくても自然に構築を行うよう成長します。それが積極的なものであっても受動的なものであってもです。ただ何を構築しても、現代思想を忘れてしまってはいけません。我々は我々の受け入れたものをいつでも解体したり脱構築できる能力をなくしてしまってはいけませんし、いつでも我々が構築している諸事物を俯瞰的に捉えたり相対的にみたりできるべきです。いい方を変えるとメタ認知できるべきです。それは我々に知的な謙虚さを与えます。 現代哲学を自分の思想として生きるということはそういうことです。 我々は発達の過程で何かを認識していきます。いいかえると認識対象の物事を構築していきます。この発達過程が障害されるのが知的障害の一つの説明となります。 それは初等教育で学ぶには難解であるということもありますし、理解しなくてもよい人生を送れるからでしょう。また認識能力、自己同一性や自己以外の他者や物事の同一性、恒常性を発達過程で身に付ける前に現代思想を学んでしまうと事物の同一性や恒常性の認識能力が障害されてしまい、ある種の精神疾患にかかりやすくなる精神の脆弱性へとつながってしまうかもしれません。教育理論では認識の発達には時期があり、その時期に達する前に年齢に不適切に抽象的なことを教育しようとしても不可能である可能性があります。 第19章 シミュラークル、シミュレーションの世界、大きな物語とナラティブ 他者との違いを知ること、それを我々人類は優しさと呼ぶ。   村上龍 19-0 本章では現代哲学から必然的に導かれる世界や社会に対する見方を説明します。 シミュラークルはまがい物という意味でシミュレーションは嘘、偽造、捏造という意味です。現代的構造主義では真理や真実と言った言葉を使いません。モダニズム批判とか特殊な文脈で使いますが、近代以前に興味も知識もなければ、そもそも現代的構造主義のの文脈の中には自然に、「真理」や「真実」が使われる文脈が出現する機会がないのです。定義して使う人工的なわざとらしい概念のように現代哲学しか知らない人は感じるでしょう。「心理」や「真実」は素朴実在論では自然で経験的に使われる言葉です。「心理」や「真実」という言葉は便利なので日常で使えると便利でしょうし、素朴実在論しか知らない人と話す場合に齟齬を生じてしまいます。ここに素朴実在論を勉強しておいた方がいい理由の一つがあります。素朴実在論は過ちであると立証できないものです。ですから知っておく必要があります。現代的構造主義に傾倒してしまって絶対化して原理主義化するよりは、もう一つ確かかもしれない2つ目の理論があった方がいいでしょう。そうすれば3つ目の理論も、4つ目の理論も、あるいはもっとたくさんの理論があるかも知れないという可能性を考えることができます。知らないことを知ること、どれは謙虚、謙譲、謙遜、そして他者に対する優しさと寛容さを生みます。これは現代哲学を身に付けることで得られる自然な徳であり、利益でもあります。 19-1 現代哲学の存在の考え方  現代哲学では存在に対する考え方が近代哲学と異なります。  近代哲学というのは素朴実在論に立脚していたため存在というのは重要な問題でした。現代哲学では現代的構造論の考え方もできるため存在に対する考え方が違います。素朴実在論では存在とは自明の物でした。近代哲学は素朴実在論の影響を受けているため、存在を無視した見方をできません。ですから存在論というのが一つの大きな柱になります。  現代的構造主義ではそもそも存在という考え方がありません。存在というのはある現前が単一性、同一性を保って認識されるときに人間が感じる感覚です。それが実体であると勘違いした時にその現前の実態が存在すると間違って解釈します。つまり存在を自明なものとする考え方は間違っていると考えます。そういう立場からすると我々が存坐すると思っているすべての事物は捏造でありまがい物ということになります。これをボードリヤールはシミュレーション、勘違いして存在していると思っている対象をシミュラークルと言います。現代的構造論の立場では存在していると思える事物、そしてその総体の世界、全てはシミュラークルであり、世界はシミュレーションの世界です。  素朴実在論を否定して、現代的構造主義を絶対化した立場から見ると、素朴実在論でしか物事を見れな人はまがい物を本物で真実の実在であるという過ちを犯していることになります。素朴実在論でしか事物を見られない人はシミュレーションの世界に住んでいながらそれを理解しない騙された人達という風に見ることができます。  現代哲学ではこういう見方を出来る様になることが必要です。こういう見方を出来る様になってこそ、現代的構造主義の意義が理解できますし、ポスト構造主義の有益さも理解できます。  繰り返しますが事物の存在とは近代哲学以前の人々には、素朴実在論やそれから離れられない哲学を持っている人々には自明なものに見えるため無視できない非常に重要な概念です。他方で現代哲学を習得した人には存在について考える事もそれを無視して整合的な議論を行うこともできます。それはなぜかというと現代的構造主義的ができれば存在という概念も素朴実在論を否定しても全く生きていくにもコミュニケーションを取るにも社会を成り立たせるためにも科学・技術が存在するためにも問題ないからです。  近代以前の人間が現代的構造主義を知らないで素朴構造論だけで生きてきたのと同じように、現代人は素朴実在論を否定して現代的実在主義の考え方だけで生きていくこともかのうです。もちろんポスト構造主義の見方のようにそのどっちの考え方も受け入れつつ、両方の見方を同時にとることもできるような懐の深い見方をするのが一番いいと思われます。現代的構造主義が確立した当初は素朴実在論を否定し現代的構造主義だけを採用する急進的、原理主義的なラディカルな考え方も流行しましたが後にポスト構造主義の立場からこのような極論は批判されることになります。当初は構造主義者と言われた論客達はこのような現代的構造主義を用いて素朴実在論を否定する立場が多かったですが、ポスト構造主義の確立と共にポスト構造主義に吸収されていきます。  ただし急進的な現代的構造主義論者たちの素朴実在論やそれから派生する思想批判は無駄な物ではなく、様々な思想的な果実を実らせました。これをポストモダニズムということがあります。ポストモダンという言葉はリオタールという思想家が使った言葉で近代、つまりモダンの後の時代、現代、コンテンポラリーということで素朴実在論が自明な物ではなく現代的構造主義が確立したことで現代という時代に変わったという時代区分の変化を表現しています。 19-2 近代主義批判、ポスト構造主義  真理、真実、事実、実体、実在、現実、存在、そういった言葉は現代構造主義の立場から見ると?、何のことだろう?、ということになります。相違概念を用いる必要が現代的構造主義にはないからです。必要がないので素朴実在論を否定して現代的構造主義の立場からそれらの概念を論じるためには現代的構造主義なりの方法でそれらを定義してやる必要があります。それらは素朴実在論にとっては理論の中核をなす一時的な概念でしょうが、現代的構造論の側からみればあらためて現代的構造主義の概念や方法をつかって定期議しなければいけない二次的な概念にすぎません。ポストモダンやポストモダニズムという場合には近代に対して批判的な視点を持っているため、やや近代を侮蔑するような言葉や表現が使われる場合があります。シミュラークルやシミュレーションはその典型です。近代的な認識しかできない人々はシミュラークル、つまり実在しないものを実在していると思いそれを真実を思い込んで誤った考えを持ちながら生きている、ということになります。  ただその様な差別的な意味合いだけでない悲しい現実として我々は生きていく中でいかに真実に見えるような世界の中に生きているように感じていたとしても、それはシミュレーションである、という自覚を促す、肯定的な表現でもあります。  メディア批判ではいかにメディアが偽造、捏造、剽窃、プロパガンダするか等が論じられます。しかしメディアが偽造、捏造、剽窃、プロパガンダしなくてもその報じる内容はシミュレーションです。メディアを介さなくても我々が感じ取る事物や世界自体が現代哲学的に言えばシミュレーションであるという見方を常に持ち続けなければ、現代哲学をマスターしているとは言えません。時に世界を現実、実在と感じて過ごす感性も、シミュラークル、シミュレーションと見て健全な懐疑主義、ニヒリズムを常に携える姿勢も両方持たなければいけません。素朴実在論で対象を見て安心することも不安になることもあるでしょう。逆に現代的構造主義で物事を見て安心することも不安になることもあるでしょう。ポスト構造主義ではその両方の見方ができるということですので、現代哲学をマスターすると感情のコントロールが上手になります。 19-3 正しいもの  10-2にならって現代哲学的に見た色々な概念を検討していきましょう。 例えば正しい、あるいは悪いという言葉について考えてみます。 ある言語では一つの意味しか持っていないように見える言葉でも他の言語では多義語の場合もあるし逆もあるでしょう。「いじめられる方も悪い」という言説が昔はありました。この場合の悪いとはどういう意味でしょうか。宗教的に悪という場合にも悪いと言います。倫理あるいはその行動既定の道徳から見て、道徳的に悪い、という場合もあります。法律的に悪い事という場合には違法であるということです。品質が悪い、などものの良し悪しにも使われます。仕事で悪い判断をした、という場合には間違った判断という意味です。頭が悪い、と言いう場合もあります。知能が低いことを指します。腕が悪い、という場合もあります。技能が上手でないということです。食べ物が悪いという場合もあります。腐ってたりする場合です。それぞれの場合の反意語は正しいではなく、善だったり、良いだったり、上手だったりします。さて「いじめられる方も悪い」という場合に何が悪いのでしょう。今では倫理道徳的に悪いものは悪いということが認識されているのでこういう言説はなくなっていると思われますが、昔は「いじめられる方にも原因がある」という意味で使われていたようです。しかし悪いという言葉を使ったため、いじめる側が正しい面もある、いじめたのもしょうがなかったという風に言説が変性し、いじめにもしょうがない面がある、といういじめ擁護論に使われたりしていました。 第7部 各論:現代哲学の科学・学問への応用 20-0 現代哲学の自然科学への応用 現代哲学は現在の科学、技術、学問の基礎であると書きました。それをこの第4部で説明します。 20-1 数学への応用  これは基礎篇で詳しく書きましたのでここでは簡単に書きます。現代哲学を数学に応用したというよりは現代数学の基礎論を現代哲学に応用したと書く方が正確です。現代的構造主義の成立は数学が他の学問に先んじました。但し純粋数学者自身がそのアイデアを哲学に広めようとする動きは鈍かったようです。思うに数学者は数学が至高の学問だと考えておりそれを他の学問に応用しようとしたり商売に導入しようとする傾向が少ないようです。数学を哲学に応用しようとした人物としてフッサールやヴィットゲンシュタインがいますが数学の分野ではあまり大きな成果を残していないようです。ラッセルもそうかもしれませんが、ラッセルは数学至上主義者で頭が悪くなったので仕方がないので哲学をやったようなことを書いていたと思います。ついででやった哲学や評論ですがそっちの方ではノーベル文学賞を取っているようです。  現代数学の公理主義は特殊な構造主義で一般化すれば哲学の構造主義に容易に転用できます。  数学の公理主義は数学の各分野にすぐに広がりあらゆる数学で公理主義化が行われます。一方で数学基礎論も深く研究され発展し、例えば計算機科学、つまり現在のコンピュータを生みました。コンピュータも含めた情報科学、データ解析などはそもそも数学の一分野ですが応用科学すなわち技術として社会的にも産業的にも重要ですので、それ自体で大きな学問分野になっています。 20-2 物理学  そもそも物理学は数学と仲が良く、哲学とも仲が良かったですが、物理学も公理主義が確立すると各分野すぐに公理化されましたし、そもそも新しい理論を造る際には公理の区政を最初から考えて作られることもあります。 20-3 発達心理学、認知科学  ピアジェという有名な発達心理学者がいて彼は構造主義者と呼ばれましたが自分は構成主義者であると言って構造主義の時間軸のなさを批判していたようです。ピアジェの見方は精神科医が子供を見るときにエリクソンと共によく使うので例示してみます。 ピアジェによると人間の認識は赤ちゃんの時の感覚運動期を経てその後表象的思考期に入ります。表象的思考期は前操作期と操作期に分かれます。前操作期は前概念的思考段階、突貫的思考段階に分かれます。その後学童期に入ると具体的操作期、思春期に形式的操作期になります。人間の心、あるいは脳というものは公理主義的ではありません。バグも多いし矛盾も多いでしょう。特に発達期にはそもそも思考力が十分に発達していません。  大人になって認知機能が十分に発達したとしてやはり素朴な実在論だけで心をとらえるのには無理があります。脳はある程度ネットワークとしてみないといけないので情報科学との親和性が出てきますが、ネットワークが作り出す実体感は実在論のそれとは違うものです。哲学でも心理学でも認識の理論の研究は行われますが、どちらも未完成の分野で発展段階ですので、実験系でなく理論系の研究も行う場合には現代哲学の素養がないと理論が古臭くなります。  ここで人間の発達段階について考えてみます。  ピアジェという発達心理学者が人間の認知の発達について考察を行っています。 ピアジェによれば発達に関する基本機能として、シェーマ、同化、調整という3つの概念を挙げています。 ①シェーマ:経験によって形成された枠組み ②同化:持っているシェーマを当てはめ新しく理解する ③調整:新しい事柄に適応するため、シェーマを変えていく  そのような機能を前提に人間の発達段階を分類しています。 最初は1.5~2歳の赤ちゃんの頃で感覚運動期と言います。これを過ぎると表象的思考期と言ってある種の抽象的思考が出来る様になっていきます。1.5~2歳から7~8歳までを前操作期と言い、1.5~2歳から4歳頃までを前概念的思考段階、4歳から7~8歳までを直観的試行段階と言って幼稚園に入るまでの認知発達です。何にせよ幼稚園児相当の認知発達がないとなかなか社会人としては生活は困難です。  7~8歳から11~12歳までを具体的操作期、12歳からを形式的操作期と言います。学童期の学習では中学の壁と言いますが、それぞれの時期に認知能力の飛躍が見られます。しかし個人差もあり必要な認知発達に到達してない段階で中学校の勉強を始めてしまうと大きな壁にぶつかり不適応を起こすことがあります。発達の速度は人それぞれでありそれには生物学的な要素が大きいのでまだ生粒学的に脳の発達が学習内容に至っていない段階で学習させるといろんな悲劇が生じるのは小児精神科の外来ではよく見る所です。注意点はこういった発達段階は学習によるだけでなく生物学的な成熟が必要だということです。逆にいうと、ほっといてもそのうち出来る様になることを急いで身に付けさせる必要はありません。問題は幼稚園、小学校、中学校の受験や塾に行かせる場合で、子供の生物学的な発達に対して過剰な負荷をかけ、親が叱ったりして情緒的な負荷をかける場合です。その場合いい進学先に入れるかもしれませんが、将来の精神疾患の罹患の原因になる場合もありますのでご注意ください。  具体的操作期というのは表象的な思考が可能で概念的な思考も可能で抽象的に考える能力は未熟ですが具体的な対象に対してある程度論理的に考えられる段階でこれが小学校の時期に当たります。  思春期に近づくと形式的操作期と言って、表象的、概念的に思考できるようになり、観念的な想像を利用した抽象的、論理的思考が可能になります。これが大人ですが、この新しい思考様式と現実との間に不適応が起こると思春期の危機を迎えます。大学で高等教育を受ける際にはできれば形式的操作期には達して十分に抽象的思考を出来る様になっていることが望ましいでしょう。 20-4 公理主義と情報科学・計算機科学 逆に公理的なものは演算装置で代用できるので別に人間でなくても場合もあります。ライプニッツやチューリングはそのような演算装置を想像しました。  現代のコンピュータの成立にはフォン・ノイマン、アラン・チューリング、ライプニッツその他無名、有名関わらず、いろんな人が関わっています。そもそもコンピュータは職業で、航路計算や三角関数計算をしていた人々でした。情報科学を支えた人たちは数学者がたくさんいます。認知科学の初期の人々にも数学者がたくさんいます。ライプニッツは時代が違いますがこの人たちは純粋数学、というか現代数学に精通し公理主義などあたり前に知っている人々でした。数学者から見ると現代思想などは数学の哲学への応用にすぎません。純粋数学を愛している人たちは哲学のような世俗な学問に興味はないのです。かつてラッセルはいいました。「私は頭が一番働いていた時に数学をやっていて、頭が働かなくなってきたら論理学に転向して、更にさえなくなってきたら哲学に変更して、ばかになってしまったので評論家になって・・・」 20-5その他の自然科学  数学、物理学以外はそもそもどの自然科学の学問も数学や物理学の応用科学です。そういう意味で構造主義がもともと土台として入っていると言えますし、新しい理論をそれらの学問で作る際にはやはり公理主義化が可能です。ただより現実とじかに接する学問が多いのでそこまで公理とか近代的な言葉ですが原理原則にこだわる必要はないので公理主義に対する意識はファジーでしょう。数学者と言えども公理主義を知らないと数学ができない、数学で功績を挙げられないという訳ではないので教養や数学、ましてや哲学を重視しない理系学部は結構見られます。  認知科学、情報科学と現代思想 20-6 公理主義と情報科学・計算機科学 逆に公理的なものは演算装置で代用できるので別に人間でなくても場合もあります。ライプニッツやチューリングはそのような演算装置を想像しました。  コンピュータの成立にはフォン・ノイマン、アラン・チューリング、ライプニッツその他無名、有名関わらず、いろんな人が関わっています。そもそもコンピュータは職業で、航路計算や三角関数計算をしていた人々でした。情報科学を支えた人たちは数学者がたくさんいます。認知科学の初期の人々にも数学者がたくさんいます。ライプニッツは時代が違いますがこの人たちは純粋数学、というか現代数学に精通し公理主義などあたり前に知っている人々でした。数学者から見ると現代思想などは数学の哲学への応用にすぎません。純粋数学を愛している人たちは哲学のような世俗な学問に興味はないのです。かつてラッセルはいいました。「私は頭が一番働いていた時に数学をやっていて、頭が働かなくなってきたら論理学に転向して、更にさえなくなってきたら哲学に変更して、ばかになってしまったので評論家になって・・・」 コラム2 現代思想と現代数学、情報科学、計算機科学  これからこの教科書を書き進めていく上で色々な他の分野の学問を例に出して説明します。その学問の分野は皆さんにとってなじみがあるかもしれませんが知らない学問が出てくることがあると思います。この教科書では数学基礎論を例に挙げて説明することが多くなります。  用語の違いなどを除けば数学基礎論の公理主義と現代哲学は同じ学問ということになります。数学基礎論を学ぶと現代思想の勉強が楽になりますし、逆もまた同じです。同じ構造の学問同士は勉強しやすいのです。“構造とは何か”これも後の章で説明します。実際には数学基礎論は現代哲学よりも先に発展した学問ですので、数学基礎論は現代哲学の母体のひとつでありプロトタイプです。  これは現代哲学だけではなく結局のところ学問というのは確実性の探求ですので全ての学問に当てはまります。確実性を追求する学問は現在現代哲学や数学基礎論を土台としています。19世紀後半から色々な学問に構造主義が持ち込まれ、公理主義は構造主義の一種です。構造主義と確実性は関係ありませんが、公理主義は構造内部で確実性を担保するように作られた構造ですので構造の特殊なものになります。裏を返せば公理化されていない構造というのもあります。現代的な構造主義の確立と構造内での確実性をいかに保証するかが数学基礎論や現代思想の母体になっています。  情報科学や計算機科学は現代数学の一部門ですので本書ではやはり例示の際にしばしばPCや情報科学を用いて説明します。 第21章 自然科学以外の科学の現代哲学の応用 21-0 人文科学、社会科学の中にはそもそも公理主義が適用できない分野があります。その様な分野の紹介とその理由を解説します。 21-1 経済学  これは例外的に理論構築に数学がよく使われるので現代哲学を方法として知っておくと便利です。実際にモデルや理論構築の差異に公理主義化の作業が行われることも多いようです。そもそも欧米の大学では経済学は理系として扱われるようです。というか理系、文系という分け方をしないようです。 21-2 法学  これは社会科学と思うのですが、公理主義が一番適用できるようでいて一番適用が難しい分野かもしれません。まず憲法から言うと日本では中国にならって聖徳太子やその後の律令制で最高法規の憲法が造られ明治憲法制定まで原則は続いていたはずですが機能していたとは言えなかったと思われます。明治憲法は明治維新の元老たちがいた間はまだ機能していたようですがその後抜け穴を突かれて良い形で機能しなくなり大日本帝国は滅亡してしまいました。日本国憲法は素人25人が9日間で作った即席憲法なのであまり中身があるとは思えません。アメリカが適当に作った憲法で台湾も韓国も憲法の構成が日本国憲法とそっくりなようです。最高法規が適当だからという訳でもありませんが、法は制定にも運用にも政治的な側面、人間的な側面が入ってきます。政治的な側面、人間的な側面は構造主義では解析できるかもしれませんが公理主義では解析できません。以下はそういう分野について見て行きます。 21-3 言語学  これは自前で構造主義を創り上げた学問と言えます。構造主義的言語学というのがソシュール以降も研究され他の学問分野に応用されました。構造主義的でありますが、公理主義的ではありません。自然言語というものは無矛盾だったり完全性を追究したり独立性を追究したりするものではないからです。公理主義のような規制が外れていますのでより一般的な構造主義を使って研究することになります。言語学からより一般的に記号学、記号論という分野が生まれます。言葉以外の象徴も広く含めて分析するものです。言語は記号であらわされますが、ノンバーバルなコミュニケーションを日常我々は行いますし絵画などの芸術作品は象徴性を利用して意味を持たせています。また意味が失われて分からない言葉やメッセージを理解する際に構造主義的手法が用いられます。表現されるものとその表現である記号の一致がコミュニケーションの前提の仮定にありますが、その一致が分からなくなっていたり、意味が失われていたりする場合、差異と関係性に注目するアプローチがとられる場合があるからです。 21-4 文化人類学  日本では民俗学とも呼ばれます。文化が違ったり情報が少ない文化を解析する際には構造主義的アプローチを用いることが有用であることをレヴィ・ストロースが示しました。これは構造主義流行のきっかけとなりました。未開の民族の我々にはよく分からない風習や習俗から差異や関係性を観察し規則性を見出しその意味を探るアプローチです。神話のような現在では意味が失われている物語の分析にも使えます。というか意味やルールが我々の合理性では分からない場合、言語的なコミュニケーションによる理解ができない場合には構造主義でアプローチするのが一つの手法になります。 21 -5 文献学、書誌学、歴史学、テキスト論  文学や歴史を含めて文献を研究する場合にどうしても我々は勘違いが生じます。我々が真実と感じている世界ですら現代思想ではシミュレーション、シミュラークルと言ってまがい物としてみると前に書きました。テキスト自体もそうですし、テキストを通して理解することもやはりそうです。ただ近代であれば真実ではない、真理ではない、事実ではない、まがい物であるといったことはネガティブな意味になるでしょうが現代哲学ではそれをネガティブとかポジティブとかいう2極構造で単純には判断しません。そういう考え方もあるのか、くらいです。良くも悪くも寛容な哲学です。多様性を理解し謙虚な姿勢は訓練されます。また曖昧さに強くなりまた曖昧さを愛することもできます。テキストが多様な意味を持つということを肯定的な評価もできます。  文献学では中国などは実は文献が残っていない国です。王朝交代のたびに焼いたか焼けてしまったようです。日本などに重要な文献が残っていて、明治期に逆に海外に流出し海外で保管されている例もあります。  考証学の分野では日本は世界のトップで古義学の伊藤仁斎などは老子は後代の作と証明し、懐徳堂の富永仲基は加上説で大乗仏典の多くは後代の創作であると示しました。森鴎外の渋江仲裁の友達、森立之や中医師の岡田健吉氏は傷寒論が宋代以降に再編集されたものであることを示し傷寒論原理主義的な古方派から黙殺されています。聖書学は20世紀からでやはり聖書が色々な時代に色々な立場の人が加えたり編纂し直して形成されていったことを示しています。 22-6 倫理学、思想史  近代以前の思想は整合性を重視し、合理的、論理的、理性的であろうとします。この場合の理は公理ではなく原理とか公理とは別の意味で、真実、事実、真理、正しさ、正義と結びついていることばです。言い換えれば実在論に基づいています。倫理学で扱う思想はおおらかで矛盾があるのを機にしないようなものから西洋哲学のように矛盾を締め出しがちがちに正しさを主張するようなものまで広く含みます。  大体の西洋思想は仮定や信仰を意識的、無意識的に導入しその正しさを主張するので形而上学となってしまいます。思想はその発案者一代限りのものもあり、あるいは西洋哲学は非常に科学に謙虚なので矛盾を理解しそれを改良しようと後に続くものが改善に努めます。そうした中で教条化してしまう思想もあります。近代に政治的に大きな影響を及ぼした共産主義です。 19世紀末から20世紀後半までの知識人は殆んど共産主義に影響を受けてきました。社会的にはマルクス主義の実現が世の中のためになると考えていた人が多く、それは今でもそうです。しかしマルクス主義に歴史的な一貫性がなく前期と後期で構造上の断絶を見出したのがルイ・アルチュセールです。 今の聖書はユダヤ教の聖書やタルムード編纂より前なのでキリスト教は実はユダヤ教より古い宗教ですが、ユダヤ教は中世の文献はよく分かりませんがキリスト教の文献の方が教会などにまだ残されていると思われます。ユダヤ教も最初は異端だったハシディズムが正統派とされるなど歴史と共に変遷しているため古い宗教と言っても昔と今が同じ宗教であるかどうか分からないのは他の宗教と同じです。言葉も宗教も思想も時代と共に変わっていくのです。最新の研究でヤーウェ概念の変遷など見て行くとまさに諸行無常です。 21-6 芸術、デザイン、ファッション  文学もそうかもしれませんが、これは真善美の美に関わる部分です。これらは美の追求をする学問ですが同時にテクノロジーと言えるでしょう。これまでの学問は主に真善に触れてきました。デザイン、ファッションは機能性を考えなければいけない場合もありますが、機能性を度外視して美だけを追求する立場もあります。美というものはイデアとして実体があるのかもしれませんが、構造主義が発案されて構造主義的なアプローチで歴史を見たり新たに創作、デザインされる流れが出現しました。ファッションではコム・デ・ギャルソンというブランドのかわきたれいやヨージ・ヤマモトの山本ようじで日本人が活躍しました。現代アートでなどのシーンでも現代思想を意識した作品が造られました。 21-1-2-2 構造主義の科学への波及、そして哲学への適用  基本的に全ての科学や学問の分野は構造主義が登場するまで素朴実在論を基礎にして研究されていました。構造主義が登場すると素朴実在論に変わる新たな基礎理論を手にしたことになります。それまでは素朴実在論に変わる基礎理論がなかったのです。  現代的構造主義が成立したことで、全ての学問領域、科学分野で現代的構造主義を基礎に学問を構築し直す動きが起こります。あらゆる理論や体系と言われるものは現代的構造主義を基礎にすることが可能です。  自然科学の分野はこれは早期に行われました。まず数学の各分野の公理化が行われ、物理学の各分野にも行われます。自然科学の場合、体系内部での無矛盾性や完全性が行われるため、現代的構造主義の中でも公理主義が用いられます。また人文科学や社会科学の領域でも現代的構造主義を基礎に学問の再構築が行われます。構造主義は他の分野にも波及します。社会科学や人文科学では文化人類学のレヴィ=ストロースや共産主義を構造主義化したルイ・アルチュセール、文学・テキスト論の構造主義化の論客、ロラン・バルト、文献学や書誌学の構造主義化のミシェル・フーコー、精神分析を構造主義化したジャック、ラカンが有名です。 第22章 現代哲学の精神科医療への応用 22-0 この章はおまけです。著者は精神科の臨床医なので現代哲学を踏まえてどの様なスタンスで診療を行っているかについて少し触れます。 22-1 構造主義的精神分析  これはそのまんま、ラカンの方法です。人間の人間をシェーマLで捉えます。その人の現前がどの様に成立しているか分析します。 認識に関係ある症状、幻覚や妄想はそれが成立する理由を考えます。 統合失調症では幻覚や妄想がみられますが、被害関係妄想と言われるものが多いです。これはクレッチマーという人の敏感関係妄想や、シュナイダーの一級症状と呼ばれるものでも記載されていますが、思春期の対人過敏期に関係があると考えられます。人目が気になりどう見られているか怖いという心性がネガティブな念慮や妄想に発展していく力動を形成していると考えます。ですから治療としては発症早期ならば患者に安心感を与えないといけませんし、病気が進行してからもその配慮が必要です。統合失調症は脳の器質的な病気であることが徐々に明らかになってきつつありますが、精神病理学、心理学、精神療法、心理療法的なアプローチは欠かせません。  一方で幻覚や妄想は必ずしも悪いものではなく患者の心を守るための大小反応であるという反対の見方も必要です。躁状態で誇大妄想を呈しているのならそれは装的防衛と言って防衛機制の一種かもしれません。抑うつに状態になりそうな状態から心を守ろうとする反応かもしれません。 22-2 プロファイリング、ビックデータ、情報・構造分析  臨床医としての能力を高めるためには、患者さんをたくさん見る。症例報告を読む、カンファレンスするなど含めて、沢山の症例と関わることが欠かせません。そうすることでデータを増やしていきます。患者さんに関するビッグデータを構築します。そしてそれらをプロファイリングします。つまり情報を集めて情報処理をします。研究のため統計的にきっちりする人もいるでしょうし、そうでない人もいるでしょう。情報に関する情報処理の仕方は沢山あった方がいいです。ですのでいろんな理論を学びます。その症例がどの理論に当てはまるか、どう解釈するかでアプローチもおのずから変わってきます。情報処理の仕方は沢山持っていればいるほどいいです。大統一理論のような一つの理論で全ての症例を分析できてしまうような理論か、高性能コンピュータと進んだAI技術、センサーなどのハード技術がもっと進めばまた違ってくるでしょうが我々はそれを自分の脳を受かって行います。 22-3 認知の歪み 脱構築、構築  認知行動療法で使われる言葉ですが、人はそれぞれ考え方に癖があったり思い込みがあったりします。そういうものは脱構築します。脱構築の方法は様々ですが、これもやはり勉強していろいろな脱構築の仕方を学んでおいた方がいいです。逆に脱構築ではなく構築しないといけない場合もあります。自信がない患者や傷ついた患者に励ましたり慰めたり優しさと栄養と信頼を造らないといけない時もあります。またその患者さんが持っていない発想や知識を持ってもらわない場合もあります。定型化していると心理教育などと呼ばれる場合もありますが、その患者さんがその時必要な考え方は人それぞれなので、その患者さんにかけている発送、または思考の構造と言ってもいいかもしれませんが、それを供給しないといけません。特に精神科医で最も大切なのはこれです。ラポールが成立しないと診療の関係が結べないことが多いです。誰でもラポールが造り易い患者さんもいれば、医者との相性があったり、どんな医者ともラポールがとりずらい患者もいます。 コラム 1〇-2にならって現代哲学的に見た色々な概念を検討していきましょう。 例えば正しい、あるいは悪いという言葉について考えてみます。 ある言語では一つの意味しか持っていないように見える言葉でも他の言語では多義語の場合もあるし逆もあるでしょう。「いじめられる方も悪い」という言説が昔はありました。この場合の悪いとはどういう意味でしょうか。宗教的に悪という場合にも悪いと言います。倫理あるいはその行動既定の道徳から見て、道徳的に悪い、という場合もあります。法律的に悪い事という場合には違法であるということです。品質が悪い、などものの良し悪しにも使われます。仕事で悪い判断をした、という場合には間違った判断という意味です。頭が悪い、と言いう場合もあります。知能が低いことを指します。腕が悪い、という場合もあります。技能が上手でないということです。食べ物が悪いという場合もあります。腐ってたりする場合です。それぞれの場合の反意語は正しいではなく、善だったり、良いだったり、上手だったりします。さて「いじめられる方も悪い」という場合に何が悪いのでしょう。今では倫理道徳的に悪いものは悪いということが認識されているのでこういう言説はなくなっていると思われますが、昔は「いじめられる方にも原因がある」という意味で使われていたようです。しかし悪いという言葉を使ったため、いじめる側が正しい面もある、いじめたのもしょうがなかったという風に言説が変性し、いじめにもしょうがない面がある、といういじめ擁護論に使われたりしていました。 22-4 環境、社会分析  精神科の場合は、患者さんの症状だけでなく、患者さんの置かれた状況のデータや、社会全体のいろいろな知識を持っているかどうかで全然医療能力が変わってくる場合があります。患者さんは社会という構造の一部なのです。ですから疾患によって性差や年齢差や業種・職種の差や移動頻度の差、社会構造の差、時代や世代の差など、様々な要素が関係してきます。それらをしらないとそもそも診療ができません。患者さんとのラポールも作れません。患者さんは何でも話してくれるわけではありません。話さない事まで理解して異なことまで医者の指示を守らない患者であることまで予想しないといけません。 23-5 内面の構造解析  患者さんは疾患によって、あるいは単に個性で、あるいは環境によって、または生まれつきによって色々な考え方をします。我々精神科医はそういう人間の考え方の構造のコレクターのようなものです。いろんな構造を集めて知っておくのが必要ですので生涯勉強ですし、診療外の時間でもいつも人間や社会の勉強をしています。これはたぶん職業病のようなものだと思われます。まあ最近はそうでない人も増えていている傾向がありますが、昔は心理学や人間の心に興味がある人が精神科医になる傾向があって、精神科は医学部の文学部と言われていました。最近はそういうのがやや流行らなくなってきたようですがそういう医師にも優秀な人が多いですし、古典的な精神科医のイメージにあった人が能力をうまく発揮できていない場合ももちろんあるので人それぞれです。 あるいは治療促進的な患者さんの認識がないか探していますし、それに対する介入方法を探しています。患者さんの情報をどのように分析し情報処理するか、これが一つの精神科医の腕の見定め方です。 22-6 統合失調症の予防  これは私が本書を執筆した大きな理由の一つであるが私は現代思想の普及、啓発活動は統合失調症の発症予防になるのではと考えている。現代思想を理解することは我々の認識に対する洞察を深めるし、認知能力、メタ認知能力を高めるからである。 統合失調の発症前からその人を含めたコミュニティー全体が現代思想を理解している状態を作り上げることが私の目標である。(オープン・ダイアローグがなぜ治療的かも、精神科医にとって興味深いので掘り下げた方が。)  統合失調症という病気がある。広く言うと精神病の一種である。また神経症という病気もある。これらの病気に対する分析と治療が現代思想の母体になったという話は以前に書いたと思う。  統合失調症では認識が障害される。現代思想的に統合失調症を見てみよう。構造主義的精神分析を創始したラカン派の見方から精神病を考えてみる。  人間の認識機構では、認識される対象は構造の中で他の対象との関係性から形成される。これを現前という。現前したものは認識対象として臨在感をもっているので我々はこれの実在を実感しながら生きている。このこと自他が対象の存在の実在性の真偽について何か言えるものではないが、このような生き方はふつうであり健全である。我々は発達の過程でこのような認識能力をまずは健全にバランスよく身に付ける。  精神発達はこれが成し遂げられればとりあえずよしとしなければならない。それは素朴な実在観念を持ち続ける事であり、周りのみんなもそういう認識で生きていけるのであればそれはそれで健康的な社会である。これが近代までの認識であった。  現代とはそれとは異なり認識論が素朴実在論からポスト構造主義にまで拡張された世界である。万人がポスト構造主義を理解し、コミュニケーションの際に相互の公理を確認することができればこれはこれで健全な社会である。公理を一致させてコミュニケーションすることもできるし、公理が異なるのでコミュニケーションしない、あるいは公理主義を用いないコミュニケーションを行えばいいのである。公理を一致させたコミュニケーションはたとえば理数系の科学の話をするときには必ず必要であるが、たとえばお天気の話や世間話、趣味で盛り上がる時や愛について語る時には必要ない。我々は何かを厳密に語りたいときにだけ公理主義を使えばよい。あるいは公理主義を使わなくてもお互い公理化されていない構造主義を用いてコミュニケーションすること自体は可能であって、それは無矛盾性を担保しないが、そういうコミュニケーションもきっと無駄ではないかもしれない。何か創造的なことを行うためには既成の公理にしがみつくよりある程度自由に話した方が生産的かもしれない。  さて我々の認識やコミュニケーションの日常風景について話したが、統合失調症では認識機構が障害されてしまう。その結果、ある種の認識対象に対する現前の形成が行われなくなることがある。あるいはある種の認識対象の現前が以上に強まりそれに執着してしまうことがある。人間は往々に自分の知らないということについて気が付けない。あるいは自分が知らないかもしれないということについて謙虚になれなかったり、その可能性を考えられなかったりする。「私は自分が知らないということを知っている」と言ったソクラテスや、「語りえないことについては沈黙すべきである」といったヴィトゲンシュタインはやはり偉いというべきであるが、なかなか人間そういう考え方を持てない人も多いし、持てる人でも常時それを続けられるとは限らない。統合認知症では認識の現前化機構が障害され普通の多くの人で自然に自明に現前されることが現前されなくなったり、現前が過剰に更新したり、あるいは普通の人に現前されないことが現前されて、妄想、幻聴、興奮などの症状が起こることがある。(この辺りは、精神科医にとって非常に面白いテーマなので詳しく説明。)それでだけであれば誤解を招く言い方になるが、まだいいのであるが、統合失調症になると自分の認識形成の機構が失調して、認識にゆがみが生じバランスが崩れていること自体を認識できなくなることがある。自分が認知を行っていること自体を認知する自己言及的な認知をメタ認知というがメタ認知機構が上手く働かなくなる。  統合失調は百人百様の症状があると言った偉い精神医学者がいたが、もちろん上記は統合失調症の病態解説の一例であって、例外はいろいろある。しかし例外は例外として上記のように統合失調症を見ると統合失調症は認識とメタ認知ができなくなった病気と見ることができる。  統合失調は臨床的にも研究の結果でも早期に介入し早期に治療することが大変である。もっと言えばできれば発症予防することが大切である。フィンランドのアラネン学派は町急性期治療介入を行い、成果をあげてきたが地域ぐるみの統合失調症の啓発や教育、早期介入を行ってきた。彼の後継者たちは彼の意志を受け継ぎ今もいろいろな方法で精神保健医療福祉活動を研究、実践しているがそのなかには統合失調症の発症率を低下させたというデータがある  つまり10代20代の統合失調症の後発年齢で突飛な言動や行動を呈して何か認知機能に失調が生じているのではないかと思われる人を早期に発見し、メンタルケアを行うことにより精神病の発症を予防したり軽症化させられる可能性がある。  統合失調症は昔は地域や人種に関係なく発症率が一定の疾患と言われていたが、実際には発症には地域差があったり、発症しやすくなる特定のリスク因子が分かってきている。  話しは変わるが病態水準の進んだ統合失調症では心理療法や心理教育の効果がなかなか出にくい。  私がクリニックで接している患者はストレス関連障害やうつ病などの気分障害の方が主である。精神科の治療では心理教育や心理教育は大切なものであるが、私はそれを現代思想に基づいて行っている。それはなぜかというと我々は患者さんの認識について分析と介入を行わなければいけない。そのための方法はいろいろあり、心理療法にもいろいろな学派があるが私はそれに現代思想を用いています。  患者さんのある物事に対する患者さんの認識は時に病気の原因であったり、病気に有害であったり病気を遷延させたりします。その様な疾患に悪い作用を及ぼす認識はなくしてしまうか変形したり変質させてしまうのがよいでしょう。逆に病気を治すために役に立つ認識や考え方を持っていなかったり、そういったものを持っていてもそれが弱すぎたりしたら、それを作り上げるか、強いものにします。  色即是空、空即是色と言いますが、精神科医は患者さんの認識を操作しなければいけない時があります。色即是空を現代思想では脱構築、空即是色を構築と呼んだりします。  、 (この辺りも面白いので分量を↑。精神科医は何気ない行動や会話にアンテナを貼り経験を元に判断している、それが的確なほど優秀など。)情報分析の仕方や情報処理の仕方はたくさん持っていた方がいいです。スマホやPCにたくさんの良質なソフトウェア、アプリやツールを積んでいた方がいいのと一緒です。情報と情報処理は時に表裏一体のもので情報は情報処理することによって新しい情報が生まれますし、新しい情報の形が生まれれば別の情報処理方法が適用できたりします。これは数学基礎論の集合論などでも学ぶところです。 第7部 現代哲学による自己啓発と頭をよくする方法  第1篇で現代哲学の理論、第2篇第6部までで現代哲学の応用、実践方法や実際にどのように現代の基礎になっているかを説明しました。  これよりあとは趣を変えて卑近で世俗的な話ではありますが、どのように我々の欲求、欲望の充足に、願望充足に、欲求不満に、自己実現に現代哲学を役立てていけるかを考えてみます。  まず現代哲学をマスターした人としていない人の比較を行いましょう。  現代哲学をマスターすることで何が得られるか何を失うか明瞭になります。 全てを使って現代哲学を実践・応用するためのシステムを構築しました。  これは科学である現代哲学を科学とするためです。科学に対する技術と工学の関係になります。  さらに突っ込んでこのシステム構築でなぜ頭がよくなるのか、具体的にどのように用いていくかを説明します。   第23章 現代哲学の使い方の実践編 23-0 システムによる能力のアップデート  第5部で現代哲学を使うためのシステム構築を行いました。  現代の哲学のメタフィジクスを、形而上学を作ったわけです。この場合の形而上学とは何でしょう。形より上の学問が形而上学です。形とは何でしょう。イデオロギーのことです。形而下学は形より下の学問で各々のイデオロギーになります。古代より形而下はフィジクス、形而上学はメタフィジクスとされちました。ここでは若干意味を変えて用います。現代哲学の形而下学が家おろぎーとすると現代哲学のメタフィジクスはポスト構造主義を中心に設計されたイデオロギーを使用するための土台となるシステムです。  メタとは「高次な-」「超-」「-間の」「-を含んだ」「ーを入れた」「-の後ろの」の意味で前面に表れているイデオロギーの背後で作動している基礎のメカニズムでこれもまたイデオロギーと言えます。そこでメタイデオロギーと呼びます。これを歴史的な経緯を含めてポスト構造主義と呼びます。  どういうシステム化というとイデオロギーに上下を設けないという規則とイデオロギーを自由に選択できるという規則からなります。  第5部で学んだのは現代哲学の形而上学と形而下学です。  形而下学は本来は形より下の学問という意味で物理学や自然科学全般を指します。  形而上学はプラトンでいうイデア論がよい例ですが、その背後に働く観念的な世界で形而下学の本質のようなものとみなされます。  中国哲学では趣旨の理気二元論でしょう。気が形、物質で感覚で感じられ、世界を構成しているもの、理がその背後にある法則です。  現代哲学の形而上学、形而下学はそれとは違う意味で用いましょう。  現代哲学ではデリダが「現前の形而上学」を書いたり、近代主義の形而上学という考え方には批判的です。  そこで形而上学と形而下学の意味を現代哲学で定義しなおしましょう。  形而下学とはイデオロギーの研究です。形とはイデオロギーを指します。この直接の分析ツールとして重要なのは実在論と構造主義、構造主義的哲学でしょう。  形而上学とはポスト構造主義を指します。認知、自由主義、等の言葉はイデオロギー、つまり形而下学でも使いますので、区別しラベリングするために、形而上学の概念にはなるべく「メタ」という言葉をつけましょう。メタ認知、メタ自由主義、メタイデオロギーなどです。実体的にはメタイデオロギー=形而上学=ポスト構造主義といえるでしょう。  では現代哲学の活用法を説明しましょう。 23-1 現代哲学の2大ツール  現代哲学の使用法を大きく分けて2つに分けましょう。  ①メタイデオロギー=形而上学=ポスト構造主義を使いこなす。  ②実在論、構造主義を使ってイデオロギーを生成、分析する。特に構造主義を使ってイデオロギーを深く新しく研究する。構造主義の脱構築、現前、差延などの概念を学ぶ。  突き詰めていうとこの現代哲学の実践、応用で学ぶことは上の2つといえるでしょう。 23-2 思考の選択肢、可能性が増える。  この2つを使いこなすと頭がよくなります。自己啓発にもなります。なぜそう言えるのでしょう。  現代哲学の3要素は①実在論、②構造主義、③ポスト構造主義、でした。  ①は近代思想、モダニズムでも用いられます。また人間が発達の過程で自然に身に付けるものでもあります。ですからすでに理解している場合や理解している、あるいは理解できることを気が付いていないだけです。どちらにしても成長の過程でそれを使いこなすように発達していきますし、教育、訓練もなされます。ですからこれは誰でもすでに習得しているものと考えましょう。  すると現代哲学を学んだことで新たに身に付けたことは②構造主義、③ポスト構造主義となります。  ①だけでなく②と③を身に付けたのだから単純に考えて頭が約3倍良くなる、とざっくり考えてもいいでしょう。もう少し複雑に考えるのなら1つから3つに加わったので3倍と単純に考えたくないかもしれません。経済学の初歩を学んだ人なら逓減していくので3倍以下と考えるかもしれません。また数学の順列や組み合わせ、関数について学んだ人であれば、倍になる、あるいは指数関数的、あるは別の関数に従い逓増すると考えるかもしれません。とりあえず思考は2つの新しい考え方が加わっただけで複雑になります。複雑になれば、より多くの場合分けを考えるのでいろんなアイデアを提案できたり、より多くの考え方を使って物事を見られるようになるでしょう。多いのがいいこととは限らないかもしれません。頭は疲れるし、総合や判断が疲れる時もあるかもしれません。考えすぎて行動が遅くなるかもしれません。しかしにべもありませんが結局ものは使いようです。そこらへんは自分で訓練してコントロールしてください。ともかく確実に言えることはキャパシティーが大きくなるのと可能性が増えることです。人間とは何か、可能性である、という実存哲学者もいます。ハイデガーやサルトルはその問題を考えました。より多くの可能性があればより多くの選択肢があり、選択肢が多いことが自由度の指標でもあります。逆に考えてみましょう。どんなに外部が自由を増やしてくれても、自分の中で選択肢が少ないならその中の組み合わせで選ぶしかありません。しかし可能性が増えていくと劇的に選択肢が増加します。当たり前ですが足し算ではありません。組み合わせなので掛け算や指数関数的に増える可能性があります。有り余る可能性から選べることは自由度が高いといえるでしょう。  そしてよりたくさんの選択肢を創造できる、あるいは蓄積し想起できるという事は頭がよいと言っていいでしょう。   第24章 知情意のコントロール 24-1 情と意をコントロールする。  別の根拠も示しましょう。思考力、思考量、思考数、思考の質が上がることは精神に別の面での影響と及ぼします。  電動的に精神医学、あるいは心の研究では精神を3つの点から考えます。知・情・意です。精神科の疾患分類は昔はそれに従って作られており、今でもその名残があります。  この教科書で扱うのは現代哲学、フィロソフィーすなわち智と愛、リベラルアーツすなわち自由と技術です。フィロソフィーの愛以外は全て知です。フィロソフィーの愛と言っても智への愛というのが主眼で、好奇心、関心、興味、新規性探求などを示す知的な側面を多く持ちます。  情すなわち感情や気分、意すなわち意志や欲求については主眼に置いて基本的に扱いません。扱いませんが、知・情・意は密接に関係しているので実際の人間の精神を考える場合、特に現実の日常社会生活、精神医学のような精神を扱う現場、哲学の現実応用のような実使用論的な場面では大切な問題になります。  基礎編では情と意についてはラカンのシェーマLなどでSとしてひっくるめて考えました。また意識という言葉に意という言葉が含まれますが、哲学の「現前」という概念を考える際に重要になります。これは応用編においては本文を割いて説明します。重要な問題だからです。  シェーマLのSは精神分析学のSを由来としていますが、これはシェーマLではある程度ブラックボックスとして理論構成しました。人間の精神、認知、認識は実際には訳が分からないもので認知科学、心理学、精神医学でも全く(と言っては学者の先生方に失礼かもしれませんが)解明されていません。ですが精神の要素の間には複雑な関係性があることは分かるでしょう。  第2篇では思考を用いて情や意をコントロールする方法を説明します。知のみでなく情と意も思考の力でコントロールします。ですから第2篇は自己啓発のためにも役に立ちます。モチベーションコントロールやエモーショナルIQを高めるからです。 第25章 高級、高次、高階の自己啓発としての現代哲学  現代哲学の習得は自己啓発役に立ちます。    単純に考えて、実在論しかなかった近代的思考に比べて、構造主義(構造主義的哲学)、ポスト構造主義を身に着けるので、差し引き、構造主義とポスト構造主義が加わった分だけ頭がよくなります。それぞれ同等くらいの量だとすると3倍賢くなるかというと、数学の組み合わせや順列などを勉強したことがある人なら単なる足し算ではない可能性に気が付くでしょう。  膨大な思考の複雑性を手に入れます。複雑というと頭が悪いみたいなイメージを持つかもしれないので、いいかえると単に、2倍、3倍ではない、掛け算、指数関数などのような爆発力を持つ場合分けの増加を予想できるでしょう。  場合分け、可能性と選択肢をより多く持てばそれに相関して頭はよくなるかもしれませんが、グラフとしては上突で頭打ちになるかもしれませんし、考える量が多すぎると脳が披露してよくない面もあるかもしれません。  しかし単純に考えれば、思考力が上がります。  思考力の増大は頭の良さといってもいいでしょう。  更に思考の質量ともに上昇したことにより、感情や意欲のコントロールの能力も上がっています。  当たり前ですが、頭のいい人のほうが感情や意欲のコントロールが上手です。  思考が感情や意欲をコントロールすることを手伝うからです。  ですから現代哲学マスターになると自己啓発能力が上がりまし、学ぶこと自体が自己啓発になります。 メタ モダニズムの上位互換、 第26章 現代哲学をマスターした人、しない人の比較 26-0 現代哲学をマスターすると何が変わるか? この章は気楽に読めるようにしました。  現代哲学を理解している人としていない人の各論を描写します。  現代哲学で何が変わるのか、感覚としてまず理解して頂けるようにしました。 変な話、頭を良く見せようとすれば実は簡単です。勘違いや詭弁が人生や社会に重要なのは修辞学(レトリック、レートリケー)と詭弁とソフィストが跋扈した古代ギリシアから変わりません。ソフィストだけだと頭がよく見えますがロゴスがないことをソクラテスに批判され、起こってソクラテスを死刑にしてしまいました。人間自分の知っていることだけを語れば神になれます。CPU、メインメモリー、マザーボード、ハードディスクが優秀ならソフトがくそでも頭を良く見させることも可能です。  しかし話してみればわかります。いわゆる脳の構造が分かります。構造の中核をなす現代哲学の理解や論理学の理解はすぐに裸になります。  現代哲学を勉強して本当の頭の良さを身に付けましょう。 26-1 メタの獲得現代哲学で一番変わるとこ  現代哲学を身に付けることで全てがワンクラス、ワンタイプ上位互換します。  これを「メタ」の獲得と名付けましょう。  メタ、とは「超」とか「超越」とかそういう意味です。  認識、行動、全てのものが1ランク上がりメタが付きます。  認知力はメタ認知を獲得することができます。イデオロギーに対する見方はメタイデオロギーとイデオロギーに分けてみることができます。自由空間を獲得でき、メタ自由主義者になることができます。自由主義空間の中でメタ主体性を獲得します。  主体性を通常のイデオロギーを信奉して行動することだとすると、メタ主体性はまずイデオロギーを客観的に見て自分のその時、その状況でのイデオロギーを選択する主体性です。  通常のリベラル思想(政治、経済、社会)の作る自由空間と比べると、現代哲学のつくる、ポスト構造主義というメタイデオロギーと選択対象であるイデオロギーを自由に選べる状態はメタ自由空間といえるでしょう。  現代哲学を理解したもの通しで話す場合に、通常の個人主義ではなく、メタ個人主義と呼べるでしょう。コミュニケーションが現代哲学を踏まえた上で行われるからです。  近代は各人、または集団が物語「ナラティヴ」の世界に住んでいました。リオタールという人がメタナラティヴ、近代という大きな物語の終了と言いましたが、我々の人生が物語であることは変わりません。  我々が現代で生きる物語をイデオロギーの猛進による偏狭、排他的なものではなく、多くの人々と寛容、優しさが保証できるように現代哲学を生かした生き方をメタナラティヴと定義しなおしましょう。  我々は現代哲学によってわくわくするようなかつてない大きな物語を生きる可能性を手にします。 26-2 自分の芯が変わる  現代哲学を理解した場合、第9章を理解してもらうとメタイデオロギーとしてのポスト構造主義とその他との間に自由空間が出現します。ここが主体性、メタ認知、メタ自由主義、メタ個人主義が発生する場です。  我々はこのベースを常に失わず、他のイデオロギーを認知し選択します。  さて現代哲学がないとこの過程の自覚がありません。イデオロギーがあって自分がある状態がもやっと存在します。  通常イデオロギーを持っていない、あるいは失われてしまった状態をアノミーとしましょう。  そうすると現代哲学を理解していない人はメタアノミー状態といえます。イデオロギーがあるのはしっていてもこのメタイデオロギーやメタ自由空間を理解していないので、自分をイデオロギーの関係はぼんやりで自覚がありません。自覚があってもその形をはっきりわからずぼんやりですから何かあると基礎と根本がないのですぐにぐらぐらになってしまいます。  まとめるとポスト構造主義者とメタアノミーな人の比較対象がこの章の要点です。  現代哲学をマスターしている人は思想体系、土台と基礎構造の理解があり、それが芯になります。  メタアノミーな人はそこのところの自覚がなく、あってもそれが何かわからず芯がありません。  メタアノミー、アノミー、メタイデオロギー、イデオロギーを理解してもらうことがこの教科書の主題です。 26-3  では現代哲学マスターとメタアノミーな人の比較を行っていきましょう。  キーワードはメタです。  まずイデオロギーがあるとしましょう、キリスト教でもマルクス主義でもナショナリズムでも多神教でも何でもいいです。  現代哲学マスターにとってはそれはどれもただのイデオロギーにすぎません。どれかが絶対的に正しいということもありません。現代哲学マスターにしてみるとイデオロギーはどれも絶対に正しいと思えるものはありません。何かが欠けていて完全になるためには仮定や信仰で埋めなければいけないものに見えます。そういうことを理解したうえで、その時の状態や必要に応じてイデオロギーを選択します。イデオロギーによっては他のイデオロギーを否定して自らの絶対性の信仰を強いたり、一生信じることを求めることもあります。  その場合現代哲学マスターと言えども迷います。現代哲学を理解しているために、そのことの意味の重要さを理解しています。また自分の決断に誠実であろうと筋を通そうとする人情があるかもしれません。  一つの方法は現代哲学マスターをやめて、ただのメタアノミーな人に戻りそのイデオロギーを信奉してしまうことです。  また別の方法は現代哲学マスターであったまま、そのイデオロギーを信じることです。現実にはこれが多いと思います。一回りっかり理解してしまったことを忘れることは困難な場合が多くあります。また人間の脳の仕組みだと思いますが、人間は矛盾したことを信じるのが苦手ではありません。  人間突き詰めなくてもあいまいに生きていいのはインドネシアのイスラム教徒を見ればわかるでしょう。私も友達のイスラム教徒に帰依を毎日帰依を進められていますが、戒律はできる範囲で守ればいいそうです。  またその時は真剣にそのイデオロギーに従って生きることも可能です。現代哲学の上層の枠組みは世俗性がないので他のイデオロギーとぶつかることがあまりありません。汝の他に神はなしと言われても、別にポスト構造主義には何の関係もありませんのでそれを信じてメタイデオロギーであるポスト構造主義を信じても矛盾は特にありません。  ただイデオロギーが他のイデオロギーに対して排除、攻撃を行う場合は皮肉をいう能力が生じます。なぜなら攻撃する側のイデオロギーにメタイデオロギーであるポスト構造主義から見れば排除、攻撃をするだけの正しさを保証する根拠はないとみるからです。イデオロギーの正しさはそれを支える仮定や信仰によっているとしか見えません。  ですからポスト構造主義というメタイデオロギーは色々なイデオロギーと共存可能です。  ポスト構造主義のようなメタイデオロギーを意識して否定、攻撃するイデオロギーはあまりないと考えられます。  そもそも現代大きな勢力を持っているイデオロギーは現代哲学の前にできたものが多いですし、現代哲学以降に現代哲学を意識して作られたイデオロギーは現代哲学の応用が多いか、批判したとしても本質的なポスト構造主義という中核を批判していても批判の根拠がよくわからないものが多いからです。   またその時はあるイデオロギーをすっかり信じてしまいメタイデオロギーを抑圧してしまうのもいいでしょう。 またそのイデオロギーに対する思いが薄まれば戻ってくればよいのです。  一方メタアノミーの人々はどうでしょう。  イデオロギーを選ばない場合は何となく情状性で行動している感じでしょう。これはこれで構いません。ポスト構造主義者のイデオロギーを選ばないスタンスと特に違いはないでしょう。  一方メタアノミーでイデオロギーを選択する場合はどうでしょうか。これは何となく行われます。これはポスト構造主義の場合と同じです。ただ若干何となく選んでいることの自覚が薄い場合があります。  更に根拠づけしてそのイデオロギーを選ぶ場合があります。その根拠が自分の好き嫌いであればやはり現代哲学者と変わりません。変わるのはその根拠を正当化し始める場合です。この自己正当化という考え方は現代哲学者にはありません。 そこでこの自己正当化の根拠を認めずむしろ気づかずそれをしてしまえば自己批判をするのが現代哲学者のスタンスになります。  これはニーチェが研究した無意識の自己正当化、権力の意志というものになります。人間の内面的力動は自己正当化の方に働き、捏造、改竄などの操作を気づかずしてしまいがちなのでそれに対して自覚的であり、注意し、早期発見、早期予防し、見つけたら自己批判して改めるか、改められなければ自覚し続けようというのが現代哲学者の考え方になります。  一方メタアノミーな人たちはこの場合にはグダグダになってしまい、論理的になれず、感情的になる場合があります。また過剰に攻撃的になったり防衛的になったり冷静、中立、客観を失うときがあります。これはメタ認知障害で可逆的であれば問題ありませんが、脳委縮などの器質的変化や不可逆性を伴う場合がありそれが統合失調症の一つの病態生理ではないか、というのが精神病理学の仮説になります。   26-4 イデオロギーの選択者間のコミュニケーション  12-1では現代哲学者とメタアノミーな人とのイデオロギー選択における違いを説明しました。  まとめると現代哲学者はイデオロギーの選択が完全自由ですがその事に自覚的です。  メタアノミーの人たちはイデオロギーの選択の基盤がしっかり作られていないので、様々な非合理的、非論理的情緒反応を起こします。なぜなら元々何らかの理を持っていないので、理に合わせることも理を論ずることも言葉の定義から言ってもできません。それらしき事をしているように見えても、後付けで適当な理を作っているだけです。  そこで実際に現代哲学マスターとメタアノミストが何らかのイデオロギーを選択している場合を考えてみましょう。  現代哲学マスターであるイデオロギーを選択している人と、メタアノミストであるイデオロギーを報じている人の間のコミュなケーションを考えてみます。  あるイデオロギーが同じである場合にはそのイデオロギーのルール内で円滑に事が運ぶ場合があるでしょう。一方イデオロギーは矛盾や整合性を欠いている場合も多いので意見が分かれたり、更には対立する場合も出てくるでしょう。その場合に両者にどういう反応が生じるのかを考えてみましょう。    まず現代哲学マスターは意見が相違した時にも冷静です。そもそもそういうことがあるのが普通としか思っていません。そのイデオロギー以前にメタイデオロギーに立脚しているので道具の性能の限界くらいにしか思いません。現代哲学マスターはそういう事態に対して寛容、謙虚、優しさがあります。忠恕(真心と思いやり、まじめな事と許すこと、自分と相手の心に対する洞察)と親和性がある考え方です。場合によってはそのイデオロギーを修正したり破棄して別のイデオロギーに移ればいいでしょう。  一方メタナノミストは冷静な場合もありますが感情的になってしまう場合もある様です。そのイデオロギー以外によって立つ基盤がないのでしょう。  心理学レベルの問題になりますが人間は意見が合わない時心地良さを感じない場合があります。不快感を感じる場合もあります。意見が合わない相手をネガティブに思う場合もあります。  あるいは謙虚になった場合、イデオロギーの不信感、相手や自分への劣等感、文字通りイデオロギーを捨ててアノミーになってしまう場合もあります。 アノミーになってあるいはならないうちに別のイデオロギーに移った場合も、やはりそれに根拠なく、なぜ自分がそちらに移ったのかに対する説明が不整合になりがちです。メタイデオロギーがないので、情緒的な話や、理由の後付けや、メタイデオロギーに至らない下位レベルのイデオロギー同士の何となくの比較で転籍する感じです。  さて現代哲学マスターに対する態度はどうなるでしょうか。やはり行き当たりばったりでしょうが絡んでくる可能性があるので注意が必要です。何にせよいったん原点、根本に戻る、すなわちメタイデオロギーに還る、ポスト構造主義に戻るという事ができませんので、イデオロギー間で横に移動したり、イデオロギーを複数抱えたり、イデオロギーを持たない、すなわちアノミー状態になります。  意識的な自覚で考え判断し行動しているわけではなく、無意識的な何かで根本のところは動いていますので、現代哲学マスターの理解の範囲を超えます。現代哲学はシェーマLのところで見たようによくわからない部分、特に情意の部分をSとしてひっくるめてブラックボックスとします。そこへ行く矢印も無意識の関係と言ってやっぱりブラックボックス的な扱いをします。分からないところはわからないと謙虚、寛容を持つのが現代哲学のいいところです。ただし現代哲学マスターとして経験を積んでくると、そういう人の思考、行動パタンの色々な類型に接してなれてくるので、トラブルなく事を運ぶようになってきます。  ではメタアノミストは現代哲学マスターにどういう感情を持ちどういう思考をするでしょうか。大まかにいうと、よくわからないやつだと謙虚に感がてくれるか、自分のわかる範囲の範疇に組み込んで決めつけてしまう傾向があります。ポジティブには頭のいい人、ネガティブには頭の悪い人や変人など。  思考に関するメタイデオロギーがないので基盤が弱く情意に左右されがちなので現代哲学マスターはそこのところを注意します。  逆にメタアノミストは結局は得体のしれない感が哲学マスターに対してぬぐい切れないので、警戒感を多かれ少なかれ持つようです。時にメタアノミストの何かよくわからないコンプレックス(精神複合体、精神分析学の意味で劣等感などのネガティブな意味はない)にふれ何らかの知情意をおこされることがあるようです。とにかく何らかのイデオロギーを持っていない場合、思考、発言、行動の予測が難しくなるので注意が必要です。イデオロギーを持っていてそのイデオロギーに誠実であればより理解しやすくなるでしょう。 27-1 なぜ頭が良くなるのか27-2 頭が柔軟になる  現代哲学は3語でわかると書きました。①実在論②構造主義③ポスト構造主義です。  現代哲学を知らない人は①しかできません。あるいは①+曖昧な②か曖昧な③です。単純化のために①しか知らない人が②と③の思考方法を習得するのですからその分だけ頭の使い方のオプションが増えます。ですから②と③が加わることでどのように頭が良くなるかを具体的に記載していきます。  大きなところから書いていきます。③ポスト構造主義を理解することで①によらない考え方が出来る様になります。①によらず②によった考え方と①にも②にもよらない考え方です。①にも②にもよらない考え方というのは可能性としてはありうるのですがそれが愚他的に何かと言われれば著者には思いつきませんので省きます。ですので①によらず②によった考え方ができる場合を考えます。まず前半部分の①によらない考え方というのが現代哲学を理解していない人はきちんとできません。  そういう人が②③を理解したらどうなるでしょう。  、情報処理や整理のための強力なツールが手に入ることになりますので間接的にはCPUのスペックアップにつながり、ワーキングメモリーやメインメモリーを増すことになるでしょう。  現代思想を理解したら頭の良さは別の形で実感できます。頭の回転が速いだけの人や記憶力のいいだけの人が馬鹿に見えます。CPUやメモリが良くてもろくなソフトウェアを積んでないと感じます。お話にならないので彼らの調書を傾聴しつつも足りないところが目につきます。能力があっても知の基本を習得していないのだなと感じます。  ですので会話をするとき相手に合わせて話すようになります。こちらはセーブして話すことになります。タイミングを見計らって相手に別の見方を提示するくらいのことしかできません。  我々はみな全力で能力を発揮するべきですし、本気で協力して、人とも理解し合い仲良くなり合えればどれだけよい世の中になるでしょうか。現代思想を理解しないことは我々と社会の幸せ、福利厚生を棄損します。  だから現代思想を理解している人はもったいないと感じます。自分と相手と社会の無駄、損失を感じます。相手が現代思想を理解さえしていればもっと生産的な話ができるはずなのです。実際にGDPももっと伸ばせるはずですし、社会の技術、経済的発展も阻害されてしまいます。 27-3 現代哲学は知能を高める  現代哲学を勉強すると物事に対して圧倒的に多様な見方をすることができます。また情報を整理整頓する能力が上がります。知能はコンピュータでたとえれば情報処理のようなものです。現代思想を学ぶと頭の整理整頓を含めた情報処理能力があがります。現代思想を習得すること自体が新しい情報処理の方法を獲得することになりますし、新しい情報処理の仕方を勉強して使いこなす力が上がります。別の言葉でいうと勉強と学習の能力があがります。  一般的には頭のよさとは頭の回転の良さや記憶力、知識量ではかられます。現代思想は直接的には頭の回転の良さをあげません。記憶力も知識量もあげません。 コンピュータでたとえてみましょう。性能のいいPCはよいCPUを積み、メインメモリーが広く、固定記憶装置の容量が大きいものを指すでしょう。脳をPCに見立ててみましょう。現代思想を学ぶことでPCのCPU,メインメモリ、固定記憶装置を浴することはできません。そうしたハードウェアの性能は変わりませんが、ソフトウェアの性能が格段に上がります。新しい情報処理のプログラムで情報を扱うことで同じスペックのコンピュータをより効率的に使いこなすことができるようになるでしょう。  情報処理は基本ソフトとしていろんなアプリケーションと相性がいいです。というより現代の諸科学は現代思想を理論的手中として作られています。ですから新しい学問を学びたいとき、現代思想を知っていると学習効率が上がります。その科学の公理体系を意識して学習するようになるのが最大の変化です。どの学問も公理主義(後の章でくわしく説明します)を意識して構成されており、一部を除いて全ての学問は公理主義を土台として構築されております。  現代思想により公理主義という考え方を習得できるので、どんな学問にせよ勉強の効率がよくなります。学問をする際にはメタ認知(これは後の章でくわしく説明します)が滝と学習が容易になります。それを使いこなすために使うシステムや理論をより俯瞰的に見ることが大切です。現代思想はメタ認知能力を確実に高めます。  色々な物事を脱構築できるようになること、もう一つ大切なのは構築を行うことです。  構築の仕方もマナーを知るべきです。構造論的に構築するのか、実在論的に構築するのか、公理主義的、つまり矛盾が生じないような形で構築するのか、矛盾が生じてもいいような、我々の感情、真善美の感覚に従って構築するか。これは文学、美術、政治などが例になります。  自分で構築しなくてもすでに構築されたものを信じる際に現代思想の基礎は役に立ちます。自分でどういう信念をもつのか、何の宗教を信じるのか、自分は何が好きで何が嫌いか、自分はどういう複雑な感情を持っていて何を選択するのか、そういったものと関係しながら我々は生活していくのです。それは自分で構築してもいいし与えられた中から選択して受け入れていてもかまいません。  おかしな話ですが、現代思想を信じることは、宗教なり、信念なり、自分が何を信じるかとは矛盾しません。両方信じてもいいのです。現代思想はそういったものとは独立ですし、関係ありません。ある特定の宗教を信じる人からは自分の宗教の教義に矛盾するから、という理由で現代思想を否定し、排斥する人はいるかもしれません。ただ現代思想の側からはなんの宗教であれ、信念であり個人がそれを持つことに対して特に否定も肯定もすることはありません。現代思想は何が真実だとか、正しいとかは語っていないからですし、語ることは現代思想の目的ではないからです。 27-4 知の在り方:教養、哲学、教育、自己啓発 ・知の在り方  今までの議論を踏まえて現代の知の在り方について考えてみましょう。   これ以前の章は既に知られた事実をまとめただけでしたが、この章は著者からのこれからの教育がどうあるべきかの提言となります。 ・現代における教養 ・現代における哲学 ①倫理が理解できるようになる。  高校の社会科の選択科目に倫理があります。現代哲学を習得すると昔の思想や哲学は簡単に理解できるようになります。 ②理性が高まる。  合理的、論理的、理論などと言われる場合の理という言葉は、現代では公理主義の公理を指します。現代の理系の学問は基礎に公理を設定して構築されます。ですので本当の意味で合理的、論理的に思考できます。逆に現代哲学を知らない人は真の合理性、論理性を理解していませんので往々にして非合理的、非論理的主張が見られます。 ③学問の学習能力、研究能力が上がる。 現代の学問の基礎は現代哲学による教養なので基礎学力の向上により学問の習得能力、研究能力が。上がります。 ④数理系に強くなる。  現代数学の公理主義が現代哲学のプロトタイプです。現代哲学を理解すれば公理主義が理解できるので数理計画分野得意になります。 ⑪仏教的な満足  仏教でいうと現代哲学の理解は悟りと同じ内容なので仏教を理解できるようになります。 ⑤コミュニケーション能力が高くなる。  相手の思考構造を見抜くのが得意になります。状況によって柔軟にコミュニケーションできるようになります。 ④ディベートに強くなる。  相手の思考構造の分析能力が上がるので、相手の頭の中を早期に見抜けます。また相手の思考構造を脱構築する別の考え方を用意しておけます。 ②情報処理能力が上がる。  色々な思考構造を習得、収集できるようになるため情報処理能力が上がります。 ⑦先入観やイデオロギーの絶対化に強くなる。  宗教にせよ道徳観にせよ、相手の決めつけへの批判、反論能力が上がります。 ⑧先入観、偏見を解除できる。  思い込みをなくすことができます。自分に思い込みがあるかも点検できます。先入観や偏見、差別、尊敬さえも解体したり相対的、総体的に見ることができるようになります。 ⑨優しさと謙虚さ、寛容さ  他者や外部との違いを知ることができるようになります。それは優しさ、謙虚さ、寛容さをもたらします。論語にも君子の徳は温良恭倹譲と言いますのでそれは上品さや魅力になります。人と無用に争うことがなくなります。 ⑩思考をコントロールできる。  多くの思考の仕方の中から思考方法を選択できるようになります。 ⑬感情をコントロールできるようになる。  思考と感情を切り離すことが上手になります。 ⑭思考方法の分析能力が高まる。  自分や他者の思考方法の分析力が上がり、自己も他者も内面を分析しやすくなります。 ⑲メタ認知能力の向上  ポスト構造主義を取得する結果、メタ認知能力が向上します。   ⑭物事を冷静客観的に見ることができるようになる。  対象を俯瞰的、網羅的、総体的に見る様になります。 ⑯騙されない。 健全な懐疑主義とニヒリズムを獲得できます。元々全てをシミュレーションとした世界観を持つからです。 ⑲自由度が上がる。  自由を一段上のレベルで味わえます。 ⑰自主性、主体性  自主性、主体性が高まります。 ⑱頭が良くなる。  自分で自覚できますし、人に頭がいい人と見られることも増えます。 ⑱自分に自信がつく。  頭がよくなるので自己肯定感が高まります。 ⑲性格がよく、上品になる。  優しく、寛容になります。 ⑳アイデアが湧きやすくなる  発想力も上がります。 第〇章 偏見、先入観、差別、奴隷  ポスト構造主義を理解していない、自由に選択できない、ある構造を絶対化している、自分が何かの偏見や先入観に影響を受けて支配されてしまっている時は、人は自由ではないといえる。リベラルアーツは奴隷から自由民になる技術であった。自由ではないとは奴隷であるといえる。自主性、主体性を失っている状態を奴隷という。奴隷には意識して同齢になっている場合と無意識に奴隷になっている場合がある。我々はある種の力に屈して意識的に奴隷になることはあるにせよ、自主性、主体性を持つ個人としては奴隷である事実を意識し明確化し直面し目をそらすべきではない。 あるために選択可能な構造の種類と量を増やさなければいけない。つまり勉強しなければいけない。ここにフィロソフィーの復権が求められる理由がある。構造のコレクターになるのが幸福への道である。そのためには勉強しなければならない。勉強するためには知を愛する方がいい。 第〇章 自由主義  現代哲学による自由とはどの思想、哲学、宗教、理論にも平等で相対的で寛容で謙虚な眼をむけられることであり、またどの構造も自主的、主体的に選択することである。  だから現代哲学の自由主義は他の構造とは別の階層、クラス、タイプに属する。他の思想、宗教、哲学、理論とは同列には並べられない。ポスト構造主義を理解した上での選択の自由を尊重することこそ現代思想の自由主義である。だから現代哲学を知らない人が言う自由主義とは異なっている場合がある。 第〇章 コミュニケーション  構造主義によれば構造を一致させることがコミュニケーションの必要条件である。構造を一致させても構造に無矛盾性がなければ矛盾が生じるかもしれない。そこで現代数学の功利主義が登場する。無矛盾性や完全性の問題が出てくる。問題を排除するため排中律や背理法を排除する論理学を作ってみたり、クラス理論かタイプ理論を作ってみたりいろいろ工夫が行われる。  一方構造を合わせなくても人間分かり合えた気分になることも大切という議論もある。知情意でいうと、現代哲学は知、つまり思考、認識を語るが、感情や意志は語らない。しかし現前でいうと、構造主義による認識の形成とともにそこに実在感や臨在感、存在感を感じてこそ現前が輝く。逆にそれが伴わないと減算とはならない。精神医学では実態意識の問題、実在感の問題、離人症や現実感消失症候群というものがある。知による構造形成はできても認識対象に現実感や実体感が伴わない。統合失調症の病理の本質でもある。これはあえて言うなら知ではなく、情意の問題だろう。  それはともかくコミュインケーションするためには共通の文法が必要である。現代哲学で重視するのは構造であるが、古典的リベラルアーツで学ぶ自由7科、文法、古典語、修辞学、音楽、算術、幾何学、天文学は全て共通言語でありコミュニケーションのためにあるともいえる。現代のリベラルアーツは現代哲学である。 第〇章 教育  高等教育ではリベラルアーツとして現代哲学を学ばなければいけないと書いた。初等教育では間違いなく実在論的認識力を身につけなければいけない。普通実在論は勉強しなくても身につくものだ。生物学的なアプリオリな本能ともいえる。しかし実在論もポスト構造主義と一緒でたくさんの実在概念を知っていた方が知らないよりいいに決まっている。そのためには教育が大切である。教育しなくても自分で自発的に学んでくれてもいいのだが、子供が何を学ぶべきか導くのは大人の責任であると言ってよい。大人になって必要な知識は子供のうちに教えておくべきだ。生物学的な臨界期というものもあってある発達段階までに教えておかないと身につかない技能もある。例えば言葉だ。オオカミ少年は大人になって発見されたが言葉を自由に使い事ができず幸福とは言えない人生を送った。大人になって必要なものは子供が大人になるまでに大人が身につけさせておくべきである。女性なら化粧やファッションを学ばせるのもいいだろう。GDPを頑張ってあげているのは社会資本、複利厚生、公衆衛生を高めるためでもある。家庭に任すのではなく先進国では義務教育として子供が大人になったときに必ず必要になる技能は身に着けさせる方向に進めるべきだし進んでいくべきだろう。世界中先進国でもまだ十分に生産性が豊かとはいえないので至らぬ面もあろう。できる範囲でよい。男女問わず、掃除洗濯炊事などの家事を充実して公教育で教えるのもいいだろう。お金や税金、保険や資本主義、金融の知識も教えるべきだ。  我々は社会も個人もどんどん賢くなるべきなのだ。古いものより新しい知識がよりよいものになっているように努力すべきである。 あとがき  現代哲学は人類が到達した倫理学の到達点です。 現代哲学を説明することで“確実性とは何か”の問いに答えを与えることあできます。  また現代思想と理解するということは現代数学の基礎や仏教の悟りを理解できます。  14年前、私が現代哲学を広めようと決意した時に比べると現代社会はより現代哲学が浸透しており、現代哲学に親しみやすい状況にあります。。 現代思想を理解することは人や社会の幸福につながります。ですから人生のできるだけ早い時期に現代思想を理解しておかないと損をします。  また現代哲学は人を幸せにしてくれます。現代哲学を身に付けると選択肢が限りなく増えます。選択肢が増えることを豊かさと言います。豊かな思考ができることは貧困な選択肢しか持たない思考貧乏よりいいことです。代は章を兼ねます。選択肢を持つ人は選択しないことが可能ですが、選択肢を持たない人は手持ちの選択肢から選ぶしかないからです。これは不自由です。現代哲学は人間の自由にします。現代哲学は自由主義と相性が抜群です。 また現代哲学は人間同士の本当の意味でのコミュニケーションを可能にしてくれます。  現代哲学は現代哲学が基盤の社会で、今後さらに社会は現代哲学化していきます。あなたが心の中で抱いている凝り固まった考え方を解体するのに、新しい考え方を構築するのに役に立ってくれるでしょう。あなたに豊富な情報処理のツールを提供してくれます。 令和元年9月8日 (字数:127,751字 201911271127)

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