2020年8月13日木曜日

日本の教育のリベラルアーツの必要性と具体的な中身の提案。 教養とリベラルアーツは違う。 教養は人格修養、リベラルアーツはドライな知の技術。 31ページ、3万4千字くらい、2010年8月13日の段階で。 11万字くらいあると新書みたいにできる様なので更に色々な点からリベラルアーツの 普及を志す文章を書き足す。

日本の教育のリベラルアーツの必要性と具体的な中身の提案。 教養とリベラルアーツは違う。 教養は人格修養、リベラルアーツはドライな知の技術。 31ページ、3万4千字くらい、2010年8月13日の段階で。 11万字くらいあると新書みたいにできる様なので更に色々な点からリベラルアーツの 普及を志す文章を書き足す。 世界のエリートだけが知っている 現代の Liberal Arts リベラルアーツ 前書き  本書では現代のリベラルアーツとしてエリートが身につけておくべきことについて解説します。    エリートと言っても色々なエリートがあると思いますが、ある一定の学術的素養を付けることをエリートとします。 本書ではエリートになるに必要なそのある一定の学術的素養をリベラルアーツと呼びます。    普通、リベラルアーツという言葉は日本では教養と訳されます。  日本の大学では教養課程がありそこでリベラルアーツを学ぶと認識されていると思いますが本書では教養とリベラルアーツは区別して使用します。  教養とリベラルアーツを区別する理由としては日本の大学の教養課程では真に身につけるべき教養がきちんと身につけらることができないと考えるからです。  日本の大学の教養課程ではこれだけは身につけなければいけないという明確な指針がありません。  しかし学問の世界では高等教育で身につけなければいけない事があります。  それは学問の基礎です。  学問の基礎が何かを知らなければ、学問とは何か考える時にどうなるでしょうか。  大学では高校以下の教員資格を得ることが出来ますが、生徒に学問とは何かと問われたときに自信を持った答えを導くことが出来るでしょうか。  高等教育を受けるものが身につけるべき学問の基礎が現代には存在します。  大学以降の高等教育で必修すべき学問の基礎をリベラルアーツと呼び本書では「教養」という言葉と区別します。  学問の世界は世界共通でありです。 大学という高等教育機関で身につけた学問の基礎はグローバルに世界中で通用すべきです。 「教養」という言葉にはこの様なニュアンスがないので世界的に使われるliberal artsという言葉と区別します。 専門で学んだ学問は変わることがあっても学問の基礎は変わらないので身につければ一生使えます。  学問の基礎はどの学問も共通ですので身につければ他の学問を専門とする人ともコミュニケーションをすることが出来ます。  リベラルアーツは身につけるのに訓練が必要ですので全ての人が身につけられるわけではありません。  努力をすれば身につけられる方法はいくらでもありますが、人それぞれの人生で誰もがその努力の機会が得られるわけでは残念ながらないでしょう。  Liberal artsを身につけられた人は幸運に恵まれたエリートなのです。  エリート同士は基礎を共有しているのでコミュニティーを作り協力することが可能です。  しかしliberal artsの基礎がないと共通する確かなものがないためエリートとの交流でトラブルを起こす可能性があります。  話が通じない人通しが同じコミュニティーを維持することは困難ですので、リベラルアーツのない人はエリートのコミュニティーに所属できなくなってしまいます。  選ばれた幸福を余力が許す範囲でよいので世の中の訳に立てられれば素晴らしいことです。  本書ではエリートの共通して身につけているliberal artsについて勉強します。 第一章 リベラルアーツの歴史  Liberal artsという言葉は古代ギリシアの歴史に由来します。  ギリシアの都市国家であるポリスは、自由市民と奴隷から構成されていました。  liberalという言葉はこの年自由市民に由来します。  Liberaral artsとは自由市民が身につけるarts(技術、学術、芸術、芸事、方法)ということです。  自由市民も奴隷も人間ですがポリスでは自由市民が支配層で政治や軍事を司り、奴隷は自由市民に隷属します。  自由市民の自由とは労働する必要がないという事です。  私的な生活、生存に必要な労働は全て奴隷が行う事が必要です。  自由市民はより高尚な事のために生きるのが理想とされます。  自由市民は権利と義務を持ちます。  ポリスが民主制である場合には自由市民だけが選挙権を持つ制限選挙制度であるため自由市民には議論や討論をする知的な能力が求められます。  また自由市民は兵士になって戦争へ行く義務を負うため勇気や軍事訓練も必要です。  古代ギリシアと古代ローマが終わった後、中世ヨーロッパで古代の遺産の数学と古典語であり共通学述語のラテン語、ローマ語が学ばれます。 matematics数学はもともと学ばれるべきものという意味です。現代数学により数に関するものだけを研究する学問とすると誤解を受けやすくなるので数学という言葉は変えてもいいかもしれません。 中世のヨーロッパの大学では基礎科目と専門科目がありました。  基礎科目は専門科目を学ぶ前に身につけておくべきと考えられた学問です。   自由7科とも呼ばれ文法学・修辞学・論理学(弁証法)・算術・幾何・天文学・音楽からなります。中世の学術言語はラテン語、あるいはギリシア語など古典言語であり文法、修辞学、論理学は語学の学習でもあります。 算術・幾何学・音楽は数学に属すとみなされました。  この自由7科がliberal artsです。  この基礎7科を身につけたうえで専門科目に進みます。 専門科目は神学、法学、医学で専門職養成のための学問です。  哲学は大学によって歴史が異なるようですが、専門科目に分類され種々の学問を含んでいたようです。近代以降学問の発達により専門化が進むと哲学と自然・人文・社会の諸科学の領域・分野ごとに細分化されます。  こうしてみるとリベラルアーツという言葉には生活や生存のために労働を行い世俗的に生きるのではなくより高尚な知的活動を行うという特権的な意味が含まれます。  いくつか日本の「教養」という言葉を考える際に注意するべき点を挙げて見ます。  まず歴史が長いことです。  自由市民が持つべき知的能力については古代ギリシアから考えられており、しかもその伝統は現在も続いていると言えます。  日本にはリベラルアーツに相当する言葉や概念がなかったので明治時代に西周が「藝術」と訳しました。これは「芸」と「術」の組み合わせでどちらかというと「arts」の翻訳語です。「liberal arts」それ自体が持っている歴史的、学術的、そして社会的意味には目がいかなかったようです。  また外国のリベラルアーツは専門教育を受けるために必要であるとされます。   第2章 大学とは何かについての考察  リベラルアーツと教養という言葉を比較してみましょう。  その前に大学という物について考えてみます。リベラルアーツも教養も大学も日本人にとっては明治維新で初めて知ったものです。  明治政府は大学を非常に重視しました。明治維新で最初に作ったものの一つと言っていいでしょう。文部省より先に作られています。  日本の学制も欧米諸国の学制も各国ごとに異なり歴史的にも変遷があると思いますが、明治以降の日本の学制の変化は複雑で理解が困難です。  まず日本の大学と欧米の大学は同じといえるのか?  明治維新直後に東京大学の元を作り変遷、紆余曲折を経て現在の形になったのは明治10年です。その後明治30年に京都大学が出来るまではそもそも日本には大学が一つしかありませんでした。大学がなくても高等教育機関がなかったわけではなく色々な専門学校や私学校がありました。ただ今度は「高等教育」とは何かも問題になります。  明治政府は大学を重視したので大学を最初から大学をもっと作りたかったのですが、明治期の前半に大学が1つしかなかったのは貧乏過ぎたのと大学の体をなす人材や設備が集められなかったからでしょう。  研究と教育をする総合的高等教育機関を大学とすると国立でないと不可能です。国力が低い国が大学を作るのは困難ですが当時の日本人は教育を国家の存亡を決めるほど重大なものと考えました。  帝国大学を徐々に増やすとともに大正7年(1918年)それまであった帝国以外の各種学校に大学を名乗ることを認めます。慶応大学や早稲田大学はこの時大学になりました。  大学を考える際には大学より前の段階の教育制度・教育機関と大学に入るまでに何を教育するのか、入試などの入学のための審査制度を大学との関係で見ていかないと大学の理解がきちんとできません。  戦前昭和には旧制高等学校がありこのカリキュラムに現在の日本の大学の教養で科目とされているところまで教えていることがあります。  戦後は占領国軍によりアメリカと同じ6・3・3制がひかれそれで変わらず安定しているように見えるため若い世代にはこれが先入観になりがちです。  大学というのはこの様に教育の歴史の中で見ていかなければなりませんが、現在の大学という物が世界各国共通化というとそれもまた違う様です。  日本の教育制度に大きな影響を与えたアメリカを見てみます。  アメリカのリベラルアーツカレッジについての説明(2020年8月10日14:29の日本版ウィキペディア)を調べると下記の様な記載があります。 ……アメリカ合衆国の大学は、大学院を持つ大規模な研究型大学(Reserch University)、リベラル・アーツ・カレッジ(Liberal Arts College)、公立で地域の学生が通う2年制のコミュニティ・カレッジ(Community College) に大別される。日本の大学と異なり、多くのアメリカの学部課程カリキュラムには「法学部」「医学部」「経営学部」(またはその専攻課程)がなく、それらの専門に進む生徒はまず4年制学部過程(Undergraduate School)で学ぶ必要がある。大学院には、法科大学院(Law School)、医科大学院(Medical School) 、経営大学院(MBA) といった専門職大学院と、学部過程で学んだ専門をさらに追究する学術系大学院に大別される……  大まかにリサーチユニバーシティを日本の総合大学と対応させる見方が一般的でしょう。 大きな違いは医学部や法学部が専攻過程にないという点です。リベラルアーツカレッジは私立で全寮制、一クラス当たりの学生数が少なく教育重視であるところが研究型大学と違うところで日本では一致するものが少なく、認知されていない大学の形態でしょう。コミュニティーカレッジは公立であることを除けば日本の短大でしょうか。    ヨーロッパでもイギリス、フランス、ドイツなど国ごと、宗派ごと、歴史ごと、個別の大学ごとに教育制度に特徴があります。  大学は中世からあるものもありますが、歴史や国家の影響を経て変遷があります。  「研究をするところ」、という観点から大学をみるのと「大学に扶養されて教育を受けるところ」という観点で大学を見る場合では大学に対する見方が異なります。  大学院を出て学士、修士、博士を取っていれば基礎教育は終了したものとみなされて研究する、または教育する側として大学と関わりますが、学士取得以前の学制にとっての大学は教育機関ですので、属する教育機関の教育に関する考え方に基づいて影響を受ける 第3章 リベラルアーツと教養  大学教育については各地域、各歴史ごとに、各大学ごとに違いが大きいことを説明しました。  大学教育を修了し博士号を取れば学問の世界では学者として認められ、教授や講師などの大学教員になることが出来ます。  欧米の中世の学問の伝統をひく大学では大学で学ぶべきこととしてリベラルアーツが必要です。  考え方によってはリベラルアーツさえ身につけておけば十分と言えるかもしれません。  中世の大学の例でいえば基礎科目についてはリベラルアーツを学んでおけば必要十分であったでしょう。  アメリカのリベラルアーツカレッジであればリベラルアーツを身につけることのみに専念するのですから、リベラルアーツを身につける事が大学教育を受ける事の必要十分条件でしょう。  アメリカではリベラルアーツカレッジを卒業するとメディカルスクールやロースクールに進むことが出来ます。  言い換えると医学や法学などの専門教育がリベラルアーツの習得を専門教育を受けるのに有用とみなしていることが分かります。  これは中世のヨーロッパと同じスタイルです。 中世の大学では神学、法学、医学の専門職になる専門教育を受ける条件としてリベラルアーツを習得するシステムになっていました。 リベラルアーツという言葉にはこのような意味がありますが、教養という言葉にこれと同じ意味があるかと言えば同じ意味はありません。  私の小学2年生の息子が持っている金田一春彦先生などが監修なさっている学研の新レインボー小学国語辞典第6版で教養を調べてみましょう。 「学問や知識を身につけることによってうまれる心のゆたかさ」 試しにグーグル検索してみましょう。」 「学問・知識を(一定の文化理想のもとに)しっかり身につけることによって養われる、心の豊かさ。」 似ていますね。  もう一つウィキペディアで調べてみます。 「教養(きょうよう)とは個人の人格や学習に結びついた知識や行いのこと。これに関連した学問や芸術、および精神修養などの教育、文化的諸活動を含める場合もある。」 せっかくですからカタカナのリベラルアーツと英語のliberal artsをグーグルやウィキペディアで調べてみましょう。 カタカナグーグル なし カタカナウィキペディア 「リベラル・アーツ(英: liberal arts)とは、ギリシャ・ローマ時代に理念的な源流を持ち、ヨーロッパの大学制度において中世以降、19世紀後半や20世紀まで[注釈 1]、「人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本」と見なされた自由七科のことである。具体的には文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何(幾何学、図形の学問)・天文学[注釈 2]・音楽[注釈 3]の4科のこと。現代では、「学士課程において、人文科学・社会科学・自然科学の基礎分野 (disciplines) を横断的に教育する科目群・教育プログラム」に与えられた名称である。具体的な教育内容に関しては「リベラル・アーツ・カレッジ」「教養学部」を参照のこと。」 英語google 「Liberal arts, also referred to as the humanities, includes the study of history, literature, writing, philosophy, sociology, psychology, creative arts, and more. More broadly speaking, students earning a liberal arts degree learn to formulate effective arguments, communicate well, and solve problems.Sep 10, 2018」 英語wikipedia これはなんの事情かliberal artsの項目がありませんでした。 代わりに先頭に「liberal arts education」が出てきましたのでそれを収載します。 「Liberal arts education (from Latin liberalis "free" and ars "art or principled practice")[1] is the traditional academic program in Western higher education.[2] Liberal arts generally covers three areas: sciences, arts, and humanities. Its central academic disciplines include philosophy, logic, linguistics, literature, history, political science, sociology, and psychology. Liberal arts education can refer to studies in a liberal arts degree program or to a university education more generally. Such a course of study contrasts with those that are principally vocational, professional, or technical.」 教養とリベラルアーツ(日本語)/liberal arts(英語)を比較してみると教養には「心のゆたかさ」「人格」「精神修養」などの言葉が出てきます。 教養自身が学問であるというよりは学問を身につけた結果身につけられる倫理・道徳的な人間の価値の様なものを意味の中心としているようです。  一方でリベラルアーツ(日本語)/liberal arts(英語)には倫理・道徳的な意味合いがなく知的な意味しか出てきません。学問の技、術、芸、方法、手段、道具として見ています。具体的な教育課程で占める位置付けについても書かれています。日本語のウィキペディアの「教養」の説明を読むと「教養」もその様に使っても良い様な事を書かれていますが、そのような使い方は二次的であると付記されており、さらに書いてあることが曖昧です。  ですから「教養」と「リベラルアーツ」は別の意味で使った方がいいかもしれません。  「教養」という言葉には学問が自己修養や人格陶冶であることを意味した儒教の影響が張り込んでいると思われます。それはそれで構わないのかもしれませんが「リベラルアーツ」の訳語の意味があることや「リベラルアーツ」の学問における意味が理解されていない場合にまずい場合があります。  最悪なケースは大学の新入生が教養課程の意味を取り違える事です。  教養課程が教養を身につけるところであってリベラルアーツを勉強すべきところと思わずリベラルアーツを身につけず教養課程を終わってしまうことです。日本の場合、そうであっても専門課程に進める事が多くあります。大学入学時にすでに専攻が決まっている場合専門教育の勉強を急ぎ教養課程を軽視する場合があります。  あるいは教養教育を嫌う可能性があります。若い多感な時期に大学という権威から大学の価値に従う倫理・道徳を身につけなければ希望する専攻に進ませてやらないと言われれば反感を持つのは当たり前です。  ステューデントアパシーに陥ったり、モラトリアム期に入り込んでしまうかもしれません。不登校や多留生になるのもいいかもしれませんが、無駄で効率が悪いです。そのようなつまらない理由で時間もお金もエネルギーを無駄にするのは大学、社会、本人、家族、その他あまり良い感じがしないかもしれません。  旧制高校的な教養主義文化ともいえるので本人の人格形成につながったり文化として残していくのもいいのかもしれませんが昔の事はよく見えやすいお年寄りの回顧であったり、前向きにトライするのを回避する若者の良い訳に過ぎない場合も多いかもしれません。無駄こそ文化だという考え方も共感はするのですが。   第4章 大学入学前後の教育システム  前章までで「教養」という言葉と「リベラルアーツ」という言葉を区別すべき理由を書きました。  具体的な施策としては「教養課程」、「教養教育」を「リベラルアーツ過程」「リベラルアーツ教育」に変更するか、「教養」という言葉が「リベラルアーツ」を含むことを普及、宣伝、啓発、教育していくべきです。  大学で学ぶ基礎教育期間は大学を卒業した全ての人が身につけるべきことを身につけさせる最大にして最後のチャンスになるかもしれません。基礎過程で身につけずにリベラルアーツを身につけさせるのにこの機会を逃す場合に考えられる次の手段は、大学卒業時に試験を課すことです。そうすれば自習でも何でもリベラルアーツを勉強するでしょう。補講を設けたり家庭教師を雇ったりダブルスクールして塾や予備校で勉強するのもいいでしょう。勉強には社会も個人もお金を惜しむべきではありません。最高の投資だと思いますし経済効果もあるかもしれません。  全ての大学生が共通に教育されるべき学問があるのかという疑問あるいは習字疑問文による否定的な考えを持つ人がいるかもしれません。  まず教養課程をさぼったり代返を頼んだり名前だけ書いて教室を出て行ったりレポートをコピペしたり一夜漬けしたりカンニングしたりして実質的にリベラルアーツを身につけずに専門教育に進んで問題を感じなかったという感想を持つ人が多くいると考えられます。それに対する答えは気付かぬ間に本人や社会が損をしているかもしれないと考えるべきという事です。  原点に返ってリベラルアーツの意味を考えます。自由市民が持つべきものでした。まず自由市民同士で議論が出来ないといけません。議論でなくても話が出来ないといけません。時にポリスの代表者や軍の司令官も選ばないといけないかもしれません。選ぶどころか他に適任者がいないとあれば自分でやらないといけないと思うかもしれません。直接民主制なら誰もが良い志を持っているとは限らず合理的、論理的に誠実に話すのではなく、詭弁を使って人心を誘導しようとするソフィストもいるかもしれず騙されないようにしなければいけません。ですから自由市民は優秀である必要があります。逆に自分がソフィストになって他の市民を黙失用があります。ロゴスとレートリケー(レトリック=修辞法)は自由7科にどちらも含まれます。分かり易く理解させるためには時には詭弁的なものアジテーション的なものも必要な場合があるのでしょう。自然言語を使うとは理性的なもの、非理性的なものをどちらも使う事になります。「社会性」というのは非理性的なものも含まれています。  近代になると啓蒙思想や市民革命がおこります。自由・平等・博愛を謳うフランス革命では人権という概念が原則になりました。近代的な自我という者は自分で考え、判断し、決断し、行動し、行動の結果のケツを持つ人間を念頭に考えられています。奴隷がなくなり全ての人間が人権と主体性を持つことが理念になります。例えばナポレオン戦争後世界的にユダヤ人の多かったドイツではユダヤ人がゲットーから解放され大学に入れるようになります。19世紀後半以降ユダヤをルーツとする知識人が目立つようになるのはそのためです。ユダヤをルーツに持つという事はユダヤ教からキリスト教に改宗者の子孫であったりユダヤ人以外の配偶者を持った場合などです。ユダヤ教にも色々な宗派がありますが13歳の男子にバト・ミツワや12歳の女子にバト・ミツワという儀式が行われる場合がありそこで神を信じるか、ユダヤ教徒であるかを選ばせます。有名なアインシュタインはこの時神の存在を信じられないとしたのでユダヤ系ですがユダヤ人ではありません。ラビの一族でしたが前の世代が弁護士になるためにキリスト教に改宗したのがカール・マルクスでマルクスはユダヤ系ですがユダヤ人ではありません。近代にはこのように差別されていたり、まだ社会的あるいは制度的な制約を持たれていた被差別民も市民として扱われるようになります。人間は人権を持ち平等なので義務も権利も負います。  ヨーロッパは今も昔も階級社会ですので貴族などの上層階級がいます。上層階級の子弟は上層階級の教育を受けます。大学に行くのもそうです。たとえばイギリスではそれ以前は昔は家庭教師などつけられて教育されたりプライベートスクールという全寮制の予備教育、初等教育機関で教育を受けます。  ヨーロッパ全体の大学の定員枠は日本に比べれば少ないので誰もが入れるわけではありません。ですから大学の学生の主体は上層階級になります。専門教育を受けたり研究をしに行く場合には留学生や社会人を経て大学で勉強するような人もいるでしょう。  大まかに分けて大学には基礎と専門があります。ヨーロッパの上層階級は初等教育から高等教育までは幼少期、学童期から一貫して学びます。それは家族の伝統でありイギリスの上層階級なら息子は、祖父、父と同じ学校に行くような一家の伝統があります。 第5章 近代の大学教育    日本の大学教育に対するイメージは人によってことなります。この100年あまりで大学制度も教育制度も教育内容も変化していますので大学在学歴のある人の世代や在籍年代によってかなり大学のイメージに多様性があります。自分の体験は本や自分より年配や若年の人に聞いた大学体験と違うと思います。 初等教育から高等教育を一貫して行う場合、初等教育と高等教育の線訳がどこでなされるかがポイントになります。 そもそも教育内容の高等度を決める規格があります。国際標準教育分類(International Standard Classification of Education 、ISCED)といいます。1997年版と2011年版がウィキペディアに収載されっていたので示します。 ISCED 1997版[2] レベル 説明 特徴、およびサブカテゴリ 0 Pre-primary education (就学前教育) 初等教育を受ける前、3歳から開始される。幼児に対して学校環境を紹介し、また認知的、身体的、社会的、感情的スキルを開発する。 1 Primary education or first stage of basic education (初等教育または基礎教育ステージ1) 通常5-7歳から開始される。音声による読み書き、数学、および他教科の基本的な理解をする。 2 Lower secondary education or second stage of basic education (前期中等教育もしくは基礎教育ステージ2) 基礎教育ステージを修了するための教育であり、たいていは客観的パターン志向となる。初等教育(ISCED レベル1)の学習結果を基に構築され、それは生涯にわたっての学習・人間開発の基礎となることを目的とする。 3 Upper secondary education (後期中等教育) 15-16歳もしくは中等教育を修了した者を対象とする、より専門的な教育であり、第3期の教育の準備や、雇用に関連するスキル、もしくはその両方に関連する。 • 3A:大学(レベル5A)への進学準備過程 • 3B:職業志向教育(レベル5B)への進学準備過程 • 3C:就職準備、またはレベル4への進学準備 4 Post-secondary non-tertiary education (中等以降高等以前教育) 国際的視点に基づいて、中等教育と高等教育の境界をまたぐプログラム。ISCEDレベル4のプログラムについては、内容を考慮し、第3期の教育プログラムとみなすことはできない。 • 4A:第3期の教育への進学準備 • 4B:就職準備 5 First stage of tertiary education (第3期の教育ステージ1) ISCED レベル3,4よりも高度である第3期の教育。学術的、もしくは実務的・職業的固有のプログラムである。このプログラムに就くためには、通常はISCED レベル3Aまたは3B、もしくは4Aと同等のプログラムを修了していることが求められる。 • 5A:研究および職業技能資格(たとえば医学、歯学、建築学)プログラム。最低3年以上。 • 5B:労働市場に直接結びつく技術的・職業的スキルのプログラムで、5Aよりも短期間。最低2年以上。 6 Second stage of tertiary education (第3期の教育ステージ2) 高度な研究者としての認証を得るための第3期の教育(たとえばPh.D.)。このプログラムはコースカリキュラムに基づくものではなく、高度な独自の研究がなされる。典型的には、独自の研究と知識への重要な貢献が含まれた出版品質の論文の提出が必要となる。 ISCED 2011版とISCED 1997版との比較 レベル 説明 特徴、およびサブカテゴリ ISCED 1997に対応したレベル 0 Early childhood Education (01 Early childhood educational development) (就学前教育) 学校や社会への参加のための早期準備。 3歳未満の子供のためのプログラムである。 なし 0 Early childhood Education (02 Pre-primary education) (就学前教育) 学校や社会への参加のための早期準備。3歳以上の子供のための初等教育の開始前のプログラムである。 レベル0:Pre-primary education (就学前教育) 1 Primary education or first stage of basic education (初等教育または基礎教育ステージ1) 読み書き、読書および数学などの基礎的なスキルを提供するプログラムである。 レベル1:Primary education or first stage of basic education (初等教育または基礎教育ステージ1) 2 Lower secondary education or second stage of basic education (前期中等教育もしくは基礎教育ステージ2) 初等教育や一般教科を基にしている中等教育の第一段階である。 レベル2:Lower secondary education or second stage of basic education (前期中等教育もしくは基礎教育ステージ2) 3 Upper secondary education (後期中等教育) 第3期の教育の準備または仕事に関連する技術、もしくはその両方に提供している。中等教育の第二段階である。 レベル3:Upper secondary education (後期中等教育) 4 Post-secondary non-tertiary education (中等以降高等以前教育) 中等教育を基にし、第3期の教育や雇用の準備、もしくは両方の準備をするプログラム。教育内容は広く高等教育ほど複雑ではない。 レベル4:Post-secondary non-tertiary education (中等以降高等以前教育) 5 Short-cycle tertiary education (短期高等教育) 労働市場に直接結びつく技術的・職業的スキルを学ぶ最初の短期の第3期の教育。上位の第3期の教育へ進む道もある。 レベル5B:First stage of tertiary education (第3期の教育ステージ1) 労働市場に直接結びつく技術的・職業的スキルのプログラム 6 Bachelor’s or equivalent level (学士) 中間的な専門の知識、技術と能力を提供する。最初の第3期の教育である。 レベル5A: First stage of tertiary education (第3期の教育ステージ1) 研究および職業技能資格プログラム 7 Master’s or equivalent level (修士) 中間的な専門の知識、技術と能力を提供する。2番目の第3期の教育である。 レベル5A:First stage of tertiary education (第3期の教育ステージ1) 研究および職業技能資格プログラム 8 Doctoral or equivalent level (博士) 先端研究に結びつくことを目指したプログラムである。独自の研究と知識への重要な貢献が含まれた出版品質の論文の提出が必要となる。 レベル6:Second stage of tertiary education (第3期の教育ステージ2) 大学入学者の大半は初等教育から大学入学までを一貫して行ってきた人々になります。 戦後の6・3・3制なら高等学校卒業相当の学力を持つものが大学への入学資格を持ちます。言葉は難しいもので日本では小学校、中学校、高校、大学と進みます。 中学校は前期中等教育機関とのことです。国際標準教育分類ではレベル3はUpper secondary education(後期中等教育)に相当します。高校はレベル4のPost-secondary non-tertiary education(中等以降高等以前教育)と分類されています。 ここで微妙な位置にあるのが高校で中等以降高等以前教育となっています。中等教育も含むし高等教育も含むと表現されています。 レベル5の改定が顕著でISCE1997番がレベル5で終わっている一方、2011年版はそれが細分化され5から8の4つに分類されています。 問題はレベル4の「中等以降高等以前教育」という中途半端な表現です。ISCEは非常に細分化された分類なので何らかの境界があって分割可能と判断すれば分割するでしょう。ですからこれは分割できなかったと考えられます。 この分類では初等教育が具体的に表現されるほかは中等教育以降の教育内容が曖昧です。初等教育より後の社会との関係の意味で職業との関係を重視していることが推測されます。 戦前のこの境界領域の教育では旧制中学校、旧制高校と大学予科があります。 予科とは大学を予科と本科に分ける考え方です。 予科も本科も大学に属します。予科は教養課程で本科は専門課程です。 旧制高等学校は予科と同じ教育をしますが大学ではなく別の学校です。 専門に進む基礎として教養のみを教えるのでアメリカのリベラルアーツカレッジと同じ考え方です。戦前の教育制度も時期によって違いますし、色々な形態の学校があり多様性がありましたが、初等教育、中等教育、高等教育を制度で明確に分けていました。 すなわち旧制の小学校では初等教育を学び、旧制中学校では中等教育を学び、大学予科や旧制高等学校では高等教育のうち専門に進むための準備であり専門に関わらず共通の内容を学ぶ(予科は理科と文科に分かれましたが)段階であり教養課程ですが、この場合の教養は欧米の中世の伝統を継承した大学のリベラルアーツを志向しています。  日本は貧しく開国後まもなくであり欧米の近代文明の導入にハンディキャップがあるため外国の大学の様に私立ではなく公立・国立が中心にならざるを得ません。  一方で欧米の教育を模倣しているため共通点もあります。基本的に寮制度があります。私生活でも学校生活でも教養文化に触れる機会がありました。  この教養文化を教養主義と呼びますが戦前でさえ教養とリベラルアーツの意味は解離していたようです。  戦後の連合国軍による学校教育法により大学予科がなくなり、旧制高等学校の教える内容も変わりました。旧制の高等学校は予科と同じく申請の大学の教養課程を教えていたため新制の高校ではその地域の国立大学の教養学部の前身として大学に吸収されるか、教える内容を中等教育よりに下げて新制の高等学校として高等学校として留まりました。 留まったと書きましたが改造された、あるいは取り換えられたと考えることも出来ますし、継続せず断絶し全く違うものを指すようになったとも言えます。敗戦と敗戦後の改革は革命であり社会体制も憲法もラディカルに変わりました。 教育制度も大学も高等学校も戦前と、あるいはモデルにしたアメリカの学制とも環境も背景も異なります。 大学というものも洋の東西を問わず近代になると変わります。近代は国家の力が強くなり、国家が教育制度に協力に関わります。ですから現在の教育制度を国別にみていくことも意味があります。 例えばフランスのパリ大学は12世紀にできた中世大学ですがグランゼコールというエコールノルマルやエコールポリテクニークは官僚の養成機関です。 リセという後期中等教育を受けた後、バカロレアという試験を受けて高等教育機関にいくわけですが、グランゼコールという専門高等学校に行くのがエリートです。 広く歴史をみると日本の大学という概念は曖昧で例えばグランゼコールを大学というべきかという視点も生じます。 「大学」や「教育」というものを広く勉強してみるのは有意義な事です。 第5章 中等教育と高等教育について  第4章までの予備知識を踏まえた上で日本の中等教育の後半とと高等教育の前半について考えてみたいと思います。  ISCEでは日本の高等学校はレベル4に相当し「中等教育以降高等教育以前」とされています。これが中等教育と高等教育に明確な境界がないためであると書きました。他に考えらる可能性はこの段階の教育を明確に区別してもISCEの目的上意味がないというものですが歴史や世界の教育の多様性を考えると否定されるでしょう。  教養と比較するためやはりリベラルアーツについて考えます。リベラルアーツは中世においては自由7科と同義であり、7つの学問で構成される明確な概念です。  自由7科がリベラルアーツであり、リベラルアーツは自由7科です。これは必要十分情景で同値です。  近代や現代になるとリベラルアーツの意味が変わってきます。7つの学問をリベラルアーツと呼んできましたが、リベラルアーツの理念である「学問の基礎」がこの7科でよいとは言えなくなりました。これは学問も社会も変化したので仕方がありません。  仕方がありませんが時期が悪かったとも言えます。そもそも明治からの日本の留学生は促成栽培で専門家になるために国費留学生として派遣された各学問の千龍たちは大学の基礎教育から学んでません。一方で大学の初めから留学した人々は日本の大学教育に貢献しています。また外国のキリスト教宗派により作られたミッション系の大学がありそういうところでも極力リベラルアーツ教育を使用としたかもしれません。  ただ近代になって自由7科が必修であるのはさすがに時代遅れです。日本が西洋文明を熱心に取り入れ始めたころに中世7学を勉強する優先順位は低かったでしょう。いつ西洋列強どころか近隣の清国に対してさえ弱小の日本はいつ滅ぼされても植民地にされてもおかしくない状況でしたし、国内の統一も怪しく不平士族、自由民権運動、社会主義者など反政府主義者がうじゃうじゃいた時代で内乱や国家反逆運動で国内の統一が乱れてもおかしくない状況です。  外国に留学した第一期生は日本の江戸期の教育を受けたエリートでラテン語やギリシア語は出来ないにせよ四書五経など中国の文献にはたけています。中国は世界史の中では近代のある時期までは世界の中でずば抜けた文明国です。漢文の文法も修辞学も特に西洋古典語に劣っているとは思えず寧ろ優れていると思われます。  論理学にしても古代、中世までの論理学は近代、現代の論理学の目からみれば幼稚な論理です。稚拙ななんちゃって論理でしたら別に論理学を学んでいなくても論理的に見える人間を装う、あるいは自分で自分が論理的と誤解するのは簡単で現在でも世の論理的に見える人は論理能力のレベルが高くありません。高いと自分や他人が思い込んでいる場合には謙虚さもなくなりかねないので余計たちが悪いです。  算術、幾何学、天文学、音楽ですが武士は金計算を貴ばない場合があるので計算が出来ない武士がいる一方で読み書きそろばんは庶民の教育の基本です。そろばんはある程度の習熟でも高度な四則演算が可能です。武士でも経理の様な仕事をする人はやはりそろばんを取得せざるを得ません。端的な事実として幕末は経済が分かる藩が買って、経済に疎い人々が負け組になりました。  幾何学、天文学ですが、日本の和算は世界の数学史から見ても画期的です。関孝和は微分、積分、行列式などについて先達者争いをする資格のある人物で世界の歴史上の天才のトップテンに入る可能性があります。音楽は別に国力増強のために急いで学ぶ必要はないでしょう。  その様な経緯で初期の西洋文明や学問の導入は専門重視で、基礎は後回しであったと思われます。リベラルアーツの習得を重視するのは適齢期に西洋に留学したり西洋の教育学を広めようとした一部の人々に限られると思います。  津田梅子や新島襄はアメリカのリベラルアーツカレッジに留学しています。  津田塾大学や同志社大学が特別な意味を持っているのはそこに関係があるでしょう。  まとめると日本がリベラルアーツ概念を取り入れるのに失敗した理由の一つは近代においてリベラルアーツ教育で教えるべきことを何にするかに混乱が生じたためです。  近代においてどの分野の学問も大きく刷新し続ける中でリベラルアーツを何にするかは中世以来の大学でも混乱をきたしたかもしれません。 第6章 教養課程の問題点  リベラルアーツ教育と教養課程の両者の理解とその違いを理解するため教養課程の問題点を当てていきましょう。 ・リベラルアーツ教育導入時点でのリベラルアーツ教育の混乱  中世においてはリベラルアーツは自由7科を指し、高等教育において必ず身につけるべきものでした。高等教育を完了した人はリベラルアーツを身につけていると言えました。リベラルアーツは学問の基礎であるとともに高等教育を受けた人の常識でした。大学を出た人は専門は何であれリベラルアーツは同一に理解してるため、それを土台にコミュニケーションが取れます。しかし近代も進むと古典語の履修なり音楽の履修なりが学問の世界においてさえ必要性が認められなくなりました。リベラルアーツ教育は西洋においても混乱があったはずですが、その時期に日本はヨーロッパの教育制度を導入しました。日本人がリベラルアーツの意味について理解できなかったと思われます。これが教養課程の軽視につながったと思います。 ・教育を促成栽培せざるを得なかった  明治維新後の日本は悲惨極まりなかったと言えます。植民地にされないために元々低い国力を軍事に充てなければいけなかったので国民は江戸時代以上の税負担を強いられました。経済的な負担だけでなく教育をはじめあらゆる負担を強いられました。明治期初期の留学生たちは江戸の教育を基礎として直接専門を身につけに欧米大学に行きました。これは目的から見れば大成功したと言えます。欧米流の初等教育や中等教育を受けたわけでもなくリベラルアーツ教育を受けたこともない留学生たちが留学先で優秀であり専門の学問を習得するのに成功しました。明治中期以降の学生たちは欧米の教育制度導入の教育の混乱状態の中におかれていましたので欧米流のリベラルアーツの概念を理解していたとは思えません。また歴史は継続、悪く言えば惰性の面がありますので明治初期の留学生のやり方をなし崩しに模倣していたと思われます。教育制度が欧米式に整えられましたが、リベラルアーツの意味の理解には失敗したと思われます。 ・教養課程の曖昧さ  中世ではリベラルアーツ=自由7科という同等の関係が成り立っていました。  専門教育を受けるにはリベラルアーツを学ばなければいけないし、リベラルアーツを身につければ専門教育を受けられるのです。これは非常に分かり易いです。  近代以降この学問をしておけばリベラルアーツを身につけているという条件がはっきりしなくなりました。例えば中等教育後期高等教育前期の移行期に相当する日本の申請高等学校では理科や社会が選択制なことが普通です。数学も選択制です。  理科は物理、化学、生物、地学のうちどれか2科目を勉強していれば大学への入学資格が得られます。社会科は日本史、世界史、地理、倫理、政経のどれか2教科を勉強していればやはり大学受験が出来ます。数学も数学Ⅲや数学Cは文系の学制では学びません。受験科目にないからです。  かといって高等学校で学ばなかった教科が大学の教養課程で必修になっているわけでもありません。結果として数学Ⅲや数学Cを学ばなくても専門に行けます。また社会科や理科のどれも大学生なら身にするべき学問とはみなされていません。  4教科中どれか2教科が必要というだけです。つまり選ばれなかった強化は専門のための必要条件でもありませんし十分条件でもありません。  結果として教養課程は大学生が専門に進むための必要十分条件ではなくなっています。  教養課程では選択と必修と選択必修があります。つまり学ぶべきことを学生に選ばせている、悪く言えば投げています。  この結果教養課程が大学生なら必ず身につけているべき共通の学問の基礎という意味がなくなってしまってます。  これが現状だけならいいのですが、日本においてはそもそも明治時代からそうである形跡があります。これは欧米のリベラルアーツ概念の導入の失敗とも言えますし、リベラルアーツ概念は必要ないと判断したからかもしれません。 ・精神主義としての教養  江戸時代までの儒教などの影響を受けた学問感は学問とは人間の精神性を高めるものであるという事です。中国思想は分けるというより一緒にする傾向があります。  これは西洋の学問とは真逆な考え方です。  西洋では徹底的に学問を分けます。  ある科学に倫理・道徳的側面があるなら、その倫理的・道徳的側面をその科学から分離して独立一科とします。  そもそも西洋ではキリスト教があり学問や科学の領域に口出ししてくる傾向があるのでしっかり分けて宗教分離をするのが大切です。  そうしないと地動説でも進化論でも研究を妨害されます。  中国の学問感はまさに学問の目的は人間性を高めるもの、というもので、これは教養と同じ意味です。  大学制度を導入してリベラルアーツ教育を教養教育と訳して高等教育に組み入れた際にこの江戸時代の古い考え方が混入して混交してしまいました。  この混交、集合現象はそのまま現在まで引き継がれています。  ですからそもそも一般人にとって教養課程が人間性を磨くものでなかった時期がそもそも日本にはなかったのかもしれません。 ・思春期、人格形成期の問題  学問、科学を勉強することは人間修養とは少なくとも西洋では別のもののはずですが、日本においては混ぜ込まれている事の理由に教養課程の学習が若者を対象としているから、というのがあります。  そもそも10代や20代は思春期や社会への参加の意味で人格形成期ですので教育にはそのためのケアがあるべきなのです。しかし日本ではそのケアが漠然としています。  西洋では宗教なり啓蒙思想なりが人間の倫理教育を行うためのものとして明確に存在しています。これは学問から倫理的な部分を切り離す自覚的な方法でもあり、クラブ活動や寮生活、スポーツなどで社会性や人間性を養います。  日本でも寮生活やクラブやスポーツをその目的で学生のために使いますが日本では宗教系列の大学を除いて大学に教会やお寺や神社がついていることはありません。  寧ろ大学にそういった施設をつけることに否定的です。  欧米の大学は歴史的にキリスト教と結びついているので学校の伝統としてそれを否定するか肯定するかに関わらず、修身、修養、人格陶冶として大学、教会との結びつきがあります。  日本で学生の実存的な問題、人生的な問題に対応するのは保健管理センターのカウンセラーかもしれません。つまり若者の精神的ケアやサポートが元々脆弱です。  その結果か知りませんが、日本の学生は洗脳されやすいです。オーム真理教や統一教会などの新興宗教やマルチビジネスにはまってしまう人もいます。社会主義や共産主義、社会改革運動や革命運動、左翼活動の巣窟ですので公安が入っていたりします。  国公立大学だと政教分離の考え方を教育制度、教育施設に持ち込んだ結果だと思いますが、その結果として生じたと思われる面白い現象の一つが「学問で精神を高める」学問による精神主義です。  繰り返しますが、「リベラルアーツ」という言葉には精神主義がありません。ただの技術と方法です。  日本の「教養」という言葉は学問を精神修行に使う考え方です。「リベラルアーツ」は単に知的なものであり、倫理とは全く関係のない概念なので「リベラルアーツ」と「教養」は違う意味です。  「リベラルアーツ教育」と「教養課程」も別のもので同じように見える事もあるかもしれませんが全く別物です。 第7章 リベラルアーツ教育の必要性  日本には教養課程がありますので、それを望むのであれば教養で精神を高める修行をすると良いでしょう。  一方で日本には「リベラルアーツ」の考え方と「リベラルアーツ教育」がありません。  日本以外の世界のエリートは大学でリベラルアーツ教育を受けています。リベラルアーツ教育は全ての大学生が共通して身につけなければいけない、学問の土台です。それを身につけていればその技術を使って相互にコミュニケーションすることが出来ます。コミュニケーションのツールと規格が一緒なのでそれを共有しているもの同士、それを使えばいいのです。  日本の大学にはリベラルアーツの考え方もリベラルアーツ教育もありません。したがって外国の大学でのエリートとコミュニケーションを取れない可能性が生じます。  これは日本人と日本にとってミゼラブルで不幸なことです。  リベラルアーツが誤解されてしまう原因の一つに「リベラル」「自由」という言葉があるかもしれません。自由は近代の啓蒙主義において倫理的な価値を持ちます。自由、平等、博愛がフランス革命の理念です。  ただリベラルアーツの「リベラル」はこの様な意味を持ちません。単に歴史的にたまたま残ってしまった残滓です。リベラルアーツの「リベラル」はギリシアの都市国家ポリスの自由民、自由市民に由来します。ポリスは自由民と奴隷に分かれていたので奴隷ではないという事も示しています。なぜ民を自由民と奴隷に分けたかというと、生活のための労働は過当な職業的、家事的なものも含めて下等であり人間の制約と考えたからです。肉体的な労働を下賤と考え知的労働を高級としました。人間は精神をより価値の高い知的活動に充てるべきという考え方です。下賤な労働から離れて知的活動に自由に専念できるから自由民です。  近代の自由は貴族の階級的支配からの自由でした。リベラルアーツの「自由」は自由市民を同じ支配階級の貴族と同質にみなせば貴族の自由です。前提として被支配者から提供される生活のサポートの土台の上に立つものです。  ですから「リベラルアーツ」というのはある意味で差別的な言葉です。また「リベラル」は近代の自由の様に高尚な意味ではなく、単に「働かなくていい」「家事もしなくていい」という労働から離れて勝手気ままに思考や研究、学問をしていいよという者です。  伝統の継承という意味ではアカデメイアを作ったプラトンの影響で、学問は強制ではなく自由意思で行うもの、制約されず強制されず自由に思想、学習、研究、勉強をすべきだという伝統にのっとっています。しかしそのためには基礎となる技術や方法を身につけておかなければいけないという意味になります。 つまりリベラルアーツの自由とは学問の自由であるとともに自由に学問するためには最低限の基礎が必要というものです。  学問をする階級、学問が出来る階級、学問をしないといけない階級はエリートです。  エリートの項目をウィキペディア日本版から拾ってみましょう(2020年8月13日現在)。   「エリート(フランス語: élite)は、社会の中で優秀とされ指導的な役割を持つ人間や集団。別称「選良(せんりょう)」。」 「語源はラテン語の ligere(選択する)で、「選ばれた者」を意味する[1]。一般的には、ある社会において優越的な地位を占める少数者を指す。優越性の根拠には社会資源の独占、意志決定機能の独占、職業・知識・経験など少数者の属性に関わるものなど、エリート論によって違いがある[2]。民族・宗教などの場合は選民思想、階級として貴族制、知識経験の場合は知識人や資格主義に関連する場合がある。政治学的には、統治者(層)に必要な資質を持っている、あるいは持っているとみなされている場合が多い。ハロルド・ラスウェルはエリートと特定される人物について、ある勢力の主体として社会的尊敬・収入・安全の3つの価値を最大限に獲得できる者をエリートと定義している[2]。 エリートが重視される思想や傾向はエリート主義と呼ばれ、一元主義の一種である。対する概念には、非エリートである大衆の立場を重視するポピュリズム、平等主義、複数の観点や基準を並存させる多元主義などがある。 エリートが単独で支配者となる体制は寡頭制の一種であるが、これそのものは必ずしも権威主義ではない。エリートが全体の代表者に選出されたり、全体の代表者の配下でエリートがテクノクラートとして登用され重視される形態は、民主制でも独裁制でもありうる。エリートは専門家集団であるため官僚主義となり実権を握る場合も多いが、その場合は最終権力者からエリートへの統治(ガバナンス)の有効性が議論となる。 一般にエリートは、他者より高い経験と責任を発揮して国家の統治や一般大衆への指導を行うことが期待されており、社会的な分業体制の一端として捉えることもできる。森嶋通夫は、日本に限らず現代世界のエリートの分布状態を、民主制の基盤たる素人主義に対する玄人主義ないし専門家主義という言葉で位置づけている[3]。ただしエリートが期待された役割を果たしていない、と他者からみなされた場合には、エリート層の交代論や、各種の反エリート主義が発生しやすい。 転じて、単に一定範囲の職業、役職などや、いわゆるキャリアなどが「エリート(集団)」などとも呼ばれている。」  リベラルアーツと同じくエリートも差別的な概念です。そもそも大学には全員いけないのでこれも差別的な概念です。  高等教育を受けられる人も限られていますし、「高等」という差別的な概念です。  因みに差別的というのはここでは悪い意味では使っていません。  物事を何かの基準で良い、悪いで区別すると世の中は差別の体系になります。  物事を何を基準に区別するかもどちらを良いとするか、悪いとするかも現代的な視点においては恣意的なものでしかないのでここれは差別を悪い意味で受け取らないようにしてください。  差別という言葉を原理主義的に使う人がいますので一応注意しておきます。  政治をはじめどの分野でも指導者層は必要ですのでエリートは社会に必要です。  現代では指導者層にはなろうと思えば努力は必要な場合もありますがなることは出来ますので、指導者層やエリートに排除的な意味はありません。  逆に指導者層やエリート層に入れるのに入らないのもメリットがある選択肢の一つです。 世俗の事は何でもトレードオフ、機会費用が生じます。別の言い方をすると何にでも良い面も悪い面もありますし、良い事も別の見方から見ると悪いことである場合もあれば、悪いことが別の見方から見ればよいことである場合もあります。  メリットにはそれに伴うデメリットも同時に発生するという考え方が出来る事が望ましいです。 第8章 リベラルアーツの中身  リベラルアーツという言葉は欧米の教育制度の中では一貫して使い続けられています。  一方日本の教育制度でも教養課程というのがあります。  教養課程は一時期「教養課程不要論」というのもあって教養の年限が短縮されたり、教養課程中に専門課程も同時に進める様な流れがありました。今現在はどうなっているかは知りません。  高等学校で高等教育をすでに行っているので大学の教養課程をごまかしても何とかなってしまう場合があります。私は2回大学を卒業しており1回目は1995年から1999年まで北大の理学部物理学科入学で生物化学科で卒業、2回目は2001年から2008年まで京都府立医科大学の医学部に通学していました。2回大学生をやったことで色々発見がありました。  発見の1つ目は教員も学生も真面目に授業しないことです。教員は手を抜きまくっていますし、学生の教養教科の勉強不足も顕著です。それでも専門課程に進めてしまいました。  発見の2つ目は高校できちんと勉強を理解していないと大学の勉強は理解できない事。私は高校時代劣等生だったので1回目の大学時代は学業の理解が十分なされなかったと思います。生物学科を卒業していますがそもそも高校で物理と化学の選択でしたので生物学の基礎がないまま専門に進んでしまったためです。専門もそうですが真面目な学生だったので教養課程も深く広く勉強しようとしましたが十分に理解できませんでした。  私の場合1回目の大学卒業後2年間浪人をして医学部に入学しており、1回目の大学時代も1年浪人した末の入学でした。高校時代勉強していませんでしたが浪人3年と大学4年間で7年間2回目の大学の勉強の準備をしていたことになります。2回目の大学時代は教養も専門も手ごたえを持って理解できました。2回目の大学の私の同級生はストレートで入学していれば1982年4月~1983年3月に生まれた世代で主に京都の進学校、その他も関西の進学校の学生で構成されたローカルな大学でした。全国でも名立たる進学校の学生が多数を閉めましたが、観察していると高校で物理学を専攻した学生は教養の物理学も医学部の基礎科目の生理学の神経科学の活動電位や循環器科学などの物理学が必要な勉強は理解できていませんでした。一方物理学を専攻して生物学を専攻していない学生はやはり教養課程の生物学も専門の基礎も臨床も理解できない穴があったようです。それを見て私は高校の勉強を理解できていない学生は大学のアドバンスの同じ教科の授業は理解できないと考えて周囲を観察していました。学問は積み重ねですので分野領域に問わず初級を理解していなければ中級も不完全な理解しかできず、中級までの段階を理解していなければ上級も理解できないと考えました。  3つ目の発見は2回目の大学で学生の学力低下を感じました。私は謙遜ではなく頭がよくありません。あるいは得意不得意にかなりばらつきがあります。一つの理由は郊外や田舎の小中高校に行っていたこと、2つ目の理由は高校時代学校の勉強をせず読書と哲学と思索に没入していたこと、3つ目の理由はAt risk mental status(ARMS)という状態になり認知機能が低下してしまったためです。学校での学業は下から十数番目や数十番目でしたが模試で国語が校内1位であったり、活字中毒の様になって文字という文字を読まないと気がすまない強迫的な状態になっていたり仏教や哲学や思想の勉強と思索、まとめると倫理学オタクになったため予備校の小論文では絶賛されたりしていました。しかし注意力や作業記憶、概念形成能力が低下し、両義的思考が顕著になり頭はいつも混乱状態で知的活動のパフォーマンスが低下してしまいました。この認知機能低下は長引きかつ完全には回復しないと見えて今も尾を引いているのですが、そんな私ですら医大に受かってしまいました。これは少子化が関係していると思います。  4つ目の発見は学生も教員も教養主義的な傾向がない人が増えていました。むしろ流行らない遅れた考えと見られていたようです。勉強に対する考え方がプラグマティスティックになっていて必要な事をいかに効率よく無駄なく早く行うかという考え方が徹底していました。  5つ目の発見は生徒の出自です。2/3以上が親が医者でした。京都周辺の進学校でかつ数項の生徒が大部分を占めており、かつ小中高の塾などでも知り合いであった子達が多数いました。たまに進学校でない学校出身者や学校から離れた県の出身者や身内が医療系でない子や編入性、多浪生、他大学を卒業か中退、あるいは社会人経験のある人がいましたがごく稀でしかもあまり適応がよくなかったようです。  6つ目は貧乏な家の子がいませんでした。本当にごくまれにいましたが適応に更に苦労していたようです。  7つ目は受験勉強以外のことについての発達がよくなかったようです。受験勉強の内容以外の知識が薄かったです。精神的にも幼稚で私の事を父か兄に重ねたのか何かのコンプレックスがあるのかパーソナリティ障害があるのか知りませんが嫌がらせばかりしてくるので耳元で「喧嘩売ってるんなら表出ろや」という意味のことを言ったらそれ以降卑屈で従順になりました。正々堂々とするとか決闘をするとかプライドとかそういうことを言う人がいるかもしれないとか物事にはリスクがあるとかの概念がなかったようです。そういう人が何人かいたのであまりその人だけが特殊なわけでもなかったと思います。当時は気が付きませんでしたが私は当時大阪の浪速区恵美須町に住んでおり西成区の釜ヶ崎、あいりん地区というところの隣接地域です。大学と研修医、後期研修医の間差別されていたようです。ちなみにうちは両親ともに家柄は問題ないので住んでいる場所から何か差別的なものを想像したのでしょう。ちなみに医学部の教育ではポリクリというものがあってそこで班行動をします。みんなで家柄の話になって遠慮がちに奥村という名前はすごい庶民の感じだと京都的な事を言われたので侍で水戸黄門に仕えていた儒学者と言ったら班員に驚かれたので私について何かうわさがあったのかもしれません。大学でも大阪出身者の私への態度は独特だったように思います。また初期研修病院が堺市の大阪市立大医学部出身の医師が多い病院で大阪市立大学付属病院も西成の釜ヶ崎、愛隣地区に隣接しています。大阪市立大学出身の身体科の医師が私への態度が独特だったのお年齢が高かった以外に住んでいる場所への意識が過剰だったことがあるのでしょう。ちなみに自分に自信があり過ぎたせいか差別感情に極端に鈍感でした。選民意識があって差別されても変なコンプレックスを形成しないユダヤ人がこのメンタリティと一緒なのかもしれません。  8つ目が特に教養課程の強要しなくても国家試験には受かること、基礎研究者としても臨床医としてもやっていける事です。有名進学校でその学校でも優秀な生徒なら医学部6年間の教育なしでも国家試験は受かると思います。研修医になると未熟さと経験不足からほったらかしなら問題を起こすかもしれませんが、マンツーマンの丁寧な指導があれば優秀な医者になれてしまうと思います。実際に大学時代に始めから研究者になるために授業などさぼりながら研究室に入りびたって国試直前の2か月くらいで合格してしまうような経験をしている医学研究者の話などはよく聞く話です。 臨床医をやっていれば普通に生活していれば経験する様な事しか知っている必要がありません。あとはそれをどうやって組み合わせるかです。組み合わせの多様さがあるのでこれに必要なのは記憶力と作業記憶です。ある程度思考を効率化するために論理的な思考などを身につけておけば更に簡単です。例えば学生時代には英語、数学、理科なしで入れる医学校がありました。国語と社会だけで受かってしまうのですから必要なのは読解力だけです。医師免許を取るには予備校通学や講師浪人が必要になるかもしれませんが臨床医にはなれます。しかもいいお医者さんになれる可能性もあります。逆にどんなに頭脳優秀でも愛想も説明も接遇も不良で患者さんからの評判が悪い医者は悪いこともあります。診断治療が優秀でもです。しかしそれの方が満足なさる患者さんは大勢おられます。ここら辺は旨くても接遇が悪い飲食店より不味くても接遇のいい飲食店にリピーターになる心理と似ているかもしれません。 第9章 リベラルアーツは必要か  というわけで医師のような中世以来プロフェッショナルとして認められている特殊な専門職ですら教養課程は必要ないわけですがリベラルアーツはどうでしょうか。  問題なのは経験的に理解できることは物量や速度で押せば何とかなってしまう事です。  非経験的な事を身につけるためには特殊な才能か訓練が必要です。特殊な才能は求めて得られるものではないかもしれないですからおいておいて訓練が必要な事はしっかり訓練しないといけません。  読み書きそろばんではありませんが四則演算や国語ができればあとは生きていくには何とかなるでしょう。必要な事はその都度身につけていけばいいのです。加減乗除と読解力は必須でこれは義務教育で何とかなるでしょう。  これに生活経験から得られる諸知識を身につければ生活できますが、覚えるだけでは不十分な分野があります。  数学でいえば解析学は訓練しないと見につきません。量子力学も訓練しないと見につきません。解析学は経験の積み重ねで定理や原理に到達できるかもしれませんが、積み重ねが必要です。量子力学はそもそも手段も方法も非経験的です。どちらも複素数が出てきますがこれも非経験的と見て良いでしょう。直感的に理解できるかもしれませんがガウス平面の他色々な理解のための工夫を要します。  リベラルアーツにはこの様に簡単な直感的理解が不可能な内容が含まれます。訓練が必要になります。これを忌避すると大変なことが生じる事があります。理系嫌い、理系の軽視とよく言われますが、理系回避は最近の傾向ではありません。明治、あるいは明治より前から一貫した日本の傾向と見て良いかもしれません。  大東亜戦争のアメリカとの戦争は日本軍の科学・技術軽視が招いたものです。科学・技術・産業・経済の不利を補う者として「精神主義」という概念が使われました。しかし明治以降戦後まもなくは江戸期の欧米諸国との交流制限のハンディキャップを背負いながら圧倒的に遅れた立場で文明が進んだ圧倒的な国力の差がある国々と対峙しないといけなかったのですからまだ良い訳も立ちます。  現在の愛国心や国益意識がある人でさえ教育や理系の大切さを分かっていないように見えます。分かっていて軽視なら自覚がある分良いのですが、分からないで軽視は深刻です。  結局教育が悪いのです。日本は初等教育は優れているが高等教育がダメな国と言われます。これは子供の学力調査や大学ランキングなどでも見られる現象です。  高等教育がダメな理由としては外国の高等教育を結局理解しなかったからです。形だけ取り入れたように見えても本質を理解しないと齟齬が生じます。  高等教育が何かを理解できない理由としてリベラルアーツを理解していないことが大きな理由になります。  先進国の大学で理解されて学習されていることを日本では教養課程という名の下、理解もされず学ばれている、というよりさぼって学ばれてもいません。  10代後半から20代前半の初期高等教育の中核であるリベラルアーツを知らないというのは国として致命的で大日本帝国は滅んでしまいました。個人としても致命的で日本の高等教育は外国人はおろか日本人からでさえも馬鹿にされています。  これは当たり前のことでリベラルアーツを知らないからです。更に知らないことも知らないというメタ認知もありませんから自覚もありません。なぜ日本の教育がダメなのか、これは高等教育と教育の目的、理念を理解しないとどうしようもありません。高等教育を理解しないとプレスクール以前の教育も含めて制度の設計や改善のしようがないからです。  教育とは何か、とは人生とは何か?にもつながります。国家とは何か?にもつながります。これには人によっていろいろな回答があるかもしれません。  しかし教育の歴史を考える上ではリベラルアーツの理解なしには議論が片手落ちになります。現代文明は西洋文明の延長線上にあります。日本の教育がだめでもいい、という意見もあるかもしれませんがグローバルに見れば日本は世界が切り開くイノベーションのお世話になっており、イノベーションをなしているのは西洋の教育システムです。成果だけ頂いて自分では何も作らない、というのはひどい話です。 第10章 現代のリベラルアーツ  リベラルアーツはその性質と定義上、学問の基礎になるものでなくてはいけません。  中世自由7科は語学と論理学と数学でした。論理学は語学と数学に共通するものと考えてもいいかもしれません。語学は言葉です。学問を語る、学問を記述する共通の言葉が学問の基礎になるという事は自明でしょう。現代ではラテン語に代わって英語です。分野によっては、例えば日本史ならば日本語だけでもいいかもしれませんし、中医学であれば中国語だけでもいいかもしれませんが基本は英語であることに異論はないと思われます。  中世のリベラルアーツを構成したもう一つの要素は数学です。数学については問題があります。そもそも語源のギリシア語が数を意味していません。μαθηματικάは「学ぶべきこと」という意味であり数を意味しません。ですから古代、中世、あるいは現代においてさえmathematicsで数を研究する学問とイメージしていたか分かりません。ギリシア語を勉強していたのであれば当然数だけのイメージではないでしょう。私も古代ギリシア語を勉強しましたが入門書の最初の方にすでに出てきた基本的な単語です。Mathematicsが何を表すにせよ古代は中世はともかく現代では必須科目でしょう。中世ですら必修だあったのなら現代ではなおさらそうです。数学は現在では自然科学、人文科学、社会科学の分類に含まず形式科学という一分野を形成する様です。観察や観測がないからです。現代数学は論理学はもちろん圏論など言語さえも対象範囲にしています。文系や理系を区別するのは問題はないのですが、文系だから数学を学ばなくていいという事は現在ではすべきでありません。そもそも近代科学以降実証がなければ科学は成立しません。実証するには統計学が必要です。2020年8月13日現在この原稿を執筆時点で世界でコロナウイルスが流行しています。この場合は数でいいのですが多くの人が数字の読み方、解釈の仕方が分からないために人類の福利厚生が毀損されています。複雑に入り組んだ現代社会では直接、健康や死に影響がなくても政治、経済その他を通じて衛生や公衆衛生に影響を与え健康を損なったり人を殺します。ですから正しい答えがあるのであれば正しい答えを導かなければいけないのですが知力が足らずそれが出来ません。知力はつけようと思えばつけれるのにつけないせいで不幸が生じるのは良い事ではありません。  リベラルアーツが高等教育の共通の基礎である点を鑑みて現代において何がそれにあたるか考えてみましょう。  共通の基礎とは各学問の本格的な教科書のはじめに概論や総論で語られる各学問の基礎でしょう。概論や総論はイントロダクションで序論や第一章で説明されているかもしれません。入門書や初級編でも書かれているかもしれませんがなるべく読者が分かり易い様に書くためにあえて基礎の基礎には触れられていない可能性もあります。  現代では学問の基礎というものが本当の意味で明らかになっています。  そもそも学問とは確かさや正しさを追求するものです。現代では正しさや確かさの基礎付けが済んでいますのでそれをリベラルアートにすればよいのです。  科学はその科学の対象とするものの確かさや正しさを追求しますが、確かさや正しさとは何かの研究は哲学で行われます。現代哲学が西洋哲学の完成形ですのでそれをリベラルアーツで教えます。それは簡単に言うと正しさや確かさというものは正しいこと確かなことがあるのではなく、人間が正しいと決めたこと、確かであると決めたことが確かであるというものです。  この正しいもの、確かなものを作り出すために必要になるのが数学の数学基礎論です。これで論理学、公理主義、形式主義を学びます。  これらが形式科学である数学の基礎になり、数学はあらゆる理論や体系(システム)の基礎になります。一方技術の基礎もやはり数学です。技術や工学とは科学の応用による実用化です。現代社会は存在論や認識論の基礎を現代哲学に追っていますのであらゆる物事の根本を追求したければ現代哲学を勉強することになります。現代哲学は現代数学の数学基礎論の考え方の一般化で、現代数学の基礎論は現代哲学の特殊化ですからどっちも同じものになります。  追う考えると現代におけるリベラルアーツは中世の自由7科とあまり変わりなくて語学としてラテン語やギリシア語の代わりに英語、数学として現代数学の基礎論、あるいはその一般化としての現代哲学を学ぶことになります。  違いは現代哲学が入っているところですが、学問の進歩により現代数学の基礎と収束して一般・特殊の違いを別にすれば同じものです。哲学は中世には専門職につながる神学、法学、医学と共にその他の学問の総称として専門教科にいれられたり神学の端ためと言われたり色々な扱い方をされたようですが、論理、合理、理性など理について語る場合には広い意味で正しさと確かさを追求する純粋哲学や純粋数学によることになります。  応用哲学や基礎数学に対して数論、幾何学、算術、解析学などを応用数学とすればそれは専門で勉強すれば良いことになります。中世との違いは学問の発展のお蔭で基礎がめいかくに定まっているところです。  日本では日本では哲学と言うと残念ながら哲学史や広い意味の現代思想を扱うくらいで純粋哲学である素朴実在論や構造主義的哲学、ポスト構造主義については教えないことが多いようです。  しかし哲学史や現代思想というと応用哲学であって基礎哲学、純粋哲学である現代哲学を勉強しないと意味がありません。根幹をリベラルアーツで学び枝葉は専門で学ぶべきです。哲学史や応用哲学は哲学が完成した現在にあっては歴史的には古くても根幹たり得ません。 第11章 その他のリベラルアーツ候補  前章で英語、現代哲学、現代数学の基礎論は現代のリベラルアーツに含まれることを説明しました。  中世の自由7科と比較すると文法、修辞法、論理学は英語に対応し、重複しますが論理学、算術、幾何学、天文学は現代哲学と現代数学基礎論に相当します。音楽はリベラルアーツから外しています。論理学は英語と重複すると書きましたがやはりきちんと現代数学の数理論理学や記号論理学を学ばなければいけません。もっと時代が進んで現代数学が進歩すれば記号の科学、記号論や記号学というのが出てきて自然言語を凌駕するかもしれません。その場合、英語が現代数学を基礎とした記号法である言語に置き換わり自然言語が人工言語、人造言語に置き換えられるかもしれません。  人工や人造と書きましたが無視できないのがITの進歩です。そもそも計算機科学、情報科学などは現代数学から派生した学問です。IT情報工学はその応用ですが、人工知能や量子コンピュータなどの進展により将来シンギュラリティと呼ばれる計算器、演算装置が人間の知能を超えるかもしれません。  昔は四色旗問題という地図が4色で塗り分けられる問題の証明にコンピュータを用いたことが議論になりましたが今やそんな議論をすること自体が時代遅れになってしまいました。  ITはテクノロジーですがリベラルアーツは学問である必要はないですし、アートでもテクノロジーでも工学でも高等教育に役に立つのなら何でも取り入れるべきですからITを使いこなす事は現代のリベラルアーツの構成要素の候補の1つになります。  これは初等教育や中等教育で行えばいい可能性もありますし、自分でできなくても企業でも個人でも誰か専門家を雇ってやってもらってもいいのでリベラルアートにすべきではないという意見があるかもしれません。  これは一つはいいアイデアでもっと発展するとリベラルアーツは不要であるという議論もあり得ます。  そもそも単純労働せずもっと高尚な事を自由に考えるのがリベラルアーツの目的です。現代は社会や産業の発展により代行業が盛んです。何でも自分でやるのではなくアウトソーシングするのも1つの考え方で、リベラルアーツという者自体をアウトソーシングして自分はもっと自由にやりたいことに励むという考え方もあるでしょう。  そういう生き方もありですが本書は知的エリートに仲間に入れてもらうための方法としてリベラルアーツを身につけるための本です。ですのでこの議論は本書の趣旨に外れますので解説しませんがもちろんそういう選択をすることも多いと思います。  我々は別にエリートに仲間に入れてもらう必要はその意味がある場合以外にはありません。特にプライドや何かの感情的こだわりもなくエリートの仲間入りすることにメリットもなく知的好奇心もない場合にはリベラルアーツを身につける事はありません。時間の無駄なので他の自分なり他人なりの幸福を増進させることに自分のリソースを注げばいいだけです。  ところで流石に古代ギリシアではないのですから単純労働と知的労働を分けて家事や仕事などを知的労働の下位に置くといった価値観は偏った考え方で時代遅れでしょう。  現在は科学技術社会の進歩の加速度的な速さを考えておかなければいけません。  良くも悪くも昔より人間は自分でやらないといけないことが変わってきていますし誰かや何かに任せられることも変わってきています。  スマートフォンが出たときにガラケーでいいやとスマホに手を出さずデジタルデバイスが生じてしまった高齢者が私の身近にも沢山いました。  エジプトのファラオ、アメリカのロックフェラーに比べて現代の富豪に出来る事は限られているでしょう。時代が下るにつれてテクノロジーの進化でコンピュータや機械がやってくれることは増えましたが手近な事で人にやってもらうことは減っているでしょう。  ある程度世の中が変わったらある程度自分で理解して自分でもできる様にしておかないと楽しみが減ったり不自由が増える可能性がどんな大富豪でもあると思います。  情報量の増加は加速度は加速度でもおそらく指数関数的か階乗関数的です。  情報に関する技術はメディアについての知識でもあります。  我々はニュースで世界の情報を知らなくてはいけません。政治、経済、社会、軍事、健康、地域その他です。我々は民主制の社会に住んでいるため主権者であり、選挙権、被選挙権を持っています。子供がいれば安全に子育てしなければいけませんしこの社会の繁栄や子供たち、子孫、未来の人類のために、また自分のため世界人類のためにより良い社会を作っていかなければいけません。判断を間違うと独裁政権や危険なイデオロギーを持っている人々に社会を乗っ取られてしまうかもしれません。  古代ギリシアの様に生活のための肉体労働とか高尚な哲学や学問や芸術を考える精神的な活動とか区別するような世の中でもありません。  もう一つ世俗に深くかかわらないといけないこととしてマネーリテラシー、お金のリテラシー、経済の知識が必要です。我々が済んでいるのは資本主義社会、市場経済社会であり、生産性や配分、失業率が社会と人々の福利厚生に直結します。経済政策や経済状況、世界経済を知らないでは済まされません。何せ間接であれ直接であれ我々は政治の主体であり、施政者でもあるためです。また自分や家族、友人たちや身の回りの人たちの生活を守らなければいけません。守るとは経済を発展させていかなければいけないのと自分と家族の収入や財産や資産を得るように努めなければいけません。自分の経済も人の経済も地域、国、世界の経済を回さなければいけません。  しかし一方でお金は必要なだけあれば意外と余分にはあまり必要ないと言えます。時にお金よりもっと大切でお金に換金可能なものは腐るほどあります。人から尊敬を得たり地位、名誉、良い評判、知名度など得ればそれはお金に出来ます。  学校の勉強がよくできれば家庭教師や塾講師になれるし、何かの知識があればセミナー講師になれるでしょう。力が強くて健康な肉体があれば力仕事で収入を得られます。単に相続などで受け継いだ小金がある程度や成金では尊敬や自尊心は得られないかもしれません。実業家、事業化になれば事業の立ち上げ方が分かるので自分で商売や会社を始めたり雇われ経営者になれるでしょう。お金があっても家事や泥棒にあえばなくなってしまいます。私の祖母の家は4回泥棒に入られました。でも泥棒なら全部はとっていかないけれども火事は全てを失うので怖いとよく言っていました。友達の地方の素封家で名古屋の近郊に膨大な敷地を持っている地主さんですが蔵に何回も泥棒に入られて古いものが残っていないそうです。ちょっと稼ぎ頭が病気になったり死んだら回らない家はいくらでもあるはずです。長期に地域に貢献してきたり伝統があり身元や家柄がしっかりした人はそれだけで一財で財を成した人には得られない地縁血縁人脈地位があります。何代かかけなければ普通は中産階級にも上っていけないのが昔のヨーロッパでした。歳を取ると非常に多くを失います。40半ばになれば遠視も出るし髪も薄く白く油気もなくなってぱさぱさ史ます。皮膚も汚くなり歯周病などで口も臭くなります。整形外科的な問題が生じはじめどこか身体が痛くなってきたりします。ですからお金よりその稼ぎ方の方が大切ですし、どう使うかも大切ですし、同時世代に残すかも大切ですし、同投資するかも大切です。小金があればデイトレードで食べていけますが株式の売買ではGDPは増えないので投機と呼ばれます。投機にせよそれで食べていければ大したものです。  小さな労苦より辛いのは暇や退屈、つまらないと感じる日常でいい年をしてくると大抵のことを経験して飽きてくるので新しい挑戦や創造が大切です。医者は田舎の方が需要があって稼げますが、田舎では使いようが限られます。洗練された料理屋もないし子供の教育にも困るので収入が少なくても都会に集まる傾向があり地方の医者不足問題が生じます。  仕事をしないで自分の楽しみや快楽で飽きない生活が出来ればむしろ才能であり優れた資質である可能性があります。この高齢社会では仕事をしていないと寿命が縮むというデータがでることもあります。  考えていくとマネーリテラシーとは一方では仕事というより英語でいうビジネスの技術という事でお金を稼ぐ場合もあれば使うだけの場合もありますし、無償の場合もあり、事業、実業というものです。我々は社会の中で何らかの活動をして、他者から承認されて、役割に同一化する方が往々にして充実した人生が遅れます。  社会のシステムに組み込まれて機能していくための知識として資本主義や市場経済、商習慣、工業や産業などお金と経済、財政と金融の知識が自己がサバイバルする生き残るという最小限の事からより大きな自己実現、ないしは社会の福利厚生の増進に貢献することが出来ます。 第12章 現代哲学と現代数学の簡単な解説 31ページ、3万4千字くらい、2010年8月13日の段階で。  次に考えるべき点はリベラルアーツを何にするかです。   必ず身につけるべきことは    今の世の中で身につけておくべきものは何でしょう?  家庭の躾は大切ですよね。  学校の義務教育相当の事は知っておかないと漢字が読めなかったり計算が出来なくて困る場合もありますし、小中学校で教わることは多くの人は当然のこととして話してくるでしょうから知っていないと困ったり嫌な思いをすることがあります。  家庭、学校に加えてドイツでは教会が大切とされ、この3つが教育の柱でした。  協会では宗教、倫理、道徳、コミュニティーとのつながりが得られます。  日本では武士は藩校などの学校で文武を身につけ、武士以外の庶民・百姓(いろいろな武士以外の職業の人々)は寺小屋教育が有名で、読み書きそろばんとまとめられます。  手習いとして習字や修身もかねて四書五経の音読、算術です。  廃仏毀釈前の神仏習合のお寺ですから神仏を尊ぶのは当たり前です。  武士や公家、外国の貴族や王族教育はまた庶民と別の立場ごとの特殊な教育があります。  庶民でも家業や次男・三男坊の将来の実の立て方を考えて教育は工夫されます。  時代によって、地域によっては同じコミュニティーに属してもコミュニケーションを取らない場合もあります。  身分の違いなどがそれですし、敵対的な思想・主義を持つものとはコミュニケーションの必要がなかったり、積極的に取らないことが奨励されたりします。  インドのカースト制度や一部独裁国家の庶民の情報統制などです。  大人になるのは現代は16歳で女性が結婚可能、18歳で選挙権の国があり、本邦では20歳で成人式を迎えます。  昔は日本人では元服が10代前半、ユダヤ教では女子の

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