離散的な言語と連続する世界の間を埋めるもの ――オノマトペという「無理数」の実装
言葉には、擬音語、擬態語、擬声語、擬容語、擬情語などがあり、日本語ではこれらを総称してオノマトペと呼ぶ。オノマトペの最大の特徴は、それが「共感覚的」な機能を持っている点にある。
擬態語は状態を、擬容語は人や動物の動きや身ぶりを、そして擬情語は内面的な感情を、それぞれ音や声といった「聴覚の言葉」で表す。これはつまり、視覚情報や内面的な精神要素、あるいはまだ感覚として明確に分化する前の何かを、聴覚的な記号(声、音、グラマトロジー)へと変換する作業論である。
感覚以前のモダリティと漫画の表現 興味深いことに、会話や文章で使われるこれら聴覚的なオノマトペは、漫画の画面(コマ)においては強力な構成要素となる。集中線や効果線、心象風景としての花やスクリーントーンと同じように、オノマトペは「絵(視覚)」として空間に配置される。状態や感情を一度「音」に変換した言葉を、漫画はさらに「絵」として再変換し、聴覚を視覚へと反転させているのだ。
言葉の根底には、感覚が明確な五感に分化する前の、未分化なモダリティと繋がっている部分がある。これを仏教哲学では「名色(ナーマ・ルーパ)」と呼び、現代科学における「クオリア(感覚の質感)」とも深く関係している。オノマトペは、この感覚以前、あるいは感覚そのものの生々しい精神的要素を象徴として引き出すための装置である。
デジタルな言語と、世界の「穴」 しかし、言語というシステムには本質的に「離散的(デジタル)」な性質がある。
私たちは、すでに知っている単語や文法成分を組み合わせて事象を記述する。単語レベルであれ、節や文章レベルであれ、あらかじめ定義されたブロックを並べていく以上、そこには必ず「適切な表現がない空白」が生じる。
現実の世界や人間の感情は、アナログで連続的である。白と黒の間には無限のグレーゾーンがあり、余白がある。しかし、言語や文化によっては「白か黒か」しか認めない二元論的、あるいは0-100思考の傾向が強いものがある。二択を提示されると、私たちはついどちらかを選ばされ、その間にあるはずの「第3の選択肢」を見落としてしまう。
数直線の穴を埋める「実数」というパッチ これは数学の歴史における、ピタゴラス学派のジレンマに似ている。有理数(分数で表せる数)だけしか知らない者は、世界が有理数だけでできていると結論づけてしまう。しかし実際には、有理数のみで構成された数直線は「無理数」の部分で穴だらけである。
解析学の基礎論において、大きなテーマの一つは「実数の定式化」であった。有理数直線上の無数の穴をどのように塞ぎ、連続した実数の数直線を構築するか。デデキントの切断などに代表される現代数学の解決法は、その穴を埋めるための「パッチ」として無理数を定義し、実数という概念を人為的に「作る」ことだった。実数は元から実体として存在していたわけではなく、世界の連続性を記述するために人間が発明したものなのだ。
言語における無理数としてのオノマトペ 言語体系における「穴(空白や余白)」を埋める役割を担っているのが、オノマトペである。
オノマトペは、無理数のようにその場で作ることができる。すでに共通語として定着したものもあるが、私たちは感覚を表現するために、その瞬間瞬間に即席のオノマトペを創出する。他者がそれに同意し、共有されるかは別の話だが、これこそがソシュールがアナグラムの研究で夢見た「言語創出の瞬間」である。既存のデジタルな辞書にはない、連続的な世界の生々しさを切り取るためのパッチなのだ。
排中律を拒み、間(あわい)をたゆたう知恵 この「間を埋めるパッチ」は、日常のコミュニケーションにおいても極めて重要な社会的機能を持っている。
例えば、関西での挨拶。「景気はどないでっか」と聞かれ、「景気めちゃめちゃええでっせ」と答えれば角が立つ。かといって「めちゃめちゃあかんわ」と答えれば気まずい空気が流れる。「良い」と「悪い」という二項対立の間に生じる摩擦を、見事にパッチで塞いでくれるのが「ぼちぼちでんな」という言葉である。
西洋論理学における排中律(ある命題は真か偽のどちらかであり、中間はない)や、二重否定律、背理法といった白黒思考が、日本の日常において単純には成り立たない理由がここにある。日本語は、オノマトペや曖昧な擬情の言葉を用いることで、二項の間に存在する無限のグラデーションを埋め、連続性を保つための方法が備わった言語なのである。
オノマトペと日本語の完備性
―白黒思考のあいだを埋める言葉―
日本語には、擬音語、擬声語、擬態語、擬容語、擬情語など、いわゆるオノマトペに関係する表現が非常に豊富にあります。
「ざあざあ」「ごろごろ」「しとしと」のように音を表すものもあれば、「ふわふわ」「きらきら」「ぬるぬる」「もやもや」「いらいら」のように、音ではない状態や感覚や気分を表すものもあります。
ここが面白いところです。
オノマトペは、単に音をまねているだけではありません。
視覚、触覚、身体感覚、感情、雰囲気、運動、質感、気分のようなものを、音に近い言葉で表現しています。
つまりオノマトペには、ある種の共感覚的な働きがあります。
見えるものを音のように言う。
触った感じを音のように言う。
気分を音のように言う。
身体の状態を音のように言う。
「胸がざわざわする」と言う時、実際に胸の中で音が鳴っているわけではありません。
「空気がぴりぴりしている」と言う時、空気そのものが音を出しているわけでもありません。
しかし、私たちはその表現で、かなり正確に何かを共有できます。
これは、感覚と言葉のあいだにある、非常に不思議な領域です。
漫画の中のオノマトペ
オノマトペは会話や文章だけでなく、漫画の中でも大きな役割を持っています。
漫画では、「ドン」「ガーン」「しーん」「ざわ…」「キラキラ」「ゴゴゴゴ」などの文字が、単なる言葉ではなく、画面そのものの構成要素になります。
集中線や効果線、スクリーントーン、背景の花や炎や影と同じように、オノマトペは画面の中で感覚を作ります。
ここでは、言葉が絵になっています。
音を表すはずの文字が、視覚的に配置される。
感情を表す言葉が、画面の空気を作る。
沈黙でさえ、「しーん」という文字によって表現される。
これは、聴覚を視覚に変換する技術でもあり、視覚や感情を聴覚的な言葉に変換する技術でもあります。
漫画は、言葉と絵と感覚の境界を、非常に自由に横断しているメディアです。
言葉は離散的だが、感覚は連続的である
言葉は基本的に離散的です。
単語があり、文があり、文法があります。
私たちは、知っている単語や文の組み合わせで、世界を表現します。
しかし、実際の感覚や気分は、もっと連続的です。
暑いとも寒いとも言えない。
嬉しいとも悲しいとも言えない。
好きとも嫌いとも言えない。
痛いような、かゆいような、重いような、だるいような、変な感じ。
不安というほどではないが、落ち着かない。
元気というほどではないが、悪くもない。
こういう中間領域は、普通の名詞や形容詞だけではうまく表現できません。
そこでオノマトペが働きます。
「もやもや」
「ぼんやり」
「じんわり」
「ふわっと」
「ずーん」
「そわそわ」
「ぼちぼち」
これらは、はっきりした概念ではありません。
しかし、だからこそ、はっきりしない状態を表せます。
オノマトペは、離散的な言語で、連続的な感覚を扱うための補助線なのです。
実数の完備化としてのオノマトペ
ここで数学の比喩を使うと、オノマトペは言語の「完備化」に似ています。
有理数だけで数直線を考えると、そこには穴があります。
有理数はたくさんありますが、それだけでは連続した直線にはなりません。無理数を入れ、実数を構成することで、数直線は連続したものとして扱えるようになります。
同じように、普通の言語だけでは、感覚の世界には穴が残ります。
嬉しい。
悲しい。
痛い。
寒い。
怖い。
眠い。
こうした言葉は重要ですが、それだけでは足りません。
実際の心身の状態は、もっと細かく、もっと曖昧で、もっと連続的です。
その穴を埋めるものとして、オノマトペがあります。
「ずきずき」と「じんじん」は違う。
「しんどい」と「だるい」と「ぐったり」は違う。
「いらいら」と「むかむか」と「もやもや」は違う。
「ふわふわ」と「ふらふら」と「くらくら」も違う。
医学的な診察でも、こうした言葉は非常に大切です。患者さんの感覚は、厳密な専門用語より、オノマトペによって正確に伝わることがあります。
オノマトペは、言葉の世界に残る穴を埋める、感覚の実数のようなものです。
「ぼちぼちでんな」の哲学
関西弁に、面白い表現があります。
「景気はどないでっか」
「ぼちぼちでんな」
これは非常に優れた表現です。
「景気めっちゃええでっせ」と言うと、少し角が立つ。
「景気めちゃめちゃあかんわ」と言うと、場が重くなる。
しかし「ぼちぼちでんな」と言えば、良すぎもせず、悪すぎもせず、相手との関係も保ちながら、状態を曖昧に共有できます。
これは単なるごまかしではありません。
白か黒か。
良いか悪いか。
成功か失敗か。
勝ちか負けか。
こういう二元論的な問いに対して、日本語には、間を埋める表現がたくさんあります。
まあまあ。
そこそこ。
ぼちぼち。
なんとなく。
それなりに。
微妙。
悪くはない。
まあ、そんな感じ。
ぼちぼちでんな。
これらは、排中律を否定しているわけではありません。
形式論理としては、Aか非Aか、という区別は成立します。
しかし、日常生活では、白黒を即座に決めることが常に有効とは限りません。
人間関係、気分、体調、景気、人生、社会の評価は、しばしば連続的で、曖昧で、文脈依存的です。
その時、日本語は、二項のあいだを埋める表現をたくさん持っています。
日本語は中間領域に強い
日本語は、物事を曖昧にする言語だと言われることがあります。
しかし、これは悪い意味だけではありません。
曖昧にできるということは、白黒の中間を扱えるということでもあります。
まだ決めないでおけるということでもあります。
相手との関係を壊さずに、状態を保留できるということでもあります。
西洋論理の文脈では、排中律や二値論理が非常に大きな役割を持ってきました。
もちろんそれは数学や科学にとって不可欠です。
しかし、人間の感覚、感情、身体、関係、社会は、いつも二値で割り切れるわけではありません。
日本語のオノマトペや曖昧表現は、その二値のあいだにある領域を、言葉として扱うための道具です。
それは、白黒思考や0-100思考を緩める力を持っています。
完全に白でもない。
完全に黒でもない。
グレーというだけでも足りない。
ざらざらしたグレー、ふわっとしたグレー、重たいグレー、ぬるいグレー、きらっとしたグレー。
そういう差異を、日本語はかなり細かく扱うことができます。
名色、クオリア、感覚以前
仏教の言葉で言えば、ここには「名色」と関係する問題があります。
名色とは、単純に言えば、名前と言葉によって世界が分節される以前、あるいは分節されつつある心身の場を示す概念として読むことができます。
私たちは、世界をいきなり「赤」「痛い」「怖い」「嬉しい」として受け取るわけではありません。
その前に、まだ名前になっていない感覚の揺らぎがあります。
視覚、聴覚、触覚、感情、身体感覚に分かれる前の、もやっとした心身の動きがあります。
現代科学の言葉で言えば、クオリアやマルチセンサリー・インテグレーション、感覚統合、身体感覚、情動の基層と関係する領域かもしれません。
オノマトペは、この「名前になる前の感じ」を、名前に近いものとして引き上げる働きを持っています。
「もやもや」は、まだ明確な不安ではない。
「ざわざわ」は、まだ恐怖ではない。
「ふわふわ」は、まだ幸福とも不安定とも決まっていない。
「しん」とした感じは、静寂であり、寂しさでもあり、神聖さでもあり、怖さでもあります。
オノマトペは、名づけられる前の感覚を、完全には固定せずに、仮の言葉として立ち上げるのです。
おわりに
オノマトペは、子どもっぽい言葉でも、漫画的な飾りでもありません。
むしろ、言語が本来苦手とする領域を扱う、非常に高度な道具です。
離散的な言葉で、連続的な感覚を扱う。
視覚、聴覚、触覚、感情、身体感覚を横断する。
言葉になる前のものを、完全に固定せずに仮に表す。
白黒のあいだにある中間領域を、生活の中で運用可能にする。
そう考えると、日本語のオノマトペは、単なる表現技法ではありません。
それは、二元論や白黒思考のあいだにある穴を埋める、言語の完備化の技術です。
「ぼちぼちでんな」という一言には、その思想がよく表れています。
良いとも悪いとも言い切らない。
しかし、何も言っていないわけではない。
曖昧だが、空虚ではない。
不明確だが、機能している。
日本語は、この中間領域を生きるための言葉を、非常に豊かに持っています。
そしてその豊かさは、現代の白黒思考や0-100思考を緩めるためにも、かなり重要な意味を持っていると思います。
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