堂島ばけもの算用
第六話 梅田の泥、千石を呑む
大坂の北へ出ると、地面が、急に頼りなくなる。
船場や北浜では、立派な商家が、まるで天地開闢以来そこに建っていたような顔で、軒を並べている。ところが堂島川を越え、福島村から曽根崎、梅田の方へ近づくにつれ、道は細くなり、橋は軋み、踏んだ土が、ぐにゃりと足の裏へ返事をする。
このあたりは、水と陸とが、まだ相談の途中なのである。
「ここは地面や」
「いや、川や」
「田にしよう」
「やっぱり沼や」
と、人間と水が、何百年も言い争っておる。
梅田という地名も、もとは低湿地を埋めた「埋田」から来たのだ、という説がある。もっとも、梅の木があったからじゃという話もあり、どちらが本当かは知らぬ。
地名というものも、相場と同じで、皆がもっともらしい方を信じれば、それで通用する。
ともかく寛政九年の梅田は、後の世のように人が集まる場所ではなく、人がなるべく足を踏み入れぬ、泥と葦と細い水路の国であった。
もっとも、人が寄りつかぬ場所というのは、たいてい、見られたくない物を隠すには、たいそう都合がよい。
*
寅吉、お駒、鶴松の三人は、難波村から町へ戻る荷車に便乗し、日が落ちるころには堂島川の南岸まで戻ってきた。
荷車には、空になった野菜籠、肥桶、折れた鍬、酔いつぶれた百姓が一人。
寅吉たちは、その隙間に押し込まれていた。
「くさい」
鶴松が鼻をつまんだ。
「何がや」
「全部や」
「お前かもしれへんで」
「道頓堀川へ落ちたお前が言うな」
「肥えは金になる」
お駒が焦げた帳面を読みながら言った。
「臭い臭い言うたらあかん。町の糞が難波の野菜になって、また町へ戻ってくるんや。あんたら、その野菜食うとるやろ」
「今、言わんでええ話や」
鶴松が青くなった。
「そういうもんは、知らん顔して食うのが礼儀や」
寅吉も青くなった。
大坂では、銭も米も糞も、よく回る。
回らぬのは、借金を返す日の主人の頭くらいのものである。
荷車は堂島川の手前で止まった。
「福島へ行くなら、舟の方が早い」
車の百姓が、眠ったまま言った。
「起きてたんか」
「寝言や」
「寝言で道を教えるな」
だが、その寝言は正しかった。
夜の大坂では、道を歩くより、川へ出た方が早い。
昼の町は、人が銭を動かす。
夜の川は、舟が物を動かす。
寅吉たちは、小さな渡し舟へ乗った。
船頭は、口に煙管をくわえた婆さんであった。
「福島まで、三人でなんぼや」
お駒が尋ねた。
「三人やない。四人や」
婆さんは答えた。
「四人?」
「その焦げた帳面の中に、死人が何人も乗っとる」
「そういう勘定は、いらん」
「なら三人分でええ」
舟は岸を離れた。
*
川の上には、陸とは別の大坂があった。
薪を積んだ舟。
酒樽を積んだ舟。
魚を積んだ舟。
人を積んだ舟。
積んでいる物を、他人に知られたくない舟。
どれも舳先に小さな灯を掲げ、黒い水面を、音もなく滑っていく。
中之島の蔵屋敷には灯が並び、その下を、裸の荷役たちが、汗を光らせながら米俵を担いでいた。
百姓が半年かけて育てた米を、一人の男が一俵ずつ担ぎ、商人が一息で値を決め、帳面の上では一瞬で千石が動く。
米を作る者。
米を運ぶ者。
米を数える者。
米を見ずに売る者。
同じ米に、何百人もの暮らしが、蔓のように絡みついている。
その蔓の一本を誰かが切れば、どこで誰が転ぶか、切った当人にもわからぬ。
「見てみい」
渡しの婆さんが、川上を煙管で指した。
一艘の荷舟が、福島の方角へ向かっている。
筵をかぶせているが、船縁が水面すれすれまで沈んでいる。
「空舟みたいな顔しとるけど、腹いっぱい積んどる」
「米やろか」
寅吉が尋ねた。
「知らん」
「船頭やのに」
「舟は見たらわかる。荷は、開けなわからん」
「追えるか」
「銭を出せば」
「なんぼや」
「四人分」
「三人や言うたやろ」
「いま、怪しい舟が一人増えた」
この婆さんには、蟠桃以上の算術がある。
*
渡し舟は、怪しい荷舟を追って堂島川を上った。
ところが福島村の舟入へ近づく手前で、荷舟は葦の陰へ入り、ふっと消えた。
「消えた!」
鶴松が立ち上がった。
「座れ。舟がひっくり返る」
「けど、消えたで」
「舟は消えん。見えんようになっただけや」
婆さんは舟を岸へ寄せた。
そこは福島村と曽根崎村の境に近い、細い堤の下であった。
岸には柳が立ち、泥の中から蛙が鳴き、遠くに寺の鐘が聞こえる。
その堤の上に、妙な男が一人いた。
細長い筒を、空へ向けている。
夜中に長い筒を持つ男を見れば、たいていの者は、盗人か、覗き屋か、気の触れた者だと思う。
この男は、そのどれでもなかった。
天文学者である。
もっと悪い、と思う人もおるかもしれぬ。
「麻田先生」
渡しの婆さんが声をかけた。
男が筒から目を離した。
麻田剛立である。
豊後から大坂へ出てきて、医者をしながら星を眺め、幕府の暦より正確に日食を言い当てたという、これまた、たいそう世間の役に立つのか立たぬのか、すぐには判断のつかぬ人物である。
「お六どのか」
「星ばっかり見て、川へ落ちんといてくださいよ」
「星は落ちても、わしは落ちぬ」
「前に落ちはったやろ」
「あれは地面の方が崩れた」
「落ちた人は、みなそう言います」
麻田剛立は、寅吉たちを見た。
「木村蒹葭堂どののところで、火事を起こした子供らじゃな」
「起こしてへん」
寅吉が言った。
「火事場におった者は、みな、そう言う」
「先生まで婆さんみたいなこと言わんといて」
「誉め言葉じゃ」
お六婆さんが言った。
*
お駒は焦げた帳面を麻田に見せた。
現米、福島へ移す。
北の舟入に隠す。
「今しがた、米らしい荷を積んだ舟が、葦の向こうへ消えました」
麻田は川を見た。
「何艘目じゃ」
「一艘しか見てへん」
「今夜だけで三艘目じゃ」
「三艘?」
「空舟の顔をして、三艘通った。だが、どれも水への沈み方が深い」
「なんで止めへんかったんです」
「わしは星を見る者じゃ。舟を止める者ではない」
「見たんやったら教えてください」
「誰に」
「誰でもええやろ」
「誰でもよい話は、たいてい、誰にも伝わらぬ」
まことに学者というものは、すぐ理屈を言う。
「舟はどこへ行きました」
お駒が聞き直した。
麻田は空を見上げた。
薄い月が、雲の間に浮かんでいる。
「もうすぐ、水が上がる」
「雨、降ってへんで」
「雨の話ではない。潮じゃ」
大坂の川は、海とつながっている。
海が満ちれば、川の水も押し戻される。
月と海と川が、遠く離れたところで相談して、舟を浮かべたり、泥へ座らせたりする。
「さきほどの舟は、潮が満ちる前に、浅い水路へ入った」と麻田は言った。「いまは泥の上へ腹を置いて、動けぬ。水が上がれば、また動き出す」
「どの水路です」
「音を聞け」
一同は耳を澄ませた。
蛙。
虫。
遠い鐘。
葦の擦れる音。
その奥から、
ごとん。
ぎい。
という、木の軋む音が聞こえた。
「舟や」
寅吉が言った。
「西やない。北や」
お駒が言った。
「北には梅田の泥しかないで」
鶴松が言った。
麻田は長い筒を肩へ担いだ。
「だから隠せる」
*
麻田を先頭に、一行は堤を下り、葦の間の細道へ入った。
お六婆さんもついてくる。
「婆さん、渡しはええんか」
「客は、ほかにも舟はある。こんな面白い話は、ほかにない」
「銭は?」
「あとで四人分もらう」
「また増えとる」
「星の先生が一人増えた」
低地の夜道には、中心の町とは違う人間がいた。
川魚を獲る者。
葦を刈る者。
薪を積む者。
夜のうちに野菜を町へ運ぶ者。
死んだ馬を引いていく者。
墓穴を掘る者。
日雇いの仕事を求めて、橋の下で眠る者。
旅の途中で銭が尽きた者。
店を逃げた丁稚。
主人を逃げた奉公人。
名前を捨てた者。
新しい名前を買おうとしている者。
大坂の中心が吐き出した物と人が、この泥の上で、もう一度、別の値をつけられていた。
欠けた茶碗は、飯を盛れば茶碗である。
折れた板は、泥の上へ置けば橋になる。
身元のない男は、米一俵を担げば荷役になる。
名を問わぬ仕事があり、昨日を問わぬ寝床がある。
それを自由と呼ぶか、行き場がないと呼ぶかは、腹の減り具合による。
「足元、気ぃつけ」
お六婆さんが言った。
「ここから先は、道のふりをした泥や」
「さっきまでは?」
「泥のふりをした道」
「どう違うんや」
「落ちたらわかる」
寅吉が一歩踏み出した。
ずぼり。
膝まで沈んだ。
「わかった」
*
葦の向こうに、低い小屋が幾つも並んでいた。
炭焼き小屋。
漁具小屋。
舟大工の作業場。
墓守の小屋。
何に使うのかわからぬ小屋。
どの小屋も傾き、風が吹けば一斉に倒れそうである。
ところが、お駒は小屋を見ず、地面を見ていた。
「おかしい」
「何がや」
寅吉は、片足を泥から抜きながら尋ねた。
「このへんだけ、葦が生えてへん」
葦原の中に、妙に平らな土地がある。
表面には薄く泥が塗られ、ところどころ板や藁が覗いていた。
「埋め立ての途中やろ」
鶴松が言った。
「それにしては、新しい」
お駒は足元を踏んだ。
どん。
地面の下から、空洞のような音が返ってきた。
「土やない」
「ほな、なんや」
寅吉も踏んだ。
どん。
もう一度。
どん。
「太鼓みたいや」
「踊るな」
お駒が言うより先に、地面が、ばきり、と割れた。
寅吉の体が消えた。
「寅!」
泥と藁と板を突き破り、寅吉は下へ落ちた。
どさり。
だが、地面へ落ちた音ではない。
何か柔らかく、乾いた物の上へ落ちた音である。
「いてて……」
「生きとるか!」
お駒が穴から覗き込む。
「生きとる」
「何がある!」
寅吉は暗闇の中で、手探りをした。
藁。
縄。
俵。
俵。
また俵。
「米や!」
穴の下に、米俵が、ぎっしり積まれている。
そこは地面ではなかった。
三艘の平底舟を並べ、その上へ板を渡し、藁を敷き、薄く泥をかぶせて、陸地に見せかけていたのである。
大坂の泥が、千石の米を呑み込んだのではない。
人間が、舟の上へ泥を塗り、千石の米を、泥に呑まれたように見せていたのだ。
「手ぇ貸して」
寅吉が穴から手を伸ばした。
「その前に、俵の印見て」
「わし、米の中に埋まっとるんやで」
「せやから見やすいやろ」
「助けてからにしてくれへんか」
「先に印」
お駒という娘は、友人の命より帳面を優先する。
もっとも、寅吉は元気に文句を言っているので、まだ命の心配はなかった。
「空木藩や!」
寅吉が叫んだ。
「ほかには!」
「待ってや。暗い……あ、ほかの印もある。波みたいなん。丸に木。三本線……空木だけやないで!」
お駒の顔から、笑いが消えた。
「何藩分ある」
「知るか。わし、藩の印なんか覚えてへん」
「噂は覚えるくせに」
「印は喋らへん」
*
「上げろ」
背後から、男の声がした。
振り向くと、葦の間から、十人ほどの男たちが現れていた。
舟子。
荷役。
浪人らしい男。
中には、墓掘りの鍬を持つ者もいる。
先頭にいるのは、五十ばかりの、肩幅の広い男であった。
羽織の胸に、鷺の印がある。
「鷺屋の者やな」
鶴松が言った。
「升屋の小僧か」
男は鶴松を見た。
「わしは鷺屋清八。ここは、うちの荷置き場じゃ」
「荷置き場を、なんで泥で隠すんや」
お駒が尋ねた。
「湿気避けじゃ」
「米の上へ泥を塗って?」
「大坂の米は、泥にも慣れとる」
「下手な嘘やな」
「上手な嘘なら信じるんか」
「値段による」
清八は笑わなかった。
「子供の遊び場やない。帰れ」
「空木藩の米、返してから言い」
「米は、預かっただけじゃ」
「誰から」
「客の名を言わぬのが、舟問屋の信用じゃ」
「盗んだ米を隠す信用があるか」
「商いの信用は、きれいごとだけでは回らん」
清八が手を上げた。
男たちが一歩前へ出る。
お六婆さんは、渡し舟の棹を構えた。
「年寄りに乱暴する気か」
「婆さんは引っ込んどれ」
「年寄りいうたな」
「そこかい」
お六の棹が唸り、男の脛を払った。
男が泥へ倒れた。
それを合図に、あたりは大騒ぎとなった。
*
鶴松は、升屋の丁稚らしく、喧嘩には弱かった。
そのかわり、逃げ足だけは速い。
「助け呼んでくる!」
「どこへや!」
「どっか!」
麻田剛立は、長い天体望遠鏡を槍のように構えた。
「それ、殴る道具ちゃうやろ!」
「星を見ぬときは棒じゃ」
寅吉は穴の中から、米俵を一つ押し上げた。
俵は板を転がり、清八の足へぶつかった。
「痛っ!」
「助ける前に印見ろ言うたん、お駒はんやからな!」
「誰も投げろとは言うてへん!」
男たちが穴へ手を伸ばす。
寅吉は米俵の間を這い回って逃げた。
舟の底は暗く、米と縄と木の匂いがする。
その奥で、何か硬い箱へ頭をぶつけた。
「いてっ」
箱には錠が掛かっている。
だが、錠より板の方が古い。
寅吉が蹴ると、箱の側面が割れた。
中から、書状と印判がこぼれた。
空木藩。
別の藩。
さらに別の藩。
そして、彫りかけの「鴻」の印。
「お駒はん! あったで! 印、ようけある!」
「持って上がり!」
「わしも上がりたいんや!」
そのとき。
ごご、と、足元が動いた。
舟が浮き始めたのである。
*
「水が来るぞ!」
麻田剛立が叫んだ。
満ち潮が、海から川をさかのぼり、細い水路へ入ってきた。
泥へ腹を置いていた三艘の舟が、ゆっくりと持ち上がる。
その上へ載せた板が軋む。
泥の地面に、亀裂が走る。
「何が起こっとる!」
清八が叫ぶ。
「月が、お前らの嘘を持ち上げとる」
麻田は言った。
「月に、そんな暇あるか!」
「月は暇じゃ。人間と違うて、銭勘定をせん」
地面が、大きく割れた。
泥と葦と板が崩れ、その下から、米を満載した舟の舷側が姿を現す。
隠していた千石が、夜の空気へむき出しになった。
近くの小屋から、人々が出てきた。
漁師。
墓守。
日雇い。
夜鷹。
薪売り。
荷役。
子供。
仕事のない者。
仕事を終えた者。
喧嘩があるなら見ておこうという者。
火事でもないのに走ってきた者。
数十人の目が、泥の下から現れた米舟を見つめた。
秘密というものは、一人が見れば秘密である。
二人なら相談になる。
三人なら噂になる。
五十人が見れば、翌朝には天下の常識である。
清八の顔が、変わった。
「まずい」
「何がや」
お駒が言った。
「湿気か?」
清八は部下へ叫んだ。
「火をつけろ!」
「米にか!」
「舟にや! 証文も印も、全部燃やせ!」
一人が松明を振り上げた。
だが、投げるより早く、お六の棹がその手を打った。
松明は泥へ落ち、じゅ、と消えた。
「年寄りを怒らせたら、火ぃまで消えるで」
*
寅吉は、割れた地面から這い上がった。
頭に藁。
顔に泥。
懐には、箱から拾った書状と印判を突っ込んでいる。
「取ったで!」
お駒が書状を受け取った。
一通目。
空木藩の米の移動。
二通目。
火傷権六への支払い。
三通目。
道頓堀の芝居小屋への前金。
そして四通目には、江戸風の堅い文字で、こう記されていた。
空木の一件、相場乱脈の証とすべし。
次いで鴻の名を用い、北浜の信用を動かすこと。
明後日、御勘定方御用掛、大坂入り。
米会所差止め、御定相場の儀、上申の用意あり。
その前夜までに、諸藩切手を安値にて集むべし。
「御定相場……」
お駒がつぶやいた。
「なんや、それ」
寅吉が尋ねる。
「お上が、米の値を決めるんや。堂島の相場を止めてな」
「ほな、この騒ぎは」
「堂島が勝手に荒れたことにして、米会所を潰すつもりや」
鶴松も、いつの間にか戻っていた。
助けは連れていない。
かわりに、酒売り、魚屋、墓掘り、犬を一匹連れている。
「どっかに助け呼びに行ったんやないんか」
「呼んできた」
「犬まで?」
「ついてきた」
お駒は書状を読み続けた。
「空木の切手を暴落させて、安う買い集める。ほんまの米は隠しておく。堂島が混乱したところへ江戸の役人が来て、『大坂商人に相場を任せるから、こんなことになる』て言う。それで市場を止めて、お上の決めた値にする」
「なんで、そんな面倒なことを」
「米の値を決める者は、天下の腹を握れる」
麻田剛立が言った。
「暦を決める者は日を支配し、米価を決める者は人の飯を支配する。役人は、何でも自分の帳面へ入れたがる」
「鴻の名を用い、て」
鶴松が聞いた。
「鴻池のことか」
「鴻池が黒幕やない」
お駒は書状を握った。
「鴻池がやったように見せるつもりや。空木の次は、鴻池の信用を落とす。北浜の両替が揺れたら、大坂じゅうの銀が止まる」
「米の次は銀か」
「空木藩は、最初の一幕にすぎへんかったんや」
芝居である。
空の蔵。
偽の切手。
噂。
死人。
道頓堀の見世物。
泥の下の米。
その全部が、大坂の市場を「乱脈」と見せるために組まれた、大きな芝居の一場面だった。
*
鷺屋清八は、泥の中へ膝をついた。
「わしは、頼まれて運んだだけじゃ」
「誰に」
お駒が迫った。
「知らん」
「客の名を言わんのが信用やったな」
「もう信用も何もない」
清八は、むき出しになった米舟を見た。
周りには、見物人が増え続けている。
「江戸から来た男じゃ。名は葛城主膳。御勘定方の用人と名乗った」
「役人本人か」
「役人の手先かもしれん。じゃが、江戸の御用状を持っとった。空木藩の留守居役も頭を下げとった」
「なんで手伝った」
「銭じゃ」
「それだけか」
「それだけなら、まだ楽じゃった」
清八は吐き捨てるように言った。
「鷺屋は、北国の舟を三艘沈めて、借金を抱えとる。葛城は、『手伝わねば、升屋にも鴻池にも、鷺屋の船は使わせぬ』と言うた。舟問屋から舟を取ったら、首を取るのと同じじゃ」
「それでも人を殺したんか」
「弥七を殺したのは、わしやない」
「火傷権六は」
「葛城の犬じゃ。もっとも、銭をくれる者なら誰にでも吠える犬や」
「葛城主膳は、どこにおる」
清八は、しばらく黙った。
「曽根崎」
「どこや」
「露天神の裏手に、江戸者が使う宿がある。じゃが、もうおらんかもしれん。明日の朝には、中之島の空木藩蔵屋敷へ入る手筈じゃ」
「明後日、大坂入りて、書状にあるで」
「公には、明後日じゃ」
清八は笑った。
「役人は、表へ来る二日前から、裏へ来とる」
*
遠くで、半鐘が鳴った。
一つ。
二つ。
福島の方角。
続いて、堂島の方角から、人の叫ぶ声が風に乗ってきた。
「何や」
寅吉が耳を澄ませた。
噂を一度聞けば忘れぬ耳である。
遠い。
だが、聞き取れた。
「空木の蔵が開いたぞ!」
「米がない!」
「切手を売れ!」
お駒の顔が強張った。
「向こうも動き出した」
葛城主膳は、隠した米が見つかったことを、まだ知らない。
予定どおり、空木藩の蔵を開かせ、空であることを人々へ見せたのだ。
堂島では、これから本当の取り付けが始まる。
米切手を持つ者が、一斉に蔵へ米を取りに行く。
米はない。
米会所は荒れる。
北浜の銀も揺れる。
「急いで堂島へ戻らな」
鶴松が言った。
「その前に、曽根崎や」
お駒が答えた。
「葛城を捕まえるんか」
「捕まえられると思う?」
「思わん」
「せやから、何をしようとしてるか、先に盗む」
「役人から?」
「向こうが、大坂じゅうの信用を盗もうとしてるんや。帳面一冊くらい、返してもらう」
寅吉は、泥だらけの顔を拭いた。
「わしら、丁稚やで」
「知っとる」
「相手、江戸の役人やで」
「知っとる」
「捕まったら、どうなる」
「升屋と鯰屋が、なんとかする」
「他人任せやな」
「大店いうのは、こういうときのためにあるんや」
鶴松が首を振った。
「小右衛門はんに聞かれたら怒るで」
「ほな、黙っとき」
「それも怒られる」
「どっちにしても怒られるなら、役に立ってから怒られ」
この娘には、たいそう筋の通った無茶がある。
*
麻田剛立は、空を見上げていた。
「夜半から雲が出る」
「雨ですか」
「雨にはならぬ。だが、月が隠れる」
「それが何や」
「盗みに入るには都合がよい」
「先生、手伝う気ですか」
「わしは手伝わぬ」
「ほな、なんで教えるんです」
「星の話をしただけじゃ」
「便利な言い訳やな」
麻田は、長い筒を寅吉へ渡した。
「持っていけ」
「これで役人殴るんですか」
「星を見る物じゃ」
「さっき棒にしてたやろ」
「人は用途を一つに決めたがる。道具は、さほど窮屈ではない」
お六婆さんも棹を担いだ。
「曽根崎まで舟で行ったる」
「なんぼです」
お駒が尋ねた。
「七人分」
「三人から、えらい増えたな」
「死人、怪しい舟、星の先生、犬。全部乗った」
「犬は置いていく」
犬が、わん、と吠えた。
「本人が嫌や言うとる」
「本人ちゃう」
大坂の北の闇の中で、隠されていた米が、満ち潮に持ち上げられ、泥の上へ姿を現している。
千石の米。
三艘の舟。
幾つもの藩の印。
それを取り囲む、舟子、日雇い、墓掘り、夜鷹、学者、丁稚、商家の娘、渡しの婆さん、それに犬。
大名も奉行もいない。
だが、大坂の実際の米を動かしているのは、こういう者たちである。
その者たちが、米のありかを見た。
もう、蔵は空でも、天下から米が消えたわけではない。
問題は、その事実が堂島へ届くのが先か。
空木藩が潰れたという噂が、天下へ届くのが先か。
銭も、舟も、噂も、夜道を走る。
走るものの中で、このとき、いちばん遅かったのは、真実である。
「行こか」
お駒が言った。
渡し舟が、暗い水路へ滑り出す。
向かう先は、曽根崎。
江戸から来た役人が、表向きにはまだ大坂へ着いてもいない夜に、裏ではすでに、大坂の値段を盗もうとしていた。
その夜の梅田では、泥が千石の米を吐き出し、かわりに、一つの大きな陰謀が、ぬるりと姿を現したのである。
*
(第六話・了。第七話「江戸の役人、天気に値をつける」へつづく)
◆この物語の史実と虚構について(語り手より)
寛政年間の大坂北郊に、福島村、曽根崎村、梅田周辺の低湿地や田畑、水路が広がっていたこと、大坂の河川が海の潮汐の影響を受け、夜も舟運と荷役が盛んであったことは、おおむね本当である。
梅田の名が、低湿地を埋めた「埋田」に由来するという説もあるが、梅の木に由来するという説もあり、語り手は決着をつける能力も意欲も持たない。
麻田剛立が豊後から大坂へ移り、医業を営みながら天文観測を行い、優れた観測と暦学で知られた人物であったことも、本当である。ただし、満ち潮を利用して泥の下の米舟を浮かび上がらせ、丁稚へ望遠鏡を貸したという記録は、今のところ見つかっていない。
鷺屋清八、渡しのお六、葛城主膳、泥をかぶせた三艘の米舟、大坂の米会所を潰すための一連の企みは、すべて拵えものである。
もっとも、表へ到着する二日前から裏へ到着している役人というものについては、昔も今も、それほど珍しくない。
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