2025年8月27日水曜日

わかりやすい経済と経済学の構造主義化の実例、実体経済と金融経済を分ける

わかりやすい経済と経済学の構造主義化の実例、実体経済と金融経済を分ける ・現代哲学や構造主義は経済や経済学を理解するのにも有用  なんでもそうですが世の中のいろいろなことを分かりにくくしている要因があります。  実在論と構造主義の無理解と両者の混乱です。  この問題が西洋哲学の歴史自体と言えるほど本質的なものです。  中世哲学の実在論と唯名論は大陸合理論とイギリス経験論の対立に引き継がれ、デカルトが登場したが二元論による分裂が生じた…、こういった哲学史の中で見られる対立や問題は構造主義とポスト構造主義に至って終了し、これは同時に西洋哲学の発展的解決による終わりをもたらしました。  発展的解決とは構造主義の発明・発見によります。  発明とみるか発見とみるかはどちらでも構いませんし文脈によって分けたらいいです。  実在論と構造主義による存在論と認識論の構築による両者の区別が西洋哲学史に終わりをもたらしました。  現代の学問は構造主義的にも見る必要があり、そうでないと片手落ちです。  逆に構造主義的にみずに実在論的な先入観だけで見ると混乱や矛盾、パラドックスが生じます。  純然たる実在論ではなく無意識に構造主義もまぜこぜになっているからです。  例えば現代論理学と現代数学は構造主義化されています。  学問をする際に論理や理論を使うなら現代論理学くらいは理解していないと論理敵っぽくはあっても厳密には論理的でないことがありますし、研究を数学を使って行う理数系的分野では現代数学(≒構造主義)の知識があった方がベターです。  ベターどころか構造主義や現代数学を知らないと場合によっては泥沼にはまり込みます。  経済学をきちんと理解していないと経済政策が失敗します。  知っていてさえ今の新自由主義のように失敗っぽい感じになっています。  経済学を知らなかったり知っていても政策に生かせなかったりすると日本の失われた30年のようになります。  そして失われた30年の原因の一つは一部の人が知っていても知らない人が大勢いて邪魔したからという側面もあると思います。  この30年の日本の歴史を見ると、そしてその中にいて体験してきた一日本人の一人として言わせてもらうとこの30年は景気が回復しそうになるたびに増税や利上げや量的緩和引き締めなど財政政策や金融政策で景気回復の芽を潰してきた30年だったと言えます。  不況時に緊縮経済政策を繰り返してきたのですから失われて当然です。  いろいろなものが失われましたが一番痛ましく失ったのは出生率で今後問題になるのは少子化でしょう。 ・お金と同じく経済も構造主義で扱える  以前お金を構造主義化してみました。  これは単純で「銀行が貸し出しを行った瞬間、信用、購買力、預金などとも呼ばれるお金というものが発生する」と一言で言い表せます。  こういう形のお金を信用通貨と言います。  具体的に言うと経済の主体は中央銀行であれ民間銀行であれ企業であれ家系であれ複式簿記として表すことができてお金を貸し借りした瞬間に両者の複式簿記に記帳される形でお金は発生します。  その他に信用通貨が生まれる前には商品通貨というものもありましたがその時代ですら信用通貨の形でお金は想像されていました。  それが銀行の起源となります。  最近ではそれ以外にも暗号資産という形の通貨が登場しています。  いろんな形のお金が混在していますが現在のお金のメインは中央銀行や民間銀行を問わず銀行の信用創造でうまれるお金がメインです。  商品通貨は実在論的で信用通貨は構造主義的に作られているという文章を前回は紹介しました。  今回はお金だけでなく経済も構造主義化できるということを書いていきます。  最初に大まかな結論を書くと「実体経済は実在論的、金融経済は構造主義的」ということができます。 ・あらゆる理論は構造主義で表せる  経済学にもいろいろな学派がありいろいろな理論があります。  理論と名がつくものは構造主義的に表すことができます。  理論と名がつかないものも構造主義的に表すことができますがそういうのは例えば人文科学で扱うような人間の心であったり、言語であったり、芸術であったり、文学であったりして矛盾やパラドクスが混じっていても構わないものなので別のところで解説します。  経済学は今や理系の一分野で数学必須なので理数系の科学と言っていいでしょう。  経済学の学派や理論も古典派や新古典派、マルクス主義経済学、ケインズ経済学、マネタリズム、行動経済学、その他いろいろあると思いますがどれも構造主義で表すことができます。  マルクス主義については構造主義の四天王とも日本では言われていたアルチュセールが共産主義を構造化して初期の共産主義ととある時期を境に後期の共産主義では構造がことなることを発見し初期と後期では構造的断絶があることを指摘したことで有名です。  そういうのはどれが正しいと言えるものでもなく発展途上はイノベーションが起こった時には新古典派的に経済運営した方がよく、不況の時はケインズ理論やマネタリズムのように政府が総需要を増やしたり金利を下げたり量的緩和して世の中に回るお金の量を増やすように努めた方がいい、というようにケースバイケースで使うのがいいでしょう。  経済は「経世済民治国平天下」の略です。  経済と言ってもいろいろな目的がその時その時によって変わってきます。  経済成長を優先させた方がいい場合もあるでしょうし物価の安定が重視される局面もあるでしょう。失業率を減らしたい場合もありますし格差是正のため分配について考えないといけないときもあると思います。金融や社会の制度を守るためという時もあるかもしれません。  重商主義が一番だとか新自由主義一本でいくとかマルクス主義だけでやっていこうみたいなことをやっていると歴史を見ると大体つんでいるというか行き詰まったり崩壊してしまうことが多いようです。  まあ何にでも終わりがあるという意味では制度を柔軟に運用してもいずれは衰退や滅亡はするのが歴史というものかもしれませんが。  今回の構造主義は前回開設したお金を構造主義化する解説の流れからそれを拡張して複式簿記の相互関連しあうネットワークという形で経済を構造主義化してみます。   金融経済を「複式簿記のルールによって自律的に動く記号の体系(=構造)」と捉え、それに対して、モノやサービスの生産・消費といった「実体経済(=実在論的な現実)」を対置して経済というものを理解してみたいと思います。 ・古典派経済学はお金や銀行を軽視する  古典派の2分法という考え方があります。 経済を実物部門と貨幣部門に分ける考え方です。 その結果として貨幣の中立性という考え方が導かれます。 これは経済を長期的、超長期で見ると正しい面はありますが短期、超短期で見ると当てはまりません。 この場合はお金というのは完全に脇役です。 実体経済がモノやサービスの生産・分配・消費に関わるのに対し、金融経済は資産の価格形成や信用の創造・取引が中心となるという見方を徹底して実体経済で経済モデルと構築するとこうなります。 『マンキューの経済学』という経済学の入門書、初級者向け的な位置づけの教科書があります。  今は分かりませんが昔は定番みたいな感じで結構多くの先生が授業で使っていたようです。  日本語訳はミクロ経済学版とマクロ経済学版分けて売っていたりもしたので私はマクロ経済学の方を何度か読みました。  その最初の数章にはお金が登場しません。  複式簿記に至っては最初の数章どころか登場したとしても1,2か所くらいだったかもしれません。  ポール・クルーグマンは教科書の他に経済学の素人向けの教育、啓発書みたいなものを多数書いています。  その中の一冊で経済学を未学者向けに説明するのですが、結構章が進んだ後に「お金のことにはまだ触れてない」みたいな形で読者をけむに巻くいたずらをしていたことを覚えています。  現在はだいぶ事情が変わっていると思いますが昔は大体経済学の一般的な教科書は主流派重視で書き進められることが多かったと思います。  当然マネタリズムなども触れられますが理論が実物経済、実体経済と齟齬がないということを強調して書き進められます。  それに加えてお金や銀行や複式簿記が脇役なような書き方をされます。  経済学部に進めばマクロ経済学やミクロ経済学だけでなく金融論や会計学も勉強すると思いますが、経済学は「現実」「実物」が主役で「お金」や「複式簿記」や「銀行」は昨日であって本質ではないみたいな感じを専門の経済学に進まない人には印象付けられてしまうような書き方をしています。  「お金は本質ではない」これは一面では事実でしょう。  でも「お金が本質である」「銀行が本質である」「複式簿記が本質である」として、つまり「機能」を本質として経済学を記述してみたらどうなるでしょう?  本論考ではこれを金融経済とします。  それに対してミクロ経済学やマクロ経済学で学ぶような経済学とその延長線上にあるものを実体経済とします。  また何となく経済も基本実物経済の感覚でもあります。  人は生まれながらに、あるいは成長の過程で自然に実在論を身につけますが、構造主義は自然に直感的に身についていたということはかなりレアケースだと思います。  普通に通俗経済学やメディア的、あるいは学校で習った経済の初歩的な見方の延長線上で経済を見る人は基本実体経済的な感覚に生きていると思います。  最近は時代の要請上、新ニーサや運用をする人が増えたり、個人事業主や起業して自分で帳簿や簿記を独学で習ったりする人が増えてきていると思うので昔のサラリーマンが普通だったりどんぶり勘定経営者みたいなのは減ってきていると思います。  世界中の金融リテラシーが上がっている時代なので「複式簿記で見る経済」というのが存在しているのを知っている人や気が付いている人は会計士や税理士さん、職種が経理、金融を実務で取り扱っている仕事の人や経営畑の人以外にも会計的に世の中を見る人はどんどん増えているのではないでしょうか。 ・金融経済のイメージ  世の中の経済的主体はお金持ちでも借金持ちでも個人でも法人でも売る人も買う人も貸す人も借りる人もみんな複式簿記です。  ここでは物やサービスは脇役です。  脇役というか実体として存在しなくても構いません。  経済的主体は複式簿記で相互に関係しあっています。  どういう風に関係しているかというと二者間でお金のやり取りをすると両者の複式簿記にそれが記帳されます。  そのようにお金が動くときには両者の帳簿で記載される額は同額です。  物理の保存則、例えばエネルギー保存則のようなものです。  同時に帳簿というものは複式簿記であればバランスします。  資産=資本+負債が成り立ちます。  ただしこれは会計年度のどの時期によるかで変わってきます。  また銀行とそれ以外の経済主体では違いがあったりします。  会計諸表ではここでは貸借対照表(バランスシート)と損益計算書だけ考えればいいです。  お金をやり取りするということは全ての経済主体である複式簿記は相互につながっています。  全体があるから個があります。  子だけあって全体がないことはあるかもしれませんがそれは無意味ということになります。  お金は最低2つの経済主体がないと意味がないもので、無人島のロビンソン・クルーソーにはお金は必要ありません。  多くの経済主体の中で必ずしも全ての二者がお金をやり取りするわけではありませんがお金は天下の周り物で間接的には必ず誰か/何かにつながっています。  現在の中央銀行システムだと中央銀行がベースマネーを民間銀行に貸して民間銀行がそれを民間の企業や家計などの主体に貸し出します。  貸すことはイコール信用創造でその瞬間にお金が生まれます。  一応言っておくとお金はマネーで現金通貨である場合も預金通貨である場合もあります。  民間はモノやサービスを売り買いしますが多くは銀行を通して預金で支払いが行われます。  現金でやり取りする場合もありますが大した額ではありません。  現金は日本の場合にはせいぜい数兆円くらいで一桁の下の方くらいしか発行されていなかったと思います。  現金で3000万円や1億円の家を買って相手に3000回や1万回一万円札を数えさせるのは事実上不可能です。  そういう機械はあるかもしれませんが。 ・構造主義はネットワークのイメージ  構造主義のイメージは基本ネットワークのようなものになります。  そういう意味では情報科学や情報工学の人にはなじみ深いかもしれません。  そのうちラカンの構造主義的精神分析学を解説しますがあれも網目のようなイメージになります。  複式簿記がシェーマLというものに代わるだけです。  ネットと言えば網ですが網はひもとみたいなものと結び目のような結節で成り立ちます。  ます結節があってそれをつなぐために二次的にひもがあるのか、それとは逆にひもがまずあってその交点を表すために二次的に結節を作ったのか、という見方をするといいかもしれません。  結節を実体、実在しているものとしてみない、というのが構造主義になります。  仏教ではそれを空と呼びます。  実体、実在しているものとしてみてもいいですがその場合はそれを仮(戯、色)などとよぶ場合があります。  日本は仏教があるおかげで呼び方に困りませんが西洋思想ではこれに該当する概念も言葉もなくこれを言い表すのに苦労したのが現代思想の歴史です。  結節を実体としてみるか、実体としてみてしまう人間の認知機能の産物としてみるかの違いになります。  マトリックスのイメージでしょうか。  数学の理論というかいろいろな分野は2つの方式で定式化できます。  集合論的定式化と圏論的定式化です。  前者は結節まずありきなので実在論的、後者はひもがまずありきなので構造主義的と言えるかもしれません。  構造主義はデジタルなものでもあります。  デジタルというと二進法的な0と1とかオンとオフというイメージでもいいですが、語源は指なので5進法でも10進法でも20進法でも構いません。  記号の数はいくつでもありません。  言語を作る記号は有限です。 アルファベットだろうが平仮名カタカナだろうが漢字のようにめちゃくちゃ数があろうが有限には変わりません。  有限な記号列で表されるもの、すなわち文や文章やプログラミングのコードは全てデジタルです。  関係や構造を表現するために文字とか言葉を使うのが構造主義がデジタル的になる一つの理由です。  それにデータもデジタルです。  複式簿記に記載される数字はデジタルです。  情報も情報処理もどちらもデジタルです。  そして情報と情報処理で世の中成り立っているのです。 ・複式簿記は必ずバランスが保たれる  重要なことなので少し詳しく解説します。  複式簿記は必ず借方貸方がバランスします。  大雑把に言えば等しくなります。  会計年度の時期にもよりますが収益や費用まで入れれば完全に左右等しくなります。  これは絶対です。  火事で貨幣が燃えてしまっても泥棒に盗まれても戦争が起こってもです。  極端な例では全てを清算して世の中のお金をなくしてしまうことができます。 中央銀行と民間銀行が貸しはがしして全てのお金を清算して中央銀行に返します。 この場合当然バランスしますしかつ借方貸方が0になります。 この違和感が分かりにくいと思います。 当然そんなことをすれば倒産したり破産したり世の中がめちゃくちゃになるでしょう。 一方でうまくやって儲けるというか物をため込むのに成功する場合もあるかもしれませんが。 利子があろうがマイナス金利だろうが関係ありません。 バブルがあろうがバブルが弾けようが金融危機が起ころうが世界恐慌があろうがやはり関係ありません。 必ずバランスします。 なぜならバランスするように作られている、それが複式簿記だからです。 国家間で見ると貿易する場合はやや話が異なります。 一国レベルではお金の流入流出が起こるかもしれません。 トランプ大統領の言う貿易赤字とか貿易黒字です。 でも世界中全部を合わせればやはりバランスし、世界中の中央銀行が清算すれば差し引き0になります。 世界銀行というものが本当に中央銀行の中央銀行で中央銀行の原資となるお金を特殊なお金で貸し出す仕組みがあれば世界中で貿易していてもすべてを清算すれば世界銀行の借り方借方はバランスするどころか0になります。 ここが次に説明する実体経済と金融経済の乖離ということにつながっていきます。 ・実体経済と金融経済の乖離  この文章は経済を説明したいのではなく経済を使って構造主義を説明したいのでさらっと説明します。  実体経済と金融経済は乖離しやすいです。  デペッグとでも言いましょうか。  具体的にいくつか例を挙げていきます。  まず思いつきやすいのが資産バブルでしょう。  株価や不動産がファンダメンタルを超えて価格が高騰し金融部門が拡大する、すなわちお金の量が増えます。  バブルとは言わなくても実体経済の成長泣き株高が見られたりすることもあります。  実体経済の体温(景況感)と金融市場の熱狂が一致してない場合です。  お金があふれると過剰流動性が生じてそれが株式市場に流れます。  企業の利益が従業員の賃金や設備投資に回されず配当や自社株買いにまわり株主の利益が優先されたりが強まるとこの傾向が強くなります。  金融経済が拡大すると実業に従事していた企業が本業だけでなくバブル時代の言い方では財テクに走る場合があります。  これは本業より金融で儲けようとする傾向です。  直接株や土地の投機に走ることもありますしM&A(企業の合併・買収)や自社株買い、デリバティブ取引といった財務活動・金融活動から利益を上げようとする傾向です。  基本的に金融取引は生産をしないのでGDPが上がることはありません。  銀行貸し出しが増えても設備投資や雇用拡大に向かわなければ経済は成長しません。  金融経済は膨張するが実体経済には波及しない。  債務不履行や破綻の連鎖のような実体経済を痛める事態が起きても簿記上は「誰かの負債=誰かの資産」でゼロサム的に帳尻は合っているが、実際の返済不能によって価値が実現しないのでネットワークは均衡していても、実体的な資源配分が破綻場合があります。 火事で紙幣が燃えたりして貨幣や現金の消失が起きると簿記上の整合性は残るが、実際の購買力が失われます。 金融記録の「一致」と実際のモノ・サービス利用能力がズレることになります。 複式簿記だけ見ていると負債もなくて資産もたくさん持っているのにお金がなくて黒字倒産みたいなことが起こりえます。 金融経済の複式簿記のネットワークで見たら常に個々のバランスシートも全体も調和がとれているように見えますが、実体経済を見ると不況だったり倒産や破産件数がすごかったり、失業率やインフレがとんでもなかったり、格差や貧困が拡大していたり、不正などが行われていたり、システムがボロボロになっていたりする場合もありますがそういうのは金融系座の帳簿のネットワークだけ見ても素人目には分からない場合が多いでしょう。 熟練した会計士や数値的に統計課を行えば異常が分かる場合もあると思いますが。  見せかけだけの調和は常に成り立っているが、現実の実体経済でみんなが上手くいっているとは言えなくても少なくとも悪くない経済の状態であるかどうかは金融経済だけではわからず実体経済との照らし合わせが必要になるものと思われます。 ・まとめ  お金というのは実在論と構造主義の両方の面から見ることができます。  同様に経済や経済学全体も実在論や構造主義の両方の面から見ることができます。  見ることができるだけではなく積極的にそうしていった方がいいと思います。  経済を実在論や構造主義で理論化する、定式化すると言ってもいろんな面からのいろんなやり方があるでしょう。  物事は一面的ではなく多様な面から多様なとらえ方をできた方がいいというのがポスト構造主義の主張であり、同じ思想である仏教の中や中観の考え方です。  理論やモデルを作ること自体はいつでもどこでも可能です。  現実とそれがあっているのかは別の話です。  そもそも現実とは何かというのはよく考えると意外と難しいことですが。  いろんな見方、考え方を知って対象をいろんな見方、考え方でとらえることが現代哲学や仏教の肝になります。  変な話ですが自由をは選択肢があることです。  選択肢がなければそもそも選択ができません。  一択です。  サルトルは人間は自由の刑に処せられていると言いましたがそもそも選択肢が作れない状況ではそもそもサルトルの言っている自由の前提がそもそもありません。  構造主義は対称をいろんな角度から理論化するのに便利です。  対象の構造化と言ってもいろいろなやり方がありどれが正しいとかどれが間違っているとかではなく全部それなりに道理があるようにできます。  単に実在論を超克するだけでなく自由になるための選択肢を作れること、それが構造主義の強力な長所です。

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