2025年8月11日月曜日

合理化、効率化が好きな人のための哲学の学習法

合理化、効率化が好きな人のための哲学の学習法 ・人間の頭は単純化するようにできている?  むかし我々ホモサピエンスはネアンデルタール人と共存していた時期がありました。  混血もしていたようで今もネアンデルタールの遺伝子を持っている人はたくさんいます。  ネアンデルタール人はホモサピエンスより大きいのを持っていました。  脳の大きさが頭の良さと結びつくかは分かりませんがネアンデルタール人は我々ホモサピエンスより賢かった可能性が指摘されています。  ではなんでネアンデルタール人は滅んで我々ホモサピエンスは生き残ったのでしょう?  本当のところは分かりませんしいろいろ考えられますが一つの説として「頭が良すぎない方が生き延びるのに都合がよかった」という説があります。  脳はエネルギーを消費する器官です。  頭の良さよりはエネルギー消費を抑えた方が生き延びるのに有利だった、とういう省エネ有利説です。  世界的に軽自動車に注目があつまる昨今の自動車業界界隈のようですね。  ネアンデルタール人が言語を使っていたのか同化にかかわらず、ネアンデルタール人は我々ホモサピエンスより豊かな精神世界を持ち複雑な内面を持っていた可能性があります。  ただそんな豊かな内面や複雑な精神は人間が生き延びるのには非効率的で非合理的だったりしてホモサピエンスとの生存競争には負けてしまった可能性が指摘されています。  ネアンデルタール人と比べると我々ホモサピエンスは物事を深く考えず単純化して捉える傾向があったのかもしれません。  またそれゆえか同化は分かりませんが脳だけでなく体格も大きかったネアンデルタール人とホモサピエンスは個体対個体ではネアンデルタール人が優れていてもホモサピエンスの方がチームワークや協働する能力が発達していたのかもしれません。  実は自閉症スペクトラム、俗にアスペルガーとか言われている場合もありますが、自閉症スペクトラムの人はそうでない人より脳が大きいことが知られています。  自閉スペクトラム症はいろいろ日常生活や社会生活で障害になるときがありますが一芸に卓越した才能を示す人たちがいてサヴァンスキル、あるいはサヴァン症候群と呼ばれたりすることがあります。  子供の第一次反抗期は「反抗期」というネガティブな表現が使われていますがこれは近現代の市民生活では障害と見えるだけでのんびりした昔のいなかや原始的な時代、そのた時代や社会の背景によっては別にネガティブなことではなかったのかもしれません。  自閉スペクトラム障害も現代の第三次産業やサービス業の発達した現代だから障害となって性障害認定されたという説があります。  近代の以前ではこだわりが強くてコミュニケーションが苦手という人が生きられる、あるいは生きやすい、あるいは評価される地域や時代もあったのかもしれません。 ・現生人類の脳は単純化する癖がある  前置きが長くなりましたが上記から「現生人類である我々ホモサピエンスの脳は物事を単純化して捉える癖がある」可能性があるということです。  言い換えれば人間は「確定したがる」単純な生き物と言えるかもしれません。  複雑なものを複雑なまま受け入れるのを避ける傾向があります。  統計学のクラスター分析で何か点の集まりがあるだけでそれに実体を想定してしまうような短絡さがあるのかもしれません。  そういう目で見ると哲学の歴史は大きく2つの時代に分かれます。  その2つの時代では哲学も違うものになります。  古代から近代の哲学は物事を物事が単純であろうと複雑であろうと単純化して捉えようとした、あるいは単純化して捉えられると考えていた時代の哲学になります。  構造主義からポスト構造主義の現代哲学は物事が複雑であれば物事を単純化せず複雑なままとらえようとする哲学になります。  では現代哲学は物事が単純であればどうするかというとそれは単純なままとらえてもいいし隠された複雑さを探してもいいしで好きなようにしたらいいです。  両者の近い、古代から近代の哲学の違いと現代哲学の違いは前者は物事が複雑だった場合単純化して後者は物事が複雑であった場合に単純化しないという点にあります。  物事を単純化して捉えられるならその方が効率的で何かの理で整理して合理的に考えるのが省エネだったり便利だったりすることが多いです。  他方で物事を単純化して捉えないのはエネルギーも使いますし人にそれを伝えようとする場合にもやはり複雑な説明になります。  しかしそれは知的な誠実さでもあります。  学術的な本や学者、研究者タイプの人の話や説明が分かりにくいと感じた思い出がある人がいるかもしれません。  逆に分かりやすい表現は現代社会では注意が必要とされます。  政治的プロパガンダ、ポピュリズム、政治的効果、ロジックよりレトリック、知的誠実よりソフィスト的な扇情主義、真の理解より無責任な商業主義的マーケティング、インターネットにせよオールドメディアにせよ報道、報告は分かりやすくしようとするほどどこかに非厳密さ、不誠実さが混じるというジレンマを抱えます。  正確な情報というのは伝えるのが難しいですし、そもそも正確が何なのか誠実であればあるほど逆に分からない場合も多いです。  そもそも良心的でないどころか悪意や商業主義などで意図的に騙して人に被害を与え自分、自分たちは利益を得ようとする人や人たちも多いです。  人を害するだけでなく悪意もあるならこれはもはやエネミー(敵)ともいえます。 ・言語化や理論化はデジタル化であり単純化  世界はアナログです。  アナログではないかもしれませんがふつうはみんなアナログだと思っているのでここではそういうことでいいでしょう。  世の中の物事に名前を付ける、説明する、理論化することは実は物事を単純化、簡略化することです。  言語とは記号で表すので記号化は二進法でなくても遍くデジタル化です。  説明もそうです。  理論はちょっと違うかもしれませんが現代の理論は公理化、形式化できるて論理で表すのでやっぱいりデジタル化のようなものです。  論理=理を論ずる、結局言葉という記号を使うからです。  念のため言っておくと記号化はデジタル化です。  アスキーコードが有名ですね。  アナログをデジタルに変換することはある種の単純化と言えます。  神学の普遍論争など見るとどういう方向への単純化するかだけの議論という見方ができます。 物事を本質、実体があるとみる単純化、名付けてるだけ、名前があるだけというのもも単純化です。 近代哲学もモダニズムも単純化です。 「我思う、故に我あり」という言葉は単純化です。 そもそも自分を「我」に集約するのが単純化です。 ちなみにこの言葉は論理的でもありません。 「我思う」を前件としてなぜ後件として「我あり」がでるのか? 何か他の前提がないとこれは論理的とは言えません。 そしてデカルトはこれを直感的にしか説明してません。 そしてもろもろの説明の果てに最後に出てくるのは結局「神の誠実」です。 デカルトは優れた数学者でもありましたが数学者としてより哲学者として高く評価されるのはライプニッツと逆の感じでしょうか? ライプニッツは万能の天才ではありますが哲学者としてはモナド論など一部情報科学や計算機科学で評価される側面はあるものの大したことはありません。 これが実在論ではなく構造主義の先駆けであったらまた面白かったのですが。 逆に数学者としての評価が高いです。  これは微分か積分か発見者か分かりませんが、普遍的記号論、すなわち現在の計算機科学に通じる面があることなどでしょう。 デカルトは文系側から、ライプニッツは理系側から評価されているわけです。 それはともかく何かを理論化できるとか何か新規の概念を発見したとかそれに名前を付けたとかそれ自体が人間の無意識の単純化で脳や認知機能の気づかれない仕組みかもしれません。 それを批判したのが構造主義やポスコ構造主義などの現代哲学になります。 ちなみに東洋思想では仏教が現代哲学に先行してこれを発見し理論化しています。 かつそれを国ごと実装している現存の、もしかしたら唯一の国が日本です。 他にも大乗仏教国はチベット、ブータン、モンゴルなどありますが行ったことがないので何とも言えません。 ・曖昧なのは謙虚なこと、誠実なこと、断言するのは傲慢なこと、押しつけなこと  現代哲学のポスト構造主義の核心はメタ認知とあらゆる考え方に中立的というより独立的であれることです。  仏教的には中観とか中道とか中と言います。  あらゆる考え方とは思想、宗教、理論、倫理、道徳、見方、イデオロギー、何でもいいです。  あらゆる考え方にニュートラルになるために必要なのはたくさんの考え方を知ること、あるいは努力して知ろうとすること、そしてどれか一つに肩入れしてそれを押し付けたり、他に排他的にならないこと、謙虚になること、自分の知らないことを知ること、自分の知らないことを知った気になって離さないこと、虚勢、知らないことは恥ずかしいことではないこと、下らないプライドを配することなどが必然的に必要になりますし、逆に健全な懐疑主義も必要です。  時に曖昧に答えることになりますし、語らないことにもなりますし、知らないとはっきり言うことにもなります。  不立文字というか言葉で表すことに慎重になりますし、意見を押し付けたり、排除しないOSの上にできています。  これは脳や先天的かもしれない認知機能への人間にできる批判や反抗とも言えます。  またそれまでの哲学や人間のイデオロギーが他者に傲慢だったり謙遜さを書いたことへの反省でもあります。  例えばキリスト教では傲慢は七つの大罪の一つですしセントトマスの懐疑と言って「復活とか審判とか言っているがそんなことあるといえるのだろうか」みたいなことを言った聖人の ・本来何かを簡単に表せると思うのは人間の驕り  お釈迦様の説法で教えの核心を教える方便に「群網象をなず」というものがあります。  複数の目の不自由な人に像を触ってもらいます。  鼻に触った人は筒のようだと言い、牙に触った人は骨のようだと言い、耳に触った人は団扇のようだと言い、脚に触った人は木の幹のようだと言います。  目の見える人に言わせればそれは象の本質をつかんでいないと思うという話です。  ここで「目が見える人こそ悟った人だ」と解釈するのも構わないでしょう。  しかしこの寓話は別の解釈をすべきです。  そもそも目で見て触れば「象」が分かるのか?ということです。  象の鳴き声を聞いたり、匂いをかいだり、食べて味を知らなければ象というものをわかったとは言えない、という人もいるかもしれません。  そういう人に対して象の研究者は笑うかもしれません。  象に関する表面的なことを知ったくらいで分かった気になるなと。  基本的に何かを研究したことがある人や学者なら研究すればするほど、学べば学ぶほど知るということは単純ではない、簡単ではないということを知っているでしょう。  構造主義では物事の内部構造、外部構造をいろいろな分析します。 しかもポスト構造主義ではいろんな側面からそれを行います。 構造という言葉を使いますがシステムからの分析でもいいですしネットワークからの分析でもいいです。 仏教では因縁、とか縁起とかいう形でネットワーク的に理解する感じが近いかもしれません。 しかも大切なのはいくら深掘りしても深掘りしきれない、物自体には決して到達できなみたいな見方が現代哲学にはあることです。 フーコーの文献学的知的探索やロラン・バルトのテクスト論を見れば探求とは果てのない道だというイメージを持てるでしょう。 単純化してわかった気になってすっきりする道ではありません。 「人間とは何か」で考えてみましょう。 人間とは何かはいろんな考え方から考えることができます。 例えば人間を学ばなければいけない医学部では基礎医学とし「生理学」「解剖学」「生化学」「病理学」「衛生学」「公衆衛生学」その他のいろいろな基礎医学教科があり全部学ばなければ卒業試験にも国家試験にも受かりません。 つまり医者は人間を生理学的にみることもあれば解剖学的にみることもあります。 それらの複数の異なる見方を同時に、あるいは切り替えて人間について考えます。  人間はもっといろんな見方で見ることができて人文科学、社会科学、自然科学の諸学科的にみることもできるでしょう。  別に学問的に見なくても学ぶ気があれば、あるいは学ぶ気がなくても我々は日々人間について学んでいるといえるかもしれません。  日常生活、社会生活、余暇のエンタメ、趣味、SNS、その他いろいろなことを通じてです。  それだけ人間を見るいろんな見方考え方は増えていきます。  そしてそれはどれか一つが正しいとかどれかが間違っているとかこれが一番だとかこの考え方は排除するべきだというものではありません。  そういういろいろな考え方をメタ認知の大きな見方を同時にしていきます。  単純な実体とか本質とか実在いう見方はこれだけで意識しなくても解体されてしまいます。  サルトルは実存は本質に先立つといいましたが本質どころか実存だってこういう見方をすれば解体されてしまいます。  これは脱構築という手法の一つのやり方です。   ・思想の実装の形、日本の例  レヴィ=ストロースは晩年戸惑いました。  晩年の研究テーマである日本が訳が分からなかったからです。  レヴィ=ストロースは構造主義者で当時のスター哲学者サルトルに論争でも打ち勝ち、かつ構造主義ブームをもたらした構造主義の第一人者です。  かれは西洋文明を信じていました。 しかしナチスの迫害によるフランスからの逃避、そして文化人類学者として滞在していたブラジルのアマゾンの集落が西洋文明に侵食されていくのを見て人類の未来に悲観します。 ナチスも西洋文明も同じ根っこから出たものであり、いずれ人類の将来自体に何らかの破滅をもたらすと思っていたからです。  非西洋的な西洋文明で「野生の思考」と呼ばれる精神性は西洋文明に滅ぼされてしまいます。  またユダヤ人である彼は当時の世界のユダヤ人人口が1800万人か1200万人か忘れましたがそのうち600万人が虐殺されたことで未来に悲観しか持てなかったと思います。  ナチスはドイツ人の問題というよりは本質的に西洋文明の生んだ鬼子のようなものです。  西洋文明は古くから人間が持っていた精神性を破壊しそれに代替しさらに人類にいろいろな悲劇をもたらします。  少なくとも偉大と悲惨の世紀、戦争、革命、イデオロギーで命を落とした人の数がそれまでの全人類の戦争などでの他殺を上回るような異常な20世紀に生きた文化人で人類の未来に悲観していたのはレヴィ=ストロースだけではありません。  そのレヴィストロースがおそらく晩年に日本を発見し古い人類の精神性と西洋近代文明が共存することに驚嘆と感銘を受けたようでした。  しかし簡単はしたものの分析は失敗したようで歯がゆい思いをしたようです。  「悔しいが日本は比類がない」という言葉を残しているようです。  一応ユダヤ人も古い考え方を維持しているということになっているのでレヴィという選民意識のあるユダヤ人の中では特別な地位の性を持つ民族というか宗教的プライドも傷つけられたのかもしれません。  彼が分析できなかったのは多分日本の歴史と大乗仏教を知らなかったのが大きいと思いますが、日本語が分からなかった、地政学的な要因からの分析その他いろいろ考えられます。  しかし大乗仏教をしっていてポスト構造主義の中核部分を知ってそれが同じことに気づいていれば分析できていたのではないかと思います。  「中観」による思想や文明、文化や技術などの文物の受容は日本のようにならざるを得ないからです。  ただ一部例外があります。  キリスト教の布教、信仰の押し付けや鎌倉仏教の日蓮宗や門徒のように押しつけがましいのは中観やメタ認知と相性が悪いです。  また聖書の十戒にある「私以外を神としてはならない」など他の思想や信仰に対する排他条項がついている思想や宗教とは中観やメタ認知はやはり相性が悪いです。  ここら辺が「日本は無宗教」「日本は無神論」「日本人には信仰がない」などと誤解される理由かもしれません。  大陸諸国は興亡が激しく北伝仏教大乗仏教が実装された形で残ったのは多分日本だけです。  これは南伝仏教もスリランカに大量の資料が残されていたのと比べてなかなか興味深いことです。 ・まとめ  人間は多分思考を単純化する癖があります。  無意識にそうしてしまっていたのを自覚しそれに抗おうとしたのが構造主義からポスト構造主義に至る現代哲学です。  それより前の哲学は古代哲学にせよ、中世、近代哲学にせよなんでも単純化です。  新しいアイデアが出ればそれで単純化しようとし、新しい考え方を思いつけばそれで単純化しようとします。  どれもこれも同時に採用して受け入れるということはありませんし、そもそも単純化する必要がない、ありのままに受け入れる、複雑なまま受け入れる、単純化しなくてもいいなどの考え方の排除の歴史です。  ですので現代哲学より前の哲学者の理論は現在から見れば珍妙だったり奇妙だったり矛盾して見えてもそれはそれでまとまっていて単純化されているので逆に学習しやすいとも言えます。  多分未来の人類や世界や自然、環境のために必要なのは現代哲学の構造主義やポスト構造主義の考え方であり、仏教の中観や縁起や因縁(空ともいう)の考え方なのでフランスではバカロレア試験で現代哲学必修のようですが高等教育機関では哲学や倫理学でそういった考え方を教えていくのが大切と思われます。

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