2025年8月25日月曜日

わかりやすい、お金で学ぶ現代哲学の構造主義と実在論

わかりやすい、お金で学ぶ現代哲学の構造主義と実在論 ・お金で学ぶ構造主義、何でも構造主義で表せる  実在論であらわせるものは何でも構造主義を使って表すことができます。  これを示すには実際にやってみて示してみるのがいいでしょう。  ケーススタディにもなりますし演習問題にもなります。  お金は哲学を学ぶのにいい教材です。  具体的には商品通貨が哲学の実在論的で信用通貨が構造主義的だということを以下で通貨を構造主義化する例として示してみたいと思います。  しかもお金の理解が深まればお金のリテラシーも高まるので実践的で実用にも役に立ちますので多方面でお得です。  なんでも勉強するときは具体例があった方がいいに決まっています。 お金というのは哲学の実在論と構造主義を学ぶのにとてもいい例になります。  お金というのは両者が混在しているところがあるからです。  物事何でも実在論だけ構造主義だけでとらえることもできますが両者の視点を同時にもてるとベターかベストです。  お金というのはいろいろ種類があって実在論でとらえた方が実用的な場合もあれば構造論でとらえた方が分かりやすいものもあり、どちらの視点も同時にもてたらなお便利なものまであります。  簡単に言えばお金が現物、実物として扱う場合は実在論でとらえて、金融とか運用とか複式簿記的に見たら便利な時は構造主義的に見た方が分かりやすいです。  具体的に言うと金貨や銀貨のようなそれ自体が価値がある商品通貨は実在論で、中央銀行の複式簿記の帳簿から生まれて銀行で信用創造される信用通貨は構造主義で理解すると分かりやすいです。  兌換通貨はその両者の移行過程みたいなもので、最近は暗号資産という新たな通貨が登場しています。  このように通貨は地層のようにいくつかの通貨が堆積して混在しているようなところがあります。  物事を形態から見るとつまり物として形としてみるのかと実在論的、機能から見る、働きや関係や相互作用の面で見ると構造主義的、という違いになります。  哲学と言っても実学、あるいは実用的に日々の暮らしや仕事、余暇の中で応用できて便利さを感じてもらえれば生活の利便や効率性が上がります。  生活に根付く役に立つ哲学ということと構造主義は何にでも適用できるという事を説明していきます。 ・お金の歴史  大雑把にお金の歴史を説明します。  昔は役に立ってそれ自体が価値を持つものを通貨として使っていてそれががお金の始まりと考えられます。  金、銀、銅のようなものでもいいですし貝殻とか南洋の島では大きな岩がお金として使われていたようです。  お金自体が実用的な価値を持つ商品ですから商品通貨と呼ばれます。  お金と言っても商品の交換であるので物々交換の延長でもあります。  またキャッシュレスではなく直接お金で支払って商品やサービスを購入するので現金でもあります。  貝殻にどういう実用性があったのかは分かりませんがアクセサリーみたいなものでしょうか?  きれいですし形が独特ですしタカラガイとか言う名前の解もありますよね。  巨大な岩の実用性も分かりにくいですが島という条件を考えるとある成分の岩石は気象だったのかもしれませんし、家やインフラや道具を作るのに役に立ったのかもしれません。  サンゴ礁の島々で火山岩は手に入りにくいかもしれませんし船で運ぶのも陸で運ぶのも大変だったかもしれず運搬自体に価値があったかもしれません。  金銀銅は希少金属で腐食というか錆びにくいところがあります。  比較的柔らかく効果にするなら量なども調整しやすいでしょう。  ファンタジーや中世の世界では金貨、銀貨、銅貨などが貨幣の代表みたいなイメージがあります。  こういうお金は現金でもあります。  現金=お金でないのには注意が必要です。  我々のお金との付き合い方は子供時代の現金の使い方から始まるので現金=お金と思いがちですがお金は現金だけでなく現金以外のいろいろな形をとります。  巨大な岩の通貨とは違いますが「通」貨というくらいですからお金は運ばれるものです。  運搬自体に労力や費用や時間がかかります。  これもお金の価値の源泉の一つだったかもしれません。  しかし金貨と言えども巨大な買い物をするには重すぎますしかさばります。  取引に不便なので小切手や手形のような信用証書みたいなのが生まれます。  現金としての金の運搬と交換で取引するのではなく手形や小切手などの証明書と言えるようなものでお金の代わりとします。  その証書は金や銀といつでも交換できるように約束します。  そうすると取引に便利です。  そういうわけで紙幣が生まれました。  ヨーロッパなどでは金細工職人の人は材料としての金が必要ですが盗まれないように守るため金庫を持っています。  世の中に金貨というお金があるとしましょう。  その金庫に例えば金貨を持っているけど金庫を持っていない人がお金を守るために金庫に金貨を預かってもらうことにします。  契約が交わされ証明書が発行されます。  この証明書を持っていけば金細工職人にお金を返してもらえるわけです。  この証明書があれば金細工職人に金貨を返してもらえるのが確実であればこの証明書は金貨と同じです。  ですから証明書を持っている人が何かを買おうとする際にお金ではなく証明書を払って商品の受け取ることを取引する人が了承するかもしれません。  そうしたらこの証明書はお金と同じ価値を持つことになります。  この証明書が紙幣の起源です。  こうして紙幣というものができたとしてまた別のことを考えてみます。  金細工師は金庫で金貨を預かるだけではなくお金を貸すこともできます。  その際に金貨を直接渡すのではなく紙幣を渡します。  紙幣で取引が可能ならば重たくて持ち運び不便などの理由で金貨を渡すより紙幣の方が便がいい場合も多いでしょう。 お金を預かったり貸したりする場所として別に金細工師でなくても構いません。 金細工師は銀行の元祖です。 ・お金と複式簿記  お金と言えば現金のイメージがありますが世の中のお金の総量のうち現金はわずかです。  現在お金と言えば預金通貨の方が多いです。  銀行のバランスシートに記されているだけのお金が現金より圧倒的に多いです。  そういったものを全部現金にしておいておくようにするとそもそも資源浪費で環境にも悪いです。  というか何のために銀行があるのか、カード会社があるのか、金融業の形態の組織と精度があるのかわからなくなります。  キャッシュレス決済の時代ですので現金使わない人も多いでしょう。  治安の悪い国なら現金持っているのは危険な場合もあります。  預金通貨は複式簿記と深い関係があります。  実質の実務運用上では複式簿記がなければ預金通貨みたいなものは存在しえません。  預金というものは銀行の貸借対照表(バランスシート)と一体なものです。  まあ現金も使われる金属や神などの材料と一体かもしれませんが。  例えば預金というものは銀行の帳簿上に下のように記載され実務運用されます。 資産(借方) 負債(貸方) 貸付金 +1億円 預金 +1億円  「貸付金(資産)」と「預金(負債)」が帳簿上同じ額になり同時に同額になり増減する際も同額増えたり減ったりします。  これは帳簿上の数字という意味で現金のような物質的な実体性のある物とは違います。  機能的で形式主義的なものです。  銀行からお金を借りたからと言って1億円の現金を受け取ることはめったにないでしょう。  借りた預金を使いたければ帳簿上の数字の操作の形で使用されます。  返済する場合も現金で返すのもいいですか他の銀行からの振り替えで振り込むことも多いでしょう。  実体がないのに機能する、いろいろな形で規定したことにより実体がないのに実体のように扱うことができるというわけで預金通貨は構造主義的です。  もっと言えば現金や預金通貨も含めた信用通貨というもの構造主義的です。  日本では紙幣は日銀が刷りますが、貨幣は日本政府が作ります。  1万円札を作るコストはよく知りませんが多分1万円ではないはずです。  貨幣もそうで1円玉を作るのにかかる費用は1円ではありません。  調べてみると以下の様との事でした。 硬貨の種類 1枚あたりの製造コスト(推定) 利益/損失 1円玉 約3円 約2円の赤字 5円玉 約10円 約5円の赤字 10円玉 約13円 約3円の赤字 50円玉 約12円 約38円の黒字 100円玉 約15円 約85円の黒字 500円玉 約20円 約480円の黒字  日本政府は500円玉を1枚作るたびに480円儲かるのですね。  でも1円玉を作るのは赤字です。  ただ大切なのは信用通貨を作るのに黒字だろうが赤字だろうがその通貨の価値はその作る費用とは全く関係がないという点です。  通貨を作る際に儲かる方が多いのでそれは通貨発効益(シニョレージ)と言われます。  通貨発行主体になるとそれだけで儲かります。  ただ発行したものが発行主体意外に通貨と見なされなければそれは通貨になりませんので費用分だけ損になります。  通貨が通貨と見なされるのに必要なものが信用です。 ・信用創造  通貨システムにはいろいろなものがありえます。  日本には日本の通貨制度がありますしそれは例えば戦前の通貨制度や江戸時代の通貨制度と違うでしょう。  共産主義国の通貨制度とも違うでしょう。  戦後の通貨制度はブレトンウッズ会議で出来ましたがその会議の中では英国のケインズとアメリカのハリー・デキスター・ホワイトの間で異なる通貨制度全く異なるもので対立がありました。  結果的にはケインズが敗れ、ホワイトのアメリカ案が採用されました。  ケインズは第一次世界大戦の講和条約の際にもベルサイユ条約に反対し「こんな講和条約ではまた世界大戦が起こる」と第二次世界大戦が起こるのを予言して途中で帰ってしまった逸話があります。  経済学者としての名声はあってもこういう国際会議では報われない人だったのですね。  ブレトンウッズ会議で自由主義陣営はドルを金と兌換通貨として各国はドルと自国通貨をペッグするという体制になりました。  一方ソ連の方はどうだったか知りませんが通貨発行主体が一つでその使い方も計画経済で国家というか共産党や官僚が決めていたのでしょう。  アメリカはベトナム戦争とかでお金使いすぎて金兌換を中止するニクソンショックが起こり変動相場制に徐々に移行しつつその後の第4次中東戦争時に中東と石油決済はドルを使うとするペトロダラー体制を作りまた今は対ロ制裁で有名なスウィフトシステムなどを作って依然としてドルは世界の基軸通貨です。  ただ徐々にこれが崩れ始めてアメリカの一極集中ではなく通貨の多極化が進みつつあると見込まれています。  覇権国が基軸通貨国になってその恩恵を受けてきたのですが新自由主義とグローバリズムが中間層をやせ細らせてしまったのでちょっとやり過ぎた感じになって悪い面が極端に膨らみすぎて苦労しているのが先進国の状況の様です。  大体国の興亡は中間層とともに勃興し、中間層に分配やインフラを与えなくなって衰退していくのが世界史のパターンの様です。  それはともかくお金を貸すということはこれは信用があるから貸すという見方もできますが、信用しているから貸すというよりは貸した瞬間に信用が貸付金や借金という具体的な形で発生するという風にも見ることができます。  どう見るにせよお金を貸す=信用が生まれる、ということになります。  もちろん返済を前提に貸すのですが信用調査などして最終的に与信するわけです。  別の紙幣を発行するのは金細工師のままでもいいのですが現在は中央銀行システムが主流になっています。  中央銀行でなくても民間銀行でもいいのかもしれませんが多くの地域でそうであった時代もあったようです。  複数の銀行がそれぞれに通貨を発行するというのは例えばアメリカでもFRBができるまではそうでした。  今でもその名残でFRBの理事はニューヨーク連銀の総裁とかが理事を務めています。  40日に1度くらい、年に8度ほどFOMCというのが開かれでそこで理事が集まって合議で政策金利や必要なら量的緩和など金利や通貨量のコントロールについて話し合いますがその会議で決まった方針で実働するのは会議体ではなくニューヨーク連銀などの銀行が実施体になります。 中央銀行は我々に直接お金を貸すのではなく民間銀行や政府銀行などにお金を貸してそこから我々や企業などがお金を借りす形になります。 昔は中央銀行がなくいろいろな銀行が各々独自の通貨を発行していた時期もありましたがいろいろ問題が出たため中央銀行システムに発展しました。 中央銀行は最後の貸し手と言われたりしますが現在はディーラーのような存在になっています。 最後の貸し手機能は経済に非常に重大なことが起こった時に発動されるものでありそれが起こらないように普段は景気や物価、雇用や制度を維持するために一番最初のお金の発生と利子を調整します。 逆に銀行制度なんかなくして政府がお金の発行体になってもいいのかもしれず、日本では貨幣については政府が鋳造していますがこの量をどう調整しているのかは多分日銀や市中銀行と調整して作っているのかもしれません。 中央銀行にお金を返す、清算すると理屈上世の中のお金は0になります。 ・ベースマネー(マネタリーベース)とマネーサプライ、信用乗数/貨幣乗数の効果と信用・お金の拡大  中央銀行は先ほど書いた通りもともと持っているお金は0です。  貸した瞬間に帳簿上の借り方、貸し方に預金と貸付金としてお金が発生します。  借りる銀行も同じです。  帳簿上仮額だけ帳簿上で借方貸方バランスするようにお金が発生します。 金細工師にせよ銀行にせよ自分が持っている金の額だけ紙幣(証明書)を発行するのかというとそういうことはありませんでした。  「どうせみんな一斉にお金を引き出しに来ることはないやろ、まあええか」という感じで自分が持っている以上の金を貸し出します。  そもそも普通の銀行はお金を貸すだけでなくお金を預かります。  預かる、あるいは借りるわけです。  銀行はお金を貸し借りします。  借りた額より貸す額の方が少なかったら問題はないのですが借りた額よりたくさんの額を貸します。  基本我々はそんなに現金を持っていません。  日本ですらそうです。  アメリカなどはクレジットカード社会なのでもっとです。  そもそも安い買い物しか現金に向いていません。  高額商品は現金で扱うのは事実上無理な場合が多いでしょう。  そもそも財布に入りません。  ATMでも引き出し額の上限があります。  数十万を財布に入れてあるのも普通はないです。  財布がパンパンになるというか入りません。  家賃でもローンでも入学日、高等教育の学費、車、家、これらを買うにせよ借りるにせよ現金は事実上無理です。  100万円を数えるのも難しいです。  ですから預金で置いておきますしカードや電子マネーで払います。  ですから預金の形で銀行にお金を持っています。  銀行はこの預金の以下でお金を貸せますが急にみんなが引き出しに来ることもあるのでちょっと余裕を持たせています。  でも預かった金の一部は利子で増やすために誰かに貸さなければいけません。  借りた人はその金を何かの支払いに充てるかもしれませんししばらくは預金のまま持っているかもしれません。  仮に支払いに充てたらそれを受け取った人は銀行に預けます。  というより現金の取引ではなく銀行間でのやり取りになる方が現実膨大ですのでそれは誰かのどこかの銀行の預金になります。  その一部を銀行はまた誰かに貸すわけです。  こういうのを繰り返していると帳簿上の預金額、預金通貨、インサイドマネーは中央銀行が発行した元々のお金より多くなります。  中央銀行が他の銀行に貸し出すことお金をベースマネー、マネーベースと言います。  銀行に貸した後は銀行と個人や法人、多くは銀行間でお金の移動が起こります。  取引であったり貸し借りであったりしますが大事なのは多くのお金は銀行に預金の形で存在するということです。  こうして預金の形で存在するお金は中央銀行で発生したお金より多くなります。  これを乗数効果と言います。  貨幣乗数、信用乗数と言ってベースマネーより多くなった全体のお金をマネーサプライと言います。  お金があちこち銀行を巻き込んでぐるぐる回っていく間に預金通貨を含めたお金の量は増えていきます。  お金を貸すということは常に信用するということです。  お金を貸すときは相手の信用を計りますし、お金を貸したということは相手がお金を返してくれると信用したということになります。  何かあって取り付け騒ぎなどがあると大変なことになりますがそうなったときに銀行が資金をどこかで借りて調達しようとして調達できないときに最後に貸してあげる最後の貸し手機能を持つのが中央銀行であり中央銀行の役割の一つです。  そもそも借りたお金を貸してしまうのはまた貸しですから文化圏によっては倫理や道徳に引っかかるところもあるでしょう。  さらには「どうせ誰もいっぺんに返してもらいに来ないからよけいに貸したろ」というのもなんか詐欺か騙しみたいであかんように感じる向きもあるかもしれません。  ただ特別なことがなければ多くの人が一斉に返金を求めることもないことは大数の法則という統計学の法則で知られています。  あとそういう仕組みに現実になっていて経済学の教科書に載っているということはそれなりのメリットもあるということでもあります。  日本でいえばバブル崩壊や近場ではアジア金融危機、リーマンショックの時代などまだ覚えている人がいるかもしれません。  これも今の時代のシステムでAIなどが発展していけばもしかしたら市中銀行のこういった役割も縮小していくかもしれません。  しかしこれは実はいろんな形で起こりうることで制度としてなくしても影の銀行、シャドーバンキングのような形でアングラ化するだけかもしれません。  こういう銀行が作り出す一連のお金を信用通貨と言います。  銀行ができる前の通貨は商品通貨で貴金属やら希少品や円形の岩のように転がせば運搬できるが運搬が大変なものだったりしました。  信用通貨はそれ自体が商品として使える実体がありません。  現金はありますが多くは預金通貨で銀行の複式簿記の帳簿上にだけ存在します。  文書作業なので記載ミスとか間違ってはいけません。  商品貨幣は実は金庫に入れておけばいいとか管理が大変なようで楽だった面があります。  信用通貨は真面目で実務能力が高くミスがすくない、ミスしてもチェックして間違えを見つけて訂正できる実直で几帳面な銀行マンがしっかり管理しなければいけません。  実体がないものをシステムと書類仕事という実務で現実のもののように扱うという意味で構造主義的なものです。  「お金というものは幻想である」という言説を見たことがありますが幻想ではなく仏教でいえば空、現代哲学でいえばシミュラークル、シミュレーションみたいなものです。  シミュラークルはまがいものとかインチキみたいな意味も持っています。  シミュレーションはサッカーの相手が反則をしたと審判をだますジェスチャーで知っている人もいるでしょう。  ただそういった悪意のこもった意味ではなくちょっと面白い性質を持っています。  理論上お金の動きをまき戻していけば、清算という言葉を使ってもいいと思いますが、最後には最初に戻ります。  つまり中央銀行の帳簿上で借方貸方0の状態に戻ります。  実際には巻き戻すこともないですし予期せぬこと、例えば火事で紙幣が燃えてしまうとかいろいろあるわけですが、そういうのがなければ文字通り無から出でて無に変えることができます。  しかししっかり世の中で働いていますし機能しています。  そういう意味で「空」というイメージでとらえてもらうといいかもしれません。 ・ポスト構造主義とお金  「商品通貨は実体があるから実在論」  「信用通貨は実在しないので構造主義」  こういう対比も可能ですが実は商品通貨だって構造主義で扱えます。  信用通貨も実体があり実在するもの思っていても、そのつもりでお金を扱っても何の支障もありません。  どっちもどっちというか別にそう見てもいいし、カウンターパートとしての逆な見方から見ても構いません。  つまり商品通貨は実在論でとらえることも構造主義でとらえることもどちらもできます。  信用通貨も構造主義でとらえることも実在論でとらえることもできます。  また商品通貨も実在論も実在論かつ構造主義でどちらの見方も同時にすることも可能です。  例えば金貨や小判だってそれが金で出来ているからと言ってそれと同量の金の価格の価値をお金として持っているとは限りません。  こういうところは金貨と言えども現物ではない構造主義的な何か事情があるのです。  信用通貨だって我々は日常的な感覚では現物的に扱っていることが多いでしょう。  そもそも小さいころから子供は現金でお金にならさせる文化圏や家庭は多いでしょうからすべてのお金を現金のようなイメージを抱いたままの人は多いでしょう。  最近は生きるためのお金のリテラシーをつけさせないといけないということで早い段階からお金のことを学校に子供に教える風潮があると聞いたので現代の子供はまた違う感覚かもしれませんが。 ・お金は地層のようなもの  現代思想家のフーコーが知の考古学みたいなものを提唱していましたが、お金も経済もやっぱり考古学みたいなところがあって地層みたいなところがあります。  そもそも金細工商人や銀行とかが生まれる前から商品通貨があったわけでそういうものがなくなってしまったわけでもありません。  新しく出てきたものは古いものをなくしてしまうわけではなく一緒に存在しています。  ただ信用通貨の方が圧倒的に規模が大きいので商品通貨が目立たないという意味でいえば古い地層で発掘しなければ見つかりにくいみたいなところはあるかもしれません。  今でも大蔵省や財務省は何かの時に記念金貨を発行することがあります。  それも記念品として取っておかれたりマニアがプレミア価格で取引することがあるかもしれませんが通貨として普通に使うことができます。  まあ普通はそういう使い方はせずお店で記念金貨で払われてもお店側も困ってしまいそうですが。  制度も特に何かの制度が普遍的とかいいとかいうわけではありません。  新自由主義はよさそうに見えてた人もいると思いますがグローバリズムと合わせてやり過ぎたので今欧米、あるいは日本も困っています。  経済学者のスティグリッツが言うように時間をかけて制度をこつこつ作り直していくべきかもしれませんし彼がそう書いていたのもかなり前のことでしたのでもしかしたら遅きに失しているかもしれません。  日本はまだ失われた30年間があって世界から取り残された分新自由主義の行き過ぎがなくて助かった方かもしれません。  まあ助かっておらず手遅れかもしれませんが。  商品通貨で終わりかというとそうではなく現代では暗号資産というものができました。  これは登場時点では怪しげなところもあったかもしれませんが、現在は立派な通貨と見なせるということでコンセンサスが取れているとみていいと思います。  とするとやはりビットコインを作った「サトシ ナカモト」は天才だったのかもしれません。  地層という意味でいえば商品通貨の層の上に商品通貨の層があってその上にビットコインの層があるのかもしれません。  エピステーメ―、断層、活断層のようなものがあって崖になっていて地層の縞々が見えるのであればこの3層構造が見えたりするのかもしれません。  お金だけでなくお金の制度も我々は長い間いろんな地域でいろんな人々が長い年月いろいろな試行錯誤を繰り返してきました。  先のことは分かりませんがこれからドル基軸の一極覇権から複数基軸通貨に移行して何か大きな経済的ショックが起こってケインズの提案した国際清算同盟を世界の中央銀行として期日通貨としてバンコール通貨をいただくケインズ案が実現するかもしれませんしAIの信じられない発展で、あるいは国際情勢の想像も想定もできないことで違う制度が形作られていくのかもしれません。 ・おわりに  構造主義を理解するために信用通貨を例に挙げて説明しました。  これは例えばヒルベルトが無定義語と公理と形式主義によって幾何学を再構成したのと似ています。  ユークリッド幾何学のように点や線や面を実在するものとして仮定する必要はありません。  逆に別に実在するものと仮定しても構いません。  実在しようがしまいがヒルベルトの幾何学の再構築は受け入れることができます。  しかし使い方によってはヒルベルトの構造主義的な手法はユークリッド幾何学を脱構築しています。  そもそも現代の学問は構造主義で教えるのが作法ではあります。  別に歴史的な経緯や実在論的だった時代も教えるのはむしろ推奨されるべきですが、構造主義化、すなわち物理学のように理論は構造主義化する必要があります。  現代哲学、特に構造主義やポスト構造主義はお金のリテラシーやICTリテラシー、英語のリテラシーとともにしばらくの間は必要で役立つものだと思いますので是非世の中に普及していってほしいと切に願う次第です。

0 件のコメント:

コメントを投稿